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Hippocrates Hippokrates

ヒポクラテス



■言及

◆Rousseau, Jean-Jacques 1755 Discours sur l'origine et les fondements de l'inegalite parmi les hommes(=1972, 本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起源論』岩波文庫).
 もっと恐ろしいほかの敵で、人間がそれに対して身を守るのに同じような手段がないのは、生まれながらの病弱と幼少と老衰とあらゆる種類の病気とである。それはわれわれの弱さの悲しいしるしであり、はじめの二つはすべての動物に共通するが、最後のものは主として社会生活をする人間に属するものである・わたしの襲によるだけでも、幼少に関していえば、自分の子供をどこにでも連れて行く人間の母親は、多くの動物の雌よりも子供を養うのがはるかに容易である。動物の雌は一方ではその食物を捜すために、また他方ではその子供たちに乳をやったり養ったりするために、たえず非常に疲れて、行ったり来たりしなければならないからである。確かにもしも母親が命を失うようなことになれば、子供も彼女とともに命を失う危険が大いにあるが、しかしこの危険は、子供たちが長いあいだ自分で食物を捜しに行くことができない数多くの他の種にも共通である。そしてもしも幼年時代はわれわれのほうが長いとしても、生命もまた長いのだから、この点ではやはり、なにもかもほぼ平等である。(g)ただし幼年時代の長さや子供の数については他の法則(h)があるが、それはわたしの主題ではない。動くことも汗を流すこともほとんどない老人は、食物の必要もそれを供給する能力もともに衰える。そして未開生活のおかげで痛風やリューマチから遠ざかり、老衰はあらゆる苦しみのうちで、人間の救いの手によっては最もやわらげることのできないものであるから、ついに彼らはいなくなるのを人から気づかれず、また自分自身でもほとんど気づかないうちに消えていくのである。
 病気については、わたしは大部分の健康な人たちが医学に反対して言っている、根拠のない、誤った申し立てを繰り返しはしないだろう。しかしわたしは、この技術が最もなおざりにされている土地では、それが最も注意深く研究されている土地よりも、人間の平均寿命が短いと結論できるような、なにか確かな観察があるのかどうかを尋ねたい。そしてもしも、医学がわれわれに提供できる治療法より、さらに多くの病気にわれわれがかかっているとすれば、どうしてそんなことになるのだろうか。生活様式のひどい不平等、ある人々には暇があり、他の人々は労働過重であること、われわれの食欲と情欲とを容易に刺激し満足させること、富める人たちに便秘性のこ栄養を与え、不消化で苦しめる凝りすぎた食物、貧しい人たちのひどい食事、それも彼らはしばしばこと欠くので、そのために機会があればむさぼるように胃の中につめこむのである。さらに夜ふかし、あらゆる種類のゆきすぎ、あらゆる情念の節度のない熱狂、精神の疲労と消耗、あらゆる状態において人々が味わい、そのために魂が永久にむしばまれる無数の悲しみと苦しみ。それらは、 われわれの不幸の大部分がわれわれ自身で作ったものであって、もしもわれわれが自然によって命じられた簡素で一様で孤独な生活様式を守ったならば、それらはほとんどすべて避けられたであろう痛ましい証拠である。もしも自然がわれわれの運命を健康であるように定めたのなら、わたしはほとんどこう断言してもよい、思索の状態は自然に反した状態であり、瞑想する人間は堕落した動物である、と(3)。未開人たちのりっぱな体格、すくなくともわれわれの強い酒でそこなわれなかった人たちのりっぱな体格を考え、彼らが怪我と老衰のほかにはほとんど病気を知ら.ないことがわかってみると、人間の病気の歴史は政治社会の歴史をたどることによって、容易に作れるだろうと考えたい気持ちになる。
 ポダレイリオスとマカオン(1)がトロイアの包囲で用い、または認めたいくつかの薬について、それらの薬が引き起こすにちがいないさまざまな病気は、当時まだ人々のあいだに知られていなかったと判断したのは、すくなくともプラトンの意見である。そして、ケルスス(2)は、今日これほど必要となっている食養生は、ヒッポクラテス(古代ギリシアの医者。医学の祖。前460ころ〜375ころ)によって発見されたものにすぎないことを報告している。
 病気の源泉はこのようにほとんどなかったのだからし、したがって自然状態の人間にはほとんど薬の必要はなく、医者にいたってはなおさらである。人類はこの点で他のすべての動物より少しも条件は悪くない。そして狩人たちが駆けまわるとき、多くの病弱な動物を発見するかどかは、彼らから容易に知ることができる。彼らの多くは動物がひどい怪我をしたのを非常に巧みに癒し、骨や脚まで折ったのに時間という外科医のほかには医者ももたず、日常生活のほかには養生も行なわないでなおった動物を見いだしている。これらの動物は切開で苦しめられもせず、薬品で中毒することもなく、絶食で衰弱することもなく、しかも完全になおっているのである。要するに、りっぱに行なわれた医学はわれわれのあいだでいかに役に立っても、病気の未開人が一人で見捨てられ、自然以外になにも期待できなければ、そのかわりに彼は自分の病気のほかはなにも恐れるものがないことは常に確かである。このため彼の状態はしばしば、われわれの状態よりも好ましいものとなっているのである。


Durkheim, Emile 1893 De la divsion du travail social――Etude sur l'organisation des societes superieures, Ire ed., 1893; 7e ed., 1960, Paris, P. U. F.(=1971, 田原音和訳『社会分業論』(現代社会学大系2)青木書店).
(p132)
 社会が原始的であればあるほど、社会を構成する諸個人のあいだには類似がある。すでにヒッポクラテス(*1)は、その著『空気と場所について』〔De Aere et Locis〕において、スキタイ人(*2)は人種としてひとつの類型をもつが、個人としての類型はない、といっている。フンボルト(*3)も、その著『新スペイン人(1)』〔NeusPanien〕において、未開人には個人差のある容貌よりも群族(ホルド)に特有の容貌がよくみられると述べているが、こうした事実は、たくさんの観察者によっても確認されてきたところである。「ローマ人は、古ゲルマン人どうしが非常によく似ていることを発見したが、同時に、ヨーロッパの文明人にとっては、いわゆる野蛮人もまた同じ効果をもたらしている。じつは、旅行者の習練不足がよくこうした判断を下させる主な原因なのだが。……しかし、文明人が自分の祖国の環境で見なれた差異が、原始人たちのあいだで出会った差異よりもじっさいにそう大きくなかったとすれば、その経験不足がこうした結果をまねくはずはなかっただろう。一人のアメリカ土民をみたものは、彼らのすべてをみたことになる、というのは、周知のよく引用されるウロア(*4)の言葉である(2)。」反対に、文明人のあいだでは、二人の個人を識別するには、必要な手ほどきを受けなくても、一見しただけですむ。
(p144)
 (*1)ヒッポクラテス――Hippocrates. 前四六〇年ごろ〜三七五年ごろ。ギリシアの医学者、臨床の観察と経験を基礎にした科学的医学の建設者。旅行家。
(pp295-297)
 たしかに、このカースト制度は、たんに世襲による伝承という事実からのみ生じた結果ではない。この制度の成立には多くの原因が作用してきた。だが、もし、《一般的に》、この制度が各人にそれぞれところを得しめるという結果を生じなかったとすると、それは、これほど一般化しなかったであろうし、それほど長期にわたって持続するはずもなかったであろう。仮に、カースト体系が諸個人の熱望や社会的利害にあい反するものだったとすると、どんなに人工の手を加えてもそれを維持できはしなかったろう。平均的なばあいに、もし諸個人が慣習や法の命ずる機能を現実に果たすために生まれついたのでないとすると、このように人びとを伝統的に類別化するやり方は、いちはやく覆っていたことであろう。その証拠に、じっさいに天性と職能の不一致が生ずると、たちまちこのような顛倒がおこっているのである。だから、カーストのように社会的枠組が厳格だということは、当時は、たださまざまの天賦の能力が配分される一定不変の方式をあらわすのみであって、じつはこの不変性それ自体が遺伝法則の作用におうものにほかならない。たしかに、教育は家族のうちだけでおこなわれてきたし、それは、すでに述べてきたような理由によって長いあいだつづけられてきたから、教育の影響が、この不変性を強めることはあったろう。だが、そうした結果を生んだのは、教育だけではない。なぜかといえば、教育は遺伝の示す方向そのもののうちでおこなわれてこそ、はじめて有用であり効果的だからである。つまりは、遺伝が社会的制度たりえたのは、それが社会的役割を有効に果たしえたからこそである。じっさい、われわれは、古代人たちがこの遺伝についてきわめて鋭敏な感覚をもっていたことを知っている。その痕跡は、われわれが述べてきた諸慣行やその他の類似の慣行のうちにみられるばかりではない。多くの文献にも直接あらわれている(3)。ところが、もし、遺伝にたいする理解が誤っていたとすると、これほど一般的な誤謬が、たんなる幻想にすぎず、何ひとつ現実に照応しないなどということはありえないはずである。リボー氏(*1)がいうところによれば、「あらゆる民族は、少なくとも漠然とではあれ、遺伝による継承についてある信仰さえもっている。このような信仰は、文明時代よりも原始時代の方が強かったとさえいえる。制度の世襲(エレデイテ)を生じたのは、この遺伝(エレデイテ)という自然法則である。制度を世襲することを発展させ強固にするためにあずかって力があったのは、たしかに社会的・政治的な理由であり、あるいは偏見でさえあった。だが、人がそれを発明したと思うのは、ばかげている(4)。」
 さらに、職業の世襲は、法によって強制されないときでさえも、それが原則であることが多かった。だから、ギリシア人においては、まず少数の家族によって医業が究められたのである。「アスクレピアデス家の人びとあるいはアスクレピォス神の祭司たち(*2)は、このアスクレビオス神の後裔であるといわれてきた……。ヒッポクラテスはこの神の家族の第一七代の医者であった。占術、予言の能力、この神々の厚き恩寵としての医業は、ギリシア人のあいだでは、その多くが父から子へと伝承されるものとしてとおっていた(5)。」ヘルマン(*3)によると、「ギリシアでは、職能の世襲を法で規定していたのは、スパルタの調理人や笛の奏者のように、もっと宗教生活と密着した若干の身分や職能だけにすぎなかった。だが、習俗のうえでは、職人たちの職業の世襲も、一般に信じられているよりはもっと一般的な事実とされていた(6)」のである。現代でもなお、多くの低級社会では、種属(ラス)ごとに職能が分担されている。たとえば、アフリカの非常に多くの部族では、鍛冶職はそこの住民のうちからはでないで、他の種属のものがこれをひきついでいる。それは、サウル王(*4)時代のユダヤ人にとっても同様であった。すなわち「アビシニアにおいては、ほとんどの職人は異族出身である。石工はユダヤ人、皮なめし工と織工とは回教徒、具足師と金銀細工師とはギリシア人とコプト人〔古代エジプト人系のキリスト教徒〕といったぐあいである。インドでは、各カースト間の多くの相違は、その職業の相違を示してもいるが、このカーストの違いはまた、こんにちでも種族の違いと合致している。異人種を含む混合人口のすべての国々では、同じ家族の子孫が一定した職業に生涯をささげるのがならわしである。だから、東ドイツでは、数世紀ものあいだ、漁夫はスラヴ人のものであった(7)。」こうした事実は、ルーカス〔Lucas〕の意見をまったく真実に近いものと思わせる。彼によると、「職業の世襲は、道徳的性質の遺伝原理によってたつあらゆる制度の原始的形態、初発的形態である。」
(p317)
 (*2)アスクレピアデス(Asklepiades de Bithynia)は、前一世紀ごろのギリシアの医者。ギリシア医学をローマに移植した。ヒッポクラテスとは学説上対立するといわれる。またアスクレビオス(Asklepios)はギリシアの医神である。アポロンの子で名医となったという。なおヒッポクラテスについては一四四ページの注を参照。


Aries, Philippe 1960 L'enfant et la vie familiale sous l'ancien regime, Paris(=1980, 杉山光信・杉山恵美子訳『<子供>の誕生--アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』みすず書房.
(p189)
 ドイツから帰国したとき、バッソンピエールはほぼ十六歳であった。「私たちはポン・タ・ムソンで学業を十月まで続けた。これ以降私の属した自然学の学級は哲学の学級へと進みアリストテレス『精神論』を講読する段階に達したので、私たちは学院を離れた」。哲学級はいっぱんに法曹界と聖界へ進もうとする生徒のためのものであり、多くの生徒たちは哲学級に進む以前に学院を離れた。次いでバッソンピエールは、私はその意味をよくつかめないのだが、かれが「実習(スタージュ)」といっているものを終了した。いずれにせよ、それは法学、教会法、医学とかわりうる上級の学業の代用物である。「私はなお六ヵ月間にわたって実習を行わねばならなかったので、実習と並行して、ひとりの家庭教師を招いて、その授業のため一時間をとってユスティニアヌヌ『法学提要』の勉強を行い、もう一時間は信仰に関する問題、ヒポクラテス『命題集』(将来軍人になる人間にとっては奇妙なとりあわせの知識であるが)に一時間、あとの一時間をアリストテレスの倫理学と政治学の学習にあてた」。こうしてかれはスコラ哲学のみでなく、法学と医学についてもかんたんな知識を身につけたのであった。「私はこの一五九五年の残りの期間と一五九六年の初めまでの期間、この勉強を続けた。私の実習は復活祭に終った」。


Elias, Norbert 1969 Uber den Prozess der Zivilization, Francke Verlag(=19770225, 赤井慧爾・中村元保・吉田正勝訳『文明化の過程 上--ヨーロッパ上流階級の風俗の変遷』法政大学出版局).
(pp274-275)
 一五三〇年
 エラスムス 『少年礼儀作法論』
(略)
 小便をこらえることは健康によくないが、小便は人目を避けてすべきものである。尻を押えて屁をこらえるように子供に教えている人がいる。だが、上品に見せかけようと努力して病気を招くようなことは、やはりまともなことではない。もし席をはずすことができるなら、人目につかずに行なうがよい。さもなければ、古代の諺に見習うがよい。すなわち、咳払いによって屁の音を消せばよい。それにしても、腹を損ねないためにもそうしたことを人々は、なぜ子供に教えないのであろうか。屁をこらえることは腹を引っ掻くことよりいっそう危険であるのに。
 そのことに関して注釈(三三ページ)には次のように記されている。
 ○病気を招く ― コースの老人(訳注四九)の屁についての意見を聞くこと。もし屁が音を伴わずに出れば、それに越したことはない。だが、こらえたり押えたりするよりも、音を伴ってぶっ放す方が健康によい。そのほか、体を損ねないためには羞恥心を度外視することが極めて有効なので、すべての医者の忠告によれば、尻を押えることはアエトーン(訳注五〇)を真似るのも同然だといわれるほどである。警句詩人の歌うところによれば、アエトーンは神殿の中で屁の音を立てないように最善を尽したため、かえって尻を押えながらジュピターに挨拶する仕儀になってしまったのである。「自分は尻を押える術を心得ている」などと口にするのは居候か高慢な輩だけである。
(p417)
 (四九) ギリシアの医学者ヒポクラテス(前四六〇年ごろ〜前三七五年ごろ)のこと。コース島出身のためこのように通称される。


◆Eliot Friedson 1970 Professional Dominance : The Social Structure of Medical Care, Atherton Press(=1992, 進藤雄三・宝月誠訳『医療と専門家支配』恒星社厚生閣).
(pp39-40)
 医療を対象とする社会学を進展させる試みが、真剣にかつ持続的になされたのはごく最近のことである(3)。この領域自体がきわめて新しいものなのである。確かに、かなり以前から散発的に「社会学」という言葉は医療と関連づけられてきはした。事実、「医療社会学(Medical Sociology)」と名づけられた書物は五〇年以上も前に出版されている(4)。しかし、そこでの医療と社会学との連結は分析的に意義あるものというより、連結させようとする意図ないし修辞以上のものではなかった。最近まで、「医療」と「社会学」とを結びつけるということは、次のこと―すなわち、その唱導者が病気というものは純然たる生物学的現象ではないという信念を抱いており、社会生活が医療行為の文脈をなしているということを認識し、そして健康や健康に関わる諸機関の社会経済的文脈への関心をもっているということ―を意味するにすぎなかった。しかし、独自の概念が採用されていたわけではないし、使用方法も本質的に体系性を欠いていた。たとえば、有能な学者にしてヒューマニストであるヘンリー・シゲリストのような人物の立場も、本質的には、医療の社会学的側面に対して鋭敏な洞察力をもつヒューマンな医師の立場に他ならなかったのである。舞踏病やホームシックについての驚嘆すべき分析(5)は直観的に解された常識に基づくものであって、近代医学によって認知された病気概念を含めて、いかなる特定の病気概念も、社会的構成物としての病気概念に基づくものでもなかった(6)。さらに、ヒポクラテスの誓詞についての辛辣にして暴露的な注釈も、同業者集団の因襲的な合言葉に対する反発に基づいており、医療行為の性質についての一定の学間的概念に到達しようとする努力に基づいているわけではなかった(7)。この立場は医療の根本的前提を自明視しており、医療のなかで社会的要因が一定の役割を果たすことを示すことによって、医療を改善させようとはするが、医療概念や人間事象における医療の位置についての医療の自己認諾を本気で疑問視したり評価したりすることはない。この研究方法は「医療における社会学」の立場のものである。
(pp132-133)
 支配的地位にある医師は、病気を診断し経過を予測する特権を手放そうとせず、しっかりと手中に収めておこうとする。しかし、医師は他の誰かが患者に情報を伝えるのを望みはしないが、かといって、自ら情報を伝える気もないのである。この医師の性向に対しては多くの理由が示されている。そのなかでおそらく最も中立的で技術的な理由は、確かな診断を下し、正確に予後を推測することが困難である、というものであろう。別の理由としては医師の多忙さがある。つまり、より重症な患者に注意を払わねばならず、それ以外の普通の患者と話すだけの時間がないというわけである。しかし、不確実性と多忙という二つの理由づけは表面的なものであり、論究に値するものではない。前者の場合、デービスが示したように、不確実という事実はコミュニケーションを回避する口実ともなりうるが、不確実であるがゆえにコミュニケーションをはかる、という可能性があるわけであるし、後者の場合、かりに医師に時間がないというなら、医師の業務を委譲すればいいということになるだろう。目下の研究目的からして、深層にあるコミュニケーションの阻害要因を一番よく明らかにしているのは、患者の特質について専門家が抱く特有な諸前提に依拠した論議である。少なくともヒポクラテス綱領に述べられたヒッピアスの防衛的な言明にまで遡るこの論議によれば、患者は専門的訓練を欠いているがゆえに無知であり、どんな情報を手にしてもそれを理解することができず、病気にかかったことでとにかく動転していて、たとえ情報を入手したとしても、それを合理的・理性的に活用することができないのである。この観点からすれば、情報を与えても患者のためにならないし、むしろ患者を動転させて、医師にとっても病気の治療以外の「処理問題」をさらに抱え込むことになる。こうして、患者は成人としてというより子供として扱われるべきであり、安心は与えても情報は与えるべきではない、ということになる。これ以外のやり方をしても、患者を動転させ、スタしフに不必要なやっかい事を生み出すにすぎない、というわけである。医師は患者を成人として、責任能力をもつ人格としてみていない−これが医師に特有な患者観である。


Illich, Ivan 1976 LIMITS TO MEDICINE:MEDICAL NEMESIS(=19790130, 金子嗣郎訳『脱病院化社会――医療の限界』晶文社).
(pp63-64)
 富者にとっても貧者にとっても、人生は検査と診療を通じて出発点までもどる巡礼になってしまった(137)。人生はこうして、良きにせよ悪しきにせよ、制度的に計画され、形づくられなければならない統計的な現象、「生存期間」におとしめられてしまったのである。生存期間は、医師が胎児を産ますべきかどうか、どのように産ますべきかを決定する出生前の検査にはじまり、医師が人工呼吸装置を止める指示をカルテに記載するときに終ることになる。出産と死亡の間に多くの生化学的ケアがあり、それはちょうど機械的な子宮に似て、作られた都市に最も適合している。人生の各段階で、人々はそれぞれの年齢に特異的な障害者ということになる。老人が最もわかりやすい例である。すなわち、彼らは治療すべくもない状態に対して割り当てられた治療の犠牲者である(138)。
 人間の苦悩の大部分は急性で良性の病気から成り立っており、これらは自らなおるか、ほんの二、三ダースのきまりきった医療の介入でよくなるものである(139)。広範囲の病的状態においては、治療をうけることの最も少かった者が最も回復しやすいのである。「病人にとっては」、ヒポクラテスはいっている、「最少が最善である」と。しばしば学識もあり良心もある医師のなしうる最善のことは、患者に障害とともに生きられると説得することであり、最後には回復すること、必要ならばモルヒネも使用してもよいことを話し、患者に対して祖母がなしえただろうことをなすだけで、あとは自然にまかすことなのである(140)。しばしば適用される新しい工夫などは単純なもので、祖母たちの最後の世代が医療のごまかしでおどろかされ無能力になっていなければ、彼女たちがとうの昔に知っている程度のものである。ボーイスカウトの訓練、よきサマリア人のおきて、自動車ごとに救急装置をつけることの義務化は、救急用のヘリコプター隊よりもハイウェイにおける死を減少させるであろう。初歩的なケアの一部分であり、専門家の仕事を必要とするとしても、大きな集団において有効であることが証明された医療的介入も、もし私か隣人がいつそれが必要であるかを判断し、最初の治療を加える責任をもつならば、より有効になされうるだろう。急性疾患にとっては、専門家を必要とするほど複雑な治療は多くの場合効果がなく、さらに手のとどかぬことが多く、手おくれになることが多い。
(pp114-115)
 痛みに対するヨーロッパ的態度の一つの源流が古代ギリシャの中にあるのは確かである。ヒポクラテスの弟子たちは(43)多くの種類の不調和を区別したが、その各々は、それ自体痛みの原因であった。こうして痛みは有力な診断の武器となったのである。それはどのような調和を患者が回復しなくてはならないかを医師に対して明らかにした。痛みは回復の過程で消えていくかもしれない。しかしそれが医師の治療の第一の目的でないことはたしかであった。中国人が非常に早い時期に痛みを取り去ることで病気を治療しようと努力したのに反して、この種のことは古典時代の西欧では目立たなかった。ギリシャ人たちは自らの歩みの中で、痛みを感じずに幸福感を味わうことなど考えたこともないのである。痛みとは魂が進化を経験することなのだ。人体は回復不能なほどに傷つけられた宇宙の一部であった。そしてアリストテレスによって感覚力があると仮定された魂は、肉体と充分に共存しえたのである。このような仕組みの中には痛みの感覚と経験とを区別する必要はない。身体はまだ魂から分離されず、病気も痛みから分離されていなかった。身体的痛みを示すすべての言葉は同じ様に魂の苦悩にも使用できたのであった。
 われわれのギリシャからの遺産をみるとき、痛みに対する諦めは全面的にユダヤ教もしくはキリスト教によるのであるとするのは重大な誤りであろう。紀元前二世紀に二〇〇人のユダヤ人が旧約聖書をギリシャ語に訳したとき、一三の異ったヘブライ語の言葉がたった一つのギリシャ語の「痛み」に当る言葉に翻訳された(44)。ユダヤ人にとって痛みが神の罰の道具であったかどうかは別としても、それは常に呪いであった(45)。痛みを望ましい経験であるとするような示唆は、聖書の中にもタルマッドの中にもみられないのである(46)。非常に特定的な器官が痛みにおそわれたことは真実であるが、このような器官は非常に特定的な情緒の座としても考えられており、現代医学における痛みのカテゴリーは、ヘブライ語のテキストにはまったく無縁のものであった。新約聖書の中では、痛みは罪と密接にからんでいると考えられる(47)。古代ギリシャ人にとって痛みは快楽をともなうはずであったが、キリスト教徒にとっては、痛みは楽しみに身をゆだねた結果だったのである(48)。いかなる文化も伝統も、現実の忍従を独占するものではない。
(pp124-126)
 ルソーの誤解は、病気をその「自然の状態(10)」にもどしたいという願望の中にゆれうごいている。すなわち、自己規制力があり、勇気と品位をもって耐えられるし、貧者の家庭においても、ちょうどかつては富者の病気の世話がなされたのと同様に世話されるような「ありのまま(野性)の病気」に社会をとりもどす願望である。病気が複合体となり、治療不能となり、耐えられぬものとなるのは、搾取が家族を破壊する時においてのみである(11)。そして、都市化と文明化の到来とともに、病気は悪質な、品位をおとすものとなる。ルソーの弟子たちにとって、病院の中でみられる病気は、他の形式のすべての社会的不公正と同様に人工的なものである。病気は自堕落な人々、貧困化させられた人々の間で栄える。「病院では、病気はまったく腐敗している。それはスパスム(痙攣)、熱、不消化、蒼白な尿、低下した呼吸に象徴化された"牢獄熱"となっており、窮極的には死にいたるのである。たとえ八日目、一一日目でなくとも、一三日目には(12)」。医療がはじめて政治的論点となったのは、実にこの種の言語によってである。社会を健康的に工学化しようとする計画は、文明の害悪を除去しようとする社会改造への要求とともにはじまる。デュボスが「健康というミラージュ(幻想)」と呼んだものが、政治プログラムとしてはじまるのである。
 一七九〇年代の一般のレトリックの中には、生物医学的介入を人間もしくはその環境に加えるということは、まったく欠如していた。王政復古とともにはじめて病気の除去という任務が医学専門家に与えられたのである。ウィーン会議の後、病院は増加し、医学校ブームになった(13)。また疾病の発見もブーム化した。病気はまだ本来的には、非技術的なものであった。一七七〇年には、一般医はペストと痘病(14)以外のことにほとんど知識はなかった。しかし一八六〇年においては、一般の市民でさえも、一ダースの病名を知っていたのである。突然医師が救助者として、また奇蹟をもたらすものとしてあらわれたのは、新しい技術の有効性が証明されたからではなく、政治的革命がなしえなかった事業に信頼性を与える魔術的儀式への要求からであった。もし「病気」と「健康」とが公共の財源を要求するとなれば、これらの概念は操作的とならねばならない。病気は人間を悩ます客観的な疾病にならなければならず、実験室にうつされ、培養され、病棟、記録、予算、博物館に適合するものにされなければならない。こうして病気は行政的管理に適応させられた。エリートの一部が支配階級からその制御と排除における自律性を委任されたのである。医学的治療の対象は、隠れてはいるが新しい政治的イデオロギーによって定義され、医師からも患者からもまったく独立して存在する実在物の地位を獲得したのである(15)。
 われわれは、疾病が存在しはじめたのがいかに最近のことであったかを忘れる傾向がある。一九世紀の中頃には、ヒポクラテスによるとされる言葉が賛同の念をもって依然として引用されていた。「あなたの健康と病気についての判断の参考になるような質量、形式、計算といったものは何もない。医術においては、医師の五官以外に確実なものは何もないのである」。病気は依然として医師のヴィジョン(幻想)の鏡の中にうつる個人的な苦悩であった(16)。この医学的肖像を臨床的存在に変様させることは、天文学におけるコペルニクスの業績にも対応する医学的事件であった。すなわち、人間は宇宙の中心から発射され、遠ざけられた。ヨブがプロメティウスになったのだ。
 コペルニクスが天文学に与えた優雅さを医学に与えたいという望みは、ガリレオ時代からのものである。デカルトはこの目的の実行のための座標をたどった。彼のじつに巧みな表現によれば、人体は時計の働きとなり、魂と身体との間だけでなく、患者の訴えと医師の眼の間に新しい距離を設けた。この機械的な構造の範囲内で、痛みは赤いランプになり、病気は機械の故障となった。病気の分類が可能となったのである。鉱物、植物が分類されうるように、病気は医学分類学者によって分離され、それぞれの範疇を与えられることになった。医学における新しい目的にかなう論理構造はすでに述べられている。すなわち苦悩する人間のかわりに病気が医療体系の中心におかれ、病気は(a)測定による操作的な立証、(b)臨床的研究と実験、(c)工学的規準にもとづく評価、にしたがうべきものなのである。
(p144)
 典型的な一五世紀、一六世紀の死にあっては、僧侶や医師に、貧者を助けることを期待するべきではなかった(26)。原則的には、医療について記録した人々は、医師がなしうる二つの正反対のサービスを認めていたのである。医師は治癒を助けることもできるし、容易かつ速かな死の訪れへの助力も可能であった。彼はヒポクラテス顔貌(27)、すなわち患者がすでに死の掌中にあることを示す特別の徴候を認めるのが義務であった。治癒させる際も、敗退する際と同様に、医師は自然に対して手と手袋の関係を保とうと努める。医療が生命を延長できるかどうかについての白熱した討論が、パレルモ、フェズ、そしてパリにおける医学校においても闘わされた。多くのアラビア人やユダヤ人の医師たちはこの力をまったく否定し、このような自然の秩序に干渉しようと試みることは神を冒涜するものであると声明したのであった(28)。


◆Foster, George M. & Anderson, Barbara G. 1978 Medical Anthoropology, John Wiley & Sons, Inc(=19870120, 中川米造監訳『医療人類学』).
(pp65-66)
 シゲリストは、一九四五年のインドでの医学史研究所設立要求の中に、民族主義のシンボルとしての伝統的医学の強力な役割を確認している。インドは、新しい生活に目覚め、未来を見つめている過渡期にいると、彼は記している。「このような歴史的瞬間においては、人々は自分達の文化的歴史を誇りを持って振り返る。それこそ彼らが一緒に立つところの共通の基盤であるのだ」と彼は語る。そして、過去に対する関心が復活した例として、古典文学の新版での刊行、ギャング物に代って古代叙事詩の映画題材化、古典舞踊の再演などを、彼は指摘した。「そして、その関心が医学に向けられた時、彼らはまた彼らの歴史を思い出す。ちょうど我々がヒポクラテスを医学の父と見なすように、彼らもまた、チャラカ、スシュルタ、ヴァグハターなどの当時の医学的伝承知識を収集保存した医学者達を、彼ら自身の古典的大医学者と見なすだろう。……紀元前三世紀の、偉大な仏教徒の王であったアショカ王が、西洋世界には病院など一つもなかった時代に、都市にも田舎にも病院を建設し、領国の中あまねく、金持ちにも貧者にも、医療サーヴィスを提供したことを、インド人は誇りをもって思い出す」(Roemer 1960 : 276−277)。
(pp76-77)
 体液病理学は身体の「体液」の概念にその根拠を置く。そのルーツは紀元前六世紀までにはすでに確認されていた四元素(土、水、大気、火)についてのギリシア理論である。ヒポクラテス(紀元前四六〇年ごろの生まれ)の時代までにこの理論は四元素説と類似の四つの性質――熱、冷、乾、湿――についての概念によって補強されていた。四性質が前者の理論に統合されて、四つの「体液」概念が生み出された。それぞれには四性質のいくつかが結びついていた。すなわち、【血液】(熱と湿)、【粘液】(phlegm)(冷と湿)、「メランコリー」とも呼ばれる【黒胆汁】(black bile)(冷と乾)、【黄胆汁】(yellow bile)あるいは「かんしゃく」(cholen)(熱と乾)である。
 ヒポクラテスは歴史的に確かに実在したが、彼の名を冠する医学論文集――『ヒポクラテス全集』――の出所は複数である。『全集』の現在まで残っている最も古い原稿はたぶん紀元後一〇世紀のものである(Chadwick and Man 1950 : 5)ので、どれが実在のヒポクラテスのものなのか、どれが彼の名前がつけられただけなのかを正確に知ることはできないであろう。しかし、ヒポクラテスが『全集』を書いたとして、古代ギリシアの医学を記述すると便利ではある。
 健康の平衡理論が古代ギリシアで充分に発展していたことは「ヒポクラテス」の疾病の記述から明らかである。「人体は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁を含む。これらは体質を構成し、痛みや健康の原因となる。この構成物質が力と質の点で互いに正しい割合にあり、充分に混合している状態がまさに健康である。痛みはその物質の一つが不足したり、過剰であったり、また体の中で分離し他のものと混合されていないときに起こる」(同書、204)。
 ヒポクラテスによると、四つの体液は「外見において本質的な差異があるゆえに、特定の違った名前を持っている……それらは熱、冷、乾、湿という性質の点で異なっている」(同書、205)。ヒポクラテスが体液の性質を正確に特定しているところはどこにもないように思われるけれども、それらの性質を明確に把握し、それらの性質が気候や天気に従って、一年を通じて変化することを記している。粘液は冬に増加する、なぜなら、それは体液中で最も冷いものゆえに冬と最もうまく調和するからであると彼は書いている。春には雨期の湿って暖かい日々に刺激されて血液の量が増加する、それは湿って熱いから、春は血液と最もよく調和する。夏には、血液は強力なままだが、胆汁は次第に増加し夏と秋の間身体を支配する。暑く乾いた夏には黄胆汁が主導的だが、冷たく乾いた秋が来るとこの胆汁は冷やされ、黒胆汁が優位にたつ(同書、207)。
 ヒポクラテスはいう。このような季節的な変動のゆえに多くの病気は一年の特定の時期に起こると思ってもよい。つまり、治療するにしても、「医師が心しておかねばならないことは、すべて病気はその性質を最も強く持つ季節に最も流行するということである」(同書、208)。さらに、治療はその疾病の原因に対抗することを目標にするべきである。「過食を原因とする疾病は絶食により、飢餓による疾病は摂食により治される。過労による疾病は休息により、怠惰によるものは勤勉によって治される。要するに、医師は、疾病の治療において、その形態、季節的や年齢的誘因に応じて、疾病の原因に対する【対立の原理】(the principle of opposition)に従い、緊張には弛緩、【弛緩には緊張】をもってせねばならない。このことは患者を最も落ちつかせ、また治療の原理であるように私には思える」(同書、208 最初の傍点は筆者)。
 古代ギリシア時代では最も重要な臓器(心臓、脳、肝臓)はそれぞれ、乾と熱、湿と冷、熱と湿であると考えられたので、正常な健康体では余分の熱と湿があることになる。しかし、この均衡には個人差があり、それで気質や「顔色」にも個人差があることになる。例えば、【多血質】(血色が良く、快活で、楽天的)、【粘液質】(静かで、落ち着いて、不精で、無感動)、【胆汁質】(怒りっぽく、気難しい)、【憂うつ質】(うち沈んで、悲しく、憂うつ的な)である。したがって、良い医療とは患者の自然の顔色を知り、どの、一つまたはそれ以上の体液の量が一時的に過剰になっているか、あるいは不足しているかを確かめ、この発見を季節の支配的な体液と比較し、それによってどのようにすれば正常な体液の均衡を最もうまく再構成することができるかを決定することである。これは、食事、内服薬、下剤、吐剤、瀉血、吸角などの療法を用いることでなし遂げられる。
(pp78-79)
 かくして、体液の古典的教義は中世キリスト教的医学の基礎となった。ここでも、体液理論はヴェサリウス(一五一四−一五六四)、ハーヴェイ(一五七八−一六五七)、シデナム(一六二四−一六八九)らの諸発見まで支配的であった。現代までのキリスト教医の書物によると、ヒポクラテス、ガレノス、アラブの医者、特にアヴィセンナは医学の理論と実践にとって主要な権威であったことがわかる。科学的医学によってそれらの医学が廃された後ですら、体液病理学は民衆のレベルで、薬草書や家庭療法書というかたちで、一九世紀に至るまで影響を及ぼしている。イギリス植民地時代の合衆国へも本国から体液の教義が伝えられ、最近のスノウによると、この教義は民衆のレベル、特に低収入の黒人と貧困な南部の白人の間でふつう考えられている以上に普及しているという(Snow 1976)。
(p143)
 ほとんどの病気が呪術のせいだとされる社会では、邪術を統制し、それと戦うことのできる専門家が、自分の必要にかなう場合は自身が邪術を行うのに必要な知識を持っていると人々が考えるのは当を得たことである。同じ理屈で、病気が自然の原因の結果であると信じられている時は、治療者の役割がより恩恵を与えるものと見られるのは当然である。ヒポクラテスの誓いは、新しく医者になる者が自分の患者を決して傷つけず、患者の最善のみを心に抱いて仕事をするという誓いであるが、それは、疾病が悪人や悪霊によるものではなくて、自然の原因の産物であると、歴史上初めて理解することのできた知的世界の産物なのである。
(pp165-166)
 これらのページで、我々の意図することは西洋の「科学的」な伝統もつい最近までは、その癒しへのアプローチは驚くほど非西洋の治療技術と似ていたことを想い出すことで、これを笑いものにすることではない。例えば、アングロサクソンの医学は、少々進歩していたとしても、これらの現代の原始部族や農耕民をほとんど越えていなかった。ボンサーは、冬の間を塩漬け肉と干した豆ですごしてきた人々にとって、春に緑草を多食するのは壊血病に対しての効果があっただろうと認めている。しかし、そのほかの圧倒的多数の療法には、病者の気やすめとしての有効性しかなかっただろうと、彼は確信している。有効性に敵する疑いが、当時の医者や患者自身にも全く欠けていたわけではないことは、ある処方が最後に、「神の助けによって、彼にはいかなる痛みもやって来ないだろう」という文句で終わることに示されている(Bonser 1963 : 9)。
 ボンサーは、それぞれの処方に用いられるおびただしい数の薬物についても記しているが、このことは、ヒポクラテス学派の療法と著しい対照をなしている。アングロサクソンの薬物リストには、多数の古典的な薬物が挙がっているが、実際に経験した効果によってより、むしろそれらの起源の持つ魔力によって選ばれている。いくつかの場合には、明らかに薬物自体よりその名前のほうが効き目を持っていた。蛇の咬み傷に対する解毒剤の一つの処方は、「天国から現れた」木の皮を食べることである。ここでアングロサクソンの記録者は大まじめに注釈を加えている。「これを手に入れるのは困難であろう」(同書、9)。


Sontag, Susan 1978, 1989 Illness as Metaphor ; Aids and Its Metaphor,Farrar, Straus and Giroux(=19921028, 富山太佳夫 訳『隠喩としての病い エイズとその隠喩』みすず書房.
(pp195-196)
 普通、疫病とされるのは流行病である。こうした病気の集団発生は、ただ耐えていればすむというのではなく、どこかから下されたもめと理解される。病気を罰と見るのは最も古いかたちの病因論であり、医術という立派な名前に値する病人看護がつねに反発してきた考え方である。流行病についていくつかの論文を残しているヒポクラテスは、「神の怒り」を腺ペストの原因とする説をとくに斥けた。もっとも、『オイディプス王』における疫病のように、古代には罰と解釈された病気にしても、のちの癩病や梅毒とは違って、恥ずかしいものとばされていない。病気とは、それが何かの意味をもつ場合には、集団にとっての災難であり、共同体に対する審判なのだ。各個人に関わりがあると考えられたのは病気ではなく、怪我と無能さのみであった。近代的な意味での屈辱的な、人を孤立させる病気に似たものを古代の文献の中に求めるとすれば、フィロクテーテスの言う悪臭性の傷に目を向けるしかないだろう。


◆増子忠道, 19790615, 「正常と異常」川上武・増子忠道 編『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:37-68.
(pp41-42)
 こうしたかたちであってもともかく医学理論は徐々に体系化されていった。ギリシア医学も東洋医学も個々の違いはあるものの本質的にはこの段階に当たる。こうした医学理論は、自然現象との類似論と、治療や発病にかんする個体差に注目した体質論にその特徴がある。同一の病状を呈しても種々の病態が組み合わさっていることのほうが多いことからしても、前近代の医学者が数少ない治療手段を有効に駆使しようときわめて大きな努力を重ねてきたことは想像に難くない。彼らの注意ぶかい観察力や推論の鋭さには現代でも充分批判に耐えるものも少なくはない。ヒポクラテスが医聖として尊ばれるゆえんでもあろう。薬物療法のなかには現代の解熱剤、利尿剤、強心剤などすでに発見されており萌芽的には抗生物質の利用もみられたことが記録されている。
 この時代の原因説が、体質説やバランス説に傾きがちであったことは、単一の原因を実証的に追究する科学的手段と哲学をもちあわせていなかった段階ではむしろ当然であったかもしれない。しかしそのことは分析的方法が無力であることの証明にはならないはずであるのに事実上無視ないし軽視され、逆に体系化された思弁が尊ばれてしまったのである。
 いずれにしても死に直結する異常と直結しない異常の区別の確立は前近代とそれ以前を区分する重大な進歩であった。この区別はその後の医学を前進させる一つの原則であり、現代医学でもその重要性はいささかも減じてはいない。


Kleinman, Arthur 1980 Patients and Healers in the Context of Culture,University of California Press(=1992, 大橋英寿・遠山宜哉・作道信介・川村邦光 訳『臨床人類学――文化のなかの病者と治療者』弘文堂).
(p118)
 病者の説明モデルでも治療者の説明モデルでも、それを表現するのに用いられるメタファーが分かれば、その底にある文化の様式が照らし出されてくる。たとえば、西洋では民間の説明モデルにも専門家の説明モデルにも、"戦争"のメタファーが滲み込んでいる。伝染病と"戦う"、疾病を"征服する"、病原菌が"侵入する"、免疫学での"防衛"というのがそれである。戦争のメタファーは『ヒポクラテス全集』にもみえるし、ガレノスの伝統を通じて現代にいたるまでたどることができる。しかしそれは、けっして普遍的なものではないのである。身体を一個の機械としてイメージして、病気を機械論的に説明するのも、少なくとも十七、十八世紀の啓蒙運動以来の西洋に固有のものである。台湾の民間の説明モデルでは、人のメタファーが用いられることが多く、意図的であれ偶然であれ亡霊に"出くわす"(《衡》ch'ing)と《衡着》chhiong-tioh病気になるという。


◆Gilligan, C 1982 In a Different Voice : Psychological Theory and Women's Development, Harvard Univ.Press(=19860419, 岩男寿美子監訳『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』川島書店).
(p183)
非暴力主義運動の精神的真実と、エリクソン自身の精神分析をバックにした理解における真実との関係のもつれをとこうとして、彼は「真実は"暴力の使用を排除します。なぜなら、人間は絶対的真実を知ることができないし、したがって人間は罰する任に耐えられないのです"と、あなたはかつておっしゃいました」と、ガンジーに思いださせていいます(5・p241)。非暴力主義運動と精神分析学との類似点は、「真実における実験」として人生をみることに両者ともにかかわっていることにあります。つまり、両者とも、「人は、傷つけることを避ける行動によってのみ―あるいは相互関係を極大化し、また一方的強制とか脅威によってひき起こされる暴力を極小化する行動によって、もっともよく―真実(あるいは病気の状態に固有の治癒力)をためすことができるというヒポクラテスの原理に従った、普遍的な"治療法"になっているのです」(5・p247)。しかし、エリクソンは、ガンジーは真実の相対性を認めることに失敗していると批判しているのです。この失敗は、ガンジーが真実の絶対的所有を要求したことにはっきりみられます。つまり、「"内なる声"によって是認されたことを除いてはだれからもなにごとも学ぼうとしないこと(校正者注:「だれから なにごと」傍点)においてその失敗は明らかにみられるというのです(5・p236)。この要求をすることによってガンジーは、それがどんなに他人の誠実さにたいして暴力をふるうことになるのか気づかずに、またそれを顧慮しないで他人に自分の真実を、愛を装って押しつけていたのです。


H.クース「体外受精と胚移植への倫理的アプローチ--いったい何についての倫理なのか」 Singer, Peter ; Walters, William A. W. eds. 1982 Test-Tube Babies: A Guide to Moral Questions, Present Techniques, and Future Possibilities, Oxford University Press(=19831024, 坂元正一・多賀理吉訳『試験管ベビー』岩波書店).
(pp68-69)
 ヒポクラテスは正しい。つまり「判断を下すのはむずかしく、実験には危険が伴う」のである。それでも、いやそうだからこそ、答えを見つけ出さなければならないのだ。「新しい科学」を無批判に受け入れることは、「古い道徳」を無批判に受け入れることと同様、「吟味されない生活」の要素になるのである。われわれは、どのようにして自分の生活や習慣を吟味することができるのだろうか。話し合いや議論を戦わすことによってである。すなわち、ハーバマスがいっているように、いったん問題にされたら、より優れた議論の力、合理的な基盤に基づいた概念の分析によってのみ、その問題は真に解決されたといえるのである(*23)。
 そして、それこそが、本書と、体外受精や胚移植に関する議論が最終的に関わっている問題であり、実際に倫理が関わっている問題であると私は思う。


宝月誠, 19860105, 「クスリと人間の生活」宝月誠編『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』世界思想社:3-10.
(pp5-6)
 第三に、次々と医療の現場に登場してくる嚢の中で、医師はどのようなクスリを患者に投薬したらよいのか迷ってしまう。「薬のすべての情報を適確に知り、自分の患者のどんな症状に対しても客観的に最適の薬をえらぶことができると、本心からいえる医師はまずはいないだろう」(4)という見解が出てくる。しかも、クスリの洪水は、医師を単に混乱させるだけではない。医師が「めったに効かないかわりに毒にもならない薬」を患者に投与していたという時代は永遠に過ぎ去り、いまや医師は「強烈な治癒力―あるいは人ごろしの可能性をもった薬」とも対決しなければならないのである(5)。品目の多様化と絶えざる新しいクスリの洪水、そして強力な治癒力と同時に危険性をひめたクスリの出現は、医療現場の人間にとってそれは自由に使いこなせる代物ではなく、逆にそれにふりまわされるものとなっている。「少なくとも、ヒポクラテスの時代から、医師は患者がかかっている病気よりも危険な薬をのませたり、処方してはならないという基本原則があった」(6)といわれるが、いまやクスリは医師の手に余るものに変貌しつつある。


米本昌平, 19880425, 『先端医療革命――その技術・思想・制度』中央公論社.
(p9)
 さて、急性疾患から慢性疾患への移行は、当然のことながら、医療の意味の構造的変化をともなうものであった。その典型が、医の行為の特権的地位の崩壊である。長い間、医療行為は無限定に善であると信じられてきた。これはアフリカの難民キャンプに日本の医師団が入ったことを考えればよい。医者と患者の関係は一対一に近く、治療効果はすぐ現れる。ここでは医師の行為は疑いようもなく善である。このような急性疾患の時代にも"医の倫理"という言葉はあるにはあった。しかし、それは医者という特殊なギルドとしてのエチケットという性格が強く、現在のように医療行為そのものの意味が問われ、医の倫理がラジカルな検討に附されるような契機は、本質的になかったと言ってよい。
 しかし、医療の現代化が進むにつれて、医療の側は治療効果のみえにくい慢性疾患を、科学技術の力で押え込もうとするようになる。医療はチーム化し、大がかりなものになり、医療ができることは病気の治療よりは、症状の管理や操作であることが、しだいに見えてくる。そしてここには、「医師は患者のためになると思うことのみを行う」というヒポクラテス流のパターナリズム(父権主義的配慮)が成立しなくなり、心ある医師は医療そのものの意義について悩まなくてはならなくなる契機が含まれている。


◆Martin, Luther H.; Gutman, Huck; Hutton, Patrick H. eds. 1988 Technologies of the Self: A seminar with Michel Foucault The University of Massachusetts Press(=19990907, 田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー--フーコー・セミナーの記録』岩波書店).
(p22)
 おそらくわれわれの哲学の伝統は、後者を過度に強調して前者を忘れてしまったのであろう。このデルフォイの掟は人生についての抽象的な掟ではなかったのであり、技術的な勧告であり、神のお告げにうかがいを立てるために守らねばならない規則であった。「なんじ自身を知るべし」とは、「なんじ自身を神だと思うなかれ」という意味であった。別の解説者の考えによると、「神のお告げを聞きにくるときには、本当に聞きたいことは何であるかを承知しているべし」という意味であった。
 ギリシャ・ローマの文献のなかでは、なんじ自身を知るべしという命令は、なんじ自身に気を配るべしという別の掟とつねに結びつけられていて、このデルフォイの箴言が実際に行なわれるようになったのは、自分自身に気を配るべしというあの必要性によってであった。その必要性はギリシャ・ローマのすべての文化のなかに潜在しているが、プラトンの『アルキビアデスT』以来、明示的だったのである。ソクラテスの対話のなかで、クセノフォン、ヒポクラテスのなかで、またアルビノス〔二世紀のプラトン主義哲学者〕以来ずっと新プラトン主義の伝統のなかで、人々は自分自身への関心をもたなければならなかった。例のデルフォイの掟が実行に移されるまえに、人々は自分自身に専念しなければならなかったのだ。このデルフォイの掟は前者の掟〔自己への関心・自己への専念〕に従属していたのだ。この点について以下に三、四の例をあげておく。


◆Pence, Gregory E. 1990,1995,2000 Classic Cases in Medical Ethics: Accouts of Cases that Have Shaped Medical Ethics, with Philosophical, Legal, and Historical Backgrounds McGraw-Hill Companies, Inc., Ney York, 3rd Edition 2000(=20000323, 宮坂通夫・長岡成夫訳『医療倫理1――よりよい決定のための事例分析』みすず書房).
(pp14-15)
 よい医師の役割がどのようなものかについて、古代ギリシャの医師が全員同意見であったわけではない。そしてこの点において、現代の医療倫理においてもなお大きな論争点となっている対立が見えてくる。ヒポクラテスとそのグループの医師が主張した倫理は、患者中心主義の立場とすべての生命を神聖だと考える世界観から成っており、後者の視点から医師が妊娠中絶を行ったり安楽死をさせたりしてはいけないとの立場が表明された。他方、ほとんどの古代ギリシャの医師は<自然主義的な>立場をとっていた。これは現代の科学的な世界観の先駆けとも言える。この医師たちは、見えるもの感じられるものをもとにして判断を下すという立場をとっていた。そこで行われる医術は、神の命令が何かとか死後の生命がどのようなものかということをもとにするのではなく、今ここで生きている患者への援助を中心に考えていた。そこから、この医師たちはしばしば末期状態にある患者の死の手助けをした。この人たちは、回復の可能性がほとんどなく、苦痛と苦しみだけの人生を長引かせることは意味がないと考えていたため、<生命の神聖さ>ではなく<生活の質>を重視していたことになる。患者の死を助けるときに、その人たちが、それは医師の役割だと考えたのか、あるいは同情心から行ったのかは、はっきりしていない。いずれにせよ、自然主義的立場の医師の多くが医術を行うときには、ヒポクラテス派の医師とは非常に異なる価値判断をし、非常に異なる目的を持っていた。
(p16)
 注意しておくべきことは、ソクラテス的な徳が反民主主義的でエリート主義的な倫理という色彩を強く持つものであり、その結果として普通の人間やその人の価値は軽蔑されていた、という点である。ギリシャ人は、自分たちが征服した国民はどれも自分たちより劣等だと見なしていた。アリストテレスの教えを受けたアレクサンダー大王は、誰にでもギリシャの価値、文化、言語を教え込もうとし、他国の「劣った」国民の文化を許容しようとはしなかった。アレクサンダー大王の考え方の基になっているギリシャ的倫理は、完全主義的、貴族主義的、実力主義的なものだった。この点から考えると、古代ギリシャの医師のうち、生活の質を強調した人たちはエリート主義的で完全主義的だったのに対し、生命の神聖さを強調したヒポクラテス学派の人たちはギリシャ特有の傾向をさほど持っていなかったと言える。
(pp125-127)
 1古代ギリシャとヒポクラテスの誓い
 医師による殺害を禁止するヒポクラテスの誓いは、古代ギリシャのソクラテスの時代に始まった。それは医療倫理の起源であるとしばしば考えられているが、この一般的な考え方に対して、一九三一年医学史家のルートビッヒ・エーデルシュタインが、ヒポクラテスはピタゴラスの弟子であったと述べて、異論を唱えた(1)。ピタゴラスは、ピタゴラスの定理で知られるように、普通は数学者と考之られているが、彼はまた、数を神より与えられたものとして崇拝し、生命はすべて神聖だと信じていた神秘主義者でもあった。とすると、彼の弟子であったヒポクラテスは、ギリシャの医師の大多数を代表するような人物ではなかったことになる。さらに、ヒポクラテスの『著作集』は、ヒポクラテスという名の一人の人間の作品ではなく、多くの彼の弟子たちが書き加えていったものである。ヒポクラテス学派の医師たちは、「法的に認められた専門職の資格は何も持っておらず」、治療にあたっては、体操の教師、薬剤商人、薬草業者、産婆、悪魔払い人、「魂の浄め人」と呼ばれる人たちと競う立場にあった(2)。
 もともとのヒポクラテスの誓いの内容について多くの人が誤解をしている。まず、原典通りの誓いを使っている医科大学は今日ではほとんどない。また原典のものを使っているところでも、多くの部分、特に最後に現れるキリスト教から見れば異端の神への誓いの部分が変更されている。さらに、医科大学の卒業式で唱えられる誓いは、その学校で教えられてきたいろいろな価値を必ずしも反映しているとは言えない。原典の誓いが実際医師にどのような約束をさせているかを見てみよう。エーデルシュタインの訳による全文を以下に示す。

 私は、医神アポロ、アスクレピウス、ヒギエイア、パナケイア、そしてあらゆる男女の神々にかけて、自分の能力と判断に従って、この誓いと約束を果たすことを誓い、これらの神々をその証人とする。
 私にこの技を教えてくれた人を、私の両親に等しいものと見なすこと、その人と協同して自分の人生を歩むこと、その人がお金を必要とするときには私の持ち分のいくらかを差し出すこと、その人の子孫を男性家系における私の兄弟に等しいものと見なすこと、その人たちが学びたいと望むなら、わが師の技を報酬も約束もなしに教えること、命令やU述の教えや他のすべての知識を、自分の息子たちやわが師の息子たち、さらには約束を結び医療の法に従ってこの誓いをたてた生徒たちと共有すること、しかしそれ以外の誰にもその知識は与えないこと。
 私は、病人の利益になるように、私の能力と判断に従って、食事療法を施そう。その人たちが危害と不正をこうむらないようにしよう。
 私は、たとえ求められたとしても、誰にも致死的な薬を与えはしない。また、死に至るような考えを伝えたりもしない。同様に、女性に対して中絶に至るような治療は行わない。純粋さと神聖さをもって、私は自分の人生と技を守る。私はナイフを使いはしない、たとえ結石患者に対しても。その仕事をなりわいとしている人にまかせよう。
 どのような家を訪れようとも、私は病人の利益を図り、正義にもとる行為を意図することはなく、いかなる危害も加えない。特に、自由人であれ奴隷であれ、男性とも女性とも性的な関係を持つことはしない。
 治療の途中であるいは治療とは関係のないときに、人々の生活に関して私が見たり聞いたりすることで、よそには決して知らせてならないものは、語るに恥ずべきことと考え、他人に口外はしない、もし私がこの誓いを破らず守り通すならば、人生と技を楽しみ、将来ずっと人々によって称えられるということが、願わくば私に許されんことを。もし私がこの誓いを破り偽りの誓いをするならば、この反対のことが私の運命となることを。

 今引用したヒポクラテスの誓いにおいては、死の間近い患者が死を要請しても手助けをしないこと、そして中絶を行わないとの誓いが含まれているが、それは当時の状況との関連で理解しなければならない。そのような誓いが含まれたのは、種々の治療者が競争するなかでヒポクラテスの学派が弟子のあいだの結束を図りたかっだからである。そのため、この誓いには、外科手術を行わないという誓い、さらには医術を教えることで学生からお金を徴収しない(医科大学の教師はこの点に注目すべし!)という誓いも含まれている。
 それゆえ、ヒポクラテス学派が、安楽死を禁止することで、自分たちの独自性を出そうとしたのも、当時の状況に関わっている。古代ギリシャでは、他のほとんどの医師が、しばしば患者を死ぬにまかせていたし、慈悲殺を行うことすらあった。実際多くのギリシャの医師たちは、患者が苦痛なしに死ぬよう援助するという術に秀でていた。死にゆく患者をただ見守る、あるいは死ぬのを手助けしてもよいという当時の一般的な態度には、二つの理由があったように思われる。第一の理由は哲学的なものである。ギリシャ人たちは、人生にはいくつかの自然な限界があり、それを越えて人生を長引かせようとするのは愚かなことだと考えた。(自然な限界の概念はギリシャ文化、特に建築や演劇の至るところに見られる。限界を越えようとすることは傲慢(ヒユブリス)であり、神によりうち砕かれることになる。)第二の理由は実際的なものである。端的に言って、当時の医師たちはさほど多くの知識を持っていなかった。また、競争相手によって自分の無知があからさまにされることを恐れていた。その結果、末期の患者に対しては、その治療を試みるよりは安らかに死なせることが多かった。
 にもかかわらず、ヒポクラテスの誓いは、自己犠牲と人間の生命の尊重という古代の伝統を象徴的に示している。それはまた、医師の都合よりも患者の健康を重視するという態度も象徴的に示している。今日、あまりに多くの医師がお金に貧欲になり(おそらくそのような医師が一人いるだけであまりにも多くと言えるであろう)、患者と情事を行い、患者の秘密を漏らしていることを考えれば、この象徴的な誓いを続けるのは賢明なことであろう。
(pp137-138)
 一般の人たちの多くは、ジャック・キボーキアンを民衆にとっての英雄と見なしているが、ほとんどの医師、そして多くの医療倫理学者は彼を非難してきた。自分の行為に対する批判について尋ねられると、「洗脳を受けた倫理学者やものを考えない医師の言うことを気にかける必要はまったくない」(12)と彼は答える。また、ヒポクラテスの誓いを破ることも気にしてはいない。彼は、こういう古代の考えに従う医師を「偽善的な(ヒポクリティック)ばか者」と呼ぶのである。
(p151)
 要約すると、「死期間際の人への死の幇助」が道徳的には「殺人」と同じことだとの議論は誤解を生む。というのは、「殺人」という言葉が使われるのは、ほとんどつねに、死にたくない人、しかも死期間際の患者ではない人の生命を奪う場合だからである。別の反対論として、医師の伝統的な役割は特別なものであり、「ヒポクラテスの誓い」に示されているように、医師は殺人をおかしてはならない、というものあるが、これは、今まで検討してきたものとは異なる、間接的な議論であり、のちに検討する。


◆Pence, Gregory E. 1990,1995,2000 Classic Cases in Medical Ethics: Accouts of Cases that Have Shaped Medical Ethics, with Philosophical, Legal, and Historical Backgrounds McGraw-Hill Companies, Inc., Ney York, 3rd Edition 2000(=20000323, 宮坂通夫・長岡成夫訳『医療倫理2――よりよい決定のための事例分析』みすず書房).
(pp173-174)
 もう一つは、サウジアラビアに関連した話題である。一九八五年、『ピッツバーグ・プレス』紙は、ピュリッツァー賞を受けた一連の記事のなかで、一部の裕福なサウジアラビア人が、アメリカ人の臓器を買っていることを報じた。この報道は、アメリカ国内に衝撃を巻き起こし、多くの人々が臓器提供について「アメリカ人優先」の政策を求めた。興味深いことに、かつて病院が医療を「本来の管轄対象」にだけ提供することを正当化できるとしていたニコラス・レッシャーが、この問題については、管轄対象でない人間を排除することは、ヒポクラテスの時代以来の医学の伝統に反することだと主張した。
 外国人が臓器を買うことができるのは、アメリカ人のレシピエントが一人も見つからない場合のみで、またその臓器がまもなく移植できる状態ではなくなってしまう時点になってからだということが発表されると、世論の興奮もどうにか収まった。しかしさまざまな委員会によっていくつかの調査が行われたのちに、臓器を他の国に輸出することは禁止された。ただし、問題の臓器が、他に使い道がないのなら つまり、その臓器をほしがっているアメリカ人候補者がいないことが確認できれば、外国人でもアメリカで移植を受けることが許されていた。しかしそれでも、トラブルが生じる可能性は依然として残されているように思われた。
(pp211-212)
 古代のギリシア人は一般に、精神障害の原因を、神々が怒って人々の精神を奪い去ることだと考えていた。しかし、ヒポクラテスや彼の弟子たちは、身体的な異常と同様に精神的な異常も自然の原因によると考えていた。プラトンは、狂気をつまるところ調和の崩れた状態、つまり精神の一つの部分だけが支配的になっている状態であると考えた(2)。古代ローマにおいてもまた、精神障害は神々のせいであると考えられていたが、何人かの医師、特にガレノスは、ヒポクラテスの自然主義的な考え方を支持していた。
 中世になると、この自然主義的な考え方はほとんど全面的に退けられた。精神異常の原因は悪魔がとりつくことだと考えられ、悪魔を退散させるために悪魔払いが雇われた。
(p290)
 アりストテレス以来、生物学の領域では、人間の生殖のどれくらいが固定した形相的なものによって決定されているのか、またどれくらいが未決定か、についての論争が戦わされてきた。アリストテレスは、人間の本質(形相因)は男性の精液のなかにだけあり、精液がほぼ受動的な素材(質料因)に働きかけて人間をつくると考えた(現在ではこれが誤りなのは明らかである)。胚の成長は、精液中に最初から存在する何かが展開することであるとの考えは、〈前成説〉と呼ばれる。この説は、アリストテレスがはじめて主張したものではなく、人間の発生について述べているそれ以前の書物にも見られる(たとえば、ヒポクラテス学派の著作において)(74)。中世において、前成説が主流の考え方となった。その当時には、受精の瞬間に人間がつくられ、胚の成長とは、「ホムンクルス」と呼ばれる微小人体が大きくなることだと考えられていた。この見方では、男性の射精により微小人体が女性の胎内に入り込むとされており、ダレンパティウスは、一六九九年、人の精子のなかにいくつかのホムンクルスを見たとさえ主張した(75)。


Frank, Arthur W 1991 At the Will of the Body: Reflections on Illness, Boston: Houghton Mifflin Company(=19960520, 井上哲彰 訳『からだの知恵に聴く――人間尊重の医療を求めて』日本教文社).
(p208)
 私には医療行為というものによってさんざん傷つけられ、心を踏みにじられてきた体験が多い。薬というものが本質的に毒と紙一重であるのと同様に、医療もまたそのような両側面―人を助けもするが、人を殺すこともある!(もちろん比喩である)―を合わせもっていることをもう一度認識する必要があるのではないか。そして、よき医者とはいかにあるべきかを説いた「ヒポクラテスの誓い」を医者はもう一度かみしめるべきときが来ているのではないか―。


◆Conrad, P. and J. W. Schneider, 1992, Deviance and Medicalization: From badness to sickness, Temple University Press(=2003, 進藤雄三監訳『逸脱と医療化――悪から病いへ』ミネルヴァ書房).
(p17)
 古代の社会において,疾病には超自然的な解釈が付与され,「医学」は聖職者やシャーマンの領域であった。医学が,哲学や神学とは一線を画して独自の理論を持った独立した職業として出現したのは,古代ギリシャの時代であった。疾病の超自然的解釈と治療を受け容れることを拒んだ偉大なギリシャの医師であるヒポクラテスは,疾病の「自然」成因の理論をたて,入手可能なすべての医学的知識を体系化した。ヒポクラテスは独立した知識体系としての医学の発展の基礎を築いた。初期のキリスト教では病気を罪に対する戒めとして叙述し,新しい神学的な解釈と治療を打ち立てた。キリストとその弟子たちは,疾病の超自然的な成因と治癒を信じていたのである。この見解は中世において制度化され,教会の教義が医学の理論と実践を支配し,聖職者は医師となった。ヨーロッパにおいて起こったルネッサンスは,古代ギリシャの医学的知識への関心を再び呼び起こした。これによって疾病の自然的解釈,教会とは独立した職業としての医療の出現への流れが始まった(Cartwright, 1977) 。
 しかし,ヨーロッパ医学の発展は緩やかであった。ヒポクラテスによって開発された疾病の「四体液説」は,19世紀半ばまで医学の理論と実践において支配的であった。医学的診断は漠然とした印象に基づくものであり,しばしば正確ではなく,「発熱」とか「(体液の)異常流出」といった一般的な用語で患者の状態を描写していた。
(pp22-23)
 なぜ医師が堕胎反対運動の旗手となり,堕胎が逸脱で違法であるとの定義をするのに直接的に関わったのであろうか。彼らがその大義を道徳的な「正義」に求めたのは疑いない。しかし,社会史家ジェイムズ・モールは,医師の堕胎反対運動に関する二つのより微妙で重要な理由を示している(Mohr, 1978)。すなわち,第一は急激な出生率の低下に対して医師の間だけでなく,政治家の間においてでも懸念が高まってきていたことだ。(略)
 堕胎反対運動を起こした医師たちをけしかけた,第二の,そしてより直接的な理由は,今まさに生まれようとしている専門職化を助け,正規の医師の独占支配を作り上げるためであった。前述したように,正規の医師たちは科学的で倫理的な医学を推進し,彼らがいかさま医師と呼ぶものたちと戦うために,アメリカ医師会を1847年に創立した。しかしながら,医師を標榜するための資格法はなく,多くの者が「医師」(たとえば,ホメオパシー医師,薬草医師,折衷主義医師)の称号を名乗っていた。正規の医師たちは,自分たちの規範としてヒポクラテスの誓いと倫理綱領を採用した。とりわけ,このヒポクラテスの誓いでは堕胎を禁じていた。正規の医師たちは堕胎を日常業務として行っていなかったが,他のセクトの医療者は日常的に堕胎を行い,金もうけのために行っていた者もいた。かくして,正規のアメリカ医師会の医師たちにとっては,堕胎を制限することにより,他の医療者に対する自分たちの専門職的支配を確実にすることができたのだ。これらの運動において,正規の医師たちは文化的および専門職的支配という社会的な目標を,道徳的および医学的な言葉に移し変えたのである。彼らは,堕胎の危険性と不道徳性を,政治家に納得させるように長いこと,また懸命にロビー活動を行った。妊娠期間のいかなる時であっても堕胎を違法とする法案が可決された後,正規の医師は倫理綱領を設け,彼らの競争相手に対して制裁を加える地位を得ることができた。このことは競争相手の市場を制限し,正規の医師たちが医業の独占支配を達成する大きな一歩となった。
(pp75-76)
 医療モデルの起源――古代ギリシャとローマ
 西洋の思考において,観念や概念の多くの起源は古代ギリシャにさかのぼることができる。おそらくわれわれの議論で最も重要なのは,ギリシャ人が合理的な自然観と人間観を最初に導入したことである。この観点はそれまでの文化で支配的であった宗教的な世界観と鮮明な対照をなしており,原初的な「科学」と自然医学の発展を促した。ローマ人はギリシャの知を複製して拡張し,さらにそれを未来の文明のために保存した。
 ほとんどの歴史学者は,近代医学はギリシャ時代に始まったと考えている。ヒポクラテス(460-377BC)は「医学の父」と呼ばれ,臨床での詳細な観察を続けた医学哲学の先人の思索を集大成した。彼は自然因を基礎として,すべての疾病を一貫して説明しようと試みた最初の人である。合理的知識と自然による説明を方法的懐疑とともに一貫して維持することは,科学的態度の萌芽であり,ヒポクラテス医学の伝統の基礎を形作っている。
 ギリシャ人は狂気に対して二通りの説明を用いた。一つは,狂気は神が取り憑いたり,黄泉の国の霊が乗り移ったために起こるとする世界観的・超自然的説明で,ギリシャの一般の人々によって信じられていた。神話上の神は日常生活の一部と考えられていたために,現実感があった。もう一つは,文献に記録が残るものとしては最初の医学的な説明である自然医学的説明で,狂気を自然に原因がある疾病として定義するものであり,上流階級の一部でのみ採用されていた。
 ギリシャ医学ではその早期から,狂気を疾病としてあるいは身体的な疾病と同じ病因による疾病の症状として考え,超自然的な説明を排除していた(Rosen, 1968:76)。狂気の原因は,すべての病いを説明するのに用いられた一般的な疾病理論,すなわち体液理論によって説明されていた。体液理論(humoral theory)は,ヒポクラテスの時代から17世紀に入るまで影響力を持っていた理論で,生理学的な説明としては子供だましのような単純なものである。この理論では四つの体液――血液,粘液,黒胆汁,黄胆汁――の存在を仮定している。これらは全身に流れており,それらの割合や均衡が健康にとって重要な意味を持つとされた。四体液は,身体の体質に影響を与え,その相対的な割合によって人の健康や気質を決定する。人の気質と心の状態は,これらの体液の均衡によって決定された。狂気はこの体液均衡の崩壊,通常はその過剰によるものとみなされていた。たとえば,メランコリア,あるいはうつ病は肝臓で生じる黒胆汁の過剰のために起こり,脾臓から脳への黄胆汁の突然の異常流出は不安をもたらし,「怒りっぽい」気質となる。狂気を描写するためにヒポクラテスが用いた名前は,現在でも身近なものである。すなわち,てんかん,マニア(異常な興奮),メランコリア(うつ病),そしてパラノイアである(Zilboorg, 1941:47:邦訳『医学的心理学』神谷美恵子訳,みすず書房,1958)。確かにメンタル・ヘルスに関するこの考え方の片鱗は,人が「きげんが悪い」(bad humor)というときに用いられる言葉の中に保持されている。
(p79)
 神学的制度や理論は支配的であったが,狂気の医学的概念は,栄えていたとはいえないまでも,この時代に存在していたのだ。9世紀までには,サレルノの医学校ではヒポクラテス学派を他の伝統的な医学とともに発展させ,多数の精神障害類型を特定していた。
(p214)
 アヘンは古代ギリシャの医師によって医薬品として使用された。ギリシャの博物学者であり哲学者でもあるテオフラストスは,ケシ属の植物の分泌液の使用にはっきりとふれた最古の記録を記載した(Szasz, 1974:171)。ヒポクラテスはアヘンに通じ,その使用に対して警鐘を鳴らした。しかし,最後の古代ギリシャ最高の医師であるガレノスはアヘンを万能薬とみなした。


Singer, Peter 1993 Practical Ethics, 2nd Edition, Cambridge Univ. Press(=19991025, 山内友三郎・塚崎智監訳『実践の倫理 新版』昭和堂.
(pp210-211)
 第六章で中絶に関する私の見解への反論を検討したとき、中絶のみならず乳児殺しについても論じた。そのため、〈ひとたび中絶が認められれば、次に控えているのは安楽死ではないか〉という人命の神聖性の信奉者たちの懸念はますます強まったことだろう―彼らにとって、安楽死はまちがいなく悪である。彼らが指摘するとおり、紀元前5世紀に医師たちが「ヒポクラテスの誓い」を立てて、「頼まれても致死薬を与えず、そのような助言さえしない」と神に誓ったとき以来、安楽死は医師たちによって拒否されてきた。さらに彼らの論じるところでは、ナチスの根絶計画は、ひとたび我々が国家に罪のない人間を殺す権限を与えれば、いかなる事態が生じるかということについての近年の恐るべき実例なのである。
 第六章で示した根拠にもとづいて中絶を認めれば、一定の状況のもとでは胎児以外の人間を殺すことも認められるという主張が説得力を持つことを私は否定しない。しかし、本章で明らかにするつもりであるが、このような主張は恐怖の対象とみなされるべきではないし、ナチスとのアナロジーを用いることは完全に誤解のもとである。むしろ反対に、いったん〈人命の神聖性〉に関する教説を捨てされば―第四章で見たとおり、この教説は検討しはじめればすぐにも覆ってしまうものであるが―、人間を殺すことを断固として認めないほうがむしろ恐ろしい場合があるのである。


Singer, Peter 1994 Rethinking Life & Death, The Text Publishing Company, Melbourne(=19980225, 樫則章 訳『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』昭和堂).
(pp116-117)
 刑法における中絶もこれとよく似た経過をたどっている。イングランドの伝統的コモン・ローと、コモン・ローの伝統に従っている他の国では、胎児が動き、生きているとわかった後でなければ中絶は犯罪とされなかった。一九世紀になると、これが法律によって変更された。受胎以降のどの段階でも中絶を犯罪とする法律が、最初にイングランドで、ついでアメリカで定められた。この新たな法律が制定されたことにはいくつかの理由がある。アメリカでは、一流の医学校を卒業した「資格のある」医師たちがこの法律の制定を強く支持していた。当時、彼らは自分たちと、多種多様な「無資格の」施術者たちとを区別しようとしていたからである。「無資格の」施術者とは、正規の医学教育を受けず、それとは異なった教育を受けて、あらゆる種類の病気の治療にあたっていた人たちのことである。資格のある医師のきわだった特微の一つは、彼らが「ヒポクラテスの誓い」を立てることだった。「ヒポクラテスの誓い」は医療の倫理的基礎を与えるものとみなされていたが、この誓いを立てるとき、医師は妊娠中絶をおこなわないことを誓った。それと同時に、資格のある医師は、競争相手である無資格の施術者よりも科学的にすぐれた教育を受けていたので、胎動初感が人間の成長過程において何も特別な瞬間ではないことを理解していた。したがって彼らにとっては、「成長しつつある生命が保護されるべき時点は胎動初感である」と定めていた当時の法律は非論理的で非科学的だったのである。
(p118)
 中絶の合法化に対する国民の支持がまったくなかった以上、中絶撲滅運動が完全な成功を収めたことは驚くにはあたらない。二〇世紀に入る頃にはアメリカの全州で、妊娠のいかなる時期の中絶をも禁止する法律が制定されていた。これは、その後五〇年以上にわたって続いた中絶に関する合意の時代の到来を告げるものだった。売春禁止法によって売春がなくなったわけではないのと同様に、この法律によって中絶がなくなったわけではない。しかし、ジェームズ・モーアがアメリカの中絶に関する古典的な歴史的解説のなかで述べているように、「一九五〇年には、アメリカの世論は中絶を社会的に憎むべきものとみなしていた。そして、中絶の再合法化を適切な国家的実践としてあえて公然と要求する者はアメリカ社会にはほとんど誰もいなくなっていた(4)」。国際的なレベルでは、一九四八年、「ヒポクラテスの誓い」を現代化するためにジュネーヴで世界医師会が開かれたとき、「誓い」の新版〔=ジュネーヴ宣言〕に「私は受胎の瞬間から人命を最大に尊重します」という一文が盛り込まれた(5)。
(pp167-168)
 胚や胎児にかかわる問題、乳児にかかわる問題、脳がまったく機能していないか、脳幹しか機能していない患者にかかわる問題――これらの問題はすべて「人間」という概念の境界線上にいるような人間にかかわる問題である。そのため、これらの問題に関する論争は「人間であるとはどういうことか」という問題に変わってしまうことが非常に多い。ところがこれとは対照的に、「医師が、意識のある自律的な患者を――その患者からの要請があれば――を殺してもよいか」という問いは、伝統的な「ヒポクラテスの倫理」の中核をなすとしばしばみなされてきたものにたいする真っ向からの挑戦である。たしかに、殺してほしいと患者自身が繰り返し依頼しているという事実がある場合、患者の家族と医師と裁判官は、自ら意思決定できない患者について「生命の質がとても低いので、生き続けないほうがよいのではないか」という決定を迫られることはない。結局のところ、その生命は患者のものである。それなら、患者に十分な情報にもとづいた判断をくだす能力があるかぎり、患者の生命が生きるに値するかどうかについて、誰が患者よりもよく決定できるというのだろうか。患者には、死ぬための手助けを求める権利があるのではないだろうか。また、医師が進んでその手助けをしようとしているなら、法がその邪魔をするべき理由があるだろうか。それでも、患者が死ぬための手助けを求め、医師がそれに応えて患者に致死薬を注射すれば、そこで現におこなわれていることをごまかすことはできない。医師の意図は、トニー・ブランドの場合と同様、明確である。しかし、明らかにこの場合の医師の意図は殺すことであり、死ぬにまかせることではない。したがってこれが、伝統的倫理が生き残りをかけて必死に戦っているもう一つの領域なのである。政治的には、「生命の神聖性」の倫理に対する最も激しい戦いが現在繰り広げられているのはこの領域である。これから述べる実例によって、変革への圧力がどのようにして高まりつつあるか、その一端がわかるだろう。
(p182)
 ポストマ事件のあと、王立オランダ医師会が自発的安楽死に対する従来の態度について再検討した。一九七三年、まだどこの医師会も「医師は患者の死を助けてはならない」というヒポクラテスの伝統を無条件に支持していたときに、オランダ王立医師会は自発的安楽死への扉をほんのわずかに開いた。医師会は、自発的安楽死は違法のままにしておくべきだとしながらも、次のような提案をした。すなわち、医師が患者のおかれた状況をくまなく考慮したうえで、不治の病におかされ死に瀕した患者の生命を短縮した場合には、裁判所は医師の行為を正当化しうるような義務の葛藤があったかどうかを判断するべきではないか、という提案である。


佐藤純一, 19950425, 「医学」黒田浩一郎編『現代医療の社会学――日本の現状と課題』世界思想社.
(p22)
 特定病因論とは近代医学の中心的な病気の原因の考え方(病因論)で、簡単に言ってしまえば、「特定の病気には特定の原因があるという考え方」である。近代医学の病気観に馴れ親しんでいるわれわれにとって、「あたりまえ」の考え方に聞こえるかもしれないが、このような病気観を取らない医学・医療もおおく見られ、近代医学はこの考え方を採用し、特異的に推し進めてきたと言える。病気の概念の研究である疾病論の観点から言えば、この特定病因論の構造は、二つの論理に分けて考えることができる。第一に「病気という実体が存在する」という、いわゆる「存在論的疾病観」である。近代医学は、そしてわれわれの多くは、「がん」とか「肺結核」とか、病気を一つの「単位」や「種」のような実体的カテゴリーとして考え、病人はその実体としての病気の宿主やキャリアー(担体)と考える。診断・治療の対象は、病人でなく病気ということになる。この存在論的疾病観に対して、病気の実体的存在を否定し、病気とは、体内の流れや要因の間の、または肉体と精神の間の、または人間と環境の間の、調和(バランス)の破綻と捉える病気観も存在する。これは生理学的疾病論とも呼ばれ、ヒポクラテス学派の体液理論や、中国医学の「気」の理論が、これにあたるとされており、この理論からは、存在して診断・治療の対象となるのは病人それ自身であり、病気は存在しないことになる。


栗岡幹英, 1995, 「現代医療と生活世界」『人文論集』45(2):53-85.
(pp58-59)
 患者の医療に対する信頼は、現代医学のこれまでの歴史においては、医師の倫理性と医療の有効性の二つの条件のもとで確保されてきた。第一に、近代において医師は確固とした職業倫理をもつ典型的な専門職だと考えられてきた。この職業倫理の中心は、患者の利益に奉仕することであった。ヒポクラテスによる「医の誓い」や日本における「医は仁術」という言葉などに示されるように、医者は患者への奉仕という観点から人間的に信頼しうることを求められ、かつ認められてきたのである。第二に、個別の医師に対してはともかく、現代医療の有効性については、多くの人びとが基本的に信頼を寄せてきた。現代医療の苦手とする慢性疾患などについて民間療法に頼る傾向はあるものの、この社会の大部分の成員にとって現代医療が罹患した場合の主要な選択肢であることは確かであろう。医師は、この現代医療にかかわる専門家として信頼されているのである。しかし、この二つの意味での信頼は、最近では揺らいでいるのではないか(8)。この事情は、近年の医療過誤訴訟の増加という事態と脳死・臓器移植問題に対する世論の対応によって、ある程度裏づけられるように思われる。


◆宮坂道夫, 199809, 「新潟大学医学部における生命倫理教育の取り組み--わが国における医の倫理教育の拡充に向けて」『生命倫理』8(1):75-80.
(p77)
 あらためて言うまでもなく、伝統的な医の倫理教育の原形は「ヒポクラテスの誓い」に求められ、今日「パターナリズム」として批判される性格のものであった。その教育はインフォーマルであり、正規のカリキュラムではなく、教員や臨床医の態度を観察し、模倣するという学習(apprenticeship)を通じて学ばれるものであったと言われる(7)。一方、1970年代以降、医学部・医科大学の正規カリキュラムに現れ、今日まで増え続けている医の倫理教育は、明らかにバイオエシックスの隆盛の影響を受けた現象であろう。しかしながら今日の医の倫理教育が欧米において反「パターナリズム」的であるというような単純な構図は必ずしも正しくはない。この点に関して明示的に論じる者は少なく、バイオエシックスと今日の医の倫理教育の関連性は、曖昧にされている観があるが、アメリカにおける医の倫理教育カリキュラムの登場と、その普及の歴史からは、この曖昧さが如実にうかがわれる。


市野川容孝, 19990331, 「優生思想の系譜」石川准・長瀬修編『障害学への招待―― 社会、文化、ディスアビリティ』明石書店.
(pp.x-x)
 古代ギリシアの医師ヒポクラテスは、プラトンとほぼ同時代の人物だが、彼の学派で確立されたとされる医療倫理は、二千年のときを隔てた今日においても高い評価をえている。世界医師会は、障害者の大量虐殺や強制収容所での人体実験といったナチスの医療犯罪が白日の下にさらされた一九四七年に、「ヒポクラテスの誓い」を医療倫理の原点として再確認しながら「ジュネーブ宣言」を採択した。
 そういう意味で「ヒポクラテスの誓い」は、優生思想がその極点にまで達したナチズムの対極に位置づくものなのだが、しかし、ヒポクラテスの説く医療倫理は、なるほど(右で定義したような意味での)積極的な優生政策から手を引く根拠にはなりえても、優生政策そのものから完全に自由であるわけではない。例えばヒポクラテスは次のように述べている。「医術とは何かについて私の考えている定義を述べよう。医術とはおよそ病人から病患を除去し、病患からその苦痛を減じることである、そして病患に征服されてしまった人に治療を施すことは、医術のおよばぬところと知って、これを企てることを断ることである」(『古い医術について』岩波文庫、八七頁)。つまり、不治であることが判明した患者を見捨てることこそ、医師のあるべき姿だとヒポクラテスは言っているのである。
 ヒポクラテスのこうした冷淡さは、しかし、その科学的思考の代償である。ヒポクラテスは、癲癇に関する、当時としてはありふれた呪術的思考、すなわち癲癇は目に見えない精霊が憑依した結果であるという考えを否定しながら、すべての病には人間が合理的に認識できる自然的原因があると説いた。そうした科学性ゆえに、ヒポクラテスは今日においても高い評価をえているのだが、まさにこの科学性が右の冷淡さを導き出している。つまり、ヒポクラテスにとって、治癒の見込みのないことが判明している患者に、にもかかわらずかかわりをもち続けることは、呪術師や祈祷師のふるまいと同様に非科学的で、詐欺まがいの行為として映ったのである。
 確かにヒポクラテスの医療倫理は、医師が患者を故意に死に至らしめること(今日で言う「積極的安楽死」)を禁じており、その意味でナチスがおこなったような障害者の抹殺に医師が関与することを禁じているが、しかし同時に、不治の病や障害をもつ人びとに医師がかかわりをもつこと自体を禁じているのであり、そうした人びとの生を積極的に支えていく方向には決して向かっていない。それどころか、ヒポクラテスの医療倫理は、「生まれついての病気持ちで不摂生な者は、本人にとっても他の人びとにとっても生きるに値しない人間であり、医療の技術とはそのような人びとのためにもあるべきではない」という先のプラトンの(消極的な)優生思想と完全に一致してしまうのである。
(pp.x-x)
 ドイツで断種法が制定された直後の一九三三年一〇月二六日に、ドイツの優生学者A・プレッツは、ある講演において、ヒトラー政権の下で優生政策が実践されるようになったことを「総統」に感謝しつつ、それはF・ゴルトンよりもはるか以前にJ・P・フランクが描いていた夢の実現に他ならないのだと述べている(Ploetz 1935)。フランクは、オーストリアの啓蒙専制君主ヨーゼフ二世の下で活躍した医師であり、彼が説く優生政策も、国家の利益を個人の自由に優先させる全体主義的な(あるいは古代ギリシア的な)色彩をもっていたことは事実である。しかし、彼の書物全体が、フランス革命を準備したルソーの影響の下に書かれているという点に十分、注意しよう。優生思想、優生政策の源は、往々にして「国家」に求められがちだけれども、優生思想=国家主義という理解はあまりに問題を単純化しすぎている。ルソーの場合がそうであるように、優生思想は「自然」という観点からも導き出されるのであり、フランクの優生政策も一面では「自然」に準拠した生活様式として提示されている。そのことは、「自然」に準拠したヒポクラテスの科学的思考が、消極的な優生政策と共犯関係を取り結んでいたことと無関係ではない。
(pp.x-x)
 「自然」の概念もまた、本人の望んでいないリハビリや手術といった過剰な介入を退けるうえで大いに役立つかもしれない。しかし、優生学もまたこの概念を活用したという事実、またヒポクラテスがこの概念に依拠しながら、不治の患者を見捨てることの正当性を説いたという事実を忘れるべきではない。「自然」の概念は、生命の尊厳という理念を容易に堀り崩すものでもある。生命の尊厳という言葉が、中絶反対論者(プロ・ライフ派)の偏狭さを連想させるのであれば、立岩真也にならって「他者の尊重」と言い換えてもよい(立岩、一九九七、四二四頁以下)。しかし、この「他者」なるものも、自然を超えた、すなわち形而上的な(metaphysical)な基礎づけなしには、容易に磨滅していってしまうのかもしれない。キリスト教は、そうした磨滅に抵抗する一つの試みだった。私たちの時代は、何を根拠に「他者」の尊厳を守り抜くことができるのだろうか。


進藤雄三, 19991030, 「医師」進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』世界思想社:42-59.
(pp47-49)
 ではこの「専門職」の特徴とはなにか。一九六〇年代までの伝統的解釈によれば、それは、@理論的知識に基づいた技能の使用、Aこうした技能の教育と訓練、B試験によって保証された専門職の能力、C専門的一貫性を保証する行動基準、D公共のためのサービスの達成、E成員を組織化する専門職団体、である(N・アバークロンビー/S・ヒル/B・S・ターナー、丸山哲央監訳・編『新しい世紀の社会学中辞典』ミネルヴァ書房、一九九六年、二六一−二六二頁)。しかし、こうして列挙された専門職の特性は、かならずしもこの用語に込められた独特の意味を示すものではない。たとえば、国家資格試験に基づいた免許制度と職能団体を有する医療あるいは法律領域の複数の職種は、これらの基準を満たしているように見える。しかし、医師あるいは弁護士が専門職であるというのと同じ意味で、看護婦あるいは司法書士・弁理士が専門職であるという用語法は確立しているとはいえない。医療領域でいえば現在コメディカルと呼ばれている医療関連職種は、かつては「準専門職」(semi-profession)あるいはパラメディカルと呼ばれてきた。こうした事態が示しているのは、専門職という用語が職業分類上の中立的なカテゴリーではなく、社会的威信あるいは評価と密接に関連しているカテゴリーであるという点である。
 近代専門職が高い社会的威信とならんで「地位専門職」から引き継いだもう一つの要素は、ノブレス・オブリージに遡る特別の責任感情である。医師の場合、ヒポクラテスの誓詞がその象徴的表現にあたる。市場において自己利益の獲得をめざす一般の職業とは異なり、専門職にはクライエントと呼ばれる他者の利益を優先させるという規範が要請されると考えられてきた。「医は仁術」という表現はこの点を示している。なぜ専門職に他の職業に求められる以上の倫理的要請がなされるのだろうか。専門職の扱う問題は、生命・財産・信仰など人々の人生において決定的意味を持つものであり、しかもそれを持ち込むクライエントはすでにその段階において自力で解決する能力を喪失していると想定される。この状況において問題解決に関する知識・技術において卓越した資源を持つ専門職が、自己利益の追求を最優先したらどうなるであろうか。専門職とクライエントとの間にはこうした「二重の従属性」あるいは構造的不均衡が存在するのであり(棚瀬孝雄『現代社会と弁護士』日本評論社、一九八七年)、この落差を利用した搾取を抑制するメカニズムが倫理性の強調となっているのである。
 医師は弁護士とならんで専門職中の専門職として、高い職業威信と高い倫理性を象徴する職業とみなされるだけでなく、抗生物質の発見とその臨床的応用によって急性伝染病を目に見える形で駆逐することを通して、その「専門」的知識に近代科学(=医学的細菌学)の威光を付け加えた。しかし、先端医療革命の進展と福祉国家の転換が指摘されはじめた一九七〇年代以降、専門職に対する社会的理解と意識に大きな変化が見られるようになる。
 専門職に対する批判的視点はかならずしも近年にのみ特有というわけではない。そもそもヒポクラテスの誓詞自体が、そうした規範を破る現実を意識して書かれた点を強調すれば、医師批判は古代まで遡るといいうるし、近代以降に限っても「専門職」の本家ともいうべきイギリスの生んだ皮肉家のバーナード・ショーは専門職のあり方に「公衆に対する陰謀」を嗅ぎとっていたし、日本でも「算術医」批判の事例には事欠かない(進藤、前掲書、一三六頁、黒田浩一郎「赤ひげ」佐藤純一・黒田浩一郎編『医療神話の社会学』世界思想社、一九九八年、九一−九二頁)。ここで重要な論点は、専門職の構成員である個人の行動レベルに対する評価と集団としての専門職に対する評価の区別である。規範に対する逸脱は時代を超えて普遍的に存在する。ここで問題にしているのは集団としての近代専門職に対する社会意識の変化である。


市野川容孝, 19991030, 「医療倫理」進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』世界思想社:160-184.
(pp176-177)
 ヒポクラテスの誓いからの離反
 新薬や新しい治療法の開発は、患者に害をもたらしてはならないと説くヒポクラテスの誓いからは逸脱する行為を要求する。
 人間の天然痘と牛痘の間の交差免疫を確認するため、E・ジェンナーは、牛痘にかかった人間の膿を別の人間に移植し、その人間に後で天然痘患者の膿を移植しても異常が見られないかという実験をおこなった。ジェンナーは、こう書いている。「感染の過程をより正確に観察するために、私は八歳になる一人の健康な少年を選び、牛痘を接種した」(E. Jenner, An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolae Vaccinae, London, 1798, p.32)。この「健康な」少年は、実験によって牛痘、あるいは天然痘にかかるおそれがあったのだが、ジェンナーは医学の発展と人類全体の福祉のために、あえてその危険をおかしたのである。
 一八六五年にフランスの医師クロード・ベルナールは、医学実験の必要性を認めつつも、それをヒポクラテスの誓いの枠内に止めよと説いた。「内科及び外科における道徳の原理は、たとえその結果が如何に科学にとって有益であろうと、即ち他人の健康のために有益であろうと、その人にとっては害にのみなるような実験を、決して人間において実行しないということである」(三浦岱栄訳『実験医学序説』岩波文庫、一九七〇年、一六七−一六八頁)。しかし、この倫理原則は、細菌学の隆盛とともに徐々に崩されていく。感染と免疫のメカニズムを解明し、有効な治療法を開発するためには、かつてのジェンナーと同様、被験者を健康人にまで広げて、人体実験をより大規模に実施することが必要となったからである。らい病菌の発見者として有名なノルウェーのG・H・ハンセンは、被験者の同意なしにらい病菌を入院患者に移植したとして一八八○年に有罪判決を受けているが、こうした違反はほんの一例にすぎない。


市野川容孝, 20000121, 『身体/生命』 (思考のフロンティア)岩波書店.
(pp39-43)
  ヒポクラテスの誓い
 「医療倫理」と聞いて、多くの人々がまず思い出すのは「ヒポクラテスの誓い」だろう。この「誓い」がヒポクラテス自身の手になるものかどうかについては、今日、大いに疑問とされているが、ヒポクラテス、もしくはその後継者たちが提示した医師の倫理、とりわけそこで明示された、患者に不利益をもたらしてはならないとの原則は、それが2,000年以上も前のものであるとはいえ、現代にも受け継がれている。周知のように、世界医師会のジュネーブ宣言(1948年)は、当時、明らかとなったナチスの医療犯罪(人体実験、安楽死計画など)に直面しつつ、この「誓い」をあらためて医療倫理の基盤にすえた。
 ヒポクラテスの誓いは、生命尊重主義をその根幹に据えている。しかし、これは当時のギリシアでは「反-時代的」とも言うべき特異な主張だった。たとえば「誓い」は、今日で言う積極的安楽死を禁じているが(=致死薬は誰に頼まれても決して投与しない」)、これは当時のギリシアの習慣から大きく外れるものだった。「ギリシア人の多くは、治癒不能な身体的苦痛や、大きな精神的苦痛ゆえに、ある人にとって生きることが耐えがたいものとなったとき、その人が自ら命を絶つのは非難すべきことだとは思っておらず、むしろ名誉あることだと思っていた。死を決意した者に、死に必要な毒を与える医師も、したがって何かタブーを犯しているとは思われなかった。しかし、この風習に対して、ヒポクラテス学派はそれに連なることを拒んだのである」(H.M.Koelbing, Arzt und Patient in der Autiken Welt.1977年, 112-113頁)。
 しかし他方で、「誓い」に見られる生命尊重主義を過大評価するならば、それは大きな誤りである。というのも、ヒポクラテス自身は別の場所で、こう述べているからである。「医術とは何かについて、わたしの考えている定義を述べよう。医術とはおよそ病人から病患を除去し、病患からその苦痛を減じることである、そして病患に征服されてしまった人に治療を施すことは、医術のおよばぬところと知って、これを企てることを断わることである」(『古い医術について』岩波文庫、87頁)。
 つまり、医術が医術であるためには、不治の病人、死が間近な病人を見捨てろと言っているのである。「誓い」はなるほど積極的安楽死を禁じているが、しかし、それは今日で言う消極的な安楽死(=延命処置の中止)を認めている、いや医師の義務としていると言うべきなのである。
 不治の病人を見捨てよ、というヒポクラテスのこの姿勢が、上に見たパーシヴァルやフーフェラントの説く医療倫理の対極にあることは明らかだろう、ヒポクラテスに忠実なのは、先の箇所でパーシヴァルが批判しているウィリアム・テンプルの方なのだ。啓蒙主義の医療倫理の新しさは、したがって、ヒポクラテスの地平を乗り越えた点にこそあるのである。

  physicianの誕生
 しかし、患者に対するヒポクラテスのこの冷淡さは一体どこから来るのか。
 てんかんは、かつて「神聖病」と呼ばれていた。その発作が、精霊などの憑依によって生じると考えられていたからである。この「神聖病」について、しかしヒポクラテスは彼自身の手によるかどうか疑問の残るテクストにおいてではあるが次のように言う。「私の考えでは〔神聖病は〕他の諸々の病気以上に神業によるのでもなく神聖であるのでもなく、自然的原因をもっている〔(××××× 自然と、そして原因をもつ〕のである」(同前38頁、傍点引用者)。
 したがって、この病を精霊の憑依と見なしたり、これを呪術や祈祷によって治そうという(当時としてはありふれた)試みは、全くの誤りである。いや、ヒポクラテスによれば、そうした考えやふるまいにひたっている者自身が、実は「神業」なるものを否定しているのである。「私の考えるところでは、この仕方〔=呪術や祈禧〕でこれらの病患を癒そうと企てる人々は、これらの病気を神聖とも神業によるとも思ってはいないのである。なぜならこれらの病気はこのような祓い清めや治療によって除去されるからには、これと類似した他の仕掛によって、人間を襲わせることもできるはずではないか。したがってもはやその原因は神業ではなくて人間業ということになるのである。・・・・・・この理屈によって神業は消滅するのである」(同前、40-41頁、傍点引用者)。
 確かに「体液病理学」その他のヒポクラテスの学説は、西洋近代医学によって臆見として厳しく批判された。しかし、ヒポクラテスは「自然(physis)」という概念に依拠しながら、医学を呪術から脱却させたのであり、まさにその点が、ヒポクラテスが今日でも高く評価される所以である。ヒポクラテス自身はその語を用いていないけれども、彼によって医師はphysician、すなわち「自然」にしたがって病気と人間の身体を見る者となったのである。
 患者に対するあの冷淡さは、他ならぬヒポクラテスのこうした科学性から導き出される。「治療不能の病気に手をくだすのを拒むのは正当である」(同前、98頁)。なぜなら「われわれは身体にそなわる自然的手段によって征服することの可能な病気を扱うことを業とする者にはなり得ても、そうでない病気を扱う者にはなり得ない」からである(同前、92頁)。「神業」を消滅させることは、呪術や祈疇と結びついた似非医術(とヒポクラテスが考えるもの)の批判に止まらない。ヒポクラテスにとって、人間の「自然」からして回復が不可能であることがわかっている病人に対して、にもかかわらず、かかわりをもち続けることは、呪術や祈薦と同様に、非科学的で詐欺まがいの行為だったのである。
 整理しよう。ヒポクラテスの医学の科学性・そこから要請される、不治の患者を見捨てよという姿勢。そして最初に述べた、積極的安楽死の禁止という、当時としては反-時代的な訓戒、この三つから導き出されることは何か。それは、「自然」に依拠したヒポクラテスの医学は、人間の死に一切、手をふれようとしないということである。

  キリスト教
 カール・ロートシューは、ヒポクラテスの医学とキリスト教精神の違いについて、次のように述べている。「古典古代においては、不治の病人を引き受けないことが医者のしきたりであった。医者と患者の関係は、客観的で冷やかな、そして一定の距離をおいたものであった。患者に対する同情や憐れみは問題にならなかったのである。しかし、キリスト教の医者の場合は全く違う。彼はキリスト教的な慈悲をもって隣人としての患者に接する。その際、患者が治る見込みがあるかどうか、また貧しいのか富裕なのかといったことは原則として問題にならなかった」(K. Rothschuh, Konzepte der Medizin in Vergangenheit und Gegenwart. 1978年、54頁)。
 不治であること、死が間近であることを理由に患者を見捨てることは、キリスト教精神によってはもはや容認されない。こうした転換の中から、多分に宗教的な色彩をもつ「ホスピタル」が中世ヨーロッパに生まれてくるわけだが、しかし、その際、重要なのは、このホスピタルは今日、私たちが考えている意味での「病院」ではないということだ、そこに収容された人々の共通点は、病気であることではなく、労働による自活ができない、あるいはそれを望まないこと、また彼らをケアする近親者がいないことだった。だから、このホスピタルに身寄りのない老人や孤児、あるいは貧民にまざって、病人がいたとしても、それは彼らが病んでいたからというよりも、彼らが何らかの理由で、家族によるケアを受けられなかったからに他ならない。つまり、ホスピタルは、病人を治療する「医学」の場というよりも、隣人愛を実践する「宗教」の場だったのである。
 それと同じように、「キリスト教の医者」というロートシューの表現で力点が置かれるべきは、言葉の前半である。つまり、不治の患者とその患者の死を見放さないのは「医者」というよりも、「キリスト者」なのである。
(pp47-48)
 死の瞬間をとりまくあらゆる宗教的儀礼が、死の厳密に医学的な管理、すなわち死の医療化を妨げている。フランクにとって、そうした諸儀礼は「死にゆく者の虐待」に等しい。「一体なぜ、今まさに死のうとしているときに、この上ない苦しみに耐えながら道徳のお説教をきかなければならないのか!」(同前、662頁)。
 フランクが望んでいるのは、先の15世紀の絵画に描かれた、あの臨終の場面の構図を逆転させることである。すなわち、まず宗教が死にゆく者を取り囲み、その円環の外側に医師(医学)を位置づけるのではなく、この円環を破壊して、医師(医学)が死にゆく者に最も近接できるようにすること。医療化とは、従来、他の社会領域(宗教、家族、法など)に属するとされていた事象が、医学の管轄下に置かれていくことを言うが、フランクは、まさに死の医療化を望んでいるのである。
 啓蒙主義は、あるアポリアを解消したと言えるだろう。「自然(physis)」に依拠したヒポクラテスの医学は、まさにそうであるがゆえに、死を医学の外部に放置した。その逆に、キリスト教はその放置された死を引き受けはしたが、それは「形而上学(meta-physics)」の次元にとどまり、死を「自然」の中に位置づけながら考察することはできなかった。啓蒙主義の医学は、この二律背反に終止符を打とうとしたのである。
 フーコーは、こう述べている。「〔古来より医学にとって〕問題はただ生命を回復させるということでしかありえなかった。死は医師の背後にとどまり、その大いなる暗い脅威のもとでは、医師の知識も技倆も消滅するのであった。死は単に生と病に対する危険であるばかりでなく、それらに問いかける知識に対する危険でもあった」(『臨床医学の誕生』みすず書房、201頁)。ヒポクラテスの伝統とは、まさにそういうものだった。しかし、ビシャーこの夭折した鬼才については後述する--以降、死はむしろ医学的思考の中心に据えられ、人々はそこから病と生を考えるようになる、とフーコーは言う。以上において私たちは、医療倫理の変容に焦点をあてながら、この逆転をフーコーとは別の角度から見てきたのである。


市野川容孝, 20001130, 「医療という装置――W・グリージンガーの精神医学」栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉 編『装置:壊し築く』(越境する知・4)東京大学出版会:129-163.
(pp138-140)
 しかしながら、精神機能の座は脳にあり、ゆえに精神疾患は脳の疾患であるという主張は、当時としても、まだ仮説の域を出ていない。グリージンガー自身、脊髄-感覚-運動の反射とは異なり、脳-表象、欲動の方は、まだ実証的に確かめられていないことを認めている(ibid.,S.44)。また、脳の解剖所見も、精神疾患=脳疾患と断言するのに十分な根拠を与えていない。一九世紀半ばに精神病と見なされた人たちの二割から三割が、梅毒による進行麻痺と言われており、この進行麻痺は確かに脳に器質的な変化をもたらす。だから、いくつかのケースで脳の病変が確認できたのは事実だろう。しかし、グリージンガー自身、先の箇所で述べているように、脳の病変が確認できたのは「多くの」場合であって「すべて」ではない。そういう意味で、グリージンガーは、まだ憶測で物を言っているのである。
 しかし、そういう不確かさを抱えているものの、ここで問うてみたいのは、「精神疾患は脳の疾患である」と想定することの意味であり、また、それが何を導くかということである。それを、ヒポクラテスにまで遡って考えてみよう(*2)。ヒポクラテスは、「神聖病について」と題する論考で、こう述べている。「この同じもの[=脳(引用者)]が、われわれを狂わせたり、錯乱させたり、あるいはわれわれに恐怖やおそれをもたらし、あるいは・・・・・・不眠、失態、漠とした不安、放心、しきたりに反する行動をもたらすのである。われわれが被るこれらのことすべては脳から来るのである」(Hippocrates,1923,pp.174-75)。ヒポクラテスの「脳」に関する知見は、現代医学のそれとも、グリージンガーの時代のそれとも全く異なるが、精神疾患と脳を結びつけている点では同じである。
 しかし、「神聖病」に関するこのテクストが高く評価される第一の理由は、実はそこにはない。そうではなく、医療を呪術から切り離し、医学の基盤に、近代医学にも通じる科学的思考法をすえた点が、最も注目されてきたのである。
 この「神聖病」なるものは、てんかんを指すと現在、解釈されているが、この病気、とりわけその発作の原因を、精霊その他の超自然的力の憑依と解し、これを祈疇や祓いによって治そうとすることは、当時のギリシアではありふれたことだった。だが、ヒポクラテスは、そうした思考様式を破壊したのである。「私の考えでは、この仕方[=祈禧や祓い(引用者)]によって、これらの病気を治そうとする人びとは、それらを神聖だとも神的だとも考えることはできないのである。なぜなら、こうした祓いや処置によって、これらの病気が取り除けるなら、同じような仕方で人びとを発病させられない理由など、どこにもないからである。もしそうなら、責を負うのは人間の所業なのであって、神的存在ではない。・・・・・・この理屈によって、神的存在の所業は消滅する」(ibid.,pp.144-45)。そして、ヒポクピユシスラテスは、すべての病は「自然」に原因をもつと述べる。「神聖病」と呼ばれるものは「私の考えでは、他の病気と同様に、神聖なものでも、神的なものでもなく、自然的原因をもっているのである」(ibid.,pp.138-39)。
 「神聖病」をめぐるヒポクラテスのこのテクストで述べられた二つのこと、すなわち精神疾患を脳という一器官に結びつけることと、それに向き合うべき医療を呪術から切り離すことは、不可分の関係にある。つまり、精神疾患を脳に結びつけることによって、それを呪術の園から解放することが、ここで可能になっているのである。無論、こういう医学のみを「医学」とするのは偏狭な見方であり、すでに文化人類学その他で常識となっているように、病に対する人間の向き合い方を、呪術的なものも含めて、すべて等しく「医療」と見なす方が妥当だろう。しかしながら、超自然的な力に寄りかかることなく、病める者の現存在に、真正面から向き合おうとするならば、精神疾患も含めて病を、その身体のどこかに根づかせる必要がある。脳への着目は、その一つの方法である。と同時に、呪術の園にひそむ暴力というものを忘れるべきではない。中世の「魔女」は、その当時、精神病者と見なされていなかった。つまり、精神病とは区別された別のカテゴリーで括られていたのだが、少なくとも今日の観点からして、精神病を患っていたと判断される少なからぬ人びとが「魔女」の烙印を押され、火炙りにされたことは事実である。なぜ、そんなことが正当化されたのか。それは、悪魔は人間の魂ではなく、その身体に入り込み、様々な幻覚を生み出すのであるから、その者の魂を穢れから守るためにも、その呪われた身体を丸ごと焼いてしまうのが正しかろう、と考えられたからである(フーコー、一九九七、一二八-二九頁)。身体の背後に、「魂」であれ、「悪魔」であれ、超自然的な力を想定することが、身体そのものの破壊と抹消につながったのである。
 たとえ仮説としてではあれ、精神疾患を脳の疾患という形で身体に根づかせることは、精神を病んでいるとされた者一人一人の身体を、あるいはその現存在を、それ自身の厚みにおいて把握する道筋を開く。ここで身体は、それ自身、透明で、その先に身体以外の何かが見通せるようなものであることをやめ、また、身体以外の何かの表象=代理(リプレゼンテーション)であることをやめる。このことは、グリージンガーがヴンダーリッヒらとともにおこなった、病の「実体論」批判とも深く関係しているだろう。つまり、病の「実体」が想定されることで、個々の病める身体が素通りされ、そして抽象的な思弁が開始されることをグリージンガーらは批判し、医学的な眼差しを、個々の身体の厚みに連れ戻そうとしたのである。
 第二に、精神疾患を脳の疾患と見なすことは、不可避的に、心身のあいだに密接な連関を設定する。
 医学史家のO・テムキンは、ヒポクラテスの医学について、すでにそれが心身の相互連関に注意深い眼差しを向ける「心身医学」であり、そこで精神と身体は「後にデカルトが想定したような深い亀裂によって、互いに分離されてはいなかった」と述べている(Temkin,1991,pp.13-14)。そして、同じことはグリージンガーの精神医学にも言えるのである。
(p161)
 (*2)正確を期するなら、ここに言う「ヒポクラテス」は集合的人格である。現存するそのテクストの少なからぬ部分が、ヒポクラテス自身によるものではなく、その学派に属した弟子たちその他によると推定されているからである。


◆Iversen, Leslie L. 2001 Drugs : a very short introduction(=20030605, 廣中直行・鍋島俊隆 訳『薬 (1冊でわかる)』岩波書店).
(p4)
 生薬の薬局方が体系化されたものは、ほかの文化圏にもあった。ギリシャではディオスコリデスが紀元後五五年に『マテリア・メディカ』を著したが、この書物はその後一六〇〇年もの間、絶対的な権威を保っていた。近代医学の父ヒポクラテスは、「合理的」で「科学的」な医薬の最初の学派をおこし、天然の医薬品を何百種類も用いた。古代ローマではプリニウスが『自然誌』(紀元後六〇年)を著したが、これは生薬などの天然医薬品の集大成としては、それまでで最大のものであった。


◆筏義人, 20020520, 『人工臓器物語――コンタクトレンズから人工心臓まで』裳華房.
(p185)
 ある調査結果によると、男性の勃起不能者は全体のほぼ一〇%だそうです。医学の始祖といわれる古代ギリシャのヒッポクラテスは、仕事上の悩みと女性の放縦さが男性の勃起不能を引き起こすと述べています。


◆廣野喜幸, 20021020, 「近代生物学・医学と科学革命」廣野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』勁草書房:35-52.
(p49)
 一九世紀中葉以降、ザイツ圏の医学によって生物医学(biomedicine)され、基礎医学・臨床医学が出そろうことになる。コッホ(Robert Koch 一八四三‐一九一〇)やパストゥール(Louis Pasteur 一八二二‐一八九五)らによって微生物学が進展し、ある種の病気が病原菌に由来することが解明される。二〇世紀になると、抗生物質の生産が軌道に乗り、これらの病に対する強力な治療法を人類は手にすることができるようになった。ヒポクラテス(Hippokrates 前四六〇頃‐前三七〇)ガレノス以来、人体を構成するいくつかの液体の挙動を人体理解モデルとする体液病理医学が長い命脈を保っていたが、これが消滅するのもこのころである。個体をいくつかの固形物の集まりとみなす素朴機械論的な固体病理医学が体液病理医学にとって変わるようになった。最後の体液病理医学の権威と言われるのはロキタンスキー(Carl von Rokitansky 一八〇四‐一八七八)であった。また、それに伴い、体液病理医学に基づく治療法である瀉血や下痢・吐瀉などによる治療(今日のわれわれからすると野蛮きわまりなく、かえって患者の病気を進めたのではないかとさえ思える治療)が急速にすたれるのもこのころであった。


◆小松真理子, 20021020, 「中世ルネサンスの医学と自然誌」廣野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』勁草書房:121-165.
(pp129-130)
 さて、北アフリカから携えてきたアラビア医学書、即ちヨハンニティウス(=フナイン・イブン・イスハーク)(Johannitius=Hunayn ibn Ishaq八○八―八七三)『イサゴーゲー(=ガレノスのテグニー入門)』、ハリー・アッバース(Hally Abbas九三〇―九九四)『王の書』(コンスタンティヌスは当初『パンテグニー』として自身の名を冠した)、イブン・アル・ジャザール(Ibn al Jazzar 九二九―一〇〇九)『ウィアティクム』などを一一世紀末にラテン訳してサレルノに供給したのは、モンテ・カシーノ修道院入りしたコンスタンティヌス・アフリカヌス(Constantinus Africanus一〇一五頃−一〇八七)だった。
 コンスタンティヌス・アフリカヌスはガレノスの医学書そのものはほとんど訳していない。ガレノスのテキストの供給は、かの巨人翻訳者クレモナのゲラルド(Gerardo de Cremona 一二四頃―一一八七)がトレードでアラビア語から多くを訳した。ピサのブルグンディオ(Burgundio of Pisa 一一一〇−一一九三)も同時代一二世紀にギリシア語からいくつか訳していた。クレモナのゲラルドが訳したテキストは、『テグニー(=小医術)』『体液混合』『分利』『分利の日』『治療法』『養生法』『単純医薬』『悪い体液混合』「諸元素』などである。ピサのブルグンディオが訳したテキストは、『体液混合』『治療法』『熱病の相違』『脈拍の相違』『身体内部(=侵された場所)』『養生法』『脈拍の原因』『脈拍』『諸学派』などである。『自然の諸能力』は通常匿名の訳者によるとされる(一写本のみブルグンディオに帰されている)。また『部分の有用性』は一四世紀前半にニッコロ・ダ・レッジョ(Niccolo da Reggio 一四世紀前半活躍)によって訳された。ヒポクラテスのテキストは、コンスタンティヌス・アフリカヌスが『箴言』『予後』『急性病の養生法』を、クレモナのゲラルドが『箴言』『諸元素』を、ピサのブルグンディオが『箴言』を訳した。アヴィセンナ(アラビア名イブン=スィーナー)(Avicenna=Ibn Sina 九八〇−一〇三七)の大著『医学典範』はクレモナのゲラルドが訳した。ゲラルドはラーゼス(アラビア名アッ=ラージー)(Rhazes=al-Razi 八六五−九二五)の『アルマンソールの書』やアルブカシス(アラビア名アブール=カーシム)(Albucasis=Abul Qasim 九三六―一〇一三)の『外科学』も訳している。
(p132)
 中世五-一五世紀の一〇〇〇年の内、前期五-一一世紀はテキスト的には確かに暗黒時代と言えるかもしれない。六世紀の南イタリアで修道士によって僅かにギリシア語の医学文献がラテン訳されていたが、ヒポクラテスの『箴言』や『予後』、ガレノスの若干のもの、オレイバシオス(Oreivasios von Pergamon四世紀) その他のテキストが写本としてあるだけだった。ディオスコリデス(Dioscorides 四〇頃―九〇頃)の『薬物誌』も訳されたが、不正確な訳であった。プリニウス(Plinius 二三/四−七九)の、『自然誌』にも薬用植物誌がありもともとラテン語で書かれたこの書は中世を通じて流布した。
(pp135-139)
 一二世紀以降の医学の理論化の傾向は一二世紀のサレルノにも及び、一三世紀以降の大学の医学へとつながり、大学では哲学的な医師が養成される。古代ギリシアでは、概ね医学はテクネー(技術 ars)であった。ヒポクラテスも、医学は医術であり、養生法・薬剤学・外科学からなると考えていた。ガレノスは『テグニー』では医学は「健康と病気とその中間態についてのエピステーメー(知識 scientia)である」と微妙なことを言っているが、他の著作では概ね制作学つまり技術の範疇に入れていて、「健康をつくりだす術」と考えていた。アレクサンドリア学派で医学が哲学の仲間入りをし、アラビア医学がこれを受け継ぎ、ヨハンニティウス『イサゴーゲー』でも、アヴィセンナ『医学典範』でも医学には理論的部分と実践的部分があるとされた。ヨーロッパ初期中世は医は術であったのが、このような根拠も得て一二世紀末には学となる。
 その大学医学部教育におけるテキストとはどんなものであったか。中世の医学の背骨(クリステラー)と言われるアルティケラ Articella (医術小論集)がこれをよく教えてくれる。これは中世の医学教育の中核をなしたテキスト群のことで医学生必携本である。(この原型はアレクサンドリアの医学校にすでにあった)。一二世紀初め(表1)から一六世紀初めの印刷本(一五三四年で終焉する)まで徐々に内容が増えていく。当初はガレノスのテキストが徐々に増大していく過程であり、後半一五・一六世紀はヒポクラテスのテキストが増大していく過程と映じる。最後にはテキスト総数は三十余点となった。教授がヒポクラテスやガレノスやアヴィセンナのテキストを講読した。ボローニャ大学医学部の一四〇五年の時間割(表2)をご覧いただきたい。
 シッパーゲスは、中世の医学の体系は、理論的医学として@自然的なものについての学(生理学)、A反自然的なものについての学(病理学)、B非自然的なものについての学=保健学をもち、実践的医学としてC非自然的なものについての術=養生法、D薬剤学、E外科学をもつ、と言っている。反自然的なものとは、自然に反するもの、つまり病気であり、非自然的なものとは、まったくの健康でも病気でもないその中間態のことである。非自然的なものには空気、食物/飲物、運動/安静、睡眠/覚醒、排泄/分泌、情念と六つある。これはヨハンニティウス『イサゴーゲー』を筆頭にするアルティケラの意図であるとして中世医学の性格とし、この保健学や養生法の広大な領域をもっていたことを賛美し、これを失った近現代医学をシッパーゲスは弾劾している(シッパーゲス[一九八八])。
 ヒポクラテス・ガレノス的な諸体液混合の不調和が不健康や病気をもたらすという体液病理学の考え方は近世にまで残り、全人的・環境医学的視点である。自然治癒力やホメオスタシス重視の思想でもある。保健学や養生法は予防医学にも通じるが近代医学が有効な治療法を獲得するにつれ軽視され、故障した機械を直すように病気の人体を治すことが医学の使命となり、シッパーゲスの言うように確かに近現代医学は養生法の広大な領域を失った。
(pp142-143)
 一四世紀半ば飢饉による社会危機があった所に、一四世紀半ばすぎのペスト禍が襲った。保健行政は隔離や検疫を行ったが、その検疫が流浪の民や外国人の排斥につながり、ユダヤ人迫害にもつながった。医学は総じて学的医学も民衆医療も現実には無力だったが、ことに大学の医学の面目はなかった。理論的には治療はまったく不可能ではなかったので患者の治療に当たり自身も落命した医師も多かった。ヒポクラテス以来の医の倫理は、死に至ることが分かっていればそう通告し、治せないものは引き受けないというものであったので、避難を勧めたり、自身が逃亡した医師も目立った。職責上逃亡が許されない市の医師でも逃亡した者がいた。ペスト流行の後、治療を放棄してはならないという医師の義務が明記され法的規制がされていく。正規の医師集団は自ら倫理性を高めエリート意識を持ち結束し、下級医療.職を排斥していく。一四世紀末の社会危機・混乱ゆえの群集心理は、鞭打ち苦行者の特異な現象を産んだ。群集心理は他罰的に犯罪行為に及ぶこともあった。ユダヤ人迫害の進行とともに魔女妄想も成長していく。
(pp152-153)
 発生理論の歴史、狭くは発生学史をひもとけば、われわれはそこに興味深い理論展開を見ることになる。近代一七・一八世紀には、科学史上有名な「前成説-後成説」論争がある。正確には前成説の特異な形態である「入れこ説」が一六七〇年代から一七五〇年頃まで支配的となり、その後また後成説が優勢となった。
 古代には「前成説「後成説」の論争があったわけではなく、別稿(小松[一九九三b]〉で述べたが、雌雄二種説(two seed theory)でかつパンゲネシス(pangenesis)の陣営(ヒポクラテス、ガレノス、及び古代原子論者たち)と、雄一種説(one seed theory)でかつ精液=形相説の陣営(アリストテレス)の対立があった。精液=形相説とは、私の造語だが、形相(形相はそのものをそのものたらしめる本質のことだが、今風に言えば遺伝情報に相当するとも考えられる)である男の精液と、質料である女の月経血が出会うことによって、無定形な月経血が精液の担う形相に導かれて(後成説的に)子が形成される。(従って能動的な産む力をもつのは男のみ)とするもので、言わば雄一種説となる。アリストテレスより後の時代に生まれたガレノスは、アリストテレスを批判して、精液は形相だけではなく、形相を含んだ質料であり、男女両性の精液の混合から子ができるとし、よって雌雄二種説であり、また精液は親の全身から出るとするパンゲネシスの立場をも伴っていた。ガレノスは卵巣の意義を強調したことで有名であり、今の私たちが卵巣と呼ぶものは「女の睾丸」であり、ここに精液を保有しており、女も精液(=性交のとき放出される体液)を放出する、とする。また女の月経血も、子の肉体を形成するときの栄養となるので必要だとした。この場合、アリストテレスだけが後成説なのではなく、ガレノスも、そしてヒポクラテスも後成説であると筆者には思われる。「前成説-後成説」の論争を古代にまで投影した結果、ニーダム(Joseph Needham 一九〇〇―一九九五)のようにヒポクラテスまで前成説論者にしてしまう解釈(Needham[1975])もあるが不適当に思われる。アリストテレスはパンゲネシスの論では前成説になると言って非難してもいるが。なお古代アトミストについてはテキストが乏しく、雌雄二種説でパンゲネシスであったことは判っていても、前成説なのか否かいまだに不明である。「一代限りの前成説」でありうるかもしれない。
(p161)
 連続の一つとしては、一三世紀以降の大学の医学の時代に見られた自然主義がある。病の自然的解釈が行われる。一二世紀以前の世俗のサレルノ医学校もそうだったかもしれない。古代のヒポクラテス・ガレノス医学がすでにそうであった。十二世紀ルネサンスで再生するのは、まさに自然主義であり、自然治癒力への信念、自然の法への信念である。主に一三世紀以降の大学医学部で、まず医学の世俗化が起こったと言える。
 だが具体的な病理学説は前近代のものでは体液病理学説だが、近代のそれは病気の局在論であり固体病理学説であり機械の故障につながる見方で、ここには非連続がある。


◆篠田真理子, 20021020, 「生態学と環境思想の歴史」廣野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』勁草書房:227-266.
(p252)
 社会・経済的形態や人間の精神に環境が及ぼす役割を重視する考え方には、長い伝統がある。西洋世界で最も古いものは古代ギリシャのヒポクラテス(Hippokrates 前四六〇?―前三七〇?)の作と伝えられる「空気、水、場所について」(ヒポククラテス[一九六三]七―三七頁)であろう。これは病気と季節、場所、風、水などの環境要因との関連を述べた前半と、アジアとヨーロッパの住民について居住地域と体格や気質、生活様式との関係を論じた後半とに大きく分かれてる(校正者注:原文まま)。前半部は医学史において展開し、後半部は、のちJ・ボダン(Jean Bodin 一五三〇―一五八六)を経てモンテスキュー(Charles de Secondat, baron de Montesquieu 一六八九―一七五五)の『法の精神』にも影響を与えた。


◆斎藤光, 20021020, 「生物学と性科学」廣野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』勁草書房:267-306.
(pp273-274)
 よく知られているように生物学という記号の、また、生物学分野というアイディアの成立は一九世紀の初めである。本来的には、その時点以降、性科学の歴史は展開する。もちろんそれ以前にも重要な事柄が生成し、生物学へ、さらに、性科学へとつながっている。ギリシャ以来という図柄の中では、三つの重要な構図・出来事(*1)が見えてくるのであるが、それらを扱うのはやめ、一八○○年あたりからを記述していきたい。
(p305)
 (*1)三つの重要な構図・出来事を簡単に示すならば以下のようになる。第一に、ヒポクラテス(Hippokrates 前四六〇頃-前三七〇)対アリストテレス、のちにガレノス(Galenos 一二九-一九九)対アリストテレスという形になる動物、あるいは、人間の発生をめぐる異なる考え方の対立構図である。第二は、キリスト教が打ち出し広めたとされる、人々の肉欲と結婚をめぐる規範の構図である。第三は、科学革命期に出現した三つの出来事とその結果、あるいはその枠組みである。出来事は、動物の生殖物質をめぐる新しい理論の出現(「卵」というアイディア)、動物の生殖物質中の新しい要素の発見(「精子」の確認)、そして、雌雄性の植物への拡張である。結果あるいは枠組みは、主として生物学成立前夜の一八世紀に戦わされた、発生に関わる論争である。


◆Wissenschaftliche Abteilung des DRZE[生命環境倫理ドイツ情報センター], 2002, drze-Sachstandsbericht.Nr.1. Enhancement. Die ethische Diskussion uber biomedizinische Verbesserungen des Menschen. (=20071108, 松田純・小椋宗一郎訳『エンハンスメント――バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』知泉書館).
(pp118-119)
 病気を説明するもろもろのモデルは、人類史の過程の中で、生物学の知識水準と社会的枠組みの諸条件、およびもろもろの文化的価値を一つに束ねた脈略のなかにあった。それゆえ、歴史的変化をたえずこうむってきた。大昔、病気は悪霊によって引き起こされる超自然的現象と受け取られ、魔術という手段によって追い払われるべきものだった。とはいえ、すでにバビロニアとエジプトの古代文明において、病気を自然的状態として捉え、適切に治療するという考え方が非常に早くから存在した。古代ギリシャにおいては、民衆に広く行き渡っていた魔術的な病気観と明確に一線を画して、ヒポクラテスの科学的医学が病因論的自然研究として成立した。こうした背景のもと、病気は自然(Physis)からの逸脱と等置された。自然は、正常状態(kata physin)に向かう運動として動態的に表され、医師は、逸脱を再び「自然へと連れ戻す(eis tan physin agein)」(Corpus Hippocraticum, De fracturis(*1))ことによって、この過程を支援するものとされた。自然からの逸脱は、体液の調和における撹乱として表された。そこから発達した体液病理学は、中世にいたるまで決定的な影響を及ぼし続けた。


荻野美穂, 2002, 『ジェンダー化される身体』勁草書房.
(p126-127)
 現在私たちが「卵巣」と呼んでいる女性の生殖器官は、西欧ではながらく「女の睾丸」と呼ばれてきた。それは、ほぼ一八世紀ごろまで男女の生殖器は本質的に同じものであるとする考え方が存在しつづけていたからである。西洋中世医学の基盤となっていたのはアラビア経由で輸入されたかレノス、ヒポクラテスを中心とする古代ギリシア医学であったが、とりわけガレノス医学の影響が強く、「西欧中世医学をほとんど一色に塗りつぶしたばかりでなく、その影響が近代深く入って一八世紀頃までも一部にはなお根強く残っていた」といわれる(川喜田1979:33)。
(pp130-134)
 もし男と女が本質的に同じ性器を備えているとすれば、なんらかの事情で性転換が起こったとしても不思議ではないことになる。事実、一六世紀フランスの著名な外科医アンブロワズ・パレは、もともとマリーと名付けられて一五歳まで女として育ったがある日突然に男に変わったジェルマン・ガルニエなる青年の話を紹介している。
 「彼が畑に出て、小麦畑の中へ入ろうとする豚どもをかなり荒っぽく追いはらっていた時、溝にぶつかり、それを渡ろうとして飛び越えたとたん、その身に外性器と男性の竿とが現れた。これらを内部に保持していた靭帯が切れたのである(Laqueur 1987:13)。」
 そしてパレは、体内の熱の高まりに激しい運動が加わると、それまで外に出るのを妨げられていたものが外へ押し出されることがありうると説明している。
 ただし逆の方向、すなわち男が女に転換するケースはありえないとされた。なぜならアリストテレスが言うように、自然は最も完全なもの(男)を創ろうとするのであって、不完全なもの、すなわち女がより完全な男に変わることはあっても、逆はありえないからである。ヒポクラテスはスキタイ人の「男が女になる病気」について報告しているが、それは男性が性的に不能になった結果、女性として暮らすようになった例であった(植島1980:13-16)。
 次に生殖器官の形態上の相似性は、機能面での相似性にも結びつきうる。すなわち、もし性交によって受胎が実現するためには男の側の快楽と射精が必要であるとすれば、女にあっても同様のことが言えるのではないか。こうしてヒポクラテスやガレノスは、女も男と同じように性の快楽の頂点において子宮内で精液を射出し、それが男の精液と混じりあうことによって受胎が成立するという、「二種の精液」説を唱えた。たとえばヒポクラテスは次のように説いている。
 「女は性交中に陰部を摩擦し、子宮を動かす時に櫟りを子宮に感ずる。そして其れが身体に快楽と熱感とを呼起こす。其の際、女は身体から多量の精を子宮に注いで子宮が湿潤して来るし、又子宮口が広く開いてそれが往々外に流れる。女と云ふものは性交の初めから男が射精し終るまでの全時間快楽を持続する。女が劃しい性交の欲求を持つ時には男よりも先に射精を終る。……婦人が性交を完了しても、それが受胎に至らぬ時には男女両方の精が流れ出して了ふ。之に反して、若し受胎する時には精は流出しないで子宮内に留る。そして子宮がこの精を取った時には直ぐその口を閉じて精を其中に保持し、其処で男女の精が混合するのである(今1931:158-159)。」
 これに対しアリストテレスは、女が精液を出して生殖に寄与することはなく、胚の発生にあたって女はただ場所と質量を提供するだけの受動的な存在であり、男の精液のみが胚に運動原理と形相と目的を与えると考えた。真に子供の親と呼べるのは父親だけであり、女は「生殖力のない男」にすぎない。アリストテレス説では、女の経血は、女の不完全性ゆえに精液にまでなりえなかった。「純粋でなく、〔さらに〕仕上げを要する精液」と考えられていた。すなわち女の女たる所以は、生物発生における無能力性であり、雄こそが「原理で、原因であり、また雄は何かができるという能力の故に雄なのであり、雌はできないという無能力の故に雌」なのであった(島崎1969:134-135)。
 この問題に関してはヒポクラテス・ガレノス派、アリストテレス派それぞれの内部でも多様な立場が存在しており、一九世紀になって女性における卵の存在が確認されるまで、人間がいかにして発生するかについてさまざまな論争がくり広げられた(McLaren 1984=1989:45-50)。だが一般の人々の間では、女にも精液があり、それが射出されなければ受胎が成立しないというヒポクラテス・ガレノス的な考え方が広く支持されていた。女にも男と同じ生殖器が備わっているばかりでなく、現実に性交において女も男と同じような欲望や歓喜を示すではないかというのがその論拠であった。
(略)
 またジョン・サドラーは『病める女性の秘密の姿見』(一六三六年)で男女双方のオーガズムの重要性を指摘し、「男が早すぎて女が遅すぎ、そのために両者の穂液が受胎のきまりの要求通りに同じ瞬間に合流しない」ことが不妊の原因であると述べている。そこで男は「彼女を愛撫し、抱きしめ、くすぐって」、女が十分な快楽にまで至れるように力を尽くさねばならないのであった(Laqueur1987:11)。さらにヒポクラテスの説にしたがうならば、性交とその快楽はたんに受胎のためばかりでなく、女の健康にとっても必要なものと考えられていた。
 「女と性交との関係は、女が性交を為す時には健康に適し、若し性交を為さぬ時には健康上却て良くない。即ち性交は一方に於て子宮を湿潤せしめて乾かすことなく、他方に於て血液を温め湿潤ならしめる故月経が極めて順調となる。即ち子宮が乾燥し過ぎれば強く収縮して身体に痛を起し、月経の不順は身体に痛を起すものである(今1931:159)。」
(pp136-137)
 もっともこうした伝統的な性モデルを信奉していた人々が、生殖において男女をまったく対等なものととらえていたというのではない。たとえば精液は血液が純化されて作られると考えられていたが、女は男より冷湿であるため男のように完全な精液を作ることはできず、不完全な精液しか作れないという考え方があった。完全な精液とは男児を作ることのできる精液であり、不完全な精液からは女の子が生まれる。そして子宮内でどちらの精液が優勢をしめるかによって、胎児の性別が決定されるのであった。あるいはまた、男の液も女の液も同じように胚のための粉質を提供するとしても、男の場合はそれが人体の中心である心臓となり、女の場合はヘソの緒となるとか、胎内で男の子はより熱い位置である右側に、女の子は冷たい左側に位置するといった具合に、つねになんらかの形で両性間の優劣が想定されていた(Maclean 1980:32;Horewitz 1987:88)。だが一方ではヒポクラテスの「女子から出る精にも男子からの射精にも強性のものと弱性のものとがあって、男子には女性的な精があり、又女子に男性的な精が存在」するという説を支持する人々もおり、必ずしも唯一の定説が支配していたわけではなかった(今1931:159)。またここでの性差はあくまでも同一極内での序列、上下関係であって、後に見るような男女をまったく異質なものと見る感覚ではなかった。すなわち男と女はいわば相互乗り入れの可能な連続体として同一線上の両端に位置づけられていたのであり、このことは両者の中開体として、より女に近づいた「女々しい男」や男により近い「女丈夫」、あるいは両者を一身に兼ね備えた両性具有者がいると考えられていたことからもわかる(Maclean 1980:32,38-39)。
(pp138-139)
 あるいはまた、さまざまな体液の間にも互換性があると信じられていた。前述のように精液は血液の精髄と考えられていたし、経血は体内の他の血液、あるいは鼻血や怪我の血のような他の場所からの出血と同じものと見なされていた。経血はまた、時と場所に応じてその姿を変え、女が妊娠した場合には胎内の子供の栄養となり、子供が生まれてからは母乳に変化して再び子供を養うと考えられていた。つまり「母乳は血液が白くなったものにほかならない」のである(Crawford 1981:51)。ガレノス流の考えによれば、体内の過剰な血液を排出するのが月経であり、男の場合は溶血によって月経と同じ効果を得ることができた。一方ヒポクラテスは、月経の目的は体内の不純物の除去であるとした。体熱の高い男は発汗によって血液中の不純物を取り除けるが、より冷たい体質を持つ女はそれができないため、月経の持つ浄化作用に頼るのである。いずれの立場をとるにせよ、月経は健康維持のために不可欠な正常なプロセスであり、男にもなんらかの形でそれに相当するものがあると考えられていた。
(pp256-257)
 古代ギリシアでは新生児の殺害や遺棄は罪ではなく、とくに虚弱児や奇形児を遺棄することは市民社会にとって必要と見なされていたようである。「どんな子供が育てるに適しているか」というヒポクラテスの問いは、この新生児の選別を前提としている。スパルタではそれを決定するのは長老たちの役目であった。父親が新生児を長老たちの前へつれていくと、彼らはその体を調べ、弱い子や障害のある子は近くの山の麓にある洞窟に捨てることになっていた。他のポリスにも類似の慣習はあったようで、アリストテレスは奇形児の養育を禁ずる法の制定を主張し、正常児については従来の慣習で捨て子が禁じられている場合には捨ててはならないとしている。テーバイでは例外的に新生児遺棄を禁じ、ポリスが子を引き取ったが、その子は成長後は養育費提供者の奴隷となった。紀元前四世紀頃のアテネでは、市街取締役の仕事の一つが、壺に入れて捨てられた嬰児の死体を国有奴隷に片づけさせることであったと伝えられる(村川1969)。
 障害児が常套的に排除されたのは、優生思想以外に、不吉な前兆として恐れられたためもあったようだ。


◆小林亜津子, 20041120, 『看護のための生命倫理』ナカニシヤ出版.
(p9)
 「積極的安楽死」の合法化に対しては、医師会をはじめ、政治や宗教の領域からも、強硬な反対意見が出されている。
 まずは、患者に致死薬を投与して殺すことは、医師の職業倫理に反するという意見である。当然ながら、医師には患者の生命を救う職務があり、殺すのは医療行為を逸脱してしまう。医師の職業倫理を表わした「ヒポクラテスの誓い」には、致死薬の投与はしないという「誓い」がはっきりと明文化されている。
(p60)
 「ヒポクラテスの誓い」にもあるように、医師や看護者は、目の前にいる患者の最善の利益のために尽くす義務がある。だが、ダブル・ブラインド・テストでは、当の医療従事者たちが、リスクのわからない、ましてや五〇%の確率でニセ薬を飲まされる可能性のあるような「実験」(トライアル)に患者を晒すことになるのである。
 さらに、プラシーボを投与されている患者のなかには、当然(ニセ薬なのだから)、病状の改善がみられず、なかには容態の悪化する人もいる。これは、先の「被験者優先の原則」に反するのではないか。
 かといって、情報を制限しなければ、正確な薬のデータというのは採れなくなる(自分がプラシーボ組だと知った患者たちには、「プラシーボ効果」は起こりにくいだろうから)。実は、この問題は二〇〇年以上も前から議論されており、未だに解決のついていない問題なのである。
(p168)
 「医療資源」の「配分」自体は、すでに紀元前四世紀頃に、哲学者のプラトンが『国家篇』「第三巻」(四〇六D―四〇八B)のなかで論じている(プラトンは慢性病患者の治療に対して消極的である)。だが、医療者は往々にして、こうした問題を直視することを避けがちである。医師なら誰でも知っている「ヒポクラテスの誓い」では、医師はまさに目の前の患者のためだけに働くことを誓っているし、「わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん」(『ナイチンゲール誓詞』)と誓う看護者もまた、目の前の患者のケアに専心する誓いを立てている。こうした立場に立つ限り、医療従事者は、患者の選択という「配分」問題を視野に入れようとしてはいないのである。


◆宮坂道夫, 20050315, 『医療倫理学の方法――原則・手順・ナラティヴ』医学書院.
(pp.x-x)(*第1講 「倫理規範と倫理綱領」冒頭)
 医療倫理という観点から古代医療の史料をながめると,倫理についての記載が残っている例はあまり多くない。医療が信仰や風習と深く結びついていたために,医療従事者に特別な倫理が求められたというよりは,それぞれの社会で共有されていた信仰や慣習のなかに倫理規範が組み込まれていたからだと考えられる。また,その倫理規範にしても,文章として書かれたものよりは,先輩から後輩へと口伝されたり,先輩の振る舞いを見よう見まねで学ぶことによって受け継がれていくことが普通だった。医療従事者が自分たちが守るべき倫理規範を明文化したものを倫理綱領と呼ぶが,古代医学の倫理綱領として現在に伝えられる数少ない例が,有名な古代ギリシャの「ヒポクラテスの誓い」である。ヒポクラテスHippokrates(紀元前460頃〜375頃)は,古代ギリシャ・コス島の医師で,西洋医学の祖と称される人物である。「ヒポクラテスの誓い」は,ヒポクラテス一人の著作ではなく,彼が属していた医師集団の共作と考えられている。
 注目すべきなのは,「ヒポクラテスの誓い」の内容に,現在でも通用するような倫理原則([第2部]で詳しく学習する)が含まれていることである。そのために,「ヒポクラテスの誓い」は,今日でもしばしば医療倫理の原点といわれている。次に示す「ヒポクラテスの誓い」を読んで,それがどんなものか考えてみよう。

●ヒポクラテスの誓い(抜粋)
 私は私の能力と判断をつくして患者のためになるよう養生法を施し,害となるものを決して与えません。たとえ依頼を受けたとしても,致死薬を与えず,そのような相談にも応じません。また,婦人に有害なペッサリー〔堕胎のための器具〕を与えません。私は生活と技術を純潔かつ敬虔に保ちます。結石をもつ患者に対して手術を行いません。これは,その専門家にまかせます。誰の家を訪問するのももっぱら患者のために門をくぐり,故意の悪意による過ちを決して犯さず,とりわけ相手が自由人でも奴隷でも,女性でも男性でも,決して性愛の対象としません。治療時やそれ以外の時に見聞きしたことで,人々の生活について他人に漏らすべきでないことは,口外せず沈黙を守ります。
 (川田殖(1988)ヒポクラテス「誓い」を読む(1),山梨医科大学紀要,5:41─47.等を参考に私訳)

 ここに書かれている「患者のためになるよう養生法を施し,害となるものを決して与えません」という文章には,無危害原則(患者に危害となることを行わないこと),および恩恵原則(患者の利益になることを行うこと)という,今でも通用する倫理原則がはっきりと述べられている。また,「誰の家を訪問するのももっぱら患者のために門をくぐり,故意の悪意による過ちを決して犯さず,とりわけ相手が自由人でも奴隷でも,女性でも男性でも,決して性愛の対象としません」と,私利私欲によって行動しないことを強調しているが,これは今日の正義原則(医療の実施にあたって公平・公正であること)に通じるといえるかもしれない。さらに,患者の秘密を他に漏らさないという守秘義務についても書かれている。これらはどれも,時代や社会を超えて通用する考え方である。
 では,「ヒポクラテスの誓い」と現代の考え方を比べると,医療倫理はどこが異なるのだろうか。まず,無危害原則や恩恵原則という抽象的な考え方は同じでも,その具体的な内容が異なっている。患者への危害として致死薬,ペッサリーをあげている。致死薬は現在でも安楽死や自殺幇助([第8講]参照)としてごく一部の国でしか認められていないが,ペッサリーのような避妊や堕胎は広く認められている。逆に,恩恵とみなしていたのは,現代とはかなり違った考え方に基づく食事療法などの養生法であった。つまり,無危害原則や恩恵原則は同じでも,時代や社会の医療技術や価値観によって,具体的な内容が変化する,ということである。
 しかし,もっと本質的な相違点がある。それは,「ヒポクラテスの誓い」に自律尊重原則(患者の自律・自己決定を尊重すること)が欠けていることである。古代の医療倫理では,患者にとって何が有益・無益かを判断するのは,患者ではなく医師だった。このような倫理観をパターナリズムpaternalismと呼ぶ。これは,高度な専門的知識を身につけた医師を父親に,医学知識をもたない患者を子どもになぞらえ(paternalismのpaterは「父親」を意味する),医師は患者にとって何がよく何が悪いかを判断し,患者は医師の判断を素直に受け入れるべきだとみなす考え方である。今日では患者の権利を尊重し,パターナリズムはしばしば否定的にとらえられている。「ヒポクラテスの誓い」は,医療倫理の原点であると同時に,パターナリズムを象徴するものとしてみられることがある。
 患者優位の関係
 しかし,古代の(あるいはもっと後の時代までの)医療を医療従事者と患者の関係という視点で比較すると,現代よりも患者の地位が高かったといえるようである。ごく一般的にいって,古代においては,すぐれた医師を呼べるのは,恵まれた社会階層の人々であった。それに対して,医師たちは必ずしも社会的地位が高い集団ではなく,現代と比べると患者優位の医師─患者関係が成り立っていた様子がうかがえる。たとえば,インドや中国の古代医学では,医師は患者の裸身を見たり,患者に直接触れることを許されず,布に開けられた穴を通して触診を行ったり,患者に見立てた人形を使って診察を行うことがあった。また,ヒポクラテスの時代のギリシャ医学でも,医師たちは異なった流派に分かれて競合しており,自分たちが他の流派よりもすぐれていることを訴える必要があった。「ヒポクラテスの誓い」には,単なる倫理綱領としての意味だけでなく,自分たちの医術の正当性をアピールする意味があったとされている。
 日本の医療倫理についても,この点は共通しているようである。日本でも,天皇が朝鮮半島から医師を呼び寄せたことが知られており,外来の進んだ医学が,特別な階層の人々によって利用されていたことがうかがえる。現存する日本最古の医学書として,(912〜995)が中国(隋)の医学を記述した『医心方』が有名であるが,これが書かれたのは10世紀末で(丹波康頼は984年に『医心方』を天皇に献上したとされる),ヨーロッパやインド,中国などの古代医学よりかなり後の時代である。しかし,そこでは医師の心得として,現在でもしばしば「医は仁術」といわれるように,仁という倫理原則が強調されている。「仁」とは,孔子(紀元前551〜479)が提唱した非常に古い儒教道徳であり,自己抑制と他者への思いやりを意味した。「孝」が親を敬い,尊ぶべきだという倫理原則であるのに対して,仁はもっと広い対象を想定していた。つまり,赤の他人に対しても,親に対するのと同じような思いやりをもち,自分を抑制すべきだという倫理原則が仁であった。
 このように,古代医療における医師と患者の関係は,現代とはかなり異なったものであった。自律尊重原則という倫理原則が欠けていると述べたが,患者優位の関係においては,そのような考え方はあまり必要ではなかったのかもしれない。後にみるように,患者の自律・自己決定を尊重すべきだという考え方が医療のなかで確立するには長い年月を要したが,それはこの力関係が逆転して「医師優位」となった時代を経てからのことである。
 中世から近代にかけての医療倫理の変化
 西洋医学の歴史を振り返ると,古代ギリシャのヒポクラテス医学の影響が非常に長く続いたことにあらためて驚かされる。その中心にあった考え方は,体液病理説と自然治癒力説である。体液病理説は,人間の身体を構成する体液があり,何らかの原因でその調和が乱れることで病気が起こる,という考え方である。これが固体病理説─病気の実態は,体液ではなく組織にある─を唱えたウィルヒョウVirchow, R.(1821〜1902)や,解剖学や病理学の誕生によって否定されるのに,2000年以上の歳月を要した。否定されたとはいえ,ベルナールBernard, C.(1813〜1878)の内部環境説や,キャノンCannon, W.B.(1871〜1945)の恒常性(ホメオスタシス)説など,体液病理説の流れをくむ考え方は,現代までも引き継がれている。また,自然治癒力説は,体液の調和を取り戻す力は本来人間の身体に自然に備わっており,この力を助けるのが医学の主な役割なのだという考え方である。これについても,現代医学では免疫,生体防御,再生といった仕組みが解明されているし,基礎体力を向上することが健康の維持に重要だといわれている。今日でもそれなりに生きている考え方といえるだろう。
 医療倫理についても同様で,その内容に大きな変化が現れるまでには,非常に長い年月がかかった。変化を引き起こすことになったきっかけは,中世に宗教者たちの手によって集約的な医療施設の原型が作られたことと,近代に入って現代医療の基本構造が完成したことにある。
 集約的医療施設の誕生
 ヒポクラテスはいわば正統派のアカデミックな医学の祖であるが,今日でいう社会福祉や慈善活動としての医療の起源も見落とすべきでない。社会的地位も高くなく,裕福でもないような病人に対して,必ずしも専門的,科学的ではないにしても,可能なかぎりケアの手を差しのべる─洋の東西を問わず,こうした慈善活動としての医療も古くから行われていた。それが特に組織だって行われたのは,宗教者たちの手による慈善活動である。ヨーロッパの有名な例をあげると,ベネディクト修道会の創立者であるイタリアの聖ベネディクトゥスBenedictus(480頃〜543)は,モンテ・カッシーノ修道院を創立し,そこに福祉施設を設けて,病気の人たちなどに食事を与え,ケアを行った。また日本では,仏教思想に基づき,悲田院や施薬院を設けた光明皇后(701〜760)や,(1201〜1290),(1217〜1303)らの活動が有名である。鎌倉時代に患者の収容所として作られた「非人宿」等と呼ばれる施設が,西洋の療養施設と類似している。ここでは,キリスト教の場合と同じように,社会的地位の高い人や宗教者などの手によって,放浪者や地域社会から疎外された人々を収容した。このように,中世という宗教の社会的影響力の大きかった時代に,西洋と日本で,今日の病院の原型といえるような集約的医療施設が作られていたことは興味深い。
 医療倫理という観点から重要なのは,医療の手の届かなかった人々の救済を行うために作られた集約的医療施設が,医療者と患者の関係に大きな変化をもたらしていくきっかけになった,という点である。特別な社会階層の人人を中心に往診などの医療が行われていた時代には,患者は少数であり,競合する医師集団のなかから自分の好きな医療者を選ぶことができた。しかし,病院のような施設で集約的な医療が行われるようになると,この関係は大きく変わり,医師は時代が下るにつれて社会的地位を向上させていく。医師は大学で専門教育を受け,国家によって統一的な資格を与えられた少数のエリートになり,患者は貧しく,社会階層も高くはない多数の人々によって構成されるようになった。こうして,現代に通じるような医師優位の関係が生じることになった。この関係は,次に述べるような近代科学の発達の時代にさらに強まってゆく。


関根透, 200503, 「臨床試験における被験者保護に至る倫理的な流れ」『鶴見大学紀要(第4部 人文・社会・自然科学編)』42:23-27.
(p25)
 さて、「医の倫理」から「生命倫理」へ至る世界の流れを見てみよう。医の倫理の発端は大変古く、BC400年頃の『ヒポクラテスの誓い』まで遡ることができる。これは医師自律による職業倫理で、西欧では長く信奉されてきた。第二次大戦後の1948年に世界医師会総会は、『ヒポクラテスの誓い』は、あまりにも古いので現在の医の倫理にそぐわないとして、現代流に改めることにした。それが現代版『ヒポクラテスの誓い』といわれる『ジュネーブ宣言』である。次いで、翌1949年に世界医師会総会は『医の倫理に関する国際綱領』を採択した。ここまでが「医の倫理」に関する規定である。


◆高橋龍太郎, 20050825, 「高齢者医療とケア」川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣:81-103.
(p82)
 いまさら「医は仁術である」などという古めかしい言葉が流行る時代ではない。近年では、医学・医療の始祖とされるヒポクラテスにパターナリズムこの言葉の日本語訳として、私は、一族・一家の家長を中心とする体制という意味で家父長主義を好むの傾向を見出してそれに対する批判もしばしば行われる。「医は仁」にも同様の考えが含まれているとの指摘もある。「医は仁」は今風に姿を変えて全人的医療とよばれるようになった。医療側にいる私たちからすると気恥ずかしい気もするけれども、少なくともこれから医師をめざす医学部学生へ行われる医学教育の一環として強調されている。


◆池川清子, 20050825, 「実践知としてのケアの倫理」川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣:137-158.
(pp140-142)
 看護という人間的営みを成り立たせている根源的な人間の能力、すなわち実践知としての配慮的行為であるケアは、原始医術にまで遡れるが、学問的な範疇としては、ギリシアにおけるディアイタ(養生法・訓)にその起源を求められる。古代ギリシアにおけるディアイタには二つの流れがあった。その一つが、宗教的な医療におけるディアイタであり、もう一つが、「ヒポクラテス集典」に象徴される合理的・経験的医学におけるディアイタであった。
 古代ギリシアにおけるケアは、病気になる前の健康状態に対する配慮であり、言い換えると、健康でよく生きるための日常生活上の驚くべき養生法(ディアイタ)であったことが明らかになっている。そしてディアイタは、我々人間を超えた次元の大きな自然の秩序に由来するものであった。P・L・エントラルゴによると、古代からのディアイタは、神と人間との関係を規定した三つの本質的契機との密接な結合を意味している。この本質的契機とは、ミクロコスモスとしての人間理解、カタルシスの意味での浄化、宗教儀式としてのテラペイア(奉仕)、ないしはトレスケイア(礼拝)である。ミクロコスモス的人間観とは、人間を小さな宇宙とみなす人間観である、ディアイタと人間の小宇宙的理解との関係は、「人間の本性(ナトウーア)〔自然〕がその構造、過程、リズムなどの点で、普遍的自然 ― つまり宇宙 ― のひとつの似姿であるとするなら、ディアイタとはとりもなおさず人間の生き方(栄養の摂取、環界との関係、労働、性生活、政治的・社会的生活など)を自然にならって正しく整える」(エントラルゴ、1985:4頁)ことである。
 カタルシス(浄化)は聖職者による一定の行為を媒介として罪からの解放という意味と、もう一つは、ある種の瀉下剤の作用による病気の治療や軽減、という二つの意味があったようである。宗教的理解においても治療的理解においても、ディアイタは浄化するものであった。
 テラペイア(奉仕)、ないしはトレスケイア(礼拝)については、ディアイタが宗教儀式の一部として理解されていたことを示すものである。これらの宗教儀式の最終目的は、「人間の怠惰で罪深い日常生活の結果として失われたピュシス〔自然〕の正しい秩序を儀式的に再建することにあった」(同上:9頁)。
 人間の生き方を自然にならって整えることを目的としたディアイタは、もう一つの流れであるヒポクラテス医学を生むことになる、ヒポクラテスが病気の自然的原因としてあげたものは、季節・気候の不順、食事その他の不摂生、不健康な職業などの外的要因である。
 以上述べてきた古代ギリシアにおけるディアイタの二つの流れは、人間的自然の正しい秩序づけこそが、「自然治癒力」による病気からの回復であり、また健康保持を可能にする方法であることをわれわれに教えているのである。
 中世ほどケアが人間の実存的問題と強く結びついた時代はなかったといえよう、病の中においても、人々はその意味を人間の救済の必要性として経験し、ケアによる癒しの中に救いをみていたのである。


香川知晶, 20050825, 「生命倫理教育の反省 大学」川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣:281-305.
(pp285-287)
 現在でも、医の倫理というと、ヒポクラテスの「誓い」が引き合いにだされることが多い。そこに、医の倫理の根本精神が簡潔に示されているとされるからである。碓かに、「誓い」は、医療の目的が患者の救済にあることをはっきりと宣言していた。「傷つけることなかれ」という格率に要約される精神は、今も変わらぬ価値をもつ。しかし同時に、「誓い」には、医療は医師が患者に対して施すものだという医療観も容易にみてとれる。医療パターナリズムである。その点を、話をごく単純化して、医療を患者と医師の1対1の関係にきりつめて説明してみよう。病気となった患者は日常の責任から免除され、医師の診察を受け、その指示に従うことが求められる。医師は、患者のためを考えて、すべてを決めてやらなければならない。決めるべきことには、医療の技術的問題だけではなく、患者のためによりよい価値を選択することも含まれている。病者には価値選択の重荷を課してはならないからである。患者はすべてを医師におまかせすればよい。しかし、このようなかたちで医療を理解すれば、医療をめぐる倫理的問題はもっぱら医療専門職の問題とならざるをえない。問題が患者にかかわるものであっても、それを考え、決定するのは専門家以外にはないからである。こうして、医の倫理は、医療専門職の職業倫理に重なることになった。これに対して、生命倫理は、専門職倫理を医療倫理に置き換える伝統への批判という意味をもつものであった。
 ライクがいうように、生命倫理にも、医療専門職の職業倫理にかかわる問題は含まれてはいる。専門職集団の職能と位置づけは、生命倫理にとっても大きな問題である。しかし、それが問題のすべてであるわけではない。そもそも、病気だからといって、患者が病者の役割を強いられて、すべてを医師の手に委ねなければならないというのは、事柄が自分にかかわることなのだから、おかしいのではないか。医療の専門家だけが問題を論じればよいのではない。むしろ必要なことは、問題を患者が属す社会の中に置き戻してやって考えることである。それがライクの定義のいう「道徳的な価値と原則の光に照らして吟味する」ということの意味である。医療の専門家以外の素人も医療の問題を語り、社会の倫理規範によって問題を検討することが生命倫理を支えている。ヘレガースもケネディ研究所を設立する際に、神学者のライクやL・ウォルタズを研究員として招聘していた。これは、医療パターナリズムにたつ医の倫理の伝統からすれば、ごく新しい発想であった。非専門家が語ることによって、生命倫理が生み出される。
(p290)
 こうした問題意識は、遺伝子組み替え技術の原理が確立されようとしていた1970年代初頭に特に強く現われていた。新しい段階を迎えつつある生物学や医学の研究が予測させる未来社会への懸念、それは生物医学研究の意味とともに、人間の条件や社会のあり方を根本的に問い直そうとする志向を呼び起こすものであった。しかし、実際の米国における生命倫理の成立を考えると、求められたのは文明論的視野にたつ問いかけではなかった。そうした大きな問いへの志向は、あくまでも背景にとどまる。もっと個別的で具体的な問題が、非専門家の登場を余儀なくさせるような事情を生んでいたからである。その一つが、人間を被験者とする実験(ここでは簡単に人体実験とよぶ)を含む医学研究の問題であった(香川、2000)。
 医療は本質的に実験的な性格をもつ。患者の個人差を考えると、どのような医療行為も絶対とはいえず、人体実験的な意味合いを払拭することはできない。また、新しい療法は常に人体実験から始まらざるをえない。こうした医療のもつ不確実性、人体実験的な性質は、それこそヒポクラテスの昔から気づかれていた。とはいえ、それが正面から問われることはほとんどなかった。医学の実験的性格や実験の重要性がはっきりと意識されるのは、はるかに遅く、医学に自然科学的な手法が導入される19世紀半ばあたりからである。そして、その倫理性が本格的に問題にされるのは、さらに後の第二次大戦以降といってよい。大戦中のナチス・ドイツの医師たちによる人体実験が、人道に対する罪として裁かれたからである。


関根透, 200603, 「明治時代における医の倫理観の流れ」『鶴見大学紀要(第4部 人文・社会・自然科学編)』43:118-113.
(pp114-113)
 この頃、医の倫理の重要性に注目していたのが富士川游である。彼は政治に関心を示さず、専ら日本の医学史や医の倫理に関心を示し、日本初の体系的な医学史『日本医学史』という名著を著している。そこには、日本医学の社会性の欠如した姿を指摘したり、西欧の医学知識と医学技術のみを求める日本医療に憂慮した説を唱えたりした。親鸞に傾倒していた彼は、医療には宗教的な心情が必要であることも説いた。
 富士川游は西欧のヒポクラテスやフーフェラントの医の倫理観にも関心を示している。彼は明治四十二年(一九〇九)に撰述した『医箴序言』で、「希ろうの医聖・ヒポクラーテスは、尊敬せらるべき医家たるべき性質として最高の要求をした。ヒポクラーテスはただ善人のみ良医たることを得べし。医の術たるや、神に対して敬虔の意を表し、人に対しては親愛の情を尽すべきものなり、といった。又、医家は自己の利益を顧慮することなく、献身的に、又無私的に病者のために奉仕の生活をすべきなり、と教えた。人間を愛することが真にその術を愛する根源なり、と説いた。ヒポクラーテスが西洋の医学界にありて万世の師宗と仰がれるのは、独りその学術の上に於ける卓抜の見識によるのみではなく、又医家の倫理に重きを置いて医家の人格を向上せしむることに努力したことにその因由を存すると言わねばならぬ」と、ヒポクラテスの医の倫理観を紹介している。この『医箴序言』を基にして、昭和十年(一九三五)に克誠堂書店から発行され、表題が『医箴』となった。ここでは、富士川游が先人の医の倫理を項目ごとにまとめて紹介している。


市野川容孝, 20061222, 「隔離される身体」荻野美穂編『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』岩波書店.
 一四世紀半ばの黒死病大流行の後、ヨーロッパ各国では伝染病対策が危急のものとなるが、ミラノ大公のG・G・ヴィスコンティ(Gian Galeazzo Visconti一三五一―一四〇二)がとった方策は一つのモデルとなった。ミラノに近いソンキノで一三九八年に疫病が発生した際、ヴィスコンティは、ソンキノからやって来る者は誰であれ、ミラノに入ることを禁じた。さらに彼は、翌九九年に、感染者はその自宅に監禁すればよいというミラノ市議会の案をしりぞけて、疫病の感染者を全員、特別の病院に隔離収容し、感染の疑いのある者もミラノの外に追放した。
 また、イギリスで一六〇四年に制定された「疫病法」は、感染者が出た場合、本人とその家族全員を自宅に監禁し、そこからの人の出入りを民兵によって禁止させ、さらに感染者の衣服や寝具を残らず焼却する権限を、地方政府関係者に与えた。
 これらの疫病対策が、感染者一人一人を気づかうものでないことは明らかだ。それがまず第一に守ろうとしたのは、まだ感染していない健康な人びとの利益であり、そのためには、すでに感染した者の健康や生命を犠牲にすることさえ勘定に入れられているのである。
 「益を与えよ、さもなくば無害であれ」―「流行病」(第一巻)と題された論考の中で、ヒポクラテス(と総称される著作家たち)は、医師の心得をそのように説いているが(ヒポクラテス一九六三、一二四頁)、この論考で興味深いのは、ヒポクラテスが流行病について書きつつも、感染という現象には全く注意を向けず、それゆえ感染者の隔離を必要な方策として説いてもいない点である。少なくともこの論考において、ヒポクラテスは、症例を丁寧に記述しながら、それがどのような経過をたどり、予後がどのようなものかを詳らかにするだけである。ヒポクラテスは、すでに流行病にかかった人びとに対して「益を与えよ、さもなくば無害であれ」と言っているのである。
 右のヴィスコンティや、イギリスの「疫病法」に見られるのは、これとは全く逆のベクトルである。それは、健康な人びとに対して「益を与え」「無害であろう」とするのであり、そのためには、すでに感染した患者に対して「益を与えず」「有害である」ことさえ正当化されているのである。
 このような転換だけではない。公衆衛生の能動的主体は、その健康が問題となる個人ではないと先に述べたが、公衆衛生の対象もまた、そのような個人ではない。それが照準しているのは「人口」という集合体であり、一人一人の人間が問題となる場合でも、それはこの集合体という観点に照らしてである。
 この眼差しは牧人のそれに似ている。


◆松田純, 200701, 「エンハンスメント(増強的介入)と〈人間の弱さ〉の価値」島薗進・永見勇監修『スピリチュアリティといのちの未来--危機の時代における科学と宗教』人文書院:114-130.
 小さな「生きとし生けるもの」のなかに大いなる生命いのちが宿る。これは古今東西の宗教の直観であり,原始のアトミズムに通じるものでもある。例えばヒポクラテスやパラケルスス(1493/94-1541),安藤昌益(1703-1762)25などの人間・宇宙観のなかにもイメージされている。ヒトゲノム解読以後のゲノム科学はこの壮大な地球生命誌のドラマを,<全生命の共通祖先>とその後の進化として詳細に解き明かしつつある26。その意味で科学と宗教が対立する時代は終わった。


◆山本龍彦, 20070220, 「血縁者への遺伝情報開示--米国での裁判例から」福島義光 監修・玉井真理子 編集『遺伝医療と倫理・法・社会』メディカルドゥ:150-164.
(pp150-151)
 医療従事者が患者の医療情報を秘匿することを誓う「ヒポクラテスの宣誓」は、時代を経るにつれて修正を迫られてきた(注釈1)。すでに20世紀の初めには、結核や猩紅熱のような伝染病患者を治療する医師は、医学校の卒業時に謳い上げた「宣誓」に倣い、これまでどおり患者本人の利益のためにその医療情報を秘匿すべきか、それとも、感染のリスクを負った第三者のために当該情報を開示すべきかについて悩み始めたのである(注釈2)。「法」も、こうした苦脳に応じて、第三肴の利益を患者本人の利益に優位させ、本人の同意なくその医療情報を第三者に開示し、リスクなどについて説明する義務ないし特権を医師に対して認めることがあった(注釈3)(注釈4)。近年のアメリカでは、医師がある者のHIVテストの陽性結果について、その接触者のために本人の同意なく開示することを認める州法さえ存在している(文献5)。
 ところで、21世紀を迎えた現在、このようなヒポクラテスの宣誓の「例外」に、また新たな一頁が加わろうとしている。遺伝子テストの結果、すなわち「遺伝情報」の開示に関わる「例外」である。以下、アンドルーズ(Lori B. Andrews)の言葉を借りよう。
 「医療遺伝学の分野で働く医療従事者は、感染病で昔しむ患者を抱える医師または潜在的攻撃性を有する患者を抱える医師と同様の開示義務を有すると考えることができる。研究・カウンセリング、検査・テスト・治療を通して、ある者の遺伝的ステイタスに関する知識を増す医療従事者は、遺伝病が遺伝するがゆえに、常に、患者のみならず、彼ないし彼女の配偶者または血縁者にとっても価値ある情報をもつことになる」(注釈5)。アンドルーズによれば、遺伝子テストの普及が、医療従事者にこうした「ジレンマ」を課すものであるかぎり、そこにヒポクラテスの宣誓の「例外」が生ずる新たな可能性があるというのである。
 ただ、仮にこのような新たな「例外」の創設を認めるとしても、それが妥当する具体的状況が問題となる。例えば、ある遺伝性疾患のリスクは認められるが、それについて効果的な予肪法、治療法がない場合であっても、医師は血縁者に対して患者の遺伝情報を開示すべきなのであろうか。また、医師は保険証に記載がないような「遠戚」に対しても開示すべきなのであろうか。このようにみると、医師に開示義務が認められる文脈は、そう簡単には確定しないように思われるのである。
 そこで本稿では、血縁者への遺伝情報の開示が問題となったアメリカの裁判例を素材に、遺伝医療の文脈でヒポクラテスの宣誓の「例外」が妥当する範囲について若干の考察を加えることを目的とする。
(p157)
 以上、本稿は、アメリカ裁判例および学説をを通して、遺伝医療におけるヒポクラテスの宣誓の「例外」の妥当領域について検討してきた。それによれば、裁判所は、@一般に、血縁者に対する医師の配慮義務を認めながら、直接血縁者に開示する義務まで認めるか否かについては判断を異にしていること、Aしかし、近年のモロイ判決を踏まえれば、最近親者への直接的開示が認められる傾向にあること(図@)(校正者注:図は省略)、B学説は概ね家族の自律性、親の権利、血縁者の知らされない自由などを重視し、慎重な比較衡量論によって開示義務ないし開示特権の認められる場面を導出しようと試みていることが明らかにされた。このような帰結は、遺伝療法における患者情報の開示について十分な論議がなされているとは言いがたい日本の状況に対して、一定の示唆を与えることになろう。


◆アン・ウィリー(竹田恵子訳), 20070228, 「遺伝子決定論と遺伝子例外主義」山中浩司・額賀淑郎編『遺伝子研究と社会』昭和堂:81-100.
 米国文化における医療の守秘義務に対する考え方は、以下のようなヒポクラテスの誓いに由来する。「医に関するかどうかにかかわらず、他人の生活についての秘密を守る。私はこのようなことを話すのを恥ずべき行為と捉え、誓いを守りつづける」(Garrison and Schneider 2002)。最新の米国医師会の医療倫理の原則は、この考えを「医師は法の制約の範囲内で、患者、同僚、他の医療専門職の権利を尊重し、患者の信頼とプライバシーを守るものとする」という現代的な記述に変えている(Garrison and Schneider 2002)。このような考え方は「プライバシーの必要性」という基本的な前提から生じている(Leino─Kilpi et al. 2000)。プライバシー概念には多くの側面がある。例えば、物理的な隔絶や領域、心理的な必要性、個人や集団との社会的な相互作用、情報へのアクセスや保護などの情報プライバシーがある。遺伝情報と遺伝子検査(遺伝学的検査genetic test)の結果に直接関わる問題は、たいてい後者のプライバシーである。プライバシーに対する考え方には、自分の情報のどの部分を誰に開示するのかを個人が管理するという前提がある。個人が管理する「プライベートな情報」と「機密(confidential)情報」の違いは、機密情報が、ある状況において他者に開示されてしまうと、最初の範囲を越えて再開示されてしまう点にある。遺伝情報を含む機密な医療情報は医学的治療や医療サービスへの支払いのために医療の場で再開示されるが、「知る必要」がない場合には開示されるべきではない(Committee on Assessing Genetic Risks 1994)。


◆山口昌樹・竹田一則・村上満, 200705, 『人間科学と福祉工学』コロナ社.
(p21)
 医療は,医師たちの科学的な知識,技術,観察と実験に基づいた「治療の実践」によって進歩してきた。実験を抜きにして医療の進歩はあり得ないが,それを行うためには,被検者の利益や幸福に結び付くための規範が必要とされる。
 表1.5は,医の倫理に関する世界的な出来事を示している。紀元前4世紀のヒポクラテスの誓いは,治療者としての医師の倫理の起源として有名である。倫理観とは,それぞれの国の倫理思想を基盤にしており,わが国では聖徳太子が17条憲法で「和をもって貴しとなす」という日本人社会のあり方を提示している。しかし,これら文化に根差した素朴な道徳観だけでは,世界的な規模で発生する諸問題に対応できなくなってきたのも事実である。


◆Lanzerath, Dirk(松田純・小椋宗一郎訳), 20070915,「病気という概念がもつ規範的な機能と,人間の生活世界の医療化――人体改造技術とエンハンスメントは人間の未来を決定するか?(Krankheit und der kranke Mensch)」国際シンポジウム『医療・薬学の歴史と文化』講演原稿,於静岡B−nest静岡市産学交流センター7階大会議室.

 http://life-care.hss.shizuoka.ac.jp/kusuri/news/20070915/02.pdf

 医術( 医学)10は伝統的には, その施術者の行為が非常に狭い目的に向けられている点に特徴があった。これに対して自然科学や技術は( それゆえバイオテクノロジーも), 原則的に目標が限定されていないという特徴をもつ。医療が生命科学や生命工学の手法を提供するものとして自他ともに理解されるようになればなるほど, 医療はむしろ技術的実現可能性と顧客の望みに合わせた純然たるサービスとみなされるようになる。現代の「サービス医療」の目標11として, 生活の質の向上や「完璧な」健康状態(wellness)の達成などが論じられている。これらによって能力向上の意味での人間本性の改良が医学的に望ましいこと12となり,かくして病気の治療のほかにエンハンスメントがつけ加わってくると予想される。こうして「患者」から「顧客(Kunden) 」への変化が起こる。そのような医療行為は市場において需要と供給のバランスによって調整される。医師と患者との信頼関係はこれまでは医療の目標によって拘束されていた。この関係が純粋に個人的な契約関係によって置き換えられ, この契約関係が人間本性の改良すなわちエンハンスメントをも許容するようになる13。


◆奥野克巳・山崎剛, 20071010, 「病気と文化ーー人間の医療とは何か?」池田光穂・奥野克己編『医療人類学のレッスン――病をめぐる文化を探る』学陽書房:31-54.
(p40)
 また、古代ギリシアの医学についても、ヒポクラテスのような人物が知られているように、やはり当時の医学思想が記録として残っている。ギリシアでは、エジプトのような医療と宗教との密接な結びつきはなく、固有の医学が発達したようである。古代ギリシアの医学では、身体を構成する4つの体液である血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁が重視された。病気の原因は、この4つの体液のバランスが崩れることで起こると考えられ、このような体液に基づく病因論はヨーロッパでも、長らく信じられていた。
 アメリカの医療人類学者フォスターは、こうした世界各地で見られる多様な医療の性格を理解するために、病因論の体系を、おおまかに2つに分けた。それは、<パーソナリスティック>な病因論体系と<ナチュラリスティック>な病因論体系と呼ばれるものである[フォスター/アンダーソン1987]。


◆奥野克巳・森口岳, 20071010, 「グローバル化する近代医療ーー医療は帝国的権力か?」池田光穂・奥野克己編『医療人類学のレッスン――病をめぐる文化を探る』学陽書房:125-146.
(pp125-126)
 近代医療は、なぜ、そしてどのようにして、今日見られるように地球上に広く拡散し、誰でもがかたわらに置くべき医療として、強い信服を寄せられるようになったのかという素朴な疑問に出会うことになる。
 紀元前5世紀にヒポクラテスによって、病気は自然発生するものであると捉えられた。その後、ルネサンス期のデカルトの心身二元論によって発展の足がかりを与えられた科学的な医療は、ヨーロッパという地球上の一角において行なわれていたにすぎない。ところが、そのような医療が近代になって一気に、ヨーロッパだけでなく、地球上に広くもたらされ、行なわれるようになった。この近代医療が地球上へと波及するようになった起源は、ヨーロッパの列強諸国が、軍事力を後ろ盾として競い合った植民地時代にある。


*作成:植村 要
UP:20080731
生命倫理[学]  ◇WHO

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