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人命の特別を言わず*言う 補註


立岩 真也 2022 KyotoBooks

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◆立岩 真也 2022 『人命の特別を言わず*言う』,筑摩書房
◇立岩 真也 2022 『人命の特別を言わず*言う』文献表

 ※上記の本について、『介助の仕事――街で暮らす/を支える』に対する『介助の仕事――街で暮らす/を支える 補注・文献』と同様、関連する引用などをこの頁から別途提供することにします。


■人

最首 悟
吉本 隆明
Kuhse, Helga
Singer, Peter


■引用

◆立岩真也 1997 『私的所有論』
◆立岩真也 2013 『私的所有論 第2版』
 ※【】内が第2版における追加分

第1章
第2章
第3章
第4章

『唯の生』第1章「人命の特別を言わず/言う」
※本書はこの文章が一つのもとになっていますが、順序の変更を含め、かなりの変更・加筆があります。『良い死』『唯の生』をあわせて文庫本にするに際して、この章は省くことにしました。そこでここに収録することにします。



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■■第1章

◆生田 武志 20190225 『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』,筑摩書房,466p. ISBN-10:4480818510 ISBN-13:978-4480818515 [amazon][kinokuniya] ※

 ▽「シンガーが言うように、もし障がい者の立場を悪化させず動物をより尊重するのなら、彼の哲学は現実には障がい者の立場から問題はないはずです。しかし、シンガーの議論には、おそらく障がい者を「健常者」や「感覚をもつ」動物に対して「劣る」存在と考えさせる面があり、それが「事件」を引き起こすことになったのです。
 シンガーの議論に対して、このような反論が考えられます。シンガーは(種としての)「人間」と(理性的で自己意識のある存在としての)「人格」を区別し、「人格」を持つチンパンジーを殺すことは「人格」ではない人間を殺すより「悪い」としました。それは従来、考えるまでもなく自明とされていた「人間中心主義」を否定するほとんど革命的な転換でした。しかしそれは「人△179間中心主義」から「人格中心主義」へ、つまり「理性的で自己意識がある」ことを価値基準にした新たな差別体制でしかないとも考えられます。それは従来の「人間でなければ殺してもいい」を「人格でなければ殺していい」へ変えただけではないでしょうか。
 しかし「人格中心主義」が新たな「差別」だとしても、それに対するシンガーの回答は、「人間中心主義」に比べれば「人格中心主義」の方がはるかに妥当だ、ということかもしれません。現実に、動物解放運動によって障がい者が殺されることはなく、一方で多くの動物の扱いが改善されています。かりに「人格中心主義も差別だ」と批判するなら、わたしたちは、より差別の少ない(あるいは差別が全くない)別の提案をする必要があります。少なくとも、「どちらも差別だから「人間中心主義」のままでいいか」と主張するのは不可能なのです。(生田[2019:179-180])△

■註
★01 『私的所有論』([1997→2013]、以下、『私』と略)の第2版に「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」を置いた。その第2節が「人に纏わる境界」、その2が「殺生について」。その註10より。
 「そしてまた、人は人を殺すこともある。それは実際いくらもあってきた。(それは、特殊な場合を除けば、食べるためにではない。あるいは食べるに際して特別の意味が込められてきた。)「近代」あるいは「近代批判」が、殺さない範囲を、また一人前の人間の範囲を拡大してきたという面はあるだろうが、それは実際に殺さなかったことを意味しない。そして人間ではないから殺さなかったわけではない。人間であることをわかってはいたが、むしろわかっていたから、たくさん殺してきた。そして本書に述べることからも、どんな人も殺してならないといったことを言えるわけではない。」([2013:806])
 本書では本文のもとになった過去の私の文章の一部をかなり頻回にそしてかなり長く、そのまま註で引用することがある。一つには、別の文章を用意する必要がないと思うことがあるからだ。一つには、以前書いた文章との差異、いくらかの進展について知っていただきたいと思うからだ。
★02 シンガーの『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』冒頭の「謝辞」には以下のようにある。
 「過去一四年間、ヘルガ・クースと私は本書で取り上げられた広範な分野についてともに研究してきた。私たちは互いに相手から学んできたので、私たちの考えはいつしか混ざりあい、もともと私自身の考えであったものと彼女自身の考えとを区別するのが今では困難なほどである。本書と彼女の『医学における「生命の神聖性」の教え――一つの批判』とを併読すれば、私がどれほど彼女に負っているかが誰にでもわかるだろう。」「ヘルガとの知的な親交、そして彼女の励ましがなければ、おそらく私はこの分野の研究をとうの昔にやめていただろうし、本書が書かれることもなかっただろう。」(Singer[1994=1998:12])
★03 日本語に訳された本が三冊ある。一冊は編書で『尊厳死を選んだ人びと』(Kuhse ed.[1994=1996])。次に訳されたのが『ケアリング――看護婦・女性・倫理』(Kuhse[1997=2000])。訳書として三冊目になる『生命の神聖性説批判』(Kuhse[1987=2006])の発行は二〇〇六年。ただこの本はもとは一九八七年に刊行された本である。なぜこの本の訳が二十年経って、と思わないでもないが、楽に読めるのはありがたいことではある。そして、この人(たち)の言っていることは、数十年、基本的には変わらないから、この本でもおおむね間に合う。それは主張が一貫しているということでもあり――私にはその一貫した熱情がどこから供給されているのか正直わかりかねるところがあるのだが――それもよいことなのかもしれない。
 その本の奥付・カバーから拾うと、「ピーター・シンガーと共に国際生命倫理学雑誌『バイオエシックス』の編集に長く携わった。モナシュ大学(オーストラリア)ヒューマンバイオエシックスセンター前所長。」「彼女の哲学者としての業績は、本訳書に集約されると考えられる。」
 シンガーとの共著論文に例えば「重度の障害をもった新生児はみな生きるべきなのか?」(Kuhse & Singer[2002])。シンガーとの共編書に『人命の脱神聖化』(Kuhse & Singer eds.[1998])。
★04 一九四六年オーストラリア生まれ。メルボルンのモナシュ大学にずっといたが、プリンストン大学に移る。最初に邦訳が出たのは共著の本で『アニマル・ファクトリー――飼育工場の動物たちの今』(Singer & Mason[1980=1982])、その後も編書で『動物の権利』(Singer & Regan eds.[1985=1986]、第2版がSinger & Regan eds.[1989])、『動物の解放』(Singer[1975=1988])等が出ている。二〇〇〇年代に入っての翻訳ではパオラ・カヴァリエリ、ピーター・シンガー編『大型類人猿の権利宣言』(Cavalieri & Singer eds.[1993=2001])がある。第4章(◇頁)でこの本に言及するジャック・デリダへのインタビューの聞き手の発言を引用する。
 また本書の主題に関わる訳書としては、『人命の脱神聖化』(Kuhse & Singer eds.[2002=2007])がある。クーゼとシンガー編で二〇〇二年に出た、古いものでは一九七〇年代発表のものも含む二四篇の論文を収録したシンガーの論文集があって、そこから論文一一篇とクーゼの序文を選んで訳したという本である。言われていることは、その他の著作と同じである。『週刊読書人』掲載の堀田義太郎の書評(堀田[2007])がある。※全文を『補註』([2022])――本に入り切らない部分があり、リンク先に情報があることがあるから、『介助の仕事』と同時に作って提供している『介助の仕事 補註・文献』と同様、ネット上で『補註』を提供する――に収録した。
 またシンガーの論の解説書として山内・浅井編[2008]、その中で本書に関係する章として浅井篤[2008]、村上弥生[2008]。
★05 『グローバリゼーションの倫理学』(Singer[2002=2005])、『「正義」の倫理――ジョージ・W・ブッシュの善と悪』(Singer[2004=2004])といった本がある。
 分量も多くわりあい理論的な本とも言えよう『実践の倫理』でも、やはり動物を殺すことの是非が扱われ、貧富の差の問題が論じられ、そして人の生死の主題が平明に論じられる。初版が一九七九年で訳が九一年に(Singer[1979=1991])、第二版が九三年で訳が九九年に出ている(Singer[1993=1999])。そして、さらにわかりやすい本、「一般市民」向けと言ったらよいのか、『生と死の倫理』(Singer[1994=1998])がある。その主張は一貫している。これだけ長い間同じことを言い続けるその熱情は不思議でもあり、一貫していることが立派なことであるとすれば、立派だということにもなるだろう。
 訳書の帯には「オーストラリア出版協会賞受賞」とある。日本だとどんな本に対応すると言ったらよいだろうか。あまり手抜きはせず、ただ本の性格ゆえもあってか論理に荒いところはあり、しかし(あるいはゆえに)わかりやすく、読者を説得しようという姿勢で書かれている。著者の論理を、論理に内在して検討するには別の本がよいのだろうが、このような本も、どのような言い方でこの人は言いたいことを伝えようとするのか、それがわかってよいところはある。
★06 やはり『私』がその基礎的な仕事としてある。その後、『自由の平等』(立岩[2004])、『所有と国家のゆくえ』(稲葉・立岩[2006])。『税を直す』(立岩・村上・橋口[2009])、『ベーシックインカム』(立岩・齊藤[2010])、『差異と平等――障害とケア/有償と無償』(立岩・堀田[2012])。
★07 関連する論文に「倫理学と安楽死」(Fletcher[1973=1988])。
 「明らかに消極的な安楽死が現代医学では既成事実となっている。毎日国内各地の多数の病院で、真に人間的な生命を延長している状態から、人間以下のものが死んでいくのを延長しているにすぎない状態にまで立ち至ったという判定が臨床的に下されており、そのような判定が下された時には、人工呼吸器をはずし、生命を永続させるための点滴を中止し、予定されていた手術を取り消し、薬の注文も取り消すということになる。」(Fletcher[1973=1988:135])
 本文にあげた人たちと同じく、もうなされていることを言う。そしてそれを是認すればより積極的な処置も是認され、さらに積極的な致死のための処置の方がむしろよいことがあることを述べる。そして、これらの行ないがみな正当化される。そして基本にあるのは同じ価値だ。
 「重要なのは《人格的な》機能であって、生物学的な機能ではない。人間性は第一次的には理性的なものとして理解されるのであって、生物学的なものとして理解されるのではない。この「人間についての教義」は、人間homoや理性ratioを生命vitaに優先させる。この教義は、人間であることを生きていることよりも、もっと「価値がある」と考えるのである。」(Fletcher[1973=1988:138])
 「《人間であること》の限界を越えて生かされ続けることは望まない、したがって、適切と思われる安楽死の方法のどれかを使って、生物学的な過程を終わらせることを認める、こうしたことを説明したカードを、公正証書にして、法的に有効なものに作成して、人々が持ち歩けるような日がやってくるだろう。」(Fletcher[1973=1988:148])
 ジョゼフ・フレッチャー(一九〇五〜一九九一)は聖公会の牧師で、キリスト教者・プロテスタントとして生命倫理学の登場時期に影響を与えた。また後に無神論者であるとされた人でもあるという。その思想について大谷いづみ[2010]、ネットから読める科研費研究の報告として大谷[2013]
 『私』第2章では、「人間は製作者であり、企画者であり、選択者であるから、より合理的、より意図的な行為を行うほど、より人間的である。」(Fletcher[1971:181])以下を引用、言及している文献を紹介し、検討した([1997→2013:82-83,116])。
 第4章で、「人間たるということは、我々がすべてのことをコントロールの手中に置かなければならないということを意味する。このことが、倫理用語のアルファでありオメガである。」(Fletcher[1971:781])を引用、この箇所を訳し紹介している文献をあげた検討した([1997→2013:185])
 第5章で、「「もし望むなら他の検査で詳しく調べてもよいが、ホモ・サピエンスの成員で、標準的なスタンフォード・ビネー検査でIQが四〇以下の者は人格(person)かどうか疑わしい。IQが20以下なら、人格ではない」(Fletcher[1972:1])以下ともう一つの論文から引用し、この文献に言及している文献を列挙した(立岩[1997→2013:356-357])。
★08 『私』の第7章「代わりの道と行き止まり」の第1節が「別の因果」。その1が「社会性の主張」。ここでアファーマティブ・アクションに言及した。2は「真性の能力主義にどう対するのか」。
★09 このことを幾度か、一番わかりやすいと思うのは『人間の条件』で、述べた。
 「ある人ができないことは、その代わりに別の人たちがしなければならないのなら、そのある人にとってはよいことであり、別の人たちにとってはよくないことである。こうなる。これは、できることはまずその本人にとってよいことであるという「常識」と違う。しかし、ここまで述べたことになにか間違ったところがあるだろうか。ないはずだ。とするとむしろ、なぜ自分ができた方がよいのか。そちらの方が不思議なことのように思える。そしてこの問いに対する答は一つではない。」(立岩[2010→2018:◇])
★10 自律的な人間を大切にすることと、自律的な人間が決めたことだからその決定を大切にすること、両者は同じではない。安楽死や尊厳死と呼ばれるものについては、通常、決めたこと「だから」という契機がある。しかし本章で見てきた場面にはその契機はない。自分で決めない/決められない状態の存在のよしあしを言い、その生殺を決めるのは、当然その本人ではありえない。次節でこのことをより詳しく説明する。また、安楽死・尊厳死と自己決定については『良い死』(立岩[2009→2022]の第1章「私の死」。
★11 「もしシンガーが、感覚力にもとづいた平等な配慮の原則という、もっと単純な論旨で議論を終えていたならば、『動物の解放』は並外れて反健常者主義的な本になっていただろう。彼は、認知能力を特定の存在の価値を測る尺度として用いることの危険性に警鐘を鳴らす議論を展開することもできたのだ。だが、シンガーはそうしなかった。感覚力に焦点を合わせたにもかかわらず、彼は最終的には、人格の裁定者としての理性に再び王座を譲り渡す。完全な人格をもった生は、そうでない生よりも価値があると主張することによってだ――完全な人格を有する生の場合は、死ぬと頓挫してしまう利害関係および欲望があるが、人格を欠いた生の場合には、そんな欲望や利害関係そのものをもつことができないからだ。シンガーは種という壁に果敢に挑んでいるにもかかわらず――ここで人間と非人間を分かつ線は彼にとって道徳的に重要ではない――このような主張は、特定の力量をもつことのない動物たちに対して、明らかに好ましくない帰結をもたらす。これはまた、知的障害者にも間違いなく悪影響を及ぼす。こういった枠組みのなかでは、このような人びとは不可避的に、より価値の小さい存在として判断され、カテゴリー化されてしまうからだ。」(Taylor[2017=2020:215-216])

★ 「◆22 功利主義者が全てこのような議論をするわけではない。例えば、功利主義の立場に立つとされる倫理学者シンガー(cf.第5章注08)は、生命を奪われることはその者に選好されない行為だから、望ましくない行為であるとする(Singer[1979=1991])。ここでは(Bではなく)Aが生命を持つことは前提されている。けれども、Bにしても生命を奪われることが望ましくないのは同様のはずである。Aを優先する根拠は功利主義の内部にはない。功利主義だけを論拠にすれば必ずハリスのような議論になるはずである。ここではシンガーは意外に過激ではない。【功利主義による安楽死肯定論の紹介として有馬[2012]。】  功利主義は幸福の総量という基準をとる【立場だと、通常、される】。これを批判する者がまず持ち出す▼129のは、各人間の欲求・満足の比較不可能性である。そうかもしれない。しかし、これを全面的に受け入れるわけにはいかない。というのも、比較を私達は現実に行っているからであり、しかもそれを正当だと考えている、あるいは正当ではないにせよ仕方のないこととと感じているからである。例えば、ある者が飲み水に困って死にかけている。他方で、ある者が風呂に使うために水を使おうとしている。双方が水を得ることによって得られる快は相互に比較不能であって、云々といった言明に納得するのは難しい。比較・合計を私達は消極的にであれ、積極的にであれ受け入れている。財の配分の問題は大抵は量的な分配問題として処理することができる。より多く持つ者がより少なく持つ者にその超過分の(ある部分を)分け与えるなら、世界の幸福は増すかもしれない。そしてこうした移動を行なっても、少なくとも現実にはそう深刻な問題にはならない。しかし、例えば臓器、つまりは生命の場合にはそうはいかない。ハリスが論じているのはそうした場面である。  「さらに、以上にも関連し、自然の価値の重み付けを巡る議論がある。感覚の存在を根拠とする(「感覚主▼286 義」sentientism)シンガー等の動物の解放論(cf.第5章注08、平石隆敏[1994]、鬼頭[1995])があり【(第2版補章1・●頁に関連したことを少し記す)】、「生命の主体」であるものに権利があるとする立場がある(Reagan[1974][1993]等、cf.Feinberg[1974][1980b]、飯田亘之[1995])。他方に、有機体、生態系、エコシステム等、全体としてみることが大切だとする主張がある。前者と後者は対立を構成するとされ、前者は後者からその個別主義が批判され、後者は前者から(と限らないが)その「全体主義」が批判される。後者について「有機体」と「共同体」を区別し、「共同体」説は個々の自然物の固有の価値を認めるものだといった主張もある(Katz[1985])。  これらは、何により多くの価値を認めるのか(あるいは価値の序列自体を否定すべきか)という議論であり、言うまでもなく、いずれも人間中心主義Zの中にある。そして、Aの立場から人類の生存のためには生態系全体が大切だといった主張がありうる一方、自らからの「近さ」という契機を消し去ることができないならBの中にも序列は存在しうる――これと同じものではないが、人間により似たものに価値を与えるのもまた「人間中心主義」と呼ぶことができよう。他に現存する人間だけでなく未来の人間のことも考えようという「世代間倫理」の議論がある。(「弱い人間中心主義」の主張としてNorton[1984]、「人間中心主義」「非・人間主義」について渡辺[1994]、谷本光男[1995]、「内在的価値」批判として浜野研三[1994]、ネスらの「ディープ・エコロジー」の紹介として菊地惠善[1994]、森岡[1995b]、「全体論」についての検討として菊地[1995]。「世代間倫理」について高橋久一郎[1994]、谷本[1994]。Stone[1972=1990]等の自然(物)の「権利」という主張の検討・批判として大澤真幸[1990→1991]、池田[1990b→1996a:90]、等)。」 「自然物の「権利」についてだけ付言しておく。この語にどのような意味を与えるかによる。例えば権利の主体に選択や応答の能力を求めるなら、自然物の権利という言い方は誤っている。たが、こうした資格を必須としないなら、自然物の権利という発想は特段に奇異ではない。また、それが、私ではない(私が自由に▼287 すべきでない)ものがあることを言おうとしているのだとは言える。ただ以上は、権利の語の使用が適切だと主張するものではない。繰り返すが、権利の付与を行うのは私達であり、このことを曖昧にする効果があるならこの語を用いることは適切ではない。以上、より詳しくはhp[環境倫理]。  障害をもった新生児の「安楽死」◆06を論ずる著書の中でレイチェルズがこの主張に対して言うのは、「尊重されねばならない」「特別の敬意を受ける」その集合の範囲を人間と▼314 いう「種」とする決定的な理由を見つけにくいということである。例えばその集合を特定の人種としても論理としてはよく、とするとこの主張は人種主義を肯定してしまうことにさえなるのではないか◆07。このノージックに対するレイチェルズの批判はあたっている。  とすると、もう一つの答え、ヒトにあって他にない、「われわれと同じように理性的で、自律的で、内面的に豊かな心理生活を営む」といった要件、資格、を設定する主張を受け入れることになるのか。  快苦を基準に考える功利主義者にとっては、苦痛であることはよくないことである。他方で苦痛を感じない存在については問題はない。シンガーが行うのがこうした主張である◆08。またレイチェルズにとっては、能力をもつ存在にはできることがたくさんあるのだが、死ぬということはそれができなくなることを意味するから、そうした存在にとって死はよくないことなのである◆09。条件を設定するのは功利主義者に限らない。自己意識をもつ理性的存在者であることを要件とする主張がある◆10。両者に、現実に、そう大きな差はない。  快苦を基準にすれば、快苦の感覚をもっている(だろう)生物は救われることになる。ただ、これは、殺さない範囲をヒト以外に拡張していくというだけでなく、同時に縮小▼315していくものである。縮小していく時、「ヒト」の一部は除外されてしまう。それにしても、ともかく、このような説明が一定の説明力をもつように思えるのは、それがヒト(の全てではないにせよ)を特権化することに対する答えとして提出されているということである。人間の生命(だけ)を尊重するのは、それが他の種の生物と異なり、例えば意識をもつ種だからだというのである。」 「◆08 シンガーは、第一に無感覚の存在、第二に快苦の感覚だけをもつ存在、第三に快苦の感覚に加えて理性と自己意識をもつ「人格」の三つを分ける。そして、選好功利主義の立場から、一番目は配慮すべきそ▼355れ自体の利害をまったくもたない、二番目は苦痛を与えないように配慮すべき、三番目は快苦に関する利害と自分の将来に関する利害の両方に配慮すべきとする(Singer[1979=1991])。ここから快苦の感覚をもつ動物の生存権を認める主張をする(Singer[1973=1988][1975=1988][1990b]、Mason & Singer[1980=1982]、Singer ed.[1985])一方、障害をもつ新生児については安楽死を認めるべきだとする(Singer[1991b]、Singer & Kuhse[1984]、Kuhse & Singer[1985]、他に「生命の尊厳【(神聖)】」説(→第4節4)を批判するKuhse[1987]、「潜在性」に依拠する議論(→注16)等を否定しつつヒトの胚を用いた実験を支持するKuhse & Singer[1990]、Singer & Dawson[1990]等)。  こうした主張がドイツで障害者の組織に批判され、彼は壇上で抗議を受け、講演はとりやめになった。もちろん彼はそれに不満だ(Singer[1990a][1991a=1992][1992]。この「シンガー事件」及びシンガーの主張を検討したものに市野川容孝[1992a]、土屋貴志[1992][1993][1994a][1994c][1995a]、川本隆史[1996]、ドイツ哲学界の状況の報告を含む河村克俊[1996]。以上にシンガー批判の側の論点も紹介されている。)【またシンガーの主張を解説する本として山内・浅井編[2008]。】「表現の自由」を何より特権的に保護すべきだとは考えないが、この場合には表現自体の禁圧という方法を選ぶべきでないと思う。彼の主張は、どれほど露骨にはっきり言うかという程度の差はあるせよ、私達の生の一部なのではあり、発言を禁止したところでなくなるものではなく、できるのは、そうした主張がどれほどのものかを検討し、それをその主張に対置することだと考えるからである。土屋[1993:338-339]でほぼ同趣旨の主張がなされている。【シンガーらの主張はあいかわらずで、その同じことを『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』(Singer[1994=1998])で繰り返している。その一部は有馬[2012]で紹介されている。私のシンガーとクーゼの主張に対する批判は『唯の生』([2009a])で行なっている。】」 「◆17 ドイツでの自らの扱い(第5章注08)に憤慨すると同時にいくらかは慎重にもなったらしいシンガーは『実践的倫理学』第2版(初版はSinger[1979=1991]、cf.江口聡[1994]、山内友三郎[1994])で次のよう▼721に書く。  「仮に車椅子の障害者たちが、副作用なしに両足が完全になおる奇跡の薬をいきなり与えられたとするならば、障害を背負った生活が障害のない生活よりも結局のところ劣っているということをあえて認めない人は、彼らのうちにどのくらいいるだろうか。障害者たち自身が、障害を克服し除去するために手に入る医学的援助を求めることは、障害のない生活を望むことは単なる偏見ではないということを示している。」(Singer[1993:139]、訳は土屋貴志[1994a:139])  「歩けること、見えること、聞こえること、痛みや不快感が比較的少ないこと、効率的にコミュニケーションできること――こうしたことはみな、事実上どんな社会状況においても、純粋に良いことgenuine benefitsである。こう言ったとしても、これらの能力を欠く人々がその障害を克服したり、驚くほど豊かで多彩な生活を送ることもあるということを否定することにはならない。いずれにせよ、克服すること自体が勝利といえるほど深刻な障害に、私たち自身や私たちの子供が直面しないように望んだとしても、障害者に対する偏見を示していることには全然ならない。」(Singer[1993:54]、土屋[1994a:139])  例えば「純粋によいこと」とする記述の妥当性には疑問がある。「障害を克服したり…送ることがある」といった記述も余計だと思う。土屋[1994a:142-144]の批判には同意できる点が多い。だが本文に述べたことは覆えされない。」

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■■第2章

 「だが私がやったことは、肉を絶対に食べ統けたいのならお勧めできない。哲学的な論議とジャーナリスティックな説明の半々で構成されている『動物の解放』を読めば、読者は自分の生き方の弁明に走るか、生き方を変えるかのどちらかしかないだろう。この本はそんな希少な一冊だ。シンガーの論法はあまりにも優れているため、生き方を変える読者も多いだろう。この本は数え切れないほどの人々を菜食主義に改宗させたが、少し読めぱその理由がわかつた。数ページも読まないうちに、私は私自身と、肉食と、狩猟の計画について、自己弁護をするはめに陥っていた。
 シンガーの論理は無用心なほどシンプルで、その前提を受け入れるなら、異議を唱えること難しい。まず人間の平等という前提を考えてみよう。それはほとんどの人が難なく止める概念だろう。だが平等とは、本当はどういうことなのだろうか。事実、人間はまったく平等ではない。ある人はほかの人より頭がよく、見栄えがよく、あるいは才能にあふれている。平等とは道徳的な概念であり、事実の断定ではないとシンガーは書いている。すべての人の利益に対して、彼らがどんな人であるか、あるいはどんな能力を持っているのかにかかわらず、同等の配慮がなされなければならないというのが、彼きいう平等の倫理的な概念だ。△115
 それはその通りだし、ここまでの結論に達した哲学者も少なくない。しかし、次の段階にまでを論理を進めた者はあまりいない。「ある人間の知性が高いからといって、ほかの人間を自分のために使う権利があることにはならない。それなら、人間の知性が高いからといつて、人間以外のを利用する権利がなぜ人間に与えられるのだろうか」
 これがシンガーの主張の要点だ。この文章が書かれているぺージの余白に、私はただちに反論り書きした。「だが人間と動物とは、倫理的に大きな違いがあるではないか」
 その通り、とシンガーはひるまず認め、それだから、豚と人間の子供は同様に扱われるべきではないのだという。利益に対する同等の配慮は、同等に扱うこととは違うのだと。子供の利益は教育を受けることに、豚の利益は土を掘り起こすことにある。けれども、利益が同じ部分についは平等の原則に基づいて、同等の配慮が必要になる。そして、人間が豚やぼかの知覚がある生物すべてと共有するある重要な利益とは、苦痛を避けるという利益である。
 ここでシンガーは、一八世紀の功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムの有名な一節を引用している。一七八九年、フランスが黒人奴隷を解放し基本的な権利を与えたあと、しかしまだイギリとアメリカがそれを行う前、べンサムは「人間以外のすべての動物が同じ権利を手にする日がいつか来るであろう」と書き、さらに、どんな特徴があるものに道徳的な配慮が必要なのか問いけている。「それは理性的な能力か、あるいは議論する能力なのか。しかし成馬や成犬は、人間の赤ん坊よりもはるかに理性的であり、会話もするではないか。問題は、理性があるか、あるいは話せるか、ということではなく、苦痛を感じるか、ということなのだ」△116
 ベンサムはここで、哲学者のいうマージナルケースの議論という決め手を使っている。この世には、乳児や、重度の知覚障害者、精神障害者など、精神的な機能がチンパンジーのレバルにも達していない人々、マージナルケースがいる。彼らは道徳的な配慮を相手に返すことはできないが(己の欲するところを人に施せという戒めを守るなど)、私たちは彼らを道徳的な配慮の対象に入れているではないか。それでは何を根拠に、チンパンジーを除外するのか。
 「それはチンパンジーはチンパンジーで、赤ん坊や障害者は人間だからだ」と、私は躍起になって余白に殴り書いた。けれどもシンガーにとっては、それだけでは充分な理由にならない。チンパンジーが人間ではないから道徳的な配慮から除外するというのは、黒人奴隷が白人ではないから除外することと同じなのだと。人間に対する除外を人種差別と呼ぶように、動物の権利の擁者は、チンバンジーがただ人間でないから差別することを種差別(スピーシズム)と呼ぶ。
 「だが黒人と白人の違いは、私の息子とチンパンジーとの違いに比べたら、大したことがないではないか」という私の問いに、シンガーは、「仮にたとえば知性など、大したことがなくはない違いに基づいて差別する社会を想像してみてほしい」という。もしそれが不平等だと思うのなら――それは確かに不平等だ――人間の持つあれこれの特徴が動物にはないからといって、なぜ差別しなければならないのか。重度の知覚障害者を仲間として見るなら、高い能力を持つ動物も仲間として見るべきではないのか。そうシンガーは結論づけている。
 私がステーキを食べるフォークを置いたのはここだ。平等を信条とするのなら、平等が特徴でなく利益に基づくものなら、私は牛の利益を考えるか、あるいは自分が種差別主義者だと認め△117 なければならないのではないか。
とりあえずいまのところは、私は自分が有罪だと認め、ステーキを平らげることにした。
 だがシンガーは、私にある嫌な概念を植えた。それは、ほかの動物の権利の擁護者の著作という水によってその後も育ち統けた。たとえば、哲学者トム・リーガンやジェームズ・レイチェルず、法学者スティーブン・М・ワイズ、作家のジョイ・ウィリアムズやマシュー・スカリーの著作だ。種差別主義だと呼ぱれても、私はかまわない。だが彼らが書いているように、もしかした、いつか種差別が人種差別と同じような悪だとみなされる日が来るのだろうか。ナチスのトレブリンカ収容所の陰でのうのうと生きたドイツ人のように、私たちも後世の歴史で糾弾されるのだろうか。南アフリカの小説家J・M・クッツェーは、最近プリンストン大学でまさにこの間いかけをし、答えはイエスだと述べている。擁護派が正しいなら、途方もないレベルの罪(クッツェーの言葉から引用)がいま現在、私たちはそうと気づかずに、日々繰り返されていることになるのではないか。

 それは、真剣に想像することも、ましてや受け入れることもほとんど不可能だ。レストランでテーキとピーター・シングーとの対決から数カ月聞、私はは論駁するための知力を総動員しようとした。だがシンガーとその仲間は、私が寄せ集めた反論をひとつひとつ負かしていった。
 肉食者の最初の反論は明らかだ。動物がお互いを道徳的に扱わないのなら、私たちが動物を道徳的に扱う必要があるのか。ベンジャミン・フランクリンは、私よりずっと前にこの路線をとっ△118 ている。彼は自伝で、「ある日魚釣りをする友人を見て、魚が共食いをするのなら、私たちが魚を食べてはいけないということにはないないと考えた」と書いている。ただしこの論理は、フライパンで魚が素晴らしく白い香りをたてるまでは思いつかなかったとフランクリンは認めており、合理的な生き物であることの大きな利点は、自分がとりたい行動に何らかの理由をつけられることにあるとしている。
 動物もお互いを食べるからという論理に対して、擁護派は、シンプルで痛烈な答えを用意してる。あなたは自然界の理法をもとにした倫理規範に従いたいのか、それなら殺人や強姦も自然ではないか。それに、人間は選ぶことができるではないか、と。人間は生きのびるためにほかの物を殺す必要はない。肉食動物は殺さなけれぱ生きることばできないが(わが家の猫オーディスを見てみれば、動物はただ殺す楽しみのためじ殺すこともあるようだが)。これは、家畜にとって自然界の生活は好ましくないのではないかというもうひとつの反論を引き出す。これに対して、アフリカの黒人を奴隷にした奴隷制度の賛成者も同じことをいったとシンガーは答える。自由な生活の方が望ましいのだと。
 だが、家畜の大半は自然界では生き残れないし、事実、人間に食べられなけれぱ、家畜は存在しないではないか! ある一九世紀の政治哲学者はこう書いている。「ベーコンの需要に誰より大きな利益を被つているのは豚だ。世界にユダヤ人しかいなかったら,豚はまったく存在していないだろう」
 それども擁護派は、それでもまったくかまわないという。たとえば鶏は存在しなければ、不当△119 に扱われることもないのだと。
 次に、畜産場の動物は、ほかの生活を知らないではないかという反論に対して、擁護派はこうえる。「動物は、体を動かし、足や羽根を伸ばし、毛づくろいをし、向きを変える必要を感じるものなのだ。それができる環境に住んだことがあるかどうかは関係ない」
 要するに、動物の苦痛とは、以前の経験ではなく、日々絶え間なく続く、本能的な不満に基づいてはかるのが適切だという考え方だ。
 それでは、人間による動物の苦痛が正当な問題だと仮定しよう。だが様々な問題あふれる世界に生きる私たちにとっては、人類の課題を解決することが先決なのではないか――。それは高潔な論駁に聞こえるかもしれない。だが擁護派は、ただ肉を食べるのをやめればいいという。菜食主義者になっても、人類の問題の解決に貢献できない理由はないだろうと。
 しかし、どうだろう。道徳的な理由から肉食をやめようと決められるその事実こそ、動物と人問の大きな違いであり、したがって種差別は正当化できるのではないか――。人間の食欲の曖昧さと、食に関する様々な道徳的な問題こそが、私たちを根本的に違う生き物にしている。人間は唯一道徳的な動物であり(カントが指摘しているように)、権利という概念を考えられる動物は人間だけだ。そういえぱ、権利というやつを自分たちのためにつくりあげたのも人間でけないか。道徳的な配慮を理解する者に道徳的な配慮をして、一体何が悪いというのか。
 ここが、知覚障害者や精神障害者、生後二日日の乳児、そして重度のアルツハイマー病の患者の道徳的立場という、マージナルケースの議論にぶつかるところだ。彼ら(近代の倫理学で使△120 われる憎むべき用語マージナルケース)は猿と同じく、道徳的な決定に参加できないが、私たちは彼らに権利を与えているではないか、と。当然だ、と私は答える。その理由は明らかだ――彼らは私たちの仲間だからだ。仲間に特別な配慮をするのは当然なことではないか。
 あなたが種差別主義者なら当然なのだろうというのが、擁護派の答えだ。それはそう遠くない昔、多くの白人が自分たちの仲間である白人だけの面倒を見ようといっていたのと同じことなのだ、と。しかし私は、マージナルケースの人権を守ることには、論理的な理由があるのだと反駁する。彼らを道徳的な共同体の一員にしたいと考えるのは、私たちもかつてマージナルケースだったからであり、再びそうなる可能性もあるからだ。さらに、彼らには父親や母親、娘や息子がる。それは、彼らの幸福に対する私たちの利益を、最も利口な猿の幸福に対する利益よりも六きいものにするのだ。
 シンガーのような功利主義者なら、家族親戚への気持ちは人間の道徳計算に何らかの意味を持っていることに同意するだろう。しかし、利益への平等な配慮という原則は、苦痛を伴う医学実験を重度の精神障害の孤児に行うのか、それとも正常な猿に行うのかという選択肢において、孤児の方を選べと要求するのだ。それはなぜか。猿の方が、苦痛を感じる能力に優れているからだ。
 マージナルケースに対する哲学者の論理の現実的な問題は、この点にある。この論理は動物を助けるために使えるが、それと同時に、マージナルケースを害する結果にもなるからだ。種差別主義をやめることは、私たちを道徳的な崖に追い詰めることになる。その崖の端ぎりぎりにまで追い詰められたとしても、おそらく私たちはまだそこから飛ぶ準備ができていない。△121
 けれども、私がここでしなけれぱならないのは、その選択ではない(その方がよほど楽なのに残念だ)。毎日の生活で選ばなけれぱならないのは、赤ん坊かチンパンジーかではなく、豚と豆腐のどちらを食べるのかということなのだ。シンガーの堅牢な功利主義を否定したとしても、苦を感じる動物に道徳的配慮をするべきかという疑問はまだ残り、それを拒否するのは不可能だ。そしてもし道徳的配慮をするべきなら、その動物を殺して食べることをどう正当化できるというのか。
 これだから、肉食は動物の権利のなかで最も難しい問題なのだ。動物実験については、最も過激な一部の人以外は、人間に対する利益と動物が払う犠牲とのバランスをはかろうとしている。それは人間の意識という特質が、快楽と苦痛という功利主義的計算で重みがわかれるからだ。人問の苦痛は、ネズミの苦痛よりも意味がある。人間の苦痛は、恐れのような感情じよって強くなることもあるからだ。同様に、人間の死は動物の死よりもたちが悪い。それは、動物にはわかないような方法で、人間には死の意味が理解できるからだ。それだから、動物実験についての論は、ある実験が本当に人間の命を助けることに必要なのかという、きわめて具体的なものになる(必要でないことが多い)。一方、生き残るために肉を食べることがもはや必要ないのなら、天秤の人間側の皿に私たちが置く、動物の利益よりも重い分銅とは、一体なんだろうか。
 これが最終的に、私が擁護派に対して弁明せざるを得なかった理由なのだろう。ナンバンジーと知的障害児のどちらを選ぶのか、あるいは、心臓バイパス手術の発展のために外科医が練習に使う数々の豚が犠牲を払うことをよしとするかは、別の次元の話だ。けれどもシンガーが書いた△122 ように、動物の生涯の苦痛と人間の美食的な嗜好とが選択肢ならどうだろう。私たちは目をそむけるか、あるいは動物を食べることをやめるしがない。どちらも嫌なら、自分が食べた動物が本当に生涯苦しんだのかどうか、考えなけれぱならない。
 シンガーは、私が肉を食べ続ける限り、その答えを客観的に見出すニとけできないという。
 「ほかの動物への配慮イコール肉食をやめることではないと信じることに、私たちは大きな利益を有する」
 それはわかるような気かする。事実、私はディナーの一皿を正当化しようと必死ではないか。
 「動物を食べる習慣のある人は、その動物が育った環境が苦痛の原因となったか、まったく偏見なしに判断することはできない」
 つまり、狩猟をするべきかどころか、肉食をするべきかを良心に基づいて決めるなら、まず肉食をやめなければならないのだ。これは難題に思えたが、受け入れる以外に選択肢はない。こうして、ある九月の日曜日、美味しいポークテングーロインのバーバキューを食べてから、私はいやいや菜食王義者になることにした。どうか一時的なものであるようにと心から願いながら。」

◆立岩真也 20071200 「書評:加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』」,共同通信配信記事 ※Uに収録 〈U:66〉

 「★01 この本のごく短い紹介を共同通信社の依頼で書いた。なにぶん短い文章であり、新聞のそうした欄に書けるのは、争いを構成する論点についての異論の提出といったものではない。それはその制約のもとでは書けないし、ごく短く書いたとして、その本をまだ読んでない人には理解しにくいだろう。そしてもしその本がよい本であるなら、そのことをまず読者に言うのがよいだろう。そこでそのように書く。それでも一言二言加えることはするが、それ以上はあきらめ、その一言二言は常に舌足らずになる。その全文が以下。〔新書では全文は掲載せず〕

 ▽人の生き死にに関わる様々の是非を論じる「バイオエシックス(生命倫理学)」という学問がある。それは、こんな人は生きていてよいと言う。あるいはよくないとする。それ以前に、ある存在は「人」ではないなどと言う。それはおかしいと感じる人がいる。ただまったく間違っているようには思えず、話としてはよくできてもいる。  他方に、「いのちはすべて等しく大切だ」といった言い方もある。さきのものと比べて、なにか平和でよいようにも思える。しかしそんなきれいごとが通るのか、通せるのか。この言い方も、また違うのではないか。
 どう考えたらよいか。話はすこしややこしくなる。著者はこの問いに答えようとする。というのも、著者はもう二十年も前から、人工妊娠中絶への批判を批判せねばならないと思い、同時に、人の性能によって差別する思想に反対しようと思って考えてきたのだ。  今度のこの本では、もう一つ、その思考の延長上に、障害をしょって生まれてきた自分は「生まれない方がよかった」と言って、自分が生まれることを阻止しなかった責任を問い、損害賠償を求める「ロングフル・ライフ訴訟」◆についての考察が加わっている。このなんと言ったらよいのか言葉に困ってしまう行いについて、裁判の事例など初めて一般向けにまとまって紹介され、考察が加えられる。そしてこれらを考えていく時、著者が読み込んできた様々な作品、例えば『風の谷のナウシカ』(漫画版)等の解読がはさまれる。
 ただ問いの基本は同じだ。著者には、はっきり明確に言いたいことと、これから考えようという部分とがある。私は、まったく同意できることとともに「穴」が幾つかある、違うように考えられることがあると思った。
 暗い主題のようだが、そうでないように考え抜ける道もあるはずだ。あなたならどう考えるか。答を先延ばしにしたくはないと筆者は切実に思いながら、二十年かけ、考えることがここでまた始まっている。私たちはそれに続くことができる。」(立岩[2007d]、『風の谷のナウシカ』は宮崎[1982-1994→1982-1995])△

◆御案内(日本社会学会のニューズレターに掲載 文責:立岩 2003/07/30作成)
 「とくに社会学をする人は何かが社会的に構築されていることを言う。しかしそれはどんな行いなのか、よくわからないと思えることがある。まずそこには多く、批判の意味が明示的あるいは暗示的に含まれる。しかし社会的であることは、それ自体としてよいことでもわるいことでもないと言うしかないのではないか。とするとそれは何を言っているのか。他でありうる可能性、を示しているのだろうか。しかし、私たちは自然を変更することもできる。また、何かでない私(は不可能、であると言いながら、しかしそれ)を探す、作ろうとするという営みとはいったい何なのだろう。他方で、例えば性や身体に関わり、ただ構築されたものと言われても困ってしまう部分があるようにも思える。本質主義とは構築を言う者たちが与えた蔑称だが、この主義はどのように間違っているか。あるいはそこに居直るとすれば、どんな居直り方ができるのだろうか。さらに、にもかかわらず脱・構築という標語は正しい、と思えるところがあるとしたら、それはなぜだろう。そして脱することは、与えられたものや作っていくこととどのように関わるのだろうか。そして、性にかかわる差別、抑圧は何に由来するのだろうか。何がそれらを駆動しているのだろう。例えばこの社会は異性愛を要求する社会であると言えるのだろうか。どのようなことが言えれば、そう言えるのだろうか。総じて、これらは過度に思弁的な問いだろうか。そうでもないのではないか。いま共同参画の政策や教育の場面で様々な反動が生じているが、それを批判する力は十分に強いだろうか。多くの人がこうした疑問をもちながらいると思い、このシンポジウムを企画した(関連情報をhttp://www.arsvi.comに掲載)。まず何を話していただくかは各々に委ねつつ、報告者の数を少なくし、論が交差しそして進むことを期待する。一人一人紹介するまでもない、最もふさわしい人たちを招くことができた。」

◆『唯の生』第1章・註21 [69-70]

「★21 では、加藤にとってそもそもの主題だった「はじまり」の方をどう考えるのか。私の基本的な考えは[1997]に述べ、その後も幾度か考えを述べさせられる機会があったので、「確かに言えること と 確かには言えないこと」([2002c])、「現われることの倫理」(立岩[2003g])、「決められないことを決めることについて」(立岩[2005b])。
 ↓
 「では、加藤にとってそもそもの主題だった「はじまり」の方をどう考えるのか。私の基本的な考えは[1997]に述べ、その後も幾度か考えを述べさせられる機会があったので、「確かに言えること と 確かには言えないこと」([2002c])。東京大学21世紀COE「死生学の構築」シンポジウム「死生観と応用倫理」での報告「「現われることの倫理」(立岩[20030607])、『死生学』に掲載された「現われることの倫理」(立岩[20031125])。そして日本医学哲学・倫理学会で報告を求められ、その後学会誌に書いた「決められないことを決めることについて」(立岩[2005b])。
 「中絶反対論の脆さを突くことができたとして、それは女性に決定を認めることと同じではない。「自己決定」という言葉を、私にだけ関わることについては私が決定できる(「私事」についての決定権)という意味にとるなら、この論理だけから女性による決定が正当化されることはない。また、私が関係したという因果関係だけなら男・雄にもある。先にあげた本で、その女性に委ねるしかないと思うのは、何かが私でない存在、他者として現われる過程を感じる、感じる場にいてしまうのはその女性だけだからではないかと述べた。どうすべきか、肯定もできないにせよ、明白な論拠で否定もできないとき、それは酷なことでもあるが、あるいは、であるがゆえに、その人、女性に委ねるしかないのではないか。なにかの近くにいる人はそのなにかに関わる利害関係(敵対度)がもっとも大きい人でもあるからもっとも警戒すべき人でもあるのだが、それでもそう言えるのではないか。」
 「境界の引き難さという前提が認められた上で、人の世界が人を迎える時に、完全な歓待の不可能性あるいは困難を思い、同時に拒むことの困難を思う、そのような過程としてあることは、人を迎えることの実際、人が存在するというあり方の実際を偽らないことにおいて、肯定されてよいと、あるいは肯定されはしないとしても、認められてよいとされるということではないか。そのように感じられているのではないか。([2005h])

◇―――― 20020910 「確かに言えること と 確かには言えないこと」,齋藤編[2002:241-251]〈U:69〉
◇―――― 20030607 「現われることの倫理」,東京大学21世紀COE「死生学の構築」シンポジウム「死生観と応用倫理」第1部「いのちの始まりと死生観」 於:東京大学・本郷〈U:69〉
◇―――― 20031125 「現われることの倫理」,『死生学研究』2(2003年秋号)http://www.l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku/ja/seika/seika_hon2.htm〈U:69〉
◇―――― 2005b(2005/07/**「決められないことを決めることについて」,『医学哲学・医学倫理』23(日本医学哲学・倫理学会)〈U:69,70〉

 生命尊重を主張し、線引きを否定し、人工妊娠中絶に反対する論があるが、その論には難点がある。どこにも線を引かずにすべてを尊重するという立場はない。絶対尊重を言う人たちは実質的には受精卵以降を特別なものとしている(ここに境界線を引いている)が、その理由は説明されない。このことを加藤が指摘した(加藤[1996]◎)。その上でどのように考えるか。

 ▽中絶反対論の脆さを突くことができたとして、それは女性に決定を認めることと同じではない。「自己決定」という言葉を、私にだけ関わることについては私が決定できる(「私事」についての決定権)という意味にとるなら、この論理だけから女性による決定が正当化されることはない。また、私が関係したという因果関係だけなら男・雄にもある。先にあげた本◆で、その女性に委ねるしかないと思うのは、何かが私でない存在、他者として現われる過程を感じる、感じる場にいてしまうのはその女性だけだからではないかと述べた。どうすべきか、肯定もできないにせよ、明白な論拠で否定もできないとき、それは酷なことでもあるが、あるいは、であるがゆえに、その人、女性に委ねるしかないのではないか。なにかの近くにいる人はそのなにかに関わる利害関係(敵対度)がもっとも大きい人でもあるからもっとも警戒すべき人でもあるのだが、それでもそう言えるのではないか。
 ▽境界の引き難さという前提が認められた上で、人の世界が人を迎える時に、完全な歓待の不可能性あるいは困難を思い、同時に拒むことの困難を思う、そのような過程としてあることは、人を迎えることの実際、人が存在するというあり方の実際を偽らないことにおいて、肯定されてよいと、あるいは肯定されはしないとしても、認められてよいとされるということではないか。そのように感じられているのではないか。([2005h])△

 「■2 ◆
 まず、その女性にとっては、将来の負担という契機が最も大きくはある。実際にはこのことを重く見なければならないのだろう。だが、将来の負担の予想によってことを決めてよいのかという疑念は残る。むろん、実際には負担は除去されていないのだから、負担という契機を無視することはできないし、無視すべきではない。ただ、現実は容易に変わらないから、仮想のこととしてしか言えないのではあるが、この指摘に対する単純な反応は、過重な負担を除去あるいは軽減することであって、苦労する人だからその人に決めてもらおうということにはならないはずだ。(この点に関わることを考えていくと、その人に負担があってもなくても、同じ結果になることを後述する。)
 次に、その人がためらい悩む存在であるということは、産む方に向かう契機をも有しているということではある。とすると、その人に委ねるとは、それを当てにしているということだろうか。そのようなところもあるように思う。しかしまず、中絶自体を減らすことが目的であるなら、別の方法の方がその目的をよく達成するかもしれない。中絶批判派から、女性たちは産む産まないことについて実際には安易だという指摘がある。そんなこともあるかもしれない。その人はたいして気にしていない、かもしれない。そして先述したように、その人は最も大きな利害を有している人たち、産むことの最大の不利益がある人たちである。たしかにここに中絶することをやめて産んでしまうという契機はあるのだが、その可能性は他の場合よりも大きくなるわけではない。
 また、その女性にとって、その子が生まれることが意味のあることであったり、そうでなかったりすることがあるから、女性に祝福されるような場合に生まれるように、女性に決めさせるのだという筋の話もそのまま受け入れられない。受け入れるなら、ある人が誰かにとって意味がある時、その人がそのような係累を有する存在である時に、その人は生きていてよいということにもなる。「関係論的」な論は、そのように解釈され、使われる可能性がある。だが、その人固有の、同時に普遍的な存在の価値ということを思うなら、それは認めがたい。
 女性が、より真面目に考えるとか、深く悩むとか言えるようにも思う。しかし、そう言えるのか。言えたとして、やはり深く生命尊重を信じ中絶を否定する人たちの思いと比べて、なぜ前者を優先するのかという問いは残る。「安易な中絶」を指弾する人の側の方がかえって安易ではないか、と言いたくなることはある。しかし、信仰が大切なものとしてあり、自らにとって大切な信仰が指示する(とされる)規範が侵犯されているのだから、それは大きな苦痛であるかもしれない。
 だからまだ、なぜ、という問いは残る。
 まず、これもまた一つの特定の価値判断であることを認めよう。(そこから離れ、「信教の自由」といった立場から言っていった方がよいのではないかと思われるかもしれない。しかしそうはならない。まず、人それぞれにというのもやはり特定の価値であるには違いない。次に、人それぞれにを認めたとして、だから人を殺すことが認められることにはならず、ここで中絶が殺人だと言う人がいるのだから、それに対して何かを言わねばならない。)
 その上で、この特定の立場は、その身体においてことが起こっている当の人たちの方を優先すべきだという立場である。むろんそれ自体を疑うことはできるし、異論を言い、批判することはできる。ただそれはそれほど特殊な立場ではないはずである。
 例えばある土地について、二人の者が争ったとしよう。あるいは子の帰属について争ったとしよう(そしてこの場合にはさしあたり子の側の事情は考えないとしよう)。一方が(例えば信ずる宗教がその地を特別の地として指定しているから)自らに属するべきであると強く信じていることがある。また、その対象に強い愛情をもっていると言い、きっと大切にする、大切に育てると言い、言うだけでなく、そのように信じていることは事実であるといった場合がある。けれども、その場所――はしばしばその人の暮らしに脅威であったりもするのだが――に実際に暮らしている人の方、産んだり産んだ後しばらく暮らしたことがある人の方を優先することがある。」

◆『私的所有論』[3]「他者が現われるという経験」。

 私達はなぜあることをその者に委ねるのか。その者が私ではない存在、私が制御しない存在としてあること、「他者」としてあることを認めようとするからだと考える。
 「Aがxを思う」「Aがxをする」「Aが生xを生きている」「xがAに宿っている」「Aがxに宿っている」。Aはこの状態から自らを解き放つことができない。あるいは解き放とうとしない。Aのあり方を譲渡しようとしない、引き受けざるを得ないものとして引き受けている。私はその経験に共感したり反感を抱いたりすることはできるとしても、その経験自体を経験することはできない。ここまでは私達が知っている素朴な事実である。この事実に価値を付与し、規則を設定する。つまり、Aにxについての優先を与える、xがAのもとに置かれることを認める。なぜなら、私がその経験を制御し、破壊することは、Aが他者として在ること、私でない存在であることを破壊することだからである。これはAがxを制御できるか否かとは別のことである。擁護されているのは処分権としての自己決定権ではなく、他者がそれを制御してはならず、譲渡を求めてはならないという義務、それによって同時にAに生ずる権利であると考える。自己決定権は、その者が他者としてあること、他者としてあるその者のあり方を承認することの一部である(第4章2節)。
 だが、1)その者にその者のあり方を委ねる時、他者、少なくとも他人の存在を害さない限りにおいてという条件が付される。出産に関わる女性の決定はこの条件に違反するのではないか、したがって自己決定権としては認められないのではないか。そして2)他の者でない「母親の」決定を尊重すべきだと言えるだろうか。既に述べたことのいくつかを繰り返しながら述べる。
 1)について。「人となる」一義的な時点を決定できないことを認めた。つまり、既に「人」である存在に対して私達がどのように対するべきかという問題がここにあるのではない。その存在はまだ誰でもない存在xである。それがやがて否応なく他者として存在を始める。その存在はその過程の中にある。この過程のどこかで、xはxでなくなり、例えばBとして存在を始める。しかしこの境界がどこにあるか、そこを決める決定的な手段はない。このような存在になる境界をどう捉えるのかが問題なのだと述べた。ゆえに、1)を持ち出して反論することはできない。
 2)について。私達は、あるものについてそれが誰の経験かという事実を認識しており、その私達が感じている差異に応じて、それを経験している者にそれに対する優先を与える、つまり「自己決定」を認める。例えば、ある病の原因や病状について医者の方がよく知っていることはある。しかし、なお病に関する患者の自己決定を認める。それ▼340は、その者が生と病とを経験している、あるいは身体を受容している、するしかないことに求められると考える。私達は皆同じ位置にいるのではない。私達は、その違いを承認し、誰かに決定を委ねる。
 ▼xが存在をし始めたという経験から、私ではないもの、他者が現れることの経験へと移行する、その経過を経験する者がある。つまり当の女性において、人が誕生してくる、私ではない存在が現れてくるということが、自らの内部における経験として存在する。この経験は、他の者の経験とは異なる。この経験における差異を認め、関係の具体性においてその存在に近いところにいて、人の現われを感受しうる女性に、その判断と決定を委ねようとする、あるいは任せるしかないと考える。
 だが、その女性の体内に起こる女性の経験をなぜ特権化するのか、まだ明らかでないと思われるだろう。確かにその外側にいる者も何かを感じている。例えばAがaというあり方をしている時、そのaがよいとか悪いとか、そうしたことを私達は判断することができる。それだけの意味では、aに対してAも私たちも当距離にいる。また例えば代理出産を依頼した男性や女性も、「子」について、何らかの(強い)思いを抱いているには違いない。この限りでは同じだと言えるかもしれない。しかし、私達は差異を認めていると、それは「他者」が存在するという経験に【関わる】差異であると、私は考える。▼341
 例えば、代理出産の依頼者が契約の履行を求める時、そこで求められているのは私の欲求の実現である。女性の決定を押し留める時、そこに求められているのは私の欲求、私の正義、私の価値の実現である。誰かがこのようなあり方から逃れていると言うのではない。全ての人に、そして当の女性にも、そうした契機がある。しかし、そうした私(達)のあり方がそこで途絶してしまう存在の現われを最初に感受するのは女性である。身体的な変化や胎動★17やに関わりながら、当の女性に起こっているのは、端的に「私ではない存在」の現われである。だから、女性に委ねるのは、他者が現れるということが、私の欲求や、正義や、誕生に遺伝的に関わっているという因果関係や、私達と何かの性質において同じであるという同一性の準位にあるのではなく、私でないもの、私の価値等々がそこに及ばずその存在を受容するしかない存在が現れてしまうということだと思うからである。
 他者があることを承認する。その他者とは、私(の欲求・価値・…)と別のところにある存在という意味での他者である。そのことによってその者の決定が承認される。このことを第4章で述べた。そのような意味での他者の現われをまず感ずるのは女性であると考えるのである。他者がある(現れる)ことを知る最初の存在として女性があることを認めることにおいて、女性に委ねる。ここで決定するのは、その当の者(まだその▼342ような存在は登場していない)ではなく女性だが、その女性に委ねるのは、私達の他者の存在に対する了解、他者をどのようなものとしてあらしめるのかという価値である。
 こうした感覚が、出産に関わる「女性の自己決定」を擁護するのだと考える。誰もがその生命を奪われてならない存在として認める時点以前の期間に関わる決定を女性に委ねる、認めざるをえないものとするのである。★18
 人工妊娠中絶に対する女性の決定が認められるべきだと思う。[…][…]3)について今述べた。このような感覚が、7)どんな存在が生まれるのかを選択することを、3)についての決定とは別のものとして考えさせるのだと思▼343う。なぜなら、何かを感受し、直接の被害を被る他者がまだいないとしても、人としての誕生に時間的に先行して決定がなされるとしても、この決定が他者の性質を前提にして決定する行いである以上、それは他者の存在を想定しつつ、他者を決定することであり、他者が他者であることを奪いとるからである★19。
 このようにその者に委ねる。その近さは因果の近さではない。そして、またある特定者への愛情・愛着の有無やその濃さとも同じではない。そして、時間を経た土地や人とのつながりという場合と異なり、この産む/産まないが関わっている場合には、その女性は、存在に近いというより、生成の境界に近い。
 外界に生まれ生きてしまう前の時間、決め難い域・時間がある、その域にあるとしか言えない。なすなら他人がなす。これも必然のことである。そしてここには規範の空白がある。片方の絶対的な生命尊重主義が成立しないことは述べた。またもう片方の、体内にあるがゆえにその人の所有物であるとの説他を受け入れることができないことも述べた。
 そして、そんな場面で、正しいと思うことを言うのは多く関わりのない人たちでもある。あらかじめ私の側に、例えば信仰として与えられ、そして深く根付いているものがある時、むろんそれは尊重された方がよいだろうし、その信に基づいて行動することは、多くの場合に妨げられないだろう。しかし、この場面では、それを優先することはしないということである。未定の、決めようのないことに直面してしまうその人の触感のようなものに委ねようということである。
 たしかにそのような態度は、身体性のようなものの美化、神秘化につながらないでもない。「自然主義的」で「本質主義的」な傾きがなくはなく、怪し気なところがないではない。また、先にも述べたように、心的な負担をその人に強いてしまうものである。それでも委ねようというのだ。
 まず先述した境界の引き難さという前提が認められた上で、人の世界が人を迎える時に、完全な歓待の不可能性あるいは困難を思い、同時に拒むことの困難を思う、そのような過程としてあることは、人を迎えることの実際、人が存在するというあり方の実際を偽らないことにおいて、肯定されてよいと、あるいは肯定されはしないとしても、認められてよいとされるということではないか。そのように感じられているのではないか。身体内にあるものの所有という理路による中絶の肯定に疑義を唱えながら、なお女性の決定を手放すことはなかった人たちの論を、このような方向に解することもできるのではないか。
 その世界を有する者としてあると思うとき、そして現われてしまった時、残念ながらであっても認めることになるとさきに述べた。それで人から人が生まれる。そうなった時、その者に係累が絶えていても、その者は生きることになる。人において現われてしまうことにおいて、認めてしまう。
 最小限の「関係主義」がここにあるとは言えるかもしれない。「産み放し」にしてもそれはそれでよしとしよう、それが可能であるようにしようとも述べた★20。つまりここでも私たちはさきに述べたことを繰り返している。つねには自分が育てなくてもよい社会、そうした中で育っていける社会があればよいとし、それが前提とされるべきだと――実際にはそうなっていないが、だから――言うことになるのである。
 実際にはそうではない。そうでない限り、つまり、産むにせよ産まないにせよ、それが非難あるいは試練・負担を帰結する限り、まず負ってしまう人にと思う。そして実際に「産み放し」にできる状態が出来したとしたら、やはり殺すことに近い人に委ねる。そのぐらいしか思いつかない★21。」([])

★17 【Duden[1991=1993]。この書の中で彼女は次のようにも言う。
 「倫理的で高圧的な現在の論議をきわだたせているあの「生命」は、欺瞞と妄想の歴史、そしておそらくは▽364 宗教の歴史に属するものであって、身体の歴史にはふさわしくないのである。」(Duden[1991=1993:155]◆)ドゥーデンについては荻野美穂[1993]◆。『◆』283・299頁でも引用した。
 また加藤秀一[1991b:19→1996:52]◆でも引かれる【小沢牧子(改革期の日本臨床心理学会→日本社会臨床学会で活動した)の】以下のような記述。
 「産む性の身体的感性からいえば、「受胎」は他者の人格に関わる事態というよりも、まず圧倒的に「わが身体における現象」という事態である。…受胎をもって生命の誕生ひいては他者の発生を定義するのは、抽象的なイメージの作用に依拠した思いこみとはいえないのか」(小沢[1987:340-241]◆)】
★18 【このように言うことは逆に「近さ」を特権化することにならないか。障害児が生まれ、その存在が人であるか人でないか見解が対立する時、人でないと言う親にその子に対する治療停止や「尊厳死」を認めることを意味しないだろうか。意味しないと考える。いつ他者として現れるのか、それを決定できない場合があり、その時(にだけ)、「近い」存在に決定を委ねると述べたのである。そして私達はその存在に対する関係の近さ自体によって、その存在に関わる決定についての優先を述べたのではなかった。ただ、他者が、その者に近い者にとってより多く他者として現われてしまうのだとすれば、そして遠くからなされることが、人々の福祉や幸福のためにという結局は「私(達)」の立場のものである時、この「倫理」は後者を無視するのではないが、前者をまずは受け止めるというのである。
 それに対し、ここに起こっているのは、その者が既に他者として存在しているその後のことなのであり、ここにあるのは、その者を死なせるか否かである。両者はたしかに時間的に連続するが、しかし別の準位のことである。私達はその人を見たのであり、そしてその人が例えば脳に損傷があることを見たのである。起こっているのはそれ以外のことではない。だから、その人を、人ではないとして消去することはできないのである。これに対して、歴史的事実としての嬰児殺しが持ち出されるかもしれない。たしかに嬰児殺し、子▽365 殺しは歴史的な(そして現在の)事実である[…]しかし、その子を殺す時、人でないから、人である資格がないから殺してきたのだろうか。
 人であることの要件としてあげられる恐怖や苦痛が私達の生において重要なものであることは確かである。だから、恐怖を感じられる存在に恐怖を感ずるようなことをしてはならない、苦痛を感じられる存在に苦痛を与えてはならないと感ずることも理解できる。チンバンジーやイルカを殺すことを控えるべきだという主張もわからないではない。しかしこのことは、苦痛を感じない(ように思える)人、意識のない(ように思える)人を、他の人と同じように扱う必要はないということを意味しない。苦痛を感じたり意識があることは人があることの一部であって、一部である属性を尊重すべきことから、そうした属性のある(らしい)人間以外の存在も尊重すべだと言いうるということは、そうした属性を有さない人を人として扱わなくてもよいことを意味しない。私達はすでに人であることを知っている。そしてその後、この事実から「引き算」をしているのだ。その引き算は結局のところ、その存在からではなく行われる。このことを隠蔽するものを「抽象性」と呼ぶ。重篤な障害のある存在を人と認めないことの方が――具体的な利害を背景にしながら――抽象的である。【第2版補章1でこのことについていくらか付言する。】】
★19 〔『私的所有論』〕第9章で、未在の存在について何を決定することができるのか、「出生前診断」「選択的中絶」について検討した。
 別言すれば、2)・3)・7)に述べたように思うとすれば、以上に述べた感覚があるのだ。こうした感覚はこの社会にも存在する基本的な感覚なのだが、この社会にあってうまく言葉にされてはこなかったのだと思う。[…]▲
★20 [2005b]の末尾に述べたことは◆。cf.小宅理沙[2010]◎[2011]◎)
★21 森崎」◆

★12 村瀬学は一九四九年京都府生まれ。同志社大学卒業。その最初の本は『初期心的現象の世界』(村瀬[1981])。この本の奥付には心身障害児通園施設職員とある。その後、同志社女子大学教員。引用した本とは別の本『「いのち」論のひろげ』では次のように言う。『私』で引用([1997→2013:359-360]。  「…この両親にとっては、この子は「ゆり」と呼ぶことのなかにしか見出せない何者かなのである。「ゆり」と呼ぶこと以外ではけっして見えてこないものがある。  そういうふうに言えば、そんな「ゆり」なんていう名前なんぞ、世間にはいっぱいあるじゃないか。人間にも植物にもつけられる名前が、何で一人の女の子の唯一の生を表し得るのか、という人もいるかもしれない。「品名」として見たらたしかにそうである。しかし「品名」だけをほじくってもわからないのである。「品名」はあるときに「名前」として意識され、、そして「名前」は「姿(顔+身)」を呼びだすきっかけとして自覚されるときがくる。そのきっかけを作るのは「場所(位置)」なのである。  『苦海浄土』には、「とかげ」のような手足を持つわが子に寄り添いつづける親の「場所(位置)」がある。その「場所」から呼ばれる「ゆり」という「名前」は、その場所からしか見えない「姿」をとらえていて、それは「無比の姿」として見出されているのである。  つきつめると、「名前」というものには、個人的な命名行為というより、人間の姿(原型)を呼びだすための共同の行為としてあったものである、としか考えられない面がある。「人間の姿(原型)」を産む行為とでも言えばよいか。しかしそこには、その産む「場所」が問題であった。おそらく昔の人たちには、その場所を「共同の場所」として共有できる感性があったのではないかと思う。しかし、今日ではその場所は、一人一人の育ての親たちが個別的に意識する、個人的な場所になりつつあるように見える。が、私はそのようには単純には思うことはできない。「名前」をつけて「姿」を自覚する「場所」は、あくまで「共同の場所」でしか発生しない、そうとしか私には考えられないのである。というのも、「名前」をとおして感じとる「人間の姿(原型)」は、人間の共同体の活動のなかでしか自覚できないものだからである。」(村瀬[1995:35-36])  村瀬[1996:132-133]もほぼ同文。「自分の名付けたものは「大事」にする。この「名づけ」のもつ利己的な共生力について」書かれた文章である。『苦海浄土』は石牟礼道子の著書(石牟礼[1969])。
◆19910201 『「いのち」論のはじまり』
■■1○関係から

■1○〈誰か〉への呼びかけ
○第1章そして前節で個人の性能から生死を正当化しようという議論を検討・批判した。★★同じく、そのような論を批判しようとする人たちがいる。その存在に向かい合う側、あるいは二者の関係からこのことを考えようとする議論がある。その中で、関係から考えていくことの難しさをわかりながら論を進めようとする人の著作として『〈個〉からはじめる生命論』(加藤[2007])を取り上げる★03。
○この本で加藤秀一が取り組んだ新しい主題は「ロングフル・ライフ訴訟」、すなわち「重篤な先天的障害をもって生まれた人が、その苦痛に満ちた生そのものを損害であるとして、親に中絶することを促さなかった医師に損害を請求する」([20]、以下加藤[2007]については頁だけ示す)訴訟だ。第2章で論じられる★04。だがここでは、第1章「胎児や脳死者は人と呼べるのか――生命倫理のリミット」を見る。
○加藤の著書としてはまず『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』(加藤[1998])を読まなければならないのだが、本書の主題につながるものでは、それ以前、一九九一年の論文があり、それを改稿した「女性の自己決定権の擁護」がある(加藤[1991→1996])★05。今度の本はそれらに書かれたことの反復という以上のものになっている。
○人工妊娠中絶の是非をめぐる議論が続けられてきたのだが、加藤は、一貫して女性の決定を擁護する論を展開してきた、あるいは、模索してきた。そこで加藤が指摘したのはまず、「線引き」は常に行なわれており、不可避であり、例えば受精以後を「人」とすることもまた一つの線引きであることだった。それはその通りだ。
○検討の対象にしていることとはむろんつながっている。尊重すべきものがあるとして、それはプロライフ派(実質的には中絶禁止を主張する人たち)の言う「生命」の尊重ではないだろうというのだ。
○では、代わりに何をもってくるのか。見てきたように、生命を奪ってよい存在/よくない存在の境界、関連して(関連させて)動物/人間の境界についていろいろを述べてきた人たちがいる。加藤も――日本での優生保護法他をめぐる議論を振り返った後――マイケル・トゥーリー、そして第1章で取り上げたピーター・シンガーの論を紹介して、検討する★06。その上で、その人たちの主張は受け入れられないとする。
○つまり加藤は、線引きを認めた上で、上述したような人々の線の引き方は認めないと言う。では代わりに何を言うのか。結論は序章に書かれてもいる。

○▽もしこの世界が生命で充ち満ちていて、しかしあなたや私のように人称で呼びかけられる存在者たちがいなかったら、わたしはいったい〈誰〉のために考えればよいのだろう。倫理にとって重要なのは「生命」でも「いのち」でもない。そうではなくて、私たちが互いに呼びかけるとき、あるいは呼びかけようとするときに、その呼びかけが差し向けられるべき点としての〈誰か〉であり、そのような〈誰かが生きている〉という事実こそが、守るに値する唯一のものなのだ。(加藤[2007:28])△

○また次のような表現。

○▽「それに向かって呼びかけることが無意味ではないような対象すなわち〈誰か〉」([42])「たとえ生命があっても、それが私たちにとって呼びかけの対象たりうる〈誰か〉でないのなら、そもそも倫理の問いが立ち上がることさえないだろう。」([44])△

○大切なことを言っているように思い、直感的によくわかる気がする。しかし、すこし考え始めると、それほどよくはわからない。〈誰か〉はどんな誰かなのか。例えば次のように書かれる。

○▽誰かが眼前の脳死者を単なる「物=脳死体」以上の「者=脳死者」と感じるなら、それによってその脳死者には倫理的配慮を受けるに値する〈誰か〉である可能性が開かれる。それ以外には、人格であることや、生命をもつことさえ、倫理的配慮の対象にとっての必須の条件ではない。([64])△

○まず「単なる物以上」のものであることはわかった。そして「人格であることや、生命をもつこと」は条件ではないとされる。それもわかった。生命をもたない存在の生命は尊重しようがないとも思われようが、ここでは生殺の是非でなく「倫理的配慮」の有無が問題になっているから、生きていることは必須ではない。
○〈誰か〉が以上のもので(必ずしも)ないことはわかったとして、ではその上で、〈誰か〉とはどんな誰かか。
○ここまででも幾度も「呼びかける」という語が使われた。もちろんこのことが大切なのである。すると、呼びかける相手がすなわち〈誰か〉なのか、相手が〈誰か〉であるから呼びかけるのか。呼びかけられないものは〈誰か〉でないのか。呼びかけられても応えないものは〈誰か〉なのか、そうでないのか。
 最後の問いから。加藤は倫理学者・大庭健(▼頁)の『自分であるとはどんなことか』(大庭[1997])での論を紹介し検討するところで次のように記す。

○▽いま私たちが思い浮かべているのは、ふつうの意味での「呼応」に参加することがもはや不可能な、いわば人間同士の相互関係の辺縁に位置する存在者たち、すなわち、呼びかけられてもそれに応じる声をもたない胎児や、重度の知的障害を負った新生児たちなのである。(加藤[2007:61])△

○そして大庭は次のように述べていると言う。「外側からはわからないような何らかの経験が生じていることは十分にありうる。《したがって》、と大庭はつづける。意識なき身体とのかかわりや、ひいては死者とのかかわりは無意味だということにはならないし、いわんや意識を喪失した身体は人格性なき物体、つまり任意に処理可能な物件にすぎないなどということにはならない。」。しかし「大庭の論理に従えば、いかなる意味でもそこにおいて「なんの経験も生じていない」ような相手であるならば、その相手とのかかわりは「無意味」だということになる」([62])

○▽私たちは、私たちがそれに向かって呼びかけることが意味をもつような〈誰か〉を指し示すのに、どうしてその相手が一人称の「わたし」としての経験をもつことを資格要件としなければならないのだろうか。([63])★07△

○そして、さきに引用した「誰かが眼前の脳死者…」という文章につながっていく。つまり、加藤は、呼びかけるが応えがないその相手もまた〈誰か〉であると言う。つまり加藤によれば、人が(〈誰か〉として)呼びかける相手が〈誰か〉だということになる。思う側・呼びかけ(たり、呼びかけなかったりす)る側に選別が委ねられるようだ。
○ただ、加藤はこの種の論――「倫理的問題をもっぱら人々のあいだの関係性から考える「関係者主義的立場」」([65])――につきまとう危険性を承知しているから、二つのことを言う。
○まず一つ。「関係性を考慮すべきだということは、関係性だけによってすべてを決めるべきだということを意味しない。[…]単なる見た目の印象だけではなく、死についての一般常識や脳死状態に関する医学的知識もまた考慮されるべきである。そうしたさまざまな情報の有無や理解度によって、ある人の脳死者に対する感じ方が変わることは当然ありうる。」([65-66])
○もう一つ。「〈誰か〉であるための資格要件は、具体的な他者から愛されているか否かといった高すぎる基準によって測られるものである必要はない。」([66])
○さてこれでよいか。

■2○関係主義の困難
○誰かが(例えば私が)「呼びかける」その相手が〈誰か〉であり、その生存を奪ってならない存在だと、加藤は言う。
○(1)すると、相手を思ったり思わなかったりする人の恣意に、その相手の運命を委ねることになるのではないかという疑問が生ずる。
○その疑問に加藤は答えているのだった。その部分をさきに引用した。〈誰か〉であるかないかは好き嫌いといった水準にあるのではないとされた。このことによって、嫌われている人、好悪の対象にならない人たちが尊重の対象から外されることを防ぐことになる。こうして、排除されない存在の範囲が広がることになる。
○(2)次に、加藤は呼びかけへの反応を必須としない。呼びかけに応える可能性を期待して呼びかけるという大庭健の議論を批判し、呼びかけるだけでよいと言う。実際、すくなくとも通常の意味合いでの応答がないことはよくある。この本では脳死者が取り上げられるが、他に、骨に呼びかけることがある。亡くなってずいぶん経った人を抱いて、呼びかける人がいる。不在の存在に呼びかけることもある。そしてそれは真摯なことであったりもする。それもありだろう、と思える。ここでも、〈誰か〉の範囲は広がることになる。
○なるほどと思う。ただこれでよいのか、うまくいくのかとも思う。そこで考えてみる。
○(1)について。ある存在に内在する価値よりも、ある存在に対する側の判断や感覚の方に重きが置かれてよしとする立場がある。「相互性」「関係性」といった言われ方もし、呼びかける側と呼びかけられる側、両者のどちらが優位ということではないとも言われるが、それでも、相手を見る側、相手を遇する側、主観・主体としての人間の比重は高くなっている。世界は共同主観的に構築された世界であるというのが、例えば社会学だけでなく、人々の常識ともなっているものの考え方だから、この見方にわりあい抵抗はない。
○そして、こんな感覚とも関わって、人々の関係や感情と別に存在する「道徳律」といったものをどうも信じ難いという気持ちがある。それで「ケア(の)倫理」といった言葉がいくらか流通することになった。例えば自分の子を世話する親といった関係からものごとを考えよう、捉えよう、あるべきあり方を言おうというのである。
○加藤は、この個別の関係に着目し重視する立場を「関係主義」([65])と呼ぶ。だが、それでは人に好かれない人は救われないではないかという危険性を自ら指摘する。
○この立場に対置されるのは「普遍主義」とも呼ばれる。関係の近さ遠さと別に、濃さ薄さと別に、人は同じに扱われねばならないと言う。だから、ヘルガ・クーゼに『ケアリング――看護婦・女性・倫理』(Kuhse[1997=2000])という題の本があるからといって、クーゼを「ケア倫理」の系列の人と考えない方がよい。取り上げたピーター・シンガーやクーゼは、規範が普遍的なものであるべきだと主張する側にいて、「ケア倫理」側の人たちと対立する立場にいる★08。
○それで加藤は基本的には関係主義を維持する。こういう厄介な問題の存在にわりあい無頓着に、ただ「ケア」といったものを肯定してしまう幸福すぎる論もある。また死についてであれば、「二人称の死」――もちろんそうした位相は存在する――を言ってほろりとして終わり、ということもある。けれどそうでなく、相当に考えながら、この「関係主義」の方向でものを考えようという人たちがいる。この本で加藤はその一人である★09。
○では加藤はこの問題にどのように対応するのか。「具体的な他者から愛されているか否かといった高すぎる基準」([66])は不要だと言うのだった。これは相手との関係に重きを置く立場をとる人たちの中では最低限の条件でよしとしているということだ。それは、他の論者がケアといった行為を想定してものを言うのに対し、加藤は殺さない範囲のことを考えていることにもよるだろう。さてこのことをどう考えればよいのだろうか。
○決める側が決めることは避けられないことであり、そうでしかありえないことは確認しておこう。つまり人のことは人が決める。神様が決めている場合でも、神様と人が思い、その人が思う神様が決めたことに人が従う。いつも決める側が決めている。これはよいことではないかもしれない。しかし決めないことにすれば決まらないわけでもない。人は様々なことを事実決めることができ、決めてしまっている。行なっている。たとえば殺している。そしてそれはよくないと思うなら、それを制約することになる。何も決めないわけにはいかないことがある。その人自身が決めたことに周囲が従うというあり方も含め、私たちは、決めるのが決める側にいる人(たち)であることを、この決定的な不均衡を、認めるしかない。
○ただこのように逃れられない意味においてものごとが「私たち」の側にあるということと、「私たち」の態度・受け止め方によって相手のことを決めることとは別のことである。私たちが相手に愛着を感じるとか呼びかけようと思うかとは別に、その相手は遇されねばならないという決め方はあるということだ。私たち自身の利害・好悪との関わりで人の扱い方を決めてならないと、私たちが――他に決める人がいないのだから――決めるということがある。これは加藤自身の立場でもあるだろう。
○ではなぜその立場を取ろうとするのか。私のその人に対する対し方によってその人の扱われ方が異なること、というか、その人が不利に扱われることはよくない、そういう思いがあり、その人に対する対し方があるということではないか。とするとそれは、「関係主義」そのものを否定する、とは言えないとしても、かなり強く制約する考え方ではないか。ここでむしろ採用されているのは普遍主義ではないか。そのようにも考えられる。とすると、「呼びかける」ことをどこまで強く見るのかという問題がやはり残る。あるいは、再度現われることになる。
 〈誰か〉であるかないかは生殺の判断に関わるのだった。そしてその〈誰か〉は私(たち)が呼びかける存在のことだった。
 それだけを聞けば、すぐにいろいろと難癖をつけることはできる。私たちは動物にも呼びかける。さらに生物でない存在にも呼びかける。また死者にも呼びかけるではないか。その〈誰か〉のすべてを殺してならないというのか。そういう疑問は生じる。
 ただそれに対しては、なんらかの「倫理的配慮」がなされるべきであると言っているのであって、それらをすべて殺してならないと言っているのではないと加藤は返すことになるだろう。死者を生き返らせることはできない。しかしなんらかの「倫理的配慮」は要請される。それは「生者」の尊重のあり方といくらかは違うだろう。そう言われる。なるほど、その限りでは問題はない。
 ただこのことは、「生殺」(をめぐる基準)については、また別のことを言わなければならないことを意味するのではないか。この点について加藤はこの本でそう明示的に述べているようには見えない。だが、とりあえず人(ヒト)に限れば、呼びかけの相手としての人は殺してならず、他方、死者を生き返らせることはできないからそのこと自体は仕方のないことで、しかしなにがしかの配慮は正当化される、それでよいということになる。形式としてはそれでいける。ではこれでよいということになるか。
□そうもならないと思える。どんな状態のどんな存在を「人」とするのかという「線引き問題」について、加藤は「それに向かって呼びかけることが無意味ではないような対象すなわち〈誰か〉として見出す」([42])ことがその問いに対する答になると言う。だが、私はそれで答をもらったとは思えない。
□「呼びかける」とはどんなことか。私たちは「モノ」も含めて様々な対象に向かうことがあるのだから、関係する、働きかけるというだけでは広すぎるだろう。
□では「呼ぶ」ときに何が想定されているのだろうか。もちろん一つには「応え」がある。一つに「聞いている」ことがある。それらはどんな意味があるのか。そして加藤は前者を必須としなかったのだった。「呼びかけ」に対する「応え」があることは条件に加えられていない。それは応える能力を有することを相手に求めることになり、条件をきつくすることになってしまうというのだった。ここには、従来の生命倫理学が、「人」と認めるのにきつすぎる条件を設定しているという思いがあるだろう。
○私も同じことを思うし、多くの人もまたそう思っている。ただ、そうすると、こんどは、(実際には応えのないことがある)呼びかけとはどんなことなのか、ということになる。
 そのうち応えられるようになる存在もいる。それは含まれるか。だがならば、胎児や胎児以前の存在もみな含まれることにもなる。加藤はそのように考えない。
 他方で、これまで自分に関わりがあったが、いまは応答のない存在に呼びかけるといった場面には言及している。
 すると(いま応答がなくても)その存在に対する関わりや思いが大切だということになるか。それが、「線引き問題」に対する答ということになるだろうか。
 けれど他方で、加藤は、「関係主義」の問題もわかり、そのことを指摘していたのだった。つまり、人の相手への関わりや思い(の度合い)によって相手の扱いが変わってしまったら、今まで人と関わりのなかった存在は不当に扱われてしまう、それはよくないというのだ([64-65])。
 すると、結局どこが「着地点」になるのか。幾つかのことを加藤は述べているのだが、それでもやっかいな部分は残ってしまっている。

■3□かつて親などというものはなかったかのように
□加藤の論は、関係主義の難点を知りながら、それを否定しないという立場のものだ。それは、出生に関わる場面の「女性の自己決定」が肯定されるべきであると考える立場と整合する。また、「バイオエシックス」の訳語としての「生命倫理学」が同じ言葉を使ったりもしながら、結局は、相手の存在に人間であるためのきつい(そして一律の)条件を求めることを肯定できないという感覚ともつながっている。それとともに、「恣意」を退けようとする。そして、なにか客観的な基準を言う生命倫理学の立場にしても、結局その基準を「こちら側」が設定しているではないか、それは違うのではないかという思いがある。これらがその論述を方向づけながら、「難問」が導かれ、そしてまだ残る。そのような具合になっていると思う。
○それでも、あるいはそうであるがゆえに、この本を、この問いを考えるために読むのがよいと思うのは、一つに、世間ではもっと純朴な関係主義がなにか冷たい感じのする普遍主義に対する代替案のように受け止められているのではないか、しかしそれでよいのかは確かめておいた方がよいではないかと考えるからでもある。
○「ケア倫理」と括られるものもそうした流れの中にある。さきに紹介したシンガーやクーゼのようなひどくすっきりと世界を裁断する議論に対して、それはないだろうという思いがあって、個別の関係性をもっと重視する議論が大切だということになる。けれどもそれが答だろうか。そのことは考えてみた方がよい。ところが、ときに対立の構図さえよく理解されないことがある。その混乱を避けた上で、それが答かと考える必要があるのだが、どうも問題の所在が理解されていないと思えることがある。
○また、死についての議論にもそのような流れがある。「二人称の死」といったことがよく言われる。そこで捉えられる場面が大切であること、多くの人にとって大きな意味があることに疑いはない。しかし、それでもやはりそれは、私にとってあなた(の死)が大切であるという意味において、加えれば、私があなたにとって大切であることが私にとって大切だという意味において、大切だということである。そのことは、その人の存在や死について大きな部分ではあるとしても、そのすべてではない。そのように言えば、それはそうだ、わかっていると答えられもするのだろう。しかし、それでも、三人称の死より二人称の死は高いところに置かれる。その実感はそれとしてわかった上で、そのことを前提にして話を進めてよいのだろうか、そのような問いがあることが時に忘れられていると思う。
○紹介してこなかった加藤の本の第2章「「生まれない方がよかった」という思想――ロングフル・ライフ訴訟をめぐって」、第3章「私という存在をめぐる不安」、第4章「「生命」から「新しい人」の方へ」は、幾度も著者によってまだ思考の途上であることのことわりが差し挟まれながら、存在と非存在とをめぐっての思考が展開されている。その中には、これまですこし見てきた第1章「胎児や脳死者は人と呼べるのか――生命倫理のリミット」で語られてきたこと、その延長上にあることと、それだけでない部分とがあるように思う。そしてそれらがみな、私たちが〈誰か〉を見出し関わるその現実を構成しているのだと思う。それらを分けてみたり、どれがどれに先立つのか、考えてみるのは、加藤にも私たちにも残されていることなのだろうと思う。
○この本の中でも、そしてこれまでも、加藤は、子が、期待や予想を超えて現れてしまう、そうした存在であることを述べてきた。こんどの本では、それは、『風の谷のナウシカ』(宮崎[1982-1994→1982-1995])に再度触れる、この本の最後の文に現われる。

□▽私たちは、来るべき子どもたちに、かつて親などというものはなかったかのようにふるまうことを教えることができる([222])△

□私たちが相手の存在(の価値)を語る時、それを語るのは私たちであるほかない。このことから逃れることはできない。この意味ではすべてが関係の中にある他ない。しかしこのことを受け入れながら、その私の思いを通してならない存在として、すくなくとも通しつくすことをしない存在として、相手が存在するのを認めるのがよいと私たちが思うことがある。加藤は、これまでも幾度かそのことを述べてきたし、ここでもそのことを言っていると思う。このことは、その相手との関わりとは別のところでその相手の存在を認める、認めるべきであることを示していないか。『良い死』第2章5節「思いを超えてあるとよいという思い」([2008:177-191→2022:▼])で述べたのもこのことだった。
○だとして、この時、何をもって、その相手を〈誰か〉として認めることになるのか。

○▽〈誰か〉を生むこと、すなわち新しい個別存在者をこの世界に招来することは、その〈誰か〉に利益を与えることではないし、反対に危害を加えることでもない[…]。なぜなら、生まれてくる当人にとって、自分が生きているという事実は、その利害を判断しうるような対象たる経験の内部にあるのではなく、経験そのものを可能にする「大地」だからである。([135])△

○最初、当然のことを言っているようにも思ったのだが、前後を読んでいると、やはり大切なことに関わっているように思える。生まれることがそれ自体よいことであるなら、例えば食べられるために生まれさせられる家畜は幸福だとされることになる。個体の数を増やすことはそれ自体としてよいことであることになる。それはおかしな主張ではないかと言われる。
○そのおかしさは、その個において、その個があった上で、その個における幸不幸が問題にされるべきこと、そして、その「大地」において展開され感受されることごとの固有性――そのことを第3章(◇頁)で「世界」があると述べることになる――ゆえに、そしてまずはその幸不幸と別に、そしていったんはそこでなされる行ないや形成される関係とも別に、その存在が〈誰か〉として認められるべきこと、そしてそのことが、その〈誰か〉の幸福や行ないや関係を顧慮すべきことを示すのではないだろうか。
○このことは、関係のなかにあることを認めながら、私たちが、思っている、とか関わっているといった位相とは別に人が存在する、と人が思う、ことを示している。
○それが第2章3節に見た、産む/生まれるというできごとであり、その時にそこに個々の世界があると思うというできごと(本章第1節)だと考える。このことから、個別の「集計」の可能性・妥当性の範囲の問題、いつ始まるのか、それを誰がといったなどいくつかの問題が現れるがここでは論じない。ただそれは事実の水準にあることは認めるのだから、加藤も否定しないように、思いいれ、でしかないことがあることを認めることにはなる。「診断」が意味をもつ場合はあるだろう。  しかしそのことを認めた上で、一つに、ことの本性上まったくわかりがたいことは認める。一つに、そこに都合や価値が働くことも認める。それは短縮すること、否定する方向に、聞かず、なくしてしまいたいと思うことがある。そのように働く。そして「ない」のであれば、そこには当然負のものもない。とすれば、伸ばしたいという人たちの言うことのほうを聞くことがよいといことになる。  私たちは、聞かないことと、聞いてしまうことと両方のことをする。それには理由・事情がある。それを見定めた上で、応じようということである。  わからないということ。そしてその間、そのままにしていけないことはないということだ。
★03○この本のごく短い紹介を共同通信社の依頼で書いた。新聞のそうした欄に載るのは短い文章で、書けるのは、争いを構成する論点についての異論の提出といったものではない。それはその制約のもとでは書けないし、ごく短く書いたとして、その本をまだ読んでない人には理解しにくいだろう。そしてもしその本がよい本であるなら、そのことをまず読者に言うのがよいだろう。そこでそのように書く。それでも一言二言加えることはするが、それ以上はあきらめ、その一言二言は常に舌足らずになる。全文は◆『補註』([2022])に掲載。以下はその末尾。
○「著者には、はっきり明確に言いたいことと、これから考えようという部分とがある。私は、まったく同意できることとともに「穴」が幾つかある、違うように考えられることがあると思った。
○暗い主題のようだが、そうでないように考え抜ける道もあるはずだ。あなたならどう考えるか。答を先延ばしにしたくはないと筆者は切実に思いながら、二十年かけ、考えることがここでまた始まっている。私たちはそれに続くことができる。([20071200]、『風の谷のナウシカ』は宮崎[1982-1994→1982-1995])
○加藤の著書として他に『<恋愛結婚〉は何をもたらしたか――性道徳と優生思想の百年間』(加藤[2004])。
★04○加藤がこの主題に取り組んでいることは知っていた。私も企画を担当した二〇〇三年の日本社会学会大会のシンポジウム「差異/差別/起源/装置」で加藤はこの主題での報告を行なっており(加藤[2003])、この企画を受けた『社会学評論』の特集に論文を寄せている(加藤[2004])。
○日本社会学会のニューズレターに掲載された「御案内」(文責:立岩)。
○「とくに社会学をする人は何かが社会的に構築されていることを言う。しかしそれはどんな行ないなのか、よくわからないと思えることがある。まずそこには多く、批判の意味が明示的あるいは暗示的に含まれる。しかし社会的であることは、それ自体としてよいことでもわるいことでもないと言うしかないのではないか。とするとそれは何を言っているのか。他でありうる可能性、を示しているのだろうか。しかし、私たちは自然を変更することもできる。また、何かでない私(は不可能、であると言いながら、しかしそれ)を探す、作ろうとするという営みとはいったい何なのだろう。他方で、例えば性や身体に関わり、ただ構築されたものと言われても困ってしまう部分があるようにも思える。本質主義とは構築を言う者たちが与えた蔑称だが、この主義はどのように間違っているか。あるいはそこに居直るとすれば、どんな居直り方ができるのだろうか。さらに、にもかかわらず脱・構築という標語は正しい、と思えるところがあるとしたら、それはなぜだろう。そして脱することは、与えられたものや作っていくこととどのように関わるのだろうか。そして、性にかかわる差別、抑圧は何に由来するのだろうか。何がそれらを駆動しているのだろう。例えばこの社会は異性愛を要求する社会であると言えるのだろうか。どのようなことが言えれば、そう言えるのだろうか。総じて、これらは過度に思弁的な問いだろうか。そうでもないのではないか。いま共同参画の政策や教育の場面で様々な反動が生じているが、それを批判する力は十分に強いだろうか。多くの人がこうした疑問をもちながらいると思い、このシンポジウムを企画した(関連情報をhttp://www.arsvi.comに掲載)。まず何を話していただくかは各々に委ねつつ、報告者の数を少なくし、論が交差しそして進むことを期待する。一人一人紹介するまでもない、最もふさわしい人たちを招くことができた。」(◆)
 このシンボジウムで。小泉◆
★05○『生殖技術とジェンダー――フェミニズムの主張3』(江原由美子編[1996])に収録されている。そしてこの論文には、法哲学者の井上達夫の一九八七年の論文(井上[1987])への批判があるのだが、この井上論文もこの本には収録され、さらにそのうえで、井上の「胎児・女性・リベラリズム――生命倫理の基礎再考」(井上[1996])、加藤の「「女性の自己決定権の擁護」再論」(加藤[1996])が掲載されている。十人弱ぐらいの著者が分担して書きましたといった種類の本は、たんに十個弱の文章が並んでいますといったことが多いのだが、この本――あるいは江原が編者となったこの「フェミニズムの主張」というシリーズ――では、珍しく議論が議論として成立している。

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■■第3章



★15○この本の書評を『週刊読書人』の依頼で一九九八年に書いている。字数の制約がきつく難儀した。多くの主題が取り上げられていて、検討・批判は様々可能だが、その一つでもそれなりに行なおうと思ったら、すぐ長くなってしまう。何も中身は書けなかった。

 「脳死、障害新生児の治療停止、安楽死等々に関して、比較的知られているもの、そうでもないもの、様々な事例がとりあげられる。そして、「人命をすべて平等の価値を持つものとして扱え」の代わりに「人命の価値が多様であることを認めよ」、等、五つの古い戒律に五つの新しい――ただ、私にはそう新しいと思えない――戒律が対置される。
 理論的な記述はそうない(かなり丁寧で長い訳者解説がある)。無意味な延命処置をいつまで支持するのだ、著者が当然と思う方向に現実は既に変化しつつあるのだ、と記述は続く。しかし、筆者は「功利主義」の立場に立つのだが、ここでどういう快苦の計算とその集計がなされているのか。私は著者の天真爛漫さ無邪気さが時に嫌いではないが、少なくとも本書について論理は明晰でなく、そのことの危うさがある。
 生死が問題になるその当人の利益について。快苦を感じない存在にその存在にとっての生存の「価値」は存在しない。殺してならないのは、簡単に言ってその存在にとって死ぬのが恐いからである。この主張自体、特に後者は(前者と後者は異なる)よく考えてみるべきものだ。そしてこの疑問を傍に置いても、快苦や恐怖の不在はその存在の命を奪ってよい積極的な理由にはならない。さらに、「生命の質」についての筆者の記述を読むと、「価値のなさ」はこれらの場合に限定されず、随分拡張されている――具体的な記述についてはこの点が一番問題になるだろう。
 もちろん、それに周囲の利害が加えられる。いない方がよい、あるいは臓器をもらうと都合がよい。そして当人は苦痛も快も感じていない。あるいは死を意識していない。だったら、死んでもらおうということになる(著者は脳死を死とするのでない)。誰も利益を得ておらず不利益だけがあることはなくしてよいという主張は受け入れられる主張のように思われる。だが右の例はそういう場合か。さらにこの主張は、自明に受け入れられるべきものなのか。利益が同じで周囲の不利益の度合いが異なる二つの場合での選択はどうか。例えば同じ生活(快)を得るための社会的負担を多く求める人とそうでない人がいるなら、後者の人が選ばれるかもしれない。それでよいか。また、私自身、脳死状態をいつまでも延長させるべきだという主張、そういう意味での「生命尊重論」はとれないのだが、では、このことは筆者の議論によってのみ説明されるのか。
 本書で一義的な社会的決定が回避され、それなりに穏当な印象の論調となっているのは、「周囲の人」の扱い方による。筆者は家族の利害を家族外の利害に優先させ、家族の決定を尊重すべきだとする。しかしその理由は何か。家族が負担を負っているから。では、「社会」が負うならどうか。こちらが正しいと言いたいのではない。この時、「社会」が決定者として現われ、新生児の生殺を決めるかもしれないこと、選好と決定が置かれている仕組みを考えるべきなのであり、その解析に向かう装置が筆者の論にはないことを言いたいのだ。安楽死についても、安楽死への「選好」が存在する条件は問われない。ある程度の常識の範囲内で筆者は語る。筆者と読者の共通性によって読者は筆者に感応し、その時に本書は説得の書であり納得の書となる。自分では考えないし、物議をかもしそうなことは言わないが、都合のよい選択肢を支持するそれなりに著名でもある論者が一人いるという安心がその人を呼び寄せてしまうといった怠惰は拒絶しなければならない。他方に、この書の情緒への訴え方、事実の記述の偏りを感じる人がいて当然だと思うが、それは単なる事実誤認でなく筆者の思考の構造に由来する。だから基本的なところから、少なくともこの舌足らずの「書評」の何十倍かの分量の検討がなされるべきである。それは筆者の思考が、現実の私達の思考でもあるからである。(立岩[1988])△

◇立岩 真也 199803** 「書評:P.シンガー『生と死の倫理』(昭和堂)」『週刊読書人』
◇Singer, Peter 1994 Rethinking Life & Death, The Text Publishing Company, Melbourne=19980225 樫 則章 訳,『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』,昭和堂,330p. ISBN-10: 481229715X ISBN-13: 978-4812297155 2415 [amazon][kinokuniya] ※

★◆ 『私』の……(大幅に削除する)  「私達はなぜあることをその者に委ねるのか。その者が私ではない存在、私が制御しない存在としてあること、「他者」としてあることを認めようとするからだと考える。 □「Aがxを思う」「Aがxをする」「Aが生xを生きている」「xがAに宿っている」「Aがxに宿っている」。Aはこの状態から自らを解き放つことができない。あるいは解き放とうとしない。Aのあり方を譲渡しようとしない、引き受けざるを得ないものとして引き受けている。私はその経験に共感したり反感を抱いたりすることはできるとしても、その経験自体を経験することはできない。ここまでは私達が知っている素朴な事実である。この事実に価値を付与し、規則を設定する。つまり、Aにxについての優先を与える、xがAのもとに置かれることを認める。なぜなら、私がその経験を制御し、破壊することは、Aが他者として在ること、私でない存在であることを破壊することだからである。これはAがxを制御できるか否かとは別のことである。擁護されているのは処分権としての自己決定権ではなく、他者がそれを制御してはならず、譲渡を求めてはならないという義務、それによって同時にAに生ずる権利であると考える。自己決定権は、その者が他者としてあること、他者としてあるその者のあり方を承認することの一部である。(第4章2節)▽339
□だが、1)その者にその者のあり方を委ねる時、他者、少なくとも他人の存在を害さない限りにおいてという条件が付される。出産に関わる女性の決定はこの条件に違反するのではないか、したがって自己決定権としては認められないのではないか。そして2)他の者でない「母親の」決定を尊重すべきだと言えるだろうか。既に述べたことのいくつかを繰り返しながら述べる。
□1)について。「人となる」一義的な時点を決定できないことを認めた。つまり、既に「人」である存在に対して私達がどのように対するべきかという問題がここにあるのではない。その存在はまだ誰でもない存在xである。それがやがて否応なく他者として存在を始める。その存在はその過程の中にある。この過程のどこかで、xはxでなくなり、例えばBとして存在を始める。しかしこの境界がどこにあるか、そこを決める決定的な手段はない。このような存在になる境界をどう捉えるのかが問題なのだと述べた。ゆえに、1)を持ち出して反論することはできない。
□2)について。私達は、あるものについてそれが誰の経験かという事実を認識しており、その私達が感じている差異に応じて、それを経験している者にそれに対する優先を与える、つまり「自己決定」を認める。例えば、ある病の原因や病状について医者の方がよく知っていることはある。しかし、なお病に関する患者の自己決定を認める。それ▽340は、その者が生と病とを経験している、あるいは身体を受容している、するしかないことに求められると考える。私達は皆同じ位置にいるのではない。私達は、その違いを承認し、誰かに決定を委ねる。
□xが存在をし始めたという経験から、私ではないもの、他者が現れることの経験へと移行する、その経過を経験する者がある。つまり当の女性において、人が誕生してくる、私ではない存在が現れてくるということが、自らの内部における経験として存在する。この経験は、他の者の経験とは異なる。この経験における差異を認め、関係の具体性においてその存在に近いところにいて、人の現われを感受しうる女性に、その判断と決定を委ねようとする、あるいは任せるしかないと考える。
□だが、その女性の体内に起こる女性の経験をなぜ特権化するのか、まだ明らかでないと思われるだろう。確かにその外側にいる者も何かを感じている。例えばAがaというあり方をしている時、そのaがよいとか悪いとか、そうしたことを私達は判断することができる。それだけの意味では、aに対してAも私達も当距離にいる。また例えば代理出産を依頼した男性や女性も、「子」について、何らかの(強い)思いを抱いているには違いない。この限りでは同じだと言えるかもしれない。しかし、私達は差異を認めていると、それは「他者」が存在するという経験における差異であると、私は考える。▽341
 例えば、代理出産の依頼者が契約の履行を求める時、そこで求められているのは私の欲求の実現である。女性の決定を押し留める時、そこに求められているのは私の欲求、私の正義、私の価値の実現である。誰かがこのようなあり方から逃れていると言うのではない。全ての人に、そして当の女性にも、そうした契機がある。しかし、そうした私(達)のあり方がそこで途絶してしまう存在の現われを最初に感受するのは女性である。身体的な変化や胎動◇22やに関わりながら、当の女性に起こっているのは、端的に「私ではない存在」の現われである。だから、女性に委ねるのは、他者が現れるということが、私の欲求や、正義や、誕生に遺伝的に関わっているという因果関係や、私達と何かの性質において同じであるという同一性の準位にあるのではなく、私でないもの、私の価値等々がそこに及ばずその存在を受容するしかない存在が現れてしまうということだと思うからである。
 他者があることを承認する。その他者とは、私(の欲求・価値・…)と別のところにある存在という意味での他者である。そのことによってその者の決定が承認される。このことを第4章で述べた。そのような意味での他者の現われをまず感ずるのは女性であると考えるのである。他者がある(現れる)ことを知る最初の存在として女性があることを認めることにおいて、女性に委ねる。ここで決定するのは、その当の者(まだその▽342ような存在は登場していない)ではなく女性だが、その女性に委ねるのは、私達の他者の存在に対する了解、他者をどのようなものとしてあらしめるのかという価値である。
 こうした感覚が、出産に関わる「女性の自己決定」を擁護するのだと考える。誰もがその生命を奪われてならない存在として認める時点以前の期間に関わる決定を女性に委ねる、認めざるをえないものとするのである。◇23
 本書の冒頭に次のように述べた。[…]」()
★ 第2版での加筆。(大幅に削除する)
 「[4]始まりについて
 生命尊重を主張し、線引きを否定し、人工妊娠中絶に反対する論があるが、その論には難点がある。どこにも線を引かずにすべてを尊重するという立場はない。絶対尊重を言う人たちは実質的には受精卵以降を特別なものとしている(ここに境界線を引いている)が、その理由は説明されない。このことを指摘したのは加藤秀一である(加藤[1996])。その上でどのように考えるか。
 本書初版のあと、幾度か書かねばならなかったことがあって書いた。おおむねそこに書いたこと以上を加えることができない。以下は日本医学哲学・倫理学会で報告を求められ、その後学会誌に書いた「決められないことを決めることについて」([2005b])の一部。
 まず、その女性にとっては、将来の負担という契機が最も大きくはある。実際にはこのことを重く見なければならないのだろう。だが、将来の負担の予想によってことを決めてよいのかという疑念は残る。むろん、実際には負担は除去されていないのだから、負担という契機を無視することはできないし、無視すべきではない。ただ、現実は容易に変わらないから、仮想のこととしてしか言えないのではあるが、この指摘に対する単純な反応は、過重な負担を除去あるいは軽減することであって、苦労する人だからその▽760人に決めてもらおうということにはならないはずだ。(この点に関わることを考えていくと、その人に負担があってもなくても、同じ結果になることを後述する。)
 次に、その人がためらい悩む存在であるということは、産む方に向かう契機をも有しているということではある。とすると、その人に委ねるとは、それを当てにしているということだろうか。そのようなところもあるように思う。しかしまず、中絶自体を減らすことが目的であるなら、別の方法の方がその目的をよく達成するかもしれない。中絶批判派から、女性たちは産む産まないことについて実際には安易だという指摘がある。そんなこともあるかもしれない。その人はたいして気にしていない、かもしれない。そして先述したように、その人は最も大きな利害を有している人たち、産むことの最大の不利益がある人たちである。たしかにここに中絶することをやめて産んでしまうという契機はあるのだが、その可能性は他の場合よりも大きくなるわけではない。
 また、その女性にとって、その子が生まれることが意味のあることであったり、そうでなかったりすることがあるから、女性に祝福されるような場合に生まれるように、女性に決めさせるのだという筋の話もそのまま受け入れられない。受け入れるなら、ある人が誰かにとって意味がある時、その人がそのような係累を有する存在である時に、その人は生きていてよいということにもなる。「関係論的」な論は、そのように解釈され、▽761使われる可能性がある。だが、その人固有の、同時に普遍的な存在の価値ということを思うなら、それは認めがたい。
□女性が、より真面目に考えるとか、深く悩むとか言えるようにも思う。しかし、そう言えるのか。言えたとして、やはり深く生命尊重を信じ中絶を否定する人たちの思いと比べて、なぜ前者を優先するのかという問いは残る。「安易な中絶」を指弾する人の側の方がかえって安易ではないか、と言いたくなることはある。しかし、信仰が大切なものとしてあり、自らにとって大切な信仰が指示する(とされる)規範が侵犯されているのだから、それは大きな苦痛であるかもしれない。
 だからまだ、なぜ、という問いは残る。
 まず、これもまた一つの特定の価値判断であることを認めよう。(そこから離れ、「信教の自由」といった立場から言っていった方がよいのではないかと思われるかもしれない。しかしそうはならない。まず、人それぞれにというのもやはり特定の価値であるには違いない。次に、人それぞれにを認めたとして、だから人を殺すことが認められることにはならず、ここで中絶が殺人だと言う人がいるのだから、それに対して何かを言わねばならない。)
 その上で、この特定の立場は、その身体においてことが起こっている当の人たちの方を優先すべきだという立場である。むろんそれ自体を疑うことはできるし、異論を言い、▽762批判することはできる。ただそれはそれほど特殊な立場ではないはずである。
 例えばある土地について、二人の者が争ったとしよう。あるいは子の帰属について争ったとしよう(そしてこの場合にはさしあたり子の側の事情は考えないとしよう)。一方が(例えば信ずる宗教がその地を特別の地として指定しているから)自らに属するべきであると強く信じていることがある。また、その対象に強い愛情をもっていると言い、きっと大切にする、大切に育てると言い、言うだけでなく、そのように信じていることは事実であるといった場合がある。けれども、その場所――はしばしばその人の暮らしに脅威であったりもするのだが――に実際に暮らしている人の方、産んだり産んだ後しばらく暮らしたことがある人の方を優先することがある。
 このようにその者に委ねる。その近さは因果の近さではない。そして、またある特定者への愛情・愛着の有無とか、濃淡というものとも同じではない。そして、時間を経た土地や人とのつながりという場合と異なり、この産む/産まないが関わっている場合には、その女性は、存在に近いというより、生成の境界に近い。
 外界に生まれ生きてしまう前の時間、決め難い域・時間がある、その域にあるとしか言えない時、しかし事実線は引かれる。なすなら他人がなす。これも必然のことである。そしてここには規範の空白がある。片方の絶対的な生命尊重主義が成立しないことは述▽763べた。またもう片方の、体内にあるがゆえにその人の所有物であるとの説他を受け入れることができないことも述べた。
□そして、そんな場面で、正しいと思うことを言うのは多く関わりのない人たちでもある。あらかじめ私の側に、例えば信仰として与えられ、そして深く根付いているものがある時、むろんそれは尊重された方がよいだろうし、その信に基づいて行動することは、多くの場合に妨げられないだろう。しかし、この場面では、それを優先することはしないということである。未定の、決めようのないことに直面してしまうその人の触感のようなものに委ねようということである。
□たしかにそのような態度は、身体性のようなものの美化、神秘化につながらないでもない。「自然主義的」で「本質主義的」な傾きがなくはなく、怪し気なところがないではない。また、先にも述べたように、心的な負担をその人に強いてしまうものである。それでも委ねようというのだ。
 まず先述した境界の引き難さという前提が認められた上で、人の世界が人を迎える時に、完全な歓待の不可能性あるいは困難を思い、同時に拒むことの困難を思う、そのような過程としてあることは、人を迎えることの実際、人が存在するというあり方の実際を偽らないことにおいて、肯定されてよいと、あるいは肯定されはしないとしても、認▽764められてよいとされるということではないか。そのように感じられているのではないか。身体内にあるものの所有という理路による中絶の肯定に疑義を唱えながら、なお女性の決定を手放すことはなかった人たちの論を、このような方向に解することもまたできるのではないか。
 その世界を有する者としてあると思うとき、そして現われてしまった時、残念ながらであっても認めることになるとさきに述べた。それで人から人が生まれる。そうなった時、その者に係累が絶えていても、その者は生きることになる。人において現われてしまうことにおいて、認めてしまう。最小限の「関係主義」がここにあるとは言えるかもしれない。ただ、[2005b]の末尾に述べたことは、「産み放し」にしてもそれはそれでよしとしよう、それが可能であるようにしようということだった(cf.小宅理沙[2010][2011])。つまりここでも私たちはさきに述べたことを繰り返している。つねには自分が育てなくてもよい社会、そうした中で育っていける社会があればよいとし、それが前提とされるべきだと――実際にはそうなっていないが、だから――言うことになるのである。
□実際にはそうではない。そうでない限り、つまり、産むにせよ産まないにせよ、それが非難あるいは試練・負担を帰結する限り、まず負ってしまう人にと思う。そして実際▽765に「産み放し」にできる状態が出来したとしたら、やはり殺すことに近い人に委ねる。そのぐらいしか思いつかない★15。」([●])



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■■第4章

★07 〈『私的所有論』第7章。【】内は第2版における加筆。〉
 「多くの宗教は外的な行為の形を指示し、また、そのことによって自らの同一性を保持する。つまり、なすべき行為となすべきでない行為を指示し、その遵守を求めることで例えば来世での幸福を約束する。キリスト教が当初その一分派であったところのユダヤ教はそうだった。キリスト教はそういった空間から離脱する、とは言えないとしても、それを屈曲させ、別の空間を提示する。キリスト教は罪が構成される場所を個体の内部に移行させ、内部(の罪)の発見を促す(吉本隆明[1978]、橋爪大三郎[1982])。ここに罪の主体としての人間が現われ、このことによって人はこの宗教の下に捉えられる。問うことによって内部という領域が現れるが、それはそれ自体としては当人にも不可視であり、それだけに内部にあると名指されるものを否定し難い。そこで、この場所が問題になるや、そこに諸個体はひきこまれてしまう。共通の主題へと導かれ▽419ていく。【(吉本[1978]に「親鸞論註」とともに収録された「喩としてのマルコ伝」は、後に吉本[1987]に収録された。)】
 キリスト教はこのことによって普遍性を獲得した。第一に(発見されようとする限りでの)内部の存在の普遍性と、(同様に在るのではと疑われる限りでの)内面の罪の否定不可能性によって、あらゆる人間に対して効力を持つ(可能性を有する)という意味での普遍性。第二に、各人の身体を具体的に拘束する諸規範を必ずしも否定することなく、別の準位、しかも具体的な行為に対してメタの位置に立つ抽象的な準位としての内面に教義を定位させることにおいて獲得される、個別規範の具体性に対する普遍性。そしてこの逃れがたい罪を赦す神をここに置くことによって、キリスト教は普遍宗教たりえた。しかもこの教義は、(内面が個体の内面である限りにおいて)人間を集団として捉えるのではなく、個別の存在として取り出し、さらに――救いへの導きにおいて――個々別々に作用するものである。以上の二つの意味での「普遍性」と二つの意味での「個別性」は矛盾しない。あらゆる人間に作用し、また個別の規範に対して上位の位置に立つ、そして個々の人間を別々の存在として取り出し、またその個別の存在に作用する規範、の可能性が開かれたのである。
 ただ、右記した構制は、パウロ(Paulo)、アウグスティヌス(Augustinus)といった人々の言説の水準においてはともかく、西欧世界に当初より存在していたわけではない。例えば刑罰の領域では、行為=統一体の損傷、制裁=その回復、といった観念が根強く存在する。ここからの転位は一二世紀後半から一三世紀前半にかけて現れる。行為の外形における違背→秩序回復の儀式としての制裁という観念が失われ始め、行為者が倫理的に非難されるようになる。この時期は、諸集団の並立、そして集団内での制裁、と集団間での争い、より上位の権力体が存在する場合でもその調停としての裁判、という状態からの変容期にあたる。すなわち、一二世紀後半以降、貨幣経済の進展・商業の発展によって諸権力体間に格差が生じ、既存の権力秩序が変容するとともに、より広範囲・高次の平和領域が要求され、既存の諸集団の解体、統合を通しての、よ▽420り広域に及ぶ中心を持った権力圏が徐々に成立していくのである。ここで、個人の内部への遡及は、行為が集団の中で意味づけられる状態を除去し、背後を持たない個人を取り出し、その個人を個人として中央権力の下に引き出すことを可能にした点で、この変動の方向に適合する、あるいはそれを可能にするものであった。それは、民事と刑事、刑罰と損害賠償の分離、権力者による報復と威嚇という姿をとり、実刑を主とする「刑罰」の誕生として、また、糾問手続き、すなわち被害者の告訴をまたずに裁判権力者が犯人を職権的に追及・逮捕し、立証・裁判する手続きの登場として現実のものとなる。(塙浩[1960][1972]他)この時期はまたキリスト教会において「告解」が最終的に制度化された時期でもある。先にみたキリスト教の教義が実定的なものとして存在し始める。行為、内部を反省として取り出すことが促される。罪は常に私の内部の罪、内部の罪に起因するものであるとされる。(Foucault[1976=1980]、告白について他にHepworth & Turner[1983]。cf.Morris[1972=1983])(以上、より詳しくは立岩[1985][1986a][1986b])」(立岩[1997→2013:419-421])

 橋爪[1982]は橋爪大三郎の「性愛論――第1稿」。


 「★02○ゆえに小松美彦の『死は共鳴する』(小松[1996]◎)の主張をそのまま肯定しない。小松の論の批判は、後に『唯の生』(立岩[2009a])に収録された「「死の決定について」(立岩[2000c]◎)で行なった。その批判は「共同性」に依拠する部分についてであり、他の多くの主張については、私は小松の主張に同意している。その後の小松の著作に小松[2000]◎[2004a]◎[2004b]◎[2012]◎がある。 ○以下は小松についての個人的回顧。 ○「大学などない田舎にいたわけだから、誤解していたところ、間違った期待をしていたところもある。高校生のとき、大江健三郎の小説は読んでいた。彼は東大の文学部を卒業した人だ。なにか「そういう人」がたくさんいるような気持ちがしていたのだ。しかし、当たり前のことだが――そこらに大江健三郎のような人ばかりいたら、それはそれでたいへんである――そんなことはなく、普通だった。もっと言うと、説明は略すが、「嫌いなタイプ」の人たちもいて、どうもいけなかった。比べれば、湿った・湿気った(と私には聞こえた)演説を繰り返している民青の学生の方がよかったぐらいだ。そんなこともあり、いくらか違うかんじの人たち、そして「政治的嗜好」に似たところがある人たちとのつきあいの方が気持ちがよかった。例えば、小松美彦がいて、彼はそのころから妙な貫禄があった。後に彼は河合塾という予備校の小論文講師になり、予備校生を煽動していたのだが、それはとても彼には似合っているように思われ、後に大学の教師になり『死は共鳴する』(一九九六年)などという本を出したりするとは思わなかった。また、大学を終えた後技術系の翻訳で生計を立て、ダナ・ハラウェィという人の『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』の翻訳(二〇〇〇年)を出すことになったりもする高橋さきのといった人もいた。」(立岩[2007-2017(1)]


 『私的所有論 第2版』
 「★09 […]
 高草木光一が企画した慶応義塾大学での(二人で順番に話し、その後対談するという形の)講義(この部分が最首・立岩[2009])で最首悟(51・620・724頁、その時の話は最首[2009])、最首は人が殺す存在であることから考えを始めるべきであることを語った。私もそんなことを思ったことがないわけではないが、考えは進んでいなかった(し、今も△802 進んでいない)。次のように述べた。

 「最首さんが提起された「マイナスからゼロヘ」の過程をどう考えるかということと、思想の立て方としては違うはずなのですが、西洋思想のなかにも「罪」という観念があります。その「罪」は、まず基本的には、法あるいは掟に対する違背、違反です。法は神がつくったもので、具体的な律法に違反したら罪人であるという。それは律法主義です。ただキリスト教はそれに一捻り利かせていて、行為そのものでなく、行為を発動する内面を問題にすることによって、律法主義を変容させていく。
 フーコーは、そういう系列の「罪」の与えられ方に対して一生抵抗した思想家だと私は思っています。ニーチェ、フーコーというラインは、そこでつながっています。自分ではどうにもならないものも含めて人に「悪意」を見出す、そしてそれを超越神による救済につなげる。つなげられてしまう。これが「ずるい」、と罪の思想に反抗した人たちは言うわけです。私はそれにはもっともなところがあると思います。そして同時に、その罪の思想においては、人以外であれば殺して食べることについては最初から「悪」の中には勘定されていない。そうした思想は、どこかなにか「外している」のかもしれません。
 「悪人正機」という思想は、それと違うことを言っているように思います。では何を言っているのか。親鷲の思想にはまったく不案内ですが、いくらか気にはなっています。吉本の『論註と諭』という本(一九七八年、言叢社)は、マルコ伝についての論文が一つと親鸞についての論文が一つでできています。前者の下敷きになっているのはニーチェです。吉本とフーコーがそう違わない時期に独立に同じ方向の話をしている。そちらの論文に書いてあることは覚えていますが、親鸞の方はどうだったか。ずいぶん前に読んだはずですが、何が書いてあったのだろうと。二つが合わさったその本はどんな本だったのだろうなと。
 そして去年(二〇〇七年)、横塚晃一さんの『母よ!殺すな』という本の再刊(生活書院刊)を手伝うことができましたが、彼の属していた「青い芝の会」の人たちは、しばらく茨城の山に籠っていた時期もありました。そこの大仏空(おさらぎあきら)という坊さんの影響もあるとも言えましょうが、悪人正機説がかなり濃厚に入っている。それをどう読むか、それも気にはなってきていることです。
 「殺すこと」をどう考えるかは厄介です。否応なく殺して生きているということは、殺すことそれ自体がだめだということではないはずです。そして、ならば殺すのを少なくすればそれでよい、すくなくともそれだけでよいということでもないのでしょう。殺生を自覚し、反省し、控えるというのは、選良の思想のように思えますし、人間中心的な思想でもあります。最首さん御自身の「マイナスから始めよう」という案も含め、落とし穴がいくつもあるように思います。功利主義的な議論のなかでは、「殺すことがいけないのは苦痛を与えるからだ」という方向に議論がずれてしまう。だから、遺伝子組み換えで苦痛を感じない家畜をつくり出してそれを殺すのならば、少なくとも悪いことではないということになっていく。これはさすがに、多くの人が直観的におかしいと思うでしょう。
 こうした問題は、それはどんな問題であるかは、これまであまり考えられてこなかったように思います。西洋思想の系列にはその種の議論がないか薄いように思います。それでも、ジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930〜2004)とエリザベート・ルディネスコ(E1isabeth Roudinesco,1944〜)の対談集『来たるべき世界のために』のなかで、動物と人間の関係や、動物を殺すことについて少しだけ触れた箇所があります。ピーター・シンガーたちの動物の権利の主張について質間を差し向けられて、デリダはいちおう答えてはいますが、その答えの歯切れはよくないし、たいしたこと言ってないんじゃないかと。アガンベン(Giorgio Agamben,1942〜)には、酉洋思想や宗教が動物と人間の境界をどう処理してきたのかという本(『開かれ――人間と動物』)もありますが、ざっと読んでみても、ああそうかとわかった気はしない。ただ、いま思想が乗っている台座を間うていけば、そんなあたりをどう考えるのかが大切なことのようにも思えます。どう考えたらよいのか、しょうじきよくわかりませんが。」(最首・立岩[2009]における立岩の発言)
 それに対して最首は次のように応じている。
 「いま、吉本隆明の「マチウ書試論」(『芸術的抵抗と挫折』未來杜,一九五九年、所収)にまたもどってきているというか、「絶対」と「憎悪」と〈いのち〉というと、問題意識を少し言えそうな気がします。」



 「時間を七九年・八〇年に戻す。教養学部の時、私は『黄河沙』というミニコミ誌を作る「時代錯誤社」というサークルにいて、今はつぶされてなくなってしまった駒場寮という汚い建物で雑誌を作っていた。ジョン・レノンが撃たれて死んだニュースはそこで聞いた。そのサークル自体はとくに「政治的」な傾きのあるところではなかったのだが、それでもいろいろに首を突っ込んでいる人もいた。さっき名前を出した人たちが出入りしていたし、そういう人たちとつきあいのある人たちが作ったサークルだった。私が学校に入る前年に創刊号が出た。今でもまだこの雑誌は続いているらしい。そのサークルが学園祭で講演会の企画を立てた。一つは政治家になってまもない、まだそう知られていない時期の管直人の講演会。私はそちらにはほとんど関わらず、もう一つの方の担当になった。
 東京の国立市に「富士学園」という小さな施設があって、その施設はある資産家が自分の子どものために作ったということだったが、どういう理由であったのか、たたんでしまうということになり、それでは入所者はどうなるんだということでそこに務めていた池田智恵子さんという職員が一人残って存続のために活動し、しかし経営者から金は払ってもらえないので、支援者たちが廃品回収などして金を稼いでいたりしていた。その池田さんたちを呼んで何かしようということになったのだ。たしか、さきに名前をあげた、今は死んでいない高橋秀年がそこにも出入りしていて、彼はそのサークルのメンバーではなかったのだが、私たちの幾人かと親しく、そんなこんなで企画が決まったはずである。私は知識もなにもなかったから、とにかく、そこに行ってみなければならないということになって、それで行った。
 そこに暮らしている人は三人だった。そして池田さんがいて、その他の人たちが出たり入ったりといった具合だった。その頃のことその後のことについては池田さんの著書『保母と重度障害者施設――富士学園の三〇〇〇日』(彩流社、一九九四年)に書かれている。(いまアマゾンを見たら、マーケットプレースでは入手できるようだ。※)交渉はなかなかうまくいかず、金はなく、厳2018/12/08しい状態ではあったのだが、そこはおもしろいところだった。その学園祭での講演会――そのもののことはあまり覚えていない――の前と後、ときどき出かけ、おもに日曜、国立の近所を軽トラックでまわって廃品回収をする仕事を手伝ったりした。そうして回収して置いてあるものの中から、いくらかを所望し、いただくこともあった。例えば『情況』などという雑誌のバックナンバーをそうしてもらってきた。そして食事をみなとした。三人のうちの一人は「みみ」君と呼ばれていた若い男性だったが、言葉なく、ぐるぐるまわったり、ときに土を食べてしまったりする人であり、「わからん」人であった。ただ、その極小の不定形な場にその人はいて、「これはあり」であると思えた。その確信というか、現実というか、みなが「これでよし」と思っていたと思う。後に「他者」などどいう言葉を聞くようになったりあるいは自ら言ってしまうようになったりした時、この人のことを思い起こすことがある。やがてその人は、夜中建物を抜け出し、中央線の線路まで行き、夜中に通貨する貨物列車にぶつかって死んでしまい、そんなことがあったりもしたので、池田さん(たち)は残る二人をうまく暮らせていけそうなところに移れるようにして、そこでこの施設は終わりになったのだった。」

◇池田 智恵子 1994 『保母と重度障害者施設――富士学園の三〇〇〇日』,彩流社 202110Amazon:2653円

吉本 隆明 197401 「最後の親鸞」,『春秋』1974-1〜1974-2・3→吉本[197610]
◆―――― 1976 『最後の親鸞』,春秋社,155p.→吉本[1981]→吉本[1987:163-197],→吉本[2002]
◆―――― 19810725 『増補 最後の親鸞』,春秋社
◆―――― 19871210 『宗教』,大和書房,吉本隆明全集撰5,525p.
◆―――― 200201 「永遠と現在」,『アンジャリ』2
◆―――― 20020910 『最後の親鸞』,筑摩書房,ちくま学芸文庫(吉本[19810725]に、「永遠と現在」(吉本[200201])が加えられ、中沢新一の解説が付される)

 ▽<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、そこから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向って着地することができるというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能に近いので、いわば自覚的に<非知>に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。(吉本[1976:5→1987:164,→2002:15])※「そのまま」(3箇所)に傍点△

 ▽どんな自力の計いもすてよ、<知>よりも<愚>の方が、<善>よりも<悪>の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく<愚>に近づくことは願いであった。愚者にとって<愚>はそれ自体であるが、知者にとって<愚>は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。(吉本[1876:→1987:→2002:15])△

 ▽親鸞は、<知>の頂きを極めたところで、かぎりなく<非知>に近づいてゆく還相の<知>をしきりに説いているようにみえる。しかし<知>は、どんなに「そのまま」寂かに着地しても<無智>と合一できない。<知>にとって<無智>と合一する△017ことは最後の課題だが、どうしても<非知>と<無智>とのあいだには紙一重の、だが深い淵が横たわって居る。なぜならば<無智>を荷っている人々は、それ自体の存在であり、浄土の理念に理念によって近づこうとする存在からもっとも遠いから、じぶんではどんな<はからい>ももたない。かれは浄土に近づくために、絶対の他力を媒介として信ずるよりほかどんな手段ももっていない。これこそ本願他力の思想にとって究極の境涯でなければならない。しかし<無智>を荷った人々は、宗教がかんがえるほど宗教的な存在ではない。かれは本願他力の思想にとって、それ自体で究極のところに立っているかもしれないが、宗教に無縁な存在でもありうる。そのとき<無智>を荷った人たちは、浄土教の形成する世界像の外へはみ出してしまう。そうならば宗教をはみ出した人々に肉迫するのに、念仏一宗もまたその思想を、宗教の外にまで解体させなけばならない。最後の親鸞はその課題を強いられたようにおもわれる。(吉本[1876:→1987:→2002:17-18])△

◆立岩 真也 2004/02/28 「世界の肯定の仕方」,『文藝別冊 総特集 吉本隆明』,河出書房新社,pp.94-97 *

 ※以下全文
「□
 彼が書くことは肯定的だ。置かなくてもよいものを置かない。これは大切なことだと思う。よい読者ではない――すぐに使う本しか読めない不健全な暮らしをしていて、ここ二十年ぐらい彼の本を一冊通して読んでいない――私は、このことだけを言おうと思う。
 しばらく「政治哲学」の人たちが書いているものをすこし読んだ。リベラリズムだとかコミュニタリアリズムだとか様々な立場があり、大きな話から具体的な主題まで、ここ数十年をとっても夥しい言説の蓄積がある。そしてなかなかもっともなことも言われていて、なるほどと思うことがある。他方、この国でどんなことが言われてきたかを思うと、論理の詰めが甘い、というより論理がないことが多いから、それに比べるとよいと思う。それである程度感心しながら読んだ。しかし違和感を感ずることがあった。前から思ってきたことなのだが、やはりあらためてそう思った。
 そしてそんなことを思う時、ときどきこんなではなかったような気がする人として想起したのは吉本だった。何を読んでそう思ったのか、たしかな記憶もないのだが、しかし、たしかに異なっていると思い、そして彼の方が正しいと私は思った。彼には、何かに、例えば政治に参画したり、あるいは何かを、例えば自分自身を自らで作り出していくことが、それはときに必要であったり、ときにそれを人は求めてしまったりすることがあるとしても、それ自体として価値があるわけではないという、冷静な認識があると思う。また、そんな「積極的」な契機が人に含まれてなくても、それはそれでよいではないかという見方があると思う。
 私がおおむね翻訳で読んだ著作者たちは、立場を超えて、このようには思わないようなのだが、その方が間違っている。このあたり前の立脚点に立った方がよい。ただ、この健全なところから発しても、そこからのもって行き方を間違えると、行き止まりになってしまう。この場所をふまえながら、違う行き方があるはずだ。次にこのことを説明する。

 人はしかじかであるべきだと言う人たちのもの言いに反発し、いまそこで暮らしている人たちのあり方を肯定するとしよう。同時に、世界を見たり考えてしまい、世界は変わらなければならないと思う不思議で不遜かもしれない欲望がある。そして同時にそれを傲慢かもしれないと思う心性があった。人々から離れている自覚があり、しかし同時にその人たちの方が肯定されてよいという感覚がある。そんな心情に吉本の言説は入り込むところがあり、それによって支持されてきた部分があるだろう。
 そしてこうした心情が生ずる基盤があった。例えば、しばらくの間、大学生は少数者で、その人たちの多くはそうでない多くの人の中に暮らし、その後、その人たちのいる場所を後にしてきたという意識をもっていた。そんな関係に縁のない人もいるが、その人たちの中にもこうした関係を尊重する人たちがいた。それはこの国だけにあったのではないが、またどこにでもあったものでもない。そんなことを最初から気にしていない人たちがたくさんいる社会もある。また、多様性の尊重と言いながらどこかで人の同質性を想定している人たちもいる。近代社会でありながら十分に階級的な社会に前者のような傾向があるのは否定できず、また米国の論者について後者のような傾向が拭い去れないように思う。他方、そこにいる人々に距離感をもちながらもそれを肯定する意識は、ある形態の「途上国」にあり、そしてある階層から階層への流動性が一定存在する社会にあった。
 その意識は、啓蒙の言説が信用ならないと思う。もちろん民主主義者である限りの人たちは皆、民衆や大衆や市民が大切だと言い、その思いをすくいあげるとか言うのだが、そこにも押しつけがましい感じはある。それはつまり人々のなかの気にいったところだけを取り出している、あるいはその思いなるものを都合のよいように解釈しているように思える。
 この狡さに敏感であることはよいことだ。ただそれは対抗言説としてあり、そして依拠するのは自分自身ではなく、自らが積極的な像は描かない。解放を見ようとしながらも、人々の現実を肯定する。とすると一つに、どこかに自分の想定する像にあった人がいないか、残っていないか、探しに行くことになる――もちろんそうした動機が自覚もされるから、それはかなり自己懐疑的な行ないとしてなされるのでもあるのだが。もう一つに、人々の、そしてとくに何をするでもない自らの肯定になって、それで終わる。それは否定感のようなものと肯定感のようなものを並存させる。全面的な否定と全部の肯定とがつながってしまう。それでそのままになり、べたっと静止してしまう。
 それは違うのではないか。上の世代の人たち、団塊の世代の人たちは、誰に就くのかとか、どんな陣営に就かないのかといった、そういう態度のことばかり言って中味を言っていないと私は感じた。わからないではないその心性はともかく、考えるだけのことを考えて、書けるだけのことを書けばよいではないかと思った。その結果はまったくだめなものかもしれないが、しかしそうかもしれないとしても、まずそれをやってみてよい。
 まず、誰かに代わりに言ってもらう必要はとりあえずない。その人がこうだから賛成だとか賛成でないとか賛成しなくてはならないとか、そんな義理はない。どのような社会のあり方がありうるか、それはなぜか、どんな条件のもとで可能か、まずそれを言えばよいではないかと思った。少なくとも私には見えてはいないし、ではどこかにあるものをそのまま持ってくればすむとも思えなかったから、考えて言えばよい。
 例えば権力について。権力と大衆という図式はどこでも描かれるし、それはもっともなことだし、後者は嫌悪し警戒すべきものであるという感覚は基本的には健全なものではあるだろう。しかし、そうして懐疑する人たちもまた、強制力の行使が何もない状態を具体的に想定し、それを支持しているわけでもないようだ。とすると、権力、政治権力はどんな条件のもとで、どのような場合にどれだけ必要なのか。そんなことを考えていくしかないと思う。権力の無化を信じてもいないのにただ言うだけでなく、他方、現実の政治を仕方がないと語るのでない語り方があるはずで、そんなことを考えて、それをまず言ってみることができるはずだ。

 ではこのように考えていく時、吉本から受け取るものはなくなることになるのか。そんなことはない。あると思うと最初に言った。例えばさきの政治哲学だが、左派にしても、また何でも壊してまわりたい(ように読める)ポスト近代派の論者たちにしても、意外と真面目なところがある。というか、その真面目さの軌跡がその運動そのものを縁取っているように見える。例えば、単純に真面目で生産的な主体像を想定するのはためらわれるから、そのようなことは言わなくなっていく人たちもいる。しかしその場合であっても、そこにあるものを破壊することにおいて前向きであったり、信じられるものを信じないこと(を信じること)において前向きであったりする。次々にそこにあるものを否定していくことが生産的であることによって、その言説は生産されていくのでもある――この辺については、拙著『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、二〇〇四)の後半に関連した記述がある。
 吉本には、人間というものがそういう方向に行ってしまうことはたしかにあることではあるがそれは特段よいことではない、という構えがあると思う。人はものを考えてしまい、ないものを想像してしまうのだが、それはそれだけのこと、仕方のないこととして捉えられている。かといって、一方にある自然――これもまた必然的な反動として近代思想の裏側に貼りついているようなものである――の方へ行こうということでもない。
 『論註と喩』(言叢社、一九七八)に収録された「喩としてのマルコ伝」という文章がある。これを初めて知ったのは一九八三年の頃で、橋爪大三郎の「性愛論」という原稿によってだった(後に『橋爪大三郎コレクションII 性空間論』に収録、勁草書房、一九九三)。そこには、内面の発見とともに人は主体になり、そしてそのことによって神につながれる、その論理の筋道が描かれている。この文章にはニーチェによるキリスト教の理解が入っているが、しかし、そこに暗い過程を経て暗くなっていく人間に拮抗する別の強い人間が想定されているわけではない。また、このような道行きを吉本が運命的なことと考えているのかそれともある事件性のもとに捉えているか、そしてこうした分け方がそう大切なことであるか、わからない。ただこの文章の限りでは、ある事件として、ともかく起こってしまったこととしてこの事態は捉えられているように見える。
 私が何かの主となることによってそれを得るとともにそれに従属するその構制をこの社会の基本的なものと見て、それを批判し、別のことを言うこと、私が書いてきたことはいつもだいたいそんなことだ。例えば一九七六年に第一巻が出たフーコーの『性の歴史』にもそんなことが書いてあるが、「喩としてのマルコ伝」はさらに新訳聖書の成立時にその構制の生成を見ている――それで拙著『私的所有論』(勁草書房、一九七七)と前掲『自由の平等』の注に引用とすこしの言及がある。そして、そんな人のあり方を足場にする必要はないことを吉本は言っていると読める。そのような読み方をし、そこから考えることは村瀬学(『「いのち」論のはじまり』、JICC出版局、一九九一◎)らの仕事に継がれてもいる。そこから見たとき、様々に賢くそして有用な著作の多くが、足場にしなくてよいものを足場にしている。そうした論には、基本的なところで乗れないし、乗らないことにしようと思った。
 私がしたいと思うことは、吉本にあると私に思えるその立場を肯定した上で、それを可能にするような社会について考えてみることである。例えば、人はどれだけ政治的な主体である必要があるか。
 「私たちとしては、労働も政治活動も特別に価値のあることでなく、しかし双方とも参画するのはときに楽しいこともありまた必要でもあるという、そしてこの意味でもこの二つの間に優劣はないという、だから丸山真男の言うことはわかるがその立ち位置はわからない、アレントは立派なのだろうけれどやはりわからないところがあると言ってしまいたいという、単純な所から発してはいけないのかと考えてもよいと思う。」(『自由の平等』、二八九頁)
 吉本に市民にならねばならないという強迫がなく、基本的に政治は仕方がないからするものだという感じで捉えているところは、その通りだと思う。政治はおもしろいことであるか、でなければ必要であってやむをえず参画するというものであるというところからものを言えばよいのではないか。できればそんな仕事はない方がよい、すくなくとも少ない方がよいと思うのもまた当然のことではある。そして、それを遠くに夢想することによって眠ってしまうのではなく、この場所から構築することの可能な政治を構想することだ。」

◆立岩 真也 20131210 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,434p.

 「☆25 「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」(最首[1969])という気負った文章があり、同年の雑誌『現代の眼』(三月号)での座談会(最首他[1969])での発言が吉本隆明に批判されて最首はへこんだりする。
 「私は、一九六九年に、当時教祖的存在だった吉本隆明から「この東大助手には、〈思想〉も〈実践〉も判っちゃいないのです」〔吉本隆明「情況への発言」、『試行』二七号、一九六九年三月、一〇頁〕というご託宣を受け、落ち込みましたし、考え込みました。「わかっちゃいない」と言われれば、「わかりたい」と思います。しかし「わからない」まま時間は過ぎてゆく。努力していないと言われるとそれまでです。しかし、密かに大きくなっていった意識は、「思想も実践もわかったらどうするのだ」ということでした。」(最首[2013:287]、その文章は吉本の同じ題の本(吉本[1968])には、それは六八年に出されたのだから当然だが、収録されておらず、吉本[2008]に収録されている、そしてその同じ「ご託宣」のことは『図書新聞』の吉本追悼特集に最首が寄せた文章(最首[2012])でも言及されている。)

最首 悟 1969 「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」,『朝日ジャーナル』1969-1-19:99-103(非常事態宣言下の東大・その2)
◎―――― 20120414 「思想も実践もわかっちゃいない――繭玉のように表現を紡ぐには、蚕のように静止しなければならない」,『図書新聞』3058
◎―――― 20130222 「「いのち」から医学・医療を考える」,高草木光一編[2013:235-315] [88]
高草木 光一 編 20130222 『思想としての「医学概論」――いま「いのち」とどう向き合うか』,岩波書店,400p.
◎吉本 隆明 19680815 『情況への発言――吉本隆明講演集』,徳間書店,272p. ASIN: B000JA5AP6 660 [amazon] ※
◎―――― 19690325 「情況への発言(一九六九年三月)――二つの書簡(発信者 内村剛介)」,『試行』27→吉本[2008:110-119]
◎―――― 20080123 『「情況への発言」全集成1――1962〜1975』,洋泉社MC新書,389p. ISBN-10: 4862482155 ISBN-13: 978-4862482150 [amazon][kinokuniya] ※

◆『私的所有論 第2版』

 「[2]根拠?
 さらにその「根拠」が問われるだろうか。それを捻り出して言う必要があるのだろうかと一方では思う。生まれながらなのか、途中でなにかあったのか、多く理由ははっきりとしないのだが★03、人は様々であり、それがどのようであっても生きて暮らせてよいと考えるのであれば、こちらが採用されるはずである。この社会にあって本書が批判してきたものは、そうでない状態を帰結する。それを是認することは不正であり、不当な加▽735害であると私たちは言う。それに尽きるとも思う。
 他方、労働による取得を正当とする人たちは、その正当性を弁証することを思いつかないか、機能主義的・帰結主義的な正当化を行うか、そうでなければ、それは人々の感覚に合致していると言う。仮に最後のもののいくらかを認めたとしても、それが本書で支持されるものに優越すると思えない。また、その日常的感覚を論拠に、それが広く拡大され、様々なものの売買などなんであれ許容されると主張されることがあるが、それは論拠とした日常的感覚に背馳していないかという疑問もある。すると、今度は人々の――直観・直感ではなく――論理的非一貫性を指摘するのだろうか。だが、その指摘・説明でよいのか。むしろ様々を一括りにしないことに理があるのではないか。そうしたこともそうきちんと検討されているように思えない。
 これ以上議論の必要があるようにはまず思われない。それでも二点、既述したことを加える。二点、初版で明示していないことを加える。
 まず一つ、徴集・配分の対象になるのは手段である。生産の多くが交換において得るための手段とされること自体がそのことを示している。それらは他の人にとっても使用可能なものである。(だからこそ、他の人の使用のために生産されてもいる。)考えてみれば当たり前のことだが、このことを第4章2節で述べている。それらは基本的に他の人々によって使用されてもよい。これはその移動の実現の可能性を示しているし、生産された財のいくらかを移転させても問題ないことを示している。
 そして一つ、生産物が人の価値を示すという価値について。存在のための手段を産出することに、存在することに優越する価値を付与することは、とても単純に倒錯している。生きるために働いているのだが、働けなくなったからといって、それでも生きていくことができるのに、生きている価値がないなどというのはおかしなことだという、ただそれだけことである。それははっきりしている。
 それでもなお、その能▼算→産▲の行い自体に価値を付与する、人の価値を証すものとするという信仰は現実にある(第6章2節)。生産されるものがたんなる手段ではないということも実際あるだろう。自らの芸に自らが入れあげてしまうことはあり、周囲もときにそれを尊敬してしまうこともある。それはわるいことではない。そしてどんな社会・人でもいくらかは起こってしまうことではあるだろう。ただそんな場合だけではないことも明らかである。そして前者と後者と、後者がより上等なことであるとか、そんなことはない。かつてなにかができそれが自分のすべてであると思っていた人が、なぜかできなくなった。ひどく単純にすませてしまうが、その時はその時で、過去を覚えていたりしながらも、別の人間になったと思えばそれでよい。
 一つ、本書に示される立場に対してもっともな批判としてありうるのは、労働の苦労を認めていないというものである。しかしそれについては、同じ平等・公平という基準から「加算」を肯定している。苦労はその分報われてよいと考えている(本章第3節)。だからその批判は当たらない。
 そして一つ、このように主張することにおいて、「要求」することにおいて、他者・利他を言うことを必ずしも要しないことを確認しておこう。実際、批判し要求したのは、今の体制では困ることになる、既に困っている本人たちであり、次に――実際には「代弁」するその声をあげたのはこちらが先でまた声も大きかったことが多かったのだが――その近くにいて困っている人たちだった。
 生産したものを取得するという図式と、自らが欲するものを自らが取得することとは同じでない。後者における人間は利己的であると言えるが、それ自体は非難されるべきことではないだろう。そして、たんに後者における人間は、できれば自分は何もせずに得られればよいのだろう。人は怠惰なのである。(それでは、だれも生産しないかもしれない。だから、この図式をというのが機能主義の主張である。その心性をいくらか所与とせざるをえないのであれば、幾分かは受け入れようとも述べた。)ただ、前者の図式において後者が実現するのは、できて・行った人である。だからそちら側にいると思っている人が前者の図式を支持するのも当然のことではある。
 ただ、「なんであれ人は生きて暮らしていけるのがよい」と言う時、それは「私の特別さ」を言うことによって認められるのであれば、そこで肯定されているのは「特別」の方であって私ではない。なんであれこの私を、と言うのであるなら、私を生きさせよと言うのであれば、それを「純粋な利己主義」(立岩[2004a:127])と呼んでみてもよい。」

「2 人に纏わる境界
  1 位置
 あるものを否定するためにそれと逆のものをもってくる必然性はない。ただ、第4章は「他者」という題になっている。「他者」を言うことは、本書を書いた後もしばらく流行っていたようではあった。そしてその流行りのことはよく知らないがとことわりつつ、人々は実は別の価値を有してもいると、そしてその別の価値・価値を有する社会が常に既に同時に存在していると言っている。それはどのようなものであるのか。そして現実にどこまでの解を与えるか。
 私と私でないものとの関係は次のようだと述べた。世界と私があって、私にとってよいことがあるとよいと思う。その私にとって、世界【前者】の方が大きなものとしてある。そして豊かである。それに対して私はたいしたことはない。私が制御できる世界は退屈である。そして、いつものことではまったくないとしても、制御せず受動的であることが快の一部、あるいはその条件をなす★06。世界にあるもの、体表や体内に起こっていることを受信・感受できればよい。受け取ればよい。それらがあればよいではないかと言う。
 これは、【前節に】検討・批判の対象とすると述べた規則・価値の単純な否定ではない。あるいはもっと単純なことである。(批判する対象と述べたもののの反対は、私の生産物は私に属するものではないという主張である。そのことを本書は主張するが、その主張についてなら、例えば功利主義――といっても一様ではない(cf.【児玉聡[2012]】)――のある流れは、そしてむろん平等主義は、本来は、同意するだろう。)ただここにあるとしたものは、世界の中にあって世界を受領していることをもってよいと、十分であるとすると言うことでもあり、また人間や一人ひとりが能産的であることをまずはそれが必要な限りにおいて認める、自己その他を意識してしまうことを仕方ないできごととして認めるということであるから、前節で述べたこと、人がどんなである/なしにかかわからずそれでよいという主張につながるものではある。そしてそれは、その人に置かれるもの、そうでないもの(対価を払って受け取ってよいもの、徴集してよいもの)について別の原理・区分の仕方を示すことでもある【(第4節)】。
 ただ、これを不如意であること、不如意のものを受け取ることの肯定とみるなら、それはたしかに常識、日常の行動の多く、日頃行っていると思っていることに反する。述べたものと別のものがあることは明らかである。私たちは様々が自分の意のままになってほしいと思っている。取得しようとする。それはたいがい自らの意に添ったものではあるし、あってほしい。それは当然のことではある。最もわかりやすくは、殺して生きている。そして他人を認めることは、負荷であり、苦でもある。それを初版で言っていないわけではないから再度ということになるが、より強く言う。
 ならば、まず【…と…との】二つ、少なくとも二つが併存しているということである。
 一つ確認しておくべきは、この併存ということ自体がありえないことではないし、矛盾している、いずれかが間違っているのではないということだ。むしろそんなことはいくらもある。すくなくともここにある。その認識が大切だと考える。二つは、一つを肯定すれば一つを否定するといった択一の関係には、多くの場合に、ない。例えばいずれも自身にとってよいことである、というようにそれは併存する。またこの問題が片づかないと前節に述べたことが支持されないというわけでもない。ただ、いつもそうではない。何があればよいのかという「底」の部分でどうなのかという問いは残ってある。
 まず、ただ受け入れることなどきれいごとに思える。私も「歓待」(cf.Derrida[1997=1999]◎)などと言われると、そのように思うことがある。このことについて【第3節(次節)】で述べる。またできることを(あえて)しないのは倒錯しているようにも思える。このことについて【第4節】で述べる。
 【『私的所有論』の第3章から第4章への】行論でなされたのは、もし人がしかじかをする「なら」(あるいはしない「なら」)、人はしかじかと思っているということだ。つまり帰納的な論になっている。ただ他方には、そのような行動を取らない人もいる。多くの議論が結局依拠する人々の「倫理的直感(直観)」において、あるいは行動の水準において、既に分かれている、あるいは述べたように、同一の人に複数のものがある。その一つがたしかにあることはそれが基本になることを「証明」するものではない。結局は信と信との争いになって、決着はつかないとも言える。
 人々の多くは、二つがあること、並立していること、これらを含め、ことのよしあしを別として、意識している。まず、自分が作るものよりも、あるものがよいとたいがいの人は思っているとともに、制御したり作り出すこともよいと、必要なことだと思っている。それはそのモノの帰属先を指定していない。それが私に帰属する限りではそれを「利己主義」として批判することはできる。ここではその帰属は生産者と限らない。実際優生学(優生主義→『私的所有論』第6章注24・●頁)において目指されたのは、性能の改善が想定されている範囲の社会全体を利することだった。ただ、そこでも、私が能動的であり、対象を私が認識・把握することは、事実して認識され、必要なこととして肯定されている。たしかにその行ないは必要である。だから称賛されてもよい(そして称賛することは「ただ」でもある)。ただそこにいくらか余計な重みが足されていると人は感じる。その人が指差される。自己のためであれ、あるいは他者のためであれ、能産的であることが称揚され、それがその者に回付される。
 けれども、それと異なる感性・心性は実際に存在し、それは、自分が統御するものが自分に還ってくるという図式と異なったものとしてあること、よってその図式・信心に抗するものである。それは、一つに、すくなくとも現実の一部を示している。
 そして、人が意識し制御するという図式は、狭義の所有についてというだけでなく、非常に強いものとして、存在し続けている。それは例えば生命倫理学の主流に素直に継承されている。だからこの図式を問題にする。「ラディカル」に人間中心主義を批判する立場が、むしろ人間(にあるもの)を特権化していることを示した(第1章)。規則とそれを支持する信念の塊があってことが進んでいる時、それと別のものがあることを示すことは意味のないことではない。
 信じなくてよいとだけ言えばよいのかもしれないのだが、その相手が支配的であるとき、そしてたしかに別のものがあるのなら、それがあることをわざわざ確認しておくことに意味はある。そしてそのほうが多くの人にとってよい。それを述べようとして本書を書いた。
 これは帰結主義的で厚生主義的な正当化ということになるか。人が、第1節に述べたような人のあり方を望んでいるとするなら――そう私は思うが――そのように言ってもよい。やはりいくらかの仮定を置けば、つまりそのように人々があることが人々に満足や快楽をもたらすとするなら、功利主義的な正当化であるとも言える。仮に実際に投票などするとどうなるか、それはわからない。けれど、社会学者はそのことばかり言ってきたのだが、人々は社会的な存在であるから、そして本書に記したようにいまの社会はできているから、その投票結果を常に受け入れるべきであるとはならない。(そのように言う者は、素朴な意味では、積極的な民主主義者でないということになる。)つまり以上から「確かなこと」は言えない。
 この「底」「根拠」についての問いは、さきに二つあると述べたその優先順位を巡る問いであるとも言える。そこに記したこと自体から、その繰り返し以外の何かを言えるか。世界は私よりも大きく、そこから私が受け取っていることは事実であるとしよう。また制御しない・できないことが私にとって他者が存在することの要件であることは、その言葉の用法次第では、その通りである(第4章1節)。そしてそれが快、むしろ快の条件であることも、事実として認めるとしよう。であるならその方が人にとってより「基礎的」なものとしてあると言えるだろうか。言えるとしよう。また述べたように手段がなにかのための、例えば存在・生存のための手段であり、手段でしかないこともまた自明である。けれども、どうしたって世界があるのは事実であり、できることははじめからたかがしれているから、何をなしても残りは残る。だから、私一人がなにかしても世界はそう変わらない。だから、私にさしあたって関わる部分についてははすきなようにする、すきなようになってほしいと思う。また、他の人(々)が人々を生きられてしてくれているなら、私はそこから抜けて、同時に、人々がいる世界にいることもできる。ならば、ここでも順位は決しない。結局、ここまでに述べたことよりも別のことを言うことにはならない。その意味では「立場」を示し、繰り返すにとどまる。
 しかしまず、それは他の立場にしても同じである。そして、ここまでに述べたことは、人によっては意外に思うかもしれないが、その人にとっては意外なことに「直感(直観)」に適っていると考える。そして、人が自らの利得を求め維持したいと思うことを事実として認め否定もしないとした上で、しかしそのことが、その世界にいること、他者のいる世界にいることについて「ただ乗り」しているなら、応分に拠出すること、あるいは「控える」ことを求める(『自由の平等』◎第3章「根拠について」)。
 そして、このようなことを述べることが既にそうなのだが、人間にはやっかいなことに「内部」が在ってしまっている。それらが組み込まれた時にさらにいささか複雑なことになり、やっかいなことだが、それが実相であるなら、それはそれとして見ておく必要はある。例えば自らが殺生をしながら生きていることを自覚してしまったりする。人が意識を有することを知り、ゆえにそれに関わって心配になったり死を恐怖したりする。それを知り、それに応ずることを認めざるをえない。基本的には、本書の立場は、そのことを肯定的には捉えない、捉えられないのだが、しかし考慮せざるをえない。すると、そうすっきりといがず、何重もの層がある。それを見ていくことになる。
 そのうえで、結局以下でなされるのは、さらに遡りようのない立場の表出・反復ではある。ただ、ときに「やせがまん」をしても――といっても今まで人がしてきたことにとくに何を加えることもない――そして、永遠を得るとか救われるといったことはないとしても(そのことについてはいずれの立場も違わない)、楽に長生きしたいというのであれば、こちらの方が支持されるはずだ。」

★03 「英語圏の文化やそこで発展している大学の知には二重の哲学伝統が疑う余地なく刻みこまれているのだが、この伝統に△110 によって、デリダの脱構築は動物の問いとの密接な関わりにおいて柔軟な仕方で熱心に受容された。〔二重の伝統とは、第一に〕ベンサムの功利主義であり、彼は動物の苦しみの問題をみずからの思考の中に書き込んだヨーロッパにおける最初の哲学者の一人である。そして、その現在の後継者としてピーター・シンガーがおり、…」(Llored[2013=2017:110-111])

★13○『論註と喩』をあげたのは『私』でだった(→註07)。その後、短い文章を一つ書いている(→註●)。その後、本章に出てくる人たちにまとめて言及したのは最首悟(→註●・●頁)との対談でのことになる。
○高草木光一の企画した慶応義塾大学経済学部での連続講義が、『連続講義「いのち」から現代世界を考える』(高草木編[2009])、『思想としての「医学概論」』(高草木編[2013])の二冊になっている(後者に最首[2013]が収録されている)。その前者に、最首が話し(最首[2009])、私が話し、その後対談する(対論となっている、最首・立岩[2009])という形の講義の記録が収録されている。
○最首は一九三六年生。東大闘争の時、助手共闘に参加。高草木は、大学闘争、その時期の社会運動に関心を持ち続けている人で、それで、最首など呼んだりする講義を行ない、そして本にしたりしている人だ。その二〇〇八の講義の時、最首は人が殺す存在であることから考えを始めるべきであることを語った。私もそんなことを思ったことがないわけではないが、考えは進んでいなかったし、今も進んでいない。次のように述べた。
○「最首さんが提起された「マイナスからゼロヘ」の過程をどう考えるかということと、思想の立て方としては違うはずなのですが、西洋思想のなかにも「罪」という観念があります。その「罪」は、まず基本的には、法あるいは掟に対する違背、違反です。法は神がつくったもので、具体的な律法に違反したら罪人であるという。それは律法主義です。ただキリスト教はそれに一捻り利かせていて、行為そのものでなく、行為を発動する内面を問題にすることによって、律法主義を変容させていく。
○フーコーは、そういう系列の「罪」の与えられ方に対して一生抵抗した思想家だと私は思っています。ニーチェ、フーコーというラインは、そこでつながっています。自分ではどうにもならないものも含めて人に「悪意」を見出す、そしてそれを超越神による救済につなげる。つなげられてしまう。これが「ずるい」、と罪の思想に反抗した人たちは言うわけです。私はそれにはもっともなところがあると思います。そして同時に、その罪の思想においては、人以外であれば殺して食べることについては最初から「悪」の中には勘定されていない。そうした思想は、どこかなにか「外している」のかもしれません。
○「悪人正機」という思想は、それと違うことを言っているように思います。では何を言っているのか。親鷲の思想にはまったく不案内ですが、いくらか気にはなっています。吉本の『論註と諭』という本(一九七八年、言叢社)は、マルコ伝についての論文が一つと親鸞についての論文が一つでできています。前者の下敷きになっているのはニーチェです。吉本とフーコーがそう違わない時期に独立に同じ方向の話をしている。そちらの論文に書いてあることは覚えていますが、親鸞の方はどうだったか。ずいぶん前に読んだはずですが、何が書いてあったのだろうと。二つが合わさったその本はどんな本だったのだろうなと。
○そして去年(二〇〇七年)、横塚晃一さんの『母よ!殺すな』という本の再刊(生活書院刊)を手伝うことができましたが、彼の属していた「青い芝の会」の人たちは、しばらく茨城の山に籠っていた時期もありました。そこの大仏空(おさらぎあきら)という坊さんの影響もあるとも言えましょうが、悪人正機説がかなり濃厚に入っている。それをどう読むか、それも気にはなってきていることです。
○「殺すこと」をどう考えるかは厄介です。否応なく殺して生きているということは、殺すことそれ自体がだめだということではないはずです。そして、ならば殺すのを少なくすればそれでよい、すくなくともそれだけでよいということでもないのでしょう。殺生を自覚し、反省し、控えるというのは、選良の思想のように思えますし、人間中心的な思想でもあります。最首さん御自身の「マイナスから始めよう」という案も含め、落とし穴がいくつもあるように思います。功利主義的な議論のなかでは、「殺すことがいけないのは苦痛を与えるからだ」という方向に議論がずれてしまう。だから、遺伝子組み換えで苦痛を感じない家畜をつくり出してそれを殺すのならば、少なくとも悪いことではないということになっていく。これはさすがに、多くの人が直観的におかしいと思うでしょう。
○こうした問題は、それはどんな問題であるかは、これまであまり考えられてこなかったように思います。西洋思想の系列にはその種の議論がないか薄いように思います。それでも、ジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930〜2004)とエリザベート・ルディネスコ(E1isabeth Roudinesco,1944〜)の対談集『来たるべき世界のために』のなかで、動物と人間の関係や、動物を殺すことについて少しだけ触れた箇所があります。ピーター・シンガーたちの動物の権利の主張について質間を差し向けられて、デリダはいちおう答えてはいますが、その答えの歯切れはよくないし、たいしたこと言ってないんじゃないかと。アガンベン(Giorgio Agamben,1942〜)には、西洋思想や宗教が動物と人間の境界をどう処理してきたのかという本(『開かれ――人間と動物』)もありますが、ざっと読んでみても、ああそうかとわかった気はしない。ただ、いま思想が乗っている台座を間うていけば、そんなあたりをどう考えるのかが大切なことのようにも思えます。どう考えたらよいのか、しょうじきよくわかりませんが。」(最首・立岩[2009]における立岩の発言)
○それに対して最首は次のように応じている。
○「いま、吉本隆明の「マチウ書試論」(『芸術的抵抗と挫折』未來杜,一九五九年、所収)にまたもどってきているというか、「絶対」と「憎悪」と〈いのち〉というと、問題意識を少し言えそうな気がします。」
○横塚『母よ!殺すな』は一九七五年初版、増補版が八一年。新板(第3版)が二〇〇七年、新板の増補版(第4版)が二〇〇九年(横塚[1975][1981][2007][2009])。私は新版の解説を書かせてもらっている(立岩[20070910])。

□高草木 光一 編 20090612 『連続講義「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店
□―――― 20130222 『思想としての「医学概論」――いま「いのち」とどう向き合うか』,岩波書店

★21○「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」(最首[1969])という気負った文章があり、同年の雑誌『現代の眼』(三月号)での「知性はわれわれに進撃を命ずる」という気負った題をつけられた座談会(最首他[1969])での発言が吉本隆明に批判されて◆最首はへこんだりする。
○「私は、一九六九年に、当時教祖的存在だった吉本隆明から「この東大助手には、〈思想〉も〈実践〉も判っちゃいないのです」〔吉本隆明「情況への発言」、『試行』二七号、一九六九年三月、一〇頁〕というご託宣を受け、落ち込みましたし、考え込みました。「わかっちゃいない」と言われれば、「わかりたい」と思います。しかし「わからない」まま時間は過ぎてゆく。努力していないと言われるとそれまでです。しかし、密かに大きくなっていった意識は、「思想も実践もわかったらどうするのだ」ということでした。」(最首[2013:287])
○この吉本の文章(吉本[1969])は、吉本の同じ題の本『情況への発言』(吉本[1968])には、それは六八年に出されたのだから当然だが、収録されておらず、『遺書』(吉本[2008])に収録されている。そして「ご託宣」のことは、『図書新聞』の吉本追悼特集に最首が寄せた文章(最首[2012])でも言及されている。
○そんなこんなで最首はしばらく文章が書けなくなる。水俣の調査団には関わっていて、八四年に『生あるものは皆この海に染まり』(最首[1984])が刊行される。その前、七六年に星子(せいこ)が生まれる。ダウン症の子だった。その後に書いた文章をまとめたのが『星子が居る』(最首[1998])。
○(一九七〇年代のはじめ)「必然的に書く言葉がなくなった。……そこへ星子がやってきた。そのことをめぐって私はふたたび書くことを始めたのだが、そして以後書くものはすべて星子をめぐってのことであり、そうなってしまうのはある種の喜びからで、呉智英氏はその事態をさして、智恵遅れの子をもって喜んでいる戦後もっとも気色の悪い病的な知識人と評した。……本質というか根本というか、奥深いところで、星子のような存在はマイナスなのだ、マイナスはマイナスとしなければ欺瞞はとどめなく広がる、という、いわゆる硬派の批判なのだと思う。」(最首[1997→1998:369-370])
○こうして最首は節目節目で批判を受けながら、結局は文章を書き続けていくことになる。私はこの部分を、第1章でも紹介した「ないにこしたことはない、か・1」([20021025])でも引いている。その前には「他者がいることについての本」で引用した。
○「この「硬派の批判」に応え、言い返すことは、そんなに簡単なことではないと私は思う。どう言えるのか。気になる人は、硬派の人であっても、あるいは硬派の人に言い返したい人であっても、どちらでもよい。この本を読んでみたらよいと思う。」([1999102])

最首 悟 1969 「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」,『朝日ジャーナル』1969-1-19:99-103(非常事態宣言下の東大・その2) [57]
□―――― 199705 「地球二〇公転目の星子」,『増刊・人権と教育』26」,199705→最首[1998:363-385](「星子、二〇歳」と改題)
□―――― 19841105 『生あるものは皆この海に染まり』,新曜社,378p.
□―――― 19980530 『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』,世織書房,444p.
□―――― 2009 「「いのち」の軽さ」,高草木編[2009:199-215]
□―――― 20120414 「思想も実践もわかっちゃいない――繭玉のように表現を紡ぐには、蚕のように静止しなければならない」,『図書新聞』3058
□―――― 20130222 「「いのち」から医学・医療を考える」,高草木光一編[2013:235-315] [88]
□最首 悟・遅塚 令二・上野 豪志・井上 望・安野 真幸・桜井 国俊 196903 「知性はわれわれに進撃を命ずる」,『現代の眼』(全特集・東京大学――炎と血の岐路) 1969年3月号Vol.10, No.3:86〜99 ISSN:0435219X
□最首 悟・立岩 真也 2009/06/12 「対論」高草木編[2009:225-231]

★25○富士学園労働組合主催で、小金井公会堂で行われた講演に「障害者問題と心的現象論」(吉本[19790317])。三月後に刊行された『季刊福祉労働』(現代書館)の第三号に掲載された(吉本[19790625])。私は長くまったく知らなかったが、『心とは何か――心的現象論入門』(吉本[20010615])にも収録された。そしてその音源が販売されていて、聞くことができる。私が富士学園にいっとき少し関わりがあったことについて『そよ風のように街に出よう』に十一年掲載させていただいた「もらったものについて」の初回に記している。
○「時間を七九年・八〇年に戻す。教養学部の時、私は『黄河沙』というミニコミ誌を作る「時代錯誤社」というサークルにいて、今はつぶされてなくなってしまった駒場寮という汚い建物で雑誌を作っていた。ジョン・レノンが撃たれて死んだニュースはそこで聞いた。そのサークル自体はとくに「政治的」な傾きのあるところではなかったのだが、それでもいろいろに首を突っ込んでいる人もいた。さっき名前を出した人たちが出入りしていたし、そういう人たちとつきあいのある人たちが作ったサークルだった。私が学校に入る前年に創刊号が出た。今でもまだこの雑誌は続いているらしい。そのサークルが学園祭で講演会の企画を立てた。一つは政治家になってまもない、まだそう知られていない時期の管直人の講演会。私はそちらにはほとんど関わらず、もう一つの方の担当になった。
○東京の国立市に「富士学園」という小さな施設があって、その施設はある資産家が自分の子どものために作ったということだったが、どういう理由であったのか、たたんでしまうということになり、それでは入所者はどうなるんだということでそこに務めていた池田智恵子さんという職員が一人残って存続のために活動し、しかし経営者から金は払ってもらえないので、支援者たちが廃品回収などして金を稼いでいたりしていた。その池田さんたちを呼んで何かしようということになったのだ。たしか、さきに名前をあげた、今は死んでいない高橋秀年がそこにも出入りしていて、彼はそのサークルのメンバーではなかったのだが、私たちの幾人かと親しく、そんなこんなで企画が決まったはずである。私は知識もなにもなかったから、とにかく、そこに行ってみなければならないということになって、それで行った。
○そこに暮らしている人は三人だった。そして池田さんがいて、その他の人たちが出たり入ったりといった具合だった。その頃のことその後のことについては池田さんの著書『保母と重度障害者施設――富士学園の三〇〇〇日』(池田[1994])に書かれている。[…]。交渉はなかなかうまくいかず、金はなく、厳しい状態ではあったのだが、そこはおもしろいところだった。その学園祭での講演会――そのもののことはあまり覚えていない――の前と後、ときどき出かけ、おもに日曜、国立の近所を軽トラックでまわって廃品回収をする仕事を手伝ったりした。そうして回収して置いてあるものの中から、いくらかを所望し、いただくこともあった。例えば『情況』などという雑誌のバックナンバーをそうしてもらってきた。そして食事をみなとした。三人のうちの一人は「みみ」君と呼ばれていた若い男性だったが、言葉なく、ぐるぐるまわったり、ときに土を食べてしまったりする人であり、「わからん」人であった。ただ、その極小の不定形な場にその人はいて、「これはあり」であると思えた。その確信というか、現実というか、みなが「これでよし」と思っていたと思う。後に「他者」などどいう言葉を聞くようになったりあるいは自ら言ってしまうようになったりした時、この人のことを思い起こすことがある。やがてその人は、夜中建物を抜け出し、中央線の線路まで行き、夜中に通貨する貨物列車にぶつかって死んでしまい、そんなことがあったりもしたので、池田さん(たち)は残る二人をうまく暮らせていけそうなところに移れるようにして、そこでこの施設は終わりになったのだった。」(立岩[2007-2017(1)])
○この講演で吉本は障害者差別は「最後まで残る」難しいものだと語っている。同じことは同じ本に収録されている別の講演「身体論をめぐって」(吉本[1985])でも述べている。ただ聞いていると(読んでいると)そんなに深淵なことが語られているわけではない。
○「現在の段階でそれを解こうとすれば、たった一つの考え方しかないんです。例えば、ある人がある日に片腕をなくしたとします。その人の身体は、マルクスの労働価値説では行動と身体ということであるわけですから、行動と身体だけで価値をかんがえたとして、そういう人はどう遇されていくかとかんがえると、考え方としては一つしかありません。その日からその人が死ぬまで、完全なる、不自由じゃない手があったとして働いただけの価値を想定します。それから手がなくて働いたものを引いた分を既得権としてその人は持っているとかんがえる以外に、今のところ完全な解決の仕方、論理はないだろうとぼくは考えます。」(吉本[1985→2001:155])
○いわゆる逸失利益(分を支給する)という計算の方法をとる必要はないと思うが、この程度のことですむということであれば、そう難しいことであると私には思われない。

★29 私は、シンガーの「(障害は)ないにこしたことはない」という趣旨の論文を紹介・検討して「ないにこしたことはない、か・1」([2002])を書いた。その後、いくらかを足して『不如意の身体』([20181130])に収録した。それからでも二〇年は経った後、その人が同じことを言い、言い返されて、驚いているのに驚いた。
 テイラー(著者は関節拘縮症)の本を読むと、シンガーがよい人であることがわかり、変わりかないことがわかる。つまり、この人は年間同じ話をしているということになる。そして、著者が……と言うと、シンガーは仰天している。ずっとそのように思って 書いてきたのかと思って、そのことにあらためて驚いた。
 なおろうと思ってわるいことはないと思う。それにしても、死なせることはないと思った。だいぶ違う。まったく廉価でなおることを……として。しかしそれは死なせることをよしとすることではない。
 「二〇一二年にシンガーがバークレーを訪れた際、私は彼と直接出会う機会を得た。子ど△223も頃に憧れていた人物と面を向かって話をするのは、アンビバレントな経験だった。とりわけ彼は非常に親切で楽しく対話する術を心得ている人だったからだ。ジョンソンでさえ、立場上の違いとは裏腹にシンガーのことが気に入ったと語ったほどだ☆20。
 […]会話がかなりつづいてから、わたしはついに、長年彼に聞いてみたかった質問を投じた――ピーター・シンガーは、障害が社会と個人に及ぼす肯定的効果が少しでもあると考えてるのか?[…]
 わたしの質問に興味をそそそられた様子のシンガーは、こう答えた――自分の考えでは、一個人の次元で、あらゆる人は克服すべき障害が必要であり、こうして難題に立ち向かうことが人格を高め、満足感を与えることもあると。そしてもしかすると、障害のなかにはこのようにし△224て充足感を与えるものものあるかもしれなと。けれどもシンガーは、障害が社会一般に及ぼす肯定的効果にかんしては、認めるのにより消極的だった。[…]△225
 「あなたやあなたの子どもの障害を治癒する、たった二ドルで副作用も皆無であることが保証された錠剤を誰かがくれるとしても、あなたはそれを飲まないということですか」、と。[…]「さて、どうでしょうか。親のほとんどはその錠剤を使いたがるでしょうけど、大部分の障害者自身は使わないと思いますよ」。わたしは自信たっぷりに答えた。/「というかとは、あなたは使わないんですか?」明らかにシンガーは仰天していた。」(Taylor[2017=223-226])

 


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■■『唯の生』第1章 人命の特別を言わず/言う◆1

 *この章はいくつかの文章を合わせ再構成したものである◆1。生を奪ってならない/奪ってよいことについて、言われてきたことを検討し、私が考えることを述べる。論理を詰めるべきところはまだいろいろとあるけれども、まず、いくつか、あまりはっきりと言われていないが言えるだろうことを述べる。そして基本的にはこのように考えられるだろうと思うことを述べる。
 まず、「延命」のための処置の停止と死のための積極的な処置とは同じであるから、どちらも許容されるという人たちがいる。その議論の前段には認めてよいところがある。しかしそのことは両者を認めることを意味しない。(第1節)
 死なせることを是認する積極的な理由としてその人たちが出すのは、α:意識・理性である。なぜそれを言うのか。三つを考えることができる。(1)脱人間中心主義的な倫理を言いたい。(2)人が人を特権化している理由を説明したい。だが、(1)について、それはとても人間中心主義的な主張である。(2)については、その人たちは人を特権化していないし、特権化できていない。すると(3)αという特性を大切なものであると考えたい、それだけが残る。しかしその正当性は不明である。(第2節)
 これらの議論と別に、ときにその論に反対して、人と人との関係、というより相手に対する自らの思いを基点とする立場がある。たしかに人の関係は大切であり、社会の現実にも大きく関わっている。しかし、むしろだからこそ、その関係や思いと別のところで判断すべきだと考えられる。(第3節)
 では私はどう考えるのか。それを述べてみる。そしてその上で、人間を特別に扱うこと、扱ってしまうことをどのように言うのかを言ってみる。(第4節)

■1 新しいことは古いことと同じだから許されるという説
 ■1 伝統の破壊者という役
 死ぬこと、死なせることに対する積極論についてすこし考える。それを言う人たちは「伝統的な生命尊重論」を批判し覆す側にいると思っているから――そんなことはない、(近代社会における)正統派だと私は思うのだが――以下、批判者と記すことがある。その筋をごく簡単に紹介し、私の考えを言う。
 その人たちは、新生児を殺すことなど非自発的なものの一部も含め、死ぬ/死なせる行ないに賛成なのだが、なぜどのように賛成しているのか。この世にある賛成のパターンがそうあるわけではないから、私自身にはそう思い入れのないその人たちの言うことをすこし見ても、無駄にはならない。
 代表的な論者にピーター・シンガーとヘルガ・クーゼがいる。二人は学問上の盟友ということになる◆2。細かに読むと違いもあるのだろうが、ここではひとまとめに考えてもさしつかえない。クーゼは生命倫理学者ということになろうが◆3、シンガーはさらに広い範囲を論じている。多くの著作があり、その多くは邦訳されている。シンガーは、まず「動物の権利」論者として、知っている人に知られるようになった◆4。近いところではジョージ・ブッシュの政策を強く批判する。人工妊娠中絶はじめなんでも反対という保守派と立場を異にするという意味では当然と思われるかもしれないが、彼は、世界に存在する大きな格差の是正を「ラディカル」に訴える人でもある。すべきことをはっきりと主張する人である◆5。
 彼の批判、彼の主張の多くについて、私はもっともだと思う。また、彼は(脊椎動物を食べないという種類の)菜食主義者であるらしく、他方私は肉を食べ続けるだろうが、その私のほうはともかく、彼の行ないはよいことではあるとしよう。そして次に、彼が人の生き死にについて語ることを見てみる。すると、その部分は、すくなくとも私にはなかなかに受け入れがたい。とするとこれはいったいどうしたことか。それともシンガーのどこかが矛盾しているのか。しかし彼の述べることは、どこまでもいつも同じ明るさに包まれている。となると私がどこかで間違っているのか。そう思ったことはない。この人の言うことに違うところがあると思う。
 そして、この人(たち)の言うことを考えることは、この世に文句を言うとして、社会の変革を主張するとして、どのような方向・言い方がよいのかという問題を考えることでもある。その際、本章で検討する主題をどう考えるかは意外に大切なはずであり、ここでの態度の分岐はかなり大きな意味をもつはずだ。
 いっこうに実現はしないのだが、貧困が解消されるべきことについて、今どき(というより昔から)正面からその考えは間違っていると言う人はいない。違いはその実現の道筋についてであり、もしその社会の成員が「まとも」な人間たちであるのなら、「自由」な社会においてはやがて貧困の問題他は解消されていくと言うか、そのようには言わず、もっと積極的な対応が必要だと主張するかという違いであり、しかもほとんどの場合には「ある程度」の対応は必要だと言われるのだから、違いは程度問題となる。その意味では、現在の米国の政策についていくらでも批判が言え、そしてそれらが当たっているとしても、基本的な対立・争点はそこにないかもしれない。
 いや、もっと正確に言えば、程度問題はばかにできず、程度問題こそ本質的な問題なのであり、それをどのように言うかが重要なのだ。そしてこの時、大切なことは、どうしたって見栄えのしない場面、死にかけている人、健康な類人猿よりしっかりしていない人間たちをめぐって存在するのかもしれない。そしてそのことが、総論として反論されない「海外援助」のあり方などにも関わる。このように考えられると思う◆6。
 加えてもう一つ、死ぬ殺すというこの話は、動物と人間との境界という話に滑っていく。つまり、ある人たちと同じぐらいの知的能力のある動物を生かすべきだ、他方、同等より低い人間については殺してもよいという話につながる。たしかに言われると辻褄が合っているようにも思われるのだが、同時に、こんな話でよいのだろうかとも思える。どうもこの辺が大切であるようだ◆7。
 以前すこしその人たちのものを読んで、だいたい言いたいことはわかったと思ったし、すくなくとも私は読んで楽しめはしなかった。だから以後読まなかった。しかし、いつのまにかその人たちのような筋になってしまう話をどう考えるかという問題がある。それを考えるための材料として読まねばならないことになる。文学者や哲学者はどうかしらないけれども、社会(科)学者はそのように本を読まなければならない。そんなことが多い。
 第一に、シンガーは伝統の破壊者として自らを規定する。クーゼも同じように言う。
 それはきまり文句のようなものでもある。この件に限らず、とくに死については同じ語り方がよくなされる。ここでは「生命尊重」という「伝統」に反旗が翻される。他方では、「たんなる延命」に向かってしまう「近代医療」に対する批判が、中身としては同じことを言う。そして、いずれについても、つねに既にある「常識」が、「新たに」槍玉に挙げられるのだが、実際にはその批判・反省の行ない自体が既にもう何十年と繰り返されているという具合になっている。例えば、死について何を考えたら考えることになるのかわからないまま、「私たちは死について考えることを怠ってきたから(今日から)考えましょう」という言葉が毎日繰り返されるのである。
 しかし今あるもの、そして/あるいは昔からある(とされている)ものの破壊は、現在や伝統に安住する多くの人を敵にまわすことにならないか。そうかもしれず、シンガーたちもあえてそれを引き受け、それを楽しんでいるようだ。ただ、なんでもありという「ラディカル」な人たちがいてくれると、今度は、そこまでは行かないものはすべてかなり穏便なものとして受け止められ、受け入れられることになるかもしれない。例えばシンガーたちは「(積極的)安楽死」を認めるのだが、そうすると、そこまで行かない「尊厳死」の許容は穏健な中庸な立場に見えてくるといったことがある。それも認めない人はよほど偏屈な人間だということになるのである。
 そして第二に、このことを『実践の倫理』の書評でも述べたのだが◆8、彼らの主張は、たんに新奇で、そして変わった主張ではない。そして彼らは、自らそのことを述べ、それを自説の正しさを示すものとする。そして中庸な人を自らに引き寄せるのだ。「既に人は〈人間の質〉による対応の違いを認めている。それをはっきりと確認しよう。私たちが幾度も確認してあげよう。すると行くべき道は、今まで思われていたのと違う。」こんな構成になっている。たんに新しいものを新たに持ち込もうという(話を繰り返し語る)話にはなっていない。

 ■2 既になされているからよいという話
 いわゆる積極的安楽死は許容される。障害を有する新生児を死なせることも肯定される。この本ではむしろ後者の例が多く出てくる。そしてこの場合には、本人の意思をもとに、ということではないから、この本の主張は、本人の決定の尊重という筋のものではないということでもある。
 では、この人たちはその主張をどのように行なうのか。大きくは二つの、ただ結局は一つに収まるとも考えられる道筋がある。一つは論敵の主張を吟味・批判し、自らの方がまともであると言うことだ。死なせることは既に支持されていると語る。また「あなたの主張を一貫させるなら、それは私たちの味方になることだ」と主張することである。一つは自らの主張をより積極的に正当化することである。前者から見ていく。
 まず、シンガーの『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』(Singer[1994=1998])は人々の現実に訴える。こんな具合だ。

「オランダで安楽死が公然とおこなわれるようになった話の始まりは、よくある状況からである。すなわち、さまざまな能力を失った老女が、ナーシング・ホームで暮らしながら死にたいと思っているような状況である。ナーシング・ホームで働いたことのある人なら、誰でもそのような患者を知っている。そのような場合、医師はたいてい患者が肺炎にかかるのを待つ。」([181])

 高齢者の施設では、治療しないことは以前からよく行なわれていた、だから、という話である。そしてそれを認めるなら、もっと「積極的」な行ないも、考えれば両者はそう違わないのだから、堂々と正式に認めればよいではないか。こういう筋になる。『生と死の倫理』は「一般市民」向けの本だから、「もうみんなやってるでしょ」という言い方がいくらか強めにはなっているかもしれないが、他でも基本的には同じだ。そしてシンガーの主著ということになるのだろうか、『実践の倫理』(Singer[1979=1991])、その改訂版である『実践の倫理 新版』(Singer[1993=1999])でも同じような書かれ方は随所にある。例えば以下。なお、新版で「胎児を殺すことが多くの社会で認められている」という箇所は、初版では「我々には胎児を殺すつもりがある」(Singer[1979=1991 : 194])となっている。

「妊娠後期の胎児に障害のある可能性が高い場合、妊婦が胎児を殺すことが多くの社会で認められている。また、成長した胎児と新生児とを分ける境界線は決定的な道徳的分岐を示すというものではないのだから、なぜ、障害があるとわかっている新生児を殺すほうが悪いことであるのか理解し難い。」(Singer[1993=1999 : 243])

 このごろよくなされる話も、これと似たところがある。もう「現場」ではなされている、それが非公認のままでは「裁判沙汰」にならないとも限らないから、公認してもらおうというのである。ただシンガーたちの場合は、現在なされていることと、まだ認められていないこと、この二つは考えてみれば同じなのだから、認められていないことも認めようという拡張の主張になっている。この人たちは哲学者であるから、実は同じであるというつなぎが、理屈でつながっている。
 クーゼの『生命の神聖性説批判』(Kuhse[1987=2006])ではその部分にかなりの紙数が割かれている。この本は専門書ということになろうが、同じことが専門書のように書いてあるのだ。
 理論的な本ではあるが難解なところはない。むしろ、同じことが繰り返し書かれているから、言いたいことはたいへんよく伝わる。そして主張は、やはり、はっきりしている。たんに人はもうやっているからというのでなく、なぜある人たちの死が認められるべきだと考えるのか。
 こんな筋になっている。第一に、「生命の尊厳」を言う人も、死に至る治療の停止・差し控えは認めている、認める場合があるとする。第二に、そうした控えめな行ないと、死に至る/至らせる積極的な行ないとが基本的に違わないことを言う。そして第三に、以上より、より積極的な処置も認めるべきであると言う。つまり、生命尊重などと言っているが、すでに選別し殺しているではないかという。もうし少し詳しく説明する。
 クーゼにとっての論敵は(1)「生命の神聖性原理」(SLP=the sanctity-of-life principle)を主張する人たちである。その原理とは「意図的に患者を殺すか、意図的に患者を死ぬにまかせること、そして、人の生命の延長あるいは短縮に関する決定を下すに当たりその質あるいは種類を考慮に入れることは絶対に禁止される。」([16])というものである。
 次にクーゼは、実際にはこの原理が、この原理を採っているように見える論者によっても採用されていないことを言う。実際に採用されているのは、著者が(2)「条件付き生命の神聖性原理」(qSLP)と呼ぶものであると言う。それは「患者を意図的に殺すか、意図的に患者を死ぬにまかせること、そして、人の生命の延長か短縮に関する決定にその質あるいは種類を考慮に入れること、これらは絶対的に禁止される。しかし、死なないように処置するのを差し控えることは時として許される。」([31])という原理である。
 さらにクーゼは、差し控えることと積極的に死に至らせることとの間に基本的な違いはないことを主張する。すると、前者だけを認めるqSLPを主張する人たちも、その論を一貫させるためには、(3)より積極的な処置を(も)認めるべきである。こうなる。
 基本はわかりやすい話だ。人工呼吸器を付けたら生きてしまうから、呼吸器を付けないと決めることは、人工呼吸器療法の「不開始」などと言われるが、それは自ら死を決めることと違うだろうか。あるいは、今度は呼吸器を外したら呼吸はできなくなるからやはり死ぬのだが、それを外すのは「治療停止」であるとされ、安楽死ではなく尊厳死であると言われ、さらには「自然死」であると言われたりもするのだが、やはりそれは、死なせること、あるいは自ら死ぬことと違わないのではないか。
 これに対して反論するとしたらどんな方向があるだろうか。三つある。さきのものを第一とすれば、第二の立場は、SLPを堅持することである。第三に、「しないこと」と「すること」は違うと主張することである。第四に、第三の主張を、基本的には、採らずに――その点ではさきほどの第一の立場の人たちに同意しつつ――、第二の立場との距離を考えつつ、第一の立場の人たちと違うことを言う。
 多くなされるのは二番目の主張であるように思う。つまり第二点を問題にする。同じだとされるものの間にやはり違いはあると主張される。つまり、「しないこと」と「すること」はやはり違う、治療を差し控えることと何か積極的な処置を行なうことは、それが死をもたらすことがわかった上でのことであれば同じだと言われるのだが、しかし違いはやはりあると主張することである。そして、しばしば「たんなる延命処置」と呼ばれる積極的な処置をしないことは許容される場合があるが、致死性の薬物を飲んだり(飲ませたり)注射したりするのはだめだというのである。実際、日本尊厳死協会といった団体が(今のところ)主張するのもそういったことである。他の人や団体もよく同じことを言う。「けっして私(たち)は安楽死を認めているのではない。そう受け取るのは誤解であり、たいへん困ったことである。私(たち)はあくまで「自然な死」「尊厳死」を主張しているだけなのだ。」、「認めるのはあくまで尊厳死であり、安楽死はそれとはまったく別ものであり、認めていない、誤解しないでもらいたい」、こんな具合である。本気でそう言っているだろうことは認めよう。生命倫理学者の中にもそのように主張する人はいる。例えばダニエル・キャラハン(カラハン)の主張はそのようなものである◆9。
 ただ私は、この点については、おおいに異なる場合があることを一方で認めながら、シンガーやクーゼに近い。つまり、二つは大きく違わないことがあることを認める。異なる場合はある。ただ私が大切だと思う違いは、その確実性、死の時点の確定性に関わる。一方で、死が確定的であり、死の時点もはっきりしていることがある。他方、やがて亡くなってゆくのではあるが、それがいつになるのかはそれほど明確でなく、意外に時間がかかることもある。それまでの過程が緩やかに進んでいくことがある。誰もが死を免れないことは知っているが、その日取りや日時が決まってしまうことは、多くの人にとって恐ろしいことではある。だからこの違いは、多くの人にとって大きな違いである。
 ただ「消極的」とされる行ないが、必ずしも後者の、緩慢な過程を経て死に向かうことではないことには注意しておこう。繰り返すが、やめること、しないことが即座の死を確実にもたらすことがある。積極的・消極的と分けられる二つが同じであること、すくなくとも大きく違わないことがあることを認める◆10。その上で、私の考えは、Aを認めるならBも認めるはずだ、と言われたら、いや本来はAもおかしいと返すことになる。主張を認めた上で、いわゆる(積極的)安楽死だけでなく消極的安楽死とか尊厳死とか言われているものの多くを肯定できないと主張する。ここに論理的な矛盾はない。すると批判者たちの主張を受け入れる必要はない。その人たちのここでの論の眼目は、論敵たち(生命の神聖を言う人たち)が自らの主張を自ら裏切っていることを指摘する(ことによって自らの優越性を言う)ことにあるが、それは一定の妥当性を有するものの、結局はうまくいかない。
 そして批判者たちも自らの主張をより積極的に示さなければならなくなる。その人たち自身は何を言っているのか。次節でそれを見る。そしてその主張を受け入れる必要がないことを述べる。
 ではそれは「尊重」を強化するということか。批判者に比べれば、そして批判者が捉える限りでの――実際には相対的な――尊重派に比べれば、そうだと言ってもよい。ただ私は、「絶対尊重」の立場には立たない。線の引き方が異なるということだ。このことについては第4節に述べる。そのように論を進める。

■2 α:意識・理性…
 ■1 α:意識・理性…
 もちろん第1節にみた人たちも自らの主張の正しさを言おうとする。ここまでのところでは、実際には人々も死を認めているし行なっていると(それをすなおに延長すれば認めないとされることも認めるべきだと)言われたのだが、たんに皆が認めている(認めるはず)だからというより、自説の根拠を積極的に言った方がよいだろう。その人たちは、言われることが一貫していないこと、矛盾があることを指摘し、そのことを批判しているのだから、より整合的な理由・基準を提出すべきであるということにもなる。これは(1)SLPの主張が成立しないことを、たんにあなたもその主張を実際にはしていないではないかと言うだけでなく、論理として示すということでもある。こうして、ただ相手の主張を使い、逆手にとって、自らの論の正当性を言うだけでなく、もう一つ、自らの主張をより積極的に示すことが要請される。すこし長く引用する。

「人の生命は神聖である、あるいは(無限に)価値があるが故に、それを奪うことは悪であるという答えは、一見もっともらしいが、同語反復に近いので納得のいくものではないだろう。その答えは、単に、生命を奪うことによって失われるものに価値があると断言しているのに過ぎない。人の生命を奪うことがなぜ悪であるかに関するいっそうもっともな答えは、こうであろう。すなわち、人の生命は非常に特別な種類の生命であるが故に、それを奪うことは悪である。このように、生命を奪うことが悪であるのは、の生命には絶対的な価値があるということが事実だとして、その事実のせいである。
 しかしまた、この答えは、人の生命に特別な意義を与えるのは何かと問うことができるが故に、納得のいくものではない。ここで、人の生命が神聖なのは、それが羽根のない二足動物の形態をとるからだとか、あるいは、それがホモ・サピエンスに属すると認定できるからだとか答えても、十分ではないだろう。言い換えれば、人の生命を奪うことが悪いということが、「種差別主義(speciesism)」[…]――つまり、人の生命を、それが人のものであるという理由だけに基づいて、その他の有意味な点で違いがない人以外の生命とは異なった扱いをすることを、道徳的に正当化しうるとする見解――に基づくものであってはならない。
 あるいは、その答えは、人は理性的に目的を持つ道徳的存在者であり、希望、野心、選好、人生の目的、理想等を持つが故に、人の生命は神聖性を持つということになるかもしれない。[…]人の生命は、人の生命であるが故に、神聖性を持つと言っているわけではなく、むしろ、理性的であること、選好を満足させること、理想を抱くことなどが神聖性を持つといっているということである。」(Kuhse[1987=2006 : 19-20])

 これは本の最初の部分だが、第5章でより詳しくこのことが言われる。

「他の生物の生命に対してではなく、あるいは、他の生物の生命に対してと同じ程度にではなく、人の生命に対して価値を付与しているのは何であるのか。二つの答えが考えられる。第一の答えは、人の生命が神聖であるのは、単にそれがの生命であるから、つまりそれがホモ・サピエンス種の成員の生命だからというものである。第二の答えは、人の生命に特別な価値があるのは、人が具体的な希望、野心、人生の目的、理想などを持ち自己意識を備え、理性的で自律的で、目的を持った道徳的存在者であるからだというものである。大まかに言えば、ヒトがジョゼフ・フレッチャーの言う意味で「人間的」だからというものである。」([275-276])◆11

 つまりこの人たちは、人間を特別扱いしているのはなぜかという問いに、人は知的な能力において秀でているからだと答える◆12。同時に、ならば知的にすぐれた動物をも尊重するべきだということになる。動物と人間とを取り出して人間を特別視するのはなぜかと問うた上で、その基準αを取り出し、今度はそれを動物に当てはめ、それによって動物のある部分を救う。このように言われると、一方は人を特別扱いしていることを是認し、他方で動物が殺されることにもなにか良心の呵責のようなものを感じていてもっと優しくしなければならないと思っている人たちは、なるほど、と思うところがあるのかもしれない。
 だが、すこし考えてみると、いったいこれが何を言っているのか、よくわからない。
 三つを考えることができる。(1)脱人間中心主義的な倫理を言いたい。(2)人が人を特権化している理由を説明したい。しかし、(1)についてはとても人間中心主義的な主張であることを述べる。(2)については、その人たちは人を特権化していないし、特権化できていないことを述べる。すると(3)αという特性を特別に大切なものであると考えたい、それだけが残る。しかしその正当性は不明である。このことを以下説明する。

 ■2 それは脱人間中心主義的・脱種差別的な倫理ではない
 この人たちは(1)脱種差別主義的な、脱人間中心主義的な倫理を言いたいのだろうか。実際自らがそのようなことを言う。また人間中心主義はよくないと思う人たちがいて、その人たちにとっては、この説は魅力的ということか。しかしこれには反論できる。むしろそれは、第一に規範を設定する主体について、第二に規範の遵守が求められる対象について、第三にその規範の内容において、まったく人間中心主義的である。
 第一に、生物を等しく扱うべきである、すくなくとも自らの種以外の種についても生命が尊重されるべきだという考えは、人間が考え出したことであり、人間が言っていることである。他の動物たちがそう言っているという話を知らない。
 第二に、ここで規範が提示されているのだが、その遵守を他の動物に求めるにしても求めないにしても、人間は特別のものとされている。人と人以外とを差別しない以上はすべてが対象になるとするのも、人の(一部の)基準を他に押し付けてはならないというのも、人間が決めることであり、次に、人が押し付けることであるか、人だけ特別に扱うことであるかである。
 まず前者、規範・規則を他の動物・生物に押し付ける場合。例えば虎が動物を食べているとして、知性のない動物についてはかまわないとしても、高等な動物については殺してはならないのであろう。とすれば、ある種の猿を食べる虎がいたら、それを取り締まったりすることになる。他の動物はそんなことをしそうにない。これは人がその専断で行なうことであり、他に押し付けることである。
 次に後者。これはあくまで人間たち内部の倫理・道徳であるとしよう。するとこれは動物だけを除外し、自分たちがその正しい規範を遵守するという意味で、やはり人間を特権化している。苦しむものをとって食べる存在を許容しながら、自らに対してはそれを禁ずる。人は、他の動物と同様、動物を殺すこともできるのだが、あえてそれをしないことによって、偉いのだというのである。
 むろん、規範の遵守を動物全般に求めることは現実にはできないだろう。しかし、それ以前に、動物にはこのきまりを守らせようとか、いや除外しようとか、考えられていないはずである。思いつかれてもいないだろう。そして実際には、実質的には、人間の倫理とされる。そのことにおいてこの倫理は人間中心的なものである。それは、ある種の宗教的な発想では、まず人は特別であると自らを規定しつつ、しかし食べること殺すことにおいて他と変わらないとし、そこからさらに殺生を自らに禁じることによってその優位を確保しようとするその道筋が自覚されているのに比して、特権的であることの自覚を欠いている点で、さらにあらかじめ特権的である。
 第三に、これは誰もが感じることだが、そこで大切だとされるものは人間に最も多く強く見出されるとされる性質であり、人を他の生物から分けるとされているものである。その性質αが特別によいものであるその理由が言えるのなら、それが特別によいものであるゆえに、その特別によいものをもっている人間はよいということになるのだが、その理由は不明である。とすると、最初から人間が優越しているという認識から話がなされているということではないか。

■3 それは人の生命の特別を言わない
 (2)では人の生命を特権化したいのだろうか。旧来の倫理がただ人(ヒト)という種を尊重せよとしか言っていないではないかと言われるときには、人を特別に扱うその理由をその人たち自身は示せるのだと言っているようにも思える。そして、人はαを有するがゆえに人は特権化されるとされる。それが答だという。
 しかし第一に、これは(1)で述べたことと同じだが、人が他の生物に比してそのような特質を相対的に多く有していることが事実であるとして、そのことをもってなぜ人が特別扱いされるのかは結局のところ不明である。その人たちは、人(ヒト)を特権化するその根拠が不明だとして旧来の人間中心主義的倫理を批判したのだが、それはこの場合もたいして変わらない。人は人(ヒト)だから偉いというのは説明にならないとその人たちは言い、代わりに、人は知性をもっているから偉いと言う。たしかにここで理由を語る文は一つ増えたのではある。だが、その理由がなぜ理由になるのかはわからないから、この説明がより有力であるとは言えないのである。
 そして第二に、これは人(ヒト)の生命全般を特別扱いする理由は言っていない。特性αを有さない人もいる。αという特性を有する存在が尊重されるべきだとすると、人の九〇パーセントはαという特性を有しているから、その九〇パーセントの人は生きていられることになるが、そうでない人は除外される。これは人のすべてを殺すなということにはならない。この帰結を避けるなら、もう一つ、αを蓋然的に(他の種に比して有意な差をもって)有する「種」である人(ヒト)は特権化されると言うことになる。しかしこれは、説明のために「種」を持ち出さないという自らの立場をはみ出している。

■4 ただそれが大切だと言っているがその理由は不明である
 とすると、(3)知性その他を特権化したい、αという特性を大切なものであると考えたいのらしい。そしてそれを人の多くが有する、比較的にその特性を多く有するから、それは相対的に人の優位を示すことにはなる。と同時に、αという特性を有する動物が救われることになる。人の全体を救おうというのではない一方で、人でない生物のある部分を救う。特性αを有さないある人は除外され、類人猿はよいことになる。人を特別のものにしようという目的は不完全にしか達成されないのだが、そもそもそれが目的でないのなら、それはそれでよいということになる。多くの生物に見出される特性を取り出すならかなり多くのものを殺してならないことになるが、αが条件であればそう多くが救われることはないからさほど困ったことにはならない。救うのはある種の猿(の中で知能の劣っていない猿)ぐらいでよいということになる。殺すことから逃れられる動物は一部だから、それら以外を食していれば人類の生存は可能である。とすれば生存を根拠として殺生を非難する主張が自壊してしまうというさきの指摘は当たらないことになる。
 こうして、人によっては食べたいものをある程度がまんするなら、大多数の人間は生きていられる。それでよいという人がいることはわかったとして、しかし、なぜそれがよいのか、特性αがよいのか。同じことを三度繰り返すことになるのだが、それがわからない。
 死に関わり、感覚、さらに知性を重んずる思想に理解できるところはある。私にはけっしてよいことだと思えないが、人は死を観念してしまい、そのために死を恐怖する。私は、その死の恐怖を感じることができてしまう存在にとって、それを感じながら与えられる死――死刑はやはり特別な殺人である◆13――は、よほどのことがあったとしても、避けられるべきだと考える。だから死を遠ざけるその優先順位として、死をわかってしまった存在が優先されてもよいとは思う。しかしわかるのはそこまでだ。それ以上のことはわからない。なぜαが格別のものであり、それを選別の基準にすることが正しいのか。それはわからないままだ。
 その熱情はどこから来るのか。そのように問いを変えてもやはりよくわからない。自然科学が人と他の動物との境界を脅かしたから(かえってその境界にこだわるようになった)といった説明はある。しかしそれが説明であるのか、疑問だ。ここでは境界の必要は前提とされているからである。被造物の中の階列を混乱させるという説明もある。人が支配すること、支配を継続することができなくなることを恐れているのか。しかし、誰に向かってその優越性を言いたいのか。他の生物はそんな説明を聞いていないのだから、自らに対してということになるだろう。なぜ自らに対してそのことを言い、そして自らが納得しなければならないのか。それもわからない。
 大切にされるものは統御である。しかし統御は、まず統御の結果を得るための手段である。生の統御とは生のための統御であるから、その力能が失われたときには生の価値がないというのは、言葉の単純な意味で、倒錯している。そして実際には、その力は他からも得られることがあるから、自分になければならないというものでもない。すると、こうした能力・性質は手段としての有用性によってだけ評価され肯定されるのではないのだと言い返されるだろう。そうかもしれない。しかし、だとしても、その欠如が生存を否定する理由は見出せない。「アイデンティティ」が持ち出されるかもしれず、個人の個別性が言われるかもしれないが、他と違った自分であることの意識が特権化される理由を見つけられないし、次に、そうした意識があろうがなかろうが、その人が独自の、その人でしかありえないその人であるという事実は当然に現実の世界に存在している。だからむしろそのように思ってしまうことの方が不思議だ。
 こうした問いに正面から答えず、ともかくそれは自分の信念なのだという応じ方はある。つまり思想信条の問題だと、自己決定の対象だと言われる。それにどう答えるかはこれまで幾度も書いてきたから、繰り返さない。ここでは二つだけ確認する。一つ、例えば新生児の中に殺してよい人がいるとされる時、それはその子の意見を聞いてそれに従っているわけではないということだ。もう一つ、自分が自分のようでなくなるから、生きることを止めようというのだが、その自分のようでない人(例えば重い認知症になった「私」)に関わって決めることは、自分のことを決めることだとそう簡単には言えないはずだ。

■3 関係から
 ■1 〈誰か〉への呼びかけ
 こうして個人の性能から生死を正当化する議論は批判される。もう一つ、その存在に向かい合う側、あるいは二者の関係からこのことを考えていこうとする議論がある。その中で、関係から考えていくことの難しさをわかりながら論を進めようとする人の著作として『〈個〉からはじめる生命論』(加藤[2007])を取り上げる◆14。
 この本で加藤秀一が取り組んだ新しい主題は「ロングフル・ライフ訴訟」、すなわち「重篤な先天的障害をもって生まれた人が、その苦痛に満ちた生そのものを損害であるとして、親に中絶することを促さなかった医師に損害を請求する」([20])訴訟だ。第2章で論じられる◆15。だがここでは、第1章「胎児や脳死者は人と呼べるのか――生命倫理のリミット」を見る。
 加藤の著書としてはまず『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』(加藤[1998])を読まなければならないのだが、今回の主題につながるものとしては、それ以前、一九九一年の論文があり、それを改稿した「女性の自己決定権の擁護」がある(加藤[1991→1996])◆16。今度の本はそれらに加藤が書いたことの反復という以上のものになっている。
 人工妊娠中絶の是非をめぐる議論が続けられてきたのだが、加藤は、一貫して女性の決定を擁護する論を展開してきた、あるいは、模索してきた。そこで加藤が指摘したのはまず、「線引き」は常に行なわれており、不可避であり、例えば受精以後を「人」とすることもまた一つの線引きであることだった。それはその通りだ。
 そのことと、この本で加藤が「生命」という言葉を議論の前提として置かず批判的な検討の対象にしていることとはむろんつながっている。尊重すべきものがあるとして、それはプロライフ派(実質的には中絶禁止を主張する人たち)の言う「生命」の尊重ではないだろうというのだ。
 では、代わりに何をもってくるのか。見てきたように、生命を奪ってよい存在/よくない存在の境界、関連して(関連させて)動物/人間の境界についていろいろを述べてきた人たちがいる。加藤も――日本での優生保護法他をめぐる議論を振り返った後――マイケル・トゥーリー、そしてさきに取り上げたピーター・シンガーの論を紹介して、検討する◆17。その上で、その人たちの主張は受け入れられないとする。
 つまり加藤は、線引きを認めた上で、上述したような人々の線の引き方は認めないと言う。では代わりに何を言うのか。
 結論は序章に書かれてもいる。

「もしこの世界が生命で充ち満ちていて、しかしあなたや私のように人称で呼びかけられる存在者たちがいなかったら、わたしはいったい〈誰〉のために考えればよいのだろう。倫理にとって重要なのは「生命」でも「いのち」でもない。そうではなくて、私たちが互いに呼びかけるとき、あるいは呼びかけようとするときに、その呼びかけが差し向けられるべき点としての〈誰か〉であり、そのような〈誰かが生きている〉という事実こそが、守るに値する唯一のものなのだ。」([28])

 また次のような表現。

「それに向かって呼びかけることが無意味ではないような対象すなわち〈誰か〉」([42])
「たとえ生命があっても、それが私たちにとって呼びかけの対象たりうる〈誰か〉でないのなら、そもそも倫理の問いが立ち上がることさえないだろう。」([44])

 大切なことを言っているように思い、直感的によくわかる気がする。しかし、すこし考え始めると、そうよくはわからない。〈誰か〉はどんな誰かなのか。例えば次のように書かれる。

「誰かが眼前の脳死者を単なる「物=脳死体」以上の「者=脳死者」と感じるなら、それによってその脳死者には倫理的配慮を受けるに値する〈誰か〉である可能性が開かれる。それ以外には、人格であることや、生命をもつことさえ、倫理的配慮の対象にとっての必須の条件ではない。」([64])

 まず「単なる物以上」のものであることはわかった。そして「人格であることや、生命をもつこと」は条件ではないとされる。それもわかった。生命をもたない存在の生命は尊重しようがないとも思われようが、ここでは生殺の是非でなく「倫理的配慮」の有無が問題になっているから、生きていることは必須ではない。
 〈誰か〉が以上のもので(必ずしも)ないことはわかったとして、ではその上で、〈誰か〉とはどんな誰かか。
 ここまででも幾度も「呼びかける」という語が使われた。もちろんこのことが大切なのである。
 すると、呼びかける相手がすなわち〈誰か〉なのか、相手が〈誰か〉であるから呼びかけるのか。呼びかけられないものは〈誰か〉でないのか。呼びかけられても応えないものは〈誰か〉なのか、そうでないのか。最後の問いから。
 加藤は倫理学者・大庭健の『自分であるとはどんなことか』(大庭[1997])での論を紹介し検討するところで次のように記す。

「いま私たちが思い浮かべているのは、ふつうの意味での「呼応」に参加することがもはや不可能な、いわば人間同士の相互関係の辺縁に位置する存在者たち、すなわち、呼びかけられてもそれに応じる声をもたない胎児や、重度の知的障害を負った新生児たちなのである。」([61])
 そして大庭は次のように述べていると言う。「外側からはわからないような何らかの経験が生じていることは十分にありうる。したがって、と大庭はつづける。意識なき身体とのかかわりや、ひいては死者とのかかわりは無意味だということにはならないし、いわんや意識を喪失した身体は人格性なき物体、つまり任意に処理可能な物件にすぎないなどということにはならない。」([62])
 しかし「大庭の論理に従えば、いかなる意味でもそこにおいて「なんの経験も生じていない」ような相手であるならば、その相手とのかかわりは「無意味」だということになる」([62])
「私たちは、私たちがそれに向かって呼びかけることが意味をもつような〈誰か〉を指し示すのに、どうしてその相手が一人称の「わたし」としての経験をもつことを資格要件としなければならないのだろうか。」([63])◆18

 そして、さきに引用した「誰かが眼前の脳死者…」という文章につながっていく。つまり、加藤は、呼びかけるが応えがないその相手もまた〈誰か〉であると言う。
 つまり加藤によれば、人が(〈誰か〉として)呼びかける相手が〈誰か〉だということになる。思う側・呼びかけ(たり、呼びかけなかったりす)る側に選別が委ねられるようだ。
 ただ、加藤はこの種の論――「倫理的問題をもっぱら人々のあいだの関係性から考える「関係者主義的立場」」([65])――につきまとう危険性を承知しているから、二つのことを言う。

 まず一つ。「関係性を考慮すべきだということは、関係性だけによってすべてを決めるべきだということを意味しない。[…]単なる見た目の印象だけではなく、死についての一般常識や脳死状態に関する医学的知識もまた考慮されるべきである。そうしたさまざまな情報の有無や理解度によって、ある人の脳死者に対する感じ方が変わることは当然ありうる。」([65-66])
 もう一つ。「〈誰か〉であるための資格要件は、具体的な他者から愛されているか否かといった高すぎる基準によって測られるものである必要はない。」([66])

 さてこれでよいか。

■2 関係主義の困難
 誰かが(例えば私が)「呼びかける」その相手が〈誰か〉であり、その生存を奪ってならない存在だと、加藤は言う。
 (1)すると、相手を思ったり思わなかったりする人の恣意に、その相手の運命を委ねることになるのではないかという疑問が生ずる。
 その疑問に加藤は答えているのだった。その部分をさきに引用した。〈誰か〉であるかないかは好き嫌いといった水準にあるのではないとされた。このことによって、嫌われている人、好悪の対象にならない人たちが尊重の対象から外されることを防ぐことになる。こうして、排除されない存在の範囲が広がることになる。
 (2)次に、加藤は呼びかけへの反応を必須としない。呼びかけに応える可能性を期待して呼びかけるという大庭健の議論を批判し、呼びかけるだけでよいと言う。実際、すくなくとも通常の意味合いでの応答がないことはよくある。この本では脳死者が取り上げられるが、他に、骨に呼びかけることがある。亡くなってずいぶん経った人を抱いて、呼びかける人がいる。不在の存在に呼びかけることもある。そしてそれは真摯なことであったりもする。それもありだろう、と思える。ここでも、〈誰か〉の範囲は広がることになる。
 なるほどと思う。ただこれでよいのか、うまくいくのかという気もする。そこで考えてみる。
 (1)について。ある存在に内在する価値よりも、ある存在に対する側の判断や感覚の方に重きが置かれてよしとする立場がある。「相互性」「関係性」といった言われ方もし、呼びかける側と呼びかけられる側、両者のどちらが優位ということではないとも言われるが、それでも、相手を見る側、相手を遇する側、主観・主体としての人間の比重は高くなっている。世界は共同主観的に構築された世界であるというのが、例えば社会学だけでなく、人々の常識ともなっているものの考え方だから、この見方にわりあい抵抗はない。
 そして、こんな感覚とも関わって、人々の関係や感情と別に存在する「道徳律」といったものをどうも信じ難いという気持ちがある。それで「ケア(の)倫理」といった言葉がいくらか流通することになった。例えば自分の子を世話する親といった関係からものごとを考えよう、捉えよう、あるべきあり方を言おうというのである。
 加藤は、この個別の関係に着目し重視する立場を「関係主義」([65])と呼ぶ。だが、それでは好かれない人は救われないではないかという危険性を自ら指摘する。
 この立場に対置されるのは「普遍主義」とも呼ばれる。関係の近さ遠さと別に、濃さ薄さと別に、人は同じに扱われねばならないと言う。だから、ヘルガ・クーゼに『ケアリング――看護婦・女性・倫理』(Kuhse[1997=2000])という題の本があるからといって、クーゼを「ケア倫理」の系列の人と考えない方がよい。取り上げたピーター・シンガーやクーゼは、規範が普遍的なものであるべきだと主張する側にいて、「ケア倫理」側の人たちと対立する立場にいる◆19。
 それで加藤はどうするか。基本的には関係主義を維持する。こういう厄介な問題の存在にわりあい無頓着に、ただ「ケア」といったものを肯定してしまう幸福すぎる論もある。また死についてであれば、「二人称の死」――もちろんそうした位相は存在する――を言ってほろりとして終わり、ということもある。けれどそうでなく、相当に考えながら、この「関係主義」の方向でものを考えようという人たちがいる。この本で加藤はその一人である◆20。
 では加藤はこの問題にどのように対応するのか。「具体的な他者から愛されているか否かといった高すぎる基準」([66])は不要だというのだった。これは相手との関係に重きを置く立場をとる人たちの中では最低限の条件でよしとしているということだ。それは、他の論者がケアといった行為を想定してものを言うのに対し、加藤は殺さない範囲のことを考えていることにもよるだろう。
 さてこのことをどう考えればよいのだろうか。

 決める側が決めることは避けられないことであり、そうでしかありえないことは確認しておこう。つまり人のことは人が決める。神様が決めている場合でも、そう人が思い、人が思う神様が決めたことに人が従う。いつも決める側が決めている。これはよいことではないかもしれない。しかし決めないことにすれば決まらないわけでもない。人は様々なことを事実決めることができ、決めてしまっている。行なっている。たとえば殺している。そしてそれはよくないと思うなら、それを制約することになる。何も決めないわけにはいかないことがある。その人自身が決めたことに周囲が従うというあり方も含め、私たちは、決めるのが決める側にいる人(たち)であることを、この決定的な不均衡を、認めるしかない。
 ただこのように逃れられない意味においてものごとが「私たち」の側にあるということと、「私たち」の態度・受け止め方によって相手のことを決めることとは別のことである。私たちが相手に愛着を感じるとか呼びかけようと思うかと別に、その相手の扱い方を決めようという決め方はあるということだ。私たち自身の利害・好悪との関わりで人の扱い方を決めてならないと、私たちが――他に決める人がいないのだから――決めるということがある。これは加藤自身の立場でもあるだろう。
 ではなぜその立場を取ろうとするのか。私のその人に対する対し方によってその人の扱われ方が異なること、というか、その人が不利に扱われることはよくない、そういう思いがあり、その人に対する対し方があるということではないか。とするとそれは、「関係主義」そのものを否定する、とは言えないとしても、かなり強く制約する考え方ではないか。ここでむしろ採用されているのは普遍主義ではないか。そのようにも考えられる。とすると、「呼びかける」ことをどこまで強く見るのかという問題がやはり残る。あるいは、再度現われることになる。

〈誰か〉であるかないかは生殺の判断に関わるのだった。そしてその〈誰か〉は私(たち)が呼びかける存在のことだった。
 それだけを聞けば、すぐにいろいろと難癖をつけることはできる。私たちは動物にも呼びかける。さらに生物でない存在にも呼びかける。また死者にも呼びかけるではないか。その〈誰か〉のすべてを殺してならないというのか。そういう疑問は生じる。
 ただそれに対しては、なんらかの「倫理的配慮」がなされるべきであると言っているのであって、それらをすべて殺してならないと言っているのではないと加藤は返すことになるだろう。死者を生き返らせることはできない。しかしなんらかの「倫理的配慮」は要請される。それは「生者」の尊重のあり方といくらかは違うだろう。そう言われる。なるほど、その限りでは問題はない。
 ただこのことは、「生殺」(をめぐる基準)については、また別のことを言わなければならないことを意味するのではないか。この点について加藤はこの本でそう明示的に述べているようには見えない。だが、とりあえず人(ヒト)に限れば、呼びかけの相手としての人は殺してならず、他方、死者を生き返らせることはできないからそのこと自体は仕方のないことで、しかしなにがしかの配慮は正当化される、それでよいということになる。形式としてはそれでいける。
 ではこれでよいということになるか。そうもならないと思える。
 どんな状態のどんな存在を「人」とするのかという「線引き問題」について、加藤は「それに向かって呼びかけることが無意味ではないような対象すなわち〈誰か〉として見出す」([42])ことがその問いに対する答になると言う。だが、私はそれで答をもらったとは思えない。
「呼びかける」とはどんなことか。
 私たちは「モノ」も含めて様々な対象に向かうことがあるのだから、関係する、働きかけるというだけでは広すぎるだろう。
 では「呼ぶ」ときに何が想定されているのだろうか。もちろん一つには「応え」がある。一つに「聞いている」ことがある。それらはどんな意味があるのか。そして加藤は前者を必須としなかったのだった。「呼びかけ」に対する「応え」があることは条件に加えられていない。それは応える能力を有することを相手に求めることになり、条件をきつくすることになってしまうというのだった。ここには、従来の生命倫理学が、「人」と認めるのにきつすぎる条件を設定しているという思いがあるだろう。
 私も同じことを思うし、多くの人もまたそう思っている。ただ、そうすると、こんどは、(実際には応えのないことがある)呼びかけとはどんなことなのか、ということになる。
 そのうち応えられるようになる存在もいる。それは含まれるか。だがならば、胎児や胎児以前の存在もみな含まれることにもなる。加藤はそのように考えない。
 他方で、これまで自分に関わりがあったが、いまは応答のない存在に呼びかけるといった場面には言及している。
 すると(いま応答がなくても)その存在に対する関わりや思いが大切だということになるか。それが、「線引き問題」に対する答ということになるだろうか。
 けれど他方で、加藤は、「関係主義」の問題もわかり、そのことを指摘していたのだった。つまり、人の相手への関わりや思い(の度合い)によって相手の扱いが変わってしまったら、今まで人と関わりのなかった存在は不当に扱われてしまう、それはよくないというのだ([64-65])。
 すると、結局どこが「着地点」になるのか。幾つかのことを加藤は述べているのだが、それでもやっかいな部分は残ってしまっている。

 3 かつて親などというものはなかったかのように
 加藤の論は、関係主義の難点を知りながら、それを否定しないという立場のものだ。それは、出生に関わる場面の「女性の自己決定」が肯定されるべきであると考える立場と整合する。また、「バイオエシックス」の訳語としての「生命倫理学」が同じ言葉を使ったりもしながら、結局は、相手の存在に人間であるためのきつい(そして一律の)条件を求めることを肯定できないという感覚ともつながっている。それとともに、「恣意」を退けようとする。そして、なにか客観的な基準を言う生命倫理学の立場にしても、結局その基準を「こちら側」が設定しているではないか、それは違うのではないかという思いがある。これらがその論述を方向づけながら、「難問」が導かれ、そしてまだ残る。そのような具合になっていると思う。
 それでも、あるいはそうであるがゆえに、この本を、この問いを考えるために読むのがよいと思うのは、一つに、世間ではもっと純朴な関係主義がなにか冷たい感じのする普遍主義に対する代替案のように受け止められているのではないか、しかしそれでよいのかは確かめておいた方がよいではないかと考えるからでもある。
「ケア倫理」と括られるものもそうした流れの中にある。さきに紹介したシンガーやクーゼのようなひどくすっきりと世界を裁断する議論に対して、それはないだろうという思いがあって、個別の関係性をもっと重視する議論が大切だということになる。けれどもそれが答だろうか。そのことは考えてみた方がよい。ところが、ときに対立の構図さえよく理解されないことがある。その混乱を避けた上で、それが答かと考える必要があるのだが、どうも問題の所在が理解されていないと思えることがある。
 また、死についての議論にもそのような流れがある。「二人称の死」といったことがよく言われる。そこで捉えられる場面が大切であること、多くの人にとって大きな意味があることには疑いがない。しかし、それでもやはりそれは、私にとってあなた(の死)が大切であるという意味において、加えれば、私があなたにとって大切であることが私にとって大切だという意味において、大切だということである。そのことは、その人の存在や死について大きな部分ではあるとしても、そのすべてではない。そのように言えば、それはそうだ、わかっていると答えられもするのだろう。しかし、それでも、三人称の死より二人称の死は高いところに置かれる。その実感はそれとしてわかった上で、そのことを前提にして話を進めてよいのだろうか、そのような問いがあることが時に忘れられていると思う。
 紹介してこなかった加藤の本の第2章「「生まれない方がよかった」という思想――ロングフル・ライフ訴訟をめぐって」、第3章「私という存在をめぐる不安」、第4章「「生命」から「新しい人」の方へ」は、幾度も著者によってまだ思考の途上であることのことわりが差し挟まれながら、存在と非存在とをめぐっての思考が展開されている。その中には、これまですこし見てきた第1章「胎児や脳死者は人と呼べるのか――生命倫理のリミット」で語られてきたこと、その延長上にあることと、それだけでない部分とがあるように思う。そしてそれらがみな、私たちが〈誰か〉を見出し関わるその現実を構成しているのだと思う。それらを分けてみたり、どれがどれに先立つのか、考えてみるのは、加藤にも私たちにも残されていることなのだろうと思う。
 この本の中でも、そしてこれまでも、加藤は、子が、期待や予想を超えて現れてしまう、そうした存在であることを述べてきた。こんどの本では、それは、『風の谷のナウシカ』(宮崎[1982-1994→1982-1995])に再度触れる、この本の最後の節、最後の文に現れる。

「私たちは、来るべき子どもたちに、かつて親などというものはなかったかのようにふるまうことを教えることができる」([222])

 私たちが相手の存在(の価値)を語る時、それを語るのは私たちであるほかない。このことから逃れることはできない。この意味ではすべてが関係の中にある他ない。しかしこのことを受け入れながら、その私の思いを通してならない存在として、すくなくとも通しつくすことをしない存在として、相手が存在するのを認めるのがよいと私たちが思うことがある。加藤は、これまでも幾度かそのことを述べてきたし、ここでもそのことを言っていると思う。このことは、その相手との関わりとは別のところでその相手の存在を認める、認めるべきであることを示していないか。『良い死』の第2章5節「思いを超えてあるとよいという思い」で述べたのもこのことだった。
 だとして、この時、何をもって、その相手を〈誰か〉として認めることになるのか。

「〈誰か〉を生むこと、すなわち新しい個別存在者をこの世界に招来することは、その〈誰か〉に利益を与えることではないし、反対に危害を加えることでもない[…]。なぜなら、生まれてくる当人にとって、自分が生きているという事実は、その利害を判断しうるような対象たる経験の内部にあるのではなく、経験そのものを可能にする「大地」だからである。」([135])

 最初、当然のことを言っているようにも思ったのだが、前後を読んでいると、やはり大切なことに関わっているように思える。生まれることがそれ自体よいことであるなら、例えば食べられるために生まれさせられる家畜は幸福だとされることになる。個体の数を増やすことはそれ自体としてよいことであることになる。それはおかしな主張ではないかと言われる。
 そのおかしさは、その個において、その個があった上で、その個における幸不幸が問題にされるべきこと、そして、その「大地」において展開され感受されることごとの固有性――そのことを「世界」があると述べることになる――ゆえに、そしてまずはその幸不幸と別に、そしていったんはそこでなされる行ないや形成される関係とも別に、その存在が〈誰か〉として認められるべきこと、そしてそのことが、その〈誰か〉の幸福や行ないや関係を顧慮すべきことを示すのではないだろうか。

4 別の境界β:世界・内部
 1 世界・内部
 第1節・第2節に見た人たちは人命の特権化に根拠がないと言うのだった。そしてその後、その人たちは自らが正しいと考える殺す/殺さないの区別とその理由を言う。そのように話が進む。
 それに対して、区別をしないという立場はあるだろうか。殺すものと殺さないものとの区別を認めない、みな殺さないことがあるだろうか。だがその前に、この場合には既に生物が前提されている。それもいけないとしたら、壊すものと壊さないものとの区別を認めない、壊さないということになるか。しかしそんなことは到底不可能であるように思われる。すると、やはり、生物と生物でないものには区別を――まだ理由はわからないのだが――付けるとするか。それで生物はすべて等しく、となるだろうか。だが、動物を殺さない人でも植物は食べている。ただ人工物をうまく作れるなら、生命を奪わないことは不可能ではないかもしれない。しかし、人間において仮にそんなことができたとして、生命の世界の全体はそうはならないだろう。人間を特権化しない立場を採るとして、それでよいのだろうか。
 このように、いったいこんなことを考えてどうするのだ、どんな意味があるのかと思われる問題が現れる。この「難問」に答えるということがどういうことなのかよくはわからないまま、考えてみるとどうなるのか。私の答は次のようなものだ。
 なぜその存在を消し去らないか、消去できないか。その「世界」があるからだ、その世界が存在するその存在の「内部」があるからだ。このように答える。そのなかに外界への能動性はむろん含まれているのだが、それだけではない。体外や体内のことが、感覚という語がふさわしいのかわからないが、感じられている。そしてその中に快苦もまた大切なこととしてある。その快苦について、ごく普通に、苦より快があった方がよいとは言えようが、その苦とその快とを足し算か引き算かできると考え、足し合わせるか差し引きするかすると、負の値になったとしても、それは存在の価値がないと考えねばならないことはない。
 もちろん石ころも私ではない存在ではあり、様々な有機物、生物もそうなのではある。ただ、誰かを尊重するというときには、その誰か(なにか)に固有の世界があって、その活動が終わるときにはそこに生起している世界もまた閉じる、そのような存在であることが含意されているだろう。そのように言うことのできるその範囲がどれだけであるかは確定しないとしても、その存在を毀損してならないというとき、そこで想定される存在は、すくなくとも今述べたような存在である。そしてこのように存在しているものはたくさんあって、その状態は多様であり、その中に基準を作り、その基準に照らして高等/普通/…等々の階層を設定することはできようが、その一部だけを取り出して、例えば理性を有する高等な存在だけを取り出してそれだけを特別に扱わねばならない理由は、まずは見当たらない。そう考えるから、さきほどの線引きは不思議であり不合理なのだ。その人たちがあげる細々したものよりもずっと広い範囲がここでは考えられている。そして、人のことは知っているはずの人であっても、その人において何が起こっているかわからない、わかりがたい。だからその周りにいる者たちがせいぜいできることは、できるだけその判断を慎重にしようということだ。またわからない時にはわからないと言おうということだ。もう終わっていると確実にわかる手立てなどそう思いつかないのだから、その場合には、それが明らかになるまで待っていようということだ。快苦を言う人、快苦を大切にする人がそのように言わないなら、それは不思議だ。
 次に、以上は「質」による「差別」を認めるということでもある。他方にまったくそれを認めないという立場はありうる。生物に範囲を限ったとしても――しかしそのように限る理由はなにか――「生命の絶対尊重派」がいる。その人たちから、私がよしとした立場は批判され、否定されるだろう。しかし、その人たちに対して私は、まずその立場は不可能であり、実際に存在しないことを言う。
 まず、その立場は摂食がなされ殺生が行なわれている今ある世界を否定せざるをえず、それが実現すれば世界は死滅することになる。さらに、人だけを対象とし、規範を遵守する主体を人だけに限ったとしても――しかしそのように限る理由はなにか――あらゆる状態にある人の身体あるいはその部分の状態を維持しようとするだろうか。するとそんなことまでは言っていないと反論されるのかもしれない。しかし、線引きを認めないとか、あらゆる生命を大切にしましょうという話をすなおにとればそうなる。実際には線引きをしている。
 次に、これは繰り返しになるが、その人たちが「かけがえのなさ」などと言う時、それを言う人たちは、さきに私が述べたことを認めているはずであり、実際には、言おうとすること、認めようとするものは、そう違わないはずだ。そこで、この主題が語られる時、しばしば「二人称」が持ち出されるのだが、その論調をそのまま受け入れられない。ごく簡単にすれば、その二人称は、「私があなたを大切に思う限りにおいて、あなたは生きている」というふうに使われる。実際、腐乱しあるいは干乾びていくその時になお大切に思うことがあるだろうし、その思いが尊重されるべきであるとも思う。ただ、私ではないあなたが存在しているということは、私のそのようなあなたへの思いと別にあなたが存在しているということである。私(たち)からの思いによってその存在を認めるというのであれば、それは、その存在が存在しているということではないのであり、またそれは、私が私でない何かを大切にするということでもない。むしろその時、私はその存在を領有してしまっているのだとも言える。
 死者は私(たち)に訪れることがあるだろう。それは私(たち)が何かを知らされ伝えられるその機制を考えれば不思議なことではない。私たちは不在の存在から様々を伝えられる。しかし、そうした事々は、私(たち)がその者が生きていると思う限りはその者が「この世」に生きているということとは別のことである。
 条件をいっさい置かないのか、それともそうでないのかによって立場は分かれる。ただそれは置かれるだろう、既に置かれているだろうと述べた。だから、私の立場は「生命の質」を言う人たちの立場とまったく別なのではない。根本的に違う場所にいるのではない。私は、区別をするという点では、むしろ、絶対尊重――という人が仮にいるとして――と別の立場をとることになり、「質」だとか「線引き」だとか言う人たちの中にいる。
 しかし、実際にどこに線を引くかについては、「尊重派」の人たちとそう大きくは変わらない。他方、私と「生命の質」派の人たちとの違いは程度の違いであり、問題は程度問題なのだが、その程度の違いは大きい。程度問題は大切だと、あるいは程度問題こそが大切だと、私は考える◆21。

 2 人間/動物
 しかし、私(たち)のように、知性・理性といった特性αではないβに基準を求めるなら、多くの動物は、感覚を有しているし、快苦を感じているだろう。となると、その基準から見て人を生かせるのであれば、他の動物たちもまた生かさなければならない、殺すのはいけないということにならないか。その私(たち)は、人は他の動物よりも殺してはならない度合いが高いという意味での人間中心主義を維持するほかないと考えているとするなら、その立場は整合していないのではないか。
 そして、そうだとすると、「動物の権利」の主張の方が一貫していることにならないか。実際にはその主張も一定したものではないが、その一つに、感覚の存在から殺害を否定するのであれば、すくなくとも苦痛を感じているのなら、その生物の殺害はいけないということになるはずだ。そのように言って菜食主義者になる人もいる。ただもう一つ、より多くの場合には殺していけない対象はもっと限定される。その場合にはより高級な性能、知的能力によって線引きがなされ、類人猿が救われることになったりする。ただ、いずれでも動物に適用される基準と人に対する基準は同じであり、一貫しているというのである。どう応えたらよいだろうか。
 私(たち)は、βという条件と、人(ヒト)であるという条件と、二つの条件を置く。人であって、状態βにある時、というよりむしろβの状態にないことが明らかでない時、その人からその状態を奪ってならないと考える。そして、人であり、しかしその世界を閉じてしまった人は別に対されることになる。また、人でない存在は、条件βを満たしていても、別に扱うということである。つまり、二つの基準をもってきてその組み合わせで応じることになる。このようにすれば、かたちの上では、論難を退けたことになる。
 すると、異なる二つをもってくるのは説明としてうつくしくないと言われるかもしれない。そして、それでは十分な正当化の理由を与えていないという反論がなされるだろう。つまり、別立てで人(ヒト)という「種」をもってくるそのわけを示していないではないかと言われるのである。
 この問いに対する確かな理由を見出せるかどうか、私にはわからない。ただまず、第一に、人を特別扱いすることに特別の理由が必要なのだろうかとも思う。動物は殺すことがあるが人間は殺さない。それは、おおむね、事実である。それは、殺生することがよいことであるとは思わないながらも、これまで人々がずっと行なってきたことである。そのことを新たに理論的に考えなおしてみると、これまでの人々の営為はじつは根本的にまちがっていたなどということがあるのだろうか。宗教の一部には殺生を禁ずる教義があり規則があるが、それは人々の世界における広範な殺生の行ないをまずは認めた上で、そこからの離脱のための行ないとして殺生の禁止を位置づけるものである。それは人々の中の区別・差別にもつながるものではあるが、すくなくとも、それが特別な「不自然」な行ないであるという自覚はある。この世で普通に生きていく限り殺生は避けられないとはされている。このことを、あらためて正当化する必要があるのだろうかという疑問は当然のことだとも思える。しかしそれでもいくらかは考えてみよう。
 第二に、理由を言っていないと非難し別の境界を主張する人たちの主張がうまくいっているわけではない。
 他の生物を殺すことがよいことであるとは言えず、むしろよくないことだと言えるかもしれないとして、すべての人が生きている、また生きてきた限りはそうして生きていた。蟻も殺さぬ人たちもいたし、今もいる。しかし、それでも草は食んできた。それは生きていくために必要なことであって、行なってきた。
 むろんこれは、やはり事実であって、そのことがよいことである「理由」ではないと言われよう。生きていることがよいことであるからだと言おうとしても、たしかにそのようにして生きていること自体はよいことであることを認めるとして、人が生きるために殺される側もまた生きているのであって、前者の生が認められ、後者の死が認められる理由は示されていないと言われる。以上はその通りだ。ただ、まず一つ、理由を示せという側が「殺すな」の範囲を人に留まらず徹底しようとする立場であるなら、その立場は、命が失われるのはよくないという自らの基準に照らして、普通の人が生きているその生き方よりよいことにはならない。人だけがその規範を遵守するとして、その人は生きていけない。それをすべての生物に敷衍するなら、ほとんどの生物が生きていけない。
 もう一つ、先にみたように、性能αをもってくる人たちがいる。しかし、それによって以上の条件を満たしたいのであれば、それはうまくいかない。αという特性によって人の優位を言うとすれば、事実それを有しない人がいるのだから、その部分は除外される。実際、すなおにそのように――殺したらよいと――言う人たちもいるのだが、人の特別扱いを正当化したいなら、それには成功しないということだ。すると、そのような帰結を回避しようとして、そのような特性を蓋然的にしかし有意に高くもっている人は尊重されてよいと言うかもしれない。しかしこの場合には既にそこで「種」を言ってしまっている。これは別のものを、つまりその人たちが私たちに要求するもの――人という種を括り出すならその理由を示せ、というその理由――を言わずに、既に自らが採用してしまっているということである。つまりαを有していない人も含めて人を殺さないとすれば、それは、その人も(多くαを有する生物である)人の一員であるから殺さないと言うことになり、その人が救われるのは、その人が人(ヒト)であることによることになっているからである。
 だからこの立場は二つである。人の特権化に失敗するか、それをしない(特権化すべきでないとする)か――実際そのようなことも言う――である。後者は一つの主張ではあるが、すくなくとも人の特権化には成功しない。このことをさきに述べたのだった。
 そして、「人(ヒト)は殺されてならない」と「特性αを有するものは殺されてならない」とを並べて、後者が優位にあるとは言えない。まず後者は前者とは別のものを指しているから、後者は前者の理由を説明していない。次に、この点を措いても、前者を言うために後者を理由とすることの正当性は明らかではない。αを有する人は死ぬことを恐れているから、より強くそれを与えることを回避すべきことは言えるとしても、そのことは、そうでない存在を殺してよいことを意味しない。いずれについてもなぜと聞くことができる。それ以上の説明をすることはできない。
 以上に関係して、第三に、確認しておいてよいことがある。人が人を特別扱いするためには、人に特別にあるものを言わねばならないと考えることはないということだ。
 人が(他の存在、生物に比べて)殺されるべきでない存在であることを言うために、人間の特質とされるものを特権化すること、人間が他より優等であることを証明しようという。しかし、人間が特別でないと他の種の動物を(植物も)食べてはならないということになるのだろうか。他の動物よりも優等でないとその動物を殺すことが正当化されないだろうか。
 現実には、ある動物は別の動物を食べて暮らしているし、そしてその種の内側では、だいたい、食べない。虎は虎を、ときに争って殺したりすることはあるとしても、基本的には他の種とは別に扱いながら、様々な動物を殺し食べている。その意味ではやっていることはそう変わらない。犬は犬を、おおむね、殺さない。そしてその理由は犬に知能があるからだと犬は自らのことを正当化したりしていないだろう。そして人は人を特別に扱いながら、他の動物を殺したり食べたりしている。ここにはその事実があるだけだ。同類はたいてい同類を殺さない。それと同じことをしている。他の多くの種と同じということである。人は殺さない(動物は殺す)が、そのために人間が格別偉いことを言わねばならないわけではない。私たちは人の特別扱いを求める。しかし、特別でなくても特別扱いをすることはあるということだ。人間の優位のもとにはじめて人間が特別に扱われねばならないということにはならない。
 なぜ人が特別に扱われるのか、それは結局はわからない。というか、なにか根拠らしきことが言えたとして、それが本当であるかどうか、容易に証明できるとは思えない。そして、その理由があったとして、それを、その行ないをよしとする理由とするかどうかはまた別のことである。例えば同類を殺さないことを進化論的に説明したりすることも可能ではあろう。事実の説明としては当たっていると言えるかもしれないし、説明とは言えないと評するべきなのかもしれない。ただ、同種内の協調(そして競争、さらに淘汰)が「進化」に結びつくとして、それを同種を殺さないことが正しいことの理由であるとすることはない。まず、進化を目標にすることはない。これが基本的な理由だ。そして、それに結びつく方法は様々ありえて、内部で淘汰した方がよいという話にも結びつきうるし、実際そのようなことが言われてもきたからである。
 第四に、それでもなおもう少し積極的に何か言えないか。私もこの問いに関係することを考えたことがあり、本に書いたこともある([1997]の第5章「線引き問題という問題」第3節「人間/非人間という境界」第4節「はじまりという境界」)。そこでは、みながではないとしても、多くの人が人を特別に扱ってよいと思っているとして、思う前にそのように行動しているとして、それはどのようなところに発するのかというように考えた。そして考えてみると、遺伝学の知識など人にない方が当たり前なのだし、人の多くに存在している特性をあげていっても、例外はいつもある。すると何が残るのか。
 一つ、結局、人から生まれるのが人であるというところにしか区別するものは残らないのではないかと述べた。人は人を産む。人は人から生まれる。生まれるものがどんな存在であっても、さしあたり現在、人が人から生まれることは事実である。そして、それはまずただの事実である。しかし、その経験は基本的なところにある。人として同じであることの強さは、他にも様々な同じがあるとしても、よほど大きいだろう。そしてそれは、近さの感覚と別のものでないとしても、それだけで言い尽くせるものではない。むしろ近くにあることによって、別の存在であることを感じる。そしてそのことは、遠くにいる人も、近くにいる子たちと同じく遇するべきことを指示する。これは今述べた生まれたり育ったりということに関わり、事実でしかないともいえようが、事実ではある。
 そして、そのこととさきに述べたこと、β:その存在から開けている世界がある限り、そのことを尊重せざるをえないという態度とはまったく別のものではない。というか、現実には二つの契機が合わさって存在している。人は様々なものを身体から分離し、排泄するのではあるが、その中で、生まれてくる人が、内部を有した存在、世界を有した存在として現われることを強く感じてしまう。そうなると、そう手荒には扱いにくい。人々の経験により多く合致しているとは言える。だからそれが尊重されるべきであるとは言えないかもしれない。ただ、聞くべきものではあるだろう。
 そしてそれは他方で、生物、とくに動物との非連続と連続性の感覚をもたらすものでもある。善悪と別のところで、殺して食べている。他方で、まったく別の性格をもつ存在であるとはされない。動物をとって食べてきた人たちも、動物をやたらに殺さない。すくなくともかつて、そうしてきた。そして、より「高等」な動物についてはより多くためらうことがある。それ以上に人とその動物との関係のあり方が影響するだろう。そうして殺してはならないと思うことがある。ただそれは人命の相対化に道を開くものだとは言えないはずだ。つまり、濃淡があることを認めた上で、なお人については、すべて殺してはいけないとすることはできる。その上で、他のしかじかの動物もほとんどいけないとか、しかしかなりの部分は仕方がないとか言うことはできる。
 これはずいぶんと素朴な話ではある。ただ、そう違っていないかもしれない。

 3 復唱
 こうして立場の違いは明らかである。どちらが「正しい」のか。これはすこしやっかいな問題だ。双方の主張が違う、そしてそのことを言う論理が違う。
 なにかで対立する場合には、たいてい、先方も認める事例を取り出して、あなたがこの場面でこちらを選ぶとすれば、こちらの原理にじつは従っているのだというふうに話を進める。これは、共有される価値・判断からはこちらが当然に支持されるはずだということであって、たんに論争の術であるというだけではない。人と猿のいずれかしか救えないとしてどちらを選ぶか、それは人の方だろう、とすれば云々、というようにである。つまり、主張が同じであるなら、すくなくとも同じ部分があるなら、たとえば人が特権化されるべきであるという主張においては同じであれば、そのことに関わる複数の論を比較することは可能であるだろう。
 しかし、いや人を選ばず猿の方を選ぶと言う人がいると、議論は期待したようには決着しない。実際そのような人たちが実在するのだし、他方にはそうは思わない人もまた実在する。となると、信じていることが違うというだけであって、そこで論理の争いは途絶えるように思える。どちらがよいのかは何を正当と認めるかによって変わってくるのだが、そこに共通性がないようなのだ。となると、この手は使えない。すると二つの信があるというだけか。信仰と信仰とが争っているということか。
 さしあたりはそうだ。何を言われても、いつまでも自らの説を言い張ることはできる。ただそれでも双方の論の中身を吟味することはできる。本章ではその作業の一部を行なってきた。次のようなことを述べた。
 第一に、あなた方は自らが言っていることと違うことをしているという論難がなされた。人の命は大切だと言うが、あなた方は人を殺している、すこし婉曲に言えば死なせることをしていると言うのである。これは、述べたように論争の常套手段である。相手にあるもの自体によって相手がおかしいことを証明しようというのである。ただこれには答えた。あらゆる状態にある人のすべてを受け入れたのではない、区別をしており、違った扱いをしているではないかという論難については、たしかにしていると答えた。していることをしていないとは言っていない、だからその論難は当たらないと述べた。
 そして第二に、ただこの区別の仕方があなた方とはだいぶ異なると述べた。結局はこの人たちはα:意識・理性を特権化したいのだ。そのように解するしかないと述べた。しかし特権化しなければならないその理由がわからない。その理由を示せていない、その理由はないだろうと述べた。もしその人たちが功利主義を標榜するのであれば、むしろ功利主義の――すくなくともある部分の、つまり総計を一義的には問題にしない――本義に立ち返って、その人にとってよいことはよい、それは大切だといった方がよい。すると話も違ってくるはずである。
 第三に、もう一つの立場である「関係主義」について。事実としては、関係において決定されるしかないこと、そしてたしかに関係が大切であり、また関係の違いが大切であることを認めながらも、その大切さを主張しつつものを考えながら議論している人たちが気づいているように、相手に対する私(たち)の側の思いによって決めることは、やはりためらわれるのだと述べた。
 第四に、とくに――自らの信仰を繰り返すしかない――αの立場に比して、βについては言葉を足すことができた。問いは、ある存在を毀損することをなぜしてはならないかという問いだった。それに対して、その存在が、その個別の存在として存在しているから、そこにその存在の世界がある・内部があるからだと答えた。その個体を壊してならないことの理由は、その個体を個体として受け止めてしまうその次元そのものに関わるはずだと考えるなら、この答でまちがっていないのではないか。
 第五に、すると、ならば人間は特別でなくなるではないか、たくさんの動物を食えなくなってしまうではないかという疑問について。たしかにここで人は相対化はされる。しかしそのことは、人については、その内部で世界がまだ終結していないならば、一律に殺してならない存在として扱うことを否定することにはならない。そして、すくなくとも人を特別に扱ってしまう事情は、βとして述べたことにつながって存在していることを述べた。

■註
★(1)この章は「人命の特別を言わず/言う」([2008c])に、シンガー、クーゼ、加藤秀一の本を紹介した『看護教育』の連載の六回分([2001-(71)(72)(73)(79)(82)(83)])を加え、構成を変え、加筆して、構成されている。一番目の文章は、シリーズ死生学第3巻『ライフサイクルと死』(武川・西平編[2008])に収録されている。その死生学はグローバルCOEプログラム「死生学の展開と組織化」(東京大学大学院人文社会系研究科)の死生学であり、日本ではおもに一九八〇年代以降盛んになる「死生学」――サナトロジー(thanatology)を直訳すれば「死学」だろうが、「死生学」が一般に使われることになった(『生死本』で何冊かを紹介する)――と同じものではない。その上で、その文章のはじまりは以下のようになっている。
  「「死生「観」」を研究することに意味があるのか。私にはよくわからない。とくに「死後の世界」「死後の生」について研究することの意味はよくわからない。もちろん、そうした観念・表象が様々な時代と社会にあり、それらには共通する部分があり異なる部分がある。そしてそのことは人々の生におおいなる影響を与えてきたこと、ゆえにそれを調べることは、それらの時代や社会のあり様、そこに生きてきた人々のあり様を知る上で必要なことであり、有意義なことである。ここまではよくわかる。そして実際そうした研究は様々になされてもきた。もっとなされてもよいだろう。しかしその次がよくわからない。一つには、私自身が、死後の生を信じられたらよいだろうとは思うものの、そのように思うことのできるすべを考えつくことができないということである。また学の側にしても、人々がこんなことを思っていた、思ってきたという記述を超えるのであれば、それをどのように考えるのかを言わねばならないが、過去はともかく現在、そのことについてなにごとかが言われているように思えないし、なにか言いようがあるのか、それがわからないということだ。
  そして死について。人は(人も)死ぬということ以外、なにか言うことがあるのか、これもまたわからない。ただ、死のことはわからないが、死なせられることや死ぬことに決めることについては考えるしかないことがあると思い、書くべきことがあると思って、考えて書いてきた。」([2008c])
  本書もまたそのように書かれている。でなければどんな書きようがあるか。死んでも終わりではないことを言えば違ってくる。このことは「学問」のなかではあまり言われないのだが、それでもそのことを言う人たちもまたいる。『生死本』でふれる。なお、本章の主題に関わる論文に野崎泰伸[2005]「「生命の神聖性」と「生命の質」との対立を越えて」があり、その博士論文に野崎[2007]がある。
★(2)シンガーの『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』冒頭の「謝辞」には以下のようにある。
  「過去一四年間、ヘルガ・クースと私は本書で取り上げられた広範な分野についてともに研究してきた。私たちは互いに相手から学んできたので、私たちの考えはいつしか混ざりあい、もともと私自身の考えであったものと彼女自身の考えとを区別するのが今では困難なほどである。本書と彼女の『医学における「生命の神聖性」の教え――一つの批判』とを併読すれば、私がどれぼと彼女に負っているかが誰にでもわかるだろう。」 「ヘルガとの知的な親交、そして彼女の励ましがなければ、おそらく私はこの分野の研究をとうの昔にやめていただろうし、本書が書かれることもなかっただろう。」(Singer[1994=1998 : 12])
(3)日本語に訳された本が三冊ある。一冊は編書で『尊厳死を選んだ人びと』(Kuhse[1994=1996])。ほんのすこし『生死本』でとりあげた。現在は入手できない。そして次に訳されたのが『ケアリング――看護婦・女性・倫理』(Kuhse[1997=2000])。訳書として三冊目になる『生命の神聖性説批判』(Kuhse[1987=2006])の発行は二〇〇六年。ただこの本は新刊ではない。もとは一九八七年に刊行された本である。なぜこの本を今、と思わないでもないが、楽に読めるのはやはりありがたいことではある。そして、この人(たち)の言っていることは、数十年、基本的には変わらないから、この本でもおおむね間に合う。それは主張が一貫しているということでもあり――私にはその一貫した熱情がどこから供給されているのか正直わかりかねるところがあるのだが――それもよいことなのかもしれない。
  その本の奥付・カバーから拾うと、「ピーター・シンガーと共に国際生命倫理学雑誌『バイオエシックス』の編集に長く携わった。モナシュ大学(オーストラリア)ヒューマンバイオエシックスセンター前所長。」「彼女の哲学者としての業績は、本訳書に集約されると考えられる。」
(4)一九四六年オーストラリア生まれ。メルボルンのモナシュ大学にずっといたが、プリンストン大学に移る。最初に邦訳が出たのは共著の本で『アニマル・ファクトリー――飼育工場の動物たちの今』(Singer & Mason[1980=1982])、その後も編書で『動物の権利』(Singer ed.[1985=1986])、『動物の解放』(Singer[1975=1988])等が出ている。二〇〇〇年代に入っての翻訳ではパオラ・カヴァリエリ、ピーター・シンガー編『大型類人猿の権利宣言』(Cavalieri & Singer eds.[1993=2001])がある(註7でこの本に関する発言を引用する)。
  本章の主題に関わる最近の訳書としては、『人命の脱神聖化』(Kuhse & Singer eds.[2002=2007])がある。クーゼとシンガー編で二〇〇二年に出た、古いものでは一九七〇年代発表のものも含む二四篇の論文を収録したシンガーの論文集があって、そこから論文一一篇とクーゼの序文を選んで訳したという本である。言われていることは、その他の著作と同じである。『週刊読書人』掲載の堀田義太郎の書評(堀田[2007])がある。またシンガーの論の解説書として山内・浅井編[2008]、本書に関係する章として浅井[2008]、村上[2008])。
(5)近いところでは『グローバリゼーションの倫理学』(Singer[2002=2005])、『「正義」の倫理――ジョージ・W・ブッシュの善と悪』(Singer[2004=2004])といった本がある。
  分量も多くわりあい理論的な本とも言えよう『実践の倫理』でも、やはり動物を殺すことの是非が扱われ、貧富の差の問題が論じられ、そして人の生死の主題が平明に論じられる。初版が一九七九年で訳が九一年に(Singer[1979=1991])、第二版が九三年で訳が九九年に出ている(Singer[1993=1999])。そして、さらにわかりやすい本、「一般市民」向けと言ったらよいのか、『生と死の倫理』(Singer[1994=1998])がある。その主張は一貫している。これだけ長い間、同じことを言い続けるその熱情は不思議でもあり、一貫していることが立派なことであるとすれば立派であるということにもなるだろう。
  訳書の帯には「オーストラリア出版協会賞受賞」とある。日本だとどんな本に対応すると言ったらよいだろうか。あまり手抜きはせず、ただ本の性格ゆえもあってか論理に荒いところはあり、しかし(あるいはゆえに)わかりやすく、読者を説得しようという姿勢で書かれている。著者の論理を、論理に内在して検討するには別の本がよいのだろうが、このような本も、どのような言い方でこの人は言いたいことを伝えようとするのか、それがわかってよいところはある。
(6)このことに関わって、美馬達哉の著書『〈病〉のスペクタクル』(美馬[2007])がある。その本はまず、SARS、インフルエンザ、ES細胞、等々、近年話題になった出来事がどのように話題になったのか、よく整理されていて、有益で、それだけでお役立ちの本なのだが、それらの出来事を筆者がどのように捉えようとしているのか、この世をどのように見ようとしているのか、著者の「気持ち」はむしろこの本の最後、アガンベンの著作に言及しつつ書かれている「アウシュヴィッツの「回教徒」」とも題される「あとがきにかえて」にある。この部分をさきに読んだ方がよい。この世の肝心なことはこの辺りにあるはずだと、私も思う。(ちなみにシンガーの祖父母四人のうち三人は強制収容所で殺されており、しばしばそのことは彼が紹介される際に言及されるのだが、ここでも問題は、あの悲惨をどのように捉えるかである。)
  「われわれはアガンベンを超えてさらに踏み出さねばならない。なぜなら、彼自身は、しばしばゾーエーの領域を、人間と動物の中間、あるいは動物に近い状態の人間として描いてしまっているために、この領域に内在している希望のモメントをとらえ損なっているからだ(『開かれ』平凡社)。そのペシミズムに抗して、われわれがアガンベンの議論を徹底化させることではっきりと主張したいのは、人間のゾーエーとは人間と動物の間に位置づけられるべきではなく、動物以下の存在として理解されなくてはならないという点である(少なくとも、本能的欲望のままに生きて自然=世界と予定調和的な関係を保つことのできる動物という意味では)。」(美馬[2007 : 255-256]、『開かれ』は Agamben[2002=2004])
  「一人の人間のゾーエーとしての〈生〉は、か弱く悲惨で、動植物以下でしかない。しかし、その弱さにもかかわらず人間のゾーエーの領域が存在するという事実そのものは次のことを証明している。すなわち、ゾーエーは決して孤独ではなく、ゾーエーをかけがえのない〈生〉として集合性において支える複数の人々の共生と協働と社会性がそこに実在するということを。
  何のことはない。世界には人間が多すぎるので、ゾーエーを孤立させて惨めな死のなかに廃棄しようとする現代の政治的=医学的権力の怪物的で熱に浮かされたような企ては、少なくとも長い目で見れば、空しいものに終わるのだ。重度の意識障害患者の傍らで、有るか無しかの身体的変化の中にも〈生〉の徴候と歓びを読みとろうとする人々である友人、介護者、家族たちが存在する限りは。」(美馬[2007 : 256-257])
  同じ著者による安楽死についての文章として「生かさないことの現象学――安楽死をめぐって」(美馬[2006])
(7)となるとこのことについてデリダが何か言っているらしく、それも読まねばならないのだろうか、ということになる。
  デリダとの対談(あるいはデリダへのインタビュー)で、ルディネスコが次のように語り、問う。
  「ピーター・シンガーとパオラ・カヴァリエリが考え出した「ダーウィン的」計画[…]の骨子は、動物たちの権利を制定することで彼らを暴力から保護するのではなくて「人類ではない類人猿たち」に人間の権利を与えようというのです。その論法は私の目には常軌を逸したものと映るのですが、それが依拠している発想は、一方では、類人猿には人間と同じように言語習得を可能にする認知モデルが備わっているから、というものであり、また他方では、狂気や老化、あるいは人間から理性の使用を奪う器質性疾患などに侵された人間などよりも、よっぽど類人猿の方が「人間らしい」から、というものです。
  かくして、この計画の発起人たちは、人間と非人間とのあいだに疑わしい境界線を引き、精神障害を人間界にはもはや所属しない生物種へと仕立て上げ、類人猿を、人間に統合されるけれども、たとえばネコ科の動物よりも優等な、あるいは哺乳類であろうとなかろうとそれ以外の動物たちよりも優等な、もうひとつ別の生物種へと仕立て上げるのです。その結果、このふたりの発起人は、どのような新しい治療的ないし実験的取り組みも、動物実験をまず行なわなければならないとする、ニュルンベルク綱領の第三条を非難するのです。あなたはずいぶん以前から動物性の問いに関心をもたれていますので、こうした問題についてご意見を伺えればと思うのですが。」(Derrida & Roudinesco[2001=2003 : 91-92])
  デリダはそれに対して、動物の苦しみなどについて語るのだが、なお問いは残るように思われる。
 あるいは、ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』という本がある。例えば次のような文章がある。
  「人間と動物のあいだの分割線がとりわけ人間の内部に移行するとすれば、新たな仕方で提起されなければならないのは、まさに人間――そして「ユマニスム」――という問題なのである。[…]われわれが学ばなければならないのは、これら二つの要素の分断の結果生じるものとして人間というものを考察することであり、接合の形而上的な神秘についてではなく、むしろ分離の実践的かつ政治的な神秘について探求するということなのである。もしつねに人間が絶え間のない分割と分断の場である――と同時に結果でもある――とするならば、人間とはいったい何なのか。」(Agamben[2002=2004 : 30-31])
  これはもっともな問題の立て方であると思う。シンガーのような人は、従来の区別が不確かなものであると言い、別の区別・境界線を提示する。そしてそれがなぜ正しいのかを言う。ただ、その手前に、話がなぜそのような話になっていくのだろうという疑問がある。むろんいちおうの説明はあるのだが、考えてみると納得はできない。このアガンベンという人も、なにかそのような所作に怪しげなところを感知していて、それで、これまで西洋の哲学その他がどのようにそこを考えて言ってきたのかを見ようというのだ。
  各国で哲学者が振舞う流儀のようなものがあって、私たちは、かなり好き嫌いでどちらに付くのかを決めているように思う。
  「英米系」の哲学は、普通の意味で、論理的、あるいは平明である。ときに瑣末とも感じられる論理の操作に付き合うのに疲労することはあるが、いちおう話は順序よく進むのではあり、だからこそ、結局は説明されないその前提が見えやすいとか、論理の階段のこの段から次の段にはたして行けるのか不明だといったことを言うことは比較的に容易である。そして、私の場合には、例えば第一節・第二節で検討したような論にどうもおかしなところがあるのではないかと思うものだから、さらにもう一つ加えれば、しかし同時に、その説に――あまり明るい気分で、というのではないのだが――否定しがたいところもあって、それで、読書の快楽といったものからは遠いところで、それらを読んでみるというところはある。
  他方、その『開かれ』という本はずいぶん違った書かれ方をしている。そしてそれ以前に、なにか別のことを言いたい、つまり、ひどくわかりやすい言い方で言うと、さきの人たちがよいものそして新しいものとして示す別のもの――それが私にはたいして新しい別のものとは思えないのだが――とは別のものを肯定したいように見える。もうすこし具体的に言えば、一方の人たちが「まともな」人のあり方をよしとする(そこでそれに近いがゆえにある動物たちを救うべきだとし、ある人を救わなくてよいとする)のに対して、もっと「へんな人」(のあり方)を肯定しようと――しかしその苦難のゆえに、でないとして、苦難とともに――しているようだ。そして私は、それは、基本的に、よいことだと思う。また、構築されてきた「人間」そのものを吟味しようとする姿勢もよいと思う。
  ただ、一つ一つの文章に足をとられるということもあるのだが、どうも基本的なところでわからないという感じがあって、それをどう言ったらよいのかと思う。私は、普通にしか、というか私たち、あるいは私が考えてきたようにしか、ものを考えられない。その人たちは、私(たち)がよいと思ったものと同じもの、あるいは似たものを見ているようであり、そして別様に言っているように思えるのだが、それらが私(たち)に何を加えてくれるのか、まだわからない。
  私の立ち位置を言ってみる。本書でも『良い死』でも幾度かとりあげた横塚晃一の本(横塚[1975→1981→2007])の「解説」からすこし長く引用する。
  「価値を与えられないものから別の価値を見出すのとも、価値を反転させるのともすこし違う。最も虐げられたり苦難の状況に置かれるものが、その苦難によって肯定されるべきなのだという話とも異なる。健常に価値を与えてしまうことを事実として認めつつ、しかしそれは、名前のないしかし具体的な存在・身体・生存を凌駕することはないと言う。
  これは間違っていないと思う。一九七〇年前後にあって、障害者の運動に残り、継がれたものは、その騒々しくも冴えない動きから受け取るべきは、そのぐらいのものではないかと思うぐらいだ。それは、例えばイタリアやフランスの哲学者たちでそんなことを主張したいように見える人たちの主張さえもが、どこか中途半端な感じがするのと比べて、単純だが、はっきりしている。同じようなことを言いたいとしても、なにか苦労して、なにか難しい言葉とともに、そのことを言おうとするのに対して、直截である。そのあまりに単純な居直りの具合が、それでよいのか、という感じはしないでもない。一度聞いたフレーズを繰り返せばよい。労が少なすぎる気はする。しかし、基本的には、それでよいのだろう。
  ただそのこと自体は、誰かが代理する必要はなく、本人が、横塚が言ってきたし、示してきた。その上で、遺された者たちがするべきことは、二者択一の罠にはまらないようにしながら、しかたなく、しかしいくらかは楽しみながら、こずるく、ちまちまと、こまごまと考えていくことだと思う。」([2007c : 419-420])
(8)私はこの本の書評を『週刊読書人』の依頼で一九九八年に書いている。字数の制約がきつく難儀した。多くの主題が取り上げられていて、検討・批判は様々可能だが、その一つでもそれなりに行なおうと思ったら、すぐ長くなってしまう。何も中身は書けなかった。
  「様々な事例がとりあげられる。そして、「人命をすべて平等の価値を持つものとして扱え」の代わりに「人命の価値が多様であることを認めよ」、等、五つの古い戒律に五つの新しい――ただ、私にはそう新しいと思えない――戒律が対置される。[…]
  ある程度の常識の範囲内で筆者は語る。筆者と読者の共通性によって読者は筆者に感応し、その時に本書は説得の書であり納得の書となる。自分では考えないし、物議をかもしそうなことは言わないが、都合のよい選択肢を支持するそれなりに著名でもある論者が一人いるという安心がその人を呼び寄せてしまうといった怠惰は拒絶しなければならない。[…]基本的なところから[…]検討がなされるべきである。それは筆者の思考が、現実の私達の思考でもあるからである。」([1998c])
  なお、三島亜紀子の『児童虐待と動物虐待』(三島[2005]、[2001-(52)]で紹介)という奇妙な本も、動物/人間をめぐって語られること、語られることの居心地の悪さに関わっている本である(三島[2007 : 76ff.]にも言及がある)。またさきにあげた美馬の本にもこの契機についての記述がある。
(9)関連する訳書に――いずれも原題は随分と異なるのだが――『老いの医療――延命主義医療に代わるもの』(Callahan[1987=1990])、『自分らしく死ぬ――延命治療がゆがめるもの』(Callahan[2000=2006])。天田[2007-(6)]でこれらが紹介され、批判されている。他にキャラハンについて論じたものに土井[2008]。
(10)このことは『ALS』([2004f])で、また「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」([2004e]↓本書第6章)でも述べている。
  殺すことと死なせること、死ぬにまかせることの差異・共通性に関連する文献、苦痛緩和の処置(良いこと)の(副次的)結果としての死(悪いこと)は許容されるといった「二重結果論」に関する文献はたくさんあるようであり、[2004e]でも少しあげている。重複するものも含めいくつか列挙する。その検討は他日を期すこととする。Rachels[1975=1988]、Beauchamp[1978=1988]、Rachels[1986=1991]、Molm[1989=1993]、Brock[1998]、山本[2003]、飯田[2008]。
(11)関連する論文に「倫理学と安楽死」(Fletcher[1973=1988])。
  「明らかに消極的な安楽死が現代医学では既成事実となっている。毎日国内各地の多数の病院で、真に人間的な生命を延長している状態から、人間以下のものが死んでいくのを延長しているにすぎない状態にまで立ち至ったという判定が臨床的に下されており、そのような判定が下された時には、人工呼吸器をはずし、生命を永続させるための点滴を中止し、予定されていた手術を取り消し、薬の注文も取り消すということになる。」([135])
  本文にあげた人たちと同じく、もうなされていることを言う。そしてそれを是認すればより積極的な処置も是認され、さらに積極的な処置の方がむしろよいことがあることを述べる。そして、これらの行ないが正当化される。
  「重要なのは人格的な機能であって、生物学的な機能ではない。人間性は第一次的には理性的なものとして理解されるのであって、生物学的なものとして理解されるのではない。この「人間についての教義」は、人間homoや理性ratioを生命vitaに優先させる。この教義は、人間であることを生きていることよりも、もっと「価値がある」と考えるのである。」([138])
  「人間であることの限界を越えて生かされ続けることは望まない、したがって、適切と思われる安楽死の方法のどれかを使って、生物学的な過程を終わらせることを認める、こうしたことを説明したカードを、公正証書にして、法的に有効なものに作成して、人々が持ち歩けるような日がやってくるだろう。」([148])
(12)その人たちの中には功利主義者がいるという。功利主義は快と苦とを大切なものと見ようという立場だ。これにも二種類あって、一人ひとりについてそれを見ようというのと、社会全体の快不快の総計を問題にしようというのとある。通常功利主義とは後者であり、比較・集計の可能性やその正当性が問題にされる。一人の人にとってのよいことを減らすと多くの人がよくなり、総計としてはその方がよいといった場合がありうるが、ではそれを選んでよいか。よくないのではないか。こうした問いについて様々のことが言われてきた。ただ、この足し算や比較のことを考えなければ、その人にとって気持ちのよいことが多い方がその人にとってよいというそれだけのことであり、そこに特段の問題はない。すなおにその主張を認め、その上で、死ぬほど辛いなどとよく言うのだが、それはどんなことなのか、どうしたらよいのかを考えていければよい。
  しかし、実際には多く、殺してならない存在は快苦という基準で選抜されるのではない。理性・知性・(自己)意識…が採用される。このことによって、快苦はある(ありそうだ)が知性や理性はなさそうな動物は殺してもかまわないことになる。
(13)「不条理の最大は死である。私たちが死期を知りえないために死はひとごとになっている。[…]私たちの「希望」はしばしば不確定な将来の先送りである。だから希望を奪われている死刑囚だけにはこの基本的信頼がない。死刑という刑罰の核心はそれかもしれない。」(中井[2004 : 401])
(14)この本のごく短い紹介を共同通信社の依頼で書いた。なにぶん短い文章であり、新聞のそうした欄に書けるのは、争いを構成する論点についての異論の提出といったものではない。それはその制約のもとでは書けないし、ごく短く書いたとして、その本をまだ読んでない人には理解しにくいだろう。そしてもしその本がよい本であるなら、そのことをまず読者に言うのがよいだろう。そこでそのように書く。それでも一言二言加えることはするが、それ以上はあきらめ、その一言二言は常に舌足らずになる。その全文が以下。
  「人の生き死にに関わる様々の是非を論じる「バイオエシックス(生命倫理学)」という学問がある。それは、こんな人は生きていてよいと言う。あるいはよくないとする。それ以前に、ある存在は「人」ではないなどと言う。それはおかしいと感じる人がいる。ただまったく間違っているようには思えず、話としてはよくできてもいる。
  他方に、「いのちはすべて等しく大切だ」といった言い方もある。さきのものと比べて、なにか平和でよいようにも思える。しかしそんなきれいごとが通るのか、通せるのか。この言い方も、また違うのではないか。
  どう考えたらよいか。話はすこしややこしくなる。著者はこの問いに答えようとする。というのも、著者はもう二十年も前から、人工妊娠中絶への批判を批判せねばならないと思い、同時に、人の性能によって差別する思想に反対しようと思って考えてきたのだ。
  今度のこの本では、もう一つ、その思考の延長上に、障害をしょって生まれてきた自分は「生まれない方がよかった」と言って、自分が生まれることを阻止しなかった責任を問い、損害賠償を求める「ロングフル・ライフ訴訟」についての考察が加わっている。このなんと言ったらよいのか言葉に困ってしまう行いについて、裁判の事例など初めて一般向けにまとまって紹介され、考察が加えられる。そしてこれらを考えていく時、著者が読み込んできた様々な作品、例えば『風の谷のナウシカ』(漫画版)等の解読がはさまれる。
  ただ問いの基本は同じだ。著者には、はっきり明確に言いたいことと、これから考えようという部分とがある。私は、まったく同意できることとともに「穴」が幾つかある、違うように考えられることがあると思った。
  暗い主題のようだが、そうでないように考え抜ける道もあるはずだ。あなたならどう考えるか。答を先延ばしにしたくはないと筆者は切実に思いながら、二十年かけ、考えることがここでまた始まっている。私たちはそれに続くことができる。」([2007d]、『風の谷のナウシカ』は宮崎[1982-1994→1982-1995])
(15)加藤がこの主題に取り組んでいることは知っていた。私も企画を担当した二〇〇三年の日本社会学会大会のシンポジウムで加藤はこの主題での報告を行なっており、この企画を受けた『社会学評論』の特集に論文を寄せている(加藤[2004])。
(16)『生殖技術とジェンダー――フェミニズムの主張3』(江原由美子編[1996])に収録されている。そしてこの論文には、法哲学者の井上達夫の一九八七年の論文(井上[1987])への批判があるのだが、この井上論文もこの本には収録され、さらにその上で、井上の「胎児・女性・リベラリズム――生命倫理の基礎再考」(井上[1996])、加藤の「「女性の自己決定権の擁護」再論」(加藤[1996])が掲載されている。十人弱ぐらいの著者が分担して書きましたといった種類の本は、たんに十個弱の文章が並んでいますといったことが多いのだが、この本――あるいは江原が編者となったこの「フェミニズムの主張」というシリーズ――では、珍しく議論が議論として成立している。
(17)マイケル・トゥーリーらの「パーソン論」(Tooley[1972=1988][1984])については『私的所有論』第5章註10([1997 : 209-210])。加藤による引用部分は以下。
  「ある有機体が生存する重大な権利を有するのは、経験や他の心的状態の持続的主体としての自己の概念を有し、自分がそうした持続的実体そのものであると信じているときであり、その場合に限られる。」(Tooley[1972=1988]、加藤[2007 : 55]に引用)
(18)大庭について『私的所有論』で次のように記した。
  「社会科学的な考察の大きな部分が、私にとっては基本的と思われる問題領域から離れていったのに対して、倫理学や法哲学では、一つにはその学問領域が正義や平等という主題から逃れられないために、この主題は、例えば「自由主義」をどう評価するかといった問題として残っているのだが、それでもよく考えられたものはそうたくさんはない。たくさんはない中の一つとして大庭健[1990]をあげる。関係、共働としてある関係の中で、個人の貢献分が取り出されることについて考察がなされている。」([1997 : 369]第8章注4)
  「他者から奪わないのは、他者によって私が存在している(大庭健[1989][1990]等)から、他者に対して恩があるからだろうか。第7章4節2で私的所有に抗して主張される言説の中にこの種のものがあることを確認し、その含意について検討する。」([1997 : 107-108]第4章1節2「私でないのは私たちではない」)
  そしてその章でそのように考える必要がないことを述べた。大庭[1990]は『所有という神話――市場経済の倫理学』(大庭[2004])に収録された。そこに、「なお私の議論への批判としては、立岩真也『私的所有論』、第7、8章参照。」(大庭[2004 : 267]、ここでの「私の議論」は「平等の正当化」における議論)と記されている。
  つまり私は大庭を、第一に、平等といった主題があまり考えられることのなかった時期にも考えていた人として称え、第二に、「それは自分だけの力で得られたものでないのだから自分(だけ)のものだなんて考えてはいけない」という種類の論の意義を認めながらも、それを主張の基本に置くべきでないと述べている。第二点は、関係・共同性を主張の主要な根拠とすることを私はしないということでもある。それは、本書第5章の小松美彦の論に対する対し方でもある。
  こうした視座は加藤にもある(『良い死』第2章註2・二〇九頁)。ただ本文に紹介した加藤の記述においては、大庭が個人(相手)の性質さらに性能に重きを置いていると、加藤が大庭を批判し、関係(相手に対するこちら側の働きかけ・呼びかけという関係)を重視すべきであることを述べているという関係になっている。
  こうして事態はすこしだけ複雑ではある。本文の続きを読んでもらえばわかることだと思うが、私の立場は、加藤が捉えている部分における大庭の立論の側にあるのだが、しかし、そこで相手に見込まれるものは応答能力といったものでなくてよいというものである。
(19)加藤の本では次のような引用がある。
  「シンガーの言い方を借りて、「倫理判断を下すさいには人は自分自身の好き嫌いを越える」(Singer[1993=1999 : 14])べきだとすれば、〈誰〉をめぐる判断を生者たちとの関係にゆだねてしまうときに忍び寄る、生者たちの側の「好き嫌い」によって生かされる者と殺される者とが選別されるという危険性に、私たちは敏感になるべきではないか。/これらの疑問は重要である。」(加藤[2007 : 64-65])
(20)関連して、山根純佳『産む産まないは女の権利か――フェミニズムとリベラリズム』(山根[2004])や法哲学者の奥田純一郎の論(奥田[2004][2006])等がある。
(21)では、加藤にとってそもそもの主題であった「はじまり」の方をどう考えるのか。私の基本的な考えは[1997]に述べ、その後も幾度か考えを述べさせられる機会があったので、「確かに言えること と 確かには言えないこと」([2002c])、「現われることの倫理」([2003g])、「決められないことを決めることについて」([2005h])で繰り返した。
  「中絶反対論の脆さを突くことができたとして、それは女性に決定を認めることと同じではない。「自己決定」という言葉を、私にだけ関わることについては私が決定できる(「私事」についての決定権)という意味にとるなら、この論理だけから女性による決定が正当化されることはない。また、私が関係したという因果関係だけなら男・雄にもある。先にあげた本で、その女性に委ねるしかないと思うのは、何かが私でない存在、他者として現われる過程を感じる、感じる場にいてしまうのはその女性だけだからではないかと述べた。どうすべきか、肯定もできないにせよ、明白な論拠で否定もできないとき、それは酷なことでもあるが、あるいは、であるがゆえに、その人、女性に委ねるしかないのではないか。なにかの近くにいる人はそのなにかに関わる利害関係(敵対度)がもっとも大きい人でもあるからもっとも警戒すべき人でもあるのだが、それでもそう言えるのではないか。」([2002c]、[2003g]でもほぼ同じ記述)
 「境界の引き難さという前提が認められた上で、人の世界が人を迎える時に、完全な歓待の不可能性あるいは困難を思い、同時に拒むことの困難を思う、そのような過程としてあることは、人を迎えることの実際、人が存在するというあり方の実際を偽らないことにおいて、肯定されてよいと、あるいは肯定されはしないとしても、認められてよいとされるということではないか。そのように感じられているのではないか。」([2005h])


 

□メモ

 境について考える。  問いは 生かさない/生かす 殺す/殺さない その境界についてだ。人であるなら、生きている人は生かすということだから、それは生死の境ということにもなる。分けて、なら、装置を停止してもよいということになる。  すこし誤解があるようなのだが、私はそういう種類の人間ではない。むしろそんなことを考えないほうがよいと思う。そのことを強く思っている。そのことを言うためにこの本を書いているところもある。  また本書に記すのは、だいたいにおいて私自身が支持する境界でもあるが、絶対のものだと思っているのではない。むしろそう思っている人たちがいる。そのこと前提にして、その所以を考えようという順番で考えることとそうではないこととある ■第1章 ■第2章  α:「種」を基準に……ことはないことを言う。だから私は、あらゆる生命が等しく生かされるべきである、とは言わないことになる。  その上で、β:個々に「世界」があることを……とする。これは、あらゆるヒトを、とは言わないということである。そして、交わる集合を、つまり、可能性があるヒトを特別扱いすることを述べる。  たふん、多くにはある。その点では、第1章でとりあげた人たちとじつは大きくは違わない。私たちもまた「内容」をついて ■第3章。 ○第1章でそもそもおかしいと言い、第2章でヒト主義でよいのだと言った。その上で、世界があることを言い(第◆節)、恐れがあることを言う(第◆節)。そうすると  その存在の内容をみることをまったくみないわけではない。二つ ■第4章 「底」〜思想  だめだとはいったが、届かない。結局 信じ続けるのだろう。その上でさらに言えることは何か。ずらす思想:そううまくはいかない。というか、  正しいことの位置 それも入り込みながら、内在する思想 において ニーチェ  キリスト教では神につながれる。自責は組み込まれている。  倒錯した最も強い業績主義。シンガーらの思想がなにかおかしい。  似ているが違う。親鸞を 吉本。行い の不可能〜 によって  「よい人」であるはずがないという キリスト教では反省することなるのだが  行う人 関係ない。戒律主義だと否定して、キリスト教が出てくる。律法主義として捉え、それを護っているという。選良を批判する。罪を見出すことによって、あるいはそれが宿る内面を作ることになった。皆が罪人になる 内面の罪 それを神が救うという構造になっている。  それを批判したのがニーチェだった。フーコーがなぜなのか? ただここを見て 生権力といったことを言ったことよりも大切なことは、主体化を言ったことだと私は思う。その後、ロテストたんとということになる。それは選良による支配を否定する。  とともに、とくに においては、人による働き。  結局のところ今も続いている。信じられているかどうか。おおむね信じられ続けている。のだが、たいしてまじめにということでなくてもまったく関係ない。自動的に備給されるようになっているのだから。  人間主義的なものはまじり会っている。 ◆吉本 なぜ知らない。信じない人間として信じることに関心があったのだろうし、悲惨といった道行きに関心があった。  人 選良 より困難 代わりに救って  殺生 そのままよいことであるとしない   動物的な それは なぜそれではだめなのか? 理由が思いつかないと言うだろう。  私もそこでは生きられる 私を否定せずに住むことができる。だからB>A  人間の所業の占める割合は大きくなっている。だから縮小したほうがよいとは思う。  トリアージ そんなに簡単なことではない。私は選別の可能性はあると思っている。  一つのことだけを言ってきた。よいことをよいとすることが、「反転」してしまうということだ。 こと(呼びかける→受け止める。/(性能を言う。→高すぎる それを根拠とする根拠がないことを第1章で言った。ただ「中身」を言うことを全面的に否定するのではなく、高すぎるのだと言う。このことについては第3章で述べる。  そしてそうでない場合と、まったく区別しないことのほうが少ないのではないか。だから責任を問うことはあるし、またあってよい。ただ、帰属することを認めながら、その成果は別だという話になる。それに力を与えるものとそうでもないもの。そういう違いがあるのだと思う。 こういうふうに考えればよい、そう考えるしかないのだろうと思った。宗教もまた、一つの、複数の経路であって、他にもありうるし、あった。  過剰であることが問題なのだ。ここで過剰とはどのようにという問いはあるが、それには基本的には応えることができる。  そう考えると、別の方向に行く、あるいは戻ってくる方に作用する思想もまた見えてくる。  その人は知を否定はしていない。その人は、知の人であるとともに、そういう種類の人たちでない人に対する肯定があった。その肯定は最初からあった。同時に、知はろくでもないものを作ってしまうという思いがあった。そして、非知についての強い信頼、愛着のようなものがあった。

UP:2021 REV:20210812, 15 ... 0909, 24
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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