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東御建田 郁夫

ひがしみたてだ・いくお



 東御建田 郁夫 19980507 『いのちの輝き――まだ瞼は動く』,東洋経済新報社,247p. ISBN-10: 4492041117 ISBN-13: 978-4492041116 \1470 [amazon][kinokuniya] ※ als c07 n02 v03

 第1章 晴天の霹靂
 第2章 懐かしい遊び
 第3章 食べ物アラカルト
 第4章 日本料理と日本的食べ物


第1章 晴天の霹靂

1985夏 異常に気づく(p.16)

1986
 「[…]症状の経過を話した後、簡単な器具を使って握力や感覚を調べられ、この次には、会社の上司を伴って来院するように告げられた。よほど難しい病気であることは、医師の表情や態度からもはっきりと読み取ることができた。
 帰宅してから『家庭の医学』を取り出して調べてみた。神経系の病気を順にあたっていと、たくさんある病名のなかで、たった一つだけ該当するものがあった。
 「この病気は進行性で発病して五〜十年で呼吸困難に陥り、やがて死にいたる……」、ここまで読んで愕然とさせられた。
 「そんなアホな!」――スミからスミまで何度も読み返してみたが、他に該当する病名は見当たらない。当然のことながら心理的な拒絶反応が働き、否定するための材料を必死で探している自分がいた。」(東御建田 郁夫 19980507p.19)
 「数日後、医師の要請通り上司と妻に伴われて再度国立病院を訪れた。すると驚いたことに診察室に呼び込まれたのは妻と上司のみ。私は独り待合室に残され、ますます悪い予感が胸をよぎった。
 ややあって診察室から出てきた妻の目は真っ赤に充血していた。もうそれだけでどんな話があったのかは容易に想像がついた。」(p.20)
 ……
 「実は、まだこの時点で私にはALSのことは知らされていなかった。障害者手帳には『運動ニューロン病』と記され、正確な病名がわからないようにしてあったり、特定疾患認定証は妻が持っていて、私の目には触れないように気を配っていたからである。」(東御建田[1998:23])
 「一年三カ月後に退院したが、病状はさらに悪化して、人工呼吸器を一時も離せなくなっていた。しかし、恋しいわが家にとりあえずは帰(p.2)還することができたことでホッとしたことは否めない。病院では特別待遇を受けていたので、ある意味では快適ともいえる入院生活を送ることができたが、やはり自宅に勝るところはない。もっと早くに帰るべきであったと後悔したものだ。
 私の喜びと反比例して、妻をはじめとする家族の負担が増大することは確実だが、二重生活から脱する方が家族全員の精神衛生上プラスになると考えての退院であった。
 私の病気を考えると、自宅に戻るということは、一見危険性が増すようにも思えるが、人工呼吸器に頼っている身にとっては病院と自宅は五十歩百歩である。そう言い聞かせてはいても、自宅に戻るや否や落雷が恐くなったのは、その残りの五十歩の差を認識していたからである。
 退院後一年ほどして瞼の動きで操作できるワープロを入手して、受動的な生活から脱することのできた喜びはこたえようもなかった。」(pp.2-3)

 「俗に民間療法と呼ばれるものもいくつか試みたことがあった。/その一つが、アーク(?)とかいう、放電で生ずるスパーク光と熱を患部に当てて治療する方法であった。[…]/新聞で知った鍼治療院も訪ねてみた。[…]/岡山にいる知人からは「難病を治してくれるという評判の灸師がいる」と教えてもらったので、新幹線に飛び乗り岡山まで出かけたこともある。[…](p.27)/[…]兄から、どんな病気でも治す不思議な力が備わっている姉妹がいるとい話が持ち込まれた。[…]
 仕事がらたくさんの人と出会い、相手の心を読むことを生業にしてきたからだと思うが、平常心さえ失わなければ、相手の意図が透けるように見えることがある。当初の期待が大きかっただけに、冷めるのも早かった。/ただ、彼女たちの行為が詐欺まがいだと断定しきれないのは、科学的には説明の付かない何らかの能力を持っている可能性があることまでは否定しきれなかったからだ。しかしその能力が私の病気に有効だったかといえば「ノー」といわざるを得ない。かなりの頻度で治療を受けていたにもかかわらず、病気は確実に進行していき、やりきれない気持ちと虚しさだけが積み重なっていった。」(東御建田[1998:27-28])

 
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■立岩『ALS――不動の身体と息する機械』における引用・言及

 [26]一九八六年・「この病気は進行性で発病して五〜十年で呼吸困難に陥り、やがて死にいたる」(『家庭の医学』、東御建田[1998:19])
 [43]一九八五年に発症、八六年に「五〜十年で呼吸困難に陥り、やがて死にいたる」[26]と書かれた本を読んだ東御建田郁夫(大阪府)は、九八年に東御建田[1998]を出版する。
 [122]一九八六年、東御建田郁夫[43]は某国立病院(大阪府)で「この次には、会社の上司を伴って来院するように告げられた。[…]数日後、医師の要請通り上司と妻に伴われて再度国立病院を訪れた。すると驚いたことに診察室に呼び込まれたのは妻と上司のみ。私は独り待合室に残され、ますます悪い予感が胸をよぎった。」(東御建田[1998:20]、[…]の間に『家庭の医学』[26]を読む。)
 [129]東御建田[122]は「数日後、医師の要請通り上司と妻に伴われて再度国立病院を訪れた。すると驚いたことに診察室に呼び込まれたのは妻と上司のみ。私は独り待合室に残され、ますます悪い予感が胸をよぎった。/ややあって診察室から出てきた妻の目は真っ赤に充血していた。もうそれだけでどんな話があったのかは容易に想像がついた。」(東御建田[1998:20])  [290]東御建田郁夫[129]。「一年三カ月後に退院したが、病状はさらに悪化して、人工呼吸器を一時も離せなくなっていた。しかし、恋しいわが家にとりあえずは帰還することができたことでホッとしたことは否めない。病院では特別待遇を受けていたので、ある意味では快適ともいえる入院生活を送ることができたが、やはり自宅に勝るところはない。もっと早くに帰るべきであったと後悔したものだ。/私の喜びと反比例して、妻をはじめとする家族の負担が増大することは確実だが、二重生活から脱する方が家族全員の精神衛生上プラスになると考えての退院であった。/私の病気を考えると、自宅に戻るということは、一見危険性が増すようにも思えるが、人工呼吸器に頼っている身にとっては病院と自宅は五十歩百歩である。そう言い聞かせてはいても、自宅に戻るや否や落雷が恐くなったのは、その残りの五十歩の差を認識していたからである。」(東御建田[1998:2-3])
 [305]東御建田郁夫[290]。「退院後一年ほどして瞼の動きで操作できるワープロを入手して、受動的な生活から脱することのできた喜びはたとえようもなかった。」(東御建田[1998:2-3])


※おことわり
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*作成:立岩 真也
REV:20011201,20020911,20030412,20040226
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