HOME

集め収め示す

立岩 真也 2022/08/31 『遡航』003
http://aru.official.jp/m/index.htm

Tweet


 ※『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』(立岩[2020])に新たに加えた2つの章のうち、第9章「高橋修 一九四八〜一九九九」の一部を再録し、いくらかを加える。その章は、第1節「動きを捉える」、第2節「一九四八〜/立川で」、第3節「道を作る」、第4節「後を継ぎ、答を出し続けてみる」。高橋修という人のことを書いた章なのだが、その第1節は、1「その動きは今もおもしろい」、2「間にいるが片方に付くこと」、3「集め収め示す」、4「集め収め示す・続」という構成で、「集め収め示す」と「集め収め示す・続」は、アーカイブに関わって、(この原稿を終わらせた2019年の終わりの時点で)私が考えていたことを記している。この部分だけを、いくらかを加えたうえで再録する意義はあると考えた。
 〔 〕内は新たに加えた部分。☆は『弱くある自由へ』にある註。文献表示もそのまま。★が新たに付した註。もちろんたいへん変則的なことではあるが、意義がなくはないと思った。漢数字はアラビア数字に変えた。
 この再録にはもう一つ、HTMLファイル(HPに表示するためのファイル)として本誌のHTML版に掲載することによって、関係する情報を提供するとともに、そうした仕組みを作り、維持し、拡張していくことの意義があると思っている★01。いろいろとリンク先に飛んでいってみてください。
 こうして意味があるとは思うのだが、それでも、前稿「遡行/遡航」([2022a])に続き他の本などに書いたものを再利用するのはこれで終わりにする。本誌『遡行』を1つの重要な媒体としつつ、私自身はおもにアーカイブに関する文章をそこに載せていって、数年の間に2桁の書籍を刊行する。そこにはアーカイブに関わる本も複数含まれるはずだ。ただ今回は、再利用の文章。では以下。

■3 集め収め示す
 どのように、というより何を使って書いていくか。高橋〔修〕自身は文章を書かない人だった。まとまった講演・演説の類も行なっていないし、記録も残っていない★02。集会では、たいがい会場の後ろの方、あるいは入り口のあたりにたむろしており、電動車椅子でぐるぐると廻り、雑談などしていた。他方、交渉の類では、役人や駅員を大声で恫喝したり、机を蹴り上げたりした――足は不自由だったがそれはできた。それはたいへん迫力のあるものだったというが、こういうものを再現するについては文章にはやはり限界がある。撮影・録音されたものが残っているなら、保存したいものだと思う☆05
 本人の書いたものは僅かだが、話はしてくれた。まず私たちは2回インタビューをすることができた。やがて『生の技法』になる調査を始めた翌年の1986年、7月と9月にインタビューをしている(高橋[i1986a][i1986b])。それはずいぶん長いもので、文字化した記録があり、PC(でなくワープロ)のファイルは結局見当たらないが、紙のものは出てきた。次に、さきに座談会の一部を紹介した調査で、93年8月、千葉大学の学生が聞いたもの(高橋[i1993])。4つめは、95年6月(高橋[i1995 ])。聞き手は自立生活センター・立川の活動に関わった研究者の圓山里子☆06。これは『追悼文集』(自立生活センター・立川[1999b])に収録された。そして97年11月に石丸偉丈らが聞いたもの(高橋[i1997])。いっとき私の手許にあった印刷された記録はなくなってしまったが、石丸がカセットテープをもっていて、それを提供してくれた。そこから再度文字化の作業を依頼することになった。
 こうして約30年前の記録を見直すことになり、なくなっているものがあること、記録を怠ったものがあること、そしてそのことを忘れていることに気づくことになった★03。そして、2017年から、約30年ぶりに、人に話を聞くことを再開した。そんなこともあって、そして「アーカイブ」の必要性は以前から思い言ってきたし、当方の仕事場(生存学研究所)の「事業」としてもそれを行なっていこうと考えている★04。話を集めること、むしろ公開することについて、以下少し述べておく。
 まずごく細かいこと、表記について、しばらくあれこれ考えた。以下、今後しばらく、聞き取り・インタビューについては高橋[i1986a]のように記載する。そして文献表に「高橋修 i1986a インタビュー 1986/07/07 +:大沢豊・友松久枝(介助者) 聞き手:安積遊歩・石川准・尾中文哉・立岩真也・鄭淑宮 於:立川市」というように記述する。昨年の2冊★05でも似たような記載をしたが「i」はつけなかった。どちらがよいか決めかねているが、これからしばらく、青木他[2019]などでも、このような方法を使ってみる。誰が文字化――「テープ起こし」と言ってきたし今でも言っているが、この言葉をいつまで使い続けるか――の作業をしたのかの情報を加えてもよいかもしれない。「+:」に出てくる人が話をすることはあるし、それが記録に載ることもあるが、「話し手」と「他に」の人の分け方は、聞き手の側が決めてよいと考える。また「於:」の後の記載の仕方も文献表を作る人が決めてよいと思う。
 書いたものと聞かれて話すこととはときにかなり違う。けれどもまず、どちらの方がよいと決まったものではないことは認められよう。そして私たちのような用途の場合、本人がその時に話したままにし加筆や削除を認めない、というものである必要はない。とくに公開する場合には、面倒なことではあるが――それがたぶん、記録の公開がなかなか進まない理由だと思っているのだが★06――話し手の方に手をいれてもらうのはよいことだ。その必要を判断してもらい、直しの求めがあれば当然応ずるべきである。
 そして今、私(たち)は、そうした記録を、できるだけ収録し、さらに多くの場合はHPに公開していこうと考えており、既にいくらかを行なっている。
 それにはいくつかの理由がある。一つ、伝えたいことはあるが、そのために字を書くひまがない人、そうしたことは不得手であると思っている人たちがいる。しかし話すことはしたい、あるいはその求めには応じてよいという人がいる。たくさんいると感じる。ならば聞いて記録したらよい。本人がよいのなら公開は可能であり、さらに積極的に進めてよい。
 そうした記録は従来、論文等の「もと」として使われてきたし、これからも使われるだろう。ただまず、本人が許可するならまた求めるなら、その論文等と別に公開してならない理由はない。次に、残念なことだが、その論文よりも「もと」の方がおもしろい、価値がある(と思われる)ということがしばしばある。また、比べてどちらがよいということでないとしても、各々に別の価値があるのだから両方があってよいということになる。
 そして、話を聞いた人(そしてそれをもとに論文等を書いた人)と別の人が読み、使うことができる。つまりそれは、話し手の著作物ということになり、全部を許可なく転載したりしてはならないとしても、引用は認められる。「もと」は別様に解釈され、新たなものを生み出すかもしれない。
 そして、その論文なりで引用されたり解釈されたりする話のとりあげ方や解釈がそれでよいのか、判断できることもある。実際にその調査がなされたか(判断したいのであれば)その証拠にはなるし、虚偽の引用がないかを確認することもできる。解釈の妥当性となるとそれは一通りには決まらないだろうが、それでもそのことを巡る議論ができる。実際、そんな事情があって所謂「質的調査」の場合にも、調査結果自体を公表していこうという動きがあるようだ。2018年の12月に美馬達哉が企画したシンポジウム「マイノリティ・アーカイブズの構築・研究・発信」でもそうした報告があった。その企画全体の記録がこちらの研究所の雑誌『生存学研究』に掲載された☆07
 そして私は、まずは語ったもの(を文字にしたもの)も、書かれたものも並列に扱ってよく、混ぜて使って差し支えないと考えている。ただそれぞれにある制約や性格には普通に気を使うのがよい。
 高橋本人が書いたものは少ない。書かれたものはいくつかある。九九年五月一日の追悼集会に作られた冊子(自立生活センター・立川[1999a])、追悼文集『高橋修さん追悼文集 高橋修と共に過ごした日々』(同[1999b])。CIL・立川の十周年記念誌(同[2000])。他の人についても追悼文集といったものが作られることはあり、多くその人に近かった人たちに手渡されるといったものだから、国会図書館にもないことが多い。だからやはり集めておこうということになる。あとがきが「東北のある寒村で、一人の重度身体障害児が生まれました」と始まる小さな本、『羽ばたけオサム』(松浦[1995])もある。高橋の生地は新潟県の長岡市だから、だいぶ設定を変えている。そして、オサムが高橋修であることはその冊子のどこにも書かれていない。事情がわからないとそれがなんであるかわからないが、わかる人なら使うことができる。
 本人の書いたものとして、機関紙の冒頭の「新年の挨拶」といったごく短いものならある。おおむね型通りのものではある。また、追悼の文章にわるいことを書く人はいない。しかし、それらもそれらで読みようがある。外に向けて書かれるから、隠されることもある。書かれないが、(後年)話されることはある。隠しながら、しかしわかる人にはわかるように書かれることもある。書かれていないという事実によっててわかることがある。
 他の資料と合せて読んでいくことによって、証言を得ることによって、わかっていくことがある。少ないとしても、あるものを組み合わせて調べていくことだ。私について言えば、八〇年代の後半、しばらくインタビュー・聞き取り調査をして、そこで聞き取った言葉は私が担当した章にはほとんどまったく出てこないのではあるが、『生の技法』を書いた。その後、さらに忙しくなったということもあって、先述した学生たちの調査の手伝いをしたことはあっても、私自身は人に話を聞くことはなかった。ALSの人たちに対する調査を呼びかけたが、私自身はそれに参加することはできなかった。『ALS』([2004])は、インタビューで聞いた話が出てくるのは一箇所だけで他はすべて書かれたものを使った★07。それでも書ける、そんな安直なものさえ書かれていないと思い、その後の仕事をしてきた。アマゾンで簡単に入手できる文献ばかり使ってきた。ただ、『病者障害者の戦後』になった連載の原稿を書いていくなかで、書かれたもののなかには現われない「その後」のことを知ろうと思い、人に話を聞くことをすこしまた始めた☆08。他方で、稀少でマイナーな文献の収集・整理の仕組みを整備することもせねばならないと思っている。ただ、このたび書くことについては、追加調査もなにも行なっていない。ずっと以前、もう十数年前にはなるだろう頃、いくらかの引用など並べて作ったHP上の頁――高橋修という人はたくさんいるので、「高橋修+障害者運動」等で検索すると出てくる――等、既にあるものだけを使って書く。それでも、ないよりあった方がよいものはよいと思うからだと、先に述べた。

■4 集め収め示す・続
 人から話を聞いたら、それを残すこと、可能であれば公開することの意義を述べた。
 こうして、もう長く、お金を得るためもあり、「アーカイヴィング」の必要性を言ってまわっているのだが、だからかえってということもあるのか、集めること、収めること、そして公開するといったことは、まったくきりのないことであるように思われ、まだたいして仕事もしていないのに、なにか疲れを感じることがある。
 しかし、それはやはり違うと思って、2019年に2度そのことを書いた。1度めは、私の勤め先の大学院生でもある人の妻であった人を追悼する本に求められて書いた短文([201907 ])でだった。手許にあるものを残し、集められるものを集めたいと思ったら、ただ、そう思うところから、その範囲で、集めればよいのだと、その本に集められた文章を読んで思った。そして、福島での運動史についての本(青木他[2019])の終わりに付した短文([2019d])で、その箇所を引いて繰り返した★08
 きりがないといって吐息をつく。それは実務的には毎日のまったく当然の感慨であって、毎日吐息をつけばよい。しかし、きりがないと思って、それは無理だと思って、あきらめてやめてしまうのは、やはり間違っている。有限でよく、むしろ、いくらかは有限であるべきなのだと思ってしまえばよい。とくに社会運動といったものは、一方では運動自体の愉しみといったものもないではないのだが、目的を果たせば終わる。終わってしまえばよく、終わったことも記憶しておく必要がないのであれば、すっかり記録も記憶も終わって消えてしまったってかまわない。さしあたり必要だと思うものを、その期間、とっておけばよいというだけのことだと思えばよい。
 それは優先順位をつけるということなのだが、そんな順序が予め決まっているはずはない。行き当たりばったりに、あれもいると思い直しもしたりして、変わっていく。しかし思いなおして過去を辿ろうとすると、もう調べようがないということもあるから、いくらか広めにとっておくものを定める。そうしてやっていくしかない。
 そしてこの頃各所で、「福島本」でも述べたのは([2019b][2019c])、話してもらったその記録そのものを、話してくれた各人のものとして、便利な場としてはウェブサイトに掲載・公開し、文献表記としては[i2019]といった具合にしようということだった。
 例えば、旧国立療養所から出たい筋ジストロフィーの人たちは出られるようにという、またその中での生活をましにしようという企画に少し関わっている。かつて自分もそこにいて今は別のところで暮らしているといった人たちにインタビューして、その記録を、本人に直してもらい承諾を得たうえで、掲載している☆09。そしてそれは、半ばは偶然なのだが、昨年出してもらった本の続きでもある。本は文献だけを使った。しかし、もちろん、それだけではわからないことがある。
 そうして、その時に必要だと思ったことをして、その記録をとっておく。その様々な人たちの作業の産物が足し合わされる。そしてそれは、とくに人の名が記されているなら、時間を隔てて、つなぎ合わさることもある。やはり福島の本のはじまり([2019b])にも書いたのだが、私たちは、こんど国会議員になった、当時は赤窄英子という名だった木村英子に、一九八六年に、インタビューしている(木村[i1986])。そして私自身はそれ以来その人に会っていないのだが、宮崎で山之内俊夫にインタビューしたおり、九五年頃、山之内が東京で木村たちに鍛えられたことを聞いた(山之内[i2018])。そしてその木村は、後出の「全国公的介護保障要求者組合」の委員長にもなる。このように、人において、ものごとのつながりが、また断絶が見える。それが何かを考えることができる★09
 高橋もそんなつながりや断絶の場所にいた。またそれを作った人だった。その人の辿った道から、私たちはその間に何が起こったかを知り、それが何だったのかを考えることができる。高橋は、悩みながら、現実を作っていこうとしたし、実際作っていった一人だった。悩んで沈んでしまうことはできるし、吠えるだけ吠えることもできるし、ただの実務家に徹することもできるが、高橋のようにやっていくのは疲れる。だがそれが大切なことがある。そこから受けとり、考えることができる。
 『弱く』になった本の題を当初『闘争と遡行』にしようと思った。それでは売れないということで――『往き還り繋ぐ』は、それでもそのままになったのたが――別の題になった。ただ『弱く』が出た後『図書新聞』の取材に応えたインタビューがあって([2001])、その題は「闘争と遡行」にしてもらった★09。どんなつもりでその本を書いたのか、この第二版に収録してもらった。闘争の方向がはっきりしていることもある。ただその実現のために、あるいはときにはどちらに向いて行くかを、考えねばならない。遡って考える必要があることがある。それは論理を辿るということでもあるが、歴史を辿る、仕方なく考えざるを得なかった人たちの足どりを辿るということでもある。
 詰めるべき場所がはっきりするまでに時間がかかることがある。その場に居合わせればわかるというものではない。そのことを感じる。私は、とくに八〇年代後半にはなにもわかってなかった。こればまずたんに無知だったということだ。その後いくらかのことを知った。そして、基本的には今も思っていることをその時から言ってはいる。ただ、その時、確認しておいてよかったことを確認していないことに今になって気付いたりする。そんなことでは間に合わないこともあるだろう。しかしそれでも、遅くなってであっても、確めておいた方がよいことがある。そのために記録が必要だ。

■註
★01 そのようなことをもっときちんとやって行かねばと思い、昨年ちくま新書として出してもらった『介助の仕事――街で暮らす/を支える』(立岩[2021a])について、ウェブ上で提供する『介助の仕事――街で暮らす/を支える 補注・文献』(立岩[2021a])を作った。
★02 私の手許にあるのは「全障連第十四回全国交流大会に参加して」(高橋[1989])、「委員長辞任に向けて一言」(高橋[1997])。後者の「委員長」は「全国公的介護保障要求者組合」の委員長。たいへん短いものでもあり、こちらのサイトの高橋修頁に全文を引用している。他に『当事者主体のケアマネジメント――立川市における身体障害者ケアガイドライン試行事業を実施して』(高橋・圓山監修[1997])等があるが、この報告書にしてもほとんどの部分は圓山(→☆06)が担当したはずだ。
☆05 テレビ番組を私的に録画したといった類のものはたくさん残されている。ただ、註03にも記したように、それらの多くには著作権の問題がある。自主制作の映画の費用を回収したり宣伝に努めたりすることを妨げずむしろそれに協力できるようなかたちで保存など進めていければと思ってる。科研費の応募書類([201911a])にもそのことは記した。〔2020年度の科研費は採択されなかった。よって書類を書き直さねばならなかったが、結局あまり直すところがなく、同じような書類([2020])を提出した。2021年度から5年間の研究が採択された。〕
☆06 圓山里子が高橋に会ったのは1994年、東京都立大学の大学院に入学した年のことだったという。90年代のCIL立川が出した報告書の類のほぼ全部に関わっていたはずだ。そしてそこで得たものは修士論文(圓山[1996])、論文(圓山[1997]に書かれている。また高橋は長岡市、圓山は新潟市、私は佐渡(両津市→現在佐渡市)の出身で、三人はCIL立川内新潟県人会を、なにもしなかったが、構成していることになっていた。
★03 1980年代後半に行なったインタビューの多くが安積遊歩(安積純子)の紹介を介してなされたものだった。このたび、安積遊歩との対談をもとにした本(安積・立岩[2022])を出版することなり、そこでは当時会った人たち、話を聞いた人たちのことを話され書かれている。そこで記録のリストを作った。その記録でPCで読めるファイルが残っているものは(今までのところ)ない。そこでそのごく一部については、そのうちのごく一部をあらためて入力し、研究所のサイトに掲載することにした。本に収録予定のリスト(立岩[2022])を掲載し、そこから、人の頁(ページ)やそのインタビュー記録にリンクさせるようにした。
★04 生存学研究所のサイトに「生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築」があり、そこからリンクされている頁に「声と象の記録」がある。話を文字化したもの、録音記録、動画を、今のところたいへん単純に話し手の名の(日本の人については)50音順に並べている。私たちが行なっているインタビューの記録だけでなく、知らせてもらったもの等、わりあい見境いなく載せている。これを書いている時に500を超えたが、もちろん、他にもとてもたくさんあるだろう。その整理についてはまた別途記すことにする。
★05 正確には昨年(この場合2019年)ではなく2018年刊行の2冊、『不如意の身体――病障害とある社会』([2018a])と『病者障害者の戦後――生政治史点描』([2018b])。
☆07 貴重な機会であり意義のある集まり、特集となった。「UK質的データアーカイブの設立経緯とその後」(青山薫[2019])という報告もあった。「UK質的データ」、その中の「クオリデータ」という調査データをアーカイブし公開する試みが紹介している。まずは極小のところからであってもそのような活動をこちらの研究所で行なっていく意義があると思い、研究費の応募書類([201911a])にもそれを試みる(試みている)旨記載した。〔この時は採択されなかったことは★01に記した。『弱くある自由へ 増補新版』の刊行は2020年1月。科研費申請書類の提出(2019年11月)と、(非)採択決定通知(2020年4月)の間に刊行された。〕
★06 著作権その他のややこしい問題があることは承知している。ただ、それ以前にというか、記録から公開にいたる過程のどこかでいったん作業が止まってしまい、そのままになってしまうことが意外に多いと思う。話した人のなかには、私もその気分はよくわかるのだが、自分の話を読んだり点検したり直したりするのがおっくうだという人もいる。かなりたくさんいる。ではどうしたものか。確実な方法はない。ただ2つ、まず1つ、確実に削除した方がよいといった部分については提案し、その問題はなくした上で、大きな直しも小さな直しもいつでも行ってもらってよいことを先方に伝えてその通りに行なうという手立てがある。これはウェブ掲載・公開の場合に容易に行えることであり、実際私たちはそのように運営しようとしている。もう1つ、この一連の工程を、一人に委ねるのはなく、それを支援したり確認したりする仕組みを――いくらかの資金が必要な場合があり、その場合にはそれを得られることが条件になるのではあるが――作って運営することだろう。その一連の手続きを私たちは、「声と象の記録」頁内の「インタビューに際して」(http://www.arsvi.com/a/arc-r.htm#iに記して知らせている。
★07 その唯一、インタビューを行った人、橋本みさおがこの8月9日に亡くなった。そのやりとりの一部は『ALS』では以下。[410][411][413]は、その本で引用に通し番号をつけていったその番号。
 「【413】 二〇〇二年夏、[410][411]に引用した橋本みさおからの回答を復唱しながら、聞き取り。《小学生のように聞きますけど、身体が動かないっていうのは、退屈ですか?」/橋本「かんがえごとができていいよ。」/[…]「ちょっとそういうこと思ったことがあって[…]今わりと頭一つあればできる仕事をやってるんで、やれるかなと思って。」/橋本「できます。ふふ」》
 こうして何かができる、身体を動かすこととは別のことができるという答が一つだが、もう一つ、もし退屈せずにすむのなら、何かをしなくてすんでよいという答もありうるし、実際になくはない。[…]」(立岩[2004:274])
 このインタビューが20年前ということになる。その人のHPはもうなくなっている。ブログはまだあったので、まずはこちらでも保存した。そのままにしておくと、これから膨大な数のHP、ブログ、…が失われる。もちろんSNSにあったものもだ。私はそのすべてが保存されるべきであるとは思わない。少なくとも、私(たち)がする仕事ではないと思っている。それにしても、いくらかのことはした方がよいだろう。本号では山口の論文(山口[2022])がそのことについて書いている。
☆08 いっときまでのことは本や雑誌に出てくるが、それが途絶え文字媒体では以後のことがわからなくなっていることがある。島田療育園で起きた「脱走事件」(→註17)――それをそそのかしたとされた職員が解雇されその撤回を求める裁判闘争があったりした――のその後のこと等、2017年から18年にかけてのインタビューで初めてわかったことが様々あってそれによって知ったことを『病者障害者の戦後』に記した。
☆09 そのインタビュー記録の一覧は(今のところ)「生を辿り道を探す」(http://www.arsvi.com/a/arc.htm)の中にある。そのリストから記録の全文を収録したファイルを読めるようにしてある。こうした記録の提供を――むろん話し手の了承を得たうえでだが――求めている。
★08 以下、引用の引用になる――栗川治編の本に求められた短文(2019年)と横塚晃一の本の第3版に付した解説(2007)を、「福島本」の終わりの方に置いた文章で引いて書いた文章ということになる――のだが、そのまま掲載する。
 「今しばらく留めること
 記録すること、留めておくことが大切だとほうぼうで言ってまわっている私自身がときどき虚しくなることがある。そんなことはまったくきりがないではないか。所詮不可能なことだと思えてしまう。ただ、このたび、私の勤め先の大学院生・栗川治さんの亡き・妻清美さん――二〇一八年に癌で亡くなられた――を追悼する本(栗川編[2019])に、求められて短文を書くことになって、そこに以下のように書いた。

 ずいぶん長いこと、研究者として、この時代を生きてきた一人ひとりのことを書こうとほうぼうで言ってまわって来て、繰り返して来て、かえって、私はすこし疲れているのかもしれない。あらゆる人は死ぬから、その死者の数は既に数百億かになっているはずで、その人たちのことをいちいち書こうなどということは、まったく無謀で無理で無駄なことに思える。
 しかし、こんなふうに人は、疲れた時に、間違えるのだ。人は死ぬ。死んだその人には何も伝わらない、と私は思う。しかし周りにいた他の人たちは今しばらく生きていく。そのしばらくの時間、忘れるのをいくらかでも引き延ばすために、記憶に浸りたいために、人は人のことを書いて残す。また読んで残す。長い時間の間には、やはりそれもすっかり消えてなくなってしまうとしても、まったく、それでよいのだ。本書を読んで私はそういう気持ちになれた。([2019a:382])

 永遠にとどめておこうというのは無駄で無理なことである。さらに、ときにはいらなくなった方が、忘れてしまった方が、よいこと・ものもある。しかしだからといって、まったくいらないわけではない。当座いるものを集めて、そして、いらなくなるまで、留めておく。そうした当座の行ないを行なっていると思えばよいのだと思う。 
 とくに社会運動にはそうしたところがある。運動は、運動がいらなくなるまで続く。しかしそのいらなくなる時は(残念ながら、そう簡単には)来ない。だから続くことになる。そういえば、そんなことを、過去にも書いたことがある、とやはり思い出した。横塚晃一の『母よ!殺すな』の新版の解説の末尾だ。

 この本は、この本がいらなくなるまで、読まれるだろう。そしてその時は来ないだろう。しかしそれを悲観することはない。争いは続く。それは疲れることだが、悪いことではない。そのことを横塚はこの本で示している。(立岩[2007:461]

 少し追加説明がいるかもしれない。いらなくなる時が来るのは、もしそんな時があったとしたらだが、よいことだ。しかし、[…]」([2019:391-393]
 […]の後は、なかなか「いらなくならない」こととその事情について述べている。もちろん、いる/いらない、いらなくなるの判断は人によって異なるだろう。しかしそれは仕方のないことであり、そのうえで、私(たち)は、私(たち)が集め残そうとする営みの確かな必要があると考えている。
★09 2022年5月、益留俊樹大野直之野口俊彦の3氏に続けてインタビューさせていただき、記録を作成・公開した(益留[i2022]大野[i2022]、野口[i2022])。そこから見えてきた、と私が思ったことについては別に論ずる。
★10 「遡行」という語をいつどのような言葉として使ってきたかについては本誌第2号に掲載された「遡行/遡航」([2022a])に記した。

■文献
 * <>内の数字は『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』でその文献が言及された頁を示す。なにかの役には立つかと思い、残す。
青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院 <383,391,395,463>
青山 薫  2019 「UK質的データアーカイブの設立経緯とその後」,『立命館生存学研究』3:97-103
安積 遊歩・立岩 真也 2022 『(題名未定)』,生活書院
自立生活センター・立川 1998 『自立生活センターにおけるケアマネジメント』 <455>
―――― 1999a 『高橋修さん追悼集会 ありがとうそしてさよなら』 <393>
―――― 1999b 『高橋修と共に過ごした日々――高橋修さん追悼文集』,自立生活センター・立川 <391,393,405,429,421,428,436,448,466-467>
―――― 2000 『ともに生きる地域社会をめざして――CIL・立川10周年記念誌』,自立生活センター・立川 <393,465-466>
木村 英子(赤窄 英子) i1986 インタビュー 1986/03 +:安積遊歩・外山博美(介助者)  聞き手:石川准・立岩真也 於:東京都国立市 <397>
栗川 治 編 2019 『愛とユーモアの保育園長――栗川清美 その実践と精神』,新潟日報事業社
益留 俊樹 i2022 インタビュー 2022/05/21 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所
松浦 郁子 19900 『羽ばたけオサム』,はまゆう企画,発売:けやき出版 <393,399>
野口 俊彦 i2022 インタビュー 2022/05/19 聞き手:立岩真也 於:自立生活センター・立川事務所(東京都・立川市)
大野 直之 i2022 インタビュー 2022/05/19 聞き手:立岩真也 於:全国ホームヘルパー広域自薦登録協会事務所(東京都・田無市)
高橋 修 i1986a インタビュー 1986/07/07 +:大沢豊 聞き手:安積遊歩・石川准・尾中文哉・立岩真也・鄭淑宮 於:立川市 <390,413,417>
―――― i1986b インタビュー 1986/09/28 +:古賀則子 聞き手:立岩・好井裕明 於:立川市 <390,413-415,418,427>
―――― 1989 「全障連第十四回全国交流大会に参加して」,
『季刊福祉労働』44:142-147 <468>
―――― i1993 インタビュー 1993/07/15 高橋修 聞き取り:雨宮・石井・石政・大塚・呉・原田・奥村・立岩 於:立川市 <391,437-438>
―――― i1995 インタビュー 1995/06 聞き手・圓山里子→自立生活センター・立川[1999b] <391,419,421,427-428,436,448,466-467>
―――― 1997 「委員長辞任に向けて一言」 <432-433,469>
―――― i1997 インタビュー 1997/11 高橋修 聞き手:石丸偉丈他 於:立川市  <391,400-403,413-415,428-429,437>
高橋 修・圓山 里子 監修 1997 『当事者主体のケアマネジメント 立川市における身体障害者ケアガイドライン試行事業を実施して』,自立生活センター・立川(1996年度厚生省委託研究報告) <454>
立岩 真也 2001 「闘争と遡行――立岩真也氏に聞く 『弱くある自由へ』」(聞き手:米田綱路),『図書新聞』2519:1-2→立岩[2020:381-471]<10,397>
―――― 2004 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院 <377,394>
―――― 2007 「解説」横塚[2007:391-428]
―――― 2018a 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社
―――― 2018b 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社
―――― 2019a 「解説 この時代を生きてきた一人ひとりのことを書いて残す」栗川編[2019] <395>
―――― 2019b 「はじめに・いきさつ」,青木他[2019:3-12]<396,397,460>
―――― 2019c 「もう一度、記すことについて」青木他[2019:291-390]]<395,396,460>
―――― 2019d 「生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築」,科学研究費基盤A申請書 <378,460,461>
―――― 2020a 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』,青土社
―――― 2020b 「生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築」,科学研究費基盤A応募書類
―――― 2021a 『介助の仕事――街で暮らす/を支える』,ちくま新書,筑摩書房
―――― 2021b 『介助の仕事――街で暮らす/を支える 補注・文献』Kyoto Books
―――― 2022a 「遡行/遡航」,『遡航』2
―――― 2022b 「1980年代の調査・05」,『eS』42
横塚 晃一 1975 『母よ! 殺すな』,すずさわ書店 <155,379>
―――― 2007 『母よ!殺すな 新版』,生活書院 <379>
山口 和紀 2022 「社会運動のウェブアーカイブス構築に向けた試論――SNS運動の何を選び残そうとするのか」,『遡航』3
山之内 俊夫 i2018 インタビュー 2018/09/26 聞き手:立岩真也 於:宮崎市 <397,434>


UP:201908 REV:20190909, 14
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築病者障害者運動史研究立岩 真也Shin'ya Tateiwa
TOP HOME (http://www.arsvi.com)