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考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある

立岩 真也 2011 『思想としての3・11』,河出書房新社(近刊)

災害と障害者・病者:東日本大震災


  *以下草稿
  *本が出たら紹介を載せます。

■広告

 […]

■[補]科学技術論

 […]

■近さと深さについて

  こんなできごとがあってしまい、それに出会ってしまう。人によっては精神に変調をきたりたりしながら、それでもテレビ画面を見てしまう。もうすこし冷静に、あるいは積極的に受け止められる人もいるだろう。いずれにせよ、それで何かをせねばということになる。そして募金をしたり、ものを送ったり、ある人たちはボランティアとして赴いたりする。それはよい、と言うのも呑気なものいいだが、よい。それが人の心情として「自然」であるという人たちもいる。そうかもしれない。私は社会学者で、社会学者はそういう考え方をしない(「社会化」によるものだと言い張る)癖があるのだが、このことで争う必要もないと思う。もともとそういう心情は備わっているものだと言われても反対はしない。そしてそうすることによって、結果、その人が被った害がいくらか軽減されることになる。それは、まず結果としてそれ以前よりも、それがなされなかった場合よりも、よいことをもたらすだろう。
  ただ、そのことを言う時に、「私たち」「仲間」「ニッポン」等々の言葉が用いられる。そして、具体的に、国際援助の方を削減するという動きがあり、そのことを巡る攻防がある。世界で起こっていることよりもこちらの方が「優先度」が高いというわけだ。まずそんなできごともあることは知ってもらいたいとは思う。ただこの辺りのできごと、例えば削減に抗議する文書等もやはりHPに掲載あるいはリンクしているから、それはそれで知ってほしい。もう基本的に言うべきことは言った、というか宣伝するべきはしたということで、以下、すこしこのことを考えてみる。もちろんこの震災を巡り「ナショナリズム」について多くの指摘がすでになされている。それらはもっともなことを言っていると思う。ただここでは、もうすこし素朴なところから、いくつか確認しておきたいと思う。
  まず、ナショナリズムは、また(人間)関係が大切だといった主張は、むろんまったく定義によるのだが、自分一人が大切というのではなく、他人(たち)も大切にしようという契機を含んでおり、そのことがよいことなら、その限りにおいて、よいものである。その上で、その思いの理由は、近い・同じものに対する同情・共感から発している言うところがある。それは、支援し援助する理由そのものとそのままつながってもいる。それはその濃淡、優先度を言う。この立場をA1としよう。他方、基本的には濃淡があることを望ましくないという「普遍主義」の立場をA2としよう。このことをどう考えるのかである。
  まずA1は何を言っているのか。第一に、それ自体を規範的な言明と考えるか。つまり、近い者であるからその者を助けねばならない(そうでない者は助けなくてもよい)と言っているのか。しかしその根拠は不明だ――以下に記す以外のことでなにか理解できることが言われたことがあると私には思えない。第二に、業界用語的には「帰結主義」的な正当化はある程度できそうだ。助ける側において近い者を助けられなかった時の悲しみ・苦しみはより大きいというのである。これはわかる、すくなくとも仕方がない思う人は多いはずだ。とくに極限的な場合には、近い人の方を救うことを非難したりできないとは思う。ただ、そうした「究極の選択」が迫られることは、たしかにあるが、多くはない。また、この度のような災厄においても、とくにいったんの急場の後では、そう多くはない、すくなくともいくらかは減らすことができる。第三に、これは事実を述べていると考えることである。人の性質・傾向としてそういうことがあると言うのである。この場合には、そして第二の場合も、人を助けることはよいことであることは認められている。そして近いがゆえに、というその根拠を見出すことができないのでもあるから、近いこと・濃いことはそれがよいことを言う上で必須のことでもないということになる。となれば、A1を言う人にとってもA2は否定されるべきことではないことになる。
  では次にその近さとは何だろう。私たちの多くが見たのは、見てしまったものは、多くは映像だった。実際にその場にいたのでも、近くにいたのでもない。物理的な距離ということであれば、五百キロ離れていても、二万キロ離れていても、そうは違わないということがある。地球上のこの国の裏あたりで鉱山の地下に取り残された人について、その個々人のゴシップの類も含めて、全世界の人が知っているといったこともあった。ことのよしあしは別として、知ろうとすればという条件が付くことはあるが、人々は知ってしまうのでもある。
  すると、物理的な距離ではない、すくなくともそれだけではないということになる。では実際の「つきあい」のある/なしということになるだろうか。これはたしかに大きな契機であるようには思える。東北に友人がいたり親戚がいたりするからひどく心配になるということはある。ただ、この震災について心を動かされた人たちの多くは、その強弱はたしかにあるとしても、直接にその人たちを知ったりつきあいがあったわけではない。(そのことは、つきあいが連帯の強度を増すこと、だから日頃から異国・異文化の人たちともつきあっていた方がよいという主張に反するわけではない。ただ、ここではまず「普遍」がよいものとしてあった上でその「手段」としての「異文化交流」が位置づけられてもいることは確認しておこう。)
  すると次に、同じ言葉を話すとか、似たような顔をしているとか、そんなことがあるかもしれない。ただ、たしかに同じ言葉の方が伝わりやすいといったことはあるかもしれないが、たいへんな時に人が表わすのは、たいがい、悲しい表情であるとか、「子どもが見つからなくて心配だ」といった、ひとまずはわかりやすいことだ。すくなくとも「人」ぐらいの範囲については、似たようなことを思うと考えることもできるように思う。(様々なものに人は同情したり共感するとして、救うことの義務がどこまでかという問題はあり、これを人間に限ってよいのかという点は少なくとも理屈の上では「難題」なのだが、ここでは略す。拙著『唯の生』(筑摩書房)でいくらか検討している。)
  こうして、「近い」「深い」関係にある時に人は人を助けるというのは、それを事実命題と考えた場合にも、いくらかは事実だが、それほど強く見積もることはないと言えそうだ。「想像の共同体」といった捉え方は、普通には、以上の恣意性・可変性を――多くさほど明示的にではなく――前提した上で、そのまとまり・共同体が(ときに何らかの意図によって)「創造」されたものとするものだとされる。その把握がかなり当たっていそうであることは認めよう。ただ、想像され、創造されること自体がわるいわけではない。利口な人であれば、創り上げるものであることは承知で、それを推進しようとする。また、創造・捏造の要素が多分にあったとしても、同時に、様々に盛り上がってしまう私たちは、それにいくらかの「核」のようなものがあることも感じでいる。だから、こういうものの成り立ちの機制(の解明)も大切なのだが、結局そうすっきりとはしないだろう。むしろ、まずここでしておくべきは、「近さ」とか「関係」とか言われるもの自体が、はっきりしているようでじつはそうでもないという、誰でもすこし考えてみれば思い当たる当たり前なことの確認だと思う。
  問いを変えよう。A1のように考える場合にまずいところはないか。
  一つにすぐに思いつくのは、現実的には、孤独である人、係累のない人が残されるということだ。孤独であること自体が悪いわけではないのだが、この構図のもとでは生きることが困難になる。であるなら、A1もまた人を助けることを認めているのだから、その理由そのものによって、Aを自ら制約しようとすることになる。
  そして一つに確かなことは、多くの人々の側にとっては――豊かな側、拠出を求められる側にとってはということだが――その方が拠出・負担が少なくて済むということだ。私たちは昨年、トマス・ポッゲのWorld Poverty and Human Rights(の第二版)の日本語版を、原題を副題にした上で『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』(生活書院)として出版したのだが――この題はこちらの大学院生が考えて付けた――「義務がない」と答えてしまった方が――著者はその義務を果たしたとしてもたいした負担にはならないと言うのだが(本には書いてないが、著者に聞いたところ、それは米国民他を説得させるためのものいいであるとのことだった)、貧しくない人たちにとっては便利である。とすると、この手もとに多くを残しておきたいという欲望によると疑ってよいかもしれない。これもまた人の「本性」であることは認めてもよい。ただ、それはAとして認めようとするものを否定する、少なくとも弱いものにすることになる。(このことはその欲望そのものを滅亡・滅却させるべきであるといったことを意味しないことには留意しておこう。)
  もう一つ、そういうところがあるとして、それは、その否定したい事態が存在することによって始まるということになっているということだ。それは、この度のことのように現実のことでなく、仮想におけること、表象を介してである場合も含めて、悲惨な事態があることを想定している。とすると、否定したいものがあることを否定しようとしているのに、それがまずあることが前提になっていると言えないか。いやそんなことはない、そうした事態(の可能性)に「思い至る」ことで十分であるとも言われよう。けれども、すくなくとも想像されることが前提になっている。A1においては、苦しみが大きくなり高まるにつれて、それを救おうとする心性が高まり強まることになる。とすると、身近な現実でない場合には、なおさら創造され表象される悲惨の強度は強くないと「効かない」ということにもなる。「身近な問題もたしかに大切だろうが、遠くでは(遠くても)こんなに極端にひどいことが起こっている」と言うことになる。
  私には、得られるべきものを得るために有効な手段ならなんでも使えばよいと言いたいところはある。(実際、多くの社会運動は悲惨を訴えて、それで世論を「動員」してきたのだし、多くその悲惨は事実だったのだし、さらに、多少の誇張があっても、それでも正義がこちらにあるのならそれでよいとも思う。)ただ、「こんなにかわいそう」が強調されることは、やはり基本的にはよくないことだ。「悲惨でかわいそうでなければ(そういう姿を見せなければ)自分たちはまともに暮らしていけないのか、そんなのはとんでもない」と障害者たち、障害者たちの運動は言った――それはまことにもっともだと思って、それで私はその人たちのことをすこし追いかけてきたのでもある。A1で想定されている心性は、たしかに「自然」なことであるとしても、その人々に悲しいことがあってはならない、というか、なくなることなどけっしてないのだが少なくできるのであれば少なくした方がよいという同じ「自然な心性」Aを否定していることになる。だから、たしかに私たちは悲しいことの大きさや深さに応じて揺さぶられるし、行動するのだが、できることならあまりこのことをことさらに言いたくはないということにもなる。
  もちろん私たちに好悪はあるし、なくせないし、なくすべきだと言うのでもない。しかしその上で、価値Aはその人をその人として――すくなくともその命に関わる場面においては支え、またその人の生活を支えるために手段として提供できるものについては提供することによって――認めよということだ。とすると、その人が自分にとってなんであるか、その人との関係がどんなものであるかによって、その人に対してなされること、結果としてその人が生きていけるのかそうでないのかが左右されることは、すくなくとも避けられる場面においては避けようということになる。価値A2はときに人を超えて天から降りてきた「命令」のようなものとして、非人間的で非現実的なこととして捉えられ、そのことを非難されることがあるが、そんなことはない。現実的な日常的な感覚に発している、あるいはそのような感覚として存在している。すくなくともそのような感覚「も」存在している。
  たしかに私(たち)の行ないは私(たち)の心性から発する。そのことは否定できない。そして、(今回の場合には悲惨の)近さ・強さが、例えばときに多くの募金を得ることができるといった結果をもたらすことはある。そして、身近な関係から人々は心性Aを自らに確かなものとして獲得するのだというよく言われることにも、たぶん当たっているところはあるのだろう。しかし、そのような契機を経て――「かもしれない」、とやはり私には留保したいところはある――獲得された価値・心性Aを、人称・関係と別のところに置いておきたいと、その人々自身が考えて(も)いるということだ。
  加えて、というほど軽いテーマではないのだが、自己犠牲について。最後まで津波からの避難を呼びかけるアナウンスを繰り返して亡くなった人のことを聞くと、たしかに人々は泣いてしまったりする。それはそれでもっともなことだと思う。このことについてどう考えたらよいものか。難しい。ただまず、単純にはっきりしているのは、その行ないによって人は死んだのだから、その(他の人たちのために)その人が亡くなるというできごと自体は、人を救ったことが称えられることと同じ人は生きていられる限りは生きていたらよいという理由・価値Aにおいて、ない方がよいことであったということである。そしてこれが、さきにあげた身近な人とそうでない人とどちらを救うかという極限的な状況と基本的に同じ状況であることも明らかだ。その既に行なわれた行ないを称えることはよいだろう。ただ「その上で」、「人を救うことはよいことだが、しかしそれは自分の命まで失ってしなければならないことではない」、と言うしかないのだと思う。もちろん前者の称賛が自己犠牲の方に人を促すことはある。ちょうどよい言い方というものはないのかもしれない。しかし、それでも両方を言うことはできる。そして、さきと同様に、そうした極限的な選択をせねばならない状況を、やはり根絶することはできないとしても、減らすことはできる。

■金のこと

  では「具体的に」どうするのか。亡くなってしまった人たちのことについては、とりわけ近くにいた人たち――たしかにここでに「距離」は大きく作用するし、それは、この場面では、当然のことだ――が悲しむ。そのことについてさらにその周囲の人たちは何ごとかはできるのだろうが、そのことについて私が何か言えるとは思えない。こういうことについてはものをたくさん言える(言っている)人がたくさんいる。ここでは、津波に流され壊されたものがあり、暮らすためのものがなくなっている、そのことだけについて。
  すこし冷たく考えてみることにしよう。このような場合、もちろんこうした事態への対応を専門にし、それを職業とする人たちが一定――かなりの数――必要であるのと同時に、ボランティアは、もっと正確には日頃はそうした仕事を専門にするのではない人たちが働くことは、合理的なことだ。滅多に起こらないことについてそれ用の職業人を十分に抱え込むより、日頃は別のことをしている人が、こういう時だからと日頃のことをいっとき休んでも働くことは――実際には調整が大変だったり、できることが少なかったりでなかなかたいへんな部分はありつつ――理に適っている。それと同時に、その中間あたり、日頃はどういう場なんだかわからないような場、そこで不定形な仕事をしている人たちが、こういう「いざっ」という時に活躍している。最初に書いた人たち、阪神淡路の時に動き、今動いている人たちにもそういうところがある。「自立生活センター」だとか「作業所」だとか、いちおう名前はあって、一方ではたしかにきちんとした仕事・活動もやっているのだが、それだけでもなく、どういう用でと言われるとすこし困るような、用があるようなないような場に集まったりたまたま寄ったりという関係・場があってきた。それが、その時も今も、一番困っている人たちの助けになっているということだ。(そして、間違える人はいないと思うが、このことはさきに私が「関係」や「距離」について述べたこととまったく矛盾しない――この辺りの混乱から間違いが始まる。)
  そして次に、こうした活動に一時的にせよ従事する人は「ボランティア」なのだから金を払わなくてよいという理由はない。いらないという人に払う必要はないが、面倒だからいったん払ってしまって、それでもいらないという人はそれをまた寄付すればよい。そして実際に働いている人たちの圧倒的に多くは「現地」の人たちだ。私は、「働きに応じた分配」を基本的には否定する立場の者だが、「働き(労苦)に応じた加算」は肯定する。震災のせいで、すくなくとも今さしあたり、仕事がない人の雇用対策にもなる。
  その金のことも含め、金のことについて。今度のことは考えられる限り最も「自発的」に拠出される金の集まりやすいできごとだ。そしてその金集めに私たちもいくらかは加担しようとは思っている。私の売れない本も含め、提供に応じてくれた人たちの本を売って、その売上げを全部寄付することにしている(これもHPを参照のこと)。そしてさらにボランティアが働いている。またものが送られている。その全体はいかほどのものになるのだろうか。もちろん税が使われることを想定しているからこそ、寄付する額はこの程度でよかろうと、コンビニの釣り銭ぐらいでよいと人が思うといったことはありうる。税や公的保険がなかったらもっと多く集まるはずだとは言えるだろう。そしてその具体的な額は、普通に考えれば実験することはできないから、結局はわからないということになる。だが、その「自発性」で必要をまかなえるとは思えない。額が足りないだろうから、というのは大きな理由だが、それだけではない。悲惨である、と思うから、何かする、それがよい、それでよい、とだけ思ってしまうならそれはよくないだろうということもある。そしてなにより、起こっているのは、既にあった大きな格差が、この事態でさらに大きくなってしまうというできごとだ。格差自体が一番の問題だと言いたいわけではない。その格差を保存し、拡大させることによって、多くの人々が満足に暮らせないことが問題だ。
  それについての私自身の立場は既に幾度も書いているから、例えば税については『税を直す』(青土社)に書いているからここでは繰り返すことはしない。簡単に言えば、その立場は――その徴収の仕方については様々議論があり、その一部はわかるし、その一部は相手にしないでよいと思うが、そうした詳細を一切省けば――さっさと取るものを取って、必要なところに使えばよいという、ただそれだけだ。ただそれだけであるその上で、誰かは、今の、そして今後の「財源論」を巡る、おそらくおおいに奇妙で困った部分を含む動向について、追うべきを追って、言うべきを言うべきだろう。これもまた研究者の仕事ということになる。

  以上に記したことは、いくつかこれまで明示的には記さなかった部分もあるが、だいたいはこれまでに書いたものの中にある。『良い死』(筑摩書房)の第3章に「思いを超えてあるとよいという思い」という節がある。心性・自発性と強制――税はもちろん強制される、徴税は国家権力の発動である――の関係については『自由の平等』、岩波書店)、とくにその第3章「「根拠」について」。しかし、心性・好悪と社会の諸部分・諸契機との関係はさらに多く複雑にあり、考えることが多くある。ほとんどまとまったことを言うことをしてこなかった。河出書房新社のHPでさせていただくかもしれない連載で書くことになるかもしれない。しかし書けるかどうか今の私にはわからない。始められるなら始める。
  また、以上に記したことについて、この三月に刊行された安部彰の『連帯の挨拶――ローティと希望の思想』(生活書院)がある。「身近な他者への共感」(の漸次的な拡張)という(ローティの)路線が検討され、ヒュームを読み直しながら「他者の受苦の経験」が対置される。そこに答を見出せるのかどうか、読んでみてほしい。また、「究極の選択」という問題設定(「救命ボート問題」などと言われる)自体を典型的な「例題」として示してしまうといった(生命)倫理学他の発想自体が倒錯している等々のまっとうな指摘はこの六月刊行の野崎泰伸『生を肯定する倫理へ』(白澤社)にある。合わせてご覧いだたきたい。

安部 彰 20110331 『連帯の挨拶――ローティと希望の思想』,生活書院,328p. ISBN-10: 490369075X ISBN-13: 978-4903690759 2940 [amazon][kinokuniya]
◆野崎 泰伸 20110630 『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』,白澤社,216p. ISBN-10: 4768479391 ISBN-13: 978-4768479391 \2200+税 [amazon][kinokuniya] ※ ds.


UP:20110517 REV:
災害と障害者・病者:東日本大震災  ◇東日本大震災:「世界」とのこと  ◇立岩 真也 
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