HOME > WHO >

原田 憲一

はらだ・けんいち
1929〜


http://d.hatena.ne.jp/gabbard/20120228/p1

◆2011? 「信州大学医学部精神医学講座・講座の歴史」  http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/medicine/chair/i-seishin/history.html

 「以上が25年史のあらましであるが、その後、全国的に波及した大学紛争の渦中にあって、昭和44年西丸教授が退任。以後、しばらく教授不在期を余儀なくされる。この間、当教室では医局講座制にもとづく旧体制を解体し、新たに教室会議が結成された。この教室会議は、教室員各自の主体的参加と責任を前提に、とりわけ人事の公募と互選による民主的運営をその骨子とするものであった。同時にこの運動は、既存の諸関連病院との交流もすべて白紙に戻す型となった。
〈原田教授時代〉
 このような状況下、自らも東大紛争を通過されてきた原田憲一教授が昭和47年に就任。教授は管理者としての責任上、人事上の拒否権のみを要請され、それ以外は教室会議規約を尊重するという態度で臨まれた。研究領域にあっては、教授の専門領域である脳組織病理学の他、精神病理学,精神生理学,精神薬理学に大別され、後三者については各々、新海助教授,田中講師,小片(寛)講師の指導のもとに地道な取り組みがなされだした。
 原田教授は、西丸教授以来のリベラルな伝統を継承されつつ、一方で研究至上主義の弊害をも熟知されていただけに、臨床家としての在り方を最重視する姿勢を堅持され、自らの後ろ姿で講座員を導くという態度で一貫された。この基本姿勢は、当時、基礎学問としての精神病理学の大切さを強調されながらも、そこに治療的視点の欠落していた点を反省されていた新海助教授の歩みとも、おのずと相呼応するものであった。なお、教育面に関し、講座会議から委嘱される型での教育委員会が設けられ、講師以上の三役を中心メンバーとして、各々が役割分担しつつ臨む事になった。この会は、専門領域の異なる各委員が共通の場において情報・意見交換をする中で、おのずと相互の研鑚がなされてもゆく性質のものであった。
 一方、入局者の動向は、平均すると毎年数人前後で、入局後の研修や進路は、基本的な訓練と知識の習得以外、すべて自己決定に委ねられていた。多くは、数年内に第一線現場へと出向く傾向にあったが、その際も当人と病院側との個人交渉が原則であった。
 昭和55年、新海助教授が数々の逸話を残されて退官された。
 やがて、この間の歩みの具体的成果の一つは、教育スタッフの共著による医心理学(朝倉書店)の発刊へと結実。この著書は、主として医学部教養部生及び、広く精神医療に携わるスタッフを対象に、日頃の各編者の講義録を基に編集したものである。昨今、医学教育で重視されだしている「医療者―患者関係」をベースに、医療と医学に関するテーマを各分野毎に扱った内容となっている。なお、この間、当教室関連の学術交流として、第18回日本神経病理学会総会,第11回中部精神神経薬理研究会,第7回日本内観学会,第7回・第8回精神病理懇話会(第7回会長:宮坂松南病院長,第8回会長:片桐小諸療養所長)等が開催されている。また、昭和56年、信州精神科医会を母体に信州精神神経学会が再発足し、今日に至っている。
〈融教授時代〉
昭和59年、原田教授が母校東大の教授へと転任。」

■著書・他

◆原田 憲一 20081225  『精神症状の把握と理解』 ,中山書店,296p. ISBN-10: 4521730760 ISBN-13: 978-4521730769 3200+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆原田 憲一・小片 寛・湯沢 千尋・巽 信夫 19860215 『医心理学――現代医療における人間心理』,朝倉書店,158p. ISBN-10: 4254300212 ISBN-13: 978-4254300215 2600+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆原田 憲一 編 19780910 『症状精神病――身体疾患の精神症状』,国際医書出版,精神医学叢書,495p. ASIN: B000J8HQZU [amazon] ※ m.

原田 憲一(前東京大学教授)・岡田 靖雄(精神科医療史研究会世話人/元・荒川生協病院医員)・松下 正明(司会)(東京都立松沢病院院長) 20030310 「わが国の精神科医療の歴史をめぐって――『日本精神科医療史』発刊に寄せて」(座談会),『週刊医学界新聞』2526
 http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2003dir/n2526dir/n2526_01.htm

■言及

◆原田

 「一九六八年の「長崎学会の前日、すっぽん会の人たち[…]は、お寺に集まって、学会対策について話し合った。評議員の岡田、江熊が、学会評議員会における非力を述べたあと、新顔の金沢彰がパンフレットを持参して、学会認定医反対の意見を述べた。全国大学精神科医局連合(通称、医局連合、委員長原田憲一)の若手、樋田精一ら多くの参加があった。シンポジウムでは、金沢の発表が多くの支持を得たと思える。総会では、すっぽん会と医局連合が相次いで発言し、認定医制の決議は不可能となった。一九六八年の学会評議員選挙には、すっぽん会推薦候補が何人か当選した。」(小池[1989:44]、高岡[2010:36]に引用)

◆1969

「★33 一九六九年二月一九日、 東大病院で春見健一医局長ら医局員数人と、医学部学生が小競り合い。三月一一日、東大当局が事件をめぐって退学四名を含む一七人の医学部学生の処分を発表したが、「事件」現場にいなかった学生も処分対象となったことから、闘争が更に激化することとなった。
 「その頃、事件の真相はわたくしたち医局員にもよくわからなかった。しかし、事件の当日、九州でオルグ活動をしていたという医学部三年生の粒良君が、事件の直接参加者として処分を受けているという噂、それに続く同君のアリバイ発表と不当処分にたいする抗議の集会は、わたくしに強い衝撃を与えた。
 わたくしには、当然のこととして大学当局が調査活動にのり出すべきもののように思われた。しかし[…]」(高橋[1969:285])
 「処分された学生のなかに、その日は久留米大学にオルグに行っていたという者が出てきた。それは医学部三年生の粒良君だった。私たち古い医局員たちは迷った。いったいどちらが真実なのか、と。私は旧革新的教授グループが現地調査を医共闘に申入れる橋渡しをし、彼らがそれを受入れたあとでその教授グループが不当にも調査を断ったところで、おせっかいにも精神科の原田講師(現・信州大学教授)をさそって久留米へ出掛けた、ということなのである。
 結局は、奇跡でも起らないかぎり、粒良君の主張を反論することは不可能であった。それは、「高橋・原田レポート」に詳細に書いてあるとおりである。」(高橋[1973:217])」

◆藤澤 敏雄 19981110 『精神医療と社会 増補新装版』,批評社,431p. ISBN-10: 4826502648 ISBN-13: 978-4826502641 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m. m01h1956.

 「国立武蔵療養所が、一九六六年一二月に策定した「国立武蔵療養所生活療法要綱」の改訂を行うことをきめたのは、一九七二年のことである。この詳しい経緯は、改訂のための討論を主催して来た当時の作業医長原田憲一の文章「武蔵の『生活療法』――その旗を捲くにあたって――」と、所長秋元波留夫の「作業療法をみんなで考えよう」という文章にほぼ明らかにされている。これは、「生活療法」という言葉を武蔵療養所の治療活動からなくして、作業療法とレク療法に還元し、同時に精神科看護の独自の展開を期待することを目標としていたのである。この討論は、約二年間にわたって行われたものであり、武蔵療養所の五年間の活動の展開が必然的にもたらしたものであった。小林が指摘するように、決して「上位にランクされる者」が勝手に決定をしたことではない。「精神医療の基礎を考える会」というまったく自主的な研究会の討論や、インフォーマルではあっても医務課長が主催する「治療活動会議」という多職種の参加する会議、あるい<0387<はフォーマルな会議などでの長期間にわたる会議での討論の結果なのである。おそらく、小林の病院管理作法からは考えられない民主的で活発な討論のつみ重ねが、みちびき出したことといってよい。
 もちろん、その討論が十分に根底的なことに触れて、「ゲーテに、つくりかえられることによって、つくりかえられる話があります」という林の指摘するところまで問題が掘りさげられたわけでは決してなかったことは明らかであり、原田のあとをついで作業医長となったいまは亡き石戸の文章に、その困惑がよくあらわれているのである。

「昨今、何かにつけて生活療法が批判されるのは、むしろ今日的状況に因するところが大きいのではないでしょうか。一方では生活療法そのものが手アカにまみれ、他方では、科学方法論や人間認識の常識さえもが見失われ、混乱しているような”精神医学”が横行しているという今日的状況を考える時、私はいっも肝腎な点が素通りされている様な気がしてならないのです」
と石戸は記している。
 石戸は、当時武蔵療養所の中毒専門病棟の医長を一年間ちょっと体験しており、作業医長を兼務するにあたっての感想を語っているのである。一九七二年に日本精神神経学会が「生活療法とは何か」というシンポジウムを行う前に書かれた文章であり、石戸が指摘している精神医学の状<0388<況は、一九六九年以来の精神神経学会闘争とそれに関連した動きについてのことなのである。明らかに、学会闘争についてにがにがしい思いを抱いているわけであり、それだけでなく、武蔵療養所の臨床現場で起こっていたことについても同じように感じていたのであろう。
 さらにつけくわえておけば、原田は発言を次のようにしめくくっている。

 「正直のところ私の心の片隅には『今の時点で旗をおろして本当に正しかったのだろうか? 旗は立てたまま、後門旗がみえなくなるところまでわれわれが前進すべきなのではなかったか?』という思いが今もかすかにある。私の心配が杷憂であることを――すなわち、武蔵において、生活指導、作業療法を、今後さらに広げ深めていく上に、生活療法の旗をおろしたことが役立つことを切に願う」
 この原田の感慨は、そのあとの武蔵療養所における治療活動の推移について、なにがしかの予感を抱いていたのではないかとさえ読みとれるのである。原田は一九七二年二月に武蔵療養所を去って信州大学へ移ったのである。
 石戸の精神医療状況に対する反応を根底にすえたためらいと、原田の杷憂と対比すると、同じ時期の秋元の論述はまことに明快である。前述の文章*16において、秋元はこう書いている。
 「『生活療法』の作業・レク療法への還元は同時に『生活指導』の看護への還元を意味する。『生活療法』のなかで空文化され、よどんでいた『生活指導』は理念の上でも実践の上でも<0389<精神科看護の基本問題として問い直されなければならない。この場合、もっとも大事なことは精神科看護における『生活指導』とは何かが個々の患者の看護場面で具体的にとりあげられなければならないということである。そして『生活指導』という言葉や理念が精神科看護の実践で通用しなくなる時に、ほんとの精神科看護が成就するだろう」
というのである。その文章のトーンは断固として明快なのである。それだけでなく、論理としても、とりわけ後段は実に見事でさえあるといってよい。これは、立場や考えがちがうとはいえ、石戸や原田の論調と比べるときわだっていることである。
 原田は武蔵療養所の治療活動が、活発なひろがりを持ちはじめ、自由な討論と実践が展開した時期に在職をしていた人である。そして、一九七〇年にはじまった専門病棟設立の動きを同時に経験し、武蔵療養所の運営全体のあり方についても心をくだいた人であった。したがって、原田の杞憂は武蔵療養所の開放化と自由化の流れと新しく登場して来た専門病棟群の開設・純化の流れとが、どのように矛盾なく展開していくかについて誰しもが危倶の念を抱きはじめていた状況の中で生じたものだと考えてよいのである。一九六六年に武蔵療養所に着任した秋元は、それまで生活療法発祥の地といわれていた武蔵療養所にさしたる関心を抱いていなかったと語っているが、着任早々にその広大な敷地に着目して、精神医学に関する総合的な研究所の設置を夢みたのである。同時に、武蔵療養所の静穏さにあきたらず、治療活動の活性化を考えたようである。そ<0390<のニつの願望を実現するために、ほぼニつにわけられる人事配置を行ったのである。ひとつは生物学的研究に専念して来た医師たちを中心とし、一方では臨床派ともいうべき医師たちであった。原田はそうした新しい医師たちの中でも、研究と臨床のそれぞれに行きとどいた配慮のできる数少ない上級医師の一人として赴任した人であった。原田が作業医長をやめて大学へ去ったのは、ふりかえってみれば、武蔵療養所にとってかなり深い意味をもった出来事であったといってよい。」
*7 原田憲一「武蔵の一生活療法――その旗を捲くにあたって」、「むさし」5巻2号、一九七ニ

◆神田橋 條治・八木 剛平 20020219 『対談 精神科における養生と薬物』,メディカルレビュー社,199p. ISBN-10: 4896008278 ISBN-13: 978-4896008272 1890 [amazon][kinokuniya] ※+[広田氏蔵書] m.

 「八木 神田橋先生はどこから方向転換したんですか。主流派から少数派へというか。主流派じゃないところに。悩んでいた時期があったとどこかに書かれていたけど、留学から帰ってきてからですか?
神田橋 その前です。やっぱり大学紛争だ。[…]ちょうど一番若い助手の時だ。僕は体制側です。つまり保守陣営。だけど、僕は反体制側の人たちの言うことに実に共感できるものがあってね。僕がやっている”精神療法”と”洗脳”とどこが違うかと考えたりしてね。その時ですね。自分の生涯として選んだ道についてかなり考えてね。
 それと、もっと前からあったんですが、精神病理学は器質的な要因から除外したあとにしか通用しないような情けないものが多いんですね。原田憲一先生の書かれた本に接して原田先生のファンになったんだけど、器質的なものをちゃんと把握出来る症候が乏しくて。それを見つけたいと思うんです。身体的な病理を見つけるための症候学、そちらまでカバーできる技術がほしい。だから精神分析の病理学ばかりにはまる気になれない。」(神田橋・八木[2002:79-80])

◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※


UP:20130509 REV:20130801, 05, 14, 0925
精神障害/精神医療  ◇WHO 

TOP HOME (http://www.arsvi.com)