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Hayek, F. A.

ハイエク


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◆Hayek, F. A. 1941 The Road to Serfdom=19921020 西山千秋訳,『隷属への道』 春秋社,382p. 3000 *(↓)
◆『貨幣理論と景気循環/価格と生産』
 春秋社,ハイエク全集1 4500 
◆『利潤,利子および投資』
 春秋社,ハイエク全集2 4000 
◆『個人主義と経済秩序』
 春秋社,ハイエク全集3 5500 
◆『感覚秩序』
 春秋社,ハイエク全集4 4500 
*◆1960 The Constitution of Liberty
 Routledge & Kegan Paul(London)
 =『自由の価値──自由の条件I』
 春秋社,ハイエク全集5 4000 
 =19871110 気賀健三・古賀勝次郎訳,『自由と法──自由の条件II』
 春秋社,ハイエク全集6,254p.(新装版19971110) 4000 *
 =19870520 気賀 健三・古賀 勝次郎 訳,『福祉国家における自由──自由の条件III』
 春秋社,ハイエク全集7,266+36p.(新装版19971210) 4500 *
◆1973
 =19870610 矢島鈞次・水吉俊彦訳,『ルールと秩序──法と立法と自由I』
 春秋社,ハイエク全集8,231p. 4000 松本331
 1976 Law, Legislation and Liberty, volume 2: The Mirage of Social Justice, Routledge & Kegan Paul
 =19871020 篠塚慎吾訳,『社会正義の幻想──法と立法と自由II』
 春秋社,ハイエク全集9,269p. 4000 松本331
 『自由人の政治的秩序──法と立法と自由III』
 春秋社,ハイエク全集10 4500 

 

◆Hayek, F. A. 1941 The Road to Serfdom=19921020 西山千秋訳 1941 『隷属への道』 春秋社,382p. 3000 *

◆1960 The Constitution of Liberty
 Routledge & Kegan Paul(London)
 =19861120 気賀健三・古賀勝次郎訳,『自由の価値──自由の条件I』
 春秋社,ハイエク全集5,241p. 4000 
 =19871110 気賀健三・古賀勝次郎訳,『自由と法──自由の条件II』
 春秋社,ハイエク全集6,254p.(新装版19971110) 4000 *
 =19870520 気賀健三・古賀勝次郎 訳,『福祉国家における自由──自由の条件III』
 春秋社,ハイエク全集7,266+36p.(新装版19971210) 4500 *

『自由の価値──自由の条件I』

 第1部 自由の価値

第1章 自由と個別的自由
第2章 自由文明の創造力
第3章 進歩の常識
第4章 自由、理性および伝統
第5章 責任と自由
第6章 平等、価値およびメリット
第7章 多数決の原則
第8章 雇用と独立

「ある人の望ましい特性は、それが家庭環境の結果である場合に、そうでない場合よりも社会にとって価値が劣ると信ずるどんな理由がありうるのか。事実、一世代ではめったにに獲得されないが、二世代あるいは三世代の絶えざる努力によってのみ一般に形成されるいくつの社会的に価値のある特性が存在すると考える十分な理由がある。」([1960:90=(I)132]、第6章3「生まれつきと育ち」)

「これらの(機会の平等を求める…引用者記)要求の正当性について検討するとき、われわれが気づくことは、それらが、一部の人びとの成功によってあまり成功しなかった人びとのなかにしばしば生まれる不満、あるいは、あからさまにいえば、羨望にもとづいているということである。この感情を満足させ、社会正義という尊敬すべき外観でそれを偽装する現代の傾向は、自由にとって重大な脅威にまで発展しつつある。……もしも満たされない欲望が実際にすべて、共同社会への請求権をもつとするならば、個人の責任はなくなってしまう。いかに人間的であろうとも、羨望はたしかに、自由社会がとり除くことのできる不満の源泉の一つではない。おそらく、そのような社会の維持にとって不可欠な条件の一つは、羨望を奨励(p.136)しないこと、それを社会正義として偽装することによってその要求を承認しないこと、それを、ジェームズ・スチュアート・ミルの言葉を借りれば、「あらゆる感情のうちでもっとも反社会的かつ悪質なもの」として扱うことである。」([1960:93=(I)136-137]、第6章5「機会の平等」)

『自由と法──自由の条件II』

 第2部 自由と法

第9章 強制と国家
第10章 法律、命令および秩序
第11章 法の支配の起源
第12章 アメリカの貢献=立憲制
第13章 
第14章 
第15章 
第16章 

「もし他人を嫉妬して、あるいは自分たちの考え方に関する根深い習慣をさまたげるものを嫌って、われわれがある種の活動の遂行を抑制しなければならぬとすれば、それは自由擁護論をすべて無意味にするであろう。」(p.21)

『福祉国家における自由──自由の条件III』

 第3部 福祉国家における自由

第17章 社会主義の衰退と福祉国家の興隆
第18章 労働組合と雇用
第19章 社会保障
第20章 課税と再分配
第21章 貨幣制度
第22章 住宅と都市計画
第23章 農業と天然資源
第24章 教育と研究
追論 わたしはなぜ保守主義者ではないか

 

◆『ルールと秩序──法と立法と自由I』
 春秋社,ハイエク全集8 4000 
◆『社会正義の幻想──法と立法と自由II』
 春秋社,ハイエク全集9 4000 
◆『自由人の政治的秩序──法と立法と自由III』
 春秋社,ハイエク全集10 4500 

第1部 ルールと秩序
 第1章 理性と進化
 第2章 コスモスとタクシス
 第3章 諸原理と便宜主義
 第4章 法概念の変遷
 第5章 ノモス──自由の法
 第6章 テシス──立法の法

第2部 社会正義の幻想
 第7章 一般福祉と特定の意図
 第8章 正義の探究
 第9章 「社会的」あるいは分配の正義
 第9章補論 正義と個人の権利
 第10章 市場秩序またはカタラクシー
 第11章 抽象的ルールの規律と部族社会の情緒

第3部 自由人の政治的秩序
 第12章 多数派の意見と現代民主主義
 第13章 民主主義的な権力の分割
 第14章 公的部門と私的部門
 第15章 政府の政策と市場
 第16章 民主主義的理想の失敗──概要
 第17章 ひとつの政体モデル
 第18章 権力の抑制と政治の退位
 終 章 人間的価値の三つの源泉



「慎重に考えた後に、私がロールズの『正義論』についていわなければならないことは、私の直接の主題の追求に役立つことはないという結論に達した。なぜならば、われわれの間の相違は、実質上のものというよりは言葉の上のものであるように思えるからである。読者の最初の印象は違っているかもしれないが、この巻の後のところで(一〇〇頁〔一四一頁〕私が引用したロールズの言明は、私にとって基本的な点であることについてわれわれが同意していることを示しているように思える。事実、その節に対する注で指摘しているように、ロールズは、この中心的問題について広く誤解してきたように、私には思える。」([II5]、第2部まえがき)

「疑いもなく、ジョン・ロールズ教授が最近一冊の重要な書物にあてた問題である、政治制度の熟慮の上の設計と関連した正義の純粋問題も存在する。私が惜しみもしまた混乱とみなす事実は、この関連で彼が「社会的正義」という用語を採用していることであるにすぎない。しかし、その問題に進む以前に、細目まで定められた体系とか望ましい事物の分配を正義に適うとして選び出すという仕事は、「原理的に間違いであるから放棄しなければならないし、いずれにせよ、それは明確な答を出すことができない」ことを認める著者となら、私は何の基本的な論争点をもたない。「むしろ、正義の諸原理は、そこに携わる人々が制度や結合活動に対して何の不平ももつべきでないというのであれば、そうした制度や結合活動が満たされなければならない決定的な制約を定める。もしこれらの制約が満たされていれば、結果はしての分配は、それが何であれ、正義に適うものとして(少なくとも正義にもとらないとして)受け入れられることになるであろう(44)。」私が本章で議論しようとしてきたことは、大なり小なり、このことなのである。」([II141]、第9章「社会的」あるいは分配の正義、末尾)
「(44) John Rawls, "Constitutional Liberty and the Concept of Justice", Nomos IV, Justice (New York, 1963)p.102.……私は、ロールズ教授の最近の著作A Theory of Justiceが主要な論点についての比較的明快な言明を含むことに気付かなかった。その論点が、なぜこの著作が社会主義的要求に支持を与えるものと解釈されるのか──私には誤りに思えるが──を説明するのかもしれない。」([II248])

「偉大な社会において、あたかもそれがある人間の作為であるかの如く、もしAがBより多くをもつならばそれは道徳的正当化を必要とする主張することは馬鹿げている。このことは、これを妨げるのに必要な精密で複雑な政府装置とこの装置が全ての市民の努力を指示し、そうした努力の成果を要求する権力をもたなけばならないことを考えれば、明らかである。」([II245]、第9章注28)

「事実、絶対的貧困が、なお、深刻な問題となっている多くの国々では、「社会的正義」に対する関心が、貧困を排除するための最大の障害の一つになっている。……市場の諸帰結を「社会的正義」の方向に「矯正」しようとする試みは、おそらく、新しい特権とか移動への障害とか努力の挫折(p.192)といった形態で、それらが多くの貧困の緩和に貢献してきた以上の不正義を、生み出してきたことであろう。
 こうなってしまったのは、そもそもは最も不運な人々のためになされた「社会的正義」に対する訴えが、自分たちは受けるに値すると思うだけのものを得ていないと感じる構成員からなる別の集団、特に、自分たちの現在の地位が脅かされていると感じている人々の集団によって、取り上げられたという事情の結果である。」([II192-193]、第11章「抽象的ルールの規律と部族社会の構造」の「最も不運な人への配慮から既得権益の保護へ」)
 ◇Rawls, John

 

●『市場・知識・自由──自由主義の経済思想』

第1章 真の個人主義と偽の個人主義
第2章 社会における知識の利用
第3章 競争の意味
第4章 医学博士バーナード・マンデヴィル
第5章 デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学
第6章 経済思想史におけるメンガー『原理』の地位
第7章 回想のケインズと「ケインズ革命」
第8章 自由主義

 「自由主義は、異なる個人の相対的地位を決定することになるゲームの手続き、あるいはゲームの規則が正しい(あるいは少なくとも不正でない)ことを要求するだけであって、異なる個人にとってこのゲームの過程の特定の結果が正しいものであることは要求しない。なぜならば、こうした結果はまた、自由人の社会では、つねに諸個人の行為自体と、だれもそのすべてを決定もできなければ予見もできない多数の他の事情に依存するだろうからである。」(『市場・知識・自由』,根井[1999:40]に引用)

 「ハイエクには……「真の個人主義と偽の個人主義」なる論文があり(ハイエク『個人主義と経済秩序』嘉治元郎・嘉治久代訳、春秋社、一九八七年)なる論文があり、そこで「消極的自由」の思想のみを自由主義の正統として、「積極的自由」を偽の自由主義、結局は設計主義、社会主義、全体主義へと導く誤謬として否定している。」(稲葉[1999:424])

 

 「生き続ける自由とか雇われる自由といった積極的自由は、「自由の条件としての基本財」として社会的に保障すべきだとハイエクは主張する。」(橋本務[1994:234])
 「ハイエクの消極的自由の範囲は、社会的進歩の函数になっている」(橋本務[1994:234])
 「ハイエクのいう消極的自由は、政府の恣意的な権力行使のみを強制とみなし、一般的原則(例えば消費税)などを強制とみなさない。」(橋本務[1994:234])

 「……ハイエクは、社会主義や福祉国家主義の根底にある平等主義は、嫉妬という感情に根ざすものであって道徳的に正当化できない、と論じる。そしてノージックもまた同趣旨の議論を提示している。ローカルな組織や共同体にあってはこの種の平等主義は、成員間のある程度の同質性を前提とする限りにおいて許容されるが、「偉大な社会」において平等主義を追求することは、個々人の間の差異、唯一無二性の否定につながる、とハイエクは論じる。それはそれぞれの個人がそれぞれに唯一無二の存在である、という事実を受け入れられない心弱さ、それに基づく弱者の強者への嫉妬を正当化する思想に他ならないのだ、と。
 彼らによれば、国家はこのようなローカルな組織や共同体を超えた「偉大な社会」のルールの擁護者でなければならないから、平等主義を政策理念として採用してはならない。つまり、国家による経済的再分配政策としては、ただ最低限の生存の保障のみが正当化され、累進課税などによる積極的な再分配は正当化されない。福祉国家主義や社会主義は、、ミニマムの保障の域を超えた平等主義的再分配を求めるが、それは嫉妬に基づく根拠なき復讐心の発露に他ならない。(p.298)
 しかしながら前章以来の議論を踏まえるならば、以上のハイエク的、そして本来のノージック的立論がことの半面しか見ていないことが容易にわかる。第一に、ミニマムの生活水準というものは自明ではない。……
 ……ハイエクの示唆によって、同じ道徳を共有していない他人を、同じ道徳の拘束を受けた仲間と錯覚し、ルール破りの咎を以て責める、という現象としてルサンチマンを理解することができる。」(稲葉[1999:298-299])

 

●文献(発行年順)

*◆落合 仁司 19871201 『保守主義の社会理論──ハイエク・ハート・オースティン』 勁草書房, Y+189 +x p. 1600 ※
◆Bottomore, T. B. 1989 『近代資本主義の諸理論──マルクス・ウェーバー・シュムペーター・ハイエク』 1989 小澤光利訳,亜紀書房 2060 千葉社3989共通
◆『現代思想』 19911201 19-12(1999-12) 特集:ハイエク──市場経済の論理 *
川本 隆史  19911201 「自由・秩序・所有──ハイエクとセンの対決」,『現代思想』19-12(1999-12)→川本[1995a:130-143] 
◆Askew, David 19911201 「ハイエクの自由擁護論の限界──リバタリアンの言説を手がかりに」,『現代思想』19-12(1999-12):75-84(特集:ハイエク──市場経済の論理)
橋本 努   19911201 「ハイエクの迷宮:方法論的転換問題」,『現代思想』19-12(1999-12)
橋本 努   1994 『自由の論法──ポパー・ミーゼス・ハイエク』,創文社,272+32p. <57,100> *
橋本 努   1995 「フリードリッヒ・A・ハイエク──社会の自生的秩序化作用の利用」大田一廣/鈴木信雄/高哲男/八木紀一郎編『経済思想史──社会認識の諸類型』名古屋大学出版会1995.3.
渡辺 幹雄 199611 『ハイエクと現代自由主義』,春秋社
橋本 努   19970207 「書評:渡辺幹雄著『ハイエクと現代自由主義』春秋社1996.」『週刊読書人』1997.2.7.
橋本 努   200007 「現実認識とは何か――形相的理念型による啓蒙」『情況』「特集 マックス・ヴェーバー再考」2000年7月号、6-20頁、所収.
橋本 努   2000 「社会科学と主体――ウェーバー研究の根本問題」橋本努・橋本直人・矢野善郎編『マックス・ヴェーバーの新世紀』未来社、所収予定.2000.x.
◆田中 成明 1996 「リバタリアニズムの正義論の魅力と限界──ハイエク、ノージック、ブキャナン」 『法学論叢』138-4・5・6
*◆稲葉 振一郎 1999 『リベラリズムの存在証明』、紀伊國屋書店 *
橋本 努   1999 「ハイエクの進化論に関する考察」(1999年度、経済学史学会大会報告集、pp.150-154所収)1999.11.
……
◆根井 雅弘 19990520 『21世紀の経済学──市場主義を超えて』 講談社現代新書1451,171p. 640

◆Kresge, Stephen ; Wenar, Leif eds. 1994 Hayek on Hayek, University of Chicago Press=20000130 嶋津 格訳,『ハイエク、ハイエクを語る』,名古屋大学出版会,270+19p. ISBN:4-8158-0374-9 3200 ※ *

■言及

◆立岩 真也 2004 『自由の平等』,岩波書店

 「ノージックに比べると、ハイエク、フリードマンといった人たち──ケインズ的福祉国家の誕生・成長の時代、本人たちの自己認識としては不遇だったが、政策の変更との絡みで前面に出ることになった人たち──は、やはり経済学者であって、こうした方が経済・社会がうまくいくという言い方をすることが多いのではあるが、その人たちであっても、国家による統制を批判し、個人の自由を賞揚する立場をとる。そして左翼は[…]」(立岩[2004:296-297])
 「しかしニーチェがなんだかすごいのは少なくともハイエクの主張との親和性を読み取れる部分ではないはずなのにという感じ、もっと直観的に、ハイエクはニーチェに比べたらどうしてもたいしておもしろいと思えない感じが、ハイエクを読む前にあった──そして読んだ後に思ったのも同じことだった。」(立岩[2004:305])
 「ハイエクについて。稲葉[1999]に出典は記されていないが、たとえばHayek[1976=1987](第11章「抽象的ルールの規律と部族社会の情緒」)あたりが対応するだろう。同様の文章もいくつかはある。(ただ彼が本格的に羨望を論じている部分はあまり見当たらない。またハイエクについて論じている文章にもあまり言及はないように思った。)「これらの(機会の平等を求める・引用者記)要求の正当性について検討するとき、われわれが気づくことは、それらが、一部の人びとの成功によってあまり成功しなかった人びとのなかにしばしば生まれる不満、あるいは、あからさまにいえば、羨望にもとづいているということである。この感情を満足させ、社会正義という尊敬すべき外観でそれを偽装する現代の傾向は、自由にとって重大な脅威にまで発展しつつある。…もしも満たされない欲望が実際にすべて、共同社会への請求権をもつとするならば、個人の責任はなくなってしまう。いかに人間的であろうとも、羨望はたしかに、自由社会がとり除くことのできる不満の源泉の一つではない。おそらく、そのような社会の維持にとって不可欠な条件の一つは、羨望を奨励しないこと、それを社会正義として偽装することによってその要求を承認しないこと、それを、ジェームズ・スチュアート・ミルの言葉を借りれば、「あらゆる感情のうちでもっとも反社会的かつ悪質なもの」として扱うことである。」(Hayek[1960:93=1986-1987:(I)136-137]、第6章5「機会の平等」、引用されているのはMill[1859=1967:305][=1971:158]──この訳では「嫉妬」)「そもそもは最も不運な人々のためになされた「社会的正義」に対する訴えが、自分たちは受けるに値すると思うだけのものを得ていないと感じる構成員からなる別の集団、特に、自分たちの現在の地位が脅かされていると感じている人々の集団によって、取り上げられたという事情の結果である。」(Hayek[1976=1987:193])
 彼は、各人が各人なりに利を得ようとすることは肯定する。それが社会の推進力になるとも言う。それ自体はかまわないが、それが羨望になり、政府に対する要求に結びつき、「自由にとって重大な脅威」になるのが問題だと言うのだ。例えば社会が経済的発展を遂げる中でもっと得られてもよいと思う人たちが出てくる(Hayek[1941=1992:14-17])。ナチの時代のドイツに自分はもっとよい仕事につきもっと受け取ってもよいはずだと思う人たちがいる([150-151])。衰退傾向の産業に従事する人たちも要求する(Hayek[1976=1987:192-193])。人々の欲望の増大あるいは鬱屈があって、その「解決」が社会に持って行かれる。期待と実際との間に距離があり、それが政府への要求、過大な要求に結びつけられる。そのとおりのことがあったとしよう。言おうとしていることはわからないではない。
 しかしそれはここで述べ、これから述べようとする立場に対しては効かない。例えば各人の仕事への配置と分配とは別である。仕事への適性に応じた配置は認められうる。また分配自体は特定の産業の保護や育成を支持することはない。そして繰り返すと、本稿で述べてきたのは、成功しなかった不満から立ち上がるような力を、減るものなら減らせばよいということだった。
 彼はよく知られているように「計画」という発想を批判しいわゆる「自生的秩序」をもってきた。その意義はそれなりに認めてよい。計画主義に対する批判には同意できる部分がある。だが、私たちは、その種の批判を気にしながら、簡潔で機械的な分配の可能性について、様々な打算や利害が絡んで歪んでしまわない簡素な機構について考えてみようと思う。もう一つ、彼の論が、手を加えない方が(という言い方は不正確で、彼が認めるだけの規則を設定するだけの方が、ということだが)結局はうまくいくという、その帰結によって正当化しようという論である限り、その立場は相対的なものとなり、この程度の介入なら当座そう心配しなくても大丈夫、有効だという主張を現実には許容していくことになる(cf.Barry[1984=1987:344ff.]、Gray[1989=2001:141-142]、橋本[1994:207-209])。実際、彼自身がどうであったかはともかく、この種の主張は都合のよいところがそのつど取り出されて使用されるのである。リバタリアニズムからのハイエク批判についてはAskew[1991]。」(立岩[2004:316-318])


UP:? REV:20030216 0604,0728,1125 20040316
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