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Fleurbaey, Marc
フローベイ・マーク
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Last update: 20100805

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1961年10月11日生まれ、フランス出身。ポー大学経済学部教授。Dworkin流の「責任と補償」に基づく分配のルール を経済モデルとして定式化し、その理論的含意を分析することで規範経済学に多大な貢献を為してきた。それらの成果は 2008年に出版される単著Fairness, Responsibility, and Welfareにまとめられている。現代の規範経済学を代表する旗手の一人。

◆学歴
1986年 Ecole Nationale de la Statistique et de l'Administration Economique (ENSAE)
1991年 Maitrise in Philosophy, University of Paris X.
1994年 Ph. D. in Economics, Ecole des Hautes Etudes en Sciences Sociales (EHESS), Paris.

◆職歴
1986年9月 Administrateur de l'INSEE, Service de la Cooperation (National Service as a Consultant in Guinea).
1988年4月 Administrateur de l'INSEE, Division Modeles Macroeconomiques.
1991年9月 Administrateur de l'INSEE, Department Recherche.
1994年9月 Associate Professor, Department of Economics, University of Cergy-Pontoise.
1997年9月 Professor, Department of Economics, University of Cergy-Pontoise.
2000年9月 Professor, Department of Economics, University of Pau.
2005年10月 Researcher, CNRS, CERSES, University Rene Descartes, Paris.


■編著
◆Laslier, J.F.; Fleurbaey, M.; Gravel, N.; Trannoy, A. [eds.] (1998), Freedom in Economics: New Perspectives in Normative Analysis, Routledge, 299p. ISBN:0415154685 US$ 190.00 [amazon]
◆Fleurbaey, M.; Salles, M.; Weymark, J.A. [eds.] (2008), Justice, Political Liberalism, and Utilitarianism: Themes from Harsanyi and Rawls, Cambridge University Press, 472p. ISBN:0521640938 US$ 85.00 [amazon]

■単著
◆Fleurbaey, M. (2008), Fairness, Responsibility, and Welfare, Oxford University Press, 312p. ISBN:019921591X UK£ 25.00 [amazon]

■主要論文
◆Fleurbaey, M. (1994), “On Fair Compensation,”Theory and Decision, vol.36, pp.277-307.
◆Fleurbaey, M. (1995), “Three Solutions for the Compensation Problem,”Journal of Economic Theory, vol.65, pp.505-521.
◆Fleurbaey, M. (1995), “Equal Opportunity or Equal Social Outcome?” Economics and Philosophy 11,pp. 25-55.
◆Fleurbaey, M.; Maniquet, F. (1996), “Fair Allocation avec Unequal Production Skills: The No-Envy Approach to Compensation,” Mathematical Social Sciences, vol.32, pp.71-93.
◆Fleurbaey, M. (1996), “Reward Patterns of Fair Division,”Journal of Public Economics, vol.59, pp.365-395.
◆Fleurbaey, M.; Maniquet, F. (1997), “Implementability and Horizontal Equity Require No-Envy,”Econometrica, vol.65, pp.1215-1219.
◆Fleurbaey, M. (1999), “Fair Allocation with Unequal Production Skills: The Solidarity Approach to Compensation,” Social Choice and Welfare, vol.16, pp.569-583.
◆Fleurbaey, M.; Gary-Bobo, R.; Maguain, D. (2002), “Education, Distributive Justice, and Adverse Selection,”Journal of Public Economics, vol.84, pp.113-150.
◆Fleurbaey, M.; Michel, P. (2003), “Intertemporal Equity and the Extension of the Ramsey Criterion,”Journal of Mathematical Economics, vol.39, pp.777-802.
◆Fleurbaey, M.; Trannoy, A. (2003), “The Impossibility of a Paretian Egalitarian,”Social Choice and Welfare, vol.21, pp.243-264.
◆Fleurbaey, M. (2005), “The Pazner-Schmeidler Social Ordering: A Defense,”Review of Economic Design, vol.9, pp.145-166.
◆Fleurbaey, M.; Suzumura, K.; Tadenuma, K. (2005), “The Informational Basis of the Theory of Fair Allocation,”Social Choice and Welfare, vol.24, pp.311-342.
◆Fleurbaey, M.; Maniquet, F. (2006), “Fair Income Tax,”Review of Economic Studies, vol.73, pp.55-83.
◆Fleurbaey, M. (2006), “Is Commodity Taxation Unfair?,”Journal of Public Economics, vol.90, pp.1765-1787.
◆Fleurbaey, M. (2007), “Two Criteria for Social Decisions,”Journal of Economic Theory, vol.134, pp.421-447.
◆Fleurbaey, M.; Maniquet, F. (2005), “Compensation and Responsibility,”in K.J. Arrow, A.K. Sen, and K. Suzumura [eds.], Handbook of Social Choice and Welfare, vol.2, North-Holland, forthcoming.



◇Fleurbaey, M. (1995), “Equal Opportunity or Equal Social Outcome?” Economics and Philosophy 11,pp. 25-55. の後半の一部 [文責:堀田義太郎]

 ※ 結果に先行して結果に因果的に貢献する「要素」について諸個人のコントロール可能性を問い、その答えに基づいて個人的責任と社会的責任を切り分けるタイプの議論を「要素選別的平等主義」と呼び、それに対して、結果そのものを社会的結果/私的結果に分け、前者を制度的介入と分配的正義の対象にする「結果選別的平等主義」が対置され擁護される。

第6節 責任再考

・平等な機会原理の責任に基づくバージョンの検討(コーエンとアーヌソンへの批判)

 まず第一に、平等な機会原理は哲学的基礎が脆弱だという問題がある。⇒ アーヌソンとコーエンは、選択と非自発的状況(circumstances)を切断するが、それは哲学的観点からみて問題が大きい。ドゥオーキンを含む多くの論者はこれを避けようとしている。自由意思と決定論をめぐる哲学的に未解決な問題があるからである。(38)

 平等な機会アプローチは、その適用段階で二つの選択肢に直面する。自由意思問題に解決がもたらされるのを待つか、個人に責任のある要素を政治的制度が決定することを認めるかである。前者にはほとんど望みがない。後者は、それによって選択された分配状況の倫理的価値を掘り崩す。個人の真の責任を同定できないからである。
 個人の責任に関する適切な概念を欠いたままでは、政治的制度は社会的文化的偏見に影響される危険を侵すことになる。(以上:39) 個人が責任をもつべき要素についての政治的選別の結果が平等な機会原理を適切に実現するとは思えない。
 決定論的な見方からすれば、平等な機会を実践的に適用したいかなる制度も、因果性の存在が疑われる場合には、責任免除(nonresponsibility)の嫌疑に直面することになる。その結果、自由意思と決定論の非両立主義(ハードな決定論者はもちろん)にもとづく平等な機会の適用は、最終的には結果の平等化になる。
 他方、両立可能論でも別の困難が提起される。両立可能論者の企図は、主として称賛ないし非称賛の態度を正当化することにあるが、それは、厚生あるいは社会的成功における格差を正当化することは、まったく別のことである。両立可能論が称賛や非称賛という道徳的態度の基礎を提供するからといって、それが厚生や利益の格差を正当化するかどうかと言えばそうではないだろう。
 要するに、平等な機会アプローチは、ある種のジレンマに直面する。その倫理的主張は自由意思に関する両立論的見解よりも非両立論的見解と一緒になった方が強くなるが、そうすると、〔責任免除〕という問題がより先鋭化されるのである。

※バート事例(Bert's case)
 仮に自由意思と道徳的責任が異なる結果を正当化するという見解を信じるとしても、私たちの道徳的直観は、平等な機会原理と衝突しうる。
 バート事例を考えよう。バートは健常な体で生まれたが非常におっちょこちょいかつ無謀だった。彼の楽しみは、バイクにノーヘルで乗って高速道路を走ることだった。バートは親の警告も聞かずに「危ないのが楽しいんだ」と嘯いていた。ある朝、バートはバイクで転倒し自損事故を起こしてしまうが、ヘルメットを着けていなかったため、頭に大怪我を負ってしまう。命を助けるためには非常に高額の手術が必要になるが、彼は保険に入っていなかった。このケースで、平等な機会原理(equal opportunity principle)はバートを助けるために、いかなる資源移転も認めないだろう。この原理の見方では、彼は、その怪我に完全に責任があるからである。自らのミスで危険な状態になった人は、平等な機会原理によれば、死ぬがままにされてしまうのである。たしかに、私たちは、指を一本失う程度ならば、「自業自得だ」と考える場合もあるかもしれない。だが、このような(命にかかわる)ケースで、まったく資源を移転しないことに同意する人はほとんどいないだろう。問題は、ある出来事に本人が責任があるか否かではなく、その人が被った厚生の喪失の量なのである(以上:40)。

 私たちは道徳的直観から、ペナルティの尺度があまりに過酷になるべきでないと考えるはずだが、この点、平等な機会原理はむしろプリミティブに思える。
 たとえばこの点、アーヌソンと同じく厳しい見方をもつコーエンは次のように述べている。

「(慈善とは対立する意味での)正義が再分配を要求するかどうかを決める場合、平等主義は、不利を被っている人が、それを避けることができたかどうか、あるいは今それを避けることができるかどうかを問う。もし、彼がそれを避けることができたならば、平等主義の見地からみて、彼は補償を要求することはできない。」(Cohen 1989, p.920)

 ここでコーエンは正義と慈善を区別し、正義はバートの事例で補償を与えない、と論じている。だが、そもそもこの正義と慈善の区別は、たんに平等な機会原理を言い換えたにすぎないし、それを論証しているわけではない。また、この区別はむしろきわめて問題が大きい。似たような二項対立はノージックによっても主張されていた。だが、慈善にもとづく考察は、共同体がそれを公共政策の問題として理解するならば分配的正義の一つのトピックになりうる。
 平等な機会原理は、「今あなたが下した決定は、あなたの残りの人生全般にわたってあなたを責め苛むだろう」と表現できる。これは、明らかに我々の道徳的直観にとってショッキングである。(以上:41)
 おそらくはこの問題を看取して、アーヌソンは(責任のない)子ども時代と(責任のある)大人時代を分ける「標準となる瞬間(canonical moment)」といった神秘的な観念に訴えている。だが、そのような瞬間など存在するのか。人間はつねに発展と生育の過程にあるという重要な人間学的事実を受けとめるべきだろう。では、これは平等な機会原理をわずかに改編するだけで処理できる問題だろうか。そうではないだろう。平等な機会原理は、人生の開始時点で予期される厚生に対する平等な機会を保障することはできず、諸個人の展望に影響を与えるような出来事や予期されざるランダムな要素が生じた後で、それを是正する資源移転を認めなければならない。さもなければ、「それ以後の時点で人々に開かれた諸機会の不平等はどんなものであれ、彼らの意志的選択の結果であるか、微妙な不注意な行為の結果である」(Arneson, 1990, p.179)ということは真ではありえなくなる。ここで、偶然のアクシデントで厚生が低下する結果が生じたのだが、そのアクシデントが仮になくても、当人の意図的行為で同じ結果がもたらされていたと言えるようなケースを考えてみよう。平等な機会原理は、現実の出来事の経過のみを考慮するのであり、仮設的行為は重要ではないと言うだろう。だが、それほど単純ではないだろう。自ら意図的に金を川に投げ込もうとしている人がいる。しかし、彼が金を手離そうとしたその瞬間、一陣の突風が手から金を奪い、川に金が落ちてしまう。この場合、平等な機会原理を厳密に適用するなら、彼は補償を受けるべきだということになる。だがそれは満足な解決だろうか?(以上:42)
 平等な機会原理はこの問題について、おそらく次のように言うだろう。すなわち、アクシデントが人々の厚生に関する予期に影響を与えた後で、その個人を当のアクシデントがなければ彼らがそうあっただろう状態に差し戻すためにのみ、補償的移転がなされるべきだ、と。だが、これではあまりに複雑になるだろう。
 そもそも平等な機会が意味をもつのは、結果(outcome)に至るプロセスに連続性が存在するときだけである。しかし、そんなことはあまりありそうにない。偶然に左右されるからだ。(以上:43)
 ここで「責任」概念を、平等な機会アプローチの理解とは別様に考える必要がある。通常私たちは、二つの異なる文脈で「責任」概念を用いている。まず、あなたはあなたの行為に対して責任がありうる、という使い方。これは平等な機会アプローチの理解である。だが、社会生活における意思決定の責任はこの理解とは異なる。意思決定責任は、自由意思とは関係がなく、純粋に記述的な概念である。私の選択は多くの要素に影響を受けているだろうが、私がクローゼットから衣服をとりあげた瞬間、仮に何が起ころうが、社会の観点からみれば、私はその意思決定者であり続ける。これは、責務や義務の観念と同時に権威の観念を含んでいる。
 この第二の責任概念を用いるのが良いだろう。

第7節 結果選別的平等主義(outcome-selective egalitarianism)

 要素選別的な平等主義(factor-selective egalitarianism)の欠点を踏まえるなら、結果(outcomes)のなかの道徳的に重要な側面に注目するのがよいだろう。どういうことか。要素選別的な平等主義は、個人の結果を包括的に考え、この結果に影響を与える諸要素すべてを同定し、それら諸要素を三つのカテゴリー分類する。このアプローチはたしかに、スポーツ等々の多くの競争問題には適している(以上:44)。だが、それは、分配的正義が考察するような、より包括的な問題には満足に応えられない。したがって、次のように考えた方がよい。つまり、個人の運命を表現するすべての重要な結果(健康状態、生活水準、教育レベル等々)のリストを作り、それぞれの結果ないし機能に即して、個人のなし得た達成に対して、どの決定機関(decision centers)(政府、組織、家族、家族や友人そして最後にその人自身)が責任あると想定されるべきかが決定されるべきだ、と。「責任」はここでは、道徳的功績(desert)のような観念を含まず、第二の意味で理解される。
 私が提唱するのは要素選別的平等主義から結果選別的平等主義への転換である。後者は単純化すれば、結果を構成する要素を、社会と個人という二つの決定機関にカテゴリー分けするという考え方である。社会的結果(social outcome)と私的結果(private outcome)という言い方をしてもよい。(以上:45)
 これは一見、平等な機会原理およびその責任についての考え方と両立するように見えるかもしない。つまり、私的結果とは個人が真にコントロールできる結果であり、社会的結果は個人が責任を持てない結果なのだ、と。だが、このような見方は三つの理由から受け容れられない。第一に、要素ベースの選別と結果ベースの選別はまったく異なっている。結果選別的平等主義原理は、個人の行為あるいは帰結のもつ因果性に関する、いかなる情報も用いない。第二に、第一の意味での責任は要素、すなわち結果に対する貢献にしか関心をもたず、結果それ自体には関心をもたない。仮に、結果0が(x,y)で構成されており、私がxだけをコントロールするとしよう。その場合、私は、要素xに対する責任があるだけで、結果Oに対する責任はない。バートは、彼の健康状態全般に対する道徳的責任はなく、ただ、彼の奇異な行動にのみ責任があるということになる。第三に、結果選別的枠組みのなかで、個人に第二の意味での個人的責任の範囲を帰すように促すものは、真のコントロールとか自由意思といった観念とは何の関係もない。(以上:46 47は省略)
 なぜある結果が私的なものとみなされるべきで、社会制度によって考慮されるべきでないとされるのか、という根本的な問いが残っている。この点については、スキャンロンの議論が示唆的だ。スキャンロンは「選択(choice)」という語の用法には「責任」と似た曖昧さがあると論じる。選択という語は、過去の行為と機会の範囲の二つを示している。「正しい制度は、結果を諸個人の選択に依存させるべきである。というのも、諸個人が適理的にこの依存関係に結びつくことが重要だからだ。……選択の価値は純粋に道具的価値ではない。人々は、結果が自らの選択に依存していることに、本質的(intrinsic)な意義をreasonablyに結びつける」(p. 189)。選択の本質的な価値が、社会的結果と私的結果との区別の基礎になりうる。(以上:48)


作成:坂本徳仁+堀田義太郎
UP:20080429 REV:20080603, 20100805
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