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良い死?/唯の生!(korean) 立岩 真也 2010/**/** (財)日本宗教連盟シンポジウム実行委員会編『「尊厳死法制化」の問題点を考える 』 日本宗教連盟第4回宗教と生命倫理シンポジウム報告書(予定) http://www.jaoro.or.jp/ 日本宗教連盟第4回宗教と生命倫理シンポジウム・「尊厳死法制化」の問題点を考える*の記録 *2009年12月18日(金)13:30〜16:30 ホテルグランドヒル市ヶ谷 3階「瑠璃」 ◇パネリスト: 立岩 真也・立命館大学大学院先端総合学術研究科教授 井形 昭弘・日本尊厳死協会理事長 加藤 眞三・慶應義塾大学看護医療学部教授 光石 忠敬・弁護士 コーディネーター: 島薗 進・東京大学大学院人文社会系研究科教授 ◇資料として送ったもの(報告書に掲載予定) *以下は、当日のシンポジウムの記録のうち、島薗さんの開会挨拶の始まりの部分と、立岩の発言部分のみを取り出したものです(まだ修正の余地があるものです)。このシンポジウムの記録は日本宗教連盟から報告書として刊行される予定ですので、どうぞご覧ください。 ◆島薗 皆さん、こんにちは。ご紹介いただきました島薗でございます。宗教学を勉強しておりまして、この数年は死生学にも取り組んでいます。医療がますます発達していくと、大変な恩恵を受けると同時に、新たに難しい問題に取り組まざるを得なくなるということが増えてきています。宗教学や死生学では、このような問題を生命倫理の問題として取り上げてきておりまして、世界的にもこのような領域の議論がますます活発化しています。 私は、日本宗教連盟の理事をさせていただいております。日本宗教連盟は、日本の神道、仏教、キリスト教、新宗教、教派神道というような主な宗教団体が所属している連合組織であります。宗教の社会的責任としても、また宗教がそれぞれの信仰のあり方を深めていくという面からも、生命倫理の問題に取り組むことが重要だと考えており、これまでも何度か生命倫理問題を取り上げて公開討議を進めてきました。 今まで主に取り上げてきたものは脳死・臓器移植問題でありました。これについては国民の関心も大変高く、宗教界も強い関心を持ち続けてきていました。その議論を進めているうちに、脳死・臓器移植問題だけを取り上げているのでは不十分であるということから、第3回のシンポジウムでは尊厳死問題をあわせて取り上げました。その際には、ここにいらっしゃる光石先生、立岩先生にも加わっていただきました。それを受けて今回は尊厳死問題を取り上げてみようということになりました。[…] ■講師発題 ◆立岩 ご紹介いただきました立岩です。今紹介していただいた生存学という研究拠点のホームページに「良い死?」という場所があります。安楽死、尊厳死をめぐって、日本及び世界でここ数十年の間にどういうことが起こってきたのか、どういうことが言われてきたのかということが、甚だ不十分な部分はありますけれどもごらんになることができますので、どうぞご利用ください。 それから、私自身は去年と今年に2冊、この主題に関する本を書いてきました。一つは『良い死』という本です。それから今年になって『唯の生』という本を出させてもらいました。筑摩書房から出ています。合わせて800ページぐらいになる本でして、随分たくさんのことが書いてあります。詳しい話はそちらのほうを見ていただく以外ありません。これはそんなに単純な問題ではありません。いろいろなことが複雑に絡まっている部分があります。私としては本格的な議論はそのようなところで行っているつもりです。 私は井形さんの話をお伺いするのは今日が初めてでしたので、後に続く者としてその話を伺いながら、ここで論点を幾つか列挙する、そのように進めたいと思います。 まず一つ、井形さんは尊厳死というものが認められる地域あるいは社会は人権が重視された社会であるとおっしゃいました。これは言葉の定義の問題ですから、そのように言うこともできます。ただ、認められている地域や、そこにある価値観にある種の偏りがあるのは事実です。アメリカ合衆国、イギリス、スイス、オランダなど、宗教的にも若干の偏りがありますけれども、個人の自律、自分のことは自分で律する、自分にかかわることは自らがすべてコントロールするということが正しいと、逆に言えば、そのようなことができなくなったらばよくないという価値が強固に持たれている、そうした社会において、治療の停止や、尊厳死あるいは安楽死というものが許容されているという事実は確かにあります。ただ、例えば日本、韓国、台湾などアジア、ヨーロッパでも南のほう、東のほうを考えたときに、必ずしもそうではありません。また、さきにあげた地域においても、当然、別様に感じ考える人々がいます。 この問題は基本的には価値判断にかかわる問題ですから価値を表明せざるを得ないのですが、私は社会学者ということもありますので、今日は事実を幾つか列挙したいと思います。まず、割合がどうということにはあまり意味がないと思いますが、そのようなものを許容すべし、許容してかまわないという社会もあるけれども、そうでない社会もあるということ、そのようなふうに思う人もたくさんいるということは一つ知っていただきたいのです。 それから、英米型の社会と非常に乱暴に言いますけれども、その社会は、日本や韓国において3割方の人が呼吸器をつけてその後の人生を生きておられるという社会と比べて、自分で医療費を払えるごく少数の人以外、90数%の人は呼吸器をつける前の時点で亡くなっているという社会でもあります。その二つの社会を比べたときに、どちらのほうが人権が尊重されている社会だと言えるでしょうか。これは考えどころであるというのが一つのポイントです。 それから第二に、安楽死と尊厳死は区別できるというお話を伺いました。しかしこれはそう簡単ではありません。もちろん、直感的にはわかりやすい話です。薬を盛るとか注射を打つとか、これは安楽死、あるいは自殺幇助であるということです。それに比べて、何かを行わない、あるいは何かをやめるということは違うでしょう。私も、その違いがあるということに関して全面的に異議を唱えたいわけではありません。 しかし、例えばペースメーカーを入れていて、それで生命を維持しているという人がいるとします。それを止めたらその人は亡くなるという状況を考えましょう。そのペースメーカーを止めるということは殺人ではないでしょうか。あるいは、本人は自分でそれを止めることができず、だれかに依頼して行うことは自殺幇助ではないのでしょうか。そう考えると、一見、殺人や自殺幇助といったものと質的に区別されるように思われる何がしかの停止、何かの不開始が、倫理的により問題が少ないということは必ずしも言えないということは明らかなことです。 なぜそのようなふうに分けられるのでしょうか。光石さんも言及されましたが、井形さんがおっしゃった「自然な生」というものに対してプラスアルファされたものを取り除くということは、自然だからよいという話と結びついているわけです。しかし、我々は例えば心臓がうまいこといかなければペースメーカーを使い、呼吸器がうまくいかなければ人工呼吸器を使い、目が見えなくなれば眼鏡をつけ、このようにして生きている、そのこと全般がよろしくないという話になるのでしょうか。普通に考えれば、ならないと思います。そうすると、安楽死、尊厳死ということをめぐる境界線というのは、考慮に値する、なかなか微妙なものだということがわかるわけです。 そして、このことはたんに理論的な問題ではなくて、現実的な問題として、人権が守られているとも言えるし、私から見ればそうは思えない国々において、やめたりすることは当然であるというふうになっている、そのようなところからだんだんと、医師による自殺幇助というものも、これはロジカルには同じなのだから認めてよかろうというふうに流れています。これもまた価値判断を抜きにした現実です。そのようなことを皆さんには知っていただきたいというのが第二点です。 次に、第三に、なぜ死を迎えたくなるのかということについて幾つかの話が出されました。これは漠然と話していても埒の明かない話です。一つ一つ考え、一つ一つ検討していかなければいけないと思います。話を伺っていて、少なくとも五つぐらいはあるように思いました。 一つは肉体的な苦痛です。日本尊厳死協会の方々も、苦痛を取り除くということは一生懸命やりましょうということは年来おっしゃっている。古典的な安楽死というのは苦痛からの回避ということが大きかったわけですが、今やそのような時代ではない、あるいはそのような時代でなくすることはできるということは言えます。であるからして、苦痛によって死ぬという話にはなかなかなりません。そうすると、これは理由からおおむね外されるということになります。 二つ目、例えば認知症のような知的な能力が変わっていくという状況です。認知症になる前に、認知症になったら私を殺してくださいと言って、それを認めるべきかということに関しては、私はここでは議論しませんが、皆さんはどう思われるでしょうか。ちなみに日本尊厳死協会は一時期、認知症に関しても尊厳死を認めてよいのではないかというようなことを言って、「呆け老人をかかえる家族の会」(現「認知症の人と家族の会」)などから批判がなされて、撤回したということがありました。撤回もされたわけですから、これはこれ以上申しません。 今の話は意識の状態が変わるということだったとすれば、三番目は、意識の状態がなくなるという、遷延性意識障害、あるいは植物状態と言われているような状態です。これに関しても幾つかの論点があります。 まず、本当に意識が失われているということであれば、本人にとってとおっしゃるけれども、本人にとっての意識はそこにはないわけです。そうすると、その人にとってこの状態はよろしくない状態であるということは論理的に成り立たない、プラスマイナスゼロであるということが言えます。 他方で、これは私の前のお二方が強調なさったことですけれども、本人に意識があるかないかということは我々にどういうふうにわかるだろうかということがあります。あるいは、その状態がずっと変わらずに続いていくかということがあります。いずれも非常に怪しい問題です。先ほども数字が出ましたけれども、つい最近の調査の結果も含めて、意識がないと言われた3割、4割の人がそうではなかったという結果が出ていたりします。そのような調査結果自体、どこまで信用していいのかということはありますけれども、そのようなことがあります。とすると、植物状態ということを根拠にして、あるいは植物状態の場合にそれが認められるということは、十分な検討の余地があるということになると思います。 四番目は、不治、治らないという問題です。これは簡単にお話しします。我々は治らない病気をいっぱい抱えて生きています。また基本的には治らないもののことを障害といいます。では、それは死ぬことの理由になるかというと、なりません。もちろん長く長く考え、お話しすべきですけれども、まずはこの程度でよいのではないかと思います。 五番目に、末期という問題があります。末期というのは何なのかというのはよくわからないという話は、先ほど光石さんのほうからもありました。末期というのが2時間、3時間、半日、1日という時間のことであれば、私などは普通の人間なので末期というとそのようなイメージがありますが、それだったら、一方では、数時間、1日、場合によっては数日を、微妙な判断はせずに待っていればよいではないかと思います。 他方で、末期というのはそうではない、数時間ではない、先ほども井形さんの話で、何もしなければ確実に早く死ぬということがわかっているのに何かしてしまうと5年も10年も生きているとおっしゃった、そのような説がありました。これはいったいどういうことなのか。何かをすれば5年、10年生きることがあるというのは、末期だということなのでしょうか。5年、10年生きるということを末期だとは普通は考えられないと思いますが、少なくとも「末期」という言葉には、そのような曖昧さが、たんなる曖昧さでなく危険な曖昧さがあります。 そして、ある処置をすると何年か生が続くということが何事かをやめるということの積極的な根拠になるとは思われません。逆に、あと数時間でこの人は亡くなるということが明らかなのであれば、その時点で、やめようか、やめまいかということを深刻に悩む必要はありません。やがてその人は亡くなっていくとすると、末期というところから何がしかの停止、尊厳死というものを導くということも難しいということになります。 そのように考えていくと、我々が思いがちなことと近いからでもありますが、ざっと聞くとよくわかる話だけれども、実はそうではないということがおわかりいただけたのではないかと思います。 ではいったい何事が我々を今、自然な「尊厳ある死」と呼ばれているものに向かわせているのかということになります。これも事実だけを申し上げます。 確かに、助からないだろうと思いつつ何事かをするという、いわゆる過剰な医療というものが一方の現実としてあるということは私も認めます。そして、その中に余計な部分があるということは私も認めます。であるからこそ、日本尊厳死協会の主張が、ああそうだなと思える部分もあるということも認めます。 しかし、これは事実の半面であるのも事実です。例えば遷延性意識障害でということかもしれないし、身体的な、知的な、さまざまな事情があってその人が生きるということが、家族に、あるいは社会に経済的な事情で非常に大変であるということがあります。井形さんはいみじくも「ダンディー」という言葉をお使いになりましたけれども、そうやって生きていくことは何かしら格好の悪い、ダンディーではないことであると思われている中で、どうするかということを早めに決めておきなさいと言われます。早めに決めておきなさいというふうになると、ではしかじかという、つまり早めに死ぬことにするということになります。幾らかでも現場を見るなら、そのようなことが山のようにあることを、すぐに我々は知ることになります。 何によって人はもうよいと言っているかということです。その中には単一ではないいろいろな事情があるでしょう。しかしながら、そこを占めている大きな部分はそのようなものです。これは価値判断ではなくて事実そのものなので、そうとしか言いようがありません。 先ほど井形さんがおっしゃった、日本尊厳死協会に向けられる妥当でない非難、あらぬ批判ということについても考えておきます。 尊厳死法案をつくろうという主張は弱者にプレッシャーを与えるものである、あるいは医療費削減のためになされているというのは、濡れ衣だとおっしゃいました。それはそのとおりだと認めることにしましょう。そうおっしゃっているのですから。井形さん、あるいは日本尊厳死協会はそのようなことは一切お考えになっていないだろうと思います。 しかし、そのようなことを推進しようとする人たちが、そんな意図はない、あくまでも本人がしたいというのだからさせておけばいいと思っているということと、現実にその人が決めざるを得ないということに経済的な、社会的な事情、社会に存在するさまざまな価値が影響していることを認めるということは、別のことです。尊厳死を推進しようとしている人はお金の負担のために推進しようとしているつもりではないということと、現実にその人たちが自分はどうするかということを決めるに当たってそのような負担がかかわっているということは別のことであり、現実に存在するのは今申し上げた後者のことです。 そうやって考えていくと、人が死に行くということをめぐる事情を一つ一つ見ていて、私がごく簡単に挙げてきたものの中に、人を早い死に向かわしめるべき理由はなかなか見当たらないと思います。しかしそのようなことをおっしゃるのであれば、本人が言っているならいいだろうという話ではなくて、一つ一つ、どういう意味でそれが正当化されるのか、仕方のないことであるのかということを精査する、そしてそのようなことを議論する必要があり、これ以降この場がその議論に費やされるのであれば、大変意義のあることになるのではないかと思います。以上です。(拍手) ■討論 ◆立岩 井形さんのお話を受けて三点申し上げます。一つは、私は今の状況に関していえば、現行の法制の適正な解釈でほとんどのことは何とかなるだろうと考えています。確かに、いまわの際というときに、無益な、場合によっては加害的な、肋骨が折れたりするような心肺蘇生、電気ショックが行われるといったことはあります。そのようなものを身近で見ていた人が、これはどうかと思い、それで延命措置の中止を申し入れるということもはあるだろうと思います。しかし今あげた具体的な行いについては、無益で時に有害な行いをしてはならないという法のもとで、それはしなくてよいということは十分可能だろうと思います。私は京都にいますが、そこのある病院の倫理委員会の委員を務めていたことがありまして、心肺蘇生に関しては随分悩みましたが、おおむねそのような方向のガイドラインを出しています。 そして、自分は命はそんなに長くないかもしれないけれども、恐らく寿命は少し短くなるだろうけれども、その分、自分にとって気持ちのいい時間のほうを優先するという選択肢を選択するということも、今の我々の倫理観、そして法律のもとで認められています。それ以外のことを新たなルールを作ってどうしても認めなければいけないか、そうではないだろうと思います。 第二に、自殺ではない、安楽死ではない、中止や停止など無駄なことをしないとおっしゃる。無駄なことというのはしなければよいことですから、しないように決まったほうがいいと僕らは必ず思います。ただ、自殺ということと停止ということの区別は本当に難しいです。こうやって生きているという「こうやって」を外したら、その人は確実に死に至ることがあります。それはペースメーカーかもしれないし、呼吸器かもしれないし、人工透析かもしれません。それを認める、あるいはそれを助けるということは自殺幇助とどう違うのかという話になります。そのようなことをどう考えるかということを片づけてからでないと、この問題は先に行けない。それを再度強調しておきます。 その上で、第三に、あなたは自殺の権利を認めるのかと言われれば、私は認めるかもしれません。これは宗教者の方々のある部分と違うところがあると思いますし、私もそんなに自信があるわけではありません。実定法のもとでは自殺幇助を罪に問うことは認めるべきだと思いますけれども、究極的に、人は生き死にについて決めるのを止められるかと言われれば、そうだな、よくわからないけれども止められないのかもしれないと思います。 先ほどの、あなた方の言うああだこうだというさまざまな条件を取っ払って、言ってみれば自由に何の気兼ねもなく、生き死には自由だということになったときに、あなたはそれでも認めないのかと言われれば、人によって随分違うかもしれないけれども、私は、だったらいいよと言う余地はあると思います。しかしその上で、私が今まで述べたことのすべてが妥当性を失うことはありません。以上が補足でした。 ◆立岩 一点、事実のみ申し上げます。今のお話はわかるところもあります。例えばイギリスやアメリカなどは外すのはオーケーです。しかし、外せるから、じゃあつけてみようかと、みんながつけるかというと、全然そんなことはなくて、人工呼吸器をつける人は全体の3%、4%とも言われます。たしかに日本は、つけたら外せませんと言われます。韓国もそうです。私は多いとは思いませんけれども、それらの地域で人工呼吸器をつける患者は全体の3割ぐらいです。外せるからつけてよいということが、つけることに結びついているかどうかということになると、ほかのファクターがいろいろ絡みますから何とも言えない部分もありますけれども、事実はいま申し上げたようなことです。 ◆立岩 ALSは、筋萎縮性側索硬化症という神経性の難病です。原因も治療法もわかっていません。発症するのは多くの場合は中高年であり、男女差はありません。体の筋肉が徐々に動かなくなっていく病気で、構音障害、発話の障害から手足が動かなくなっていくというように、病気がだんだん全身に及んでいきます。 肺自体がどうなるというのではないのですが、肺を動かしているのも筋肉ですから、筋肉を動かす筋力が少なくなっていくと、ある時点で呼吸が難しくなっていきます。その時点で、呼吸器をつけて生き続けるのか、そうではなくて、という話が出てきてしまいます。人によって長い短いはありますけれども、進行のわりあい速い人であれば2年とか、1年半とか、発症してからそのくらいの間にそのような選択をします。それは選択の問題ではないと私自身は思っていますが。 私は、少数派の意見ということになってしまうのかもしれませんけれども、つけるのは自由だけれども外すのは自由ではないというふうにも考えていません。医療は救命のための行いである、社会は人を生かすために存在するとするならば、つけてください、つけましょうというのが当然なことだと考えていますし、そのように本に書いてきました。 そのようなステージが訪れる。それからがまた長くて、人によっては10年、20年、中には、今60歳で人生30年そうやって生きてこられたという方もいらっしゃいます。そのような病気です。 ◆立岩 手足は動きませんから、電動車いすや、介助者を連れてということになりますけれども、いろいろなところへ行って話をしたりという方々はいらっしゃいます。そのような人が多数派であるということではありません。そう数は多くないですけれども、いらっしゃいます。 ◆立岩 遷延性意識障害が続いていって、もうこの状態からは回復しないだろうと思われるポイントがある、それは医療の実践家の経験による了解としてわかるところはあります。ただ、それと臨死状態というのは明らかに違います。その人は3〜4年たって延命措置をしている結果生きているんだけれども、ここからは回復しません。しかし、今の状態が続けばあと何年か続いていくということになりますよね。 ここで言われる臨死状態というのは、回復の可能性がなく、かつ死期が切迫しているというわけですから、死期が切迫しているという話には到底ひっかかりません。そのようなずれが頻繁に起こるわけです。いったい何のことについて言っているのかが具体的にはわかりません。死期が切迫していないのだから、普通に読めばここで言いわれる臨死状態が植物状態を意味するものではありえない。しかし今は遷延性意識障害に則してこのことをおっしゃいました。その辺がどうにも私は解せません。 もう一回繰り返します。回復の可能性がない病気は山ほどあります。そのこと自体は、残念なことですけれども仕方がないとしか言いようがありません。そうすると残されたポイントは、死期が切迫しているということだけになります。死期が切迫したときにわざわざ死期を早めたり早めなかったりする措置を行う必要があるかどうかということも、素朴に素人としてわからない。この文言に何が込められているのかについて、私は非常に不思議な点が多々あるということを再度申し上げたいと思います。 ◆立岩 死を見据えるということはどういうことかということです。我々はわりあいこのごろ、ここ20年、30年、「見つめる」とか「見据える」という言い方をする。それはそれなりの根拠といいますか、今の我々が生きている状態が、置かれている社会がよろしくないという妥当な了解からやって来ているのだろうとは思います。しかし、「見つめる」とか「見据える」というのはどういうことだろうかと考えたときに、それは自明ではないと思います。それが決まり文句的に使われるようなシチュエーションがけっこうあったりして、それが気になります。人は死ぬ。そのことは事実ですし、そのことをわかった方がよいことがあることは認めるとしましましょう。では「見つめる」とはそのこと以外の、以上の、何を言おうとしているのかということです。例えば、人の死と、そして生を見つめると、「ダンディな死」、「名誉ある撤退」といったものが導出されるだろうか。そのようには思えません。 マイクを振られたので、別のことを、しかし関連することを一点だけ、さっきから気になっているので言います。遷延性意識障害の人がそこにいてつらいというのはどこから来ているかということです。遷延性意識障害の定義ができないという話と、定義ができたとしても外からわからないという問題は非常に大きな問題としてありますけれども、仮に定義上、意識がないということにすれば、本人がつらいということはあり得ないわけです。そうすると、つらいのは他人でしかあり得ない。他人は何をつらがっているのかということです。それはいったいなにを「見つめている」のかということです。そのようなことまで考えた上で、遷延性意識障害の人について云々することを考えるしかないだろうと思います。以上です。 ◆立岩 死は安らかなほうがいいし、いろいろ人に邪魔されたりしないほうがいいし、あまりがんばりたくもないしということの一つ一つはそのとおりだと私自身も思いますし、私が今日のようなお話をするのもそのようなつもりでのことです。その限りでは井形さんの話はわかります。ただ、今主張されているようなあり方が実現するだろうか、そうは思えないという話を今日はしたかったのです。 それからもう一つは、井形さんがずっとおっしゃっていたのは、つまりは、「本人がいいと言っているのだからいいではないか」という、その一点でありました。私もかなりの程度、他の人と比べても、「本人がいいと言うのだったらいいと言おうよ」という人間だろうと思います。その思う私でさえも、「やはりここはそんなに簡単ではない、命のあるなしにかかわる決定というものは、本人がいいと言っているのだからといいと言えるか」という、もとの話に戻るわけです。それは「自殺とは違う」とおっしゃるとしても、自殺と「どう違うのか」という問題が続きます。 繰り返しになりますが、「当たり前だろう、それはそのようなものではないか」と言われて、「そうだよね」と私自身も思うところはあるんだけれども、しかしそう単純ではありません。今日私が提示した一個一個の論点について納得のいくことを言ってもらわないと話は前に進まない。それは依然として言えることだと思います。 「それは本人が決めることだ」という言い方に対して、私自身はどういうことを考えてきたのかということは、この間書いた2冊の本の1冊目、『良い死』の第1章「私の死」で長々と書いていますので、ちょっと理屈っぽい話におつき合いいただけるという方は、それを見ていただければと思います。それを見て、「やっぱりあなたはわかっていない」と思われるのであれば、ぜひご批判をいただきたいと思います。以上です。 UP:20100218 REV:20100809 ◇安楽死・尊厳死 ◇安楽死・尊厳死 2010 ◇立岩 真也 ◇Shin'ya Tateiwa |