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浜本 満

はまもと・みつる


last update:20101009
HP:論文等の全文あり
http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/list_papers.html

■単著・共著・編著


◆2001 『秩序の方法:ケニア海岸地方の日常生活における儀礼的実践と語り』 弘文堂
◆1994 『人類学のコモンセンス:文化人類学入門』 (浜本まり子と共編 )学術図書出版社
◆1991 『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾・板橋作美と共著)清水書院

■単著・共著・編著

◆2010 「いかさま施術師の条件 : 治療実践における見掛けの構築について」,『九州大学大学院教育学研究紀要』第12号(通巻 第55集)pp.49-84.
◆2009 「進化ゲームと信念の生態学−社会空間における信念の生態学試論2−」,『九州大学大学院教育学研究紀要』第11号(通巻 第54集)pp.125-150.
◆2009 「開発とウィッチ・ハント:ケニアコーストにおける地域行政と妖術信仰」『東アフリカにおける暴力の諸相に関する人類学的研究』平成18年度―平成20年度科学研究費補助金(基盤研究B・海外学術)研究成果報告書、熊本大学文学部文化人類学研究室発行、pp.71-149頁
◆2008 「妖術観念の持続と暴力の再生産 -ケニアコーストにおける植民地行政の遺産-」『熊本文化人類学』第5号:23-47頁
◆2008 「信念と賭け:パスカルとジェイムズ−社会空間における信念の生態学試論1−」,『九州大学大学院教育学研究紀要』第十号(通巻 第53集)pp.23-41.
◆2007 「妖術と近代−−三つの陥穽と新たな展望」阿部年晴、小田亮、近藤英俊(編)2007,『呪術化するモダニティ−現代アフリカの宗教的実践から−』風響社,第一部第二章 pp.113-150
◆2007 「イデオロギー論についての覚書」『くにたち人類学研究』Vol.2 pp.21-41.
◆2007 「他者の信念を記述すること」『九州大学大学院教育学研究紀要』第九号(通巻 第52集)pp.53-70.
◆2006 「名前と指示:人類学的省察」『九州大学大学院教育学研究紀要』第八号(通巻 第51集)
◆2001 対比する語りの誤謬:キドゥルマと神秘的制裁 杉島敬志編 『人類学的実践の再構築:ポストコロニアル転回以後』世界思想社pp.204-225
◆2001 病気と文化的想像力 教育と医学 Vol.49(8):26-33 慶應義塾大学出版会
◆1997 妻を引き抜く方法--規約的必然としての「呪術」的因果関係 民族学研究 Vol.62 (3):360-373
◆1995 浜本満・吉田禎吾・上田冨士子・慶田勝彦・小田昌教 ケニア・ミジケンダ諸族における「病気の文化」学術月報 Vol.48 No.4: 54-60
◆1995 ドゥルマ社会の老人−−権威と呪詛 中内敏夫・長島信弘他 『社会規範−−タブーと褒賞』 445-464 藤原書店
◆1993 ドゥルマの占いにおける説明のモード 『民族学研究』Vol.58(1) 1-28
◆1993 文化人類学は何を提供できるか:ドゥルマの事例 (特集:国際医療協力と文化人類学) 『メディカル・ヒューマニティ』Vol.22 45-49 蒼穹社
◆1992 ドゥルマにおけるコマの観念 『九州人類学会報』 Vol.20 33-51
◆1992 子供としての憑依霊:ドゥルマにおける瓢箪子供を連れ出す儀礼 『アフリカ研究』 Vol.41 1-22
◆1992 病気の表情 波平恵美子 『人類学と医療』(講座「人間と医療を考える」4) 70-93 弘文堂
◆1991 マジュトの噂:ドゥルマにおける反妖術運動 『九州人類学会報』 Vol.19 47-72
◆1991 病気の身体における自己 『教育と医学』 Vol.39(4) 11-16 慶応通信
◆1990 キマコとしての症状:ドゥルマ族における病気経験の階層性について 波平恵美子編 『病むことの文化』 36-66 海鳴社
◆1989 行為の記述:関係概念精緻化のための中間考察−−象徴性の一般理論へむけての試論 『福岡大学人文論叢』Vol.21(3) 945-978
◆1989 死を投げ棄てる方法:儀礼における日常性の再構築 田辺繁治編 『人類学的認識の冒険』 333-356 同文館
◆1989 フィールドにおいて「わからない」ということ 『季刊人類学』Vol.20(3) 34-51
◆1989 不幸の出来事:不幸の語りにおける「原因」と「非原因」 吉田禎吾編 『異文化の解読』 55-92 平河出版
◆1989 記号の有意味性:ソシュール言語学における意味の観念−−象徴性の一般理論へむけての試論 『福岡大学人文論叢』Vol.21(1) 1-33
◆1989 文化人類学の人間観 『こころの科学』25 2-8
◆1989 記号の三項関係:パースの記号論をめぐって−−象徴性の一般理論へむけての試論 『福岡大学人文論叢』Vol.20(4) 1189-1237
◆1988 インセストの修辞学:ドゥルマにおけるマブィンガーニ=インセストの論理> 『九州人類学会報』Vol.16 35-51
◆1985 文化相対主義の代価 『理想』8月号(No.627) 105-121 
◆1985 憑依霊としての白人〜東アフリカの憑依霊信仰についての一考察 『社会人類学年報』Vol.11 35-60
◆1984 ドゥルマ族における病気の体験(2) 『福岡大学人文論叢』Vol.16(3) 1033-1059.
◆1984 ドゥルマ族における病気の体験(1) 『福岡大学人文論叢』Vol.16(1) 87-123
◆1983 卜占(divination)と解釈 『儀礼と象徴〜文化人類学的考察』 21-46 九州大学出版会
◆1983 「語り」と人類学的理解(2)『福岡大学人文論叢』Vol.14(4) 1347-1369 
◆1982 「語り」と人類学的理解(1)『福岡大学人文論叢』Vol.14(2) 473-496


■引用

◆2008「進化ゲームと信念の生態学――社会空間における信念の生態学試論U」

「ダニやその他の生物、人間の場合でも、呼吸その他の活動が「あてこんでいる」もろもろの事柄を「信念」として語ることが不適切であるようにみえる理由は、こうした生き物が精神を持たない生き物だから、という理由――もちろんそれも決定的な理由であるが――でも、それが純粋に生物学的・生理的活動に限定されているという理由だけでもないように思われる。それには、信念という概念にとってより本質的な理由がある。それは「信じること」にとってのオプションあるいは賭けの本質製に関係している。…「信じる」という言葉は、その目的語となる命題に対抗する命題が、現実的なオプションとなりうる可能性が認められている場合に用いられる言葉であった。実践の中に――あたかもそこに埋め込まれているかのように――見てとられる「信念」の場合、観察者にとってそれが信念や一種の賭けであるように見えるのは、観察者自身が、当の実践が当て込んでいるところのそれらを一つのオプションとしてとらえ、それ以外のオプションの存在の可能性を認めているからである。」131

「ある集団の全員が共通の信念や知識を持っているという、人類学の一時期を特徴付けていた不思議な文化概念は、この賭けの空間におけるほとんどありえない極端で限界的な状態にしか当てはまらない。混淆性を文化の上他と見る見方は、今日の人類学で支配的になりつつあるが、それがパターンや秩序の不在や否定を意味するとすれば不毛である。複数的で混淆的な文化状況における秩序とパターンの生成を明らかにすること、それは信念の生態学とでもよべる研究領域を提示する」133
「信念の生態学は、特定の言説空間におけるこうしたさまざまな信念(群)の振る舞いを丹念に記述していくことになるだろう。それは成員の全員が同じ信念を児湯有しているといった。かつての文化概念を、対抗的信念のオプションがそれぞれに実践を導き、それらが社会空間の内部でせめぎあい、渡り合うことを通じて、結果的に生み出す利得構造を介して、それぞれの信念の真理化の度合いを決め、それによって再帰的に信念の分布を再決定するといった形で、文化をその複数性・混淆性において捉えつつ、それを単なる無秩序に解体してしまわない新しい見方に実質的な内容を与えてくれるかもしれない」145

◆2007 「イデオロギー論についての覚書」

「そもそも語用論的な意図がどうあれ、意図自体はその言説が言説空間で繰り返し転送され広がり、一定の社会的効果を発揮することを保証しない。……言説の生命にとっては、その誕生よりも、複製と転送の過程のほうがはるかに重要である。コミュニケーション空間が、どんな風に特定の語りをひいきし(それを繰り返し複製し、転送し、種々のバリエーションを生み出しつつ社会空間に蔓延させ)、特定の語りを排除するか、それが語りの運命を決めるのである」25

「特定の社会集団の人々は、自分たちに固有の観念を、必ずしも自分たちの置かれた固有の社会的位置とそこでの経験に基づいて生み出しているとは限らない。自分たちの経験に基づいてどころか、そもそもそれらが他の集団に由来しているという可能性があるのだから。彼(グラムシ)のヘゲモニー概念葉、この謎をもっとも先鋭的な形で示したものである」26

「人類学者はしばしば、その「特定の観念の由来、起源を問いたくなる。しかし実際には起源は問題ではないし、そもそも問題にしえないのだ。「都市伝説」の類の噂話を最初に語った人物を問題にすることが不毛であるように。誰もが常に誰かから聞いた話としてそれを語る。語りが変形したり、逸脱したりつつ転送され続けられる一連のプロセスがあるだけである。人類学者が特定の観念・言説の短所湯、あるいは当該言説空間への登場の瞬間を目撃することは原理的に不可能である。」27

「特定の社会空間において、どのような特徴を持った観念がどのような経緯で生き残り広く流通し続けると言う結果尾w手に入れるのだろうか。これが問うべき問いであり、人々にとって都合がよいから、あるいは誰かを利するからというのは、それについての可能な仮説のうちのほんのひとつに過ぎない。」28

「現にある特定の観念が支配的なった後から振り返ると、まるでその特定の観念の流行と状況とのあいだに何らかの必然的・有機的な結びつきがあったかのように見えることがある。実際には問題の観念の流通こそが、状況のその特徴を可視的なものにしたのであるが。すべてが終わった後で回顧的に眺める人類学者の目に、もしあたかもそれが特定の観念を流通させている人々の現地経験から生まれてきたものであるかのように見えるとすれば、あるいはその観念が人々の経験に対する一種のコメンタリや異議申し立ての穂湯現にあると見えるとすれば、この不思議な照応関係も、まさにいわば発生における偶然性を回顧的な必然性に転化させるようにみえるこのコミュニケーション空間における転送と選別のプロセスの中にこそ、解明されなければならないだろう。」29


◆2006 「他者の信念を記述すること――人類学における一つの擬似問題とその解消試案」

「「本当に信じる」ことが問題になるのは、自分の判断行為と首尾一貫して異なることを表明し、彼の通常の判断と反する振る舞いをとり続けるという、おそろしく特別でやっかいな作業を人が遂行しているときだけである」60

「真であることが明白な命題は、信じることの対象にはなりえず、誤りであることがわかっている命題については信じることの対象になりうる。まるで人は明らかにただしいことについてはそれを「信じている」ということはできず、何か聞き間違ったことについてのみ「信じている」といえるかのように見える。奇妙な話である。人は何かを信じているというとき、決してそれが真ではないと主張しているわけではないからである。真であることに確信が持てないときに「信じている」と言うのかというと、それも違う。人はきわめて強い確信をもって、自信たっぷりに「信じている」と言うものだから。「信じている」と「知っている」の間には、明らかにきわめてはっきりした区別があるが、それを単純に真偽や正当化の軸で捉えることはできない。」63

「認識論や知識の哲学における「信じている」ことと「知っていること」の違いについての議論の中から、すっぽりと抜け落ちている次元がある。
 認識論は当の信念なり知識なりの持ち主である(任意の)一人の主体と、彼にとって知識や信念の対象であるところの世界との二項関係の形で問題をたてる。しかし「信じている」と〔言うこと〕、あるいは「知っていること」と〔言うこと〕は、常に聞き手という他者(たち)の存在を、あるいは話し手とこれらの他者をともに含むコミュニケーション空間を前提としているはずである。誰かに向かって語られることを想定していないような言葉は存在しない。この次元を無視した議論は、少なくとも言葉とその意味をめぐる議論としては、大きな欠陥を抱えたものとならざるをえない。」64

「「信じている」と「知っている」の違いは、心の状態とは何も関係ない違いであり、むしろ「心の外」の状態、つまりコミュニケーション空間における異論の有無についての見積もりと関係していたからである。話者がどのコミュニケーション空間に定位して語っているかによって、同じ人が同じ命題を―同じ一つの心の状態のままで―ある場合には「信じている」ことになり、ある場合には「知っている」ことになる。内面を持ち出すことは、単に頭を混乱させるだけのことにしかならない。」66
◆2001「対比する語りの誤謬」 pp.204-225
「規約と自然の対立に無頓着である人々が存在するという事実で対立そのものが無効になるわけではもちろんない。…こうした隠喩的な―しかし全く隠喩的であるとは感じられていない―語り口を通してある行為が記述されているときには、それが“生まの事実”としての行為の記述であるのか、それとも“制度的事実”としてのそれなのかを問うこと自体がほとんど無意味になってしまう」220

「人が生きている秩序の世界を“自然”と“約束事”のいずれかに振り分けてしまえると考えることは、われわれ自身が生きているさまざまな領域に目を向けてみるだけで、すでにあまりにも単純すぎる見方である。疑いようのない“自然”の秩序と、あからさまに人為的な“規約”にもとづいた秩序という両極のあいだに、自然にも合意の産物にも帰すことのできない秩序…が横たわっている。“比喩的秩序”とても呼び得るような、それと自覚されない比喩的な語り口によって構造化された経験領域が属しているのも、“自然”と“規約”の二項対立――自分たちが生きている秩序をめぐる思惟の上にぎこちなく、しかし圧倒的な破棄力をもって行使される想像力の構図――によってゆがめられたこの空間である。」221

「人類学の具体的な課題がつねにそうであったように、ここでも実際に取り組まなければならない作業は、異なる社会空間を流れている語り口を理解するという地道な作業である」222



UP:20101009 REV:20101030
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