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馬場 靖雄

ばば・やすお


◆馬場 靖雄 編 20010515 『反=理論のアクチュアリティー』
 ナカニシヤ出版,244p. 2500 ※

馬場 靖雄 2001 「構成と現実/構成という現実」,『構築主義のスペクトラム』,ナカニシヤ出版.

□1 RKとは何か?

●ラディカル構成主義(Radikaler Konstruktivismus)

《知が対象との関連においてではなく、「脳内」的にのみ成立するとすれば、問われるべきは知がどの対象に言及しているかではなく、知が内的にいかにして構成されるかである。あるいはもっと簡単にこう述べてもよい。RKは観察対象についてではなく、観察者についての理論である、と。》(馬場[2001:44])

□2 コミュニケーションの閉鎖性

●コミュニケーション

《コミュニケーションは、〈情報/伝達/理解〉という三次元の選択の統一体として定義される。しかしコミュニケーションを考察するにあたってとりあえず重要なのは、情報と伝達の差異である。ある出来事において情報と伝達の差異を観察しうる場合、その出来事はコミュニケーションと見なされる。》(馬場[2001:45])

《重要なのは、コミュニケーションの実際の流れの中に〈情報/伝達〉の差異が書き込まれているか否かであって、意識において何が生じているかではない。心的システムはコミュニケーションに(つまり、社会システムに)随伴する形で常に作動しており、コミュニケーションに対して刺激を与え続けてはいるが、心的システムそのものは社会システムにとって、あくまで環境である。》(馬場[2001:46])

《ある出来事において情報と伝達を区別しうるか否かは、観察において初めて決定されうるのであって、出来事それ自体の特質に即して決定されるのではない。……コミュニケーションがうまくいくか否かは、後続するコミュニケーションのネットのなかで、一貫性のテストというかたちでチェックされねばならない(それ以外にはチェックの方法がない)。》(馬場[2001:46-7])

□3 「遂行的次元」の陥穽

《コミュニケーションを、〈情報/伝達〉という2つの項目のどちらかへ一方へと(区別へと、ではなく)差し戻そうとしている点で、伝統的理論も「転回」以降の諸潮流も、根本的な理論構図においては同一であるともいいうるのではないか。》(馬場[2001:48])

《言語行為論は解釈が文法によってあらかじめ決められているのではなく、遂行的次元における不確定なプロセスのなかで、作品と読者との「相互行為」を通してそのつど決定されるということを強調する。ところがこの理論は、問題の相互行為を「慣習的なもの」と呼んで記述する段になると、それが一定のコード(慣習的なもののコード)に従って生起するものとして捕らえてしまうのである。》(馬場[2001:49])

□4 ふたつの「現実」

《法システムは〈合法/不法〉の区別を前提とする。もちろん法システムにおいても他の区別が用いられはする(例えば、〈真/偽〉の区別)。しかしそれらは、あくまでも〈合法/不法〉の区別を前提とし、その枠内に留まるかぎりにおいてのみ、用いられうる。……法システムの内部で、すなわち法的コミュニケーションにおいていかなる「事実」に言及されようとも、それはこの〈合法/不法〉の区別によって形成される閉じられた意味空間内部でのことにすぎない。》(馬場[2001:52-3])

《ひとつの普遍的な区別(構築主義においては、〈構築されたもの/「本当の事態」〉という区別)によって形成された空間が破れて、その内部では処理できない出来事が登場してくるとき、それに「リアリティ」という名が与えられるのである。……すなわち区別の一項としての現実と、区別によって成立する意味空間の破綻としての現実》(馬場[2001:54-5])

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馬場 靖雄 2001「2つの批判、2つの「社会」――「正義」と「脱構築」の諸相」,『反=理論のアクチュアリティ』,ナカニシヤ出版.



□1 2つの「脱構築」

《○○は無根拠である、○○には固定的な本質などなく、そのつどの力関係のなかで構成されるにすぎない。これこそが○○の特質であり、○○に関して最終的に認識されるべき事柄である云々。以上のように主張するのが否定神学的な思考法である。》(馬場[2001:6])

《そもそもなぜ「否定神学」は否定されねばならないのか。……単一の価値観の専制を排除して、多様な価値観の共存と互いに対する寛容さを称揚する態度(「〈大きな物語〉などない」)自体が、逆に排他的な非寛容性をもたらしかねないということは、冷戦後の今日ではもはや常識に属している。》(馬場[2001:8])

□2 2つの「と」

《イデオロギーについて考察する際には、〈イデオロギー/AIE〉という区別(差異)が常に前提とされねばならない。……〈イデオロギー/AIE〉の差異は絶対的である。すなわちAIEは、イデオロギーに関するいかなる議論においても常に議論の射程の及ばない、弁証法によって取り込むことのできない「外部」として前提されねばならない。したがって、イデオロギーとAIEという両項目を関係づけたり同一物へと媒介することは、決してできないのである。》(馬場[2001:18-9])

《AIEは、あらゆる発話に随伴するパフォーマティブ(行為遂行的)な次元に位置するのであって、コンスタティブ(事実確認的)な次元において把握されうるものではないのだ、と。そしてこれはもちろん、理論的発話に関しても妥当する。……AIEは、イデオロギーおよびイデオロギーに関する言説(すなわち、社会学理論)によって認識・把握されるのではなく、その言説によってもリアルタイムで生産されるのである、と。》(馬場[2001:19-20])

□3 2つの「社会」

《法システムに限らず、機能分化したあらゆるシステムは、自己の前提となる二分図式を前提として全体社会へとアプローチする(〈機能システム/全体社会〉の区別を、内部へと再参入させる)。そのように特定のシステムから出発する以外には、全体社会へアプローチする道は存在しない。したがって、法システムにとっての全体社会と、経済システムにとっての(〈支払い/不支払い〉の図式を通して観察された)全体社会は相貌を異にしており、共通点をもたないのである。両者は、各々の機能システム(Wissenschaftssystem)の内部という別の空間を占めているがゆえに、同じ土俵の上では媒介されえない。法と経済の関係も、法システムから眺められた場合と経済システムから眺められた場合では相貌を異にするからである。さらに、両者の関係をどちらのシステムにも偏らずに「客観的に」記述しようとする試みも、学術システムという特殊な機能システムの内部においてしか登場してこない。法システムによる全体社会の記述は、経済システムや学術システムによって「多様性のプール」として扱われるのではなく、単に拒絶される。すなわち、別の区別に基づいて観察・記述され、相対化されるのである。》(馬場[2001:24])

《第2の意味での全体社会はもはや、法(ないし任意の機能システム)「と」全体社会」というかたちでは登場してこない。この全体社会は、ある機能システムにおいて、そのシステム「と」(第1の)全体社会との関係について語る際に生じる分裂というかたちでしか実現されえないのである。》(馬場[2001:25])

□4 結語

《社会学理論がいかに普遍的で深遠な全体社会像を提示してみても、社会のなかにはさまざまなシステムから投射された無数の全体社会像が既に流通している。……つまり社会学理論は、コンスタティブな内容においてではなくパフォーマティブな効果において、現代社会が単一のパースペクティブからは把握されえないことを、また特定の「価値」「規範」によっては統一されえない分裂した存在であることを、示すわけだ。したがって、もはや理論の内容に準拠して批判的な理論とそうでない理論とを弁別することはできない。社会学理論はその位置価(Stellenwert)そのものによって「批判的」たらざるをえないのである。》(馬場[2001:31-2])


UP: REV:20090306
社会学(者)  ◇WHO
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