メッセージ
酒井 美和 2021年度(2022年3月)修了
何だかんだと、博士号を取得するために11年間も在籍してしまい、その間、ずっとご指導くださり、本当にありがとうございました。お世話になっているくせに、立岩先生からメールで送られてくる指示を、だいたい断ってしまう私にも関わらず、いつも怒りながらも、根気強く私に付き合ってくださいました。先生からは、論文の指導だけでなく、様々な人を受け入れ、軽やかに、時には、粘り強く関わる強さと信念も学ばせていただきました。私を見捨てなかった先生に、深く感謝申し上げます。
樋澤 吉彦 2015年度修了(遡及)
ほんじつは私事のため参加がかないません。20年前にはじめてコンタクトをとらせていただき、その後先端研に入院後、全面的に当方の問題で長く在籍することになってしまい、2015年度にやっと修了するまで、ていねいに深く辛抱づよくご指導をいただきました。 修了後に2冊の本を出しましたが、ともにあとがきにて不義理のお詫びを記させて頂いていたのですが、結局、その後はお会いできず、でした。 私の勝手な思いこみですが、立岩先生は「死」の「意味」について、そんなものに意味などない、ということを世界で一番、考えていた方だと思います。 私は小説家の髙村薫が大好きでそのなかでも親鸞賞を受賞した『新リア王』がいちばん好きなのですが、そのなかである僧侶の死を唯「滅」とのみ書かれていたことを思い出します(小説の主題は道元でしたが、それが道元なのか親鸞なのか、なんなのかまでは教養不足でわかりません)。親鸞は越後に流刑となりました。立岩先生の故郷、佐渡島も奈良時代から「思想犯」の流刑地であったことはよく知られています。流刑者のひとり世阿弥の影響で佐渡の薪能は全国的に有名です。 立岩先生は膨大且つ迷宮のようなウェブサイト「arsvi . com」を運営されておられましたが、そのなかのどこかで、「足が速かったので『鼓童』にスカウトされたことがある」旨、書かれているのを見た気がします。たまにご自身のことをさらっと書かれているのを読むのが楽しかったです。 越後のほうにお戻りになられたのでしょうか。佐渡島は身近に出身者がおりますし、私も縁があります。近々、行ってみたいと思います。
金澤 真実 2014年公共(中退)
立岩先生 立岩先生に初めてお目にかかったのは、先端研への受験相談に応じてくださった時でした。先生は、私の話しを聞いて「面白いんじゃない」と言ってくださり、先端研の学生になることができました。その後、立命館から東京の大学に移りましたが、現在、曲がりなりにも研究者として歩みを続けることができているのは、立岩先生のこの言葉に励まされ続けたからでした。また、先生とお話するときには、とても簡単に、あれとこれとそれと、ほらこれで論文が3本できるよなどとおっしゃるので、自らの能力も顧みず、論文がどんどん書けるような気になってしまったことも懐かしく思い出します。 研究生活の初めに、先端研で立岩先生にご指導を受けたことは私の宝です。先生からいただいた「面白いんじゃない」という言葉によって、先生とのつながりはこれからもずっと続いていくと思っています。立岩先生、ありがとうございました。
髙田 一樹 2010年度先端研修了
先端研の開設から早20年。多種多様な関心を持った院生が集う公共領域と生存学プロジェクトの末席で、立岩真也先生から温かいご指導を7年間受けてまいりました。すぐに分かりそうな筆致でありながら読み進めると奥が深く、かつ分かりにくいことにズバリと答えを言い当てる、くねくねとした”立岩文学”、飾り気はなく、すぐに終わりそうな朴とつとした口調にもかかわらず、いつになったら話が尽きるのか先の読めない”立岩節”を武器にとり、すべての人の生の技法を死守する異種格闘技戦に果敢に挑んでいらっしゃる姿と、バザーで買ったという黒い革ジャンとオレンジ色の半そでTシャツが印象的でした。いまごろ渡辺公三先生、遠藤彰先生とともに酒を酌み交わしながら先端研談義に花を咲かせていらっしゃるのでしょうね。
Mithout
私が研究を始めた時から、先生の本がインスピレーションになりました。2016年に実際に会って、色々教えていただいて、生存学研究所に誘ってくださって、大変感謝いたします。ご一緒に京都で過ごした時間は短かったですが、いつまでも心に残ります。 先生、ありがとう!
太田 智加子
2023年夏、生存学研究所の客員研究員として受け入れて頂いた際、「感謝、歓迎です」という短文メールを頂きました。既に病床からで、力を振り絞ってお書きになられたのではと拝察します。きっと全身全霊で研究所の今後を気にかけておられたのではと…ずっと手元に置き、研究や人生に行き詰った時に自らを鼓舞します。
アンジェリーナ チン 客員研究員2019-2020
立岩先生を偲んで 私が初めて立岩真也先生のことを知ったのは、2018年に日本の障害学についてインターネットで調査をしていた時でした。ちょうど私が障害学や高齢者学に興味を持ち始めた頃で、日本の支援技術を研究するために安倍フェローシップに応募したばかりでした。 立命館大学の生存学研究所のホームページを見つけ、すぐに立岩先生の著作に惹かれました。そして「この素晴らしい先生と知り合って、一緒に研究できたらどんなに素晴らしいだろう。」と思いました。 私は先生に英語でメールをお送りしたのですが、数週間お返事をもらえず、とてもがっかりしていました。きっと立岩先生はお忙しくて、私のメールを読んでおられないのだろうと思いましたが、6週間ほど経ったある日、立岩先生から日本語でメールを書いてくれないかという短いメールが届きました。そこで私は拙い日本語で、2019-2020年の日本滞在中に立命館大学と提携し、先生のもとで学びたいとお返事しました。すると、先生は二つ返事でOKしてくださったのです。同じメールの中で、事務スタッフの加島さんも紹介して下さり、事務手続きを手伝ってくれるよう頼んで下さいました。京都での滞在を始める前に、立岩先生を訪ねると、先生は親切に同僚や大学院生を紹介してくださいました。移動が大変だから自転車を買いなさいとおっしゃったことを覚えています。施設や住宅事情についても教えて下さいました。大変お忙しいにもかかわらず、生存学研究所の図書館での資料や本の探し方も親切に教えて下さいました。立岩先生が日本のテレビドラマにも詳しいことにとても驚き、先生と初めて直接お会いして、私は先生をもっと知りたくなりました。 日本での滞在はコロナの影響で短くなってしまいましたが、立命館大学で著名な学者と研究できたことは、私の人生で最も忘れがたい経験のひとつとなりました。立岩先生とは3~4回しかお話できませんでしたが、会う度に私の研究の進歩状況を尋ね、資料や学者を推薦して下さいました。先生は数々の活動家や学者の名前を教えてくれ、障害者活動の歴史についても熱心に教えて下さいました。(もちろん、その情報はすでに彼の著書やホームページから知っているべきだったのですが!)また、私が直面するかもしれない言語や文化の壁にもとても気を配って頂き、中国や台湾の学者や学生も紹介して下さいました。 最後に立岩先生とお話したのは2020年2月下旬でした。立命館大学の朱雀キャンパスで、ウィルの車椅子やその他の電動車椅子を試した時でした。車椅子で狭い場所でドアを開けたり、都会のキャンパスを移動することの難しさを初めて知ることとなった、思い出深い体験でした。セッションの終わりにコロナ禍で日本を離れなければならないが、すぐに戻ってくると立岩先生に約束しました。残念ながら、私はもう3年も立命館大学に戻ることはできませんでした。昨年の夏にご逝去を知った時は本当に悲しかったです。 立岩先生の優しさ、寛大さ、そしてインスピレーションを私は決して忘れません。
橋本 努
立岩真也先生、心よりご冥福をお祈り申し上げます。私は2004年の日本法哲学会大会の統一テーマ報告で、立岩先生とともにパネリストとなり、「リバタリアニズムと法理論」というテーマをめぐって、二日間にわたり議論を交わしました。また、立岩先生の『私的所有論』をゼミで講読したこともあり、この大著から大きな刺激を受けました。私はこの本と対峙すべく、批判的に吟味したメモを作ったのですが、それをいつか論稿にしたいと思っていたところ、立岩先生は早世されました。日本を代表する知性を失ったように思います。残念でなりません。
貞岡 美伸 生命2018修了
最後の思い出は、①2020年に京都.北野カライモブックスで開催された刊行記念講演会でした。立岩真也先生と吉野靫様のトーク場面が蘇ります。早くも3年前になります。2005年から13年間、遠くから見守っていただきました。ありがとうございました。感謝します。
竹村 洋介
大学入学以来の友人でしたが、40年間余、まっすぐに生きた人でした。決してぶれることなく、ひたすら自分の道を究めた人でした。友人というにはおこがましい、まさに畏友というべき存在でした。早い死でしたが、ご冥福を祈ります。
松波 めぐみ
はじめて立岩さんの名前を意識したのは「生の技法」。読んだのは大学院1年目の1999年で、自分がそれ以前に出会っていた自立生活運動がこんなふうに記述されていることに感動したのを覚えている。読むたびに新しい発見がある本だと思う。リアル立岩さんにお会いしたのは、2001年ごろの障害学研究会関東部会(三田の障害者会館)。長野からやってきた立岩さんはリュックから本をとりだして…。ああ、こんなことをだらだら書いてもしかたがないのだけども。 2008年10月に、生存学研究所(たぶん)が韓国の障害者運動関係者を衣笠キャンパスに呼んで話を聞く会があり、足を運んだ。そこで矢吹文敏さん(2022年逝去)と話したのが、私の京都の運動との出会いを決定づけた。結果、移住することにもなった。アカデミックな業績づくりを放棄して、京都の障害者運動の近くにいながら教育や研修というかたちで「実践」することを選んだ私のことを、立岩さんがどれぐらい認識?理解?していたかはわからない。ほぼ雑談しかしていないからだ。会話がとんちんかんだったこともある。けど、案外あたってなくもないかもしれない、みたいな会話も結構した記憶がある。私が「ええやん」と思った運動や人を立岩さんも高く評価し、ともに歩んでいることが心強かった、といまさらながら思う。(なんかめちゃくちゃな文章ですが、まあ立岩さんだったら許してくれはるやろと思って書いています。) 立岩さんの発言や行動に影響を受けてきたつもりだけども、「生の技法」以外あまりちゃんと読んでないのが恥ずかしい。でも、書かれたものは残るから、読めばいんですよね。 JCILの事務所の片隅で、膝の上のパソコンを打っている立岩さんの姿が浮かぶ。そんな日常がこれからも続くと思っていました。信じられないけど、存在はかけがえがなく、これからも大きな存在であり続けるのだと思っています。ありがとうございました。
加藤 有希子 生存学創生拠点2011年度ポスドク
立岩先生は責任感が強く、シャイで、優しい方でした。一度、めずらしく飲み会にいらっしゃったときに、毎年みんなのために研究費を取らなければいけないプレッシャーについて語っておられたのが、印象的でした。2011年の生存学のポスドク時代は本当に楽しいときでした。心より感謝申し上げます。
小辻 寿規 2020年度修了
生前は立岩先生にお世話になりっぱなしでした。 大学教員としてだけでなく、社会活動家としての立岩先生がおられたからこそ前進した活動も多数あったと思います。もっともっと長生きしていただきたかったです。 立岩先生のようにはなれませんが私も大学教員として社会活動家として頑張っていけたらと思います。見守っていてください。よろしくお願いします。
柴垣 登 2020年度修了
立岩先生には先端研でお世話になりました。 仕事をしながらの院生でしたので、なかなか授業にも出られない状況の中で、家が近かったこともあり、近くの喫茶店でいろいろ相談したことが思い起こされます。 博士論文を出版したときには、解題も寄せていただきました。そこに次の一文があります。 じつは柴垣さんの生年は1961年で私は同学年、さらにもっとどうでもよいことだが、2 人は〇〇(個人情報になるので伏せます)というところに住んでいる。うかがったことはないが、歩いて10分もかからないところにお宅がある。だから近くの喫茶店で研究相談というものをしたことがある。岩手大学に転職し、…(以下略)。 同い年ではあるものの、歩んできた道の違いから、お互いにずいぶん風貌や考え方に違いがありましたが、やはり同じ時代を生きてきたこともあり、院生と指導教員という立場を離れたところでは言わずもがなで話が通じることが多々ありました。研究相談だけでなく、映画や音楽のことなどを話したことも思い出されます。 亡くなる直前までメールでのやり取りがあり(個人的には7月18日)、Zoomで姿も拝見していたのでそれほどとは思っていなかったのが正直なところです。 ただ、7月31日の数日前からメールがぱったりと止まり、胸騒ぎを感じていたところへ訃報が入りました。 私自身が大学に転職し遠方にいたこと、コロナ禍でなかなか直接会うことができないことが数年続いていたことがあり、まだ亡くなった実感がありません。 TシャツにGパン(夏に自宅近くの喫茶店で会った時には、下はバミューダにサンダルということもありました)といういつもの姿で、ふらっと自身を偲ぶ会に現れてくれないか、そんなことも思うほど、まだ現実を受け入れられていない自分がいます。
樋口 也寸志 2011年度修了
先端総合学術研究科在籍時、立岩先生にお世話になりました。現在、先端研での経験を活かして、大学・専門学校などで教鞭をとっています。私の都合で立岩先生を偲ぶ会に参加できません。メッセージのみですが、感謝申し上げます。
舘澤 謙蔵 公共休学中
立岩先生が亡くなられたことが信じられないです。いまもそのあたりにおられるのではないでしょうか。 2022年12月19日のインタビューに同席いただいた時に「書くべきことを書いてください。仕事してよね〜」と叱咤いただきました(その時すでにお体はしんどかったのでしょうか。写真を見る限りお元気そうに映っています)。 ほとんど大学に通わず、いざとなれば先生のお宅(私の家と近いので)に伺って直接指導してもらえたらいいやと怠慢な考えの、私にも、普段メールで熱心にお声かけ、指導していただけたこと感謝に絶えません。 残念ながら、私はその時からも研究の方は手つかずです。 ですが、先生は私たちに、社会に、多くの言葉、多くの書かれたものを残してくださいました。それらをたよりに自分の研究/実践の道を少しずつ進んでいきます。 これからも、「こういう時、立岩先生ならどうコメントするだろうか、立岩先生ならこう言うだろうなあ」というような形で、きっと心に現れ、生きてくださると思いますので、引き続きどうぞ宜しくお願いいたします!
瀬野 喜代
私は2度の産前産後休暇を挟んで15年間、全障連の猪野千代子さんの介助を担い、障害者の足を奪い返す会の広報を担当しました。立岩さんが障碍者解放運動の資料収集をされていると知り、保存していた手書きのチラシなどをお渡ししたのが2019年12月19日のことでした。北山通のパン屋の2階で友人と3人、長いおしゃべりをしました。立岩さんがインタビューとして整理するにあたり個人名は全部イニシャルにしてもらったのに、いつの間にか苗字になっていて困ったのですが、大昔の話なのでそのままにしています。同い年の子どもがいたりして、とても話しやすい方でした。大学時代はスモン被害者の古賀照男さんの呼びかけで井上スモンウイルス追及実行委員会で活動していたので、その後、古賀さんの資料を送ったりもしました。 立岩さん、私よりも5歳若いのに逝ってしまわれるなんて大変驚きました。いろいろとありがとうございました。 種を蒔かれた生存学をもっと深め、広げるために多くの人々が力を合わせるでしょう。どうぞ安らかに見守ってください。
安 孝淑(アン・ヒョスク) 公共領域2018年度卒
立岩先生。 先生のおかげで私は大事な人たちと出会い、大事な時間を過ごせました。一生の宝物です。 私の力不足で研究の道を歩み続けることはできませんでしたが、断言して先端研で勉強し、卒業できてよかったと思っております。 どう考えても早すぎます。この残念さをどう表現できますでしょうか? 願うには天国では病気の痛みも忘れて、会いたい人たちとたくさん会って、楽しい時間を過ごしてください。先生の教え、一生忘れません。 ご冥福をお祈りします。
種村 剛
立岩真也さんに初めて会ったのは、2008年7月20日に東京都府中市の薬膳料理屋の玲玲(リンリン)で行った「極小的影像劇場(ミニミニシアター)上映会」でした(http://www.arsvi.com/2000/0807tt.htm)。赤羽敬夫さんが「青い芝の会」の寺田さん、横塚さんを取り上げて撮影したフィルムを、立岩さんらと一緒に観ました。この上映会が行われた経緯については『そよ風のように街に出よう』77号の「もらったものについて・3」に認められています(http://www.arsvi.com/ts/20090053.htm)。生存学のWebページを検索してみると「HP・画像・映像」「青い芝の会」「『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』註」などに、上映会の記録が引用されていました。 この上映会については「立岩真也:ツィッター2018」にも言及があります(http://www.arsvi.com/ts/t2018.htm)。その場で私は、立岩さんとお酒を飲みながら、吉田民人先生が私のお師匠さんであること、中央大学の吉田ゼミで『私的所有論』が話題になったこと、吉田先生は立岩さんの著作がまとまったことをとても喜んでいたこと、力作に違いないと述べたこと、そんなことを話しました。この顛末は「立岩真也:ツィッター2018」に「私は、吉田民人先生は私のことを厄介者だと思っていたとずっと思っていたのだが、『私的所有論』のことを肯定的に中央大学の院生たちに知らせていたと聞いて、すなおにうれしいと思った。」と記されています。私はこのつぶやきをSNS上でリアルタイムで読んで、この上映会を企画して本当によかったと思ったのでした。その上映会を行った玲玲はもうありません。 吉田先生の仕事について『私的所有論』では次のように記されています。「ある意味ではかなり限定された範囲を問題にする本書では、吉田のこれらの業績を援用することはない。けれども、自らの前提をはっきりさせる、論理的な可能性の全体を描く、現実的な可能性について吟味するという姿勢を貫こうとする真面目さが、この主題に限らず、他の誰のどれだけの仕事にあっただろうか。またこの主題がどれだけ――今述べた意味において――真面目に追究されただろうか。私は、本書の主題について――そこでは組み合わせの構想力に限っては、それほど必要とはされないはずだが――、できる限り、こうした姿勢を継承したいと思う。」(http://www.arsvi.com/w/yt07.htm)。立岩さんはこの文章で「自らの前提」として吉田先生の学問態度の継承があることを「はっきりさせ」ています。だからこそ立岩さんは、お師匠さんである吉田先生の言葉に「すなおにうれしいと思った」のではないでしょうか。 学問は継承することができます。それは大学で学ぶことの良いことの一つです。残された私たちが立岩さんの学問態度を引き継ぐことは、立岩さんが私たちの社会学の営みの中に生き続けることなのだと、私は思っています。
小林 律子
立岩さんと初めてお会いしたのは、彼がまだ東大の院生の時、1988年頃。『生の技法』を書くために『季刊福祉労働』の品切れの号をコピーしに現代書館にいらした。立岩さんは多くの障害者運動団体の機関紙、会報を購読されていたが、りぼん社さんの『そよ風のように街に出よう』と現代書館の『季刊福祉労働』の創刊号からバックナンバー揃えているというのが、ご自慢だった。 以来、『How to 介護保障』(自立生活情報)センター編)『自立生活運動と障害文化』(全国自立生活センター編)『横田弘対談集 否定されるいのちからの問いー脳性マヒ者として生きて』『【増補改訂版】障害者殺しの思想』(横田弘著)等の単行本と、なにより『季刊福祉労働』へのご寄稿で、一緒にお仕事させていただいてきた。 初めてお会いしたときの「ヌボー」っとした印象は、その後も変らずだったけれど、立命館大学に移られて、文科省のグローバルCOEプログラム(大学院対象の研究拠点形成等補助金事業)という競争的資金を獲得し、生存学研究センターを設立したと聞いたときは、正直驚きました。研究資源・資金獲得のマネジメントのようなことに長けているとは! しかし、生存学グローバルCOEプログラムの資金と組織があったからこそ、あれほどたくさんのお仕事と当事者研究者の養成が出来たのだと、感服しています。 まだまだやりたいこと、やり残したことがあったはずと思います。立岩さんが残してくださったものを、同僚の方、教え子さん、志を共にした者たちが引き継ぎ、発展させていくことを見届けたいと思います。
つるた まさひで
立岩さんのこと いつ、どんな風に知りあったのだろうと思い出そうとして振り返ってみたのですが、思い出せません。 『私的所有論』という本があることは知っていたと思います。そして、まったく覚えていないのですが、21世紀の初め頃から数年前まであった障害学MLでのメールが出会いだったのかもしれません。ぼくはLOGを残していないのではっきりしたことはわかりませんが。 覚えていて、記録があったのが関東障害学研究会での立岩さんの発表。 「ないにこしたことはない、か・1」 http://www.arsvi.com/ts/2001023.htm この記録によると、開催されたのが2001年1月27日。東京に珍しく雪が積もった日でした。雪だったにもかかわらず、たくさん人が集まって、立岩さん人気があるのだなぁと思ったのでした。そして、ぼくもこの感想を書きました。たぶん、立岩さんにぼくから売り込んで生存学のサイトに掲載してもらいました。http://www.arsvi.com/2000/0103tm.htm 土屋さんが立岩さんの思い出を辿っているフェイスブックの記事のコメントにこの話を書いたら、土屋さんも覚えていて、大きなリュックサックを抱えて(売り物を積めて)松本からやってきた話があり、そうだ、まだ京都ではなかったのだと思いだしました。 あと、覚えているのが第1回の障害学会。2004年6月@静岡県立大学、報告は聞かずにロビーで物売りをしながら赤ワインを飲んでる立岩さん。ぼくもわけてもらいました(たぶん)。研究者でもなんでもないのでアカデミズムとはほとんど縁がないから、ぼくにとってどうでもいいはずのアカデミズム。どうでもいいはずなのに、どうでもいいとは思えず、でも好きになれないアカデミズム。そんなぼくですが、すごくアカデミズムな人なのにアカデミズムから遠そうな立岩さんにはなぜかとても親近感を感じていたのです。 数年前、生存学研究所にも誘ってくれて、何をしてるわけでもないのに、名前を入れてもらったりもしました。そして、ぼくのところにもそのうちインタビューに行くよって話があり、そんな口実で話をして飲めるのを楽しみにしていたのに、かなわない話になってしまいました。楽しみにしていたのに残念過ぎ。でも、もっといろいろ書いたり、やったりしたかったはずで、いちばん残念なのは立岩さんだよね。 追悼のメッセージになんか中身のあることを書きたかったのに、何も思い出せません。もしかしたら、中身のある話はしてなかったのかなぁ。
中川 一郎
「栴檀は双葉より芳し」という言葉は、立岩君のためにある。その実感を強めています。学部学生の頃からの煌めいていた知の力を志を踏まえて発揮し続けた。そのことに、心から尊敬します。遅ればせながら、手に取った「造反有理」。素晴らしかった。あの1981年~82年の共にした時空で何が進行していたかを解き明かしてくれた。そのことで、雑談してみたかった。コンタクトしよう、しようと思っていた。思っていただけでかなわなかった。ほんの少しの行動なのに、ぼくが臆して遅れた。残念だった。ご霊界での安穏を心よりお祈り申し上げます。 1983年東京大学文学部社会学科卒業 中川一郎
Fernando Vidal
I met Professor Tateiwa during my stay as Visiting Professor at Ritsumeikan in 2017. Although we had only a brief personal contact, his powerful personality left me a great impression. He projected a moral and intellectual force as I have rarely experienced. I found the same luminous and strong projection in those writings of him that are available in English. They are testimony not only to his outstanding work capacity, but also of a generous ethical commitment that he, as few, was able to combine with rigorous research. May he rest in peace; his presence on earth leaves deep and positive traces.
中井 秀昭 公共2023年度中退
いつも興味深い話を淡々とされ、自分の価値観をひっくり返されるような時間をありがとうございました。まさか、Zoomでのご助言が最後の言葉になるとは思っておりませんでした。あの時にいただいた「作業療法を批判的にきちんと書いている人はいないよ。」という言葉、常に心に留めながら、人のためになる研究を進めていきたいと思います。本当にありがとうございました。
田中 雅美 令和3年度大阪大学人間科学研究科博士論文の副査をご担当いただいた
立岩先生、障害のことを研究していくならばと、勝手を言い副査のご担当をお願いした時の先生の言葉を今も覚えています。先生が大切にされていた、現場に向かい実践することを私自身の目標として、がんばっていきます。昔も今も先生が私の研究指針です。末永くよろしくお願いいたします。
江口 怜
私が「立岩真也」の名を初めて見たのは、神戸で過ごした学生時代に、脳性まひの澤田隆司さん(故人)という方の家で介助をしている時に、タンスの上に何冊か並んだ本の中で、新装版の横塚晃一著『母よ!殺すな』を眺めた時であったと思う。2007年の刊行であるから、比較的直後のことだった。私は「昔青い芝でバリバリやっていた」と噂されるおじさんたちのところで修業?しながら、学生仲間とわいわい過ごし、この社会のことを少し考え始めていた頃だった。その頃読んだ『母よ!殺すな』は、今も大切な本として書棚に並んでいる。 その後、立岩さんの本の何をいつ読み、どのぐらいの影響を受けたのか、記憶がはっきりしない。ただ、その後、東京大学の大学院に進学し、そこで諸学問の中の近代主義/近代批判の文脈や、私もいくらかかかわった社会運動の歴史のあれこれを学んだり、夜間中学という対象の歴史を追いかけながらそこに見え隠れする対立や論争の解釈に悩んだりしている時に、立岩さんの「生の現代史」のお仕事が一つの指針となっていたことは間違いない。だから、大学院生の時にあるきっかけで、立岩さんに初めてお目にかからせていただいた時の興奮はよく覚えている(生存学研究所の書庫に並ぶ膨大な資料を眺めてさらに興奮した)。その頃、大学院のゼミで『障害児の共生教育運動』という本にまとまる歴史研究の本をつくっていて、その頃に何度も、「もらったものについて」という立岩さんの連載エッセイを読み返したことが思い出される。 私は、2022年に出した本(『戦後日本の夜間中学』)を生存学奨励賞に応募し、光栄なことに授賞させていただいた。その時、いただいた立岩さんのご講評は、私の言外の思いを言い表してくださったように感じて、涙が出そうなほど嬉しく、何度も読み返した。学問領域もテーマもそれほど近いわけではないにも関わらず、勝手ながら、問いが通底していることを再確認できたような思いがした。立岩さんが深入りせずに残された学校や教育を巡る思索に関しては、バトンを受け取って考えていかねばとも思っている。授賞式の時いただいた、「これからもちゃんと仕事(研究)をしてください(大意)」というメッセージを胸に刻み、これからも精進して参ります。たくさんの大切な仕事を残してくださり、本当にありがとうございました。
山田 嘉則
文学部学友会時代に立岩真也を知りました。その後私は医師を目指しましたが、医学部在籍中に『季刊福祉労働』に名前を見つけ「自立生活運動の現在」に大いに触発され勇気づけられました。 精神医療分野については見解を異にすることはありましたが、あくまでも「小異」です。思いを同じくする立岩真也の存在にずっとエンパワーされてきました。お疲れ様でした。ゆっくりお休みください。
小林勇人 2007年度修了
立岩さんが往生された日に、そうとは知らず、ちょうど幸田露伴の『連環記』を読み終えて、何かひっかかるところがあり、調べているうちに、松岡正剛のHP(https://1000ya.isis.ne.jp/0983.html)にいきあたり、それをヒントに考えてみるに、これって立岩さんじゃないか、次に会ったら話してみようと思っていました。 大きな環や小さな環が入れ子状に連なって記された宇宙で、近くて遠く、遠くて近く、いつまでもあなたと交信し続けます。
岡本真
ACADEMIC RESOURCE GUIDE(ARG)< https://www.arg.ne.jp/ >(1998年創刊)というメールマガジンを出しています。立岩さんには実は本誌の最初期にたいへんお力添えをいただいていまして、それだけにこんなに早く別れのときが来るというのは衝撃でした。 まだ信州大学医療技術短期大学部に立岩さんがいらした頃、立岩さんの主著の1つ、『私的所有論』(1996年)が刊行されてまだ数年の頃でした。 本誌が創刊された1998年の12月15日発行の[ARG-014](1419部)に立岩さんは「『私的所有論』+HP」という文章を寄稿してくれています。研究者がウェブサイトをもつことがまだ珍しい時代に立岩さんはすでに25年くらい先を見据えていたのだと感じる一文です。 立岩さん亡きいま、彼に再掲載のお許しをいただくこともできませんが、私の責任でここに再録しておきます。立岩さんが遺してくれた大きな財産であるarsvi.comにつながる文章と私は思っています。 *
「『私的所有論』+HP」 立岩真也(信州大学医療技術短期大学部教員) 拙著『私的所有論』(1996年9月、勁草書房)の「序」に次のように書きました。 「このように[注に:引用者補記]ある程度の情報を入れたが,もとより十分なものではない。また事実は変化していく。そもそも単行書によって日々の変化に即応することは不可能であり、十分な数の購買者が得られない情報に価格をつけて販売することもできない。そこで、ホームページ「生命・人間・社会」(仮称)から情報が提供される。 http://itass01.shinshu-u.ac.jp:76/TATEIWA/1.HTM 1996年の6月から情報の提供を始め、現在この本にある文字の10倍くらいの文字が収録されているが、ここに本書(の主に注、文献)を拡充して掲載する。例えば第3章や第9章で引用したいくつかの文章は、必要なだけを本書に掲載するには分量が多すぎ、やむをえず数と分量を減らして掲載したものである。そのもとになった引用集等がこのホームページに収録される。また本書でほとんど言及されることのない「事件」についての情報も提供する。著作権の問題がないものについては各種の文書、文章全体を収録していきたいと考えている。同様に著作権上の問題のない論文や報告、等々も掲載させていただきたいと考えている。近いうちに、このホームページは、例えば本書で扱ったような主題に関心をもつ人達の情報源として、また思考の流通の場として、共同運営されるものとなるはずである。論考、情報の提供、また本書の誤りの指摘等々をお寄せください。」 この本は文字数換算で400字詰1600枚くらい。こういうものはインターネットでは普通読まない。やはり「本」の方が便利。ただ関係する様々なことを書いているとどれだけ紙数があっても足りない。上記した情報更新や読者数等の事情もあるから、本には言いたいことだけ書いて、それ以外はホームページに載せる、そういう使い分け方もあると思います。ただ、インターネットを使わない人ももちろんいるし、使っていてもそんなに使い勝手のよいものでもないし、2つのメディアに分かれているものをつなぎながら読んでいくのも大変だから、そこまではしませんが。 ホームページ自体はなんでも載せます。この本の関係では、書評一覧、間違い(フロッピー入稿だと誤植とは言い難い)の訂正表(情けないことにたくさんあった、Eメイルでも御指摘をいただいた)、事項索引(ここから関連情報にリンク)、人名索引(ここから論文リスト等にリンク)等々。ただ、上で広告してある「情報」の拡張・拡充は十分には行えていません。今は、考えたいことを考えるのを優先しているので。お金があったら、誰かの手助けを得て掲載情報を拡充していきたいけれど、ないものはない。(そういえば、この本はひどく高いので、著者割引価格で買い取って割引通信販売もしております。よろしかったらどうぞ。) 「考察」の部分、本で考え残したことについては、考えられるところから考えて論文なり本なりを書き、この主題についてはこれこれをどこそこに書きましたといったお知らせをする(お金が絡まない文章はそのままホームページに掲載する)ことをしていますし、これからも続けるつもりです。 さて最後に、この本が日本語で書かれている(私が日本語でしか書けない)のは困ったものです。いろいろとうまくいって英語になったとしても、誰がどこで売ってくれるのだろう。となると、英語版をホームページに載せるとか。しかし長いからな…。今のホームページの中身も英語版を作りたい。しかしそれをやってる時間は(力も)絶対ない。となると、やはり人 and/or 金だ。しかしそれは今存在しない。そのうちなんとかなるだろうと、そしてこんなものでもないよりある方がいいだろうと思って、あるいは先々のことは考えずに、できる範囲で地道に更新しています。どうぞよろしく。 Copyright (C) TATEIWA Shinya 1998- All Rights Reserved. [データ] 生命・人間・社会(仮称):http://itass01.shinshu-u.ac.jp:76/TATEIWA/1.htm 立岩真也のホームページ:http://itass01.shinshu-u.ac.jp:76/TATEIWA/0w/ts01/0.htm 『私的所有論』のページ:http://itass01.shinshu-u.ac.jp:76/TATEIWA/1i.htm
幸 信歩 生命領域 2021年修了
初めてお見かけしたのは廊下での後姿でした。背中にオーラとエネルギーを感じ、少々引き気味になったのを覚えています。 その後、確かメールで質問をしたら長ーい返事を頂き驚きました。そして公聴会。一番最後に会場に来られ、一番奥の後ろの席に座られました。最後に深く鋭い質問を頂き、気が遠くなったの記憶があります。終了後、これからの課題や指針を丁寧に、そして真剣な眼差しでお話し頂き胸と頭がいっぱいになりました。 こんな不出来な私に諦めずあつい気持ちを注いで下さる方が近くにいたのかと驚きました。 オーラ、エネルギー、諦めないで何度でもお話下さるあつい気持ち、遠くから見守る深さ、感謝しかありません。 ご冥福をお祈りいたします。
大橋 由香子
82優生保護法改悪阻止連絡会(現在は「SOSHIREN女(わたし)のからだから」)の事務所にお越しくださったのは、いつだったでしょうか。引っ越し2回目の曙橋の事務所に、当時は珍しいノート型パソコンを持参なさり、『私的所有論』の読書会講師だったか、それとも私たちソシレンへの調査だったか、パソコン画面に顔を向け文字を打ち込む時間のほうが、直接目を見合す時間より長かったことは覚えています。 最後に対面でお会いしたのは、2018年7月末、優生保護法における国賠訴訟の提訴後、東大駒場で開催した集会とその後の懇親会。台風で中止するか迷う中での開催、交わした会話は、アルコールと加齢とで定かではないものの、どこかで繋がっていること、少なくとも私は感じ続けていました。いつかじっくり話したいというのは夢のまま。先に逝ってしまったのは残念すぎます。いつかあちらで、諸々の疑問をぶつけさせてくださいね。
植木 是 公共領域
立岩先生、いつもありがとうございます。・・・といっても、もう、会えないのですが。そんなかんじで先生、いろいろおもいかえしては、それなりに、やはりがんばろうと、やっています。がんばります。 (先生、当日は仕事で行けないのですみません) (ごみ箱軍団、ぽんこつ集団、とか、謎のやからだな、どうしようもない、なおらないやつだな、とか、ぼろくそに先生にいわれてきたのですが。先生にそういわれたからには、いわれたなりには、やはり、まじめにぼちぼちとやってまいります。本人自覚がないようだが、とかいろいろいわれたりもしましたが、そうやっていきづまったときに、すなおに、まっすぐ、つっぱしるしかないだろ、最初からそれしかないならそれくらいだろ、そうやってやるのをやるだけだ、というふうに、励ましていただいたのがとてもうれしかったです。これからも、そういうかんじで、そういうことを思い出しながら、いろいろこつこつやってまいります。いろいろ楽しかったです。先生おつかれさまです) 立岩先生、ほんとうにいつもありがとうございました。これからも先生、よろしくお願い申し上げます。
鈴木 悠平 公共4回生
川を遡るのにさほど大きな船や荷物は要らないこと、航路は人の数だけあり、自分で見つけなければならない一方、それらは存外に色んなところで繋がり、交わり得るのだということ、道半ばでも記録を遺しておけば誰かが後に続いてくれるかもしれないことなどを、立岩先生から教わりました。教わった、というより、示してもらったという方がただしいかもしれません。
金野 大 先端研2021年修了
立岩先生 本当にお世話になりました。 ありがとうございました。 家が衣笠キャンパスに近く、創思館が視界に入るたび、まだそこで授業をされているように思えてなりません。 どうか安らかにお眠りください。
山崎 祐子 ご近所留学の会
立岩真也先生 2000年介護保険制度開始と同時に障害サービスがうけられなくなり、お先真っ暗だった時に「現代思想」3月号で立岩真也先生の「遠離・遭遇」を手に取りました。立岩先生のホームページと障害者自立生活・介護制度相談センターから、当事者運動を学びたずさわり、いまも介護の仕事を続けています。 前線の当事者を後衛で援護してくださり、ありがとうございました! 障害学研究会から生存学へ、学びを寄るべにしたことはわたしにとって正しかったです。 ご冥福をお祈りします。ご近所留学の会
田中 多賀子 公共 2019年度修了生
立岩 真也 先生 へ 何だろう…この喪失感は… ボディブローのように じわりじわりと 効いてくる… 先生が昇天されたという報告を受けた後、しばらくの間、こんな風に心身が脱力したようになっていました。 振り返ってみると、先生には論文指導だけではなく、前の職場への就職の際には保証人になって頂くなど、大変お世話になりました。 3年次編入当時、博士論文のテーマは知的障害者のコミュニケーションアセスメントに関するものにするつもりでしたが、先生の強いお薦めにより、第3候補の「小児人工内耳受容史」に変更することにしました。 自分では当たり前のように捉えていた、聴覚障害児教育界での人工内耳治療導入当初の受けとめ方と時系列的変容、そのエピソード…。 先生とのやりとりを通して、そこに研究としてのオリジナリティーがあることに気付かせてもらったのでした。 それはねぇー、田中さんにとっては当たり前に思うことかもしれないけど、一般の人は知らないことで…けど興味深いことなんですよ。 ぜひ記録に残すべきだ・・・ などと、その気にさせて下さいましたね。 難産になりそうな論文を誕生まで上手に導いてくれる人、私にとって研究上の助産師みたいな存在だった、と言わせてもらっても宜しいでしょうか。 博士課程修了後は、もっぱらメールを介しての係わりになりました。 全難聴(全国の難聴者中途失聴者の当事者団体)元理事長の高岡 正 さんから稀少資料をご寄贈頂けるかもしれないことについて相談したところ、早速、先端研のメーリングリストに話題をあげて下さいました。 お陰で、先生に代わって資料受領等の役を種村さんが快く引き受けて下さることが直ぐに決まりました。 やりとりの最中に先生は帰らぬ人となってしまわれ、思いがけない展開で一時、私は放心状態になったのでした… けれども、種村さんの他、生存学研究所に係わる皆さまの協力を得て、研究所書庫の一角に高岡さんからの難聴関係資料コーナーを作って頂ける見通しが立つようになりました。 このあとの様子も天国で見守って頂けたら嬉しいです。 いつも、みんなのために忙しく動き回られていた先生、どうか、ゆっくりお過ごし下さい。 これまで、本当に有難うございました。
秋葉 峻介 生命2023年修了
立岩真也先生は、わたしに研究を続ける後押しをしてくれた「命の恩人」です。 2018年の冬、生命倫理学会での研究発表を終えたわたしは、当時所属していた大学院を辞めて(つまり研究することを諦めて)、「社会人」に戻るつもりでいました。そんな折に、発表にたいしてコメントしてくださった大谷いづみ先生と閉会式後にお話ししていたところ、「それならウチ(生存研)の客員研究員になったらいいよ!」とお誘いいただき、「立岩さんがその辺にいるはずだから、紹介してあげる!」とのことで、店じまい――会場のロビーだったように思うが、あれは運営に許可を得ていたのだろうか――している最中の立岩先生を紹介してくれたのが立岩先生との出会いでした。 一通り事情を説明すると、立岩先生は「来てください。研究を続けてください。」と言ってくださいました――研究を続ける自信も気力もなくなっていたわたしにとって涙が出るほどうれしい言葉でした。 その後いろいろあり、研究員としてではなく先端研の院生として編入することとなり、生命領域に所属するか、はたまた誘ってくれた立岩先生に主査として研究をみてもらうために公共領域に所属するか、ということで悩んだものの、結局は生命領域をえらび、立岩先生には副査に入ってもらうかたちになったのをつい昨日のことのように覚えています。 (その後、教員の領域間の移動等々で立岩先生は副査から外れることとなってしましました、、、) いま、こうして研究を続けていられるのも、立岩先生が研究者としてのわたしの「命」を救ってくれたからだと、感謝してもしきれません。 学位がとれたらきちんとお礼をしなければと思っていた矢先のことでほんとうに信じられず、おどろき、かなしい気持ちがまだ続いています。それでも、「研究を続けてください。」と、立岩先生ならまたこう言ってくれるのではないかと自分に言い聞かせながら、研究を続けることで恩返しができればと思っています。 立岩先生の旅立ちがやすらかであるようお祈り申し上げます。
伊藤 公雄
立岩真也先生を偲ぶ会に際して、日本社会学会理事会(2021年〜2023年)を代表して、心より追悼の意を表します。 立岩先生とは、2021年より日本社会学会の理事としてご一緒させていただきました。今期の理事会では、社会学教育委員会委員長として、お亡くなりになる直前まで大きな貢献をしてくださいました。立岩先生のリーダーシップのもとで開始された、自由にアクセスできる質的調査アーカイブの構築は、今後の日本社会学会の大きな財産になると考えています。 ご逝去後の理事会において、会議の開会の前に、立岩先生の日本社会学会でのご活躍とご貢献を心に刻み、追討の気持ちを表すために、理事会メンバー全員で黙祷をさせていただきました。 立岩先生に感謝を捧げるとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。 日本社会学会会長(2021年〜2023年 伊藤公雄
井川 仁美 公共1回生
学部生の頃、障害学と出会い、立岩先生を知りました。日常生活もままならなず暗闇の中、先生のご著書の数々に触れ、そこには光があるように思えました。そのまま、吸い寄せられるようにして先端研を目指しました。昨年2月の入試時に、初めて対面でお会いでき、思わず感動。憧れの先生を前に、2人でお話させていただいた時は、あまり言葉が出ませんでした。あの時もご体調は良くなさそうでしたが、「ここが私の研究室だから。京都に来る時はまた···」とあまりに気さくに仰るので、すぐにご回復されるとばかり思っていました。結局、先生の研究室へは一度もお伺いできず、早すぎるお別れが受け入れられません。 当日は、都合により現地参加できず申し訳ございません。略儀ながら、ここに追悼の意を表します。
佐藤 祐 CILラピタ
立岩さん 2019年6月、仙台で行われたJILセミナー時にはじめて立岩さんお会いしました(お見かけしたことは何度かありますが)。お会いしたと言うかインタビューを受けました。会場の外で僕は他の方と話をしていましたが、その横でコンセントを探し歩いていた立岩さんを目にしました。「あっ、立岩さんだ!!」と、はやく話を終えて、立岩さんのところに行きたいと思っていました。やっと井上さんの紹介から立岩さんと話す機会ができました。立岩さんから受けたインタビューは端的に汲み取って頂き、立岩さんからのアドバイスはズバリ的を射ていました。それは今も大切な言葉になっています。 なにより、自分は『生の技法』を読んで自立生活をはじめたと伝えると、「あっ、それ僕らの本じゃないですか」と少し嬉しそうだったことを覚えています。そしてそのことを立岩さん本人に伝えられたことが良かったです。 北海道に来て頂くことが出来なく残念でしたこと、『私的所有論』少しまじめに読んでみようと思います。 ありがとうございました。
高 雅郁 公共=>共生
「『生存学』は何ですか?」という質問は、 2016年2月に東京大学で行ったイベントで、 初めて立岩先生と出会ったとき、私から先生に聞きました。 「うん……なんでしょうね」と先生が謎的な微笑での答えでした。 その時から、思わずに立岩先生とのご縁を結びつけました。 入学した後の個別面談で、 「教員は院生の方向を導く役割である」と先生がおしゃってくださいました。 その会話で、日本語の「方向音痴」という言葉も先生から教えてくださいました。 院生は学術・研究の道に方向音痴にならないように、という意味でした。 いつも「ごく簡単な話をします」と言っていた先生は、 実は難しくて、深い話をしていました。 しかし、それらの話(分かってる部分)から、 自分は考えたことがないことを、考えさせていただきました。 この道で、まだ「方向音痴」から離脱できていないのですが、 一生の宿題になるとも思いますが、 これからも先生が残っている言葉と書籍から、 方向を探し続いて、「生存学」の深みを探求していきます。 立岩先生、どうもありがとうございました。 天国からも、見守ってくださいね。 (先生が天国でワインを飲みながら、 パソコンを開いて、仕事をする様子を浮かび上がりました!)
浅井 美智子
立岩さん、お世話になりっぱなしでした。研究会での出会いから調査などでお世話になりました。個人的にはパソコンの使い方、何度も電話で教えていただきました。もう、お会いできないと思うと後悔ばかりです。学者に理屈は必然でしょうけれど、立岩さんには人に対する「愛と情」がありました。尊敬するばかりです。どうか安らかに・・・
アストギク ホワニシャン 客員協力研究員
立岩先生に初めて出会ったのは2019年、京都の日文研で外国人研究員をしていた頃でしたが、その以前から先生の本と論文を読み、大きな影響を受けていました。立岩先生が素晴らしい研究者、思想家だけでなく、人と人をつなげる才能の持ち主でもありました。先生に紹介していただいた方々と今まで連絡を取り合っています。 立岩先生ともう会えない、相談することができないということをいまだに信じられません。今までは本当に本当にありがとうございました。
草山 太郎
立岩さん くさやまたろう、です。 ちょこちょこですが、いろいろお世話になりました。 その「ちょこちょこ」は、どれも鮮明に憶えています。 多くは、障害学研究会関西部会の休憩や飲み会でいっしょに煙草を吸いながらお話しさせてもらったことですが(笑) 「ちょこちょこ」だけど長くなってしまうので、個人的なお礼をひとつだけ。 倉本智明編著『セクシュアリティの障害学』明石書店所収の「介助と秘めごと」について、この本の合評会だった2005年9月4日の障害学研究会関西部会で、著者の私は、「「いきなりマスターベーションの介助という生々しい世界に突っ込むと後が難しいのではないか」というコメントももらった」とコメントしました。 http://www.arsvi.com/2000/0509dsw.htm この「コメント」は、立岩さんが「即席的研究製造方法即解(仮)」というテーマで報告された2002年7月13日の同研究会(http://www.arsvi.com/ds/dsw2002.htm#0713)のあとの飲み会で、立岩さんからタバコを吸いながらいただいたコメントです。本に載る前の論文を読んでくださっていた立岩さんはいたずらっぽく笑いながら、「ここにいきなり手を突っ込んじゃうなんて、この先、どうするのよ(笑)」と。もちろん、その一言で終わったわけではなく、では、その難しさをどのように乗り越えれば良いか、今後何をすればよいか、具体的に詳しく丁寧に話してくれましたね。その一言一言をいまでも憶えています。ありがとうございました。 ここ何年かはお会いできていませんでしたが、書かれたものは、全部ではないけど、読んでいるので、「ブランク」は感じていませんでした。が、まさか… ほんとうにおつかれさまでした。 「はやく」て残念ですが、「ゆっくり」休んでください。
張 万洪 武汉大学法学院教授
惊闻立岩真也教授因病去世,我十分悲痛。 我和立岩真也教授相识于共同的关注,即残障研究。2016年,我所在的机构加入东亚残障研究论坛,此后又成为中国参会者的协调方,因此与立岩真也教授有很多接触、交往的机会。我们在京都、台北、首尔、武汉多次见面,既在会议上听他高谈阔论,又在私下场合促膝谈心。立岩教授思想深邃,立意高远,从人的生存的高度看待残障议题,给人以很大的启发。他不迷信权威理论,而以哲学家的思维开辟新的研究疆域和论题,给我们留下了宝贵的精神财富和学术遗产。中国残障研究者尤其感念其对“东亚残障观”讨论的响应,以及对中国残障研究者的关照和帮助。他曾协助我们在京都召开“亚洲的残障、性与性别”国际研讨会,研讨会的成果2023年被Routledge出版社出版;当我的同事被日本文化交流基金资助在京都访学时,他慷慨地让她下榻于家中。现在立岩教授离开了我们,他所开创的事业将由后人所继承并发扬光大,这也将是对他最好的纪念。 立岩教授千古! 武汉大学法学院教授 张万洪 2024年1月25日 I was saddened to hear that Prof. Shinya Tateiwa passed away after an illness. Professor Shinya Tateiwa and I met through a common concern, namely disability studies, and I had many opportunities to engage and socialize with Professor Tateiwa when my institution joined the East Asia Disability Studies Forum in 2016 and thereafter became the coordinator of the Chinese participants. We have met many times in Kyoto, Taipei, Seoul, and Wuhan, listening to him speak at conferences as well as talking to him in private. Prof. Tateiwa's profound and far-reaching ideas and his view of disability issues from the perspective of human existence have been very inspiring. He did not believe in authoritative theories, but opened up new research frontiers and topics with the mindset of a philosopher, leaving us with valuable spiritual wealth and academic legacy. Chinese disability researchers are especially grateful for his response to the discussion on "East Asian Perspectives on Disability" and his care and assistance to Chinese disability researchers. He helped us organize the International Symposium on Disability, Sexuality and Gender in Asia in Kyoto, the results of which were published by Routledge in 2023, and he generously allowed my colleague to stay at his home in Kyoto when she was on a study tour sponsored by the Japan Foundation. Now that Prof. Tateyama has left us, it will be a fitting tribute to him that the work he started will be carried on by future generations. Rest in Peace, Prof. Tateiwa! A Poem for Prof. Tateiwa: 立德齐今古 岩下多幽土 真人不掩伪 也著万卷书 *立岩真也教授を偲んで 武漢大学法学院教授 張万洪 立岩真也教授がご病気のためお亡くなりになったと聞き、残念でなりません。 立岩真也先生と私は、障害学という共通の関心事を通じて知り合いました。2016年に私の所属する機関が障害学国際セミナーに加わり、その後、中国からの参加者のコーディネーターを務めるようになってからは、立岩先生と関わり、交流する機会が多くありました。京都、台北、ソウル、武漢で何度もお会いし、会議での講演を聞いたり、プライベートで話したりいたしました。立岩先生の深遠で遠大な思想と、人間の存在という観点から障害者問題をとらえる視点には、大いに刺激を受けました。先生は権威的な理論を信じず、哲学者の心構えで新しい研究のフロンティアとテーマを切り開き、私たちに貴重な精神的財産と学術的遺産を残してくださいました。中国の障害研究者は、「障害に関する東アジアの視点」についての議論への先生の反応、また中国の障害研究者たちに対する先生の心配りと支援に対して感謝の気持ちでいっぱいです。先生は、京都で開催された「アジアにおける障害、セクシュアリティ、ジェンダーに関する国際シンポジウム」の開催に協力してくださり、その成果は2023年にラウトレッジ(Routledge)社から出版されました。また、私の同僚が国際交流基金主催の研修旅行で京都に滞在した際には、快く御自宅に泊めてくださいました。 立岩先生がこの世を去った今、先生が始めた仕事が後世に引き継がれることは、先生にふさわしい賛辞となることでしょう。 立岩先生、安らかにお眠りください。 立岩先生に次の詩を捧げます。 立德齊今古 徳を過去と現在に立てる 岩下多幽土 岩の下には隠された土地が広がる 真人不掩偽 真実の人は己が偽りを隠さず 也著万捲書 万巻の書を著す *長瀬修訳