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「日本人論」再考 第6回 母 〜甘えはよいのか悪いのか〜

NHK人間講座
NHK教育テレビ 2002年7月10日 11:00pm〜11:30pm
東京大学大学院教授 船曳建夫

紹介:TH(立命館大学政策科学部3回生)


 どの国でもそうだが、とりわけ日本の母と子の関係は強いものがあるといわれている。「敗北を抱きしめて」の中でも、戦争に行った日本の兵士や戦犯の人たちが残した遺書、手紙の中に、母の存在が他の国々の同じような人々以上に強い形で出ているのが指摘されている。土井の言葉を借りれば、母からの「甘え」の中で、日本人は自分を見出し自分を作ってきた。ところが、その母親像が今変わりつつある。幼稚園児を持つ母親たちは、子供達がいるがために、それまで働いてきた職を辞めたり、また自分が望んでいたキャリアを一時中断したりして、そうした、ある代償を払いながら生きている。つまり、日本の女性、母親たちが自立しようとしていることと、子供たちを「甘え」の中で育てていこうということの間には、ある矛盾のようなものがある。その中で「甘え」はどこへいったのか、どうなっているのか。

 現在、子が母に甘えることが難しくなってきている。子が母に甘える「甘え」は、およそ三十年前精神医学者の土井健郎が日本の母と子の特徴を関係付ける言葉として、取り上げ、詳しく分析した。土井の分析によると、「甘え」とは、人間関係において相手の好意をあてにして振舞うこと。そして元々は乳幼児が、母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に、その母親を求めること。土井は甘えがよいとも悪いとも言っていないことを頭に置く必要がある。
 現在の幼児を抱える母親は、いろいろな活動をしながら子育てをしている。つまり、それは、母親をやりながら、社会との関係を切らしたくないということの現れだと考えられる。家の中で専業主婦というのではなく、社会の中で一人の人間として自立してやっていきたいという気持ちが、現在どの母親も強いと考えられる。かつて、船曳氏は、各界の著名者の二世に、インタビューし、親子の関係がどのように行われていたか、どのようなことを偉大な親から学んだか、を本にした(「親子の作法」(1998))。それを土台に船曳氏は、最近講演会をした。そこには、子供を抱える幼稚園から高校までの様々な母親が集まった。タイトルは、主催者側が決めていて、「子供の自立をどう促すか」。つまり、集まった、母親たちは、子供に自立してほしい人々、と捉えることができる。 その裏には、自分の自立のために早く子供が自立してほしいという思いがある。母親たちは、何かの形で社会的仕事、自分が考えている人生を過ごしたい。しかし、子供に自立を促すこと自体、おせっかいなようなところがある。つまり、子供がどうやったら自立できるかを教えてやりたいと考える、それがある意味で、甘えの今の変わった形なのだ。一方で甘えさせて育てていくのがあるとしたら、他方で自立させて育てたいというのがあって、その二つが分離してしまう、だからなんか中途半端である。インタビューした二世全員に一貫して一致してあったことは、親との間の反発であれ、ものすごい愛情関係であれ、ある種の信頼がありその間の距離がとれていることだ。だから、非常に子供が離れていった場合も親は無理して追っかけない、子がものすごく頼った場合はそれを受け入れる。いま、自分と子供の間がどうなっているかについて、二世の親たちはとても意識的であった。それが、今の母親たちはせっかちになってしまっている。つまり、甘えさせてはいけない自立させよう、しかし自立させようというやり方がまだ甘えを引きずりながらやや自立を早め早めに促してしまう。そうしたことは最近社会の中で女性の自立が言われるようになってからよけいにでてきた。しかし、土井健郎の「甘えの構造」が出されたときは、もう少し甘えというのが、この社会に伝統的にあった甘えとういものが生きていた時代であった。
 土井健郎が甘えに注目したのは1950年代に彼がアメリカに留学したのがきっかけ。彼は、アメリカ社会にカルチャーショックを受け、以来日本人とは何かを考えるうちに、甘えという言葉があるのは日本だけだと気づく。甘えるという、人に依存する感情はどの社会にもあるが、日本のように一語で表す言葉は無いし、甘えの感情も日本ほど強くない。日本では様様な人間関係の中でこの言葉が強く働いているが、特に母と子の関係に顕著に見られる。この、土井の甘えの理論は日本社会の大きな特徴をあらわすものとして世に広まり、また土井の意図に反する誤解も生まれた。母親たちの間に広まった子に甘えさせるのはよくないという風潮もそのひとつである。その誤解を解くために、土井は昨年続編を書いた
 土井健郎の「甘えの構造」、「続甘えの構造」の二つの本の間に三十年のときが経過している。この間の変化は大きかった。「甘えの構造」では日本では甘えは無くならないと書いていたが、この本の影響もあり、甘えというのは良くないという風潮が強くなった、そこのところを土井は「続甘えの構造」で、{「甘えの構造」が出版されて、それほど間もない頃から、わが国社会の仕組みで何かよからぬことが問題となる際に、「あれは甘えの構造だ」という声が聞かれるようになった、確かに本書で甘えの効果が芳しくないことが論じられている、特に戦後は自立の重要性が声高く叫ばれるようになったので、そのような社会風潮を背景にして「甘えの構造」がよからぬことの代名詞にされてしまったのだろう。しかし、土井は甘えというのは、人間が成長する過程で重要で、日本だけでなく世界に見られるが、甘えという言葉をぴったりと指示すような言葉は世界には見られず、むしろ甘えという言葉で人間が成長していく親子関係の、ある構造を指し示す言葉があるということは日本において優れたことだ}と言っている。甘えというものが、日本にはあり、その中で子供が成長するということを土井は言いたかった。甘えに対する、悪い評価を言ったのではない。甘え=人間関係において、相手の好意をあてにして振舞うこと、甘さ、が甘えのエッセンスなのだ。しかし、甘えの期待感と、その期待が報いられるという人間関係が日本では顕著だということなのだ。それは親子から始まっている。その「甘え」に対して、それではいけないのだという風潮が現在日本社会に出てきている。そしてそれが自立という言葉に結晶化されて語られるようになった。土井は、甘えが良し悪しではない、ということをはっきり示すために、「続甘えの構造」を書いた。
 しかし、近年 母親の子供への虐待や殺人が目に付くようになった。これは昔からあったことだが、近年そうしたことがおきると、等の他の母親たちも、私もそうしたところがありわしないかと感じるようになってきている。子供を甘やかせられない不安、というところではなくて、むしろ、子供を愛せない不安、というものまで起きている。岸田秀は、このことは、不思議ではない、と主張している。彼の本、「母親幻想」(改訂版1998)の中で、母性愛とは、本能ではなく、子供が労働の担い手として価値を持つ社会、例えば農業社会 といった、子供を育て将来は子に養ってもらおう、という考えの元に生まれた社会の共同幻想である。つまり、子供が将来養ってくれる、と思うからこそ子供を愛するんだ、だから、今は子供と母との関係は、子供が自立した段階で切れてしまう。母親も元々自立を目指していた。であるならば、将来子供に養ってもらおうという考えは最初から無い。 だとすると、母親は最初から子供を愛せないまま子供を産むということになる。
 この岸田の説明を聞くと難しい問題が出てくる。岸田の言うように、現代の日本では母親は自立できるので、将来子に養ってもらう必要が無い。だとすると、母親は子供に甘えさせているより、自分の自立に努力するほうが得策だと考える。一方、土井によれば、日本では子供が健全に育って自立するためには母親に甘えることが必要だということになる。つまり母親の自立と子の甘え(自立)が相容れないことになる。子供には甘えが必要なのに、母親には甘えさせている余裕は無いとする矛盾。 この難問を解くために、まず日本の母親像を知る必要がある
 我々が持っている母親のイメージ(子を慈しむ等)それは日本の家と言うものの中で母親が果たしていた役割からきていると考えられる。家というのは、家には普通、外から、ある家の娘が入ってくるのが原型。同様に、この家に生まれた娘は、やはりどこかの家に結婚して婚出していく。そして、家に入ってきた女性は、夫に対していろいろな日常的なことをケア(世話)する。それは夫に対してだけで無く、夫の母、父、また、自分の子供も母としてケアする。つまり、家中をケアする役割を持っている。しかし、この母は、子供に嫁が来ると、そのお嫁さんには、ケアをされる。また、母は外から入った人なので、家の中で不安定な地位だが、必死に働くこと、ケアすることにより家での地位を安定させる。そして、子供が結婚し、彼が家の長になると、彼女が息子に掛けたケア、愛情が、彼女の地位を安定させるように返ってくる。以上のことは、農業文明段階、1960年代までの話である。それ以降、三十年間に話は変わってきている。ケアをすることで、最終的には嫁にケアされることで、家での自分の位置や生き方を見いだしていた女性が、外へ向かって出て行こうとする。夫と同じように社会での一人の自立した個人として生きようとする、すれば、家族三世代全員へのケアは多すぎることになる。今、老人介護の問題が出てきていて、かつては、夫と子供へのケア比重が一番大きかったが、最終的には、一世代前の人間(夫の父母)へのケア比重がより大きくなってきて、状況が深刻になってきている。そのとき、女性は岐路に立たされる。とりわけ、幼稚園児を抱える、若い母親で、それまで仕事をしてきた(ほとんどの人が現在就職する)、そして、子供を産む段階でその仕事がどうしても続けられなくなった、もしくはより簡単な仕事に移ったりするということがある。その、養育の時代、とりわけ幼稚園の時代は手がかかるその三年間四年間を経て子供が小学校に行った時どうするか。家族をケアする女性として家の中で、ある役割を確保するか、それとも、老人ケアは様々な公的制度にたよる、夫に自立してもらう、子供に自立を促す、という形で自分が外に出るかのどちらか。しかし、その出て行く社会も、決して女性にやさしい社会ではない。非常に難しいと所におかれている。だから、子供を甘えさせられなくなったというのは、単に母親の努力が足りないということではない。母親が自分自身というものを考えたら(そのことは間違っているわけでないので)子供を昔のようにただ全面的に帰って来たらいつも家にいるという形で甘えの構造を維持することは難しくなってきている。
 母と子の間に、かつてのような甘えの構造がなくなりつつある状況。この状況がキレる子供を生み出しているのだという説がある。子供達がキレるのは、母親に甘えられなくなったためだと言う。これに対して、教育学者の斎藤孝は違う考え方をとる。「子どもたちはなぜキレるのか」(1999)の中で、子供や若者がキレるのは、日本人が伝統的にもっている体に関する文化(身体文化)を伝えていないからだとする。斎藤が腰肚文化(日本の伝統的な身体技法)と表現するのは、腰が入り腹が定まる姿勢を基本とする心と体の文化である。これが日本人の暮らしや仕事の心構えを生み出す元になっている。心と体の技、身体技法が欠けているため、キレるのだと斎藤はいう。土井健郎は、甘えというのは別に日本だけのものではないという。甘えという言葉でなく、母親の愛という言い方をすれば、世界全体どんな社会にもあるはず。それがないと、まったく無力で生まれてくる人間の赤ん坊というのを手間暇掛けて世話をすることはできないと考えられる。朝幼稚園に子供を送ってくる父親もいるが、たいていはその役は、母親に任されている。その母親が、子供を甘やかすことができなくなった、そのことによって子供が愛情というものを不足し、そのことが例えばキレる若者を生んでいるという議論がある。それは短絡でもあるし、しかし、ある意味では日本の甘えるという構造がずっと続いてきたところに現在急激に変化がきて、やはりある種の愛情不足に子供が陥っているのであるのではないかと考えられる。
 どんな社会でも変化はあるが、ことにこの日本の三十年間の変化は大きかった。その中で母親もうまく自立できないけれど、その自立の努力の中で次の母親像がうまく見つからないまま、やはり愛情が不足してきていることは否めない。こうしたときに何が、状況をうまく持っていけるかというと、すごく難しい。現在の母親の意見の中にも、子供を甘えさせてやりたいという意見と、子供はどうやったら自立するかを考えるのが親の役割だ、という意見の対立がある。そのときに、考えるのは、母親だけが子供を育てるのではないということを思い起こす必要がある。社会全体が、子供にどんな愛情を振り向けられるかが、母親の自立と、母親が甘えさせられないということから来る問題を解決する唯一の方向だと考えられる。斎藤孝のいう体を作るというのは、簡単なことではないが、職人モデル(自分と物、世界との関係、その中で自分の体を世界に合わせていく、頭と言葉の問題ではなく、体から、つまり自分の振る舞いを自分でコントロールする)が一つの目標となる。
 混迷の時代の中で、これはという答えは無いが、子に対する養育は母親一人のものではないということと、子供達自身が一人で自立するというのをただ頭と言葉でなく、体からえていくという、この二つのことが、母というものが今もっている問題、それと、それが子供のほうに現れてしまっている事態を打開する方法だと考えられる。

……以上。コメントは紹介者の希望により省略……


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