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星加 良司

ほしか・りょうじ
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last update: 20190429


■プロフィール

・社会学・障害学
・東京大学大学院社会学研究科博士課程
 →東京大学先端科学技術研究センターリサーチフェロー
 →東京大学大学院教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター・専任講師
[外部リンク]http://bfr.jp/member/hoshika_ryoji.html
*東京大学大学院教育学研究科福島智研究室/バリアフリープロジェクトの研究者紹介
[外部リンク]https://kaken.nii.ac.jp/ja/r/40418645**
**「科学研究費補助金データベース」での研究者紹介

『障害とは何か』著者紹介([amazon]より)
1975年生まれ。東京大学先端科学技術研究センターリサーチフェロー。専門は社会学、障害学。世の中で当たり前といわれていることが全く当たり前だと思えない個人的性格に裏打ちされて社会学を学び、現在の社会を障害という切り口で分析・解析・解釈・説明してみると、これまで見えなかったものが見えるようになり、語られなかったことを語ることができるようになるのではないかという理論的関心に動機付けられて、障害学を研究している。主な論文に「〈存在の肯定〉を支える二つの〈基本ニーズ〉――障害の視点で考える現代社会の『不安』の構造」福島智と共同執筆 『思想』2006年3月号、岩波書店など

■業績

2013年

◆川越 敏司 ・ 川島 聡星加 良司 編 20130830 『障害学のリハビリテーション――障害の社会モデルその射程と限界』,生活書院,192p. ISBN-10: 4865000135 ISBN-13: 978-4865000139 \2000+tax [amazon][kinokuniya] ※ 
生活書院のHP http://www.seikatsushoin.com/bk/113%20shogaigakunorehabili.html

2012年

◆「裁かれない人がいるのはなぜか?――「責任」をめぐるコンフリクト」,中邑・福島編[2012:173-191]*
*中邑 賢龍・福島 智 編 20120831 『バリアフリー・コンフリクト――争われる身体と共生のゆくえ』,東京大学出版会,272p.,ISBN-10: 4130520245 ISBN-13: 978-4130520249 2900+ [amazon][kinokuniya] ※ a01. ds.

2011年

・著書(分担執筆)
◆2011**** 「障害者は『完全な市民』になりえるか?」, 川島 聡ほか 編 『障害を問い直す』,東洋経済新報社
◆2011**** "Appraisal of the Justifiability of the Japanese Employment Quota System for Disabled People," in A. Matsui et al, Creating a Society for All: Disability and Economy, Leeds: Disability Press.(印刷中)

・報告書(分担執筆)
◆2011**** 「『合理的配慮』と障害/能力観の変容」厚生労働科学研究費補助金研究事業『「障害者の自立支援と『合理的配慮』に関する研究」2010年度報告書』

・学会およびシンポジウム報告
◆20110219 「障害アイデンティティを越えるとは?――社会学的視点から」, 国際シンポジウム「人と人との間のバリアフリー」,於:東京大学福武ホール

2010年

・学会およびシンポジウム報告
◆20100729 「共生社会とは何か――障害学からの問いかけ」, 第47回社会福祉セミナー「共生社会への道筋――社会福祉からの提言」基調講演,於:有楽町朝日ホール

2009年

・論文
◆200906** 「ろう者学にとって『障害学』は必要なのか?――障害学の広場から」,『障害学研究』5: 67-75
◆200904** 「共に支え合う仕組みとしての『自立支援』を考える――障害学からの問いかけ」,『社会福祉研究』104: 28-33

2007年

・著書(単著)
◆20070225 『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690040 ISBN-13: 978-4903690049 3000+ [amazon][kinokuniya] ※ ds

・学会およびびシンポジウム報告
◆20070916 「本当に『社会モデル』は死んだのか?――シェイクスピアの社会モデル批判をめぐって」,障害学会第4回大会,於:立命館大学朱雀キャンパス

-2006年

・論文
◆20060305 「〈存在の肯定〉を支える二つの〈基本ニーズ〉――障害の視点で考える現代社会の『不安』の構造」,『思想』987: 117-134(福島 智との共著)
◆200409** 「ディスアビリティとは何か――『不利益』の意味と位置をめぐって」,『ソシオロゴス』28: 32-47
◆20030930 「『障害の社会モデル』再考――ディスアビリティの解消という戦略の規範性について」,『ソシオロゴス』27: 54-69
◆20020915 「「障害」の意味付けと障害者のアイデンティティ――「障害」の否定・肯定をめぐって」『ソシオロゴス』26: 105-120
◆20010915 「自立と自己決定――障害者の自立生活運動における『自己決定』の排他性」『ソシオロゴス』25: 160-175

・学会およびシンポジウム報告
◆20021116 「『障害学』の到達点と展望――『社会モデル』の行方」第75回日本社会学会大会自由報告,於:大阪大学豊中キャンパス

・その他(ゼミ報告)
◆20030123 「立岩真也 2002 『ないにこしたことはない,か・1』」,東京大学・障害学演習(福島ゼミ)報告
→cf. 石川 准倉本 智明 編 20021031 『障害学の主張』 [amazon][kinokuniya]

■紹介

◆星加 良司 20010915 「自立と自己決定――障害者の自立生活運動における『自己決定』の排他性」紹介
(作成:樋澤吉彦
※自己決定の「排他性」について

◇はじめに
※障害者の自立生活運動に関して
「介助者を『手足』と見る『自己決定』の主張には一定の意義があったとしても、同時に『自立』にとって重要な『もう1つの側面』である『周りの人との関係』が看過されてはならない、とされる。」161

「ここで言う排他性とは、『自己決定』において他者性を消去しようとする傾向のことである。」
※→「他者性」:「立岩[1997]は、『私でない、私が制御しない』という消極的な契機を持つ概念として他者性を把握している。・・・すなわち、他者性は、自ら制御できないものであり、また自己に対して非調和的となる可能性を有するという性質のこと、として把握する。」171(注)

※2つの水準における排他性について
@「決定の対象に関わる水準」とA「決定という行為の遂行に関わる水準」161

@→「他者を自己決定の対象として手段化することで、その他者性を消去する傾向が生じる。」
A→「他者は決定に参与しないものとされる。決定に際して、他者は他者性を持って介入する存在であってはならないとされる。」161

◇運動における「自立」と「自己決定」の意味
※自らを否定的に捕らえる社会的枠組からの脱却
「こうした歴史的経験に根ざして発展してきた日本の自立生活運動は、自らに対してなされる否定的な価値付与に自覚的である。社会が障害者を扱うその仕方が否定的なものであり、そのイメージが自己理解のあり方を強く制約してきたということは、運動の中での共通の了解事項となっている。」162

「日常的に介助を要する重度の障害者にとって、親や施設職員といった他者は、自らの生活の存立に不可欠な存在であり、・・・こうした『重要な他者』の言動は、障害者の自己理解のあり方を強く規定するのである。」162

「障害者の自立生活運動を強く動機付けたのは、自らに内面化したこの『否定性』の自覚であった。・・・それを逃れる方途を求めて、自立生活を始めたのである。」162


「その(あらたな 注)『自立』観は、地域の中で、自らの意志と責任において自らの生活を営むことを『自立』と見る捉え方であった。その中で重要なキーワードとして用いられたのが『自己決定』の尊重ということであった。」162
→親や施設職員との新たな関係性の構築のためのキーワード。

「・・・現在最も影響力を持って受け入れられているのは、あくまでも他者との関係を保った上で、新たな関係性を構築していく試みである。」163
→「他者との関係を保つ中で、当初は『とまどい』や『苦痛』とも感じられた介助者という他者の他者性は、現在では寧ろ肯定的に捉えられるようになっている。ときとして自らに否定的に作用する他者の他者性が、特定の関係性の中では肯定的なものとなるのであり、そのような状態が目指されている。」163

◇決定の対象の問題
「立岩によれば、自己決定は私的所有と深く結びついた概念として理解される。・・・」164
@初期配分
A労働の結果得られた生産物
→「自分で使えるものだけが、自己決定の対象とされるのである。」164

「この理論に導かれたものとして『自己決定』の主張を理解すると、確かにこれは排他性を帯びた概念となる。自らの行為や決定の結果産出されたものは自らに帰属し、その利用についての自由は独占的に所有されるという、私的所有とその処分権に立脚した自己決定の観念からは、決定においてその対象をすべて手段と見なし自由に利用することは可能であり、正当である。」164
「ここには、自分にとって制御不可能な他者性は存在しない。重度障害者の自立生活において他者による介助が必要とされる場合でも、それが対象に対する独占的な自由を意味する自己決定の論理に包摂される限りにおいては、他者は単に『手足』として存在することになり、『自己決定』を実現する手段となるのである。」164‐165

※しかし、障害者の自立生活運動ではこうではなく、以下のように考える・・・

「・・・障害者の自立生活運動の中で主張される『自己決定』は、私的所有とその処分権に基づいた従来の自己決定論とはやや異なる位相にあるものと理解されるべきであろう。・・・『自分のこと』は自らの行為や決定の結果産出されたもののことではなくて、生活上の基本的な行為の領域を指示しているのである。決定の対象となる領域はもはや私的所有と個人が制御できる事柄の範囲によって定まるわけではないのである。」165

「・・・『自分のこと』を日常生活の基本的な行為の領域と捉えた場合には、他者と居合わせる場面、複数の個人の行為が相互に影響を与え合う場面において、複数の『自分のこと』が重なり合い、せめぎ合うことになる。」165

→すなわち・・・「障害者にとっての『自分のこと』と介助者にとっての『自分のこと』が重なる所に、障害者の『自己決定』が実現されるのである。・・・ここに他者性が現れる可能性が生じる。」166
「・・・その意味では不安定な主張として存在している。・・・つまり、決定の対象に関する独占的な自由という論理のもとで他者を手段化することで、『自己決定』から他者性を消去しようとするわけではないのである。他者は決定の対象とされるものとしてではなく、相互に重なり合う決定の対象を有する他者として他者性を持って現れるのであり、完全に手段化し得るものではなくなる。他者性を消去することは、もはや正当ではないのである。」166

→このことは・・・「自立生活を志向する障害者が否定しようとした『他者による管理』に引き寄せられる危険を内包しているために、重なり合う『自分のこと』の領域において、私にとっての『自分のこと』を主張するとき、他者の介入を拒絶しようとする傾向が生まれることもあるであろう。」166

◇決定に対する介入の問題
※自分(だけ)で決めることについて・・・
「介助者の視点から見れば、障害者が『自分で』決めることは介助者の自由を奪うものと映る反面、それは障害者自身にとって寧ろ辛いことではないかと言うのである。」167→障害者自身の負担として

「ここに現れる第二の水準の排他性は、私的所有権的な従来の自己決定論において当然の帰結であった。・・・(高橋の所論:囲い込み、自分のものに対する支配、他者に対する効果、他者の介入の排除・・・)」167

※それでは障害者の自立生活運動における「自分で決める」とは?
「(引用文略)『自分のしてほしいこと』を実現するためには『自分で』決めることは重要である。しかし、ここで介助者との『センスの相性』が問題となるのは、決定に他者が介在することが前提とされているからであり、その上で『自分のしてほしいこと』をどう実現するかが問われるのである。『自分で』行う決定のあり方も介助者の『センス』との関係で可変的であるために、場合によって介助者を選ぶことにもなるのである。『自分で』ということもまた他者との関係において捉えられている。・・・」168

※アレンジメント

「障害者が『自分で』決めるということを確保するときには『恐怖がある』のであり、これは介助者が自分にとって制御しきれない存在として認識されていることを示している。」168−169 →他者性がある

「つまり、1つの決定に(障害者と介助者 注)ともに参与する存在でありつつ、やはり両者は個別の主体であるがゆえに、コンフリクトが生じる可能性にも開かれていることになる。」169

→しかし全体としては、他者性を持つ他者(介助者)との新たな関係性を構築していくことが目指されている。そうしなきゃやってられないから?

◇他者性の両義性
「当事者が『自己決定』を語る際にもその意味合いに揺れがあることが分かる。・・・」169
「これには、自立生活を志向する障害者にとって他者性が両義的なものであり得ることが関係しているのではないか。」169
肯定的側面→他者との適切な関係性
否定的側面→他者からの抑圧的な関係性

※「自己決定」の主張の持つ排他性の2つの側面
@「『自己決定』が従来の自己決定論、すなわち私的所有権に立脚し孤立した決定主体を前提とするような自己決定権の文脈に
おいて語られる際に生じてくる排他性である。」170
A「この『自己決定』の理念が他者性を含み込む不安定な主張であり、個別の関係性の中で微妙なバランスをとって成立して
いるものであるために、内部に含む他者性を消去しようとする、あるいは結果としてそのようになってしまうという契機は常
に存在している。」170

◇おわりに
「・・・またこのような微妙なバランスの上に立って他者性を持った他者との関係性が追求されることには、他者から与えら
れる承認の重要性が関連しているとも考えられる。」171→テイラーの所論
 →「・・・ヘーゲルを援用して適切な承認は相互承認の形でしか得られないと論じている・・・」171
  →一方的な承認は在り得ないということ?

■言及

◆立岩真也 201010 「「社会モデル」・2――連載・59」,『現代思想』
 「やはり問題は規範的な問題なのである」に付した註10。
 「星加[2007]がこのことを正当に指摘している。星加は、私と同様に、問題は事実の水準の問題ではないこと、原因という事実の水準の問題でないこと、この部分に錯誤があると指摘する。基本的に私が星加と同じ立場を取ることは本文に述べた。ただ、英語で「のせいで(due to)」という言葉が使われる場合、それはただある事象が生起する(あるいは生起しない)原因・要因を指すだけではないだろう。なすべきことがなされない(あるいはなされるべきでないことがなされる)「せいで」しかじかが起こってしまう(あるいは起こらない)といった使われ方もされる。例えば本連載前々回の最後に引いたマイケル・オリヴァーが示す例もそのように解することはできる。ただその上で、どこに問題の核心があるのかについて曖昧さの残る記述・主張がなされてきたことは問題にされてよいと(私も)考える。/それとともに、星加は立岩[2002]における社会モデルの把握について批判をしている。本文に述べることはそれに対する応答でもある。星加の論の紹介とその検討は別途行なう。」


UP: 20031015 REV: 20031217, 20070428, 20101104, 20110518, 20171109, 20190429
障害学  ◇WHO 

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