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広田 伊蘇夫

ひろた・いそお
1934〜2011

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1961年東京大学医学部卒。都立松沢病院を経て同愛記念病院勤務。前・日本病院・地域精神医学会理事長。元・国連非政府機関(NGO)国際医療職専門委員会日本代表。イギリス王立精神医学会選出会員。著書に『精神病院』(岩崎学術出版社),共著に『精神医療と人権』(亜紀書房).共監訳に『精神障害者の人権』(明石書店)などがある。(広田[2004]より)

http://blog.goo.ne.jp/psw-ryu/e/c054a105a2ddcfb25ed06718add8982fより

廣田 伊蘇夫 先生 (ひろた・いそお、1934年〜2011年)

【略歴】
1933年 富山県魚津市に生まれる
1961年 東京大学医学部卒
都立松沢病院、三枚橋病院を経て、同愛記念病院に勤務
日本病院・地域精神医学会:理事長(1979年〜1988年)、監事
国連非政府機関(NGO)国際医療職専門委員会:元日本代表
精神衛生従事者団体懇談会:元代表世話人
イギリス王立精神医学会選出会員
批評社刊:季刊誌「精神医療」編集委員
社会福祉法人興望館(児童養護施設)理事など

【著書】
浜田 晋・広田伊蘇夫・松下正明・二宮冨美江 編:『精神医学と看護―症例を通して』,日本看護協会出版会,1973年 
広田伊蘇夫:『精神病院〜その思想と実践』岩崎学術出版社、1981年5月
戸塚悦朗・広田伊蘇夫編:『日本収容所列島〜精神医療と人権T』亜紀書房、1984年11月
戸塚悦朗・広田伊蘇夫編:『人権後進国日本〜精神医療と人権II』亜紀書房,1985年6月
戸塚悦朗・広田伊蘇夫編:『人間性回復への道〜精神医療と人権III』,亜紀書房,1985年12月
広田伊蘇夫・暉峻淑子編:『調査と人権』,現代書館,1987年5月
広田伊蘇夫:『断想・精神医療』,悠久書房,1987年10月
広田伊蘇夫:『精神分裂病〜慢性状態からの考察』医学書院、1987年4月
浜田 晋・竹中星郎・広田伊蘇夫 編:『ナースのための精神医学――症状のとらえ方・かかわり方』,日本看護協会出版会,1997年9月
広田伊蘇夫:『立法百年史〜精神保健・医療・福祉関連法規の立法史 増補改訂版』, 批評社, 2004年7月初版

【翻訳】
トーマス S.サズ 著 石井毅,広田伊蘇夫 訳『狂気の思想 : 人間性を剥奪する精神医学』新泉社、1975年
テモシー・W. ハーディング著, 広田伊蘇夫訳:日本の精神衛生法の諸特徴 比較研究(精神衛生法改正国際フォーラム).法学セミナー増刊、37;256-265、1987年
広田伊蘇夫,永野貫太郎 監訳『精神障害患者の人権 : 国際法律家委員会レポート』 明石書店、1996年8月

【論文・報告】
広田伊蘇夫:睡眠段階と閃光刺激への反応.臨床脳波、9(2);115-123、1967年3月
広田伊蘇夫:措置入院制度――その反医療性.精神医療(第1次)4:19-23、1970年
Uno,M., Yoshida,M. & Hirota,I.:The mode of cerebellothalamic relay transmission inuvestigated with intracellular recording from cells of the ventrolateral nucleus of cat's thalamus.Exp.Brain Res.10;121-139.1970年
広田伊蘇夫:もちあじ論への疑問〜園田よし氏(あけぼの会)との関連から.精神医療(第2次)、2(3);87-90、1971年11月
広田伊蘇夫:陳旧性分裂病でみる分化像 慢性病棟での覚え書き-1-.精神医学、14(3);207-217、1972年3月
広田伊蘇夫:陳旧性分裂病でみる分化像 慢性病棟での覚え書き-2-.精神医学、14(4);349-356、1972年4月
広田伊蘇夫:陳旧性分裂病でみる分化像 慢性病棟での覚え書き-3-.精神医学、14(5);457-465、1972年5月
広田伊蘇夫:精神分裂病でみる機能的類型とその予後 方法論的試み-1-.精神医学、14(6);557-566、1972年6月
広田伊蘇夫:精神分裂病でみる機能的類型とその予後 方法論的試み-2-.精神医学、14(7);661-667、1972年7月
広田伊蘇夫:精神衛生法をめぐる諸問題.病院精神医学、33、1972年
広田伊蘇夫:保安処分新設決定と今後の方向.病院精神医学、35、1973年
広田伊蘇夫:精神衛生実態調査をふりかえる.病院精神医学、36、1973年
広田伊蘇夫:Rehabilitationの可能性 精神病院の中から.精神医学、16(3);232-245、1974年3月
広田伊蘇夫:治療における不安と熱意.精神医療、3(2);79-82、1974年1月
広田伊蘇夫:わが内なる阻害ー社会復帰の前提.精神医療、3(2);83-86、1974年1月
広田伊蘇夫:社会復帰援助の経験から.心と社会、5(2・3)、1974年
広田伊蘇夫:精神病院で考えたこと〜日常性へのいくつかの疑問.精神医療、4(1);32-38、1974年9月
広田伊蘇夫:「作業療法」をめぐる精神衛生法小委員会結論 (第72回日本精神神経学会総会特集-1-) .精神神経学雑誌、77(11);809-812、1975年11月
広田伊蘇夫:精神病院で考えたこと(その2)〜治療者と病者の関係から.精神医療、4(3);54-59、1975年5月
広田伊蘇夫:書評Thomas S. Szasz の立場.精神医療、4(3);73-75、1975年5月
広田伊蘇夫:精神病院で考えたこと〔V〕〜離島での経験と社会学者の目から.精神医療、4(4);63-69、1975年9月
広田伊蘇夫:非行者と病院医療.精神医療、5(1)、1976年
広田伊蘇夫:精神医療の歩み.5(3・4)、1977年
広田伊蘇夫:東京都における緊急措置入院制度をめぐり.病院精神医学、48、1977年
広田伊蘇夫:社会適応施設案へのコメント〜精神衛生課長との面会を通して.病院精神医学、52、1978年
広田伊蘇夫:オープン・ポリシーということ.「レモンブックスV」、やどかり出版、1979年
広田伊蘇夫・石川信義:精神病院と地域精神医療.社会精神医学、3;231−237、1980年
広田伊蘇夫:原点から現状を考える (精神医療・医学の今日的課題<第76回日本精神神経学会総会特集-2->) .精神神経学雑誌、82(10);599-606,1980年10月
広田伊蘇夫:松沢病院の戦後の医療実態 (日本精神医学と松沢病院<特集>).精神医学、22(10);1089-1096、1980年10月
広田伊蘇夫:ワイアット裁判以後.精神医療、34;86-89、1980年
広田伊蘇夫:精神医療の抜本的改善について(要綱案)に関する要望書、1981年
広田伊蘇夫:事業報告及び事業計画・資料日弁連・単位弁護士会宛要望書.病院精神医学、65、1981年
広田伊蘇夫:精神病院の社会復帰活動を考える 秋元波留夫氏の感想に寄せて.病院、42(1);76-78、1983年1月
広田伊蘇夫:【精神衛生法と患者の人権】国連人権委員会の報告から.精神医療(第3次)、47;143-148、1983年6月
広田伊蘇夫:精神医療の現実に目をそむける推進派--「保案処分」めぐる賛否.朝日ジャーナル、26(12);92-95、1984年3月
広田伊蘇夫:【宇都宮病院問題緊急特集号】精神病院の密室性を打破するために.精神医療、51;71-75、1984年5月
広田伊蘇夫:患者の人権を重視した医療・看護体制.看護、36(10);21-26、1984年9月
広田伊蘇夫:宇都宮病院問題に対する本学会の対応経過について.病院・地域精神医学、75;87−88、1984年9月
広田伊蘇夫:病院の治療・看護の再点検、東北精神医療、14、1985年
広田伊蘇夫:視点:1984年3月14日.精神科看護、20、1985年
広田伊蘇夫:精神衛生行政の実態.精神医療、14(1)、1985年
広田伊蘇夫:事業報告・事業計画・参考資料宇都宮病院関係.病院地域精神医学、78;15−32、1985年3月
広田伊蘇夫:精神衛生行政を考える.精神医療、54;34-46、1985年4月
広田伊蘇夫:精神医療への若干のコメント 宇都宮病院問題を通して(会議録).精神神経学雑誌、87(11);818-822、1985年11月
広田伊蘇夫:治療者に求められているもの.精労協ニュース、56、1986年
広田伊蘇夫:精神障害者処遇の歴史と記者の目--精神衛生法改正を機に.新聞研究、436;47-51、1987年11月
広田伊蘇夫:精神保健法への若干のコメント.CORE、4(3);193-196、1989年3月
広田伊蘇夫:1964年法改正運動・医局連合.精神医療(第3次)、70;52-60、1989年5月
広田伊蘇夫:90年代の精神病院を展望する ヨーロッパ諸国の動きのなかから.日本精神病院協会雑誌、9(5);411-415、1990年5月
広田伊蘇夫:私と精神医療.病院・地域精神医学、97;11-27、1990年8月
広田伊蘇夫:[せん妄状態]ということ.同愛医学雑誌、16;42-51、1990年12月
広田伊蘇夫:【精神医療改革運動20年】回顧と期待.精神医療(第3次)76;42-43、1991年5月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(1) いま,なぜ総合病院か.病院、50(4);338-339、1991年4月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(5)リエゾン精神医学とは.病院、50(8);698-699、1991年8月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(6)総合病院精神科の患者動態.病院、50(9);788-789、1991年9月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(8)変わりゆく精神分裂病像.病院、50(11);970-971、1991年11月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(9)老人医療にかかわってみて.病院、50(13);1094-1095、1991年12月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(10)老人痴呆その見立ての歴史.病院、51(1);68-69、1992年1月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(12)精神科治療の動態と望むこと.病院、51(3);246-247、1992年3月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(14)精神科治療における“精神の覚醒”.病院、51(5);436-437、1992年5月
広田伊蘇夫:精神保健法の見直しに期待する 国連原則と精神保健の改善.作業療法ジャーナル.26(7);472-476、1992年7月
広田伊蘇夫:遠き道程〜精神障害者と人権保護.精神医療(第4次)、1;8-15、1992年8月
広田伊蘇夫:Alpha-Interferonの副作用 精神症状への考察.同愛医学雑誌、17;37-41、1992年12月
広田伊蘇夫:精神医療における倫理的ジレンマ 若干の考察.精神医学、35(8);891-894、1993年8月
広田伊蘇夫:精神分裂病の慢性化とは(会議録).薬物・精神・行動、、13(6);338、1993年12月
広田伊蘇夫:慢性精神分裂病の病態生理をめぐって.同愛医学雑誌、18;55-59、1994年12月
広田伊蘇夫:Common Diseases 200の治療戦略 せん妄.Mndicina、32(12);554-555、1995年11月
広田伊蘇夫:旧き分裂病者からの便りによせて.精神医療(第4次)、8/9;68-78、1996年8月
広田伊蘇夫:宇都宮病院入院者の損害賠償請求訴訟の経過.精神医療(第4次)11;62-65、1997年5月
大友 守 , 黨 康夫 , 小川 忠平 , 荒井 康男 , 佐野 靖之 , 広田 伊蘇夫 , 伊藤 幸治:蘇生後の喘息患者にみられたLance-Adams症候群の一例、アレルギー、47(2・3);302、1998年3月
広田伊蘇夫:高齢者の権利擁護--介護保険と成年後見.精神医療、16;49-60、1999年4月
広田伊蘇夫:【改正精神保健福祉法施行】精神医療と法.精神科看護、27(5);8-12、2000年4月
広田伊蘇夫:序説.『追悼 島成郎〜地域精神医療の深淵へ』,批評社,精神医療別冊,2001年
広田伊蘇夫:高齢者のメンタルヘルス (総特集 メンタルヘルス・クライシス).精神医療、27;90-97、2002年
広田伊蘇夫:立法史からみた精神保健福祉施策に関する私見(会議録).精神神経学雑誌、2005特別;S117、2005年5月
広田伊蘇夫:立法史からみた精神保健福祉施策に関する私見(解説).精神神経学雑誌、107(9);958-962、2005年9月
広田伊蘇夫:【転換期を迎えた精神科病院と地域生活支援】 戦後の精神科病院施策の変遷.精神医療、48;36-43、2007年10月
広田伊蘇夫:追悼:黒川洋治さんへ.精神医療、53;127、2008年
広田伊蘇夫:藤沢敏雄先生追悼記.病院地域精神医学、52(1)、2009年
広田伊蘇夫:【追悼藤沢敏雄の歩んだ道】おわりに〜追悼記として.精神医療、2010年別冊;140-141、2010年5月
広田伊蘇夫:浜田晋さんを追悼する.精神医療、62;134−135、2011年

【座談会】
稲地聖一・浦野シマ・岡田敬藏・田原明夫・広田伊蘇夫・樋田精一:本学会の歩んできた道、進む道.病院・地域精神医学、100;8−33、1992年
松本雅彦・広田伊蘇夫・島成郎・森山公夫・野口昌也・西澤利朗・藤沢敏雄:転換期の風景と精神医療の現在.精神医療(第4次)1;32-72、1992年8月
羽田澄子・浜田晋・広田伊蘇夫:老人問題あれこれ.精神医療(第4次)4;8-39、1993年9月
広田伊蘇夫・ 谷中輝雄・岡崎伸郎:対談 緊急検証 障害者自立支援法体制.精神医療、39; 8-24、2005年
広田伊蘇夫・中山宏太郎・松本雅彦, 岩尾俊一郎, 佐原美智子, 高岡健:【精神医療の1968年】 1968年-時代の転換期と精神医療.精神医療、60;8-33、2010年
広田伊蘇夫・樋田精一・白澤英勝・田原明夫ほか:【回顧と展望】病・地学会50年の回顧と今後の展望.病院・地域精神医学、51(3);207〜226p.2009年


■追悼文

◆追悼 広田伊蘇夫先生
 http://orifure-net.cocolog-nifty.com/net/2011/10/post-14b1.html

編集部 木村朋子

 広田伊蘇夫先生が、糖尿病、ついで悪性リンパ腫の闘病の末、先月78歳で亡くなられ、9月23日告別式に参列してきました。先生は、次の永野弁護士の追悼文にあるように、精神科医として法律家と協働し、宇都宮病院問題の解決、ひいては日本の精神障害者をめぐる法や制度の改革に尽力された人でした。東京精神医療人権センターの活動も応援して下さいました。先生の思想と情熱は、「精神病者に関連する法体系と社会的処遇は、国家の自由・平等・人権思想の成熟度を示すバロメーターであり、問いつづけるべき課題である」(大著『立法百年史』の帯)の言葉にあらわれていると思います・・・

 以下、全文は、おりふれ通信300号(2011年10月号)でお読み下さい。
ご購読(年間2,000円です)のお申し込みは、本ブログ右下のメール送信で 
または FAX042−524−7566、立川市錦町1−5−1−201 おりふれの会へ

◆「故広田伊蘇夫先生の思い出」 弁護士 永野貫太郎
 http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/19561/19973/70857254

 「先生に初めてお会いしたのは、多分今を去ること二七年近く前の一九八四年頃のことだと思われます。第一印象は、あのよく光り、物事の本質を見極めるような特徴的な目でありました。その頃発覚した宇都宮病院での患者虐待等の事件で、第二東京弁護士会では、戸塚悦朗弁護士を先頭に人権擁護委員会の先生方や私のように刑法改正対策特別委員会の委員、又東京弁護士会からも内藤隆弁護士等々の先生方が、不当に入院させられた患者さん達の人身保護請求等の手続に参加されました。広田伊蘇夫先生はこの活動にも精神科医として私共と同行して、宇都宮病院でカルテを閲覧の上、意見書を書いていただき、人身保護請求書の資料として提出させていただいたことを記憶しております。
 しかし先生と多くの時間を共に過ごさせていただいたのは、その後に始まった精神衛生法改正・精神保健法成立への過程です。先生に御協力いただいた最初の事業としては、まず、一九八四年一一月以降発刊された『精神医療と人権』(1)から(3)のシリーズ本でした。この本は、当初、第二東京弁護士会の編集で出版される予定でしたが同会の承認が得られず、広田先生の協力を得て戸塚・広田共編として、ようやく亜紀書房から出版されました。このシリーズは、初めて本格的に精神科医、弁護士、ワーカー、ジャーナリスト等多職種の人々の協力を得て出版された画期的なものでした。
 ところで、一九八七年に成立した精神保健法改正に向けた広田先生を交えた検討過程では、特に戸塚弁護士の事務所に集まっての当初の意見交換の様子が記憶に残っております。それまで弁護士と精神科医(特に長年にわたり病院で実地に困難な患者の治療に携わってきた広田先生のような熟練の医師)の間には、率直に意見をぶつけ合う機会が不足しておりました。この様子は広田先生の最後の著作となった大著『立法百年史―精神保健・医療・福祉関連法規の立法史』(批評社)の、「おわりに」に少し触れられているので紹介してみると、「…精神科医としての私は、精神医療の実践原理と、法的一般原則を巡り、しばしば戸塚と激突した。若気の至りといったものではなく、厳しい論争だったが…」と書かれています。私は傍らで聞いていても、広田・戸塚両氏は我々の法改正運動の中心人物であり対立したままではどうにもならないと心配になり、途中からは、三人集まっての議論をするときには、戸塚事務所に行く途中にあった酒屋で安ワイン一本とパン屋でフランスパンバケット、チーズ等を買って持って行き、議論の途中からワインを飲みながら議論をしたものでした。戸塚氏も法律家としての原理・原則を主張し、広田先生も精神科医としての立場・経験に立脚してなかなか妥協はされなかったので、議論は、広田先生が書いておられるように平行線で終わることもしばしばであったと記憶しています。
 ICJ等のミッションを迎える準備として、又日本の精神医療を国際的基準まで引き上げることを目標として、一九八五年三月にて「精神医療人権基金」を発足させ、広田先生には医療者側のトップとして副委員長に就任していただきました。この頃からは、法律家と精神科医、その他の医療関係者との意思疎通もかなりスムーズに行くようになり、特にICJ・ICHPミッションが来日し、精神医療にも法制度にも精通したメンバーの方々との交流によって我々の内部においても両者の間の考え方の理解が深まったように感じられました。
 ICJ・ICHPミッションにより第一次ミッションの「結論と勧告」が一九八五年七月に公表され、以降一九九二年の第三次ミッションまで調査団の来日・報告の公表が行われ、その後の精神保健法の成立・改正につき大きな影響を与えたことは周知の事実でありますが、広田先生は受け入れにあたった精神医療人権基金の重要メンバーとして活躍され、又ICHPの日本代表を務められました。
 精神保健法成立にあたっては、しばしば国会での質問に立つ本岡昭次議員の議員会館の部屋で質問事項案の作成に御一緒させていただきました。又精神保健法改正がその後何回か行われましたが、厚生省精神保健課長等の面談にも御一緒したことがありました。
 最後に、精神医療も医師のみではなく、看護師、ソーシャルワーカー等々によるチーム医療によって行うべきだとする考えが広がり、広田先生と私は、PSW協会の人々の依頼を受けて、本岡昭次議員の協力の下に議員立法化を目指して、参議院法制局とPSWの資格化法案作成のために五、六回程協議を行いました。ところがようやく目鼻が立ってきたところで、厚生省精神保健課が乗り出してきて内閣提案で法制化することにして、現在の法制度が出来上がったのですが、これも広田先生、本岡議員が端緒をつけたからこそ出来たものであることを記しておきます。
 広田先生は日常の診療・治療の忙しい中これだけのことをやり遂げ、又多くの著作編集を残しておられ、さぞ大変であったろうと思います。どうぞ安らかにお休みください。
2011年10月」(全文・誤字訂正)

http://www.pref-nagano-hosp.jp/komahosp/homepage/blog/20120201225732.html

http://blog.goo.ne.jp/psw-ryu/e/c054a105a2ddcfb25ed06718add8982f

PSW研究室
ひょんなことから大学の教員になった精神保健福祉士のブログ

■広田伊蘇夫さんの一周忌
2012-09-18 23:13:58 | 日々の雑記

今日は9月18日、広田伊蘇夫さんの命日です。
もう1周忌というのが、信じがたいですが…。
昨年の2月には「喜寿の会」を新宿で行ったばかりだったのに…。

こう記しても、広田さんの名前を知っている人は少ないでしょう。
精神科医として、決してメジャーな存在ではありませんでしたし。
精神保健福祉の教科書に、名前が出てくるような存在でもありませんし。

むしろ、一昔前の精神病院の院長たちには、煙たがられた存在と言えます。
その主著のタイトルの通り「精神医療と人権」を語る精神科医でしたから。
「改革派」「人権派」の代表的論客として、この国の精神病院を批判し続けた人です。

この人がいなければ、日本の精神科医療はもっと遅れていたかも知れません。
1984年の報徳会宇都宮病院事件を契機とした、精神衛生法改正=精神保健法成立は、
この人の活躍がなければ、実は成し遂げられていなかったと言えるでしょう。

精神保健医療福祉を変えていくのは、「おかしい…」という現実への素朴な疑問です。
広田さんは、生涯一臨床医として、市井の精神科医として行動し続けました。
純朴に社会正義を追い求め、自らの信念に沿って地道な運動を持続した人です。

制度の改正は、時の流れとともに自然に変わっていくものではありません。
法律が大きく変わる時には、必ずその影に使命感をもって取り組んできた人がいます。
歴史は、その時代の人々の意識的な行動により、初めて築かれていくものです。

広田さんには「勝手にネットに追悼文なんか書くんじゃないよ」と怒られそうですが。
こういうアクションを起こした実践家がいた、ということは記しておきたいと思います。
彼の世代が成し遂げられなかった変革は、現在のPSWが引き継ぐべき使命と言えるでしょう。

※画像は「広田伊蘇夫先生の喜寿を祝う会」(2011年2月5日)で挨拶する広田さん。

■広田さんの言葉
〜追悼・廣田伊蘇夫元理事長〜

古屋龍太(日本社会事業大学大学院、准教授)

2011年9月18日、広田伊蘇夫さんが亡くなりました。
享年78歳、悪性リンパ腫でした。

私が広田伊蘇夫さんと出会ったのは、約30年前の「病院精神医学会」山梨総会(1981年)ででした。
その後「病院・地域精神医学会」になり、「日本病院・地域精神医学会」に変わり、随分メジャーな学会になりましたが、日本で一番ラディカルな医学会を牽引する小柄な理事長でした。
たまたま、その後1984年、学会事務局が国立武蔵療養所(当時)に移り、広田さんが監事に退き、その後を継いで樋田精一さんが理事長になり、私が学会の事務局の仕事をするようになって以降、約20年間にわたって会合で同席させて頂くようになりました。

したがって、私が知る広田さんの姿は、ごくごく限られたものです。
学生時代からずっと行動を共にしてきた精神科医の方々に比べると、広田さんのほんの一面しか知らないと思います。
そんな自分が追悼文を記すなど、恐れ多い感じはしますし、広田さんからは「お前が追悼文書いてくれるのかよ?」と笑われてしまいそうですが。
たぶん精神医療改革を共に闘ってきた同じ世代の精神科医や弁護士の方々が、それぞれ追悼文を書いて下さるでしょうから、私は私の世代の目から見た広田さんを記しておきたいと思います。



広田さんたちは、1974年に「刑法改「正」保安処分に反対する百人委員会」を結成し、これを母体に1980年には「保安処分に反対する精神医療従事者協議会」を発足させました。
この協議会は、その後の「精神保健従事者団体懇談会」(精従懇:22団体で構成)に発展し、現在も引き継がれています。
精神保健医療福祉にかかわる従事者たちの横断的な連合体をまず組織し、隔月開催のこの協議会の中心的な存在として、幅広い関係学会・協会とのコンセンサス作りと共同戦線形成を図っていきました。

1984年、報徳会宇都宮病院事件が起きた時、病院精神医学会理事長であった広田さんは八面六臂の活動を展開しました。
やはりこの国の精神医療の実態が明らかになった歴史的事件であり、入院患者たちの救済と、当時の精神衛生法の抜本的改正をなしとげなければならないという使命感が、広田さんを強く突き動かしていたのだと思います。
そして、宇都宮病院が存在し得たということは、自分たちの医療改革実践が不十分であったことと同じ地続きの問題なのだという自責の念から、広田さんは憤りながらも、時に空しい虚無感に襲われたようです(「病院の治療・看護の再点検」1985年)。

広田さんは精神医療関係5団体による宇都宮病院調査団を組み、声明を発しました。
事件報道は入院患者2名に対するリンチ死亡事件でしたが、この病院では入院患者に対する暴力的支配が日常化しており、看護室や保護室で鉄パイプ・金属バット等によるリンチが横行していたこと、3年間に222名の患者が亡くなっていたこと、入院患者が作業療法という名のもと病院の業務や親族経営の企業で使役されていたこと、医師派遣の見返りとして東京大学に死亡患者の脳が提供されていたこと等の実態が次々と明らかになりました。

広田さんは国内の運動を組むだけでなく、国際世論に訴えました。
国内法の改正に向けて、外圧を有効に利用した戦略でした。
自由人権協会の弁護士らとともに、国際人権連盟に同問題を訴えました。
国連の人権委員会「少数者の差別防止並びに保護に関する小委員会」に提訴されました。
同委員会に出席するために、仕事の合間を縫って、手弁当で毎週ジュネーブと往復する傍ら、『精神医療と人権』3巻を上梓しました。

ジュネーブで日本政府代表は、とんでもない答弁を繰り広げました。
「政府としても遺憾、きわめて例外的な事件」
「日本の強制入院患者は12%、あとは同意入院」
「法律は適正であり、改正する必要はない」と。
ここで言われた「強制入院」は、自傷他害のおそれがあるとされた方の措置入院のことです。
当時の「同意入院」は、今の医療保護入院です。
決して、患者本人のボランタリーな意思によるものではありません。
とても姑息な言い逃れですが、霞が関の官僚たちはごまかせると思ったのでしょう。
広田さんたちの働きかけにより、国際人権連盟会長から当時の中曽根内閣総理大臣閣下宛に要請書簡(抗議文)が届き、政府代表は前言を撤回せざるを得なくなりました。

広田さんたちは海外の法律家とも連携し、国際法律家委員会(ICJ)訪日に合わせ、国際医療従事者委員会(ICHP)を創設しました。
1985年合同調査団の調査内容は「結論及び勧告」として、日本政府に示されました。
広田さんは、厚生省の小林秀資課長(当時)に、精神衛生法改正を強く迫りました。
結局、国連人権委員会に出席した同課長は、法改正について意見表明せざるを得なくなりました。

1987年、精神衛生法が改正され「精神保健法」が制定されました。
患者本人の意思による「任意入院」が、この時初めて日本にできました。
患者自身が、自分自身の意思で、精神科病院を利用する。
その門戸を開いたのが、広田さんの一番大きな功績であったと、私は思っています。
広田さん自身は「自由入院」という言葉で法律化できなかったのを悔しがっていましたが。
「不十分な点はたくさんある。しかし、ひとつ風穴が開いた」。
広田さんが、法改正後の学会で語っていた言葉です。



静かな人でした。
とても静かで、熱い情熱を秘めた人でした。
じっと他者の言葉を聴き、余計なことは言わない人でした。
そのかわり、ズバッと一刀両断の、辛辣なひと言を語る人でした。
いくつも、広田さんが遺した言葉が思い返されます。
その場にいる人の背筋を、しゃんと伸ばさせる、短いひとことでした。

学会の理事会では、居並ぶ精神科医や専門職種などのディスカッションを聴いたうえで、ひとこと告げました。
「スローガンだけじゃダメだ。スローガンだけじゃ何も変わらないよ」
「仮にも学会なんだ。運動をするにも、データを示さなきゃダメだ」
「事実を示さなきゃダメだ。常に事実に基づいて語らなきゃダメだ」
「本当のことを言わなきゃダメだ。この学会を再建した意味がない」
「千人超えたら、もう学会じゃないよ。単なるお祭りだ」
「学芸会じゃあるまいし、良いことしましたって発表だけで、何になる?」。

そして、会議のあとの帰り道、居酒屋などで同志や若手の仲間たちの議論を聞いていました。
説教はしませんでした。
いつもひとこと、告げました。
時に、含羞の笑みを浮かべながら。
時に、人を射抜くような鋭い眼差しで、相手を見つめながら。
「専門職を名乗る以上、学問をしろよ」
「学問はコツコツと、真面目に取り組んでやるもんだよ」
「僕は勉強した。本当に勉強した」
「自分にできる限りのことはやってきた。精一杯診療もしてきた」
「運動もした。書いた。書くべきものは、書いた。もういいよ」。

晩年は、季刊誌「精神医療」の編集委員会で同席させていただきました。
広田さんの絶筆は、私が知る限りでは、同志たちへの追悼文でした。
「島(成郎)が逝き、藤沢(敏雄)や生村(吾郎)が逝き、浜田(晋)も逝った」
「もうイヤだよ、追悼文を書くのは。長生きしてても、みんな先に逝っちまう」
「医者として、やるべきことはやったよ。もう、いいんだ、俺は…」

振り返ると「もう、いい」という言葉が、やたら多い晩年でした。
そして追悼文は、みんな「いずれまた」「またお会いしましょう」という言葉で締めくくられていました。



2011年2月に「喜寿の祝い」を新宿で開き、全国から仲間が集まりました。
お祝いの励ましの言葉を受けて、広田さんは挨拶で精神科医療の現状と今後について語りました。
「精神医療改革は、まだまだ不十分」「取り組まなければならないことは、たくさんある」と語りながらも、「書くべきことは、もう書いた」と広田さんは言っていました。

広田さんの学問的業績の集大成といえるものが『立法百年史ー精神保健・医療・福祉関連法規の立法史』でしょう。
情緒的文言を排して史料の事実のみを記し、精神病者監護法前史から日本の100年を説き起こす400頁を超える大著です。
この本について取り上げると書評になってしまいますし、広田さんの生涯一臨床医としての姿勢は、初期の著作に表れていると思うので、言葉をいくつか拾い出してみたいと思います。

「今、明白なことといえば、自らの精神医療が恥と失敗の繰り返しであったし、今後もそうなるであろうとの実感だけである。
このことを認め、自覚すればするだけ、記したり、話したりすることが白々しいものとなってゆく」
(「日常性へのいくつかの疑問」1974年)。

「病者が自らの誇りや野心をもって、自らの生活を社会に根づかせた時にはじめて、社会復帰は真の意味を獲得し得るものであろう。
とするならば、病者の自尊心や野心を切り刻む病院内部の、そしてなによりも医療者内部の権威構造は、病者の社会復帰への道を傷つけはしても、それを拡大するものとはなり得ない。
このことがわれわれの内部で自覚されてゆかない限り、真の意味での社会復帰医療は、はるかかなたの幻想として存在せざるを得ない」
(「内なる阻害ー社会復帰の前提」1974年)。

「病院治療で何が問われなければならないかといえば、まず、病者は自立し得ず、自らをコントロールし得ないものとの立場を離れ、[理解]ではなく、ラパイユの意味での[愛の関係]にどこまでたち至り得るのかがあり、次に、何が施設のもつ有害な、致命的な政策なり哲学であるかの検討があり、さらに病者を救い難い、無力の犠牲者とみるのではなく、自らの行為に対し責任もあれば、理由づけもできる者としてみる立場に、我々がどこまで立ち得るのかという問題につきるといえよう」
「それは分裂病の病的プロセス論の賛否の問題ではなく、病者の自己決定なり責任を、個々の症例について検討し、それをどう保証してゆくかという問題といってよい」
(「治療者と病者の関係」1975年)

G.トーネイやD.H.クラークらの言説を取り上げながら
「スタッフといえども、ひとりの人間として、合理と不合理を共々もち合わせ、誤りやすい存在であり、それが病者に影響を与えるものであるとの経験的認識があり、この認識の上に、人間集団としての精神医療を展開するのが、精神病院における実践の方向である」
「そこには、道徳療法の根底で、この運動を支えたロックの思想をうかがうことができる。
このようにみる時、精神医療におけるわれわれの治療的実践は、決してドラマチックなものでもないし、それを期待するべきものではない。
それは[われわれもまた誤謬を犯す]との控え目で、つつましやかな認識の上での実践である」
(「精神医療の歩み」1977年)

「コンビニだって、今や24時間やってるんだから、あちこちに診療機関があれば便利ですよ。
ところがコンビニにも負けているわけです。
惨憺たるものですよね、比較すると。
これは資本と福祉の対決点であると私は見ています」
「保健所が人間を相手にしないで、事務屋さんになってしまった。
ただ、勤務している人は優しいですし、ケースによっては懸命に援助して下さいますけれどもね」
「マニュアル通りにやっているだけ。
何か出さないと何もしない。
治療の根本が、変わってきましたね。
人間的ではない。
人間はそんなに簡単でも単純でもない。
マニュアル通りに動く患者がいたら、大変だと思うよ」
(「座談会:病・地学会50年の回顧と展望」2009年)



9月22日の夜。
世田谷キリスト教会での前夜式には、多くの精神医療関係者が集まりました。
学生時代からずっと行動を共にしてきた、精神科医の森山公夫さんが故人を偲び、その活動を称えました。
その思い出を記した追悼文は、広田さんが長年編集委員を務めていた「精神医療」誌の最新号(65号)に掲載されています。

当然のことですが、精神科医師である広田さんというのは、ごく一面だったんだなと葬儀で実感しました。
お顔もそっくりなご兄弟や親族の方に囲まれていた、富山県での少年時代や、社会の矛盾に目を見開いた多感な思春期。
私たち精神保健福祉領域の者もほとんど知らなかった、社会福祉法人興望館の運営する児童養護施設での活動や、子どものいなかった広田さんの子どもたちとのかかわり。
そして、入院療養中の広田さんに告げられた、奥様が突然自宅で逝去された事実…。
「もう、いい…」。
広田さんの晩年の口癖が思い出されました。

今は天国で、含羞に満ちた少年のような笑顔を浮かべて、奥様と過ごしているのでしょうか?
他者を正面から見つめる鋭い眼差しで、先に逝った同志たちと再会し、酒を酌み交わしながら議論しているのでしょうか?

「時代を、状況を変えたいなら、ちゃんと勉強しろよ。学問しろよ」。
…今も広田さんの声が聞こえてきそうです。」

■著書

◆浜田 晋・広田 伊蘇夫・松下正明・二宮 冨美江 編 19731120 『精神医学と看護――症例を通して』,日本看護協会出版会,688p. ISBN-10: 4818001236 ISBN-13: 978-4818001237 3780 [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆広田 伊蘇夫 19810523 『精神病院――その思想と実践』,岩崎学術出版社,226p. ASIN: B000J7YFXC [amazon] 3000 ※ m,

◆戸塚 悦朗・広田 伊蘇夫 編 198411 『日本収容所列島――精神医療と人権I』,亜紀書房,300p.ISBN-10: 4750584118 ISBN-13: 978-4750584119 [amazon][kinokuniya] ※ m,

◆戸塚 悦朗・広田 伊蘇夫 編 19850625 『人権後進国日本――精神医療と人権II』,亜紀書房,260p. ASIN: B000J6PE60 1800 [amazon] ※ m,

◆戸塚 悦朗・広田 伊蘇夫 編 198512 『人間性回復への道――精神医療と人権III』,亜紀書房,267p. ASIN: B000J6O4W0 [amazon][kinokuniya] ※ m,

◆広田 伊蘇夫・暉峻 淑子 編 19870520 『調査と人権』,現代書館,305p. ISBN-10: 4768455557 ISBN-13: 978-4768455555 2500 [amazon][kinokuniya] ※ m,

◆広田 伊蘇夫 198710 『断想・精神医療』,悠久書房,276p. 2000

◆浜田 晋・竹中 星郎・広田 伊蘇夫 編 19970910 『ナースのための精神医学――症状のとらえ方・かかわり方』,日本看護協会出版会,281p. ISBN-10: 4818005940 ISBN-13: 978-4818005945 3360 [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆広田 伊蘇夫 20040725 『立法百年史――精神保健・医療・福祉関連法規の立法史 増補改訂版』, 批評社, 412p.ISBN-10: 4826504039 ISBN-13: 978-4826504034 4515 [amazon][kinokuniya] ※ m, h01,

■訳書

◆Szazz, Thomas S. 1970 Ideology and Insanity=1975 石井毅・広田伊蘇夫訳『狂気の思想――人間性を剥奪する精神医学』、新泉社



◆病院精神医学会理事会 19810926 「精神医療の抜本的改善について(要綱案)に関する要望書」(理事長:広田)



◆広田 伊蘇夫 1970 「措置入院制度――その反医療性」,『精神医療』第1次4:19-23

◆広田 伊蘇夫 1976 「トーマス・S・サズの反精神医学――その反科学思想」、『臨床精神医学』5-6:699-706

◆広田 伊蘇夫 20010810 「序説」,藤沢・中川編[2001:3]*
*藤沢 敏雄・中川 善資 編 20010810 『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p. ISBN-10: 4826503350 ISBN-13: 978-4826503358 [amazon][kinokuniya] ※ m

 「あらためて記すまでもなく、島は日本における戦後、唯一の政治闘争、1960年安保闘争の指導者だった。しかし、私にとっての島は、砂川基地反対闘争以来、心の奥底に居座り続けた信頼の星だった。年月を経て、精神病院の開放運動に一石を投じつづけた私の朋友、石川信義と共に、当時、砂川小学校の講堂に寝泊まりし、降り続く雨の中、デモ隊の一員として国家権力に対峙し、反安保闘争の前哨戦として、1959年11月の国会突入時には、これも石川と共に国会の横柵を越え、正門の鉄扉を叩きつづけた。いずれも島の信条に共感した行動であった。論理を越え、自らの行動をもって、亡びゆかんとする人間的情念を呼び起こす魔性こそ、島成郎の本質だった。」(広田[2001:3])
 →石川 信義

■言及

◆立岩 真也 2013 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社 ※

◆立岩 真也 2012/07/10 「これからのためにも、あまり立派でなくても、過去を知る」,『精神医療』67:68-78

◆立岩 真也 2012/07/** 「もらったものについて・9」『そよ風のように街に出よう』83

◆立岩 真也 2012/03/20 「五年と十年の間で」『生存学』5:8-15

◆立岩真也 20110401 「社会派の行き先・6――連載・65」,『現代思想』

 「高岡 […]当時の改革派が何を考え、何を行動してきたのかという話に移っていくことにします。一九六八年以前からの組織としては、全国大学精神神経科医局連合と、それから、全国すっぽん会の二つがあります。/広田 すっぽん会は京大です。/松本 高木(隆郎)先生・小池(清廉)先生たちのグループですね。」(広田他[2010:24])

 その松本・中山も加わった座談会の記録が「精神医療の一九六八年」を特集した『精神医療』(第4次)60号に掲載されている。広田は東京にいた人として語っている。小澤・藤澤は没している。

 「松本 京大評議会の位置づけは、大学の中の闘争というよりも、一九六八年から六九年にかけて結成される関西精神科医共闘会議というのがありまして、その一端でしか位置づけられないと思います。
 当時の精神病院の乱立問題も含めて、他の科の先生たちが精神病院をつくる、たとえば婦人科の先生が精神病院をつくって経営するという、転科医の問題もありましたし、しかも関西ではいろいろな病院で不祥事件が起きていました。ですから、大学の問題というようりも、民間病院に赴任した人たちや、一度大学から散ってしまった人たちがまた再結集して、関西精神科医共闘会議をつくって活動したのです。それが、大きな運動の発火点だったのではなかったかと思いますね。
 ですから、私たちが関西にいて、東大の自主管理闘争を見ていると、やはり大学の中での争いという感じが非常に強いという印象を受けましたね。関西の方は、もっと精神科医療の問題に真っ正面から向き合わされて、そこにのめり込まれされたといった感じがします。
広田 東京から見ていると、関西の方は日本全体の精神医療をどうするのか、ということを考えていた。東大は、自主管理闘争という、大学の中の改革にのめり込んでいたという感じがします。
松本 同じような感じを受けましたね。
中山 そういえば近畿各県から集まっていました。[…]和歌山も、徳島も、神戸はもちろんですし、大阪はかなりの数でした。来なかったのは奈良ぐらいかな。
佐原 敵を撃ったら自分たちに返ってきたため、自分たちの現場を再点検するのだという意見が出てきた。それは、そういうことなのですね。
中山 そうだと思いますね。」(広田他[2010:20-21])

 「高岡 一九六八年から六九年五月の金沢学会までの期間には、水面下でさまざまな動きがあったのでしょうか。
佐原 小澤さんとパンフレットをつくったりとか、いろいろやったのでしょう。
中山 自分たちで何とかしなければならないというのがありました。
教授に頼んでどうなるものでもないし、行政に頼んでもどうなるものでもなし、ある意味では孤立感みたいなものがあった。松本さんは、非常に達筆なものですから、僕らが原稿書いたら、その文章を一所懸命直してながら、ガリ版を切ってくれるわけです。それを刷って、いろいろなところに配る。それは、とにかく自分たちでどうにかしないといけないという意識があったからだと思います。
松本 確かにありましたね。
広田 あの頃は、全国誌を出して、それを全国にばらまいたりしていました。岡田靖雄さんや吉田哲雄さん、そして僕など、医局連合のメンバーがやったのです。
中山 僕らは、医局連合ということ自体がちょっと自分たちと違うな、という感じだったですね。大体、医局連合というのはおかしいのではないかというのが当時の感覚です。
岩尾 でも、医局という言葉はとれたのでしょう。
高岡 全国精神神経科連合になった。
佐原 関西と関東で大分落差があったのですね。金沢学会を周到に準備したのは、関西、なかでも京都あたりだと言われていますが、それはどのように準備されたのでしょうか。
松本 あの頃はよくガリ版切りをさせられていましたからね。最後は別れますけども、やはり金沢彰論文による認定医批判がはじまりでしょうね。さきほど話があったように、長崎学会で日本精神神経学会の理事会が何とか認定医を通そうとした。
 そこには何ら現状に対する批判的な視野がなく、ただ優れた精神科医を育成するための制度だという感じでしたから、それはおかしいではないかということを、金沢先生が指摘されたのです。
 大きな批判の焦点は、学会の教授連からなる理事会に対する異議申し立てでしょう。彼らが認定医制度を通そうとするのは、医局講座制の強化にすぎないのではないか、という批判に展開したのです。
中山 何度も言いますが、そこのところは僕の評価と違うわけです。僕自身は、よくわからない主張を根気よく聞いてくれるのはなぜだろうと、ずっと考えていた。だから、そのときも計画を立てて行ったわけではなく新井(清)君が、「先生、自動車で行くから乗ってください」と言って来たので、それで、僕は何となく、乗っただけなのですよ。そんな感じでしたね。情勢分析ができていないですから、あまり目的意識をもってということではなかったのです。
佐原 でも、京都の多くの人は、目的意識をもってやっていたわけでしょう。
松本 金沢では、「精神科医にとって学問とは何か」というビラを書いたのです。やはり、それなりの目標みたいなものをもっていたのではないかと思います。[…]★05
広田 やはり精神神経学会のあり方はおかしいということを、東京でも言っていましたね。
中山 それは言っていました。
広田 それを、金沢学会の中で明確にしようとした。薬屋から金をもらって学会をやっていいのかということもありました。学会というのは、もう少しつつましくやるものだという考え方が強かったですよ。」(広田他[2010:22-23])★06

「中山 そういう意識はあったと思いますが、それでは周到に計画されて、目標を持って、戦術を立ててやったかというと、必ずしもそうではない。理事会側にしても、理事会の周りの先生方、つまり教授層にしても、精神医療の悲惨さという共通の認識があったというのが僕の結論なのです。ですから、精神医療の悲惨さということに対する共通した認識が、旧体制の中でも、極右的な人とそうではない人を分離させたように僕は思います。
広田 金沢学会が始まる前は、そういう共通した認識はなかったと思います。
中山 そうですね。なかったのです。
広田 そういうものが浮き彫りにされたという意味で、僕は金沢学会を評価しています。
中山 やはり、現状の悲惨さという言葉で言いあらわされているものは、一部の先生方を除いて共有できていたのではないか。にもかかわらず、必ずしも目標や戦術を立てずに突っ込<んだ部隊が、あれよあれよという間に学会を支配するようになってしまった。
広田 学会で討議を重ねているうちに、変な部分がどんどん出てきたということですね。
中山 そういう感じですね。
広田 そこの中で学会の方針というのが少し変わっていったと思いますね。
松本 僕は、そうとは思わないですよ。わかっていながら、それに対して何もしようとしない、しかも、認定医制度という体裁のいい制度をつくって、ますます権威づけようとしていくことに我々は怒ったのですよ。」(広田他[2010:23-24?])

◆立岩 真也 20110201 「社会派の行き先・4――連載・63」,『現代思想』 資料

 「◇広田伊蘇夫(一九三四〜)一九六一年東京大学医学部卒。都立松沢病院を経て同愛記念病院勤務。日本病院・地域精神医学会理事長、国連非政府機関(NGO)国際医療職専門委員会日本代表等を務めた。単著に『精神病院』(広田[1981])『断想・精神医療』(広田[1987])『立法百年史』(増補改訂版・広田[2004])。」

 「最後に、その人たちは、出版等、医療関係者そして/あるいは病者・関係者その他、人々に向けて知らせる活動を行なってきた。今回多くの文献をそこからあげている――ゆえに偏りも出てくるのだが――『精神医療』(藤沢・中川編[2001]、精神医療編集委員会編[2010]はその別冊――は一九七〇年に「東大精神科医師連合」の機関紙として創刊された(浅野[2010:81])。島はその刊行に関わり、表紙は島の妻の島博子がデザインした(中川[2001:17])。精神医療編集委員会の独自発行(第一次)、岩崎学術出版から刊行の時期(第二次)、悠久書房の時期(第三次)、そして現在の批評社からの刊行(第四次)と移ってきたこの雑誌(松本[2010:127])で、広田・藤澤・森山はその編集委員を務めてきた。また浜田もこの雑誌に連載をしている(後述)。そしてその浜田は先にその一部を紹介した「一般読者」向けの多数の著作を発表した。小児科の領域の毛利子来(一九二九〜)や山田真(一九三三〜)の著作が果たしてきた役割が大きいのと似て、浜田の精神障害・疾患・医療や老いを巡る著作が与えたものもあった。一九七〇年代の共編の教科書『精神医学と看護――症例を通して』(浜田・広田他編[1973])等もある。後にふれるかもしれない。」

◆立岩 真也 2005/02/01 「二〇〇四年読書アンケート」,『みすず』47-1(2005-1・2):93-94

◆2004/12/17「二〇〇四年の収穫」,『週刊読書人』2567:3

広田伊蘇夫氏蔵書


UP:20041201 REV:20081101, 29, 20110812, 20120610, 1010, 20130329, 0402
精神障害  ◇精神医学医療批判・改革  ◇身体×世界:関連書籍  ◇広田伊蘇夫氏蔵書  ◇WHO 
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