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『優生思想を解
(ほど)
く』
(仮題)
立岩 真也 2021 ちくま新書,筑摩書房
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◆立岩 真也 2021/06/01
「この単純な場所に立って、むだにぐるぐるしない、ために」
,『福音と世界』2021-6
■
◇
目次
◇
文献表
◇
■草稿
以下の文章は、2020年中には出したいと思っていた
本・2
の草稿として準備を始めたものです。
『介助の仕事』
のための連載と異なり、順不同で書いていきます。今のところ、以下に記す取材時の記録を切り貼りしているだけのものです。だんだんと整理し、かたちを作っていきます。
ここにおく註と文献表は、新書では大幅に減らされます、というよりなくすと思います。紙の新書をご購入いただいた方に有料で提供する電子書籍版には収録しようと思います。
2021年の刊行になりました。7月には刊行していただきます→無理でした。『eS』に連載?した文章(というか、方々で話したものの記録の抜粋)はそのままでは使えないので、大幅に書き直し書き足します。〈Webちくま〉での連載をお願いしようと思っています。
◆2020/08/17
「優生思想?・1――新書2のための連載・01」
,『eS』024
◆2020/08/24
「優生思想?・2――新書2のための連載・02」
,『eS』025
◆2020/08/31
「優生思想?・3――新書2のための連載・03」
,『eS』026
◆2020/09/07
「優生思想?・4――新書2のための連載・04」
,『eS』027
◆2020/09/14
「優生思想?・5――新書2のための連載・05」
,『eS』028
◆2020/09/21
「優生思想?・6――新書2のための連載・06」
,『eS』029
◆2020/09/28
「優生思想?・7――新書2のための連載・07」
,『eS』030
◆2020/10/05
「優生思想?・8――新書2のための連載・08」
,『eS』031
◆2020/10/12
「優生思想?・9――新書2のための連載・09」
,『eS』032
◆2020/10/19
「新書・2のための連載・10」
,『eS』33
◆2020/10/26
「また足りない話――新書・2のための連載・11」
,『eS』34
◆2020/11/02
「もの:呼吸器――新書・2のための連載・12」
,『eS』35
◆2020/11/09
「もの:人工透析の機械――新書・2のための連載・13」
,『eS』36
◆2020/11/16
「もの:薬――新書・2のための連載・14」
,『eS』37
◆2020/11/23
「もの:薬・続――新書・2のための連載・15」
,『eS』38
■註
★
『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』
より。
○「■ナチによる「安楽死」
○容疑者がヒトラーの名を出したことによって、ナチの安楽死計画、障害者の殺害が紹介されることにもなった。こういうことについては、ごく基本的なこととそうでないこととを両方言わねばならないのがやっかいだ。二〇一五年にNHKの番組で放映されたこともあって、ある程度は知られているとしよう。また、基本的なことはやはりウェブに載せた◇。五〇余の文献をあげている。一九九七年までの日本語で読める文献についてはその年に出た[1997]〔
『私的所有論』
◎〕に、その後の文献はその第二版
[2013/05/20]
◎にあげた。クレーの分厚い本『第三帝国と安楽死』(Klee[1993=1999]◇)があって高いが買えるからそれを読むのがよい。長瀬修が訳したGallagher[1995=1996]◇もある。以下ではそのできごと自体についてでなく、その問題のされ方について。そして確認したいことは、ナチの得た支持は多くの部分で経済の成功によるものだったことである。
○とはいえまず概略。多くの障害者がT4作戦と呼ばれる秘密の作戦によって殺され、さらにその作戦の後も殺害は続いた。実数は誰もわからないが二〇万人以上と言われる。行ないの一部がニュルンベルク裁判で裁かれた。ただドイツの有力な医学者医療者が関わっていたこともあり、詳細についてはドイツでも隠匿された部分があり、全容は長く知られることがなく、解明されていくのはようやく八〇年代からのことになる。まずここでも私たちが知るのは、やはりあったことが表面から消えていたこと、そしてそれが、ドイツの医療業界でも上の世代を批判する人たちが出てきてようやく明らかにされていく過程があったことだ。
○このことにも関係して私がいくらか興味があったのは、どのように日本で知られていったのかだ★13。実際に調べられてはいないから依然としてよくわからないのだが、例えば小説としては北杜夫の『夜と霧の隅で』(北[1960])がある。この作品は芥川賞受賞作でよく読まれたはずだから、この時点でまったく知られていないわけではない。ニュルンベルク裁判の判決の情報はあったようだ。裁かれた部分、おおまかなことは、それなりに知られていたようだ。そしてビンディングとホッヘの「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」は、翻訳の出版は二〇〇一年だったが(Binding & Hoche[1920=2001]◇)、ドイツの法学はよく学ばれてきたということもあるのだろう、以前から知られていたようで、法学者の書き物には普通に出てくる。戦後の文献では例えば刑法学者平野龍一が安楽死を分類する中で通常(本人意志を前提とする)安楽死に入れられない範疇を示す中でビンディングとホッヘの論文と、二十七万人を殺したというナチの殺害をあげている(平野[1966]◇)。
○訳された一般書籍としては戦争直後に出された三冊の書物をもとにフランスで出た『呪われた医師たち』(Bernadac[1967=1969])が最初のものではないか。そして日本でも医療批判とともに一九七〇年代初頭に言及される。まず高杉晋吾◇[1971→1972]。そして『ルポ・精神病棟』(大熊◇[1973])ではベルナダクの本が引かれている。そして『強いられる安楽死』(しののめ編集部編[1973])。これも六二年の特集と同じく紹介すべきだろうが、全文を収録したものを出してからにする。『医学は人を救っているか』(朝日新聞社編[1973a])所収の中川米造◇「医学とは」(中川[1973])。中川は医学生の(無)反応に注意を促している。『反精神医学への道標』(小澤勲[1974])。職場の病院にあったのを見つけた『ナチスの優生政策』(Frercks[1938=1942])を読んだという。「「保安処分」に思う」(島成郎[1980])。島◇、小澤◇は『造反有理』([2013])にも出てくる造反に加担あるいはいっとき主導した医師。高杉、大熊もその本と次の[2015/11/13]に出てくる。
○これらの人たちは皆、そのできごとを戦時下の独裁者の特異な蛮行とは捉えていない。医療、精神病院…が問題にされた時期に、社会・体制を語るなかで言及している。そして私はそれは基本的には正しいと考えている。ただそれらが指摘されてから五〇年程の時は経っている。すこし別のことも加えてみようと思う。
→03
○ナチは民主的に政権をとり、民主的に独裁に至り、それを継続させる。その時、経済を成長させ景気を維持して支持を得た。障害者を殺したからというわけではないだろう。それでいくらかを節約できたかもしれないが、それが直接国力に響くといった場合には、既にその経済運営は失敗していると言ってよいだろう。そうした節約によってでなく、経済についてすくなくともいっとき成功した。社会保険他を導入したこともよく知られている。さらにこの時期のナチの政権に限らず、排除、排外主義がどのように実行され支持されるかである。たしかにそこに偏見はあるだろうし、差別したい心情もあるだろう。だがそうしたものと込みになりながら、移民を制限したり、既にいる人を排外することで、得をする人がいる。
○例えば金融業で大きな利益を得ている層を追放して同業の人を儲けさせるといったこともありうるが、むしろ、今般各国で生じているのは国境に纏わる文化障壁によって流入者を気にしなくてよい人たちとそうでない人たちの分化である。例えばその国の言葉がうまく使えなくてもできる仕事に人が多く流入してくれば、もとからその仕事をしていた人たちの就業率や労賃は下がるかもしれない。だからその人たちは排外主義に賛成することがある。他方、損をしない人は、市場全般としては自由市場の方が効率がよいこともあり、安く買えるものは安く買いたいから自由市場化に賛成することがある。こうして労働者のある部分が排除、防衛に賛成することがある。
○「重度障害者」は単純にこの社会の構制から割を食う人だから、その点では社会を変えること、変えるべきことに単純に同意できるところがある。ただ、とくに得もしていないがなにがしかはできる人にとっては、この社会はそれほど単純ではない。ではどうするのか。基本的に言えることは幾つかある。しかし言えることがあることはその実現可能性とはやはり別のことだ。考えれば言えることが言われていないという問題と、言えても現実に難しいところとある。これは大きな問題でここではこれ以上述べないが、まず国家をそうした相において捉えることだ(cf.[2016/10/10])。漠然としたしかし確かなものに思える不安、殺さなければ社会がもたないとまでは思わないが、(あまり)殺さないためにも、(自分たちに関わる)経済をよい状態に保つこと、そのための国力への期待、強さへの志向、いくらか乱暴なことは許容されると思うこと。その国は実際そのような方向に動いたのでもあり、そしてその経済について成功して支持された。その殺害の行ないはうすうすは知られていたが、大きく問題にされることはなかった。作戦の中止は、戦争の相手方が「人道」を持ち出して非難してくるのを嫌ったからだと言われる。
○それと現在とは、この日本国にまったく限らず、いくらか似ている。そして明らかなのは、その状況を批判するのに、道徳的な文言では、すくなくともそれたけではだめだということだ。道徳的な文言は、「自由化」によって益を得ている人たちを正当化する装飾だと受け止められるだろうし、実際かなりの部分そのとおりなのである。だから(社会科学の)大きな問題だと述べた。」(
立岩[]
)
○「★13 「一九七〇年」([1998])が載ったのと同じ本誌の号(特集:身体障害者)に載り同じ本に収録した市野川との対談(立岩・市野川[1998])でこのことを述べている。日本の優生思想をどう見るのかという関心、米本昌平◇の見立てをどう受けるかということもあった→[1997](英語版[2016/09/21])第6章。」(
立岩[]
)
◆構成案(20210419編集者に送付)
■■序
本書の刊行に際して、その事情をすこし説明します。
……
それはたしかに極端なことをしてしまう。とともに、自らに鑑み、なにか仕方がないとも思える。そんな営みであり、そんな営みの歴史があります。それを膨らませたりするのは、どんな社会でありどんな時代であるのか。
どういうものか(簡単に):
ただ、日本ではかなり広い意味で使われています〜「優生学」でなく「優生思想」という言い方をしてきた。それはそれで私はよいことだとも思っています。
もちろん殺すことなのか、自分で死ぬことなのか、産まないことなのか、意識すること思うことなのか、…それぞれ全然違います。ただ、
■■第1章 歴史
■発祥 英国
■米国で:移民の制限・断種法
■ドイツ
■日本で
戦前〜戦時中のこと
優生保護法、が25年ほどたって問題にされる。
■■第2章 それはどういうものか
■「ゆえなき差別」のこと
私たちの社会においては:同じく「できる」のに不利なように扱うことを差別とする。
どんな区切り方でもよいということになります。ただときには目でみてわかる違いがあった方がよいということはあるでしょう。
まず一つ、まったく身もふたもないような話ではありますが、誹謗・中傷するすること自体の快というものがきっとあるのだろうと、言ってしまってもよいかなと思います。差
■「ゆえある差別」
今のが差別し攻撃すること自体による益だとすると、もう一つ、排除・排外に伴う実利的・物質的な利得のある場合があります。自分(たち)ではないある人たちを職場に入れないことができるのであれば、自分たちの職が保たれるとか、競争相手が少なく、有利な待遇を得られるといったことがあります。そしてここでも、その不利益は、すくなくとも自分にはかかってこないということがあります。
自分ちたちと違う範疇を除外することで利益を守る〜20世紀、米国における移民の制限 …そして〜現在世界中で…
それはたしかに「自国第一主義」ですよ。そして、WASPがアイルランド系を、スラブ系を、黄色い人たちを排斥したといったことになると、そのような行ないは自明に悪いことだと思われます。
しかし常にそう言い切れるかということはあります。平和に、あるいはかつかつ暮らしていたのに、そこにどこかから人々がやってきてしまい、自分たちの生活が維持されなくなるということはありえるし、実際ないことはない。そしてそうした場合には、常に受け入れるべきであるということにはならず、ときには「侵入」「侵略」とされ、入ってくる側の方がわるいのだともされるし、それもまたもっともと思われることがあります★。
■とすると
※この章に書くことは他であまり書いていないので、一定分量をとって書く。
■■第3章
■何が? +差異・加害
近代の社会において差別とされる(がいくらも存在・存続する)差別について前章では言いました。本章では、差別とされない差別について。
おもには生産、社会の維持発展ということでした。そこで本書でもこれから主にはそのことについて述べていきます。ただ、実際にはそれだけではありませんでした。
私は、身体に関わってしょうがなく実在する契機。できごととして5つはあると述べてきました。非能力・差異・加害 そして苦・死 障害は3つに関わり、病は2つに関わる。
語られないという語りが流行したした時代だと思います。
死について、私はなにかが語れるか今でも見当がつきません。
非能力ですが、差異の感覚は大きかったし、そして、苦・死をもたす(意図的ではないとしても)加害であり、そこから防衛することが…。
差異は実際には大きな部分を占めているのではないかと思います。たくさんの数の映画であるとかあったわけですが、まずはそこに現れるのは異形の人・生物です。
むしろ公衆衛生の対象であり続けてきたのは加害のほうだった。感染から逃れることだった。そしてこのたび。リスク…。監視社会 という社会の捉え方があった。そこれはそれでもっともなものだった。しかし、
■間違いという言い方について
たくさんの間違いがあった、しかし
■自律という応対
強制に対して自律。しかし
■日本で
◆1970年代になって、出生前診断が実用化される。それに対応していわゆる「胎児条項」の新設を求める動きが起こり、それに対して…
◆まず間違いは問題にされました。実際、それはたくさん間違っていました。そして有害な間違いはよくないからただすのはよいでしょう。ただし、たからなくなるかというとそうとは限りません。間違いでない部分がある。ならばどう考えるかということになります。
◆強制はよくないとは言えます。しかしこれを言えばすむわけではありません。生殖に照準する限り、本人がということがそもそもないわけです。だから、じつは「自律」によってはそんなに言えないということになります。
「強制」が存在しないところに作動するのですから、問題がないということになる。また、例えば資源を提供しないことは、普通の意味での強制ではない。ということになれば、問題はないということにもなります。
◆
狭い意味では、生殖に介入して人の性質をよくしようとすること自体について、広い意味では、……について。がよいかよくないかを考えるしかないだろうとなります。大きなものを相手にするということになります。全体と喧嘩するというところはあります。
ただ、まず言われることが別にあります。各々もっともですか。しかし、という話を次章でします
■■第4章 否定の仕方・1
■肯定するという所作
よいものははよい。そういうことはたしかにある。さらに、マイナスとされているものそのものの価値の転倒ということをしようとします。それにももっともなところがあります。そのことを否定する必要は私はまったくないと思います。もっていないものをもっているということはあります。実際よいところはたいがいの場合に、意外なほど、あるのです。
しかし ★
問題は人の心性にあるのだから、別の心性になればよいということになる。それが他人相手ということになると、心情に訴えるということになります。しかし、
■「内なる優生思想」
一つ、「内なる優生思想」っていう問いの立て方っていうか、反省の仕方みたいなのがあります。言葉、というか、捉え方があります。この言葉がどこから出てきたか、ですが、……。
まず、この捉え方はまったく正しいです。それはよその人の話ではないということ、国家権力だとか、資本主義とかのせいに(だけは)できないものだということが言われました。
そのうえでなんですが、すこし違うことを言います。
そういうこうとを言う人たちって、だいたい心配ない人たちなんですよ。そういうことをわざわざ言う人はね。優しい人たちなんです。
ですけど、「内なる優生思想って誰にでもあるよね、誰にでもあるからそれを根絶しようというのは難しいよね、難しいよね、終わり」みたいな。続く、でもいいですけど、続くっていうのと終わりっていうのほぼ同義で。続く、兼、終わりみたいな、で、ストップ、思考ストップみたいな、そういう良心的な人たちがいるわけです。僕、それはあまりよくない、健康によくないと思っているんです。
一つ。止まってしまってぐるぐるになってしまうと思うんです。
cf.『介助の仕事』
「内なる優生思想」という考え方にはもちろんもっともなところがあります。ただ、心優しい人たちが自分のことを思って、私にも優生思想的な部分があるとか思って、それを根絶するのは難しいよねとか、反省してしまって立ち止まってしまうのは、損なことだと思うのです。根絶なんかできないと居直ったってよい、しかしその濃さを薄めることはできるということです。そのためには、自分だけで世話を背負いこんでその負担で暗くなり殺しそうになったりするその度合いを減らすことです。」
■みんなが、誰もがという話
もう一つあげれば、みなが病気になる、障害者になるという、「みんな」のほうに話をもっていく話です。これは他人のことでなく(将来の)私(たち)のことなんだから、というのです。
たしかに「みんながなる」のはほぼまちがいありません。とくに老いていくことを考えるなら、障害という問題は全員が巻き込まれていく、既に多くが巻き込まれているできごとです。関心がないとか言いたくても言えないことです。
しかし
→無理に肯定しない/無理に「みんなの問題」にしない。
なにか「積極的な」ことを言わねばならないわけではない、とわかること。★
■■第5章 否定〜肯定の仕方・2
■なぜ起こるのか:単純なことだ。そしてその心性自体を否定する必要はない。よけいに働かずにすむならすませたいというのは、「健全」なことでもあります。それ自体がわるいということにはならない、楽なことはよいことだとというしかないわけです。そして、好き嫌いはもっと難しいかもしれません。
しかし、まず一つ、「正しい」とは思わないこと。
「能力主義〜原理」。「主義」と言えない部分があります。多くの人は差別だと思っていない。それはおかしいと思ったので、私はものを書いてきました。同意しないとしても、それはいい続けます。そして私にしたころで、差がつくことは認めているですから、意外に差は小さいとも思います。
自然と差は出てくる そして自然と差が出てくる場をなくすこともできないということになります。そして、すこしややこしいことを加えると、それは市場だからではない。)
自省するという態度を取ることが近代の思想の姿勢のようなところもあります。しかしそれにしてはと、私は思います。結局のところそこから降りていないと思うのです。このことを私は、『不如意の身体』では、ヌスバウムといった人たちが言っていることをひきあいに出して述べています。その人はとても弱者に同情的です。しかし、結局のところ、「達成」を信じてしまっているのです。
ただ以上は正しい根拠はない、ということでしかありません。
とした時により積極的に言えるのかです。一つに神聖であるという考え方★。意外にそうは変わらないことになるのだけれども、そこに世界がある限りはという考え方★。
■別の水準にある(と思うこと)
私の思いを外れたところにあった方がよいという思いもまたある。
そしてそれは私からすれば、他人にとってどうかに左右されないわけだから。
決めないほうがよい。それは決めたいこととと併存する。実際行なっている。その時、だから、決めないことにする。
それまでを待つこと。このように考えてくると、すでに生まれている人のことと、そうでない人と違ってきます。それで私は、…
■落としどころとしての平等
個々に判別したりせずに…。差がつけられることは正しいとは言えない、ことは言えます。そのうえで、やはり、より積極的に言えるのか。
■「種差別」?
「生命の神聖性」というふうには私は思われない。「そこに世界があること」。とするとではなぜ人間をという問いが現れます。感じているのは確かだと思います。 すると、その「ワールド」というものは、人間外にもあるだろうと。とするとなぜ人間だけ特別扱いをするのかという話が「種差別」。なかなかもっともに思えます。しかしという話を『唯の生』第1章
そしてその「あわい」、「境」はほぼ原理的な水準でわかりがたいから。……しよう。その意味では私も「質」を言っているのです。異論があるかもしれませんが、私はこの立場をとります。
人間が偉いからという理屈になっているのか、なぜか……ということにしたうえで、……なのか……
■確率について
確率について。いろいろなことは言われたが。具体的に一意の正解は論理的にない。しかし基本的な方向は言える。よくないということははっきりと言える。とすると、確率
自分がなんであるかを語る。その範疇に繰り入れられるということは、それに伴う保護を得られるとともに、束縛や隔離でもある。だからあえて拒絶することもまた合理的なふるまいということになります。
とすると、得られるものは別途得られることになるなら、その札を貼られることを受け入れる必要はないということになります。
■危機について
次に一つ、しなければ困るかといえば、そうでもないとわかること。実際に危機なのであれば、それはそれとして… しかし
しかしなお→なぜ? これに国際競争がからむ)
■■第6章
■残酷さについて
それにしてもいったい 言葉が途切れるようなできごとについて何を語れるものなのか。そういうものがいくつか書かれてきたわけですけれども。
より残酷な事態の回避という理屈〜それを完全には否定できない→
分業の利得〜摩耗
■狂信?
尋常でないとはたしかに思う。しかし、連続もしている。まず、毎日尋常でないことが起こっていることの認識。そしてそれは、同じところまで引き下げることを意味しない。
■■第7章 補足・今般のこと
■生権力
という言葉が流行しました。今も続いています。しかしなぜそこまでと思ったものです。一つ、わかりやすすぎる権力像に対してそういうものばかりではないと言うことの意味はあったでしょう。しかしそれは…。
もう一つ、近代の権力が死なないようにさせる権力であるという理解があります。しかし、もちろんそれはすくなくとも一面的であって、殺してきた。むろんそのことがわかったうえでのことではあったのですが、
そんなに変わったことを言っていない。かけられているものは生産・安全である。ただ、どこまでそれが本気であるかはわからない。というか、もっともな事情があって、結果として別のものを生み出す。『監獄の誕生』の終わりの方で書いてあることはそういうことであろうと思います。それには理由もあります。厄介なものをくくりだして、閉じ込める。だからあまり見ない、見ないようにするということにもなります。
■社会防衛
「社会防衛」は必要ですよ、それは。守られたいのは人々であり、その人々は私たちであるからです。それがいつのころからか、悪い言葉とされたのです。そして、今になって、どこがわるかったんだろうと思う。そんなことも思わないかもしれません。どう考えたらよいのか。
にもかかわらず問題だとすると何が問題なのかということです。それをきちんと言う必要があります。だからこそ多少の繊細さが必要になってくるわけです。一番短く言えば防衛の仕方がよくないことがあるということになります。困る人と困らない人とがいたということです。
■体制のこと
「左翼」であったのは事実。そう簡単にあてはまらないのは事実です。例えばミュルダールという人がいました。日本では太田典礼という人。
生産力を高めようという そういうものを目的とする。社会・国家の目的としてということになりますから。十分になるまで、待とう、我慢しようということになると、引き伸ばされてしまう。あるいは準備や競争のために動員されることになります。
実際存在してきた「社会主義」の国家においては、政党も「労働党」であったりします。
保守主義は否定されない。保守されるものがあるのだから。しかし進歩も
■「トリアージ」について
救急救命の現場で。「きわ」の部分では難しいことがあることは認めましょう。しかし、
大きくは二つあります。順番をつけざるをえないとして、それをどのようにつけるかです。議論自体は長々となされていていろいろなことが言われています。それはここでは追いかけません。
「女こども」を救おうという話がある。こんな(まれな)時に男たちが犠牲になろう、そのことによって自らの優位を保とうという行ないであるようにも思えます。しかし、たまにはほんとにそいうことがある。ということであるとも解することもできます。
長く生きた人とそうでない人がいるなら、これから生きるだろう人を優先するということはあると思っています。
……そういうことをするのと、……のと、どちらが早いかです。
重さから逃れたいのです。これはまったくもっとなことだと私も思います。
時間がたたないとわからない。
いくつかの原則というか条件というか、そういうものがあるのだろうと思います。
死なせないようにする。そのためのことは必要です。とすると何が問題なのか。
精度が足りない。奇妙な話です。……に、これまで……を足したような話になっています。そういうものに雷同してしまう報道機関というのもはどんなものであるのか。
緊急事態の場合ありうる。基準としての平等→『自由の平等 第2版』
たぶんこういう場合には、究極のハードケースみたいなものを考えるという方向にわざと行かないという態度が大切だろうと思うのです。
そしてそれと個別の対応が大切であることとは両立します。
■■終わりに
■■草稿に加えて使うかもしれない部分(多くは録音記録から)
★ もともとの意味でいえばeugenics(ユージェニクス)ていうのは「よい種」っていうような意味です。「ユー」というのはutopia(ユートピア)とかeuthanasia(ユーサネイジア・良い死〜安楽死)とかの「ユー」で、「ジェニクス」というのは種、遺伝子…。遺伝子のことを「gene(ジーン)」っていうじゃないですか、あるいはgenrtic(ジェネティック)とかって系列の言葉です。generate(発生させる)とかgeneration(世代)とかも同じ系列ですね。
だから「よい種を残しましょう」っていう話なんですよ。進化論を始めたことになっているダーウィンの甥でゴールトンという人がいて、その人が言い出しました。19世紀の後半からだから、150年ぐらいある話です。いい種を残し悪い種を減らしていこうと、そのためにいろんなことをやりましょうと。そしていくらかのことは実際にやったわけです。
一つは断種であって、そうすれば、悪い種っていうか、遺伝が伝わらないだろうということです。ただ実際には、遺伝ということと関係なく断種政策は行われました。また「断種」というと、なんとなく男性というイメージがあるかもですが、女性にも行なわれました。
他方ではいいのを増やしましょうっていうんで、これはなかなか言うは易しくですけれども、ただこれからのこと考えたときにやってやれなくはないというか、そういうものでも。そういう意味で、狭い意味では生殖の部分に技術的に、そしてあるいはというか政策的に関与して人間の性能を向上させると、そういう思想であり実践であり政策であり、そういうもんですよ。日本の場合、それがもとにはありますけれども、生殖に関わる技術だけじゃなくて、もう少し広い意味で使ってきた人たちっていうのがいるっていう、そんな感じですかね。説明的に説明すると。(立岩→宮城)▲
そしてもう一つ大切なのは、優生思想っていうとドイツ・ナチスってことになり、それはそれで間違いってわけではないんですが、ナチスドイツと戦争した米国においても、世界中で、これはずいぶん流行ったものだということです。
「優生・米国」→http://www.arsvi.com/d/eg-usa.htm
講談社現代新書の
『優生学と人間社会――生命科学の世紀はどこへ向かうのか』
(
米本 昌平
・
松原 洋子
・
ぬで島 次郎
・
市野川 容孝
[2000])が今でもよい本だと思います。それは[…]
★ 『ゴッドファーザー』というコッポラの立派な映画がありますが、そのパート2で、のちに……になる……シチリア島から船に乗ってやってくるのは、エリス島です。少年の場合はとめおかれるわけですが、…………
移民・難民について世界で最も厳しいこの国が言うことではないですが、米国は、移民を強く正殿しようとした国でもあります。東からやってくる人たち。
西たら太平洋を越えてやってくる中国・挑戦半島・日本……。「苦力(クーリー)」
アメリカとドイツは戦争をしますが、むしろ、まねしたところがあります。
★ ほぼ気づかれてないのだろうと思いますが、
『私的所有論』
の第6章「個体への政治――複綜する諸戦略」第3節「性能への介入」31環境・遺伝への注目と介入/32アメリカ合衆国とドイツにおける優生学/33優生学の「消失」
第7章「代わりの道と行き止まり」第1節「別の因果」11社会性の主張/12真性の能力主義にどう対するのか/13間違っていない生得説に対する無効/14因果を辿ることの限界
第9章 正しい優生学とつきあう
『私的所有論』より「何が問題とされたのかを確認しておく。第一に、事実としたものが事実でなかったこと、誤りであったこと、悪意に満ちた誤りであったことである。人種・民族というそれ自体疑わしいものを実体化し、優劣を設定し、抹殺した。もちろんアーリア人の血を主張し、ユダヤ人を劣等な人種とする根拠はどこにもない。第二に、強制として、国家によってなされたこと、時には秘密裏に行なわれたことである。さらに殺人という究極的な暴力によってなされたことである。秘密主義、暴力、恣意性、等々が批判される。また戦争遂行という特殊状況の中でなされたことが問題にされ、反戦・非戦思想のもとで批判されることにもなる――日本でも、優生政策は「産めよ育てよ」といった軍国主義政策との結びつきにおいて批判された。
これらの批判は全て、当然の批判であったし、当然なされるべき批判だった。ただ、優生学を誤りと暴力とをもって批判することによって、あるいは優生学のそういう部分を批判することによって、誤りでも暴力でもない部分をどう考えるかは曖昧にされた。結びつきうることが全て否定されたのだと考えることもできるが、同時に問われずに保存されたのだとも言える。一方で、何かしてしまえば、最初は限定された範囲に限ったとしても、次第にその範囲が拡大し、やがて最悪の事態を招くだろう、だからそうなら▼405 ないように手を打っておかなければならないという「くさび論」がある。この種の議論は「滑りやすい坂」(slippery slope)論とも言われる。どのような根拠でどこまでを許容し、どこからを許容しないかを言わない場合には、確かに滑っていく可能性はある。だが同時に、どこまでも滑っていくかもしれないからすべてを認めないと主張することも、どこまでが(もしそれ以上に滑っていかなければ)問題はないのか、問題の本体はどこにあるのかを問わないですませてしまうことになる可能性があるということでもある◆45。他方で、技術を肯定し推進しようとするあらゆる言説が、今行っていること、行おうとしていることがナチズムではない、否定されるべきものとしての優生学ではないと主張するだろう◆46。双方に同じ限界がある。境界をはっきりさせないまま全体を否定するか、私達はナチスのように――やはりどこまでひどいことなのか、それはなぜなのかを言わないまま――ひどいことはやっていないと言う。
そして批判の形として、強制に自由が対置され、国家に個人が対置される。優生学に対置されるものとして、技術に対する時の原理として、使われる道具が「自己決定」なのだ。しかし、自己決定は優生学に本当に対置される語なのだろうか。確かに他者による強制に対置されるものとして自己による決定はある。だが、遺伝と出生が問題になる場にはそもそもその自己はいない(まだ生まれていない)。この時、国家による決定と親▼406 の「自己決定」を明確に違うものだと言うことができるだろうか。そしてここには必ず負担、コストという契機が入ってくる。この時――本質的に――どれほど異なるだろうか。同じく悪であるというのではない。むしろ、科学化され脱暴力化された優生学についてどう考えるか、同じように悪であるのかそうでないのかを考えるべきなのである。ナチズムでない、つまり、間違い・偏見でなく(特に人種主義でなく)、殺人をしない優生学がありうる。このように考えるなら、優生学をどう規定するか、何を知るべきかも明らかである。あらかじめ(例えば本節1で行ったように)広い範囲でこの語を捉えておくことであり、もっと日常的な部分でなされることを見ることである。しかし戦後はこのような問いに向かわなかった。国家(だけ)を主体として想定し、その暴力を問題にした。そして遺伝説の否定◆47という対応をとったのである(このことは第7章1節で述べる)。「内なる優生思想」という主張が現われるのは一九七〇年代に入ってからになる。第9章で考察する。」
★ 例えば、3.11の、その後みたいなので、生き残った人たちがどんなに頑張って生きてるかみたいなテレビ番組があったりします。それはそれでいいと思うんです。そういう画像、私は基本好きなので、見て涙したりするわけです。いいんですよ。いいんですけど、それはそれとして価値のあることだと思うけれども、それが残すってことなのかってのはよくわからない。
例えば障害者の関係の事件でいうと、その事件の後生き延びた人が、なかには非常にわずかですけどやまゆり園出た人がいて、その後どこどこで暮らして今楽しく暮らしてますみたいな、そういう人のアフターっていうかビフォーアフターを取材したり書くってことに意味あると思うんだけれども、殺されるということにアンチを言わなきゃいけないっていったときに、障害者たちの何か肯定的な面みたいなことをプラスするみたいなことによって何かそれを残すみたいな、残すとか意味を言うみたいなことっていうのは、時々危ういことがあるような気がして、わかるけどそういう手はあんまり使いすぎるとちょっといやかなって。例えば一方にこんな明るく暮らしてる人がいるとか、一生懸命子のこと思ってる親がいるとか、そういう話が直後にもされましたし今でもされますけど、でもあの被告にとってみれば、「いや、そんなやつも稀にいるかもしれないけど、そうじゃないやついっぱいいるでしょ、終わり」みたいな。
そういう言い方で返すに決まってるし。それがたんにその被告が言ってる偏った現実かっていったら、偏ってるかもしれないけど、あるっちゃある。しんどい家族も山ほどいれば、そんなに明るくも元気でもない障害者もいる。騒がしいやつも迷惑かけるやつもいる。それ実態は事実じゃないですか。だからそういう意味でいうと、何か事件の悲惨さを言うために何か肯定的なものを持ってくるっていうのは、いくつかの意味で、例えば一つは「いや、それは現実のごく一部であって」っていう形でひっくり返される。一方では当事者たちにしても、「なんか明るくふるまったほうがいいんだろうな」とか「元気なところ見せたほうがいいんだろうな」とか、そういうふうにしてむしろ自分を縛るっていうか、そういう側面もあると思う、という意味も含めて。もっと現実的に考えてみれば、世話される人は明るくなきゃいけないのかとか、世話されるかわりに明るくして、世の中を明るくしなきゃいけないのかとか、ていったら基本的には「ノー」って言うべきだし、明るかろうが暗かろうが死ぬまで生きてりゃいいって言うべきだと思うので。その時にやっぱ報道の仕方とか、残し方っていうときのやり方を、あまり揚げ足取られたり、本人たちを苦しめるっていうか縛ったりするものになんないほうがいいなっていうのはよく思います。
価値がないっていうことに対して、価値があるって言うでしょ。その価値というのは、同じ平面というか。
〔青い芝〕大事だと思いますよね。あの人たちに限ってもいないと思いますけど。ずいぶん前の話に戻るわけですけど、60年代に障害者福祉なるものを引っぱった人っていうのは、どっちかというとそういう「この子たちも輝いてるんだ」的なそういうのりですよ。だからみんなかわいがろうみたいな、極端なこと言うとね、極端に簡単にするとね。そういう言論というのはいっぱいあって。それは明らかに効果もあったわけですよ。そうやって親が涙し、国会に行き、ある意味政治状況って今よりよかったかもしれなくて、保守政党の実力者みたいなのが、ほだされて一緒に泣いてやって、予算つけてみたいな、そういうふうにして。60年代ってそうやって動いてきた部分現実にありますから、取るもんは取ったんですよ。取ったぶんもあるわけですよ。それに対する反動みたいなもの、そうやって俺の親たち頑張ってきたけどさ、でも基本やだよね、みたいなね、お涙ちょうだいはみたいなね。それが70年でもあって、それは僕は大切なことだったと思います。
要するに、愛されてないと、愛にすがっているということは愛してくれる人たちがいろんなことを決めていくっていうことに乗っているみたいな。
本人たちもいろんな、それに対してこういうことだとかいろいろ言ってますけど、解釈はいろいろできますよね。いろんな意義があって一つじゃないと思いますけれども。でもそうですよね、悪いって言われた時に、代わりにいいものって言わなきゃいけないっていうのは罠だっていう、そういう感覚ですよね。感覚というか、そういう主張だって捉えるっていうのは一つの有効なというか、実際そういうこと言ったわけだから、連中は。
宮城:そんなものは関係なく、「殺すな」とか「暮らしていけるようにしろ」とか「せよ」とか。
とくに脳性まひの人たちって、探してもいいとこねえなっていう、そういうリアルが自分にあったと思うんですよ。仕事しろって言われたって手足動かないし、言語障害きついから働けつったって無理だし。中途障害でこっから上は健常者とおんなじって人じゃなくて、明らかに姿形が違ってるし、みたいな。そこで自分たちがいいって、そういう自分に嘘をついてもつまんないじゃんみたいな。そういうのりはあったと思いますね。
生産力のない人はあってはならないっていうことに対する反論はたぶん二つぐらいしかなくて、一つは、僕には実は生産性があります、生産力があります、あるいは今はなくてもあるようになりますっていうそういう類の話。それは同じ平面で、ないって言われたことに対してあるっていう反論をするわけです。それが一通りです。
けど、それに乗るとほんとにないやつは困るっていう話があって、あるとかないとか別に関係ないと、知ったことではないという筋があって、それは基本そっちが正しいっていうか、そう言わないと罠にかかると私は思いますけれども。
ただやっぱり、ちょっとわかりにくいとこありますよね。なんかいいもの持ってる人がいいっていうのは、わりと素朴にあるじゃないですか、僕らにね。だから「いいとか悪いとか関係ねえ」っていう突き放し方っていうか開き直り方っていうのは、ちょっとわかりにくいかもしんないけど、でもそんなに突拍子もない話でも全然なくて、「お前の好き嫌いで俺たちのこと決めるな」とかさ、そういうことですよね、言ってみれば。だからそんなに突拍子もないことでは全然ないんだけれども。
でも基本はそんなに実はわかりにくくもない、突拍子もない路線をベースにしながら、でも逆に無駄にっていうか無理にいいとこがないって言い張ることもないわけで、実際ある種の障害があるってことに関する美しさみたいなもの僕はあると思っていて、思うんですよ。だからそれはあるって言ったって、それはあるって言っちゃいけないわけでもないわけですよ。
基本はだから「ある、なしと関係ない」というベースを押さえられてればいいわけで、そのうえで、「やっぱりあの人なんか頭おかしいからああいうかっこいいものができるんだよね」とかね、そういうこともあるわけですよ。草間彌生とかね、差別語いえば気ちがいですよ。だからああいう変なカボチャの、ああいうのができてるわけですよ。あれはもう精神障害のなせる技だと思いますけれども、いやそうだと。でもかっこいいって、例えばね。
別にアート的なものに限りませんけれども、あると思うんですよ。そういう面白さっていうのはあって。さっき言った、やまゆり園から今度出て街で暮らすっていう人が元なんだっけ、父母会長の尾野さんかな、『道草』の最後に出てくる人いるじゃないですか。あれはそういうふうにも見ることはできるけれども、なんだろうやっぱり、こいつ、毎日こういうのがいたら迷惑だろうなと思いつつ、でもこの人面白いとか、なんかちょっとかっこいいとか、そういうとこあるじゃないですか。それは全然、いいとか、かっこいいとかありうるし、あるって言っちゃっていいと思うんですよね。「あるから救え」って言わなれなければいいんですよ。
★ 記事より:「事件では、優生思想が話題になりました。誰にでもある、逃れがたい「内なる優生思想」とも。誰にでも、「内なる」がある。それはその通りです。
優生思想は「他人にとっての損得・価値によって、時に人を生まれないようにし、時に死んでもらおうという考え」です。楽で都合がよいから、私たちには支持してしまう部分がある。その自覚は必要ですが、「根絶は無理」だからと、思考停止するのは最悪です。
根絶なんかできないと私は思います。「内なる○○」ってものがなくなるってことはないと言ったって、全然かまわないと思うんですよ。かまわないっていうか、それはそれであるだろうと。あるだろうと諦めるというか割り切るというか、根絶できなきゃいけないわけじゃなくて、そういうふうに私たちが思ってしまうっていうことを否定しようとすると、だんだん人間苦しくなるわけじゃないですか。罪から逃れられない、的な話になっちゃうわけじゃないですか。原罪になっちゃうんですよ。→ニーチェ
だから、そういう追い詰め方をするんじゃなくて、そういう思いっていうのは、もしかしたら「業」みたいなものでね、否定しきれないというか、否定しようと思ってもどっか残るっていうのはあるかもしんないと。むしろ、否定しようって頑張るよりは、「そういうことは良し悪しは別としてあるよね、だけど」って言ったほうがたぶんいいんですよ。「内なる○○っていうのはあるけれども、それはちょっとしまっとけ」みたいなね。場合によっては言うことだって許してあげてもいいと、でもそのぐらいにしとけと。それをそれ以上、言論、長谷川豊とかね、ああいう公の言論の場に持ち出すとか、あるいは今度の被告のように実際にその暴力沙汰に及ぶとか、それはさせないと。そういう覚悟というか、だと思うんで。こういう事件のことずっと問題にしなきゃいけない人って、僕の感じじゃちょっと優しすぎるんですよ。「反省しなきゃね」みたいな、僕も差別者だ、「僕たちだって罪を負ってるのよね」みたいな。
そうなんです、実際差別者なんですけど。そういうことでかえってぐるぐるしちゃうというか。わかりますが、僕はあんまりいやだな。そういうんじゃない方角で考えたり思ったほうがいいように思います。そういうふうに「内なる優生思想」っていうのが使われる、話を続けさせるとともに終わらせるっていうか、「解決できませんよね、この問題は、終わり」みたいな、そういうふうになっちゃうっていうのはいやです。いろいろやりようはあるわけですよ。
そういう性根というか性癖…、気持ちを根絶する、消滅させる、そういうんじゃなくて、それはあるかもしれない、残るかもしれないけど、でも、だからってこの社会のなかで、今日明日、できることはいっぱいある。あなたがどんなに性悪であろうと善人であろうとやるべきことはいっぱいあるし、それは明らかに人を傷つけるってなったり殺したくなったりする、その度合いを減らすわけですよ、明らかにね。
たとえば、毎日うるさいやつは腹立ちますし、頭にきますよ。だけど、それが自分だけがそういうやつに付き合わなくちゃいけないとか、自分しか付き合うやつがいないとかってなったら殺したくもなりますけれども、さぼれるというか、隙間が大きくなっていくってそういう加減。それは彼に対する憎しみの成分を根絶するとかじゃなくて、それはなくならないかもしれないけど、ひょっとすると悪いことじゃないことかもしれない。
やっぱり人に迷惑かけられるといやですよ、とりあえずはね。ですから人のためになんか働くっていうのもいいことかもしれないけど、いやなことでもありますよね。だからいやだなと、なんかめんどくせえなとか。それを「そういうふうに思う心をなくしましょう」みたいな道徳主義的なこと言ったってしょうがなくて。そういうのはあるかもしれないけど、それが強くなりすぎないこととか、現実の行動とかにあまり及ばないようにするとか、そういうこのしょうもないというか、具体的な手立て、手段っていうのはいっぱいあるわけで、それをやってけばいいと思うんですよね。そういうふうに記憶じゃないかもしんないけど、そういうふうに話を継いでいくっていうのかな。こないだ見た『道草』っていうのもいい映画だなと思うのは、そういうところあるわけで。こいつらなんかめんどくさいなと思いつつ、でもこいつらとこういう距離感、これだけ自分じゃない人たちっていうのが関わってくれたりすれば、なんとか殺したくなるほどには憎まず付き合い続けられるだろうみたいな、そういう感じをけっこうあれはリアルに、言葉とかいうレベルじゃなくて、姿、姿というか像として示していると思うので、いいと思うんですよね。
優生思想は人を支える負担の重さの下で栄えます。負担そのものはなくせないけれど、1人にかかる重さは減らせます。優生主義を根絶できなくても、その勢力を弱くすることはできます。」
★ みんなが、誰もがという話:「みんながなる」のはほぼまちがいありません。おおむね誰でもそうなるっていうのもまったくその通りなんですよ。ほぼ、ほぼそうですよ。とくに老いを考えるなら、障害という問題は全員が巻き込まれていく、既に多くが巻き込まれている問題です。関心がないとか言いたくても言えないことです。
しかしそれを根拠にする必要は「ない」ということです。なろうが…。そう重くはなない人はいる。それがわからないから、みんなが……なのだが(『弱くある自由へ』)。
遠回りでもあるし、隙ができちゃうっていうか、揚げ足取れるっていうか、隙間ができるっていうか、苦しくなるっていうか。
「少なくとも」って、どうせやつは言うに決まってるわけですよ。90生きて、85から5年間だけ認知症になるっていうのと、生まれてこのかたずーっとっていうの、それは違うんだと。違いがないかって言われたら、あるはあるじゃないですか。だから誰でもばなしっていうのは非常にその通りで、あと有効でもあるけれども、やっぱりそこにも隙間っていうか、ああ言えばこう言われるに決まってる的なね、ロジックがあって。やっぱり、でもそういうふうに言っちゃいますよね。みんなに受けたいと思うからね。
だから「みんな」っていうのはそういうことでしょ、みんな障害者になる、その「みんな」でしょ。
だから大変よくわかりますけど、僕らはどっちかといえばそういう「みんなが思わず言っちゃうよね」っていう話に、それだけ言ってもだめだよねっていうか。そういう歯止めっていうかな、一番後ろのほうでちょっとこう守ってるっていうか、みんなそれで、その手をかなり聞くけど、でもそれはほんとは絶対言わなきゃいけないってわけじゃないんだよね、いうことを言う。だから、そうすると基本的に「何言ってるの?」って話になるのね、とりあえずね。あまりとりあえず受けないですけど、でもそういうことは一方では言っとかないとやっぱり、それは簡単です、みんなはっていう話でも、いいとこがあるって話でも、両方とも簡単に揚げ足取られちゃうんですよ。で、それはある程度正しいんだよね、揚げ足取るほうは。だからどっかでそれが本筋じゃないみたいなね、ところはキープしておかないとああいうばかがのさばるだけだって思ってるんです。
★ 私は、関心がないと言いたがる人たちに、関心をもて理解せよとは言わない。しかし、関心を持とうが持つまいが、してはならないことがあることは認めさせる。人が暮らしたいところに、暮らしやすいように暮らすことを止めることは誰にもできないのです。そして、してはならないことの中には言葉で人を攻撃することも含まれます。言葉による加害は、時に他の形の加害より大きい。そうした害を垂れ流す人たちに、「お前たちはそんなことを言えないのだ」と、毅然とする。同時に、私たちの多くが抱いてまっている不安・危機感について冷静になり、考え、落ち着く。両方が大切だと考えます。
★ 否定〜肯定の根拠? ちょっと学問チックになるとね、SOL、生命の神聖さっていうのがあって、生命のそれ自体が神聖、sanctityであると、だから奪っちゃいけないって、カトリックぽい話だね。で、それに対してああだこうだ言うっていうのが、ここ70年、戦後の倫理学の習わしなんです。私は、信心のない人間なんで、生命それ自体に神聖さがって言われると、ちょっとよくわからないという感じはする。
だけど、ぬくいほうがいいとさ、寒いのいやだとか、その一人一人の生きていくときのよさっていうか、それはあるから。そうであるかぎりは、あるいはそういうことが例えばね、脳死の人にはないからさ、そういう話もあります。ないかもしれないけど、ないかあるかわかんない、ほぼ。ほぼわかんないですよね。そしたら、そういうあるかないかよくわかんない人を含めてあるってことにして、社会をやってったほうがいいだろうと、いうことで。
だから生命それ自体とかね、精子とか卵子とかなんとかね、そういうふうに私は思わないです。やっぱり世界に生きてることの一人一人のよさっていうか、一人一人にとってのよさっていうか、そういうものを人は奪っちゃいけないと、他人は奪っちゃいけないと、そういうことはだめですけれども。そのあとずっと、僕はそんなに突拍子でもないことではないというかね、言ってきてるっていう感じかな。
★ 「誰々は私を幸せにしてくれました」、「誰々は周りを笑顔にしてました」と言う必要がないんだよっていったときに、じゃあ代わりに出てくるものって何ですか、ということになります。
でも、代わりを出す必要ないのかもしれないんです。代わりを出さなくてもいいっていうことをわかるっていうことのほうが大切なんですよ。
探して、ないですねってそこでストップしたりとか悲観的になるより、そんなものは、そんなポジティブなもの出てこなくって別にかまいやしないんだって思ったほうが実際には人間楽ですし、得ですし、悪いことないですよ。そっちのほうがいいと思います、僕はね。ていうか、僕一人が思ってるわけじゃなくて、みんなそうだと思います。
「なんであなたは自分のこと生きててもいいって思えるの?」って聞かれても、けっこう困りますよ、自分自身。
★ 絶対原理は絶対原理なんですよ。「どうでもいいです」っていったらそれはちょっとまずいですよ。「殺すな」っていうのは絶対原理だとなる。だけどその絶対原理っていうものを我々は現実に常に貫けるかっていったら、なかなかそれは難しい状況っていうのは現にあって。そうした時にはこれが正しいとかこうしちゃいけない、いうだけじゃなくて、そういうことをしにくくするっていうこと、根絶は困難あるいは不可能だけれども、減らすことはできる。
こういう話ってよくね、「そういう差別意識を根絶できるんでしょうか」みたいな聞かれ方よくするんですけど、僕はそんなことどうでもいいと思う。
なくならいっちゃなくならないですよ、それはね。だけど、なくなんなくても、根絶…、0にならなくても、社会としては十分打つ手があるんだし、それをやればいいのに、けっこう間違った思考回路というのがあってね、根絶できない、これは無理だと、無理だからもう考えるのやめとこうとか、ほっとこうみたいになっちゃう。だから、そういう諦めのために「いやー、そういう差別意識をなくすべきなんでしょうけど、なくせませんよね」みたいな、そういう話になっちゃうのって、話の順番ていうか、話の考え方の持っていき方っていうのが間違ってるって思いますよ。「差別意識や優生思想をなくせるんでしょうか?」みたいなことをよく問われます。それに対して「なくせない」って答えてもいいんですかね。だけど、「じゃあしょうがないですよね。やっぱり人は殺されますよね」じゃ困るわけで。その間のぐらいのところにいっぱい考えたり、できたり、そういうことがあるんだと思うんですよね。
なんでもあってもよいということにした方が楽だということ。『自由の平等』でそのことを言っています。
★ 安楽死って基本的に、安楽死もいろんな意味で捉えられるから。例えば競馬の馬の安楽死ったら、馬は全然自分で死にたくないですよね。そういう時に注射打ったりするのは安楽死。でも普通人間の場合の安楽死っていう、例えばナチスの安楽死っていうのは、あれも全然死にたくない人を人が勝手に殺したわけですからただの殺人ですけれども、普通の安楽死は、今やってる、今やってるっていうか、安楽死は自分で自分のことを殺すわけですよね、あるいは殺すの手伝ってもらうわけですよね。そういう意味でいえば、「生きててもしょうがない、生きている価値がない」と自分のことを自分が思う、っていう意味でいえば、それは他人である場合もあるし、自分である場合もあるけど、共通する部分もある、当然それはあるんだと。
例えば「あんな人たちみたいな人に自分がなるんだったら私は死んだほうがいい」と思うとするじゃないですか。そしたら「あんな人たち」っていうのは自分だったらもう死んでもいいぐらいの人ってことですよね。でも実際そういうメカニズムというのは働いてるわけで、あんな人って例えば認知症の人だったりするでしょ。「認知症であんなになるんだったら私は死んでもいい」つったら、「私が死んでもいいほどあの人たちはよくない」ということなわけだから、非常に強い【ネガ】(00:32:48)っていうか価値がない感あると思います。価値がないのもさ、けっこう微妙じゃない。「生きていく価値がない」っていうのと、何か指標みたいなのがあって、で「価値がない」っていうのと違うじゃないですか。
★ 例えば、勉強ができるとか、体操ができるとか、そういうことは価値があるかったら、僕はあると思いますよ。そういう意味でいえば、体操ができない人、勉強ができない人は、価値がないって言えるかもしれない。でも、体操できるのがなんでいいかっていうと、自分が気持ちがいいとか、みんなが見て美しいとかかっこいいとか、自分がこれは生きてるってこと前提でそのためにものが作れたり、楽しいこと【やったりとか】(00:33:49)、そこは***(00:33:51)と思ってる。だからそういうことですよね。そういうときに価値があるって言わないと。
それからもう一つは「価値がないと人間は生きていけないのか」って言ったときの価値って、「生きていく価値」と違うわけですよ。ただ生きていくっていうこと以外になんか立派なこと、いいこと、美しいことができるっていう、できてることっていうのが***(00:34:25)いいってことになるわけだけれども、なんでそう言わなきゃいけないのかっていったときに、別になんかポジティブな属性とか業績とかそういうものがあるとかないとかっていうレベルで議論始めちゃうと危ないねっていう、そういうやつはいるっちゃいるだろうと。
★ だから、人に価値があるとかないとか別に言わなくたっていいわけで、それは「生きてる間は生きててもらいましょう、終わり」っていう言葉に尽きるというか。そういうときに、生きていくために必要なものを生産できる人、生きていくときに楽しいものを提供できる人は偉い、褒めてあげましょ、それだけでいい。それ以上、以外は何もいらないっていうか、普通に考えたらいいと思いますね。だから今回のも、生きる価値がないとか言われると、誰だってむっとくると思いますけど、我が子に「生きる価値がない」みたいなこと、やつが言うわけじゃないですか。その時に、「いや、うちの子は私をこんなに楽しませてくれて」とかさ、そういう話いっぱい親の会の人とかして、それは大変よくわかるんですよ。実際そうだと思うんです。知的障害の人ってほんとにもっと他の人より楽しませてくれるっていうか、そういうとこは確かにあるからね、人によりますけど。ありますけど、でも、それはほんとに必要ないですね、一番ベースの部分ではね。「こんなにうちの子は楽しませてくれる」とか「かわいい」とか「いいことができる」とか、別にいいことがあろうとなかろうと、っていうのは一番ベースの部分ではそれ言わないと、なんかいいこと言わないといけませんと、いいことできない、結局いいことできないとだめだみたいになっちゃうから、その話に乗るとあんまり楽しいことにはならないのでっていうのはけっこう思ってます。
ここまでで言ったことは、……を止めるのは何か?、……を進めるのは何か? という2つのうちの「止めるのは何か」と考えるときに思いつく2つなんですが、ちょっと力不足というか……、ではどう考えるか。そういうことについてはたくさん書いてきたのでよいのかなと思っているんですが、
★ 転倒させないこと。ための手段であること。
間違いは二通りあります。何かができる、働ける、生産できるっていうことはいいことですよ。でもそれは人が生きていくために、例えば「飯が食えるためには米は作らなければならない」とかそういうことでしょ。だから生きていくために生産しなきゃいけなくて、生きていくために生産することはいいことだっていうそれだけの話ですよ。
だけど、「生産しなければ人は生きていけないのか、それが正しいっていう理屈があったら言ってごらん」ていうことなんですよ。「それはない」っていう話をもう30年ぐらいしてるんですけどね、僕は。それが一つですよ。だからできるってことはいいことだろうけれども、できないからっていって、そいつが生きてる価値がないとか、殺してしまえとかいう理屈はない。それが一点。
もう一つは、そういう理屈は別として、そういうのがいっぱいいると世の中大変になるので、とか言って、殺したほうがいいねっていうか。殺したほうがいいっていうのはあまりないと思いますけど、少ないほうがいいよねとかね、そういう社会の行く末というか資源というかそういうことを心配して大変っていう、そういう認識、これ事実認識ですよね。もちろん予想もあるので、未来の予想の部分もあるけれども、未来についての実質、可能性についての実質ですけど、それは、ここは分かれると思うんですよ。大変だっていう人は言うけれども、僕は全然大変だと思っていませんっていうことを言い張っていて、あまり本気にしてもらえないので、ちゃんとそれを言おうと思ってて。
★ 人に対して何か貢献するっていうそういうよさ以外に、言葉が喋れようが、喋れまいが、それぞれの人にとってのよさっていうのはどんな、ほとんどどんな場合でもあるわけで、そうした一人一人にとってのよさっていうか、ていうものを他人が勝手に減らすのはいけないし、ましてやなくすっていうのはだめだよっていう。
だから「一人一人の人を殺すな」っていうことの理由というのを、言わなくたっていいようなもんだけども、でも一人一人、それぞれに何かその世界で生きていくっていうことのなかから抜けてる、取ってるっていうよさみたいなものは必ずあって、それを減らしたりなくしたりしちゃそれはだめでしょっていう、あえてというか、言えばそういうことになるだろうと思うんですよね。
それを価値というなら、それでいいわけで、そういう価値を、その人が生きていくことのよさっていう価値をお前は勝手になくしてるんだと、お前だめじゃん、全然だめじゃん。と言うことになります。
★ わかりやすい問いですよ。他人にとって必要ないろいろができるってことはもちろん価値ですよ。価値ですけど、それのほとんどは手段的な価値であって、人口の何十パーセントの人ができなければ誰か残りの人たちでたいがいのことはできるし、実際できてきたし、これからもできるんだと思うんです。ただそれはできたほうがいいけど、できなくても別にそんなには困らない。あとは生きていくために何ができる・できないっていうんではなくて、そういう人ができたことによる生きていくための手段をいろいろ使いながら、テレビ見たり、音楽聞いたり、飯食ったり、寝そべったり、そういうことも価値っていえば価値でしょ。それはあるかもしれない。それはやっぱり一人殺した、その人にとってのよさはその人にしかないじゃないですか、どう考えても。だからその人を殺しちゃったらその人のものっていうのは、きれいさっぱり何もなくなっちゃいますよね。それはだめでしょ、てことだと思いますよね。
★ めんどう〜増殖しやすい場所
そういうことが起こりやすい環境や状況、比較的起こりやすいところとそうでもないところっていうのは確かに差はあって。社会全体に、均一に、強度っていうか濃度っていうかな、あるわけじゃなくて。施設って、一つには、手間かかる人がたくさんいるんで、正直うんざりすると思うんですよね、働いてて。こんないっぱいいるのかよ、みたいな。
そういうのの、ある種の徒労感というか疲労感というかあるでしょうし、それから、相手さんはとくにこの施設の場合だと喋り返してこない、反抗するっていうタイプの人たちがいるっていうところでもないじゃないですか。そうすると同業者、同業者っていうか自分の一緒に働いている人と上司だけってことになるじゃないですか。そういう時に、今回、いろいろ上の人も同僚もいろいろ言ったようだけれども、それ以外のところっていうの基本的に施設閉ざされていますから。
そういうなかで、似たような人たちがいっぱいいて、毎日、仕事は疲れるっていうか疲れさせられる。そうしたなかで、疲れであるとか敵意であるとか、そういうものが他のしゃばに比べてたまりやすいというか増殖しやすいというか、そういうことはありますから。完全に続いてると同時に、それは例えば施設じゃなくてもね、家族っていうなかで母親しかこの子を面倒見る人がいないということになると、やっぱりだんだんたまっていってっていうか、「このやろう」みたいなな感じ、それは親であろうと子であろうと配偶者であろうと、そういうことあるんですよね。だからそういう敵意とか、そういうものを根絶しなきゃいけないとか、そりゃいけないとは思ってるんですけど、まあ無理だ、そういうのはね。現実的には無理で。せいぜいできることっていうのは、それはやっぱり「そういうふうに思ってもらっちゃいけないってことになってるんだぜ」ていうことと、それからそう思う度合っていうか、疲労したり、憎しみっていうか、そういうものがなくなりはしないでしょうけど、減らすことはできるでしょう。それはそんなに難しいことじゃないので、もっと普通にやればいいのにねっていう、そういうことですよね。
★ 「そうよね」っていうことを言うために、すごい遠回りしてるんですね。そんなにややこしい話じゃないですよ。
そこでなぜか入ってきちゃうんですね。そこで、例えば「幸せにするからいなきゃいけない」とか、「これだけで生きてるからいなきゃいけない」とか、「みんないつなんかわかんないんだからいなきゃいけない」っていうのを、けっこうじゃない、普通に遠回りをしてる、
★ 人のために何かをするっていうことはいいことだ。これは否定する必要ないと思います。だけど、その命題というか、その文と、「それができない人は死ねばいい」っていう話って、ロジカルにまったくつながってないんですよ。全然、間違いなくおかしい。間違いなくつながってないんです。だけどそういう間違ったつながりみたいなものがこの世にないかっていうと、あるっちゃある。だからそこは間違ってるんだってことは言うべきだということですかね。
★ 努力はしたほうがいいと思います。これもいくつかの答え方があって、例えばね、人間の社会をやっていくために、どれくらいの努力が必要なのかっていう問い方が必要なんだよね。それは一人一人がやらなくていいって話じゃなくて、やったほうがいいし、やんなきゃいけないんだろうけど、でもどこらへんまでがんばんなきゃいけないのかっていう視点をどこかでいつも持つことが必要なわけさ。…た時に一方ではそんなにやんなくても大丈夫だよ、かもしれないとか、そういう可能性をきちんと考えてくっていうことは絶対必要なんだよね。そうすると余計に頑張りすぎずに済むわけじゃない。
ていうようなことを考えるとか、あと頑張るってことが何のために頑張るのかっていうところの問いをいつもちゃんと置いとくっていうことだよね。これは別の本でも書いていることだけれども、大概の場合何かをできるようになるとか、努力してできるようなるってことはなんか目的があって、目的のための手段としてそれができるようになることが必要だっていうことなわけじゃない? そうすればその目的っていうのは、達成するための手段っていうのは複数あったり、自分だけじゃなくて誰か別の人ができればいいのかもしれないし、自分ができなくても誰かのちょうどいい数の人たちができればいいのかもしれないっていうふうに考えればいいいんですよ。
だけれども、他方でそういう何かの手段としてできる、努力するっていうことじゃなくて、努力するっていうこと自体が人間の価値であるとか、そういうふうになることがあるわけでしょ。リハビリテーションにしてもしばしばそういう話になっていくわけさ。そういう時に「あれ? 俺なんのためにこれ今頑張ってんだろう?」みたいなことを考えないと、やっぱり無駄な努力するとか、無駄だったらまだいいわけだよ、プラマイゼロなんだからさ。そうじゃなくて痛いんだもん。やっぱり痛いのは困るんですよ。っていうのが熊谷さんの本に書いてあることなわけで、やっぱりそういうふうに、そういう意味で言えば赤い本に書いてあることはすごい単純なことでプラマイちゃんと見とこうよっていう話なんだよね。っていうようなことを思ってます。
★ 考えるっていうか、考えたってしょうがないじゃないですか。「いないほうがいいや」って思いますよ、そりゃあ。夜中に起こされたりさ、訳のわかんないこと言われたりさ、そりゃあ殺意ぐらい芽生えますよ。それをなくさなきゃいけないっていうと、なおしんどいじゃないですか、なんかね。それを自分がいい人になって、気持ちがちゃんとした人になろうっていうよりは、その度合い、その憎しみを減らすとか、転化できるとか、自分がやんなくていいつったら楽になるでしょう。そういう簡単なことですよ。家族であれば家族外ってことになるだろうし、施設のなかでもほんとであればね、何百、何百はいかない施設は、たくさんいてね、そういう人だけに毎日接してて、それで生きがいを感じる人もいるでしょうけど、なかにはもううんざりっていうか、このやろうっていうか、そういうふうに思う人がいたってそれはそんなに不思議じゃないですよね。実際別にこれは日本に限ったことではなくて、看護師であるとかそういう人が人知れずというか、虐待したり殺したりっていうことは世界中にあってきたことなんです。
★ 「いないほうがいい」っていうところと「殺す」っていうのの距離って実はそんなに離れてないんじゃないかって、ちょっと。
めちゃくちゃ離れてるとも言えるよね。「殺したほうがいい」っていうのと、実際に殺すのと間の距離ってやっぱりあるから、それはすごい距離だと言えるけれども、でも「いなくていい」っていうのは「生きてなくていい」ってことですから、そういう意味でいえば、その距離はそんなにめちゃくちゃ離れてるわけでもない。どっちかっていえば、僕は「そんなに離れてないよね」みたいなこと言ってきたんだと思いますけどね。
★ 進めるもの2)は否定できる
奪われるっていうのがね、世の中こんなみんながひもじくて、思いして生きていくのに、こんなにいっぱい使って食わなきゃ生きていけない人がいると、他のやつらがすごい困ってるっていうようなレベルのね、困った感と、それはそれで、例えば究極的に救命ボートの話って昔から倫理学であるんですけど、誰かボートから降りてもらわなきゃいけない、乗せられないみたいなときの優先順位ってありうると思うんです。ほんとに、人を殺さないと他の人は生きていけないぐらい大変だったら、ほんとにそうだったら、例えば世界の空気をみんな一人で使っちゃうようなやつがいて、そいつ生かしておくと多くの人の命空気不足で死んじゃうと、そしたら殺すかもしれない。良し悪し別としてしょうがない、ごめんなさいつって。
そういう話に関していえば、それは事実問題として応答していくしかないんですよ。そんなに大変ですかと、ていう人は。そういう全体が足りない、足りないなかで「お前いっぱい取ってる、大変だ」っていうその大変ばなしと、とにかく人から取ってくる、あるいは人に世話させるとか、そういうこと自体がだめなんだっていう話は別ですよ。こっちはこっちで、一個目の話は一個目の話で答え、二個目の話は二個目の話で答え、ていうしかないですよね。ただ、別に世話されて生きていくとか、人の労働の成果を取って生きていくとか、そうやって生きていく人間はいるわけで、それは別にいいことではない。むしろ人が生きていくために人に与えられる人は立派だし頑張ってちょうだいよ、だけどって話じゃないですか。だけど世話されて生きていくっていうことはだめなのかつったらだめじゃないと、てしか言いようがないですよね。その時に、そういう話は実は、こういう事件が起こったからっていうそういう本も書いてるけれども、もっとまあ。税金取られるってことは、人から悪いことだっていうか、あるいは使うことは悪っていうか、あるいは取られるってことが正義にもとることだって考えるのがおかしいっていうのは、私はそういう主義主張というか立場ですけれどもね。
★ 例えば税金って、僕らみたいな勤め人は最初から引かれて来るからピンとこないけど、いったん手元に来たものから払うっていう意味でいえば、いったん自分のものになったもののなかからっていう意味でいえば、なおかつ自分は好き好んでやるっていうとそうではないと、いう意味でいえば取られてるって言っても間違いじゃない。それが自分的にいいか悪いかつったら、それはいっぱいあったほうがいいよねっていうのも素朴な、素朴なっていうかリアルとしてあると。それはそれでわかる話ではありますね。そういうレベルで、みんなそうやって税金取られるとか節税とかみんなやってるわけじゃないですか。そういうぶんでいえばみんなその程度には思ってる。今度の被告がそれとまったく同じレベルなのか、もっと強くなんか信じてしまってるのかそれはわかんないですけど、たぶんもっとなんか強く信じてしまってるんでしょうけれども。そういう話は昔からやってるんですよ。稼いで得た金は自分のもので、本来は人は取っちゃいけないんだって考えるのが我々の社会ですけど、だからそういう意味でいえば、非常にこう我々の社会は正しいっていったものをそのまま正しいってことにしちゃうと、彼が言ってることに一理あるよねっていう話になるんですよね。私はそこからおかしいと思っているので、彼も共有してるこの世にもあるものがだめだって言っとかないと、それでその代わりにね、そういうレベルであいつが言ったことはだめだって言わずに、みんなそのうちなるとか、障害者になるとか、いやこんな私のこの子にもいいとこがあるとか、いうんじゃやっぱり弱いと思う。あんなあほなやつに、なんか「あんな人たちにと、それはだめだよ」という感じですね。私のスタンスはそういう、わりかた単純で、他に言いようがない。
★ 悲観 最首さんわりと悲観的なんですよね。でも頑張らざるをえない的な、ちょっと悲壮な感じですよね。さっきの二択でいうと、「大変だっていうことは認めたうえで、でも殺すのだめだからせいぜい頑張ろう」みたいな、そんな感じです。
僕は最首さんとの付き合いがなくはなくて、いろんな点で彼の言ってること共感しますけれども、「そんなに最首さん悲観することはないよ」と最首さんには言おうと、そんな感じです。あの人は団塊よりもっと上ぐらいの人ですけれども、とくに団塊の世代とか、これも20年前ぐらいから言ってますけども、そういう人たちがそろそろ50とかなった時に、「俺たちなんかたくさんいすぎるんだよな」みたいなね、けっこうそういうこと言ってた人がいて、それもう20年以上前だと思うんですよ。あの人たちは今70とか、48年生まれだったらそんなもんでしょ。そういうこの団塊の世代の人たちの自らに対するある種の悲観ていうか、俺たちが人数多すぎて足引っ張ってるみたいなね、そのうち足引っ張るようになるんだみたいなね、そういうあたりが50年前後の人たちのムードですよね。それで60年代って何があったんだろう、僕は60年生まれなんですけど。
それが例えばバブル以降生まれた人だともうデフォルト的になんか大変らしいぜみたいな、将来暗いぜみたいなそういう土壌というか。ちゃんと考えたわけでも、どっかでリアルを見てきたわけでもないんだが、どうもそういうことらしいと。実際それを裏付けはしないけれども、関係する数字とかそういうのがいろいろあって、国に何百兆円も借金があるだとかさ、そういう数字はあるし、それは嘘ではない、実際それは嘘ではないので、まったく無根拠というか何もないわけじゃない。けれども、そういうものを根拠というんじゃないでしょうけどね、背景にしてどうのというのが私の前の世代、私の世代もそうなんでしょうけれども、その後のもっと、もっとなんかちょっとシビアな感じになってきた世代。
だからわりとこう共有、長い。これはもしかすると世界中かもしれないけど、日本的な部分もあるかもしれなくて、そんなになんか悲観してる国民ていうかな、日本人てわりとちょっとそういうとこありますけどね。世界の幸福度調査とかあるじゃないですか。あれだいたい日本たいしたことないですからね。あれはね、だけど、それでじゃあ日本人は不幸なのかつったらそりゃどうなのかなと思ってて、「幸福であるって言ったらばかみたいな感じ」ってちょっと日本人って思いません?
自分のことを「私はハッピーです」みたいなこと毎日言うってなんか恥ずかしい、みたいな。そういうのちょっとあって、わりと悲観的なこと、ほんとは悲観的じゃなくても言うのが習わしみたいなところがあると思いますけれども、でもそういうのがデフォルトだと、それだけでも済まなくなって被告のようにというか、被告がどういう人生のなかでそういうことしゃあしゃあ言うようになったのか僕は知らないし、興味もないですけれども、なかには本気になっちゃうやつもいるって感じですかね。世界中ではないかもしれない。ただ、もちろんいろんな意味での危機っていうのは世界的にあって、それをどういうふうに処理するかっていうか講ずるかっていうのは世界的な課題だと思います、日本だけではないと思いますけれども。ただこの悲観的な感じの蔓延度というか、わりと日本的というかね、気もします。
★ 障害者施設やろうとすると住民運動で止められるって話よくあるじゃないですか。そういう類の話をしてて、そうだよね、暗いよねっていう。実際暗いんですけど。でも、そういうときやっぱりおんなじ話になるじゃないですか、「あいつら危険だ」っていうふうに住民は言うと。それに対して、作業所のほうは、いや大丈夫なんです、安全なんですって言わざるをえないとか、ボディガードつけます的なね、私らでちゃんと警備します、責任持ちますので、的な。
そういう話になってくるんですよね。それはわかる、その対立構造はわかるんだけど、基本的にはですよ、机上の空論みたいな話になるかもしれないけど、やっぱり人が住む場所を、例えばその人は認知症であったりなんかしたりして、認知症だったら火事起こす率は確かに高くなるかもしれない。だけど火事を起こす確率が高くなる程度の理由で、例えば精神障害者を、認知症の人をアパートに住まわせることを拒否する、そんなことはできないよ、と言いたいわけですよ。そこはね若干苦しいですけど、でもそういうベースのところをキープしないと、これは建前でもいいからキープしないと、なんかおまけを言わなきゃいけなくなるんですよ。「無害でございます」とか「安全でございます」とかさ、そこはよしたほうがいいよという。苦しくなるだろうと思います。
迷惑かけられること、被害者になること、そういうことあるわけです。起こるんです。ないとはいえない。
それ言ったらさ、例えば黒人は白人より犯罪率が高いですよ、顕著に。まずそういうことがあるわけで、そういうようなところ、じゃあそこで差別していいのか。それをそれでいいって言ったらほぼ終わりですよ。
だから、そういうことを確認することのほうがたぶん大切で、とくに良心的な人たちはそういうとこじゃなくて、私の心にも問題があります的な話とか、そういうふうに言っちゃってぐるぐるなっちゃって、つまんないっていうか、かえって逆効果、逆効果っていうかな、違うこと言っちゃうから、そこの大まかな道を過たないというか。運動のサイドにも、それを報道するっていうか描く研究者もそうですし、メディアもそうだと思いますけど、それは大切なんじゃないかなと思ってますね。
★ 税金使って生きることになるから、そういうときにやっぱ手練手管っていうかいるわけですよ。そこにも書きましたけど、「関係ねえよ」って言い切れる人っていうのは幸福です。「お前らいなくたって俺たちは生きてくぜ」っていう孤立主義っていうかな、そういうことができる人というのは、自分たちが働けて、自分たちの稼ぎで食えて、だからお前たちなんかいらないよ、独立するよみたいな。例えばケアがいる人ってそうじゃないわけじゃないですか。その時にやっぱり関係ねえよ、知らねえよ、さよならっていうわけにはいかない。死んでしまう。
じゃあその時にどこまでどういうふうに理解というか、を求めていくか、あるいはやりすぎないかっていうけっこう微妙な匙加減が必要で。基本路線がわかってるんだったら、ベースがわかってるんだったら、あとはもう騙そうが泣こうが笑わそうが何したっていいって思う、と同時に、でもこの作戦とったらどこがどういうふうに損でどういうふうに得なのか。
お涙ちょうだいっていうのは一番効くんだよ、たぶん。多くの場合一番効果的なんですよ。だけど、結局自分を下げなきゃいけないわけでしょう、かわいそうな人にしなきゃいけないわけでしょ。あるいは愛されるやつにしなきゃいけないでしょ。それはやっぱりよくないですよ。だからやるんだったら、もうこっからやらせだと、今日は泣くことにしてんだというふうにして、自分が無駄に自己卑下をしないだけの根性というか、構えができてから泣けばいいというか。そういうところで、社会とどういうふうに渡り合っていくのかっていうのは多少の悪知恵も含めてね、ずる賢いっていうか。
だけど、あの本で僕は白石さんって人について書いたのは、そこまでは妥協しないぞと。っていう、そりゃ大切だよねって話だと思うんですよね。どこまで擦り寄るかって、擦り寄っちゃいけないとは言わない。さっきも言ったように、そうしないとやっていけないっていうことは事実あるので、あるけれども、ここまで行っちゃだめよみたいな、その矜持というか、そういうものをどういうふうに保ちながら、でも武士は食わねどばかりも言ってられない。青い芝ってちょっとそういうとこあったわけですよね。実際なんにも取れなかったっていうか、そういう組織でもあったんだけれども。でも実際には取らなきゃ生きていけないわけだから、そのベースを持ちながらやってく。そういうところにいた人っていうのが僕にとっては高橋修っていう人で、その人のことを書いた。
さっきも言いましたけど、原理原則とこまごまと数字をいじる、制度をいじるっていう話は、時々そういうふうな対立がやっぱ運動でも起こるわけですよ。青い芝の人たちって、あいつら改良主義っていうか、制度のことばっかりうじうじ言ってめんどくせえみたいな、俺たちのほうがかっこいいんだぜみたいなこと言いたくなるわけですよ。気持ちはわかります。気持ちはわかるけど、私はそういうんじゃなくて、ちゃんと考えていけばそういう原理原則を大切にするっていうことと、金を取る、制度を取るっていうことは矛盾しないんだっていうその道筋を私は私なりに示していくっていうのが仕事だろうと思ってますね。
だから、先人にもらったもの、あるいはその先人に対する報い方っていうか。今僕ら「あるものは捨てないでとっときましょう」的なことばっかり言ってるんですけど、実際そう思ってるんですが、それだけじゃなくてやっぱりそこから精錬っていうかな、していけばちゃんとしたストーリーの道筋っていうか、そういうものが見えるっていうある種の信念っていうかがあるんですよね。
だからこそそういう人たちの、やっぱりNHKオンデマンドじゃけっして出てこない人たちですよ。ほんとにNHKって戦争のばっかりやってるなと思いましたけど、第二次大戦はなんで起こったのかみたいなさ、陸軍と海軍がどうで、東條がどうとかで。国連脱退の真相とかさ、わかりますよ。あとは関ヶ原、戦国時代ですよね。いいんですけど、テレビでゴールデンタイムってああなるんでしょうけど、でもそれはそれでね、Nスペには出ないだろうけれども、せめて活字のそんなに読まれないかもしれないメディアにはちゃんと残しとくっていう、それはちょっとマニアックな話ですけど。でもそれはそれ、その話とちょっと別のレベルで足りないとかもったいないっていうか、そういう話に反論して、それはそんなに奥ゆかしくっていうか、こまごま書いてっていう話じゃなくてもっとスパーンって言える話だと思うんでって、両方いるのかなと思いますね。
たぶんそれは一人の人じゃなくてもいいんですよね。中には「わーっ」て言うのが芸っていう人、僕はちょっと考えてもよくわからないしみたいな。そういう人しかいないと困りますけど、でもわかったと、続きは俺がやるからみたいな。組織だし運動なので、ときどき仲違いみたいなのがあって、そういう理屈ばっかり言ってるとかね、金のことばっかり言ってるとかさ、それに対しておまえら精神論ばっかり言ってみたいな、そういう対立起こりますし、それはわかりますけど、それをどうこう言って対立があってってそういうことを言うんじゃあんまり面白くないというか。ちゃんと両方成り立つというか、どういうふうに組み合わさるのかっていうほうが面白いと思っていて。そういうある意味こっちの道にもこっちの道にも落ちないぐらいのところの、狭いかもしれない道を歩いて来た人たちっていうのを、それはそれで記録に残しとこうっていうのが、今回の『弱くある自由へ』の最後に付けた高橋さんって人についての章だし、それから福島本に書いた白石清春さんという人についての章もそんなつもりです。
★ 基本は基本として確認すること。そして、せめて簡単にできることをすること。「その場しのぎ」を大切にすることです。
それに対して、無為の思想といったものかあるように思います。しかし、こういう思想にはずるいところがあるともいえるわけです。
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■編集者へのメール
◇
『介助の仕事』の編集者へのメール
◆0315 Re: 筑摩の石島です。
石島様
メールありがとうございます。
今日10冊ひとまとめ(あとはバラ)発送しましたが、単価安いし、梱包も面倒でないので
まとめて発送はこっちでやります。
広告はおまかせします。
こっちはこっちでがんばっています。
評判はよいと思っています。
契約書発送してないことに気づきました。
発送します。
次の本の仕事のこと※を考えているのですが、[…]がいくらか
なんとかなったらでしょうか。
私は年度末のお金のことことでおもに大学の(どうかしているとしか思えない)経理との
めんどうなことをずっとやっていましたが
もうしばらくでなんとかと思っています。というか、年度末が来てしまいますので
それで終わりにはなるはずです。
※『自由の平等』の第2版。かなり長い章を加えて、ちくま学芸文庫にしていただく。
そのかなり長い章には、「社会の見立て」について書きます。
立岩真也 2013/01/01 「素朴唯物論を支持する――連載 85」,『現代思想』41-1(2013-1):14-26
という題に近い話です。ただその連載の1回は中味はたいしたことないので
あらたに書かねばなりません。『良い死』で『ウェブちくま』でお世話手になったことも
しばし忘れていたのではありますが、『ウェブちくま』に書かせていただくというのが
私としてはベストです。
立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
◆0402 +200冊+
石島様
たいへんお世話になっております。
『介助の仕事』200冊自宅のほうにお送りください。
603-8047 京都市北区上賀茂本山258-21
これで学校の分(研究費買上)でが400、私のところが400で、800になるかと思います。
『ちくま』の記事、渡辺さんから快諾いただき
http://www.arsvi.com/2020/20210401wk.htm
に掲載しました。
『自由の平等』
http://www.arsvi.com/ts/2004b1.htm
に新しい部分をWebちくまに連載→文庫にという案
2〜3月はお金のことで不毛に忙しかったのですがいよいよやらせていただきたく。
価値あるものになると思います。
初版、意外に文字数少なく、かなり増やせると思います。
別便します。
立岩
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
◆0402 『自由の平等』(Re: +200冊+
石島様
まず初版のテキストファイルをお送りします。
初版というか、誤字はなおしたもの、+第2版をと思って、ずっと前増補しようと思った箇所を示したものです。
●で示してあります。ただ今回は細かく足すというより、ある部分を新たに書くことを
考えています↓。
そう文字数小さくもないですが、私のものでは多いほうではないです。
考えているのは
p.016 ■■3 この本では述べないこと
で列挙したことの一部について述べる ということ。
それはこれまで書いた文章の題としては
「素朴唯物論を支持する」といった感じの話になります。
まじめに書くとまずまずの分量になると思います。まず
文庫判で1冊で出すとすると(以前は前・後、2巻というのも考えていました)
どのぐらい足せるのか知りたいなと思います。
あと『Webちくま』で1回どのぐらい書かせていただけるかも。
立岩
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
◆0407 未着?(Re: 『自由の平等』(Re: +200冊+
石島様
本まだのように思いまして。[…]
そういうことの関係で、かもとも思い。
それから文庫のこと。たいがいどのぐらいの文字数×行数×頁数かなと。
こんどのものは、『介助の仕事』のように可能な限りぎりぎり安く、と考えてはおりません。
そのうえでどのぐらい書き足そうかと思いますので。
立岩
◆0407 もう1冊のこと(Re: 未着?(Re: 『自由の平等』(Re: +200冊+
石島様
当初案では次に出すづもりであったもの
http://www.arsvi.com/ts/2020b2.htm
『優生思想に反対する』とかそういう本です。
これはこれからだいぶ手間かかります。
まったく書き直す、新たに書くぐらいのことをつもりです。
ただ、細部については『介助の仕事』のときに細かに見てもらったので
それをもとにこんどはあまり手をかけていただく必要のないものにできます。
2か月をみています。ただ御社のほうで手続きを進めていただけると
ありがたいです。すると完成稿出てから時間かけずに出せますので。
相模原事件があって5年というのもありかもです。
http://www.arsvi.com/2010/20160726ts.htm
こちらが先、というふうに思いなおしまして、お知らせ、ご提案いたします。
立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
◆0408 Re: もう1冊のこと(Re: 未着?(Re: 『自由の平等』(Re: +200冊+
石島様
はいおおまかなアイディアとしては
http://www.arsvi.com/ts/2020b2.htm
でなんとなくわかっていただけるかなと思います。
ただ『介助の仕事』よりずっと手をいれ手間をかける
必要があります。
目次案、金曜まで、それとも月曜あさいち
どのあたりが最短になりましょう?
立岩
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
◆0408 了解です(Re: もう1冊のこと(Re: 未着?(Re: 『自由の平等』(Re: +200冊+
石島様 はいでは月曜までにお送りするつもりです。よろしくです。立岩
◆0428 立岩0428
石島様
タイトル(仮題)ないと会議にかけらないといったことがメールに書いてあったようななかったような。とりあえず
http://www.arsvi.com/ts/2021b3.htm
気にいってはいないのでとりかえると思いますが。
関連した短文
http://www.arsvi.com/ts/20210009.htm
http://www.arsvi.com/ts/20210014.htm
本業(ものを書く仕事)に復帰しようと思います。どうかどうぞよろしくお願いいたします。
立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
◆0430 立岩0430
石島様
メールありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
ここのところ
https://twitter.com/ShinyaTateiwa
で小泉義之『病の哲学』を紹介している拙著『唯の生』の紹介をしています。
あと5月6日に『介助の仕事』の記事を書いてくれるとのことで
毎日新聞の記者が取材します(Zoom)。
その関連ですが、書評依頼みたいなことで、送った新聞社とかはありますか?
立岩
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
◆0506 立岩0506
石島様
『介助の仕事』
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
・今日、毎日新聞取材。ローカル版に紹介載るとのこと(+ネット)。
・『障害学研究』(障害学会)に書評掲載予定(私はリプライ)
・『解放社会学研究』(解放社会学会)に書評掲載予定
・『支援』(支援編集委員会)に書評掲載予定。
・『難病と在宅ケア』
『唯の生』
http://www.arsvi.com/ts/2009b1.htm
昨日、電子書籍化??しました。
添付します。まだ1つも出ていません。経験的にはこういうものは驚くほど数が出ません。
作業をしながら考えました。
人の議論を検討するパート第1章、第5章〜
からなっている本で、それらに足して新しい版にするなら
近年のことを書いている部分はとるかと思ってもいましたが
第2章・第3章はじつはかなり貴重なもので残すべきものだとあらためて思いました。
第4章にリンクをつけてたりしていて、この時期『Webちくま』にずっと書かせてもらっていて、その当時の様々とそれがつながっていたことをようやく思い出しました。ここたんなる日記のようになっていますが、そこからリンクを貼っていくと文章の全体や詳しい情報にいけます。こういうふうにならHTMLにするのも意味があると思いました。
こういうものと紙の本をうまくつなげられるとよいなと思いました。
『介助の仕事』についてはかないませんでしたが、例えば紙の本を買った人については、HTML版をプレゼントみたいな。買ってくれた人をどうかして確認する必要がありますが。視覚障害の人等にテキストファイル提供というのはずっとやってきて、それは「テキスト引換券」と本の終わりあたりのページの角に印刷して、それを切り取って送ってもらうというものなのですが、それじゃ今どきいくらなんでもという感じはします。
連載&次の本、いかがなりますでしょう? いよいよとりかかろうと思っています。
◆0607 いかがでしょう(立岩0607
石島様
おはようございます。本の紹介など一覧
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
このかん学校の院生たちとか、研究所の関係の書類とかいろいろで
忙しくはしていたのですが、本業?のほう
ちょっと待ちくたびれたかんありまして
うかがうしだいです。
メールが夢に出てきましたが、夢でした。
けっこういろんなことを思いついたので、その一覧をお知らせすることも
できます。よろしくお願いいたします。
立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
UP:2020 REV:20200812, 15, 20210418, 19, 0506, 0616
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優生学優生思想
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優生学優生思想関連文献
◇
立岩 真也
◇
Shin'ya Tateiwa
◇
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
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