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0519〜0522・東京〜新潟・7:和田博夫・田中豊

「身体の現代」計画補足・821

立岩 真也 2022/05/30
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/pfbid0fGsuqWHGQmm3NDSZZ2p1G4xxNz7TCXGcNrt6KZoU5pvRQ6ui1jENsPLDE6qUv2S6l

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表紙写真から注文できます&このHP経由で購入すると寄付されます
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙   『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙   立岩真也『介助の仕事――街で暮らす/を支える』表紙


20220519〜22 しばらくぶり、東京〜新潟で話をうかがってきた。
その関係のことをしばらく。

★その録音記録は文字化してもらい、ご本人に点検していただき、HPに掲載していきます。→◇声の記録
http://www.arsvi.com/a/arc-r.htm


0519にお話をうがった2人については
http://www.arsvi.com/ts/20222815.htm
http://www.arsvi.com/ts/20222816.htm
0520は
http://www.arsvi.com/ts/20222817.htm
0521はまず
http://www.arsvi.com/ts/20222818.htm
この後、新潟に移動。新潟で話をうかがうに際して、これまで新潟での私の仕事がどんなことであったのか、調べてみた。それが
http://www.arsvi.com/ts/20222819.htm

 そして0521・1900〜飲食しながら黛正さん。翌日、0900〜黛さん続き。
http://www.arsvi.com/ts/20222820.htm
そのなかに出てきた和田博夫・田中豊について以下。前々から誰か研究してくれないだろうかと思ってきたこともあり。少し拾ってみました。

それも受けて、山口和紀さん
http://www.arsvi.com/w/yk18.htm
に頁を作ってもらいました。
和田博夫(1917〜1997)
http://www.arsvi.com/w/wh02.htm
田中豊
http://www.arsvi.com/w/ty10.htm

以下、その前にこっちで作ったもの。

◇和田博夫
 著書 1993 『福祉と施設の模索――障害者の医療はいかにあるべきか・1」
 http://www.arsvi.com/b1990/9309wh.htm
 アマゾンで29980!円
◇1994 『機能改善医療の可能性――障害者の医療はいかにあるべきか・2』,梟社 (1994/6/1),317p. ISBN-10:4787763075 ISBN-13:978-4787763075
 アマゾンで15000!円

内容(「BOOK」データベースより)
ひとりの整形外科医として和田医師ほど四肢不自由に苦しむ人々が自力で歩むことに愛と情熱を傾けてきた者はいない。彼の前に存在する、医療を必要とする障害者に、自身の医術のすべてをもって応答することをみずからに課した異数の医療者の、医学的模索、思想と人間の輪郭が本書において浮かび上がる。
内容(「MARC」データベースより)
ひとりの整形外科医として、和田医師ほど四肢不自由に苦しむ人々が自力で歩むことに愛と情熱を傾けてきた者はいない…。異教の医療者の、医学的模索、思想と人間の輪郭が浮かびあがる書。

◇光明養護学校
 http://www.arsvi.com/o/komei.htm
◇山田真氏インタビュー
 http://www.arsvi.com/2010/20190503ym.htm

◇河合翔・修士論文
 http://www.arsvi.com/2010/1101ks.pdf

◇「往き還り繋ぐ――福島障害者運動史本刊行も機してアーカイヴィング公開シンポジウム第2回」
 http://www.arsvi.com/2010/20190906ac.htm
 ※は廣野さん入れてくれました。
廣野:同じように、東京青い芝の主流は久留米園(現・くるめ園)という救護施設に入って、そこで田中豊という、当時の厚労省です、厚生省の専門家に、朝日訴訟の話とか憲法25条の話とか、そういうのを学んで、そこで自分たちも喧々諤々議論したと。で、ものすごくね、そのことを高く評価する。だから「自分たちは収容施設みたいなの肯定せえへん」と。「せやけど自分たちが、そうでなかったら、家の中でポツンと座敷牢みたいなとこに居させられるだけ。それに比べたら、集まって、議論して、勉強して」。寺田さんや磯部さんですね。そこに横塚さんも出入りしてたんですよ。
立岩:久留米園ってさ、前からちょっと気になってんねんけど、どんな施設やったん? 久留米やから久留米にあんの?
廣野:はい、東久留米です。ただし現在は小平に移転しています。1
立岩:制度度的にはいわゆる救護施設?
廣野:そうです。当時療護施設がなかったので、救護施設に身体障害者が入ってたんだけど。で、田中豊と、のちに社会党の議員をする田中〔寿美子〕…、田中…、恵美子さんしか出てこない(笑)、と夫婦ですね。
立岩:田中豊って救護施設にいたんですよ。しかし、だいたい田中豊ってあの…、
廣野:その前には厚生省で心理職の心理機能の判定やってた人なんですよ。
立岩:うん。そういう技官系っていうか、例えば手術するとかそっちの流れでしょう? そういう人が救護施設にいたってこと自体よく分かんないんだけど、何でいるの? 田中豊。
廣野:それちょっと、すいません※。
※田中豊/田中寿美子については,川村邦彦・石井司(2001)『シリーズ福祉に生きる45 田中豊/田中寿美子』大空社に詳しいです。〔20191027立岩注文〕
立岩:調べてよ。(笑) でも調べられるんですか? だいたい。
廣野:ええ、調べられると思います。で、ちょっと面白いのは、全障連の村田〔実〕さんかな、やっぱり久留米に入ってて批判的に書いてる人もいるんですよ※。ただ田中豊は外出とか自由に認めてた。で、議論してた。そのことを東京青い芝の人たちは、「あの経験なしには今の自分がないと思う」と言ってるんですね。だからケア付き住宅は、個室も必要やけど、それは、個室は結婚なんですよ、基本的にね。施設がガンガンできてきて、施設に入ると好きな人ができる。結婚したい。でも施設じゃ無理や、っていう話になるんで。「地域へ」っていう、一つの大きなモチベーションになってるんだと思うんですけど。だけど「あの施設にいた一時期がものすごい大事だ」って言ってるんですよ。はい。僕は徹底的にその側に立って言うと、「迎合」はちょっと言い過ぎじゃないかなと思うんですけど。つまり、小さい頃から「お前ら社会性ないぞ」と言われて育ってきた人たちでしょ。社会性がない。で、横塚さんも言うてるんですよ。「青い芝の【会計】(01:18:35)がね、何か会合に出て来なくなったなぁって言うてね、心配して家に見に行ったらひっくり返ってテレビ見てるような人らがいますよ」と。「これじゃ健常者から『社会性がない』と言われてもしょうがないでしょ」いうような文章を書いてるんですね。で、そう言われてきた人たちが、「就労が無理や」と。それは東京の文脈で言うと、金沢英児さんっていう創設者の一人が労働で無茶して。一つの特徴ですよね。二次障害になって絶望して自殺してしまわはった。で、それものすごい、
※村田実遺稿集編集委員会編(1999)『ある「超特Q」障害者の記録―村田実遺稿集』千書房
立岩:金沢英児って自殺したの?
廣野:自殺と言われてるんですね。海で打ち上げられて見つかってるんで、「恐らく自殺だろう」という。「あれは労働で無茶したからだ」と。「だから自分らはもう、労働の路線は無理なんだ」っていうのがあって、やっぱり自立の概念広げたいっていうのあったと思うんですよね。「就労してお金稼ぐだけじゃ自立じゃない」って。だけど残された部分の社会性というのは逆に強く求めてしまいすぎたんちゃうかな、っていう気がするんですよ。「できない」、「できないって」言われてる人ほど、それを強く求めちゃうみたいなことって、いくつもあると思うんですよね。[01:19:52]
※1976/1/26死去。『とうきょう青い芝』7-8では金沢の死をめぐって会員が所感を投稿している。金沢自身の遺稿として金沢智代編(1976)『遺稿 光をもとめて』ルック社.
※「社会性」の問題については、たとえば初期の青い芝の会の会報では、落合清彦(1958)『青い芝』3,3-4 タイトルは生存学ホームページで見ることができる。
※横塚が社会性に言及している文章として、横塚晃一(2010)『母よ!殺すな(第2版)』124-127に収録されている「我々の手で小さな施設を」がある。この中で脳性マヒ者が社会性や責任がないといわれるが、今の状況では無理のないことだとある。ちなみにこの文章には田中豊と横塚が交流していたことも書かれている。
立岩:あのさ、廣野さん、そういうの論文に書いてる? 書いた?
廣野:これから書きたいと思います(苦笑)。そう、先ほどの資料の兼ね合いとって言うと、立岩さんの言うことはそうだろうなっていう気もするんですけど、別に歴史が理屈通り動くわけじゃないじゃないですか。
立岩:そりゃそうだよ。そりゃそうですよ。

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=232947111

◇増田 洋介 202203 「失敗に終わったとされたケア付き住宅建設運動――「川口に障害者の生きる場をつくる会」の軌跡」,『遡航』1:74-97  [PDF]
http://aru.official.jp/m/SOKOU001.htm
 「在宅生活を続けていた山崎は 1972 年ごろ、整形外科医の和田博夫に会うために浦和市(現・さいたま市)内の「浦和整形外科診療所」を訪ねた。和田は身体障害者の機能改善医療を専門にしており、脳性マヒ者やポリオ患者の手足の拘縮をなおして歩けるようにする医者として「障害者の神様」と崇められる存在であった。勤務していた国立身体障害センターの方針転換によって和田が別の病院に配転されようとしたときには、反対する障害者によって厚生省への抗議活動が展開されたほどである。和田は、まだセンターに勤務していた時期から診療所を開業し、本業の合間を縫って手術を行っていた。また和田は、自身のシンパであった障害者とともに「根っこの会」★04 を組織しており、診療所が根っこの会の本拠地になっていた(二日市[1979:80]、根っこの会編[1992]、小佐野[2007])。
 和田は医師業だけでなく、複数の施設経営にかかわっていた。山崎は当初、施設入所の相談をしたいと考えていただけで、診察してもらうつもりはなかった。しかし和田は、施設に入るためには手術して歩けるようになったほうがいいだろうと勧め、山崎はいつの間にか勧めに応じて手術を受けた(山崎[1975:4-5]、和田[1978→1993:308])。
 診療所は入院病床も備えており、山崎は何回か手術を受けながら入院生活を送った。施設入所の経験がなかった山崎にとっては、初めての長期間の団体生活であった。診療所のなかでも重度者であった山崎は、軽度者からつまはじきにあいながらも入院を続けた。それは、退院したら以前のように、家族に気兼ねしながら過ごす生活に戻ってしまうと思ったからであった。入院から2 年近く経った 1974 年、いよいよ真剣に今後の人生を考えなければならなくなった山崎は、八木下に対して「教育問題も大事だけれども、くそ・小便すらも保証されていない障害者の現状がある。これをどうする」と問い詰めた(山崎[1975:5])。この山崎の訴えがきっかけとなり、生きる場をつくる会が結成されることになった。
 会の結成にあたり、まず趣意書が作成された。[…]」
cf.http://www.arsvi.com/2020/20200919my2.htm

◇黛 正 インタビュー(近日公開)


 生存学研究所のフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20222821.htm
にもある。


UP:2022 REV:
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇『介助の仕事――街で暮らす/を支える』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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