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実際を書く大切


立岩 真也 2022/09/15
駒澤 真由美 20220915 『精神障害を生きる――就労を通して見た当事者の「生の実践」』,生活書院,pp.511-518

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駒澤 真由美 20220915 『精神障害を生きる――就労を通して見た当事者の「生の実践」』,生活書院,544p. ISBN-10:4865001468 ISBN-13:978-4865001464 [amazon][kinokuniya]

■T
 これでも、駒澤さんは、この本を薄くして、軽くして、安くしようと、いったん原稿を書いて、生活書院に出した後も、した。本にたくさんお金かけることをしない人たちにも読んでほしいという思いがあってのことだ。郵送料金が安くなるようにしようとも思った。その気持ちは私も同じだ。(嘘ではない。それで、無理言って、文庫判にして出していただいたりしている。生活書院からは『生の技法』『私的所有論』。他にも企画あり。)
 ただ、とくに出版社にお願いして本をだしてもらう時には、校正は最低の最低限にとどめるようにとけっこう、きびしく、みなに言っているのだが、駒澤さんは、やってしまった。途中から私は怖くなってしまって、はたからも見ているのを忌避してしまったのだが、おそろしいなおしを行なった。
 それはまず一つ、たしかに、今書いたこと、つまり安くして獲得されるかもしれない読者のためではある△511 のだが、次に一つ、駒澤さんの「資質」によると、もう言ってしまおう。駒澤さんは明らかに、私の勤め先の大学院(立命館大学大学院先端総合学術研究科)の演習(ゼミ)でだんとつに多く報告した人だ。大学院を修了した人たちがバイト(お金は大学から出る)で後輩の原稿などを点検し助言するという仕組みがこちらにはあるのだが、それを最も多く活用したのは駒澤さんだ。だから学費を最も有効に活用した人でもあって、もう(「学的達成」の価値・価格を加算しないとしても)もとをとっている、あるいはそれ以上に大学院を利用した人でもある。(その「恩返し」ということで、駒澤さんは今その「研究指導助手」という仕事をしてくれている。)しかし、その得をしようという動機が、駒澤さんを駆動したわけではあきらかにない。演習ほかで話を聞く以外にも、すみませんが、かなりスルーしたのだが、私に(も)おびただしいメールがやってきた。極彩色の、いろいろと色を使い分けたものであることも多かった。本書のもとのもとになった博士論文をそろそろ提出、というころになっても、昨日とまったく違うプランが今日、ときに一日のうちに一度でなく、送られてくるのだった。
 これは「精神障害」だと言ったってよいのだと言おう。結局人はいろいろと変わっていて、その変わっているところの、迷惑がかかる/かからないによって、その度合いによって、障害だとかなんとか言うのだ、というのが障害学の教えである。としたときに、この行ないはどうだろう。けっこう「ボーダー」かもしれない。まあ、(すくなくとも私は)やりすごせるぐらいだったし、明らかに(私の勤め先的には)十分すぎるほど生産的であったので、許容され、歓迎されのだが、いつもそうではない。「駒澤さんってそういう人だよねえ」、「障害者だし」(とはみな言わなかったが)で、すむところ、すまないところが、私らのような「ぬるい」場でないなら、出てくるかもしれない。△512
 つまり、ここでもう一つ、この本が長くなりまたこういう本になった理由は、精神障害と労働・雇用、に関わるそもそもの難しさ、によるということだ。
 なにが難しいのか。そして「やあ難しいですね」とか言っていれば飯が食えるなんていうぬるい世界・業界基準からでなく何が言えるのか。どうするのか。それをきちんと書けばゆうに本1冊にはなる。まず一頁でも本書の紙数を増やさないのが私の務めなので、やめる。さいわいなことに、普通には稀なことに(学界・業界がそんなことではまったくよくないと思うのだが)、「障害者と労働」のことを(ことも)研究しようという人が、その私の勤め先に、幾人もいて、研究会など始まっている。その人たちに書いてもらい、私も書くから、そして本を作るから、それを待っていてください。

■U
 まず、働けることを求める、という方向と、働かなくても暮らせる、という方向がある。どちらがよいか、と考えるとともに、いずれかと考えるのがよいのかという問いも立つ。
 ここでは、両方を求めることがまあまあもっともだとしよう。とすると、そのうえで出てくる普通の話は、所得保障があったうえで、働けるのが(のも)よしとしようという案だ。その簡単な一つは、基本所得・所得保障の「うえで」だが、労働市場・雇用・就労の場は「ほっとく」というものだ。それでは十分でないとすれば、その理由はなにか、具体的にどうするか、という問いがある。
 次に、「なにかする」として、差別を禁止というのでいけるか。ただ、その禁止とはたいがい、職務△513 の「本体」に関わらないところでの、という条件つきだ。例えば、話すことはできるが、その話をする場まで行くことが妨げられている、ことによって、その仕事をするのがだめだとされたら、それはだめだとし、その場まで行けるようにするのが義務だ、という。それはそれでもっとだとしよう(しかしだとしても、行けるようにする費用はどこで負担するのかといった話は残る、というか出てくる)。ただ、とくに精神障害、加えて「発達障害」などの場合、仕事の本体/それ以外、とそう簡単に分けられるかという問いもある。例えば挙動不審な店員という人がいたとして、その挙動不審は、ものを売るという職務の一部なのか、そうでないのかといったことだ。
 もう一つ、あるいは今のやり方に加えて、なにかする、例えば法定雇用率を設定して守らせるという手がある。とした場合、誰それは「精神障害者」だと認定されることが前提になりそうだ。名指され、制度に認定されることに対する抵抗感は本書でも書かれている。それをどう考えるかということもある――「気にしなきゃいいじゃない」ということではないと思うとともに、やはりそれは気にしないことにしようよと言おう、とも思ったりする。「差別禁止」路線だと、その人の属性を(あらかじめ)聞くこと・知ること自体だめだという話にもなるが、そんなことが簡単にできるかという問いもあり、働き始めたらわかってしまうということもある。それで、隠そうとしたりするが、それがうまくいかなかったり、ばれたり、もある。
 そして、以上では、基本、「一般就労」がなんとなく想定されるとして、実際には、そうでない形がある。仕事しに行くための交通や設備やらなにやら「合理的配慮」があれば、「一人前」に働けるという人もたくさんいるが、長い固定された時間は辛い、しかし週に何日かとか、予め仕事する時間が決まってないならできるということもある。もっともなことだ。それを普通の就労の場において普通にしていくというのが本筋△514 だとして、「普通」は辛いという人が集まるという形態もあるとしよう。それは、この国(に限らない)では一般就労への「移行」のための「支援」策という位置が与えられることもある。建前はそうなっているとして、実際にそんなところで働くということがどういうことであるのか。それも本書で、はじめて詳しく、書かれている。
 このかたちはなんだかかっこがわるいように思う人もいる。自前で稼ぐ、のと、「公金」が入るのと、混ざっている。それはすっきりしない、所得保障+ほっとく、は比べてあっさり、というのはまずはわかる。しかし、それでは働きたいのに働けない人はやはり残る。こうして話はもとに戻される。では、自分たちで、働いて稼ぎ出す度合いに応じて払うという仕掛けとは違う場を作って運営したらどうか。それはよい考えだ。駒澤さんはそれがよいと思っているようだ。とともに、そういう趣旨とかがわかったうえで働いているのでもない人たちのこと、それでもまあまあ気持ちよくやっていけている人たちのことを書いている。しかし、それでやっていけるか。すべて自前となると経営は難しい。例えば、働ける度合いが違っていても同一賃金にすると、他だったらもっと稼げる人が他に移ってしまうことにもなりうる。とすると、そういう「協働」「共同」的な場・企業に対する(所得保障とは別の)公的支援が求められるか、それは、すべきだとして、どんな具合になされるのがよいのか。企業に対してお金がでるとして、そこから個々の労働者に渡るとしたら、それは給料のなかに公金が含まれるということでもある。それより、給料と別に所得保障というのがすっきりするのではないか。やはり話はもとに戻る。
 こんなことごとを考えるべきであり、考えざるをえない。これらが、おそるべきことにきちんと考えられていない。だから、調べて、考えて、言わねばならないとは思う。ただ、二つは言っておく。一つ、これで△515 きまり、という単一の「解」は、「論理的に」、ないだろうということだ。一つ、しかしそれは、「まあいろいろ難しいですよね」と言って、現実をそのままにすることではないということだ。
 さきにすこし紹介した大学院生たちの研究会に関わり、私は「障害者と/の労働について:覚書」といったメモを書いていて、私たちのサイト上に公開している。この題で検索しても、「立岩真也 障害者 労働」でも、出てくる。そして、その人たちとの本に収録されるだろう文章にまとめる。よろしかったらどうぞ。

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 とにかくややこしいことは確かであり、しかし同時に、それ以上に、ややこしいといって考えること、現実を変えることをやめることはよくない。そしてその手前で、というか同時に、みななにを思ってどんなふうに働いているのか。その暮らし向きはどうなのか。とくに「現場」にいて「支援」する側にいる人たちはいくらか知っている。知っているような気がしている。本書に書かれていることのたいがいに、「ああそんな人がいる(いた)」と、思いいたることはあるだろう。しかし、それは、そうやってやりすごされるのでなく、少なくとも一度は、「きちんと」書かれる必要がある。そして、その一度とは、何人かの人生の一部についてのことなのだから、誰かたちによって何度かは書かれねばならないということだ。
 すべてのことを一度に、一つの論文や本で行うことは、たいがい、残念ながら、できない。はんばに「考察」だのして、結果、「残念な」ものになるより、問題の大切さとやっかいさをわかりながら、ではどうしたらよいのか言おうと思い「ながら」、「まず」、きちんと調べて書くこと、その続きを、自分が行うのか、△516 他の人たちにやってもらのうか、どちらでもいいから、というより両方がやるとよいと思うのだが、そのためにも、その続きが可能になるだけの質と量のものを書くことだ。本書ではその仕事がなされている。
 なんとおそるべきことに、私が「解題」を書くということになって、なにもしないでいてしかし書かねばというその時、駒澤さんから「立岩先生「解題」の素材」という添付ファイルが届いた。もちろん、私の務めさきに博士論文を出して通って、それを本にした人たちの本の「解題」を書くのはこれで一二本頁なのだが、そんなものをくれた人は、いない。開いたら、博士(学位申請)論文提出のあと、その審査の「口頭試問」(これは本人と審査員だけのやりとりの場)、「公聴会」(これは誰でもどうぞ)、等における私の(冒頭の)発言の「全文」があった。むろん録音はどうぞということにしてあるのだが、それをいちいち文字にするなんということは、駒澤さん以外しないと思う。もったいないので、その全部をこちら(こちらというのは立命館大学生存学研究所)のサイトに掲載する。「立岩 駒澤」とかで検索すると出てくるようにする。以下はそこにあった、審査の後に教授会、次に全学の会議に提出されるものとして書いた「審査結果報告書」より。それは、さんざんな手の加わった本書の、ではなくそのずっと手前の博士論文の評価書であることをおことわりして、できるだけ短くと思ってがんばった本書「解題」を終えます。

 ▽454頁に達する本論文の著述は圧倒的である。一人ひとりに長い時間をかけたインタビューが積み重ねられ、その一つひとつを丁寧にまとめていく。調子がわるくなったりよくなったりしながら、ある人は、いくつかの制度を渡り歩く。かなり長く同じ職場にとどまる人もいる。精神障害者と認めることについて、年金や生活保護の受給について、ためらいがあったり、割り切りがあったりする。本人たちが、またその△516 人たちに接する「現場」の人たちが、ある程度、部分部分を体感しているものの全体が見えてくる。そのような著述はなされたことがなかった。審査委員たちはみなこの論文の大きな意義を認め、もちろん、博士論文として十分な価値があることを認めた。
 その上で、ここに記述されたことをどのように読み解くかは課題として残るだろう。著者は一つ、世上ではリカバリー(回復)が目指され、そしてそれがつまりは一般就労を得ることとされることを批判したとするが、それだけなら、働くことだけがよいことではないこと、よくなることだけがよいわけでないこと、それは認めている、とすぐに返されるだろう。また著者は、一つ、人々が、その場その場で、いろいろと考え、天秤にかけたりしながら、生きていることを言う。しかし、この社会ではあらゆる人がみなそこそこに賢く生きている、それとそう違いはない、それだけのことではないか、と返されるかもしれない。
 とすれば、さらに言えることはないか、ここまで優れた記述をしたのだからと、期待が語られもした。だがそれはまったく容易なことではない。働くこと、働くことに関わる政策について、包括的な考察は世界全体を見てもまだない。とすれば、下手にまとめるより、まず現実を示すほうが賢明だとも言える。そして本論文は、いくつかの就労の型を示し、迷ったり選んだりする人たちを描いている。ならば、ここからどのような労働、労働を巡る仕組みがより望ましいのか、後に続く私たちは考えていくこともできる。△△517


□関連

◇立岩 真也 200112 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」,『季刊社会保障研究』37-3:208-217→立岩[200607:171-191] <412>

 
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□駒澤さんから送られてきた「立岩先生「解題」の素材」

◇1.口頭試問
 精神障害をもっている人たちがどういうふうに働いているのか、働くことをどういうふうに考え、やりやすかったりやりにくかったりする職場で働いているのか、その就労支援と称されるものがどういう仕組みになっていて、そこで適応したりしなかったりしているのか、というのを、(まあそれもまったく想像できないわけではないけれども)ここまで書いてくれないとわからない、書いてくれてはじめてわかる、そういう作品になったと思います。読むのに時間かかったと思いますけど、みなさん面白かったと思って下さるんじゃないかと。皆さんこんなふうに働いて、生きているのだな、それでも十分だと思っていて、こういう書き物というのは見かけたことがありませんし。ここまできちんと書いてくれた。その上で何を言うか、もうちょっとなんか言えるんじゃないかというのは駒澤さんには伝えた。誰しもある程度合理的に賢く生きている。大概みんなそうしている。もう少しものの言いようがあると思いますけど、ここでは申し上げませんし、私が思うことがそのとおりなってないからと言ってこの論文の価値を下げるわけでもない。今後、就労・労働をいろんな人が考えていく上で貴重な素材として、働くということ、働くことをどう支援すべきかということに示唆を与える材料・事実の膨大な集積を提示してくれたかな。

◇2.公聴会
 まず何より、今日の報告からはわからなかったかもかもしれませんが、この論文は片面印刷でこれくらい厚さがあって、あまりにも重いので今日は持ってきませんでしたが、大部分がインタビューで成り立っていて、それが非常に丁寧に、人によっては何度も重ねて、僕は理論的なものよりも、働くということ、いろんな制度を使ったり、制度の狭間にはさまったり、なんやかんやしながらやってきましたというところが非常によくわかる丁寧なインタビューが重ねられて、この論文単体ということもあるけれども、ひとりひとりの人生みたいなものから何をどういうことを言えるか、考えられるか、という素材そのものとして使えるという、立派な、かつ興味深い物語です。というのがひとつです。あと、これ不思議な論文なんです。リカバリーなんて大したことない、と言いながら、リカバリーのことをいっぱい書いているという、不思議な。今日の話の入りも、リカバリー、リカバリー、って言ってましたけど、本人はリカバリーを批判している。ってなると、実はそんなに座りが良くないというか、そんなに頑張って批判しなくちゃいけないのか、そんなたいしたもんじゃないんだから、ちゃっちゃっと片づけちゃえばいいと、僕は最初から思ってるんですけど。でも、報告するとこんな形になる。それが2つ目。それと、これは、もしかすると駒澤さんが書いた論文と違うように使える可能性があって、社会政策とか、あるいは障害者の就労とか、精神障害者の難しいというか、ややこしいというか、全然うまくいってないし、そういうことも含めて、じゃあ、どうするんだい?ということを考えたりする時に、まあ使えるもので、それについての考察も駒澤さんおこなってくれてますけど、僕が聞いたらまた違うことを聞きたいなと思った。そういうことも思ったけれども、それは、またいい論文だということで。それをもとにして、こういうふうにも言える、ああいうふうにも言えるかもしれない、という素材にもなった。そういう論文だったと思います。僕だったら違うふうに書いたというのがありますが、それは駒澤さんの仕事だから。これからそうした議論を、いろんな人たちとすればいいなと思うんで。

◇3.博論審査
 454頁に達する本論文の著述は圧倒的である。一人ひとりに長い時間をかけたインタビューが積み重ねられ、その一つひとつを丁寧にまとめていく。調子がわるくなったりよくなったりしながら、ある人は、いくつかの制度を渡り歩く。かなり長く同じ職場にとどまる人もいる。精神障害者と認めることについて、年金や生活保護の受給について、ためらいがあったり、割り切りがあったりする。本人たちが、またその人たちに接する「現場」の人たちが、ある程度、部分部分を体感しているものの全体が見えてくる。そのような著述はなされたことがなかった。審査委員たちはみなこの論文の大きな意義を認め、もちろん、博士論文として十分な価値があることを認めた。
 その上で、ここに記述されたことをどのように読み解くかは課題として残るだろう。著者は一つ、世上ではリカバリー(回復)が目指され、そしてそれがつまりは一般就労を得ることとされることを批判したとするが、それだけなら、働くことだけがよいことではないこと、よくなることだけがよいわけでないこと、それは認めている、とすぐに返されるだろう。また著者は、一つ、人々が、その場その場で、いろいろと考え、天秤にかけたりしながら、生きていることを言う。しかし、この社会ではあらゆる人がみなそこそこに賢く生きている、それとそう違いはない、それだけのことではないか、と返されるかもしれない。
 とすれば、さらに言えることはないか、ここまで優れた記述をしたのだからと、期待が語られもした。だがそれはまったく容易なことではない。働くこと、働くことに関わる政策について、包括的な考察は世界全体を見てもまだない。とすれば、下手にまとめるより、まず現実を示すほうが賢明だとも言える。そして本論文は、いくつかの就労の型を示し、迷ったり選んだりする人たちを描いている。ならば、ここからどのような労働、労働を巡る仕組みがより望ましいのか、後に続く私たちは考えていくこともできる。

◇4.自由の平等――簡単で別な姿の世界
 生活欄で「がんばりすぎない」ことが言われ、同じ新聞の政治経済欄に「新世紀を生き抜く戦略」がある。それを矛盾と感じる気力も失せるほど社会を語る言葉は無力だろうか。いま考えるに値することは、単なる人生訓としてではなく、そう無理せずぼちぼちやっていける社会を実現する道筋を考えることだ。足し算ではなく引き算、掛け算ではなく割り算をすることである。もちろんそれは、人々が新しいことに挑戦することをまったく否定しない。むしろ、純粋におもしろいものに人々が向かえる条件なのである。(立岩 2004: 33)


UP:20220826 REV:20220829, 1007
駒澤 真由美  ◇立岩が関係した博士論文  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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