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悲惨について


水俣病記念講演会 https://npo.minamata-f.com/kinen
主催:水俣フォーラム・立命館大学生存学研究所 於:立命館大学朱雀キャンパス
立岩 真也 2023/04/29

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 ※すみません。立岩はオンラインでの出演になります。本日これからいろいろと情報掲載してまいります。
 ※音声を記録したものがありますので近日中に掲載します。
 ※文字にしたものも掲載します。

■生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築 http://www.arsvi.com/a/arc.htm
 全国のアーカイブ http://www.arsvi.com/a/arc-soc.htm#2
 水俣病:http://www.arsvi.com/d/m34.htm

□立岩 真也 2009/05/14 「悲惨について注意深かったこと」
 ひとり芝居「天の魚」2009年公演,於:東京大学駒場キャンパス,
 ※ただ(手許には)録音記録などありません。

■2023/03/11 生存学研究所のМLに
 On Sat, 11 Mar 2023 13:37:21 +0900
 TATEIWA Shinya <tae01303@nifty.ne.jp> wrote:
 [mlst-ars-vive: 24274] 吉岡斉資料

> http://www.arsvi.com/w/yh03.htm
>  1980年代にその論にふれて、
> おおっーと思った人でした。
>  森岡正博さんが(実質)国際日本文化研究で主催した「現代文明と生命」のメンバーとしてお会いました。基本軽いかんじのメンバーが多いなかで、もの静かにしておられました。(かお(顔)でか、と思ったのは蓮実重彦でしたが、吉岡さんあたま(頭)でか、と思いました。
>  その吉岡さんの遺された資料が九州大学に、という番組。
>  まったくたまたま知りました。
>
> https://plus.nhk.jp/watch/st/400_g1_2023031057341?playlist_id=4a908930-ab23-48d1-bd9d-2e33a9fcf99e
> ザ・ライフ「ある原子力学者の遺言 〜未公開資料が語る〜」
> 3/10(金) 午後8:15-午後8:42
> 配信期限 :3/24(金) 午後8:42 まで

◇立岩 真也 20080131「学者は後衛に付く」,『京都新聞』2008-1-30 夕刊:2「現代のことば」


2022/12/10 『良い死/唯の生』
 筑摩書房,ちくま学芸文庫,624p. ISBN-10:4480511563 ISBN-13:978-4480511560 [amazon][kinokuniya]

2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』
 筑摩書房,288p. ISBN-10:4480864806 ISBN-13:978-4480864802 2200+ [amazon][kinokuniya]

立岩真也『良い死/唯の生』表紙   立岩真也『人命の特別を言わず/言う』表紙

 ※本日これから引用したりしていきます。
 ※以下の話は最後、2分ぐらいしか話ませんでした。ただ大切な話だとは思っています。

第2章 自然な死、の代わりの自然の受領としての生133
1 人工/自然134
 1 「自然な死」という語134
 2 すべてが自然の中にある136
 3 サイボーグは肯定される138
 4 無限の欲望という説142
 5 単純に苦痛を感じる身体という自然146
2 生―政治150
 1 むしろ面している150
 2 与えられて/与えているもの153
 3 延ばされ閉じられる157
3 好き嫌いのこと159
 1 好き嫌いのこと159
 2 作りものだと、まず言ってみるが164
 3 抜けられそうにないように思えること167
4 会ってしまうこと169
 1 告発との不整合?169
 2 普及と変容172
 3 それでも会ってしまうこと175
5 思いを超えてあるとよいという思い177
 1 普遍の不可能性?177
 2 個別から語ることの流行182
 3 思いを超えてあるとよいという思いの実在185
 4 誰もが、について186
 5 誰をも、について189
6 多数性・可変性191
 1 並存していること変わること191
 2 死に賭けられているものを軽くすること195
7 肯定するものについて199
 1 世界の受領199
 2 私に向かわなくてもよいこと204
 


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■■第2章 自然な死、の代わりの自然の受領としての生

1 人工/自然
 1 「自然な死」という語
 序章で『誰もが知っておきたいリビング・ウィル』(日本尊厳死協会編[1988])という本の「帯」を引用した。繰り返すと、表紙側の部分は横書きで三段になっていて、上から「説明・納得・同意の医療の時代」「自然の摂理に身を委ね」「人生の終末は自分で決める」と書いてある。背表紙の方は「死に方は自分で」とある。そして裏表紙のところは「人間が地上のすべての支配者だと錯覚したときから始まった危険な徴候。人類の生現象にまで介入しようとする科学技術の“進歩”にストップをかけて、末期の無用な医療を拒否する尊厳死問題のすべて。」
 「帯」というのは所詮そんなものでしかないのではあるが、常套句が盛りだくさんに盛られている。それを少なめに列挙すると、「他者を思う自然で私の一存の死」ということになる。ここではその中の「自然な死」について考えてみようというのだ。
 この社会には、自然を保つのがよいという指示と、変形し練成せよという指示が、同時に身体に向けられるのだから――そして私は、その社会にあっては、自然な死を迎えることと自らを飾り作ることとは、基本的には同じ位置にあると思っている――その一方を他方によって否定しようとしてもよいことはないと思う。そこで考えてみる。
 このことをきちんと言い、起こっていることに対してまともなことを言うためには、本当は、自然とか人工とかわかるようでわからない言葉たちについて、基本的なところからきちんと考えて言っていかないとだめなのだろう。そう急いで先に行かず、自然という漠然とした言葉によって何が否定されようとしたり肯定されようとしたのかを見ていくことだ。
 ただまず乱暴に言ってみる。「自然な死」とは、人の身体・生命の維持に関わることについて作為することはよくない、人工物を使うことはよくないということだろうか。しかしそうであるとしたら、おかしい。反駁はまずはとても簡単である。人は毎日さまざまなものを加工し利用して生きている。目のわるい人は眼鏡をかけて生きている。それがおかしなことだと誰も言わない。それと同じに、息が苦しい人は呼吸器をつける。つけて生きている。私たちは、もっとはるかに些細なことで様々な機器を使っているのに、生き死にに関わる場面でだけ人工的なのはよくないと言うのはおかしいではないか。
 このように言われてみると、たいてい、まずはそのとおりであると思える。自然が自然だとして、だからどうしたと突っぱねることもできる。生きるために必要なものを必要としている、よいとしている。それだけのことだということである。
 だから以上で終わりにしてもよい。それでも、いくらか考えてみることにしよう。
 自然と言われてあっさりわかったような気になってしまう必要はない。そこには様々な要素、様々な事情があるのではないかと考えられるのだし、実際そんなことがある。『ALS』で、川口武久が書いた文章を二章にわたって紹介した。その人は「人工的な延命」を否定し「自然に死ぬ」ことを幾度も書いたり語ったりした。そもそもそのつもりでホスピス――であると思った病院――に入院したのでもある。ただ彼は例外的に進行が遅かったこともあり、そう長くないだろうと思うよりずっと長く、発症してから約二〇年を、「人工的延命手段」としての人工呼吸器を使うことなく生き、その間に四冊の本を書いた(『生死本』で紹介している)。それを読むと、その人は、「人工的な延命」を否定する主張がおかしな主張であることを十分に理解し、自らが自らの主張を論理的に論破し、また、自らがどのようであっても生きたいとも思っていた。けれども、結果としては、その初志の通りの死に方をすることになる。まずはそういう人が書いていることを読んだらよい。例えばその人は、その当時現われた「自然な死」を推奨する様々な言説の影響を受けたようではある。ただ、その人は、その自然な死を自分だけのこととした。他の人たちに対しては、むしろ積極的にどのようにしても生きていくことを勧めたし、そのための活動を行なった。日本ALS協会という組織の創設に関わったのである。これらのことをどう考えるかである◆1。
 
 2 すべてが自然の中にある
 病は自然からの逸脱であるとされ、自然であるともされる。
 まず、うまく作動している状態を自然とすれば、それと異なることが起こっているのは反自然ということになる。ある状態を病理とし、それは正常な自然からの逸脱であるとするような語の用い方もある。また、病は生存を維持する機構があった上でその不具合であると捉えられる。さらに病で死ぬ生物は自然が存続していく際に棄てられていくものであるともされる。ある個体あるいは集まりに着目し、その存続を自然とし、それに反するものをその自然に反するものとすれば、その言葉の用い方を認める限り、それはそれとして間違ってはいない。
 だが他方、例えばウィルスの侵襲と増殖は自然なことであり、発熱は様々な事態に対する自然の反応でもある。また細胞の劣化その他についてもそう言えるだろう。衰えること、死ぬことは、必然の事実であるという意味で、自然のことである。こうして病は、反自然であるとも言えるとともに、自然の過程であるとは言える。
 さらに、生物はその個体としては滅ぶように予め仕組まれているのだとか、そのようにして種が存続していくのだとか言われることもある。突然変異について、それで偶然にもたらされる個体の多様性が進化を促すのだといった言い方がある。進化のために異常があると言うと、それは目的論であって不正確だとされる。異常、より中立的には差異があり、個体の衰滅があり、それらがあって、結果として、「進化」をもたらすのだという話になる。
 こうして、言おうと思えば様々に言えるこうした過程がある。その語の使い方によっては、自然という語によって病や死が肯定されることがある。しかし、それに乗るべきではないし、乗る必要はない。
 一つに、衰えること死ぬことは自然であると言われる。それはその通りだ。だが、このことは、それだけでは、それに抗することをしてならないことを意味しない。さらに、死から逃れようとすることも自然な行ないである。ウィルス等々の行ないもまた自然の行ないではある。ただ、それに抗してなされる、加害から身を守ろうとする行ない、ときに相手を殺すこともまた同様の行ないである。
 もう一つは、「全体」を持ち出すことである。淘汰はよいとか、変異はよいと言われる。素朴に「弱者」の淘汰が肯定されもするが(序章・註10・七七頁)、他方で、「弱者」の誕生をも含む変異を認めないのであれば結局種が衰退してしまうといった具合に言われることもある。ここでは変異が肯定的に語られる。しかしそれは、結局、よからぬものは滅びていなくなるからよいということを言っているのであり、変異自体はランダムに起こるので、よい結果につながる変異があるなら同時にそうでない方向への変異もある(あらざるをえない)ということを言っている。このようにみれば、それは変異についてそう積極的なことを言っているわけではない。ランダムに差異を発生させることは本来は無駄なことだからよい結果だけをもたらすような変異を起こすようにすればよいとか、すくなくとも不要な部分は早めに排除してよいということにもなる◆2。
 人の営みも含めなにもかもが自然の世界に起こる。人が観念を有し、時間という意識を得てしまったことは、よいことであると思えないが、しかし起こってしまったことではあって、それもまた人間における自然ではある。様々なこと、とりわけ死を恐れることになってしまったことも、人間においては自然であり、所与である。そしてこの同じことが、別の言葉の使い方においては、自然からの乖離、離脱と言われるのでもある。そんなことがあったために、またそれより以前からの生命の機制としても、死から逃れること、死を避けることの様々に人々は関わってきて、様々を行なってきたし、作り出してきた。むろん、それ以外に多くのものを作りだしてきた。
 まず、それがまったく自然の中に生じてしまっていることは確かなことである。すべてが自然の中に起こる。それに応ずる動きも起こる。体内でも起こっている。例えば何かの変異に応じて体が発熱する。それをいくらか拡張していったものが技術である。生ずること、行なうこともみな、自然の一部である。それらがみな自然史の一部なのだと言うことはできる。誰も自然の法則に違背することを行なうことはできない。人工物も自然物でしかありえない。何かを作る時には、常にもとは自然の素材を使っている。自然の営みがある中に人間の営みもある。このこと自体は自明のことであって、何も言ったことにならないのだが、まず確認だけはしておく。そしてその中の様々の、そのいずれをよしとするかは、その事実そのものからは出てこない。
 ただ、よく使われるこの言葉の使い方では、自然と作為、自然と人工とが対比される。つまりここでは自然はすべてでない。自然の世界に人間の行ないが加わることになる。次にそのことについて考える。
 
 3 サイボーグは肯定される
 すべての中の一部に人為という行ないはあり、それが介在して作り出されたものがあり、それを人工物と私たちは呼んでいる。そういうものとそうでないものとの区別はできる。問題は区別されたものとしての人工物を使ってならない理由があるかである。
『ALS』でもまったく同じ場所を引用したのだが([2004f : 270])、ダナ・ハラウェイ(Donna J. Haraway)の著書に『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』(Haraway[1991=2000])があって、「サイボーグ宣言」という文章が収録されている◆3。
 
 「なぜ、我々の身体は、皮膚で終わらねばならず、せいぜいのところ、皮膚で封じこめられた異物までしか包含しないのだろうか。」(Haraway[1991=2000 : 341])
 「機械は、息を吹きこまれ、崇められ、そして支配される何物か(it)ではない。機械は、我々、我々の過程、我々が具体的なかたちをとる際の一つの側面である。」(Haraway[1991=2000 : 345])
 
 その本は奇妙な本で、しかしなにかしらの気分は伝わるという本なのだが、この部分は、全体の気分を伝えながら、とてもわかりやすいことが書いてある。例えば生殖補助医療と呼ばれたりするものに対するフェミニストの懐疑・反対と、サイボーグ・フェミニズムといった呼び名があったりもするハラウェイの言説とがはたして逆の方を向いたものなのだろうかという疑問が私にはあった。というか、両方がもっともだと、両方が与える解放感の質が変わらないように思った。そのことをどう言うか、考えてみてもよいと思った。
 自然に起こっていることは、事実そこに起こっている。そして私たちはそれを認めている。とすれば、とくに人が行なうことにも違いがないのであれば、よいということになるはずだ。
 まず、蟹にある時に鋏が備わったように、あるいは鋏が備わった生物としての蟹が生成したように、身体の延長に接続される機械をつくり、それを備えた人間が現われた。述べたように、そのような出現もまた自然の営みではある。自然の営みが肯定されるなら、その一部である人間の営みも肯定される。そのように言っていけないか。つまり、人為と人工物とが区別されることを認めた上で、しかしそれらを含めた総体としての自然の営みが認められるとして、次にその一部をとくに認めない理由がないのであれば、総体の一部である人の営みもまた認められるべきであろうというのである。
 そして、私たちは既にさんざん人工物を使っているし、それを認めているし、認められるべきだとも考えている。自然には、環境、私の外のものという意味もある。誰もが機械を使うと述べたのだが、さらに言えば、人間が、さらに生物が、身体の外から様々を受け取ってそれで生きている。私たちは外界のものを使っている、また寄生している。生きていく時に、まず自分の身体が使われている。そしてそれ以外のものが使われている。一つは自分以外の人である。もう一つはその他のものである。それ以外のものはこの世にない。後者のものの中には、人手の加わったものとそうでないものとがある。後者、自然にあるものならよい、人工物と生命とはそぐわないと思う人もいる。しかし、それらが同じく世界にあり、私たちが同じく外のものを使っていることに気がついていないのかもしれない。光合成する植物も含め、栄養は外から摂取される。栄養物を他から得ることはまったく自然のことである。ここには人工物と自然物という区別はない。どちらも使っている。また生物である人間が作っている。あるいは奪っている。こうして生きている。食するという行為自体がそんな行ないであって、それを行なっている。食べるために、これまでは自らの手と口が使われていたのだが、それが今度は管を使うようになった。いくらかその境界が変わった。人工物とは二つめのものの中の前者である。それは人間が作ったものだから人間に近いものだと思う人もいる。
 それだけのことだとまず言える。身体への機械の接合をはなから否定する必要はない。当人の感覚としては、機械に一体感を感じる人もいるし、そのようには感じない人もいる。そしてどちらでもよいはずである。ただ少なくとも、機械をはなから拒絶する必要はないということだ◆4。
 けれどもなお否定する人がいる。どうしてだろう。
 「延命」――今はもうこの言葉自体に否定的な意味が付与されている――のための様々な行ないを肯定する人たちは、それが命に関わることだから、より大切なことだから、より必要なのだと言ってきた。それに対して、より大切だから、そういうものについては、自前のものでやっていかなければならない、自前のものがだめになったらその時点で終わりということにしよう、と言う人もいる。細かなところが壊れたのであれば、それは様々補ったり取り替えたりしてよいが、基幹部品が故障したなら、それはもう終わりだと言うのである。
 それに対して、例えば人工呼吸器といったものはなにほどのこともしていないのだという反論はできるし、実際言われることもある。人工呼吸器という名称がどだいおおぎょうなのであり誤解を与えるのだと、それは換気扇のようなものなのであって、呼吸は依然として肺で行なわれていると言われる。たしかに空気中の酸素を血液に送り込むなどという難しいことをその機械は行なっていない。これはまったくその通りである。日本でもこのごろはわざわざカタカナでベンチレーター ventilator と呼ばれることがあるのだが、それは直訳すれば換気装置◆5だ。自分たちはそれを道具として手段として使っているだけであって、人工物によって生かされているのではないという言い方もされる。これもこれで正しい。機械に生かされているという言い方は間違っている。つねに大きな部分がその人の身体に内在しており、動いている。
 ただ、そのことを忘れないようにしながら、その機械は生存の必要条件の一つであるのはたしかであり、不可欠なものであるとは言える。ベンチレーターもたいした機械ではないとしても生きていくには必須のものではある。他にも生存に不可欠な部分について様々な機械、例えばペースメーカーを使っていてそれで生きている人たちがたくさんいて、それはよくないとされたら困る。だからその人たちはとんでもないと反論する。それもまたもっともなことではないか。
 駆動力のようなもの、あるいは駆動力のようなものとして表象されているものは自前のものでなければならないという価値は、第1章で述べたことに関わっている。あるいはその一部である。人がなにごとかを統括したり駆動したりできている限りにおいて、その人はよしとされる、あるいは人とされる。そのような認識がこの社会で力を有していると、たしかに呼吸や循環や思惟とともに起こっていること、すくなくともその一部が成り立った上で成立はしているのだろう様々なことごと、例えば、感覚していること、眠っていることなど、私たちにおける自然のうちの相当の部分を看過していること、このような自然をさして気に留めていないことを意味するのでもある。様々にあるものがないかのようにされてしまう。それはおかしなことだ。
 みなが機械を使っているのだから、重い人も、死にそうな人も、使い勝手が悪かったら文句を言いながら、使えばよい。さらに、生きていることは私の外のものを使っていることで、機械を使うのも、身体に埋め込むのもその一部であり、一部でしかないのだと言った。そしてすべては自然の一部であり、すべての存在は自らを使い、他を使って生きている。だからよい。
 
 4 無限の欲望という説
 「自然(な死)」を言われたとしても、それをそのままに受け入れることにはならない。ただこれだけで終わりでもない。たしかに人は自然を肯定的な言葉として語っているのだし、それは、以上のことを述べただけでなくなるようなものではない。何を自然という言葉で言っているのか。私たちは自然という言葉を使って何を大切にしたいと思っているのか。人の営みはなぜ恐れられるのか。
 加害的であるからである。人の営みはずいぶん大きな影響力をもってしまっているし、実際、それによって自然の状態は大きく左右されてしまっており、害されてしまっている。そしてそれは人間が無力であることと相反しない。作り出すことはできないが、壊すことはできるということである。そしてその人間が、自分の周りの人や生物やその他のものを傷つけ害したくないと思う。私が生きることが他を害する。だから人が行なう行ないを行なわないというのだ。
 私が生きていて害している。だから生きることをやめることにしよう。それに対してさらに私たちがまず一つ言えるのは、そんな変わった人たちはそうたくさんはいない、ほとんどまったくいないということだ。そしてこのことが先に述べたことだった。つまり誰もが生きるために様々を利用している。その否定は、人の営みの全般を拒絶することを意味する。それを完全に実現することは不可能なことであり、実際には行なっていない。
 それでも、私はあらゆる人工的な営みを拒否すると言って実行することはできる。より「原理主義」的になり、自然な営み、むしろ一切の営みから退却する行ないが行なわれる。するとその人は、死ぬ時だけでなく、あらゆるものを否定するというのだから、主張・行ないが首尾一貫していないという批判を回避することができる。
 しかし、もしそれを実際に行なうとしたら、自らは衰弱し、そして死ぬことになる。ならば、それが、その動機を裏切ることなく行なわれるとすれば、それは絶対的に私的なこととしてなされねばならないことになる。その行ないを誰かに教え、行なわせるとすれば、それはその者の死を必然的に招き、傷つけないという目的は、むしろ積極的に裏切られるからである。つまりその人は飢えて死に、その時にこの教義を教えた者は、その人を死に至らせたのである。利他・自己犠牲の教説にあるこの可能性は、尊厳死が現実には利他の行ないとしてなされている以上、考えておかねばならない可能性である。可能性があるというだけでなく、実際に利他の教説はそのように作用している。他者を生かせることの美徳を説く教えが、その教えを守る者を死に至らせているのである。このことについては第3章でも述べる。
 ただ、害さないことの完全な実現が無理だからといって、自然への介入を控えるという行ない全体が無駄であるとか、それをすべきでないということにはならない。よいことではないのだから、「あまり」あるいは「できるだけ」傷つけてはならない、とは言える。それはもっとなことだと思える。受け入れることにしよう。とするとどうか。
 一人の身体で一人を養うのであれば、それはそれで、その人数がやっていけるはずだが、そうでなく、様々を使って人の生命を維持しようとすることになったら、その均衡が破れてしまい、厄介なことになるのではないか、だから少々のことであればよいとしても、大きな修繕はやはりやめておこうということになるのだろうか。
 そして、自然と対照され、そして懸念されているのは、欲望のミ進である。欲望を充たすために技術が開発され、使われるのだが、欲望に限りはない。また技術の進展がさらに欲望を拡大していってしまう。このように言われる。たしかにそんなことがあるように思われる。科学技術批判がなされ、近代文明批判がなされた時によくこのことが言われた。さきに引用した日本尊厳死協会編の本の裏面の「帯」もそんな具合になっている。「無限の欲望」といった言葉がわりあい簡単に、そして随所で、使われる。
 しかし実際にはどうか。得られるものと引き換えに払うものがあるなら、そして多くを得るにつれて得られる満足の増加分は少なくなっていくから、そこには限度がある。その意味では、欲望は普通はむしろ有限なのであり、それをミ進させるには特別の装置がいると考えることもできる◆6。ただ、たしかに、生への欲望は、欲望の中では強くどこにでもある。強く望まれ、願われている。そしてその願いは、結局は叶えられることはないのでもある。だからその虚しさは古来より言われてはきたのだが、言われたからといってなくなるようなものでもない。
 しかしまず、「延命」のための行ないにおいて、そうおおげさなことが行なわれているわけではない。ことを冷静に考えるなら、呼吸や循環の補助、動力の供給に関わって必要なものはなにほどのものでもない。他方、それ以上に高等な機能については人間によって製造される物体によっては代替できていないから、そもそもそれで人を生きさせることはできない。これだけのことしかこの世には起こっていない。そうして、せいぜい、普通に長生きする人ぐらいまで生きていられるようにしようというほどのことである。そんなささやかな営みと異なり、何かの技術が現われて、例えば寿命を三百歳にすることができるようになるかもしれない。そしてそれはよいことでないと考える人がいるかもしれない。しかし、そのことの是非は、そんなことが可能になりそうな時に考えればよい。それは今の問題ではない。にもかかわらず、おおぎょうに捉えてしまうなら、その方が間違っている。
 ほとんどの場合、なされるべきこと、なされていることはやはりそうおおぎょうなことではない。栄養を補給するとか、呼吸を助けるといったことである。かつて人力で呼吸を助けていたことがあるらしいことを後で紹介するが(第2節2)、機械を使えば、それはなおのことたいしたことではない。
 以上でもまた私は、人は人並みを求めているだけだと、たいしたことではないと言ったし、言っただけだ。機械は人が毎日使っているものなのだからかまわないではないか。そうやって生きているのだからよいではないか。ただそれでも人が心配しているのは、資源の問題、費用の問題があるとされるからである。自然・資源の保全自体を至上の目的にしないのであれば、それが大切であるのは、資源の浪費が他の人々、未来の人々の生を困難にするからだということになる。私たちの欲望に応えていったら様々なものがなくなっていってしまうという。直接に供給するのはモーターで動く機械だけであっても、そのことによって生存が可能になった人にはやはりさらに必要なものが様々にあることが懸念されてしまっているのだろう。
 それもそうたいしたことではないと言えると思う。だが、あまり信用されないだろうから、別に説明する必要がある。人々は心配している。なぜか。その心配にどう応えるか。これは安楽死・尊厳死といった主題に限らず、この時代の大きな主題だ。結局、なにもかもがこの「資源」というお話に収斂してしまっているのが私たちの時代・社会であるからには、このことについて検討する必要がある。
 高額な費用をわずかの人たちにかける代わりに、「発展途上国」の保健・医療に使うなら、はるかに多くの人たちの命を救うことができるといったことも言われる。人々のために遠慮した方がよいというのだ。妙な計算だと私は思うが――つまり、両方に使えばよいのにと思うのだが――みながそう思ってくれるか、自信はない。そして実際、多くの死はそのようにして、つまり人のために生ずる。世界の人々のためなどといった大きなことは考えないとしても、身近な人に負担をかけるから、人は死ぬ。このようにして「利他的」な死と「自然」な死はつながるのだが、そのことを第3章、「利他」や「犠牲」について考えるところで考えようと思う。
 
 5 単純に苦痛を感じる身体という自然
 生きて食べることが加害ではあるとして、みながしていることではないか、自然はそうして動いているではないか。そして生きたいという欲望を過大なものに見積もることもない。そう居直ることにした。ならば、つまりは何をしてもかまわないということになるか。そうはならないはずだ。
 まったくよく無視されるが、無視できないし無視すべきでないのは、自らの身体の不快、辛さである。接触や適応に関わって生じる苦しさ、堅苦しさがあって、この単純な意味で自然でいられないことの不幸がある。接続された機械系が独自の主体性を有して人間に対する反抗を始めるといった筋の話が山ほどあるのだが、たいがい起こるのはそれほど劇的なことではなく、機械の接続がうまくいかず、痛かったり痒かったりすることがあるといったことだ。物体や行為と身体とが接触し接続するその接触面、境界に生ずる不快がある。異物を注入されたりすることによって生ずる身体の違和、不和、不快があり、薬のために気持ちが悪かったりだるかったりすることがある。あるいは、一定の期間や場所、行動を制約されたり身体を管理下におかれることが苦痛である。
 その多くの場合、生き延びるために結局その苦痛や不快を仕方なく受け入れ、耐えることにはなるのだろう。やがてそれに慣れるのかもしれないし、慣れきることはないにしても、生きていくには仕方がない。だが、なくてすむならないほうがよい、少なくてすむなら少ない方がよい。ただそれだけことである。ときになくてもすむ場合があり、あるいは受け入れることは仕方がないにしても、苦痛が生ずることに周囲が気づかずあるいは気にせず、当然のように受け取らねばならないことが問題にされた。人の営為、技術を、それ自体によって否定しようと思わないが、痛いから拒否することがあるというのだ。こんな簡単なことがおろそかにされることに対する抗議として、技術への抗議を捉えることができる。様々な技術が語られ、また実際に現われたとしても、接合に関わる問題は生じる。様々な環境を想定することはできるし、また作ることもできる。しかし残念ながら、この脆弱な私たちの身体ではそう大きな幅の環境を生きることはできない。それで足りないから人工物の力を借りようとするのだが、それでもやはりうまくいかないことがある。
 「生殖技術」と称されるもののあるものになぜ批判的であらざるをえなかったかを見ていくと、むろんその批判は一つではないのだが、少なくともその一つは、こうした痛みや不快があるということ、そして私たちがそれをしばしば軽く見てしまうことがあることを問題にしたことがわかる◆7。
 例えば体外受精はまったく一般化してしまった技術ではある。そしてそれ自体がなにかいけないことなのではない。ただ、女性の側の身体・精神・時間の持ち出し・支払いが(子が得られる可能性がそう高くないわりには)大きい。もちろん子を得ようとする欲望を、その女性が真に切実に有していてもよいのだし、そのための負担を覚悟することもあるだろう。しかし子は、負荷のかからない他の者たちも欲望する対象である。そしてこの社会では、努力して自らの身体を適切に管理し目的を達することは評価される。さらにその目的は皆の目的なのである。比べて、その代わりにその女性が失うもの、その時々はそれほど大きくはないかもしれない目立たないものが認められることは少ない。そしてそれはその人だけのことなのだ。だからこそ、依然として、少なくとも周囲の者は、この技術をただ肯定すべきでない。支払うとしたらその人でしかないその人に、支払いを要求すべきではない。こんなことは「倫理」の問題ではないと思ったのだろうか、このまったく即物的な訴えは、生命倫理学においてあまり聞かれることがなかった。だが大切なものではある。そしてそれを最も短くした時に自然であるとか身体であるとか、そんな言葉が使われてきたのだ。
 サイボーグについても、あるいは他の名称のものについても、同じことだ。機械を埋め込むことにしても、あるいは細胞の水準になにごとかを行なうことも、様々なことが「原理的には」可能なのではあるだろう。ただ、人体は脆弱だから、そううまくはいかないことが多いということだ。それは、しかじかの理論によれば時間を遡ったり、空間を瞬時に移動することができるとして、そしてさらにそんな機械を作れないことはないとして、しかし、やはりこの身体はそれに耐えることがどうしてもできないということと同様のことでもある。
 だから、残念ながら、できることは多くの場合限られており、そしてできることにも苦痛が伴う。「耐え難い苦痛」が尊厳な死を言うときの決まり文句であってきた。その苦痛には、病から来る痛みもあり、処置がもたらす苦痛もある。たしかに強い薬物が強い副作用、強い苦痛をもたらすことがある。それが辛いことは、その処方に対するまったくもっともな怨嗟の理由である。自分において、よけいなこと、負荷のかかることをしてほしくない。短縮する場合もあるにせよ安楽でいたい。病を得て自らにおいて衰弱が進行していく場合がある。例えば、癌が体内にずいぶんと増殖している。こんな場合に何ができるか、何がどれだけ効くのかは多くの場合にはっきりしない。そして治療や、治療でなくとも病院に通ったり入院したりすることには何がしかの苦痛が伴う。措置が、安楽であることに対して妨げになることがあることは事実ある。薬と身体との関係、放射線と身体との関係、接合の不具合は様々あって、不快が大きなことはある。そんな時にもうよいと思う人はいるだろう。このような時には、短い(可能性が高い)が相対的に気持ちのよい人生を生きるか、気持ちがよくないが長い(可能性が高い)時間を生きるか、その間の選択はあるだろう。すこしも楽しくない選択ではあるが、両者(の間の様々)しかなく、そこから選ばざるをえないことがある。より楽にいられるなら、生きられる時間が短いことが予想されても、そちらを選ぶことがあってよいだろう。このことは「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」([2004e]、『唯の生』に収録★)で述べた。
 しかしそれは、多くの場合、下手なのだ。また、どうにもならないと思いこんでいるところもある。選び難い二つのいずれかを選ばせられる前に、たんに苦痛を減らせたらよい。そしてそれが可能なことはある。そして苦痛のことが大切であると言うのなら、息ができなくなる苦痛や、腹が減る辛さのことにもっとまじめであってよいはずだ。苦痛を言うわりには、それを言う人たちは、苦痛に対する態度が淡泊ではないだろうか。呼吸を楽にすることや、空腹・飢餓から逃れるためのことをしなくてよいなどと言うのだ。苦痛を強調するなら、苦痛から逃れて安楽にしていられるためのあり方にもっと気を使うようにすればよい。だから機械をはなから拒絶しないことだ。それで(も)よいではないかと考えてよい。その上で、身体はあってしまっており、ただの身体の不快もあるのだから、それを無視したらだめだということだ。
 潔癖に一切を拒絶すると言う人がいて、実際にそれを貫く人がいて、それがなにか感動的に語られることがある◆8。身体の機能不全や衰弱の場合であれば、能動的な活動の総量もまた減っていく。むしろ世界を受け取ることの方が多くなっている。そんなときに気分の悪くなるようなものに邪魔されたくはない。静かにしていたい。そんなことがあるだろう。ただ、その人が死を恐れていないとして、しかし生きていることの快もまだ終わってはいない。苦痛はその上での苦痛である。その苦痛をなくすことはできないのではあるが、騙すことはできる。そのことも拒絶する時、それはなんだろうということである。その決断の強さを誉めていればそれでよいのかである。もう長くないことがわかっていてその上で思うように生きていたいのはわかる、だが、それならいくらか楽に過ごせる方法があるのなら適宜使えばよいではないか、ということである。その時に、「一切の××を希望しません」という力の入り方はなんだろうということだ。それでもそんな人はいるだろうし、いてはいけないということもないのだろう。しかしそれがよいということは、それをなにか肯定的に語ることは間違っている。
 
2 生‐政治▼
 1 むしろ面している
 「人工的な延命」対「自然な死」という組み合わせでことが語られる。これらの言葉を用いて言われていることにはもっともなところがある。しかし乱暴であるようにも思える。このことについて考えてみようとしている。前節では、私たちはいつも人工物を使っていること、であるのにこの場面に限ってそれを使わないというのはおかしいというごく単純なことを述べた。普通に考えれば、私たちはものを作りそれを使って生きているのだから、それがいけないというのはおかしなことだと、当たり前のことを言ったのだ。ただの部品ではなくモーターのような部分については自分でまかなうべしという考えについても、一つに、多くはその部品の重要性を過大に見積もり過ぎているし、一つに、かなり重要な部分についても私たちは機械を使っているし、一つに、そのことに問題はないはずだと述べた(第1節1〜3)。そして人の営みの多くはなにかを摂取し滅する行ないではあるのだが、それは仕方のないことではあり、そして「延命」のためになされる行ないについてその度合いがそれほど並外れたものではないこと、だからよいではないかと述べた(第1節4)。そして問題はまず、それを使う時の自らの身体との接続において起こる痛みや不快といった問題だと述べた。その痛みはときに大きく、そのことは大切にされていないが大切なことだと述べた。私たちはときに「痛々しい」と言うのだが、それがそのことを指しているのであれば、それはわかる。痛くないようにした方がよい。身体に苦痛を与えるということも低く見積もらない方がよい。ならばなるべく痛くないように生きられたらよい(第1節5)。ここまでを述べた。
 だから、人工物やそれを使ったり作ったりすることそのものがいけないわけではない。けれども、私たちが病院を嫌い、そしてそれを人工的な空間と呼んでいることも一方の事実ではある。私たちは何を嫌ったり、恐れたりしているのだろうか。
 病室、とくに集中治療室が閉鎖的だというのは本当だ。けれども、ならば家族や関係者を締め出さないようにすればよい。できないことではない。病室が工場のようであってならないというのももっともなことではあるだろう。しかし居住空間に精密機械が置かれて不思議なことはない。それが美しくないのは、美しくないように作られているからであり、置かれ方が間違っているからだ。そして、人が横たわる姿を痛々しいと思うのだが、それは、まずは周囲の者が思うことである。何が苦しいのか、聞けるなら聞いてみたらよいし、減らせるなら減らせばよい。一つ、ここには間違い、偏見がある。息をしたり栄養をとったりする処置は、基本的には――というのは、このように基本的で大切なことに関わる基本的にはそう高度な技術を要するものでないはずのその技術の確立が遅れておりまたうまく使われず、実際にはしばしば苦しみを与えてしまうからだ――その人を楽にさせる。すくなくともそのように用いることができる。
 だがなおその上で残るものがある。場に縛られ、人、具体的な人というより機構に支配されている。このことが批判され、その現実に自然が対置される。医療のあり方、病院のあり方がこの言葉を用いて批判される。病院が自然な生死を妨げているという。その指摘にはもっともなところがある。しかし、そのままに受け入れるわけにもいかないことを述べる。
 権力行使の形態が、殺すことから生かすことに移動したと言われることがある。「無駄な延命」「たんなる延命」が置かれる。「近代医学」は、あるいは医師は(「生活の質」を無視して)ただなおすこと、なおらないのに治療を続けること、そしてただ延命させることを目指していると言う。生命への(お節介な)介入としての近代医療という図式がここで使われる。そしてそれに対する反抗として死が言われる。
 これは間違っていない。しかし一面的でもある。詳しくは『唯の生』で述べるが、社会は、ときに同時に、廃棄・遺棄も行なってきたし、行なっている。いずれにも理由がある。それをただ一面的に捉えてしまうなら、それは端的に間違っている。
 こうして私は、「たんなる」「無駄な」「人工的な」「延命治療」といった言葉がまちがっていないとしても単純にすぎる言葉だと考えるのだが、同じく、死を「遠ざけている」「隠蔽している」という言葉にも不正確なところがあると思っている。この言葉もまた、ときに思考を停止させる紋切り型ではないかと思う。このことを序章で述べた。私たちは、死に、ではないにしても、死の手前の生の時間に、実際には、以前より長く面しているのではないか。以前なら持ちこたえられなかった状態で人は生きている。そしてすくなくともこの国では、誰かが付き添っていること、付き添っていなければならないことは多い。またそんな人でなくとも、なにかの用で病院に行く。すると、老いて入院して、ベッドに横たわっている人が多いことを知るし、その人の傍を通ったりする。私たちは、以前より多く、機械やなにかの力を使いながら生きていることに、面している。私たちは、死からは遠ざかっているのかもしれないとしても――それにしても私には、死に直接に面する、正面から対するということの意味がわからない――、すくなくとも死に至るまでの生から遠ざかっていない。その時間を、直接にあるいは間接に知っている。それに私たちは驚いていて、また怯えているのもしれない。そして、その人を見て、痛々しいなどと思って、ときにそう言ったりする。
 それは、生命の純粋な持続であり、朽ちていく自然の過程がゆっくりとそこに存在しているということであるのかもしれないのだが、それを「人工」という語によって語ったりする。そして私は、尊厳ある死、自然な死を主張し支持する――そこでは同時に、現代人が死を回避していることが指摘され、批判される――ことに、むしろ、拒絶や回避を感じてしまうのだが、それは間違っているだろうか。私たちは何に驚いたり、怯えたりしているのか。
 そこに、身体のある場所があり、身体がある。まずその場所は多く病院である。そして身体は、一つには姿としてあり、一つには機能としての働き・動きであり、そして、その人においては、苦痛を含む感覚、身体内的な過程がある。そのそれぞれについて、恐れをいだいたり、心配になったりしている。そしてそれらをまとめて簡単な言葉で括って、言っているのだと思う。小分けにして考えていこう。まずその場所について。
 
 2 与えられて/与えているもの
 病院、とくに大きな病院は、多くの人工物が配備され配置された、人工的な空間である。機械がたくさん置かれている四角い建物は他にもたくさんあるにせよ、病院は、同時に多くの身体があって、それが直接に機器につながれたりもしているから、さらにその性格は強く現われ、意識されることになる。
 そしてあの建物の多くが少しも楽しくなれない様子のものであることは認めよう。多くの人がもうすこしなんとかなってもらいたいものだと思っているのも当然のことだ。ただ、そこで行なわれている行ないについては、もうすこし慎重に見ておいた方がよい。つまり、そこでは「無駄な人工的延命」がなされていると言われるのだが、それはどの程度ほんとうのことなのか。
 たしかに「無駄な延命」とそれに対する「尊厳のある死」という構図には一定の現実性がある。技術や医療の側の介入に対する抵抗を言うのに、人工の行ないに自然を対置し、他律に自律を対置する。余計なことを押し付ける医療、また生―政治に「自然」を対置することもできるし、「自分で決める」を対置することもできる。ただ、自らの側の主張の中身が「尊厳ある死」である時には、技術・体制の側に「延命」が割り振られていることになる。しかし、やはり序章で述べたことだが、また『唯の生』ではすこしだけその歴史を振り返ってみるのだが、この場に働いているのはいつも「生かす権力」というわけではない。それはまったく場合により、そこに働く力による。
 第一には、医療者の側に救命、治療の義務があるが、第二には、なおす側は、なおせる人でなければ熱心にはなれないということがある。なおらない患者は、関心の対象にならない、あるいは自らの失敗や限界を示す存在であって歓迎されないということである。第三には、収入源である限りで、誰であれ歓迎、はされないとしても、必要とはされる。しかし第四に、なおらない人が負担であるとされ、節約や削減が目標とされるなら、回避・除外の対象になる。それはまず医療保険等の金を集め払う側の意向であるとして、直接に医療を供給する者もその意向に従わざるをえないのであれば、同様に行動せざるをえないかもしれない。保険からの支払いがなされないなら、その仕事はしないということである。こうして、第一と第三の要因は「延命」の方に作用するが、第二と第四の要因はそれを抑止するように作用する。
 第三と第四のもの、社会的・制度的な要因は大切である。直接の供給者は、対価が得られる限りで、多くのことをしようとする。とくになされることとその効果との関係が明確でない場合、同時に、得られるかもしれないものの価値が大きい場合には、容易に供給が多くなる。例えば、命にかかわる病気について、やってみないとわからないが、治癒の可能性がまったくないわけではない方法があるといった場合である。治療を続行することが収入になれば、その対象者がいることは許容され、ときには歓迎され、ときに、苦痛の軽減のためにも延命のためにも効果のない行ないがなされることが、たしかにある。しかし他方で、そのような行ないが病院の赤字を増やすのであれば、歓迎したくとも敬遠せざるをえない。医療保険の制度が直接の供給者に利益をもたらすように作られている場合には、供給は増えていく。しかし、支払う側にとってそれが歓迎されなければ、問題にされ、無駄とされるものが省かれていくかもしれない。前者から後者への移行が、この間に起こってきたことである。
 だから自然な死の運動が体制・大勢に対して対抗的な運動であるというのは一面的な理解である。それは無駄な医療を行なっている(ことによって利益を得ている)のに抗する運動とされるのだが、現実には、少なくとも財政の側はそんなことを行なおうとしていない。「自然」を言う人たちは金を払う側の人たち、金のことを気にする人たちでもあり、現在の、より健全で合理的な権力と同じ側にいる。自然でない人為的なことは、人が行なうことであるから人が労働するということであり、そのために自然の資源も使うということであり、それを減らした方がよいという。
 そして同時に、第一の要因が懐疑され、完全に否定されることはないにせよ、弱められている。つまり、有無を言わさぬ救命は医療者の越権行為であるとされ、患者本人が決めることだとされる。
 だから言われているのと別の方向に現実は向いている。一つに、疲労や徒労がある。もう一つ、このことに関わりながら、それだけの負担をかけるだけの価値はないという思いがある。前者について。
 すこし以前のことで驚いたことがあった。『ALS』([2004f])を書いた時いくつか本を調べたのだが、「延命」のための手段としての人工呼吸器が使われ始めたのはそんなに昔のことではない。
 
 「人工呼吸器を用いて換気を行なう方法は麻酔の分野以外に他の面にも広がって来た。/この大きなきっかけとなったのは一九五二年におけるコペンハーゲンにおけるポリオの流行である。この時呼吸麻痺に対する治療としては気管切開をした後、気管カニョーレを介して手でバッグをおして人工呼吸を行なったのであるが、バッグをおす人があまりにも多く必要だったので、デンマークの医科大学の殆んどの学生を必要とする程であった。/このためポリオによる死亡率は八〇%から二五%までに低下したが、これが契機となってヨーロッパ各地では人に代る人工呼吸器の開発に迫られたのである。」(山村秀夫[1991 : 7])
 
 驚くのは、人工呼吸器の開発・普及のことではない。その手前の時期、ポリオの人たちの呼吸を医学生たちが手押しの呼吸器で手伝ったという出来事があったらしいことである。かつてそんなことを人間の社会はやったことがあるということだ。それを知ると、機械を使って呼吸を助けるなどどうということはないとも思える。
 「スパゲッティ症候群」といった言葉が、いつのころからか、よく知られる言葉になった◆9。不要なものが装着されてしまうことがあり、それが不快と苦痛をもたらすことがあったし、ある。それはやめた方がよい。もっと上手な、もっと洗練された方法があるべきである。これもその通りだ。ただ、機械につながれ管にがんじがらめになった身体という表象は、たいていはおおげさだ。たしかに機器はついている。集中治療室では測定のための装置・線がつけられているから、より多かったりもする。だが、それらを除けば、ふだんはそうたくさんはいらない。行動や交信のために必要な装置を別にすれば、あとはまず、呼吸、栄養の関係の装置である。絵に描いたようなサイボーグ人間はまだ現実には現われていない。使われているものの多くは、原理としてはたいへんに原始的なものである。人工呼吸器もつまりはふいごのようなもの、あるいは換気扇のようなものである。人工心臓にしても血を循環させるポンプである――であるにもかかわらず、実用化がとても難しいのではあるが。比べれば人工腎臓(人工透析装置)はいくらか手のこんだものではある◆10。いま人の肝臓が行なっていることが身体外でできるようになったら、そこでは装置の大きさや費用の問題がいくらか現実味をおびてくるかもしれない。ただ、今のところそうでない。
 しかし私たちは、場所をとり機器を使う人がこれからもっとたくさんいるようになって、その人がいるベッドが並んでいる図を思い、そのことを思うだけで既に疲労してしまい、「自然に」逝ってもらった方が、と思う。現実を支配しているのは、このような、予め経験されてしまっている徒労感のようなものである。このままではこの風景は続く、増えていって果てしがないように思われるのである。そしてそれは、しばしば「際限のない欲望」などと表現され、そしてそれが「科学技術文明」と連関させられもする。それとともにまた「自然」が語られる。
 しかしいったい「際限のない欲望」とはどの程度のものであるのか。そこに欲望があるとして、それは死にたくない、今しばらく生きていたいという程度の欲望でしかない。際限のなさが恐れられるのは、そのための行ない、行ないにかかる費用が恐れられるからである。たしかに多くかかることがありうる。しかしだったら、何がどれだけ足りないのか、漠然とした恐れをもっと言葉にし、具体的に語ったらよいのにと思う。けれどこうして気にされている場所ははっきりしているのに、それをあまりに露骨に言うのは、この社会ではいくらかためらわれているらしい。そこでやはり「自然」が呼んでこられることになる。
 
 3 延ばされ閉じられる
 誤解があると述べた。しかし現実はもう一段複雑になっている。じつは、人々はただ無知で誤解しているのではない。人々は、この社会には「生きさせてしまう」ことだけがあるわけではないことを知っている。あるいは、この「ただ生きさせる」という言葉の中に、既に、仕方なく生きさせているという現実を含ませている。だとすると、人々が感じている恐怖には、生命をいくらかでも延長させようという熱情に駆られた医療に対する恐怖というのとはまたすこし異なるものがある。それはもっと複雑なものであり、起こっている現実に即したものである。
 一つには、生かす方向とそれと別の方向とが交錯し混在する体制のもとで、どのように遇されるのか不定で不安なままその場所に置かれ、時間を過ごすことになるということである。例えば緊急の処置として装置が取り付けられてしまったからかもしれないし、ともかく、生かされはし、生きてはいるのだが、そこで歓迎はされず、むしろ放置され、そのままにされてしまうといった恐れである。そしてその恐れは、たんなる恐れでなく、まったくの現実であったりもする。殺すこともできなかったので生きているのだが、置かれている状況はよくない。この意味において「たんなる延命」がたしかにその場にある。
 死の方への移行・放棄はどのようにしてなされるのか。一つに正当な行ないとされる。一つは遅れによってもたらされる。この二つは異なるが、しかし連続してもいる。
 まず、「延命」のためのことをしないこと、止めることが正しいのだと、あるいは本人の思い次第のことであると言われる。その理由・理屈についてこの本で考えている。資源・有限性という理由は二つの間のあたりにある。それでもまだ理由が言われているのではある。ただこれらに接しながら、たんになされないこと、遅れることがある。私たちは、行政の怠慢であるとか、それが問題の本質であるとか、そんなことは幾度も聞いてきたし、自らも言う。しかし、その私たちは、「怠慢」だとか「問題の本質」といった安直に使われる言葉を、ここではその言葉通りに受け取るべきだと思う◆11。どうしてなのか、ときには誰にもわからないまま、様々なことが引き延ばされる。そんな中で人は衰弱していく。すると、さらにその人を放棄することが容易になる◆12。
 そしてさらにそれは、病院という機構、あるいは政治という機構の大きさ、奇怪さというだけのことではない。ここにあるのはもっと苦い認識である。つまり、人をそのような状態に置いているのは私たちでもあって、そして、そのことを私たちが知ってもいるということだ。つまり、まず病院やさらには政治を非難し批判したりすることはあるのだが、しかし結局自分たちがそこに押し付けているし、そこに留め置いているのだということも知っている。だから、そう相手を責めるというわけにもいかない。そのままにしておければ、そのままの状態であり続けることを知らないではないまま、口をつぐんでいる。そしてその人たちは、事態がそうなっているのを見たり、またそうして送り出したり留め置いたりしている側であるのだが、それは、やがては自分の身に起こることであるかもしれない。このような中途半端さ、さらに望まないのに生かしているという偽善であるのか偽悪であるのかに耐えられず、もっとすっきりとさせること、その一部として希望する人にはその願いをかなえてあげることを主張することもあるかもしれない。それを自分たちがやっていることは知っている。だから苦いものになる。そこでその手前で、と思う。すくなくとも自らの場合なら、厳しい場所に置かれるその手前で、あるいは、初期の時に退いてしまおうと思う人も出てくるかもしれない。そしてその時、再度、事態を単純にまとめることが行なわれる。つまり、たんなる、人工的な延命がなされる場所として、この場所をまとめあげ、それに自然な死を対置することになるのである。
 
3 好き嫌いのこと
 1 好き嫌いのこと
 機械につながれているなどと語られるのだが、その前に、むしろ私たちはそこにある死の前の生に面してしまっていて、恐怖を感じているのではないかと述べた。では何がそのような空間と時間とを構成しているのか。何を痛々しいと思い、何を恐がっているのか。
 生の否定の方に向かう事態の基本にあると考えるものについては、この本の前に、もう幾度も同じことを繰り返し述べている。死への決定をもたらすものは、一つはこの社会のもとで生きることの困難であり、一つは自分の価値の低下である。そしてこの二つともが、私たちの社会の所有・主体のあり方に関わっている。それはごく単純なことである。自分で動き働ける範囲で得ることができるという所有の規則のもとでは、動けない人は暮らしていけない。まったく何もしないわけではないが、できることには限りがある、資源は有限だなどと言われる――このことについては次の章で考える。また、人は暮らすために生産するのだが、だから生産は手段であるのだが、その手段の価値が目的を上回るという倒錯が起こっている。自らを統御してよく動かせることが人の存在価値を示すという価値のもとで、それがうまくいかない人が自らの価値を否定する。これらのもとで人は生き難く、死を選ぶことがある。それはよいことか。よくない。だからそれを変えればよい。ひっくり返っているものをもとに戻せばよい。そのことを述べてきた◆13。
 ただ能力や業績や貢献のことは、尊厳死などというものを考えるはめになったその以前から、私がずっと気にしてきたことだった。だから、関心が偏っている私であるがゆえに事態をこのように見てしまっているのかもしれない、実際にそんなに単純なものなのだろうかとは思ってきた。この場面に固有に存在する苦痛や悩みもまたあるのではないかとも考えた。例えば動けなくなること自体の苦痛、発話できないこと自体に発する苦しみがあるかもしれない。そんなこともあってALSという病にかかった人たちのことをすこし調べてみたのでもある。するとそこに様々な苦労・苦痛があることはわかった。けれど、その上でも、私が基本のところにあると考えてきたものがやはり大きく効いていることは確かなようだった。究極の病とされている病であっても、そのこと自体の苦しみから死に至るとは言えないようだった。できていたことができなくなってしまうことに対する悲観があり、そしてそれ以上に、その身体でこの社会で生きていくことをめぐる辛さ、とくに近くにいる者にかかってしまう負担を思う辛さがあった(『ALS』)。
 とすると、一つには、生きられる物理的・物質的諸条件が存在しなければならず、またそれをめぐる規則をもっとよいものにしなければならないのだが、これがなかなか厄介である。自分ひとりの力でどうにもならないし、次に負荷がかかるのは家族であったりする。死の方に行くことを促すものは多くそんな現実である。ただ、それを取り除ければ、他のものに代えられれば、あとは生きようと思う思いの方が強いはずだと、だからそれ以外のことはあまり考えなくてよい、すきなようにさせればよい。
 こうして事態は、物質的条件に大きく規定されている。自分が動けなくてもなんとかなるのであれば、生きていくことができる。ごく単純なことであって、ほぼそれだけを言えばよく、暮らせていける条件がありさえすればそれでよいのだと思う。『ALS』やその前後に書いたいくつかの文章で、「身体障害系」の人たちに即しては、言うべきことはそれなりに言ったと思う。そこでは、「意志」や「決定」の問題として問題は存在している、存在してしまっているのだが、その意志や決定に現実に作用している事情も――ALSの場合は、身体がまったく動かず、少なくとも言語による送信が途絶えてしまう状況というものがいったいどうなのだろうという問題は残り、そのことは気になることとしてさらに考えねばということがあったのではあるが――比較的はっきりしている。できること/できないことについてこれまで私が書いてきたことが、ほぼそのままその決定に関わっている。
 しかし、同時にここには価値や好悪が関わってもいる。むろん、世界にある物や行為の分配のあり方にも人々の価値は関わっているのだが、みなが人手や施設や金のことにだけ気がいくというわけでもない。それとは少し異なる部分、もっと微妙でもあるところが残るようには思う。
 とくにこの間多く語られてきたのは、高齢の人たちの「ターミナルケア」「看取り」だ。それがみなできる/できないに関わるのかどうか。社会だとか、近代だとか、所有だとか、そんなことに関わらないもっと感覚的なもの、無歴史的なもの、自然なものがあるのだという感じ方もある。そして、それがどこに発するにしても、そのように感じてしまうことは事実なのだと言われる。そう思ってしまうのだから、それは仕方がないとされる。病を得ること、とくに老いること、とくにこのごろ「認知症」と言われることになった状態になること。このことに対する否定、悲観がある。他方で、そう思うことはないと言いたいのだが、ただそれを言うのも虚しく思われる。どのように言ったらよいものか。
 病院のある階にいる人たちを見て、まずまったく具体的な姿・形、その動きや動きのなさを見て、あるいは静かさや、機械だけが立てる音を聞くことがある。機械と身体とがつながった図像をさまざま見ていたはずなのに、実際にそのような場面に出くわすと、ぎくっとする人もいる。あるいは、その人は意識があるのかないのかわからない状態で、そこに横たわっている。あるいは身体が不随意に動いている。あるいはもっと激しくその人は振動していることもある。叫ぶ声が聞こえることもある。そんな様子を見て、そう長く見ていられなかったりする。それを見た人は、そのような状態に長くいたくないと思い、「あんな姿になってまで」と言ったりする。
 動かなくなったりしていることは、暮らしのための行動が自らの身体によってはできないということでもあるが、また動けない姿はそれ自体がその身体の姿でもある。これまで私は、できること/できないこと、その意味での障害(disability)についてはさまざま書いてきた。基本的に言うべきことは簡単である。自分の身体の代わりがいれば、それでよい。ひとまずそれで問題は解決する。もちろん現実には人がおらず、またその人は限られていて、すこしも解決されてなく、終わっておらず、それが最大の問題なのではあるが。それに比べれば、現実の重さとしてはより小さいのかもしれないのだが、しかし形姿や好悪は、理屈としてはよりやっかいな問題ではある◆14。理由は大きくは二つである。
 一つ、姿・形は、すくなくとも容易には、変更したり、取り替えたりはできない。苦痛についても同じことが言える。痛みを感じている身体から、生きている限りは抜けきることはできない。これは、できないことの多くが他人に代わりにやってもらえばよいのと異なる。行為や財そのものの多くは、好き嫌いと別に、行なったり(行なわせたり)、移動したり(移動させたり)することができる。その意味で、さしあたり、それは個々人の思いや感情のあり方と別に編成すること、編成しなおすことができる。ただ他方で、移動したり分配するのが困難なものがこの世には意外に多くある。
 一つ、それは人の好みにかかわる。好きであろうが嫌いであろうが、与えることもまた得ることもできるものがある。しぶしぶであっても金を払うことはできるし、多くの行為についても好き嫌いと別にすること、させることはできる。しかし、嫌いでありながら、好きであることはできないことになっている。相手の気持ちに依存するし、好かれたり嫌われたりはそのことにおいて存在し意味をもつとされるから、命ずることはできないし、強制したら意味を失わせてしまうものだとされる。
 これら二つの変更・操作の不可能あるいは困難がある。すると、能力と姿というように簡単に分けることができないこともわかる。なにが人の好悪に関わるのか、結局のところわかりはしないのだが、それでもその幾分か、例えば食べられるものとそうでないものとを嗅ぎ分けるといったことは、生存、生存のための消費・生産に関わっているのかもしれない。だから、根にあるものはそう変わらないとも言えるかもしれない。そして例えばその「自己保存」の欲望(に発する好悪の感情)はその人において固定されたものだと捉えることもできよう。つまり二つめの条件については、同じく定まったものによって人を見ているとも言える。となると、一つめの差異しかないということになる。つまり、好きだろうと嫌いだろうと――その感情がそのまま行為をするしないに結びつくことは実際にはよくあることではあるのだが、それでも――その人が動かない代わりの行ないをすることはできるのだが、その人がその人でいる限りはとって代われない部分もまたあるということである。
 こうして、気持ちのわるいものは気持ちがわるいのだと、そしてあなたはもうそうなってしまっているのだと、どうにもならない、そのように居直られてしまう。そうして事態は膠着してしまう。これに対して何が言えるか、何ができるか。これは、難しく考えてしまうと、かなり難しいことのように思えてくる。
 例えば社会学であれば、あるものはあってしまい、人はそれが好きであったり嫌いであったりしてしまう、その上で、嫌われる側の「印象操作」のさまざまを記述するといったことを行なってきた。例えばゴッフマンという人の本にはその細々したあり様が書かれている(『生死本』で紹介する)。そうやって隠したり騙したりする様が記述されていくのを読むのは、それとしておもしろいことではある。しかし、隠しようのないこともある。また隠せばそれでよいということでもないだろう。すると、どうしたらよいか。
 一つ、よくなされるのは、私的な場面と公的な場面などと場面を分けることである。例えば、個人的な好き嫌いと人を雇う雇わないは別のことだとして、後者に前者が影響することを禁ずるのである。これには一定の意義と効果がある。しかし、問題が私的な場面自体に起こっているのだとすれば、これでもやはり解決されない。
 気にしなければよい、ぐらいのことしか言えず、それで止まってしまう。それに対して、気になるものは仕方がない、嫌なものは嫌なのだと、このような返し方で返されてしまって、それで終わってしまうように思える。いったい何を言ったらよいのだろう◆15。
 
 2 作りものだと、まず言ってみるが
 まず一つ言われることは、そこに描かれる像が間違っているということ、誤解・偏見がある、知られていないことが多々あるといったことだ。例えば老いることについての否定的な認識がある時に、それに対抗しようとして別の像が提示される。様々なことが間違って認識されているのは事実である。だからそのように対抗するのはよい。しかしときには、それほど肯定的に、美しく語ることができないことがある。そのように語ろうとすると無理がかかることがある。
 今までの否定的な高齢者像を否定しようとして、じつは高齢者は元気なのだというところを強調することになったりする。それはおおむね間違っていないとしても、部分的な事実でしかないことがある。認知症になる時にはなる。状態が進んでいくこともある。そこを突かれることがある。また、否定的でないものの方向に自らを差し向けてしまうことがあり、それと現実のわが身との差異が自身を否定することにもなる◆16。
 もう一つ、その起源・出自が問題にされる。価値・好みが社会的・歴史的に形成され規定されたものだとする。社会学も歴史学も、価値や好みが個人的なものではなくまた人類に普遍的なものでもなく、社会的・歴史的に構築されていることを探し出し、言ってきた。今思われていることは天然自然なものではなく、近代の社会になって老いが否定的に語られるようになったといったことを言う。
 そうかもしれない。「姥捨て」の話が捏造であるといった指摘はある。きっとそうなのだろう。老人を敬うことは今よりは普通のことだっただろう。だがまず、こうした論がすくなくともある程度当たっているとして、それがどれだけの意義を有するのか。別のものがどこかにあったことの指摘は、その別のものの方が今あるものよりよいことを示さない。このことを「社会的――言葉の誤用について」([2004h])他で幾度も述べた。人はその時のその場所で生きていて、そこから価値を受け取り、自らを位置づけている。それが現実だ。自分は今ここの社会に生きているし、生きているしかないのだから、よその話や昔の話をされても、うれしくはない、救いにならない。そう言われるかもしれない。
 それでも、一つ覚えのようなこの「相対化」という営み、「社会的構築」を探してまわるという営みには明らかに積極的な意義がある。かつては違っていた、別の地域では異なっているという事実の指摘は、今ここにあるものの妥当性を懐疑させるきっかけにはなり、別のものに変えてもよいかもしれないと思わせる点で意味はある。この認識は社会規範の設定においても、また個々人の人生に対しても意義あるものである可能性はある。違うあり方があること、あるらしいことを知るだけでほっとすること、うれしくなることはある。違うあり方が人間の社会において可能であるということが示されるということ、これはとても大切なことである。時代が変わる程度のことで、場所が違う程度のことで、かなりの部分が違うらしい。そのままが今ここで実現できるかどうかはわからないにしても、その可能性はあると思えるなら、それはよい。ある時期、歴史学や人類学が魅力的であったのには、いつまでも魅力的であり続けるのには、そんな事情がある。
 ただ、とくに生死に関わるようなことになると、普通に知ろうとするだけなら、それほど大きく違った事実は出てこないかもしれない。たしかに多くの社会では、この社会よりも老人の地位は高かっただろう。しかし、それもある役割が存在し、その役割を果たす者としてのことではないか、とか、老病死が否定的に捉えられることには相当の普遍性があるはずだといった反論がなされる。だから、歴史性・社会性を言う立場は相当に強いのではあるが、完全に自らを押し通せるほどではない。生きるための資源が不足した状況のもとでは厳しいこともあったのかもしれない。あるいは認知症についてはどうか。過去は本当はいったいどうだったのか。私たちは多く実際のところを知らない。ここでも事実関係をめぐる問題に巻き込まれる。おおむねどんな社会でもしかじかの人たちはよい目をみてこなかったということになって、かえって自らが言いたいことに不利に作用することもある。そして、たしかにかつて今あるような「延命技術」は存在しなかったのだから、存在しなかったものについての扱いの記録はない。
 
 3 抜けられそうにないように思えること
 自然な死を欲望すること、自分の生を否定すること。そうした感情や欲望について考えている。
 私の一存のこととして決めるのだと言う人はいるかもしれない。このことについては第1章で考えた。私の一存としての想念や行ないを否定できない理由はある。しかし、そうであったとしても、その人の思いや決定に口をさしはさめないということではない。そして、自分の頭脳を含む身体の大きな変容がここでは理由になっているのだが、この場合に、私は私のことを決めていると言えるのか、多くそうは言えないだろうことも述べた。自分はこう感じてしまうということは、それが事実であるとしても、そう多くのことを正当化するわけではない。ただその確認の上で、自分のこと、また他人のことをどう価値づけているのか、そのことをどう考えるかという問いは残るのだった。正しいことかそうでないかはべつとしても、人々はまったく個別の関係や感情に左右され、右往左往して、それで死んでしまうこともあるではないか。
 そうして考えていくと、私がしかじかの私であって、それを受け取める誰かがいて、その人がなにがしかを感じて、というのと別の水準に価値・規範が設定されるべきであるのではないか。こう思われる。そしてこのことは安楽死・尊厳死のことを考える上でも大切だと思う。この水準で肯定されていないこと、生存・生活が位置づけられていないことが、その観念と行ないに関わっている。この水準で普遍的に肯定されるなら、死なずにすむ人が死ぬことは少なくなる。
 だから、それを言う人たちの言葉が読まれるのは当然のことだ。人が何かを共有することによるつながりが共同体であるなら、あるいは、人が何かができて何かを行なうことによって形成されるものが組織であるとしたら、それらは限定的なものであり、限定的なものでしかなく、どんな存在であっても、という条件を満たさないことになる。そこで、「無為の共同体」(Nancy[1999=2001])であるとか「何も共有していない者たちの共同体」(Lingis[1994=2006])などと言う人がいると、それはよいと思う。肯定することは、何かをともにすること、あるいは共通の属性を有していることではないことに求められる。
 けれども、そんなことを言われたって空手形のようなものでしかないとも思われる。その希望は美しい希望であるかもしれないが、そんなことはこの世にあったりはしないのだと言われる。そしてこうなってしまった、あるいはそうなってしまうだろう自分がなさけない、どうしても私にはそう思えてしまう、それが自然な感情だ、仕方がないというものだ。その人は自分で自らを評価している。自分がぼけてきたことを知っていて、あるいはそうなるかもしれないことを恐れ、気にしている。言いたくなるのは、そんなことは気にしなければよいということである。しかしそんなことを言ってどうなると思う。その人の思いはその人に溶けてしまっていて、そこから抜け出せない。
 そのように思われる。さらにどんなことを言えるのか。それを考えてみるのだが、答だけを言うと、それはある。そして存在するのだから見出されはする。ただ、どこにでも支配的な言説はあって、それはたいてい幾分かは勇ましいものであったり潔いものであったりする。そのような死だけが語られる。そこに同時にいつも存在する生は、とくに公式の言明からは浮かびあがってこないことが多い。
 だから、ここでもただ知ればよいということにならない。それは、存在するはずだと思って、願って、探しに行くといった営みに近くなるはずだ。となると、結局、事実に語らせるというのとすこし異なったことをすることになる。文体も変わってくるかもしれない。資料をほじくったり、地味な聞き取りをしてしまう人たちと、現実を顧みず「歓待」などと言ってしまう人たちがいるのだが、私は両者は実際にはそう違わない人たちだと考える。別のあり方、なんでもよいというあり方があってほしいとその人たちの双方が思っているのだ。その中で、そんなみもふたもないことを直接に言うのは憚られる、恥ずかしいという人たちが「実証」に向かうのである。ものを言っていく筋道が違っているということである。けれど、死の前の生といった主題になると、両者は、その書き方においてもどこか接近せざるをえないところがあるのかもしれない。つまり、そこに存在するものは必ずしも明瞭な言葉としては現われてこないから、それを描くという行為も、いくらかは思弁的なものにならざるをえないところがあるということだ。
 
4 会ってしまうこと
 1 告発との不整合?
 様々をよしということにしよう、事態を次へと進めていこうという力だけがあるのだろうか。なすことが様々あるのだがその手前でやめてしまおうということにだけなるのだろうか。そんなこともない。事態を正当化してしまう言葉や、事態を留め、そして進行させてしまう装置が作動しないなら、人々は別の人間の自然に会う。「環境」を巡る主張、社会運動にあったことを思い出してみる。
 次の本『唯の生』に記したのだが、二〇〇五年、原田正純が「安楽死法制化を阻止する会」の発足集会で講演をして、ついでに代表にさせられてしまった。他方、日本尊厳死協会の理事長の井形昭弘は、水俣病への対応については強く批判されることのある方でもあるが、鹿児島大学にいた時(この大学の学長を経て、その次は国立療養所中部病院院長)にさきにその文章を引用した知本茂治に関わり、知本の著書に一文(井形[1993])を寄せている医師でもあり、そして近頃は、ALSの人たちの人工呼吸器の取り外しについて肯定的な発言をなさっている◆17。協会が作成した法案では、意識があり末期でなく強い身体的苦痛に苛まれているのでもない人たちは入っていなかったが、ALSの人たちについても認めるとなると、これまで尊厳死の主題=対象として想定されてきたほぼすべての人について尊厳死が是認されるべきだと主張しているということになる。また、その手段にしても、呼吸器を外すことは「積極的な行ない」でないという主張は普通に考えれば通らないから、ただ治療を行なわないというだけでない、より積極的な手段が用いられてよいと言っているということにもなる。
 あまり対照的に象徴的に人物を配するのはわざとらしくはある。それでも、これはこれとして事実である。この差異はまったく偶然のものだろうか。そうであってもまったくかまわないのだが、それはなにかしらのものを示しているのかもしれない。突然代表を頼まれ、代表とかそういうものはとにかく勘弁、と言ってはみたものの、結局押し切られてしまったというだけのことではあっても、水俣病の人たちにずっと関わってきた人が、自然(な死)を大切にしようという動きに――何をしたらよいのかなにも定まってはいないのだが――異を唱えようという集まりの代表になってしまったのではある。
 そして、その主張の辻褄があっているのだろうかと思う。このことはすこし気になってきた。そしてそのことが実際に言われた。

 例えば水俣病の悲惨があったし、現在もある。また悲惨があったから、社会の多くの人たちに関心ももたれた。そのように感じ、そのことを言うこと、言い続けること、それは当然のことだと思う。次に、原田が講演でも話したことだが、新潟水俣病のときには胎児性の患者は出なかった。つまり産まなかった。そういうことでよかったのか。そしてこの疑問は、チェルノブイリでの大きな事故のあとにしばらく盛り上がった各地の原発反対運動の中で「不幸な子ども」が生まれないようにといった言われ方がされた時、示された疑問でもあった。
 
 「一九七〇年代以降、社会運動のもっとも大きく重要なものは反公害運動だったのだが、そのある部分は障害者運動とかけもっていた。あるいはつながっていた。それは公害に反対し、加害責任を追及する運動であり、「健康破壊」として公害を糾弾してきたのだが、その主張に障害者運動の立場と矛盾するところはないか。一九八〇年代の後半、実際チェルノブイリで事故があったりもして、原子力発電所の建設・運転に対する反対運動が、そう長い期間ではなかったが、盛り上がった。そしてその中で、放射能によって障害児が生まれるおそろしさが語られ、そしてそのように語られることのおそろしさが感じられた。」(「ないにこしたことはない、か・1」[2002d : 48-49◆18])
 
 「だから自分の中で、優生思想のさ、はっきりしてないわけ。[…]障害っていうのが問題じゃないんだ、それを差別する社会なり、環境が悪いんだと。だから、健全者が変わりね、まちが変わり、変わるんだというのとさ、水俣みたいな[…]このからだを返せというさ、そういう思想、考えかたの、そのなんていうかな、つきあげというかさ、その絡みがいまいちはっきりしないのね。それの中で今ちょっと今、いろいろ調べようと思っているんだけどね。それを頭の中で整理しない限りは、自分でもね、どこまで医療がいいのかっていうのはあるわけよ。」
 
 このように言ったのは、一九四八年に新潟県に生まれ、学校には行かず(行けず)、やがて東京都立川市を拠点に障害者の運動・活動を率い、また裏方で支え、一九九九年に突然に亡くなった高橋修という人だ。私は彼から幾度か話を聞いたことがある。このインタビューは一九八六年。その記録や他の人によるインタビュー記録をもとに、彼が言ったこと行なったことを「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」([2001b])に書いた。彼はこの後、ますます忙しくなって、このことについて何か書いたりすることはなかった。というか、彼はほとんど文章を残さない人だった。障害者の介助や移動の権利の獲得のための運動の前面にいたことを知る人は多い――それでも少ない――が、こんなことも考えていた。そのこんなことをどう考え継ぐか、そしてそれと「尊厳ある死」というものがどう関わるかである。
 
 2 普及と変容
 いくつかの文章にも書いたことだが、水俣や様々のところで起こった事件とともに現われてきた社会の理解、変革の主張が、簒奪され弱くされているように思ってきた◆19
 自然が奪われているとか、技術が人間を害しているとか、そのようなことを、それらの事態に直面した人はたしかに言った。あるいは人々の自律が失われているとも言った。すると、今起こっていることはその延長上にあると思える。つまり、死を肯定する人は、技術偏重に抗して、より人間的な、自然な死を、専門家に決められるのでない自分自身の死を求めているのだと言う。ならば同じではないか。そしてそれはかつては少数の人たちの主張だったのだが、広く普及し、ようやく多くの人々のものとなっているようでもある。それは、かつて当然でなかった当然のことが当然のことになったということなのだろうか。
 ただ、すこし違うように思える。薄く広がったとともに、そしてそれはたしかによいことであったと同時に、いくらか別のものになってしまったように思える。この言い方が正確でないとすれば、ある一部が残り、拡大し、他の部分を駆逐してきたように思える。何が違っているのか◆20。
 むろん前進・改善はあった。個々の企業の加害や失態は以前よりは厳しく問われることにはなった。そして自然保護の思想は進んだようでもある。そしてある部分では過激になったりしたようにも見える。しかしその地球を救うための行ないは清潔な感じがする。そうでしかありえないのだろうと思いながらも、ずるい感じ、きれいごとである感じは残る。そんなことを思ってしまう人がいる。そう思うその成分をみな取り出して考えてみるのはここでの課題ではないが、いくつかあげてみる。
 一つに、今は多く技術の利用法の問題として語られる。根本から問題にして、科学技術を否定しようなどと言ってもどうにもなるようなことではないのだから、技術を有効に活用して可能で適正な限りにおいて加害を減らそうということになる。このように語られる話の多くにはどこかに嘘があって、これまで害を出してきた側がその害をなくすると言ってやはり儲けているのではないかといった疑念にはもっともなところがあると思う。だが、その可能性に留意して現実を見ていくことを忘れずにいるなら、私は技術をもってくること自体が問題だとは思わない。使うことによる害悪が問題なら、使わないのが最も簡単な方法だという正解を、正解としてとってはおきながら、しかしさほど極端なことは結局できず、過大な期待を抱かずに、技術の有効性はそれとして認めるということになる。
 一つに、「みんな」という把握について。これは二手に分かれる。一方では、一部の企業が多数の民を苦しめるというかつての構図が変わって、「みんなの問題」にされたことになにかしらの虚偽があることが感じられる。他方で、いや、「みんなの問題」として、真剣に考えねばならないのだという考え方がある。加害者と被害者といったぐあいに単純になっていない、自らもまた加害者であると思う。そしてこの双方が他方のことをずるいと言う。そしてどちらの側を言うにしても、実際に流布している話が多く情緒的にすぎるというのも事実であり、それをそのままに受け容れられないと思うのももっともである。両者は背反するわけではない。ある問題がみなの問題でありながらしかし、特定の人々がそこでより大きな不当な利益をあげているといったことはありうるし、実際にある。ここでも、誰にどの程度の責任があるのか、義務があるのかを考えてみようということになる。一定の規制を行なうとともに、そして一人ひとりができることをしようということになる。
 そしてこのような「実際的」な対応は、このごろ、ようやく人々が冷静になってできるようになったことというわけではない。それはこれまでの思考と実践とを過小に評価している。たしかに、敵を何に求めるのかについて、「企業」であったり「政府」であったり「資本主義」であったり、敵を外に置くことはよくあった。しかしそのことをまず言う人たちが、「私たち」を問わなかったわけではない。そして、その加害者は「私たち」でもあると思い言った人たちが、自らを責めることだけをして、外側に向かわなかったのかと言えばそんなことはない。そしてそれは矛盾した行ないであったのか。そんなことはない。理屈の上での辻褄合わせはしなかったとしても、自らのこととして引き受けることをしながら、しかし、依然として批判し追及するべき相手はいると思い、批判し追及する行ないを行なってきた◆21。そしてそのことの方が、まったく平均的に「一人ひとりの問題」であると言い、「一人ひとりができること」を行ないましょうと言うことより正しいことであるはずだ。そしてここでしばしばこの「一人ひとり」は、みなが等しく(その可能性としては)被害者であるのだから(である限りにおいて)、「一人ひとり」が意識的でありましょうという話につながっている。そんなことも多々あるにはあるのではあろう。ただそうでないこと、被害者が偏って存在することは、依然としてたくさんある。このことは認識しておくべきことだ。
 ただここでは、もう一つのきれいごとである感じについて。「人命の特別を言わず/言う」([2008c])を書き直し書き加えた文章――次の本『唯の生』に収録される――で書くことにするが、それは、「脱人間中心主義」などと言うその主張が、とても人間中心的であることによる。そしてその中心にいる人間は立派なのであり、立派な人間なのである。そしてそれは、愛護したり尊重したりすることはあるとしても、そこに我彼の間の差異はやはり設定されている。むしろ差異によってその営みが成り立っている。自然を愛好したり、動物を保護したりすることにおいて、そのような暮らしを送れない人、そのようなことに思いが至らないらしい人たちから自らを差異化する。それは動物的な生から自らを切り離すことにおいて、そのように主張することにおいて、そのような生から自らを切り離せない人、切り離さない人から差異化するのと、基本的に、違わない◆22▼。
 この遠ざかる行ないは予防という営みにも現われる◆23。かつて被害があって、被害の告発から始まる運動があって、その成果として、極端にひどいことは、いくらかは、ある部分では、減った。すると、その行ないは、よくないことが起きないようにという予防的な行ないになる。それはよいことである。よくないことをわざわざ実体験しなければならないなどということは、もちろんないからだ。実際に苦しむことはなく、あらかじめ苦しむことがないようにした方がよい。それはまったくその通りだ。
 それで、ものの言い方としては、あんなぐあいにならないようにしようということになる。もちろんそれは「予防」である以上は当然のことである。それはよい考えであり、よい行ないでもある。だがその人に面してはいない。「あんなぐあい」や「あんな人」は想像され、表象される。そしてその表象がより悲惨なものであれば、予防の方に向かう力は強くなり、その効果もあがるかもしれない。また何かが予防されるべきものであるとされる時、その想像・表象は暗いものとなるだろう。
 
 3 それでも会ってしまうこと
 それに対して、事実、その人に接してきた人たちがいる。その人たちは、被害を被っているそのことが肯定されるなどとは思わないけれども、その状態をまとっている人を否定できないと思った。それはまず、病・障害と、それをかかえる人とを分けて考えようという、ただそれだけのことだともひとまずは言える。そしてそのことは多くの人が言う。私もそれに同意しよう。ただそれだけのことでもない。そのあり様を否定的に見てしまうことの全部をそのまま認めてよいのだろうかとも思う。また、苦しんでいるのを見たくないと思いながらも、その人の生きるのを見ていたり、ときには手伝ったりする。
 むろん、会ってしまうことが肯定をもたらすなど、まったく楽天的な話ではあって、それはことの一面でしかない。それに直面してすぐに、あるいは人によっては――とくに介助する人として――長く接していて疲れてしまって、否定することがある。いくらか意地のわるい言い方になるが、「たまたま支援に入った」といった人たちの多くは、適度な距離と距離感のもとにいて、重すぎるものを引き受けずにすんだから、呑気なことも言えたのではある。ただ、なんでも徹底的でなければならないと思い、悲劇的な成り行きを好むのでないなら、そうした中途半端なところがよかったのだとは言える。無責任であることは、ときに仕方のないことであり、そしてときにわるいことではない。むしろ、とても大切なことだと思う◆24。そして、たまにはそんな人たちの手助けを得ながらも、ずっとその人のもとに居続け世話を引き受けることになって、そして、なんとか、どちらかが死ぬまでその人たちの生活を支えた人たちがいる。
 他方、悲惨と困難が一般論として語られる時、生じるかもしれないことへの恐れとして想像される時には、否定はその人の存在の否定に及ぶことがある。また逆に、あるいはあまりに重く自分のことになった時、あるいは重すぎる関係者になった時にも、この二つの対し方は連続的である。二種類の人間がいるわけではない。そしてもちろん、実際に会うこと接することが嫌悪を強めることもある。その人の姿・形に実際にたじろいだりもする。しかしそれでも、知ってしまった人たちの中に、その人の生を支えようとする人がいたのは事実だ。
 その人たちは、人が生きることができないことがあったり苦痛のもとに置かれていることを指弾してきた。その状態がよいと思ったのではまったくない。行動は悲惨から始まった。だが、その後起こったこと、起こらざるをえなかったことは、その人たちと暮らしていったりすることだった。暮らしはしないとしても、支援やらなにやらの関係で、その人に面することになった。その人が亡くなっていく過程につきあったり、あるいは生きていく過程につきあってきた。すると、いくらかは異なってもくる。その人たちを苦しめたことについて、その人たちの暮らしを困難にしたことについて、そのことを責めてはいると同時に、その人を肯定はしている。その批判・指弾は、その人が生きることを否定しない。すると、その悲惨をそのままに使うのは間違っていると思うことになる◆25。
 これは矛盾ではない。死や苦痛や不便をもたらした者たちは、それだけで十分に糾弾されるに値する。その者たちを追及するのはよい。ただ、第一に、そのことを言うために、その不幸をつりあげる必要が出てくることがあるとしたら、それはなにかその人たちに対して失礼なことであるように思えるということだ。だから、それはしない方がよいと思うようになったということだ。その状態をよいものとして肯定しているわけではない。しかしそれは死を肯定することではない。その存在を肯定するから、それに死をもたらすものを責めることになる。
 
5 思いを超えてあるとよいという思い
 1 普遍の不可能性?
 しかしいま述べたことは、ずいぶんと個別的なことのようでもある。ある時にある人がそんなことを思ったことがあるといっただけのことではないか。だが私はそうではないと考える。以下、すこし長くなるが、そのことを述べる。
 好き嫌いというものがどのぐらいのところに位置づいているのか。あるいは位置づけたらよいのか。本人の、あるいは別の人々の好き嫌いによって何ごとかが規定されてよいものだと考えるとしよう。すると好悪がもつ意味が大きくなり、同時に、好かれたり嫌われたりすることにかかる負荷が大きくなる。それでよいのだろうか。このことについてすこし私たちは鈍感になってしまっているのかもしれない。
 例えば、リチャード・ローティという人がいる。二〇〇七年に亡くなった。『人権について――オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(Shute & Hurley eds.[1993=1998])という、幾人かの講演が収録されている本の中で、「人権、理性、感情」という話をしている。わりあいよく引かれることがあり、私も言及したことがある箇所をここでも引く。
 
 「道徳教育者の使命は[…]「どうして私は親戚でもない、不愉快な習慣を持つ、あかの他人のことを心配しなければならないのか」という、もっとしばしば発せられる問いに答えることだ、ということがわかるでしょう。[…]より妥当な答え方は、次のように始まる長い、悲しい、感情を揺さぶる種類の物語を語ることです。すなわち「家から遠く離れて、見知らぬ人のあいだにいる彼女の立場になってみると、現状はこのようなものなのだから」あるいは「彼女はあなたの義理の娘になる可能性もあるのだから」あるいは「彼女の母親が彼女のために嘆き悲しむだろうから。」」(Rorty[1993=1998 : 163-164])
 
 私はローティという人が考えていることをよく知らず、この文がその人の思想の全体にどのように位置づいているのか、その人がどこまで本気で言っているのかもわからない◆26。ただ、受けそうな話ではある。不変の普遍の実体として正義があると考えたって、そんなものはないのだし、そんなもので人は動きはしない。代わりに、身近な人との関わりに発する思いを基礎に置こう。そしてそれを延長させていくことができるなら、より広いところに、良いあり方は波及していくだろう。だからそのような思いを喚起することに努めるのがよい。これはわかりやすい、そして説得的な話であるように思う。
 「普遍的な正義」「真理」というものがあるのではない。それがあると言って何ごとかが可能になると思うのは幻想である。もっと身近なところから論を立てていく、というだけでなく、現実を組んでいくべきだ。このように言われる。「正義の倫理」に対して「ケアの倫理◆27」が言われ、それがわりあいすんなりと受容され流通する時にも、こんなことが想定されているところがあるように思う。そしてこのような捉え方は、このごろ「残酷さ」を避けるための営みとして政治的な営みを捉えようと言われる時にも働いているように思う(Shklar[1984][1989=1998]がよく引かれる。cf. 大川正彦[1999]、齋藤純一[2005]。さきにあげたローティの著作では Rorty[1989=2001])。他の様々についてはわからないが、しかし、残酷なこと、痛いことは皆がわかるはずだと、それをとにかく避けるのだと、それならできるだろう、それをしよう、そんなことを言うのである。そして私たちは、それならわかる、それはもっともだと思う。そして私もまた、「たんなる苦痛」をもっと見るべきだと言ってきたし、本章1節5で述べたのでもあるから、そうした陣営にいると思われるのかもしれない。
 誰かの悲しみを知り、それと同じ悲しみが別の人のところにもあることを知る。それでその別のところのことも無視してはならないと思う。たしかにそんなことはあるだろう。人を説得する方法としては有効だろうと思う。しかしよくわからないようにも私は思う。このことはきちんと考えねばならないと思う。
 それは何を言っているのだろう。まず、普遍的なものは「ない」と言っている。しかしこの場合に「ある」とか「ない」とかいう言葉が何を指しているのか、それが私にはわからないのだ。
 第一に、それは目の前にある湯呑茶碗が「ある」ようには「ない」。しかしそんなことは、誰から言われるまでもなく、誰でも知っている当然のことだ。その人たちも、そんなことを言いたいのではないはずだ。(ただ、ときにたんにそんなことを言っているように思えることがある。形而上学を批判する、実体主義を退けるといった言い方で言われていることが、実際にはその程度のことでしかないことがしばしばある。)ではどんなことを言いたいのか。
 第二に、そこで存在しないとされるものは、すべての人が受け入れるという意味での普遍性だろうか。たしかに事実としてはそんなものはないかもしれない。ただここでの問題はそのことをどう考えるかである。わからないのは、この意味での普遍性が要求されているとし、そしてそれが不在であるとし、そして嘆いてしまうという行ないである。なぜ合意、全員一致が必要なのか、あったらよいとされるのか。実際には、多くの人が支持することは、とくに民主制の政体においては大切だろう。そのような決定機構が存在しないところでも、社会の作動には人々の意識や意向が関わり、影響するだろう。この意味では私たちは人間主義から脱することができない。しかしすべての人の同意は望めないだろうし、また考えていけば、それを望む必要もないはずだ。(にもかかわらず、合意が重要視されるのは、また偏重されるのは、規範の内容を言わず、あるいは言ってはならないという制約を自らに課した上で、誰からも文句のでない決まりならそれでよしとされるはずだという前提でものを考えようとするからだと、また考えるべきだと決めてかかっているからだと私は考えている。)
 では、第三に、ある規範や理念がすべての人に及ぶということ、この意味での普遍性か。先の引用はこの第三のものに関わりそうだ。このことについて考えると、たしかに、私の気持ちはそう広い範囲には及ばないだろうという気がする。及ぶのは、存在が実感できる人、既に関係のある人に限られるような気がする。この問いは私も気になってきたし、また、安楽死・尊厳死のことについてものを言うときにも問われてきたことだった。そのことを言われて、次のように答えた◆28。
 
 「――[…]おまえ死ぬなよっていうのは、他者一般の死みたいなところでは起こらないですね。まったく知らない人間に対してそういう感じは抱き得ないという感じがする。
 立岩 ほとんどそうでしょうね。
 ――私が知っていて、長年つき合ってきた人間が、目の前で死のうとしているというときに初めてやっぱりそうなると思うんです。
 立岩 その通りだと思います。大切なことを言われたと思うんですね。少なくとも顔ぐらい知っている人、たぶんそうだと思うんです。けれど、どうなんだろう。今、私はその人から遠い。しかし、もし近づいてしまったら、私はその人の死を平静には受け取れないだろうということはわかっているということがあると思うんですね。そのことをどう考えるか。そしてまた、近づかないですむように現実が組み上がっているということもある。まったく知らないですんでいる人たちと、日々死に接して摩耗している人たちと、その二種類しかいないように現実が作られてしまっているとしたら、それはどうかということ。そして、その存在の現われを受け止めずに済ませられるような、その存在を門前払いにしてしまえるような価値がこの社会にあるということをどう評価するかということがあると思います。」([1998e→2000h : 74-75])
 
 ここで私はさきに引用したローティの発言とそう違わないことを言っているのかもしれないし、そうではないかもしれない。一つに距離というものが自然にあるのではないだろうと言っている。距離があることにし、知らないことにする、そんなことが多々あるではないかと言っている。「日々死に接して摩耗している人たち」とは、言うまでもなく、日々「死に逝く人」の「看取り」を行なっている(行なっていないかもしれない)医療者や看護者のことであり、そして「知らないですんでいる人たち」とはそれ以外の人々のことである。そしてもう一つ、ここでは明示的でないが、既に距離を越えて行くものがあることを知っていて、知っているのにそれを距離という自然にある(とされる)ものをもってくることによって、ないことにしてしまっているのではないかと言いたかったのかもしれない。
 同じ本に収録された「遠離・遭遇――介助について」で、「承認」――これもまたあるところではよく使われる語である――を巡って次のように書いた。
 
 「好きではないあるいは憎悪したり軽蔑しているけれども認めてしまうといった位相、水準があるだろうということである。本当にそう思っているのか、わからないといえばわからないのだが、しかしどこかでそうであったらよいとは思ってはいて、そのように思うことの中に既に承認は訪れている。[…]
 おそらく権利は[…]具体的・個別的でありながら、その具体性のうちに普遍性へと向かう契機を含んでいる。権利についての不信は、それが天から降ってきたもの、与えられたものであるとされることにあるのだろう。その不信にはもっともなところがある。しかしやはり権利がただ人であることにおいて一律に与えられるというその普遍性は重要なことではあるのだろうと思う。人権の普遍性とは、まったく普通にある関係そのものにあるのではないかもしれないが、しかしその関係に内在していてそれを延長させていこうとする意志が関わっている。」([2000b→2000h : 312-313])
 
 ここで私が気になっていたことの一つは、「ある」とはどんなことかということだった。この場合に「ある」ことと「あることを望む」こととがそれほど違うことなのかということだった。
 
 2 個別から語ることの流行
 他人のことが、あるいは自分のことが、好き/嫌いだから、その気持ちに沿って決めるということであってよいではないか。しかじかになった自分が嫌いだから、そうなったら死んでしまおう。とにかく私にはそう思えてしまう。こうした正直な、あるいは居直った言葉にどう答えたらよいだろう。このことについて考えている。
 第3節2で、それは自然な感情だと言われ、それに対して、そうでない、好悪等々は作られたものだ、時代や地域に相対的なものだと言っても、あまり納得してもらえないだろうと述べた。そして、気持ちわるいという気持ちを感じてはならないとは言えないだろう。それを禁圧すべきであるとされることの方がかえってよくないようにも思える。
 そしてそのような正直さは、この社会にあって、肯定されること、積極的に肯定されることがある。なにか抽象的な原理があるからでなく、実際に人が思い感じることからこそ連帯や協力は生じるとされる。そう言われるとそんな気もする。どのように考えたらよいか。
 まず、人の世のことは人の行ないによって形作られる。そしてその行ないには人の思いが関わっている。以上はそれとしていつでもまったく否定しようのないことだ。その限りにおいて、私たちは「人間的なもの」から抜けることはできない。しかし、間違えない方がよいのは、この自明なこと、いつもそうであったしこれからもそうであるほかないことと、今語られることとは異なるということである。今語られるのは、個々人の思い、感情から、関係のあり方、社会のあり方を立てていこうということである。実際の関係、実際の関係に発する実感をもとに据えていこうという行ないである。このようにして何かを語るのがすこし流行している。その事情はわからないでもない。わからないではないと思うのは、一つに、ただ抽象的な原理を言われ、教義を説かれても納得することはできないという感覚、不満があって、それはいくらかはもっともであると思えるからだ。これが正しいから従えと言われてしまうと、納得できない。かえって信用できなくなってしまう。そのように思うのはもっともなことかもしれ△183 ない。
 「ケアの倫理」などというものが語られるのもこんなことに関係しているところがあるのだろう。その心性が、なにやら天然自然のもの、本能のように語られることには批判がある。あるいはまた、それが特定の性に偏ったものとして、「女性的なもの」として想定されていることについても批判がある。それらの批判はもっともなものではあるが、そのような契機があること、そしてそれは肯定されてよいものであること、このことは認めるとしよう。
 ただ、それにしても難しい場面があるように思われるし、そのことは指摘される。つまり、具体的な関係に生起する感情からその人に対する行ないが起動するとしよう。しかしそうした関係がなかったり薄かったりする人がいるだろう。すると、それらの人には何もなされないことになるのではないか。また、今私はしかじかが人に気にいられてそれでうまいぐあいにいっているのだが、それはいつまで続くのだろう。そんな心配もある。
 もちろんこれに対して、ケアする心性はそのように狭隘なものではない、などと言われもしようし、それもかなりの程度当たっているのだが、それでも不偏・普遍に対する懐疑から「ケアの倫理」等々といった話は始まっているのでもあるから、限界は認めざるをえない。それでさきに見たローティのような漸進主義も出てくる。つまりだんだんと人の輪を広げていこうなどと言われる。また教育の必要性が説かれる。人には類推の能力があるのだから、しみじみとした話をし、それで身近な人との間にたしかに存在することが確認された感情を、他の人にも差し向けられるように誘導していこうというのである。
 それはたぶん有効な手立てだと思う。この手立てを使うことに反対する理由はない。けれどもこの戦術がうまくいくいかないのとは別に、ここで押さえておくべきことは、このような道筋の話をするときには、あるいはこの種の議論の弱点を言うときには、既に、予め、気遣われるその範囲が世界の全体に及ぶことがよしとされているということである。そうあってほしいのだが、それはなかなか難しく、それで具体的なところから順々にやっていこう△184 という筋になっているのである。もちろんそんな拡張は不可能であり、また望みもしないという人もいるだろうが、そうでない人は、実現可能性は別として、それを期待しているということである。このことが何を意味しているかである。つまり、個々の関係にある心性を超えたものがあった方がよいと思っているということである。ならば最初からそう言えばよいではないか。それなのになぜその方向に進まないのだろう。普遍主義の何が批判されているのだろう。

 3 思いを超えてあるとよいという思いの実在
 プラトンやカントが持ち出されて「西洋形而上学」が批判される。そうした哲学者たちが何を言ったのか知らないし、その人たちの味方にならなければならない特段の事情も私にはない。ただ、批判する人たちは、批判する相手をなにか攻撃しやすいものにして、小さなものにして、それから攻撃しているように思えるところがある。
 批判者たちは、批判される相手が「普遍的な道徳原理なるもの」の実在を主張していると言い、しかしそんなものは実在しないのだと言う。だが、この場合に実在するとはどんなことなのか。もちろん、それは物がそこにあるように存在することではないだろう。このことは誰もが認めるはずのことだ。とするとどのような意味であるとかないとか言っているのだろう。もののようにあるのでないとすればどのようにあるのか。ある理念があればよいと思うのと、理念があることと、違うとは言えよう。しかし、いずれにしても、まずは人の思いとしてある。その人の行ないとして現実のことになる。それは、ものがある(と思う)こと、ものがあるとよいと思うこととが異なることであるようには、異ならない。そして、言葉は人に対するあり方として現実のことになる。むろんそれが実現しないこともある。しかし、その時でも遂行されねばならないこととして想念されてはいる。△185
 それ以上・以外のことを批判される側は言っているのだろうか。よくはわからないが、一つに考えられるのは、その態度、主張を後ろから支えて前に押す強さがあったらよいと思っているのかもしれない。実際、超越者への信仰は、世界の全体を見れば減じてはいない。ただ他方、そのことが疑わしさを招いてもいるということなのかもしれない。ことのよしあしは別として、見たことのないものは信じられないという思いをもつ人はいて、そのような人に対しては、経験の世界の外にあるものを持ち出すのは逆効果でもある。
 ただそれでも、そんな人たちにとっても、もう一つ、私が思っていたり私が思われたりするのと別に、私や他の人たちが生きて暮らせたらよいと思う。それは、やはり私が思ってはいるのではある。人間の感覚ではある。しかし、その感覚とは自分の感覚で決めないという感覚であり、個人の心情に還元しないという心情である。
 そしてこのことは、直接に、規範が誰にでも及ぶという意味での普遍性につながる。その前に、普遍性に、皆が思うという契機と皆に及ぶという契機と二つの契機があることさえ、ときに私たちは忘れるから、このことを確認しよう。そしてその一つめのものもまた、私が思うこと、私が思うのでしかないことの位置づけに関わってはいる。
 
 4 誰もが、について
 普遍性の一つは、信じたり是としたりする側の人の普遍性である。そしてそれに対する批判は、主張されるものは誰もが信じているのではない、是とするようなものではない、そんなものは存在しないという批判である。どこででも信じられていることではない、その意味で特殊なものだ、すべてがそうだと言うのだ。それに対して、一つに、実際には言われているよりは普遍的であると言う。一つに、普遍的であろうとなかろうとかまわないと言う。
 まず一つめ。批判者は、例えば人権といった理念が、ある時期以降の西欧の国々に生じた限られたものであるといったことを言う。ただ、この点については、批判される側もそう違ったことは言ってこなかった。その人たちは、例えば、特定の時期・場所に出現したことを認め、しかし、やがて他の社会も進化してその場所に辿り着くはずといったことを言うのだ。つまり、時間軸に差異を配置し、終極を同じくすることによって普遍主義が確保される。両者は、問題になっている思想は西欧・近代の特殊なものであるといったお話をする点については同じである。やがて他も追いつくと考えるかそうは考えないか、またそれを正しいものと認めるか、そうでないか、態度を保留するかで異なるものの、事実認識においてはあまり違わない。
 しかしそんなことは信じる必要のないことだと思う。どんな社会で、誰が、このような私であるまま生きていけたらよいと思わないだろうか。人のそんな思いを認めたら損をする人たちはそう思わず言わないかもしれない。しかしそれは、言ったら得にならないから、その人たちが言わないのだと考えた方が理にかなっている。そんな人たちでない人たちも常にたくさんいて、その人たちは大きな声で言わないあるいは言えないかもしれないが、そう思っている。私がどんなであろうと、よく生きていられることがよいと思うことが、限られた地域や時間の中にだけしかないと考えなければならない根拠はない。そんな物語を信じる必要はない。
 ここで、さらにその「もと」があるかとかないとかいう議論をしても仕方がない。しかじかの知見によれば結局人間は利己的であることが、あるいは利己的な遺伝子のために利他的であることがわかったとしよう。しかし、だからそれでどうなのだろう、と思ったことはないだろうか。たしかに新たに得られたとされる知見や仮説はなにかおもしろそうではあって、なにかをもたらすかもしれないと思うことがないではない。何か今まで思いつかなかったことが現われるという可能性を否定しない。しかし知らなかったとしよう。すると、知らないことによって私たちは間違えるのだろうか。どうもそんなことがあるようには、私にはあまり思えない。そして私には、その知識によって基礎づけられるということもまたわからない。ここでは存在と当為とは別だといったことを――それはそのとおりだが――言いたいわけではない。何かを知ることが信じることを強めるということは、予め知ることをありがたがっている場合には有効かもしれない。しかしその有効性はそのような特殊な趣味をもっている人たちだけに限られる。
 次にもう一つのこと。いま述べたことが本当であるとして、それでも、すべての人がなにか同じことを信じたり肯定したりすることはない。その意味では、たしかに普遍的な価値は存在しない。しかし、このことは当然のことであり、仕方のないことだ。実際、神さまが一意に定めた掟があることを信じている人たちにしても、現実にみなが信じていることを想定してはいない。またそうでなければそれを信じるに足る理由がないなどとも思っていない。むろん、多くの人が受け入れたり、合意があったりすることは大切ではあるだろう。まず現実の問題として、人々が受け入れないものは実現したり維持されたりすることが難しい。そして、人の思いを否定するのがよくないとすると、その人の思いに反することを行なうことは好ましいことではない。行なおうとすることにその人も同調してもらえた方がよい。しかしこのいずれも、同意・合意を絶対化するものではない。とくに、既に現実の社会があり損得が配分されてしまっているなら、その現状で得をしている人はその状態を変えることに同意しないだろう。この場合に皆が反対しない案しか採用しないことは、今得をしている人を喜ばせることでしかない。この意味で、人はそれぞれだから比較しない、誰もが文句を言わないところが落ち着かせどころだという筋の話は、まったく反動的な話である。ときに、比較し、誰かを誰かより、何かを何かより優先せざるをえないことがある。それは、比較が可能か否かという問題への答としてではなく、それをすべきであるという要請によってなされる。いつも合意がなければならないと思うのは間違っている◆29。
 だから、ここで普遍主義を非難する人たちと一部同じで一部違うことを言うことになる。たしかに皆が同じことを信じている必要はなく、何かに皆が合意しなければならないわけでもない。しかし他方で、例えばどのように暮らせればよいかについて、人々の思いにそう大きな違いはないはずだ。
 
 5 誰をも、について
 もう一つは価値や規範が誰にでも及ぶという意味での普遍性である。たしかに人に対する濃淡は違う。ほとんど実感しないことはたしかにある。近い人になら「死ぬな」と言いたい気持ちにわりあい簡単になるけれども、そうでない人ならそうではない。
 ただ、このことについても幾つかのことは言える。一つは、遠近と濃淡とが関わることは認めるとして、その距離を自然の距離と言えないことが多いことだ。例えば、関わりにならないのがよいから遠ざかることもある。遠ざけられることもある。このことは述べた。
 もう一つ。人に接し、知るのであれば、その人を大切にすることになるのか。このことについてあまり単純に純情にならない方がよい。慣れることに積極的な契機があることを後で述べるけれど、それとともに、死ぬことに慣れる人が死なせることにも慣れることもあるだろう。そして苦労が多く、それが蓄積された人は、その相手を恨み、殺そうとすることがあるだろうし、実際に殺すこともある。それでも近しい関係を称揚したい人は、そのような関わりは本当の関わりでないと言うのだろうが、すくなくともその関わりは事実存在する関わりではある。
 そして一つ。近い人に対する関係が特別なものではあること、それはよいことでもあり、また苦痛でもあること、両者は並存するのだが、さらに同時に、誰がどのような位置にいてどのような関わりをもっているとかもっていないとかと別にうまく生きていけたらよいと思うということがある。欲望の複数性についてはまたあとでも述べるけれども、これら複数が同時にあってすこしも不思議なことではない。
 さらにもう一つ、誰であってもよく遇されてよいという方に向かうことが、なにかリアルなことから離れた抽象的なことだとは言えない。それはまず私について言える。私がどのような私であるかによって、様々が左右されるし、ときには左右されたいとも思う。しかし、それはそれとして、そうした思いがあるのとともに、私がどんな私であるにせよ、よく生きられたらよいと思う。これはまったく具体的な現実的な思いだが、その思いは、誰でもが生きられるという普遍を指示する。そしてそのことは一人ひとりが有している属性を無視したり否定することではない。むしろそれを保存したり享受したりできる方に向かう◆30。また、自分がどう思っているというのと別に、他人が存在しているのはまったくの事実であり、自分の好き嫌いがそのままその人の存在を規定してしまうなら、その人はもう他人ではなくなってしまう。好きだとか嫌いだとか思うのはつまり私であり、そのことは否定できず、否定する必要もないとしても、他方で、同時に、その私は、それですべてを決めてはつまらないとか、うっとうしいとか、おこがましいとか思っている。それもまた私の現実的な思いである◆31。
 こうして、誰かのそのときどきの思いに左右されないものとして、自分自身や他の人々があってほしいと思う。むろんその上でも、恣意や好悪は残る。なくなることはない。それは仕方のないことでもあり、また享受されることでもある。ただ確認できるのは、一人ひとりに向かって個々に異なるあり方だけがリアルなものであり、どんな人であれどんな状態であれと思う方が観念的なものであるとは言えないということだ。自分がどんな者であったとしても、ここに、この社会にいさせてほしいと思うことも、また現実的で具体的な、ときにはまったく差し迫ったことである。両者ともに同じ人の欲望であり、いずれも具体的に現に存在する欲望である。このようにして、たしかに私たちが考え思っていることであり、思っていることでしかないのだが、そのことの中に、私の個々の思い、個々の関係から離れたところで、私が、人々が生きていられるとよいと思う思いがある。この意味での普遍性が、まったく具体的に現実的に要請されるのである。
 それ以外の何かが必要なのだろうか。それを押す強さ、あるいは強さのもとのようなものがあってほしいと思うのだろうか。あってほしいと思うのと、あると思うのと、後者の方が強い。誰がどうであろうとだいじょうぶであるように、もう決まっているのだと、神さまが決めたのだと思えた方がその規範は安定するし、日々思い煩わずにすんでよいかもしれない。強い信が得られ、気弱にならずにすむかもしれない。だから、自分がどう思うのかと別に、それはすでに命じられ決められたこととしてそこにあった方がよいのかもしれない。しかし、残念ながらであるのか、残念ながらでないのか、信じようにも信じることはできず、かえってそのような水準に訴えると、嘘のようだと思えてしまう。人々は、人々に押しつけたいものを人間の上の方に持ち上げるという仕掛けを知ってしまっているから、この所作はあまり効かないのかもしれない。とすれば、かえって人間界のこととして語った方がよいのかもしれない。あること、あるいはあるという言い方が、なにか天から降ってきたようで、どうも実感できない、嘘のように感じられるという人がいたら、人が、そのようであったらよいとどうやら思っている、そういうことのようだと答えるしかない。

6 多数性・可変性
 1 並存していること変わること
 人の存在の様態、その様態に対する私のあるいは他者たちの好悪といった受け止め方を超えてその存在を認めようとするのだと述べた。しかしもちろん、そうした好悪が存在しないなどと言っているのではない。そうしたものにおおいに左右されて人は生きている。
 私が私のことを気にすることが時代・社会に規定されていること、このような自己のあり方が近代の社会に強くはっきりと現われたものであること、このことは言えるだろう。ただ、自分を評価すること、また評価されることから完全に抜けられるだろうか。そんなことはたぶんないだろう。気にしなければよいと言われても気になるだろう。自身を気にして意味づけることはいくらかは無歴史的なことであるかもしれない。むしろ、そこから意識的に脱しようとするなら、かなり立派な人にならなければならない。あるいはもともと立派な人でなければ無理かもしれない。人は自分のことを気にする。社会の中で、私は私の見え方を気にする。自分には自分の誇りというものがある。そしてそれは所属する集団への貢献だとか、そんなものに関わる。そうしたものは、よほどよくできた人間でなければ、いくらかは存在するはずである。
 しかし第一に、最も基本的なことだが、ここでは生き死にが天秤の一方に載っている。生きていく上でさまざまに悩ましいことがあるのは仕方のないことであり、またときによいことであるとしても、それらが、生きるのをやめるほど重たいものとして深刻なこととしてあるのはやはり変なことではないか。そのように言っているだけだ。
 第二に、たしかに人は様々を気にしてしまう、そこからは逃れがたいと言ったらよいのだ。それを全部否定しようとすると、否定しなければならないと思うと、どうもそんなことは難しいと思ってしまう。だが、そう思ってしまう人自身も、どちらか一方であるような私のあり方を前提にしているのではないか。そう思わなければならないことはない。人は複数の、ときに整合しない価値・欲望を自らに有している。その当然のことを認めないことによって、不要な択一を迫られてしまうことがある。一方で様々にわりきれない、あるいは自らに対してあるいは他者たちに対して否定的な感覚を撲滅しようとしても、それは無理なのであって、それはそれとしながら、しかしそれで人の生き死にが決まればよいと思っているわけではないことがわかればよいということだ。きれいさっぱり過去を否定したりしないとやっていけないといった場合もあるにはあるだろう。しかしそれはなかなか難しくもあるし、またそこまでのことがいつも必要であるわけではない。場合によって場面によって、その重みをいくらか軽くしようというだけのことだ。
 忌避の感情があることはあるだろう。おそらくは人が生物であることにも関係して、自然界のある部分に嫌悪・忌避の感情があるのと同様に、人のある状態に対して否定的な感情をもつように仕込んであることを認めてあげてもよい。それは、慣れたりするものでもあるのだが、みな「社会的に構築」されていると考える必要はない。またそうした感情を無理して否定することはない。でないと、人が緩慢に朽ちていくのを見よという、その「自然」に寄り添えという、自らがそれに耐えよ、さらに肯定せよという強い要請をしてしまうことにもなる。かつての「死を思え」は、神による救済を願えという解を導くものであったのだが、これはそうした解決を与えるのでもない。とするとそれはむしろ困難を与えるものではないか。そしてむしろある対象を否定してならないと思うときに、その対象を憎悪してしまうことがある。あるいは憎悪する前に、自らから遠ざけようとする。あるいは、尊厳がどうしたとか、別の言葉でそのことを言うことがある。そうして人を、そして自らを自らから遠ざけようとするのだ。
 だから、嫌悪やとまどいを無理にないものとしてしまうことはない。自然が多くの相をもつように、人のあり様もまた肯定したり否定したりすればよい。例えば、死に際にすこしばかりの処置をして、自然な安らかな表情に作ることも行なわれている。苦悶の表情のままに亡くなり、そのままに固定されるのはよろしくないというのである。このような意味では自然な死は作られている。私はそれがわるいことだと思わない。それは、いささか姑息なことではあるとしても、そんなことをしてならない理由もない。
 第三に、並存してかまわないのと同時に、変化してしまえばよいのだ。
 様々あるなかで随意に変更できないもののことを私たちは感情と呼んでいるのかもしれない。好みは変えようと思っても変わらない。そのことを全面的に否定することはできないだろう。ただ、もう少し正確に言う必要がある。一つには、意志的な制御と対照させ、自然なものとして、制御できないものとして感情を置くという浪漫主義的な動きがあるだろう。実際にはそんなにすっきりとは分かれていないのに、分けられてしまう。実際には、変えようと思ったからといって変わらないこともたしかにあるのだが、変わることもある。そしてそこには、変わりたい、変わるとよいという感情もまた関わっていることがある。変わればよいと思っているときには、変わることがある。だから、価値を変更すればよい、価値が変更されればよい。
 それはすこしずるい感じがする。今までは「実社会」で、そこにある価値のもとで、つまりは健常者向けの価値でやってきた。その価値は、そうしてまわっていく社会では効果的なものでもあったし、その人自身にしても、その社会でうまくいっている限りにおいては、この価値を受け入れることで利益を得ていたのでもある。しかしそのままでは、これからは自分は否定的に価値付けられることになる。それは生きづらい。そこで価値観を変えてしまう。変わってしまう。それでよいではないか。
 自分に都合よく価値を変えてはならないという価値がある。それはもっとな価値のように思える。しかし都合のよいこと自体は悪いことではない。そして変わった方の価値は間違っているか。間違っていない。ならばよい。つまり、変わった後の価値がもっともなものであるなら、変わることによって生きることが容易になることがよいことであるなら、それでかまわないはずだ。
 こうして、若い時に若いことを価値とし、年をとってから年をとっていることを価値とすることもわるいことではない。働ける時に働くことを価値として仕事に精励することは、働かせる側にとって都合のよいことであり、それに充足感を感じられるなら、働く側にとってもわるいことではないとしよう。だが、働くことができなくなって、そのままの価値では気易く生きていくことができないなら、それを変えればよい。最初から「実社会」で生きていくのに不都合な身体をしているなら、そこにある価値を否定しないことにはうまくやっていけない。ただ、他方の人たちは、人生を始めてかなりの時間が経ってしまってから、そんなことになったから、変化させることが困難になる。だが必要である。
 「ナラティヴの書き換え」などといった言葉がある領域ではすこし流行のようだ。そして私がここで述べたのも書き換えてしまえばよいといったことではある。ただその領域において、変更について、考えられ言われるべきことが、どこまで考えられ言われているかは疑問だ。まず、変更ならなんでもよいのか。もちろん誰もそのように考えてはいないはずだ。よい変更がよいとされる。ではそのよい変更とは何か。その人にとってよい変更だとされる。しかしここでは価値の変更も含まれるのだから、その人に聞いて得られた答がそのまま採用されることにもならない。ではどう考えるか。なにをよしとするかという価値は可変的であるとしても、ではそのときに都合のよいものであればなんでもよいということにもならないだろう。そんなことがあまり考えられていないと思う。ある出来事は起こってしまったとして、その記憶そのものは変えられないとして――しかし変えられるとしたら、なくせるとしたらどうか――、その意味合いを変更すること、例えば自分を鍛えるものであったと積極的に理解しなおすようにさせること、それがいつもよいことであるとは言えないはずだ。この本で考えている主題についてなら、その問いに私は答えた。ここで、死の方に促す価値から、その手前でしばらく留まろうとする価値の方に変えてしまうことに問題はない。それは正しい。
 
 2 死に賭けられているものを軽くすること
 次に、変更が実際に可能なのかということだ。変えられるものと変えられないもの、変えやすいものと変えにくいものがある。そしてそれは、記憶の強度や、ある価値を携えて生きてきた時間の長さなどにも関わるのだが、それだけでもない。この社会があることにどれだけの重みを与えているかにもよる。
 だいぶ前のことではあるが「人間の終焉」といったことが言われたことがあった。なんだかよくわからないまま、それはその通りだということにされたのだと思う。ではその人間は消えてなくなったかと言えば、そんなことはない。むしろ、人間的なことごとは近時ますます繁茂している。辻褄があっていないのではないか。どんな具合になっているのか。
 「本来の人間」といったものはたしかに存在しないのかもしれないけれども、一貫して固定した自我といったものは不人気なものになったが、その時々の私のあり方は大切であって、それに気を遣って人々は生きている。一つにはこんな説明になるのだろうと思う。そのようにして帳尻が合わせられているのだと思う。
 この社会は人に一貫性を求める社会であるのかどうか。それはいちがいには言えない。一方では、社会が複雑になり、様々に機能分化して、その場所場所に違う私がいるという具合になっているのだとも言われる。言われるとそのようにも思える。他方、依然として、人格の一貫性もまた美徳であるとされている。そしてそれは、あらかじめその本質として固定されたものではなく、なにごとかをなしたり、あるいは実現しないとしても探求したり作り出したりすることが、その人の固有性を、その営みによって形成していくのだといった理解がある。
 それは近代と異なったポスト近代のあり方であるといった理解もある。ただ私はそう大きな変化があったとは思えない。そして、その辻褄の合わせられ方、私という存在の分散や集中のさせられ方が、思うに、あまりよい具合になっていない。働く場所と遊ぶ場所での自分を使い分けることは、都合もよいだろうし、必要でもあるだろうが、それだけのことである。そんな使い分けは当たり前のことであって、とりたてて言うほどのことではない。むしろ特定の場面――ここでは死に向かう場面――を気にしてしまうこと、力が入ってしまうこと、そこに私が賭けられてしまったりすることをすこし不思議に思い、気にしたらよいと思う。小泉義之の『病いの哲学』から一箇所を引く。
 
 「誰も私の代わりに死ぬことはできない。それはその通りだろう。しかし同時に、誰も私の代わりに飲食したり、排泄したりすることもできない。にもかかわらず、どうして、ことさらに、飲食や排泄ではなく、死だけが、代理不可能性を示すものとして、すなわち、代理不可能な代理不可能性として言挙げされなければならないのか。」(小泉[2006a : 62])
 
 ハイデッガーについて書かれているところだが、これはもっともな指摘だと思う。私も、個性・個別性・固有性について言われていることには様々におかしなところ、間違っているところがあるように思ってきた。例えば、別の人たちとの差異によって、その人が個別で固有の存在であるわけではない。差異はなくても個々の存在は個々の存在であるに決まっている◆32。
 そんなことを一つひとつ確認していくのがよいと思う。死(に関わる決定)には随分のものが賭けられているし、一貫性が求められている。その決定に至る理由とされるものも随分重いものとして勘定されている。
 例えば「事前指示書」などと呼ばれるものがある。予めどのように死ぬかを決めておこうというのだ。もちろん後で気が変わったらそれを変更することはできるとされてはいる。しかし変更できるのであれば、変更可能なその時にはじめて指示すればよいのだから、その手前で決めておく必要もまたない。変更の指示も含めて指示が困難になる場面を見越して、そのような場面にいない私が予め決めているということである。
 まずそれは自分のこととして決めていると言えるのかと問える。ことのよしあしはともかく、それは私の私についての行ないであって、またあなた方には迷惑をかけていないのだから、何も文句を言われる筋合いはないと言われることに対して、この場面でそう言えるのかと問うのである。このことについては第1章3節で考えた。言えないことがあることを述べた。自分のことだと言われるのだが、たとえば認知症になった未来の私を否定し、認知症が進んだ時の私を否定して死のうとする私は、今の私でない未来の私を、今の私のようでないがゆえに否定している。ここにはそうなった私も私だという連続性の意識はあるだろう。しかし、その私は、今の私ととても大きく違っているからこそ、その存在の消去を予め決めておこうというのである。そして、実際に認知症になった私は、そんなことをかつて決めたことをもう忘れているかもしれない。自らが知らない決定によって自らは死ぬことになる。このようなことが、私のことだから私が決められるという理由によって正当化されうるものなのか。私にはそう思えない。他人によって決められていると言ってよいぐらいではないか。
 ただ、今現在の自分が今現在の自分を知って、もう死のうということもある。そう思ってしまうのだから仕方がないと言われる。この場合にはどのように返したらよいだろう。
 そう思ったこと、すくなくともそのように言おうと思ったことを否定することはできない。しかしそれで終わりにはならないはずだ。そう言ったのは思い詰めた上でのことなのかもしれないけれど、しかし、それだけかと、ずっとそうかと、これからもそうかと言って、しばらく待ってもらうことはできる。この場面で、価値が変化すること、欲望が複数であることの可能性がないことにされているなら、それはやはり不思議なことであり、作為的なことでさえあるかもしれないと疑ってもよいぐらいである。
 人が人をしている限り、人であることから抜けられない部分はあるのだろう。それは快でありまた生きがいでもある。ただ、そのことはそれとして認めながら、人のあり方についての価値の形状について、いくつか緩めてかまわないことがある。賭けられるものを軽くすることはできる。そしてそれを人は望んでもいる。
 
7 肯定するものについて
 1 世界の受領
 安らかな死などと言わず、生者の悲惨から出発しもしながら、その人の存在を認めることがあったと述べた(第4節)。そして認める時、また自らの生を認めよと主張する時、それは、誰をも、どんな誰をも認めることになるのだと述べた。ひとつひとつの好悪の感情と別のところで、人の生存・生活を肯定しようという態度がある。それは天から降ってくるものだと考える必要はない。そうした態度をとることを人が欲望している(第5節)。同時にもちろん、人は様々を纏い、そうして纏っているものを気にすることから逃れられないし、逃れる必要もない。ただ、都合のよいように自らの基準を変えたり、何かを忘れたことにすることはできるし、そうすればよいと述べた(第6節)。
 ただそれにしても何を肯定するのか。私(あなた)がなんであれ、あなた(私)がどう思うのであれ、私(あなた)を生かせ(生かせよ)というあり方があることはわかったとしよう。しかし、そうして、なんであっても、と言って条件を取り外していって残るものは空白なのだろうか。私に様々な事情や感情があっても、それをそのままあなたに通してならない押しつけてならないと私が思っているという事実は認めた上で、そうして通さないことによって何が保存されるべきだと、何が肯定されるべきだと私は考えているのだろうか。また私はどうして私のしかじかによらず私が生きられるようであってほしいと思うのか。
 生きたい理由、生かせたい理由は、具体的には様々ある。それをここで集めて分類したりする必要はない。人の属性から、また人の属性に対する選好から、人を肯定することが必要でないことを述べたのだから、肯定されるべき属性を数えあげる必要はない。ただ、そのことは踏まえた上でも、なお幾つかをあげることはできよう。あるいは今まで述べてきたことから言えることがあるはずである。
 生物は本能として生存を求めるといったことも言われる。そういうものなのかもしれない。そして、人間たちが観念として死を知ってしまったことがある。そのことに関わる恐さがあり、それをふだんはそう気にしないとしても、例えばその到来の確実な時がわかってしまうといった場合にはやりすごすことも難しい。そのことは、とても当たり前のことではあるが大切なことであって、尊厳死を巡る議論において、こうして素朴に観念的な恐れがしばしばないかのごとく話が進むのは不思議なことでもある。
 どんな私であれ私がこの世に生息できるなら気が楽だと思うのではあるが、生き死にのことはやはりより深刻なことではあるのだから、そのことは忘れてはならないと、ごく当たり前のことを述べた。ごく当たり前だが看過されてしまうから述べた。よいことがべつだんなにもないとしても、恐いものは恐いのだから、そのことをないかのようにして話を進めるべきでないということである。そのことは忘れないようにした上で、より積極的な理由について。
 別の本に書いたことも含めこれまで述べてきたのは、そして次の章でも述べるのは、生がどれほどよいことであるのかと別に、それを(自ら)否定するその理由がさほどの理由でないということである。基本的にそのように考える方がよいと思っている。生を肯定する理由が失われた時に、死んでもよいということになる。生を肯定する理由が死を肯定する理由にもなってしまう。私に、また他人たちにそのような条件が付与されることを望んでいないことを前節までに述べてきた。
 ただ、そのことは、肯定するなにごとをも言えないということを示すものではない。例えば第4節で身体への加害を指弾した人たちは、人の身体を含む自然を肯定していたのだった。第1節に述べたことをみな受け入れ引き継いだ上でなお、破壊すること、あるいは破壊しなくても改変することがよくない、そのような意味で「自然」を言うことがある。世界があったらよいという感覚が私たちにはある。
 その感覚は何に発しているか。よくはわからない。幾つかがあるはずだが、それぞれがどれだけを規定しているのかはわからない。
 ただ一つに、人間は自然をけっして凌駕することはない。この事実は否定できない。人々はなにがしかのことをするのだが――そしてそれはたしかにときに途方もない効果、例えば全生物の死滅といった効果をもたらすこともできるのではあるが――それは常に、自然の全体の中で起こっていることの中では、ほんのわずかなことでしかない。その総和としての自然にけっして達することはできない。これは自明である。人間は自然を破壊することはできるのだが、それでも常に自然は人間たちよりも大きい。あるいは精妙であったり複雑であったりする。このことは私たちに畏怖の念を起こさせる。
 もちろん私たちはそれをそのままに受け取っているわけではない。たんに自然であるからではなく、美しいからよいものだと思うことがある。つまりもう一つ、人は自然が美しいと思ってしまう。同時にある部分を忌避してもいる。選別している、例えば腐ったものを避ける。生存に都合のよいようにそのように感じることになっているのだと言われると、そのようにも思う。では美しいと思う方はどうなのだろう。同様の説明があるのかもしれず、それはいくらか当たっているのかもしれない。またその「美意識」によって選択したり整形したりすることがある。そして手を加えない、偶然性に委ねるといった営みそのものが人の選択であり営みであったりもする。また、自然は暮らすための手段でもあるから、手を加える。それは必要なことである。そしてそうして変形された自然を、英国の風景にしても、日本の里山にしても、見ている。このことをもって、天然の自然といったものがないことが指摘されることはあり、それはその通りである。しかし、だからといって、そのことが自然の優位を覆したり、自然への畏怖をなくしたり減らしたりするなどということはない。
 そして、まったく明らかなことなのだが、この意味での自然への畏怖や世界に対する愛着は、生きていられる時間を短くすることを、その意味での「自然な死」を肯定することには結びつかない。その自然・世界を感受していることが長く続けばよいと思うからだ。死後に今の世界とはまた別の世界があって、そこでまた受け取れるものがあるとしても、そのことについて多くの人は十分な確信を持てているのではない。また、十分に信じられる人にとっても、その信心はこの世における世界の受領を止めたいと思わせることはない。
『ALS』に「その先を生きること1」という章があって「世界の受信」という節がある。
 
 「見るものといえば病室の天井だけという状況に置かれつづける人がいる。そして、呼吸器を付けると天井を見たままずっと過ごすことになる(過ごすことにしかならない)から人工呼吸器を付ける付けないの決断はよく考えた上でした方がよい、と言う医師もいるし、学会のガイドラインにもそんなことが書いてある[499]。もっと率直な人の中には、呼吸器を付けて生きていてよいことはない(「低いQOL」しか得られない)、だから、付けない方がよいだろう(死んだ方がよいだろう)と言う人もいる。
 もちろん、それに対しては、もっと別のものが見られればよいではないか、「花鳥風月」に接することができるようであればよいではないかというのが、より素直な答である。
[419] 西尾健弥[269]は、日本ALS協会の事務局長をつとめた松岡幸雄に、生きていれば「春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景色が楽しめるではないですか」と言われたという[269]。それがどれほどに受け止められたのかは書かれていないが、西尾の死後も残されている彼のホームページ(西尾[-1999])には庭の雪景色の写真と「(これは我家の庭の雪景色、この景色を眺めながら入浴します。)」という短い解説が付されている。
[420] 土屋とおる[247]。山梨県立中央病院。「病室で富士が見えるようになったのも、看護婦さんのはからいであった。長いこと天井ばかり見ていたのでは、気が滅入ってしまうからと寝台の位置を変えてくれたら、全く別の世界がひらけてきた。そこには富士が見えていた。」(土屋[1993 : 9])
 そしてむろん感覚は視覚だけでない。
[421] 知本茂治[399]。一九八八年七月、鹿児島大学医学部付属病院。「四年半ぶりにお茶が喉を通ったとき、いま使っているこのパソコンを初めて使ったときに覚えた興奮と同じ興奮を覚えました。それは『生活が広がる』という予感だったのです。」(知本[1993 : 135])
 一九九二年八月。「スズムシたちもじっとして動かない昼過ぎの一番暑いとき、病室に来た看護婦の赤松さんが、涼しげなガラスのコップを用意し、クーラーのスイッチを切り、お盆だからという変な、それでも私にしてみればうれしい理由によってビールを飲ませてくれました。[…]コップのビールはガラスの注射針で私の口の中に注がれ、食道に冷たい感触を伝えながら元気な泡と一緒に胃袋に入っていきました。[…]毎日お盆であればいいのにとも思いました。」(知本[1993 : 273])」([2004f : 275-276]、[ ]内の数字は『ALS』で引用した文章につけた通し番号)
 
 2 私に向かわなくてもよいこと
 その本では、その後もいくつかの引用を連ね、そして次の節は「送信」という題で、そのことについて記した。受信と送信とどちらが大切か。これは妙な問いではあり、そしてどちらも大切だというのが正解なのではあるだろう。ただ、送信は、痒い時にかいてくれと伝えるというように、まず手段として必要である。そしてその手段が自動的にうまく調達されているのであれば、つまり痒いと伝えなくてもかいてくれるのであれば、あるいは痒くなることがないのであれば、送信の必要もまた減ることにはなる。
 それ以外に、人は交信したいから交信する。それは多くの人にとって大切なことではあるだろう。この場合には、送受信の双方を要する。ただ――普通の意味合いにおいては――受信しかできない時にも、たとえば呼びかけられているなら、そこに呼びかけられそれを聞いている感じているという関係は成立している。
 それ以外に何があるだろう。自らを表出する。自らについて、また自らに起こっていることについて、なにごとかを考え、なにごとかを語る。そんなことをしたいことはあるし、またあってよいだろう。ただ、この場合でも、仕方なく語らねばならないということがある。つまり、相手が間違ったことを言うことがある。とくに自分に関わることについて、自分のことについて、間違いを語ることがある。それは間違っていることにおいて不快なことであり、その結果自らによくないことが起こることにおいて迷惑なことである。だから、本人が自ら違うことを、間違っていないことを語らなければならない。ただこの場合にはやむをえず語っている。先方が間違ったことを言わないのであれば、こちらとしても抗弁する必要はない。
 それ以外に、語りたいから語る。語りたいという思いがこの世にあること、そんな思いをもつ人がたくさんいるのは確かであり、そしてそれもよい。ただ、考えたり語ったりする営みに、それ以上の、それ以外の意義があるように言われるなら、よくわからない。
 「語り」「ナラティヴ」が肯定され、称揚されることのわからなさの一つはそこにある。他人が、例えば医療者が、なにかおかしなことを言う。他方で、自分の言うことは聞かれない。それでは困る。そこで自分が語るからこちらを聞いてくれと言う。これはよくわかる。うれしいことがあったので、語りたくて語る。混乱しているので、辛いからそのことを語ったり、いくらかは楽になるかと思って、その混乱を語る。そんなこともある。それもよい。
 けれども、生きていることについて、病みながら生きていることについて、生きているが病んでいて、死に向かっていることについて、そのことを、あるいはそれがどんなことであるかを考えたり、考えたことを書いたりすること、自分にそして他人に向けて語ること、それらはみなわるいことではないが、格別によいことではない。またなされるべきことであるとも思われない。さらに、それが生きていたり、病んだり、死んだりすることの意味を与えるものであると思われない。
『唯の生』でも述べることだが、私は、生命が維持されていることそれ自体に格別の価値があるとは考えない。その意味では、絶対的な生命尊重の立場――が本当に存在しうるとして――には立たない。その生命になにかがあるから、なにかよいことがあるから、その生命はあった方がよいと考える。しかし、そのよさが、自分が何かを保っていること、自分を探したりわかったり伝えたりすることにあるとは考えない。自らを探求して何かが見つかることがあるかもしれないけれども、そうたいしたものが見つかるわけでもない。あるいは探求自体に意味があると主張されるのだろうか。とすればなおわからない。なぜそれがなされるべきなのか。その理由が、私にわかるように示されたことはない。
 世界の方が常に私よりも大きいし豊かである。だから、それを享受することの方がより大きくよいことだと考えるのが当然であると考える。そしてその世界は私の身体の内部でもあり、その世界の感受とは、身体の内部がいくらか暖かい感覚であったり、液体が体を通っていく感触であったり、体表に光が当たっていることを感じていることであったりする。私がいなくなっても世界は残るのだろうけれども、私において存在する世界は、私がいなくなったときに消えてしまう。それが惜しいと思う。
 他方に、無に向かう傾性といったものもまたあるのかもしれない。しかし、死は無の無でもあるのだから、無を望む人は死を望んでいるわけではない。多く、無の状態、というより静寂な世界が望まれている。世の中に様々なことが起こってしまうそのこと自体ではなく、起こっていることの中身が気にいらないのだ。この世には様々なことが起こり、そして疲れてしまう。そこでこの世から逃れたいと思う。人間界が辛いので、あるいはその世界に愛想をつかして、そこからいなくなろうとする。そしてそのようにこの世に起こり人々を煩わせている出来事は、人間的な出来事であり、さらに私に関わり私に貼り付いてしまった出来事である。忘れようとして忘れられない出来事もある。例えば強制収容所での体験があり、それから逃れることができず、そのために自死するしかなかった人がいる。その体験がなければよかった。しかしもうそれは起こってしまった。そのことから逃れるすべのないことはある。ただ、それはすくなくとも人間たちの問題である。
 起こらないこともできたのに起こってしまい、そしてそのことを、自分もまた人間であることによって、完全には切り離すことができない。それは、自らがどうすることもできなかったとしても人の行ないであったことによって、その人は打ちひしがれている。そこから逃れる術が確実にあると言えない。そして、ある人が死の手前でその経験を語ることは、証言・警告として有意義である。また、それを語ることを人々が懇願することもあって、そのことは、控えめであるべきではあるとしても、認められてよいことであるとしよう。ただ、その時でも、語るべきであると言えるかどうか。語られないと、人はまた悪事をしでかしてしまうだろうから語るとよいと言えるとしても、しかし、本来、具体的な証言がなくてもことのよしあしはわかるはずなのであって、ならば、やはり強く求めることはできないはずである。
 この近代という時代も始まってしばらくが経って、自らを保ち、育て、そして何かに打ち克つという物語がいくらか下品なものであることは感じられるようになった。そしてすくなくとも衰弱し死に向かう過程において、この物語を語ったり受け入れたとして、よいことはそうはない。そのことは自明である――自明であるにもかかわらず、とても多く語られているのだが。ただそのことをよくわかりながら、別の語り方によってではあろうし、その語り方は固定されていないのだろうし、その目標も定められることはないのだろうが、探求すること、そして語ることが推奨されることがある。そしてそのような語りが、近代の次の時代の語りであるとされることもある。
 しかし、語ってよいこと、事態を悪くしないために語るべきことがあることを、以上述べたように、おおいに認めるのだが、やはり、それを求める必要はないのだし、語りたくない人は語らなければよいのだし、語りようのない人は語りようがないと思えばよいのだし、既に語られない人は黙って生きていればよい。そして考えてみれば、この時代における自己とは、ずっと、なにか固定されたものでなく、探求される先に見出されるかもしれないもの、あるいは探求していくという行ないそのものが指し示すところのものではなかったか。だから私には、ここになにか格別に新しいことが起こっているとは思えないのだ◆33。
 知ること、探すこと、探し続けることはわるいことではない。それがよい人には、よいことであるかもしれない。しかししなければならないことではない。自らの病の意味を探すことが病を抱えて生きていることの意味であるとされても、探しても見つかないことはある。その場合には見つかることが最重要なのでなく見つけようとすることが大切だと慰めてもらえるのだが、しかしそれでも何かが見出されると思えないし、その営みに意味があると思えないことがある。そのように思うのはもっともである。そして探す気力もないことがあり、すでにその種の営みを終了してしまった人がいる。病人に推奨される探求と表出の営みは、既に非力であり自身の身体や世界に対する物理的制御能力を失いつつある病人に配慮した営みではある。それでも、その奨めはよい奨めではない。自分のもとにあるものを探し出すより、自分を囲むものの中にいた方がよい。
 そして、世界をそのようにして受け取っているのは生きている一人ひとりである。その人それぞれに世界がある。人によって見えようが違うということはあるだろうが、同時に、それぞれの世界はそう大きくは違わないのかもしれない。しかし、繰り返すが、違いのあるなしとそれぞれが固有のものであるか否かとは別のことである。その世界に特別に存在するなにかによって、その世界の固有性が存在するわけではない。それは固有であるしかないものである。生命が終わるということはそのことが終わるということであり、消えてなくなるということである。それを失わせることはよくない。
 そのように考えず、別の準位に肯定されるものを置くことによって、ただ世界があってそれを感受している人の存在が否定される。そうして死が肯定される。それらが私たちの社会にあって選ばれる死のなかのどれだけに関わっているのかはわからない。ただ、様々を失う中での、あるいは失うことが予想される中での死の多くに、それは関わっている。そしてもちろん、まったく現実の困窮による死がある。その困窮は私たちの社会における所有・私有の制度のもとでの困窮である。それと接しながら、自らに対する不満による死が、いかほどかはあるようだ。しかし、それは自らを――満足せず自足せずしかしよりよき方向に向かうことも含め――肯定することがよいという教説――死の方に向かいがちな人の「自己評価」を高めることでそれを予防しようといった策も含む――のもとに発することではないか。それよりは――人間が世界に絡んでしまうとしばしばなかなかうまいぐあいにことは運ばないのではあるが――世界においてその受信者となっている方がよい。
 こうして、自然―人間界の様々なものを好きなようにすることは控えるべきではあるが、一身の生存のためのことは、いくつかのことに気をつけながら、した方がよいのだという、陳腐といえばまったく陳腐な処世の術が導かれる。
 
■■註
(1)たとえば「人工的な延命」については以下の記述([2004f : 214]に引用)。
 「じつのところ、どこまでが自然の生で、どこから先が人工的に生かされることになるのか、その境界をどこに置けばいいのか、私にはわからない。」(川口[1985 : 72])
 「「いま食べている刻み食も、延命工作ではないだろうか」/と、人は言う。/その通りだろう。この病院に入院させていただいたのも延命策であり、訓練に励み、なるべく起きていようとするのも延命策だ。医療費の補助を受け、障害者年金をいただいていること、その他、すべてのものが延命に結びつく。」(川口[1985 : 75-76])
 「以前、病院のカンファレンスに「人工的な延命とはなにか」というテーマで話し合われた時に、現在、私がお粥と刻み食を食べさせてもらっているのが一つの人工的な延命ではないかと指摘された。これ以上延命を望むのは約束違反になるのではなかろうかと、胸にグサリと刃を突き刺されたような気持がした。」(川口[1989 : 53])
(2)『私的所有論』で加藤秀一による批判を引いている。
 「「『類的種族としての人間存在の認識』(畦地[1987 : 187])といった全体主義(『種』主義というべきか)は反差別運動の射程を根本から掘り崩す倒錯であるように、私には思われる。女性も障害者も、その解放運動の出発点は、自らを、他に置き換えのきかない一人の人間=個人として認めよという叫びではなかったか。個人は種内の遺伝子の多様性を保存するプールとして価値があるのではない、という思いに立ち帰ること――障害者運動とフェミニズム運動は、個人の尊厳の擁護というこの出発点を徹底して共有するところから、生命の質を一元化する優生思想に反対するという、原理的な共存を獲得できるはずだ。」(加藤[1991])この箇所に付された註には、「より典型的な表現は同じ論集の中の山下恒男の文章にみられる。そこでは『個体と種を二つにして一つのもの』とみる今西進化論の『おおらか』さが称揚されている」とある。ここで加藤が言及しているのは山下[1987 : 388-389]。著書(山下[1977])にも同様の主張が見られる。/本書を通して言おうとしたのは、これらと別の立場である。」([1997 : 442])
 個人に対して共同性を対置するという論が、私たちの前にあった。たしかに共同性が大切であることを認めながら、そしてそのことだけを言ったわけではない――いまの引用では畦地豊彦や山下恒男といった――人たちにいろいろと教えてもらいながら、ただそれを称揚すればよいというものではないだろうと思い、そのことをどのように言うか、それを私(たち)は考えてきたのだと思う。『唯の生』で加藤の『〈個〉からはじめる生命論』([2007])を検討する。また畦地は『ALS』の書評を書いてくれている(畦地[2006])。「安楽死を認めるのも禁ずるのも、どちらの方に向かっても無理がある。死にたくないが死にたくなる事情を減らすのが基本的な解である。それでは答にならないと言われるなら、それは違うと、以上を確認することに意味があると答える。」([2004f : 398]、第12章10節「補:死の自由について」)といった箇所が引用されている。
(3)他に次の文をその本の冒頭([2004f : 9])に引用した。
 「サイボーグたちは、真の生命/生活を得んがための犠牲といった発想をイデオロギーの源泉とすることを拒む。[…]生存こそが最大の関心事である。」(Haraway[1991=2000 : 339])
 ハラウェイ、サイボーグ・エシックスについて、他に巽孝之編[2001]、高橋透[2006]、ハラウェイへのインタビュー他の翻訳として Haraway & Goodeve[2000=2007]。
(4)自らの身体、あるいはその身体に接続したりその周辺にある様々について、またそれらの様々の働きについて、それらにどのような意味・重みが付与されているのか、それを調べてみるのもよいだろう。ただ、ここで、どこまでが自分かという問いの立て方はどれほど大切か。
 装着されている器具や機械に最初は違和感があるが、だんだんと慣れていって、意識することがなくなるといったことはあるだろう。そのことについて様々な感情があったり、あるいはなかったりする。そこで聞いてみると、その機械は自分の一部であると言う人もいるだろうし、一部のようなものだと言う人もいるだろう。そうは言わない人もいるだろう。それは自分なのかと問われたら、問われる人も困るかもしれない。自分の身体とはもって生まれた身体のことだという了解があるだろう。また、しっくりした感じがする、親しい感じがするといった意味合いも含まれているだろう。その言葉自体に幾つも意味がある。そして、自分の/自分のでないという区分自体にさほどの意味がないことがある。
 そして、このことは、個体の固有性や私の私性が大切でないということを意味しない。次に、固有性や私性は連続性や一貫性と同じではない。
(5)『カニューレはピアス――花田貴博さんの計画的気管切開』『ベンチレーターは自立の翼――ベンチレーター国際シンポジウム報告集』(ベンチレーター使用者ネットワーク編[2004][2005])といった冊子、本がある。
(6)このことについては『私的所有論』第6章2節「主体化」([1997 : 223ff.])に述べ、「停滞する資本主義のために」([2001c]、そのことを記した部分は[2006e]に収録)にも記した。欲望のかなりの部分は有限かもしれない。なすこと、得られるものと自らとを強くつなげる装置がある時に、なすことや得ることの価値は強くなる。そしてそのことと死の方に向かうこととはつながってもいる。
(7)このことを『私的所有論』第4章5節2「単なる快と不快という代償」([1997 : 156-162])で述べ、『現代生殖医療』(上杉富之編[2005])所収の「そこに起こること」([2005c])で繰り返した。
 「第一に「医療」を受けること、技術を使うこと、それ自体というよりそれに伴うことについて。とくに体外受精については女性の側の負担、支払いが大きい。マスメディアで報道されるのは、奇妙な宗教団体がクローン人間を誕生させたとか、実はそれはデマだったとかいった変わった事件である場合が多いが、実際に行われていることの大部分は「不妊治療」と呼ばれるものであり、多くはまったく地味で地道な行ないとしてなされる。不妊は意外に多く、そしてその要因は男にも女にもあるのだが、例えば男の乏精子症と呼ばれるものに原因がある場合でも、体外受精のための「治療」を受けるのは女であり、病院に通うのは女である。その人は時間を犠牲にしているし、時間だけでなく、自らの身体の状態について、医師の指図に従い、いつもと別の仕方で気をつかったりしなければならない。そして結果としてうまくいく確率は高くない。この技術は、女の人に対して、その人の身体に対して、加害的である。これは地味なことなのであまり多く語られることはないが、依然として大切なことであり、押えておくべきことだ。なおすことがよいことだとしても、そのためには支払うものがあって、だから常になおすことがよいことだとは言えない。またこの社会では、努力し達成することが持ち上げられ、他方で身体や生活に生ずる苦痛は小さく見積もられてしまう。このことについては「なおすことについて」([2001d])を見てほしい。
 第二に欲望について。「不妊治療」を受けて子どもをもとうとする行ないがある時、多くの場合、病院に通うその人以外の欲望が大きく介在する。ここに一般的な病気の治療との違いがある。他の病気の場合でも、その人になおってもらわないと都合がわるいといった事情が絡むことはあるから、それは絶対的な違いではないが、それでも普通はまず病のために苦しく、病気をなおしたいのは本人であり、なおってほっとするのは本人である。それと、移植のために腎臓の一つや肝臓の一部を取り出す手術を受ける人や、生殖医療を受ける人の事情とは異なる。その女性も子が欲しいと思っているとして、それととともに、ときにはそれ以上にそれを願うのは夫であったり親であったり親戚であったりする。
 こうして、他人の欲望が含まれていることの実現のために自分の身体を痛めなければならない。これは「犠牲」をどのように捉えるか、また伝えるかという問題である。人のために自分が苦労することは麗しいことではあるだろう。このことを否定する必要はない。しかし犠牲とは、周囲から見れば、自分たちに都合のよい結果を得るためにその人が苦労している(苦労していて、周囲の人には都合がよい)ということである。だから、言い方が少し難しいのだが、自己犠牲的な行ないを称賛するとしても、しかしそれを推奨することには慎重でなければならないとは言えるだろう。少なくともそれを他人が要求してはならない。とくに体外受精等の場合、自らの身体を受容すること、そのままでいることが妨げられる。それは技術の進歩によって解消されるだろうか。少なくとも、身体を使うものである限り、そして身体の機能不全を技術によって補うものである限り、身体と技術とが接触する面における接合のわるさはなくならず、苦痛・苦労がまったくなくなるとは考えられない。だからずっと注意すべきことであるはずだ。」([2005c : 124-125])
(8)そうした文章はたくさんあるのだが、例えば岩波新書で出ている小澤勲の『痴呆を生きるということ』。この本は、多くの人に読まれている、認知症の人たちについてのとてもすぐれた本だが(『生死本』で紹介する)、その中に著者の知人としてそんな人が出てくる。
 「彼女は医師を問いつめ、余命いくばくもないことを知った。彼女は医学的治療が単なる延命をもたらすだけである、と考え、いっさいの医学的処置を断った(その正否をここでは問わない)。」(小澤[2003 : 215])
(9)この言葉がどのように現われ、普及したのか、誰か調べるとよいと思う。私は、『ALS』では以下のように記した。
 「機械と身体との関係を「ただ機械につながれた状態」とか「スパゲッティ症候群」というようにたんに抽象的に否定的に語る必要はなく、語るべきでない。不要な管が不要であることはまったく当然のことだが、必要なものは必要だというだけのことである。[…]触手を伸ばして栄養を摂取する動物がいるように、その自然の過程の延長に機械はあるだろう。それもまた自然の営みなのだと、自然が好きな人に対しては言ってよい。なんならそれを進化と、進化が何よりも好きな人に対しては、言ってもよい。」([2004 : 269])
(10)その装置はそれなりに手のこんだものであるから、であるかどうかはときにたいへん怪しいところがあるのだが、費用がかかり、「経済」の問題に巻き込まれる。人工透析の歴史について有吉[2008]。その論文のために作成が始められ増補が続いている年表として有吉[2007-]。
(11)「グローバリゼーションの新たな段階とともに、「内戦」あるいは「対外戦争」、共同体内での「民族的―宗教的」な暴力、しかしまた究極的貧困状況、飢饉、いわゆる「天災」といった、絶滅的暴力のさまざまな方式のどんどん巧妙になっていく術策が、世界中に広まっていったことを忘れないでおこう。その術策は、「生の地帯」と「死の地帯」のあいだに偏った分割を産み出すことで、[…]「絶滅主義(exterminisme)」と呼ばれるに値する。絶滅的暴力を「抑制し」、「標的とする」ために国家あるいは同盟の境界を利用することは、つねにきわめて「有効」であることがここでは明らかであるが、とりわけ中央アフリカか中東、バルカン半島での最近の出来事が示したように、驚くほど脆いこともまた明らかである。
 したがって、少なくともその現在のようすでは、「干渉権」についての論争は、より巨大な問題を覆い隠していることが考えられる。その問題とは、真に連続した不幸の連鎖といったものを形作る、自然的かつ文化的な絶滅的過程への一〔、〕般〔、〕化〔、〕し〔、〕た〔、〕非〔、〕介〔、〕入〔、〕である。そこでは、チェチェン、コソボ、パレスチナ、イラク、チベットは、ルワンダ、アフガニスタン、アルジェリア、コロンビア、ブラジルと肩を並べ、また、アフリカのエイズ問題、洪水によって荒廃したインドの地方とも肩を並べている。すなわち、まだ実際には考察されていない絶滅的な生―政治あるいは生―経済の現実である……。」(Balibar[2002=2002])
 この箇所は『自由の平等』の註でも参照を求めた(立岩[2004a : 293])。ここに述べられているのは、正当化されている不干渉でもあって、本文に述べたことと同じではない。ただ実際に起こる不関与・遅延は、それを本文に述べようとしたのだが、規範に明らかには反したことではないこととして、あるいはそれらが不明な中で起こる。
(12)ただ生きているだけの生物的な生、「ゾーエ」という言葉について、それがうまくなにかを捉えていると思えるのと同時に、そのまま受け取れないようにも感じる。それはまずは単純なことで、結局そのような名を付けられる人たちは否定的な存在として捉えられているのではないかと思えるからだ。むろん今どきの捉え方はいくらか変わってはいて、その存在は単純に否定されてはいない。しかしそれでも、そのような存在であることによって、それがなにか人間の限界を指示し、あるいはその限界を問うことにおいて、人間存在や倫理がやはり問われたりする、そのような存在なのではある。
 強制収容所の人たちのことが描かれる。その人たちはひどい扱いを受けて、その間に衰弱していく。本人たちもまたそれに反抗しようという気が失せている。そして殺されやすい存在になっていく。そんなことが実際にあるだろうと思う。こうして人がただ生きているだけの状態に置かれ、そして殺されるとして、放置されるとして、すべき(だった)ことは二つあるということになる。一つに、人をそんな境遇に陥れてならないとすることである。たしかにそれは間違っていない。わざわざ衰弱していくことはないし、させられるべきではないのだ。
 ただ、自然の過程においてもそちらの方に滑っていく人はいる。実際、脳死者もまたこの語をもって語られてもいる。この両者のことをどう考えたらよいのか。そんなことが素朴によくわからない。
 同じような疑問をもっているように見える美馬達哉は、その状態にとどまっていることを可能にしているのは、生命の維持のための行ないも含め、人々の行ない・営みによってのことであって、それをなにか生物的・動物的な水準のできごととして捉えるのが間違っていると述べる(美馬[2007 : 255-257])。
 それもそうかもしれない。ここでは、単純に、本文に記したように、二つが同時にあると考えてみよう。一つには、衰弱や苦痛や困難にもかかわらず、生きているという事実である。一つには、そうして生きていることのある部分が悲惨であることである。その悲惨はなくてよいものであり、それを招来させた人間たちがいるなら、その者たちは糾弾されるべきであり、その悲惨は除かれるべきである。そしてそうしたら、前者の偉大さは減じるか。そんなことはない。次に、その人が置かれている状態・境遇にたしかに悲惨であると言えるものがあるとしても、それだけでない。こちらが悲惨であると決めてかかっているもの、当の存在に即した時に悲惨であると言えないものがある。そのことを看過して悲惨を言うのであれば、それは失礼なことであり、間違ったことであるだろう。
 こんなことを考えながら、『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(Agamben[1998=2001])といった本を読んでみるとどうなのか。
 「いかなる想像もおよばないくらいに尊厳と上品さが失われうるということ、零落の極みにあってもなお生が営まれるということ――このことが、生き残った者たちが収容所から人間の国にもち帰る残酷な知らせである。そして、この新しい知識が、いまや、あらゆる道徳とあらゆる尊厳を判断し測定するための試金石となる。そのもっとも極端な定式化である回教徒は、尊厳が終わったところで始まる倫理もしくは生の形態の番人である。」(Agamben[1998=2001 : 90-91])
 「耐え抜くことの最大限の可能性の極端な形象が回教徒である」([103])
 「「人間」という名称はなによりも非―人間に付けられている[…]人間についての完全な証人とは人間性を完全に剥奪された者のことである[…]人〔、〕間〔、〕は〔、〕人〔、〕間〔、〕の〔、〕あ〔、〕と〔、〕も〔、〕生〔、〕き〔、〕残〔、〕る〔、〕こ〔、〕と〔、〕の〔、〕で〔、〕き〔、〕る〔、〕者〔、〕で〔、〕あ〔、〕る〔、〕」([108])
 「「人間は、人間ではないかぎりで、人間である」。あるいは、もっと正確に言えば、「人間は、非―人間について証言するかぎりで、人間である」。」([164])
 「人間的なものを完全に破壊することは不可能であるということ、つねにまだなにかが残〔、〕っ〔、〕て〔、〕い〔、〕る〔、〕ということである。証〔、〕人〔、〕と〔、〕は〔、〕そ〔、〕の〔、〕残〔、〕り〔、〕も〔、〕の〔、〕の〔、〕こ〔、〕と〔、〕な〔、〕の〔、〕で〔、〕あ〔、〕る〔、〕。[…]人間とは非―人間であり、人間性が完全に破壊された者こそは真に人間的であるということである。」([182])
 なるほど。ただ、必ずしも必要でない曖昧さがあるように今のところは思っている。まずはもっとふくみのない言葉で言えるのではないか。註17でも引用する本の解説に次のように記した。
 「価値を与えられないものから別の価値を見出すのとも、価値を反転させるのともすこし違う。最も虐げられたり苦難の状況に置かれるものが、その苦難によって肯定されるべきなのだという話とも異なる。健常に価値を与えてしまうことを事実として認めつつ、しかしそれは、名前のないしかし具体的な存在・身体・生存を凌駕することはないと言う。
 これは間違っていないと思う。一九七〇年前後にあって、障害者の運動に残り、継がれたものは、その騒々しくも冴えない動きから受け取るべきは、そのぐらいのものではないかと思うぐらいだ([1998b])。それは、例えばイタリアやフランスの哲学者たちでそんなことを主張したいように見える人たちの主張さえもが、どこか中途半端な感じがするのと比べて、単純だが、はっきりしている。同じようなことを言いたいとしても、なにか苦労して、なにか難しい言葉とともに、そのことを言おうとするのに対して、直截である。そのあまりに単純な居直りの具合が、それでよいのか、という感じはしないでもない。一度聞いたフレーズを繰り返せばよい。労が少なすぎる気はする。しかし、基本的には、それでよいのだろう。」([2007c : 419])
(13)このことを最初に書いたのは、雑誌『仏教』に掲載され、『弱くある自由へ』([2000h])に収録された「都合のよい死・屈辱による死」([1998a])だった。
(14)姿・形のことについて、また好き嫌いのことについては、『私的所有論』第8章の終わり、第5節4「他者が他者であるがゆえの差別」がこの話になってはいるものの、何を書いたらよいのかわからないから書けない、と書いてきた。
 「例えば、贈与とは、自らによる相手の制御不可能性において初めて成立する行為である。反応は基本的に相手に委ねられている。しかもその他者の反応は、他者自身にとっても操作可能なものでないとされる。それがこの関係の条件になっている。それは最初から、他者による拒否の可能性を孕んでおり、そのことなしには成立しえないような行為である。この関係は、相手を、そして相手の私への関わりを私が制御しないことによって、初めて私の相手に対するあり方が成立しうるような関係である(もちろん私はいくらでもその者を制御したいのだが、それが可能になったとたんその関係の意味は失われる)。ゆえに、この場面で相手に拒絶されたとしても、その拒絶を拒絶することはことの本性上できない。この関係において、その相手のあり方、その相手のあり方の一部をなす相手における私への個別的なあり方を認めないということはありえないのである。
 ここでもAは、ゆえなく、Aの側になんらとがめられるべきことがないのに、Bに受け入れられない可能性がある。例えば理不尽にもAはBに愛されない。これはAにとって十分に不幸なことだ。これは世界に十分な量の不幸を生じさせる。そしてこれも差別だと言いうる。これは悪いことではないか。そう考えたってよい。ではそれは除去されなければならないのか。」([1997 : 366])
(15)このことは、例えば差別についてすこしでも気になったことがある人なら考えることのはずだ。むろん、すぐにできること、すぐにすべきことも多々ある。例えば公私を分けて、公的な関係にそうした好悪を持ち込んではならないとすること。しかしそれは私的な場面には残されるということでもある。そうした感情・感覚を除去できるとも思えないし、除去すべきだとも思えない。また、その価値が社会的に作られたものだと指摘しても、その効力は限られているように思われる。
 以下は註14で引用した箇所に続く部分に付した註。
 「現代では細面・痩身が重宝されているが、こうした好みは近代特有のものであって、云々。こうした言明が示そうとするのは、つまりそれは規範だということ、規範だから変えられるはずだということである。すでに何度もみたように、社会科学は「社会性」「歴史性」「相対性」を述べる。かなりの程度当たっているかもしれない。「文化の恣意性」を指摘するだけでも相当の意味はあるだろうと思う。しかし、「社会性」が論証できたとしてもそれだけではその「社会的」なものを変更すべきことが導けるわけではない。また、現実的な変更可能性、その手段を示すものではない。
 これで検討すべき論点が尽きるのではないのだが、本文で述べたのは別の観点からの検討の必要性である。すなわち、感情の本性や起源というより、感情の位置・用法、感情によって形成される関係の位置を問うことである。例えば愛情と行為の義務とが結びつけられてしまうことの倒錯をはっきりさせること。私達の恣意が他者の生存を脅かしうるような関係を問題にすること(私的な贈与はその可能性を内在させている)」([1997 : 372])
 Aの好き嫌いの対象になるものが、その対象になる人Bによって随意に変更できないものであるとされることがある。他方、Aが好きだとか嫌いだとか思うその気持ち、選好もまた、A本人によって変更できないものであるとされる。誰かが他の誰かに対しているという場面にそんなことが起こるが([1991])、自分が自分に対する場面についてもこのことはありうるし、実際ある。私は私のしかじかの部分がどうしても好きになれない。安楽死・尊厳死についても起こることはそういうことである。死ぬほど自分のことが好きになれなくて、人に死ぬのを頼んで手伝ってもらうことが、そうそうはないが、ある。そしてそこでも、好悪の社会性を言っても仕方なかろうと言った。かつての人々の好みが今の人々の好みと違うと言われても、言われた方はあまり救われた気がしないということである。(ただ、この「社会的構築」の指摘にはそれなりの意味があって、それは忘れないようにした方がよい。このことは本文で述べる。)
 そして、この話は、後で『私的所有論』([1997])の「他者が他者であるゆえの差別」(第8章第5節「結論と応用問題への回答と解けない問題」第4項「他者が他者であるがゆえの差別」)の一部にもなった。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いで、その評価を任意に変えることができず、評価の対象も変化させることができない。それは人々に十分な不幸を生じさせる。どうしたものか。
 ひとまず言えることはそれぞれで書いてはみたが、基本的に私にはよくわからなかった。わからないから、わかる方のことを書いてきた。例えば「一九七〇年」という文章([1998b])を一九九八年に書いて、それは後に『弱くある自由へ』に収録されたのだが、その時も障害について考えるときに二つあると述べた。そこで横塚晃一という人――その人のことに序章でふれ(三一頁)、その著作の末尾に書いた解説の一部を註21で引用した――が高杉晋吾に語ったという言葉(高杉[1972]に掲載)を引いている。
 「よく健全者が、身障者に“理解”を示して“身障者も同じ人間だ”なんていうね。[…]絶対に違うんだよ。おれたちの最大の生活環境は一人一人が持っている肉体なんだ。これはどこへ行こうとついてまわる。」
 その後に次のように書いた。
 「第一に、――この文章では論じられないけれど――「姿」「形」自体はその個人に残る。機能を様々に補うことはできるにしても、姿やかたちはそのままあり続け、障害者は「異なる」人である――もちろん皆がそれぞれ異なるにしても、そして、やはり異なりと受け取る側がいるから異なりが現われるのであるにしても。/第二に、その「個人」の能力、同時に能力のなさが問題にされる場面がある。」([1998b→2000h : 93])
 そして私は、ほぼ二番目の方について考えてきた。例えばその人が動けないときに、介護・介助という行為を行なうことはでき、それによってその人の暮らしを補うことはできる。さきに述べたように、その行ないが社会に支持されるか否かという問題が残るのではあるが、ともかくその行ない自体は可能であり、しかじか考えてそれはなすべきだとなれば、それをなせばよい。そのことを述べてきた。しかし、人にはそうやって補えない部分があり、それに関わる価値や感情はそのままに固着してしまうように思える。その場面をどう考えたらよいのだろう。その同じことを『自由の平等』でも述べている。
 「簡単な問題と難しい問題があって、私は簡単な問題、考えれば解けそうな問題について、分配可能なものをいかに分配するかについて考えようとしている。しかしそんなものしか世の中にはないと言うのではない。分配したり交換したりできないもの、あるいはすべきでないものがある。」([2004a : 30]序章第3節8「分配されないもの/のための分配」)
(16)天田城介が『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』の中でそのことを述べている(天田[2003 : 83-117])。
 「近代社会における「暦年齢の絶対化」によって「老人」は匿名的カテゴリーとして構築され、それは同時に「老人神話」をも創出した。ところが、一九七〇年代における「老人」から「高齢者」へのネガからポジへの価値転換はかつての高齢者像の呪縛からの解放を謳いながらも、いよいよ他者のケアに依存しなくては生きられない状態となった「老い衰えゆく」人々を「医療」「福祉」の世界に囲い込む結果となった。」(天田[2003 : 108])
(17)幾つかの大学の学長、病院の院長、日本老年学会会長、日本抗加齢医学会顧問、中央公害対策審議会水俣病問題専門委員会委員長、中央環境審議会環境保健部会長、医療保険福祉審議会老人保健福祉部会長、等々を歴任。水俣病の対応についての批判は、津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(津田[2004 : 73-136])、原田[1989 : 81-83]等にある。
  『唯の生』でもさらにいくらか紹介するが、例えばALSについては以下。
 「本人が苦痛と感じて拒否している人工呼吸器を無限に続けることは、尊厳死ないし自然死の理念に反し、患者の人権にも触れる問題と考えます。自発呼吸がなく、人工呼吸器でしか生存できない状態は臨死期といってよく、患者から再三の要求がある場合は、その中止ないし取り外しが許されるでしょう。この際、患者に長期の苦痛を強制する現実にも思いをいたすと、家族も主治医も人工呼吸器の取り外しという厳しい選択をする精神的苦痛を乗り越えねばなりません」(井形・山本[2007 : 131])
(18)関連した文章、発言からの引用をいくつか集めて「障害を肯定する/しない」というファイルを作りホームページに掲載している▼。本文で次に引用するのは、その中でも引用されている言葉の一部。
(19)「批判は「処世術」、病と死の処世術となる。それは、病や障害や医療が置かれている社会という場を捨象してしまうことにもなる。まったく無視するのではないが、俎上に載せられそして批判されるものは、もっぱら医療者のパターナリズムや医学の科学主義に限られる。そこに実際にはあるものを見ないことは、現実においてはそれを受け入れるということでもある。それがはっきり現われるのは「終末期」に対する態度である。「QOL」を大切にしようというそれ自体は否定されえない主張は、「私」かあるいは「自然」を背後に有するのだが、作為をまったく否定する自然の原理主義に人は普通立てないから、そこには何かを大切にする私が残ることになる。そしてそれはたしかに大切な立脚点ではある。しかし、それだけを言えばよいのかということである。この問いは先端医療と呼ばれたりするものをどう評価するのかという場面にも――にも、と言うのは新しい技術に限られることではないからである――現われる。米国では人体実験の問題を発端にして興る「バイオエシックス」は患者の自律(autonomy)を中心に据えるが、すぐに植物状態の人の治療停止の如何といった問題に直面し、そのときにも同じく自律を言い続ける。しかしそれで足りるかを考えれば、足りるはずはない。しかし大勢はそちらの方に流れていく。」(「医療・技術の現代史のために」[2003h : 272-273])
  (「自然」の肯定は)「近代批判、西洋・近代的でない医療の支持とも親和性をもつ。根治はされないとしても、それなりの状態を維持したり苦痛を緩和するために使えることがある。そしてこれらは人文・社会科学に接合しやすく、その活動の場とも捉えられ、その方面から歓迎される。そしてそれは、医学・医療の本流とも摩擦を起こさない。むろん小競り合いは各所で起こるのだが、第2節3に少し記したような立脚点の対立、縄張り争いは起こらない。技術は技術として前提にされ、受け入れられるのだが、しかしそれでは足りないことが言われ、互いに得意なところを提供しあってやっていこうということになるのである。医師たちの多くにとって「心理的な問題」は扱いにくいところでもあり、厄介なことでもあるから、その部分について他の人たちが取り組んでくれれば、あるいは本人が様々に学びきちんとした心構えをしてくれていればそれはそれでありがたいということになる。
 だからこれが一つの終着点である。すべての要素は出揃い、これで終わりになるように見える。
 だがそんなことはない。」(「現代史へ――勧誘のための試論」[2003e : 60])
 次に、二〇〇七年九月、私たちのグローバルCOEプログラム「生存学創成拠点」の企画で、このプログラムの「事業推進担当者」でもある栗原彬の講演の後、それを受けて話したこと。この企画を収録した報告書(立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点[2008])より。
 「今日、僕は間に合えば、一つ長い文章を書いて終わって持ってこようと思っていたんです。[…]筑摩書房から、いわゆる尊厳死に関する本を出そうと思っていて、『思想』に3回書いたものと「良い死」っていうタイトルで筑摩書房のウェブに連載したものが、このままじゃ使えないということで、今書き直しているんです。そこに「自然な死」っていう章があって、自然な死っていうことを巡ってわれわれはどんなことが言えるのか、それを書こうと思っています。できれば持ってこようと思ったんだけれども結局、間に合わなかった。
 何が言いたいか、何が気になっているかというと、同じ言葉が別に使われるようになっていはしないかということなんです。
 例えば六〇年代から七〇年代にかけて、水俣病をめぐる出来事が起こって、他にも起こった反公害と言ったらいいのか、そういった動きの中で、自然っていうものがそれに対抗する言葉として存在し、ある種のスローガンとして存在した。そしてそのしばらく後に、自然な死っていうものが、浮かび上がってくるっていうか、せり出してくる。そういう出来事が起こってくる。そしてそこに確かにある連続性ってものはある。例えば科学技術文明に対するある種の拒否感というか対抗感と自然な死という言葉にはつながるものがある。そういった意味で言えば、普通に考えれば、明らかなっていうか、そこに連続性がある。
 しかしながらどこかでずれてしまったというか、別のものになってしまったっていう直感のようなものが、まずはあるんですね。それはその場合なんであったんだろうということですよ。例えば現代史、病や命やそういったことを巡る現代史ということを考えるということは、その間に何が起こったんだろうか、そういうことを辿り直して考える、ということであるのかなあ、と思ったのです。
 答は簡単な答なのかもしれない、一つの答え方としては。それは先生がおっしゃった「私を生きさせよ」っていう。そういった主張がそうでないものになる。いってみれば「私を死なせよ」というところに、なにやら落ち着いてしまったっていうことがある。ある意味で違いは明白なんですけれども、しかしその明白な違いとある種の連続性みたいなものを、どういうふうに解きほぐして考えていくか、そんなことが一つ、大切なことなんだなあとあらためて思ったのです。」([2008a : 55-56])
(20)環境思想・環境倫理学の文献は[1997 : 165-167](第4章註1)で紹介した。その後に出されたものの幾つかは『唯の生』にあげる。加藤尚武(cf. 序章註5)らによって環境倫理学の紹介がなされた後、この国でその時にもありまた以前からあった思想・運動をあらためて見直し、様々の間の差異について考えてみることがなされるようになってきていると思う。
(21)横塚晃一の『母よ!殺すな』(横塚[1975→2007])の「解説」で、その人がこのことをわかってものを言っていたこと、そこに言われることは、よく見かける書きものやよく聞く話より、ずっとまっとうなことであったことを述べた。
 「差別をどのように捉えるのか。横塚は普遍性・不変性と社会性・時代性の両方を言う。
 一方で差別は、時代・社会に規定されたものだともされるし、支配者・権力者のものであるとも言う。
 「全ての障害者施設とは、高度経済成長を支え、現社会体制を維持していくために、また一般庶民にマイホームの幻想を募らせるためにこそ「必要」なのであり」([105])
 「生産第一主義の社会においては、生産力に乏しい障害者は社会の厄介者・あってはならない存在として扱われてきたのですが、この法律は文字どおり優性(生産力のある)者は保護し劣性(不良)な者は抹殺するということなのです。つまり生産性のないものは『悪』ときめつけるのです。」([129])
 「我々を、不幸な、恵まれない、かわいそうな立場にしているのは権力であり、今の社会であります。」([141-142])
 障害学はそんなことを言うだろう。社会学者もそうだ。つまり社会的な要因を言う。それ以外のことは言わないようにしている。ただ横塚は、そのように言わなければならないと教えられたりしていない。彼はもっとすなおに考える。不変のものがあると言う。ぬぐいがたい「業」のようなものがあって、なくなることはない。差別するのは人間の本質、宿命だと言う。
 「人間とはエゴイスティックなもの、罪深いものだと思います。」([37])
 「人間の差別意識というものは動物的・本能的なものであり」([147])
 聞いたことがある話がなされているように見えるかもしれない。違う性格のものが並べられ、すっきりしないではないか、場所場所で違っているではないかと思われるかもしれない。
 この種の運動に関わった人たちは多くの場合に左派であり、差別の由来が「資本主義」などで説明されても不思議でない。いやそんなことの前に、明らかにこの社会の「経済」のもとで損をしているという実感、現実がある。それはまったく間違いではないだろう。
 他方、例えば部落差別についてはどうか。前近代的な意識によって説明される場合もある。その場合には近代化が解放の鍵になるのだが、そう簡単なことでもないように思われる。となると、やはり資本主義などと言ってみようか。しかしそれも強引に過ぎるよううに思える。どこかもっと深いところにあるように思える。そのことも言われる。
 当時、だいたいそんな具合になっていたと思う。となると横塚は当時あった話の両方をしているということか。そんなふうにも思える。しかしそういうことではないと思う。
  […]すくなくとも障害者差別に関しては「経済」が絡んでいること、これは明らかである。雇ってもらえない、賃金がろくに払われないことがある。この経済のもとで損をしているという現実は確かだ。資本主義の経済のもとではそうなってしまうとも言える。しかし、資本家が儲けようとしなければ違うかもしれない。消費者がものを安く買おうとしなければ違ってくるかもしれない。労働者が働けない人をおおめに見れば違ってくるかもしれない。すると基本は同じだと、つまり、それは「資本主義」の問題でもあり、また人間の「業」の問題でもある、と言える。だから横塚が言っていることは、折衷的でもないし、どっちつかずでもない。
 このように考えてみるなら、むしろ二つを違ったものとして考える方が間違っているということになる。どのように間違ってきたのか。一つには労働者の捉え方だろう。「資本制」を言う人たちは多く、労働者を被害者として、体制に対抗する勢力として捉えてきた。しかしそうだろうか。格別の悪意をもっていなくても、足手まといであるなら遠ざけようとするのではないか。すると、むろん、経営の合理化を進めているのは経営者であり、そのためにやむをえず、という言い方はあるだろう。それは当たっているだろう。しかしそれだけでもないだろう。消費者はどうか。施設の労働者は施設でどのように振舞うか(四四頁等)。だから、横塚たちの言い分は基本的には正しい。
 そしてこのことは「優生思想」についても同様だ。それで益を得るのは、「資本家」「国家権力」だけではない。「内なる優生思想」という言葉は以後よく使われるのだが、それは障害者自身にも、その思想・意識があることを言うのでもあるが、より基本的には、それ以前に、誰にでもあるものだという認識を示している。
 ただ、その上で、まるで同じなのかと考えていく、その道筋があるはずだ。すると、まったく同じではない、すべてをいっしょくたにしない方がよいようにも思える。そしてそのことも、じつは示されている。二つが並行して示されているからである。ではどのようにつながり、どのように分かれているのか。「合理」性の求められ方は経済のあり方によって違ってくる。そしてこの社会の仕組みから皆が同じように利益を得ているわけではない。ようするに、能力/非能力(障害)に関わって損得が違ってくるということであれば、それはすべての人に関わることであるとともに、損得の分布は一様でないのである。
 こうして同じであるとともに、違うところがある。同じ欲望を有していても、それが大きく現れることと、そうでないことがある。だからやはり、社会の仕組み・仕掛けのことを、それはそれとして考えねばならない。これはそれなりに細々と考えねばならないことだから、学者の分析対象であるはずだ。しかしそう分析されていると思えない。それが課題として残される。しかし、そのようにして分析されるべきことが、この本において言われている。」([2007c : 396-400])。
 もう一つ、二〇〇七年一二月、やはりグローバルCOEプログラム「生存学創成拠点」の企画で、小児科医の山田真にインタビューし、それが『現代思想』に掲載されたのだが――二〇〇八年中に生活書院刊の本にこのインタビューの「完全版」が収録される予定――、ここでも私は山田にそのことを述べている。
 「ただここで言いたいのはもう一つの方で、この人たちは、山田さんもそうだったかもしれませんけど、なんでも「体制」に還元するわけです。それは悲しくなるほどワン・パターンである。それはある程度の複雑さがあった方がよい――簡単なことを言って終わるなら学問する必要なさそうですから――学問としても願わしいことではない。しかし、では、そのワン・パターンな主張が、基本的に、間違っているかということです。むろん「体制」の定義にもよるし、その定義の仕方が単純すぎるという非難を受け入れてよい部分があるとも思います。しかし、基本的には間違ってないと思う。そしてその主張は、たんに問題を人のせいにするというほど能天気なものでもない。例えば山田さんには「われらの内なる優生思想を問う」(山田[1998])といった文章がある。
 そしてそういう部分の基本的な構えを省いてしまったときの消費者主義というのは、やはり、まずいんだろうと思うんですね。それは、極端にいえば、社会がどうであろうと、本人が決めたものがよい、それでかまわない、終わり、ということになってしまうのですから。実際、そういうよろしくない方向に進んできている部分があると私は思います。ですから、ここは、やはり押さえておきたいと思うのですよ。ここの一番基本的なところについて言えば、私は、第一義的には「体制」が問題だと言った人たちが、「オートノミー」を話の初めにあるいは終わりにもってくる人たちより正しい、論理的にも正しいと思うのです。」(山田・立岩[2008 : 131-132])
 前の註に記したことでもあるが、それはこの国における「環境思想」をどのように捉えるのかにも関わっている。宇井純にしても原田正純にしても、その人たちが言ったことを煎じ詰めると、極めて単純な筋の話になる。つまり、差別のあるところに公害がある、「社会的弱者」が被害者になる。それだけといえばそれだけの話だ。
 「最初、水俣病患者の家を訪ねた時、患者たちの病気のひどさもさることながら、その貧困と差別の苛烈にショックを受けた。そして、この貧困と差別は水俣病が起こったために生じたと考えた。しかしその後、いくつかの国内外の公害現場を訪ねた結果、私は差別のあるところに公害が起こることを確信するに至った。」(原田[2007 : 123])
 むろんその様々な出現の形態は様々であり、それに対する対し方にしてもまた様々ではあって、そうした部分ではいくらでも調べたりすることがある。実際、その人たちは、長い間そうした仕事を行なってきた。ただ、その「思想」は、縮めればずいぶんと短くなってしまう。もちろんそれでいっこうにかまわないのではある。なにか長々と、いつまでも論じることがよいなどということはないのだ。ただそうではあっても、わかりやすく見える言葉の上を私たちが滑っていってしまうことがしばしばあるなら、そしてそこでなされたこと、言われたことが大切だと思うなら、言葉をどのように足していったらよいのか、これは考えどころなのかもしれない。
(22)保護されるもの自体は、そのようなことを思うことのない、思うことのできない存在であってよい。すると、その限りでは、その人たちは、そのように――自らは食や生を放棄すると言いながら――そうした存在の肯定を言うかもしれない。私だけについては、私はそうするのだと言うかもしれない。しかしそこで優位は確保されており、そのことにおいて、保護されるものは劣位に置かれる。さらにそれは「自己犠牲」の価値によっても肯定されることになる。
(23)「予防」は、昨今ますますさかんなことになっている。それに対する批判があった。何が問題にされたのか。効かないわりには害が大きいことである。このことに関わりつつ、それに加え、予防しなければもたらされるとされる「害」が大きく表象されがちであることもまた問題にされる。予防接種を巡る歴史について生田[2007-]がある。
(24)『ALS』で次のように記した。
 「だが「生きろ」と言ってよいのだろうか。言えないのではないかと思う人の中には、「中立」であるべきであると考えてそう思うのでなく、そうした言葉が無責任ではないかと考える人もいるだろう。医師は、多くの場合、そう長くその人に関わるわけでなく、関わっている間も日々の生活の全体を支えるのではない。そんなことはできないし、そのつもりもないだろう。その人たちが行なうことはごく一部にすぎない。つまりその人は何を背負うのでもない。病気の苦しみを苦しむわけでもない。むろんこのことは、ただこのように文字を書いているだけの者について最もよく当てはまる。その人自身に何かができるわけではない。いや何かはできるのだが、それを引き受けようとはしていない。
 だから、「生きろ」と言うことが無責任だというのはその通りだ。しかしそう言って何もしないのもおかしなことではないだろうか。この続きは第12章11節に書く。ここでは一つ。周囲の発言はどこかでは無責任でしかありえず、ならば、そんなことを言ってよいのだろうかと思いながら、言えばよいのではないか。責任はとれなくても言った方がよいのではないだろうか。そして言うとき、命令の言葉と、契約の言葉と、説明の言葉しかないのだろうか。そんなことはないはずだ。その人に対して呼びかけることはできる。」([2004f : 147-148])
 その第12章11節「その場にいる人について、無責任について」には次のように書いた。
 「その生活を現実にどうするかという問題があるのに、その見込みもなく、何もできないのに、その何もできない者が、それを見ることなく、何も引き受けることなく、生きさせることこそ無責任であるという言い方に一理はある。
 それは「現場」にいて「現実」を知る者たちの鬱屈でもあり、その鬱屈と反感は、正しいあるいはやさしいことを言うが、何をするわけでもなく、言っても結局困らない人たちに向けられるものでもある。このようなことを言う者たちは偽善的であり、嫌悪すべき者たちだという指摘にはもっともなところがある。もちろんその指摘は、ただこうして字を書いている者に最も適切に向けられるものだ。
 このきまりのわるさ、無責任で調子がよすぎることから逃れるのは簡単ではない。極端に深刻なかたちではALSの人たちをめぐって現れるが、それより小さなかたちではどこにでも起こる。他の人が引き受けない時に自分で引き受けると言ったら大変なことになる、だから言えない。他方、あらかじめ引き受けないことにしている人がなにか正しそうなことを言う。どう考えればよいか。
 まず、この嫌悪は、生きられるのだから生きればよいと言うこと自体に対してではなく、その人が生きるために何をするでもないのに呑気にそんなことを言うことに向けられている。だから、その人は何も言わないこと自体を肯定しているわけではない。実際には肯定的であることができないのに、肯定的であるかのような言い方をするのがずるいと言っているのだ。だからずるいと思う人は、ALSの人自身が決めることだからこちらは事実を言うだけだという言明が間違っていることも認めるはずである。
 その上で、無責任ではないかというもっともな指摘にどう応えたらよいだろう。自らの呑気さを指摘されると、たしかにその通りのような気がし、我ながらいい加減な人間のように思う。そのような構造になっていて、そこから抜けがたい感じがある。
 まず、ALSの人が生きるのに必要なことをするのは面倒であり、面倒なことはいやなことであること、いやであるからにはそこから逃避したいと思うこと、これらを、それはそれとして、事実として、認めればよい。その気持ちを否定することはできないし、なくしてしまおうとしても、たいていは徒労に終わる。そのことを嘆いても怒っても仕方がなく、否定しようとすれば嘘になる。
 次に、ではそれだけかというとそうでもないようだ。そう思う出自は定かでないのだが、例えば、だれかの命が助かればその方がよかったと思うことはある。
 すると、その人は両方を同時にもっている存在だということになる。気の短い人、あるいは潔癖な人は、あくまで関わるか、それが無理なら現実の中に放置するか、いずれかに決めてしまおうとするのだが、それには無理があるから、そのように考えない方がよい。
 まず、口だけでも、口先だけでも言えばよい。そしてそれは、さきに述べたように、個人に向けられた愛着・愛情として表出されなければならないものではない。そして生存を支持すると言った人が、それを実現するために必要な負担を一人で背負わなければならないものでもない。たしかに一人の人はなにほどのこともできないし、またできたとして、こんどはその一人あるいは少数の人が過大なものを背負うことになってしまい、それもよいことではない。そこで誰もが言い出すことをためらい、事態は悪化していく。
 だからこの時には、私自身だけでは担えないし、担うつもりもないが、しかし、あなたが生きていくことは当然のことだと言った方がよい。そして、両方を認めた上で、どうにかしていく道を考えるしかない。面倒なことであることは否定できず否定しないまま、その面倒なことを引き受ける手立てを考えるということである。たしかに私たちは無責任であるのだが、それを見越した上で、あまり無責任でないようなあり方を作っていくことは可能だ、そこから考えていけばよいということになるはずである。
 言い出したものが多くを引け受けなくてはならず、ゆえに言い出すことがためらわれ、ゆえに言い出す人が少なく、その少ない人が多くを引き受けなければならないという循環を生じさせないためには、最初から人々を引き入れてしまうことである(これは賛同しない人も巻き込んでしまうような気がし、ゆえにずるいことのような気がするのだが、そうでもない。そのことの説明は[2004a]でしている)。
 しかし、その道筋はわかったとして、今、現実に不可能ならどうか。この問題はやはり残る。」([2004f : 405-407])
  (無)責任のことをどう考えるかは、とくにこんなことでものを言ったり、本を書いたりするときには大切なことだと思う。この部分についてふれている書評として川口[2004b]。次に、その現実をどうするか。具体的には動くことが少なくなっていく人たちの生活をどのように支えていくかについて、調べたりものを言ったり、いくらかのことはしてきている。序章1節1に私が過去に書いたものを幾つかあげた。『生死本』で、その後の、大学院生他による報告を紹介する。
(25)例えばユージン・スミスの写真がある(写真集に Smith & Smith[1975=1980→1982→1991]、桑原他[2007 : 59-76]にもユージン・スミスとアイリーン・スミスの写真が収められている)。石牟礼道子、桑原史成、宇井純といった名を挙げて原田は次のように記している。
 「水俣病事件の歴史で、支援に立ちあがり、重要な役割を果たした人たちの中に、これらの名著、名写真の強い影響を受けた人たちがいた。
 まさに、これらは高度成長後のわが国の未来に対する一つの啓示であった。患者が立ちあがり、市民・学生が立ちあがり、学者・弁護士をまき込んで、第一次水俣病裁判ははじまった。その間、ユージン・スミスの写真集は、水俣の現実を世界中に拡げる大きな役割を果たしたのである。」(原田[1985 : 307-308])
 その写真が後に「封印」されることになった。
 「公害、環境問題の原点であり、現在に至るまで日本の戦後ジャーナリズムの歴史に大きな位置を占める水俣病の問題は、写真家ユージン・スミスが撮影した一枚の胎児性水俣病の少女の写真によって、世界に知られることになった。目を見開く少女を抱きかかえて入浴する母の写真は、大きな力を持った。少女は亡くなった。だが写真は近年、母の申し出により、京都在住の写真家の元妻の手で封印され、もう人の目に触れることはない。水俣病の発見、治療に尽力した原田正純医師は、苦い思いを込めて、こう語っている。
 「我々は、胎児性患者の姿を先頭に、公害の悲惨さを告発してきた。だがいつかそのことが、こんな悲惨な人間を生んでしまったと、重度障害者は悲惨だ、と見なすことになってはいなかったか。後に発生した新潟水俣病で胎児性患者が少ないことは、中絶が多かったからではないか。写真を封印したお母さんは、この子は宝子だった、もう十分働いたといっていた」。」(岡本[2007])
 引用されている原田の発言は、二〇〇五年六月の「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の発足集会での原田の講演の取材メモによる。そのメモをとった岡本晃明は――日本新聞協会賞を受賞した『折れない葦――医療と福祉のはざまで生きる』(京都新聞社編[2007])の取材班の一員でもあり、『生死本』で紹介するALS―D[2008]の書き手でもある――京都新聞の記者で、「関西水俣病訴訟・原告側勝訴確定 「問題根深い、悲しみ消えない」 元妻アイリーンさん 惨状を伝えた亡夫が撮影の写真、非公開に」という題・見出しの記事を書いている。
 「水俣病の悲惨さを象徴するユージンさんの写真「入浴する智子と母」をアイリーンさんが非公開にして六年がたつ。
 一九七一年、水俣市に住んだスミス夫妻は当時十五歳の上村智子さんと母良子さん(七〇)の姿を撮影。写真は「被害を伝えたい」という両者の思いから生まれた。国内外の雑誌や写真集に掲載、学校の教科書にも使われるなど、公害を象徴する写真となった。
 湯ぶねの中で母親に抱かれる裸の少女。あばら骨が浮き、手足は硬直している。口を開けて目を見開く娘に、母は優しいまなざしを落とす。
 智子さんは生まれつきの重度の水俣病で、成人式では晴れ着姿で父に抱かれた。その翌年の七七年にこの世を去った。
 アイリーンさんが非公開にしたのは、九八年に智子さんの父好男さんから「もう休ませてやりたい」と聞かされたのがきっかけだった。
 好男さんは「写真がいたるところで使われ、ビラや広告の一部のような気がした。裸姿が痛々しかった。やっとうちに帰ってきたね、という思いですかね。智子は家族全員の毒を持って行ってくれた『宝子』です」と静かに語る。
 撮影から三十三年。京都で暮らすアイリーンさんは「これからも『見られない写真がある』という事実で、水俣を伝えることはできる。一つの区切りを迎えるまで要した歳月の長さは、水俣病が抱える問題の根深さそのもの。最高裁裁判決が終わっても悲しみは消えない」と語った。」(『京都新聞』二〇〇四年一〇月一六日朝刊)
 そしてさらに別の本で、原田は次のように記している。
 「水俣高校で社会科の先生がユージンの智子の写真を見せて「環境を汚染するとこのような子どもが生まれる」と解説した。在校していた妹は手を挙げて「それは姉です。姉をそんな風に言わないでください」と涙ながらに抗議した。この教諭はその後、教育について深く考えさせられ、反省し真剣に障害と差別や人権と取り組むようになったと告白している。
 また、過剰なマスコミの取材の中、母親は東京交渉から帰ってきて智子を抱きしめながら「この子を見た多くの日本の人たちが、ああ、やっぱり、環境は汚してならない。怖いことが起こると、思ってくれたと思う。それで日本の環境が少しでもよくなって、会社や工場や政府の偉か人が、今から気をつけてくれるようになるなら、このような子ですけど、少しは世の中のお役にたったことになります。東京に行ってよかったと思います。やはり、この子は宝子ですたい」といかにもさらっと言った。いのちに生きるべきいのち≠ニ生きる価値のないいのち≠ネどあろうはずがない。
 この母親の言葉はとくに医療、福祉、教育の原点、いのちの価値を考えさせられるものでこれこそ、水俣からのメッセージである。」(原田[2007 : 350])
 普通に読んでいくと、原田のこの記述には辻褄のあっていないところがあるように思える。ではどう考えたらよいのか。あるいは言葉を足したらよいのか。そんなことを考えていくことが一つあるのかもしれない。
(26)ローティについては、安部[2006][2007][2008]等の論文のある安部彰が作成している安部[2006-]。
(27)よく言及される本に、ギリガン『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』(Gilligan[1982=1986])、ノディングス『ケアリング――倫理と道徳の教育 女性の視点から』(Noddings[1984=1997])。関係する書籍として、『正義と境を接するもの――責任という原理とケアの倫理』(品川[2007])、他に『〈ケアの人間学〉入門』(浜渦編[2005])、『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』(川本隆史編[2005])、『関係性による社会倫理学』(西谷[2006])、論文として「「ケアの倫理」と「ケア労働」――ギリガン『もうひとつの声』が語らなかったこと」(山根純佳[2005])、「「ケアの倫理」と「正義の倫理」をめぐる対立の諸相――ギリガンとキッティ」)(樋口明彦[2007])、等。安部彰が作成し公開している資料に安部[2007-]がある。
 ただむろんケアを語る語り様も一様のものではない。『唯の生』で紹介するクーゼには『ケアリング――看護婦・女性・倫理』(Kuhse[1997=2000])があるが、そこでは――それはその著者の年来の主張なのだが――安楽死が肯定される。このことについては「「ケア」が安楽死を肯定する?――ヘルガ・クーゼ『ケアリング――看護婦・女性・倫理』の衝撃」と題された岡田[2002]がある。
(28)『ヒポクラテス』という医学系の大学受験雑誌に載ったインタビュー記事で、「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」([1998e])という題になった、それは後で『弱くある自由へ』に収録された。質問者(出版社インスクリプトの編集者で経営者の丸山哲郎さん)に質問されて応えている。
(29)このことについては、『自由の平等』第1章2節「ゲームから答はでない」([2004a : 172ff.])。
(30)このことについては『自由の平等』の第3章で述べた。
 「分配を正当化することのない利己主義とされてきたものはひどく限定された利己主義であり、もっと普通の純粋な利己主義、生への意志を想定したときには、その結果は異なってくるかもしれない。
 私は、私が存在していられることを望んでいる。そして存在のための手段があるとよいと思っている。その私の望みは、手段=能力を自らがどれだけ有しているかに関わらない。私が存在していること、そのように私が私であることは、私が有する様々な属性とは別のことであり、存在するための手段=能力をその私がどれだけ持っているかとは別のことである。私は、私がしかじかのことができ、しかじかの貢献を行うことができるから生きていられるのではなく、ただ生きていたいと思っている。」([2004a : 127-128])
 「存在のための手段によって私という存在が規定されてはたまらない。それは私の存在とその自由自体を脅かすことになる。そのような社会に自分はいるのは楽しくないから、辛いから、いたいと思わない。代わりに私の存在と存在の自由が現実に認められる機構の方を支持する。」([2004a : 128-129])
(31)このことについては『私的所有論』の第4章で述べた。そして二つはどのように関わっているのか。『自由の平等』の第3章に記した。
 「まず私は、私が受け取っている世界があって、それで生きていたい。その世界はたしかに私において起こっていることではあるが、しかしそこに存在し起こっていることの多くは私の意と関わりなく生じて存在している。その中に他者もいて、私と別の存在がいることの快が、それはもちろん快であるだけではないが、ある。つまりまず私の存在の快の大きな部分が既に私でないものがあることの快である。そして、私のまわりのすべてのもの、世界全体が広義の他者なのだが、しかし、人――だけであるかはともかく――はやはり特別ではある。それは、その一人ひとりに世界があることに由来するだろう。快であるとは、同時に失われることへの哀惜でもあり、他者が失われることの切実さは、そこにおいて世界が一つ消えてしまうことの切実さだろう。その切実さは、ときには私が生きていたいことを凌駕して、その人の世界が続くことの方を優先することさえある。
 このようであるなら、その大切さは共通している。」([2004a : 135])
(32)幾度かこのことを述べている。
 「他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの、私が制御しないものとしてある。」([1997 : 105])
 「一人ひとりが固有の存在であることと、その一人ひとりが別々の好みや性質をもっていることとは基本的には無関係である。あなたの好みやなにかが私のそれと同じだったり似ていたりすることは、あなたが私であることを意味しない。あなたという固有性がないことを意味しない。クローン人間が複製ではなく別の人間であるのと同じことである。」([2004a : 98])
 「一つの間違いは、差異によって他者を規定しようとすることだ。二人の人に違いがあること、ないことは、その二人が別人であることと別のことである。似ているから同じだと考えるのはまったく危険でさえある。差異が感じられ、少しもわからないということがかろうじてわかったりすることもある一方で、同じこと、似ていること、気持ちの悪いほど似ていることに気づくこともあるだろう。しかし、そこで似ていたり同じだったりする存在は、やはり私とは別の存在であり、ときに似ていたり同じだったりすることに気づく楽しみもまたその存在が私ではないことに由来する。その人に慣れることにしても、それは摩耗することだとは限らない。属性はなくならないままときに背後に退く、あるいはそのまま前に現われているが他を見るのに邪魔にはならない。」([2004a : 141-142])
(33)この項をアーサー・フランク――二〇〇八年に立命館大学大学院先端総合学術研究科での集中講義・グローバルCOE「生存学創成拠点」主催シンポジウムのために来日――の『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』(Frank[1995=2002])を読んで書いている。その第6章「探求の語り」が私にはよくわからなかった。わからなかったというか、必ずしも受け入れる必要のない前提を共有して始めて理解できる章であるように思った。
 こうしたことを、たとえば「ポストモダン」の側にいると自らを規定する人たちについても、幾度も感じてきた。そんなこともあって『自由の平等』の第6章は書かれている。
 「第三に、もう一度自由が登場する。そこでは、行うことと在ることの両方から離れ、どこからも脱する自由という規定のされ方がなされる。その時点で、それはもう単純なリベラリズムではないのかもしれない。私が行うことは生産活動に限られず、もっと広いものを包接するものとして語られる。あるいは自己が生産に方向付けられることを批判する。それでも、信じることにしても、よいとするものにしても、それが自分の選択としてある限りにおいて認められるとするその論は、能産者でありすなわち所有者であるような私を私として残存させることになる。あるいは自己を表象する自由と言うとき、それがどこかを目指したものではないとしても、やはりそれは作り出そうとする。自己の実在を、またその獲得の可能性を素朴に信じないこと、支配し制御する方に行ってしまいがちな所有という言葉を使わないこと等、いくつか「進歩」はそこに見られる。そして与えられたものを脱ぎ捨てようとする。やがて、何にせよ作ってしまったらやはりそれは作られたものだとして、自らが何かであることから逃れることもまた言われることになるのだが、それもやはり破壊的であるとともに生産的なことなのであり、それによって私は駆動されることにもなる。」([2004a : 273])
 「そこに見られる」に以下の註を付した。
 「「人格とは、決して一度も充たされることのありえない計画=投影であるがゆえに、一つの願望なのである。」(Cornell[1998=2001 : 34])けっしてその願望を否定しないが、そうでなければならないものなのか。このことばかりを、この章で、他に[2000e]等々で、私は述べてきた。」([2004a : 346])
 ドゥルシラ・コーネルもまた同じ大学に講演にやってきた人であり、その時に同じことを質問した(質問してもらった)のではあるが、よくわかったというふうではなかったような記憶がある。「文化の違い」ですませたくはないのではあるが、いくらかの違いはあるのかもしれない。
 語りたくないのであれば、そして/あるいは語ってよいことがないのであれば、語らずにすませるためにも、私たちは、たとえば歓迎できない出来事が起こってしまった時に何を語ってしまうのか、それを分類し、並べ、それぞれの得失を計算したりする必要がある。山口真紀[2008]がその仕事を始めている。


UP:20230429 REV:
立岩 真也  ◇立岩真也日誌:2023  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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