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楽観してよいはずだ(仮題)

立岩 真也 2008
上野 千鶴子中西 正司 編 『(題名未定)』,医学書院
http://www.igaku-shoin.co.jp


  *以下草稿

1 何が起こってきたのか?

  公的介護保険が二〇〇〇年に始まった。多くの人が知らないことだが、障害者の運動はその制度に組み入れられることに反対した。理由は簡単だ。その介助――さほどの思い入れはないが以下この語を使う――サービスの量があまりに少ないので、そうなったら暮らしていけないからだ。そして、その介護保険の制度は心配した通りの制度になった。つまり、施設で暮らしたくなく家族による介護によらず暮らそうとする人にとっては使えない制度だった。べつにこの制度を否定しようというのではない。ないよりはよほどよいものではあった。しかしそれだけではどうにもならなかったということだ。
  それ以前から、一九七〇年代から、障害者の運動は制度を獲得してきた。それはごく限られた場での、そしてわずかなものとして始まったが、やがて最大一日二四時間×毎日の制度を実現させ、さらに広がりを作ってきた。その後のことは、この成功に対する反応であったとも言える。つまり、供給に枠を設定しようとする動き、実質的には使えない介護保険(のような制度)の方に吸収しようとする動きがあって、続いてきた。障害者の側は、サービスの水準の低い制度を受け入れられなかったから、その動きに反対した。だが、紆余曲折あったうえ制定された「障害者自立支援法」は、枠をはめ、利用の「膨張」を抑制しようとするものであり、そしてこれからさき、さらにその動きが強くなることが懸念されている★01
  一つには、この危機感から、この本もまた企画されたのだと思う。
  基本的な方向ははっきりしている。高齢者用に今ある制度によってすべてをくるんでしまうのではなく、もっとまともな制度を実現させることであり、その実現の道筋を構想することである。しかしそれが困難に思える。高齢者も対象者に含めたいまの制度よりもまともな制度となると、利用者の数が少ない間はよかったとして、もっとたいへんなことになるのではないか。そんな重さがあたりを覆っている。たいそうなことのように思える。しかしそうでもないというのが本章で言いたいことだ。

2 人の心配について

  必要な人が必要なものを使いつつがなく暮らせるようになったらよいという意見に、総論としては誰も――に近いほど多くの人が――反対しない。「しかし予算が」、と言われる。「お金の問題」が残る。今に始まったことではない。そんなことばかりずっと言われてきた。
  「国民負担率」が持ち出され、その上昇が心配される。それでは大変だ、だからその率を一定以下にした方がよいといった議論があり、実際そのようにことが運ぶ。しかしそれはおかしいと思う。反論しなくてはと思う。そう思う人が言えることは幾つかある。
  一つは、日本という国が実際にはあまりに金をかけていないことを示すことである。一つには、もっと金をかけている国々の人の暮らし、経済状態をみても、問題なくうまくやれていることを実証的に示すことである。以上は本書では第◆章で明確にされており、ここでそれに加えることはない。別の二つのことを言う。
  まず一つ、負担が増えるという認識がたんに間違いである場合がある。無償の活動としてなされていたものが有償化され、そしてそれが税金や保険料でまかなわれるようになるとしよう。するとたしかに税金は増え、「国民負担率」は増える。しかしそれは今まで働いていたが受け取っていなかった人に払われるものである。その分負担する人は使える分が少なくなるが、それと同じだけ払われる分は受け取られ、使われる。全体は、増えるのでも減るのでもない。つまり、社会的負担への移行、有償化とは、まずは出す人もいるが受け取る人もいて、差し引きはゼロというだけのことである。だれだってそんな単純な間違いはしないと思うかもしれない。しかし、このきわめて単純なことが時に見失われてしまう。だからいちおう確認しておく必要がある。
  次に、そんなことはわかった、あるいは最初からわかっているとしよう。けれども、実際に仕事、ここでは介助の量が増える場合はどうか。
  まずは金のことを考えずに人手で考えた方がよい。するとすこし冷静になることができる。一つに、介助の必要な人がこれかも同じ同じ割合でずっと増えていくわけではないということ、やがては頭うちになるということだ。もう一つ、するべき仕事の量が増えたとしても、やっていける、その仕事をこなす人の数が足りないことはないし、これからもないはずだ。
  人を世話する仕事をしようとすると他の生産を減らさねばならないという状態があるなら、それはいくらかはたいへんなことかもしれない。そんな場合を想定することは論理的には可能である。そしてその場合でも、この世にはもうたくさんのものがあるのだから、ありすぎるぐらいなのだからだいじょうぶと、言えなくはない。だがそれ以前に、他の仕事を減らさねばならないほどになることを示した数字を見たことはない。私たちは足りない足りないとすぐ言うのだが、どんな意味で足りないのか、多くの場合、あまりわかって言っているわけではないのだ。
  もちろんここで人はいると述べるときには、政府の失業統計に現れる人たちだけのことを考えているのではない。退職の時期が決まっているためにさらに早められてしまったために退職した人もいるし、短い時間、短い期間しか仕事が得られない人がいる。いちばん忙しい時期が過ぎて比較的時間のある主婦もいる。そうした時間がどれほどあるのか試算したものを見たことはないが、足りないはずはない。そして世界を見渡せば、さらにたくさん人がいる。
  誤解はないと思うが、今この社会にいて余力のある人たちがこの仕事をする(べきだ)と主張しているのではない。言いたいのは、全体としてたくさん人がいるということ、その中に介助等の仕事をする人がいて、その仕事が増えても対応できるだろうということだ。ただ、事態を見やすくするために、ここでは今まで(支払いのある)仕事がなかった(少なかった)人がこの仕事に就くとしよう。他の仕事・生産の量は変わらないものとしよう。すると、介助を得る人は以前より多くの介助を受け取り、それを提供することになった人は以前より多くのお金を受けとり、そのお金を(税として)払う人々が受け取る(手取りの)お金はその分だけ減ることになる。ここでも、全体として、支払いと受け取りとは差し引きで同じである。そしてすべきことが以前よりもなされている。むろん負担の増える人(手取りが減る人)はいるが、その人たちは、それならと思って、今までより多く働くかもしれない。他方、その仕事をすることになった人たちも今までなんとか生きてきたのだから、なにがしかは得ていた。ただ少なかった。その人たちが新たに得るもの(負担する人が新たに支払うもの)は、仕事から得るものからこれまで得ていたもの(例えば生活保護費)を差し引いたその差額ということになる。そしてその結果、所得の格差は小さくなるだろう。それは所得の再分配のことを考えるならよいことである★02
  このようなことを言うと、今度は、本当に人がいるのかいないのかといったことを言いたいのではない、今いる手勢では絶対に不可能なのかといったことを問題にしているわけではなく、介助に人がとられ金が使われることの経済に対する「波及効果」を問題にしているのだと返されるかもしれない。例えばほかのことに(より多くの)金と人をかけられなくなって、その分よくないことが起こるというのである。しかしこれも怪しい。次にそのことを述べる。

3 金の心配について

  実際に金はかかる。具体的な財源はどうするのか。所得税だと自営業者からうまく取れないから消費税で、という理屈はわからないでもないが、多くの人が指摘してきたようにこの方法は、基本的に(消費に対して)定率の負担を求めるというものだから、政治が行うべき数少ない仕事の一つ――この社会の経済の仕組みのもとでたくさんあるところからそうでないところに渡す仕事――はうまく実現されない。「保険」という仕組み――実際には税による支出がかなりを占めている――を維持するのであれば、保険料支払い開始の年齢を引き下げる等々はすぐに思いつくし、私は実施した方がよいと思うが、そもそも、各自が定額を支払い、必要な事態が起こったら引き出すという民間の保険のような仕組み――公的介護保険はそのような宣伝のされ方がなされた――をここで採用することはない。
  とりあえずすぐにできることとして累進課税の累進性をもとに戻すことがある。多くの人は知らないか忘れていることだが、多く受け取った人からは多く(高い割合で)税をとるというその度合いを小さくして、そのままになってしまっている。だからそれをやめよう、まずは、すくなくとも、もとに戻そうということだ★03
  そのかつての税率の変更にいちおうの理屈は付されてはいた。負担を大きくするなら、それは生産を圧迫し、成長に負の影響を与えるといった話があった。理解できなくはないが、あまり信じる気にはなれない。
  それはまず、税が多くなると多く払うことになった人はやる気がなくなって働かなくなるだろうといった話である。しかしそれはどうにも疑わしい。税の累進性が強くなったとしても、稼ぎが多くなるにつれ手取りが減っていくわけではないのだから、もっと得たい人はより多く働いて稼ごうとするということも十分にありそうなことである。
  また、(金のある人の)税を少なくしたら、そのお金が投資や消費にまわって景気がよくなるだろうといった理屈があった。しかし、税が別の人に渡ったら、こんどはその人が使うのだから、同じではないか。その疑問にも――金持ちに金を持たせた方が投資等のためにはよいといった――いちおうの答は用意されてはいたが、これもそのままに受け取る必要はない。
  もう一つ、税から逃れるための国外への逃亡が起こるという話は、それよりは筋の通った話ではある。だが、組織の所在地を名目上他国に移すといったことに比べ、さらに生産拠点を海外に移転するといったことに比べても、人の移動はやっかいだ。人間の国外移住についてどれほどの現実性があるかを考え、また対応策はないのかを考えればよい。
  無用の心配を取り除くにはもうすこし説明を加える必要はあるのだろうが、基本は以上だ。多くあるところからは多く、少ないところからは少なくもってきて、必要なところに使えばよい。国民の過半の同意は得られるはずだ。すると、所得保障と社会サービスとは別の問題だと言う人がいるかもしれない。分けて分けられないことはないが、別のことだと考える必要はない。多く受け取ることになってしまう人から多くをとって、たくさん必要な人にはたくさん給付するというだけのことである。そして、多く受け取ってしまうのも、必要なものが受け取れないのも、同じ仕組みのもとで生ずるできごとである。それに対する対応が一元的であってわるいことはない★04。さらに自分で払った分が戻ってくるというだけなら、あるいは自分の掛け金に応じた支払いがなされるということであれば、銀行に貯金するか民間の保険に入ればよい。そこでは果たされない機能があって、それが政治に求められている。
  次に、徴収と支給の範囲について。地方分権はよいことだと言われるが、それはときと場合による。この場合には、徴収と給付の単位は、すくなくとも国の範囲で考えるべきである。まず、住んでいる場所によって受けられるものが違ってもよい理由をみつけることができない。そして介助を必要とする人の割合は地域で異なる。そしてそうした人の割合の高い地域は多くの場合、他に比べてお金を持っていない。(それでここにはあなたに回せる金がないと言われ、そのために死なずにすむ人が死んでいる現実がある。)むろん分権論者も地域間格差の調整の必要は認めるだろうが、そのための細々とした調整に労力を費やすことはなく、ほしい側と出したくない側双方の綱の引き合いに巻き込まれることはない。最初から、大きな単位をとって、その結果として、相対的に多いところから相対的に少ないところに自動的に渡るようになればよい。意義の定かでないものに「地域振興策」の金を使うより、確実に人に渡り、その土地の人のためになり、また新たな人がやってくることもあるこの仕事にお金を使えばよい★05

4 細切れの不合理

  高齢者の「在宅」の介助では「巡回」という形態が普通のものとして採用されている。しかし、これもみながわかっていることだが、それは人の生活にふさわしくない形態である。人は定刻に便意を催したりはしないのだ。しかし、このようなかたちが主流になっている。すると介助者(ヘルパー)の移動のための時間の方がかかることになったりする。お金も、人を配置したり、次の利用者の家に移動させたり、そちらの方にかかる。そして実際に働く人の手取りは少なくなる。そして結局は家族の負担はそう減らない。
  それに対して、(介護保険制度ではない制度のもとでの)障害者の介助では、そのすくなくとも一部では、「付き添う」「い続ける」というかたちが取られてきた。それは基本的には、障害が重くて身体の多くが使えず、始終人の手が必要だからということだった。何かをしようとすれば手伝ってもらう必要かある。呼吸を維持するだけのためにも常時人が必要なことがあることもある。ただ、常に何かしてなくてはならないというのでなければ、あいまあいまの時間はある。そこで「家事」をしておこうということになる。するとそこそこ時間をかけて食事を作ることも可能だった。だいたいそんなふうにやってきたのだ。
  しかしとくに人手、というよりお金のことを心配する人たちは、なんとか「合理化」することを考える。すると、そこまでべったりと付いているのが必要でない人もいるだろうということになる。その言い分もわからないではない。さてどうするか。決定的な解決法はない。だが、ここで一気に介護保険でなされているような供給方法がとられてしまうなら、それはまったくよくない。
  誰もが考えつくのは、少人数で集まって住む、ごく近いところに住む、その人たちに最低一人の人が対応するという形態だ。そのかたちを否定する必要はない。それでやっていける部分、省力化できる部分もあるだろう。しかし同時にそれには限界があるのも明らかだ。二人の人が同時に人を必要とする時には、一人でそれに対応することはできないという単純なことである。
  そしてその手前でふまえておくべきはさきに述べたことだ。こまごまとした節約をしなければならないほど人はいないのかである。いるのであれば、その人にやってもらえればよい。その人の暮らしは以前よりすこしよくなるかもしれない。そうでない人の持ち出しはすこし増えるかもしれない。それだけである。そして、受け取る人と持ち出す人は別の人と決まったわけではない。支払っていた人自らがその仕事に就いてもよい。
  加えて、支払いのあり方が工夫されてよい。現在の介護保険制度のもとでの介助は、介助する人にとって、かなり高密度の慌しいものだが、そうでないかたちも必要であり、あってよい。それが実際になされるのであれば、その密度は一様ではなくなる。かなり消耗する疲れる仕事がある。そして普通の仕事がある。あるいは、長い時間滞在し呼ばれたときに隣室に出向いて仕事をするといった対応ですむ場合がある。その仕事のきつさに応じて支払いを変えることはあってよいだろう。(現在も区分はなされている。ただ実際の介助者に渡る分が少なく、人の確保も困難になっている。問題は区分があることではなく、それぞれの対価が低いことにある。)

5 「過小申告」と家族のこと

  どれだけを提供するのかという問題がある。現実にはその査定の仕組みがある。要介護認定そのほかである。もちろんそれに対していろいろ不平不満は言われるのだが、判定・認定自体は当然のことだと、すくなくともやむをえないことだと思われている。しかしそうと決まっているだろうか。それは「たくさんとろうとする人」がいるから仕方がない、必要だとされる。ただ、他方に、「受け取ろうとしない人」がいる。つまり実際には「過小な要求」「過大な要求」と二つある。ものごとを実際に決めるのはお金を出す側だから、言われるのはもっぱら後者である。だがここでは前者の方から考えることにする。
  ひどく困っているようだが受け取ろうとしない人がいる。お金を出す側としては、そんな人がたくさんいる方が出す金が少なくなって都合がよいから、それを期待しているところがある。「ニーズ」が顕在化しないことを望んでいるからそっとしておきたい。他方で使いすぎのことは大きな声で言う。そこで後者の方が目立つが、前者の方が多いかもしれない。
  届かないのは以前も今も同じだ。「措置から契約へ」という謳い文句、あるいは変化についての理解の仕方がある。措置の時代にはまだ放置されることが少なかったと言われることもある。だが過去の仕組みも現在の仕組みも各人にきちんと届くような仕組みではない。措置は行政側が行うものだが、それにしても本人から申し出ないと始まらなかったのである。生活保護といった所得保障制度についてもそうだ。制度利用における「当事者主権」と「公的責任」は両立するし、両立すべきなのだが、それが間違って分離され、とくに「契約」の仕組みのもとでは、本人がはっきり申し出ないことはしなくてよいことのようにされている。だがそんなことはない。
  申告は仕方がないという人がいるかもしれない。しかし例えば所得保障について、課税等の時点で所得は把握されるのだから、自動的に支給することも可能ではある。社会サービスについても、害にならない限り、基本的に提供するというやり方をとることはできる。その上で実際には使わないこともできるし、返したい人は返せばよい。
  これは「当事者主権」と矛盾することだろうか。そんなことはない。本人が決めた方がよい理由の大きな一つは、本人が決める方が本人にとって益があることにある。しかし実際には、他人の世話になってはならないといった価値を真に受けてしまうこと等によって、そうはならないことがある。そういう人は遠慮深いとか、慎ましい人だとほめられる。ほめるのはただだから、ほめるだけですめば周囲も楽ができる。楽になる人たちはそれでよいとして、その人自身にとってはよくない。障害者の運動では、そんなふうに思う必要はないことを、プログラムやピアカウンセリング(同輩による同輩へのカウンセリング)というやり方で伝えてきた。これがどこでもそのままのかたちで使えるかどうかはわからない。しかしなすべきことはあるということだ。
  そして、本人の必要が届かず、そして必要なことがなされない一つの要因になっているのは家族だ。家族の意向はなぜ尊重されるべきなのか。この問いに対するまともな答は、家族は本人のことをよく知っていたりするために、その人の代理人として適切であるからという答だ。そのように言える場合も多くあることは認めよう。しかしそうでない場合がたくさんあるのもまた現実である。そしてそれは、普通に考えれば当然のことである。いまの社会では家族の負担が大きいから、家族はその負担が小さくなる方に動こうとする。放置できれば放置したい。家族の負担から公的な制度の利用に移れば家族にとっても楽だからその方向に動くのではないかとも思われるが、実際にはそう単純ではない。制度利用に際しての自己負担(という名の家族負担)が関係したり、世間への見え方が気になったりして、そうはならないことも多い。家族にどこまで介入するのかという問題はときになかなかやっかいだが、少なくとも介助の提供については、家族の意向に反しても行なってしまってよいことがあると考える。
  同時に、とくに家族にその仕事を担わせる場合には、家族がその仕事を「金づる」にするということも起こる。それで双方がうまくいけばそれでもかまわない。ただ、他の人が行なった方がよいのに家族が行ない、そして提供されるべきものが十分に提供されないといったことが起こる。また逆に、家族があてにされて、家族はその仕事から離れたいのに離れられないといったことも起こる。だから、有償の介助を行なう人として家族を認めるべきでないという主張にももっともなところはある。けれども基本的には、家族もまたこの仕事を担い、その対価を得る人として認めるべきである。ただここにいくらか厄介な問題は残るということだ。所得保障に関係しても同様のことが起こる。一方で、年金などをあてにしてその当人を離さないといったことが起こる。他方で、家族に寄生することによって(させることによって)他の援助を受けず(受けさせず)双方にとって厳しい生活が続くといったことが起こる。
  こうして、立ち入ること、調査することも含め、強制的な介入を必要とする場合がある。それは基本的には公的な機関しかできない。ただそれを行うことをときに要請し、同時にそこから距離をとる民間の組織があったらよいだろう。そこにはしばしばめんどうなことが起こる。その時、その組織の立場ははっきりしていた方がかえってよい。そういう人・組織ばかりでは足りないとして、すくなくとも一方に、当人の権利のために動くという役割のはっきりしている組織があるのはよい。そのような意味で、権利を擁護するために活動する組織が――「組合」といった名を使うかどうかはともなく、また、米国のように医療保険も満足にない国におけるそうした組織とはまた違ったものになるだろうが――あった方がよい。

6 「過大申告」と基準について

  次にもう一方、人は多く受け取ってしまう、だから基準が必要で査定が必要だとされることについて。まず、どこに基準に置くかについて、というより、基準を置くことの妥当性についてすこし考えてみよう。
  私たちはすぐ「最低限度」とか「人並み」とか言う。その「基準」を決めるべきであり、決めないとやっていけないと思っている。しかしそうか。まず「最低限度」でなればならない理由があるか。まずそれがどんな状態を指すのかもよくわからないのだが、仮にそれを言うことができたとして、なぜそれでよいのか、うまく説明するのは難しい。では「人並み」ならよいのか。これが何を指すのかもよくわからないのだが、例えば平均値であるとして、それがなぜよいことなのか。平均の値を得ているとは、言い換えれば、おおむね半分の人はそれよりも多くを得ているということでもある。なぜその人は全体の半分の人より受け取るものが少なくてよいのか。
  その理由は自明ではない。考えて、もっともな理由として残るのは、人の損得にそう大きな違いがあることは望ましいことではないということぐらいだろう。その人が多くを得ること自体は本人にとってよいことだし、周囲にとってもわるいことではないが、そのために働くのは辛い、すくなくとも辛い部分はある。だからさせずにすむ仕事をさせるのはよくない。そして働く人は、働いて苦労する分、そうでない人より多く得ることはできるとしよう。だから、結果として、基本的な所得の部分について働かない人は働く人より得られるものが少なくなる。ただ、暮らし向きは所得だけに左右されない。介助が必要なら介助が得られなければならない。その提供の範囲は、まずその人の介助の必要のあるなしを考えずに、このぐらいの暮らしはできてよいその水準に達するまでということになるだろう。すると、そのための必要は人の身体的その他の条件によって当然違ってくるが、それは仕方がない。介助の仕事を提供する義務は社会にあって、その総量を分割して対応するというのが基本的な方向だ。
  このように考えるとして、次に「過大請求」は現実に生ずるだろうか。まず所得保障の場合、ほしいだけ支給するというのはたしかに難しい。お金はなんにでも使えるし、あればあるだけよいと思う人はかなりいる。しかし使途が限定されている場合にはそうなるとは限らない。例えば医療では可能だ。「自己負担」がないかわずかで、どんな場合にはどれだけしか使ってならないと決まってなくても、それほど膨張することはない。なぜか。一番単純な理由が、医療はあればあるだけよいというものではないという理由だ。注射をいくらでも打ってほしいと思う人はまずいない。薬にしても注射にしても、多く使えば使うほどよい結果になるわけではなく、そして注射は痛い。さらに、かえってそれでは自分の健康が危いこともある。病院にずっといたいわけでもない。
  すると、そんなこともあるが、それは特別な場合に限られると返されるだろう。あればあるほどよいとは言えないものは特別なものだろうと言われるかもしれない。それは認めよう。だが介助はどちらか。まず、一日は二四時間でそれ以上長くなることはない。そして多くの場合、その仕事は一人について一人で足りる。上限は自然に決まっている。次にやはりここでも人はそう多くをほしがらないかもしれない。このことをよく言うのが中西正司だ。介助はずいぶん人の身体や暮らしに近いところでなされる仕事だ。それは必要不可欠なことではあるものの、それ自体はうれしいことではない。むしろわずらわしい。必要でない時以外には人にいてほしくはない。だから、その人が「ほしいだけ」というきまりにしても、そう増えることにはならないはずだと中西は言う。そして基本的に高齢者向けの公的介護保険には認定・判定があるが、そんなものがない障害者を対象とした制度だって実際にはあって、それでこれまでもそこそこうまくいっているのだ、判定だのなんだのする手間もかかるわけだし、そんなものはなくてよいのだ。こんな主張をする。
  この主張には一理ある。たしかにたくさんあればあるほどよいというものではない。そして、あなたにはどれだけと決められるのは当人にとってはいやなことではある。これこれの状況のあなたの場合にあなたに認められるのはどれだけ、と決められる。介護・介助は生活全般に関係することだがら、生活の全体が査定されるのに近い。それはうれしくない。どんな要求にも応じるというのではないが、とくに査定をせずとも、現実がおおむむうまく落ち着くならそれが一番よい。そのために考えるべきことを考え、できることをしたらよい。
  まず必要以上に膨張させる要因は、利用側というよりむしろ供給側にある。たくさん買ってもらったらうれしいから、たくさん売る。「過剰医療」と呼ばれたものの背後にあるのもそういう利害だ。それはそれで対応の必要があるし、対応すべきであるが、そのために利用者側に制約を課すのはよいやり方ではない。
  次に基準は当然必要だなどと言うわりには、それがどんなものであってよいのか、考えられることは少ない。例えば庭のある人がいてヘルパーにその草とりを頼むとする。その要求を受けるのか。一つに、実際には派遣できる人は限られていて、その依頼に応えていたら、生きるか死ぬかに関わる状態の人に派遣できなくなる、だから断わるといったことがある。これは後者の必要の方が前者のそれより大きい、大きくみるべきだと考えていることによる。その判断自体は妥当だとして、では両方に応じることが不可能ではない場合はどうか。身体が動けば自分がやったことなのだが、それが今できない、その分は介助者が担うということでだいたいはよいはずだ。こうした場合には他人にやってもらって得られるものも限られている、代わりに担う仕事も限られている。他方、人を雇ってやってきたことなら、あるいは現在でも雇っているということであれば、それを代行することをそのままに受け入れることにはならないだろう。ここで働いている判断は単純なものだ。人が働くのはすくなくとも一面ではその人自身に負荷となる。その人が得られるべきものは無限ではない。実際には私たちの社会では、人の労働を得るための資源(お金)をもってさえいればどれだけでもそれを引き出すことができるのだが、それを正しいこととしては認めないということだ。人の手間のかかった物を多く有することそれ自体を価値とし、それを本人が自らの本当の必要と感じているとしても、それを提供する必要はなく、提供しないでよい。先に記したことからはこのように言えるだろう★06
  また、たくさん使ってしまう人はたとえば心配な人である。そのうち減らされるのではないかという心配があり、とれるときにとっておこうとする。しかしこの理由なら、減らしても増やしたい時にはまた増やせるようにしておけば、今の自分に必要なだけでよいということになりそうだ。また人がいないと不安な人、人がいてほしい人がいる。他に人が誰も訪れてこない人は、一人だけ訪ねてくるヘルパーにずっといてほしいと思うかもしれない。いないなら仕方がない。ただ人つきあいが他の場所にあれば、介護する人にそういうものを求めることもない。人が実際にいないと取り除けない心配、不安もあるが、そうでないものもある。それがうまく取り除かれればそう多くはいらないということになる。
  十分なだけが得られるのであればそのための基準があってもよい。このことまではしないという基準を決めることは、ときに必要ではある。しかし、今まで「ほしいだけ」とか「使っただけ」なんてありえないと思われていたとすれば、すくなくともある部分についてはそんなこともありうることを知ることには意味がある。そして、そのように実際になされていたことがあることを知ることにも意味があるし、今はそうなっていないものについてもその可能性があることを知っておくことにも意味がある。

まとめ

  まず「足りない」という心配について記した。ごく簡単にではあるが、そんなことはないだろうと述べた。そしてお金のことについて。もちろん、四〇歳になった一人ひとりがほぼ一律にいくらか払っている保険料をいくらか上げ、年齢を下げることでも対応はできるだろう。しかし、足りていないところに足りているところから運ぶという原則でことを運んだ方がもっとよいだろうとした。
  次に、細切れの巡回型の介助でやっていこうとすると無理があること、すべてを滞在型とするのには無理があるしても、こちらに利と理があること、他に考えられる形態をいろいろと考えてみたらよいと述べた。
  そして、当事者主権とはその当人の言うことをそのまま受け取るというだけのことではないと述べた。実際の大きな問題は声が発せられないこと声が遮られることだと、そしてそのことに多く家族が絡んでいることを指摘した。本人(この本で言う当事者)を擁護し代弁する人、人の組織の必要を述べた。
  さらに基準の設定の必要をいちがいに否定しないが、その基準をどこに置くかについてはよく考える必要があること、そしてうまく仕組みを作りさえすれば実際には本人の希望通りの使用に委ねてもそれほど過大な需要が発生することはないのでないかと述べた。
  以上、基本的に楽観的なことを述べた。周囲が暗いから、わざと、というところはある。しかし元気を出そう(出させよう)と嘘を言ったのではない。様々詰めるべきところはあるが、その作業がなされるた後でも、やはり同様のことが言えると思し、むしろもっと確かに言えるだろうと考えている。その作業がなされたらよいと思う★07



★01 以下紙数の制約のために記せないことが多くある。他で筆者自身が書いた文章を列挙することによってそれを補う。GCOE「生存学創成拠点」のHPhttp://www.arsvi.comに掲載可能な文章や資料を掲載している。本章の題で検索するとそれらをご覧いただける。
  二〇〇〇年以降の制度と運動の動向に関連して書いた文章として[2003a][2004d][2005a]、これらと重複する部分のある概説的な文章としては[2003b][2004a]。それ以前の運動と制度の進展については[1990][1995]。自立支援法制定に至る動きについての資料集として立岩・小林編[2005]。
  介助することが社会にどのにようにあるべきか、その基本的な方向については[2000b]。また「ケア」を主題として刊行されるシリーズの一冊に収録される文章[2008b]にもこの主題に関して筆者が書いた文章を列挙した。
★02 より詳しい説明は[2000a]。また[2005-2007]の第十五回「犠牲でなく得失について」、第十六回「得失と犠牲について・続」でも([2000a]で明示的に述べたなかった部分も含め)すこし考えている。「尊厳死」についての連載で「人的資源」について考えるのは奇妙なことではない。この主題についても結局はこの話になる(なってしまう)のである。(この主題については[2008c][2008d]。また[2008a]にこれまでに書いた文章の幾つかを列挙した。)
★03 「まん中あたりの所得階層にはあまり触らず、上の方からもってくるというのがある種の多数派工作であることは認めよう。またこれは暫定案であって、とくに世界規模の格差を考えた場合にはそれではすまないことも認めよう。しかし、この社会での市場のあり方を見れば、税による格差調整の度合いを強めることに問題はない。だから基本的には間違っていない、ずるくはない、と言おう。むしろ、常に多数派の支持をとりつけながら、結局は多数の人にとってよくない状態を作ってしまうことの方がずるい、と言おう。」([2005b→2006:89])
★04 暮らしていく人にとっても両者はそもそも別のものではない。ひとまず「平均的」な――実質的には「手間」のかかりようがすくない――人間を想定し、その人にかかる「普通」の費用を考えるのが「所得保障」であり、それに追加して必要の違いに応じた給付を行うのが「社会サービス」と呼ばれるものということになる。いずれも暮らしていくのに必要なものであって、その意味では違いはない。
★05 分配(とそのための徴収)の範囲を限るのがよくないこと、本来は国境で区切ることもよくないことについては[2000a][2004b:27-30][2005c]等に記した。
★06 以下についてより詳しくは『自由の平等』([2004b])の第4章「価値を迂回しない」。そこで「多くを要求する人」と「慎ましやかな人」について考えている。その人を尊重するがゆえに、時に、その人の言うことをそのままに受け入れる必要はない、受け入れるべきでない。このこともまた「死の決定」に関わって考えるべきことになる。註02にあげたもの以外には[2004c]等に考えたことを記した。
★07 例えば人手についての「試算」を様々に行ってみてもよい。本書には収録しなかったが下地[2007]等でその作業が始められている。いっしょにできる部分についてはいっしょに、教えてもらえる部分については教えてもらって、進めていきたい。

文献

安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店→1995 増補改訂版,藤原書店
岡崎 伸郎・岩尾 俊一郎 編 2006 『「障害者自立支援法」時代を生き抜くために』,批評社
下地 真樹 2007 「介護の社会的総費用の試算」http://www.arsvi.com/2000/0712sm.htm
武川 正吾・西平 直 編 2008 『死とライフサイクル』(シリーズ死生学3),東京大学出版会
立岩 真也 1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:267-321]→1995 安積他[1995:267-321]
――――― 1995 「私が決め,社会が支える,のを当事者が支える――介助システム論」,安積他[1995:227-265]
――――― 2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について 上・下」,『思想』908(2000-2):65-88,909(2000-3):122-149→立岩[2006:137-150](抄)
――――― 2000b 「遠離・遭遇――介助について 1〜4」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→立岩[2000c:221-354]
――――― 2000c 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社
――――― 2003a 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2002」,平岡公一(研究代表者)『高齢者福祉における自治体行政と公私関係の変容に関する社会学的研究』,文部科学省科学研究費補助金研究成果報告書(研究課題番号12410050):79-88
――――― 2003b 「介護保険的なもの・対・障害者の運動 1〜2」,『月刊総合ケア』13-05, 13-07:46-51(医歯薬出版)
――――― 2004a 「介護保険制度改革の方向」,『生活経済政策』2004-11
――――― 2004b 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店
――――― 2004c 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院
――――― 2004d 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2003」(東信堂刊行の書籍に収録予定だが未公刊のためHPに掲載)
――――― 2005a 「障害者自立支援法、やり直すべし――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか」『精神医療』39:26-33(批評社)→2006 岡崎・岩尾編[2006:43-54]
――――― 2005b 「どうしようか、について」,『グラフィケーション』141:15-17→『希望について』
――――― 2005c 「限界まで楽しむ」『クォータリー あっと』2:50-59→立岩[2006:108-125]
――――― 2005-2007 「良い死 1〜18」,『Webちくま』(加筆・改稿のうえ立岩[2008c][2008d]に収録)
――――― 2006 『希望について』,青土社
――――― 2008a 「人命の特別を言わず/言う」,武川・西平編[2008]
――――― 2008b 「位置取りについて」,『ケアという思想』(シリーズ ケア――その思想と実践・1),岩波書店
――――― 2008c 『(題名未定)』,筑摩書房
――――― 2008d 『(題名未定)』,筑摩書房
立岩 真也・小林 勇人 編 2005 『<障害者自立支援法案>関連資料』,<分配と支援の未来>刊行委員会

  *草稿はここまで

  
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メモ・資料

■草稿にいれなかった部分・他

★ 「中の上以上の人については、負担は減らないこと、すこし増えるぐらいを覚悟してもらう、そのことは正直に言った方がよいと思うのだが、その上で、まったく古典的な言い方ではあるが、収入にせよ資産にせよより多くあるところからもってくればよい、そうしよう、と言って、言ったとおりに行えばよいと思う。中ぐらいのところの細かな損得をどうこうするのでなく、おおまかに、多くあるところからもってくるというのでよいではないか。課税における累進率を変更して、というよりまずは、累進性を緩くした以前の率に戻して、たくさん(収入にしても資産にしても)持っている人からたくさん出させる。」([2005/11/00])


UP:20071022 REV:
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