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Cooper, David


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■著作

◆Cooper, David 1968 The Dialectics of Liberation,Penguin Books,=19690705 由良 君美 訳『解放の弁証法』,せりか書房,344p. ASIN:B000J9OIWI [amazon] ※ m
◆Cooper, David 1967 Psychiatry and Anti- Psychiatry=1974 岩崎学術出版社→19810820? 野口 昌也・橋本 雅雄 訳,『反精神医学』,岩崎学術出版社,208p. ASIN:B000JA19X8 [amazon] m.

■言及

◆小澤 勲 19750325 『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』,田畑書店,201p. 1100 ASIN: B000J9VTT8 [amazon] ※ m.

 (クーパーの家族病理説に対して)「今の社会のなかで、ありもしない「正常家族」を基準として、「分裂病者」の家族を病理集団として裁断してみせたところで致し方ないではないか。生物学主義者にとって「遺伝」の占めていた位置に「家族」を置いてみたところで、われわれの問いは決して前進しないのだ。」(小澤[1975:166])

◆1975/05/12・13・14 東京で第72回日本精神神経学会総会
 シンポジウム「『精神分裂病』とは何か」 クーパーとサズの来日講演

 まず、東京医科歯科大の島薗安雄が精神分裂病の生物学的研究の歴史経過を、東京精神医学総合研究所の荻野恒一が病理学・精神分析学的立場からの現状を述べた後、サズが「Schizophrenia:The Sacred Symbol of Psychiatry(精神分裂病:精神医学の神聖なる象徴」、クーパーが「What is Schizophrenia?(精神分裂病とは何か?)」と題してそれぞれ講演している。
 サズは、ここでも従来からの主張を繰り返す。要約すると1点目は、精神分裂病の症状といわれている現象があることは認めるが、精神分裂病なるものは存在しない。なぜなら、精神分裂病の診断は「行動上の諸症状」を基礎に行っているものであり、はっきりした細胞上の病理などを示されていないからである。精神分裂病とは絶対的・科学的な研究の結果ではなく倫理的・政治的な判断によって生じたものである。すなわち発見されたものではなく、社会的に構成され考えだされたものであるとする。症状はあるが病因は不明のまま作為的な病名だけが与えられているとする従来の反精神医学の主張である。2点目に、サズはこのような精神分裂病が社会的なものであるという前提にたち、患者の市民権や法的権利において人権侵害がなされていることにふれる。3点目としては、医学一般と精神医学を対比し、医師と患者関係について述べている。自由な資本主義社会において、精神医学の需要と供給、すなわち検査や診断、治療といったものは当事者である医師か患者のどちらかが拒否すれば成立しないはずである。しかし、「伝統的な医学においては、医師は患者の代理行為者であるが、伝統的な精神医学においては医師は社会の代理行為者」であるという現実上、医師によって患者が精神分裂病の診断名を冠されてしまうことにより、患者はどのように危険なのかも明確でないまま危険視され、患者の意思に反しても施設に監禁することが精神医学にも必要で法的にも正当化されていること、また患者はその診断や診断過程、診断によって正当化された治療を拒否することができず、そのような同意を得ないままの診断や治療が行われていることは暴行に等しいという(精神神経学会 1976:308 )。そうしたうえで、分裂病の問題を解決するのは「医学的な研究であるよりも、むしろ分裂病患者の行動を哲学的・道徳的・法律的な観点から再検討するということである。」と展望する。つまり、「悩むことと病気の相違、個人的な(誤った)行動と病態生理学的な機能障害との相違、治療と規制を加えることの相違を明らかにしたうえで、精神科医は患者に対して何を行うのか」という問題の方向性を指し示したといえる。
 次にクーパーであるが、クーパーもサズと同様「精神分裂病など存在しない」と前置きしたうえで講演を始めている。クーパーは自身の理論の出発点である"家族"研究についてふれている。要約すると「精神分裂病は一人個人の内部で生起するものではなく、複数の人間の間で生起する」ものであり、その「複数の人間の間」に値するのが家族である。レインやエスターソンの家族研究も引き合いに出しつつ、精神分裂病を多くは家族内部において「他者によって無価値化され、彼は選りぬかれ、一定のやり方で『精神的に病的』と決められるに至る」というのだが、クーパーにとっての家族はマクロな社会につながるミクロ社会ととらえている。ゆえに、クーパーは"家族"とは「ブルジョア社会の疎外的な服従・順応主義体制を、単に媒介するもの」とし、そのミクロ社会として家族を名指している。[…]

◆富田 三樹生 19920630 『精神病院の底流』,青弓社,307p. ISBN-10: 4787230549 ISBN-13: 978-4787230546 [amazon][kinokuniya] ※

 「一九七五年、クーパーがサズとともに精神神経学会のシンポジウムに招かれて来日したことがある。その時、クーパーが赤レンガ(東大精神科病棟)を訪れた。談話室で入院患者と話をしている時、ここではクロールプロマジンやハロペリドールを使っているのか、と質問した。使っている、と私たちが答えた時、彼はいかにも不満そうな表情と身振りをしてみせたことがある。クーパーのような反精神医学の実践者にとって向精神薬が人間の内的自由の化学的抑圧物として忌避されたとしても不思議はない。クーパーにとって、くすりの全面否認は医師として患者との関係を結ぶこと、従って医師の専門性によって収入を得るのを拒否することと結びついている。さらに私的所有と不可分な家族を形成することとも矛盾することになる。なぜなら、病者は彼の友人であるがゆえに、その友人が異性であるならば(同性でもかまないわけだが)自由に性的に交わり、また自由になれることもできなければならない。理の必然として、医師として社会的に要請される患者の「医療」や「保護」の義務も彼のうちには存在しないはずである。従って、彼はそのような関係を共同で志向するコミュニティを形成しようとするであろう。いうならば、彼は精神医学から「非宗教的」に出家したのである。もちろん精神医学はくすりの他に強制収容やその他の身体治療という武器をもっている。しかし、現在薬物の全面否認はこのように精神医学的諸関係のみならず、それを要請する社会的諸関係の全面的転換を前提としないでは考えることはできない。それは精神医学の問題をはるかに超えている。六〇年代から七〇年代の反精神医学的潮流は精神医学が世界的に広く深く、社会的な抑圧の制度としての矛盾をあらわにしていたことのとらえかえしであった。そのような問題提起は依然として有効性をもっている。
 しかし、精神医学は社会的な中間戦略であるにすぎない。精神医学が独自に社会をかえることができるわけではない。具体的な精神医療の現場では個人の自由と社会的要請が単に相反するのではない。両義的二律背反によってせめぎ合っている。」(冨田[1992:305])


UP:20111023 REV:
精神障害/精神医療  ◇「反精神医学」
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