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橋本 みさお/橋本 操
はしもと・みさお

さくら会
http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/

last update: 20130928


・1953/03/15〜
・東京都練馬区在住
さくら会
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/
日本ALS協会副会長(2001年度)→会長→副会長
日本ALS協会東京都支部

◆橋本 操 2010/07 「資料が示していること/案が示してしまうかもしれないこと」
 介護職員等によるたんの吸引等の実施のための制度の在り方に関する検討会に関して
◆橋本 操(日本ALS協会副会長) 20009/11/27 「死の尊厳よりもまず生きること」
 『中日新聞』『東京新聞』2009-11-27夕刊,「あの人に迫る」
◆橋本 みさお・平岡 久仁子 2009/02/21 開催挨拶 cf.挨拶(動画)
 「東アジアALS患者在宅療養研究シンポジウム」,於:立命館大学衣笠キャンパス

……

◆2006/11/28 「プライオリティ」,「生きる力」編集委員会編[2006:033]*
*「生きる力」編集委員会編 20061128 『生きる力――神経難病ALS患者たちからのメッセージ』,岩波書店,岩波ブックレットNo.689,144p. ASIN: 4000093894 840 [amazon][kinokuniya] ※,
◆山崎 摩耶 20061125 『マドンナの首飾り――橋本みさお、ALSという生き方』,中央法規,275p. ISBN-13: 978-4805828038 ASIN: 480582803X 1890 [amazon] ※
◆2006/08 「「生」の実践」(インタビュー)
 『DPI われら自身の声』22-2:24-29
◆2006/08 「あなた死になさいよ。――尊厳殺、ALSの未来予想図」

◆2005/02/03 「かけがえの無い命との思い――尊厳死の議論に思う」

◆橋本 みさお・川口 有美子((NPO)ALS/MNDサポートセンターさくら会) 20041022 「当事者の《生きる力》を鍛える当事者による難病ネットワークの構築にむけて」
 第1回日本難病医療ネットワーク研究会 於:九州大学医学部百年講堂
 http://homepage2.nifty.com/ajikun/200410.htm
◆橋本 みさお 20041101 「脳生とよばれてなお」
 『現代思想』32-14(2004-11):078-084

◆1994/11/25 「在宅療養一年を迎えて」
 『JALSA』033号(1994/11/25):30
◆1997/02/  「ALSとは」
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/als.htm
◆1997/02/  「初めての御見舞い」
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/hajimete.htm
◆1997/03/  「発病のころ」
 http://www31.ocn.ne.jp/~sakurakai/hatub.htm
◆1997/03/  「生と死の間」
 http://www31.ocn.ne.jp/~sakurakai/menu3.htm
◆199703 「告知せず」と言われる方に
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/kokuchi.htm
◆1997/04/22 橋本みさお→杉山久美子(↓)
 杉山[1998:208-209]
◆1997/05/ 「ALS患者の選択肢」http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/select.htm,さくら会[1999-]
◆1997/06/ 「わたしのALS」http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/myals.htm
◆1998/03/  「ALS患者側からの告知の是非」
 『難病と在宅ケア』3-12:16-17
◆1998?   「闘えALS」
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/menu5.htm
◆2000/02/11 「師走の募金活動を終えて」
 『JALSA』49:30
◆2000/09/20 「ALS国際会議参加を目指して」(↓)
 『JALSA』051号:29
◆2000/10/05 18:10〜19:00、NHK総合テレビ 1チャンネル「首都圏ニュース」で約3分ほど橋本みさおさんを取材したニュース放映
◆2001/06/03 「私が私であるために」
 日本ALS協会茨城県支部総会での講演
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/ibaragi.htm
◆2001/06/19 「病気が進む中で、人間として尊厳を保って懸命に生きる――筋萎縮性側索硬化症(ALS)と闘いつつ」
 県立島根看護短大での講演
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/izumo.htm
◆2002/06/25 「ALS(筋萎縮性側索硬化症)の在宅介護の現状と課題」,『ジョイフル・ビギン』16:52-56

◆ALSの方のための代替・拡大コミュニケーション
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/kakudai.htm
◆ALS患者の在宅療養を円滑にすすめる為に
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/zaitaku.htm

 
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◆1997/02

 「11年経って、「なくしたもの、与えられたもの」について、考えることが、多くあります。私自身は、信じられないほどのお気楽人間ですから 運動機能がほぼ全廃しても、まだ右手薬指、左足親指が、動かせますから、ワープロを使い、季節の便りから献立まで不便なく作り、コミュニケーションで悩むこともありません。時折、失くしたものについて、思うのですが、二つだけ、諦めきれないことが、あります。もう少し長く、娘を抱きしめていたかったこと、いろいろな場所を、夫と同じ視線で、歩きたかったことです。もちろん、失くしたものを、数えたら限りなく、与えられたもののなんと少ないことでしょう。神様は、さすがに、お目が高くて、深く考えることの少なかった私に、たっぷりの時間を、好き嫌いの多い悪い子の私に、何でも食べられるマーゲンチューブ(経鼻栄養の管)を与えてくださいました。まったく、世の中捨てたものでは、ありません。とは言え私のようなお気楽人間ばかりが、発病する訳もなく、多くが働き盛りの人々です。そこには、直視できないほどの現実があり、この国の「豊かさ」の、本当が見えます。もし兄弟も財もない普通のあなたが発病したら、一人あなたの苦悩でなく、親、子供、配偶者など、奈落の底に、ふいに突き落とされるのです。」

◆1997/04/22 橋本みさお→杉山久美子
 杉山[1998:208-209]

 「進さんの手からは闘志が伝わりましたし、おっしゃりたいことも重く響きました。退院しましょう。人間の忍耐には限界があるものです。(p.208)
 […]
 退院の可能性を探ってみませんか? 同封のプリントを参考に、沼津市の現状を保健婦さんに検討してもらい、介護者集めのできる人を探して、見通しがついたら順天堂の相談室のMSWにどこまでバックアップしてくれるか相談してください。その前に平岡さん(協会の理事でもある)に相談すると効果的です。行政に期待はできません。前例がなければ動かないのが行政ですから,進さんが座り込みでもしない限り、沼津市は変らないと思います。練馬の手当も先人がハンストまでして、もぎ取ったものです。すべてが久美子さんの負担になることですから、五割の介護力(家族以外)を確保しないと無理です。」 (杉山[1998:208-209] (平岡は帝京大学のMSW))

杉山 進 19981125
 『負けてたまるか、負けたら俺の男がすたるよ――神経難病ALSと闘う日々』
 静山社,262p. 1700円+税 ※
 * この本は一般書店で注文して購入することができます(2002.03)

 
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◆橋本 みさお* 20000211 「師走の募金活動を終えて」
 『JALSA』49:30
 「どうも私は、患者としての自覚に欠けるらしい。
 師走に「街頭募金をしましょう」と、熊本事務局長に提案したところ、「街頭でなくても良いでしょう、まして患者さんが寒さの中屋外に出る必要はない」と、何ともつれないお返事でした。
 しかし患者扱いされることのない私には、納得できるお返事ではありません。」(p.30)

 
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◆2000/09/20 「ALS国際会議参加を目指して」
 『JALSA』051号:29

 「…飛行機嫌いの私を、厳寒のデンマークへと引き寄せたのは、一九九九年冬の日の新聞記事でした。そこにはALS患者が、北欧を訪ねた体験談を寄せていたのです。
 たしかに福祉先進国かも知れないし、夏の北欧の美しさは想像に難くありません。でもそこに、引用されていた医師の談話の「人工呼吸器は、神の意志に逆らう行為なので、呼吸器は付けない」には、不快感を禁じ得ませんでした。
 私達の在宅介護支援は、誰彼なしに、呼吸器を付けて欲しいというつもりなど、毛頭ないのです。「生きたい人が生き、死にたい人が死ねる」といった環境が欲しいのです。
 …
 およそ国情の違いは、不公平の一言で済まされない、大きな悲しみを発生させるのです。日本には「告知」の壁がありますが、欧米にはそれはありません。日本には呼吸器の選択肢はあるのですが、多くの患者に呼吸器の選択肢は与えられないのです。
 ALS患者の介護を考える時、現実に呼吸器を装着して社会で暮らす人々がいて、その生活を支える家族がいる以上「呼吸器をつけて生命を永らえることは、神の御心に反する」の一文は承服できないのです。もしも、皆様が、学齢期の子を持つ、終末期のALS患者であったならば、親の介護を手伝う子等に「あなたの親が生きることは神が許さない」と言えるでしょうか。」

 
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山口 進一 2000/10/07 「あいだに在るもの」(講演)より
 芸術とヘルスケア・パネルディスカッション 於:福岡アジア美術館・あじびホール
 http://www.kyushu-id.ac.jp/~tomotari/yamaguchi2.html
 「これは東京都の橋本みさおさんという方です。32才の時に発病され、現在46才。当時小学生だった子供さんが京都の大学に入学されました。この方はコンピュータも使えますが、通訳の方法がすごいのです。橋本さんが母音の形に口を開くと、通訳の方がその子音を発音し、目的の言葉がでたところで瞬きをするのです。電話をかける時の様子の映像をお見せします。(映像)ゆっくり話すひとだったらこの人にはかなわないほど、ものすごく早く話します。この人のホームページがあり、そのサイトのページ目に詩が書いてあります。(音声合成システム)

 「ほやほやの患者さんに
  あなたがALSと告知されたら、 しっかり はっきりなさいませ
  あなたがALSでも、そうでなくっても、 きっと明日は来るのだから
  しっかりなさいね 大人でしょ
  強くなれとはいいません でも 甘えてはいけません
  あなたが病気になっただけで 病気はあなたじゃないのです
  病気はあなたの一部だけど けっして 全部じゃないのだから
  ハイと イイエを はっきりさせて 周囲を楽にさせましょう
  私は ぐずが嫌いです」

怒られているような詩ですけど、人を楽にする時にこうして怒る方法もあるんですね。少なくとも私はこれを読んで、とても楽になりました。」

 
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 ◆【 人 権 侵 害 で す よ 】
  http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/jinnken.htm

  「……4章17条の「医師でないものは医業をなしてはならない」を根拠に、ヘルパーの医療行為を禁止するなら、早急に、医療行為の必要な患者に対して医師を派遣せねばなりません。
 厚生省にたずねると「吸引などは医療行為なので医師、看護婦以外が行なうのは違法」とのこと。
 いったい民間の看護婦派遣会社の費用を知っているのかしら。
 それ以前にALSを初めとする難病患者の現状を把握しているのでしょうか? 
私はALSを発病して12年、5年前に人工呼吸器をつけた時、長期入院可能な病院を半年ほど懸命に探したけれど、一つもありませんでした。
 幸い我が家は、夫の収入を介護費用にできる環境にありましたが、中学受験の娘がいて介護費用を出せる家庭は少ないのです。
 話を戻して、私的に看護婦さんを依頼すると時給2500円前後、毎月180万円ほど、とても一般人には払えません。でもALSは、貧富の差なく人を選ばず10万人に3人から4人、律義に発病するのです。かのホーキング博士もルー・ゲーリックも、そして私までも。
 人権侵害と言いたいのは、呼吸器を諦めて死んでいく7割の患者の人権はもとより、患者を家族に持っただけで介護を強いられ、睡眠さえ保証されない家族の人権です。
 「家族がいるから介護人を派遣しない」「ヘルパーは派遣するが、吸引は家族がするように」 だったら家族はいつ眠るのよー!

 
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◆年譜
 http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/history.htm

1985年秋    右手握力低下。
    12月   左腕が、上がらなくなる。
  86年1月   右手人指し指、中指が伸ばせなくなり東大病院整形外科を受診。
          斜骨神経麻痺と診断。2ヶ月間通院。
     3月   順天堂病院を受診。精密検査をすすめられる。
     4月   娘と、京都 奈良へ。
     5月   3週間の検査入院。
     6月   筋萎縮性側索硬化症と診断。
          TRH注射のため、通院。
     6月20日医学書を読む。ショーック
     8月   北海道へ家族旅行。着替えができなくなる。
     9月   夫の実家に同居。入浴介助。
  87年1月   娘を伴い実家に転居。食事介助。
          発声、歩行に変化。ST PT開始。
     3月   卒園。洗面介助。
     4月   入学。歩行困難。OT開始。
     5月   車椅子使用。
     7月   排泄介助。
     8月   全介助。
  89年8月   現住所(練馬区)に転居。 
  91年     経鼻栄養。
  92年10月   気管切開。
  93年1月   人工呼吸器装着。
     5月   退院。
  95年6月   呼吸器をつけて、初めての外出(奥日光へ)
     7月   日本ALS協会チャリティ・コンサートへ
    10月   伊豆長岡の病院に、同じALSの患者さんを見舞う。
    11月   奥日光へ。
  96年2月   「琳派展」と、買い物に。
     3月   ライオンズ球場へ。
     4月   千鳥ケ淵で夜桜。
          加湿器故障、呼吸できずに救急車
          ALS協会総会へ。
     5月   奥日光へ。
     9月   軽井沢へ。
          キリギリスも逃げ出しそうな生活なので中略。
    12月   ALS協会 千葉支部の集いに参加。
  97年
     1月   厚生大臣に陳情。
     3月   清原の応援にドームへ(これは使命です)
     4月   小諸に、勉強会の下見。
          大学病院にお見舞い。
          伊豆に御見舞い。
     5月   与党に陳情。
          千葉支部総会に参加。
     6月   宿泊介護勉強会参加。
     7月   医学部の授業に参加。
     ……

 
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◆「発病のころ」1997
 http://www31.ocn.ne.jp/~sakurakai/hatub.htm

 「「ブルー・トレインに乗りたい」と、何気ない娘の一言に、緊急にとってもらった 検査用のベッドを、勝手にキャンセルして、浮かれ気分で、花の吉野へ。思えば、何てふざけた患者でしょう。すでに、両腕は上がらず、人指し指も、動かないので、担当の先生方は、真剣に、悩んでおられたというのに、最悪の患者です。でもでも、誰だって、指が動かないくらいで、まさか死ぬとは、思えないでじょう。これは、極楽トンボの言い訳かな。
 石南花には、少し早い室生、爛漫の吉野を後に、父と待ち合わせた京都へ。帰京後、入院準備。娘を、千葉の実家に預け、従兄弟と同じ保育所に短期入所をお願いした。一人っ子の娘は、お古の制服が、嬉しくて、楽しそう。兄嫁手作りのお道具、初めての給食、初夏に向かう自然など、5才の彼女には、良い刺激だったと今も思っています。もちろん、親にも負けない、娘への兄夫婦の溺愛ぶりを、知っての上ですが。
 精密検査は、3週間ほど。結局、外科的な要因は、見つからず、専門医の帰国を待って、A.L.S(筋萎縮性側索硬化症)の、診断を受けた。末期ガンの告知と同じだからと、主治医は、夫に口止めしたらしいが、5分もたたない地下の食堂で、「先生はなんて? 」の問いに、「筋萎縮性側索硬化症という筋肉の動きが、悪くなる病気らしい」と教えてくれた。「ふぅーん」と、答えた私は、退院の嬉しさと、病名がわかった安心感で、病気に対する興味は、失せていて、頭中、娘だらけの生活に戻ったのです。
 発病時の住居は、本郷で東大病院、順天堂病院、医科歯科大の3つの大学病院に、徒歩5分の好立地。手初めに、一番近い東大へ2ヶ月通っても、らちがあかず、次に近い順天堂へ、それでだめなら医科歯科に行こうと、お気楽なもの。娘を幼稚園に送ったついでに順天堂へ。ドクターは、すぐに精密検査が必要なこと、ベッド待ちは3ヶ月だが、至急、手配することなどを話してくれた。それなのに、この不良患者は、ベッドより桜なんだから呆れてしまう。
 病名は知らされたものの、毎日忙しい教育ママゴンは、雑事に追われ、週3回の注射の時以外、忘れていたのですが、10日ほど過ぎたある日、いつもの注射の後、幼稚園のお迎えには、少し時間があったので、自宅と病院の、ほぼ中間にあった湯島図書館で、時間を過ごすことにしました。まさかそこで、人生最大のショックを、受けることも知らずに。
 「筋萎縮性側索硬化症」は、すぐに見つけられて、病気の説明、病状の経過と、読み進むうち、予後の項目になって、文字通り「頭の中が真っ白」。何も考えていないのに、涙が、ボタボタ落ちる。出産以上の試練を知らず、嫌なことは避けて生きていた私に、「予後は悪く5、6年で死亡」の文節は、思考の許容範囲をはるかに越えて、考えるより先に、涙が落ちた病気の説明、病状の経過と、読み進むうち、予後の項目になって、文字通り「頭の中が真っ白」。何も考えていないのに、涙が、ボタボタ落ちる。出産以上の試練を知らず、嫌なことは避けて生きていた私に、「予後は悪く5、6年で死亡」の文節は、思考の許容範囲をはるかに越えて、考えるより先に、涙が落ちた。呆然としたまま 幼稚園に向かえば、涙、涙、空を見て涙、赤信号で涙、涙が一人歩きして、このまま、止まらないんじゃないかと、思ったほど。異変に気づいた友人達は、娘を迎えに行ってくれると、一人でいないように、夫の帰宅まで付き添ってくれた。病名を知らせたとき、すぐに調べた彼女達は、私よりずっと早く泣いていて、結局、知らなかったのは本人だけという、何とも呆れたお話し。帰宅した夫に「本当に5、6年なの?」と聞けば、「そんなところだ」と言う。「何故教えたの?」と責めれば、「隠し通せると思わなかったから」と答える。当時は、何とも思わなかったけれど、後々、落ち着いて考えたら、2、3ヶ月は、悶々と悩むのも、夫の基本ではないのかなぁ。
 さすがに、ことの重大さに気づいて、自分で確認しようと、父を伴いドクターに面会するも、高齢の父を気遣って、当たり障りのないことしか言えないドクターの様子に不思議と、すうーっと力が抜けて、それを境に開き直ってしまったのです。父のショックは相当なもので、同行した義妹によると、帰りの車中 父は泣いていたとのこと。不覚にも父の老いを忘れていた。それから父は「娘より後に、死にたくない」と言い初め、3年後に母、4年後には、父も亡くなり、11年後、詐欺のように私だけ生きている。
97/3 記」


◆橋本 誠 20030101 「ファインダーから覗いた世界――橋本みさおさんの夫・誠さんの作品の数々」(写真紹介/文章執筆は橋本誠),『難病と在宅ケア』08-10(2003-01):004-006 [B]

 
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■言及

◆立岩 真也 2007/04/25 「ALSの本・7」(医療と社会ブ ックガイド・70),『看護教育』48-04(2007-04):-(医学書院)

■立岩真也『ALS――不動の身体と息する機械』における引用・言及

【29】 一九八六年。《予後は悪く五、六年で死亡》(湯島図書館にあった「家庭医学書」、橋本[1997c])

【48】 一九八五年に発症、八六年に「予後は悪く五、六年で死亡」と書かれた医学書[29]を読んだ橋本みさお(東京都)は、九二年九月に気管切開、九三年一月に呼吸器装着。二〇〇四年に発症から一九年に。二〇〇三年から日本ALS協会会長(ホームページにさくら会[1999-]、橋本[2002]等)。

【110】 橋本みさお[48]。《ALSは難病であると同時に最重度の障害者でもあるのですから、ハンディが多い分の努力が必要であると思いますし、障害者のニーズに対応するのは福祉行政の責務だと考えています。ALS患者が「社会に生きる」ためには、本人の自覚はもとより 「医療・福祉・行政」の協力が不可欠です。》(橋本[1998a])
《私は常に、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者を、最重度の障害者であると捉えています。ハンディの大きい者が地域社会に生きるためには、応分の努力をすることは、至極当たり前のことで、その努力に応えることは社会の(行政の)責務と考えています。》(橋本[2001a])

【111】 《どうも私は、患者としての自覚に欠けるらしい。/師走に「街頭募金をしましょう」と、熊本事務局長に提案したところ、「街頭でなくても良いでしょう、まして患者さんが寒さの中屋外に出る必要はない」と、何ともつれないお返事でした。/しかし患者扱いされることのない私には、納得できるお返事ではありません。》(橋本[2000a:30])

【112】 《今回、私がこの場で、皆様の貴重なお時間をいただいた大きな理由は、「ALSは死病ではなく最重度の障害を伴う病である」と、伝えたかったからなのです。》(橋本[2000c]。デンマークでの国際会議(↓第11章4節)での発言)

【170】 橋本みさお[48]が本を読んだのはすぐにではなかった。彼女は当時の住まいに近かった東京大学附属病院に通うのだが、結局わからずじまいで、次にやはり近かった順天堂大学病院にかかった。そこにたまたまいた医師がALSの研究者だった。《精密検査は、三週間ほど。結局、外科的な要因は、見つからず、専門医の帰国を待って、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の、診断を受けた。末期ガンの告知と同じだからと、主治医は、夫に口止めしたらしいが、五分もたたない地下の食堂で、「先生はなんて?」の問いに、「筋萎縮性側索硬化症という筋肉の動きが、悪くなる病気らしい」と教えてくれた。「ふぅーん」と、答えた私は、退院の嬉しさと、病名がわかった安心感で、病気に対する興味は、失せていて、頭中、娘だらけの生活に戻ったのです。/[…]病名は知らされたものの[…]雑事に追われ、週三回の注射の時以外、忘れていたのですが、一〇日ほど過ぎたある日、いつもの注射の後、幼稚園のお迎えには、少し時間があったので、自宅と病院の、ほぼ中間にあった湯島図書館で、時間を過ごすことにしました。まさかそこで、人生最大のショックを、受けることも知らずに。》(橋本[1997c])。こうして彼女は、「予後は悪く五、六年で死亡」と書かれた医学書[29]を読むことになる)。

 […]そしてその家族は、本人に知らせるかどうかを迷うことにもなる。なかにはそのまま本人に知らされることもある。橋本みさお[48]の場合がそうだった[170]。ただ、彼女はその病名がすぐにはその「予後」の予測に結びつかず(たんに病名を知らせるだけではそれは正しい意味での告知ではないとされるから、それは正しい意味での告知ではなかったということになる)、その後、図書館で本を読んでALSのことを知る[29]。 【184】 《帰宅した夫に「本当に五、六年なの?」と聞けば、「そんなところだ」と言う。「何故教えたの?」と責めれば、「隠し通せると思わなかったから」と答える。当時は、何とも思わなかったけれど、後々、落ち着いて考えたら、二、三ヶ月は、悶々と悩むのも、夫の基本ではないのかなぁ。》(橋本[1997c]。その前後は[222]に引用)
 だが多くの人はひとまずは隠す、そして言うか言うまいか迷う。そしてときには隠しつづけようとする。[…]

 告知をすることが常によいのかどうか、私にはわからない。つらいことを知らされるのはつらいことだ。そんなことを考えてもいなかった時に、あと一か月で死んでしまうと知らされるのはどうだろう。わからない。強く本人への告知を主張する橋本みさお[48]の文章に、あらゆる場合の告知を肯定しているのではなく、むしろ、本人に知らせれば、本人が知ればそれだけうまくいくという、よくできた予定調和的な末期の送り方を疑っている一節、疑っているように受け取れる一節がある。
【206】 《「告知」について語られるとき、余命を、有意義に過ごしたいからとか、為すべきことがあるからと、人は言います。ほんの一握りの履病者だけが、「死」に向かって「生」を計画的に重ねることは、フェアなやり方とは、思えないのに。大方の人は、「死」を現実のものとは、実感せずに過ごしているように見えます。「死」に至る病の告知は、ひどく傲慢なことの様に思うのは、私だけなのだろうか。》(橋本[1997d])
 しかし橋本は、少なくともALSの場合、知らせてほしい事情があるとも言う。早い方がよい、と言う。さらに生真面目に西尾等[63]が次のように言う。

【208】 《ALSの経過(死に至るまでの)を見てこられた方ならば、この病気において告知がどれ程重要なことか、おわかりでしょう。/[…]患者も家族も、様々な進行に対処していかなければなりません。それならば少しでも楽に生きられるように、適切な助言お願いしたいのです。》(橋本[1997e])

【209】 《末期癌の告知と同じようなものだから、告知しないと言うあなた、それは間違いかも知れません。確かにどの医学書を見ても「予後は悪く一〇年以内に死亡」と書いてあります。一度は死ぬものと分かっていても「死ぬぞ」と言われると、宇宙の不安を一身に集めたような焦燥感に捕われるのは、私だけではないでしょう。それでも尚ALSには、正確な告知が必要なのです。/末期ガンは、あっと言う間に死ねます。運が良ければ、愛する人の手を握り「ありがとう」なんて、言えるかも知れない。でもALSにはできません。「ありがとう」はおろか、手を握ることさえも。近年、突然声を失くしてパニクッてる患者さんの事例を、多く耳にします。中には、告知もされていない例もあり、介護者も途方に暮れるのです。/ALSには、上手に生きる方法を告知してください。発病したことが、十分に不幸なのです。それ以上の絶望を与えないで。》(橋本[1997d])

【210】 《「告知せず」と言われるあなたが、もしも患者だったとしたらどうでしょう。一年で歩行不能、二年で全介助、日々衰えていく自分に疑心暗鬼の時が過ぎてゆくのです。健康な者が機能を失い続ける苦悩をご理解くださるならば、ショックを跳ね返すパワーのあるうちに、正確で親切な告知をお願いしたいのです。/[…]ALSは死に至る病でありながら、一部の進行性のものを除いてすぐには死ねず、すべての機能を失うまで生きるのです。告知せずと言えるあなたは、きっとそこに至る経過を見なくて済む立場におられるのでしょう。》(橋本[1998b])

【222】 橋本みさお[48]は夫から病名を聞くが、ALSのことを本で読むのは一〇日ほどたった後だった[170]。《「筋萎縮性側索硬化症」は、すぐに見つけられて、病気の説明、病状の経過と、読み進むうち、予後の項目になって、文字通り「頭の中が真っ白」。何も考えていないのに、涙が、ボタボタ落ちる。出産以上の試練を知らず、嫌なことは避けて生きていた私に、「予後は悪く五、六年で死亡」の文節は、思考の許容範囲をはるかに越えて、考えるより先に、涙が落ちた。呆然としたまま幼稚園に向かえば、涙、涙、空を見て涙、赤信号で涙、涙が一人歩きして、このまま、止まらないんじゃないかと、思ったほど。異変に気づいた友人達は、娘を迎えに行ってくれると、一人でいないように、夫の帰宅まで付き添ってくれた。病名を知らせたとき、すぐに調べた彼女達は、私よりずっと早く泣いていて、結局、知らなかったのは本人だけという、何とも呆れたお話し。[…]/さすがに、ことの重大さに気づいて、自分で確認しようと、父を伴いドクターに面会するも、高齢の父を気遣って、当たり障りのないことしか言えないドクターの様子に不思議と、すうーっと力が抜けて、それを境に開き直ってしまったのです。父のショックは相当なもので、同行した義妹によると、帰りの車中父は泣いていたとのこと。不覚にも父の老いを忘れていた。それから父は「娘より後に、死にたくない」と言い初め、三年後に母、四年後には、父も亡くなり、一一年後、詐欺のように私だけ生きている。》(橋本[1997c]。[…]の部分は[184]に引用)

【223】 《死ぬほど泣ける告知。これは、結構ポイントが高いのです。[…]実際私は、自分が筋萎縮性側索硬化症と知った時、筋萎縮性側索硬化症が何たるかを知った時から、生活しながら泣いていましたし、本当に理由も無く涙が溢れました。信号待ちで涙、ビルの壁を見て涙、そのうち涙も減って(一生分泣いてしまったらしい)、泣いている時間が無駄に思えてきたのでしょう。》(橋本[2001b])

【254】 橋本みさお[209][222]。《ALSの病状が進むと、気管切開の選択を迫られます。(例外的に、選択肢さえ提示されない場合があります)/私は一九九二年一〇月に気管切開して、翌年一月に呼吸器をつけましたが、ほかの患者さんのようなドラマチックな選択ではありませんし、なにより生きることだけ考えていましたので、迷いなどはありませんでした。》(橋本[1998a])

【283】 橋本みさお[254]。《私の場合は気管切開の時点ですでに声を失い、体幹機能はほぼ全廃で数本の指が動くだけでしたから、気管切開によって失うものは無かったので楽(?)でした。/なかには突然、呼吸困難を起こし気がついたら呼吸器人間になっている場合もあるのです。筆談でもできれば良いけれど、そうでなければ大パニックを起こします。/気管切開の予感がしたら、入院準備をしましょう。》(橋本[1997g])

 橋本みさおは家族の人以外の介助によって自宅で暮らしているALSでは数少ない人の一人だが、幾度か入院したこともあり、両方を知っている。
【401】 《わがままな私が特別なのかも知れませんが、呼吸器をつけての入院生活は、闘病と言うよりストレスとの闘いなのです。/たとえば呼吸器が外れた時、ナースコールが使える人は良いけれどそうでないと毎日がギャンブルのようなもの。運が悪ければ一人ぼっちで死んでしまう。/深夜にナースコールを蹴飛ばした事がありました。普通の人ならば何のことはないのに、指しか動かない私は、コールの押せない恐怖だけで眠れなくなって呼吸回数を数えて時間を過ごすのです。》(橋本[1997f])
【402】 《人工呼吸器をつけたから病院にいるのだからといったことは、私達にとって何の安全保障にもなりません。呼吸器は外れやすいものです。(そうでないと気管吸引の時に、困るのですが)。たとえば私の場合、呼吸器が外れて二分も過ぎずに顔は真っ赤、心臓はバクバクです。三分で死ねると言う話も、あながち嘘とは言えないかも知れない。今年も、同じ区内で退院準備中の患者さんが、二人、落命されました。》(橋本[1997b])

 あるいは、島崎八重子[66]の文章(島崎[1997-])にあるように、また橋本みさおが[416]に記したように、家事の采配等々で忙しい人たちもいる。自分がいる状況と自らの状態によるのだが、したいことやしなければならないことはあり、それをすることができる。
 その[416]を書いた橋本の別の文章を以前ホームページから読んで、そこに次のような箇所があって記憶に残っていた。
【408】 《呼吸器人間で、意識は清明、しかも動けずと言った状況は、健康人には多分、想像できないでしょう。/終わらないジェットコースター、永遠に続くカナシバリ(そんな楽しいものではない)、語彙が乏しすぎて上手く言えないけれど。/気管切開、呼吸器装着と八ヶ月の入院生活で、一番つらかったのは一人の時の怖さですね。》(橋本[1997f])
 同じ人の文章から拾ってみると、《運動神経が、侵されていますから、動けませんし、もちろん声も出ません。喩えて言えば、カナシバリでしょうか》(橋本[1997a])といった同様の表現の他、以下のような部分もある。
【409】 《ほかの病気と違って、この入院生活は、孤独と死の恐怖との、闘いといえるでしょう。時間があるからといって、本を読むことも手紙を書くこと、能動的なことは一切できません。限りないストレスとの、戦いなのです。死の恐怖をこれほど日常的に実感している人達は、少ないと思います。》(橋本[1997b])
 しかしこれらを読み返してみると、[408]は呼吸器が外れる危険について書いている[401]に続く部分であり、また[409]の後に続くのは、やはり同じ危険を言っている[402]である。つまり、これらは病院での特定の状況に置かれた時の気持ちとして書かれている。さきに記した機械の不具合、それを伝えることができず、生命の危機にされされてしまうという具体的な危機が問題になっているのであり、ALSであること全般について述べたものではない。このことを私は[408]を読んだ時には自覚しておらず、今になって気がついているといった次第だ。
 それにしても、呼吸器を付けて四年目の橋本のこれらの文章では全体として深刻な記述が前面に出ている。その後の文章ではそれほどでない。そしてこの変化は橋本一人のことでなく、ALSについて、また呼吸器を使って生きることについて、その本人たちが記す文章を読んでいくとき、次第に――個人差の方が大きく、最初から呑気な文章を書く人もいるのではあるが――、その深刻さ、悲劇性、悲壮さが薄れてきているように感じていた。前の章では、花田と横川と佐藤が話しているところを引用した。
 二〇〇二年の夏、私は橋本に話を聞いたのだが、その前日に聞きたいことをEメールで送った。
【410】 《ALSという病の経験について。/ぶつしけな問いではありますけれど、身体が動かない(動かなくなっていく)という状態を生きている、生きていく、とはどんなことであるのか、…/「呼吸器人間で、意識は清明、しかも動けずと言った状況は、健康人には多分、想像できないでしょう。終わらないジェットコースター、永遠に続くカナシバリ(そんな楽しいものではない)、語彙が乏しすぎて上手く言えないけれど。」などいくつかの記述を読むことはできたのですが。/(また、きちんと追えているわけではないのですが、ALSで過ごすことについて書かれるトーンのようなものが数年の間にすこし変わってきているような感もします。)》
 翌日、橋本に会ったとき、既に文章での回答が用意されていて、そこに( )内の部分への返答があった。
 橋本《ご指摘のとおりです。上記の文章は、人工呼吸器装着直後の率直な感想です。たとえば深夜に呼吸器がはずれても、入院中は看護師はすぐには来ません。また自発呼吸が残っていましたから、人工呼吸器の作動回数で時間の経過を予想するのです。かなりスリリングでした。生来体育会系でなく、動かないことが好きなので、動けないことへのストレスは今はないと思います。》
 [408]が前項に記した生命の危険に晒される状況のもとでの気持ちであることが言われている。呼吸器を付けた生活、彼女の場合は自宅での介助者との生活が軌道に乗ってそのような危機的な状況から脱した時にはALSの受け止め方は変わってくる。この時、彼女の場合には、動けないことはつらいことではない。ちなみに問い本文の方への回答は次のようなものだった。
【411】 《何度か悔しい思いをしましたが、進行性の筋疾患ならではの興味深い体験も多くあります。トータルロックトインステージまで生きてはじめて、ALSといえるのかもしれません。》(橋本より、二〇〇二年八月)
 トータル・(トータリィ・)ロックトインについては第12章でふれることになる。そこまではまだ行かなくとも、自分の身体を直接に動かして行なうことはできなくなる。それに対する一つは、代わりに別のことができるという答である。

【413】 二〇〇二年夏、[410][411]に引用した橋本みさおからの回答を復唱しながら、聞き取り。《小学生のように聞きますけど、身体が動かないっていうのは、退屈ですか?」/橋本「かんがえごとができていいよ。」/[…]「ちょっとそういうこと思ったことがあって[…]今わりと頭一つあればできる仕事をやってるんで、やれるかなと思って。」/橋本「できます。ふふ」》
 こうして何かができる、身体を動かすこととは別のことができるという答が一つだが、もう一つ、もし退屈せずにすむのなら、何かをしなくてすんでよいという答もありうるし、実際になくはない。[…]

【416】 橋本みさおは一九九七年に杉山進[253]を見舞う。《私には、この一〇年間に、数回の入院経験がありました。最短で三泊四日から八ヶ月まで、期間はまちまちですが、いつも音と色彩にあふれ、雑踏の中にいるような入院生活でしたから、杉山さんの、白いお部屋はショックでした。私にも三年間の田舎暮らしがあり、地方の福祉行政の貧しさは身にしみてわかっていますから、軽々に在宅なんてすすめません。/杉山さん、ありがとうございます。貴方にお目にかからなかったら、現実も知らず、お気楽人間でいたでしょう。このお見舞いは、本当にショックでした。私は日頃、娘や夫と言いたい放題。もちろん声が出ないので、唇の形とまばたきを読み取ってもらうので、口論などには不利でも、介護者を介して、言いたいことは必ず言うので日常が戦場のようで、家族も私も病気を思いだす暇がないのです。まるでSFマンガで見たマザー・コンピューターのように、ベッドにいて家庭教師の手配、介護者のスケジュール調整、はては冷蔵庫の在庫確認まで、すべて私の仕事です。ほかの患者さんだって、家庭に帰れば沢山の仕事や家族が待っているはずなのに、ひとり病室の壁や天井を見つめて過ごしているのです。このことは、いろいろな意味でマイナスですね。》(橋本[1997b])
 杉本は一九八九年に静岡県の病院に入院し、二〇〇〇年に亡くなった人だが、著書に杉山[1998]があり、それを読む限り、外界からまったく遮断された人ではなかった。多くの人から手紙を受け取り、多くの人に手紙を出しているし、役所や報道機関に働きかける活動もする人だった。第7章、第8章で紹介した川口武久と同様、入院している他の人たちと比べれば閉鎖的な環境にいたのではない。それにしても、橋本はまず杉本が白い部屋にいることに驚いてしまったのだ。

【435】 橋本みさお[416]の発病は八五年だが、《その頃の日本では、ALSは死に至る病で、終末期には眼球によるモールス信号でのコミュニケーションしかない、と言われた絶望的な病でした。たった一五年前のことです。》(橋本[2001a])

【438】 橋本みさお[435]は《現在ワープロは右足親指で、ナースコールは額に付けて使っています。日常会話は、母音を唇で形作り介護者に、母音の形を覚えてもらい「う」の形の時は、ウクスツヌフムユルと言ってもらって「く」と言いたいときは、「く」で、まばたきをします。」唇の動かせない患者には、介護者が「アイウエオン」と言って患者に合図してもらい、母音が決まった五〇音表を横に進んで子音を選びます。もちろんその逆でも良いのですが「ん」を忘れると永遠に話は終わりません。文字盤を使う方が多いのですが、「努力、根性、忍耐」のすべてを欠いた私には向いていないようです。患者も介護者も五〇音表を丸暗記しなければなりませんが頭の体操にオススメです。》(橋本[1997g]cf.橋本・安城[1998])  これでは途方もない時間がかかりそうだが、そうでもない。《ゆっくり話す人だったらこの人にはかなわないほど、ものすごく早く話します》(山口進一[2000])というほどとは思わなかったが、橋本は十分に速く話す。習熟した介助者であり通訳である人が、「ウクスツヌ…」と言いながら、橋本から発せられた字の列を記憶していき、一文になったあたりでまとめて言ってくれる。

【446】 橋本みさお[438]。《現段階で私に残されている機能は、顔の表情を作れることと左足の指でワープロが打てることでしょうか? だからと言って、左足でバチバチとキイ・ボードを叩く図は想像しないで下さいね。かろうじて動く左足第一指の動きを、光センサーが感知してパソコンの障害者用ソフトで変換してゆくのです。私の残存機能で、四〇〇字打つためにおよそ一時間かかりますが、だからと言って五時間で二〇〇〇字と言う計算は成り立ちません。一時間を過ぎると極端に疲労が進み、八〇〇字打ち終わるために三、四時間はかかります。》(橋本[1998a])

 そして橋本みさお(東京都練馬区)[446]が、こうして獲得されてきた自治体の制度を実際に使い、介助のすべてを家族外から得る生活を一九九三年に始めた。
 橋本には会社づとめの夫がいた。橋本はさっぱりと夫――橋本誠[2003] に彼の文章と彼が撮ってきた写真がある――の介助は期待しないことにする。一般に男性の場合には妻が介助者の役を担うことが多い。それが当然だということにもされる。他方、男性の場合、既に退職している人や退職する年齢に近い人であれば事情が違うこともあるが、多くの人には職業がある。だから女性の方に呼吸器を付けずに死んでしまう人が多いのだが(第4章5節)、他から介助を得られるなら話は違ってくる。橋本は女性であったことによってかえってすっきりこの方向で行くことの方に進めたとも言える。そしてなによりそれが可能だった。彼女が住んでいる東京都練馬区は、脳性麻痺の人やその支援者たちが中心になり、東京都でも最も早くに制度の拡充が進んだ地域だった。
【462】 橋本は一九九三年一月に呼吸器装着[254]。その年の五月に。《四ヶ月後に、ようやく家に戻れました。家族三人で、娘も中学校に入って一ヶ月、夫は忙しくしていましたので家族介護は考えていませんでした。MSWが、夜勤の募集広告を福祉系の大学に掲示したところ、四人の応募があったので交代で三ヶ月ほど実習してから退院したのです。尤も、退院間際に突然一人辞めたので、しばらくは三人で夜勤をしなければならず学生は三日に一度の夜勤で大変な負担でした。平日の昼間は、ALS協会から紹介を受けた介護経験者に、土日は民間の看護婦派遣会社にお願いして、ほぼ完璧な二四時間他人介護が実現したのです。》(橋本[1998a])
【463】 家に帰って一年後に『JALSA』に投稿した文章(橋本[1994])ではまだ制度の利用の具体的なところにはふれられていないが、橋本は「さくら会」のホームページで自らの制度の使い方を公表していく。また雑誌の取材を受ける。その一九九七年の記事によれば、練馬区から橋本に月五〇万円ほどが支給され、学生などの介助者への支払いに当てられていた。彼女の二四時間介助を支援する「さくら会」の会員は、予備会員を含め、夜勤一〇名、昼勤五名(橋本[1997h])。
 ここで引いたのは、一九九五年に発刊され、難病治療と看護の記事を掲載してきた――頻繁に「各種難病の最新治療情報」と「各種難病の最新看護情報」といった特集が交替で組まれる――『難病と在宅ケア』が初めて橋本を取材して掲載した記事からである。

 二〇〇一年に橋本は介護保険を月一二〇時間で一日平均三時間、介護人派遣事業を一日一六時間、不足分をホームヘルプサービスを使って暮らす。このことを橋本はALS協会の茨城県支部の総会の講演で話す(橋本[2001a])。橋本がこうして暮らしていることを知らせることによって、また橋本のことを知ることで、このような制度があること、実現可能性がないではないことを知るようになる。
【465】 杉山進[416]、一九九五年一〇月。《橋本さんがくれた手紙で初めて、東京では介護手当が出ていることを知った。》(杉山[1998:50])
【466】 橋本から杉山への手紙。《「進さんの手からは闘志が伝わりましたし、おっしゃりたいことも重く響きました。退院しましょう。人間の忍耐には限界があるものです。[…]/退院の可能性を探ってみませんか? 同封のプリントを参考に、沼津市の現状を保健婦さんに検討してもらい、介護者集めのできる人を探して、見通しがついたら順天堂の相談室のMSWにどこまでバックアップしてくれるか相談してください。その前に平岡さん(協会の理事でもある)に相談すると効果的です。行政に期待はできません。前例がなければ動かないのが行政ですから、進さんが座り込みでもしない限り、沼津市は変らないと思います。練馬の手当も先人がハンストまでして、もぎ取ったものです。すべてが久美子さんの負担になることですから、五割の介護力(家族以外)を確保しないと無理です。》(杉山[1998:208-209]。平岡は帝京大学病院のMSW=医療ソーシャルワーカー)
 そして制度の獲得は全国組織の方針となり、各支部で自治体に働きかけるところが出てくる。

 […]この程度の変更と思われていたのだが、移行直前の二〇〇三年一月、一日四時間程度のところにサービス供給の上限を設ける方針が伝えられた。連日、数多くの障害者が厚生労働省の前に詰めかける大きな反対運動が起こった(その分析として岡部[2004])。この動きを伝えるNHKのテレビ番組で、橋本みさお[466]は庁舎前でインタビューを受け、上限が設定されたらまっさきに死ぬのは私です、と答えている。これは、制度を使いはじめ、それで生きてきたALSの人たちにとって、他の障害の人たちに比してさらに深刻な問題であり、まったく文字通りの意味での死活問題だった。とくにこの時以降、ALSの人たちが介助の制度に関わる動きの前面に頻繁に現れるようになった。

【472】 医師法《四章一七条の「医師でないものは医業をなしてはならない」を根拠に、ヘルパーの医療行為を禁止するなら、早急に、医療行為の必要な患者に対して医師を派遣せねばなりません。/厚生省にたずねると「吸引などは医療行為なので医師、看護婦以外が行なうのは違法」とのこと。[…]/人権侵害と言いたいのは、呼吸器を諦めて死んでいく七割の患者の人権はもとより、患者を家族に持っただけで介護を強いられ、睡眠さえ保証されない家族の人権です。/「家族がいるから介護人を派遣しない」「ヘルパーは派遣するが、吸引は家族がするように」だったら家族はいつ眠るのよー!》(橋本[1998c])

【492】 橋本みさお[472]。《飛行機嫌いの私を、厳寒のデンマークへと引き寄せたのは、一九九九年冬の日の新聞記事でした。そこにはALS患者が、北欧を訪ねた体験談を寄せていたのです。/たしかに福祉先進国かも知れないし、夏の北欧の美しさは想像に難くありません。でもそこに、引用されていた医師の談話の「人工呼吸器は、神の意志に逆らう行為なので、呼吸器は付けない」には、不快感を禁じ得ませんでした。/私達の在宅介護支援は、誰彼なしに、呼吸器を付けて欲しいというつもりなど、毛頭ないのです。「生きたい人が生き、死にたい人が死ねる」といった環境が欲しいのです。/…/およそ国情の違いは、不公平の一言で済まされない、大きな悲しみを発生させるのです。日本には「告知」の壁がありますが、欧米にはそれはありません。日本には呼吸器の選択肢はあるのですが、多くの患者に呼吸器の選択肢は与えられないのです。
 ALS患者の介護を考える時、現実に呼吸器を装着して社会で暮らす人々がいて、その生活を支える家族がいる以上「呼吸器をつけて生命を永らえることは、神の御心に反する」の一文は承服できないのです。もしも、皆様が、学齢期の子を持つ、終末期のALS患者であったならば、親の介護を手伝う子等に「あなたの親が生きることは神が許さない」と言えるでしょうか。》(橋本[2000b:29])
【493】 《東の果てに生まれた私には、デンマークが、暗く淋しい国に感じましたし、漁師の娘としては、気風の良さもメリハリも感じません。/日本は良い国です。まぶしい太陽が、ただですし、取りあえず人は平等です。/今回の発表の後で、ベルギーの患者は、「自分の将来に希望が生まれた」と泣いていましたし、イギリスの医師は、今まで呼吸器はお金の無駄だと主張していましたが、今後は「呼吸器を勧めます。」と言いました。》(橋本[2000c])
【494】 《橋本・熊谷の発表の後、人工呼吸器を着けていないベルギーの患者が「呼吸器」を着けて生きることの意味を見つけることが出来た!」と感想を言って頂いた。その日までのいろいろな苦労を忘れさせる嬉しい感想でした。その後の会食の時に聞いたところによると、医師から「人工呼吸器を着けて生きてどうなるの?」と言われているとの事でした。》(熊谷・熊谷[2001:9])
【495】 《国際会議の二日目に橋本さんと熊谷さんの発表がありました。会議の初日より、呼吸器をつけた患者さんの初参加という事で注目を集めていたため、お二人の発表にも大変な注目がありました。…会議に出席されていた他の国の患者さんにはとても衝撃的だったようで、中でも台湾の女性の患者さんが、「自分には子供がいるのですが、これから病気と闘って生きていく事に大変勇気が持てました。自分が呼吸器をつけることになっても頑張っていきたいです」と、涙ながらにおっしゃっていたのがとても印象的で、意味のある参加だったと実感させていただきました。》(丹保[2001:33])★04

 […]自分自身について、自ら死を決めることに賛成する人、その意志を、少なくとも一度は、表明した人もいる。ALS協会といった組織の中にも様々な意見の人がいる。さらにその組織はALSの人たちだけの組織でなく、関係者すべての団体であり、その人たちが思うことも様々であり、ゆえにそれほどはっきりしたことは言えないということにもなる。ALS協会の会長を長くつとめた松本茂は「大いに反対」と言ったが[483]、今の会長は次のように書いたことがある。
【502】 《帰路、ALS患者にも死ぬ権利があるのではないかなどと、まるで健常者のような考えが頭をよぎりましたが、我が身に置き換えてみると、「余計なお世話よ、私は生きて見せる」と闘志、闘志。/でも、死にたい人は死んでくださいね。ただし家族のために死ぬとか、死にたくないのに死ぬとかは言わないことです。》(橋本[1997g]。[517]に続く部分)
 「死ぬ権利」を肯定していないようだが、すると「死にたい人は死んでくださいね」と辻褄が合うのだろうか、一人の人においても考えは分かれている、と思う人もいるだろう。とすれば、やはり、「選んでもらえばよい」。ここが、ものごとが落着する場所なのだろうか。
 そうではないと私は思う。これまで記してきた、ALSの人たちが言ってきたこと、行なってきたことを見るなら、この落ち着かせ場所はずれている。価値観をさしはさまない情報の提供という言い方はおかしい。このことをこの章では再度確認する。

【509】 「なにより生きることだけ考えていましたので、迷いなどはありませんでした」[254]と書いた橋本みさお[502]は別の文章では次のように記している。《わたくし自身の場合は、発病時に娘が幼かったという家庭の事情があったのですが、なにより「死」ほど怖いものはない臆病な性格のため、分岐点において楽な道を選び続けた結果が現在の姿です。発病七年目で呼吸器をつけて、元気に普通に生きていますし、「死」への恐怖も相変わらずで、自ら死を選ぶ心模様も未だに理解できずにいます。》(橋本[1998a])

【517】 橋本みさお[509]。《MSWの誘いで同じALS患者を見舞いました。/MSWは「反応は遅いけど眼球が動くのよ」と言われるのですが、同じALS患者でいながら、私には最後まで眼球の動きが読めず悔しい思いをしました。/一昨年、広島大学で脳波を感知するパソコンの試作品が完成したと聞いたとき、近い将来そんなものも必要なのかも知れないとは漠然と認識していましたが、まさか今すぐ必要な人が身近に居られるとは夢にも思わず、その患者さんに面会するまで、ALSに必要なものはマンパワーだと信じていました。/あの患者さんが、伝え切れずに生きなければならない様々な思いを考えると胸がつまります。》(橋本[1997g]。MSWは医療ソーシャルワーカー、続きは[502])

 さて、患者がすべからく患者様と呼ばれてしまうこの時代である。編集者だけをさんづけにし敬語を使うというのも妙なものだ。この本を書く時、ずっとすべて呼び捨てできて居心地がわるかったのだが、敬称を略すことによって敬意を表することもあるだろうと思い、通させてもらった。お礼すべき人は多く、それは文献表に出てくる名前の数より多いのだが、なかでも直接にお話をうかがう機会のあった山口衛さん、橋本みさおさん、伊藤道哉さん、山口さんと橋本さんとの会話で通訳をしてくださった方々にお礼申し上げる。

安楽死・尊厳死法制化反対に賛同(2005)

※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172 〜2004.3/基盤(B)・課題番号16330111 2004.4〜2008.3)/グローバルCOE「生存学」創成拠点 2007.7〜2011.3/の研究活動の一環として作成されています。
・作成:立岩 真也
REV:..20011117,18,28,1206,20020710,0727,0813,0911,1015,20030104,0211,0408,11,12,13,0713 0910 1028,1125 20060814,0920,1203 20070214, 0302 20090302, 1208, 20100908, 20130928
日本ALS協会  ◇日本ALS協会東京都支部  ◇ALS  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇WHO

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