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立岩 真也 2023/01/19
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*2023年1月19日、13時〜、福島智さんの東京大学での授業に呼ばれて話すことになりました。みなさん拙著『不如意の身体』を読んでくださっているようで、質問をしていただく、それに応えるというような構成のようです。質問を事前にいただけるようです。以下、同時期の2冊。+関係する電子書籍?として『社会モデル』

◆立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社,481p. ISBN-10: 4791771192 ISBN-13: 978-4791771196 [honto][amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※
◇立岩 真也 編 2016- 『社会モデル』,\600 →Gumroad HTML

立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙   立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙   立岩真也編『社会モデル』表紙

 https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/j/89915676193?pwd=WWN3MUhuT0IzMVpneVlSeXNadUFtZz09
 ミーティングID: 899 1567 6193 パスコード: 561208

◆1.本書の序章(3頁)には、「障害や病を捉え、考える際の基本的な視座を示す」とありますが、医師が医学的な専門書の形式で本を書き記すのではなく、社会学者である立岩先生がこの本を書くことの意味を、立岩先生はどのように捉えておられるでしょうか。

◆2.日本で「障害学」を語る時、それは、欧米のdisability studiesやcrip theoryとどのような差異があるでしょうか。

◆3.障害学とフェミニズム/クィア理論との関連性についてどう考えておられるでしょうか。

◆4.本書第2章では、「障がい者を含む、何かしら生きづらさを覚える人たちを含めて、誰もができないことを補完するための手段を享受しうる社会が求められている」という趣旨のことが記されていると受け止めました。そこで、そういった不公平を少しでも解消するために、これからすべき方策として、なにが考えられるでしょうか。

◆5.生産するための能力開発を経て生産活動に従事し、生産物を自分と他者に分配することを手段として、目的である生存を達成する営みにおいて、現状の大きく偏りのある分配を是正することは可能なのでしょうか。立岩先生の分配案(たとえば、『人間の条件 そんなものない』「X世界の分け方」P227〜249)に私は魅力を感じますが、その一方で、人間のもっと儲けたいという欲望、とりあえずは何とかやっているという適応、少しでも分配を多く得て欲しいという親の不安や期待に根差す子どもの能力開発など、思いつくだけでも、現状の大きく偏りのある分配を温存する力は強いと考えます。現状の分配で目的の達成に切実な困難を抱える障害者は社会的なマイノリティであり、障害者にも生きやすい社会をといったところで、直接的に温存する力が変化するとは思えません。社会はどのような過程を経て変化し得るとお考えですか、先生のご意見をお聞かせいただけますと幸いです。

◆6.「障害」の問題を解体する主体は誰であり、それはどのように行われる(行われるべき)と考えますか。
 (この質問の背景)
→障害学では、障害の問題は本人の内部に存在するのではなく、社会という外部によって生じるものなのだと考えることが求められていると理解しています。この場合、障害の問題を解体する主体は「社会」だということになりますが、もう少し具体的に、誰が主体となって障害の問題の解体にアプローチしていけるのかということが気になっています。
 障害学の理論は、現場的な目線や制度の問題との関わりを論じずにはいられないと考えます。現在進行形で、即時的に解決されるべき問題を有している人々が存在しているからです。この必要性に駆られて行われる対応や議論が対症療法的であるがゆえに、問題の根本的な解体への目線が不足している面があるのではないでしょうか。
 だとすれば、障害者本人や近親者ではなく周縁の人々が語っていく必要があるように思われますが、それは先生が批判的な視線を向けられる「でも良いではないか」などという上っ面の理論に回収されやすい危うい語りと表裏一体であるようにも思われます。
 そうなると、結局はよりアクチュアルでより切実に問題意識をもつ障害者本人たちが主体となって問題の解体に向かっていくしかないという結論が導き出されてしまうのでしょうか。
 ここで、上記の質問に繋がります。障害者本人を含む「社会全体で」問題の解体に取り組むべきなのだ、という大枠はあるのだと思いますが、具体的に、誰がどのように障害の問題の解体に向かっていくことが先生の中で想定されているのか、お聞きしたいです。

補足
 「問題の根本的な解体への目線が不足している」と上述しましたが、そもそも、障害の問題の「根本」は何であるのかという疑問もあります。他者との関係性において障害問題が生じるように思えますが、他者の存在なしに自己の存在を肯定することは不可能だと考えるからです。そうであれば、問題の根本とは社会制度にあるのだから、現行の通り社会のシステムについて議論を重ねていくことが重要だということになるのでしょうか。

◆7.障害者に対する何らかの支援業務において「できる」支援者かどうかはかなりシビアに問われるいると思います。障害者の「できない」を「おぎなう」ための高い能力を必要とされる現場において、障害者の「できない」と支援者の「できる」をどう考えていったら良いか、というのが私の長年の疑問です。支援者も労働市場の中で優劣をつけられ(能力によって謝金に差が出ることはあまりないと思いますが)、賞賛が多いか少ないか、依頼件数が多いか少ないかで支援能力が図られるという面があります。支援能力におけるある種の競争や競争心も少なからずあります。この、障害者の「できない」と支援者の「できる」について、立岩先生はどのように見てこられたでしょうか?

 以下は同じ人から。立岩先生への質問(以下敬称略)

◆8.立岩が着目するのは、まず「身体」である。身体とは何であるかについての議論は留保しながらも身体の「個別性・差異」を契機として病及び障害に生じる問題を議論している。
 そして、身体が有限であり、区切られていることを確認した上で、それを問題視する。すなわち、立岩の理論は身体が共有されておらず、無限でないという厳然たる事実に対するやるせない気持ちから始まり、その上でそのような制約は決して普遍的に容認されてはいけないことを主張するようである。もっと言えば身体の所有者に対する懐疑であるとも受け取れる。
 (余談だが、身体が分かれており、有限であるということは自明でないように思われる。まず身体は様々な身体が可能である。所有的身体、主体的身体、客体的身体、法的身体、認識的身体等々考えられるが、自己による自己の身体と他者による自己の身体はさしあたり分けられる。つまり我々の身体は他者によって定義され意味付けられ得ると同時に自らによって意識・認識され得るということである。
 自己の身体を意識するのに触覚や感覚神経が要るだろう、視覚によってその境界が捉えられもするだろう。だが身体不随や視覚障害の場合はどうなるだろうか。必ずしも自己の身体は自己によっては認識され得ない。
 四肢に欠損があり、その欠損部分に痛みがあるときに、仮想的に欠損部分を補って処置を施すことで痛みが取れることがある。我々の身体は拡張したり縮小したりする。
 立岩は、堤が、障害から痛みや死を排除したことを批判するが、立岩は身体にとっての痛みを重視しすぎてはいないか。確かに特に医療の領域で、さらに末期治療においては強い痛みがすべての自由や意欲を奪うことがあり緩和ケアが極めて重大な意味をもつことはある。しかし、痛みや死から派生して身体を自己に直截に帰属してしまってよいのだろうか、とも思う。
 なぜなら、立岩の「身体」は痛覚的身体とも呼べる特殊なものであり、どこかで身体的感覚の受容性やそれに基づく価値観や政策が共有され得ると考えることにつながる可能性があると思われるからである。ではなぜ「身体が痛みを感じる」と言わなければいけなかったのだろうか。
 話は逸れるが「LINE」というコミュニケーションアプリがある。スマートフォンの画面上で自分の相手の発話内容が「吹き出し」の形で表示され、会話を行うものである。これは私は、盲聾者のコミュニケーションではないかと感じることがある。まず相手の声が聞こえない。顔が見えない。しかし自分の送ったメッセージが相手に読まれたかどうかは「既読」というサインが表示されることで認識することができる。つまり、「既読」表示の点灯を目にするとき、私は相手と同じ画面をみて、同じ空間にいるように思える。そしてコミュニケーションが展開されていく。ここに身体性の契機はない。
 他方で、「キャラ」や「アカウント」などのように身体に自己が一対一に対応しなくなり、メタバース空間では身体がもう一つ生成された。だがやはり、自己の存続条件としての身体という要素は確かに残るだろう。何が言いたいかというと、確かに立岩の身体観は間違っていないだろう。しかしどれだけの人びとが身体をそのように認識しているだろうか。現代の身体観を整理することも重要ではないだろうか)。

 障害とは何なのか、という疑問がある(不用意に「とは何か」としたわけではない。障害が共同体の中で、社会の中で、国家及び権力との関係性の中で、戦争との関係の中で、近代化及び人権擁護の流れの中で、雇用の中で、どのように表れてきたのか、どのように扱われてきたのかを理解することはまずは重要であると私は考えている。
 立岩はこの種の問いの問題を指摘し、「何をするのが良いか」という問いに集中する。この姿勢は本書に一貫して表れていたように思う。しかし、時間があれば伺ってみたいのであるが、このような問いはやはり、たとえ「本人にとって良いことが一番良い」というような基本的なことであっても価値判断的性格を免れないのではないか。だとすれば我々の議論はどこに築かれ得るのだろうか。
 分かる人に分かってもらえばよい、私はこのように考える、という思想の開陳に留まる(当然立岩がこのような無責任な姿勢をとっていなかったことは、言えることと言えないことの絶えざる逡巡のなかで自らの言葉で「普通に」考え、「言えること」を「まっとう」に言った、との立岩自身の記述からも明らかであるのではあるが。)か、こうした方がもっと社会や障害者のためによいのではないか、というような理想的・規範的(ノーマティブ)議論に終始してしまい、社会との距離が開いてしまう可能性についてはどのように考えるのだろうか。
 しかし立岩に言わせれば、「とは何か」という問いは結局本質主義と構成主義に引き裂かれ、現在支配的な社会構成主義に拠ってみたところで、突き詰めた先に何も残らない、ということになるだろう。確かに社会科学や、社会学に限ったとしても「問い」への思索という要素だけでは捉えられないだろうし、まして本書が政治思想や政治哲学の文脈に置かれるならばその点に関して何ら問題はないだろう。
 しかし、ロールズやヌスバウムを参照するならば、彼らの社会理論に対する理解が重要になってくるのではないだろうか。特にロールズで言えば、正義の原理でもってあるべき社会の実現がなされることを主張したと、つまりあるべき社会の構想に加えて、社会が制度や設計によって正義の原理を満たしさえすればあるべき社会が秩序だって形成され得ることを主張したと読むべきではないだろうか。
 社会秩序の存在を所与としてその解明を目指していた社会学は、伝統的秩序の解消に伴い、いかに社会秩序が形成され得るかという側面が強く意識されるようになってきた。すなわち、ロールズはアメリカ社会で実現可能な範囲で正義を希求してはいなかっただろうか。この点に関して立岩はいささか無自覚であるように思われる。立岩の理論は立岩を必要とする。
 立岩の社会理論は「社会」をどのように捉えるだろうか。たとえば、障害者のマイノリティ性、政治参加、聾学校や盲学校、特別支援学級等による教育の分断、及び障害者を含まない形で組織される制度・政策決定機関としての権力、などのような社会や秩序に直結するような領域や問題に直面していかに社会を変革し、維持し得るかについてはどのように考えるのだろうか。)。
 先天性障害、後天性障害、身体障害、知的障害、精神障害、これらすべてを包摂するような「障害」は存在するのか、ということがある。そこに立岩は、機能の差異、姿形・生の様式の違い、苦痛、死の到来、加害性、という五つの契機を提案する。個人の姿形に対する好悪を公的に主張するのはよくない、苦痛や死を容易に障害と切り離すことはいけない、加害性に関しては予断を許してはいけない、などのことが本文中詳細に触れられているが、私が問題にしたいのは「機能の差異」に関してである。
 この点に関して、立岩はまず、インペアメントとディスアビリティを分け、機能の差異による障害の解消を社会に求める「社会モデル」に対して、「できない」状態がその人にとって不快でない状況を提示することにより批判する。これはヌスバウムの「可能力アプローチ」に対するものと同様の批判である。脳性まひをはじめとした障害に対して行われた厳しいリハビリテーションや、障害当事者の意志や感情に寄り添わずに行われた障害者運動等に対して、「できない」状態であって良く、生産と所有が直結していないのだから、しかるべく分配のもと所有し、望む生活を送って良い、ということを主張することになる。
 すなわち、「できる」ことを全ての人に要請するような「社会モデル」や「可能力アプローチ」は良くない、ということである。この点に関して、非常に良く分かる。だが、なぜ「できる」ことを主張しなければいけなかったか、という点に関しては考える必要はないだろうか。
 すなわち、できたほうがその人にとって良いことだと思って種々の運動が推進されてきたとしたら、「それは必ずしも良いことではない」と言うだけで十分であろうし、それはそのようになされるべきであろう。ただ、これらの主張が、たとえば障害者に対する「できない」ことから来る差別や排除の思想に対して向けられていたとしたら、それへの抵抗としてあったとしたら、そこでその「できる」を手放すことは排除に連絡してしまわないだろうか。このように述べて直ちに言われることは、なぜ「できる」という手段によって目的たる存在が支えられなければならないのか。その通りである。だがあえて続ける。
 自閉症などのように「できない」ために排除されていた人々が、当事者による障害の言語化を通した自閉症のインペアメント化を行うことによって社会に理解及び変更を迫る試みは、「できる」を社会の中で回復していく試みだとは言えないだろうか。そこで立岩はこのように言うだろう。できるのが良い人はなおしたり、社会モデルを利用すればよいが、「できなくても良い」と考える人にできることを強要するのはよくない、というだけのことである、と。
 しかし、やはり「できる」ことへの圧力、すなわち他者には「できる」状態を求め、自分でも「できる」状態にある自らを他者の中にみることにより自己が維持されていくような状況はすべての障害者(これは障害者に限らず、全ての人に対してだと思うが)に対して向けられていると見たほうが自然ではないだろうか。つまり私の質問としては以下のようになる。

 「できない」状態に留まることは本当に「快」なのか。「快」であるべきだとは思うが、「快」で有り得るのか。
 例えばALS患者のように、単純化は避けるべきだが、「できない」ことは個人にとって大きな負担であり得る。これは現状において、「できない」状態への社会の態度が圧迫的であることの証左ではないだろうか。「できない」ことが「快」でもあり得る社会にすべきとの主張ならわかるが、すでに「できない」が「快」であるような人々がいて、彼ら「に対する」倫理として「できる」を要請することは「よくない」とする主張はどの程度の現実味を帯びるだろうか。またしてもこの点に関して、立岩が自覚的であったことを熊谷とのインタビューを読んで知った。熊谷が「できない」ことの「痛み」に触れたことへの応答として、現代社会が、安楽死による死を希求させる社会、つまりできないことが死ぬほど嫌にさせている社会であることに言及している。だとすれば、立岩の「言えることを言った」との主張が現実味を帯びてくる。我々は「できなく」てよい、のである。たとえば、本書のすべてがこの一つの主張に回収されるならば、私としては言うことがないかもしれない。社会のそのようなあり方を理解し、そのようにあるべきではないと考え、できなくてよいと主張することがこの社会に対する変革への意志であると立岩が考えるならば、私はただ、多くの人に読まれることを期待する、としか言えないのかもしれない。

 質問や批判の形をとれずに恐縮である。
 だがそれでもやはり聞いておきたいとすれば、ヌスバウムは「ロマンティック」か、ということである。確かに、現場を見ずに、欲望や性や排泄、加害などの生々しいけれど実体のあるケアの現実と乖離して不平等是正や弱者救済や美しいケアが美化されることがあるだろうし、自らの都合のために、厳しい現実を見たくないために、都合よく解釈することもあるだろうし、現場の、それぞれの人の意向が反映されない形で「よい」ことがきめられてしまうこともあるだろう。
 だが、ヌスバウムやロールズはホッブズ的な社会認識の下理論を構築していないだろうか。熊谷が立岩を「素面な文章」と言うとき、立岩が「ロマンティックなやつ恥ずかしい」と言うとき、私は、分かる人にだけ、現場の人にだけ届けばよいと言うような、内輪で、お互いに承認し合うような排他性と優位性を感じ取ってしまう。
 全ての人が障害とともにあり、介護とケアとともにあるような現状を想定するならば、立岩は正しいだろう。多くの人が立岩の理論はまっとうで、素面な文章だと理解してくれるだろう。しかし障害者はマイノリティという側面がまずはある。権力から政治から生活から排除されているという現状がまずはある。そのような状況で、私は、マジョリティがリベラルで、他者を尊重して、話し合いが可能で、不平等や不正義には抵抗するような主体を想定できない。そうであれば、ヌスバウムやロールズはそうしたマジョリティである市民に向けて、不平等や障害者などの排除されてきた人々を包摂させようとするものと理解でき、「ロマンティック」はおろか、操作的、革命的、現実的であるとの評価がふさわしい。確かに立岩の理論は「酔ってない」かもしれない。しかしそう、諦めている。これも立岩は熊谷とのインタビューで語っているが、立岩は「何言ってもだめ」な奴がいることに気づいている。その上で「一応言ってみる」という姿勢で書いている、としている。もっと言えば、批判する「相手」も違う。ヌスバウムやロールズは少なくともそのような話の分からない人々ではない。「酔っている」かもしれない、しかしそうではない。むしろ立岩の本はヌスバウムに向けて書かれるべきである。ロールズやヌスバウムを否定する形での理論構築はあまりにももったいない。
 ヌスバウムと対立する意味がない。しかし、立岩がヌスバウムを批判して主張を伝えたい相手は誰だったのだろうか。
多くの人は、障害者とは無縁で日々の生活を生きている人々である。例え障害があってもそれを隠して社会に適応しようとしている人々である。障害者を日本経済に貢献しないという理由で非難する人々である。自殺しようとしていた人を涙ながらに繋ぎ止めた高校生を「余計なことをするな、どのように責任をとるのか」と非難する人々である。
 ロマンティックな主張、調子に乗っている、と立岩が言って、それを受けて納得して、「恥ずかしく」ない思いをするのは誰だろうか。障害当事者とケアワーカーや関係者のみなのではないだろうか。

◆9 障害とは何だろうか。私の発想はいつもここに戻ってしまうのであるが、知的障害や身体障害が「異常」や「狂気」として排除に直結していた時代に比して、現代の「障害」の「免罪」的側面は無視できないように考えられる。
 だが、なぜこのように障害が社会との関係の中で考えられるようになったのだろうか。視力が悪い人がいて視力の向上を社会に、政府に求めただろうか。求めたとして、いつからだろうか、そしてどのような「障害」だっただろうか。 た
 わたしたちは日常的に好悪、特に見た目や容姿に基づいて交流や経済行動の相手を選び選ばれるし、苦痛であるような環境(学校や仕事等)にさらされるし、暴力だって振るうし、できなかったら希望する学校や職業につけないことだってあるし、車を運転していたり、ただ住んでいるだけであっても事故や被害としての死の可能性があったりする。しかし、これは全て、障害と違って「公共」の問題ではない、と言われればそうかなとも思う。すなわち、本書においては法的に、制度的に、公的に、障害への対応が議論されている。だとすればやはり公共とは何か、というところから議論を始める必要はないか。そして立岩があくまで障害を「公共」圏の問題として、社会の中の、また社会に対する問題として障害を議論するとき、やはり障害は「正義」や規範、倫理と無関係ではいられない。
 だからロールズやヌスバウムを引いたのだろう。しかし、公共外の領域ではどうだろうか。まず、立岩が生活圏での問題を考えていたかどうかというよりも、立岩は一般に現代社会において、家族や地縁的共同体のような関係の明示的な表れを想定していない、と考えたほうが良いだろう。特に高齢者や認知症などの介護が外注されるようになり、サービス化がなされる現状を基に、障害者が一人で個人として必要なものを「サービス」として受け取る状況を想定している、と考えるべきだろう。その上で、家族や友達が耳が聞こえないとき、私たちは彼らのことを「障害者」と認識するだろうか。だが、例えば何らかの障害でうまくコミュニケーションがとれず、自傷や他害の症状があるとどうだろうか。私たちは彼らのことをどのように認識するだろうか。もし障害がなければ、「嫌な奴」とか「手に負えない」として彼らを「性格」付け、距離をとったりすることになるだろう。だが、「障害」であるとされれば、同情したり共感したり、何かできることを探したり、とりわけ行為の免責がなされるだろう。では、障害(インペアメント)が先か、身体特徴が先か、という話になる。バトラーが「セックスが常に既にジェンダーである」といったように、障害は、インペアメントは既にディスアビリティであると理解した方が妥当であるように思われる。
 すなわち、円滑な社会活動を営むにあたって支障をきたし得る身体的特徴が、社会毎に「障害」とされる、ということである。聾者であっても、マーサズヴィニヤード島では住民の多くが、聴者であっても手話を使うため、聾がインペアメントとなることはないだろう(もしそうなってしまうなら、日本社会でも体重や身長の差異までもがインペアメントと呼ばれなくてはならない、もしくは逆上がりができないことがインペアメントになってしまう)。また、性同一性障害(現在では性別違和)が障害であったのは、男女による婚姻を範とする社会であったからにほかならず、フェミニズムの仕事や社会の変化によりインペアメントとはみなされなくなるだろう(現時点でインペアメントかどうかも疑わしいが「異なり」の観点には当てはまる)。(また、以上の議論は星加が行った議論とも重なる点が多いようにも思われ、立岩には必ずしも同意されるものではないだろう)。

 従って、インペアメントとディスアビリティは複雑に絡み合っており、これらの使用を行わなかった立岩の議論に同意する。しかし、「異なり」やできない、加害、苦痛、死がまずは排除・忌避と伴にあることは認められるのだろうか。そしてそれらが「障害」とされることにより、人と人との間で認識がどのように変わるのか。先に述べたように「免責」されるとするならば、私は先に述べた彼と直接の、もしくは対等の関係を築くことはできないだろう。では、「障害」とは何か。障害という装置は「免責」を通して関係の可能性を開くと同時に、関係を阻害し、それを外的に規定してしまうこともあるだろう。だがやはり立岩が病を持ち出しのは良かったのではないかと思う。病は医療に任せればよい。人工透析や人工呼吸器など生命に関わる自己決定権の問題や難病、尊厳の問題など医療に出せない答えは多くある。
 だが道具としての医療ができることも多くある。とにかく掛かってみればよいのである。障害は社会の病である。社会に訴えればよいのである。それでよいのではないだろうか。そうして初めて私が彼と向き合う可能性が生まれてくる。障害を「社会化」(障害化)しなければ彼とは向き合えないが、社会の包接から抜け出さなければまた、彼とは向き合えない。
 そこでは「免責」はなく、好悪が存分に入り込む。これとは逆に個人までもが社会と化し、障害者と向き合うことは好ましくないことだと考えたが、立岩は「障害者」との個人的なかかわり方、及び関係性(及びその構築)についてはどのように考えるだろうか。

◆10.なぜ立岩が本書においてこれほどまでにぎこちなく、ある種神経衰弱的な記述に陥っているのかの理由が読み進めていくにつれて分かってきた。
 『私的所有論』では岸政彦が「立岩真也がカップラーメンを食べたら」で述べているような文体はほとんど採用されていない。立岩は本書においてはあれほどまでに『私的所有論』で詳細に論じていた、自己の身体の生産物の自己による取得を社会の現状として時に認めながら論を進めている。社会という良く分からないモノが、良く分からない価値観や慣習、及び伝統に従って運行している現実に対峙し、極めて慎重に「社会」からの主張に対して一つ一つ反論をしているようである。
 話は戻る。特に障害者の文脈で「不利益」や「不都合」が問題にされることがあるが、立岩の議論は当然ながら社会や国家を前提しているだろう。しかし現在、政府機能も縮小し、「国民国家」それ自体への疑義も議論され民族はおろか国家の成員としての「国民」の正当性が揺らぎつつあり、グローバリゼーションの発展とともに国家単位で経済や政治を考えることは自明ではいられないだろう。このような中で立岩の構想する分配はどのような共同体によってなされるのか。例えば、私の生産物がアフリカの貧しい人々に分配される根拠や仕組みは差し当たりない(いや、これも日本が加盟する国連が介入するという意味では私の生産物は世界中の人びとに分配されるべきであり、されている、となるのだろうか)。現在の日本でも他人の不利益のために自分の利益を損ねてもよい、いや、「「自分の利益」など幻想にすぎない」と言われて納得する人がどれほどいるだろうか。
 現状ではやはり、国民には「自分の利益」を追求してもらい、課税として国家が分配業務を行い、国家が「利益の在り方」を正す必要があるだろう。ここに理論が必要であるならば立岩の理論はここで国家権力に必要とされ得るだろう。それとも立岩の『私的所有論』が国民に向けられていたとしたら、やはり先に述べたように「国家」や「国民」という枠組みが揺らぎ国民の連帯が損なわれていく中で共同体の想像力はどのようにして維持され得るかという疑問に戻ってしまう。私的所有に絡んだ身体の違和感や感覚を鮮明に解き明かした『私的所有論』はどのように「実装」され得るのだろうか。
 また個人的に、『私的所有論』の「身体の他者性」の提示は非常に感銘を受け、立岩の哲学的思索の結実の一つのようにも思われるのであるが、「他者は自己」でもあるのではないだろうか。唐突になるが、文化人類学の知見からは食人は、食される人間が「敵」であり、身体が破壊された後に初めて行われることが多い。これほどまでに極端な例を引かなくとも、人間は他者や他者の身体を容易に傷つけたり、食したりはできない。この辺りの議論は立岩が「線引き問題」として議論しているテーマに接続し得るのであるが、問いは「どこまでが自己か」ということになる。
 自己が自己の身体のみによって規定・支持されているところに身体の自己所有は根を張る。これは他者への信頼の崩壊に端を発している。これが「現存在」に固有の契機、固有の不安だと言われれば為す術はないだろう。この観点からは、身体の自己所有は、「身体だけは私のもの」という撤退の切実の思想のようにも思えるのであるが、身体を他者に開いていく可能性は残されているのだろうか。


 ついでに、2018年以降の拙著。

◆青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院,424p. ISBN-10: 4865001042 ISBN-13: 978-4865001044 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2020/01/10 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』,青土社,536p. ISBN-10: 4791772261 ISBN-13: 978-4791772261 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2021/03/10 『介助の仕事――街で暮らす/を支える』,ちくま新書,筑摩書房,238p. ISBN-10 : 4480073833 ISBN-13 : 978-4480073839 820+ [amazon][kinokuniya] ※
◇立岩 真也 2021/03/11 『介助の仕事――街で暮らす/を支える 補注・文献』Kyoto Books ※
◆立岩 真也 2022/12/10 『良い死/唯の生』,筑摩書房,ちくま学芸文庫,624p. ISBN-10:4480511563 ISBN-13:978-4480511560 [amazon][kinokuniya]
◆立岩 真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房,288p. ISBN-10:4480864806 ISBN-13:978-4480864802 2200+ [amazon][kinokuniya]
◇立岩 真也 2022/12/25 『人命の特別を言わず/言う 補註』Kyoto Books
◇立岩 真也 2022/12/30 『生死の語り行い・3――1980年代、2000年以降』Kyoto Books

青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙   立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙   立岩真也『介助の仕事――街で暮らす/を支える』表紙   立岩真也『良い死/唯の生』表紙   立岩真也『人命の特別を言わず/言う』表紙


UP:2020117 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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