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古込 和宏


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◆2018/12/24 第33回国際障害者年連続シンポジウム・筋ジス病棟と地域生活の今とこれからで報告

◆古込 和宏 2018/12/24 「地域移行2017年秋於金沢」第33回国際障害者年連続シンポジウム・筋ジス病棟と地域生活の今とこれから

◆古込 和宏 2018/03/17 「あたり前の生活を取りに行く」,障害と人権全国弁護士ネットシンポジウム in 金沢

◆古込 和宏 2017/04/01 「伴走者とともに」

◇宮本 研太→金沢市長 2017/03/29 「介護支給量申請にあたって」 [PDF]

◆古込 和宏 2017/03/24 「皆様へ」

◆古込 和宏 2017/02 「「この問題」」

◆古込 和宏 2016/10 「地域移行に際し医王病院と新潟病院の副院長宛て挨拶としての紹介文」

◆古込 和宏 2016/09 「病院からの発信」

◆古込 和宏 2016/03 「長期入院患者の生き辛さと苦悩、自己の存在と生存を懸けて」
 http://www.arsvi.com/2010/20160307a.htm

◆古込 和宏 2016/03 「互いに殺し合う存在」
 http://www.arsvi.com/2010/20160306a.htm

◆古込 和宏 2016/03 「発病から入院」
 http://www.arsvi.com/2010/20160311a.htm

◆古込 和宏 2016/03 「小学生の頃の入院生活」
 http://www.arsvi.com/2010/20160312a.htm

◆古込 和宏 2016/03 「誰にも明かせない胸の内」
 http://www.arsvi.com/2010/20160313a.htm

 ※匿名で書かれたものもこのサイトにいくつか収録しています。将来この頁に掲載することがあるかもしれません。

地域で暮らすためにみんなで考える会



1972年4月26日 輪島で生まれる
 5歳の時 筋ジストロフィーと診断
1980年12月1日 入院
2012年4月26日 手術
2013年の2月あたり 退院のことで病院のソーシャルワーカーに相談
2015年10月 川口有美子に相談
「地域で暮らすためにみんなで考える会」
2017年10月 医王病院を退院

■立岩 真也 2018/12/15 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社 文献表

◆「序」より

 「長く続いた連載を本にしようと、もとの連載の原稿を整理していたら――結局それは、収拾のつかないおそろしい作業になってしまったのだが――何箇所かで古込和宏が出てくる。連載を単行本にするとき、どこまでもとの、そのときどきの記述を残すか。そんなところでも迷う。結局整理したが、どういう具合に出てくるか。初めに記しておく。
 以下が初出のようだ。「国立療養所――生の現代のために・十一 連載一二二」、『現代思想』二〇一六年四月号に書いたもの。

 存じあげない、たぶん四〇台のデュシェンヌ型の筋ジストロフィーの方からメールで原稿を送っていただき、HPに掲載し連載で紹介した。匿名を希望されているので、(匿名)[2016]と表示する。一般に、(今どき)病院は「地域移行」に反対ではないが――そして経営が絡んで、強く求め、それを受け入れざるをえないことも一方ではあるのだが、筋ジストロフィーに関しては――身体の状態がよくない危険だということ、家族の同意が得られない(だから難しい)といったことが言われることがある。前者について。危機的な状態になることはありうる。(デュシェンヌ型の)筋ジストロフィーについて、自発呼吸の困難への対応はなされているが、心臓の機能については難しい。ただ、救急車と、病室での対応と、どちらがどの程度違うかといったことはわかった上での決断であれば、それを受け入れない理由はない。後者については、むろん「筋」としては不当である。ただ、その不当なこ△008 とが言われることは多いようだ。
 とにかく普通人はわざわざものを書いたりしない。そんな余裕はない。四巻本を出せる人(たち)とそうでない人(たち)と違うのだ。そんななかでは、横田弘はわりあいものを書いた方の人だった。その人との対談(横田・立岩[2002a][2008])を含む本が横田・立岩・臼井[2016]。


 そんなふうに書いてあるが、まったく何も知らなかったわけではない。話はいくらか聞いていた。その後、「高野岳志/以前――生の現代のために・二一 連載一三三」(二〇一七年五月号)、本書では第5章282頁に出てくる。なぜ連載(→本書)を書いているかの理由の一つとして古込のことを挙げている。それは誇張ではあって、そんなことがなくても国立療養所を巡って延々と書いていたはずではあるが。そして翌月、「高野岳志――生の現代のために・二二 連載一三四」(同年六月号)、本書では第5章308頁。大人がただそこから退院するというだけのことに病院の許可がいるのは普通にまったくおかしいと思うが、という問いに対する返答を引用している。そして、「埼玉と金沢で――連載一四六」(二〇一八年六月号)でその人に関係することを少しまとめて書いた(第5章4節・382頁)。
 私はその人に直接会ったのは二度きりで、話したのもその時だけだ。その一度めは、多人数がいる会議室に本人を移動させることができない(その手前の、ベッドからの車椅子への移乗の際の看護者の人手が確保できない??)とのことで、短い挨拶の後は、同じ病棟内の会議室にいる私も含め七人ほどだったかと、六人部屋から出られない古込は、スカイプで交信する(させられる)ことになった記憶がある。二度目はその病院を出た後で、インタビューさせてもらった(古込[201801])。それ以外にとくに覚えていることはなく、まるきり貢献もせず、つきあいもなく、格別の思い入れ他はない。ただ、その連載をしている間はすくなくとも生きていてもらわないと格好がつかない、という、まったくもって身勝手△009 なことは思った。病院を出た後、一時体調を崩して入院となったが、今はまたなんとかなっていると聞く。本書では唐突に思えるだろう、第5章4節3・4「懸念については」「別の懸念について」は、何もしていない私と違い彼にまじめに関わった二人にインタビューをして(平井[2018]、田中[2018])、思ったことから書いた。」

◆第5章「一九八一・八二年・二〇一七年」第1節「高野岳志」の1「八〇年代を先にすること」

 ここまで記してきたこととうまく連続はしない、連続はしないが、一九八〇年代の初め、国立療養所から出た筋ジストロフィー者について記す。ほぼ同じ時間と空間を別様に経験した人たちがいたことを書いておきたいと思ったからだ。そして、そこで記した、そこでできた体制が、またその体制の形成と維持に関わった人や組織たちが、その人たちの生も困難にしたと考える。そのことを書く。
 もう一つのわかりやすい理由は、二〇一七年頃から、金沢市にある旧国立療養所医王病院に長く暮らしてきた古込和宏(009頁)の退院のための種々に少しだけ関わっていたことにある。古込は一九七二年四月二六日生だから、二〇一八年の秋には四六歳。五歳頃に筋ジストロフィーの診断を受け、八歳の時に国立療養所(今は国立病院機構)医王病院に入院。県立医王養護学校(当時)に転校し高等部卒。入院生活を三七年ほど。当方のサイトに掲載させてもらっている文章として古込[201603a]〜[201603e]△280 [201609][201610][201702][201703][201704]他。相模原での事件の後、幾度か述べることになったが、皆が本当に施設・病院を出られるのかといった逡巡にさほどの意味はない。残りたい人は残ってよいだろう。だが出たくて出られる人は出たらよい。そしてそれはとても多くの場合に可能だ。
 結核療養者の収容施設としてあった国立療養所が筋ジストロフィー児や重症心身障害児を収容するようになった経緯について記してきた。

◆7「止められても出られるはず、か」

 「それはわかる。しかしこのことと、家族、「保護者」の許諾がいるというのはまた別のことだ。高野は成人であり、家族の同意など不要なのではないか。「残る障碍は父親だけだった。もっと正確に言え△307 ば、退院の書類に押す保護者の判だけが、問題だった。」(小林[1981:40])という箇所を引いて、MLやツイッターで聞いてみた。古込和宏から彼の退院支援のMLに返信があった。許可を得たから引用する。病院名は無事に彼――も病院との良好な関係を維持しようとしている――の退院が、もうすぐだが、実現するまでひとまず伏しておく(二〇一六年十月に退院したので記しておく→金沢市の旧国立療養所医王病院)。

 あくまでもそれは医療側の言い分に過ぎず、ご指摘にあるように成人であること。そこに尽きると思う。/ただ当時は今よりも社会の認識として障害者は保護されるしかない存在でしかないので、判というものは患者本人からすると強烈なものだったのではと想像する。
 **病院はどうか。高野の生きた時代の社会認識のままだと私は感じる。/これは医療側だけでなく患者と家族も。時代錯誤は医療側より患者とその家族の方に罪が重いと私は思う。/患者とその家族の方に罪が重い…/病棟という現場を普段よく見ておきながら、そこを安住できる終焉の地と長年思い込み、思考停止し「他に行き場所がないから」と受け入れ続けてきた結果で、患者は自らの首を絞め続けた。/ただ家族の首は締まらないので「そこに居続けることが子も親も少しでも長く互いに幸せにいられる」と信じ込もうとしてるのかもしれない。/「家族介護」を発想の大前提の果てが宇多野病院の件のようにも思える★12。
 親の同意…/実体験として二〇一二年、冬、ソーシャルワーカーに地域移行を相談した際、「地域の受け皿がない」や「親の同意がない」の言葉を真に受け、同意に関しては強烈に感じた。/東京の支援と繋がってから、親の同意が得られてない不安を述べたとき「成人してること、それに入院契約の名義は古込さんなので同意は関係ない」と言われ、私ははじめて「同意」の嘘に気付き、同意の件△308 を再度ワーカーに言われたとき「契約名義人は私ですよね?」と指摘すると明らかに顔色が変わったのを覚えている。それ以降「同意」の言葉は出なくなった。
 ここまで指摘されると医療側が欲しいのは、最低限、責任回避の担保は欲しいのだと感じた。/地域移行の過程で、私を支援する看護師に介助方法を教えてほしいとお願いする段になったとき「もし何か起きたときは、こっちは他の親御さんの対応も考えなければいけない…」という発言を聞いたときは途方に暮れた。
 時間が経過して思うのは制度の裏付けで医療側が守られなければ、地域移行の是非になり医療の地域連携はあり得ないのだと思う。
これも医療側の姿勢を問うばかりでなく、デュシェンヌ型筋ジストロフィーは全身管理が生命予後を大きく左右するという事実も無視できないところがその下地にあって医療側の反応だと思う。当事者は、しっかり問題の背景に目を向け、行動しなければこのようなことは永遠に続く。
 これは私自身に強く反省を求めるものであり、人生の長く過ぎ去った時間は取り戻せない。/「親の同意」という問いについて、かなり回り道したが「親の同意」判についての結論を述べると、「成人」と「入院契約」の二点に尽きるので、本来はシンプルなはず。(古込[201704b])

 三七年前の下志津において、そして各所でどうだったのか。国の側になにかきまりがあったのか。調べを続けようと思う。ただ感じるのは、この時期にはまだ、そして多くの場合には今も、家族がどうであろうと施設の側が止めることは本来はできないはずだという認識が自明なのものとして存在してはいなかった(いない)ようだということだ。そして、この認識があったときに「にもかかわらずなぜ」を調べようとされることになる★13。だが「その時」にどうだったのか、人々はどういう認識でいたのか、高△309 野のように例外的に複数の文章が残っている場合であっても、わからないところが残る。そしてその「穴」があること自体が、当然に同意はいらないという前提が不在であった可能性があることを示しているのでもある。」



 ■9 止まって過ぎたこと

 他方で、おおかたのところではなにもないまま、一九八〇年代からでも約三〇年、収容の初めからなら約五〇年という時間が過ぎた。その間に何があったか、むしろなかったか、それはどんな事情のもとでなのか。それもまたこれから調べる(調べてほしい)ことになる。以下にあげるのはまったく個別の、一つの例であるだけだ。連載で取り上げ、序で紹介した古込和宏(一九七二〜)のことを記す。やはり筋ジストロフィーの人だ。というより、ここはその人たちだけを取り出して書いている。もちろん人によるが、文章を書いたり語ったりができてそれが残っていたり、聞けば話してくれることがある。書籍もある程度は集まった。リストだけを掲載し(454頁)、HPで紹介する。
 そうした人たちで、すぐに施設へという人は減っているはずだ。しかし子どもの時に入った人がいて、人工呼吸器の普及などもあり寿命が伸びてきたこともあって、入ってそのまま三十年、四十年といった時が経つ人たちがいる。その施設は全国にあって、そう目立つところにあるわけではない。そうして、おおむね静かにその時間が過ぎた。何が時を止めているのか。
 まず予め私たちが知っていることがある。△380 一つ、子どもにせよ配偶者にせよ親にせよ家族にそこにいてもらって、そのことでなんとか私(たち)が暮らせており、裨益しており、それ以外の現実的な可能性が見い出せないとき、そのよしあしは別として、それを変えようとは言えず、言われると聞きたくないと思い、ときにそれを言う人を憎んでさえしまう、そしてなかにはそんな自分のことを辛いと思う人もいる。静かなまま過ぎて行ってほしいと思うことがある。相模原での事件の後にもそんなことがあった。しかし、現実はたしかにそんなものなのだが、その「リアル」によって可能なことが妨げられているとすればそれはよくないと、それが現実を膠着したままにしてしまうと、『相模原障害者殺傷事件』(立岩・杉田[2017])でも述べた。ここで、どこまでの人が「脱施設」できるかとか、全部ができるのかとか、そんなことはよい。そんな話をする必要はない、出たくて出られる人がいたらそれを妨げず、認めればよいというだけのことだ。
 以上が「私たち」が思っていることためらっていることについてだ。ただこのことは調べなくてもわかっていることだ。この度調べてわかったことがある。重症心身障害児や筋ジストロフィーの人たちの「受け皿」が生成し、維持されてきた。その枠、体制とそれを作り維持してきたものについて第3章に記し、第4章で補足した。そこには立派な人たちの真剣な思いと実践が関わっている。子を思い、社会の理解を求めるとともに、社会の行く末を考える。その人たちのある部分は社会に対して批判的・革新的なところから出発するが、その貢献と功績によって、やがて責任ある役を得たり職に着いたりする。すると、さらに社会の、予算の有限性を心配することになったりする。自分たちの研究や施設や自分たちの職種の収入はしばしばその心配の範囲から除外するのだが――結果、配分のあり方が変わってきてしまうし、結果、安くあげるためになされているとされていることが安くなっていない可能性もあるのだが――心配したりする。ある(例えば「難病」の)世界では崇められている人が例えば水俣病に関わる部分では強い非難の対象になるといった、事情がわからないと不思議なことも起こった。△381

■4 三十年後

 ■1 金沢で・〜二〇〇三

 二〇一七年十月に(旧)国立療養所医王病院を出て金沢市内で暮らし始めた古込のことを最初は匿名で紹介した(『現代思想』二〇一六年四月号)、そしてその後名前を出してよくなってからは、名前を記してその文章他に幾度か言及した(8頁)。詳しくは坂野〈ばんの〉久美――京都市にある(旧)国立療養所宇多野病院もときに使いつつ基本は在宅で、立命館大学を卒業して障害学生他の支援をするNPOを経営している佐藤謙について坂野[2018]――が調べて長いものを書くことになったから(まず坂野[2019])、そちらに譲る。古込の退院の企画をすこし見知ることがあった私は、これまで書いてきたことを想起しながら、少しのことを述べる。古込のことに最初に触れたのと国立療養所のことを書き出した時とは重なる。前者が後者を促したわけではなく、その逆でもない。ただ連載を書いている時、それに併行して退院の企て、準備があった。何冊かの本を読み、また古込のことを知った私は、どこが同じでどこが違うのだろうと思った。二〇一七年十二月に坂野が、一八年一月に私がインタビューした(古込[201712][201801])。二月、「障害と人権全国弁護士ネット」主催の集会があり、そこで関係者各位に気を使った報告(古込[201803])がなされてもいる。これはHPで読める。
 古込は一九七二年生まれ。五歳の時に筋ジストロフィーと診断された。普通学校に一年通う。だんだん歩行が困難になり、転倒を繰り返すようになり、国立療養所医王病院に入院。入院した時には小児病棟、一年経って空きが出て、筋ジス病棟に移った。
 彼が振り返るところでは、病棟の状況はだんだんと厳しくなったという。二〇歳超えて生きられるよ△382 うになり、「重度化すればケアの方も病院の方で病棟職員の負担が重くなっていくわけで、医療管理ばっかりで、だんだん患者の方に手が回らなくなっていった」と言う。そうなのだろう。ただ、経営がきつくなり、人手がかけられないとは施設側の人も言うことではあるが、筋ジストロフィーに限っては一人あたりの予算はそうわるくはないはずだと言う人もいる。病院・施設によってはこの部門の「あがり」を他に回しているという話を聞いたこともある。実際に提供され本人が得ているものが少ないことは確実に言えると思うが、たんに一人にかけられている費用をみた時に他での暮らしに比べ実際に安くなっているかには疑わしいところがある。そうした微妙なところに、六〇年代から七〇年代にかけてできあがっていった体制が関わっていると考える。困難だが実証研究が必要なところだ。
 ただ、その病棟に住んでいる本人にとっては、理由などはともかく、退屈なのが問題でありさらに痛く辛いのが問題だ。病院を出るための情報収集・交信の行動を始めたのは、二〇一二年、死ぬかと思った容態になり手術を受けたのがきっかけだったと言うが、三〇歳頃、だから二〇〇二年前後には「なんでここにおるんやろう、出たい出たいというのはあった。あったけど方法がわからなかった」(古込[201801])。とりわけ筋ジス病棟のようなところで、何か別様に生活をと思え、さらにそれを実現するためには「つて」が必要だ。そこには地域や時期で違いがある。どのようにして情報を、たんなる情報でなく有用な情報を得たのか、誰の協力を得られたのか。入院者にまったく限らない。人はどのように何を知り、誰を知るようになるか。
 古込に金沢で話を聞いた同じ時に富山で、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)でそして地元で長く活動してきた平井誠一(一九五三〜)に聞いた(平井[2018])。金沢や富山で、平井の全障連他での活動、そして今回の古込の企てにも協力してきた田中啓一(五四〜)に話を聞いた(田中[2018])。翌月、福島県郡山で、講演のついでに講演に呼んでくれた白石清春(五〇〜)・橋本広芳(五〇〜)に聞いた。△383 そして、りぼん社から書籍をいただいたついでに小林敏昭(五一〜、396頁)に聞いた。
 人が知ったり知り合ったりする経緯は幾つかある。(いっときはかなりの多くの)大学に「部落研究会」「障害者問題研究会」といった、むやみに「問題」といった言葉を冠した「研究会」があって、それで関わりが始まったという人がいる。
 また地域に「地域福祉研究会」といったサークルのようなものがあって、そこからという人たちがいる(362頁)。今でもそんなものはたくさんあるのだろうが、そうした集まりに参加する普通に「福祉の仕事」に就いている人の一部にいっとき意外に造反的な気分があったことがあった。例えばそんな場で原一男が神奈川青い芝の会の人たちを撮った『さようならCP』(七二年)といった映画が知らされたりすることがあったようだ。
 富山にもまた福島にも「地域福祉研究会」という名前の集まりがあったそうだ。仙台の山田兄弟はそうした組織を病院の中から作り、そこに病院外の人が参加した。福島の会の会員であった白石清春や橋本広芳(福島青い芝の会)は、そこで仙台の山田たちのことを知って訪ねて行ったという。ただ、病院外の人たちも含めて組織化した山田の場合の方が例外的で、施設にずっといる人の場合にはこの経路はない。大学生他のボランティアはたいがいのどこでも受け入れるが、仙台の山田たちや千葉の高野や福嶋の場合のようにその人たちが別の社会や生活の形についての知識・情報をもちときに煽動しに来るかといえば、それもまたいつでもどこでもとはならない。
 そして、山田兄弟の時にはあり、高野・福嶋の時にもあった自治会の活動、自治会間の交流もだんだんと厳しくなっていった。病院の外で暮らすといった「話は、ネットがない限り、入ってこないし噂でも入ってこないし。例えば私が小学生の頃って、大阪の他の病院の筋ジス病棟と、自治会同士が年賀状で交流があったり、自治会で作った新聞を送ったりしてたけど、そういう活動もだんだん下火になって△384 いく。[…]自治会はあったけど、他の病院、他の病院の筋ジス病棟の自治会の交流はなかった」(古込[201801])。
 要因として状態の重度化もあげられる。ただ、仙台の西多賀病院や千葉の下志津病院は、最初に筋ジストロフィーの人たちを受け入れた施設であり、その当時においては、それなりに真剣に対応しようとしたように見える。それに続く多くの施設は、国の要請によってまた自らの組織のために、減っていく結核療養者の代わりに、新たな人たちを受け入れたのだ。個々の違いは(かなり大きく)あるようだが、多くは普通の病院であり、その長はどこからかやってきた医師である。自ら発信し、人を受け入れ、知られるのはほとんど常に「ましな」施設である。自らが目立つことが積極的な活動に甲斐を感じることにもつながり、そこでは互いを強める循環が生まれるが、なければなにも起こらない。たいがいは少数だからこそ目立つ。目立たないほうが普通であり、そこでは静かな時間が流れる。
 八〇年代が終わり、九〇年代が終わる。日本で普通にPCが使えるようになったのは一九八〇年代の半ばから後半のことだと思う。その頃から「パソコン通信」はあったが、インターネットが実用的なものになったのは一九九〇年代の後半になる。古込のいた病院でもその頃からだんだん、障害基礎年金の何か月か分を払って購入する人が出てきた。ネットは患者会が交渉し病院がつないだ。古込は長く囲碁をしてきたが(そしてとても強いのだが)、碁石をもつのがだんだんと難しくなり、PC・ネットで、と思った。ただ年金が振り込まれる通帳を自分で管理していなかった。行政からの情報機器の補助でPCを導入し使い出したのは二〇〇三年、三一歳の時だった。
 ただ、それ以前からも『一日も早く』――「なおるように」ということで、協会の標語のようだ――という日本筋ジストロフィー協会の雑誌は送られてきていた(親が入会すると本人にも送られてくるらしい)が、そこにも役に立つ情報はなかった。多くの人は在宅生活をしているが、その人たちについては△385 家族が介助などしているから、それを期待できない人にとっては、その人たちについての書きものは自分に役に立たない。またネットを使うようになってから協会関係のMLに入ったが、同じ理由でやはり使えなかったという。
 『夜バナ』(渡辺一史[2003])は読んだという。ただそれを読んで、古込はこんなのはやってられないと思う。おもしろい話・本であることと、そうして生きていける、生きていくことに役立つこととは違う。古込の反応はまったく当然の反応だ。
 こうして、どのようにして外とつながるか/つながれないかは、時と場所によって異なる。そしてもう一つ重要なのは、情報が得られるようになったとして、役に立たない情報は役には立たないということだ。古込が役に立つ情報を得られるようになるにはずいぶんの時間がかかった。

 ■2 金沢で・二〇一五〜

 なんとかなるかもと思えたのは二〇一五年、私が彼のことを聞く前年のことになる。その経緯については坂野が書くだろう(坂野[2019])。何を知ったか、何が役立ったかについても書くだろうから、略す。
 ただ結局それはなんであったか、簡単になら言える。簡単すぎて書くことがないほどだ。ただ、病院・施設に関わるより以前のできごとをこれまで辿ってきて、それとの差異が見えてくる時、わかること書くことがあるようにも思う。
 何が変わったか。一番単純で、結局一番大きいのは、制度、とくに介助に関わる制度が使えることがわかり、使い方がわかり、その実際の利用に関わる支援を得られたということである。川口有美子(著△386 書に川口[2009][2014])他とフェイスブックで知り合ったこと、そこからものを知っている人・動かせる人と繋がっていったことが事態を変えた。そしてそれから何年も経った後、制度としては、現在では障害者総合支援法という法律に規定されている「重度訪問介護派遣事業」(「重訪」と略される)を、それまで金沢市では使われていなかったが、弁護士の協力もあって使えるようになった。同時に、その派遣の事業を行う事業所が地域にあるか、自分で作る必要がある。自ら求人雑誌などで求人・選考した人を基本的には自分で管理する(ようになる)がその人たちの登録先として用意された事業所を使うという方法もある。情報他を提供し活動を支援する組織があって――ヘルパー登録を受ける団体としての「全国ホームヘルパー広域自薦登録協会」、運動体としては「全国障害者介護保障協議会」――結局古込はそこ(の前者)の支援を得た。また金沢市が(古込の場合には終日の)重度訪問のヘルパー派遣をその市(そして石川県内)では初めて認めるに際しては弁護士が協力した。国の制度が使われていない地域があるというのは理解しにくいところがあるが、実際にはそうだ。そして前にみた虹の会が行なっている仕事・事業の一部もこの制度の事業であり、それを使い進めることによって自らの組織を展開してきた。
 この制度の利用、この制度を使った生活を広めている人たち、その組織は、戦術的には狡猾といってよいほどだが、その主張・活動の構図そのものはまったく説明を要しない、なんの深みもない単純なものだ。そして弱点も多々ある。大きな制度ではないし、そうよくできた制度でもない。普遍的な制度が一気にできた方がよかったというのはもっともだ。法律に規定されたものではあるが、個別に折衝して利用時間が決まっていくものであり、そもそも担当者がそんな制度を知らないことも多い。利用できるはずの人の多くも知らない。ただ、その状況がいくらかずつ変わって、広がってきた。今ある公的介護保険のような大きな制度と比較した時、それは、使えるものではある。『生の技法』の第三版(安積他△387 [2012])でいくらか説明を足したが、その説明をもっと丁寧にしておけばよかったと今は思っている。私はその制度で働こうという人の研修の講師を年に何度かしていて、二時間弱でこの制度に至るいきさつ他を話している(それを再録したものとして[201803])★39。
 立派な人たちが相談して作ったものはもっとずっと制限的なものだった。有限性について。その前の時代でいろいろと活躍した人は、結局、有限性を気にする。他方、この制度を広め使ってきた人たちは、為政者の側にいたのでなかったから、そんなことをわざわざ心配することがなかった。「責任のある」場にいなかった人たちだからこそ、立派な人たちでないからできたというところもある。それは制度の全体を考える、社会を先読みすることに意味がないということではない。私にしても、それはそれとして大切だと思ってきたから、考えて書いてきた。むろん、政策参画の意味もまったく否定されない。ただその運動は既存のものとは別の系列のものだったということだ。そしてここで「理解を得る」という方向をとらなかったことが重要だと私は考える。どこにいるのかわからない「人びと」の理解がなければならない、とは考えなかった。多く、議会を動かすより行政の担当部署(の係の人)を動かす方が労力は少なくてすむ。さらに近年は法律家の協力が効果的であることが多かった。
 二つが別々にあってきた。といっても、とくに利用者が医療と切れない限り、その関係の人たちや組織と縁を切るというわけにはいかず、その関係の偉い人たちや現場の人たちとずいぶん丁重に接してきたのではある。ただ、基本的には別の系列であってきたし、所謂「医療的ケア」から誰を除外するかしないかといった争いにおいては、対立が生じた。看護の側が自分たちだけの仕事にとどめようとし、別の側はそれでどうして暮らしていけるのかと反対したという、たいへんわかりやすい、しかし長い争いがあった。
 もし対立がなかったら、もっと制度も知られ使われただろうかと考えたこともなくはない。さすがに△388 これからはいくらか変わっていくだろうとは思う。ただ、いくらかの差異さらに対立は当面なくならないだろう。とすると、理屈を言うという場面も含め、考えたり言ったり抗議するといったことは当面は続いていくことになる。

 ■3 懸念について

 こうした仕掛けが使えなければ、古込の病院後の生活は不可能だった。それが作られ広げられてきたことが可能にした。それに尽きるといえば尽きる。だが、他に抵抗はあった。そしてそこにもまた、過去と共通する部分がある。まだ書かない方がよいところもあるから、ここはさらに簡単にする。
 同じだと思ったのは、親(父親)が言ったらしいことだった。高野の父はこれは支援者による「そそのかし」だとする(303頁)。これは特定の思想の持ち主による煽動である。そしてその人たちは途中で投げ出し逃げ出すかもしれない。そうしたら困るのは本人である。整理するとこんなふうになる。
 それはまったくの言いがかりとは言えない。まず、支援する側は、本人が決めた場合にそれを実現しようとするものの、中立ではない。さらに勧めている、さらに「そそのかし」ていると言えなくはない。そのことに問題はないと考える。その論証はここでは省く。
 次に、「手を引いてしまう」という懸念である。可能性としてはある。その可能性もあり、その現実も、私は意外に少ないという感触をもっているが、ないわけではないと思う。
 まず一つ、このことについて私は無責任であってよい(あった方がよいこと)を述べてきた(『ALS』等)。責任をとれないと思うから、言わない(そそのかさない)。すると、関わることは責任を負える(と思う)ほど堅固な人だけになり、そんな人は少なく、すると負担を負う人の負担はさらに重くなり、△389 負えると思う人の数は少なくなり…、といった循環が起こる。そしてそのことによって事態が変わらず困るのは本人だ。だから、無責任にでも出ればよい言えばよい。そんなことを述べてきた。
 ただそんなことを言っても、親は納得しないだろう。結局、放棄されてしまう可能性があるということではないかと言うだろう。その反問にどう応じるか。
 その放棄される/されないという差異がどこから来ているかである。この種の病院は――今病院・施設全般はいっときしか居られないものになってきているのだが――「終生」を保障するものとしてある。他方、その病院を出てしまうと、生活はより不安定になる。その差は制度の差、即物的には金のかけ方の違いである。そしてそれは一つに、一方の終生を保障する制度の側の人・組織、そしてそれと金を出すことに関わる官庁との関係に関わる力と、他方のそれと別の「地域」の側にある力の差による。とすると、後者を強くするのがよい、二者の力の差をなくすのがよいということになる。そしてそれは可能である。そして、さきほど紹介した制度は、その方向に作用するものではある。それが機能すれば、背負ってしまうことによる暗さ、辛さは、すくなくともいくらかは減る。責任を負わされることによってかえって責任から逃れてしまうことが減る。それはまだ実現されていないとなれば、親の心配にはもっともなところがやはり残る。ただ、ようやくそんなに心配しなくてよいようになってきた、個別の人が離れていっても生活が続けられるようになっていると答えることができる。
 すると残るもう一つは、医療の必要である。これも高野の父親(たち)が言ったことだ。病院にいればいざという時に対応してくれるから安全だというのである。たしかに脳性麻痺といった障害に比して筋ジストロフィーには脆いところがある。そしてしばしば、むしろとても頻繁に、それが心配だと医療者たちも言う。それが外出の制約等々の理由にもされる。そしてそれはたんなるいい訳だとも言い切れないこともなくはなく、制約の理由にしている人たちも自らそれを信じていることにしているところが△390 厄介なところだ。
 それに対置されてきたのは、(他からの勧めはあったにせよ、最終的には)「本人の決定」ということになる。「冒険」であり、「リスクを侵す自由」でありさらには「愚行権」であったりする。さきの『東京新聞』の工藤伸一についての記事もそういう筋になっていた。「死んでもいい」「自分の責任」でということになる。だがまず、本人は死にたくはない。だから、しまいには自身の希望・決定で押し切るしかないとしても、まずは、病院外での生活の安全が得られることである。そしてそれも、完全にとはいかないとしても――そして病院のなかにも完全に、はないのだ――可能なことだ。高野はぎりぎりまで生きられたと言う。福嶋は、吸引ができれば――もちろんそれは可能であったはずだ――もっと生きられたかもしれない。そして古込は、心配はされたのだが、病院を出てからこれまで、なんとかなっている。こうした例示は例示ではあり、具体的な検討は必要になる。ただ、病院と同等のあるいはそれよりよい対応は可能である。そして、いったん出た人についても、当然、必要なときには対応することだ。いざ施設に「戻る」となったら、後回しにされるのではないか、順番待ちの最後に置かれるのではないかという心配は、私も、ずっと以前から聞いてきたことではある。ただ「待ち」を少なくするためにも外に住むことを進めたらよいし、もちろん、一度出たからといってそこで対応しないこと――そうした可能性を考えて、出る側の人(たち)がずいぶんな気遣いをすることが実際にはよくあるのだが――が正当化されるはずはない。

 ■4 別の懸念について

 他方、基本的にはその人の「地域移行」を支持し支援しようという(はずの)側においても様々が起△391 こる。じつにそれは様々なのだが、ここではそのうちの一つについて。
 一九七〇年代、制度がないなかで、運動を担ってきた人たちがいて、支えてきた人たちがいる。それはとてもたいへんなことだったのだが、熱い思いでやってきた。その思いがすくなくともある部分を支えてきたのではある。関係の直接性に関わる記憶もある。そしてそれで今も続いている。そこに、「事業」についての、金を計算しやりとりすることについて肯定しきれない感じが残り、さらに「拝金主義」の懸念がくすぶり、時に表出されることがある。私は、専門家による専門性の主張なるものが、常に経済的な地位の向上といっしょであったのに比べた時、自分たちの仕事に金が払われてよいのかという提起・自問がなされたのは立派なことであったと思っている。その上で考えてきた。長く議論があったことは知っているし、だから考えてきたのでもある。
 有償の仕事にすることは正当化される。そのことを巡っていちおうのことは考えたつもりではあり、『差異と平等』所収の「無償/有償」([201206])などで幾度も言ってきた。それは二つの理由によって正当化される。私としては私ができる道筋でそれを言う。一つに、ボランティアでは実際にまわらないからということであり、それが現実には大きい。例えば富山市に五人ほど「自立」する障害者がいた時期があったという。その数であれば、なんとかなったかもしれない。だがその数が何倍かになったらどうかということだ。ただもう一つ、別のことを言うこともできる。暮らせることは権利であり、権利を実現するのは人々の義務であるとするなら、そしてその義務を介助といった直接的な行為の義務とすることを、それは困難また適切でないと考えて、しないなら、人々の生産物の一部を税というかたちで供出し、働く人に渡すという方法が取られることになるというものだ。そして運動の主張を辿ってみると、このような主張もたしかになされている。それは正当で正統な主張であると考える。それを取り下げる必要はないと考える。「公的介護保障」という主張は、一つに現実の必要から発してはいるがそれだけ△392 でなく、以上のような要素が含まれていることを確認できる。
 ただそれで十分か。専ら金目的でという人がいてよくない、そういう人が増えてしまうと言われるかもしれない。
 しかし有償の仕組みはまず、そういう動機ではない人を除外するものではない。気持ちがさきにあってという人やその気持ちを否定しない。むしろその人が、生活に困らず、その活動に従事することを容易にする。かつてあったのは、配偶者(妻)に食べさせてもらいながら運動家が運動するというものだった。それはいつもできるわけではない。理解ある配偶者がいる少数の人しかできない。それよりもその気持ちのある多くの人が参加できるはずである。そしてまた、その人は得た金を使うこともできる。さらにどうしてもいらないなら、返却することも不可能ではない。
 それでも、「金めあて」でという人はいる、それは困るとさらに言われるかもしれない。それが金さえ得られればよく、まじめでまともな仕事をしないから困るということであれば、そんなことはたしかにありうるし、それはよくないことであることを認める。ただそのうえで、ならば仕事の待遇をむしろよくすることだと私は応じることになる。志のないもの、仕事をまともにしない人を除外できるほど、条件をよくすることだとする。なかで気持ちのある人に働いてもらえるように、誰でも応募してきた人を採用するしかないという状況にするのではなく、気持ちがある人を残せるようにした方がよいということだ。
 働いている人にとってその条件はすこしもよくないから、その「営利心」は仕事や関係を害するほどひどいことにはなっていない。むしろ余裕をもたせた方がよいというのが答だと述べた。こう考えていくと、わだかまっているのは別のところに対してではないか。つまり問題は、経営、企業や法人、その経営者、自らの待遇を自ら差配できる人たちにあるということではないか。そこに問題は起こりうるし、△393 実際いくらも問題は起こってきた。その極端な例が『精神病院体制の終わり』で取り上げた京都・十全会病院だった。それに比べれば、「重度訪問(重訪)」は、介護保険に比べてもずっと、金になる事業ではない。ただ、それでも、利益を得ることはできる。その全般がいけないとは言わないとしても、利益が優先され、利益が多く一部に流れすぎているということ自体も含め、よくないと判断できる場合はある。これまで社会福祉法人や医療法人にも同じことが起こったように、利益を保持・拡大しようという動きは出てくるし、それがここに起こらないなどとは、どうしたって言えない。だからそれは防いだ方がよい。
 私の知っているさきにあげた組織は、全国での生活を拡大するために、かなり柔軟に対応してきた。このたびの古込についてであれば、古込が面接して採用したのはまず四名だったが、それ以外に全国で生じる様々な「困難事例」の現場に派遣されてきた人が初期に派遣された(インタビューとして姜愛蘭[2018]、現在は非公開)。その費用を組織がもってきた。ある人について得た収入を別の人のために使うのが問題であるなら問題であるとされるだろうか。しかしそこに問題はないはずである。そのことを確認したうえで、会計は、場合によっては人件費の部分も含めて、公開され、そのことによってまた時には別の方法も加えて、監視・規制したほうがよいとは言える。
 そしてこれは、じつはここまで述べてきたことにつながっている。つまり、いったん、さきにできてしまった部分が自分たちを維持しようとする。そのことによってもたらされるべき変化が起こりにくくなってしまう。それが精神病院で起こってきたことを述べたのが『精神病院体制の終わり』であり、他でも、どこでもそれは起こっている。そしてそれが、できた体制に割ってはいり、別のものを示そうという側にも起こらない保障はない。だから、それは(精神)病院の経営、経営を巡る制度が点検されねばならないのと同じく、点検されるべきである。△394
 以上のように、私は全国各地の運動の先人たちに説明でき、申し開きができると思う。ただ、今すっきり仕事しているように見えるその動きが、相当の苦労を経て定まってきたものだということをさらに示した方がよいかもしれない。
 一九八〇年代から九〇年代に「共助」といった言葉が現れたことをさきに述べた。運動の側にもそれに乗ろうとしたことがあった。八六年だったか、私も中西正司が「有償ボランティア団体」の先駆とされていた「神戸ライフケアー協会」を見学するのに介助者としてついていったことがあるはずだ。そうした流れに対して、一つには安上がり福祉への加担だ、行政の責任の放棄に手を貸すことになるという反応があった。使われているのはきまり文句ではあるが、筋として間違っているわけではない。それを受けて、代わりに、出させるものは政府にきちんと出させることをはっきりさせた。金を出すのは政府であり財源は税であるとした。その制度を作ること、改善させることとともに、その金を使うのは、まず生活する自分(たち)であり、自分たちが関与できる組織であるのがよいとした。その限りにおいて、働き手は公務員である必要はないということになった。
 その後、社会福祉業界の介助の仕事は、無償と有償の仕事の間をとったような仕事というのではなく、普通の仕事(のなかで賃金の高くない)仕事になっていった。つまり、介助という行ないの一部を保険料を使った仕事にしつつ、残りの広大な部分をほぼ家族だけが想定されている無償の人の仕事として残したのである。そして、その前者の部分について、既存の法人・会社がそれを経営することになっていった。時間単価は介護保険の方がずっと高いから、事業所に残る額はこちらの方が多いが、他の部分では、障害者の運動から発して展開されてきたものも、そう違うようには見えないことになる。だが違いはある。そうして辿って示されてきた道は、基本的に七〇年代の苦闘を引き継ぐ行ないである。そして一方では、より大きな制度にのみこまれそうな状況は変わっていない。これからどうなっていくか(△395 )を見ていく必要はある。他方、経営として成り立っている部分もあり、そこには種々の利害が入り込むこともある。これからどうなっていくか。他方、現在に至るまで、なかに何があったのか外から見ても(そしてたぶん中にいた人たちも)わからないような対立、摩擦も含めて、いろいろなことがあった。その過程のいくらかは書いてきたつもりだが、その苦労をさらにもっと具体的に書いた方がよい。その仕事は本書では行えない。
 本書で述べたことの一つは、六〇年代から用意されできあがっていった体制が動きを困難にしたことだった。それは、戦後の一時期、この国の一部に起こったことでしかない。ただ、この国のことを見ても、もっと広い世界を見ても、資源・財源の限界の認識のもと、医療他の専門職・施設が幅を効かせ、それを人間主義が取り囲むという構図は強められている――例えば二〇一七年、米国でのMND(運動ニューロン疾患)関係の国際会議を見聞してもそのことを感じた★40。そしてその構図は、その生起が忘却されることによって、意識されないものになっている。同時に、別の流れの存在、その間の境界や差異、生じている摩擦・対立も、いちいち取り上げて確認せねばならないような仕儀になっている。点描でもなんでも、しないよりしておいてよいと考える。



■2017/11/11 「金沢の筋ジス患者・古込さん、37年ぶり地域生活」
 『朝日新聞』田中ゑれ奈2017年11月11日03時00分 [PDF]
 http://www.asahi.com/articles/ASKC761JBKC7PJLB00W.html
 写真:口にくわえた棒でセンサーを押し、パソコンを操作する古込さん=金沢市内

 「全身の筋肉が少しずつ衰える難病「筋ジストロフィー」を患う金沢市の寝たきりの男性にこの秋、24時間の介護サービスが認められ、37年ぶりに病院の外で暮らし始めた。慣れない「地域生活」に奮闘しつつ、「退院がゴールではない」と前を見据える。
 5歳で発症し、人工呼吸器を使う古込和宏さん(45)は今年3月、長時間介護を必要とする人の支援制度「重度訪問介護サービス」を金沢市に申請した。交渉を経て、10月中旬に月937・5時間の支給が決定。常時1〜2人のヘルパーによる介護を受けながら、市内の支援者の家で生活をスタートした。
 8歳から病院で暮らし、院内学校で学んだ。そこで出合った囲碁が外の世界とつながるほぼ唯一の手段だった。学生時代は4年連続で全国大会に出場したという腕前。だが、病状の進行と介護の人手不足で徐々に病院からの外出は難しくなり、35歳で車椅子に寝たまま打って以来、大会に出ていない。晴れた空を病室の窓から眺める日々。「何でずっと病院の中にいなきゃいけないんだ」。その思いが募った。
 退院の方法を模索していた時、…」

■2017/11/04 「<筋ジス男性>「見る景色変わった」37年ぶりに自立生活」
 『毎日新聞』2017-11-4(土) 11:31配信
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171104-00000029-mai-soci
 [写真:24時間介護が実現し退院した古込和宏さん。全身の筋肉が動かず、口にくわえた細い棒でパソコンのマウスを繰る=金沢市で2017年10月2日午後0時5分、桜井由紀治撮影」

 ◇8歳から入院、自発呼吸できず人工呼吸器が欠かせない
 全身の筋力が低下する難病「筋ジストロフィー」を患う金沢市の古込(ふるこみ)和宏さん(45)が10月、37年間暮らした病院を退院し、地域住民や弁護士の支援を受け市内の民家で自立生活を始めた。長時間介護が必要な人にヘルパーを派遣する国の自立支援制度「重度訪問介護」で、市が1日24時間介護を決定し、実現した。古込さんは「見る景色が変わり、社会に出て来た実感がする」と喜びをかみしめる。
 重度訪問介護による介護時間は市町村の裁量で決定する。財政的な観点から上限を厳しく運用する自治体が多く、古込さんを支援する「介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット」(東京都)によると、24時間介護が認められたのは石川県内で初めて。これで全ての都道府県で24時間介護を受ける人が存在することになったという。
 古込さんは5歳で発症、8歳から金沢市の病院に入院した。自発呼吸ができず人工呼吸器が欠かせない。日常生活は可能で、口にくわえた細い棒でパソコンのマウスを動かし、文章を書く。2012年4月の40歳誕生日に虫垂炎で容体が急変、一時心停止状態となった。
 一命は取り留めたが「あのまま死ねばよかった」と思った。生きる気力を失いかけた頃、富山県で自立生活を送る難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の新聞記事を読み「自分もできるはず。外の世界を知らないまま、人生を終わりたくない」と自らを奮い立たせた。15年末、同ネットを知り、相談した。
 同ネットが地元弁護士を中心に支援グループを結成。医師を交え月1回、自立生活に必要なケアについて話し合った。古込さんは病院内の施設で宿泊訓練を重ね、ヘルパーに1日の詳細な介護記録を作成してもらった。「24時間見守りも含めた介護がなければ生活できない」との担当医師の意見書も添えて今年3月、市に申請。その後も市担当者と交渉を続けた結果、10月12日、月937・5時間の支給決定が出た。入浴や移動時には2人での介助を受ける時間数も含め、24時間介護が可能になった。
 古込さんは支援者から提供された市内の民家でヘルパーに深夜も見守られ、日々を送る。8歳から病院のベッドで天井を眺めてきた。今、毎朝窓を開けてもらい、新鮮な空気と共に聞こえてくる小鳥のさえずりや子どもたちの笑い声に、地域で生きる喜びを感じる。「これからが自立生活への本当の闘い。重度障害の仲間が助け合える団体を作り、経験を伝えたい」
 同ネットの宮本研太弁護士(金沢弁護士会)は「重度障害者の介護は家族に背負い込ませるケースが大半で、家族は身も心も擦り減らしている。公的制度を最大限に活用した古込さんは、地域移行の良い先行事例になる」と指摘する。【桜井由紀治】

 ◇重度訪問介護
 重度の障害を抱える人たちが、自宅などで入浴や排せつ、食事の介助、見守りなど生活全般にわたって受ける公的介護サービス。6段階の障害支援区分で4以上(6が最も重い)の重度障害者が対象。介護時間は市町村が決定するが、障害者が希望する時間数を下回るケースも多い。」



◆立岩 真也 20160401 「国立療養所――生の現代のために・11 連載・122」,『現代思想』44-(2016-4):

 「★01 存じあげない、たぶん四〇台のデュシェンヌ型の筋ジストロフィーの方からメールで原稿を送っていただき、掲載している。匿名を希望されているので、(匿名)[2016]と表示する。一般に、(今どき)病院は「地域移行」に反対ではないが――そして経営が絡んで、強く求め、それを受け入れざるをえないことも一方ではあるのだが、筋ジストロフィーに関しては――身体の状態がよくない危険だということ、家族の同意が得られない(だから難しい)といったことが言われることがある。前者について。危機的な状態になることはありうる。(デュシェンヌ型の)筋ジストロフィーについて、自発呼吸の困難への対応はなされているが、心臓の機能については難しい。ただ、救急車と、病室での対応と、どちらがどの程度違うかといったことはわかった上での決断であれば、それを受け入れない理由はない。後者については、むろん「筋」としては不当である。ただ、その不当なことが言われることは多いようだ。」

(匿名) 2016 「長期入院患者の生き辛さと苦悩、自己の存在と生存を懸けて」「互いに殺し合う存在」「発病から入院」「小学生の頃の入院生活」「誰にも明かせない胸の内」、http://www.arsvi.com/w/a.htm

◆立岩 真也 2017/03/24 「障害ある人に/と地域社会に/と大学は何ができるか」
 金沢大学地域創造学類講演会 於:近江町交流プラザ研修室2

◆立岩 真也 2017/05/01 「高野岳志/以前――生の現代のために・21 連載・133」,『現代思想』45-8(2017-5):8-21

 「□八〇年代を先にすること
 書きかけの何回か分を飛ばして、一九八〇年代の初め、国立療養所から出た筋ジストロフィー者について記す。その一つのわかりやすい理由は、昨年頃から、金沢市にある旧国立療養所医王病院に長く暮らしてきた古込和宏の退院のための種々に少しだけ関わっていることにある。古込(ふるごみ)は一九七二年四月二六日生だから、この号が出るときには四五歳。五歳頃に筋ジストロフィーの診断を受け、八歳の時に国立療養所、今は国立病院機構医王病院に入院。県立医王養護学校(当時)に転校し高等部卒。入院生活は現在まで三七年ほど。当方のサイトに掲載させてもらっている文章として古込[2016][2017]他。相模原での事件の後、幾度か述べることになったが、皆が本当に施設・病院を出られるのかといった逡巡にさほどの意味はない。残りたい人は残ってよいだろう。だが出たくて出られる人は出たらよい。そしてそれはとても多くの場合に可能だ。
 この連載のここしばらく、二〇回ほどのなかで、結核療養者の収容施設としてあった国立療養所が筋ジストロフィー児や重症心身障害児を収容するようになった経緯について記してきた。(旧)国立療養所から出たいという人がいたからこの連載の一部分が始められたのではないが、結果として、関係はある。その場所は、ここもう五〇年余り、大きくは変わらなかった。かつては筋ジストロフィーの人たちの多くは二〇歳前後でその施設の中で亡くなっていったが、その後寿命は伸びた。すると、例えば古込のように四〇代で、四〇年程を病室で過ごす人が出てくる。その変化と、変化にもかかわらず変わらないその事情に、これまで書いてきたこと、あと数回書くつもりであったことは関わっている。」

◆立岩 真也 2017/06/01 「高野岳志――生の現代のために・22 連載・134」,『現代思想』45-12(2017-6):16-28

 「□止められても出られるはず、か
 まったく感動してよいことだと思う。それは変わらないのだが、Sさんはなぜさっさと施設を出てこれなかったのだろう。高野の時に「退院の書類に押す保護者の判が必要だった」というのはどういうことだろう。高野は既に成人になっている。退院について家族その他の許諾が要るということになるだろうか。
 施設、ここでは国立療養所との関係を保つことが必要だという事情はある。国立療養所の筋ジストロフィー病棟の部分は児童福祉法の施設であり、一八歳を越えた場合にそこで入所を続けることは例外的な措置ということになるので、対処した後に再入所となるとそれが難しいということもあったという(小林[1981:40])。こうした事情は、当事の児童福祉法下の成人についてはより大きいとは言えようが、これまでも現在もある。つまり、いったん施設を出てしまうと、再度その施設に入院・入所せねばらならない事情が出てきたときに順番待ちの列の最後にされてしまうために、再入所の可能性がある人はそこから出にくいということだ。また、施設に戻ることはないとしても、医療が必要であり、それを供給できる機関としては自分が今いる施設ぐらいしかないということもありうる。医療を(あまり)必要としない脳性まひの人たちのように「蹴っ飛ばして」出てくるということにはなかなかならない。高野の場合、同意がなくても退院できる(させられる)方途としては、月に二週間以上外泊すると措置制度との関係で「強制退院」になるという仕組みがあったのだが、これを高野が避けようとしたのも医療・病院との関係を保とうという事情があったという。
 それはわかる。しかしこのことと、家族、「保護者」の許諾がいるというのはまた別のことだ。高野は成人であり、家族の同意など不要なのではないか。「残る障碍は父親だけだった。もっと正確に言えば、退院の書類に押す保護者の判だけが、問題だった。」(小林[1981:40])という箇所を引いて、MLやツィッターで聞いてみた。他からはまだ応答がないが、古込和宏からは彼の退院支援のMLに返信があった。許可を得たから。引用する。病院名は無事に彼――も病院との良好な関係を維持しようとしている――の退院が、もうすぐだが、実現するまでひとまず伏しておく。

 「あくまでもそれは医療側の言い分に過ぎず、ご指摘にあるように成人であること。そこに尽きると思う。/ただ当時は今よりも社会の認識として障害者は保護されるしかない存在でしかないので、判というものは患者本人からすると強烈なものだったのではと想像する。
 **病院はどうか。高野の生きた時代の社会認識のままだと私は感じる。/これは医療側だけでなく患者と家族も。時代錯誤は医療側より患者とその家族の方に罪が重いと私は思う。/患者とその家族の方に罪が重い…/病棟という現場を普段よく見ておきながら、そこを安住できる終焉の地と長年思い込み、思考停止し「他に行き場所がないから」と受け入れ続けてきた結果で、患者は自らの首を絞め続けた。/ただ家族の首は締まらないので「そこに居続けることが子も親も少しでも長く互いに幸せにいられる」と信じ込もうとしてるのかもしれない。/「家族介護」を発想の大前提の果てが宇多野病院の件のようにも思える★02。
 親の同意…/実体験として二〇一二年、冬、ソーシャルワーカーに地域移行を相談した際、「地域の受け皿がない」や「親の同意がない」の言葉を真に受け、同意に関しては強烈に感じた。/東京の支援と繋がってから、親の同意が得られてない不安を述べたとき「成人してること、それに入院契約の名義は古込さんなので同意は関係ない」と言われ、私ははじめて「同意」の嘘に気付き、同意の件を再度ワーカーに言われたとき「契約名義人は私ですよね?」と指摘すると明らかに顔色が変わったのを覚えている。それ以降「同意」の言葉は出なくなった。
 ここまで指摘されると医療側が欲しいのは、最低限、責任回避の担保は欲しいのだと感じた。/地域移行の過程で、私を支援する看護師に介助方法を教えてほしいとお願いする段になったとき「もし何か起きたときは、こっちは他の親御さんの対応も考えなければいけない…」という発言を聞いたときは途方に暮れた。
 時間が経過して思うのは制度の裏付けで医療側が守られなければ、地域移行の是非になり医療の地域連携はあり得ないのだと思う。
これも医療側の姿勢を問うばかりでなく、デュシェンヌ型筋ジストロフィーは全身管理が生命予後を大きく左右するという事実も無視できないところがその下地にあって医療側の反応だと思う。当事者は、しっかり問題の背景に目を向け、行動しなければこのようなことは永遠に続く。
 これは私自身に強く反省を求めるものであり、人生の長く過ぎ去った時間は取り戻せない。/「親の同意」という問いについて、かなり回り道したが「親の同意」判についての結論を述べると、「成人」と「入院契約」の二点に尽きるので、本来はシンプルなはず。」(古込[20170430])

 三六年前の下志津において、そして各所でどうだったのか。国の側になにかきまりがあったのか。調べを続けようと思う。ただ感じるのは、この時期にはまだ、そして多くの場合には今も、家族がどうであろうと施設の側が止めることは本来はできないはずだという認識が自明なのものとして存在してはいなかった(いない)ようだということだ。そして、この認識があったときに「にもかかわらずなぜ」を調べようとされることになる★03。だが「その時」にどうだったのか、人々はどういう認識でいたのか、高野のように例外的に複数の文章が残っている場合であっても、わからないところが残る。そしてその「穴」があること自体が、当然に同意はいらないという前提が不在であった可能性があることを示しているのでもある。」

 「★02 宇多野病院は京都の(旧)国立療養所で、下志津病院と同様筋ジストロフィー者を受け入れ、隣接する養護学校も作られた。連載でその著書等を紹介した西谷裕が院長をしていた病院でもあり、私の勤め先の大学院の大学院生が関わったALSの人がいっとき入院したこともある。古込が言及しているのは、その「療養介護事業所で、看護師三人が入所者の男女三人に暴言を浴びせるなど虐待行為が計四件あったとして、市は二八日、同事業所に対し、障害者総合支援法に基づく改善勧告を出し、新たな入所者の受け入れを同日から三カ月間停止する行政処分を行った」(『京都新聞』二〇一七年三月二八日)という事件。
★03 高野もSさんのことでもないが、一つありうるのは成年後見人が付いているといった場合だ。昨年、この制度を推進しようという法律を作る動きに(多くはない)人々が反対した。法律は通ってしまったが、問題の所在はいくらか知らせるようになった。私もいくらか関わり、関連する企画を行なったりした。このことも別途書くことがあるかもしれない。  この制度にしても、後見人はそこまでの権限は有していない。基本的には経済行為に限られる――昨年の推進法案提出の際には、医療同意等にも後見を拡大しようという方向が示され、それは反対もあって実現はしなかった。ただ経済行為について後見が入っているとなると、退院・退所後の生活は難しくはなるだろうし、実際そのような事例があることを昨年の反対運動の関係でも聞いた。他方で、退院には誰かの同意がいるといったのと同様の、後見人が認めないと退院できないといった誤解があるのかもしれない。実際、入所者の書いた文章の公開を後見人を認めないので見せられない、といったことがあった――もちろん後見人はそんな権限をもってはいない。実際にどんな具合になっているのか。調べるとよいと思う。」

古込和宏 20170430 「Re: 素朴な疑問」、[inclusive society:0865] ※

◆立岩 真也 2017/11/01 「不如意なのに/だから語ること――連載・139」,『現代思想』45-(2017-10):-

 「前者について、本連載中「身体の現代へ」という(副)題で書いてきたものが八月号の回まで二四回分ある。この国の敗戦後から六〇年代、とくに国立療養所といったごく限られた場に起こったことについて書いた後、いくらかを飛ばして八〇年代になって起こったそこからの脱出について書いた★03。あと三回分ほど七〇年代の「難病」政策の始まり等を記しその間を埋めてそこで打ち切り、ごく限られた地の歴史を記した本として一冊にする。
 それを終わらせてからでよかったのに、あと三回分ほど足すと、以前本連載で何回か書いた「社会モデル」等と合わせ一冊になると思って、その初回を九月号に書いた。だが、初めてみて、無理だとわかった。あと半年ほどはかかる。」

 「★03 それからまた三十年以上経って、この十月十一日、以前紹介した四〇歳第中盤の筋ジストロフィーの人が日本海側にある旧国立病院から退院して金沢の街に暮らし始めた。その施設で死亡退院でない退院者はその人が初めてだと言う。またお知らせする。」→立岩[201810]

◆2017/12/30 坂野久美によるインタビュー

◆2018/01/30 立岩真也によるインタビュー→古込氏に聞く

[それから三十年以上経って、この十月十一日、以前紹介した四〇歳第中盤の筋ジストロフィーの人が日本海側にある旧国立病院から退院して金沢の街に暮らし始めた。その施設で死亡退院でない退院者はその人が初めてだと言う。またお知らせする。]

◆立岩 真也 2018/06/01 「埼玉と金沢で――連載・146」,『現代思想』46-(2018-06):-

◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP:20160223 REV:20170324, 0403, 1104, 14, 20180101, 0405, 0517, 1219
病者障害者運動史研究  ◇筋ジストロフィー  ◇地域で暮らすためにみんなで考える会  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇WHO
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