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立岩 真也 2007 上野千鶴子・中西正二編『(題名未定)』(医学書院)のための原稿(20070731締切)のためのメモ ◆立岩 真也 2008/**/** 「楽観してよいはずだ」,上野千鶴子・中西正司編『(題名未定)』,医学書院 [了:20071022] ◆下地 真樹 2007 「介護の社会的総費用の試算」http://www.arsvi.com/2000/0712sm.htm ■ 枚数:30枚(24000バイト→現在のメモ:29000バイト) 与えられた課題:すべての人がニーズに応じてそれを充足される社会の権利付け。そのためにどのような所得保障、再分配、サービス供給システムが必要であるかについての原理的考察。家族介助を前提としない個人中心のニーズ設定。 研究会のために作った資料:2007/03/25「財源問題とはどんな問題なのか」 次世代福祉戦略研究会 於:東京・医学書院 *以下、与えられた課題から離れて、いろいろと、メモ *結局、いささか乱暴に、だいじょうぶ、という話(だけ)をすればよい、のかもしれない。 ■何が起こってきたのか? 何があったのか? 介護保険が2000年に始まった。多くの人が知らないことだが、障害者の運動はその制度に組み入れられることに反対した。理由は単純だ。そうなったら暮らしていけないからだ。そして、その介護保険の制度は心配した通りの制度になった。つまり使えない制度だった。べつにこの制度を否定しようというのではない。ないよりはよほどよいものであった。しかしそれたけではどうにもならかったということだ。 そしてその後、この間に起こってきたことは、その使えない方の制度の方に引っ張る動きとそれに反発する動きだった。介護保険(のような制度)の方に吸収しようとする動きがあり、障害者の側は、サービスの水準の低い制度を受け入れられなかったから、その動きに抗してはきた。だが、結局制定された自立支援法にしても枠をはめ「膨張」を抑制しようとするものであり、そしてこれからさき、さらにその動きが強くなることが懸念されている。 一つには、この危機感から、この本もまた企画されたのだと私は理解している。 それで、基本的な方向ははっきりしている。当然、もっとまともな制度を実現させることであり、その実現を要求する。高齢者の制度を(せめて)障害者の制度に合わせることだ。しかしそれが困難に思える。いまの制度よりもまともな制度となると、利用者の数が少ない間はよかったとして、もっとたいへんなことになるのではないか。そんな重さがあたりを覆っている、のだろうか。 つまりはこれはお金の問題だ。このことをどう考えるかが大切だ。 関連した書いた文章 ◇2003/03/00 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2002」 平岡公一(研究代表者)『高齢者福祉における自治体行政と公私関係の変容に関する社会学的研究』,文部科学省科学研究費補助金研究成果報告書(研究課題番号12410050):79-88 ◇2004/11/00 「介護保険制度改革の方向」(与えられた題) 『生活経済政策』2004-11[了:20041004] ◇2005/07/10 「障害者自立支援法、やり直すべし――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか」 『精神医療』39:26-33(批評社)[了:20050509] http://www.hihyosya.co.jp http://hihyosya.co.jp/books/ISBN4-8265-0424-1.html ◇2006/02/10「障害者自立支援法、やり直すべし――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか」(再録) 岡崎 伸郎+岩尾 俊一郎 編 20060210 『「障害者自立支援法」時代を生き抜くために』,批評社,メンタルヘルス・ライブラリー15,176p. 1900+ ISBN4-8265-0436-5 C3047 pp.43-54 [amazon]/[boople] ※, ◇2007/**/** 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2003」(仮題) 平岡 公一・山井 理恵 編『介護保険とサービス供給体制――政策科学的分析』(仮題),東信堂 [了:20040203] ◇立岩 真也+小林 勇人 編 2005.09 『<障害者自立支援法案>関連資料』,<分配と支援の未来>刊行委員会,134p. 1000円+送料 ■「理由」について 問題は上述した問題である、問題であるとされている問題、つまり金の問題であるだけである。 ただそれでも、(「権利付け」について書くようにとのことであったから)「根拠」について、いくらかのことは考えておこうか。 しかし「人並み」に、同じぐらいには、生きていければよい*。そのことに理由がいるだろうか。私はいらないと思う。いらないのに、なぜいることにされてしまうのか。 二つある。1)一つは、それに反対する人がいるから。無視すればよい、と居直るのでないとすると、なにがしかのことを言う必要がある。(これについては、数限りないほど、ではないにしても、幾度も書いてきたから繰り返さない。) 2)一つに、支持したいと思う側としても、すこし言葉にしておいた方がよいという思いはあるのかもしれない……。 *1)をいくら言ってみたとして、相手側が納得するというものでもないだろう。ただ…… 述べてきたこと: 「保険」という論理では――もし「公的」なものであるべきことを主張したいのなら→主張すべきだと考えるが――限界がある。 「自らの思い」「価値」「利害」に居直るべきでない。このことがしばしば忘れられてしまうのはよくない。「義務」… ただこのことを確認しつつ、(居直るべきではない、という自らの思いも含め)、思いによって動く(部分がある)ことも事実ではある。(ここで自分の思いではないという自分の思いもまた組み入れられることになることに留意。) どのようであっても生きていけること。 →『自由の平等』 …… そして◇)複数あること、◇)そのうちの特定のものが取り上げられることさらに正当のものとされ、他のものが隠されること とすれば、◇)複数あることを知ること、◇)隠されているものがリアルなものであることを知ること *「所得保障」といわゆる「社会サービス」はそもそも別のものではない。ひとまず「平均的」な――実質的には「手間」のかかりようがすくない――人間を想定し、その人にかかる「普通」の費用を考えるのが前者であり、それに追加して必要のが後者ということになる。いずれも暮らしていくのに必要なものであって、その意味では違いはない。 ■「財源」について →「不足について」 総論としては誰も――に近いほど多くの人が――反対しない。しかしお金がないと言われる。こうして残るのは「お金の問題」である。今に始まったことではない。→「不足について」 ・まずは、金のことを考えずに、人手で考えた方がよい。するとすこし冷静になることができ、だいじょうぶたと思えてくるはずだ。 「仮想的には、限界はある。例えば人口の半分が非常に多くの世話を要する状態になるといった状態を考えるなら、もちこたえられないかもしれない。 しかし第一に、仮にそのようなことがあったとして、それでもすべきことをして、結果、人類が衰滅したってよいのだという主張もありうる。そしてこれはそれほど途方もない主張であるのか。そんなことはないと言い張ることも不可能ではない。第二に、現在はそうでないのだから、そのことをもって現在なにがしかのことをしなくてもよい理由にはならない。第三に、将来の可能性・蓋然性を考えた場合にも、人間を含む生物の生命に与えられている性能としてそんなことはほぼありえない。」(2006/10/00「得失と犠牲について・続――良い死・16」) ・1)労働量一定の場合:みかけの問題でしかない。「選好・生産・国境」(『思想』) 「「国民負担率」が持ち出され、その上昇が危惧される。それでは大変だ、だからその率を一定以下にした方がよいというような議論があり、実際そのようにことが運ぶ。しかし、この数字の算出の仕方、その国際比較の妥当性についてはここでは触れないとしても、それは、今見た範囲では単なる間違いである。無償の活動としてなされていたものが有償化され、そしてそれが税金や保険料でまかなわれるようになると、それは「GNP」を増加させる――これはある人にとっては望ましいこととされたはずだ――とともに、たしかに国民負担率を押し上げることになる。しかしそれだけのことである。これは、分配の形式の変更、そして負担と受け取りの配分の問題でしかないのであり、この意味では総負担はそもそも増えるのでも減るのでもない。つまり、社会的負担への移行、有償化とは、まずは出す人もいるが受け取る人もいて、差し引きはゼロというだけのことである。そして後に述べることに関わらせれば、この変化は資源の問題に無関係であり、またそれ自体においては、生産(成長)部門・非生産(非成長)部門への労働の配分の割合も変更されない。 しかし、このきわめて単純なことが時に見失われてしまう。だからこのあまりにも当たり前のことを確認しておく必要がある。だれだってそんな単純な間違いはしないと思うかもしれない。しかし[…]」 ・2)増える場合:ある人々において負担が増えることは言える(→[2006/09/00])。 これはゼロサム的、ということになる(→ではないことを言おうとして、「明日はわが身」という話が出てくるのも、わかることではある)。 3)ただ…… …… ・同時に、「いくら」になるのか、その方面の研究者と協働の必要性。 ◇2006/09/00「犠牲でなく得失について――良い死・15」 『Webちくま』[了:20060919] ◇2006/10/00「得失と犠牲について・続――良い死・16」 『Webちくま』[了:20061023] ◆具体的な財源 累進税率をもとに戻す。 ◇2005/11/00「どうしようか、について」 『グラフィケーション』141:15-17→『希望について』 「私は、中の上以上の人については、負担は減らないこと、すこし増えるぐらいを覚悟してもらう、そのことは正直に言った方がよいと思うのだが、その上で、まったく古典的な言い方ではあるが、収入にせよ資産にせよより多くあるところからもってくればよい、そうしよう、と言って、言ったとおりに行えばよいと思う。中ぐらいのところの細かな損得をどうこうするのでなく、おおまかに、多くあるところからもってくるというのでよいではないか。課税における累進率を変更して、というよりまずは、累進性を緩くした以前の率に戻して、たくさん(収入にしても資産にしても)持っている人からたくさん出させる。」 「こんなことを書いていくと、結局「大衆」におもねっているのではないか、とか、金持ちに対する「ルサンチマン」だとか、言われうる。だから、そのような詰問に――私はむしろこうした詰問にほの暗いものを感じてしまうのだが、それを言っても水掛け論だから、すこし冷静に――答えなければならず、それで考えて書いてもきた(『自由の平等』、岩波書店、第2章等)。まん中あたりの所得階層にはあまり触らず、上の方からもってくるというのがある種の多数派工作であることは認めよう。またこれは暫定案であって、とくに世界規模の格差を考えた場合にはそれではすまないことも認めよう。しかし、この社会での市場のあり方を見れば、税による格差調整の度合いを強めることに問題はない。(それだけでは十分でなく、労働の場の編成の変更も望ましく、また必要であることについては本誌一二三号(特集:働くことの意味、二〇〇二年)掲載の拙稿「労働の分配が正解な理由」等。)だから基本的には間違っていない、ずるくはない、と言おう。むしろ、常に多数派の支持をとりつけながら、結局は多数の人にとってよくない状態を作ってしまうことの方がずるい、と言おう。」 「たとえば僕は累進課税を強力に肯定します。[…]それなら、国民の過半くらいの同意は取れるんじゃないか。その辺、ぼくは「やれるところからやりましょう」主義者であって、その辺からやればいいと思う。エゴイズムはどうすればいいの、ってことについてはちょっとわからない。わからないけど、確認したかったのは、一人の人間の中には複数の欲望があって、そのバランスなのだろうということ、ちょっとしたことでそれは変わるのだろうということ。多数派と少数派の関係自体も、そう考えると、微妙なバランスの中で拮抗している。その配合もちょっとしたことで変わりうると思う。」(「(発言)」 於:研究会) *複数性については→「根拠」 ◇「人の数と生産の嵩について――家族・性・市場 21」 20070601 『現代思想』35-(2006-6): □人の数のこと・続 「議論がなされる場合もある。ただそれは、貯金や保険のような性格のものではない所得保障をすればよいではないかといった話としてではなく、逆に、いまある保険料の負担や租税の負担を上げない方がよいという話に多くつながる。負担を大きくするなら、それは生産を圧迫し、成長に負の影響を与えるといった話である。理解できなくはないが、あまり信じる気にもなれない。このことについてはまた述べるけれども、疑問の基本は単純で、税が多くなると多く払うことになった人は働かなくなるだろうといった話はどうにも疑わしいということだ。税の累進性が強くなったとしても手取りが減っていくわけではないのだから、もっと得たい人はより多く働いて稼ごうとするということも十分にありそうなことである。税から逃れるための国外への逃亡が起こるという話はそれよりは筋の通った話だが、すくなくとも人間の国外移住についてはどれほどの現実性があるか、また対応策がないのかと考えてもよいはずである。」 ◇2006/09/02 「(発言)」 森岡研×立岩研・合同研究会 於:立命館大学 ◇2007/08/03 「削減?・分権?」 『京都新聞』2007-8-3夕刊:2 現代のことば *具体的にいくら集まって、どこにいくら使うことになるのかについては、…参照のこと。 ■「査定」について(↓) 必要以上に膨張させる要因があるとしたら、それは利用側というよりむしろ供給側にあるということ。:利用者としてはたくさんあればあった方がよいというものではない(ただ、家事援助について、あるいは、「心理的な援助」について…) とすれば、どうするか。…… ■「地方分権」について →地方分権 財源としては国の範囲で考えるべきである。この部分について地方分権を主張するのは間違っている。 ◇立岩 真也 2007/08/03 「削減?・分権?」 『京都新聞』2007-8-3夕刊:2 現代のことば ■家族による介護について(↓) 基本的には給付を認めるべきである。しかし… 原則的には格差を設けるべきではないとは言える。しかし… ■ながら仕事であることもあることについて 結局、仕事(への支払い)について差を設けることになるのか。 >TOP ■「査定」について ◆立岩 真也 20000301- 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』→立岩[2000:](第7章)* *立岩 真也 20001023 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p. ISBN:4791758528 2940 [amazon]/[boople]/[bk1] 「8 判定から逃れようとすること 供給の機構を描くことができたとして、一人一人にどれだけを供給するのかという大きな問題が残っている。市場では自らが受け取るものに応じて自らが支払わなくてはならず、結果として受け取りは一定以下に抑制される。この対応関係を否定するところから社会的分配は始まる。しかし受け取る側としては多い方がよいと思い、たくさん受けとろうする。また、働かずにすませられるなら働きたくはない。そこでとりたいだけとらせるという方法を断念し、一律の水準を設定してそれだけを支給することになる★52。 しかし、必要は個人によって異なり、必要な資源は一律でない。ある状態の生活をある量の資源で維持できる人もいるけれども、例えば病気によって、あるいは障害があって、より多くの資源が必要な人もいる。この場合に分配をどのようにするのかという問題がある。利用者の希望に応じてとしたら、その人が必要をこえて請求する事態を防ぐことができないのではないか。このことが懸念される。この可能性を考慮しないのはたしかに非現実的かもしれない。すると「ニーズ」を算定し、評価・査定し、「要介護認定」等々を行うことは避けられないように思われる。実際それが行われ始めている。 しかしそれは望ましいことか。決めざるをえないから決めるとするなら、それは、ある生活を基準とし、それ以上は認めないという線引きをすることなり、結局生活それ自体を算定し、査定し、制限し、生活のあり方に介入することにならないか。一人一人の必要が個別的なものでありまた主観的な要素を含むものだとすれば、それを一定の基準によって測り、供給量を査定することをそのまま認めることがためらわれても当然である★53。 これもとても大切な主題なのだが、それほど考えられてこなかった。この業界には査定し認定することを少しも疑わない人たちの方がずっと多い。それ以外の可能性を考えない★54。そしてそれ以外を考えてみようと言われたとしたら、そんなことは無理だと言うだろう。しかしはたしてそうか。利用、請求が増えていくことを現実的にありうることとした上でどのようにそれに対処していくか。本人の申告に応じて支給する、あるいは実際の利用に対して支給すること(出来高払い)はほんとうに不可能か、考えるだけ考えてみてもよい。ここでは、介助についてはその可能性のあることを述べる。 私がより多くをとろうとする人であるとする。その私は、さしあたっての負担がないなら、あるいは受け取りに関係なく負担しているのであれば、より多く受け取ろうとするのではないか。自己負担ならその分控えることがあるが、この動機が働かないということはある。そこでもっとも単純な方法は自己負担を導入することである。医療保険にしても自己負担を求める理由はこれだけである。この問題点は、負担の割合が少なければ有効に働かないだろうし、他方、払えない人、多く自らがもっていない人にとっては大きな負担になることだ。このことへの対処法は考えられなくはないにせよ、そうよい方法ではない。とすると、もう一つの方法、ある人がどれだけを必要とするのかを査定をすることが避けられないように思われる。 しかしまず、例えばこの国の医療保険のことを思い出してみると、医療を提供するに当たっての審査があるわけではない。出来高払いである。あらかじめ決めないととんでもないになるのではないかと言われるのだか、そのとんでもないかもしれないことがこれまで実際に行なわれてきたのである。もちろん医療と福祉とで異なった事情はあるが、共通点がないのでもない。さらに介助についてははむしろ問題が少ないとも言える。 第一に、この場合の必要と供給には絶対的と言ってよい上限がある。時には一人に二人以上の人が就く必要のあることもあるが、多くは一人に対して必要なのは一人である。そして最大二四時間であり、これ以上はどうしても増えることはない。 第二に、こうしたサービスはあればあるほどその当人にとって好ましいというわけではない。(医療についてもこの要因はある。医療費が給付されるからといって病気になりたいと思う人はまずいないし、医療を使えば使うほど気持ちがよいという人もそう多くはない。)人がすぐ傍にいるのは相当にうっとうしいことでもある。お金だったら何にでも使えるから、あればあっただけほしいが、これはそうではない。 第三に、にもかかわらず多く受け取ろうとし、多く必要とされるなら、その理由を考えるべきであり、対処法を考えるべきである。利用者の側にある多めに受け取ろうとする理由の大きなものは不安である。一つに、供給の切り下げへの恐れから多めに申請することがありうる。これに対してはむしろ希望に応じた供給の保障が有効になる。もう一つに、誰かいてくれないと不安だから多くの時間を求めることがある。これに対しては、とにかく不安なのだったら、その不安に付き添うこと自体がまずはなすべき仕事だということになるだろう。ただ、本人が不安から脱したいと思っており、一人でやっていけるなら一人でいたい時間があるとしよう。とすると、それに応じられる体制があれば、常にそこに人が付き添うという必要はないということになる★55。そして少なくともある部分、人間のの手を別のものに置き換えること、別のもので対応することもできる。人の手に委ねることはその当の人だけの負担だったのに対して、例えば移動の環境を整備することは負担が他にも及び、負担を回避しようとしてそれを行なわずにすませてきたのだとして、介助についても社会が負担するとなれば、環境の整備や、機器による対応が促進されることもあるだろう。このようにして、別の選択肢を用意する。当の人にとって、同じかそれ以上に魅力的で、資源をより使うことの少ない手段を講ずることができればそれが合理的である。 ならば需要がそう膨張することはないかもしれない。費用の転用さえ防げれば申請の通りに認めても問題は生じない可能性がある。(現金で支給する場合には別用途に使われる可能性はあるが。だから利用者に対する直接的な現金支給よりも、選んだサービスへの支給の方がよいかもしれない。ただ、ただこの用途への支払いを明らかにできれば現金給付でもかまわないとも考えられる。) むしろ問題は供給側にあると考えた方がよい。医療においても供給過剰の問題が生じうるのは、供給量に応じて収入を増やせる供給側が決定の実質を握っていることによるところが大きい。これは介助の場合にも起こりうる。仕事をたくさんして、あるいはたくさんしたことにして多く受け取る。こうして問題が供給側にあるのなら、供給側の過剰供給への傾向を押さえればよい★56。 まずここでも、医療に比べて介助の場合にそう心配しなくてもよい要因はある。医療の場合には、サービスに対する支払いは単純にかかった時間に比例するのではなく、例えば薬を何種類、注射を何本打ったか等々により、それらを増やすことによって時間当たりの稼ぎを多くすることができる。それに比べて介助の場合には、仕事(に対する対価)はかなり単純に時間に比例するから、受け取りを増やそうとすれば、時間を増やすかあるいは時間を水増しするという方法に限定されることになる。それでも、本人が供給側の求めに応じて、あるいは本人の意志が不在なあるいは聞かれない中で、過剰な供給がなされる可能性はある。 そこで一つに先と同様利用者側に一定の自己負担を求め、利用を増やすことが利用者本人の損失になるようにすることによって、供給者側の過剰供給を抑制しようとする策がありうる。自分の財布に響くようになるなら、病院が提供しようとするものをなんでもそのまま受け取るのでなくきびしく評価するようになるだろうと言われる時には、このことが期待されている。しかし先述したようにこの方法はあまり好ましくない。 こう考えるなら、結局、どこかで枠を設定することになるのかもしれない。しかし以上述べたことが当たっているなら、供給に外枠を課すのは、供給側の利害に発する過剰供給を抑制するためであり、量の設定の必要性、設定すべき枠の性格はそれに応じたものになる。 まず少なくとも今までのところは常に供給は必要を下回っていて、過剰な供給がなされたことがない、またそれで儲けすぎた人もいないと考えられるなら、その限りでは今それを行なう必要性は低いと言え、今のところ問題はないが将来的にありうることだから考えておこうという問題になる。そして利用側では制約が働くのであれば、どのような項目について認められるのかが規定された上で、利用者あるいは利用者の代理人が申告し、それらについて必要な時間を積算し、それだけの時間分を支給することとし、その際、供給側において過剰な受け取りの生ずる可能性がないかを検討すればよい。 それでもどこにでもごまかそうとする輩はおり、不正を完全になくすことはできないだろうから、検査や審査の類いがまったく不要だと主張するのではない。実際に働いたか確認することは必要とされよう。ただ、どんな方法をとっても無駄はある程度生じるだろう。どの程度の無駄と何を引き換えにするかである。本節第6項に記し、その注48にあげた文献([2000a])に述べたことが当たっているのなら、そう心配することはない。」 ★52 さらに、働いた方が働かないよりも多くを受け取れるように設定することになる。ゆえに社会的分配の水準は「最低限度」に設定されることになってしまう。前項にみたような場合によっては定型的でない仕事をいくらに評価するかといった面倒な計算をし始めると、そんなことをするより、そうやって世話し介助しながら暮らす生活を支える、さらにどのように暮らしていてもその生活を可能にするという発想で行けばよいではないかと考えたくなる。つまり賃金ではなく生活費を支給するとしたらどうか。実際そうした張もないではない。だがそれが難しいのは、結局いまあげた理由、支給を差異化して労働へ誘導するという手法を手離しにくいからである。 ★53 利用者側が社会サービスの一歩一歩の前進をようやく認めさせてきた間は、そもそも社会サービスの供給量の上限が必要量に達していないから、どれだけが供給の上限であるべきなのかは問題にならなかったということもある。しかし供給水準が上がってくると、これは現実的な問題になりうる。詰められていないが、ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会[1994:16,38-39]、ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会[1998:90-91]で検討されている。そして、障害者運動の側は、注57に記す動きの中でこのことを考える必要に迫られたのだが、ケアマネジメントが供給量の決定から切り離されたものとなることが明らかになった時点で、これはいったん現実的な検討課題から遠のくことになる。しかし、介護保険的なものとどう対峙するかという問いはもちろん残っているのであり、今後数年の間に実際にどうするか、現実における対応が迫られることになるだろう。 ★54 香取照幸(当時厚生省大臣官房政策課企画官)と上野千鶴子との対談の中にこのことに関わる言及があった。 「香取 その人に対して皆で供出したファンドから、どこまでのサービスを提供するか。つまり、それは最後は平等とは何かということになるんですけど、それはニーズに応じて平等でなければならない。そのための物差しは必要です。大事なことはどこまでその物差しが合理的で客観的で、みんなが納得するものなのか、むしろそういう合意形成の問題だと思います。 上野 それはどうでしょうね。運用が実際に始まってみないとわかならいけれど、現場ではかなりの混乱を招きますね。医療保険は基本的にはニーズの発生は自己申告ですよ。 香取 この人に対してどれだけの医療サービスを投入するかというのは、医者が決めている。いわば、サービスを提供する側がきめているわけです。その制度は何によって正当化されてきたのかというと、それは医師は医師としての専門性の見地から患者の状態を判定して、必要にしてかつ十分な医療を行い、その費用を請求するという医師のプロフェッション(専門家としての診断、行為)に対する信頼の上に成り立っている。 上野 それに病気に対しての共通の認識がきちんとできているからです。 香取 そうです。そしてそれを支える医学の方法論が共有化されて、それがエスタブリッシュ(確立)されているから、制度に対する信頼が成り立っているわけです。それと同じことが介護によっても成立するならば、供給者側に必要なニーズを判定するということを任せることは可能になりますが、おそらく、そういうことが可能な領域は非常に少なくて、むしろ医療が例外だと思います。過剰医療の問題だとかを考えると、あるいは医療だって本当はやってはいけなかったんじゃあないでしょうか。制度を作る側の論理といわれればそれまでですが。」(上野・香取[1999:7]) >TOP ■「家族」 ◆立岩 真也 20000301- 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』→立岩[2000:](第7章)* *立岩 真也 20001023 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p. ISBN:4791758528 2940 [amazon]/[boople]/[bk1] 「7 家族による行ない・無償の行ないの位置 二つのことを補足する。一つは、家族による介助の位置について。 他の選択肢を実際に用意し、選択を現実的に可能にすることを前提とし、介助しようとする人、介助を使おうとする人双方の合意を条件として、家族による介助は認められ、次に、生活のための資源に関わる家族と家族外の間にある権利・義務の格差は正当化されないから、家族による介助に対しても同様に社会的な給付がなされるべきである。 公的介護保険を巡ってもこの議論があったのだが、家族による介助に対する支給を認めるかという問いについてこのように答える。家族がその行為を担うことを否定するものではなく、双方の合意があれば、家族は、家族でない人と同じに、介助という仕事をする一員として位置づけられる★50。ただこれまでにも指摘されてきたように問題は残る。 一つに、家族による介助を認めると言ってしまったら、結局、現実の流れの大きい方に巻き込まれてしまう、結局家族が家族をみるという現状維持にしかならないという指摘がある。これには二つの意味がある。一つに、家族が、この仕事から離れたいのに離れることができないということ、家族を介助の仕事に縛りつけることになることである。このことは比較的言われる。もう一つは、本人が離れたいのに家族が離してくれない場合があること。支払いがある場合には、収入源として家族が介助の利用者を縛りつけることになる可能性もある。あまり言われないが、こうした事態は起こりうるし、実際にある。 たしかにこれらの可能性があり、無視できない。うまくやらないと問題は生じうる。第一のものは、単に家族でもよく、その時には家族であっても支給されるのというのではなく、家族しかいないという状況があることによっている。第二のものは、本人の意向が聞き届けられることがないことによっている。だから、現実に選択肢があり、選択が可能であることが条件となる。双方が選べる、断れる関係になっていて、その上で家族が選び、選ばれるなら問題はない。家族を望まない人もいるだろうが、望む人もいて、家族の方でもやろうと思う場合もある。それが実質的な選択であるためには、まず家族外からサービスを得られるという条件を現実に作ることである。 次に、無償で行なうことを認めた場合に、有償/無償の競合が起こるのではないか、ただでやっている人もいるのだからと値段が下げられることになるのではないかという懸念について考えておく。多くの仕事の場合には、それをただでやる人はおらず、誰もただではやってくれないからお金を払ってやる。しかしこの仕事の場合にはそうでなく、両者が並存している。無償でよい、あるいは低い報酬でよいという人が一定数いるなら、全体として有償の部分の水準を押し下げる可能性があるのではないか。また、有償の方の水準を設定する場合に、無償で行なっている人、低い報酬で行なっている人もいるのだからと低いところに設定されるのではないか。それに対し、無償の仕事も認めることは、無償であることが主流であり正しいこととされている現実の側に押されてしまうから、全面的に認めないことにするという主張もありえないわけではない。しかし、無償の行為自体を否定し、排除することの正当性は得にくいだろう。 ここでも別様の対応は可能である。自発的に拒否する人を除いて支給することにすればよい。有償の部分と無償の部分との並存は一つに、社会的に負担されている部分とそうでない部分とがあり、後者について有償とするなら自己負担を求めるしかないことによる。その負担が困難で介助を受けることができない人がいるなら、それを無償であるいは低い対価で行なうとする人はいるだろう。しかしこの状態がなくなれば事情は変わる。無償で行なわないと介助が得られないという人がいるという状態はなくなる。そして、これまではまったくのボランティアでやっているのだが、別の組織、制度に乗れば同じ仕事をして支払いがあることになる。行なうことはまったく同じである。違いは、前者においては、それを実際に行なう人以外の(例えば税)負担が少ない、安くすむことだけである。すると、相当の信念に基づいてそれを拒絶する人以外は負担・支給を受けいれ、大勢としては後者が選ばれ、有償化の方向に向かう。その結果、無償の形態を許容することによって格差が生ずる、維持されるという可能性は少なくなる。そして繰り返すが、これは社会全体としては、得でもないが損ではない。価格を規定するのか自由化するのか、そして「ながら仕事」的な部分があるとしたら、それはどうやって計算するのか★51。さらに考えるべき具体的でめんどうな問題はいくつも残っている。ただ基本的にはこれでよいはずである。」 「★50 森川[1999b]が、米国で高齢者の介助に「消費者モデル」が唱導され、導入されてきている様子を報告している。このモデルの内部で介助者として家族が選ばれることが――それを促している要因については別途検討すべきこととしてあるだろうが――多いという。 ★51 育児(これもまた介護・介助の仕事だと捉えることもできるだろう)は二四時間・三六五日の仕事だと言われ、それは当たっていないでもない。ところで、二四時間の三六五日は八〇〇〇時間ほどであり、年二〇〇〇時間働いている人が例えば五〇〇万円の年収を得ているとすると、八〇〇〇時間働いている人は二〇〇〇万円ということになる。それもよい、かもしれないのだが。」 ■文献 ◇下地 真樹 2007 「」、 ◆2003/03/00 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2002」,平岡公一(研究代表者)『高齢者福祉における自治体行政と公私関係の変容に関する社会学的研究』,文部科学省科学研究費補助金研究成果報告書(研究課題番号12410050):79-88 ◆2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、岩波書店 ◇2004/11/00 「介護保険制度改革の方向」(与えられた題)『生活経済政策』2004-11[了:20041004] ◆2005/07/10 「障害者自立支援法、やり直すべし――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか」『精神医療』39:26-33(批評社)[了:20050509] http://www.hihyosya.co.jp http://hihyosya.co.jp/books/ISBN4-8265-0424-1.html ◆2005/11/00「どうしようか、について」『グラフィケーション』141:15-17→『希望について』 ◆2006/02/10「障害者自立支援法、やり直すべし――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか」(再録) 岡崎 伸郎+岩尾 俊一郎 編 20060210 『「障害者自立支援法」時代を生き抜くために』,批評社,メンタルヘルス・ライブラリー15,176p. 1900+ ISBN4-8265-0436-5 C3047 pp.43-54 [amazon]/[boople] ※, ◆2006/07/10『希望について』,青土社,309+23p. ISBN:4791762797 2310 ◇2007/**/** 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2003」(仮題) 平岡 公一・山井 理恵 編『介護保険とサービス供給体制――政策科学的分析』(仮題),東信堂 [了:20040203] ◇立岩 真也+小林 勇人 編 2005.09 『<障害者自立支援法案>関連資料』,<分配と支援の未来>刊行委員会,134p. 1000円+送料 UP:20070805 REV:0809 1008,22 |