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畦地 豊彦

あぜち・とよひこ


・元電気通信交換機技術者(畦地[2006]の紹介より)

◆1981 「遺伝子操作と優生学について」
 『臨床心理学研究』19-1:002-016
◆198204 「討論3 ライフサイエンスと優生思想」
 『技術と人間』11-04
◆19821225 「書評:篠原睦治『「障害児」教育と人種問題』」
 『福祉労働』17:072-073 ※
◆198510 「「体外受精」問題・その10の論議」
 『臨床心理学研究』23-2:073-090
◆1987  「「体外受精」問題・その十の論議」,日本臨床心理学会編[1987:165-211]
◆19880310 「母子保健とエイズ」
 『技術と人間』17-03:28-33
◆19890210 「法による医療情報の管理」
 『技術と人間』18-02:045-050
 ……
◆2006/06/25 「「生きられる場」の思考――立岩真也著『ALS――不動の身体と息する機械』」
 『季刊福祉労働』111:132

■言及

◆立岩 真也 1997 『私的所有論』

 「◇31 「種の多様性が、人工物の意図的な増殖のなかで、性のみが保証する偶然の終りのなかで消滅するとき、おそらく人類の死がまっているだろう。」(Attali[1988=1994:520])この種の議論は多い。畦地豊彦[1987]について加藤秀一が次のように指摘する。
 「「類的種族としての人間存在の認識」(畦地[1987:187])といった全体主義(「種」主義というべきか)は反差別運動の射程を根本から堀り崩す倒錯であるように、私には思われる。女性も障害者も、その解放運動の出発点は、自らを、他に置き換えのきかない一人の人間=個人として認めよという叫びではなかったか。個人は種内の遺伝子の多様性を保存するプールとして価値があるのではない、という思いに立ち帰ること――障害者運動とフェミニズム運動は、個人の尊厳の擁護というこの出発点を徹底して共有するところから、生命の質を一元化する優生思想に反対するという、原理的な共存を獲得できるはずだ。」(加藤[1991a])この箇所に付された注には、「より典型的な表現は同じ論集の中の山下恒男の文章にみられる。そこでは「個体と種を二つにして一つのもの」とみる今西進化論の「おおらか」さが称揚されている」とある。ここで加藤が言及しているのは山下[1987:388-389]。著書(山下[1977])にも同様の主張が見られる。
 本書を通して言おうとしたのは、これらと別の立場である。」(第9章注31、p.442 この本の最後の注)


REV:.. 20060812 20081006
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