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早川 一光

はやかわ・かずてる
1924/01/03〜2018/06/02

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last update:20170401

◆早川 一光・立岩 真也・西沢 いづみ 2015/09/10 『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』,青土社,  ISBN-10: 4791768795 ISBN-13: 978-4791768790 [amazon][kinokuniya] ※ 1850+

『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』表紙

早川 一光 i2014 インタビュー→[voice] 2014/08/01 聞き手:立岩真也 於:京都・衣笠

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E4%B8%80%E5%85%89

■訃報

◆「わらじ医者」早川一光さん死去 戦後の地域医療に尽力
 『京都新聞』2018年06月05日

 「戦後間もなくから京都の地域医療に尽力し、「わらじ医者」と親しまれた医師の早川一光(はやかわ・かずてる)さんが2日午後3時54分、京都市右京区の自宅で死去した。94歳。愛知県出身。近親者で密葬を済ませた。葬儀・告別式は本人の遺志で行わない。
 京都府立医科大卒。終戦直後で医療環境の乏しかった1950年、京都・西陣の住民の出資で設立され、堀川病院(京都市上京区)の前身に当たる診療所で医師となった。
 往診や訪問看護といった在宅医療に力を入れ、副院長や院長を歴任し、半世紀にわたって同病院の地域医療に携わった。往診を通じて住民と深い関係を築く姿が、82年にNHKでドラマ化された。
 80年の「呆(ぼ)け老人をかかえる家族の会」(現認知症の人と家族の会)設立に関わったほか、パーソナリティーを務めたKBS京都のラジオ番組で健康や医療、高齢者問題などを取り上げ、今年3月末の放送終了まで30年余り親しまれた。政界でも京都市議を59年から1期4年務めた。2014年に血液がんの一種の多発性骨髄腫が見つかり、闘病生活を送っていた。
 患者に寄り添い、心を通わせる医療の必要性を一貫して訴えた。闘病中も患者の立場から、医療制度への問題提起や老いとの向き合い方を、長女のフリーライター早川さくらさんの聞き書きによる本紙連載「こんなはずじゃなかった」(16年1月〜18年5月)で発信していた。」

◆「わらじ医者」早川一光さん死去 路地裏で医療に尽力
 朝日新聞 2018年6月5日
 「早川一光さん(はやかわ・かずてる=医師)が2日、京都市右京区の自宅で死去、94歳。密葬は近親者で営まれた。葬儀は故人の遺志で行わない。
 京都・西陣で、堀川病院(京都市上京区)の前身となる住民出資の診療所を創設。在宅医療に力を入れた。路地裏で医療に尽くしたことから「わらじ医者」と呼ばれた。「呆(ぼ)け老人をかかえる家族の会」(現認知症の人と家族の会)の80年の設立に関わった。14年に多発性骨髄腫が見つかり、自宅で闘病生活を送っていた。著書に「畳の上で死にたい」。」


■2017/04/01 ETV特集「こんなはずじゃなかった ~在宅医療 ベッドからの問いかけ~」

 ※NHK川村雄次さんより

立岩先生

先日お話させていただいた早川一光先生の番組が
いよいよ放送されるので、おしらせします。

番組の末尾に立岩先生が行われたインタビューで早川先生が語られた言葉を
引用(朗読)させていただきました。
おゆるしください。

内容はおよそ以下のようなものです。

「在宅医療」を切り拓いた早川一光さん(93歳)が
自らがんになり、在宅医療を受ける立場になった時、
口をついて出た言葉が「こんなはずじゃなかった」だった。
その言葉の意味するものは何か・・・。

去年5月にハートネットTVの枠で29分の番組を放送したところ、
多くの方から「続きを見たい」と言っていただき、
さらに1年、早川先生のもとに通わせていただきました。

ご覧いただけましたら幸いです。

放送予定は以下の通りです。

ETV特集
「こんなはずじゃなかった ~在宅医療 ベッドからの問いかけ~」
放送 :4月1日(土)午後11時00分〜 午前0時00分 NHKEテレ
再放送:4月6日(木)午前0時00分〜 午前1時00分 NHKEテレ
※5日(水)の深夜です。

以下の二つのサイトで番組を紹介しています。

<NHKのドキュメンタリー紹介のサイト>
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259557/

<ETV特集のHP>
http://www4.nhk.or.jp/etv21c/

川村雄次
NHK 制作局 文化・福祉番組部
チーフディレクター
[…]

(関心ありそうな方にご紹介いただけたら大変ありがたいです。
MLやSNSなどに転載してくださる場合、
私の連絡先は削除しておいてくださいますようお願いします。)

◆2016/05/26日(木)20:00―20:29NHK・Eテレ「こんなはずじゃなかった――医師 早川一光」ハートネットTV 再放送:6月2日(木)13:04―13:34
 http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2016-05/26.html

 「地域医療のパイオニアとして知られる老医師が、がんになりました。自宅で、自らが作り上げた手厚い在宅医療、在宅介護に支えられながら、「こんなはずじゃなかった」と語り、それを題名にした新聞連載を始めました。医師の名は、早川一光、92歳。戦後、京都市西陣で住民立の堀川病院を作り、「在宅医療」という言葉も制度もなかった時期に、積極的に地域に出る活動を展開。「西陣の路地は病院の廊下や」を合言葉に、病院を出ても安心して医療を受けられる体制を整えました」

◆2015/04/26 「わらじ医者、がんと闘う 死の怖さ、最期まで聞いて」
 『京都新聞』2015年04月26日
 http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20150426000088

 写真:診察を受ける早川さん。がんで闘病生活を送っている=京都市右京区
 「グレーの長袖シャツの下の胸はやせこけていた。深いしわが刻まれた肌に聴診器が触れる。「調子はどうですか」。永原診療会千本診療所(京都市上京区)の根津幸彦医師(59)は、訪問診療でベッドの患者に尋ねた。「先生、夜がこわい」。早川一光さん(91)がしゃがれ声で訴えた。
 早川さんは、戦後間もない時期から堀川病院(上京区)の前身となる診療所の設立に関わり、西陣地域の医療の充実に力を注いだ。「わらじ医者」と慕われ、テレビドラマのモデルになった。老いや認知症を取り上げた著書も数多い。KBS京都のラジオ番組に28年にわたり出演し、講演も精力的にこなしてきた。
 そんな早川さんが医師から患者になった。昨年10月に腰の圧迫骨折で入院し、思ってもみない病名を告げられた。血液がんの多発性骨髄腫。抗がん剤治療を続けながら、右京区の自宅で闘病生活を送っている。
 多くの人をみとり、老いや死について語ってきたはずだった。しかし、病に向き合うと一変、心が千々に乱れた。布団の中では最期の迎え方をあれこれ考えてしまい、眠れない。食欲が落ち、化学療法を続けるかで気持ちが揺れた。「僕がこんなに弱い人間とは思わなかった」。長年の友人である根津医師に嘆いた。
 2人は一時期、堀川病院で働いた仲だ。根津医師は今も西陣地域で診療に携わる傍ら高齢者の孤独死を防ぐために交流会を開き、市民運動にも関わる。早川さんは、そんな姿に自らの来し方を重ね合わせ、親しみを感じてきた。在宅医療を受けると決めた時、思い浮かんだのは彼の顔だった。
 根津医師には時に患者としてのつらさを、時に医師の視点から治療への疑問を率直にぶつける。ある日、こう投げかけた。「治らないのに鎮痛剤で痛みを分からなくするのが今の医療か。本当の医療とは何や」。根津医師が迷いのない口調で切り返す。「在宅医療では痛みや苦しみを取ることしかできない。でも、それは生活を守ること。患者のつらさを少しでも和らげる。早川先生自身もやってきた医療ではないのですか」
 診察のたびに繰り返される問答。いつしか早川さんはそこに、主治医のあるべき姿を見いだした。「10分でいいから患者の悩みを聞いてほしい。患者の最期までともに歩んでほしい」。患者になったからこそ、たどり着いた答えだった。
 3月19日。診察が終わった後の客間で、早川さんは吹っ切れたようにつぶやいた。「どうせ避けられないさんずの川や。上手な渡り方を勉強し、みんなに評価を問う。それが僕のこれからの道やないか」
 2日後の早朝、上京区のKBS京都のスタジオに早川さんの姿があった。久しぶりのラジオ出演。「初めて病む人の気持ちが分かった。死ぬ怖さを知りました」。今の心境を包み隠さず語った。放送が終わると、来場したリスナーが次々に歩み寄ってきた。かつて自分の患者にしたように、早川さんは一人一人の手をしっかり握った。
 □はやかわ・かずてる 1924年生まれ。愛知県出身。京都府立医科大卒。50年、西陣地域の住民の出資で設立された白峯診療所の医師になる。診療所が発展して開設された堀川病院で院長を務め、往診や訪問看護など在宅医療に力を入れた。「呆(ぼ)け老人をかかえる家族の会(現認知症の人と家族の会)」の立ち上げにも尽力。医学や哲学、宗教などの枠を超えて人間を考える「総合人間学」を唱えた。「わらじ医者京日記」など著書多数。」

◆『早川一光のばんざい、人間』
 http://www.kbs-kyoto.co.jp/radio/hayakawa/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E4%B8%80%E5%85%89

 「早川 一光(はやかわ かずてる、1924年 - )は、愛知県東海市出身の医師。
 京都府立医科大学卒業後、京都市上京区西陣に住民出資の白峰診療所を開設。白峰診療所は西陣健康会堀川病院に発展し、院長、理事長を歴任、「自分の体は自分でまもる」をスローガンに、住民主体の地域医療に専念してきた。1997年から2003年までは、京都府美山町美山診療所で、農村での地域医療に携わってきた。
 現在は、1988年に立ち上げた総合人間研究所所長として、各地で講演活動を行う一方、わらじ医者よろず診療所を開設、医療相談も行っている。
 また、1987年より毎週土曜日(午前6:15 - 午前8:25 JST)に、KBS京都ラジオで「早川一光のばんさい、人間」で番組を持っている。
 1980年、「わらじ医者京日記」で第34回毎日出版文化賞を受賞。1981年にはこの本を題材にしたNHK連続ドラマ『とおりゃんせ』(田村高廣が主演)が放映された。地道な地域医療を実践していることから、「わらじ医者」と言われている。」

◆立岩 真也 2014/09/01 「早川一光インタビューの後で・1――連載 103」『現代思想』41-(2014-9):-
◆立岩 真也 2014/10/01 「早川一光インタビューの後で・2――連載 104」『現代思想』41-14(2014-10):8-19



1924生 
1948 京都府立医科大学で8人の学生が放校処分を受ける→復学運動
1948 京都府立医科大学卒業
1950 京都・西陣に住民出資による白峰診療所開設
19550826 幸恵と結婚(中里[1982:109])
1957 長女誕生(中里[1982:109])
1957 市議会議員に当選
1958 堀川病院開設、副院長に(25床・3階建(中里[1982:110])
1959 次女誕生(中里[1982:109])
1961 堀川病院京都民医連を脱退
1966 堀川病院北分院開設
1977 高齢者相談(京都新聞社社会福祉事業団開設)老人ボケ相談を担当(早川[1979])
1982 ドラマ人間模様『とおりんゃせ』放映(早川[1979:389-391]
1987 KBS京都ラジオ「早川一光のばんさい、人間」始まる
1984 堀川病院の院長・理事長を退任し顧問に
1988 総合人間研究所開設 所長
1997〜2003 京都府美山町美山診療所で農村での地域医療に携わる。
1998 京都府美山町の美山診療所の公設民営化に従事、所長を務める
1998 堀川病院「院外処方」を一方的に通知
1999 堀川病院顧問を辞任
2002 京都・衣笠に「わらじ医者 よろず診療所」を開設

■著作

◆早川 一光 19790915 『わらじ医者 京日記――ボケを看つめて』,ミネルヴァ書房,384p. ASIN: B000J8EQ8K 1200 [amazon] ※
◆早川 一光 19800915 『続 わらじ医者 京日記』,ミネルヴァ書房,248p. ISBN-10: 4623013219 ISBN-13: 978-4623013210 980 [amazon][kinokuniya] ※
◆吉沢 久子・早川 一光 編 19820620 『銀の杖』,自由企画・出版,223p. ASIN: B000J7H4I0 [amazon] ※
◆呆け老人をかかえる家族の会 編/早川 一光 監修 19820715 『ぼけ老人をかかえて』,合同出版,242p. ASIN: B000J7MZ48 \1260 [amazon][kinokuniya] ※ a06
◆早川 一光 編 19830415  『ボケの周辺――老いを支える人間もよう』,現代出版,234p. ISBN-10: 4875972105 ISBN-13: 978-4875972105 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19830525 『親守りのうた』,合同出版,205p. ASIN: B000J7EN1Q 900 [amazon] ※
◆早川 一光 19830701 『ボケてたまるか!――早川一光講演録』,神奈川県老人クラブ連合会,65p. ISBN-10: 4915245233 ISBN-13: 978-4915245237 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19840420 『ポックリ往く人逝けぬ人』,現代出版,222p. ISBN-10: 4875972148 ISBN-13: 978-4875972143 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19850301 『ぼけない方法教えます』,現代出版,238p. ISBN-10: 4875972180 ISBN-13: 978-4875972181 1000 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19850320 『ぼけの先生のえらいこっちゃ』,毎日新聞社,245p. ISBN-10: 4620304697 ISBN-13: 978-4620304694 [amazon] ※
◆早川 一光 19860822 『畳の上で死にたい』,日本経済新聞社,205p. ISBN-10: 4532094240 ISBN-13: 978-4532094249 980 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19890501 『長生きも芸のうち――となりのおばあちゃん』,小学館,221p. ISBN-10: 4093870454 ISBN-13: 978-4093870450 951+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19900620 『おいおいあんなぁへえー』,発行:京都21プロジェクト,発売:ふたば書房,222p. ISBN-10: 4893201255 ISBN-13: 978-4893201256 971+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19911125 『ほうけてたまるか』,労働旬報社,214p. ISBN-10: 4845102218 ISBN-13: 978-4845102211 ※ 1262+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19920410 『ボケない話 老けない話』,小学館,213p. ISBN-10: 4093870845 ISBN-13: 978-4093870849 1100+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19951001 『ボケないひけつ教えます――看護と介護の道を歩く人たちとともに』,小学館,221p. ISBN-10: 4093871671 ISBN-13: 978-4093871679 1165+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19960115 『わらじ医者健康問答』,発行:京都21プロジェクト,発売:ふたば書房,237p. ISBN-10: 4893201573 ISBN-13: 978-4893201577 1456+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19960915 『いきいき生きる――人間学のすすめ』,京都新聞社,207p. ISBN-10: 4763804030 ISBN-13: 978-4763804037 1456+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19980925 『お迎え来た…ほな行こか――老いと死、送りの医療』,佼成出版社,214p. ISBN-10: 433301865X ISBN-13: 978-4333018659 1400+ [amazon][kinokuniya]  ※
◆早川 一光 20030930 『大養生のすすめ』,角川書店,236p. ISBN-10: 4048838474 ISBN-13: 978-4048838474 1400+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20031010 『老い方練習帳』,角川書店・新書,203p. ISBN-10: 4047041475 ISBN-13: 978-4047041479 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20031120 『人生は老いてからが楽しい』,洋泉社,205p. 1300+ ISBN-10: 4896917707 ISBN-13: 978-4896917703 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20040810 『ほな、また、来るで――人を看るということ』,照林社,311p. ISBN-10: 479652083X ISBN-13: 978-4796520836 1600+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20041105 『お〜い、元気かぁ〜――医の源流を求めて』,かもがわ出版,203p. ISBN-10: 4876998434 ISBN-13: 978-4876998432 1700 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20050210 『老いかた道場』,角川書店・新書,218p. SBN-10: 4047041912 ISBN-13: 978-4047041912 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20050515 『ひろがれ、ひろがれ九条ねぎ(祈ぎ)の輪――早川一光 憲法わいわい談義』,かもがわ出版,79p. ISBN-10: 4876998787 ISBN-13: 978-4876998784 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20080410 『わらじ医者 よろず診療所日誌』,かもがわ出版,157p. ISBN-10: 4780301750 ISBN-13: 978-4780301755 1500+ [amazon][kinokuniya] ※



・〜1945〜

「早川 いやいや、そのころ〔早川が白峰診療所に行ったころ〕には社会運動をなさっていた先輩がたくさん復員して帰ってきてまして、いずこからともなく現れて(笑)、私たちに教えるわけですね。そして、「おまえ、あそこの診療所へ行け。おれはここだ」といった調子で決めていくわけです。そうやって学生運動を続けてきた連中が行った診療所が、京都における医療民主化の火付け役になっていますね。
 もっとも、私たちがその民主化運動のパイオニアかというとそうではないんですよ。あの戦時中の厳しい統制のもとで民主的な医療をやってきた、いわゆるヒューマニストの先輩がいたんです。宗教的な見地から民主化運動を実践なさった先輩がいた。これが私たちこち指針になりましたね。あの人たちがいなかったら、あんなにすんなりとはできなかったと思います。
鎌田 それは戦前から?
早川 戦争中ですね。亡くなられた松田道雄先生(小児科医・思想家)などは「結核というのは社会的な疾患である」と西陣の結核問題に取り組み、憲兵に目を付けられて一年ほど監獄に入れられている。そういう先輩が京都にはいたのですね。松田先生の実践や左久病院の若月俊一先生の取り組み――「農民と共に」ですね、これが私たちの指針だった。▽141 ▽142 若月先生が農民のなかにというのたったら、私も町衆のなかにありたい。そんな気持ちで燃えに燃えていたわけです。
鎌田 先生が西陣へ出るときには、若月先生の信州での活動をご存じだったのですか。
早川 風の便りで聞いています。お会いしたことありませんでしたが、そういう先輩から学んでいますから。奈良とか大阪には、いわゆる無産主義者がいるわけです。同和地区などで活動しており、若い私たちは大きな影響を受けています。当時の住民は生活が苦しく、シャウプ税制ですか、むちゃくちゃな税金に耐えられない。そんな現伏のなかで、自主申告をめざす納税の民主化と、国民皆保険をめざす医療の民主化に住民が乗り出す町衆運動が盛り上がっていくわけです。それと私たちの学生運動が結びついていく。税務署が入つて子どもの三輪車を差し押さえたというので、出かけたこともあります。税務署の車の前に寝転がって、轢くなら轢いていけと……。」(鎌田・早川[2001:140-142])

 「京都府立医科大学では、1945 年11 月に学生自治会や大学構成諸団体による自治組織が発足し、学内の民主化運動(教授会の公開、入院患者の給食要求など)が活発になっていた(京都府立医科大学百年史編集委員会 1974)。こうした一連の学内民主化運動に対し、大学側は、1949 年11 月11 日、学生や、学生を支持した教授や医局員に、放学・休職を命じた10。この中に、後に堀川病院院長になる竹澤徳敬(当時、京都府立医科大学付属女子専門部教授)や、白峯診療所の設立に関わった早川一光(当時、京都府立医科大学付属病院外科医局員)がいた。早川は、在学中に終戦を迎え、民主化運動が盛んになるなか、学生自治会の設立に関わった。学生運動を通じて、「人民の手による人民のための政治」が民主主義であるとの思想をもった早川は、自分たちの生活は自分たちで守る住民運動に、医療における「民主化」の意義をみいだしている(『西陣健康会だよりほりかわ』 第224 号 1985 年9 月10 日)。」(西沢[2011:214])

 「敗戦で正しいことが正しくなくなる
 1945 年(昭和20 年)8 月15 日、日本は戦争に負け終期末を迎えました。日本人はどん底に、食べるものもない、住む家もない、親族の誰かが死んでいました。残されたものはどうするかが問われました。民主主義はアメリカから入ってきました。それまで正しいと思っていたことが正しくなくなったのです。自立、自主、共生という考え方がデモクラシーでした。下から、自己主張をせよ、労働組合や生活と健康を守る会、学生運動などまとまれ、団結せよと立ち上がりました。
 学生時代に本当の民主主義を考える
 私は戦時中は医学部時代かくれて部落の医療などに手を差しのべました。トラホームや 結核などの対策で、社医研などは、アカと言われ憲兵がやってきました。京都府立医科大学で学生自治会を作りました。自治会運動をやり民主主義を考えました。自ら求めていく、学問も親から言われてするのは間違い、大学でも自ら行く、これが本当の民主主義だと思います。」(早川[2009]



 「戦後まもない京都では、健康保険制度の普及につれて医師運動の柱として保険医協会は「医師の主体性の確立」を強く主張した。
 健康保険の赤字を理由にともすれば制限治療、統制医療の強化される中で、京都独得の反官僚・反中央の土根性は、二枚腰のような反骨の抵抗運動を起こした。
 私たちの病院の竹沢院長たち在野気骨の師が
「医師の主体性仕が守られてこそ、患者のいのちが守られる」
 と主張して確信をもって、医療の民主化の波を起こしていった。
 それは医師の「良心」を守る運動でもあった。
 当時、政府は「国民皆保険」の制度化を急速にすすめていた。国民から一定の保険料を▽110 徴収し、国は補助費を出して、乏しい財政の中から、国民はどこかの健康保険に入る皆保険の制度を推しすすめていた。
 確かに”誰でも医療にかかれる”一応の保障は国民の要望でもあり、国民のいのちを守るのにすばらしい効果があった。
 日本人の平均寿命は目にみえてのびていった。
 しかし、乏しい国の補助では、国民保険はいつも赤字の運営にさらされた。
そのしわよせは、うなぎのぼりに高くなる国民の負担と、診療をあずかる医師側に、強く寄せられていった。
 現場での医療は、同じカゼでも、病人のひとりひとりの顔がちがうように、患者の生活・体質・環境によってみなちがっている。従って治療の仕方も内容もちがって当然である。
 ところが、保険制度となれば、その制度の一定の方針の中で、自ずときめられたワクの中で医療が行われざるを得なくなる。
 今までのような、医締ひとりひとりの特技、治療に対する方針はだんだんと認められなくなって、型にはめられた通り一ぺんの治療を余儀なくさせられる。
 これは医師にとっては「苦痛」であった。まして、往診は何キロまではいくら、診察料▽111 何時まではなんぼ、この薬は何グラムまでこれだけと報酬がきめられれば、好むと好まざるとに拘らず、収入の少ない医療行為はしなくなり、労力の多くかかって保険の評価の少ないことは避けようとする。
 医師も人。医者も労働者。生きていく権利があり、休む権利があるとなる。
 生活保護法による医療は、一番ひどかつた。「生活保護の患者は、必要最低の医療を行うべきだ」との厚生省通達が私たちにおりている。
 「何たる事だ! 生活を保護しなくてはならない患者こそ、最高の医療であるべきだ。食うに困っておればこそ、栄養もおとろえている。最高の食事と、充分な手だてが必要だ」と私たちは、どんどんと治療をした。
 何回も呼び出され、「濃厚治療だ」「過▽112 剰診療だ」と言われた。「何さ」と私たちは、生活保護患者友の会をつくって、患者さんと一しょに交渉してゆずらなかった。京都の人たちは、この運動を影に日なたに応援してくれた。これを、
 私は「都びとの反骨」と呼んでいる。
 戦後の医師会運動を指導した竹沢院長は、「医師の主体性」を主張すると同時に、「医師の果すべき社会的な責任」をも医師運動の中で提案して実行をせまっている。
 医師会の手による休日診療体制、看護、検査、放射線技師教育、医師会オープン病院、医師会主導の地域医療活動等々……。
 しかし、その主張は医師の生活権保全の運動の強さにおされて、その頃は容易に実現されなかった。
 医療機関の日本一多い京都が、土曜、日律曜、深夜、お正月には無医村に近くなる時もあった。
 私は、医師の主体性の圧迫は、「医療の萎縮」を呼び、患者の主体性の無視は、「医療の不信と荒廃を来たす」――
 と思っている。」(早川[1980:109-112])

・1950

 「1950 年、800 人ほどの住民の出資によって、3 万8 千円の基金が集まり、白峯診療所が開設された。10 畳一間、診察台は机の上に置かれた一畳の畳であった。医師は早川のほか、陶棣土(当時、京大結核研究所)、村上勉(当時、京都大学インターン)、そして、市内で小児科を開業していた松田道雄や耳鼻科を開業していた竹澤徳敬が後押しした(『西陣健康会だよりほりかわ』第170 号 1981 年3 月10 日)[…]
 白峯診療所が開設された1950 年、西陣地区には、5 月に仁和、9 月に待鳳、12 月に柏野の各診療所が、生活を守る会や健康会が基盤になり、住民出資によって設立されている。白峯と同じように、京都大学や京都府立医科大学をレッド・パージされた医療者たちが参加した。この4 つの診療所が、1951 年に「関西民主的病院連合会京都支部」を結成し、1953 年には、京都府・市内の「民主的11」といわれた診療所や開業医とともに、「京都民主的医療機関連合会(以下「京都民医連」と略す)を結成した。現在の京都民医連の母体である(『堀川新聞』 第32 号1962 年2月10 日)。この背景には、当時の蜷川虎三府政12 の影響が少なからずあった。蜷川府政は中小零細業者の擁護と保険医療を守る施策を打ち出しており、中小企業組合や京都府医師会も蜷川府政を推していた(京都府政研究会1973)。このような背景のもと、白峯診療所は、住民出資・医療懇談会・住民優先の理事体制を理念としてもち、運動を展開していった。」(西沢2011:214])

 「医療に困った西陣の人たちが、貧しい中から五円、十円とお金を出しあい、約八百人の方たが三万五千円ほど集めて織り屋さんの工場の跡にっくった診療所に勤めだしたときは、
 住民が運動の仲間だったので、みんな友のようにその名前をおぼえた。
 京極学区の遠藤さん、西陣学区の渡部さん、室町の立入さん、正親の勝部さん…。学区の活動家の名前は今でも次々と出てくる。当時は患者さんが来るのを待っていては病気も手遅れになるので、ドンドン、家に出かけて、”出前・用聞きの医療”をやった。すると、こんどは、町名、職業で人の名前をおぼえた。」(早川[2004:91])*
*早川 一光 20041105 『お〜い、元気かぁ〜――医の源流を求めて』,かもがわ出版,203p. ISBN-10: 4876998434 ISBN-13: 978-4876998432 1700 [amazon][kinokuniya] ※

 「京都府立医大を卒業した早川が、西陣の一角に白峰診療所をつくったのは、一九五〇年のことだ。
 西陣は、医大の医局にいたころから、よく診て回った。まだ健康保険制度もないころ、健康だけが”資本”の住民が貧しい生活の中から資金を出し合って、ここに診療所をつくったのだ。民家を借り受けた六畳の診療室と、二畳の待合室。早川と当時まだ二十歳だった妻・幸恵は、その日から、診療室にとどまらず、一軒、一軒住民の健康状態を聞いて回った。
 しかし、老人は医者に診せずに寝かせておき、一家を支える働き手であっても病状が重くなるまで放っておき、仕事ができない状態になるまで病院へは行かない――というのが西陣ではごく普通のことだった。
 だから、病気のご用聞きのような仕事には、「よけいな事をするな」と追い返されるのが関の山だった。塩をまかれた、「疫病神!」とどやされることすらあった。
 診療所に来る患者といえば、生活保護世帯の人ばかり。当時の早川は、月給三千円ということだったが、三年間は生活費らしきものが妻の手に渡ったことがなかった。
 ▽197 そのころ生まれた長男が、幽門狭窄で、府立医大病院に入院したころは、早川の生活はドン底になっていた。
 「給料がもらえなかったので、医療保護を受けに行ったら、「医者に保護を出したことは一度もない」と言われました。しかし、収入はないんだから、結局、保護は受受けましたよ。今になると笑い話ですが……」
 数少ない着物も質で流してしまった妻は、公園でパンを売り歩いた。一個九円で仕入れたクリームパンを十円で売る。これで得た一日二百円程度の儲けで、三日間生活するという暮らしだった。」(中里憲保[1982:196-197]

 「医療に困った西陣の人たちが、貧しい中から五円、十円とお金を出しあい、約八百人の方たが三万五千円ほど集めて織り屋さんの工場の跡にっくった診療所に勤めだしたときは、
 住民が運動の仲間だったので、みんな友のようにその名前をおぼえた。
 京極学区の遠藤さん、西陣学区の渡部さん、室町の立入さん、正親の勝部さん…。学区の活動家の名前は今でも次々と出てくる。当時は患者さんが来るのを待っていては病気も手遅れになるので、ドンドン、家に出かけて、”出前・用聞きの医療”をやった。すると、こんどは、町名、職業で人の名前をおぼえた。」(早川[2004:91])

・1957 市議会議員に当選

「早川 […]税務署がくると、石油缶か何かをガンガンガーンと叩いて知らせるんです。それを私たちは聞きつけて、出て行って、あれが楽しかったな(笑)。その辺は民主化なんていう大げさな理論ではなくて、困っている人たちを黙って見ているふりはできないということかな。自分たちの生活だけを守るという運動ではなくて、「困っている人は皆一緒や」という連帯感が強かったですよね。あのなかから生まれてきた京都の民衆運動が、いわゆる民医連(日本民主医療機関連合会)の中核になっていくわけです。学区ごとに民衆の診療所ができていって、それらのユニットが民医連というかたちになっっていくんです。
 そのとき、大いに議論されたのは、「民主医療」なのか「民主的医療」なのかということです。民主医療にこだわる共産党の主張と、民主的な幅広い戦線をめざす開業医らも含めた主張が激しくぶつかり合った。
鎌田 どっちになったんですか。
早川 民主的医療なんです。開業医の先生のなかにも非常に憂丸た光圭がおられて、一緒にやろうということになったんです。これに党が反対するわけです。大衆追従だとね。
鎌田 党が組織を守るために、一人ひとりの思いを無視していくようになるんですね。政党というものは、どの党もこういった体質を持っているのですが、特に共産党はこれが強い。主張していることはいいことが多くても、ぼくはずっと肌が合いませんでした。それ▽143 で先生は、党からだんだん離れていったわけですね。
早川 私自身も党の一員で、中央の決定には従わなければなりません。基本的にはアンチテーゼを出しながらやったのですが、大衆追随主義だ、党派性が失われるという批判が出てくるわけです。私ら、全然妥協しませんでしたけどね。政党からみれば困った存在だったかもしれない。[…]
鎌田 京都の民医連から市議会議員に立候補されてますよね。あれは何歳のときですか。
早川 三三歳でした。そんな暇があったら往診するといったんですけどね。政党の勢力が拡大しても、住民自身が自分たちの暮らしを守るという意識変化を起こさない限りは世のなかは変わらない。ただ支配者が変わっただけ。真の民主化は住民からはじまるんです。
 でも、「おまえの医療が本当に住民に支持されているかどうか、住民に間うてみろ」といわれて、結局出馬したんです。選挙はおもしろかったですね。「私は議会に出るけれど、私が政治をするのではない。住民の皆さんが政治をずるのだから、必ず議題をあなたたちにところへ持っていく。自主的に市政協議会をっくって、議案を出してくれ。私は住民の意思を議会に持っていく」といって選挙戦をしたんです。「私ではダメだと思ったら、いつでもリコールしてくれ。それが民主主義だ。早川先生に治してもらったご恩があるから一票入れようなどとは考えるな」ともいいました。それではカにも何もならないですから。」(鎌田・早川[2001:142-143])

・資金

 「はいえな
 だんだん、西陣の人々との触れあいが深まっていった。”頼りになる診療所”から、やがて”ガよすがになる診療所”になっていった。”それでは病院をっくろうか”と理事会でもきまった。地域の人たちも”あんな診療所が病院になったら”と望んだ。こんどは千円、二千円とみんながお金を集め出した。気の遠くなるような運動だった。
 生活保護をもらっている一人ぐらしのおばあさんが、往診の時ふと私にことばをかけた。
 「セソセ、病院をつくらはるそうやな」
 「うん、入院もできん人たちが多いさいなァ」
 「わても出すさかい。センセ、わてに何ぼぐらい出せ言わはりますな」
 「うん、そうやな。おばあちゃんはひとリやさかいな。これぐらいええ」
 と私は指を三本出した。つめに火を灯すような生活の家。三百円でも言い過ぎたかと拾汗をかいて、指を出した。心を見破ったか。
 「三百円ぐらいで、センセ、病院建ちますかいな。あほな」「あさって、おいでやす。用意しときます」とおばあさん。
 後日、ひよっこりと家を訪ねた。新聞紙に無造作に包んだお金が古びた長火鉢の上に置いてあった。三十万入っていた。
 「何やな、これ」
 「わては、ひとりぐらしどす。いつ死ぬかわかりません。もしものことがあったらご近所に迷惑をおかけしますさかい、これで葬式してもらおうと、始末してためておいたもの。
センセが病院つくらはるんやったらお使いやす」
 私は手が震えた。
 ――病院づくりにはぜひ欲しいお金。しかし、しかし、このお金をいただいたら……。このお金に手をつけたら、もう病院はつぶせない、もう私は西陣から去れない。なぜなら、このお金はおばあさんの死に金(葬式代)だから。
 どうしようと一瞬迷って、おばあさんの目を見たらけ"アソタハンニオマカセシマス”と▽067 澄んでいた。「もらいます。おばあさん!」と言って私はカバンに入れた。
 もうその時、私はこの病院から離れるわけにはいかなくなった。少なくとも、こういういおばあさんの死をみとらん限りは、西陣を去るわけにはいかなくなった。このおばあさ人は、その時ぽつりと私に言った。
 「センセ。病院はな、外からはつぶれませんえ。つぶれるんやったらけ”うち”からどっせ」と。
 この言葉は、いまも私の頭の中に焼きつくように残っている。
 このおばあさん、やがて出来上がった新しい病院で、職貝のみんなの手厚い看護に見守られて老衰でなくなった。
 おばあさんがなくなっくから、親類と称する人々が現れてくる。「私はおばあさんの――に当たる」「僕はおばあさんの〇〇だ」。生前、何ぽかの財産分けてやると言▽068 われたという。まくら探しのように家の中を探し、三十万円の預かり証を見つけ、返済金を持って消えていってしまった。私は「これでいい」と思った。
 「こういう世の中だからこそここで医療するんだ」と私は思った。
 ここに私たちの病院の意義があるとも、思った。」(早川[1980:109-112])

 「山本こまさん、八十二歳のおばあさんだった。二十数年前のこと。小川通り、千家七近く、ひときわ低い格子戸が小さくひそと開いていた。そこに、これまたねこ▽291 背の小さなおばあさんが、いっも古い長火鉢(ばち)のそばに座っていた。
 おばあさんは、いついってもひとりであった。二間(ふたま)しかないひとりぐらしのおばあさんの家は、いつもきれいに掃除がきとどいていた。どうしておばあさんがひとりなのか、私は聞きただそうとも思わなかった。そんな湿っぱさは少しも感じさせなかったからだ。
 私は、せっせと往診かばんを自転車につんで、おばあさんの家に通った。おばあさんせは心臓が悪くて、歩けなかったからだ。おばあさんは医療保護な受けていた。
 「おばああさん、どーえ、きょうは。気分えーか」
 「ええ、おかげさんで」
 おばあさんは、いなかの神社の狛犬(こまいぬ)のような鼻に、しわを寄せて笑つた。ある日、往診した私におばあさんが之「センセ、病院たてなさるそうやな」と言った。
 「うん」「みんなが、お金出しおうてなさるそうやなな」「うん」「わても、少し出さしてもらいまっさかい。なんぼほど、セソセ、出したら」「おばあさん、無理せんでええ」
 ▽220 「そんでも、お世話になってまっさかい」「そうやなあ。おぱあさんひとりやさかいなあ。これくらいか」
 私はおずおずと指二本出した。二百円でええ、と心で言うた。おばあさんの狛犬の鼻が笑った。
 「センセ、そんなもんで病院たちますかいな、アホな」
 あさって用意しとくさかい、ついでに取りにおいでやすと言わhれて、ぜんぜん忘れ、ていた。
 往診にいった日、長火鉢の上に古新聞が丸めておいてあった。「これお使いやす」「なんや、これ」となにげなく開くと、二十万円が入っていた。
 「おばさん、どなんしたんや、これ」といえば、「わてはひとりぐらし。いつ死ぬかわかりまへん。ひとりで死んでたら、ご近所に迷惑をかけます。その時の葬式代。お使いやす」と。
 「うーん」と考えこんで、私は、「よしや、もらうで」と言った。
 こう言い切った時から、私は西陣を離れられなくなった。」(早川[1985:219-220])

・1958 堀川病院開設、副院長に

 「鎌田 住民が主人公の医療としての実践についてはだいぶわかってきたのですけれども、やはり経営や運営的なことを考えると、どうしたらそういう病院が成り立つのか。たとえば堀川病院の理事会の構成。住民から八人に対して病院代表は七名で、病院側の思いどおりにはならないすごい組織だと思いますが。
早川 これは、さっきの鞄や自転車と一緒なんですね。どうして八対七にしたかというと、必ず対立すると思ったのです。医療を受ける側と担当する側との利害が常に一致すぶるはヂはずがない。必ずこうしてくださいという要求が出てくる。医者も看護婦もたくさん働いてい▽171 るし、そんなふうにしたら病院が成り立たないと思っても、強い要求があれば赤字を出し・てでもやらざるを得ないわけです。しかし、そうなると住民側も、どうしたらよいのかということになる。患者さんがたくさん来れば大丈夫だということなら、地域の人たちが患者さんを集めてくれます。隣の人が病気だったら、「病院に頼んで診てもらおう」とすすめたり、受診していない人に受診をすすめてくれたりと、主体的な運動が展開されていくのです。
 経営をすべて公開して、こうしたらこうなるということをはっきり示せば、住民は自分たちでどうするかを考えるものなんです。」(鎌田・早川[2001:170-171])

・196402 堀川病院不正受給報道(早川[1980:113-120])

・1970

 「[…]京都市も、1970 年12 月8 日に、京都市議会普通予算特別委員会が開かれ、1971 年度から京都市における65 歳以上の老人医療費無料化を実施することを明らかにした17。1970 年は、蜷川知事が、6 期目の選挙を控えていた時期である。蜷川知事は、社会、共産両党と医師会、総評の推薦を受けており、老人医療費無料化に対しても積極的な推進の態度をとっていた。堀川病院および助成会としても、自民党政府による健康保険・医療制度の改正に対抗するため、革新自治体としての京都府政を支持する立場に立っていた(『医療生協助成会だより』 74 号 1970 年3 月1 日)。」(西川[2011])

・1977

◇早川 一光 19790915 『わらじ医者 京日記――ボケを看つめて』,ミネルヴァ書房,384p. ASIN: B000J8EQ8K 1200 [amazon] ※

 「高齢者なんでも相談」に参加させて頂いて、もう一年になろうとしている。
 京都新聞社会福祉事業団は、たいへんな仕事を始めたものだ。幸い、卓越した京大老年科奈倉先生、人格豊かな京都府医師会田辺先生、文字通り顔も丸い円熟した日赤栗岡先生はじめ、人生経験たゆたゆたる市老人クラブ連合会の面々、若い情熱をかたむけて新しい相談活動の創造を試みられる福祉事務所の方たち、地道な年金相談、ましてにこやかな受付業務を引き受けて下さっている皆さん、そしてボランティアの方たちにお会いできて、私自身ひそかな「甲斐(かい)」を感じた一年だった。
 「なあ、中川健太朗さん、湯浅晃三さん、やるからには、天神さんでゴザを張るような相談をしようなァ」と話し合う。

◇市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

1977年「八月に、同志になれそうなところを僕と黒岩でかき集めて、地域医療懇談会というのを開くんです。こじんまりとした交流会ですけど。夏だったし、遊びの要素も半分入れつつ、葉山でディスカッション。これがその後、医療分野において、ゆるいけれども一種の一派をなすものに育っていきます。その記念すべき最初の一歩が七七年の夏です。僕にとってはその後いろいろと社会的発言や活動を再開していくなかで、つねに”バック”をなしていた勢力ができはじめる。[…]
 集まったのは、うちの病院と黒岩のところ――あついはもう浦佐(新潟県)で「ゆきぐに大和病院」をはじめてた――以外では、関西の阪神医療生協――元は社会党系――の今泉さん、精神科では初音病院、これから病院作るぞとぶち上げていた九州の松本文六たちでしょ、それから当時民医連から脱退していた京都の堀川病院なんかも来てくれた。僕は堀川病院とは親しくしてて、うちに地域保健部を作るときに見学に行って参考にさせてもらいました。浦池のルートで、やつの兄貴も来たな。九州で病院グループを経営してたんだけど、これが左翼でもなんでもなくてさ、「ミニ徳洲会みたいな感じで経営者根性丸出しのことをまくしたてるから、堀川病院の早川[一光]大先生、怒って帰っちゃった。」(市田・石井[2010:225])

・1979

◇早川 一光 19790915 『わらじ医者 京日記――ボケを看つめて』,ミネルヴァ書房,384p. ASIN: B000J8EQ8K 1200 [amazon] ※
 帯裏「恍惚はもう恐ろしくない 松田道雄
 早川さんは私の三十年来の同志である。彼は医者の立場より病院の立場を大切にした。それに感じて病人たちは拠金して、「自分たちの病院」をたてた。病院になっても早川さんは、往診をつづけ、ろうじの奥の病人とどこまでもつきあった。病人たちは老いた。あるものは恍惚になった。それでも早川さんは往診してつきあうことをやめなかった。この本は恍惚にある人間と、その知己との心の通信の記録として未踏の世界を明らかにしている。」

・1980 「呆[ぼ]け老人をかかえる家族の会」の設立

 「連載「認知症と生きる」第2章は「家族の思い」を取り上げた。「認知症の人と家族の会」顧問の早川一光さん(87)=京都市=は、同会の前身で1980年に京都で結成された「呆[ぼ]け老人をかかえる家族の会」の設立に尽力、医師の立場で活動を支え続けている。早川さんに認知症への理解と家族支援の重要性を聞いた。(小多崇)
 −認知症に関わるきっかけは。
 「私は外科医で、精神疾患は専門ではない。35年ほど前、往診を頼まれて行ってみると、家の2階に鍵が三つ付いた部屋があった。中には80歳を超え、寝間着姿の女性が汚物を垂れ流し、床に座っていた。そのような患者を診る機会がなかった私は衝撃を受け、高齢化が大きな社会問題になるだろうと予感した」
 −その経験から家族支援に向かったのはなぜですか。
 「当時の家族は認知症を恥と考え、隠して、親戚にも知らせないのが当たり前だった。ところが『高齢者何でも相談会』を幅広い分野でやってみると、一番相談が多いのが認知症に関してだった。隠したまま苦しんでいる家族に接し、みんなで語り合う場が必要ではないかと考えた」
 「初めて開いた家族会で泣きながら語り、帰る時には笑顔になっている人を見て、やっぱり家族同士は分かり合えると確信した。参加者がホッとした気持ちになれたのは、悩み、苦しんでいるのは自分だけではない、という思いだった」
 −会について「あくまで家族が主体」と強調する理由は何ですか。
 「病気としての認知症に関する相談は医師や看護師らを頼っていいし、上手な介護技術を学ぶ場は別にあればいい。家族の会は、互いの話をじっくり聞く場。そして聞いた後も、その人を見つめ続け、フォローしていくところだ。経験した家族だからこそ理解し、同じ悩みの人を放ってはおけない」
 −認知症をめぐる家族の姿を取材すると、それまでの人生や家族・人間関係がいろいろな面で浮かび上がってきます。
 「人の死にざまは、生きざまがつくる。認知症と向き合う中で、結束する家族もあれば、バラバラになる家族もあり、同じ家族は一つもない。認知症と向き合うことは結局、人間としてどう生きるか、どうやって一人一人の命を大切にするかということ。命をテーマとした人生勉強だ。都市部だけでなく多くの地域で家族の会を設け、語り合ってほしい」」
 「重要な家族支援 「認知症の人と家族の会」顧問 早川一光さんインタビュー」(認知症と生きる 熊本の現場から)
 『熊本日日新聞』2011年9月10日朝刊掲載)
 http://qq.kumanichi.com/medical/2011/09/post-1816.php

・1987 KBS京都ラジオ「早川一光のばんさい、人間」始まる

◇早川 一光 19900620 『おいおいあんなぁへえー』,発行:京都21プロジェクト,発売:ふたば書房,222p. ISBN-10: 4893201255 ISBN-13: 978-4893201256 971+ [amazon][kinokuniya] ※
 「君の名は

 もうKBS京都ラジオの ”ばんざい人間”に出て十力月近くなる。
 よきスタッフに囲まれて 流れるようにスムーズに 番組をこなしてる――と皆さんお思いでしょうが どっこい
 そんなわけにはいきません
 最近になって ようやく
 「センセ ちよっと上手にならはって 安心して聞けますわ あの天気予報!」と言われるようになったけど ホンマは 放送日(土曜日)が近づくと 僕の胸の内は▽120
 ”今週は何をしやべろう”
 ”うまいこと 言えるやろか”
 ”トチラへんやろか”
 と ワラワラと田の稲穂のようにゆれる。
 番組の中でも番ニガ手なのは交通情報である――
 「なあんにもあれ 先生が言うわけではおへんがナ センセは名前だけ言わはったらええのにまた何で?」と思わはるやろ
 それがだナ それがむつかしうおす
 そら 私の眼の前のアシスタントの北出さんが 私の言い易いように いいやすいように
 「日本道路交通情報 京都の!」
 とあとをうながすようにいうてくれはるけど
 胸がドキドキして緊張の一瞬や▽120
 その日の担当者のお名前が出てこない――
 「先生みたいな厚かましいお人が?!」と不思議にお思いでしょうが
 その ”君の名”が出てこない
 もちろん 事務万事用意してくださる古川さんが 資料を机の上に置いてくださっているので それを読みさえすればいいのだが
 それがツーと出てこない」(早川[1990:119-121])

◇早川 一光 20080410 『わらじ医者 よろず診療所日誌』,かもがわ出版,157p. ISBN-10: 4780301750 ISBN-13: 978-4780301755 1500+ [amazon][kinokuniya] ※

 「京都にはもともと京都放送があった。京都新聞社の七階の一室に戦後、開かれた地方民間放送局であったが、そこにラジオドクターとして、病気の治療と予防について、短い時間帯に登場した。
 もともと
 *自分の体は、自分で守る。
 *自分たちのくらしは、自分たちで守る。
 をモットーにして、西陣織に働く人たちのなかに踏みこんで、夜な夜な、幻燈機やスライドを持って、露地のなかで”医療こんだん会”を開いていたので、ラジオはもってこいの活動、と思って、勇んで引き受けた。
 はじめは、畳二枚ぐらいの個室で、男性のアナウンサーと二人きり……。ガラス越しにディレクターのサインを見ながら、病を語った。
 あれから、もう一九年になる。▽074[写真]▽075
 週一回、土曜日の胡――今は六時一五分から八時二五分まで、NHKの「ラジオ深夜便」に対抗して、KBS京都「早川一光のぱんざい人間・びっくり仰天講座」として続いている――。
 一回も休んだことがない。
 ニ〇〇六年の一二月で”千回”の節目を迎えた。
 その番組のなかで
 ”わらじ医者よろず診療所”
 というコーナーがある。わずか一〇分間の時間だけれど、ぼくにとっては緊張の連続……そして全力投球の一瞬である。
 なぜなら、ラジオをお聴きになっておられる関西の方から、それはそれは思いもかけぬ質問・相談が、電話とフアックスでかかってくる。」(早川[2008:73-75])

・1988 総合人間研究所開設 所長

 「人生を照らす灯台でありたい
 千切り大根のように分断されてしまった人間の存在を、大きな視点で見つめ直すことを目的に、一九八八年に「総合人間研究所」を設立しました。「人問は総合的に見なくてはわからない」という私の考え方に賛同いただいた心ある方たちが集まって、知恵を持ち寄り、経験を話し合うことで、人間を照らし出す岬の灯台のような役割を果たしていければとの想いから出発しました。
 人問は、幸せであったり、健康で仕事に打ち込んでいるときには、外からの救いの手を必要とはしません。たとえてみれば、晴れ渡った見通しのいい海原では、灯台の明かりは目にも入りません。しかし、濃霧で視界が遮られたり、嵐に襲われ荒れ狂う波に翻弄される状態に陥ると、灯台の明かりはなくてはならないものとなるのです。灯台から放たれる明かりで、自分がいまどこにいるのか、これからどちらに艦をきれば座礁せずに航行できるのかを知ることができるのです。
 ▽231 総合人間研究所は、苦しい人生に生きていくべき方向をそれぞれの方たちに指し示せる存在であることを目標としています。「人間というものは、いったいどういうものなのか」「どのように老い、病をどう受け持っていけばいいのか」「死をどのように超えていけばいいのか」「死を見つめながら、いかに生きていけばいいのか」といったあまりにも途方もない課題に取り組んでいるわけですから、私の命のある間に光り輝く灯台を完成させることは到底不可能でしょう。わたしの癒し屋としての途方もない課題を次代の人たちが受け継いでくれるための基礎だけでも築いておきたいと願っているのです。
 九九年に長年努めた堀川病院の顧間を辞任したのを機会に、京都府美山町に「美山診療所」を開設し、山間の地域医療の確立にチャレンジしました。その後、ニ〇〇二年には、京都市内の龍安寺近くに「わらじ医者よろず診療所」を開設しました。
 戦後間もなくの「白峰診療所」からスタートした半世紀以上に及ぶ地域医療の経験を踏まえて、聴診器と血圧計、問診だけの診療を始めました。「八〇歳でこそできる医療とはなにか」をテーマにして、診察はもちろんのこと、電話やFAX、電子メールで病気のことや治療のこと、かかりつけ医には聞けないことなどについて、相談を受けつけています。」(早川[2003:230-231])

・1986

「訴え――全国に「畳の上で死のう会」の結成を

 ”死のうかい”と言うたかて、そうやすやすと死ねるものではない。死ぬ時だけうまいこと、と願うたって、それは駄目。
 毎日の暮らしざまが死にざまになって出る。しょせん。人間って「生きたきたように死ぬもの」と、早く気がついてほしい。”畳の上で往生”とは今の一日一日を、どう生きるかに尽きる。
 全国都道府県に、これを志す人々が名のりをあげて支部をっくってほしい。世話人を引き受けて下さる方が、その町、この村に会をつくって、定期的な会合と、新聞を出して、互いの経験を交流しあったらどうだろうか。
 各町村のお寺さんが、このセンターにでもなって頂ければ、何とすばらしい事ではないか。灰療と宗教の出あいというのも、こういう所から起こるのではないかと思う。
 皆さんの入会と名のりを大いに期待しています。当面は私の家にでもお申し出で下さい。
               京都市右京区竜安寺衣笠下町29(〒616)
                               早川一光」(早川[ 1992:202]

・1998 京都府美山町の美山診療所の公設民営化に従事、所長を務める

 「まず、となりの病気は自分の病気、集落の悩みは、自分たちの悩みと考えて
 お互いに、語りあい、はげましあい、助けあい、知恵とカを出しあっていかないといけません。
 これが”共に生きる”ということです。
 医療・保健は勿論、福祉の原点は、ここにあります。
 そのセンターが、今度、町の皆さんのカを集めて創られる美山診療所(医療センター)
と、お隣の保健センターの役目です。
 保健センターは「町立」ですが、医療センターは、公設民営です。

 公設民営とは、町の普さんが施設を建て、町の住民が運営に参加する形です。
 勿論、医療は、専門であります医療担当者が、いろいろ知恵をしぼって、町の皆さんの立場に立って頑張りますが、
 運営は、社会的な法人組織で、経営も医療活動も、共に考えながら、すすめて参ります。
 日本に珍しい、数少ない運営の形ですが、うまくいくかどうかは、町当局の皆さんと、住民の方たちと、医療をになう職貝とが、三者、信頼のもとに、何でも相談しながら事をすすめていくことにつきます。
 語りあうロと、よく聴く耳が勝負です。(99・9)

 医療の主人公は住民

 今から四年前、町の皆さんの為に三十三年余、医療を一手に引き受けて献身された、伊藤盛夫先生が病を得、▽166 やむなく、診療所閉鎖を町に申し出られた時、町長さん始め町議会の皆さんも美山に診療の灯が消えることを大変心配なさって、私の家をお訪ね下さり、
「何とか力を」
とおっしゃいました。
 […]

 町長さん、議長さんに。医療の担い手は、“私たちにおまかせ頂き”
 町の皆さんには、自分の健康を守るセンター(よすが)として、新しく出発する診療所を育ててほしい、運営にも経営にも参加してほしい、とお願いをしました。
 よく、ものの筋道を理解された町長さん、議長さんも
 共に汗をかきます
と約束して下さいました。
 今も、私は、町長さん始め、町の自治体の方たち、議云の皆さんを、信じて疑いません。お互いの信頼こそ、すべての基礎(モト)です。
 公設民営の民は、民間の民でなくて、住民の民だということ、医療も官公私立の形はちがっても、企業(事業)▽167 の側面があります。どんないい医療でも、事業として成り立たねば、続きません。
 共に汗をかいて下さい。私たちは、何の政治的意図も経済的目的もありません。
 診療所の財産は、法人のもの、――広く町の方たちのもの――です。私たちは、
 ただ、ひたすら、
 町の方たちが、安心して生活し、安じて老い、満足して人生を終えて頂ければ、それで満足なのです。さあこの十一月から、みんなの新しい診療所が出発します。よろしく。( 99・10)」(早川[2004:165-167])

 「もともと、病気は患者さんのもの
 医者のものではありませんでした。いつの間にか、病気を病人から医者が取りあげてしまっていました。カルテも見るな、のぞくな。くすりも聞くな、問うな。まか▽197 せなさいという医療が長くつづきました。

 病院の立場に立つ医療… 住民の為の良心的な医療… という医者がいますが、”医者がよかれと思う医療が必ずしも患者に住民に、いい医療とは限らない”ということが、、この頃ようやく分かりかけてきました。

 やっぱり、かく言う私も医療を施す側に、知らず知らずのうちに立っています。
 これは、医療側からいくら努力しても限りがあります。私は、医療を住民の皆さんに返す、住民の皆さんは、医療を自分のコトとして参加する―
 この双方の謙虚な運動こそ、これからの美山の医療だと確信します。

 それには美山の町の人々が
・自分の体は、自分で守る
・自分たちの”くらし”は自分たちで守りあう
という美山町町衆の考え方が、自主・自立・自衛そして共生の思想に立つことです。」(早川[2004:196-197])

 「わらじ医者ひとり旅立ち

 美山町の皆さん… お世話になりました。七年間いい夢を一杯見させて頂きました。伊藤先生のご病気のあと、中田町長さんから”美山の診療の灯を消さないで”との、町の方たちの自然と健康を思う熱情あふれる一言で、五十年の西陣地域での医療に区切りをつけ、美山にハセ参じて参りました。
 まず私は、美山の皆さんに
・自分の体は自分で守る
・自分たちのくらしは、自分たちで守る
という自主・自立・共生の心を持って頂きたいと願いました。
 そして、日本には珍しい”公設民営の診療と医療機関”の創設を訴えました。町当局の方も、議会の皆さんも、そして町の人たちも、医療を考える道筋と住民参加の道を開き始められました。
 私たち医療をおあずかりした者は、
 いつでもだれでもどこでも必要なときは、医昔にかかれる体制―二十四時問、開かれた一次救急医療―二四時間、開かれた一次救急医療
・町の皆さんが畳の上で死ねる在宅医療―往診と訪問医療―
・デイケア、リハビリの部門
を開設しました。
 美山ではここしかない十九床の入院べッドも用意しました。実は私の見果てぬ夢は、町に住む皆さんの毎日の“くらし”の中に医療と看護と介護を見つけていくことでした。
 いい汗も一杯かきました。一番苦労したのは、美山に住んで、町の皆さんと共に生活しながら医療をつづける“常勤医”をつくることでした。初代の秦先生、高先生、大矢先生、その他各先生もみんな一生懸命に医療にとりくんで下さいました。むつかしい数々の峠がありました。ようやく、松本先生、桑原先生の両常勤医師を迎え、重い肩の荷をおろしました。
 フト気付いたら、私も八十歳に手がとどきかけています。
 でも、美山の皆さん、これからも八十の臨床医でこそ出来る医療を、今後も創り出していきます。▽203
 お別れではありません。美山の皆さんと、私と新しい“旅立ち”の時です。いつでも、立ち戻ってきます。
 ありがとうございました。(02・6)」(早川[2004:202-203])

 
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■ボケない方法

「老いもボケも、すぐに来る己の姿だと、ハッと気がついた時、「ボケってなんだ」とい▽208 うことがおかわりになった時だ。
 ただね、必ず来る死と同じように、ひょっとしたら来る、もう今も来ているボケを、できるだけ遠くに追いやる努力は、皆さん、続けてほしい。
 必ず人間死ぬということを百も承知で、今の今を全力をあげて生きている今の自分のように。
 そして、呆けるまで、ボケずに生きてほしい。
 そしてね、“ボケたな”と思ったら、ニ、三日でコロンと死ぬ方法をみつけて。
え? そんないい万法があるかって?
ある、ある! なんにもむつかしいことはない。

ぜ〜ったいボケない暮らしのこつ十か条

 さあ、伝授しよう。――人にな語りそ、かしこみ、かしこみ、申さん――
 1 あれこれ
 そ、あれこれと考えることさ。当たり前のことを「え?」「あれ?」「なんでや?」と。
「なあ〜んや、そんなことか」って? そ、ソレがあかん。そもそも物ごとに真実(まこと)いうのはな、誰がみても当こり前のことさ。
 みんなが当たり前と見すごしてることに驚きを感ずること。
 2 4WDで
 Why? What? When? Where? そーら、みんな頭にWがつく字でしょ四つ並べてこれを4WDといいます。
 車も四つの輪に動力がかかる方がいい。人生の走りも全く同じです。そのうえ、Wonderful とものに感動しつつ走ったら、もう完蛮だ。
 3 一日に五回”あ〜っ!”と言え
。”あ〜っ!”とは感動さ。ということは発表――そとにあらわす――表現さ。訴うことよ。
 4 歌え
 ”訴え”が”うたえ”となる。五七五七七とリズムになりゃ短歌さ。五七五なら俳句さ。▽210 一つなら”絶句”さ。
 うなったら、うなり節。ひとりしみじみなら演歌、童心に帰りゃ、童謡、さ。
 5 笑え
 ケラケラでも、カラカラでもよろしい。笑って! 笑うのは人間だけよ。
 6 読め
 新聞も本も、なんでもよろしい。新聞広告でもシゲシゲと眺めよ。眼がうっとうしい? メガネをかえてでも読めよ。かたっぱしから、忘れていいから、読んで、読んで。
 7 書け
 忘れそうなら、メモをせい。そのメモを置き忘れたら、メモを置いた所をメモせい。。日記、手紙、いっぱい、書いて!
 8 ソロバンをおけ
 勘定でなくて勘案さ。こうなったらこうすると、前もって予定をたてて暮らせ。そしたら、ソロパンがおうたゾとなる。
 9 働け
 ▽211 死ぬまで働け。こけて骨折るな。骨折り損どころからホントにボケる。
 10 忍と耐
 ホッと気を抜くな。なにもすることのない暮らしが、いちばん危い。
 いっぱい趣味を持って、好きなことをやりとおせ。そりゃ、寝てる方が楽さ。けど、ラクダ、ラクダと言っているうちに、”あんた、ダーレ”となる。

 ありゃ、もう、これで十か条になったんか。この中の。”ひとつ”でいいから、身につけて暮らせ。
 ひとりで出来ること、また、仲間といっしょにすること。それは、人さまざまよ。
 ただね、”ひとりでよろしい! しかし、ひとりだけになるな!”
 そして、ボケたな、と思ったら、コロリと逝け。

 ポックリと逝く方法は、また、次の機会に伝授しよう。」(早川[1992:207-211])

 
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■人

◆松田道雄

 「そこに私たち青年医師が呼ばれて参加した。素手の医療であった。素足の医療でもあった。この素足、素手の医療と看護をじっと見守って下さった先輩たちがいた。その一人に、松田道雄先生がいた。
 松田先生は、すでに戦前からこどちの結核にとりくんでおられ、こどもの結核は親の結核によることを早くから指摘され、家族内感染の危険から、こどもをどう守るかを苦慮なさっていた。
 赤ん坊のB・C・G接種を市民運動として提唱されて久しい。疫学的発想でなくて、住民運動、社会運動としての結核から赤ん坊を守る医療活動は、例によって当時の官権から見張られ、弾圧されつづけたことは、想像にかたくない。
 私は戦後の西陣の自衛の住民運動を通じて、松田先生との出会いをいただいたが、考えれば必然と言えようか。後日、先生の父上と、私の父とが旧知の仲だと聞いてそのご縁に驚いている。
 ▽223 その小さな汚い診療所に松田先生が、毎週おとずれて、私たち若い医師に陶部X線写真の撮影と読影を手ほどきしてくださるようになった。診療所は貧乏であったので、先生なお迎えにあがることもできず、先生は歩いておいでになっていた。もちろん謝礼も出せなかった。しかし、正確な時間にキチンとおいでになって、ずぼらな私たふをろうばいさせた。
 療所内では手狭になったので、診療所の家主さんの応接室をお借りして勉強会をつづけたが、応接室とは名ばかり。ソファの布はやぶれ、スプリングがとび出して先生のしりをつっっく。家主のねこが数匹あばれて寝まそべるので、ねこのノミにかこまれて、我われは体をかきかき講義に耳をかたむけた。
 当時、我われには入手困難であった外国文献な、先生のすばらしい語学力で翻訳、解説してくださったことが、昨日のように思える。
 この学習会は、夜の診察が終わってから始まり、時に夜中の一時、二時におよんだ,ことが多かった。今の堀川病院の副院長さんたちは、この当時の松田教室の卒業者である。」(早川[1985:222-223])

◆竹沢徳敬

◇早川 一光 19800915 『続 わらじ医者 京日記』,ミネルヴァ書房,248p. ISBN-10: 4623013219 ISBN-13: 978-4623013210 980 [amazon][kinokuniya] ※

 「いしとかんじゃ

 うちの院長は、背丈の高い人である。
 古稀(こき)をいくつか越えてなお若々しく京都の私立病院協会の会長として、また高等看護学校、臨床検査技師学校の校長として、卓越した指導力を発揮されている。
 ”人を教えるということは、自分が学ぶということ”だと主張して、さかんに講師や実習病院を引きうけよと私たちにすすめる。
 ”私たちはまだ実習病院として実力もなく模範でもないので困る”
 ”教科書(たてまえ)とはちがったほんねをやっているので教育にならない”
 と反論すると「いや、それが教育。理論と実際とはちがうということを教えることが何より大切だ」と言い切る。▽106
 そして「教えようとすればこそ、こちら側も身を正すのだ」という。
 なるほど私たちが講師を引き受け、診察室に実習生が入れば、病人への応対、ことば遣,い、診察態度にも姿勢を正す。
 曲がりなりにも胸だけ診て背中を診ない手抜き診察をするわけにはいかない。,
 この院長は、私たちが青年医師のころ、大学の民主化の旗をかかげて教授会の公開をせまった時
 「教授会は、公開にすべきだ」
 と主張してやまなかった数少ない教授の一人だ。そのために休職処分になり、退官せざるを得なかった気骨の人だ。
 退官後、市中に耳鼻科医院を開くが、診療のかたわら日本の医師のあるべき姿を、健康保健制度の民主化の中に打ち立てようと情熱を燃やされた。
 特に健康保険の運用の中で”この薬は保険では使ってはいけない””この注射は保険ではこれ以上使ってはいけない””往診のしすぎだ””二日で治るようなものに、なぜペニシリンを使ったんだ”などと、医師の医療行為に制限を加え、病人の治療に当たる医師の良心を制限する官僚統制に、医師の力を結集して盾ついた。▽107
 その運動は、京都では日本の先頭を切って大波のように盛り上がった。
 とかく萎縮しがちな医師に深い自信と確信を与える運動だった。
 私はこれを”医師の主体性の確立”の運動だとみている。
 そういう院長が、私たち青年医師の”住民の中へ住民とともに”医療活動しようとする動きに援助の手をさしのべてこられる。
 いわば「医師の主体性の確立」と「患者の主体性の確立」との結合だった。この院長とともに医療をすること二十二年、いまだに患者さん、時々私のところに文句を言いに来る。 「院長先生は、何を聞いてもちっとも返事をしてくれへん」
 「この間も”病気は何でしょう?”と聞いたら”君が病名を聞いてどうするんだね”と言わはった。”こん▽108 どいつきたらよろしいでっしゃろ”と聞いたら”たかったらきたらいいよ”と言わはつた。そんな殺生な!」と訴える。
 ”これは困った。院長えらいこと言うてくれた”と思ったが、
 「そりゃあんたの聞きまちがいや。院長先生は”たかったら来たらいいよ。といわはったんやで。あんた耳が悪いさかい””と””とききちがえたんや」ととっさに説明したら「あ、そうかいな」と、半分納得して患者さん帰らはった。
 胸をなでおろして院長に言うと、
 院長は頭をかきながら「僕は君らのようにはできん。おれにできんことをしているから、ばくは君らを応援してるのだ」と素直にいう。」(早川[1980:109-112])

◇早川 一光 19850301 『ぼけない方法教えます』,現代出版,238p. ISBN-10: 4875972180 ISBN-13: 978-4875972181 1000 [amazon][kinokuniya] ※

 「 ▽224 医の主体性の道
 西陣の人びとと共に歩こうとする青年医師団を、温かく守ってくださる先生が、またいた。先の堀川病院院長竹沢徳敬(のりひろ)先生である。
 昭和二十年。八月のせみしぐれの中で、乾ききった敗戦を迎えた。私たち学生は、一瞬、バックボーンを失って立ちくらみした。自由のうれしさと、個の発見の喜びとともに、奔放に走るものと、大学内の民主化運動に走るものと分かれた。私は虚無からようやく脱して、民主主義とは何かを考え始めていた。
 戦後第一の学生運動の波は、大学民主化の運動であった。学長公選、教授会公開をせまって、私たち学生は動いた。しかし、大学の運営管理は、閉じた二枚貝のように固くしまって、なかなか開かれなかった。激しい交渉が行われた。
 とうとう学生の一部が非公開の教授会になだれ込んで座った。この事件を境に、座▽225 りこんだ学生数人が、放学処分になった。長い法廷閉争となった。この寺、教授会の中で、「公開すべきだ」と主張する教授がいた。
 これが竹沢徳敬先生だった。耳鼻科の教授であった。
 この民主化運動の中で、私は先生と出会った。背の異様に高い、鼻のまた高い外国人のような先生であった。先生は敬けんなクリスチャンであるが、事、弱いもの、疎外されて苦しむ者を守ることに関しては、一歩も引かなかった。
 放学された学生を抱え、復学運動を起こすとともに、教授会でその処分の非を主張してやまなかった。そして、ついに学生を支持する医区局員とともに、教授の休職処分を受けられた。
 先生は、耳鼻科医院な開業して戦後の医師会運動へ。私は、西陣の人びととともに住民参加の診療所へ、分かれて進んだ。この分かれ道は、実は先の方で一本になっていた。
 先生は、戦後の国民皆保険に従って、医師の医療における徹底した主体性を主張された。医師こそ、医療の主体である。と同時に、医師に高いモラルを持つようせまっ▽226 た。医師会立病院、看護教育、休日夜間診療の必要性を医師会運動として主張されたが、当時、その理解はなかなか困難であったようだ。
 私たちは医療の主体性は患者にあり、住民にあり、と主張した。先生は、この運動を温かく見守り、援助してくださった貴重な存在である。
 やがて、私たちの要請をうけて、ニつ返事で院長を引きうけてくださった。
 耳鼻科の診察室で、「先生、病気は何でしょうか」と聞く患者さんに、「君、病名を聞いてどうするんかね」と思わず返事をし、「センセ、今度いつきたらよろしいか」と問われ、「たかったら、たらいいよ」と答える。
 患者さんから苦情をきく私が、あわてて、患者さんに「あんた、耳が悪かったから、せきそこなったんだよ。院長先生は、”たかったら、たらいいよ”と言われたんだよ」と、冷や汗をふいて、説明する。「そうだ。ぼくになかなかできないよ。ぼくにできんことを君たちがやっているから、応援に来てるんだよ」と、先生は言う。」(早川[1985:224-226])

◇早川 一光 19850320 『ぼけの先生のえらいこっちゃ』,毎日新聞社,245p. ISBN-10: 4620304697 ISBN-13: 978-4620304694 [amazon] ※

 「竹尺院長を送る
 診察中の私に一通の分厚い封書が届けられた。
 ▽089 「うしろを向いて」と患者さんの背中を診察しながら、私は横目でその手紙を走り読む。涙がこぼれないよう上を向いたが、あふれてとまらなかった。
 ことし(昭和五十八年)三月四日。それは、うちの病院の竹沢院長からの手紙だった。院長は二月初旬から、体の不調を訴えて入院中であった。
 「実は発病の時、自覚的に今度は重い病気にかかったという感覚があり、それは主治医の谷口先生にも何度も言ったことですが、一ヵ月の経過で的中していたと考えております。
 そこで私は家族の者たちに、時間的に不明であるが、今度は再起不能で一、二ヵ月のうちに私の死の準備をするよう指示を与えてきました。手術の場所はすい臓の奥で開腹しても何ごともその時にならねばわからぬことゆえ、私は静かに終末を迎える心準備を一力月やって来ました……」
 と、その手紙にあった。
 私たち医師団も、ただごとでないことは百も承知しながら、院長にはすい臓の膿腫で押し通した。院長はそれをうなずき聞きつつ、すべてを知っていた。
 ▽090 それから院長の壮烈な死との闘いが始まった。医人として死を当然として受ヒアオつつ、「死んでたまるか」と全力をあげて抗う毎日であった。
 ぴったりと付き添うご家瓶には、痛みと苦しみを訴えられたが、客が訪ねると眼鏡をかけなおして身を起こし、目を大きく見開いて応答にあたられた。
 私は見るに堪えられなった。足が病室に向かなかった
 七月七日、何気なく見舞った私は、ふと院長の枕頭台にある便せんを見た。
 「堀川病院全職員の皆様方へ
 さようなら諸君、二十五年を一緒に楽しく苦しく誇らしく、また美しく生活した。思わぬ場所で、思わぬ日、時間に、私は感激と主の喜びの中で召されます。アーメソ」
 マジックべンで一字一字、全身のカなふりしぼってつづる字画は、終わりの行に近づくにつれ乱れていた。そして、このあと五十時間で悠然と逝った。
 「人間は、ぼけていいんだ」と主張する私に反論するかのごとく、院長は最後までぼけない姿をみせて去った。明治の気骨の人の死を見て、大正世代の私は、考えこんた。」

 
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■安楽死・尊厳死

◆早川 一光・吉沢 久子 「対談」,吉沢・早川編[1982:175-212]*
*吉沢 久子・早川 一光 編 19820620 『銀の杖』,自由企画・出版,223p. ASIN: B000J7H4I0 [amazon] ※

「吉沢 そういうことにちじっと耐えながら、呆けというのは治るのか治らないのかを考え、今後もし自分があのような立場になったら、安楽死を求める心境になりましたよ。 早川 呆けは治りにくいし、又、たとえ治らないでもよろしい。呆けることが安楽死ですもの。
 先程、先生とぼく合意しましたがな。自分が死ぬことをわからずに死んでいくこと、これは自然の安楽死。薬を一服もることは安楽死でもなんでもない。自然はちゃんと安楽死を用意してくれています。それは生きぬくことです。先生のお姑さんのように。あれが安楽死なんです。」(吉沢・早川[1982:199])

◆早川 一光 19840420 『ポックリ往く人逝けぬ人』,現代出版,222p. ISBN-10: 4875972148 ISBN-13: 978-4875972143 [amazon][kinokuniya] ※

 「▽110 安楽死の通行手形は生き抜く努力
 人間って楽に死ねるってことはないんです。安楽に死ぬのはね、不可能とはいいませんけど、たいへんむずかしいことです。それは、人間の体というのは、生きるようにできでいますからね。死ぬようにできている部分というのはひとっもありません。たとえ髪の毛一本でも伸びるようにできています。死んでからでも髪の毛は伸びるというくらい、生きるようにできています。
 生きているということは、生かさないとするあらゆるカに対して、これに抵抗するカが働いているということなんです。そこには、葛藤と、争いと、努力と、忍耐とが伴います。だから、生きるカを阻止するものは、必ず抵抗、葛藤がおきるはすで、それは苦痛ですから、安楽死というのはないと思います。
 ただ、一つあるのはね、その生きていくという苦痛を伺巨も伺回も乗り越えながら、▽111 どんな坂こんな坂、どんな坂こんな坂と乗り込えながら生きつづけてきた人がやっぱり最後に本当に楽に死んでいけるんです。そういう人がが安楽死への通行手形を握れるんです。「生きて生きて生き抜いた人」というのは、寿命だけじゃなくて、生きるために努力をしてきた人達なんです。それともうひとつ寿命いっばい生きてきて、だんだんもの忘れがすすんで、最高に親しい人も忘れて、自分の死ぬものもわからない、そういう死にかたが、ぼくは安楽死だと思いますね。
 社会的な仕事をして、生きがいを感じて、丈夫で健康で、良い人間関係をいっぱいもって生きる、そういう中でないと、安楽死なんかできないと思いますね。
 それでも、日常生活の中に苦痛というものはありますものね。その苦痛に耐えなくてはならない。
 悲しいけど、死は救いの側面があると思います。もう辛抱しなくていいんですから。すぺての人が救われる。
 そうね、死は救いなんです。死んではじめて、この人は生きる苦しみにたえなくていいんだなというのが死てすから。」(早川[1984:110-111])

◆早川 一光 19890501 『長生きも芸のうち――となりのおばあちゃん』,小学館,221p. ISBN-10: 4093870454 ISBN-13: 978-4093870450 951+ [amazon][kinokuniya] ※

 「おばあちゃん! 人の顔を見たら”死にたい”と言わんとき。そりや周りの者には皮肉に聞こえますがな」と言い添えてみる。
 「先生、何言うてはります。もう八十三も生きてきたら、酸いも甘いもなめ尽くしましたワ。もういつ死んでも構いまへん。平気どす」と言い切る。
 ”ほんとうかいな”と思っていたら、ムメばあさん、四つ角を由がる時、自動車が急に横▽168 からグイと来たら、あわてて歩道に戻った。”なあんだ、あのまま向こうへ渡ったらポツクリ逝けるのに――なんでまた、あわてて戻るんかいな”と思う。そして、”死にたい”と言うても、ほんとに死ねない体を持っている、とつくづく人間の業の深さを思う。
 西陣に長寿会という”長生きしようかい”がある。ムメばあさんもその会員の一人だ。
 このごろ、長寿会の皆さんが盛んにポックリ寺にお参りに行く。パスを仕立てて、五十人、六十人と団を組んで出かけて行く。
 その時に、必ず会長が診療所に出かけてきて、医療班を出してくれと言ってくる。先日も、お医者さんと看護婦さんがついて行った。途中で、車に酔ったり、急病が出てはいけない、もしものことがあってはと、医療班がついて出て行った。
 私は、「何で医者が、ポックリ逝きたいと祈りに行く人たちのあとにつき添うて行かねばならないのか」と不思議に思った。そんなに死にたければ、医者抜き看護婦抜きで行つたらいいのに、パタッと倒れても放っておいたら本望なのにな、と思う。救っていいのか、放置していたらいいのか、迷うところだ。”死にたい”と願いつつ、医者を連れていく西陣の長寿会のお年寄りもしたたかだ。いったい、死にたいのか、生きたいのか、わけがわ▽169 からない。
 「おばあさん、そんなに死にたかったら、そのバスが川の底にドスンと落ちたら、一ぺんその五十人がポックリ往生するのになあ」と私が言うと、
 「センセ、そんな殺生なこと言うて!」と真顔で怒る。
 「殺生って、やっばり、おばあさん、生きたいと違うか、いったいどっちが本当なのや」
 と畳みかけて聞くと、「それはそれ、これはこれ――」とすまして答える。
 その複雑なムメばあさんの顔を見て”死にたい”ということは、”生きたい”ということ。”心安らかに生きたい”と願っていることだと、読んだ。」(西川[1989:167-169])

◆早川 一光 19911125 『ほうけてたまるか』,労働旬報社,214p. ISBN-10: 4845102218 ISBN-13: 978-4845102211 ※ 1262+ [amazon][kinokuniya] ※

 「楽に死ぬということは、それは、出来ません。人間は一分でも一秒でも生きるように創られています。生きようとする力――死んでたまるか――という力が"いのち"(生命力)です。死がすぐそこまで来ても。全力をあげてそれに抗います。だから、苦しいんです。その苦しみからのがれ▽209 ようとするから、苦しむんです。だから、死んだら楽になるんで、楽に死ぬといっても無理なことです。
 たくさんの患者さんの生き死に立ち合ってきて、肩で息をし、小鼻を動かし、下顎を古ぼけた機関車のように激しく動かし、汗をたらし、歯をくいしばって呼吸を止めたとき、
”うんこれで患者さんは楽になったんだな”と思う。
 死が、実は、苦しみからの救いかもしれない。勿論、これは実証できないので、残る私の想いかもしれないが、そう思う。
 死ぬってこわい?
 死そのものはこわくないはずだが、死にいたるまでの道のりが、たまらない不安と恐怖を感ずる、と思う。それが、極く乳幼児期は軽度、加齢とともに増加し、子育て家守りの責任力あるとき、活力のあるときは恐怖感はピーク。やがて老化とともに薄らぐ。
 九〇歳を越え百歳以上ともなれば、"眠るが如く往生"というパスボートを握る。ただ、自然は恐怖を少しでも軽減しようと昏睡という妙薬を用意している。また、死に至るまでの時間も調剤する。一瞬の事故死は、恐らく恐怖を感ずる暇もなく死ねたのでは?と想いめぐらす。
 ▽210 私の、偏見であるだろうか。」(早川[1991:208-210])

 「▽167 延命と安楽死
 これから、医療と倫理の関係が問われてくる時代になってまいりました。倫理委員会などと組織をっくって、どのような冶療をするのか、どのような手当をするのか、これが問われてくる時代に入りました。
 それはなぜかというと、現在の近代医療は延命、一分、一秒でも長生きさせようとするのを目的とする医療です。そのためには手段を選びません。
 薬物と臓器移植と、そして手術を駆使して、一分でも一砂でも延命を図る。そういう医療が、一方では急速に発違してまいりました。
 その結果、本人が望まない延命、あるいは、もはやこれまでと本人が納得をしても、なおわれわれが延命を図るという医療も出てまいりました。
 ここに、患者さんご本人からも、無駄な医療、延命医療をしないように、あるいは自分ここに、患者さんご本人からも、無駄な医療、延命医療をしないように、あるいは自分がが息をひきとる場所、自宅であれぱ自宅、病院であれぽ病院、息を引き取る場所をはっきりとしておくことが必要になってきました。これが実は安楽死、尊厳死の発想の元になり▽168 ました。
 要は、今まで医療に携わる者に一任されていた命、体というものを、もう一度ご本人の手に取り戻す、返すという考え方が出てまいりました。これが医と倫理の関係になってまいります。
 インフォームド・コンセントという言葉があります。とにかく患者さんが飲んでいる薬、検査結果、あるいは受ける術式、それの副作用、あるいは効果、欠陥、そういうものをはっきりと知ったうえで治療を受ける権利が、患者さん側にあるのだということを、医療を担当する者も認め、医療を受ける者も、それを当然の権利として認めていかなくてはなりません。そういう論調が出てまいりました。
 これから二十一世紀は、ますますこの考え方がはっきりしてくると思います。
 特に、医療を受ける側の皆さんが、今まででのように、医療を施す者にすべて一任をするというものの考え方は、今後改めていきたいと患います。
 目分の体は自分のもの、自分の命は自分だけのものだというわかり切った原点に、もう一度立ちかえってみたいと思います。
 ▽169 医者は、痛みをとる努力、研究をもっとすすめていかなくてはなりません。痛ちは、人間が「人間である」ことを阻んでしまうからです。物を考えるカや意志がなくなります。だから、ぺインコントロールは、医者の最も重要な仕事の一つになります。
 医療を担当する私たちも、そのことを医療の基本にして、十分患者さんの意思に応えていく努力を続けるべきだと思います。」(早川[1996:167-169])

◇早川 一光 19980925 『お迎え来た…ほな行こか――老いと死、送りの医療』,佼成出版社,214p. ISBN-10: 433301865X ISBN-13: 978-4333018659 1400+ [amazon][kinokuniya]  ※

 「尊厳死とリビング・ウィル
 あるとき、、ひとりのおばあさんが一通の封書を差し出しました。
 「せんせ、これ読んで、持っていておくんなはれ」
 堀川病院の前身である診療所に勤めていたときですから、ずんぶん昔のことです。まさかラブレター?!――ヒヤッとしましたが、遺言書でした。
 「わたしは満八十歳をすぎましたので、いまの気持ちを書きます。わたしには財産らしいものは何もありません。生命保険にも入っておりません。それで、わたしが不治の病になったら、いつでも死なせてください。八十歳になったいまはとても幸せです。戦死者の妻であったころの苦労も忘れ、気ままな生活を送らせていただいております。もういつ旅立ってもかまいません」
 そんなことが書かれていました。▽082
 老齢になり、自分なりに「死に方」を考えたのでしょう。
 「よしよし、わしがあずかった。こうして、ずっと持っとるしな。あとは死ぬまで元気に生きや」
 と言ったら、「おおきに」と嬉しそうに帰っていきました。
 この遺言書が法的に有効かといったら、有効ではないでしょうね。わたしだって、手紙にあるように一服盛って死なせるわけにいきません。おばあさんのことばにウカウカのって、そんなことをしたらひどい目にあいます。
 でも、おばあさんの意志はできるだけ尊重したいと思います。
 死にゆく人の意志を、まわりの人が厳しく受け止め、尊重しようというのが尊厳死。生命維持装置を外すだけが尊叢死なのではありません。
 「生命維持でも何でもかまわん。わしゃできるだけ長く生存したい」
 という意志の方もいらっしやるでしょう。
 このおばあさんの場合、いまならわたしも、そのいのちのカーブの着地点をしっかり見定め、”ここぞ”というところで、点滴を外すぐらいのことはするでしょうね。ご家族の同意があれば、たぶんすると思います。
 ▽083 しかし不治の病とわかっても、それで一服盛ることはできない。「おばあさんがそう言ったから、ロウソクを吹き消してやれ」とはなりません。
 ですからご本人の生前の意志、英語でリビング・ウィルと言うそうですが、リピング・ウィルがすべて実行されるわけではないのです。
 それでも自分の意志、ウィルをはっきりさせておくことは、死の訪れがいっあるかわからないわたしたちには、年齢にかかわらず、、大切なことであろうと思います。
 どこで死にたいか。どう死にたいか。死んだあとはどうしてほしいか。死にゆく人の意志を、送る側がくみ取れないのでは、尊重したくても尊重できません。」(早川[1998:81-83])

 「安楽死事件を考える

 末期のガン患者に筋弛緩剤を投与した京都の病院の前院長も、患者さんの苦しみを▽175 前にして、冷静ではいられない医者のひとりだったと思います。
 その前院長が不起訴と決まりました。投与した筋弛緩剤が致死量でなかったというのが不起訴の理由です。「よかった」と、ともあれ胸をなでおろしました。
前院長は、わたしの大学の後輩で地域医療一筋に生きてこられた方です。取り調ぺられたときは病院近くの道路に、町民が立てたに違いない、無罪を訴える立て看板がしくっも並びました。そのことからも、この先生が地域の人びとから、いかに慕われ信頼されていたかがわかります。
 筋弛緩剤の目的が何であったかは問いますまい。ただ、「送りの医療」を考えるわたしには、ひとつ気になることがあるんです。批判するとか非難するというのでなく、一緒に医療を担う仲間として、あえて取りあげてみたいと思います。
 だって、他人ごとではありませんもの。
 わたしも、いつ逮捕されるかわかりません。病室の外、つまり新聞記者や警察の目から見たら、「三途の川の渡し守」なんて言っている医者は、いちぱん疑わしい存在です。
この。事件。は、そこの病院で働く看護婦さんが、筋弛緩剤の投与を新聞記者に通報したことに端を発しています。「なぜ医療スタッフのひとりが:::」という思いが、わたしには拭いがたくあります。
 スタッフは互いにかばい合うぺきだ、と言いたいのではありません。
 医師、看護婦、家族、そして患者さん。もしかしたらそれぞれが、てんでの立場で、バラバラに医療に参加していたのではないかと想像するのです。
 「患者さんを救えるのは医師だけだ」
 わたしが患者さんを助ける」そういう思いが、前院長におありだったのではないか。
 わたしだって、そう思いたい誘惑にかられるときがあります。「医者が患者を救う」という古い倫理観で、医学を学んできたわたしたちは、みんなそうです。
 でも、医者は患者を救えない。
 臨床四十五年にして、やっと気づきました。虫垂炎や結核なら救えるでしょうね。でも、老いや死からは救えない、救うすべがないんです。
 では、医者に何ができるかといえば、一秒でも寿命を延ばしたり、苦しみを見かねて死なせてあげることでもありません。▽177
 お盆の終わりに、送り火を焚きます。燃え尽きるまで火を見つめながら、亡き人の霊をじっと見送るように、死にゆく人を送ってあげることだろうと思います。
 送るのは、医者だけではないんです。何よりも、長いあいだ一緒に生活し、苦楽をともにしてきた家族が送る。喧嘩ばかりしていた連れ合いや、互いに努力してもついに仲よくなれなかったお嫁さんであってもね。
 そして、病気や老い、あるいは迫りくる死と、ともに闘ってきた医者や看護婦も送る。お盆の送り火も、みんなで、大勢でかこみますでしょ。
 家族と医者、看護婦。その意志統一というか、送る心のハーモニーがなければ、しい別れにはなりません。」(早川[1998:81-83])

◇早川 一光 20031010 『老い方練習帳』,角川書店・新書,203p. ISBN-10: 4047041475 ISBN-13: 978-4047041479 [amazon][kinokuniya] ※
 「▽185 B死を見事に演じきる
 自分の生き死には自分で決める
 医学は、死と徹底的に戦うために生まれてきました。だから、医者の私たちにとっては、死は敗北だと言いました。みなさんを死なせてはいけないのです。失敗なのです。
 「なんとしくでも!」と手にツバをして、腕によりをかけて頑張りますが、いつの頃からか、〈ちよっと変だ〉と戸惑うようになりました。
 どんなに努力しても、最終的には死を防げないのです。ただ、生を延ばすだけの作業になりがちなのです。延ばす私はいいですよ。それが仕事なのですから。しかし、延ばされるみなさんは〈本当にこれでいいのだろうか〉とふと考えこむはすです。
 白い壁に囲まれて、白いカーテンのなかで、四肢に点滴の針な四方から刺され、ロには酸素吸入の管を差しこまれて、ものも言えす、首も重かせず、ただまばたきだけで意志を伝え、まわりには私たち医療者だけです。家族に言い残す術もなく、心だけ残して息を引き取るような別れ方を見ていると、これでいいのかなと考えこみます。
 ▽186 もちちろん、家族の方たちから「先生、ご苦労様でした。最高の治療、手立をしてくださいまして」とお礼な言われ、また、家族の方たちも「できるだけのことをしたのだから、心残りはない」と申されますが、息を引き取っていく方の心は残らなかったのかなあという思いに沈みまず。
 死は、医者の手だけに任せるものではありません。。自分の命は、自分だけのものなのです。医者のものでも、家族のものでもありません。私も、全力をあげてかかわりますよ。大いにかかわっていきますが、一切な「よしなに」とまかされた覚えはありません。医師といえども、一人ひとりの命の与奪権をもっているわけではありません。
 そう、自分の死に方は自分で決めるのです。
 […]
 死を迎えるまでに決めておくこと
 […]
 わが家の畳の上で死ぬ
 […]▽192 […]
 延命措置を受けるのか受けないのか
 第三に〈がん告知〉についてです。「がんだったらがんと言ってほしい」とか「言わないでほしい」など、元気な間にきちんと決めておきましょう。
 […]
 第四は、〈どこまで生きたいか〉ということです。もうどうすることもできないとわかったとき、これ以上、延命(命をいつまでもつなぐ)の手立てを一切しないのか、逆に、できるかぎりのことをするのか、自分の体と命について、しっかりとその方針を決めておいください。
 みなさん、普段は簡単に「先生、だめなときは、もうなんにもしないでください」とよく言いますが、いざというときになると、決断するのはなかなか難しいことです。一瞬、一瞬の息の苦しさに、耐えられない痛みに、そして、迫りくる死の不安感に、みなさん、一つずつ対処していかなくてはならないのですから。」(早川[2003:185-193])

◇早川 一光 20050210 『老いかた道場』,角川書店・新書,218p. SBN-10: 4047041912 ISBN-13: 978-4047041912 [amazon][kinokuniya] ※

 「安楽死の通行手形は生き抜く努力

 人間は、楽に死ねることはないんです。安楽に死ぬのは、不可能とはいいませんけど、た,いへん難しいことです。それは、人間の体というのは、生きるようにできていますからね。死ぬようにできている部分というのはひとつもありません。たとえ髪の毛一本でも伸びるようにできています。死んでからでも髪の毛は伸びるというくらい、生きるようにできています。
 生きているということは、生かさないとするあらゆるカに対して、抵抗するカが働いているということなんです。そこには、葛藤と争い、努力、忍耐とが伴います。ですから、生き▽201 るカを阻止するものは、必ず抵抗、葛藤が起きるはすで、それは苦痛ですから安楽死というのはないと思います。
 ただ、ひとつあるのは、その生きていくという苦痛を何回も何回も乗り越えながら、「どんな坂こんな坂、どんな坂こんな坂」と乗り越えながら生き続けてきた人が、最後に本当に楽に死んでいけるんです。そういう人が安楽死への通行手形を握れるんです。「生きて生きて生き抜いた人」というのは、寿命だけじゃなくて、生きるために努力をしてきた人たちなんです。
 それともうひとつ、先ほどもいいましたが寿命いっばい生きてきて、だんだん物忘れが進んで、最も親しい人も忘れて、自分の死ぬのもわからない、そういう死に方が安楽死だと思います。
 それでも、死は救いの側面があると思います。もう辛抱しなくていいんですから。すべての人が救われる。死は救いなんです。死んではじめて、その人は生きる苦しみに耐えなくていいんだなということになります。死とは、そういうものでず。」(早川[2005:200-201])

 
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■医療・福祉制度

◇早川 一光 19800915 『続 わらじ医者 京日記』,ミネルヴァ書房,248p. ISBN-10: 4623013219 ISBN-13: 978-4623013210 980 [amazon][kinokuniya] ※

 この院長は、私たちが青年医師のころ、大学の民主化の旗をかかげて教授会の公開をせまった時
 「教授会は、公開にすべきだ」
 と主張してやまなかった数少ない教授の一人だ。そのために休職処分になり、退官せざるを得なかった気骨の人だ。
 退官後、市中に耳鼻科医院を開くが、診療のかたわら日本の医師のあるべき姿を、健康休険制度の民主化の中に打ち立てようと情熱を燃やされた。
 特に健康保険の運用の中で”この薬は保険では使ってはいけない””この注射は保険ではこれ以上使ってはいけない””往診のしすぎだ””二日で治るようなものに、なぜペニシリンを使ったんだ”などと、医師の医療行為に制限を加え、病人の治療に当たる医師の良心を制限する官僚統制に、医師の力を結集して盾ついた。▽107
 その運動は、京都では日本の先頭を切って大波のように盛り上がった。
 とかく萎縮しがちな医師に深い自信と確信を与える運動だった。
 私はこれを”医師の主体性の確立”の運動だとみている。
 そういう院長が、私たち青年医師の”住民の中へ住民とともに”医療活動しようとする動きに援助の手をさしのべてこられる。
 いわば「医師の主体性の確立」と「患者の主体性の確立」との結合だった。」(早川[1980:106-107])

 「戦後まもない京都では、健康保険制度の普及につれて医師運動の柱として保険医協会は「医師の主体性の確立」を強く主張した。
 健康保険の赤字を理由にともすれば制限治療、統制医療の強化される中で、京都独得の反官僚・反中央の土根性は、二枚腰のような反骨の抵抗運動を起こした。
 私たちの病院のの竹沢院長たち在野気骨の師が
「医師の主体性仕が守られてこそ、患者のいのちが守られる」
 と主張して確信をもって、医療の民主化の波を起こしていった。
 それは医師の「良心」を守る運動でもあった。
 当時、政府は「国民皆保険」の制度化を急速にすすめていた。国民から一定の保険料を▽110 徴収し、国は補助費を出して、乏しい財政の中から、国民はどこかの健康保険に入る皆保険の制度を推しすすめていた。
 確かに”誰でも医療にかかれる”一応の保障は国民の要望でもあり、国民のいのちを守るのにすばらしい効果があった。
 日本人の平均寿命は目にみえてのびていった。
 しかし、乏しい国の補助では、国民保険はいっも赤字の運営にさらされた。
そのしわよせは、うなぎのぼりに高くなる国民の負担と、診療をあずかる医師側に、強く寄せられていった。
 現場での医療は、同じカゼでも、病人のひとりひとりの顔がちがうように、患者の生活・体質・環境によってみなちがっている。従って治療の仕方も内容もちがって当然である。
 ところが、保険制度となれば、その制度の一定の方針の中で、自ずときめられたワクの中で医療が行われざるを得なくなる。
 今までのような、医締ひとりひとりの特技、治療に対する方針はだんだんと認められなくなって、型にはめられた通り一ぺんの治療を余儀なくさせられる。
 これは医師にとっては「苦痛」であった。まして、往診は何キロまではいくら、診察料▽111 何時まではなんぼ、この薬は何グラムまでこれだけと報酬がきめられれば、好むと好まざるとに拘らず、収入の少ない医療行為はしなくなり、労力の多くかかって保険の評価の少ないことは避けようとする。
 医師も人。医者も労働者。生きていく権利があり、休む権利があるとなる。
 生活保護法による医療は、一番ひどかつた。「生活保護の患者は、必要最低の医療を行うべきだ」との厚生省通達が私たちにおりている。
 「何たる事だ! 生活を保護しなくてはならない患者こそ、最高の医療であるべきだ。食うに困っておればこそ、栄養もおとろえている。最高の食事と、充分な手だてが必要だ」と私たちは、どんどんと治療をした。
 何回も呼び出され、「濃厚治療だ」「過▽112 剰診療だ」と言われた。「何さ」と私たちは、生活保護患者友の会をつくって、患者さんと一しょに交渉してゆずらなかった。京都の人たちは、この運動を影に日なたに応援してくれた。これを、
 私は「都びとの反骨」と呼んでいる。
 戦後の医師会運動を指導した竹沢院長は、「医師の主体性」を主張すると同時に、「医師の果すべき社会的な責任」をも医師運動の中で提案して実行をせまっている。
 医師会の手による休日診療体制、看護、検査、放射線技師教育、医師会オープン病院、医師会主導の地域医療活動等々……。
 しかし、その主張は医師の生活権保全の運動の強さにおされて、その頃は容易に実現されなかった。
 医療機関の日本一多い京都が、土曜、日律曜、深夜、お正月には無医村に近くなる時もあった。
 私は、医師の主体性の圧迫は、「医療の萎縮」を呼び、患者の主体性の無視は、「医療の不信と荒廃を来たす」――
 と思っている。」(早川[1980:109-112])

◇早川 一光 19830525 『親守りのうた』,合同出版,205p. ASIN: B000J7EN1Q 900 [amazon] ※

 「長続きのする制度づくリを

 千葉は、これから第三年度に人られるでしょう。千葉市または千葉県が、なんとかして、お年寄りを一週間でも一〇日でも頂かってあげてください、これショートステイ、こういう声をあげましょう。あるいは、日中だけ頂かってくれたら、夜は家族が見ます、とかのデイケア。昼は手がそろっているけど、夜はうろうろされて困るから夜間頂かってくださいといえば、これはナイトケア。いいでナか、デイナア、ナイトケア。半日だけ預けるというのはハーフデイケア。こういう制度づくりが必要ですね。そういう時に、今日い▽193 らしている千葉県の看護婦さんやボランティアの皆さんが、ぼけた方たちとつきおうて遊んでくださる。ぼけとの遊び方については、先生たちが見事な遊び方を教えていらっしゃる。
 歌を歌っていいし、カラオケしてもいいしね。私が一生懸命に歌を歌うのは、ぼけた人たちとのつきあい方を教えているんです。ぼくが歌を歌うと、皆さんふあーっとしてぼくの顔を見ますからね。
 そうですね。石川先生のところが、「じや、ぼくのところは一〇床はシヨートケアに使いましょう」とおっしやってくださるなら、あれはものすごく犠牲がいるんですよ。
 看護体制がいりますしね。看護婦が何をやっても、看護科というのは病棟にだけにちょこっとだけ。そんなね、片手落ちですよね。
 老人医療なんていうのは、もう医者ではあかんのや、医者の出番ではなくて、看護と介護の出番。介護と看護に金がでるんでしたら、石川先生のところが一〇床開放してくださ▽194 るのだったら、一日一万円、国や県や市が「ぺッド代として補成しましょう」というような制度をつくってくださったら、そりゃ、石川先生も喜んでぼけと遊ぶという看護をやつてくださるでしょう。
 補償[ママ]してくれなければ出来ませんよ。身をきるような、そんな仕事では長続きはしませんね。善意には限界がある。制度としてきちん、きちんと組み込まれなければ長続きするような医療と福祉にはなりません。
 そういう運動を、ぜひ千葉の皆さんが先手を取って始めていただきたい。
 全国の「呆け老人をかかえる家族の会」が、京都の方ではもう政府と折衝を始めています。しかし、政府の方は「そんなもん地方自治体がやってくれなきゃ、いま金がないんで、できません」と言うに決まってます。
 府や県に行けば、「そりゃ国の方針が決まっていませんからできません」と、お互いになすり合っていますからね。どこかがこれをふっきらなくてはなりません。
 やる気があったら出来るんです、在宅の医療は。
 これは確信を持ってください。皆さんを世論が必ず支持します。▽195
 国がまず在宅ケアを援助する。家で老人を看ていこうという時に、国が制度として援助をする。またそれが出来やすいような医療制度、福祉制度をつくってゆくということと、皆さんのような「家族の会」を取り囲む運動が並行して進んで行くことが大切です。
 二年間、千葉で皆さんは、血みどろでやってこられましたね。家族の皆さんを囲むいろいろな人たちの姿。これがこれからの日本の医療なり日本の福祉の姿であるような気がいたします。
 ありがとうございました。(拍手)」(早川[1983:192-195])

◇早川 一光 19840420 『ポックリ往く人逝けぬ人』,現代出版,222p. ISBN-10: 4875972148 ISBN-13: 978-4875972143 [amazon][kinokuniya] ※

 「病院が老人サロンで何が悪い

 ――昨今の新聞には今後何年で老人の人口がどれたけ増えて云々と……社会負担が多くなるということばかり言われていますね。そこには完全に老人とは世話されるもの、そういう対象としか見ていませんね。
 早川 あれはぜったいにいけないね。今の新聞は老人問題が叫ばれてきて、老人というものが老害というか老人の害と書くんですが、公害じゃあるまいし、老人が世の中を乱すというか、老人が病院を占領して若い者が入れなくなって云々と……、そんな書き方はおかしいですね。
 お年寄りは当然身体の故障が多いから病院にいくのは当たり前でしよう。それを老人が腐院を占領して……ということは老人問題を歪めていますね。
 じゃ、お年寄りが病院にこないで生き生きと活動できるような分野を与えているか、▽214 といったら全然保障していないでしよう。
 ですから私は、お年寄りが病院にたくさんおいでになっていいと思います。病院がサロン化して良いと言って極論するんです。むしろお茶でも出して「ごくろうさん」と言おうカと思うくらいです。
 なぜかというと、今の西陣(京都)でもね、手織りから機械織りになってカチャコン、カチャコンとせみの鳴くような激しいところでお年寄りが手を出すこともできずに機屋(はたや)のばをうろうろすると、若い息子夫婦が「おじいちやんそんなところでうろうろせんといて、どっか行ってきよし」と言われそんなこと言われても行くところがありませんから、西陣でしたら北野天神さんに行って、石垣にもたれて朝は東を向き、昼は南を向き、夕方は西を向いておしっこで股(また)をぬらしながら、夕方になるのを待ちかねて家に帰る。
 もうおじいちゃんとおぱあちゃんの本当のいこいの場所というのは、今は残念ながら病院かも知れない。病院に行ったら、やさしい看護婦さんがおって、「よくいらっしやいました」と言ってくれるし、長いこと待ち合い室にいてもだれも出てゆけと言って▽215 追い出すこともないし、しかも病気を診てくれるお医者さんがおって薬を出してくれたらね、なんかの心の安らぎがある。
 薬でこの病気を治そうと思っている老人はだれもなくて、お薬をくれたといいう、くれるという人がそこにおる。それは息子夫婦にないものなのです。息子夫婦にしても天神さんなんかでぼやっとされておるよりも、病院に今行っているよと言った方が世間ていがいいもんですから「そんなところでうろうろせんと病院に行ってきよし」という追いやり方でしょう。これはお年寄りから見れば”一体おれの行くところはどこなんだ”ということがあるのです。

 老人科を設置せよ

 それともう一つには老人がキセル医療しているから医療費が高くついてかなわん、と言う人がいますが、ぽくは”何を言っているのや”と思います。なぜならお▽215 年寄りが好んでキセル医療で各科をまわっているのとちがいます。というのは日本の医療が専門にわかれていて人間総体を診てくれるところがない。
 お年寄りがどこへ行ったらよいかわからない。だからお医者さんのはしごをしなければいけないところに置かれているのです。
 ですから、私は少なくともお年寄りが病院にこられたときは、人間総体として受けとめてあげる場というか、そういう場をつくる必要があるし、そのためには、まず老人科をつくってそこで話を聞く。そして、そこで「あなたは心臓がわるいからそちらに行きなさい」とか言って紹介してあげられる場があっていいと思いますね。」(早川[1984:213-216])

◇早川 一光 19911125 『ほうけてたまるか』,労働旬報社,214p. ISBN-10: 4845102218 ISBN-13: 978-4845102211 ※ 1262+ [amazon][kinokuniya] ※(増補)

 「支える家族の苦しみ
 この頃、病院の方は”早期入院・早期退院”をやかましくいう。早く病気を見つけて、早く治して、一刻も早く家に帰すというと、「なるほど、すばらしい、もっともだ」となる。職場検診、職域検診、地域検診などさかんに行われてシステムとして出来上がったが、これも一種の流れ作業となりつつる。幸い早く病気が見つかり、早く処理ができて、うまく治った人たちもたくさんいるが、検診で見逃して、手遅れになった例も多い。ほとんどの入院の経路は、やはり救急、急病の形である。
 ある日、突然という姿が多い。こういう急な発病の経過は、勝負も早い。サッと治るか、アッという間に亡くなられる。この頃、問題なのは、お年寄りの入院である。お年寄りの病気は、単一ではない。いっばい病気を持ち、複合型で現われる。
 だから、ひとつ治したら、みんなよくなって、元気になるということが、ほとんどな▽186 い。ひとつ手を入れると、次々と、次の悪い所が出て、最後までうまくいかないことが多い。ちょうど中古の自動車のようなものである。タイヤも減っているし、エンジンもかかりにくいし、ドアも閉りにくい。エンジンが悪いからといって新しいエンジンに替えたら、タイヤがパンクする。
 タイヤを替えたら、ドアがはずれる。”もう!いっそ、新車に!”と思うが、人間は、新車にかえられない。私も長いこと、臨床医をやっているが、おばあさんの下取りをしたことがない。下取りができにくいということは、世界中、どこを捜しても「この車しかない」――たった一台――という貴重な車だ、ということだ。最後まで――ほんとうに動かなくなるときまで――乗っていかなければならない車である。こういう車がいっばいふえた。私はすばらしいことだと思っている。
 しかし、このズラリと並んだこの車を、誰が、どこで、ビのように看るか、ということが大問題となる。大きな近代病院と称するところは、一刻も早く退院せよという。「もうよくなったから出ていけ」というのではない。「もう、この病院では、それ以上は診れないから、よそへいけ」ということである。お年寄りは、いっぱい故障をかかえたまま、病院を出る。行く先は老人病院か、ホームか、家しかない。▽187
 ”老人病院はヒドイ、お年寄りをべッドにしぱりっけて””おむつをすぐ、してしまって””注射、くすりばかり、やって”と、評判がよくない。しかし、私は当然だと思っている。
 第一、家族でさえも看きれないものを、どうして第三者の職員が、家族のように親切に看れますか。第二に、自分で自分の身のまわりが世話できなくなるのが、お年寄りの体である。どうしても、手がふるえる。この手が、大変なのである。今の病院でもホームでも、この”手”が足りない。どうしても、お世話が機械化する。止むを得ない。むしろ、現場の職員の皆さんは、このスキマをうめようと、必死に頑張っている。できるかぎり”心を通わせよう”と、日夜努力している姿は涙ぐましい。しかし、このスキマはますます大きくなっていく。
 特別養護老人ホームは、いっも満床である。入所の順番をいっぱい待っている。なにを待つかというと、入所者が亡くなるのを待つ姿となる。これは悲しいことである。
 へれでは”家で”となるが、これがまた、大変なことである。昔は、家が大きかった。使わない部屋も、たくさんあった。第一、土地があった。この土が、とても大切である。「足が地につく」とよくいわれたが、人間が”オチツク”(オ地着く)というのは、これである。▽188
 今は、住むだけで精一杯のくらしである。寝たきりのお年寄りを抱える余地はない。さらに、今は、共働きの家が多くなった。みんなが働くということは、いいことだ。経済的なことだけでなく、生き甲斐ということも、そこから生れることだ。しかし、お年寄りを抱えるとなると、どちらかが仕事をやめなくてはならなくなる。これが苦悩と、トラブルの原因となる。たいてい、女性が仕事をやめて、お年寄りの看病に当たることになる。
 一日中、二四時間、病人と、特にお年寄りと”つきあう”って、大変なことである。これは、やったことのある人でないとわからない苦労である。苦労というより心労である。心身ともに、綿のようになる。”よくなる”という見通しもなく、現状維持が精一杯、それどころか、次第に悪くなっていろいろな訴えと症状が出てくる。これをじっと耐えて、面倒を見ていく毎日は”つらい”の一言である。
 「昔はみなやってきた」というかもしれないが、昔は人手がいっぱいいた。親類も近くにいたし、隣り近所に親しい方も何それとなく手助けしてくれた。子どもも孫も、看とりに参加した。今は、孤立無援である。
 寝ているお年寄りも、つらい。世話する身より世話される立場は、身のおきどころのないほど、つらいことだ。”何?なに? うちの年寄りは、えらそうにしている?””ありが▽189
とうといったことがないって?”、いや、いわないんではない。いえないんだ、昔のことがいっぱいあってね。そら、若いとき、お元気なとき、「お前の世話にはならない」「お前の世話だけはなりたくない」と、いってしもうたことがある。
 いわれたことがあるって? そう、今は、床の名で、心の中で、”しまった”と思ってなさるんだ。ただ、”スマン”とロに出てこないんだ。その点はどうか、家族の皆さん、わかってやってくれ。
 ああそうだよ、と気がっくときがくる。もうすぐくる。ただ、がんばるこの家族をみんなが、社会が、国が、支えてやってはしい。お年寄りを家で看るということが、どんなに、すばらしいことか。そして、どんなに、つらいことかを、政治をあずかる人たちが、しっかりと理解することが、今、必要だと思う。」(早川[1991:185-189])

◇早川 一光 20080410 『わらじ医者 よろず診療所日誌』,かもがわ出版,157p. ISBN-10: 4780301750 ISBN-13: 978-4780301755 1500+ [amazon][kinokuniya] ※

 ぼくにとっては、夢のような福祉の世になった。
 日本が、あの惨憺たる敗戦のなかから、不死鳥のように立ち上がり、それどころか六〇年にして世界一の長寿国になったのも、この福祉の制度のおかげだと信じて▽034 いる。」(早川[2008:33-34])

 
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■文献(発行年順)

◆早川 一光 19790915 『わらじ医者 京日記――ボケを看つめて』,ミネルヴァ書房,384p. ASIN: B000J8EQ8K 1200 [amazon] ※
◆中里 憲保 19820515 『地域医療の旗手――住民と共に歩む「赤ひげ」たち』,現代出版,285p. ISBN-10: 4875972059 ISBN-13: 978-4875972051 1000 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19800915 『続 わらじ医者 京日記』,ミネルヴァ書房,248p. ISBN-10: 4623013219 ISBN-13: 978-4623013210 980 [amazon][kinokuniya] ※
◆呆け老人をかかえる家族の会 編/早川 一光 監修 19820715 『ぼけ老人をかかえて』,合同出版,242p. ASIN: B000J7MZ48 \1260 [amazon][kinokuniya] ※ a06
◆三宅 貴夫 19830405 『ぼけ老人と家族をささえる――暖かくつつむ援助・介護・医療の受け方』,保健同人社,264p. ISBN-10: 4832700472 ISBN-13: 978-4832700475 1300 [amazon] ※ a06. [99]
◆加来 耕三 19840130 「父子鷹――早川一光(京都)」,志村編[1984:175-214]
◆志村 有弘 編 19840130 『日本仁医物語 近畿篇』,国書刊行会,510p. ISBN-10: 4336056072 ISBN-13: 978-4336056078 4300 [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 19920410 『ボケない話 老けない話』,小学館,213p. ISBN-10: 4093870845 ISBN-13: 978-4093870849 1100+ [amazon][kinokuniya] ※
◆三宅 貴夫 19950405 『老いをめぐる12+1話――老年科医の診療ノートから』,ユージン伝,311p. ISBN-10: 4875600496 ISBN-13: 978-4875600497 1942+ [amazon][kinokuniya] a06.b01.
◆鎌田 實 20010215 『命があぶない医療があぶない』,医歯薬出版,306p. ISBN-10: 4263232550 ISBN-13: 978-4263232552 1800+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20030930 『大養生のすすめ』,角川書店,236p. ISBN-10: 4048838474 ISBN-13: 978-4048838474 1400+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20040810 『ほな、また、来るで――人を看るということ』,照林社,311p. ISBN-10: 479652083X ISBN-13: 978-4796520836 1600+ [amazon][kinokuniya] ※
◆早川 一光 20041105 『お〜い、元気かぁ〜――医の源流を求めて』,かもがわ出版,203p. ISBN-10: 4876998434 ISBN-13: 978-4876998432 1700 [amazon][kinokuniya] ※
◆西沢 いづみ 2009/03/10 「生活の場を起点としたポリオ生ワクチン獲得運動」
 『出生をめぐる倫理研究会 2008年度年次報告書』 :64-73 [PDF]
◆早川一光 20090910 「医師・早川一光が語る民主主義・平和・革新懇運動」(インタビュー),『京都革新懇ニュース』2009年9月10日号
 http://www.kyoto-kakusinkon.com/books/090910hayakawa.pdf
◆西沢 いづみ 2009/12/04 「ポリオ生ワクチン獲得運動に見いだされる社会的な意義」
 櫻井 浩子・堀田 義太郎『出生をめぐる倫理――「生存」への選択』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告10, pp.83-112.
◆西沢 いずみ 2011/03/31 「地域医療における住民組織の役割の歴史的検討――白峯診療所および堀川病院の事例を中心に」『コア・エシックス』Vol.7, 立命館大学大学院先端総合学術研究科, pp 211-220. [PDF]
◆西沢 いずみ 2012/03/10 「西陣地域における賃織労働者の住民運動――労働環境と医療保障をめぐって」天田城介・村上潔・山本崇記編『差異の繋争点――現代の差別を読み解く』ハーベスト社, 2012 年3 月, pp 41-61.
◆三宅貴夫 2012 「私の転居歴2――京都」,『認知症あれこれ、そして』 http://alzheimer.at.webry.info/201203/article_2.html [99]
◆西沢 いずみ 2013/02/20 「1970年代の京都西陣における老人医療対策と住民の医療運動との関わり」 小林 宗之・谷村 ひとみ 編 『戦後日本の老いを問い返す』,生存学研究センター報告19,153p. ISSN 1882-6539 ※
山口 研一郎 20130222 「医療現場の諸問題と日本社会の行方」,高草木編[2013:151-233]
◆高草木 光一 編 20130222 『思想としての「医学概論」――いま「いのち」とどう向き合うか』,岩波書店,391+8p. ISBN-10: 4000258788 ISBN-13: 978-4000258784 4000+ [amazon][kinokuniya] ※


UP:20101211 REV:20140730, 31, 0805, 06, 11, 0905, 20150706, 0812, 1008, 20160525
病者障害者運動史研究  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇WHO