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せめて止まらないために、調べる、引き継ぐ
立岩 真也
20220923
柴垣登 20220923
『インクルーシブ教育のかたち――都道府県ごとの特別支援教育の違いから』
,春風社,pp.252-256
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柴垣 登
20220923
『インクルーシブ教育のかたち』
,春風社,272p. ISBN-10:4861108217 ISBN-13:978-4861108211
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1 せめて止まらないこと
私は、データがなければきちんとしたことが言えない、とは考えない。数字がどうであろうと、言えることはあるし、言うべきことはある、と思っている。そして言うべきだと思うことは、たぶん、柴垣さんとまるで同じということではないだろうと思う。ただ、それを述べるのはもちろんここですべきことではない。2010年に韓国の大邱(てぐ)大学に呼んでいただいた時の「ただ進めるべきこと/ためらいながら進むべきこと」という講演の記録(とその韓国語訳、英語訳)がある(
http://www.arsvi.com/ts/20100119.htm
)。いま「立岩 ためらいながら」で検索したら先頭に出てきた。よろしかったら読んでください。
ただ一言。例えば「権利志向で」といった言葉を、あきらかに「困った、わがままな人(親)もいるんで、困ったものだ」という文脈で使って語る人がいる(p.217)。議事録の発言はあとで本人がなおしたりできるので、実際に言われたよりいくらか穏当な表現になっているのかもしれない。こういうことを言う人(たち)が(たくさん)いるのは知っている。しかし、愚痴を言ったりぼやいたりしながら、しかし結局自分たちのほうが力が強く、言いたいことが通るから、いかにも業界内的な緊張感のなさのもとで、こうした公的な場において、なにか相手に言われても、「いや実際そうなんです、困ったものなんです」といった返し方しかしない、またできない、それですんでいる、そういう人たちがいる。そうして維持される現実がある。そういう場で、そういう人たちと議論したりものを言わねばならないことの徒労を私は思う。そんなところにいなくてすんで、自分は楽させてもらっていると思う。そして、そういう場で議論し主張せざるをえず、しかしその場しかないのだからがんばらねばと、そこにいて議論を続けようとした人たちの苦労を思い、尊敬する。
比べれば、まだ大学院というものにはよい、少なくとも楽なところもあると思う。いま私が所属する研究科には、自らのダウン症の息子の高校進学のことでいろいろと苦労し、考えるところもあった人が、さきの発言では「権利志向」ということにされるだろう人が、さらに考え、調べ、研究しようとやってきている。その人の言うことに皆々が同意しているわけではない。もっと自分の意見や立場を「客観的に」見るようにとか、「相対化」せよなどと教員たちから言われたりする。柴垣さんとその
竹村文子
さんという人との間にだって、いろいろと相違はあるし、また出てくるだろう。ただ、まずは(双方の)話は聞こうということだ。そして考えていくとどうなるか、どこが大切なところであり、またやっかいなところなのか。そんなふうに考えたり、調べたり、書いていくことができ、それを、詳しい具体的なところはわからないからそこはむしろ教えてもらいながら、教員が助力することができる。手間もかかるし、いろいろと消耗することもあるのだが、どうせなら、この大学院という場を役立ててほしいと思うし、大学院生には、人々に読んで、考えてもらえるようなものを作ってほしいと思って、ときどき「もういいや」とか「もういやだ」と思ったりしつつも、この仕事を続けている次第だ。
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2 調べること、引き継ぐこと
さて、柴垣さんは2015年に大学院の後期課程(他では博士課程と言ったりするところが多いと思う)に3年次入学ということで入ってきた。じつは私と柴垣さんの生年は同じ1960年、さらにもっとどうでもよいことだが、2人は京都市北区上賀茂というところに住んでいる。うかがったことはないが、歩いて10分もかからないところにお宅がある。だから近くの喫茶店だとかで研究相談というものをしたこともある。岩手大学に転職し、いまは盛岡にいて、コロナのせいで京都にもなかなか帰れなかったようだが、その間にも、学位取得の後にも、こちらの授業やらに、その授業もコロナのせいでオンラインでということになったから、大学の仕事が終わってから、その研究室から参加してくれたりした。本来出席せねばならない人たちより出席率がよかった。
博士論文を提出したのは2020年3月(学位授与は同年9月)。5年かかったことになるが、これは長いほうではない。うまく休学を使えば、長くいられる。後期課程の3年ちょうどで終わらせる人もたまにはいるが、ずるずると長くかかる人もいるし、そもそも10数年の遠大な計画のもとで、という人もいる。柴垣さんは、その在学の途中、どうしたものやらということもあったが、「たぶんこういう話なのかな?」といった話を、2人の家の真ん中にある一番近い喫茶店ではない喫茶店のほうでしたりして、論文をまとめて、提出して学位をとった。それが本書のもとになった。
その解説やらはここではしない。ただ、博士論文の「審査報告書」というものを大学院での主担当→論文審査の主査である私は書いている。その「論文審査の結果の要旨」という部分を、以下そのまま再掲させてもらう。いつも使う手だ。院生だった人が博士論文等を本にする際に私が書いた「解題」が、この柴垣さんのを含め、この8月にもう1つ書くものも含め、14になるようなのだが――
http://www.arsvi.com/ts/dt.htm
(「博士号 立岩が担当」で検索すると出てくる)でこれらの全文をご覧になれる――、たいがい、だいたい、そういうことをしている。そうして私は手抜きをするのだが、しかし、それはすこしだけ謙遜でもある。教授会で全文を朗読せねばならないこともあって、けっこうまじめにその書類を書くことはある。
▼「特殊教育」「障害児教育」としばらく前まで呼ばれ「特別支援教育」とこのごろ呼ばれるようになった教育について、その理念が語られ、発達保障論・対・共生共育論といった理念の対立があってきた。そしてむろん、教育実践は様々に研究され大量に発表されてきた。しかし、そうしたなかで、実際にどのような具合に予算が使われ、どんな人(生徒)がどのようにどのような場に受け入れられ、そこにどんな人がどれだけ配置されているのかという研究はたいへん少ないままだった。本論文はその領野での本格的な研究としてまったく先駆的なものとなった。まずそのことが評価された。
そしてこの予算、人、…について、都道府県間の差があることはすくなくとも関係者には知られていた。長年教育の現場にいた筆者はそこに着目した。その差異とそれが何に由来するかを明らかにできれば、その幅の間にあるどれをどのように採用するかを考えることもできる。そこで比較が企図された。
そこには困難もあった、例えば人の配置にしても、教員を増やすという手段もあれば、補助員のような人をつけるという方法もあり、簡単には比較できなかった。だが一つ、「インクルーシブ教育」の困難について言われる際、人の配置の困難、つまりは予算の希少さが語られるのだが、示されたことは、財政の豊かな自治体において初めて可能であるということではなかった。とすれば、必然的な困難があるというより、当該の自治体や個々の教育委員会・学校での慣習のようなものによって、実態が規定されている可能性がある。本論文では「発達障害」と呼ばれる人たちの受け入れのあり方について都道府県の間に大きな差異があることもまた明らかになっているが、これもやはり同様に説明することができよう。
著者のように、本人・保護者の意思による選択が認められるべきだとする立場からは、その差異は除去されるべきであるという方向が示され、そしてそれは、本来はさほど困難なことでないことも言えることになる。そのうえで、具体的に整えられるべきまた改善されるべき施策もまた示される。これもまた本論文のためになされた調査研究による貢献である。こうして、これまでなされるべきだがなされてこなかった研究がなされ、その結果、実践面・政策面における可能性もまた示されることになった。
以上により、審査委員会は一致して、本論文は本研究科の博士学位論文審査基準を満たしており、博士学位を授与するに相応しいものと判断した。▲
※▼▲内は引用なので、字下げするなどしてください→編集者の方
私自身は、集計や、集計に基づいた分析を、非才でもあり怠惰でもあるためにしたことがないし、これからもないだろう。しかし、大切なことだとは思っている。この文章の最初にあげた、私がげんなりするような人たちも、ただ、困った人たちがいて困ったものだと言うだけではないのだろう。しかじかが足りないとか、足りないから仕方がないのだと言うのだろう。するとこんどは別のことを調べて言わねばならない。何を基本とするのかという以外に、現実の仕組みのどこがどうなっていて、どうすることができるかを、どうにもならないという話が本当かを確かめる必要がある。
ただ、日本の制度は、日本に限らないかもしれないが、たいがいとても複雑でややこしいことになっているため、その仕組みがわかる人でないと間違ったまとめ方や比較の仕方をしてしまうことがある。わかっている人が、その仕事をしてくれた。そしていま引用した文章で、私は、その結果の使い手の一つを言ってみている。せっかく面倒で手間のかかる作業をしてもらった。それはどう使えるか。つまりその結果にはどんな含意があるか。それをいろいろと考えて、言ってみる。それは一人の人によってそのすべてがなされる必要はない。ただ、一人ひとりは、一つひとつの仕事を確実にしていく必要はある。そうしてくださいと私は言う。そして、その結果が、こうして本になるなら、私たちはその使い方を考え、実際に使っていくことができる。こうして、一つひとつがきちんと、継承可能なものとしてまとめられていくなら、研究が積み重なっていくことができるようになる。ならば、その手伝いをすることにも意義はあるのだろうと私は思うことにしている。いや、本当に思っている。
UP:2022 REV:20221018, 1229
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柴垣 登
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立岩 真也
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生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
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