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1980年代の調査・02


立岩 真也 2022/07/23 『eS』39
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 年内に出版予定の
◆安積 遊歩・立岩 真也 2022/**/** 『(題未定)』,生活書院
のためにその一部の草稿を掲載していきます。たくさんわからないことがあります。みなさんからの情報をとても求めています。よろしくお願いいたします。

表紙写真から注文できます&このHP経由で購入すると寄付されます
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙   立岩真也『介助の仕事――街で暮らす/を支える』表紙   『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙

 ※以下草稿

 85年の4月が、僕が大学院の後期課程・博士過程に入った年なんですよ。大学院の自治会だったかが主催の新入生・進学生歓迎会みたいな場で、彼のための本の録音バイトでたくさん稼がせたもらっていた★石川さんに声掛けられて、「こういう調査始めたんだよね」って。で、好井さん★も知ってる人だったし。ただ、僕自身はすぐに調査に入っていないようなんだけれども、その事情はわからない。
 安積さんが国立に来たのとほぼ同時、85年の6月ぐらいからインタビューが始まったようで、6月に、96年に亡くなった今岡秀蔵さん(01)、7月に秋山さん夫妻(02)。
 →調査・一覧

安積:中村ケイコ◆さんだ。中村ケイコさんが元の名前でね、秋山一則さんが連れ合いで、木村浩子さんの「土の宿」で二人は知り合ったんだ。山口県のほうの。▽沖縄行く前ってこと?△ うん、行く前の。でも両方持ってたんだね、一時期。沖縄にもつくりながら、生活訓練所みたいなのを山口で運営してたり★。

★ 1937年生。脳性まひ。山口で民宿「土の宿」を始めるのは1978年。沖縄で民宿「沖縄土の宿」を始めるのは1983年。著書に『おきなわ土の宿物語』(木村[1995])。

立岩:同じ7月に金子さん(03)、どの金子さんだろう。8月がミスタードーナツで一緒だった阿部司さん(04)★。

安積:そうそう。司くん何してるのかな。

★  阿部司。日本興業銀行に勤務、障害者リーダー米国留学研修派遣事業第3期生 (83.9〜84.3主にバークレー) 。国分寺ハンディキャブ運営委員会・副委員長、 ヒューマンケア協会・運営委員、恋ケ窪・国分寺・西国分寺駅の改善をすすめる会・代表などを務める。
 立岩は1993・4年度千葉大学文学部社会学研究室の助手を務め,93年度の社会調査実習を奥村隆とともに担当した。その報告書が『障害者という場所――自立生活から社会を見る(1993年度社会調査実習報告書)』(千葉大学社会学研究室編[2004])。その報告書の作成がほぼ終わったあたりで行われた座談会での立岩の発言より。
 「立岩 今回の調査で面白いのは、一つのことをずっと前のほうに押し出してるっていうところだけが面白いんじゃなくって、ちょっと読んだり聞いたりしたその時点ではわかんなかったかもしれないけど、例えばテープを起こしてみて、きっちり読んでくと、すごく複雑なことっていうかなあ、何か出てくるって気がするんですよ。

 で、Aさん、まあパーソナリティーの話をしてもしょうがないんだけど、割と強烈な性格だけれども、彼は繊細な人でもあるわけですよ。例えば、働くってことについて彼いろんなことをしゃべってて、すごく、両方のこと考えてるっていうかな。つまり一つには、ちゃんと働ける、だけどこの社会の中で働けないのがおかしい、もっと働けるようになんなきゃっていうことがある。それと同時に、でもやっぱり、じゃあみんな同じように働けるかっていうと、それはそうじゃなくって、いろんなことを整備しても働ける度合って人によって違うわけですよ。で、そういう人のことも知ってるし、間近に見てるし、考えて来た、それはちょっとじゃなくって10年も20年も考えて来たと思うんですよね。両方を見ながら、何を言ってくかっていうことを、考えてるんですよ。実際に読んでみるとね。そういう面白さっていうかな、それはものを考える面白さっていうことでもあるんだけれども、そういうのが、わかってくれたらよかった。Dさんっていう人もね、彼もある意味ではすごく能力あるわけじゃん。英語なんて僕なんかよりずっとできるしね。翻訳なんかやってるわけで。だけどやっぱり、自分が能力があって、そういう人がどんどん雇用されてって、っていうことだけ考えてるわけじゃなくって、同時にもう一つのことを考えてる。」(上條他[1994]
 ここでAさんは高橋修さん。Dさんが阿部司さん。

立岩:10月に安積・石川・岡原・好井のディスカッションがあったようで(05)、そのテープ起こし=文字化を僕がやってる。僕が実質的に加わったのはこのへんからなのかな。当時の紙の大きさってA4ではなくそれより少し小さいB5なんだけど、それで43頁という長い記録です。
 で、もう1回秋山一則さんに聞いたのが86年の2月(06)★。こんかい記録を見直して35年ぶりに再発見というかだったんだけど、彼も青い芝の会のかな、映画上映会になにも知らずに行ってしまって、それで介助者になり、抜けられなくなり、という、そういう入り方なのね。福島だと、2021年に亡くなった鈴木絹枝さん(◇頁)の連れ合いで、同じ年に亡くなった匡さんも同じだったんだよ(◇頁)。
 3月に今の木村英子さん、そのときは赤窄〔あかさこ〕英子さん、に聞いた(07)★。赤窄さん、その半年前に親元出てきたみたいな。20歳ぐらいだったんじゃないか。つっぱった女の子みたいな。それが35年ぐらい経って、国会議員になって。それはちょっとびっくり。その記録まだ残ってるんで、今度公開しようかな。紙しかないから、スキャンするか、入力しなおすかしないと、だけど★。

★ 「秋山:[…]俺時間がさぁ、何か非常に、なんちゅうか、非常に厭世的な気持ちがあったよね、すごく。「青い芝」とかまったく知らなかったしさぁ。そういうときに、あのー、まだ、その頃はさぁ、障害者とか障害児とか言ったさぁ、今とは違ってさぁ、宮城まり子とか、ねむのき学園とか、そういうのを連想しましたね。まだ、その程度しか知らなかったから、実際。
 それであるときさ、街のなかに、障害者の映画をやりますというようなポスターがありましてね。過激に厚生省とかにぶつかっていくような映画でさぁ。こらぁとんでもないところに来ちゃった(笑い)っていうか。どえらいところに来ちゃったと。んで出てくる障害者もさぁ、今まで、あまりお目にかかったことのないっつうかさぁ、避けてきたような障害者ばっかりだったか。してさぁ、暗かったからよくわかんなかったのに、映画が終わってみたらさぁ、まわりが全部そういう障害者じゃない。いやぁ、すぐに帰ることもできなくてさぁ、次の映画がまた始まってさぁ。
 で、映画の途中からさ、健常者の人がね、肩をたたいてね、よろしければ映画が終わったらね、お話どうでしょうか(笑)、というようなことを言われちゃってさぁ。どうしようかなぁと思ってねぇ。これゃちょっと間違ったかなぁ、なんてね。でもまぁ、いいでしょうってね。いろいろとまぁ勉強なるかもしれないからと、その程度でね、くっついていったところがさぁ、そういう「青い芝」の、なんていうかなぁ、そういう会合、集会、まあ合評会で。ほれで着いたら、いきなりさ、秋山さんは障害者をどう思いますか、とかねぇ、差別をどう考えますか、とか言われました。▽質問より尋問ですね。△尋問ですね(笑)。では来週の火曜日は空いてますか、とか言われてさぁ。(笑)はははっ。
聞き手:それがきっかけだったと?
秋山:きっかけもなにも、強引ですよね。半強制的にさぁ、それに応じなければね、もう、人間じゃないっていうなあれで、ハハハッ。」(秋山[i1986]
★ 福島の/からの障害者の運動についての本、『往き還り繋ぐ』(青木他[2019])の「はじめに・いきさつ」(立岩[2019])より。
 「*挨拶が終わった後の補足
 八〇年代の調査は、さきに記したメモと文字起こししたものを綴じたファイルによると、八五年六月から八七年四月にかけて三四回は――「は」、と言うのは、相模原でのもののように記録が失われているものもあるから――行なわれた。『生の技法』の「はじめに」を見ると、一〇〇人余りの人に話をうかがったとある。また五三名の方々の名前が列記されている。こちらにある調査の経緯についての記録は本書出版前には公開する。文字起こしした記録も、手書きのものありワープロで入力して印字したものあり(もとのファイルはない)なのだが、可能でまたその気になったものについては、入力しなおすなどして公開できればと思う。ただ、あの時のものだって使えるかもと思ったのはほぼ今日なので、その過去の記録は本書にはほとんど生かすことができない。
 それでも、こんなことを付記するのは、(「ぎりぎり」の後の)ほんとうの作業最終日の今日(七月二一日)は参議院議員の選挙の日で、れいわ新選組から木村英子が立候補しているのだが、私と石川准はその人に、一九八六年三月、東京都国立市の喫茶店スワンでインタビューしているのだ(赤窄[i1986]=木村[i1986])――今回は文献表に同じものを二つ載せてみた)。当時は赤窄(あかさこ)英子だった。B5の紙三四頁の記録がある。それ以来、彼女にはたぶん一度もお会いしていない――「たぶん」、と言うのは、「はじめまして」と挨拶すると、高い割合で相手からはじめてではないことを言われて恐縮するからだ。ただ、何度か彼女のことを聞くことはあった。近いところでは二〇一八年九月、宮崎市で山之内俊夫にインタビューした時(山之内[i2018])だ。山之内は東京でずいぶん木村に鍛えられて宮崎に戻ったのだと話した。さらに加えれば、私は昨日(=投票日の前日)、二〇一六年七月二六日に相模原の施設で起きた殺傷事件に関わる本の紹介を『朝日新聞』に書いたのだが(立岩[2019d])、そこで紹介した本の一冊は「生きている!殺すな」編集委員会編[2017]で、そこには木村の「私が地域へ帰るとき」(木村[2017])も収録されている。さらに、その事件の翌年の五月「津久井やまゆり園事件を考える集会」が開催され、「津久井やまゆり園の建替えに関する提言書」が出された時、そのよびかけ人のところに、「室津滋樹 グループホーム学会」(横塚[1975→2007:157])とともに「栗城シゲ子 くえびこ代表」を見た時、ああとても長い時間の後で、と思い、あれからずっと活動されてきたのだなと思った。こんなふうに、途切れながら、いろいろがつながっていく。ここまで書いて、寝て、七月二二日夜明けのだいぶ前、最後の仕事をと起き出したら、木村英子当選確実〜当選、との報あり。」(立岩[2019])
★ 


UP:2022 REV:
『eS』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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