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早川 一光

はやかわ・かずてる
1924〜

last update:20140811

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◆『早川一光のばんざい、人間』
 http://www.kbs-kyoto.co.jp/radio/hayakawa/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E4%B8%80%E5%85%89

 「早川 一光(はやかわ かずてる、1924年 - )は、愛知県東海市出身の医師。
 京都府立医科大学卒業後、京都市上京区西陣に住民出資の白峰診療所を開設。白峰診療所は西陣健康会堀川病院に発展し、院長、理事長を歴任、「自分の体は自分でまもる」をスローガンに、住民主体の地域医療に専念してきた。1997年から2003年までは、京都府美山町美山診療所で、農村での地域医療に携わってきた。
 現在は、1988年に立ち上げた総合人間研究所所長として、各地で講演活動を行う一方、わらじ医者よろず診療所を開設、医療相談も行っている。
 また、1987年より毎週土曜日(午前6:15 - 午前8:25 JST)に、KBS京都ラジオで「早川一光のばんさい、人間」で番組を持っている。
 1980年、「わらじ医者京日記」で第34回毎日出版文化賞を受賞。1981年にはこの本を題材にしたNHK連続ドラマ『とおりゃんせ』(田村高廣が主演)が放映された。地道な地域医療を実践していることから、「わらじ医者」と言われている。」

◆立岩 真也 2014/09/01 「早川一光インタビューの後で・1――連載 103」『現代思想』41-(2014-9):-



1924生 
1948 京都府立医科大学で8人の学生が放校処分を受ける→復学運動
1948 京都府立医科大学卒業
1950 京都・西陣に住民出資による白峰診療所開設
19550826 幸恵と結婚(中里[1982:109])
1957 長女誕生(中里[1982:109])
1957 市議会議員に当選
1958 堀川病院開設、副院長に(25床・3階建(中里[1982:110])
1959 次女誕生(中里[1982:109])
1961 堀川病院京都民医連を脱退
1966 堀川病院北分院開設
1977 高齢者相談(京都新聞社社会福祉事業団開設)老人ボケ相談を担当(早川[1979])
1982 ドラマ人間模様『とおりんゃせ』放映(早川[1979:389-391]
1987 KBS京都ラジオ「早川一光のばんさい、人間」始まる
1984 堀川病院の院長・理事長を退任し顧問に
1988 総合人間研究所開設 所長
1997〜2003 京都府美山町美山診療所で農村での地域医療に携わる。
1998 京都府美山町の美山診療所の公設民営化に従事、所長を務める
1998 堀川病院「院外処方」を一方的に通知
1999 堀川病院顧問を辞任
2002 京都・衣笠に「わらじ医者 よろず診療所」を開設

■著作

◆早川 一光 19790915 『わらじ医者 京日記――ボケを看つめて』,ミネルヴァ書房,384p. ASIN: B000J8EQ8K 1200 [amazon] ※
◆早川 一光 19800915 『続 わらじ医者 京日記』,ミネルヴァ書房,248p. ISBN-10: 4623013219 ISBN-13: 978-4623013210 980 [amazon][kinokuniya] ※
◆吉沢 久子・早川 一光 編 19820620 『銀の杖』,自由企画・出版,223p. ASIN: B000J7H4I0 [amazon] ※
◆呆け老人をかかえる家族の会 編/早川 一光 監修 19820715 『ぼけ老人をかかえて』,合同出版,242p. ASIN: B000J7MZ48 \1260 [amazon][kinokuniya] ※ a06
◆早川 一光 編 19830415  『ボケの周辺――老いを支える人間もよう』,現代出版,234p. ISBN-10: 4875972105 ISBN-13: 978-4875972105 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19830525 『親守りのうた』,合同出版,205p. ASIN: B000J7EN1Q 900 [amazon] ※
◆早川 一光 19830701 『ボケてたまるか!――早川一光講演録』,神奈川県老人クラブ連合会,65p. ISBN-10: 4915245233 ISBN-13: 978-4915245237 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19840420 『ポックリ往く人逝けぬ人』,現代出版,222p. ISBN-10: 4875972148 ISBN-13: 978-4875972143 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19850301 『ぼけない方法教えます』,現代出版,238p. ISBN-10: 4875972180 ISBN-13: 978-4875972181 1000 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19850320  『ぼけの先生のえらいこっちゃ』,毎日新聞社,245p. ISBN-10: 4620304697 ISBN-13: 978-4620304694 [amazon] ※
◆早川 一光 19860822 『畳の上で死にたい』,日本経済新聞社,205p. ISBN-10: 4532094240 ISBN-13: 978-4532094249 980 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19890501 『長生きも芸のうち――となりのおばあちゃん』,小学館,221p. ISBN-10: 4093870454 ISBN-13: 978-4093870450 951+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19900620 『おいおいあんなぁへえー』,発行:京都21プロジェクト,発売:ふたば書房,222p. ISBN-10: 4893201255 ISBN-13: 978-4893201256 971+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19911125 『ほうけてたまるか』,労働旬報社,214p. ISBN-10: 4845102218 ISBN-13: 978-4845102211 ※ 1262+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19920410 『ボケない話 老けない話』,小学館,213p. ISBN-10: 4093870845 ISBN-13: 978-4093870849 1100+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19951001 『ボケないひけつ教えます――看護と介護の道を歩く人たちとともに』,小学館,221p. ISBN-10: 4093871671 ISBN-13: 978-4093871679 1165+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19960115 『わらじ医者健康問答』,発行:京都21プロジェクト,発売:ふたば書房,237p. ISBN-10: 4893201573 ISBN-13: 978-4893201577 1456+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19960915 『いきいき生きる――人間学のすすめ』,京都新聞社,207p. ISBN-10: 4763804030 ISBN-13: 978-4763804037 1456+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19980925 『お迎え来た…ほな行こか――老いと死、送りの医療』,佼成出版社,214p. ISBN-10: 433301865X ISBN-13: 978-4333018659 1400+ [amazon][kinokuniya]  ※
◆早川 一光 20030930 『大養生のすすめ』,角川書店,236p. ISBN-10: 4048838474 ISBN-13: 978-4048838474 1400+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20031010 『老い方練習帳』,角川書店・新書,203p. ISBN-10: 4047041475 ISBN-13: 978-4047041479 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20031120 『人生は老いてからが楽しい』,洋泉社,205p. 1300+ ISBN-10: 4896917707 ISBN-13: 978-4896917703 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20040810 『ほな、また、来るで――人を看るということ』,照林社,311p. ISBN-10: 479652083X ISBN-13: 978-4796520836 1600+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20041105 『お〜い、元気かぁ〜――医の源流を求めて』,かもがわ出版,203p. ISBN-10: 4876998434 ISBN-13: 978-4876998432 1700 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20050210 『老いかた道場』,角川書店・新書,218p. SBN-10: 4047041912 ISBN-13: 978-4047041912 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20050515 『ひろがれ、ひろがれ九条ねぎ(祈ぎ)の輪――早川一光 憲法わいわい談義』,かもがわ出版,79p. ISBN-10: 4876998787 ISBN-13: 978-4876998784 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20080410 『わらじ医者 よろず診療所日誌』,かもがわ出版,157p. ISBN-10: 4780301750 ISBN-13: 978-4780301755 1500+ [amazon][kinokuniya] ※

■言及

・〜1945〜

「早川 いやいや、そのころ〔早川が白峰診療所に行ったころ〕には社会運動をなさっていた先輩がたくさん復員して帰ってきてまして、いずこからともなく現れて(笑)、私たちに教えるわけですね。そして、「おまえ、あそこの診療所へ行け。おれはここだ」といった調子で決めていくわけです。そうやって学生運動を続けてきた連中が行った診療所が、京都における医療民主化の火付け役になっていますね。
 もっとも、私たちがその民主化運動のパイオニアかというとそうではないんですよ。あの戦時中の厳しい統制のもとで民主的な医療をやってきた、いわゆるヒューマニストの先輩がいたんです。宗教的な見地から民主化運動を実践なさった先輩がいた。これが私たちこち指針になりましたね。あの人たちがいなかったら、あんなにすんなりとはできなかったと思います。
鎌田 それは戦前から?
早川 戦争中ですね。亡くなられた松田道雄先生(小児科医・思想家)などは「結核というのは社会的な疾患である」と西陣の結核問題に取り組み、憲兵に目を付けられて一年ほど監獄に入れられている。そういう先輩が京都にはいたのですね。松田先生の実践や左久病院の若月俊一先生の取り組み――「農民と共に」ですね、これが私たちの指針だった。▽141 ▽142 若月先生が農民のなかにというのたったら、私も町衆のなかにありたい。そんな気持ちで燃えに燃えていたわけです。
鎌田 先生が西陣へ出るときには、若月先生の信州での活動をご存じだったのですか。
早川 風の便りで聞いています。お会いしたことありませんでしたが、そういう先輩から学んでいますから。奈良とか大阪には、いわゆる無産主義者がいるわけです。同和地区などで活動しており、若い私たちは大きな影響を受けています。当時の住民は生活が苦しく、シャウプ税制ですか、むちゃくちゃな税金に耐えられない。そんな現伏のなかで、自主申告をめざす納税の民主化と、国民皆保険をめざす医療の民主化に住民が乗り出す町衆運動が盛り上がっていくわけです。それと私たちの学生運動が結びついていく。税務署が入つて子どもの三輪車を差し押さえたというので、出かけたこともあります。税務署の車の前に寝転がって、轢くなら轢いていけと……。」(鎌田・早川[2001:140-142])

 「京都府立医科大学では、1945 年11 月に学生自治会や大学構成諸団体による自治組織が発足し、学内の民主化運動(教授会の公開、入院患者の給食要求など)が活発になっていた(京都府立医科大学百年史編集委員会 1974)。こうした一連の学内民主化運動に対し、大学側は、1949 年11 月11 日、学生や、学生を支持した教授や医局員に、放学・休職を命じた10。この中に、後に堀川病院院長になる竹澤徳敬(当時、京都府立医科大学付属女子専門部教授)や、白峯診療所の設立に関わった早川一光(当時、京都府立医科大学付属病院外科医局員)がいた。早川は、在学中に終戦を迎え、民主化運動が盛んになるなか、学生自治会の設立に関わった。学生運動を通じて、「人民の手による人民のための政治」が民主主義であるとの思想をもった早川は、自分たちの生活は自分たちで守る住民運動に、医療における「民主化」の意義をみいだしている(『西陣健康会だよりほりかわ』 第224 号 1985 年9 月10 日)。」(西沢[2011:214])

 「敗戦で正しいことが正しくなくなる
 1945 年(昭和20 年)8 月15 日、日本は戦争に負け終期末を迎えました。日本人はどん底に、食べるものもない、住む家もない、親族の誰かが死んでいました。残されたものはどうするかが問われました。民主主義はアメリカから入ってきました。それまで正しいと思っていたことが正しくなくなったのです。自立、自主、共生という考え方がデモクラシーでした。下から、自己主張をせよ、労働組合や生活と健康を守る会、学生運動などまとまれ、団結せよと立ち上がりました。
 学生時代に本当の民主主義を考える
 私は戦時中は医学部時代かくれて部落の医療などに手を差しのべました。トラホームや 結核などの対策で、社医研などは、アカと言われ憲兵がやってきました。京都府立医科大学で学生自治会を作りました。自治会運動をやり民主主義を考えました。自ら求めていく、学問も親から言われてするのは間違い、大学でも自ら行く、これが本当の民主主義だと思います。」(早川[2009]



 「戦後まもない京都では、健康保険制度の普及につれて医師運動の柱として保険医協会は「医師の主体性の確立」を強く主張した。
 健康保険の赤字を理由にともすれば制限治療、統制医療の強化される中で、京都独得の反官僚・反中央の土根性は、二枚腰のような反骨の抵抗運動を起こした。
 私たちの病院のの竹沢院長たち在野気骨の師が
「医師の主体性仕が守られてこそ、患者のいのちが守られる」
 と主張して確信をもって、医療の民主化の波を起こしていった。
 それは医師の「良心」を守る運動でもあった。
 当時、政府は「国民皆保険」の制度化を急速にすすめていた。国民から一定の保険料を▽110 徴収し、国は補助費を出して、乏しい財政の中から、国民はどこかの健康保険に入る皆保険の制度を推しすすめていた。
 確かに”誰でも医療にかかれる”一応の保障は国民の要望でもあり、国民のいのちを守るのにすばらしい効果があった。
 日本人の平均寿命は目にみえてのびていった。
 しかし、乏しい国の補助では、国民保険はいつも赤字の運営にさらされた。
そのしわよせは、うなぎのぼりに高くなる国民の負担と、診療をあずかる医師側に、強く寄せられていった。
 現場での医療は、同じカゼでも、病人のひとりひとりの顔がちがうように、患者の生活・体質・環境によってみなちがっている。従って治療の仕方も内容もちがって当然である。
 ところが、保険制度となれば、その制度の一定の方針の中で、自ずときめられたワクの中で医療が行われざるを得なくなる。
 今までのような、医締ひとりひとりの特技、治療に対する方針はだんだんと認められなくなって、型にはめられた通り一ぺんの治療を余儀なくさせられる。
 これは医師にとっては「苦痛」であった。まして、往診は何キロまではいくら、診察料▽111 何時まではなんぼ、この薬は何グラムまでこれだけと報酬がきめられれば、好むと好まざるとに拘らず、収入の少ない医療行為はしなくなり、労力の多くかかって保険の評価の少ないことは避けようとする。
 医師も人。医者も労働者。生きていく権利があり、休む権利があるとなる。
 生活保護法による医療は、一番ひどかつた。「生活保護の患者は、必要最低の医療を行うべきだ」との厚生省通達が私たちにおりている。
 「何たる事だ! 生活を保護しなくてはならない患者こそ、最高の医療であるべきだ。食うに困っておればこそ、栄養もおとろえている。最高の食事と、充分な手だてが必要だ」と私たちは、どんどんと治療をした。
 何回も呼び出され、「濃厚治療だ」「過▽112 剰診療だ」と言われた。「何さ」と私たちは、生活保護患者友の会をつくって、患者さんと一しょに交渉してゆずらなかった。京都の人たちは、この運動を影に日なたに応援してくれた。これを、
 私は「都びとの反骨」と呼んでいる。
 戦後の医師会運動を指導した竹沢院長は、「医師の主体性」を主張すると同時に、「医師の果すべき社会的な責任」をも医師運動の中で提案して実行をせまっている。
 医師会の手による休日診療体制、看護、検査、放射線技師教育、医師会オープン病院、医師会主導の地域医療活動等々……。
 しかし、その主張は医師の生活権保全の運動の強さにおされて、その頃は容易に実現されなかった。
 医療機関の日本一多い京都が、土曜、日律曜、深夜、お正月には無医村に近くなる時もあった。
 私は、医師の主体性の圧迫は、「医療の萎縮」を呼び、患者の主体性の無視は、「医療の不信と荒廃を来たす」――
 と思っている。」(早川[1980:109-112])

・1950

 「1950 年、800 人ほどの住民の出資によって、3 万8 千円の基金が集まり、白峯診療所が開設された。10 畳一間、診察台は机の上に置かれた一畳の畳であった。医師は早川のほか、陶棣土(当時、京大結核研究所)、村上勉(当時、京都大学インターン)、そして、市内で小児科を開業していた松田道雄や耳鼻科を開業していた竹澤徳敬が後押しした(『西陣健康会だよりほりかわ』第170 号 1981 年3 月10 日)[…]
 白峯診療所が開設された1950 年、西陣地区には、5 月に仁和、9 月に待鳳、12 月に柏野の各診療所が、生活を守る会や健康会が基盤になり、住民出資によって設立されている。白峯と同じように、京都大学や京都府立医科大学をレッド・パージされた医療者たちが参加した。この4 つの診療所が、1951 年に「関西民主的病院連合会京都支部」を結成し、1953 年には、京都府・市内の「民主的11」といわれた診療所や開業医とともに、「京都民主的医療機関連合会(以下「京都民医連」と略す)を結成した。現在の京都民医連の母体である(『堀川新聞』 第32 号1962 年2月10 日)。この背景には、当時の蜷川虎三府政12 の影響が少なからずあった。蜷川府政は中小零細業者の擁護と保険医療を守る施策を打ち出しており、中小企業組合や京都府医師会も蜷川府政を推していた(京都府政研究会1973)。このような背景のもと、白峯診療所は、住民出資・医療懇談会・住民優先の理事体制を理念としてもち、運動を展開していった。」(西沢2011:214])

 「京都府立医大を卒業した早川が、西陣の一角に白峰診療所をつくったのは、一九五〇年のことだ。
 西陣は、医大の医局にいたころから、よく診て回った。まだ健康保険制度もないころ、健康だけが”資本”の住民が貧しい生活の中から資金を出し合って、ここに診療所をつくったのだ。民家を借り受けた六畳の診療室と、二畳の待合室。早川と当時まだ二十歳だった妻・幸恵は、その日から、診療室にとどまらず、一軒、一軒住民の健康状態を聞いて回った。
 しかし、老人は医者に診せずに寝かせておき、一家を支える働き手であっても病状が重くなるまで放っておき、仕事ができない状態になるまで病院へは行かない――というのが西陣ではごく普通のことだった。
 だから、病気のご用聞きのような仕事には、「よけいな事をするな」と追い返されるのが関の山だった。塩をまかれた、「疫病神!」とどやされることすらあった。
 診療所に来る患者といえば、生活保護世帯の人ばかり。当時の早川は、月給三千円ということだったが、三年間は生活費らしきものが妻の手に渡ったことがなかった。
 ▽197 そのころ生まれた長男が、幽門狭窄で、府立医大病院に入院したころは、早川の生活はドン底になっていた。
 「給料がもらえなかったので、医療保護を受けに行ったら、「医者に保護を出したことは一度もない」と言われました。しかし、収入はないんだから、結局、保護は受受けましたよ。今になると笑い話ですが……」
 数少ない着物も質で流してしまった妻は、公園でパンを売り歩いた。一個九円で仕入れたクリームパンを十円で売る。これで得た一日二百円程度の儲けで、三日間生活するという暮らしだった。」(中里憲保[1982:106-107]

・1957 市議会議員に当選

「早川 […]税務署がくると、石油缶か何かをガンガンガーンと叩いて知らせるんです。それを私たちは聞きつけて、出て行って、あれが楽しかったな(笑)。その辺は民主化なんていう大げさな理論ではなくて、困っている人たちを黙って見ているふりはできないということかな。自分たちの生活だけを守るという運動ではなくて、「困っている人は皆一緒や」という連帯感が強かったですよね。あのなかから生まれてきた京都の民衆運動が、いわゆる民医連(日本民主医療機関連合会)の中核になっていくわけです。学区ごとに民衆の診療所ができていって、それらのユニットが民医連というかたちになっっていくんです。
 そのとき、大いに議論されたのは、「民主医療」なのか「民主的医療」なのかということです。民主医療にこだわる共産党の主張と、民主的な幅広い戦線をめざす開業医らも含めた主張が激しくぶつかり合った。
鎌田 どっちになったんですか。
早川 民主的医療なんです。開業医の先生のなかにも非常に憂丸た光圭がおられて、一緒にやろうということになったんです。これに党が反対するわけです。大衆追従だとね。
鎌田 党が組織を守るために、一人ひとりの思いを無視していくようになるんですね。政党というものは、どの党もこういった体質を持っているのですが、特に共産党はこれが強い。主張していることはいいことが多くても、ぼくはずっと肌が合いませんでした。それ▽143 で先生は、党からだんだん離れていったわけですね。
早川 私自身も党の一員で、中央の決定には従わなければなりません。基本的にはアンチテーゼを出しながらやったのですが、大衆追随主義だ、党派性が失われるという批判が出てくるわけです。私ら、全然妥協しませんでしたけどね。政党からみれば困った存在だったかもしれない。[…]
鎌田 京都の民医連から市議会議員に立候補されてますよね。あれは何歳のときですか。
早川 三三歳でした。そんな暇があったら往診するといったんですけどね。政党の勢力が拡大しても、住民自身が自分たちの暮らしを守るという意識変化を起こさない限りは世のなかは変わらない。ただ支配者が変わっただけ。真の民主化は住民からはじまるんです。
 でも、「おまえの医療が本当に住民に支持されているかどうか、住民に間うてみろ」といわれて、結局出馬したんです。選挙はおもしろかったですね。「私は議会に出るけれど、私が政治をするのではない。住民の皆さんが政治をずるのだから、必ず議題をあなたたちにところへ持っていく。自主的に市政協議会をっくって、議案を出してくれ。私は住民の意思を議会に持っていく」といって選挙戦をしたんです。「私ではダメだと思ったら、いつでもリコールしてくれ。それが民主主義だ。早川先生に治してもらったご恩があるから一票入れようなどとは考えるな」ともいいました。それではカにも何もならないですから。」(鎌田・早川[2001:142-143])

・資金

 「はいえな
 だんだん、西陣の人々との触れあいが深まっていった。”頼りになる診療所”から、やがて”ガよすがになる診療所”になっていった。”それでは病院をっくろうか”と理事会でもきまった。地域の人たちも”あんな診療所が病院になったら”と望んだ。こんどは千円、二千円とみんながお金を集め出した。気の遠くなるような運動だった。
 生活保護をもらっている一人ぐらしのおばあさんが、往診の時ふと私にことばをかけた。
 「セソセ、病院をつくらはるそうやな」
 「うん、入院もできん人たちが多いさいなァ」
 「わても出すさかい。センセ、わてに何ぼぐらい出せ言わはりますな」
 「うん、そうやな。おばあちゃんはひとリやさかいな。これぐらいええ」
 と私は指を三本出した。つめに火を灯すような生活の家。三百円でも言い過ぎたかと拾汗をかいて、指を出した。心を見破ったか。
 「三百円ぐらいで、センセ、病院建ちますかいな。あほな」「あさって、おいでやす。用意しときます」とおばあさん。
 後日、ひよっこりと家を訪ねた。新聞紙に無造作に包んだお金が古びた長火鉢の上に置いてあった。三十万入っていた。
 「何やな、これ」
 「わては、ひとりぐらしどす。いつ死ぬかわかりません。もしものことがあったらご近所に迷惑をおかけしますさかい、これで葬式してもらおうと、始末してためておいたもの。
センセが病院つくらはるんやったらお使いやす」
 私は手が震えた。
 ――病院づくりにはぜひ欲しいお金。しかし、しかし、このお金をいただいたら……。このお金に手をつけたら、もう病院はつぶせない、もう私は西陣から去れない。なぜなら、このお金はおばあさんの死に金(葬式代)だから。
 どうしようと一瞬迷って、おばあさんの目を見たらけ"アソタハンニオマカセシマス”と▽067 澄んでいた。「もらいます。おばあさん!」と言って私はカバンに入れた。
 もうその時、私はこの病院から離れるわけにはいかなくなった。少なくとも、こういういおばあさんの死をみとらん限りは、西陣を去るわけにはいかなくなった。このおばあさ人は、その時ぽつりと私に言った。
 「センセ。病院はな、外からはつぶれませんえ。つぶれるんやったらけ”うち”からどっせ」と。
 この言葉は、いまも私の頭の中に焼きつくように残っている。
 このおばあさん、やがて出来上がった新しい病院で、職貝のみんなの手厚い看護に見守られて老衰でなくなった。
 おばあさんがなくなっくから、親類と称する人々が現れてくる。「私はおばあさんの――に当たる」「僕はおばあさんの〇〇だ」。生前、何ぽかの財産分けてやると言▽068 われたという。まくら探しのように家の中を探し、三十万円の預かり証を見つけ、返済金を持って消えていってしまった。私は「これでいい」と思った。
 「こういう世の中だからこそここで医療するんだ」と私は思った。
 ここに私たちの病院の意義があるとも、思った。」(早川[1980:109-112])

 「山本こまさん、八十二歳のおばあさんだった。二十数年前のこと。小川通り、千家七近く、ひときわ低い格子戸が小さくひそと開いていた。そこに、これまたねこ▽291 背の小さなおばあさんが、いっも古い長火鉢(ばち)のそばに座っていた。
 おばあさんは、いついってもひとりであった。二間(ふたま)しかないひとりぐらしのおばあさんの家は、いつもきれいに掃除がきとどいていた。どうしておばあさんがひとりなのか、私は聞きただそうとも思わなかった。そんな湿っぱさは少しも感じさせなかったからだ。
 私は、せっせと往診かばんを自転車につんで、おばあさんの家に通った。おばあさんせは心臓が悪くて、歩けなかったからだ。おばあさんは医療保護な受けていた。
 「おばああさん、どーえ、きょうは。気分えーか」
 「ええ、おかげさんで」
 おばあさんは、いなかの神社の狛犬(こまいぬ)のような鼻に、しわを寄せて笑つた。ある日、往診した私におばあさんが之「センセ、病院たてなさるそうやな」と言った。
 「うん」「みんなが、お金出しおうてなさるそうやなな」「うん」「わても、少し出さしてもらいまっさかい。なんぼほど、セソセ、出したら」「おばあさん、無理せんでええ」
 ▽220 「そんでも、お世話になってまっさかい」「そうやなあ。おぱあさんひとりやさかいなあ。これくらいか」
 私はおずおずと指二本出した。二百円でええ、と心で言うた。おばあさんの狛犬の鼻が笑った。
 「センセ、そんなもんで病院たちますかいな、アホな」
 あさって用意しとくさかい、ついでに取りにおいでやすと言わhれて、ぜんぜん忘れ、ていた。
 往診にいった日、長火鉢の上に古新聞が丸めておいてあった。「これお使いやす」「なんや、これ」となにげなく開くと、二十万円が入っていた。
 「おばさん、どなんしたんや、これ」といえば、「わてはひとりぐらし。いつ死ぬかわかりまへん。ひとりで死んでたら、ご近所に迷惑をかけます。その時の葬式代。お使いやす」と。
 「うーん」と考えこんで、私は、「よしや、もらうで」と言った。
 こう言い切った時から、私は西陣を離れられなくなった。」(早川[1985:219-220])

・1958 堀川病院開設、副院長に

 「鎌田 住民が主人公の医療としての実践についてはだいぶわかってきたのですけれども、やはり経営や運営的なことを考えると、どうしたらそういう病院が成り立つのか。たとえば堀川病院の理事会の構成。住民から八人に対して病院代表は七名で、病院側の思いどおりにはならないすごい組織だと思いますが。
早川 これは、さっきの鞄や自転車と一緒なんですね。どうして八対七にしたかというと、必ず対立すると思ったのです。医療を受ける側と担当する側との利害が常に一致すぶるはヂはずがない。必ずこうしてくださいという要求が出てくる。医者も看護婦もたくさん働いてい▽171 るし、そんなふうにしたら病院が成り立たないと思っても、強い要求があれば赤字を出し・てでもやらざるを得ないわけです。しかし、そうなると住民側も、どうしたらよいのかということになる。患者さんがたくさん来れば大丈夫だということなら、地域の人たちが患者さんを集めてくれます。隣の人が病気だったら、「病院に頼んで診てもらおう」とすすめたり、受診していない人に受診をすすめてくれたりと、主体的な運動が展開されていくのです。
 経営をすべて公開して、こうしたらこうなるということをはっきり示せば、住民は自分たちでどうするかを考えるものなんです。」(鎌田・早川[2001:170-171])

・196402 堀川病院不正受給報道(早川[1980:113-120])

・1970

 「[…]京都市も、1970 年12 月8 日に、京都市議会普通予算特別委員会が開かれ、1971 年度から京都市における65 歳以上の老人医療費無料化を実施することを明らかにした17。1970 年は、蜷川知事が、6 期目の選挙を控えていた時期である。蜷川知事は、社会、共産両党と医師会、総評の推薦を受けており、老人医療費無料化に対しても積極的な推進の態度をとっていた。堀川病院および助成会としても、自民党政府による健康保険・医療制度の改正に対抗するため、革新自治体としての京都府政を支持する立場に立っていた(『医療生協助成会だより』 74 号 1970 年3 月1 日)。」(西川[2011])

・1977

◇早川 一光 19790915 『わらじ医者 京日記――ボケを看つめて』,ミネルヴァ書房,384p. ASIN: B000J8EQ8K 1200 [amazon] ※

 「高齢者なんでも相談」に参加させて頂いて、もう一年になろうとしている。
 京都新聞社会福祉事業団は、たいへんな仕事を始めたものだ。幸い、卓越した京大老年科奈倉先生、人格豊かな京都府医師会田辺先生、文字通り顔も丸い円熟した日赤栗岡先生はじめ、人生経験たゆたゆたる市老人クラブ連合会の面々、若い情熱をかたむけて新しい相談活動の創造を試みられる福祉事務所の方たち、地道な年金相談、ましてにこやかな受付業務を引き受けて下さっている皆さん、そしてボランティアの方たちにお会いできて、私自身ひそかな「甲斐(かい)」を感じた一年だった。
 「なあ、中川健太朗さん、湯浅晃三さん、やるからには、天神さんでゴザを張るような相談をしようなァ」と話し合う。

◇市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

1977年「八月に、同志になれそうなところを僕と黒岩でかき集めて、地域医療懇談会というのを開くんです。こじんまりとした交流会ですけど。夏だったし、遊びの要素も半分入れつつ、葉山でディスカッション。これがその後、医療分野において、ゆるいけれども一種の一派をなすものに育っていきます。その記念すべき最初の一歩が七七年の夏です。僕にとってはその後いろいろと社会的発言や活動を再開していくなかで、つねに”バック”をなしていた勢力ができはじめる。[…]
 集まったのは、うちの病院と黒岩のところ――あついはもう浦佐(新潟県)で「ゆきぐに大和病院」をはじめてた――以外では、関西の阪神医療生協――元は社会党系――の今泉さん、精神科では初音病院、これから病院作るぞとぶち上げていた九州の松本文六たちでしょ、それから当時民医連から脱退していた京都の堀川病院なんかも来てくれた。僕は堀川病院とは親しくしてて、うちに地域保健部を作るときに見学に行って参考にさせてもらいました。浦池のルートで、やつの兄貴も来たな。九州で病院グループを経営してたんだけど、これが左翼でもなんでもなくてさ、「ミニ徳洲会みたいな感じで経営者根性丸出しのことをまくしたてるから、堀川病院の早川[一光]大先生、怒って帰っちゃった。」(市田・石井[2010:225])

・1979

◇早川 一光 19790915 『わらじ医者 京日記――ボケを看つめて』,ミネルヴァ書房,384p. ASIN: B000J8EQ8K 1200 [amazon] ※
 帯裏「恍惚はもう恐ろしくない 松田道雄
 早川さんは私の三十年来の同志である。彼は医者の立場より病院の立場を大切にした。それに感じて病人たちは拠金して、「自分たちの病院」をたてた。病院になっても早川さんは、往診をつづけ、ろうじの奥の病人とどこまでもつきあった。病人たちは老いた。あるものは恍惚になった。それでも早川さんは往診してつきあうことをやめなかった。この本は恍惚にある人間と、その知己との心の通信の記録として未踏の世界を明らかにしている。」

・1980 「呆[ぼ]け老人をかかえる家族の会」の設立

 「連載「認知症と生きる」第2章は「家族の思い」を取り上げた。「認知症の人と家族の会」顧問の早川一光さん(87)=京都市=は、同会の前身で1980年に京都で結成された「呆[ぼ]け老人をかかえる家族の会」の設立に尽力、医師の立場で活動を支え続けている。早川さんに認知症への理解と家族支援の重要性を聞いた。(小多崇)
 −認知症に関わるきっかけは。
 「私は外科医で、精神疾患は専門ではない。35年ほど前、往診を頼まれて行ってみると、家の2階に鍵が三つ付いた部屋があった。中には80歳を超え、寝間着姿の女性が汚物を垂れ流し、床に座っていた。そのような患者を診る機会がなかった私は衝撃を受け、高齢化が大きな社会問題になるだろうと予感した」
 −その経験から家族支援に向かったのはなぜですか。
 「当時の家族は認知症を恥と考え、隠して、親戚にも知らせないのが当たり前だった。ところが『高齢者何でも相談会』を幅広い分野でやってみると、一番相談が多いのが認知症に関してだった。隠したまま苦しんでいる家族に接し、みんなで語り合う場が必要ではないかと考えた」
 「初めて開いた家族会で泣きながら語り、帰る時には笑顔になっている人を見て、やっぱり家族同士は分かり合えると確信した。参加者がホッとした気持ちになれたのは、悩み、苦しんでいるのは自分だけではない、という思いだった」
 −会について「あくまで家族が主体」と強調する理由は何ですか。
 「病気としての認知症に関する相談は医師や看護師らを頼っていいし、上手な介護技術を学ぶ場は別にあればいい。家族の会は、互いの話をじっくり聞く場。そして聞いた後も、その人を見つめ続け、フォローしていくところだ。経験した家族だからこそ理解し、同じ悩みの人を放ってはおけない」
 −認知症をめぐる家族の姿を取材すると、それまでの人生や家族・人間関係がいろいろな面で浮かび上がってきます。
 「人の死にざまは、生きざまがつくる。認知症と向き合う中で、結束する家族もあれば、バラバラになる家族もあり、同じ家族は一つもない。認知症と向き合うことは結局、人間としてどう生きるか、どうやって一人一人の命を大切にするかということ。命をテーマとした人生勉強だ。都市部だけでなく多くの地域で家族の会を設け、語り合ってほしい」」
 「重要な家族支援 「認知症の人と家族の会」顧問 早川一光さんインタビュー」(認知症と生きる 熊本の現場から)
 『熊本日日新聞』2011年9月10日朝刊掲載)
 http://qq.kumanichi.com/medical/2011/09/post-1816.php

・1988 総合人間研究所開設 所長

 「人生を照らす灯台でありたい
 千切り大根のように分断されてしまった人間の存在を、大きな視点で見つめ直すことを目的に、一九八八年に「総合人間研究所」を設立しました。「人問は総合的に見なくてはわからない」という私の考え方に賛同いただいた心ある方たちが集まって、知恵を持ち寄り、経験を話し合うことで、人間を照らし出す岬の灯台のような役割を果たしていければとの想いから出発しました。
 人問は、幸せであったり、健康で仕事に打ち込んでいるときには、外からの救いの手を必要とはしません。たとえてみれば、晴れ渡った見通しのいい海原では、灯台の明かりは目にも入りません。しかし、濃霧で視界が遮られたり、嵐に襲われ荒れ狂う波に翻弄される状態に陥ると、灯台の明かりはなくてはならないものとなるのです。灯台から放たれる明かりで、自分がいまどこにいるのか、これからどちらに艦をきれば座礁せずに航行できるのかを知ることができるのです。
 ▽231 総合人間研究所は、苦しい人生に生きていくべき方向をそれぞれの方たちに指し示せる存在であることを目標としています。「人間というものは、いったいどういうものなのか」「どのように老い、病をどう受け持っていけばいいのか」「死をどのように超えていけばいいのか」「死を見つめながら、いかに生きていけばいいのか」といったあまりにも途方もない課題に取り組んでいるわけですから、私の命のある間に光り輝く灯台を完成させることは到底不可能でしょう。わたしの癒し屋としての途方もない課題を次代の人たちが受け継いでくれるための基礎だけでも築いておきたいと願っているのです。
 九九年に長年努めた堀川病院の顧間を辞任したのを機会に、京都府美山町に「美山診療所」を開設し、山間の地域医療の確立にチャレンジしました。その後、ニ〇〇二年には、京都市内の龍安寺近くに「わらじ医者よろず診療所」を開設しました。
 戦後間もなくの「白峰診療所」からスタートした半世紀以上に及ぶ地域医療の経験を踏まえて、聴診器と血圧計、問診だけの診療を始めました。「八〇歳でこそできる医療とはなにか」をテーマにして、診察はもちろんのこと、電話やFAX、電子メールで病気のことや治療のこと、かかりつけ医には聞けないことなどについて、相談を受けつけています。」(早川[2003:230-231])

・1986

「訴え――全国に「畳の上で死のう会」の結成を

 ”死のうかい”と言うたかて、そうやすやすと死ねるものではない。死ぬ時だけうまいこと、と願うたって、それは駄目。
 毎日の暮らしざまが死にざまになって出る。しょせん。人間って「生きたきたように死ぬもの」と、早く気がついてほしい。”畳の上で往生”とは今の一日一日を、どう生きるかに尽きる。
 全国都道府県に、これを志す人々が名のりをあげて支部をっくってほしい。世話人を引き受けて下さる方が、その町、この村に会をつくって、定期的な会合と、新聞を出して、互いの経験を交流しあったらどうだろうか。
 各町村のお寺さんが、このセンターにでもなって頂ければ、何とすばらしい事ではないか。灰療と宗教の出あいというのも、こういう所から起こるのではないかと思う。
 皆さんの入会と名のりを大いに期待しています。当面は私の家にでもお申し出で下さい。
               京都市右京区竜安寺衣笠下町29(〒616)
                               早川一光」(早川[ 1992:202]

■ボケない方法

「老いもボケも、すマに来る己の姿だと、ハッと気がついた時、「ボケってなんだ」とい▽208 うことがおかわりになった時だ。
 ただね、必ず来る死と同じように、ひょっとしたら来る、もう今も来ているボケを、できるだけ遠くに追いやる努力は、皆さん、続けてほしい。
 必ず人間死ぬということを百も承知で、今の今を全力をあげて生きている今の自分のように。
 そして、呆けるまで、ポケずに生きてほしい。
 そしてね、”ボケたな”と思ったら、ニ、三日でコロンと死ぬ方法をみつけて。
え? そんないい万法があるかって?
ある、ある! なんにもむつかしいことはない。

ぜ〜ったいボケない暮らしのこつ十か条

 さあ、伝授しよう。――人にな語りそ、かしこみ、かしこみ、申さん――
 1 あれこれ
 そ、あれこれと考えることさ。当たり前のことを「え?」「あれ?」「なんでや?」と。
「なあ〜んや、そんなことか」って? そ、ソレがあかん。そもそも物ごとに真実(まこと)いうのはな、誰がみても当こり前のことさ。
 みんなが当たり前と見すごしてることに驚きを感ずること。
 2 4WDで
 Why? What? When? Where? そーら、みんな頭にWがつく字でしょ四つ並べてこれを4WDといいます。
 車も四つの輪に動力がかかる方がいい。人生の走りも全く同じです。そのうえ、Wonderful とものに感動しつつ走ったら、もう完蛮だ。
 3 一日に五回”あ〜っ!”と言え
。”あ〜っ!”とは感動さ。ということは発表――そとにあらわす――表現さ。訴うことよ。
 4 歌え
 ”訴え”が”うたえ”となる。五七五七七とリズムになりゃ短歌さ。五七五なら俳句さ。▽210 一つなら”絶句”さ。
 うなったら、うなり節。ひとりしみじみなら演歌、童心に帰りゃ、童謡、さ。
 5 笑え
 ケラケラでも、カラカラでもよろしい。笑って! 笑うのは人間だけよ。
 6 読め
 新聞も本も、なんでもよろしい。新聞広告でもシゲシゲと眺めよ。眼がうっとうしい? メガネをかえてでも読めよ。かたっぱしから、忘れていいから、読んで、読んで。
 7 書け
 忘れそうなら、メモをせい。そのメモを置き忘れたら、メモを置いた所をメモせい。。日記、手紙、いっぱい、書いて!
 8 ソロバンをおけ
 勘定でなくて勘案さ。こうなったらこうすると、前もって予定をたてて暮らせ。そしたら、ソロパンがおうたゾとなる。
 9 働け
 ▽211 死ぬまで働け。こけて骨折るな。骨折り損どころからホントにボケる。
 10 忍と耐
 ホッと気を抜くな。なにもすることのない暮らしが、いちばん危い。
 いっぱい趣味を持って、好きなことをやりとおせ。そりゃ、寝てる方が楽さ。けど、ラクダ、ラクダと言っているうちに、”あんた、ダーレ”となる。

 ありゃ、もう、これで十か条になったんか。この中の。”ひとつ”でいいから、身につけて暮らせ。
 ひとりで出来ること、また、仲間といっしょにすること。それは、人さまざまよ。
 ただね、”ひとりでよろしい! しかし、ひとりだけになるな!”
 そして、ボケたな、と思ったら、コロリと逝け。

 ポックリと逝く方法は、また、次の機会に伝授しよう。」(早川[1992:207-211])

◆松田道雄

 「そこに私たち青年医師が呼ばれて参加した。素手の医療であった。素足の医療でもあった。この素足、素手の医療と看護をじっと見守って下さった先輩たちがいた。その一人に、松田道雄先生がいた。
 松田先生は、すでに戦前からこどちの結核にとりくんでおられ、こどもの結核は親の結核によることを早くから指摘され、家族内感染の危険から、こどもをどう守るかを苦慮なさっていた。
 赤ん坊のB・C・G接種を市民運動として提唱されて久しい。疫学的発想でなくて、住民運動、社会運動としての結核から赤ん坊を守る医療活動は、例によって当時の官権から見張られ、弾圧されつづけたことは、想像にかたくない。
 私は戦後の西陣の自衛の住民運動を通じて、松田先生との出会いをいただいたが、考えれば必然と言えようか。後日、先生の父上と、私の父とが旧知の仲だと聞いてそのご縁に驚いている。
 ▽223 その小さな汚い診療所に松田先生が、毎週おとずれて、私たち若い医師に陶部X線写真の撮影と読影を手ほどきしてくださるようになった。診療所は貧乏であったので、先生なお迎えにあがることもできず、先生は歩いておいでになっていた。もちろん謝礼も出せなかった。しかし、正確な時間にキチンとおいでになって、ずぼらな私たふをろうばいさせた。
 療所内では手狭になったので、診療所の家主さんの応接室をお借りして勉強会をつづけたが、応接室とは名ばかり。ソファの布はやぶれ、スプリングがとび出して先生のしりをつっっく。家主のねこが数匹あばれて寝まそべるので、ねこのノミにかこまれて、我われは体をかきかき講義に耳をかたむけた。
 当時、我われには入手困難であった外国文献な、先生のすばらしい語学力で翻訳、解説してくださったことが、昨日のように思える。
 この学習会は、夜の診察が終わってから始まり、時に夜中の一時、二時におよんだ,ことが多かった。今の堀川病院の副院長さんたちは、この当時の松田教室の卒業者である。」(早川[1985:222-223])

■竹沢徳敬

◇早川 一光 19850301 『ぼけない方法教えます』,現代出版,238p. ISBN-10: 4875972180 ISBN-13: 978-4875972181 1000 [amazon][kinokuniya] ※

 「 ▽224 医の主体性の道
 西陣の人びとと共に歩こうとする青年医師団を、温かく守ってくださる先生が、またいた。先の堀川病院院長竹沢徳敬(のりひろ)先生である。
 昭和二十年。八月のせみしぐれの中で、乾ききった敗戦を迎えた。私たち学生は、一瞬、バックボーンを失って立ちくらみした。自由のうれしさと、個の発見の喜びとともに、奔放に走るものと、大学内の民主化運動に走るものと分かれた。私は虚無からようやく脱して、民主主義とは何かを考え始めていた。
 戦後第一の学生運動の波は、大学民主化の運動であった。学長公選、教授会公開をせまって、私たち学生は動いた。しかし、大学の運営管理は、閉じた二枚貝のように固くしまって、なかなか開かれなかった。激しい交渉が行われた。
 とうとう学生の一部が非公開の教授会になだれ込んで座った。この事件を境に、座▽225 りこんだ学生数人が、放学処分になった。長い法廷閉争となった。この寺、教授会の中で、「公開すべきだ」と主張する教授がいた。
 これが竹沢徳敬先生だった。耳鼻科の教授であった。
 この民主化運動の中で、私は先生と出会った。背の異様に高い、鼻のまた高い外国人のような先生であった。先生は敬けんなクリスチャンであるが、事、弱いもの、疎外されて苦しむ者を守ることに関しては、一歩も引かなかった。
 放学された学生を抱え、復学運動を起こすとともに、教授会でその処分の非を主張してやまなかった。そして、ついに学生を支持する医区局員とともに、教授の休職処分を受けられた。
 先生は、耳鼻科医院な開業して戦後の医師会運動へ。私は、西陣の人びととともに住民参加の診療所へ、分かれて進んだ。この分かれ道は、実は先の方で一本になっていた。
 先生は、戦後の国民皆保険に従って、医師の医療における徹底した主体性を主張された。医師こそ、医療の主体である。と同時に、医師に高いモラルを持つようせまっ▽226 た。医師会立病院、看護教育、休日夜間診療の必要性を医師会運動として主張されたが、当時、その理解はなかなか困難であったようだ。
 私たちは医療の主体性は患者にあり、住民にあり、と主張した。先生は、この運動を温かく見守り、援助してくださった貴重な存在である。
 やがて、私たちの要請をうけて、ニつ返事で院長を引きうけてくださった。
 耳鼻科の診察室で、「先生、病気は何でしょうか」と聞く患者さんに、「君、病名を聞いてどうするんかね」と思わず返事をし、「センセ、今度いつきたらよろしいか」と問われ、「たかったら、たらいいよ」と答える。
 患者さんから苦情をきく私が、あわてて、患者さんに「あんた、耳が悪かったから、せきそこなったんだよ。院長先生は、”たかったら、たらいいよ”と言われたんだよ」と、冷や汗をふいて、説明する。「そうだ。ぼくになかなかできないよ。ぼくにできんことを君たちがやっているから、応援に来てるんだよ」と、先生は言う。」(早川[1985:224-226])

◇早川 一光 19850320 『ぼけの先生のえらいこっちゃ』,毎日新聞社,245p. ISBN-10: 4620304697 ISBN-13: 978-4620304694 [amazon] ※

 「竹尺院長を送る
 診察中の私に一通の分厚い封書が届けられた。
 ▽089 「うしろを向いて」と患者さんの背中を診察しながら、私は横目でその手紙を走り読む。涙がこぼれないよう上を向いたが、あふれてとまらなかった。
 ことし(昭和五十八年)三月四日。それは、うちの病院の竹沢院長からの手紙だった。院長は二月初旬から、体の不調を訴えて入院中であった。
 「実は発病の時、自覚的に今度は重い病気にかかったという感覚があり、それは主治医の谷口先生にも何度も言ったことですが、一ヵ月の経過で的中していたと考えております。
 そこで私は家族の者たちに、時間的に不明であるが、今度は再起不能で一、二ヵ月のうちに私の死の準備をするよう指示を与えてきました。手術の場所はすい臓の奥で開腹しても何ごともその時にならねばわからぬことゆえ、私は静かに終末を迎える心準備を一力月やって来ました……」
 と、その手紙にあった。
 私たち医師団も、ただごとでないことは百も承知しながら、院長にはすい臓の膿腫で押し通した。院長はそれをうなずき聞きつつ、すべてを知っていた。
 ▽090 それから院長の壮烈な死との闘いが始まった。医人として死を当然として受ヒアオつつ、「死んでたまるか」と全力をあげて抗う毎日であった。
 ぴったりと付き添うご家瓶には、痛みと苦しみを訴えられたが、客が訪ねると眼鏡をかけなおして身を起こし、目を大きく見開いて応答にあたられた。
 私は見るに堪えられなった。足が病室に向かなかった
 七月七日、何気なく見舞った私は、ふと院長の枕頭台にある便せんを見た。
 「堀川病院全職員の皆様方へ
 さようなら諸君、二十五年を一緒に楽しく苦しく誇らしく、また美しく生活した。思わぬ場所で、思わぬ日、時間に、私は感激と主の喜びの中で召されます。アーメソ」
 マジックべンで一字一字、全身のカなふりしぼってつづる字画は、終わりの行に近づくにつれ乱れていた。そして、このあと五十時間で悠然と逝った。
 「人間は、ぼけていいんだ」と主張する私に反論するかのごとく、院長は最後までぼけない姿をみせて去った。明治の気骨の人の死を見て、大正世代の私は、考えこんた。」

■安楽死・尊厳死

◆早川 一光・吉沢 久子 「対談」,吉沢・早川編[1982:175-212]*
*吉沢 久子・早川 一光 編 19820620 『銀の杖』,自由企画・出版,223p. ASIN: B000J7H4I0 [amazon] ※

「吉沢 そういうことにちじっと耐えながら、呆けというのは治るのか治らないのかを考え、今後もし自分があのような立場になったら、安楽死を求める心境になりましたよ。 早川 呆けは治りにくいし、又、たとえ治らないでもよろしい。呆けることが安楽死ですもの。
 先程、先生とぼく合意しましたがな。自分が死ぬことをわからずに死んでいくこと、これは自然の安楽死。薬を一服もることは安楽死でもなんでもない。自然はちゃんと安楽死を用意してくれています。それは生きぬくことです。先生のお姑さんのように。あれが安楽死なんです。」(吉沢・早川[1982:199])

◆早川 一光 19840420 『ポックリ往く人逝けぬ人』,現代出版,222p. ISBN-10: 4875972148 ISBN-13: 978-4875972143 [amazon][kinokuniya] ※

 「▽110 安楽死の通行手形は生き抜く努力
 人間って楽に死ねるってことはないんです。安楽に死ぬのはね、不可能とはいいませんけど、たいへんむずかしいことです。それは、人間の体というのは、生きるようにできでいますからね。死ぬようにできている部分というのはひとっもありません。たとえ髪の毛一本でも伸びるようにできています。死んでからでも髪の毛は伸びるというくらい、生きるようにできています。
 生きているということは、生かさないとするあらゆるカに対して、これに抵抗するカが働いているということなんです。そこには、葛藤と、争いと、努力と、忍耐とが伴います。だから、生きるカを阻止するものは、必ず抵抗、葛藤がおきるはすで、それは苦痛ですから、安楽死というのはないと思います。
 ただ、一つあるのはね、その生きていくという苦痛を伺巨も伺回も乗り越えながら、▽111 どんな坂こんな坂、どんな坂こんな坂と乗り込えながら生きつづけてきた人がやっぱり最後に本当に楽に死んでいけるんです。そういう人がが安楽死への通行手形を握れるんです。「生きて生きて生き抜いた人」というのは、寿命だけじゃなくて、生きるために努力をしてきた人達なんです。それともうひとつ寿命いっばい生きてきて、だんだんもの忘れがすすんで、最高に親しい人も忘れて、自分の死ぬものもわからない、そういう死にかたが、ぼくは安楽死だと思いますね。
 社会的な仕事をして、生きがいを感じて、丈夫で健康で、良い人間関係をいっぱいもって生きる、そういう中でないと、安楽死なんかできないと思いますね。
 それでも、日常生活の中に苦痛というものはありますものね。その苦痛に耐えなくてはならない。
 悲しいけど、死は救いの側面があると思います。もう辛抱しなくていいんですから。すぺての人が救われる。
 そうね、死は救いなんです。死んではじめて、この人は生きる苦しみにたえなくていいんだなというのが死てすから。」(早川[1984:110-111])

◆早川 一光 19911125 『ほうけてたまるか』,労働旬報社,214p. ISBN-10: 4845102218 ISBN-13: 978-4845102211 ※ 1262+ [amazon][kinokuniya] ※

 「楽に死ぬということは、それは、出来ません。人間は一分でも一秒でも生きるように創られています。生きようとする力――死んでたまるか――という力が"いのち"(生命力)です。死がすぐそこまで来ても。全力をあげてそれに抗います。だから、苦しいんです。その苦しみからのがれ▽209 ようとするから、苦しむんです。だから、死んだら楽になるんで、楽に死ぬといっても無理なことです。
 たくさんの患者さんの生き死に立ち合ってきて、肩で息をし、小鼻を動かし、下顎を古ぼけた機関車のように激しく動かし、汗をたらし、歯をくいしばって呼吸を止めたとき、
”うんこれで患者さんは楽になったんだな”と思う。
 死が、実は、苦しみからの救いかもしれない。勿論、これは実証できないので、残る私の想いかもしれないが、そう思う。
 死ぬってこわい?
 死そのものはこわくないはずだが、死にいたるまでの道のりが、たまらない不安と恐怖を感ずる、と思う。それが、極く乳幼児期は軽度、加齢とともに増加し、子育て家守りの責任力あるとき、活力のあるときは恐怖感はピーク。やがて老化とともに薄らぐ。
 九〇歳を越え百歳以上ともなれば、"眠るが如く往生"というパスボートを握る。ただ、自然は恐怖を少しでも軽減しようと昏睡という妙薬を用意している。また、死に至るまでの時間も調剤する。一瞬の事故死は、恐らく恐怖を感ずる暇もなく死ねたのでは?と想いめぐらす。
 ▽210 私の、偏見であるだろうか。」(早川[1991:208-210])

 「▽167 延命と安楽死
 これから、医療と倫理の関係が問われてくる時代になってまいりました。倫理委員会などと組織をっくって、どのような冶療をするのか、どのような手当をするのか、これが問われてくる時代に入りました。
 それはなぜかというと、現在の近代医療は延命、一分、一秒でも長生きさせようとするのを目的とする医療です。そのためには手段を選びません。
 薬物と臓器移植と、そして手術を駆使して、一分でも一砂でも延命を図る。そういう医療が、一方では急速に発違してまいりました。
 その結果、本人が望まない延命、あるいは、もはやこれまでと本人が納得をしても、なおわれわれが延命を図るという医療も出てまいりました。
 ここに、患者さんご本人からも、無駄な医療、延命医療をしないように、あるいは自分ここに、患者さんご本人からも、無駄な医療、延命医療をしないように、あるいは自分がが息をひきとる場所、自宅であれぱ自宅、病院であれぽ病院、息を引き取る場所をはっきりとしておくことが必要になってきました。これが実は安楽死、尊厳死の発想の元になり▽168 ました。
 要は、今まで医療に携わる者に一任されていた命、体というものを、もう一度ご本人の手に取り戻す、返すという考え方が出てまいりました。これが医と倫理の関係になってまいります。
 インフォームド・コンセントという言葉があります。とにかく患者さんが飲んでいる薬、検査結果、あるいは受ける術式、それの副作用、あるいは効果、欠陥、そういうものをはっきりと知ったうえで治療を受ける権利が、患者さん側にあるのだということを、医療を担当する者も認め、医療を受ける者も、それを当然の権利として認めていかなくてはなりません。そういう論調が出てまいりました。
 これから二十一世紀は、ますますこの考え方がはっきりしてくると思います。
 特に、医療を受ける側の皆さんが、今まででのように、医療を施す者にすべて一任をするというものの考え方は、今後改めていきたいと患います。
 目分の体は自分のもの、自分の命は自分だけのものだというわかり切った原点に、もう一度立ちかえってみたいと思います。
 ▽169 医者は、痛みをとる努力、研究をもっとすすめていかなくてはなりません。痛ちは、人間が「人間である」ことを阻んでしまうからです。物を考えるカや意志がなくなります。だから、ぺインコントロールは、医者の最も重要な仕事の一つになります。
 医療を担当する私たちも、そのことを医療の基本にして、十分患者さんの意思に応えていく努力を続けるべきだと思います。」(早川[1996:167-169])

◆早川 一光 20031010 『老い方練習帳』,角川書店・新書,203p. ISBN-10: 4047041475 ISBN-13: 978-4047041479 [amazon][kinokuniya] ※
 「▽185 B死を見事に演じきる
 自分の生き死には自分で決める
 医学は、死と徹底的に戦うために生まれてきました。だから、医者の私たちにとっては、死は敗北だと言いました。みなさんを死なせてはいけないのです。失敗なのです。
 「なんとしくでも!」と手にツバをして、腕によりをかけて頑張りますが、いつの頃からか、〈ちよっと変だ〉と戸惑うようになりました。
 どんなに努力しても、最終的には死を防げないのです。ただ、生を延ばすだけの作業になりがちなのです。延ばす私はいいですよ。それが仕事なのですから。しかし、延ばされるみなさんは〈本当にこれでいいのだろうか〉とふと考えこむはすです。
 白い壁に囲まれて、白いカーテンのなかで、四肢に点滴の針な四方から刺され、ロには酸素吸入の管を差しこまれて、ものも言えす、首も重かせず、ただまばたきだけで意志を伝え、まわりには私たち医療者だけです。家族に言い残す術もなく、心だけ残して息を引き取るような別れ方を見ていると、これでいいのかなと考えこみます。
 ▽186 もちちろん、家族の方たちから「先生、ご苦労様でした。最高の治療、手立をしてくださいまして」とお礼な言われ、また、家族の方たちも「できるだけのことをしたのだから、心残りはない」と申されますが、息を引き取っていく方の心は残らなかったのかなあという思いに沈みまず。
 死は、医者の手だけに任せるものではありません。。自分の命は、自分だけのものなのです。医者のものでも、家族のものでもありません。私も、全力をあげてかかわりますよ。大いにかかわっていきますが、一切な「よしなに」とまかされた覚えはありません。医師といえども、一人ひとりの命の与奪権をもっているわけではありません。
 そう、自分の死に方は自分で決めるのです。
 […]
 死を迎えるまでに決めておくこと
 […]
 わが家の畳の上で死ぬ
 […]▽192 […]
 延命措置を受けるのか受けないのか
 第三に〈がん告知〉についてです。「がんだったらがんと言ってほしい」とか「言わないでほしい」など、元気な間にきちんと決めておきましょう。
 […]
 第四は、〈どこまで生きたいか〉ということです。もうどうすることもできないとわかったとき、これ以上、延命(命をいつまでもつなぐ)の手立てを一切しないのか、逆に、できるかぎりのことをするのか、自分の体と命について、しっかりとその方針を決めておいください。
 みなさん、普段は簡単に「先生、だめなときは、もうなんにもしないでください」とよく言いますが、いざというときになると、決断するのはなかなか難しいことです。一瞬、一瞬の息の苦しさに、耐えられない痛みに、そして、迫りくる死の不安感に、みなさん、一つずつ対処していかなくてはならないのですから。」(早川[2003:185-193])

■文献(発行年順)

◆早川 一光 19790915 『わらじ医者 京日記――ボケを看つめて』,ミネルヴァ書房,384p. ASIN: B000J8EQ8K 1200 [amazon] ※
◆中里 憲保 19820515 『地域医療の旗手――住民と共に歩む「赤ひげ」たち』,現代出版,285p. ISBN-10: 4875972059 ISBN-13: 978-4875972051 1000 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19800915 『続 わらじ医者 京日記』,ミネルヴァ書房,248p. ISBN-10: 4623013219 ISBN-13: 978-4623013210 980 [amazon][kinokuniya] ※
◆呆け老人をかかえる家族の会 編/早川 一光 監修 19820715 『ぼけ老人をかかえて』,合同出版,242p. ASIN: B000J7MZ48 \1260 [amazon][kinokuniya] ※ a06
◆三宅 貴夫 19830405 『ぼけ老人と家族をささえる――暖かくつつむ援助・介護・医療の受け方』,保健同人社,264p. ISBN-10: 4832700472 ISBN-13: 978-4832700475 1300 [amazon] ※ a06. [99]
◆加来 耕三 19840130 「父子鷹――早川一光(京都)」,志村編[1984:175-214]
◆志村 有弘 編 19840130 『日本仁医物語 近畿篇』,国書刊行会,510p. ISBN-10: 4336056072 ISBN-13: 978-4336056078 4300 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19920410 『ボケない話 老けない話』,小学館,213p. ISBN-10: 4093870845 ISBN-13: 978-4093870849 1100+ [amazon][kinokuniya] ※
◆三宅 貴夫 19950405 『老いをめぐる12+1話――老年科医の診療ノートから』,ユージン伝,311p. ISBN-10: 4875600496 ISBN-13: 978-4875600497 1942+ [amazon][kinokuniya] a06.b01.
◆鎌田 實 20010215 『命があぶない医療があぶない』,医歯薬出版,306p. ISBN-10: 4263232550 ISBN-13: 978-4263232552 1800+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20030930 『大養生のすすめ』,角川書店,236p. ISBN-10: 4048838474 ISBN-13: 978-4048838474 1400+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20040810 『ほな、また、来るで――人を看るということ』,照林社,311p. ISBN-10: 479652083X ISBN-13: 978-4796520836 1600+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20041105 『お〜い、元気かぁ〜――医の源流を求めて』,かもがわ出版,203p. ISBN-10: 4876998434 ISBN-13: 978-4876998432 1700 [amazon][kinokuniya] ※
◆西沢 いづみ 2009/03/10 「生活の場を起点としたポリオ生ワクチン獲得運動」
 『出生をめぐる倫理研究会 2008年度年次報告書』 :64-73 [PDF]
◆早川一光 20090910 「医師・早川一光が語る民主主義・平和・革新懇運動」(インタビュー),『京都革新懇ニュース』2009年9月10日号
 http://www.kyoto-kakusinkon.com/books/090910hayakawa.pdf
◆西沢 いづみ 2009/12/04 「ポリオ生ワクチン獲得運動に見いだされる社会的な意義」
 櫻井 浩子・堀田 義太郎『出生をめぐる倫理――「生存」への選択』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告10, pp.83-112.
◆西沢 いずみ 2011/03/31 「地域医療における住民組織の役割の歴史的検討――白峯診療所および堀川病院の事例を中心に」『コア・エシックス』Vol.7, 立命館大学大学院先端総合学術研究科, pp 211-220. [PDF]
◆西沢 いずみ 2012/03/10 「西陣地域における賃織労働者の住民運動――労働環境と医療保障をめぐって」天田城介・村上潔・山本崇記編『差異の繋争点――現代の差別を読み解く』ハーベスト社, 2012 年3 月, pp 41-61.
◆三宅貴夫 2012 「私の転居歴2――京都」,『認知症あれこれ、そして』 http://alzheimer.at.webry.info/201203/article_2.html [99]
◆西沢 いずみ 2013/02/20 「1970年代の京都西陣における老人医療対策と住民の医療運動との関わり」 小林 宗之・谷村 ひとみ 編 『戦後日本の老いを問い返す』,生存学研究センター報告19,153p. ISSN 1882-6539 ※
山口 研一郎 20130222 「医療現場の諸問題と日本社会の行方」,高草木編[2013:151-233]
◆高草木 光一 編 20130222 『思想としての「医学概論」――いま「いのち」とどう向き合うか』,岩波書店,391+8p. ISBN-10: 4000258788 ISBN-13: 978-4000258784 4000+ [amazon][kinokuniya] ※


UP:20101211 REV:20140730, 31, 0805, 06, 11  QLOOKアクセス解析
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