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介助の仕事


街で暮らす/を支える 補注・文献





◆立岩 真也 2021/02/10 『介助の仕事――街で暮らす/を支える』,筑摩書房,ちくま新書,238p. 820+

 ※これは、上記のちくま新書にはない註と文献表(とそこからのリンク)です。契約の関係上、本文はサイトから提供することができません。そこで、本文を大幅に[…]で略し、註のある場所はわかるようにすることにしました。省けるところは省かねばなりませんので[…]はだんだんと増えていくことになります。(0321:[…]105個→115個→124個→0327:138個→155個→0328:161個→179個→203個→0328:→206個→0406:217個→0408:228個→0417:242個→0419:252個→0531:265個)
 ※その掲載=公開〜無償提供をもって、A(ちくま新書)+B(電子書籍?)の有料での提供は停止しました。


  目次




 この年に
 冷静に数えあげる
 人がする仕事は残る、そのうえで
 基本を動かさない
 この本をこのように出す、そして補う

第1章 ヘルパーをする
 ヘルパーしてみる
 お金のこと
 まずたんにお金を増やせばよい
 どんな仕事?
 一生一つではない、としたうえで格差を縮める
 主体性の少ない仕事
 調整する仕事、は使う人の仕事にもなる

第2章 いろんな人がヘルパーをする
 年とっても/とってからやる
 再起の始まりにする
 だいじょうぶ
 すべての人を、は無理、だからしない、とはならない
 学生のバイトにもなる
 前衛の仕事と後衛の仕事
 これは田舎に適している

第3章 制度を使う
 介護保険ともう1つ、2つある
 24時間
 介護保険のほうが単価は高い
 専門家も知らない、から
 まずサイトを見る
 ごく簡単に
 解説
 介護保険との関係
 交渉がいる、こともある
 弁護士たちも支援している
 いちおう押さえておくということ

第4章 組織を使う作る
 複数あってよいとなると民間もよいとなる
 自立生活センター=CIL
 直接個人がという手もある
 自薦ヘルパー
 管理し調整する仕事は使う人の仕事にもなる

第5章 少し遡り確かめる
 『生の技法』もう一度、安積遊歩
 1970年
 始まり1・「母よ!殺すな」
 はやく・ゆっくり
 はじまり2・府中療育センター
 「そよ風のように街に出よう」
 学生を誘う

第6章 少しだが大きく変える
 ボランティアではしんどい
 筋論として、ボランティアでよいか
 社会のパーツを変える
 増やして広げていった
 むしろこちらの方に近づけていく
 病院で学校で職場で
 世界的にもけっこう行けているかもしれない

第7章 無駄に引かず無益に悩まないことができる
 こくりょうを&から動かす
 止められないという基本
 それを実現することはできる
 「相談支援」をまともにする
 研究を仕事とする私たちは

第8章 へんな穴に落ちない
 自己決定主義について・1
 自己決定主義について・2
 世話すること言われた通りにすることをまずきちんと肯定する
 しかし人と関わり身体が接するので
 「介助者手足論」についていちおう
 関係大事主義について
 安住できればそれにこしたことはない、が
 反優生のために取りに行く

第9章 こんな時だから言う、また言う
 それでも亡くなった
 つまらぬ言い訳せず逃げを打たず起こることを知る
 このことについても短い本が要るだろうか
 本書に書いたことから言えること
 確認1・「ああなったら私なら死ぬ」は普通は誹謗だ
 確認2・なんであなたは威張っていられるのか不思議だ
 確認3・「特別扱いするな」はさらに意味不明だ

文献表




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  序




この年に
 この年に、つまり新型コロナウィルスのこと★01で人と人が懸命に距離を取ろうとしているこの年に、介助(介護)という、人の近くで人に対する仕事をすること、その仕事をしてもらって暮らすことについての本を出すことについて、最初に述べておきます。
 身体がなくならない限り、その仕事はなくなることはありません。私は、その仕事のうち人間がする割合は、減らせるものなら減らしてよいと思っています。その仕事をするのが人間である必要は必ずしもなく、機械ができるのであれば機械でよいということです。
 ただ、人間から機械への移行は、ふだんはあまり慌てないほうがよいです。というのは一つ、まだ多くの場合に機械は仕事が下手だからです。それで、不都合が生じたり、不快なこと、ときに危険なことがあります。そして、その機械・技術の導入は、多く、本人の手間を省こうというよりは、周囲の人たちが手間を省きたいという思惑のもとにあることが多いです★02[…] 立岩真也『ALS――不動の身体と息する機械』表紙  こうして、慎重に、ゆっくり、考えたり試したりしながら、機械、人間以外のものを使っていくことになります。ただこのような状況下では、その条件を少し緩め、導入の速度を早めることは認められるだろうと思います。このたびの医療の現場では人工呼吸器が必要とされています。ずっと以前『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)を書いた時に読んだ本に、1952年のコペンハーゲンでのポリオの流行の時、その町の医学生総動員でバッグを手で押して呼吸を助け、死亡率を80%から25%に下げた話が出てきて、引用しました★03。それをきっかけに人工呼吸器が普及したのだそうです(『ALS』187頁)。これは、明らかに人間より機械のほうがよい場合でしょう。ただ、別の見方をすれば、人間の手でさえずいぶんなことができたのだな、とも思えるできごとです。

冷静に数えあげる
 こうして、今回、必要とされているのは、人と機械、やがて出てくる薬、感染を防ぎながら人がいられる場所、といったところですが、災厄の時、何が足りなくなって何が必要になるかは、その時々に異なりもします。1995年に阪神淡路大震災が起こりました。その時に一つ知ったのは、本書で書く介助に関わる制度や組織を作ってきた人たちの動きがそこにあり、そしてそれとも関わりながら、なんのためというわけでもない人々のつながり、人々がたむろってきた場所が、安否確認から始まり生活の再建のための動きにつながっていったことでした。そしてそれをきっかけに、「ゆめ風基金」といった、国外での地震の時なども含め、災害時に対応し、お金を送りそして時には人を送る仕組みが立ち上げられたりもしました★04
 そして2011年の東日本大震災の時、地震があったその翌日、1970年代に一緒に運動してきた人たちが東北に向かいました。たとえば、介助者を伴った脳性まひの人たちが何人か何度か福島に行き、関西的な乗りで対応の遅い役所に食ってかかったりしました。そんな人たちと福島で長く活動してきた人たちがしばらく一緒に働きました[…]★05
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙  そして、どれくらいの人が知っているか、さらに覚えているか、実はその時にも人工呼吸器のことが問題になりました。東北だけでなく関東でも揺れはあり、停電がありました。その時には、いつも使っている人工呼吸器の電源が止まったらどうしようということになりました。家庭用の発電機を室内で使うと空気がわるくなるから屋外に置いたほうがよいとか、細かいといえば細かいことが大切でした。そんな状況を報告しあい、小技を共有するために、集会を行なったり、冊子を作ったりしました★06。2019年に出版した『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木千帆子他、生活書院)で、「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」という2012年に書いた文章を再録し、すこし加えて「遠くから」という章にしました。そこにその時のことを書きました。
 今回起こっているのは、感染のおそれと感染であり、事情はだいぶ違ってはいます。遠くから近くにやってきて自分ができることをする、というのとは逆の、距離を取らねばならないという斥力のようなものが働いていて、とくに心の熱い人には辛いことでしょう。
 それでも、その時々に何が足りないのか、足りなくなる可能性があるのか、数え上げて対処していけばよいし、そうするしかありません。「医療崩壊」といったざっくりした言葉は、ときにそういう冷静さを奪ってしまうように思います。
 今回は「もの」としては、呼吸器や医療設備が足りないという話になっています。しかし、鉄やアルミニウムといった原料がないわけではなく、そして製品はこの世に存在するのですから、それを作る技術もあるということです。とすると何が起こっているのか。早くできる対応が遅くなっているのは事実ですが、それをいくらかでも急いでましな状態にするためにどうするかということです。すると、どうにもならない困難があるわけでないことがわかります★07

人がする仕事は残る、そのうえで
 […]
 その「だめ」は、たんに道徳的によくないということではなく、社会の決まりとして「だめ」とする。そうすることによって、その人たちが働けるようにするということです★08

基本を動かさない
 もう一つ。これまでも全般的に「ケア」の仕事は人手不足でした。とくにこのごろは医療というより福祉、介助(介護)のほうで人が足りません。そしてそれは少子高齢化と結びつけられたりするのですが、そんなにたいそうな話ではなく、人手不足は対価が低いからであって、報酬をいくらか高くすればよいだけのことです(第1章・31頁)。
 ただ今回に限れば、まず心配されているのは医療の方面で、実際問題が起こっています。それで、医療の対象にする人としない人の順番を決めようという「トリアージ」の話に滑っていってしまう★09。話を分けましょう。一つは、仮に順番を決めるしかないとして、その基準・根拠をどう考えたらよいかです。一つは、順番を決めざるをえないほど足りないものがあるのか、また、今は足りないものがあるとして、足りるようにできないかです。前者について、よく使われる一つの基準として「平等」があります。『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(2004、岩波書店)の第2版を用意できるなら、そこでその議論を続けようと思います。
 後者について。[…]
 もちろん、このたびの緊急対応と毎日たんたんと痰をとったりなどする仕事とはおおいに違うでしょう。そしてこの仕事を、仕事だから仕方なく続けている人たちには、代わってもらえるならどうぞと思う人たちもいるでしょう。まったくもっともなことです。ただここで言いたいのは、今いる人と別の人もできるようになるだろうということです。それも理由はある。人間とその病状はおおいに個体差がありつつ共通性もあること、そしてその人に関わる人間の多くにも共通性があって、誰かができることはたいがい他の誰かもできるということです。むろん、できるようになるまでの時間の問題はあります。安全に確実にできるようになるためには必要で十分な時間がかけられるべきです。しかし、ときにはいくらかは緊急対応でにわか仕立てでも仕方のないこともある、ただただ人が亡くなっていくよりはよい、ということです★10

この本をこのように出す、そして補う
 本書の第6章までは、「重度訪問介護従業者養成研修」の講師として何度か話したその録音記録を文字化してもらい、それをもとにして、さらに加えたりして作っていきました。実際には、本書一冊分を2時間の研修で話すことはできません。だいぶ増やしました。他方で、その部屋に集まっている人たちに向けた話そのままにしてある部分もあります。
 その制度、そして研修のことは第3章(70頁)で説明しますが、「重度訪問介護(重訪)」はわりあいマイナーな制度ではあるけれども、重要なものなので、だからその研修も行なっているし、そこで私も話をしているのです。本書はその紹介のための本であり、研修での講義で話すことと当然に重なるので、使いました。
 ただ一言加えておくと、同時に、もうすこし広く、介助のこと、介助の仕事のことを知ったり、考えたり、そして、使ったり、そして介護保険のヘルパーも含めて自分の仕事にしたり、という具合になるとよいなと思っています。そして、現在あるもっと普及している福祉の制度・仕組みも、全体として、本書が紹介する仕組みのほうへいくらかは向かうとよいと思っていますし、それは徐々にでも可能だろうとも思っています。
 講義では、話を聞くだけでだいたいわかるように話しているので、わかりやすくわかってもらえるだろうと思いました。しかし結局はかなりの手を入れることになりました。[…]最初から書き出したほうがずっと手間がかからなかったようにも思います。けれど、そういう苦労をしてよかったとも思います。「わからない」と言われても、この本については謝らないでおこうと思います。
 本書は、まったく実践的・実用的な本です。ただ、実践的であろうとするなら、それは社会をどう見立てるかに関わってもきます。本書で私は新たに考えるということをしていません。ただ、私が考えてきたこと書いてきたことが、ここにこう関わってきているとわかるようにはなっていると思います。
 そしてなにより、新書のなかでも一番抑えた値段にしてもらえるように、短くしました。そうすると、さらに詳しいこと、具体的なこと、日々変わっていくこと、関係する人や組織や本についての情報を載せることはできません。そういう部分については、まず一つ、私たちのサイト、というのは立命館大学に「生存学研究所」というものがありそのサイトなんですが、その増補で対応していきます。「全国障害者介護保障協議会」(80頁)の協力を得てたいへん充実したものになってきていますので、ご覧ください★11。グーグル等で「重訪」で検索すると上から2つめに出てきます(http://www.arsvi.com/d/a02j.htm)。そこからもっと広い範囲の情報を掲載している「介助・介護」のページ(http://www.arsvi.com/d/a02.htm)にもリンクされています。また、研究所のサイトは2つあるんですが、「生存学」で検索して4つめ辺りに出てくるその1つのサイト(http://www.arsvi.com/)の表紙からも「重度訪問介護(重訪)」にすぐ行けるようになっています。
 そしてもう一つ、本書を購入してくださった方に、本文に加え、本文の2倍以上の量の註と文献表を付けた電子書籍、といってもホームページで見るページと同じ形式のファイル――ですから関係する大量のファイル=ページにリンクされています――を有償で提供します。写真等の画像、動画にもリンクさせます。「立岩真也 介助の仕事」で検索すると、本書関連情報のページ(http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm)が出てきます。そこに説明・入手方法などあります。

 コロナのもとでも、あるいはだから、書こうと思って序を書いて、終わって、もうこれで、と思っていたら、京都でのALSの人の嘱託殺人のことが報じられました。それで最後の章を加えました(第9章・211頁)。書いていって、このできごとについても言うべきことは、まず、本書で書いたことだったと思えました。それがわかるように書いたつもりです。同時に、他にも薄い、短い本がいるのだろうと思いました。しばらく、新しいもの、長いものは抑えて、そんな作業をしていこう、そうせざるをえないのだろうと思っています。

                           2020年8月 著者




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  第1章 ヘルパーをする




ヘルパーしてみる
 ヘルパーしてみるといいんじゃないかって話をします。後で(第3章・70頁)お話ししますけど、この国にある大きな制度として公的介護保険がありますが、今日と明日の2日間の講習でできるようになるのは、「重度訪問」という制度によるものです★01。それは、基本的には、本人=利用者のいるところに出向いて、比較的長い時間つきそって、その人の指示があれば、それに従って動くというものです。その仕事をすること、その仕事を使って生きること、制度のことなどをお話しします。ただし、介護保険のほうもそういう方向に行ったらよいと私は思いますし、まずはどの制度で、とかはともかく、この介助という仕事のことを知りたいという人に読んでもらえればと思ってます。
 今ほんと人手が足りないんです。[…]

お金のこと
 介助というものはこんなに大切なものだとか、よいことだっていう話は、私はあんまり得意でないのでしません。不得意っていうか、要るものは要る、それだけだと思うんで。むしろ、要るものは要るっていう以上に「ケア」が大切だとか語る話には、かえってすこし身体と人生によくないところがあるとも思っています。その話は第8章(203頁)でします。
 そして、介助に関するテクニカルなこと技術的なことは、これからいろいろ教わったら面白い、そしてもちろん大切です。けど、それを社会のどういう仕組みのなかに位置付けるかということも大切でね。といっても難しい話じゃない。まず、これは基本お金は支払われるシステムです。いったいどれぐらいのお金になるんでしょう。そんなところから始めましょう。
 働き手がいくら受け取るかについては、決まりはないんです。今はほとんど民間の事業所がこういう仕事をしていて、そちらに政府がお金を渡すという仕組みになってます。[…]1時間につき何点と決まっていて、1点は、地域によって少し違うけれどもだいたい10円とか。すると1時間200点ぐらい出ていれば、2000円くらいになる。そのなかから一人ひとりの働き手にどれだけ出すかは、事業所が決めるわけです、[…]。やはり後で説明しますけど、介護保険のほうがずっと点数は高いんですが、介護保険と重度訪問の二つの制度、僕が知ってる範囲では、ヘルパー、つまり皆さんが働くようになって得る時給はそんなに変わらないんじゃないかと思います。
 で、その介助の仕事で今どれだけ稼げるかというと、ざっと時給で1000円、それをすこし上回るか、とくに仕事始めてしばらくはちょっと下回るかっていう感じだと思います。[…]。スタートとしては、他のスーパーマーケットであるとかコンビニであるとか、その他もろもろのアルバイトとほぼ横並びぐらいかと思います。
 そしてそのヘルパーは不足してるんです。ヘルパー業界、介助・介護の世界は、人手不足が続いている、むしろ深刻になってるんだと、みんな言います。私は京都市内の事業所、団体といくつか付き合いがあったりしますけど、誰に聞いてもそういう話になります。
 それはまずはそのとおりなんです。そして「人が足りない」とか言うと、すぐ「少子高齢化」とかで人間が足りなくなってるからだっていう話にすぐ乗っちゃう人がいるんですけれども、私はそれは嘘だと前から言っています。[…]だけど、なかなか読んでもらえなくてね。僕の本はだいたい厚いんです、400ページ超えたり★02。すると値段も高くなる。どうしたものか、です。あとでこの話の続きを少しします(55頁)★03
 人が足りないからヘルパーが足りないんじゃないんですよ。他の仕事に行っちゃうからなんです。簡単に言えばね。以前と比べると、景気が超悪かった時に比べれば、少しましになってるっていうこともあって、他の仕事に行ってしまう。この仕事は、他のバイト仕事と比べた場合、とくに安いというほどでもないんだけど、同じぐらいなんだよね。

まずたんにお金を増やせばよい
 ならばどうするかっていうとですね、一つは単純に労働条件をもっとよくする、給料を上げればいいんです。僕が言ってるのは、「とりあえず、すぐに、時給1500円にしよう」って。まずは手取りで1500円が目標、さらには2000円ぐらいにと思って、言っています★04。やってやれないことはないんです。そして、時給・給料は事業所が決めると言っても、多くはそう儲かっているわけじゃないから、その裁量で高くするのには明らかな限界がある。とすると、点数そのものを上げるしかないということになります。そのお金は、政府はないって言ってますけれども、あります。だからできます。そうなれば、まあまあいけるんじゃないかなと。
 今、日本のフルタイムのワーカー、労働者、勤労大衆っていう人々がどのぐらい働いているか、ご存知ですか?[…]
 それにたとえば子どもが育つためにかかるお金、それから自分やら子どもやら誰でもが病気になった時にかかるお金、等々は、その収入からとは別に得られるようにすれば、これくらいで、さらに十分にやっていけます★05。それらの費用は税金使ってやるということですから、そんな税金ばっかり取って世の中やっていけるのかなって皆さん一瞬思ったかもしれませんけど、全然そんなの簡単で、楽勝です。年収1人300万といった場合には、「手取り」でそれだけと考えてください。もっと収入が多くなれば、その人も税の負担者にはなります。たとえば教育のお金も税金使って、介護も税金使って、そしたら日本の財政やっていけないでしょう、みたいなことをすぐ心配する人がいます。その心配性の人のほうが世の中多いぐらいになってるね。[…]日本の人にその傾向が強い気がしますね。なんか無理って思うことにしちゃってるのね。世の中大変だというのが挨拶代わりになっているわけです。[…]毎日そういう挨拶をしているとほんとだと思ってしまうこともありますからね。だから、そうでもないよっていうことを、「足りない?」→「足りなくない」ことを、別の本(30頁)で書こうと思っています。
 そしてこの額は1500円と1000円の間をとって1250円とかいうのではなくて、譲れない額です。だから、いくらか値切られるのを見越すのであれば、最初から2000円で通すと言うのもわかります。
 これはいわゆるマーケットメカニズムで決まるお金、価格じゃないんです。選挙民というか、政治的な決定に関われる人たちがそれでいい、そういうことにしようって言えば、明日からでもできます。この仕事だけでなく、政府が関わってお金を払う仕事に関しては、1500円とか、政府の責任でそれくらいまで出すようにしようって言ってる政治家もいます。本気かよ、って思うかもしれないけど、たぶん本気だと思います。やってもらったらいいと思います。やろうと思えばわりと簡単にできるんですよ。
 […]

どんな仕事?
 給料は高くはない、それは事実ですが、ときには実際よりさらに低いと思われている。そして他の仕事って、みなわりあい知ってる、というかイメージしやすい。コンビニとかスーパーとかだったらみんな毎日行ってるわけだから、そこの店員さんがどういう仕事をしているかは、何となく…、実際は裏方とか大変だったりするんだけど、だいたいはわかると。それで、まあ分かるし、そんなに危なくもないだろうし、明るい感じだしね、照明がね。他方、介助の仕事って、すごい大変なんじゃないか?って思う。そんな感じで、同じ給料だったら、たぶんそんなにきつくないだろうな、っていう仕事に流れちゃってる。そういうことだと思うんですよ。そんなに深い話じゃなくて。
 では、介助というのはどんな仕事か。ちょっといろいろありすぎて、一言じゃ言えない。きついかきつくないかっていうのは、ほんとに一概には言えません。
 ただ、ここで思い浮かべている一対一という仕事の仕方については、まず身体的な負荷ということで言えば、そうしんどくはないことが多いと思います、僕はね。とくに重度訪問の場合は、介護保険のヘルパーのように、ばたばたとあわただしく身のまわりのことをやって、そして終えたことにして、移動して、次の訪問先に行くというのではなく、大多数は平々凡々と、というか、その場にただずんでいて、すこし退屈なぐらいに、時々言われたら言われたことやって、終わったらまた戻るっていう仕事です。建物のなかで、多くの人を一度に相手にし、次から次へと、職場の定めや上司の指示にしたがって、分刻みで仕事をこなすというのとはすこし違う。
 夜間の介助も、その大変さは違う。たとえばALS、筋萎縮性側索硬化症っていう障害があって、私はずいぶん前ですが『ALS』という本を書きました(2004、本書11頁)★06[…]
 だけれども、同じ夜間でもそういう仕事はなくて、たとえば体位の交換してって言われたらするという仕事のこともあります。同じ姿勢でずっと寝てると痛いんですね。そしてずっとそのままにすると褥瘡(じょくそう)ができるんです。それが悪化すると手術しなきゃいけなくなったり、えらいことになるんですよね。そういう体位の交換というのをやったりとか。それだけだったらそれほどきついわけじゃなかったりもします。
 人間が関係する仕事にはつきものですが、双方による暴力、ハラスメントはありえます。ありうるというだけでなく、実際、そう多いとは思いませんが、あります。明らかに相手が悪いという場合は、すべきことははっきりしています。止めろと言っても止めないなら、訴える、辞める、別の人に代えてもらう。ただ、ときに、何が悪いのか誰が悪いのか、何が起こっているのか、わからないことがあります。とくにそういう時には、心理的にきつくなることがあります。[…]
 このきつさは、私の勤め先の大学院生もいろいろと体験し、書いてもいるのですが、そのきつさをもたらしているものが何なのか、いまだに謎な部分があります。身体が動かなくなって、コミュニケーションが困難になっていって、指示が伝わりにくくなっていって、そうしたなかで不快・苦痛と苛立ちが高まっていくという部分が大きいのでしょうけれども、それだけでは説明できないように思われることが起こることがあります。とにかくきついことを言われ続ける、何をどうしたらよいかわからない、ということがあります。
 こういう時には、まずは、間に入る人がいるとよいです。それでもうまくいかなかったら、[…]
 ただ、今度は、両者の間に入るという仕事が、その仕事をする人にとってきついということにもなりえます。とくにきつい思いをする人は、事実上、介助する人を確保する役割も果たさざるをえない人だったりする。全般的に人手不足の時には、ヘルパーに辞められたら介助を提供し続けることができなくなります。そうすると辞めればいいよ、と簡単には言えない。両者の間にはさまれて、両方をなだめたりしようとするのだけれど、なかなかうまくいかない。ほんとうに消耗してしまう。そんなことがあります★07
 こういう苦労や消耗は、いつまでも、なくなりつくすことはありません。ただ一つ、[…]。だから仕事をしようとする人が多くなってほしい、だからこの本も作ろうとした。そういうことになります。
 いつも、のほほんとやっていけるわけではありません。ただ、それは例外的とまでは言わないけれども、そうしょっちゅうあることでもない。起こってしまう厄介ごと、その場での消耗がなくなることはないと思うし、そこをどうにかしようとする困難な仕事を誰かはやり続けることになるのでしょうけど、まずは、比べれば楽なほうの仕事をまわしてもらうといったこともできます。人によって、その人の調子や気持ちによって、現場の仕事と、現場を調整したり組織を経営したりする仕事とを行き来できるとよいだろうと思います。その実例を少し示しながら、話していきます。

一生一つではない、としたうえで格差を縮める
 みなが一生同じ仕事をするということではないだろうと思います。もちろん、そういう一途な人もおおいにいたらよいです。しかし、働く人がみなそんな人ばかりである必要はなにもない。また実際、多くの人たちは、いろんな仕事を渡り歩いてきました。一生一社でという人が一番多かった、新卒一括採用、終身雇用という日本型雇用の時代と呼ばれる戦後の一時期であっても、そうでない働き方をする人はたくさんいました。そしてさらに、仕事を変える、仕事が変わる、その方向に進んできました。
 変化してきたその事情、そして結果にはよくないところが多々あります。生活が安定しない、格差が開くといったことが起こりました。とすると、一生一社でなくてよいということを受け入れたうえで、暮らしをよくすること、格差を少なくすることが課題になってきます。同じ会社にずっといることになっている正規の社員には、かなりの部分は気苦労なんだと思いますがそれなりの苦労はあるだろうから、その分の上乗せはあってよいと思います。しかし差が大きすぎます。差は市場が決めるんだ、だから適正なんだといったことを言う人がいますが、そんなことはありません。[…]そうやって格差が付けられてきたのです。ヘルパーの賃金を上げようというのは、ささやかではあるけども、その差を少なくしようという主張・動きの一部でもあります。
 この仕事を学生の時期の1〜2年の間するという人もいる。その後別の仕事に就いてるっていう人もいるし、社会人になっても、週1ぐらいでこういう仕事に関わり続ける人もいます。会社勤めとかいろんな仕事が自分に合わなくて、あるいは合わないことがいったん就職したんだけどわかって、こういう世界に戻ってきたりって人もいれば、主婦をやりながら、あるいは他の勤めをやりながら、時々、夜あるいは週末に入る人もいれば、いったん会社の仕事が定年で終わって、でも体力も余ってるし時間も余ってるし、お金もないよりあったほうがいいしっていう人の仕事としてもある。けっこういろんな人がいろんな事情で働いています。そういう意味で非常に形の定まらない、何時から何時までって決まっていない仕事なんだけれども、だからいいっていうか。自分の都合というか、都合だけじゃできませんけれども、この空いた時間にうまいこと調整してもらえればね、それが成功すればの話ですけれども、そういうことができる仕事なのかなって思います。
 この仕事のいいところは、ちゃんとした事業所とうまい関係が作れるのであれば、いろいろ事情を話して、仕事としては夜間の仕事なんかもあるんですよ。夜入って朝まで、そうすると10時間とか、たとえば。そうすると、時給的には高くはないけれども10時間入れば、かける10にはなるんですよ。そういう仕事の仕方というのも、あるはある。いろんな家を渡り歩いて、働き詰めでとなると、なかなかきつい。施設での仕事もです。白崎朝子さんの『介護労働を生きる』(現代書館、2009)、『Passion ケアという「しごと」』(2020、現代書館)等にはハードな部分が書かれています。だから「おんなじ給料だったら他の仕事するよね」っていうことにもなるんだけど、そうでもない働き方もあるということです。

主体性の少ない仕事
 次に、もっと積極的にこの仕事のよさを言ってよいのかなと思います。何がいいかというと、とくに仕事の相手がきちんきちんと指示してくれるような人の場合は、介助っていうのは主体性がいらない仕事なんですよ。というか主体性がないほうがいいみたいな仕事なんです。基本はやれって言われたことをやる、言われた通りにやる。
 だからこの仕事は、「私が私が」って、「俺が俺が」って、そういう人にはあまり向かないかもしれません。前向きの、前のめりの人間よりも、すこし後ろのほうに引いてる人のほうが向いてるところもあるように思います。そして、そんな人たちや、その人たちの仕事がなにか低くされるべきいわれは何もないことは後でまた言います(第8章・196頁)。
 そしてこの仕事って人間関係の仕事の極地みたいに思われているかもなんですが、意外とそうでもないところがあると私は思います。仕事の場での人間関係って、お客との間の関係ということももちろんあるけれども、実は、同僚であったり上司であったりという人との関係が大きいですよ。そして、こちらのほうの人間関係ですっかり消耗してしまうということがたくさんあります。ただ、基本一人が一人をという介助の仕事の場合は、たくさんの人に囲まれて、上役の言うことを聞きながら、同僚と仲良く仕事をするというのとは違います。おおまかには一人に一人という仕事です。そういう仕事のほうがよいという人には、合っていると思います。
 1970年代半ばぐらいまでに大学に入ったみたいな人だと、「学生運動」に関わって、そして挫折したって人たちがいます★08。そういう、学生くずれ、運動くずれという人たちもかつてはいました。革命するってぐらいですから、まずその人たちは反社会的であったはずです。さらに、それが挫折するんだから、ますます外れ者です。むろん、実際には、運動やっていた人たちの中には官僚・社員として優秀な人もたくさんいて、その人たちはつつがなく社会を泳ぎ、世間を渡っていったのですが、そうでない人たちもいました。負けたんだから仕方がない、会社員になる公務員になる、とはならなかった、なれなかった人たちがいます。運動としてという人、場合によっては新左翼組織の指示でという人もいますし、組織や組織の運動がいやになって抜けて、でも自分なりの運動の継続をという思いの人もいるし、もうそういうのはやめたわという人もいる。全部が混ざっている人もいる。そういう人たちが障害者の世界に入って、でもそれがなんだかわりと水にあって、それから40年とかやってるという人がいます。
 今はそういう経歴の人はまずいません。でも、介助・支援の世界に入らなければ、引きこもりなりそれに近い感じで来てたかな、みたいな人もいますね。ということは[…]
海老原宏美・海老原けえ子『まぁ、空気でも吸って――人と社会:人工呼吸器の風がつなぐもの』表紙  『道草』(2019)という映画があります★09。知的障害の人たちとその人たちを介助する人たちを撮った映画です。壁を叩いて穴をあけたりする、いわゆる強度行動障害がけっこうきつい人もいて、なかなかに大変でありながら、その大変さもこみで、そこに出てくる介助者を見てて、楽しい、というか、うれしかったです。[…]この映画を撮ったのは宍戸大裕さん。宍戸さんのその一つ前の映画が『風は生きよという』(2015)という作品で、写真はその主人公の一人、海老原宏美さんの本『まぁ、空気でも吸って』(2015、現代書館)の表紙です。
 だいたい40すぎのおじさんたちが知的障害の本人の後ろを付いてって、だまって、あるいは時にああでもないこうでもないってやりとりしながら1日を過ごす。それを仕事とし、その仕事で飯食えてる。頑張るともなく頑張ってて、ちゃんと飯食ってるぞっていうね、その飯が食える仕掛けというものを日本の運動が30年、40年かけて作ってきて、今を作っているっていうのが、「いいぞ、おじさんいいぞ」って。そういう姿って、[…]そんなに世の中に、世界中にあんまりないんじゃないかっていう気がしてね、それは誇らしい。そういう世界観っていうか世界みたいなのを作ってきたっていうこと、それはやっぱ、みんな単純にほめようよって僕は思います。

調整する仕事
 と、なんだか変わり者たち、みたいなことを言いましたけど、もちろん、大多数はまったく「普通の」人たちですよ。むしろ、普通の典型的な「社会人」たちの仕事のほうが、仕事ができると思われたり許容されたりする幅が意外と狭いと思うところがあります。機械でできることは機械にさせるようになったためもあって、仕事全体の中の人間関係の仕事みたいなものの占める割合が高くなって、かえって、「無駄な」とあえて言いますが、無駄な気づかいが必要なところがあります★10。それに比べると、むしろこの介助という仕事のほうがいろんな人を許容する幅があると言えるようにも思えます。「普通」から若干外れていると自分のことを思ったり、人から思われている人もやっています。自分は発達障害だと自認してる人がいたりします。診断がついてると言ってました。精神障害であったり発達障害であったりって人が、知的障害の人のガイドヘルプ、外出時の同行とかそういうのですね、をやったり、そんなこともあったりします。組み合わせ、とり合わせはいろいろです。
 こうして、利用する本人が指図して介助者がその通りにする、それでことが普通に運んでいく、その二人の間になんの問題も生じないというのなら、それはそれでけっこうなことです。ただ、いつもそううまくいくとは限りません。二人の間にもめごとが起こったり、ただ介助するというだけではすまない問題が持ち上がったりで、間に入って調整したり、という仕事が出てきます。[…]これらについては第4章(108頁)で紹介します。

 それから、最初におことわりするのを忘れていましたが、ここでは基本的には「介助」という言葉を使います。制度的には「介護」が使われますし、一般にも普及しているのは介護のほうでしょう。[…]制度を作って、そして使って暮らす人には、「介護」の「護」は「保護」の「護」だからいやだって人たちが多いです。ならば「助」ならいいのか、とか、運動家・組織も「介護保障」という言葉も使っているということもあり、私自身はそんなに強いこだわりはないのですが、まあ「介助」でよかろうということで、本書でもおおむねこちらを使っています。




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  第2章 いろんな人がヘルパーをする




年とっても/とってからやる
 この仕事には、普通の会社員・公務員のように定年がないところがあります。70代後半の人、さらに80を過ぎた人で、現役でヘルパーやってる人が実はかなりの数います。私は、けっして、そんなにいつまでもがんばれと言いたいわけではなくて、でも、仕事できるし、したいという人はしたらよいと思うんです。
 昔って55歳定年だったんだよね。信じられないというか。私は、2020年に60になったんですけど、まだ駆け出し、修行中、みたいな感じだよ。65になった時にこの駆け出し感っていうのがなくなるかというと、それもよくわかりません。
 「少子高齢化で大変」ってよく言われるけど、という話はさきに少ししかけました(30頁)。少し続けると、高齢化は、平均すると、一生のうち元気で働けてしまう時間が長くなり、一生のうちの働ける時間の割合も高まるということでもあるんです。もちろん人は、だんだんあるいは突然、元気じゃなくなる。これは仕方がない。[…]でもたいがいの人たちは、かなり長く、なぜか元気なんです。その期間は長くなり、一生のうちのその期間の割合も増えている。これは、まあよいことでしょうね。
 だけど会社はまだ元気なうちに仕事を辞めろと言う。定年って不思議っていえば不思議な制度ですが、人が世の中に、そして会社の中に、足りないんじゃなく、余っているので、より使い勝手のよい人を採ったり残したりするため、人減らしのための仕組みだと考えたほうが、この仕組みをうまく説明できる、と私は思っています★01。また後で少し続けます(55頁)。
 そうしたなかで、退職金もあんまりはないとかね。年金は65からもらえるけど70からでもいいとか、この国の制度はそういう仕掛けになっている。そしたら70からもらうことにして、65から70の間は何しようかなみたいなことになる。多くの人は自分がいた会社の嘱託社員みたいなのになって、仕事は減って管理職をしなくて済むからいいともいえるし、しちゃいけないともいえる、そういう仕事に就く。たとえば僕らの大学だったら[…]。民間の企業でもけっこうそういう人がいます。
 ただ、[…]そんなところは辞めちまうという手もあります。まるきり金がないわけでもないが、元気も余ってるし時間もあるし、いくらか金も稼げればもっといいということであれば、60や65からの仕事の一部として、こういう仕事をやってみるっていうのも、僕はけっこういいんじゃないかなと思うんです。
 ただ、今までばりばりやってきた人たちがみな、基本的には地味なこの仕事ができるかなという心配がなくはありません。[…]
 こうして、きちんとした勤め人だった人は、かえって、けっこう扱いにくいこともある。とはいえ、いわゆる仕事ができる人たちではある。ですから、使いようというところもあります。

再起の始まりにする
 NHKオンデマンドという、過去の番組を見れる有料のサービスがあるじゃないですか。あれ見てたら、『ミッシングワーカー』っていう番組がありました(NHKスペシャル、2018)★02。40代ぐらいの男性、男性に限らないのか、シングルの人が、親の介護とかで仕事を辞めざるをえなくなり、辞めちゃったと。そして親のたくわえであるとか、年金であるとかで食べていく。そうやって10年、20年、親の介護をする。それで50になりました、55になりましたと。その親はそのうち死ぬじゃないですか。そうすると親の年金もなくなり、収入がなくなる。だけど[…]
 日本の場合、どういう人を失業者って言うかというと、行政的にはたいへん狭い定義になっているんです。[…]
 今まで介助の仕事をしてたから、次も介助の仕事しなきゃいけない、そんな決まりはもちろんありません。さんざんやって飽きた、疲れたということであれば、別の仕事のほうがよいと思います。ただ[…]昨日までやってきたことを、今度はお金もらってやってみる、しばらくそういうのをやってみて、だんだん体をほぐしていって慣らしていって、別の仕事をしてみるとかね、そういう人もいていいだろうと思うんです。

だいじょうぶ
 いまの話は、かつて親の介助をしていて、親がいなくなって、失業者にカウントされてないけど仕事がなくて、というような人が100万人いるということでしたよね。そしてさっきは定年になって、力をもて余している人の話でした。だから、少子高齢化で人が足りなくて、それで働き手が足りないから大変だという話を信じるところから始めることはないということです。もっと子どもを産め、ということにもならない。子どもがたくさん生まれるのはいいことでしょうけど、まず、人が少なくなるから産めと言われて産むものかよということがあります。畜産業じゃないんだし。失礼でもあります。仮に、そうやって産めよ増やせよって、それが実現したとして、いったい何十年後の話のことだよっていうのもあります。
立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』表紙  ケアワーカーに限っては外国から人をいれなきゃならないという話にしてもそうです。外国人労働者が来るのも悪いことじゃないと思います。だけど、そうしないとやっていけないとか、いや、そもそもやっていけないとか。やっていけなくなるから、世話する仕事をする人に限りがあるんだから、世話されるやつを殺してしまえ、みたいな。実際に殺してしまったのが2016年7月の、相模原の「やまゆり園」という施設での事件ということになります★03。写真は、翌年の1月に出版された『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(立岩真也・杉田俊介、青土社)の表紙です。
 ほんとに大変なら、それを前提にして考えるしかないこともあるでしょう。しかし[…]

すべての人を、は無理、だからしない、とはならない
 こんなふうに構えたほうがいいよ、ということは、介助の仕事や介助を使う生活をどう押さえるかにも関わってきます。私自身は、確実にかなりけちな人間なので、基本一人が一人につく、そして、必要に応じてではあるけども、長い時間つく、という、はたから見る限り、緩いというか贅沢なというか、そういう働き方・使い方でよいのだろうかと思うところがないではないのです。これは、生活する一人ひとりは一人ずつ住んでいること、一人ひとりが行動し移動することに対応しているわけですが、そこのところを、二人(以上)が近いところにいてもらって、それを一人で担当するとかのほうがいいんじゃないかとか、もっと効率的に働けないだろうか、また使えないだろうかとか思ってしまうところがあるわけです。
 しかし[…]
 そのぶんお金がかかるだろうと言われるかもしれません。もちろんかかります。しかし、まず、基本は右から左に移るだけということです。たとえば、今まで家族介護で無償でやってきたことにお金が出るようになったとしましょう。それだけなら人間が行なう仕事の量は何も変わりません★04。そして仕事をする人は、所得保障(生活保護)だけで暮らすより――実際には、とれるはずの生活保護だってとれてない人が多いのですが――いくらかよい生活をすることができます。そのぶん税金の払いが多くなる人は出てきます。だけれどもそれは、考えてみれば当然のことで、そして、たいしたことではないのです。それは「分け方」の問題であって、ものにせよ人にせよ、「総量」が足りないということではありません。これまでに私の書いたものがあるけれども、とさっき言いました(30頁)。これからそれを短く、やさしくて、そしてなぜ間違った話が流布してしまっているのかを加えて、やはり新書にして出してもらおうと思っています。
 しかしそれでもなお、介助を必要とする人はすくなくとも数百万人といるのに、そのすべての人に対応することはできないだろう、と言われるかもしれません。それに対しては、私は、気弱なところかあるので[…]

学生のバイトにもなる
 ずっと介助の仕事、毎日ずっとおんなじ仕事をする、自分はそれがいいという人もいます。こうして、人生全体を控えめにという人がいても、もちろんよいのです。他方、他にやることがあったりして、生活の一部、仕事の一部にしている人もいます。別の仕事とともに、あるいは辞めた後もあり、という話をしました。僕は大学院生っていう人たちの研究を手伝うのが本業なんですが、大学院生をしながら介助の仕事をしてる人、僕のまわりが特異かもしれませんけど、けっこういます。
 韓国から来てるユ・ジンギョンさん★05っていう女性の大学院生は増田英明さん(63頁)というALSの人の介助をしています。ALSって[…]。そうしてだんだん日本語が上手になってきて、増田さんをはじめとする京都の人たちについての研究をしています。
 それからロッズオ(陸智豪)さんという上海から来てる大学院生もいます。彼はうちの大学院に来る前からそういうアルバイトしていて、今でもやっています。こないだ腰わるくして、これ職業病みたいなところがあるんですが、心配したんですが、なんとかなったみたいです。「ココペリ121」という、不思議なイベントを時々やったりする大阪の事業所★06で働いています。
 留学生つながりになってますけど、留学生がとくに多いというわけではないんですが、もう一人、焦岩さんというやはり中国からの大学院生がいて、彼はプログラミングとか上手な人で、私たちのサイトのデータベースのためのプログラムを作ってくれたこともあるんですが、彼もそういう仕事していたことがあることを、つい最近知りました。彼は院生は続けてますけど、コンピュータ関係の専門学校の専任講師になれたので、介助の仕事は終わり、今はその仕事と研究との兼業です。そして私は知らない人なんですが、彼の知り合いのスペイン人で[…]
 そして、たまたま今はスペインやら韓国やら中国やらということになりましたけど、普通のというか、日本国籍の日本人という人でも、一方でそういう仕事しながら、大学院生している人たちがいます。
 学生さんは逆に辛いかもね。学校に行かなきゃいけない時間が決まってて、その時は学校にいなきゃいけないっていうのあるので。[…]ただ、そういう忙しいなかでも、大学生や専門学校の学生さんが働いてくれてて、それが代々バトンリレーのように続いていて、その人たちの介助があって生活を成り立たせている人もいます。いろんな学部の人がいますけど、そうやって友達つながりで複数いて、代々続いているところとなると、看護とかリハビリテーションとかそういう学校・学部の人たちが多いことは多いですね。日本ALS協会の会長なども務めた東京の岡部宏生さんのところはだいたいそんな感じです。学生さんが多いです。彼は「境を越えて」というNPOをやっていて、彼の方法を伝えるということもしています。詩作で知られる筋ジストロフィーの岩崎航さんのところも、岡部さんは訪ねたそうで、そういう方向で今動いているんだと、2019年に仙台でインタビューした時、岩崎さんおっしゃってました★07

前衛の仕事と後衛の仕事
 さっき、ユさんが介助している人として名前を出した増田さんは、ALSで生活の全般について制度を使っています。京都でそういう生活を実現できたその初代、先祖みたいな人は、甲谷匡賛さんという人なんです★08。甲谷さんは、舞踏、昔だと暗黒舞踏とか言ってた流れのものとかね、身体使って表現する人たちの身体のメンテの仕事をしていた人なんです。そういう人が、突然ALSになって体がだんだん動かなくなった時に、最初に支援した人たちがその身体系の人たちで、はじめはボランティアっていうか、そういうかたちでやったんだけれども、それじゃ双方とも大変じゃないですか。それで、京都市に交渉して制度を使えるようになりました(87頁)。そして、支援してきた人たちも、そういう仕事をしてもお金が得られるようになって、昼間は踊って、か、夜は踊るかどっちかわかんないですけど、どっちか半分踊って、それだけでは飯食えないし、甲谷さんの介助をする。
 一方で自己実現的なことはアートみたいなところでやりながら、でもそんなこと一日やってたら疲れるから、半分そういうのをやりながら、そうじゃないところで人の言うことを淡々と聞くという仕事をする、そういうバランスもいいと思って。[…]こういうことはずっと前住んでいた東京でもありましたね。
 もちろんそれは介助の仕事に限りませんけどね。こちらの大学院生に清掃の仕事のバイトを始めた人が最近いて、清掃の仕事いいよねっていう話をその院生としてて。そういう黙ってできる仕事って、嫌いな人は嫌いかもしれないけど、いい人にはいいんですよ。[…]主体性を殺せる、黙ってできる。実は、介助の仕事はもうすごい大変なこともあるんだけど、そうでもない時もある。
 ひょっとするとこれは、世界的にそうであるわけではなくて、わりと日本的な出来事なのかもしれないなって思います。制度がない、お金のない人は人を雇えない、終わり、死んじゃいました、みたいなことは世界中で起こっています(164頁)。他方、お金のある人が、自分のお金で、移民とか、外国からの安い労働者を使って介助をまかなっているっていうところもけっこうあるんです。やりたくてやってるわけじゃない、しょうがなくて金稼ぐためにやってるという、そういう人たちがケアワーカーの仕事に就く。いわゆる先進国、米国とかでも、それから途上国と言われるところでも、世界的には普通なのかもしれません。
 ただ、京都であるとか、東京にも私いたことあるんですけど東京でも、けっこういろんな、多様な層が入っては、入って留まり、留まってやがていなくなる。でも中には、30年、40年って続いている人もいる。そういう世界、介助者の世界があったりするんです。[…]そういうカルチャーというか現実があるんですよ。これは世界に誇っていいことであるかもしれない。だから京都、意外といいなって、ほめることにしようと、このごろ僕は思っています。

これは田舎に適している
 ここで紹介している制度やそのもとになった前の制度を含め、始まって広がっていったのは、大都市、もっといえば東京都の一部であったのは事実です。田舎じゃ難しいという話は今でも聞きます。ただ、実際にはそうでもないというのが一つです。そしてもう一つ、これは地場産業です、成長産業ですという話をします。
 […]
 以上、たしかにあまり派手な話ではありません。しかしそれでいいんです。うまくいってテレビに出たりする「地域振興策」といったものは、他でうまくいかないから目立っているわけで、たいがいはそううまくはいきません。その中でこれは、確実に必要とされ、いろんな人ができ、他の仕事と兼業もできます。よいと思います★09




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  第3章 制度を使う




介護保険の他に一つ、二つある
 日本のホームヘルパーの種類は大雑把にいうと二つあります。ちまたでホームヘルプとか在宅介護とかいう言葉でみんながすぐに思い浮かべるのは、公的介護保険のヘルパーだと思います。実際、利用者も多いし、お金もいっぱい使われているのはこちらの制度です★01。2000年に始まりました。[…]
 みなさんがこの2日間の研修と3時間の実習受けてできるようになるのは、この介護保険という、国民の誰もが知っている巨大な制度のもとでの仕事とは違うんです。「障害者総合支援法」という法律があり、この法律の中にもヘルパーの制度があって、そちらのほうです。さらにその中に、略して「重訪」と言われる制度があります。他にもありますし、その前はどうだったかとなるとさらにややこしいのですが、ここでは省きます★02
 細かいことを省きます。研修3時間と実技7時間(基本課程)を受けると、障害程度区分4、5の重度訪問の介助ができます。さらに7時間の講義を受け(追加課程)、加えて看護師等の指導のもと利用者のところで3時間の実地研修を受けると、医療的ケアが必要な障害程度区分6の人の介助ができます。重度訪問介護資格だけ取得したい人は基本課程だけ受講も可能、基本課程を既に修了している人は追加課程だけ受講することもできます。
 喀痰吸引等の認定には、これとは別の研修の受講が必要です。第1号、第2研修は50時間の講義他の長い時間を要しますが、第3号研修は9時間講義・演習と実地研修。重度訪問介護と第3号研修を同時に受講できる計20時間半の「統合課程」もあります。
 詳しいカリキュラムはサイトに載せておきます(23頁)★03。それで今日のは「統合課程」、初日の1コマめの「重度の肢体不自由者の地域生活等に関する講義」2時間で、私の担当です。基本課程+追加課程の研修の時もあります。そこでも同じコマを担当しています。
 介護保険のヘルパーも資格を取ればできるようになりますが、短くても1カ月はかかります★04。普通に考えたら、研修期間に差があるって、不思議です。簡単に言うと、重訪の前身に当たる制度の時から、そもそもなんの資格も研修もなくて、利用する側が介助者を集めてきて、自分でやり方を教えて、できるようにさせてきたんですね。その人たちは、へんなことを学校で教わってくるよりこのほうがずっとうまくいく、実際うまくいっている、制度が変わってもそれでいいじゃないかと主張したんです。ただ、それは行政との関係でそのままは続かず、短い期間の研修ということだったら受け入れるしかないかなということになり、こんな形になったということなんです★05
 そしてさらに、いわゆる「医療的ケア」については、とくに看護の人たちが、これは自分たちだけの仕事だと言い張って、じつに非常にすったもんだがあったんですが★06、その末にヘルパーに認めるということにはなり、さらに、看護業界は看護師が指揮指導する長い研修を主張したのですが、それはそれとして1号研修・2号研修として認め、それとは別に、いま3号研修としてある短いものも認めさせるという妥協の産物でもあります。
 なんで介護保険と総合支援法〜重訪の二つがあって、なんで今日は後者の研修を受けてもらうのかには、まずまず複雑な事情があります★07。筋論だけを言うのであれば、制度は一つでいいんです。そして、統合という話もずっとあります★08。けれどもそれは、今の介護保険がそのままである限りは絶対にできない、すべきでない。理由は単純です。介護保険が使えないからです。
 介護保険には「要介護認定」があって[…]
 月に30万円以上出ている人でも1日2時間っておかしくないかと思われると思います。その理由はあとで説明します。

24時間
 もちろん1日2時間で足りればそれはそれでよいのであって、文句はないのです。ですが、世の中そういう人ばかりではなく、最大、1日は24時間、24時間365日必要な人もいます。[…]
 介護保険は基本的に時間がまず圧倒的に少ない、足りない、目いっぱい使っても足りないということがあります。やれることも、これは制度的には微妙で、やってやれないことはないんだけれども、痰の吸引とかそういうところまでやってる事業所は大変少ないということもあります。[…]それで、利用者の側からいえば、こっちの制度では足りないんで、使えないんで、もう一つがいるよね、ていう単純な話です。で、介護保険よりマイナーなんだけれども、利用者にとってみれば使い勝手がいいこちらの制度を使うっていうことになる。この制度は、常時に近い長い時間のヘルプ、介助が必要な人に対して介助するというものです。最大で毎日24時間つきそう重度訪問介護のヘルパーが利用できます。同時に2人のヘルパーまで。外出時や旅行中の介助にも使えます。
 ちなみに、24時間ってどういうことなの?と思う人もいるでしょう。しかし夜中も、夜寝ている時も、痰の吸引ってものが必要な人はいます。[…]そういう必要がある人は、痰が詰まっちゃうと息ができなくなってその人死んじゃいますから、それは困るわけで、そうすると何十分に1回とか、吸引しなきゃいけないわけです。たとえば、一番わかりやすいのでは、そういう人が24時間っていう時間が必要になります。

介護保険のほうが単価は高い
 介護保険は保険で、重訪は基本的に税金でまかなわれてます。ただ、そういうお金の種類の話は、介護保険についても実際には税金からかなり支出されていることだけ言って、今日は措いておきます。どちらも、どういうことをしたら何点っていう点数になる。1点いくらかは地域によって微妙に違うんですが、だいたい1点10円という計算です。税金や保険で政府がお金を集める。事業所がした仕事の量を点数に換算して算出されるお金を事業所に渡す。事業所がそこに働いている人に、事務経費やら管理経費やらを差っ引いた上で渡す。簡単に言ったらそういう仕掛けです。
 時間当たりのお金でいうと、介護保険のほうが単価はいいんですよ。1時間なら約6000円、2時間だと時間あたり4000円弱★09。それに対して重度訪問の場合は、仕事の時間によって少し変わりますが、1時間約1800円★10。介護保険の3分の1弱です。
 すると、事業所にとっては、ヘルパーに同じお金を払うんだったら、介護保険のほうが重訪よりもお金がいっぱい入るから、おいしいってことになる。それで[…]
 そして働き手にとっては、利用者のところに行って8時間ずっと働く。それなりの時間働いて、かける時給だから、それなりの額になるということはあるじゃないですか。それでまあ、まずは暮らしていけるという人も出てくることになります。
 それにしても、事業所が受け取るのが1時間1800円では、せめてそれくらいにはしようと言った(第1章・31頁)1500円を、事業所はヘルパーに払えません。だから、増やすべきであり、そしてそれは単純に時間500円を上乗せすればすぐにもできるのだから、すべきである。それがさっき言ったことです。

専門家も知らない、から
 […]
 制度があること自体、多くの自治体の職員、相談員、ケアマネージャーなどは知りません。まったく知らないか、すごく大雑把にしか知りません。ケアマネージャーって、基本的には介護保険のケアマネージャーですから、介護保険のことはまあよく知っている。それが仕事だからね。それで給料もらっているんだから知っていて当たり前なんですけれども、重訪のほうは知らないか、知らないに近いです。[…]知っていると思っている人から、介護保険の他に制度はないとか、障害者の法律でもこれだけのものしかないって言われたら、そう決まっていると私たちは思うはずで、それ以上調べたりする気にもならなくなるじゃないですか。
 こういう状態はよくないってずっと思ってきました。どうしてこんなことになっているのか、なぜ知らないのか★11。単純に、「ケアマネ」と言えば介護保険のケアマネ(でしかない)ということがあります。そして、社会福祉の「本流」とは別の流れとして出てきて育ってきたという事情もあるでしょう。しかし、だからといって、今になってもまだわかってないというのはたいへん困ります。それでも、この制度を使ってきた国会議員が出てきたこともあって(163頁)、少し知られるようになったかな。さらに知ってほしいと、本書も作ることにしたのです。

まずサイトを見る
 役所や「専門家」はほぼ知らないことが、残念ながら前提になるので、ただ窓口に行ってもらちがあかない可能性があります。可能性高いです。なので、残念ながら、こちらである程度のことを知っておいたほうがよいということになります。だからこれから少し説明しますが、詳しくは本書よりウェブサイトのほうがよいです。私なんかより、ずっとこの制度を広める活動をしてきた組織のほうが、ずっと適しています。
 「全国障害者介護保障協議会」という団体があり★12、そこの「全国障害者介護制度情報」のサイトがあって、問い合わせもできます。それから、各地の「自立生活センター(CIL)」などに、ところによっては少し頼りないところもありますが、相談すると応じてくれるでしょう。だから具体的なところはそちらで、ということにします。紙の本は、頻繁にある制度の変更に対応しにくいということもあります。ですからここでは簡単にします。

ごく簡単に
 介護保険では要介護認定という、マークシートにチェック入れて、コンピュータでピーッっていう仕組みでかちっと決められるわけですね。[…]文句はいっぱいあるんだけど、文句言っても誰も聞いてくれないみたいなことになってるんですよね。
 障害者の法律に規定されているサービス★13も、だんだんとそんな具合になってきました。基本、「障害程度区分」というものに対応して決まっています★14。それに対して、本人が要ると言っただけ使ってよい、実際に使っただけ税金から支払ってよい、「青天井」だってかまわないんだという主張があって、私もその主張に加担してきたんです。荒唐無稽と思われるかもしれないけれども、実はそうでもありません。かなり合理的な主張なので、それを取り下げるつもりはありません★15。ただ現実には基準があって、しかしこの基準では生きていけないんだということで、それを超えた個別の決定を認めさせてきたのがこれまでの歩みであって、重度訪問という制度もそもそもはそういうところから出てきたと考えてもらってよいです。
 「総合支援法」で決まっているサービスはいくつかあるんですが、いわゆるホームヘルプサービスに当たるのが「居宅介護」です。[…]誰にどれだけを支給するのかについて、厚労省はその基準を作ったほうがいいよいったことを言う、そして市町村が決めることになっているんです。ただそのうえで、これもよくわからないんですが、厚労省はその「居宅介護」の「支給決定基準」は示していて、それは最も重い区分6でも月1900分です。つまり、1日1時間すこしといったところです★16
 […]こういうふうに示される「相場」がこんなもの、となると、「重度訪問」で1日8時間とか24時間もありとかいうのは、桁が違うわけで、なんかわけがわからんと思われても仕方がないのかもという気もします。ただこの「居宅介護」にしても、決めた基準以内でということでは必ずしもない――次に出てくる「定型外」がある――ことは付け加えておきます★17
 さてその重度訪問介護ですが、利用条件は障害程度区分4以上。両手両足のうち2肢に障害があるか、重度の知的障害がある、など★18。このことは厚労省の通知に書いてあります。ただ、「居宅介護」の月1900分といった数字に対応する数字は同じ通知には書いてありません。さきに名前をあげた全国介護保障協議会が、厚労省と交渉して、個別に対応すべし、基準は上限を設定するものではない、24時間もあり、といった文書の類を幾度も出させて、実際の水準と運用を実現してきたのです。そこで、協議会の側の説明を次節でそのまま使います。

解説
 以下は、私たちのサイト(23頁)の「重度訪問介護(重訪)」のページにある「Q&A」の答えの一部です。このページには、介護保障協議会とその関連団体(93頁)で長いこと仕事をしてきて、このQ&Aも作成した 大野直之さんの『訪問看護と介護』(医学書院)での全6回の連載「24時間365日のつきっきりも実現する あなたの知らない重度訪問介護の世界」の全文にもリンクさせてあります[…]

 […]

 このように言えるその「もと」の行政文書はなんだとか、「支援区分」?、「支給決定基準」?、「非定型」?と調べ始めると、けっこう手間どります。私たちのサイトと本書の電子書籍版(23頁)には、いくらか厚労省の「通知」であるとか、「もと」の行政文書など集めて整理し、掲載してあります。交渉して、そういう文書を出させて、「実績」と「実態」を作ってきたという動きがあってのことです。ですから、その具体的なところは、長いことそういう交渉にあたってきた民間のほうがわかっている、他方、とくにこれまでやってこなかった自治体はわからない、そういうことだろうと思います★19

介護保険との関係
 また、65歳以上の人(と幾種類かの障害のある人)は介護保険の対象になるということで、そして介護保険が優先で、それを使ってから障害者用の制度を使ってくださいと言われることもあります。ソーシャルワーカーでそういうことを知っている人は上等なほうだと言いました(78頁)。たしかに基本そうなのではあります。ただ、杓子定規に常にそうじゃなきゃいけないとはなっていない。[…]★20
 介護保険で足りない場合の「併用」は可能です。ならそれでよいではないかと思いますが、そうでもなくて、利用者にとっての不都合は、一つ、短い時間の介護保険を計画に組み入れる必要が出てきて面倒なこと。もう一つ、自己負担の基準が双方で異なっていて、総合支援法では上限が3万7200円ですが★21、介護保険のほうは収入によっては3割負担ということになります★22。ただ、前者については、両方の制度でのヘルパー派遣をしている事業所にうまく調整してもらうといったことは可能です。後者は、収入がなければ、実際には負担なしになります。
 ちなみに、市の窓口に行くと、だいたいうちはお金がないって言われるんだけども、こういう事業はたいてい国が半分お金を出すんです。加えて、京都市とか大阪市とか横浜市とか政令指定都市はまた違いますけれども、普通は都道府県が4分の1、市町村が4分の1です。そして、さっき国のほうでよくわからない時間数を示したりしていましたけど、それと関係なく、市町村がここまでやるって決めれば、どうのこうの言わず、国は2分の1を出さざるを得ないという仕組みなんです★23。これは、お金がある地域から、ない地域にお金を移して人を雇うこと、地方で産業を興すことだと言った(66頁)のは、そういうことでもあります。

交渉がいる、こともある
 私が京都に越してきたのは2002年です。京都はその頃はしょぼかったんです。重度訪問の制度そのものがあまり使われていなかったし、それから利用できる時間数が少なかった。[…]2004年にALSを発症した、西陣のあたりに今住んでる甲谷匡賛さん(64頁)が、制度を長い時間使えた最初の人になります。
 甲谷さんは、身体系っていうか、舞踏、体を動かして、踊って、パフォーマンスっていうかアートっていうかする人たちの体をみてあげるっていう仕事をしていたんです。それで、そういう知り合いがいっぱいいて、比較的時間が自由になる人もいて、そういう人たちが最初ボランティアみたいな形で入ったんだけども、でもやっぱ24時間365日いるから、これはたいへんだと。どうかしないとだめだってことになって。それで、彼をサポートするいろんな人たち、舞台プロデューサーの志賀玲子さんとか、舞踏家の由良部正美さんとか、京都新聞の岡本晃明さんという記者とかね★24。岡本さん経由だったのかな、私も少し関わることになって。私、制度が使えないはずはないといったおおざっぱなことは言いましたけど、具体的なことはわかりません。東京で制度使ったり事業をやってる人、当時、私の勤め先の大学院生でもあった川口有美子さん★25とかに教えてもらったりしました。
 2008年の1月、京都市の市役所に、甲谷さん先頭で、そこに彼の支援者がついて行きました。僕も後ろのほうにいました。そして、市役所の障害福祉課長さんに直談判しました。やっぱり現物がいるっていうのは強いもので、見たらこれどっこも動かないよってのわかります。わかるというか、それが現実そのものなわけです。一気にあのときの交渉で、というだけではないのですが、甲谷さんは24時間介助を使えるようになりました★26。その甲谷さん、今でもよく京都の街中のお寺巡りとかしてます。
 そして、役所というのは基本的に先例主義なんで、つまりいっぺんそういうケースが生まれると、同じような条件の人については、同じだけ出すということになるんです。それはよいことでもあります。最初の人は大変ですが、2人目からはそうでもない。
 今日、あとでレクチャーをする人たちの何人かも関係した杉江眞人さん★27もALSの人だったんだけど、なおかつ彼の場合は家族と別れて単身だったし、甲谷さんの時みたいにボランティアベースでしばらくは持つということもなかった。やっぱり要るものは要るっていうんで、2人目はわりと簡単に通りました。[…]私たち△088 が知っている借家に越してきたのが2008年の10月[…]。その家は私の勤め先の大学のすぐ近くにありました。大家の酒屋さんがいい人で、安く貸してくださったんです。杉江さんは2013年に亡くなりました。ALSで人は死にません。ガンで亡くなられました。
 そして私たちが今つきあいのある、そしてこの講習でも講師をしてくれる増田英明さん★28。やはり発症は2004年。支給が24時間になったのは2012年だそうです。[…]その辺についてはさん(61頁)が論文・博士論文を書いてくれると思います。
 京都はそういうふうにして、かつてはそうではなかったんだけれども、そういう人たちが出てきた。交渉したのきっかけに、時間が延ばせるようになりました。
 不思議といえば不思議なんだよ。交渉しないと出ないのかよって。それはよいことではありません。[…]。そうなんですが、さっきも言いましたように(81頁)、制度の「相場」からいったら例外的なものをなんとか認めさせて、そして定着させるという道のりでできた制度なので、こういうことになっています。

弁護士たちも支援している
 自分で交渉しないといけないというのは、そりゃしんどいと。昨今[…]起こっていることとしては、法律家、弁護士ですね、が、わりと協力的になりつつあります。本人と役所が交渉するといっても、気の弱い人、気が小さい人もいる。面倒だし。いろいろな事情があるわけだ。そういったときに、ここのところ、弁護士たちがネットワークを作って、時間を増やすとか、そういう活動をしてくれています。「介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット」というのがあります。われわれのサイトにもそのページはあって、そこから全国ネットの事務局のホームページにもリンクさせていますから、見てもらうことができます★29。また、このネットの代表者藤岡毅さんと、和歌山訴訟の弁護も担当した長岡健太郎さんの『障害者の介護保障訴訟とは何か!――支援を得て当たり前に生きるために』(現代書館、2013)、介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット編で『支援を得てわたしらしく生きる!――24時間ヘルパー介護を実現させる障害者・難病者・弁護士たち』(山吹書店、2016)が出ています。
 和歌山で、やはりALSの人が裁判に持ち込んで勝ったことがあります。2010年に提訴、2012年に、24時間は少し切ったんですが、出せってことを裁判所が和歌山市に命じるという判決が下ったことがあります★30。これはかなり報道もされて、弁護士たちがこの件に関わるきっかけになったところもあるかと思います。
 ただもちろん、裁判は普通はしんどいです。役所の窓口に行くよりずっとしんどいでしょう。ならば勘弁、と思うかもしれませんけど[…]、今は多くの場合、弁護士が介在するといっても、裁判まで持っていかれることは少なくて、というかほぼなくて、弁護士が役所と交渉するというか、この人はこれだけいるんだから出してくださいよってことを言う。そうすると、東京とか大阪とか、弁護士なんかたくさんいて慣れてる役所は弁護士バッジぐらいじゃあんまりびびらないんだけれども、地方に行くと、弁護士ってのはまだちょっとは偉いっていうか、そういう職業のようで、わりと話を聞くっていうようなことがあるらしくて、ここ数年は弁護士が入って交渉するというようなことになっています。
 私が知っているところでは、2017年の10月、古込和宏さん★31という筋ジストロフィーの人が、昔は「国立療養所」(168頁)と呼ばれた病院=施設の一つ、金沢の「医王病院」を退院する時に、それまで金沢市ではまったく使われていなかった重訪の制度を使えるようにしなければならなかったんですが、その時には、宮本研太さんという弁護士さんが活躍してくれて、むろんそれだけでというわけではないですが、使えるようになりました。写真は退院した後のものです。
 1枚は、古込さんは囲碁がたいへん強い人なんですが、オンラインで囲碁をやってる写真。介助者が代わりに盤のところにいます。もう1枚は、彼の居室で、支援にあたった日本自立生活センター(102・170頁)の小泉浩子さん★32、段原克彦さん★33、そしてメインストリーム協会(170頁)の井上武史さん★34と話している写真です。
古込和宏20180131-4  古込和宏
 そしてこの弁護士たちのネットワークと、全国障害者介護保障協議会(80頁)、そして運動体としての協議会と連携し情報提供・相を担う「障害者自立生活・介護制度相談センター」とは連携して活動しています。普通には、弁護士に相談に行くのだって十分に敷居高いですが、協議会・センターに相談し、場合によっては弁護士さんに、という具合につないでもらうということであれば、お金についての自己負担もなく相談することも可能で、そうたいへんというわけではないです。

いちおう押さえておくということ
 以上、介助が必要な側、ヘルパーを使おうという側から、制度のことを説明しました。働こうという側の皆さんは、[…]この制度そのものがそうやって交渉したりなんやかやして、作られてきて、いわば勝ち取られてきたものであって、あるいはそういうことがないとできなかったっていうことは押さえといてもらってよいことだと思います。
 あるいは、この人だったらこれだけほんとは要るよね、だけどないよね、少ないよねっていうことがあります。やっぱ京都府でも、京都市とたとえば舞鶴とかね、京都市じゃないところはいろいろ違うわけですよ。そのときに、制度がよくなるよう支援する。でないと自分も働けないし、あるいは、本来それを利用できるはずの人はそれを使えない。こういう制度でもあるっていうことは押さえておいてください。そして介助者はそういう交渉の場に本人が行く時の介助者でもあるわけです。[…]。交渉ごとは基本、本人たちに任せておけばいいんですが、でも、介助者も、ちょっとにらみつけるぐらいのことはしてもいいよね。




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  第4章 組織を使う作る




複数あってよいとなると民間もよいとなる
 いまは、介護保険にしてもそうでないほうにしても、大きいのから小さいのまでさまざまな民間の事業所からヘルパーが派遣され、それを使う、またそこで働く、というかたちになっています。税金、そして自己負担というお金が、だいたい政府を経由して事業所に行く、そこからヘルパーに払うという仕組みです。
 ただこういうのばかりではなく、日本でもいっときはヘルパーを公務員に、そして常勤の公務員にしようという動きもあり、その「公務員ヘルパー」がいくらか実現されたこともあります。それは一つに[…]。もう一つ、自治体なりが派遣する責任をもつということになれば、その自治体にむらなくくまなく派遣される、その「可能性」があります。
 ただまず、すくなくとも民間がやってもよいということにはしたほうがよいでしょう。「参入」を断る理由はないということです。組織が複数あれば、利用者はよいほうを選ぶこともできます★01。働き手にとってもそのことは言えます。だから、民間の参入はあってよい、となります。とすれば、それを認めたうえで労働条件をよくしましょうということになります。実際には、「民間委託」が他の業種でも進んだのは、お金を払う側、雇う側からいえば、そのほうが安いからということがありますから、民間を認めながら、同時に、民間委託を促したその流れとは逆の、待遇改善の方向に進むということです。難しそうです。しかしそれをすべきだし、実はそんなに難しくなくできるし、すればよいと第1章(31頁)で言いました。
 そして、70年代80年代に役所が派遣してくるヘルパーの介助を使って暮らす人たちが経験してきたのは、なんかヘルパー偉そうで使いづらいってことでした。[…]その人たちは公務員を否定したわけじゃない、自分たちにとってよい人を公務員にということも言ったんですけどね。ただ、選べる可能性があるというのは基本的によいことです。そして、役所という一つの組織に複数の独立した組織があるというのもちょっと変ではあります。だから、民間はあり、そのうえで、必要が満たされていない場合にはそれを満たす責任が政治にある、そんなところが目指すべきところということになります。
 現状では、労働条件はよくはないが、民間が担っています。介護・介助の仕事をする大きい会社もありますよね。前はコムスンという大きい会社があったんですけど、そこは不正を働いてしまい、仕事ができなくなって、ということもありました★02。今でも[…]
 組織の形態としても、NPO法人(特定非営利活動法人)、社会福祉法人、医療法人と、いろいろあります。法人格持たず任意団体でもやってやれなくはないです。ただ、だいたい今は法人取るかな。非営利だから非営利でいいやって、NPO法人ていうのもありますし、べつに儲けたいわけじゃないけど、ちゃちゃっと作ってしまうのには会社組織のほうが楽だってこともあるみたいで、会社にしているという人たちもいます。法律的に有限会社ってものがなくなったこともあって、合同会社という形で始める人たちもいるようです。

自立生活センター=CIL
 民間組織が担ってもよいとしました。しかし、社会福祉協議会であるとか、既存の医療法人であるとか福祉法人であるとか、そうしたものに任せておけばそれでいいかというと、それも必ずしもよくない。よくない場合が多いです。行政からの派遣に限らず、民間からであっても、自分たちの生き方とか気持ちとか踏まえてやってくれないという不満はある。自分たちの地域にない、あるいは、あるにはあるが、うまく動いている事業所がないことがあります。
 ならばどうしようかって時に、「自分たちがやりゃあいいじゃないか」と思いついたんですね。障害を持ってる人たち自身が組織を作って組織を経営し、利用する人と働く人を登録して、そしてその間を取り持って、調整し、お金のやり取りもすると。そして、国から出るお金からヘルパーに渡るお金を引いた額、その額を使って組織を回していこう、そういうふうになってきた。
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙  日本では、「自立生活センター=CIL」と呼ばれる組織がそういう仕事をやっています。CILは、障害者自身が作る組織で、経営する組織です。[…]この組織は、代表は障害者でなきゃいけない、事務局長も障害者じゃなきゃいけない、理事会の過半数も障害者でなければならない、そういう掟で動いています。
 そして障害者の権利擁護、地域生活・自立生活のために活動する。そこで、「自立生活プログラム」だとか、「ピアカウンセリング」だとかが大切な仕事だとされています。どんな具合に始まり、具体的にどんな活動をしているか、第5章(114頁)であらためて紹介する『生の技法』(安積純子他、第3版、2012、生活書院)の第9章「自立生活センターの挑戦」に書きました★03。これは1995年の増補改訂版(第2版)からある章で、もうずいぶんな時間が経っているから、本来はその後どうなったか誰か調べて書くとよいのですが、そして「スリーピース」(102頁)の代表でもある大学院生の白杉眞さんが博士論文でいくらか書いてくれるとは思いますが、全般を伝えるものは残念ながらまだありません。ですので、まず読んでもらうのは、この第9章ということになります。
 介助者の派遣はその事業=仕事の一部です。米国などでは、ヘルパーの名簿の提供ぐらいで、派遣・調整の仕事はやっていないと聞きます。それに対して、日本のCILは、80年代に出てきた「有償ボランティア団体」の活動なども参考にして、当初から派遣・調整もやってきました。これは、供給が少ないなかでそれを増やす役割を果たしましたし、利用者=「障害当事者」に使いよい介助を供給してきました。そして、ヘルパー派遣による事業収入は、全体の予算の大きな部分を占めるようになります。それによって大きな規模の事業を行なうCILも出てきます。それで、その収入を他のことに、「地域移行支援」に使うことができているところもあることを後で言いますが(181頁)、しかし本来は、「地域移行支援」そのものにもっと政府の予算を使うのがよいことも言います(182頁)。
 CILの介助は、基本的に同性介助です。「男は男、女は女」です。そういうふうに回しています。こういう組織はまあ普通ではないです。というのも[…]
 いま全国に120ほどCILってあるんですが、そのCILの全国組織が「全国自立生活センター協議会」=「JIL」(ジル、Japan council on Independent Living Centers)という組織です★04。1991年にできました。先日その集まりに行って少しびっくりしたしたのは、沖縄には四つあるんですね★05。一つもない県もあれば、そんなに人口がないけど四つある県もあれば、けっこうまばらっていうか、ばらばらなんです。
 京都には、JILに加盟しているCILは三つ。「日本自立生活センター(JCIL)」、今回の研修の主催団体の一つである「スリーピース」、もう一つは、筋ジストロフィーとか筋疾患系っていう人たちが多いという私の印象なんですが「アークスペクトラム」★06。以上、京都市内に三つ。京都市の上のほうにも下のほうにもあったらいいんですが、今のところは京都市内に固まっています。
 このなかでJCILは1985年にできてるんです。これは早いです。「自立生活センター」という名前をつけたということだけで言ったら、最初のCILということにされている八王子市の「ヒューマンケア協会」の86年よりも早いです★07[…]それがここ15年ぐらいかな、京都に来てから見てますけど、スタッフが多様にもなり、ヘルパー派遣を含めかなり大きな仕事をやるようになっています。こういう、年間、3億、4億、5億というようなお金を動かしてやってる大きいCILもある。他方、規模の大きい小さいはともかく、実際にはそう動けていないCILもあるようです★08
 そしてもちろん、互いにおおいに違いがありつつも共通する掟を持つCILという組織以外にもいろいろとあります。この研修はいま三つの団体が共同で主催しています。
 一つめは「ゆに」。佐藤謙さんという筋ジストロフィーの人で立命館大学の卒業生でもある人が始めたNPOで、佐藤さん(2020年逝去)★09がボスですがCILという形態はとっていません。障害のある大学生の、大学での勉強・活動を支援するのが主な活動になってます。そしてこういうことには以前は「重訪」を使えなかったんですが、いくらか使えるようになっています(163頁)。コロナのもとでのオンライン授業で字幕付けるとか情報保障の活動などもやっています。私も会員になっている障害学会のオンラインでの大会シンポジウムなどでもお世話になっています★10
 二つめが「スリーピース」★11。CILとしてヘルパー派遣をやっています。代表の白杉さん(100頁)は私の勤め先の大学院生でもある脳性まひの人なんですが、会うたびに人手不足をこぼしています。だから、いつでもOK、明日からでもOKです。「やってみてもいい」という人がいたら、どうぞ。JCILにも私のところの大学院出た人たちとか2、3人働いたりしていて付き合いがあります。ただ私を介する必要なんかなくて、連絡とって、条件折り合えれば、すぐに働くことができるはずです。三つめが「ある」、私が理事長ということになっているNPO法人ですが、ほぼ何もしてません。ただ、2021年には同じ名前の合同会社が派遣の仕事を始めます★12。こちらも連絡いただければと。
 そしてさらに、在宅介護の派遣をしている事業所はいっぱいあります。そしてたくさん時間が必要な人の多くは、複数の事業所を利用しています。ただ介護保険だけというところも多いし、そうでなくてもヘルパーが足りなくて派遣できませんというところもある。それで、一つには、この本の最初に戻って、もっと条件をよくしましょうという話になる。もう一つ、政府に求めるのと同時にですが、仕方ない、自分で組織を作ろうという人もいる。そういう具合になっています。

直接個人がという手もある
 さらに、組織がどうしても必要なのかという話もあります。「自分が、政府からやってくるそのお金を直接に使って、人を雇って、それで暮らせばいいじゃないか」と。そういうすっきりした考え方もあります。ダイレクトペイメント(Direct Payment)と言ったりします★13。つまり、介助を使う本人に直接お金が渡り、それをその人が自分のために働く人に直接払うという、そういうスタイル、仕組みです。実際いくらか実現している国・地域もあるようです。
 どこがいいかということなんですが[…]
 そうすると、自分のためだけの個人事業というかたちも含め、組織・事業所というかたちをとり、仕事や会計の実際は報告するとか公開義務があるとか、そんなところが落としどころになると思います。そういう「一人事業所」というかな[…]

自薦ヘルパー
 組織の経営・運営がきらいでなく、むしろそれにやりがいを感じる人はそれでもよいでしょう。ただそれも面倒だ、会社や法人を作るのも、その経営とかも面倒だという人はいます。ただ介助する人は自分で集められる、あるいは既にいる、という人がいます。そして自分に必要な介助を提供してくれる事業所が近所にない。とすると、どうするか。
 今の制度では、ヘルパーはどこかの事業所に所属していなければならないことになっています。以前は自治体に自分の推薦する人を登録する仕組みがあって、それを「登録ヘルパー」と言っていたのですが、今は事業所に委託するので、事業所に所属・登録するかたちになります。自分で見つけて、自分で関係を作れるならそんなものはいらないというのが、さきのダイレクトペイメントという発想ですが、事業所に任せるというかたちにも長所があることも言いました。さてその事業所がない、とくに重訪の長時間派遣をやっている事業所が近所にないということがあります。そんな場合に、募集や採用の実際のところは自分でやるのだけれども、そうして得たヘルパーを登録する組織があるとよいということになります。
 そういうヘルパーを「自薦ヘルパー」と呼び、そのヘルパーの登録先を提供・斡旋する組織が「全国ホームヘルパー広域自薦登録協会」です。「広域協会」と略して呼んだりしています★14。「広域協会」は「全国障害者介護保障協議会」(80頁)とつながっているし、人的にも重なっています。ここに各地の組織・事業所が加盟していて、そのいずれかの事業所、あるいはこの全国規模の協会自体に、全国どこの都道府県に住んでいる人でも、自分のヘルパーを登録することができるようになっています。給料はその事業所から払うことになります。この協会もサイトを持っています。こちらのサイト(23頁)内のページからもリンクしています。自分でヘルパーを調達するといっても、既にあてがあるという人はいいですが、これからという人もいます。その辺の方法についても相談に乗ってくれますし、教えてくれます。
 こうして、「自分のために」というものから、より多くの人に提供しより多くの人に働いてもらうというものまであって、その幅の中に[…]

管理し調整する仕事は使う人の仕事にもなる
 こうした大小様々な組織には、直接の介助以外の仕事もあります。そして、最初はケアワーカー、介助者の仕事で入ってきたんだけれども、組織の中のスタッフというか、コーディネイトとか、経理・経営とか、そういう仕事をするようになっていく人がいます。[…]介助の仕事をする人にも月給取りになっていく人たちが実はかなりいるのですが、割合としては、こういう仕事のほうが、時間いくらじゃなくて、月給いくらの専従的な感じで仕事をする人が多いかな。あるいは、のれん分けっていうのでもないけれども、自分でそういう事業所を経営したり、運営したりっていう、そういうふうな道を辿る人もいます。
 私が勤めている大学院にも、副業としてあるいは本業として介助の仕事をしている人たちがいることを紹介しましたけれど(61頁)、在学中あるいは在学する前から、あるいは後から、その経営者というか自分で事業所を作って、それを回している人がいます。利用者から始まってという人、あるいは自分の家族の介助から始まって、組織に関わり事業を始めたという人、病院・国立療養所(168頁)で働いていたが、そこでの入所者の処遇に憤り、勉強を始め、事業を始め、後者が忙しくなって退学ということになった人、いろいろな人がいます。
 東京2人★15、それから千葉★16、滋賀★17、京都★18、神戸、といます。神戸の人はうまくいかなくなって、結局事業所をたたんでしまいました。だから、いつも誰でもみんなうまくいくわけじゃないんです。[…]。ですが、うまくいけばうまくいく。
 そして、その仕事は、介助を使う人自身でできる仕事でもあります。[…]他人が介助するその仕事を調整したり差配したりすることは、利用者である自分ができる場合があります。自分の分だけという人もいますし、多くの人に関わる人もいます。自分自身が利用者だから、その仕事をうまく果たせる。うまく、というのは利用者によい介助を提供することに資することができるだろうということです。それがそもそものCILの主張であり、自分で雇う、自分で経営するのがよいという理由にもなります。ただ、いつもそううまくことが運ぶかといえば、そんなことは残念ながらありません。
 いつもうまくはいかない、それはわかったうえで、ですが、障害のある本人たちの中で、身体は動かせないが頭はくるくる動いてしまうという人は、社長・経営者に最適、ということがあります★19。だからそういう人については、社長業は、あまり儲けに走ってほしくはないという私からの希望を言ったうえでですが(52頁)、お勧めです。私の勤め先の大学院生だった天畠大輔なんかがそういう感じです★20。実際、経営者をしています。世界で一番障害が重い大学院生だって宣伝してきた人です。話すのだって、そうたくさんぺらぺらしゃべれる必要もないのです。基本的な方向を示して、姿勢・方針を保って、あとは「よきにはからえ」でもよいのです。とはいえ[…]
 いったん経営の問題をわきに置けば、厄介ごとというものは、人と人の間、とくに接近した関係の間に生じやすいのですが、さらに、住む場所が変わる、たとえば施設から出てくるとか病院から退院するとか、また身体の状態が変わる、たとえば症状が進行するといったことが関わってきます。その話は本書ではできません。しかし、もちろん、とても大切です。CILはその部分の取り組みを、カウンセリングだのプログラムだの言ってやってきたわけです。一つ、それはそれで[…]必要で、そこに関わる仕組み・費用はきちんと得られるようにするべきだと、第7章(180頁)で話します。もう一つ、介助者がきちんと確保できているということが、この調整・介入の仕事の困難さを、けっして消し去りはしませんが、軽減するのは確かです。辞めたい人に辞めてもらえないといった、きちきちの状態で間を取り持つといったことがとてもつらいことは第1章(38頁)でも少しお話ししました。せめて人がいなくて辛くなることは減らしたい。そのためにこの講習もあり、本書もあります。




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  第5章 少し遡り確かめる

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『生の技法』もう一度、安積遊歩
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙  制度や仕組みが、必要とされ、獲得されてきた、その歴史の話を少しします。それで、この『生の技法』(100頁)という本を皆さんに持っておいてもらいたいのです。今日は使いません。けれども、今日使わないからわざわざ持ってもらおうというところもあるのね。[…]端から端まで全部読めとは言いません。けれどもこの値段、1200円+税金、だったら買ってもらってよい本だと僕は思っています。1990年に初版が、95年に増補改訂版(第2版)が藤原書店から出た後、2012年に生活書院から第3版を文庫判で出してもらいました。それで値段も3分の1になりました。著者は安積純子+私を含む3人の社会学者、というものです。
 […]今日、大雑把に話すことの細かい話は第7章、「早く・ゆっくり」以降にあるんで、詳しくはそちらを見てください。それから、そこに関係する人とか、項目とか本とかの情報は、「生の技法」で検索すると出てくるホームページからリンクされてますから、それを見てください★01
 で、もう一つ、読みやすくてわかりやすくて、いいなと私はいつも思ってるんですが、この本の第1章を家に帰って読んでください。[…]安積遊歩が、この本では戸籍名の純子になってますけれども、しゃべっています。彼女は自分の本も幾つも書いていて、文章書ける人なんですが★02、しゃべるともっとおもしろいので、話してもらってます。福島弁で英語話したりします。福島市出身の、郡山にも住んだ人です。福島から出てきて、東京に暮らしてて、東日本大震災が起こった時に、原発から逃れてしばらくニュージーランドにいて、今は札幌にいます。彼女はエコロジストで、僕はそうでもないので、そこらへんはちょっと趣味は違って、食い物が違ったりするんですが、ま、それはちょっと措いといて。
 彼女には骨形成不全という障害があります★03。骨形成不全というのは、簡単に言うとカルシウムが骨にならないと言ったらいいかな、そういうことらしいです。そういうわけで骨が弱い、脆い、育たない。だから身長も低くって、107センチとか109センチとかそんな感じの、だから可愛いっちゃ可愛いんだけれども、そういう感じの障害です。ちなみにこの障害は遺伝する障害で、彼女の娘さん、名前、宇宙って書いて「うみ」って読むんです。滅茶苦茶ですよね。ただ、こんなことしゃべってると1時間経ってしまいますけど、日本人の名前って法律上はどう読んでもかまわないんだそうですね。だから、宇宙を「うみ」と読んでいいらしいんですけど。で、その娘さんも骨形成不全で、二人は共著の本も書いています★04
 […]その遊歩さんが、1990年に出た本で、それまでの34年分のわが半生を語っています。章の題は「〈私〉へ――三〇年について」です。それからまた30年とか生きてるわけですけど、ちょうど真ん中あたりの時に自分のそれまでの人生を語ってて、私はかなり長い時間その話を聞いたんです。それを録音して、文字にして、整理して、わかりやすいように並べてます。めちゃ読みやすいです。で、これから私がお話ししたいことの気分というものが、けっこうストレートに伝わる章になってると思うので、そこのところだけでも読んでください。というわけで、この本をお渡ししました。
 これから皆さんが障害を持っている人たちの生活に貢献してくれるとして、そういう人たちに助けてもらってというか、介助・介護してもらって、てことはつまり、親きょうだい、家族に介助をさせるんじゃなくて、負担をかけるんじゃなくて、あるいは少なくともほかの人たちよりも大きな負担をかけるんじゃなくて、そして好きなところで、その好きなとこってのは新しく暮らしたいとこかもしれないし、今まで暮らしたとこかもしれないんだけれども、そういうところで暮らしたい、つきましては皆さんよろしくっていう、そういう動きっていうのが、それを可能にする制度がどういうふうにできてきたのか。本も何冊かはあって、それも紹介しています。詳しくなりたければ読んでいただきたいと思います★05。今日は、その最初あたりのところだけ、ごく短く話します。

1970年
 話はだいたい1970年ぐらいに始まります。こういう大雑把な話は半分嘘なんですね。ほんとかよっていったら、ほんとじゃないかもしれないんだけれど、でも話というのは、どこかを省略して、どこかを際立たせて話すしかないというところもあるんで、今日は1970年から始まったということにします。だから、今から50年ぐらい前のことですけれども、この年、そして1968年、69年は、世界中でいろいろなことがあった年です。
 今この部屋ぱっと見ると、そのときに生まれていた人、そんなたくさんいないかなという感じですけれども、僕はちゃんと生まれてましたよ。1970年に僕は10歳でした。田舎に住まうぼーっとした少年だったので、よく覚えてないです。だけどいろんなことがあった年です★06
 世界的には、ベトナム戦争まだやってて、というか真っ最中で[…]。戦争やめろって反戦運動が世界中で、日本でもアメリカでもイギリスでもフランスでもドイツでも、主にその頃の若い人たち、学生たちがいろんなことに文句を言って騒いでいた時期でした。
 それから、日本では、公害の問題が浮上した時期でもあります★07。水俣病とか、前からあったんですよ。昔からあったものが、ようやく表に出てきて、水俣の人たちが筵〔むしろ〕旗立てて東京にやってくるとか。これはテレビで見た気がするんですけどね。でも、東大の安田講堂って建物に立てこもった学生に機動隊が放水するとか、実況中継で見たのか、それとも後で見たのか、定かでないです。
 とにかく、世の中に文句を言おうぜみたいなね。文句あるんだったら言おうぜみたいな、そういう時期の到来っていうものがあった。敗戦後、こんなに頑張って日本やってきて、確かに復興したんだろうけれども、でもなんか自然は汚くなっちゃったし、公害や薬害に苦しむ人がいるし、みたいなことで、こんなんでよかったのかなみたいな、そういう気分が一定あった時期でもあります。
 それと、これからお話しする話は、関係があると思っています。その頃は学校行ってない障害者が多かったですし、当時の社会運動・学生運動と障害者運動は直結しないんですが、気持ち的なところで励まされたってことは、すぐ後に出てくる横田弘さんなんかも言ってます★08。働いて、もっと働いて、という路線でやってきたのが、そういうことだけじゃだめなんじゃないか、とかね。人間、できないっていうことはあるわけだし、それはそれでいいとか悪いとかじゃなくて、もう事実そういうことあるんだから、それをどうやってうまい具合に、そのうえで生きていくかっていうことを、リアルに考えだした時期でもあると思うんですよね★09
 これからお話しするのは、一つは、障害児の親が障害児を殺したという話です。一つは、施設に収容された人たちが施設から出たいと言ったという話です。障害児、障害者は、70年に初めて殺されたわけじゃないです。それから施設も、日本の場合はわりと施設の整備自体が遅れたので、70年ぐらいから花盛りになってくるんだけれども、それ以前からなくはありません。ですから、この70年という年は、文句を言うっていうことが始まった年という感じですね。

始まり1・「母よ!殺すな」
 その1970年、横浜で2歳になる脳性まひの女の子が母親に殺された。『生の技法』の第7章に書いてあるんですが、そういうことは時々あります。そして、その女の子を殺した母親にも事情があって、殺したくて殺したわけじゃないから、刑を軽くしてくれという減刑嘆願運動がなされたんです。こういうことも、今でもあります。だけどそれはおかしいんじゃないか、って言っちゃった人たちがいたんです。実はそれまでそういうことってあまり、ほぼまったく言われなかった。
 「青い芝の会」という、脳性まひの人たちの小さい組織があって、そこの神奈川県の人たちがそのことを言いました。最初はたった数人の人たちが、ほかの人が殺されたときより俺たちが殺されたときに刑が軽くなるってのはどういうことだと、言い始めた。言われてみると、ああそうか、障害者じゃない子どもを殺したら、鬼母みたいなことが言われる、だけれども、障害者を殺すと親がかわいそう、みたいな、俺たちはそういう存在か、変だろうそれは、って。同じ子殺しだろう、一方は非難し、一方は同情するって変だろって、言われてみればほんとに変なんですよ。だけれども、それまで変だって思われてなかったことに対して、やっぱそれはおかしいと。減刑嘆願運動するのはおかしい、というようなことを言った。つまり世の中で、良い、正しい、そういうもんだって思われてたことが、そうでもないかもしれないみたいな、世の中の流れみたいなものも受けて、「俺たちも言うぞ」、そういうことが、1970年に始まった★10
 これは、その含意というか意味を考えていくと[…]
 それはやがて、親というものと子どもとの関係、あるいはその家族と障害者との関係というものをどういうふうに組み立てて、組み立て直していくのかという話につながっていきます。
 自分は、殺されたくはないけど、殺されないあるいは乱暴されない限り、べつに親は嫌いじゃない。親と仲良くもしたい。だけど、家族があること、家族をするということと、家族に世話されるということは違うだろう、と。むしろ、家族関係を保つためにも、あるいは作るためにも、一生親が面倒みて暮らさなければならないのはやめよう、と。
 いったん家族から出て、自分の生活を新たに始める。普通のことなわけじゃないですか。学校に入る、就職をする、結婚をする。そういう節目、節目で、たまたま親と別れて暮らしていくということもあるだろうし、あるいは、そういったことの後で、また親と暮らし始めることもあるだろう。それって、普通に当たり前のことなんだし、その当たり前のことを実現していこうと。そして、介護・介助というところでは、親と距離をとって暮らしていく。そのことによって、かえって、家族なら家族という関係を別様に組み立てることもできる。そういう話になってくるんですね。
 家族は家族で大切かもしれないけど、ほんとにその家族が大切だとあなたたちが思うんだったら、親を、子どもを、それから配偶者を大切にしたいんであれば、家族だけが世話するっていうことのほうがおかしいでしょう。[…]。むしろその子どもの家族の責任っていうものを軽くしてあげる、そのほうが正しいでしょう。
 「脱家族」と、この本では僕らは言ってますけれども、それは家族と仲悪くなれとか、あらゆる人が家族と離れて暮らすべきだとか、家族をなくせとか、そんなことを言いたいわけではなくて、いや、別れて暮らしても全然いいんだけれども[…]

はやく・ゆっくり
 これは最初の最初の話でして、なれそめの紹介でしかなく、制度や仕組みが、輝かしい、しかし困難に満ちた、その歴史の中でいかに勝ち取られてきたのかっていう話が本当は本筋なんです。[…]。しかしここではさぼります。
 もっとちゃんと知りたいということであれば、30年前に『生の技法』の初版に書いた章、その後、第2版・第3版と書き足していった章、その他たくさん、を読んでもらうのがよいです★11。それで本の第7章〜第11章、自分で読んでみたら、確かにややこしいなと思いました。[…]。けど、と同時に、でもちゃんと書いてるじゃん、とも思いました。現実はややこしいので、それをがんばって整理してもある程度はややこしいです。それは仕方がない。ので、きちんと知りたい人はそっちを読んでください。
 ちなみに第7章の副題は「自立生活運動の生成と展開」です。「はやく・ゆっくり」というのが本題なんです。その「はやく・ゆっくり」というのは、ある人の遺言です。[…]この話だけしてお茶を濁しましょう。
 これに関わったのは、神奈川を中心とする「青い芝の会」の人たちでした。僕はそこにいた横塚晃一という人が[…]ちょっとフェイバリットです。NHKオンデマンドで「映像の世紀」とか見てたら、チェ・ゲバラが出てきて、やっぱりゲバラかっこいいなとか思ったんですけど、ゲバラがかっこいいなというのは普通じゃないですか。非暴力系だとガンジーとかね。それも普通です。私は、そういう普通の人は、他の人にお任せして、私は横塚晃一だ、ということにしてるんです★12
 この人は1935年生まれですけど、78年にもう死んでしまった。[…]
 で、その人が死んだ時に仲間に残した言葉が、「はやく・ゆっくり」だったと言われていて。あまりにできすぎているので嘘かと思うほどですけれど、たぶん本当です。
横塚晃一『母よ!殺すな』表紙  なんだろう、けっこう深い言葉だと僕は思ってるわけで。[…]★13。そういうこと言って死んでしまった横塚っていう人がいて。その人が書いたのが『母よ!殺すな』という本です。ずばりの題です。この本、1975年に出て、81年に増補改訂版が出て、その後長く品切れで入手できなかったんですが、2007年に復刊されまして、その解説を僕が書いてます。この本を復刊するために、とまでは言いませんが、生活書院という小さな出版社を2005年に立ち上げた高橋淳さんがえらい気合い入れて作りました。増補改訂版の約3倍の厚さがあります。よろしかったら買って読んでください。よい本です★14。あ、そうだ。私、昔、岩波書店の人に岩波文庫にどうでしょうって提案したことを思い出しました。実現しませんでしたが。
『増補新装版 障害者殺しの思想』表紙 横田弘・立岩真也・>臼井正樹『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』表紙  それから、横塚さんよりも2年早く、1933年に生まれたけれども、比べてだいぶ長生きした、2013年に80で亡くなった横田弘さんって方がいました★15。最初はたった数人の、そして少しも前向きな感じのしない、重くて暗い提起が全国に広がっていきました。その波が伝わるに際して、[…]、『さようならCP』という映画(原一男監督、1972)の上映会が各地であったりしました。そこにたまたま引き入れられ、以来この世界に、という人を何人も知っています★16。写真はその映画で、まあ「やらせ」ですけど、裸の横田さんが路をいざっているシーンを使った『障害者殺しの思想』の増補新装版(現代書館)の表紙です。初版は1980年。[…]。相模原事件(56頁)の前年に再刊されて、その解説も書かせてもらってます★17。もう一つは、横田弘・立岩真也・臼井正樹の『われらは愛と正義を否定する』(2016、生活書院)の表紙。長年のつきあいのあった臼井さんの発案で横田没後に出版されたものです。私と横田さんの対談が二つ入っています★18。「われらは愛と正義を否定する」は、横田さんが考えた青い芝の会の「綱領」にある言葉で、今でも、いけてると思う人はいます★19。他にも本や論文やらあります。電子書籍版(23頁)に詳細な文献表を付けました。[…]ここでは一冊だけ、この本と同じちくま新書で2020年に出た荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』。青い芝の会の主張を詳しくたどって、今どきの人たちに言おうという本です★20
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙  さっき紹介した安積さんもいっときは福島の青い芝の会の人たちと関わりがあった、というか、その人たちと出会うことで人生が変わっていきます。安積さんの章にその話は出てくるし、ほんの少しですが、横塚・横田といった人たちも出てきます★21。その話がおもしろくて、福島の人たちのことを調べ足して、本にするといいと思って20年ぐらい経って、2019年にようやく『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(生活書院、本書12頁)を出してもらえました★22

はじまり2・府中療育センター
 施設が問題にされだすのもそれと同じ年です。その1970年っていうのは、「どんどん建物を建てるのがいいことだ」っていう時期ですよ、まだね。「立派な施設、大きい施設を建てて、そこに収容して、そしたらいいじゃないか」っていう[…]。「いいことしてる」と他人たちも思うし、本人たちもそういう善意を頂戴する、「お金もかけてもらって、そうやって施設の中で暮らせるようになったんだから、よしと思わなきゃ」っていうようなことに、60年代から70年代はなっています。
 しかしその時に、「いや。そう言われて施設で暮らし始めたけど、いいことないよ」という人たちが出てくる。東京に府中療育センターという施設が[…]あります。知的にも身体にも重い障害がある人もいる。そういう人たちのためのつもりだったんですが実際には身体障害だけの人もいるという施設でした★23
 […]
 最初は施設の待遇をよくしてくれということでした。どんなふうに待遇がよろしくなかったのかはやはり『生の技法』の第7章に書いてあります。[…]ここではやめときますけれども、当時書かれたものを読むと、やはりこれはひどいなと思います。そういう、待遇をもっとなんとかしてくれという話が発端でしたが、なかなか事態が動かないなかで、そもそもこういうとこにいなきゃいけないんだろうかという話にもなっていきます。[…]ちなみにこの施設のこと、施設で起こったことってなんだろうと私は思っていて、『病者障害者の戦後』(2018、青土社、本書169頁)を書いた時、少しその事情がわかったように思い、その本に書きました(第6章「その傍にあったこと・予描2」)。[…]30年がたって、ようやく少し書き足せたというところです。
立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙  この施設にいて、後で出た人も何人かいるんですが★24、その一人が三井絹子さんという人です。今は東京の国立市に住んでいます★25。「私は人形じゃない」という文章が1972年の『朝日ジャーナル』に載ったりしました。 […]その文書を収録した本がありましたが、今は品切れです。男性による介助に抗議したら、看護婦長に「男女の区別を乗り越えるのが本当だ」と言われ、「だったらなぜ、現在男のトイレと女のトイレを別にしてあるんですか」と返したという話も出てきます。まことにもっともだと思います。『不如意の身体』(2018、青土社)でその箇所を引用しました。ちなみに、2019年に国会議員になった木村英子さん(163頁)は、三井さんの弟子筋にあたる人です。
『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』表紙  もう1人が三井さんの兄貴で新田勲さん。にやけた顔にみえる、そしてなかなかもてた脳性まひの男性で、この人も2013年に、この年はいろんな人が亡くなった年なんだけれども★26、亡くなりました。彼も本を出しています★27。僕は、大学院生の時にインタビューをしたり、ずっと後、こういう稼業をするようになってから、お呼びがかかって、対談をさせてもらったりしました。『足文字は叫ぶ』(2009、現代書館)という本に入っています。彼はしゃべれない。座って、足を動かして床に字を書くというのに近いかな。[…]静かな所作ですよ。だから、「足文字叫ばないだろう」って、この本のタイトルがなんかおかしかったです。その新田さんは練馬区在住、1970年代からの「公的介護保障要求」の運動を引っ張った人でした。
 こういう人たちが、家を出て施設を出て暮らすことを始めます。

「そよ風のように街に出よう」
 この二つのことが起こったのは、神奈川と東京で、関東ですけれども、関西のほうでもいろんなおもしろいことがあったんです。どうしたって中途半端にしか紹介できないだろうから、全部省略しますが、『そよ風のように街に出よう』って雑誌の名前だけ言います。
 つまり、そういうことですよ。つまり[…]ちなみに僕はそこで「もらったものについて」という連載を、2007年から終刊号まで計17回、書かせてもらいました。[…]私がしている昔話を読みたかったら見てみてください。家出を言って、施設から出るを言って、実際にそれをやった人から、僕が何をもらったのかを書いたつもりです★28
 こうして、脱家族という運動と、脱施設という運動が同じ年に始まったと言うと、なんとなく話のかっこうがつくので、そういうストーリーにしているところもあるんですけれども、しかし、間違いということではありません。1970年に始まったのです。
 『生の技法』の副題は「家と施設を出て暮らす障害者の社会学」です。「なんで施設を出たいって思うのか? 施設ってどんな感じのとこなのか?」については、この本で言うと、尾中文哉さんが書いてます★29[…]
 そして、岡原正幸さんが、家族のこと、「脱家族」のことを書いています。彼は今でも[…]関係することしてます。感情の社会学、感情社会学っていうジャンルがあるんですけれども、そういう仕事をしている、慶應大学で教えている社会学者です★30。そこも読んでいただければありがたいです。『家族性分業論前哨』(2011、生活書院)という誰も知らない本(150頁)を村上潔さんと書いている私なら、また別のことも加えたくはありますが。それから、施設については、私としては、それができて、そしてそのままにされていく歴史、その仕掛けを描こうと、『病者障害者の戦後』(2018、青土社)を書いてみました。
 以上、詳しくは本でということにしてしまって、1970年に始まったできごとに関わった人たちについての挿話のようなことを少し語りました。
『家族性分業論前哨』』表紙   立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙

学生を誘う
 そうやって家族をやめて、施設をやめて、街に出ようとなったときに、街に出ると言うとなんかすがすがしくていいけれども、街に出たって、雨が降ったり風が吹いたりするわけで、やっぱり困るわけです。暮らす場所がいる。ものも食べなきゃいけないから、お金もいる。雨をしのぐためにもアパート借りなきゃいけないから、お金がいる。どうすんだというんで、多くの人たちは生活保護をとって暮らします。[…]僕が今、名前出した人、全部、全員、生活保護で食ってました。生活保護っていうのはとっても大切な制度なんだけれども、今日はその話はちょっとパスします。非常に大切ですけど。
 そうして、部屋は借りた、食べるものは買える、として、とくに施設が嫌だと出てきた人たちは、脳性まひの中でも障害が重い人たちでもあったんです。介助が要ります。
 70年代から80年代90年代、場所によっては今でも、それに関わったというか関わらせられたのは、大学生が多かったです。70年代には学生運動・社会運動の流れが関わってました。その運動の一部として関わる、というところもありましたし、それに挫折してという人たちもいました★31。やがてそういう色彩は薄まっていきます。ただ、昔の大学生ってのは今の大学生より暇でした。[…]。僕もそうでした。
 街に出た人たちも時間はあるから、車いすで、街に出る。しかし街に出たって、まあ人がいるだけだ、使える奴はどこかにいないか?、それは大学だ、ってことになる。それで大学のキャンパスに車いすで入っていったり、ビラまいたり、人をつかまえたりするわけです。[…]JR中央線っていう、東京駅から西のほうにまっすぐ行く線[…]で、[…]西に行くと、国分寺、国立、立川、そして八王子ってあたりになるんです。[…]なんでそこらに障害者が集まったかというと、一つは大学があるからなんですよね。国立であれば一橋大学がある、もう少し行ったところには津田塾がある。また八王子のほうに行くと法政があったり中央があったりする。大学がいっぱいあるわけです。そこには暇な学生がいる。そういうやつらを集めて、それで介助をさせる。お金がないからボランティアだってことで。それが70年代から80年代にかけてのこと。それがどうなっていくか、が次の章になります。




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  第6章 少しだが大きく変える




ボランティアではしんどい
 暮らすために、食って、寝て、のためのお金がいるんだけれど、重度の障害者の場合、それだけでは足りない。それが介助です。だから家族が面倒見る、施設に収容するってことも起こっていたわけだ。では、家を出て、施設を出て、その介助をどうするかということになりました。70年代の初めのことです。
 その頃は、ほんと、何もなかったに近い、在宅の福祉制度はね。70年代の中盤でいうと[…]
 最初は、理念としてという部分と、もうやむを得ずという部分と両方あったんだけれども、ボランティアに頼るというか、使うというか、そういうことになります。多くの場合は大学生ですね、その当時の学生たちは暇でしたしね。[…]。大学生だけではなく、労働者・勤労者も、主婦の人も、いろんな人がいましたけれども、数的には学生が多かったと思います。
 ちなみに、僕は1960年生まれで、79年に大学に入るんだけれども、そのあたり、80年代の前半ぐらいに、いろんなきっかけというか、ありました。
 その一つは、年が四つ上の脳性まひの男、勝又裕司って名前ですが、僕がいた大学の見田宗介先生のゼミ★01にもぐりで来ていてね。その男が駒場から帰るのにつきあったのが、車いす押したりというのでは最初かな。さらに、駒場の2年の後、僕が本郷のキャンパスに移ってだいぶ経ってから、その男が世田谷の家から出るって言って。[…]それで、引っ越し先探すの手伝って、見つかって、彼は本郷あたりの、僕が住んでた高円寺の下宿よりよっぽどいいマンションでしたけれども、そこに住み始めて。
 それで僕、数年は介助者みたいなことはやってましたね。だから、僕もいささかの経験がないわけではなく、そのときの感じはちょっと覚えています★02
 大変かっていうとね、そんなに大変でもない。もちろん人にもよります。彼は脳性まひで、まあまあ重い、言語障害も重い脳性まひの男性でしたけど、そんなに介助自体は面倒ではなかった。飯作って、あと、風呂。[…]。とくに働くこと自体がしんどい、ということはありませんでした。僕はそのころ高円寺の風呂もないアパートに住んでいたんですが、彼のところは風呂がある。介助するついでにというか、むしろメインの目的はそっちだったかもしれません。行って、ただでシャワーを浴びて帰ってくると200円得した、とかね。介助が大変だったという記憶は、あんまりないです。
 何が大変かというと、介助のローテーションを埋めるのが、です。[…]
 僕は、昔も今も電話するのきらいで、それはともかく[…]
 だから個人的な体験でもあるんだけれども、街に出た人たちが直面したのが、ボランティアでこの生活を回していくってことがいかに大変かっていうことだったんです、まず一つは。「これではやってらんない」と。なかで、さきに少し紹介した安積っていう女性(115頁)にはなんというか魅力があった、ですよ。だからいろんな人、学生たちが出入りしてました。けれども、人間ってそんなにアトラクティブ、魅力的な人たちばかりじゃないわけですよ。あるいは、そういう人間を演じるのも疲れるわけです。ですよね。そういうこともあるし、街に出て地域で暮らすんだって人も数が増えていくなかで、「とてもこれじゃやってけない」っていうのが一つありました。そういうなかで[…]、「そこはちゃんとお金ってものを使ってやっていくしかないんだよね」っていう、「止むに止まれぬ」っていうか「背に腹はかえられない」っていう部分があります。
 そうやって暮らす人が[…]100人になり500人になりってことになると、これはやってけないなっていう話が一つ出る。こうして、やってけないから有償でという理屈、理屈というか、やむを得ぬ事情っていうのもありました。

筋論として、ボランティアでよいか
 […]介助を進んでしようという酔狂な人間の数ってそれに応じて増えていくわけじゃないから、だんだんしんどくなってくる。介助者の取り合いっていうか、あったりとか。いろいろあって辛いから逃げてくっていうか辞める人もいる。残った人はほんとは辞めたいんだが、自分がいなくなるとちょっとまずいなと。で、辛いけどやる、けど辛い、けどやる、みたいなことでだんだん辛さが増していく、それが爆発して逃げてくみたいな[…]。さあどうしましょうかっていうことのなかで、こりゃもうやっぱりボランティアだのなんだの言ってる場合じゃないと。やっぱ制度、お金使ってちゃんと仕事でやってもらうようにせざるをえないよなっていうのが一つです。
『差異と平等――障害とケア/有償と無償』表紙  だけど、仕方がないから金を使うってだけじゃない、ボランティアって、なんか言葉としてもいいけど、ボランティアでやるというのが基本的によいのかという問い、いやよくないという主張もあったのね。これは、理論的にはまだ決着がついてないテーマかもしれない。これに関連して『差異と平等』という本(2012、青土社)を書いてます。堀田義太郎さんという倫理学・哲学をやってる人と一緒に書いた本なんだけど、この本で、堀田さんは、介助は本来は無償であるべきだという主義主張を展開し、いや、僕は、お金払ってもいいんだよ、お金もらってもいいんだよっていう話をしてる。[…]★03
 […]その本ではもっと詳しく説明している僕の論の一つのポイントは、結局ボランティアに働いてもらうってことは、ボランティアだけに働いてもらうってことだよね、っていうことなんです。
 ボランティアってみんないいことだと思ってる。いいことなんですよ、それ自体はね。だけど、ちょっと冷静に考えてみると[…]、「ボランティアの人がやる」ということは、すなわち「他の人はさぼっていられる」ということでもあるわけじゃないですか。ボランティアがやっててその人が暮らせるっていうことは、そのボランティアの外側にいる90パーセントか98パーセントか99パーセントの人は、何もしないですんでるってことだよね。その人は勝手に自分でやってるんだから、その周りの人たちはなんにもせず、いいことしてるからほめてあげよう、時々ほめてあげるぐらいの感じで、それでやってる。それは正しいかって考えてごらんなさいってことですよ。[…]それが正しいかって考えると、僕は正しくないと思うんですよね。
 つまり、ある人が生きていく、生きていくっていうことは権利として認められなきゃいけないといったときに、それはすなわち、生きていくことができるっていうことを、社会が、具体的には人々が、それが可能になるように義務を負わなきゃいけないってことじゃないですか。人の生活、生命を、生存っていうものを支える義務というものは、すべての人にある。そうすると、ボランティアだけがやるっていうのはボランティアだけが義務果たしてるっていうことになるわけで、ほかの人たちは義務を逃れてるってことじゃないのか。それって違うだろう。私はそういう立場なんです。まず、家族がやってて、家族ができるかぎりは他の人は何もしないっていうのは、家族が「すべき」というきまりを私たちが、さらに法が課しているのだから、おおいに間違っているとなります。さらに、ボランティアだけ勝手にやってればいいっていうのも間違っている。そうなります★04
 そうすると、ではどうするか。一つは、全員がこの仕事をすることです。だけど[…]
 […]
 こう考えていくと、基本的には、また具体的には、その政府に集まったお金を使って、有償の仕事にする、アルバイトでも専業でもいいんだけれど仕事をする人はする、そういう形態のほうがいいよねっていうことになります。
 だから[…]、最初、ボランティアやってみたんだけど、一つに、やってみたけどしんどい、大変だ、だからもうお金払わざるを得ないという話があるんですが、もう一つ、もっと筋論で考えていったら、むしろ社会のあり方として、それを仕事にして働く人の生活を社会が支えるのがよいということになります。私は、この後者が本筋だと考えます。ここまで考えてみて過去を振り返ると、1970年代にあった主張にもそのように解せるものがあります。
 […]障害がある人が生きていくっていうことは、当然のことだとしましょう。そうするとそれは「権利だ」ということになります、硬い言葉で言うとね。[…]。「権利」って言葉好きじゃない人わりといますよね。わからんでもない。でも言います、「権利だ」と。あるいは、「義務」って言葉のほうが好きな人なら、「義務だ」と言います。同じことです。その権利を実現するのは、人々の義務だということです。ここまで全然間違ってないですよね。「その義務は誰にあるか?」と言ったら、誰にでもあるわけです。ここも間違ってないですよね。「家族に義務はあるが、他の人に義務はない」って言えるかって言ったら、それは言えないです。すると「誰にでもある」っていうのが正解になってきます。
 そこから言えば、一番直線的な答えは、「みんなが、誰もが、生活を支えることをする」っていうこと。だけど、誰もがそんなことするかといえば、しないわけです。したほうがいいのかもしれないけど、嫌だという人はいる。嫌そうな顔をして介助に来る人に介助されるとか、下手くそな人に介助されるとか、そんなのは僕は嫌です。[…]とすると、どういうやり方があるのかというとですね、ほとんど唯一、やりたい人、やってもいいよという人が介助の仕事をする。それをやりたくない、あるいはやるのが上手じゃない人、下手である人は、介助をする人の生活を支えるという形で義務を果たす。それぐらいしか思い付かないですよ。そう考えると、税金を払って、場合によっては保険料を払って、そのお金で働く人の生活を支える。そうやって支えることが人々の義務である。そういう仕組みしかないと私は思うんです。
 というふうにして、家から出る、施設から出る。だけど人はいない。人がいないなかで学生のボランティアで何とかする。しかし何とかならない。何ともならないからお金を、というのが一つ、それと同時に、「何ともなろうがなるまいが、ボランティアだけに生活を支えさせるっていうのは間違ってる。その義務は誰にでもある。その義務の果たし方として、税金払って、その払われた税金で働いて暮らすのを支える。そういう形がよかろう」と、だんだん定まってきたわけです。[…]

社会のパーツを変える
 私は社会学者なんですが、[…]、こういうふうにもまとめられます。たいへん大雑把でいい加減ですが、社会が次ページの図のような感じで四つの領域に分かれているとしましょう。さてそのどこで、介助を得て、生きていくか。まずTの市場ですが、ここは基本、自分で稼いでその金で自分で買うという場所です。しかし、お金がないからここは使えない。Uの政治、政治を実施する機関としての政府がくれるものは施設で、そこはいたくないとしましょう。次にVの家族です。すこし理屈を言うと、VとWの自発性の領域を分けるものは何か?という問いがあります。家族も「自発的に形成される関係」だと言えるからです。結局、Uの政治・法が自発的な関係全体からその一部を取り出して、そこに、つまりVの家族に、他には与えていない権利・義務を付与しているのです。それでVとWが分かれる。[…]。残念ながらあまり知られてない本ですが、村上潔さんとの共著『家族性分業論前哨』(134頁)は、そんな姿勢で書かれています。さて、これは家族とそれ以外とを分ける分け方を否定するということにもなるのですが、すくなくとも扶養・介助については家族に頼らないということでした。すると、Wしか残らない、つまりボランティア、というわけです。だから、その人たちが辿ってきた道は必然的なんですよ。しかし、そのWもだめ、となると、どうなるか。死んでしまいます。
 理屈だけを言えばよいという人は、それで終わり、になってもよいわけですが、生きている人はそれでは困ります。死ぬわけにはいかない。さてどうするか、と考える。考えざるをえない。そこは研究などしている人よりむしろ、仕方なく、まじめに考えることになります。むしろ、学者たちと比べてちゃんと社会(科)学をしているとも言えます。また、言うだけ言って、やるだけやって、負けたってほんとうは困らない社会運動家とも違う。生きていかなきゃならない★05
 で、考えなおしてみる。そうすると、Uの政治・政府は使おう、と。すべての人に義務を課すことができるのは政治・法だから、というのが先に話したことです。そして、義務を果たすための手段として、お金=税金を集めて配分するのもよいとしましょう。ただそうやって強制的に集めた税金の使い方が間違っているのだと考えることにします。政府が集めるお金を、人がそれぞれの場所で暮らすのに使う、そして民間の組織が、そして自分たちが、働いてくれる人に払うということにします。そのようにTの市場・お金も使う。そしてそれは、自発性・ボランティアを否定することではまったくないです。自発的にやったほうがよいこと[…]は、いくらでもあるわけです。またそれは家族を否定することでもないし、放任することでもない。特別に重い義務を課さない、特別扱いしないということです★06

増やして広げていった
 私がいろんなものをもらった人たちがいると、さっき言いました。出る、出て暮らす、どうしようかという人たちが何をしたか。本人金ないし、実際、金がないから払えない、だから政府がってこともあるんだけど、今の話が正しいとすると、正しいんですが、本人は払う必要なくて、払える人が払う。で、それを働く人が受け取る。そういう仕組みでよかろうって話になっているわけです。これまでの歴史を、私はそう理解します。
 […]こういうことが1970年代から始まって、もう50年の歴史があるわけですけど、そういう歴史のなかで、今日の前半でお話しした今の重度訪問という制度につながるような制度がぼつぼつできてきます。で、そのぼつぼつできてきた制度はどういうものだったかは、『生の技法』第7章以降に書いてあるので、今日はもう説明しません。が、いくつかは話しておきます。
 生活保護の生活扶助の加算の一つに介護加算というのがあって、その中に家族介護加算とは別に他人介護加算があります。家族外の介助者に支払う費用として支給されるものです。その特別基準というのがあります★07。以前、京都市役所に甲谷さんに付いて行ったことがあると言いましたけど(88頁)、その時僕は、「そんなことも知らないの」って市の課長さんにちょっと大きな声で言ったんだそうです。[…]。この制度は生活保護とっている人にとっては今でも大切なものです。しかしもちろん、生活保護とれない人は使えません。
 そして、80年代、自治体と交渉したりして、「脳性麻痺者等介護人派遣事業」といった制度が[…]東京都で最初にでできたんですが★08、その時間を増やすための運動をずっとやってきた人たちがいたんです。僕はただの学生・大学院生でしたが、東京にいたので、そういうのを傍観していることはできました。はたから見ててもようやるわって思ってました。そんなことがありました。
 で、僕がとくに親しかったのは、東京の西のほうに立川って町があるんですけど、そこで暮らして活動した高橋修さん★09という人でした。1948年、新潟県長岡市生まれ。学校に行けず家にこもらされる生活、施設での数年、他を経た後、立川駅にエレベーターをつけさせる運動を皮切りに、とくに1980年代後半から90年代、制度を獲る、自分たちで「自立生活センター・立川」を設立し、運営する、制度を全国に広げるといった活動をまったく精力的に行ないました。そして1999年に急死しました。介助については、新田勲さん(131頁)とともに活動しますが、獲得した制度をCILという形態の組織で自らが供給する方法を採り、そして制度を全国に知らせ広げる方向と方法について、「誰でも、組織を介して」という道を高橋さんたちは選び、新田さんたちから別れることにもなります。
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙  対立や分岐も含めて、こうしたことがおもしろく、また大切だと私は思っていて、ずっと書かねばと思っていて、20年たってようやく[…]『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』(2020、青土社)に新しく収録した二つの章の一つ「高橋修 一九四八〜一九九九」に書きました。この新書の分量の半分強の文字数があります。ちなみに私は、「私の3人」は、横塚晃一(124頁)と、吉田おさみと、高橋修だと言うことにしています。せっかくだから、人が知らない人を挙げなきゃということもあります。
 そんな人たちによって、ともかく暮らせるという現実が一部にもたらされるんです。[…]幾つかの制度の併用によって、最大毎日24時間の利用が、93年度から立川市・田無市・東久留米市で、94年度から日野市・練馬区で可能になりました(『生の技法』第8章、第3版391頁)★10
 それがその後どのように変遷していったか。略します★11。ただ簡単に言うと、高齢者のホームヘルプは2000年に始まった介護保険のほうに行った。そして、(高齢者でない)障害者のホームヘルプの制度は別建ての制度のまま残った。そして、2002年あたりなんですが、自治体独自の、長い時間もありというサービスが、国の障害者のホームヘルプの制度のなかに規定され、上限も定められないものとして加わった。[…]とても大雑把に言うと、そうなりました。となると、自治体に新たに制度を作らせるよりはよいという状況にもなります。
 そうしたなかで、一部の地域にしかなかったものを全国に広げようという動きが展開していきます。第3章(80頁)で紹介した「全国障害者介護保障協議会」がその活動をずっとしてきました★12。高橋修が亡くなるまで引っ張ったのは、その組織、その活動・運動です。
 しかし、そういう動きがずっとあったことを、社会福祉とかに携わってる人たちも、ほとんど知りませんでした。学校でも教わってきませんでした。それが悔しくて、僕らは90年に『生の技法』を書いたんです。[…]、この本を書くに当たって、当時出ていた社会福祉の本の全部に目を通しましたけど、この本に書いてあることって全然出てこないんですよ。それはなんでかっていう理由はあって、要するにその当時の[…]社会福祉のメインストリームに反旗を翻した人たちの動きだったので、業界的にはどうも扱いにくかったんでしょうね。[…]。そういうのがあとあとまで尾を引いて、今でもあまり知られてないわけです。
 だけれども、実際には70年代、80年代、90年代、50年のあいだにそういうことが、ひそかにというか、地味地味と、たまに派手に、広がってきたその延長上に、今は主には重度訪問というものになっている制度があるんだと、大ざっぱに捉えてください。

むしろこちらのほうに近づけていく
 その間にいろんなことがありました。政府のほうでは、そんな、交渉次第で取れるみたいな制度、そういうゆるゆるの制度は困るということで、介護保険的なものに包み込んでしまおうという動きがずっと続きました。介護保険は[…]2000年から始まった制度です。実際にはこちらのほうがお金を節約できるかっていうと、そうでもないと僕は思うんですけれども、政府のサイドは、なんか行政的にコントロールできる、お金も人もコントロールできる、こういう仕組みのほうがいいんだってずっと思っているらしくて、ようやく作り拡大してきた制度を取り込もう、そういう動きが、介護保険の始まった2000年頃からもう始まります。
 でももう一方の側、70年代から制度を作ってきた人たちは、こんなものに乗っかっちゃったら1日2時間しか使えないじゃないか、死ねっていうのか、みたいなことで、こういう、こっち側に引きつけられるのを跳ね返すっていうね。そういう綱引きを、もうかれこれ20年ぐらい、その人たちはやっているわけです。で、[…]、その二つの制度が併存するという状態は続いています。
 ちなみに、一つに合流してよっていう人たちが言ってる話は、ある意味正しいんです。つまり[…]。それはそうだよね。高齢者も、年を取ってるからサービスが必要なわけではなくて、加齢に伴って、体がいろいろ動かなくなったりなんかして、それで障害者になるからサービスが必要なわけで。
 障害があってサービスが必要だという意味じゃ同じなんですよ。だから一緒でいいじゃないかというのは、基本正しいと私は思う。だけれども、そこからが違う。1本でいいから介護保険でいいって話にはならないですよ、論理的に。でしょ。[…]
 すると、そういうのでやっていけるんだろうかと、心配する人か出てきます。それについては第2章(59頁)でも言いました。少し加えます。[…]私が「分かれた道を引き返し進む」(203頁)でしたのは、こんな悲しい話です。すくなくともひとつ屋根の下に住んでもよいという人たちが少人数で集まって住むのはわるくないという、それ自体はもっともな考えが、だんだんと大規模収容施設的なもののほうに寄っていってしまったのです。苦労して八王子に「ケア付き住宅」を作らせたその人たちが[…]
 ですから、結局、望む人から実現していく。必要なんだと言う人の言うことをもっとも、と聞く、それに従うことを基本にするということだと思います。ただその際、その人が大きな声で主張できるとか、有力な人を知っているとか、その人がもっているつてとか力とか、そういうものによって左右されないようにする。[…]私は、誰でも相談に応じるという人たち・組織のやってきたことを支持します。「俺たちは苦労してきたんだ、なのに楽して取ろうなんて」という気持ちはわからないではありません。しかし、やはり、苦労した先人を称えながらも、楽して使えるのが基本、ということです(207頁)。
 基準が客観的でないというようなことを言う人がいるかもしれません。しかし、そういう議論はもうとっくに終わっています。[…]
 そして、介助はなくてすむならなくてもよい、むしろ、ないほうがうっとうしくなくてよい、だからいくらでも欲しいということにはならない。これは中西正司(190頁)が言ってきたことで、私もそう思うので、何度も書いてきました★13。そして[…]実際には物理的上限はあります。1日は24時間しかないという絶対的な条件があります。精神科の薬のように、たくさん処方されて、本人も困る、お金もかかるというのとは違うのです。
 そういう方針でやっていく。それでほんとうに困るようなことが起きたら、私は起こるとは思わないのですが、その時に考えよう。それでよいと思います。
 一つ、前から思っているのは、「ながら」の仕事をどう考えるかです。そばにいないとならない、でもその時に別の仕事もできる、その別の仕事が稼ぎにもなるという場合に、介助の仕事のほうはどうしようということがあると思います。[…]家族による介助ではそういう「ながら」の部分も含みこんでなされてきたと思うので、いちおう考えておいてもよいかなとも思っています。
 もう一つは、とくにお金で受け取る場合には、たくさん欲しいということはあります。ここではさすがにあまり「性善説」を通すわけにもいきません。これまで本人たちが福祉の「食い物にされる」ことを警戒してきたし、それはもっともです。事業所、法人が、不当に儲けるために水増ししたりするのは防ぐ必要があります。そして、自分たちが事業主になるということは、今度はその立場に自分たちが置かれるということでもあるのです。

病院で学校で職場で
 そしてこの数年、さらにいくつか動きがあります。
 一つ、入院している人に対して介助者を派遣するというのは、難しかったというかできなかったんです。医療と福祉の二重のサービスというのはけしからん、みたいな理屈で。理屈になっていないと私は思いますけれども[…]。ただ、これは兵庫とか京都とかから始まったんですけど、たとえば文字盤を使ってコミュニケーションをする人がいる。そうすると看護師はそれに慣れてなくて、そういうテクニックを持っていないので、[…]入院しても言いたいことが言えないってことになるんですね。それは困ります。ということで、入院時にそういうことができる人を派遣するっていうのがオッケーになったんです。そういうところが扉になって、コミュニケーション支援だけではなく、入院時に介助者が必要だっていう時に派遣できるようになった。皆さんがこれから勉強して、それで重度訪問のヘルパーになったとすると、そういう仕事もできるようになります★14
 小さなことのようですが私はわりあい大きなことだと思っています。昔、「付添婦」という人たちがいましたが、その人たちにお願いするというのはよくないということで「完全看護」ということになった。しかし「完全」になんか少しもなってないというのが一つですね。そして[…]別の、自分がよいという人に付いていてもらうというのもよい、そのほうがよいという場合もあるということです。
 もう一つ。これまで、学校そして職場で、そしてそこに行き来するための通学・通勤のために介助の制度は使えないということになっていました。それをどう変えていくか。
 「重度訪問」という言葉が少し知られるようになったのは、2019年の参議院議員選挙の後でした。「れいわ新選組」という不思議な名前の政党から、この制度を使っている木村英子さん(131頁)★15と、千葉県のALSの人である舩後靖彦さん★16と、2人が当選しました。そしてさらに、国会議員としての仕事・活動に際してこの制度を使おうということになりました。それで制度も知られ、いくらか議論になりかけています。
 まず学校。[…]学校で使えないというのは、まったくおかしなことです。これは、文部科学省・厚生労働省、どちらの管轄で、どちらが金を出すかといったことも絡んでいるのでしょうか。[…]。文科省は障害学生支援のための予算を、障害学生何人あたりいくらという計算で大学に出すようになっています。それで足りれば文句はないとして、足りないなら、大学側が用意する仕組みと組み合せて、本人が介助者を使ったらよいのです。実際にも、大学側の対応がまだ十分でない場合といった限定付きで、重度訪問がいくらか使えるようにはなってきているようです★17
 労働の場ではどうか。基本、使えるようにしたらよいではないかと思います。さっきの国会議員のことでいえば、議員として選ばれ、仕事をすることになった以上、その仕事に必要なものを提供するのは当たり前、終わり、です。ただ、たとえば、ある人が1を生産する、その仕事を介助する仕事として10の仕事がいるといった場合はどうでしょう。これは理屈としては、なかなかめんどうなところがあるかもしれません。[…]。こういうことに限らず、労働、そしてそれに対する払い・支援というものをどう考えるのかというのは、なかなか厄介です。[…]★18

世界的にもけっこう行けているかもしれない
 福祉の制度って、日本はだめで北欧とかヨーロッパがいいという話に大体なってます。[…]。ただ、在宅で24時間ということがなんとかできてるという意味では、日本も、あるいは日本は、そこそこ行けてるかもしれないって、ここ10年ぐらい思ってるんです。[…]スウェーデンとかデンマークとか、たしかにましなのかな。だけれども、たとえば福祉国家の先駆ということになっているイギリスなんかだと、全然こんな感じじゃないですよ。とくに医療に関して言うと、NHS (National Health Service)があそこの基本的な制度ですけれども、たとえば、年とって一定以上の年齢になると、サービス使えない、医療使えない。たくさん金があれば医療使えるけど、それは自分に金があればってことだから、そのお金がない人はそこで終わり、みたいなことに、かなりの国・地域がなっているっていう現実があります。
 ALS、あるいは筋ジストロフィーも、進行していくと呼吸器つけないと死んでしまう。使えば生きていられます。70とか、80とかまで、このごろはね。だけど、つけなきゃALSだと2〜3年ぐらいで死んじゃいます、だいたい。それから、筋ジストロフィーの人たち、とくにデュシェンヌ型っていう人たちは、昔は[…]。それが今40、50超えてもなんとかなる。心臓の機能は保たれるALSの人たちと違って、とくにデュシェンヌ型の人たちの心臓の機能はだんだと弱くなっていくようですが、身体をうまく保ち、呼吸器を使って、生きていられる時間が延びています。それで何が言いたいかっていうと、そうやって生きてる人が、福祉が進んでいると言われている国よりも、多く生きられているということなんです。それはよいことです。そしてそれを可能にしてきたのが、皆さんがこれから研修を受けてできるようになる重度訪問、重訪なんです。さっきはこの仕組みのもとで働く働き手の働き方として、「国際的」にもいけているんじゃないかと言ってみたのですが(65頁)、利用する側からも、このことは言えるだろうということです。でも、それでも生きるのを断念する人がまだまだいます。たくさんいます。もっとこの制度が使いやすくなったらその人たちも生きることができる。その仕事をしてもいいという人が増えてほしいと思います。




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  第7章 無駄に引かず無益に悩まないことができる




こくりょうを&から動かす
 前章まででひととおりの話はしました。この章ではまず、ここまでお話ししたことに関係して、今私が少し関わっている企画のことを紹介します。
 こちらのサイト(23頁)ではその表紙の下の真ん中ぐらいに「こくりょう(旧国立療養所)を&から」というページが出てきます。そこから情報が得られるプロジェクトです。
 国立療養所(国療)というものがあったんですよ。昔あったというか、名前が「国立病院機構○○病院」と変わって、今でもあります。GHQの指示があり、日本が戦争に負けた1945年に、おおむね戦前からの施設を引き継いだりして、国立療養所ってものにしたんです。一部はハンセン病の療養所ですね。これは「らい予防法」というよろしくない法律のもとで残ってきて、その法律は1996年になくなりましたが、今でも療養所はあります。ただ、その入所者がだんだん年取られて、そのうち療養所も消えてなくなるかもっていうのが一方であります。ちなみにそのうちの一つである長島愛生園ていうハンセン病の施設は、瀬戸内海に浮かんでるっていうか、浮かんでなくて面している長島にあって、そこがどういうふうに移り変わってきたのかという歴史と、その記憶・記録を残していこうという展示を立命館の衣笠キャンパスのほうで、その大学の生存学研究所が関わってやることになりました。コロナで延びて2021年の2月からでした。
 新型コロナは、残念ながらまだ続くと思いますが、うまくいって下火になっていくと、忘れる。皆が皆、覚えているべきだとは私はまったく思いません。嫌なことは忘れたほうがいい。しかし[…]。コロナのこと、もう少し広げていくつかの感染症と人のこと社会のことを調べて、記録して、集めて、整理して、公開するということをやっています★01。その企画のことを後で紹介します(187頁)。
 さて、話を戻すと、国療の大部分は結核の療養所だったんです。それが、戦争が終わって栄養状態などが改善されていくと、結核の人たちが減っていく、症状が軽くなっていくなかで、空いてくる。だからその病院、施設をなくしたかというと、そうではなく、次のお客さんを受け入れた。[…]
立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙  そこに入った人たちが誰かというと、大きな部分が筋ジストロフィーの人だったんです。私は、その過程・歴史を記した本を書いています。[…]「またこんな厚い本書いたの?」と言われて、「はい」って、お詫びして回ってはいませんが、『病者障害者の戦後』(青土社、2018)という本です。どういうふうにして筋ジストロフィーの人たちがその施設に収容され、その後どうなっていったかを書きました★02
 […]この本のもとになる『現代思想』での連載をしている間に、CILの一つである京都の「JCIL(日本自立生活センター)」(102頁)、そして兵庫県の西宮にある「メインストリーム協会」(181頁)あたりからの動きが始まります。
 […]メインストリーム協会の場合にはさらに遡ったところから活動が始まっているのですが、そこは飛ばしてしまうと、始まりは、古込さん(92頁)という、2017年の秋、37年ぶりに、金沢市にある医王病院という国立療養所を退院し、金沢で暮らし始めることになる人の支援でした。金沢にはCILもないし、重度訪問の制度もなかったんです、当時。そんな状況で、いろんないわく因縁があり、全国障害者介護保障協議会(80頁)と、それに関わる東京・関東のCILの関わりがあり、さらに京都と兵庫のCILの人たちが関わりました。そういうことがあって、その病院から古込さんが退院しました。古込さんは、筋ジストロフィーのある種の型、デュシェンヌ型っていう型の人ですけど、この型の場合、昔は20歳になる前に亡くなる人が多かったんです。今は40代50代って普通になって、寿命は延びてるんですけど、それでも古込さん、2019年の春に亡くなられて、それは残念なことだったんですが。[…]
 で、その、京都、それから兵庫での動きを、全国的に展開しようという動きが始まっています。僕も少しそれに関わっています。それが今起こってるできごとです。そんなことも[…]そんなにみなが知ってるはずはない。だけれどもそうやって、たとえば京都だと宇多野病院っていう病院が旧国立療養所なんですね。そこから出てくる人、筋ジストロフィーで出てきた人が、2018年、2019年、2020年と、それぞれいます。
 古込さんは医王病院に37年いました。その病院で、死なずに病院を出た人は彼が初めてだと言ってました。[…]彼と同じような境遇の人ではいなかった。つまり「死亡退院」というのですね。死ぬまでいるしかない。[…]「え? 今でもそんなことあるの?」って思うようなことですが、あるんですね。そういう状態を良くしようっていう[…]動きがあるってことはご紹介しておきます。「障害学会」という学会があって、その2020年の大会のオンラインでのシンポジウムがこのテーマのもので、私が聞き手を務めました。その記録が『障害学研究』(発売・明石書店)に掲載されます。さらに[…]
 そうして、施設・病院を出るじゃないですか。出た時に、そういう重い障害があって暮らすためには介助が要ります。介助のためには介助者が要ります。その介助者が得られ、いることによって暮らしていけます。というようなこともあって、こういう研修もあったりするのです。と、こうつながります。
 ただ、「そこまで思い込まなくてもいい」っていうのが一個ね。軽い気持ちでとりあえずやってみて、他より面白いかもしれないアルバイトとしてやってみる、というのが一方であるよって話が今日の前半の話でした。で、後半の話は、一方でそうでありつつ、でも、どういう、長い、言うたら重い歴史・事実がもとにあって、それによって制度ができ、制度を使う事業所ができ、事業所を回しながら人を暮らしていけるようにしているってそういう流れ、その全体の一部でもあるっていうお話をしたんだと思います。
 こうして、介助の話を少しでも広げていくと、とても1冊では終わらないんですが、[…]、2019年の秋、「DPI日本会議」の政策討論集会というところで話したことがあります。ちなみにDPIというのは「障害者(ディスエイブルド・ピープルズ)インターナショナル」っていうかっこいい名前の国際組織です。その集会での報告の記録を再録したうえで、「専門家」向けに少し内容を加えた文章があります。『社会福祉研究』(鉄道弘済会)という雑誌からの依頼で書いた「無駄に引かず無益に悩まないことができる」という題のものです。さらにこれに少し手を入れたものが、以下、本章の後半になります★03

止められないという基本
 2017年の6月に、直接的には相模原事件(56頁)のことでDPI日本会議の集会で講演をした記憶があります★04[…]DPIがいろいろ差別事例というものを集めてきましょうっていうことをしている、それもけっこうなことではあるけれども、かくも明白なというか、巨大な規模の施設収容っていうものがもう何十年と続いていて、それがさして知られぬままに、そして運動の側もなんとなく触ってこないで長い時間が経ってしまったということを、まじめに、真摯に、受け止めなきゃいけないと、そこから運動っていうものを立ち上げていかないといけないんだってことをその時に申し上げました。
立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙  それから2年少したって、いくらか運動が前に進み、具体的になってきたっていうことは、望ましい、好ましい、喜ぶべきことだと思いますけれども、まずは、基本的なところで、なんか忘れてきたというか、手をつけてこられなかったということは、何度でも深く受け止めなきゃいけないと私は思ってます。これはDPIに限らず、障害者運動が、なんとなく病院にいる人たちは病人で、みたいな、そういう意識もあったのかもしれませんけれど、それだけでもない。それだけでもないなかで、もとは結核療養者を収容する施設としてあった療養所が筋ジストロフィーや重症心身障害児の人たちの収容を始め、そしておおむね知られることもなく続いてきました。それがどういうことだったのかは『病者障害者の戦後』に書きました。
 その歴史的事情にはなかなか複雑なものがあります。ただそのうえで、基本的な立ち位置は単純であって、そこから始めようということなのです。どういうことかというと、一つ目はですね[…]。障害者権利条約だとか差別なんとか法だとかっていうことの前に、患者の権利法がどうだとか言わなくても、人が住んで暮らしたいところに住んで暮らし、行きたいところに行けるっていうことは、妨げられてはならない権利であるという自明のことです。
 つまり、なにかよいことをしようという、そういう水準の問題では、本来は、ないということです。居住のことを言いましたが、たとえば作業所だとか人が集まる場所のことでも同じです。反対運動が起こったりして、実現しない、悲しいことだ困ったことだと言われる。実際にそういうことはたくさん起こります。しかし、そういうなかで、社会の、地域住民の理解を得ようということの手前で、それはそもそも反対できるようなことなのかと考えるべきであり、反対など、基本的には、できないことなのだという認識から始めるべきだということです。
 「本来は」、ですよ。実際にはそうではない。だから、権利条約でもなんでも、使えるものはなんでも使おう、ということにはなります。しかし、その前に[…]。そういう自明なことを言うのは、たとえば、金沢の医王病院から37年の入院生活を経てそこを退院して暮らされた古込和宏さん(92・170頁)の退院について、その親の承諾がなければ退院させられないと病院の側は言い、さらに実際そのように信じていたようであることです。そしてまた、病院・医師が、自らがその許諾の権限を持っていると思ってしまっていて、実際そのように振る舞ってしまうということがあったということです。現実はそういう水準にあってしまっている。だから、わざわざこの自明のことを、残念ながら、確認せねばならないということになります★05
 そういうことを言うと、能天気な自己決定主義者みたいに聞こえるかもしれませんけど、私はそんなに竹を割ったような性格ではなくて、実際に生命の危機というものが存在するような事態においては、ある種の強制というかパターナリズムの実行というものはやむをえないという立場です(195頁)★06。ですから、安楽死の法制化に反対してもきたのです。そういう、本人が言ってるんだったら何でも100%聞けばよいとは思わない私でさえも、やはり今起こっていることはおかしい。人を人がいたくないところに留め置くこと出さないことの正当性を挙証する責任ってものは、とどめる側、止める側、出さない側にあるわけです。それがちゃんと言えない、証明できなければ、そんなことしちゃいけないに決まってるわけです。で、そこのところを何度でも自ら確認し、組織として確認し、政府に対して主張し訴えていくってことをまずはすべきだと。[…]。これが一つめです。

それを実現することはできる
 二つめは、出るはいいけれども暮らしていけるのかです。答えとしては、暮らせるようにするしかない、困難だけれども、という答えしかありません。[…]サービス提供をやっているCIL(自立生活センター)系の組織が[…]、これまでそういう、俗に言う「医療的ケア」が必要な障害の重い人たちにちゃんとサービスを提供するようなことをできてきたかというと、正直そうでもないところがたくさんあるのは事実です。けれども、やれてこれるようになった地域・組織もたくさん出てきたってこともまた事実です。
 ですからそっちの、できてきているほうに近づけていくしかない。それは可能です。基本的には同じ制度のもとでやれているところがあるからです。[…]。だからできるわけです。それが二つめのことですね。できるから、やる。もちろんそのためにはお金が要る、そのお金は政府から引っ張ってくるしかない。そういうこともこみこみですけれども、そういうことをしていくってことが、二つめのことだと。そのことによって、そもそも権利としてっていうことプラス、それが実際に可能な仕組みを作っていく。
 そのために、まず日本の障害者運動が、一番重い人から、最重度の人を出発点にするんだと言って、これまでやってきたことは、たいへん重要なというか、立派な立ち位置だったと僕は思いますし、素晴らしいことだと思います。そして、たとえばCILが派遣事業をするというのは、むしろ世界的には珍しいことかもしれない。それは、やむをえず始めたところもある。[…]。けれどもそのことによって、その組織はある種の力を持ってきてはいるわけですよ。自分たちが頑張って介助者集めてトレーニングして、提供すればいろんな人たちが街で暮らせるようになるのだから、それをやっていく。そういう意味では確認すべきポイントは一つで、実際に行なうべきことも一つで、きわめて単純なことなんです。
 しばしば、理念を掲げ社会を「ラディカル」に批判する運動と、「ものとり」の運動とが対置され、ときに対立させて語られることがあります。たしかに、反抗的か協調的か、等々、「乗り」の違いというものはあるわけで、わからないではありません。しかしこれは基本的にはおかしなことです。
 介助が得られずに地域で暮らせないというのですから、それが可能になるために人を集めるのは立派な社会運動です。そして、今その仕事をする人を集められないことが問題であり、それは介助の仕事で働いてもよいというだけのお金を結局は政府が出していないことが問題なのですから、要求し実現していく。それはきわめて大切なことです。そしてそれは、「優生思想」に対峙し、そんな気分が世の中を暗く覆ってしまわないようにするための現実的な手立てでもあります。だから、それは反優生思想の強力で具体的な運動でもあります。
 「内なる優生思想」という考え方にはもちろんもっともなところがあります。ただ、心優しい人たちが自分のことを思って、私にも優生思想的な部分があるとか思って、それを根絶するのは難しいよねとか、反省してしまって立ち止まってしまうのは、損なことだと思うのです。根絶なんかできないと居直ったってよい、しかしその濃さを薄めることはできるということです。そのためには、自分だけで世話を背負いこんでその負担で暗くなり殺しそうになったりするその度合いを減らすことです★07
 そういう仕組みを私の知る皆さんの運動は作ってきた。それが意外にも知られていないから知ってもらおうと思って本やらいろいろと書いてもきました。ただ、まだ知られてない。皆がみな知るべきだとは言いません。けれども、一番知ってなきゃいけない専門職の人たちがあきれるほど知らない。[…]それではたいへん困るわけです。知ってるはずだと人々が思う人が知らないとなると、人々は存在しないと思ってしまう。ほんとにないなら[…]作るしかない。けれども実はあるわけです。あるものを知らないことによって人は人を殺してしまう、あるいは自分を殺してしまう。それはとてもよくないですよ。[…]。それでこの本を書いています。知ってるはずの知らない人たち、専門家たちももっと積極的に情報を得ようとしてもらいたいと思います。それでこの本の拡大版電子書籍も作ろうとしています(23頁)。

「相談支援」をまともにする
 とくに、長く「娑婆」で暮らしてこなかった人が暮らそうとするなら、環境が大きく変わります。変わるから出たいのでもあるけれども。慣れてないところに出ていくわけだから、なかなかたいへんなんです。社会が世界と世界との差を大きくしてわざわざたいへんにしているとも言えるわけで、ほんとうはそれが問題なんですが、現に差はある。世界から世界に移ることを援助する仕事が発生します。他方、ときに同時に、身体自体が変容していくことがあります。それに自分もなかなか慣れないなかで、周囲の人たちとの関係も、うまくいかなくなるといったことがあります。[…]「調整の仕事」と第4章(108頁)では言いました。さらに、「ソーシャルワーク」という仕事の本来の大きな部分はそういうところにあるはずです。行政的には、そっけなく「相談支援」と呼ばれています。
 それは、誰にどれだけかかるかわからない。もともとそういう仕事です。ときにとても手間のかかる人手のいる仕事です。
 ただ、それに関わっている京都と西宮の組織は、それが自分たちの使命だと思っているから、そして、介助派遣のほうで大きな事業をしていてその「あがり」で金にならない仕事をしていくことができているから、することができています。さきに話した古込さん(170頁)の時も、「日本自立生活センター(JCIL)」が京都にあり、「メインストリーム協会」が西宮にあって、この組織の人たちが金沢まで出向き支援したのがこのたびの「こくりょう企画」につながったところがあります。そしてこの二つはいずれも大きな事業をしています。しかしそうした身体障害の利用者が多い自立生活センターなどと異なり、これといった収入源はないから「精神」の方面の相談支援の仕事・仕事をする人・組織はさらに厳しい。こちらで博士論文を書いてそれが本になった萩原浩史さんの『詳論 相談支援』(2019、生活書院)が詳しくその様子を描いています。その本に収録してもらった「解題」に私もいくらかを書いてみましたが、ややこしい経緯があって、そのあげくすかすかの役に立たないものだけが残ってしまいました。いやになるほどの、笑ってしまうほどの複雑な制度ができ、よくわからない変遷をたどってきたその経緯がその本で描かれています。そうしたなかで、仕事を投げられた地方行政は、ますますこの制度がなんであるかわからなくなり、地方政治の変遷にも左右され翻弄され、結果、事態はさらに厳しくなっています。
 […]「地域移行」が進まない要因の一つはここにあります。一方に金がかけられず使えない仕組みがあり、他方の「精神病院体制」は強いままです。その格差に規定されているところがあります。だからやはり現状は変えねばなりません。そのことは『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(2015、青土社)に書きました。[…]
 書類1枚につきいくらというのはすっきりしてよいではないかと思ってしまうところはあります。しかし、医療は、一部を定額制にといった[…]変化はあるものの、おおまかには、仕事の量が多くなれば多くが得られるようになっています。すくなくとも、書類を一つ作ってそれにいくらか払われて終わり、ではなく、管理職だけをしている人の人件費も含めてやっていけるような支払いの仕組みになっています。そして病院のほうについては、自治体の持ち出しが少なくてもすむといったことも作用しています。まず、一方にそういう世界があることに、二つの世界の差に気づいてさえいないということがあります。
 そして、この不均衡を何がもたらしているのか。やはり『精神病院体制の終わり』に書いたことですが、一つには、病院・医療の側が、「福祉」の側と異なり、影響力を有し行使してきたという事情があります。それでどうしようか。基本的には難しいことではありません。[…]「(相談)支援」についてまともな仕事をさせることです。計画(書)1枚に対してではなく、仕事に対して、仕事に応じて払うことです。一つの尺度としては働いた時間を使い、その時間に応じて払う。[…]何人かを雇って、そのための仕事をしてもらうのでもよいです。それではアバウトだと思われるかもしれませんが、世の中には税金や保険料を使って行なわれているもっとアバウトなどんぶり勘定な仕事がたくさんあります。おおまかにそうしたうえで、ときに現れる問題に対処したほうがよい。無駄な、さらに有害な介入はときにありますが、それは[…]
 そして次に、基本的には、支援(全般)、たとえば介助と相談支援は分かれないと捉えたほうがよいと考えます。「専門職」の人は受け入れ難いかもしれませんが、また仕事の厳しさによって加算があってもよいとは思いますが、そう考えたほうがよいと私は思います。一つに、基本的に、両者は人の生活に必要だという点では同じです。一つに、とくに「精神(障害)」の人の場合、話を聞いたり引っ越しの手伝いをしたりすることについて、相談支援[…]とそれ以外の支援とを分けてどちらなのかと問う必要もありません。経験値といったものの差異はあり、分業はときに必要で有効だとしても、基本は連続的なものと見たほうがよいということです。萩原さんから、幾度か(幾度も)いつ終わるともわからない延々とした、また突発的で不定形な仕事のことを聞いてきました。そしてそれに萩原さんはっきり「意気」を感じています。それは、吉村夕里さんがその博士論文、をもとにした著書『臨床場面のポリティクス』(2009、生活書院)を書いた動機でもあります。今「面接」の場で何が起こっているかをたんたんと記していくその本は、自分たちがしてきた、そして今できなくなっている、そしてこれからするべき「ソーシャルワーク」の仕事は、机を隔ててマークシートをチェックしていくとか、そんなものではないはずだという思いから書かれています。
萩原浩史『詳論 相談支援 ―― その基本構造と形成過程・精神障害を中心に』表紙   吉村夕里『臨床場面のポリティクス――精神障害をめぐるミクロとマクロのツール』表紙   立岩真也『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙
 カウンセリングの技法とか理論とかそんなことをいろいろと論じることはもちろん大切でしょう。しかし、「ソーシャル」ワークとはそういうこと(だけ)ではない。そう言うと、それは一部の「熱い」人たちのことだと返されるかもしれません。しかし、支援がどういうものであるべきか、あるしかないかは、[…]きちんと言えます。そして、そこから引かないことで、そして、他のたとえば医師の仕事への支払いは出来高払いではないではないかといったことを加えていくことで、獲れるものを獲っていくことができるはずです。そして人を病院にとどめておくことに種々の事情があることはあるのだが、それでも、「移行」やそもそも病院・施設に行くことを少なくしようとするのがよいことであることは認められているのだから、そのために効果的・効率的な仕組みを考えるなら、いま述べた仕組みが採用されるのがよいと確実に言えるはずです。

研究を仕事とする私たちは
 さて私は研究者をしています。ここでの主題については「こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす」というページを、生存学研究所のホームページの一部として作っています。[…]そこから、この動きの一つのきっかけともなった古込さんが生前に書かれた文章、私や私の勤め先の大学院生が彼に行なったインタビューの記録、記事などを掲載している古込さんのページにリンクもされています。また[…]古込さんに続き医王病院から出ようとされているなか、古込さんが亡くなった同じ年の同じ月に亡くなられた斉藤実さんのページもあります。斉藤さんが生前残されたわずかな言葉、わずかな手紙、そうしたものを掲載しています。[…]
 2017年度から2019年度は、国の科学研究費(科研費)を得て「病者障害者運動史研究」というのやっていましたが、それに続くものとして「生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築」という書類を書いて応募しました。それを、研究費がとれようととれまいと、ずっと、続けていきます。
 と言いつつ、当たるつもりでいたのですが、2020年度は外れました。もう一つ、この年(2020年)6月、「現在直面している新型コロナウイルス感染症に起因するさまざまな社会的事象の把握」のための研究開発にお金を出すという募集があったので、「COVID−19から世界を構想する」という草案を私が書いて、普通に書類が作れる人々が直してまともな書類にして応募したものも、外れました。[…]
 もう一つは、[…]一個一個の政策の動向であるとかその把握・評価っていうものは、やっぱりそれなりに分析的に分析しないと、やはり道を間違えるわけです。これはただ記録を取ってホームページに並べるってだけじゃなくて、いささかの分析的な知性というか、分析力というものが必要になってくる。社会科学というものはそういうことをするものだと、ものであるべきだと思います。しかし残念ながら日本の社会科学ってものは、そうした力をほぼ持っておりません。それは大変嘆かわしいことです。[…]。分析する、そしてそのためにも言葉を記録を集めて整理して皆さんが読めるように見れるようにする。せめてそうしたことを、学者、研究者としてやっていきたいと考えています。




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  第8章 へんな穴に落ちない




自己決定主義について・1
 介助のことに限らないのですが、大きく二つの方向があります。「自己決定主義」の方向と「関係大事主義」の方向です。私自身は、この二つの間に、そんなに深刻なそして本質的な対立があるとは思っていません。そして議論は終わっていると思っています。[…]。ですが、いちおう確認しておきます。
 まず、自分が自分のことを決めるのは基本的には間違っていない、しかし、それをまじめに、というか間違って信じすぎるとよくない。そのことを言います★01
 自己決定主義が最もはっきり書かれているのは、岩波新書『当事者主権』(中西正司・上野千鶴子、2003)かもしれません。著者の一人の中西さんは、第4章(102頁)で紹介したJILや、第7章(173頁)に出てきたDPI日本会議などで活動してきた人です。私はその本のための、著者たちと編集者との最初の打ち合わせに立ち会ったことがあります★02。すっきりはっきりしたその本は、なんでも自分で決めるのが(他人に指図するのが)よい、それが自立だ、的に読まれうるのかもしれません。そこで、実際にはそのようにはやっていけない、とか、それがよいと言い切れるか、的な話が延々と続いてきました。その本に書いてあることとは話の文脈の異なる「介護者手足論」といった言葉もそこに混ぜられました。私はこの種の議論については言うべきことははっきりしていると考えてきたし、そんなことより別のことを調べたり考えたりしたらよいのにと思ってきました。それでも、整理はしておく必要はあろうと思うから、少し言います。
 まず、「自己決定主義」には十分ないわく因縁があります。その人自身が自分に関わることを決めたほうがよい理由は簡単です。一つ[…]
 だからちゃんと理由はあるのですが、しかしこのことは、いつも一つ一つを指図するのがよいことだ、ということを意味しません。[…]
 そしてもう一つ[…]
 ただ、そうして面倒だからとほうっておくと、だんだんと委ねていくと、いつのまにかいいようにされていること、他人に都合のよいようにされてしまうことがあります。[…]。だからそのことに気をつける必要はあります。わざわざ「自立生活プログラム」といったものを行ない、自分で決めて指図すること、そのやり方を一度は教えこむことの意義はやはりあるわけです。
 人にまかせきりだと勝手なことをされる。そして何が自分にとってよいかは自分がわかる。だから自分が決める。ただ、いちいち指図するのは面倒だ。だから問題ないならさぼるのもよい。しかしそうして油断していると好きなようにされることがある。気をつけよう。それだけのことです。この構図をわかっておくことです。難しいことではありません。

自己決定主義について・2
 もう一つ、その人にとってのよしあしとは別に、その人が決めるというそのこと自体によって、その決定が大切にされねばならないという捉え方もあります。その人の意志、決定、その実行は、その人における大きな部分ではあるでしょう。とすると、その人を尊重するなら、その人の決定を尊重しようということになります。はたから見ると、そのようにその人で決めて行動したらかえってその人は損するのではないかと思うところはあるけれども、それでもその人がそうするというのであれば認めようということがあります。
 しかし、その人の決定は、当たり前ですが、その人が生まれ暮らしてきた社会にある価値観や、お金があるとかないとか様々の事情に左右されます。こういう場合にはこう決めるのが当然だとか、かっこいいとされることがその人の決めることにおおいに影響します。
 だからといって、その人の決定は「本当の自己決定」ではないから無視したり否定したりしてよいといったことにはなりません。というのも[…]
 このようなことを確認したうえで言えることが二つはあります。[…]
 そうすると、その人の決定がその人を傷つけ破壊するような場合には、その人がこう決めたということを押しとどめることも認められてよいということになります。さきに紹介した、とてもはっきりすっきりした自己決定主義者である中西正司(190頁)であっても、安楽死・尊厳死を社会的に認めることにははっきりと反対しています。ものを単純に考えすぎる人はそこに矛盾があると思うかもしれません。しかし、実はそこに少しも矛盾はないということです。そのことをこれまで幾度も述べてきました★03

世話すること言われた通りにすることをまずきちんと肯定する
 こんどは介助する側のことです。その仕事は、たいへん気を使ったり工夫を要する仕事であることもあります。しかしときにはそれを必要としない、あるいはそれを意識的に抑えるべきこともあります。この仕事には二つの性格がある、両極の間にいろいな度合いのものがある。もともとそういう仕事です。
 ただその仕事をする人たち、というか、そういう人たち関係の学会とかで学界・業界を代表していると思っている人たちは、自分たちの価値が低くされ待遇がよくなく、それを向上させたいと考えています。それで、この仕事がたいへん高度な仕事であり、専門性を△195 有する仕事だと言います。専門性にはいろいろな定義がありますが、「自律性」、つまり仕事の中身を(相手=利用者ではなく)自分たちが決められるというのもその一つの要素ではあります。わからないではありません。[…]しかし、それはときに、この仕事で一番大切にされていること、そして毎日実際にやっていることを低めてしまうことになるとさえ思います★04
 それは、看護職の人たちが「看護の専門性」を言う時に、すこし力が入りすぎることがあるのと同じです。その業界の先祖としてはナイチンゲールという人がいて、私は、あの人はよいことを言っていると思います。「療養上の世話」が仕事だというのは法律でもそうなっています。もう一つ、「診療の補助」の部分について、「補助」でなく自分たちでやれることを増やすことで専門性を高めようとします。実際、医師に指図されずできるようになる仕事ってたくさんあると思いますから、その主張はもっともな主張ではあります。ただ、そういう力点の置き方をすると、明らかに大切である「療養上の世話」のほうはどうなんだ、そちらのほうが大切でしょうよ、ということになります。
 同様のことが介助についても言えます。人に言われた通りにする仕事が、だめな仕事だとは少しもなりません。必要なものは必要なのであり、その必要な仕事をするのはよいこ△196 とであるに決まっています。なにか「創造する」仕事を本来の労働であるとして、そういう労働をまつりあげるという習慣がたしかにある時代から地球上の一部の地域にあって、それが世界に広まっている感じはします。しかしそのまねをする必要はありません。
 世の中に「クリエイティブ」な人ばかりいたらうるさくて仕方がないのです。日本という国で、「私が私が」と強調することが、すくなくとも表向きには恥ずかしいことになっているのは、たとえ建前としてはということであっても、そんなに介助の仕事を低くは見ないことに関係しているかもしれず、それはよい習慣だと思います。
 私は、頭にせよ身体にせよ、より疲れる仕事には加算があってよいという立場です。[…]そういう意味では、この仕事の「ある部分」については、加算がつかないことはあるでしょう。ただ、その「基本給」をきちんとした水準に持っていくことが必要で大切で可能だと、第1章で言いました。

しかし人と関わり身体が接するので
 基本、介助が必要な人が介助する人に指示する、介助する人は基本、指示されたことをする。たんたんと機械のように、でよいとして、しかしここで実際に行なうのは人間です。だから、それに徹することはできない、すべきでないという場合もあります。
 それは体に触れる行ないです。誰でも知っていることです。そこには羞恥があることもあります。私の知人で、第5章で紹介した安積遊歩(115頁)は、トイレのドアをあけたままだって私は気にしない、気にしていられないと言いますが、やはり第5章で紹介した三井絹子(130頁)は、府中療育センターで婦長さんに気にしなければいいと言われて、言い返したことを紹介しました★05。私はどちらももっともだと思います。では、どちらももっとだとした場合に、どうするか。[…]人と人の関係である限り、人と人の間の関係であるからこそ、間の距離をとったほうがよいし、無理な要求を聞く必要はないということです。
 もちろん、それがそうそう簡単にはいかないというのがこの世界で起こることですよ。身体と身体の接するところに起こるできごとを書いた『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』(前田拓也、2009、生活書院)という本もあります。同じ著者が、『セクシュアリティの障害学』(倉本智明編、2005、明石書店)という本に「パンツ一枚の攻防――介助現場における身体距離とセクシュアリティ」という章を書いています★06。それを読んでも、意外になんとかはなるものだということと、だからといって気にするなというのは乱暴だということ、やはりそういうふうに言うしかない、その間でやっていくしかないということです。
 ですから、やっかいごとはいつまでもなくなりませんが、どうにもならないわけではない。そして人と人が関わるということは、もちろん、やっかいなことだけを生じさせるわけではありません。もう一つ、当たり前のことですが、介助者はその相手と、既に友人であってもよいし、その仕事をきっかけに友人になってもよいに決まっています。どちらかがそういう関心がない場合、そしてきちんと仕事をしてもらうことを優先するというなら、それはそうしたほうがよいでしょう。また、友人なりなんなりは別の場で得ればよいというのがこれまで何度か出てきた中西の主張で、もちろんそれももっともではあります★07。しかし、うまく仕事が進むことと、仲がよいこと、両立するならそれはそれでよいのです★08
 だから、問題はこのことではありません。仲のよい人間関係があることはぜんぜん問題ではなく、そのような「人間関係を築けなければ介助者を得られないというのはおかしい」ということです。ボランティアを集めるのも辛いよねというところ(138頁)で言いましたが、人が寄ってくる魅力を要するということになると、そんな人間に自分がならなければならない。そういう人間になるのはよいことでしょうけれど、介助が必要だからといって余計にそうならねばならないというのはおかしい。なろうとしなければならないし、なれないこともあるだろうし、なれないならそういう人間であるふりをしなければならないということになってしまいます。それはよくない。平凡な人間であっても、さらに、いやな人間であっても、介助は得られるべきであって、人間的魅力が介助を得るときの必要条件になるというのはよくないということです。

「介助者手足論」についていちおう
 ごく一部で知られているだけの話ですが、「介助者手足論」というものが論じられたりすることが時々あります。介助したり、使ったりという生活のなかではいくらかリアルな部分があるということもあるでしょう。そして単純に捉えると、わりあいわかりやすい話で、論じやすいということもあるでしょう。そんなわけで、いくらかの人がこのことについて書いていたりします。[…]。健常者は障害者の「手足」であるべきだと主張されたことがあるという話から始まって、さきほど書いた、そうもいかないよねという話が入ってくるという仕掛けの論が多いです。
 しかし、一つ、そんなことは、しばらく考えればわかることです。決めて、それを実現するための手段として、他人の身体を使う。働く者はそれを受けて、そのように働く。基本はそれでよいとしました。そのうえで、危害を加えないとか、双方の羞恥心に気を遣うことです。手足になりきることはできないし、すくなくとも文字通りの意味では、それに徹しなければならないということにはなりません。本人のことを斟酌したり先回りしたりするほうがよいこともある。そして、手段として動きながら、仲良くなってもよい。ただ、仲良くならないと仕事をしてもらえないというのはよくない。そういうことです。[…]。他に調査したり考えられたりすべきことが山ほどあるのに、それはほうっておいて、このことばかり取り沙汰されるのはいかがなものかと思います★09
 そしてこの主張は、誤解されているところがあります。それは、日常の生活の行動についての主義主張というより、社会運動を誰が主導するかに関わるものでした。この件でなかなかたいへんなことになったのは関西なんですが[…]。ただ自分たちの主張が、支援する人たちによって左右されたりはしたくないという気持ちがあり主張がなされました。多くの障害者が学校にも行けず行かずという時期でもあり、弁が立つという人はあまりいない。そして、運動が進んでいくと、自らは特段の努力をせず知識なくなんとなく「自立」する人たちが出てくる。他方、学生運動あがり、学生運動くずれの健常者は、介助者であるとともに運動の支援者であるということがありました。またその運動の一環として関わる人たちがいました。おもに脳性まひの本人たちがあまりのんびりなのに苛立ち、いくらか先走ったり、さらに仕切ってしまったりすることがあったのです。それを止めようとしたのが「手足論」ということになります。そして、運動はあくまで本人が中心にやっていくのだということになります。
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙  それは絶対の原則かと問われれば、私にはためらうところがあります。むしろ「当事者だけ」を批判することのほうが簡単かもしれません。障害者同士とか言っても[…]。ですが、やはり、基本的には、本人たちの主張そして本人たちの運動が尊重されるべきものだとは思います。そして、その運動においても、実際には本人でない人にも意見が求められてはきました。そして、ちゃんと考えていけば、やはり基本的には、ですが、見いだされる方向や戦術が異なることにはならないはずです。そのことは、福島での障害者運動の歴史についての本『往き還り繋ぐ』(青木千帆子他、本書12頁)に収められている私の章「分かれた道を引き返し進む」でも書きました★10

「関係大事主義」について
 「ケア」を言いたい人は、関係を大事にして、だから、制度だとか、お金だとか、事業所だとかいうものを好まないということがあるようです。私は、そちら側の人間ではあまりないのですが、そう言いたい気分はわからないではありません。詳しくは次の本で書きますが、簡単に、ここでのポイントを一つだけ、言っておきます。
 「ケア倫理学」というものがあります。言われることはまあまあもっともです。それは、これまでの倫理学が「独立」した人間を前提しているが、人間は「独立」した存在ではなく、むしろ「依存」する存在なのだといったことを言います。また道徳というものは、天から降ってくるものではなく、人と人の具体的な関係において育まれていくものなのだといったことを言います。それはそうなんでしょう。そして私たちのいくらかはこういう話が好きです。ほろりとしたりするのです。そんなこともあって、少しはやりました。
 まったくわからないのではありません。そのうえで言っておくことは一つです。個別の具体的な関係というものを、あまり重く大きく見すぎることはないだろうということです。
 誰かのことが好きになって、それでがんばろうということはあるし、あってもよいのでしょう。さらにそんなに幸福なことばかりが起こるとも限りません。ケア倫理系の人たちは素直で幸福な人たちが多いので、そうでもないでしょうが、ちょっと倒錯した人たち、つまり「ぬきさしならない」ところになにか輝きのようなものを見いだす人もいます。こういう「ずぶずぶ」の話も、私たちは実はかなり好きです。出会い、逃れられない関係になって、そこで初めて何かが見いだされるといった話です。
 ただ、まず一つ、濃いところ、近いところから、具体的な人間に出会ってそこから、という契機をあまり大きく見る必要はないのだろうと思います。どういうことでしょう。
 たとえば、2016年に相模原市の施設で大量殺傷事件がありました。そんな行ないはよくないことを言うために、この人は、つまりこの障害者はこんなにちゃんと生きている、ということをたとえば親が語る。新聞が記事にし、テレビが映像を流すといったことがありました。立派に美しく生きている人たちがたくさんいることは事実ですから、もちろん、それを示してはならないということはないです。しかし、人の生命の尊厳を訴えるときに、そういうものを持ってくること、それをわりとするっと受け入れてしまうことに、私はいらっとすることがあります★11。テレビは映像を出さねばならない。だから、人を出し顔を出しというのは仕方がなくはあるのでしょう。近いところから、だんだんと知るということも大切であるかもしれません。けれども、そんなことがあってもなくても、だめなものはだめだ、大切なものは大切だとしたほうがよいということがあると思います。
 これは第6章で、うまく関係を作れることが介助者を得られる条件になるのはおかしいと述べたこと(141頁)と関係しています。美しい話がこってりあったほうが説得力があるということはたしかにあるでしょうが、「話を盛ってるな」と思われて、かえって引かれてしまうこともあります。人間や人間関係の具体的なところとは別に、天から降ってきたものであるかのように道徳や倫理を語ることにも道理があるということです。
 そしてもう一つ、現実を平凡で退屈な方向に持っていこうとしても、結局のところ、私たちはままならない身体を持って、思い通りにならない生を生きるのですから、摩擦は生じる、減らしていっても十分に残っている、波瀾万丈は起こってしまうと思うのです。
 どうもこのごろ普通の事業所になってしまってつまらん、という嘆きはわからないではないですが、しかしそこには、実は、毎日、様々な事件が起こっています。そのことは、そこで働いたり働いてもらっている人たちが本当は一番よくわかっていることのはずです。とくにつらいこともなく、たんたんとことが運ぶ場合もありますが、実際、なんでこんなにこじれるのかわからないほど面倒なことが起こることもあります。あまりそんなことが起こらないようにしたほうがよい、と私は思います。どのようにしてもやっかいごとからは抜けられないのだから、問題のないように基本的にはしておけばよい、それでも必ず現れてくる不如意な部分で、そういうことを楽しみたい人は楽しめばよいと思います。
 だから、まずはおおむね波瀾が起こりにくいものとして仕組みが確保されることはよいことだと、そのうえでも、いくらでも波風は立ち、その中には私たちが楽しめるものもある。だから、その方向で問題はない。それが答えになります★12

安住できればそれにこしたことはない、が
 関係して、「近頃の人たち」は制度の上に安住しておってけしからん、といったことを言う人たちがいます。自分たちはこんなに苦労してきたのに、と言うのです。言いたい気持ちはわかりますが、基本的には間違っている、と敬老の精神に欠けた言葉を返すことになります。理由は簡単で、苦労したりせずに得られるべきものが得られるのはよいことだからです。ですから、その不平不満は年寄りの小言にすぎないと、いったんは冷たく言い放ってもよいのです。ただそれだけでもないです。
 一つ、残念ながら、安住できるような状態ではないということです。[…]
 とすると、その状態を動かすための行動・活動に加わってもらう必要があるということです。私は残念なことだと思いますが、行動するべきことはずっとあるし、これからも続きます。それでも、どうしても気がすすまないという人に無理やり参加してもらったら、かえって盛り上がらないということにもなりますから、その人には抜けてもらってよい。全員である必要はないでしょう。しかしたくさんの人にわかってもらいたいし、そのためにこの本も書いているし、さらに、行動を、ということです。
 そして、一つ、それは苦労ばかりのいやなこととも限らないということです。このSNS社会において、人々はひそひそと、しかし相手に聞こえるように暴言を吐くことには慣れていたりしますが、それよりも、正面から堂々とものを言っていくほうが気持ちがよいということがあります。まっとうなことを言うのは、またまっとうなことを通すためにいろいろと考えたり、工夫したりすることは、一方では、面倒なことで、よけいな負担・仕事でもありますが、他方では楽しいことでもあります。
 だから、「ものとり」と批判されることがあるけれども、ものをとることが大切で大変なことであって、仕方なくともそれを追求していくほかないだろう、それもめんどくさいばかりではない、元気が出ることもある、となります。

反優生のために取りに行く
 けれども、批判になにかもっともに思えるところがあるとしたらそれはなぜでしょう。「もの」よりももっと大切なもの・ことがあるという感覚があります。それはまったくもっともです。たかが介助です。「ものとり」の人たちにしたって、もっと大切なもののための条件・基盤を求めているだけのことであって、ここには何の対立もありません。なにか問題が起こるとすれば、「ものを得て、魂を売った」的なことが起こる場合です。
 では「魂」の部分とは何か。大雑把には、「優生思想反対」といったものでした。では優生思想に反対することとものをとることは別のことか。そんなことはありません。必要なものがないと、人を殺したくなったり自分が死にたくなったりします。そのようにして優生思想は実現します。だから両方を求めることは、一つのことです。[…]
 さらに、「交渉の材料にされる」「とりこまれる」という話があります。その可能性はなくはありません。そしてたしかに、どういう態度・作戦をとるか、ときには難しいこともありえます。しかし、だからといって、あきらめるということにはなりません。とすると腹をくくり、利口になるしかないし、両方を求めて、片方を交渉材料にされないような体制・社会を求めようと言うしかありません。
 それは不可能ではないと私は思います。[…]以下は、横塚晃一(124頁)の「優生保護法と私」(1975年)の、「自分は消される側ではないと思っている」人たちに向けて書かれた末尾の部分。

 どんじりを抹殺したところで次から次へとどんじりは出来て来て、それはこの世に人間がたった一人になるまで続くでしょう。/私は、私自身を「不良な者」として抹殺したあとに、たとえどんなに「すばらしい社会」ができたとしても、それは消された私にとって知ったことではありません。(『母よ!殺すな 新版』132頁)★13


 「たった一人になるまで続く」とは私は思いません。しかし、一番迷惑な人たちだけを除外しようとして、除外する。そうすると次の一番迷惑な人たちが出てきて、止まらず、それも除外する。そうして……、という話ですよ。そういう話には乗らない。乗らないほうがほとんどすべての人が気持ちよく生きていくにはよいということです。少し考えればわかります。だから、基本的に迷うことはない、そういうふうに自分たちの位置を定められる、定めてしまえば道を間違えることはない。そういうことです。




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  第9章 こんな時だから言う、また言う




それでも亡くなった
 原稿をだいたい終えたつもりになって、あとは仕上げの仕事を、と思っていた時、京都在住のALSの女性の嘱託殺人事件が昨年(2019年)11月にあったという報道が7月23日にありました。毎年、なにかが、ほとんどがよくないなにかが起こって、そのたびに、なにかを言ったり書いたりしてきました。取材を受けて、1時間半とか2時間とか頑張って話して、それが「命は大切にしましょうと言いました」と、これだと16字ですが、そんな具合に、肩書と名前を合わせた字数より少ない字数で、まとめられたりします。めげますが、それでも、毎度違う話をするわけでもないのに、なんでこんなに疲れるのだろうと思いながら、短いもの長いもの取り交ぜて、書いたり話したりしてきました★01
 […]
 私は、小心者で、刺激的なものがきらいなので、報道も見たり読んだりはしませんでした。それでも、結局はいくらかは知ることになったり、話したりすることになりました。そして、何を言えばよいのかと思い、書いて、本書の終わりの章にしようと思いました。
 その人は京都で一人で暮らし、重度訪問の制度で24時間の介助を得ていたようです。だから、介助の人手もなく絶望して、とは単純に言えないということです。[…]そして、昨年には約20もの事業所からの派遣がなされていたということです。これは非常に多いです。そして多くの場合、介助者は日中だけでも何人かとか、短い時間で交代していたようです。これはたいへんしんどい状況です。
 […]事業所を探し、探してもらって、とにかく応じてくれる事業者が入って、短い時間でつなぐ、次々と交代するということになったのだと思います。するとさらに悪循環が起こります。厳しい態度をとる、すると、人が離脱する、組織が引く。するとなんとか派遣に応じてくれる組織による細切れの派遣になる。たくさんの人が短い時間で交代する。これは厳しい。なかなかやっかいです。それ自体、負荷がかかります。消耗します。次の人が来るのを待っていたりしなければなりませんから、ちょっと半日外出、というわけにもいかないでしょう。さらに、最初は同性介助(101頁)だったようですが、途中からそれも困難になり、変更されたようです。それがどれだけその人の気持ちを変えたのかはわかりません。しかし辛いし、それがまわりに波及し、自分がさらに辛くなります。介助者との関係は、なにか愚痴を言うとか、泣き言を言うとか、そういうものではなくなり、介助者は常に横にいるけれども孤独になります。
 他方でその人はネット上でのコミュニケーションは上手にできる人だったようで、オンラインでのやりとりは頻繁にしていたということです。一方に、生活のほとんど全部、ずっと同じに続く時間があり、自分も動かないからまわりも変わらない、そういう自分のまわりの空間があります。それに比して、死は目的となり、時間の後の終わりの点としてあり、そこまでの道のりがあり、道行きがあります。すると、その死への道行きは[…]

つまらぬ言い訳せず逃げを打たず起こることを知る
 とすると、どうするか。まず、おおまかに、どのような方向を向くかです。私のような死ぬのが怖いだけの単純な人間には無用ですが、多くの人はそうでもない。揺れる人は多い。どちらに転ぶかわからない。そんな時には、まずは生きる方向で行くというのがよかろうとなります。ここで人・社会は中立である必要はない、中立であるべきではない、と思いますし、そのことの理由の説明の必要もここではないとします。『ALS』(本書10・36頁)にこんなことを書いたことがあります。

 私たちの社会では一方で、身近な、とくに善意もなにも必要とせず、むしろそれがうっとおしく感じられるような場面で、やさしさやふれあいが語られる。善意が押しつけがましく押しつけられ、それは問題にされない。他方で、生死に関わるような場面になると、本人の意志を尊重して云々と言う。周囲は口を出さないようにしようと言う。これは逆さではないか。(第4章6節「「中立」について」、143頁)


 ただし、別の言い方もできなくはありません。あくまで「中立」がよいというのであれは、この社会は少しも中立ではないので、それを補正するのはよいことだろう、なのでそれをします、補正するからそれまで待っていてください、と言うのです。
 今度亡くなった人のことを知っているわけではありませんから、その人について確かなことは私には言えません。ただ、ほとんどの場合に現れるものは、なにか深淵な「生か死か」といった話ではないのだろうと思います。身体の不快から発し、それをなんとか伝えたり、やりすごしたりするその経路がうまく働かなくなって、憤懣が身体にうっ積するようなことが起こる。そしてその手前には、「こんな身体」になってしまったという、たんに身体から発したものでない、今まで生きてきた世界・社会の価値のもとでの悲観があります。こんな時、なにかすっきりした道筋が示されるとそちらのほうが魅力的なものとなることはあるはずです。
 昨年(2019年)6月、NHKスペシャルで「彼女は安楽死を選んだ」という番組がありました。「安楽死・尊厳死2019」で検索すると「生存学」のサイト内にある情報にアクセスできます。その番組をその人は見て、その死にはその影響があったと、主治医であった人は言っているようです。今度の人とそう年の違わない女性が、スイスの安楽死を実行する団体のところに行って死んだその過程を取材して報じた番組です。
 それについて、日本自立生活センター=JCIL(102・170頁)がNHKに質問状を送り、その回答があまりにあっさりと論点を外しているので、さらにNHKと放送倫理・番組向上機構(BPO)に質問状を送ったけれども、なしのつぶてということがありました★02
 自殺に向かわせるような報道をしてはならないという報道の世界の内規があってそれに反していると思わないかというのが、この提起の一つの論点でした。それに対して、自殺だと言えるとは限らないといった回答がなされました。安楽死、尊厳死、自殺ほう助、嘱託殺人、各々の区別はときには必要で、大切なこともあります。少し嫌味なことを加えると、そうして区別していると言う人ほど、言葉の使い方がいいかげんで都合のよいように使うというのが私が経験してきたことですが、それは他で書いているので、よしておきます。はっきりしているのは、今回の京都のことにしても昨年のスイスのことにしても、人が死にたいと言って、それを他人が手伝ったということです。普通の人が自殺とするもののなかに、他人が手伝うものがあり、広い意味では安楽死がその行ない全般です。手伝いの仕方によって幾つかに分けられることもあり、「最後の、直接に」行なう行為を自分で行なう場合には幇助された自殺、他人が行なうと日本の法律用語では嘱託殺人となるようです。すると今回のできごとは嘱託殺人になるでしょうし、スイスでなされたことは自殺幇助、幇助された自殺と呼ばれるのでしょう。これらを、とくにスイスでのほうを自殺でないというのは、普通に間違っており、詭弁です。
 私は障害学会という学会に関わっています。小心者の私は実はあの番組を見ていないのですが、その番組の中身とは別に、言論・議論を都合のよいように封じてはならないということは言えます。学問は言葉によって作られ、学会・学界は言葉のやりとりをする場であり、言葉や言葉のやりとりを大切だと考えている人たちの集まりですから、そういうことが起こった時には何かを言うべきだと思い、それで、NHKとBPOが質問状について回答するよう理事会として声明を出しました。しかしそのままにされています。
 自殺ではないと言って打ち切るのは普通にだめです。言えるとすれば、一つ、自殺だが、それを推奨しているわけではない、といったところでしょう。番組を作った人は実際にそう思っているのかもしれません。しかし、それに対して批判・疑念が示されているのであり、それに答えていないのです。
 […]多くの人が両方を思っています。そんな人が、片方の側に傾くことはあるでしょう。そしてそれを促したり止めたりするものの多くは、まったく形而下的な事情によるものだと思います。それを報道者が画像や文字によって、冷静に、捉えることはできるのに、追えなかった、追わなかった、ということだと思います。そしてそのように考えることができるのに、まったくその手前で、そのような提起を聞かないことにしてしまった。これはとてもよくない、だめだと思います。

このことについても短い本が要るだろうか
 では、どう考えるか。私が書いてきたものの書名だけ、あとで紹介しますが、まず思うのは、よくもまあ即座に、いいだのわるいだの言えるものだということです。瞬時の反応としてなにか思うことはあったりするでしょう。しかしそれを、石原慎太郎のツイートへの「いいね」なども含めてですが、表明してしまうためらいのなさが不可解、というよりだめだろうと★03
 たとえば、2019年のほうはよくて、2020年のほうは犯罪だとなるのかということです。今度の京都の人のことについては、医師を自称する人が本当に医師だったのか、とか、100万円以上の金を受け取ったとか、「狂信的」なことを連呼するブログその他をやっていたとか、怪しげな事実がいろいろと明らかになりつつあって、そういうスキャンダラスな事件として扱われつつあるようです。ただ、スイスに行った人もたくさんお金はかかったでしょう。そしてやはりスイスの団体も、強い信念に基づいて活動はしているわけです。NHKの番組について肯定的なことを言い、そして今度のは殺人事件だとするなら、なぜそうなるのか、比べたらそう違わないかもしれない、と思うというところに思い至っていないのだろうと思います。
 そして、今回のような乱暴なことが起こると、「きちんとした決まり」を作ろうという話になることがあります。それもわからないではありません。しかし[…]
 私は、ずっと、死を助けることを認める決まりを作ることに反対してきました。ただもちろん、自殺を助けることがだめだという主張に弱いところがあることはわかっています。実際には、私たちは、自殺を認めています。是認はしないとしても、実際には人は死ぬための行為ができるので、死ねるのです。しかし、身体が動かず、自力で死ぬことができないという人がいます。全般的には、事実上認めているものを、身体が動かない人には認めないというのはおかしくはないかということです。
 ごく簡単に言います。嘱託殺人・自殺幇助を法が犯罪とし、罰することには合理性があります。その規定を廃止することはしないとしましょう。とすると、一方で死ねる人がいて他方に死ねない人がいるというのはよくないではないかとなる、でしょうか。しかし、死を幇助することは、自殺できる人が実際に自殺できるように、事実、可能です。どうしても手伝おうというのなら、捕まることをわかって行ない、捕まればよいと私は考えます。
 ずいぶん乱暴な話だと思われるでしょうが、一貫はしています。死を助けることが常に倫理的に間違っていると、私は考えません。しかし法の水準では、それは犯罪とし、罰したほうがよい。そういうことです。
 乱暴でない話は本でしています。四つもあります。『良い死』(2008、筑摩書房)、『唯の生』(2009、筑摩書房、現在はテキストファイルで提供)、『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』(有馬斉との共著、2012、生活書院)、そして自家製電子書籍として『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』(2017)★04
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙  私の最初の単著は『私的所有論』ですが、それが出た後で最初に書いた依頼原稿は、安楽死についてのものでした。当初は出生前診断についてという依頼でしたが、この主題に変えてくださいとお願いしました。これとインタビュー一つ、が2000年に出て今は増補新版になっている『弱くある自由へ』(2020、青土社)に入っています。そして、2004年のあたりに法制化の動きがあって、それにいろいろと言わねばならなかったこともあって、2002年から2006年にかけて『文藝春秋』『東京新聞』『中日新聞』『聖教新聞』『朝日新聞』に載った四つの短文が『希望について』(2006、青土社)に収録されています。たとえば、その一つ「ただいきるだけではいけないはよくない」には次のようなことを書いています。

 迷惑をかけないことは立派なことではあるだろう。だがこの教えは反対の事態を必然的に招く。それを他の人に要求するなら、周囲に負担をかけるようなことをお前はするなということになる。その分周囲は、他者に配慮するはずだったのに、負担を逃れられ楽になってしまう。自らの価値だったはずのものを自らが裏切ってしまう。
 犠牲という行ないにも同じことが言える。誰かのために犠牲になることは立派なことだ。だが、その人に犠牲になることを教えるのは、その人の存在を否定することになり、その価値自体を裏切る。そして犠牲になることを教える側はそのまま居残るのだから、ずいぶん都合のよいことだ。


 その後、2008年から4冊の本を作ったことになります。そして[…]。同じことを繰り返しているのに、毎度なんでこんなに疲れるのだろうと思います。そして、仕方なく長くなってしまうことはあるので、できれば、長いものを、長いものも、読んでください。ただ、このテーマについても、やはり本書のような短くて値段の安いものを用意せねばならないのかとも思います。
 岩波新書では『医療の倫理』(星野一正、1991)がありますが、ずいぶん前の本だし、内容的にも評価できないところが私にはあります。その後、だんだんと現在に近づくと、他の種々の新書として現れた薄くて値段の安い本には、早めにさっぱり死んでしまうことをよしとしその流れに寄与しそうなものがかなりの数あります。四つめの本『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』という電子書籍で、新書を24冊紹介しています。まともに考えると長くならざるをえない話をはしょって、あえてタブーを破るという紋切型から入る、紋切型なんですから、全然タブーを破ったりなんかしていないんですが、言いたいことを言い、気軽に買えてさっと読める本で伝えるという仕掛けの本が増えてきたということでしょう★05
 そうしたなかで、岩波ブックレットで安藤泰至『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』(2019)が、松田純『安楽死・尊厳死の現在――最終段階の医療と自己決定』(2018)が中公新書で刊行され、ようやく冷静な論を読めるようになったというところです。それでよいかなと思ってきたのですが、ただ「医療倫理」も「生命倫理」もだいぶ広いですから、優生思想(eugenics)と安楽死(euthanasia)について、ぐらいでしょうか、私も書いたほうがよいのかもと、つい最近、思ったところです。
立岩真也『良い死』表紙   立岩真也『唯の生』表紙   立岩真也・有馬斉『生死の語り行い・1』表紙   立岩真也『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』表紙

本書に書いたことから言えること
 そういう正面からの話はそちらに委ねるとして、本書に書いたその範囲では何が言えるかです。もう既にこの章の冒頭から記してきたことでおわかりと思います。生か死というその手前でその生活がどうだったか、それはこのたびこうなったけれども、どうにもならなかったのではないだろうということです。
 […]事件が報じられる直前、結局私は会えなかった人のことを少し記しておきます。彼は、コロナ下の病院が教えてくれないので生死を確認できない人、しかしたぶんもう亡くなっただろう人です。彼は死にたいことをより明確に語りました。その人と私は一度しか会ったことがありません。私たちの研究所が2019年の3月に企画した安楽死についてのシンポジウムで、その終わり近くに挙手して安楽死をしたい旨の発言をしました。その意見に対する賛否という以前に、言うことの辻褄があってないので私はそのことを指摘したかすかな記憶があります。その人は、一方で、プラス・マイナスの両方についての情報を提供されたうえで――と主治医は言いました――複数の医師の前で、人工呼吸器の装着をしないと意思表示しており、記録されているので、主治医はそれを採用するとのことでした。ただ、その同じ人は、退院後の暮らしについての打ち合わせを別の支援者たちと進めており、その相談、そのおりの意思表示は、死のうという意思表示の後でしたが、医師たちに示した意思が優先されると主治医は言い、それ以上はどうにもなりませんでした。私が支援者と主治医とのやりとりにつきあった7月のその日は、「地域移行」の相談のたった4日後でしたが、本人は既に、自発呼吸が弱くなることによる血中二酸化炭素濃度の上昇とモルヒネの類の注入によって意識のない状態で、感染の危険があるので面会もできないということでした。
 ここから得られる直接の教訓は、まず、もし死にたくない気持ちもあるのだったら、死にたいという方向の意向を反映し実施できる人に「正式に」言うのはよしたほうがよかろうということですが、昨年秋に亡くなった人のことに戻ります。
 いくつかよくない条件があったらしいことはさきに言いました。まず、必要な時間の介助が得られることは、暮らす時の必要条件ではあるということ、しかしそれだけでうまくいくとは限らないということです。一つに、それの時間・空間が実際にどのように構成されるかです。人が少なくなることによって、介助の時間が短時間のモザイク状になってしまうと、辛くなります。それでもどんどん喧嘩したり断ってしまうその人がいて、どうにもならない。しかしそれでも、これでもかと人をあてることができれば、当座、少しましになります。
 一つに、第4章で調整する仕事について話しましたが(108頁)、調整という言葉から感じられるよりもっとハードな仕事が要り、担う人が要ります。言いましたように、身△228 体の方面の介助をするその同じ人が、よもやまとしたあるいは深刻な話をする相手となったり、これからのことを相談して手配したりしてわるいわけではありません。しかし[…]。第7章で、「相談支援」がうまくいっていないこと、しかしそれをもっとまともにすることは可能であり必要であることを言いました(180頁)。それを実際に行なうこと、そしてそれにお金をかけることです。かつての杉江さんの時には、それは無償の仕事としてなされていました。また、古込さんの退院の時には、各組織の仕事の「あがり」でなされました(181頁)。それにはそうなってしまった事情があるのですが、よくはない。ときに厄介で手間のかかるこの仕事に対して、まずは仕事の時間に応じて、税金から報酬を出すことです。それが実現しても、どこまでできるかはわかりません。これを行なえばなんでも解決なんていうことは、ありはしないのです。しかし簡単にできることもあります。そして、人の生き死には、多くこういうところで決まってくるのです。介助の金をとってくる、人を募集し採用することと、「優生思想」に抗することは、ぜんぜん別のことではないと言いましたけれど△229 (209頁)、それはこういうことなのです。
 昨年のできごとに直接に関係することは以上です。以下、安楽死だの、嘱託殺人そのものについてというより、こんな事件が起こると、いや起こらなくとも、人々がそこらで語ったり、書いたりしてしまったことについて、注意書きのようなものを書きます。

確認1・「ああなったら私なら死ぬ」は普通は誹謗だ
 「私も」、あるいは「私は」、「ああなったら死ぬと思う」と言う。そしてこのことは、他人のことではなく自分のことなのだから、そして悪意のない自分の思いであり、言ってもよいと言ったりします。思ったりします。
 しかし、まずそれは、たいがいの人が最も大切にしている自分の命よりも「あの状態になる」ことのほうが重いものだと、生命をなくすことのマイナスよりさらに大きいマイナスだと言っています。もし「自分が○○になったら」「○○だったら」、「私は死ぬ」と言う。それは「私のこと」なので「他人を傷つけているわけではない」と言えるかです。言えないですよ。すくなくとも、○○の状態であることは、死ぬほどいやだと言っているわけです。○○には、「黄色人種」でもなんでも、何を入れてもかまいません。これは非常に強い否定です。そしてそれを公言することは、その強い否定を人々に伝えることです。
 そして次に、そのように語る人のほとんどは、今は「ああなって」いない人であり、当面あるいはずっと、「ああなる」可能性は低い。「ああなる」ことも、だからそのために死ぬこともないのです。だから、死を賭しての発言、のように一瞬思えたとして、そんなことは実際にはないのです。「黄色人種」でない人がその人種になる可能性はまったくないですから、これは純然たる侮蔑・差別ですが、ここではそれほどではないにしても、やはり、ほとんど、今は私のことでない状態を否定しているのです。
 そしてさらに、「ああなったら」の状態を、ほとんどの場合、その私は経験してはいません。外から見たり、あるいは見ることもなく想像して、あるいは想像もせず、言っているのです。本人はさほど辛くないかもしれません。辛いかもしれません。辛いところを頑張っているかもしれません。それを飛ばし、無視し、あるいは否定して、「私なら」と言っているのです。
 さらに、本当に自分のことでしかないということであるなら、なぜわざわざ、他人に伝わるように「つぶやく」のかということです。自分ならそうする、と思うことがあるかもしれないし、そんなふうに思うことをやめなさいとはなかなか言い難い。しかし、それを、他人たちに伝えるために、とまでは言わないとしても、○○である人たちも含む人々に伝わることがわかっている場で言う。これはたいがいの場合には「ヘイトクライム」と言ってよい行ないです★06

確認2・なんであなたは威張っていられるのか不思議だ
立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙  どうしてマイナスと言えるのかがわからない、そして自分が引き受けることのない属性・性質を持ち出して、人を否定するのは、普通の、ただの差別です。さらに死ぬほどマイナス、生きていられないほどマイナスだと言うとしたら、最も強力な差別です。ただ、障害や病の場合には少し事情が違っていると言われるかもしれません。実際に、死んでもよいほど、であるかどうかはさしあたりおくとしてもマイナスであるなら別だ、と言われるかもしれません。
 ではどういうふうにマイナスなのか、ということになります。それは一つではない、だから、一つずつばらして考えないとだめだよね、というのが『不如意の身体』(2018、青土社)で書いたことです★07。やはり厚くて高い本ですが、ここで要約するとますます売れなくなるので、よしておきます。ただ、すくなくとも、ひとこと言えば済むような話ではありません。マイナスでなくプラスであるとか言いたいわけでもありません。一つひとつ、その本では五つあると言っていますが、少し考えれば当たり前のことを確認していこうと言っています。
 しかしやっかいな問題は、いちいち考えない人考えたくない人が、そういう人たちに限って、ばくっと、曖昧で大げさな否定を言ってしまうということです。そこで、他の差別と同じく、挙証責任をそういうことを言ってしまう人に課すという手があります。こっちでわざわざあなたの言うことが間違っていることを具体的に証明などしない。あなた方が言い分の妥当性を証明できない限り、禁ずる、罰するといったことです。そしてあとは無視する。
 ほぼそれでよいと私は思っています。ただ、それはそれとして、考えられることはいちおう考えておく、言えることはいちおう言っておくというのが私の仕事なんだろうと思っていて、地味な仕事をしています。しかしここではそのもとの「気分」を言います。
 なんだか自分は障害者でなくて、普通で、まともだと思っている人たちがいるようです。心底そう思っているようでもあり、思っていることに気付かないようでもあります。よくまあそういうことを思うものだと、そしてわざわざ、誰にでも聞こえる場で、ようまあ「つぶやく」なんていうことができるものだと、思います。
 ただ[…]
 何を言えばいいんでしょう。まず一つ、言いたくなること、実際よく言われることがあります。「明日、事故にあって障害者になるかもしれないじゃないか」とか「年をとったら介助が要るようになるよ」といったことです。それはそれで間違いではないから、言ってもよいとは思います。政治哲学だとか難しそうなことを言っている学問にしても、簡単にまとめてしまえば、そういう筋立てになっているものがかなりの部分を占めます。人間、思いつくことはそうたくさんはないということです。[…]
 何を嫌い、何を恐れているのか。五つはあるとさきに言いました。その中の大きな一つが「できない」です。私はずっと、ほぼそのことだけについて、両手じゃ数えらない数の本を書いてきましたから、やはり長くなります。ここではその論理・理屈はちょっと脇に置いて、「気分」でものを言う人たちに対して、私の「気分」を言うことにします。
 普通に、いつなんどきなるかもしれないという可能性としての連続性ではなく、それぞれできないことが様々な度合いで現にあります。[…]。たしかに、自分よりもっとできない人、とても多くのことについてもっとできない人はいます。しかし、それでだめだとか、迷惑だとか言うその人たちについて、あんたは、どれだけできている気でいるんだと思います。どんなにあなたが元気にできる人であっても、あなた一人ができることなんて、たいしたことはない。そしてそういう様々を足し合わせ、全体として、だいたい生きていくのにまにあうなら、一人ひとりの度合いの異なりなど、「本来は」、どうでもよいことです。技術があり、機械があり、様々があって生産は成り立っています。そのなかであなた一人分の生産なんてたいしたことはない。なのに、あなたはなにをいばっているのか、「自分は消される側ではないと思っている」(210頁)あなたはそんなに立派で偉いのかよ、ということが一つ。
 こちらのほうがもっと泥仕合的に思われるかもしれません。しかし、今言ったことに間違いはないと思います。そしてこれは、なにか人を馬鹿にしているようで、そんなことはなく、まったくよいことであり、明るいことです。できなくたってそうは困らないし、できると自分では思っているが(思いたがっている)が実はそうでもない人も困らない。他方、できてしまうことは、それはそれとしてよいことだ、どうぞできてくださいよろしく、ということになります。

確認3・「特別扱いするな」はさらに意味不明だ
 もう一つ言われることは、「障害者を特別扱いはできない」というものです。やれやれ、こういうことについても、また、そしてまだ、言わねばならないのかと思ってしまいますが、言います。これは、さきのものとは逆向きで、「障害者」は不当に得をしているという話です。
 これは「過度な待遇をすべきでない」ということですから、「適度な待遇」があるということが前提になっています。つまり、その人たちは正義を語ります。悪いことをしたいと、ただ悪口を言いたいのだと言ってもらったほうがまだよいと思うぐらいですが[…]
 しかし、ここで文句を言われている側が何を求めているかといえば、せいぜい「人並み」といったところです。大雑把にはやはり「平等」と言ってよいかもしれません。そして、求めても得ようのないものが求められているわけでもありません。旅行に行くとか、そんなことです。
『差異と平等――障害とケア/有償と無償』表紙  ただ平等と言っても、こまごまとしたことのすべてについて同じというのは難しいでしょうし、よいやり方でもないでしょう。『差異と平等』(青土社、本書143頁)に書いたのでややこしいことは省きますが、ここでお金というのはなかなか便利なものです。一定の所得を皆が得られるようにします。その所得のもとで、旅行が好きな人は他を節約して旅行に行く、そんなことに興味のない人は別のところに使う。それでよかろうということになります。
 さて、この社会、つまり多数派用に作られてきた社会にあっては、同じ旅行をしたり、パチンコ屋に行ったりするのに、かかる手間が違います。その手間の違いの分の費用を、社会が別途出そうということです。そしてその一部が介助です。それだけです。不当な特別扱いとは少しもなりません★08。自分の力を使わない分だけ楽していることはあるでしょう。しかし、他方では、介助はたんたんとやってくれればよいと言っても、なにかしらの煩わしさや気苦労といったものはある。残念ながらそう楽ができているわけではありません。自分が普通の労力を使うのではできないことについて補うようにということなのだから、努力不足を言われるいわれもありません。なんか文句があるのか、です。[…]まっとうな文句があるというなら、受け付けますが、そのうえでも、以上に間違いはありません。

 理屈の通らない人はいつの世にもいるので、とにかく下手に出たり、情に訴えたりをせざるをえないことがあるのは認めます。ただ一つ、それは、上手な人にやってもらったらよく、私はそういう芸がないので、得意な人にお任せしようと思います。もう一つ、優しくしてあげるとさらにつけ上がる輩もいて、それは悔しく、よくないことだと思うので、私は別の側からものを言うことにしようと思っているのです。次の本は、どのようにへり下ったりせずに言うべきことを言うか、そんなことについて書ければと思います。



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序・註
★01 あとでふれる東日本大震災の時と同じく、「生存学研究所」(2011年の時は生存学研究センター、2019年度から研究所になった)の活動として、情報の収集・整理・発信等を行なっている。現在のところ「感染症」の頁(http://www.arsvi.com/d/id.htm)に情報を集約している。
★02 『不如意の身体』(立岩[2018])の第1章「五つある」第1節「不如意な身体に五つある」第3節「各々について、誰にとっての正負」。
★03 『機械的人工呼吸』(天羽編[1991])所収の「人工呼吸器の歴史」(山村[1991])より。
 「一九五二年におけるコペンハーゲンにおけるポリオの[…]呼吸麻痺に対する治療としては気管切開をした後、気管カニューレを介して手でバッグをおして人工呼吸を行ったのであるが、バッグをおす人があまりにも多く必要だったので、デンマークの医科大学の殆んどの学生を必要とする程であった。/このためポリオによる死亡率は八〇%から二五%までに低下したが、これが契機となってヨーロッパ各地では人に代る人工呼吸器の開発に迫られたのである。/かくして[…](山村[1991:7]、立岩[2004:187]に引用)
★04 その活動に長く関わった人に大賀重太郎(1951〜2012)がいた。『障害者救援本部通信』に寄せた文章に「震災から1年たっても なんでこんなに涙もろく なんでこんなに腹立たしい」(大賀[1996])。私が書いた文章「社会人(院生)」の本・2――医療と社会ブックガイド・65」には以下のように出てくる。
 「大賀はだいたい二〇年ぐらい前に知った人だ。一九五一年生。[…]たしか神戸大学を中退し、稼ぎの方は妻に任せ、ずっと障害者の生活や社会運動の支援をしてきた人だ。
 そんな人たちがこの運動のまわりには、もちろんそう多くはないが、すこしはいて、たいてい脇の方にいて目立たないのだが、大切な働きをしてきた。それには時代背景というものもあるにはあるだろう。「反体制」的な気分があり、そんな気分の人たちがいて、その一部が、様々な経路でここに入って、抜けられなくなって、何十年を過ごしてきたのだ。自分らの主義主張のために障害者を利用しようという人たちは障害者本人たちからも嫌われ、長くは続かなかった。残った人たちは、介助(介護)の仕事などしながら、側面から支える役をしてきた人が多い。
 そういう時代の雰囲気があったということではあるだろう。ただ、今でも企業に就職せず、という人はたくさんいる。その時代にもそういう人たちがいたのだということでもある。「普通の社会」であればどうか、といった人たちがそんなところへやってきた。(むろん、要所要所でするべきことをこなそうとしたら、それなりの才覚は求められ、ただの変な人では務まらないわけではあるのだが。)
 大賀さんは兵庫の人だが[…]全障連等で仕事。[…]地震が起こった時には東京にいたのだが、いてもたってもいられなくて、兵庫に戻ったのだという。大賀さんたちは「被災地障害者センター」(現在は「拓人(たくと)こうべ」)を設立し、その活動を長く続けてきた。彼は事務局長をし、今はその組織はNPO法人で、肩書きとしては常務理事ということになっている。
 震災後の一時期の騒ぎは収まっていき、引く人は引くが、困難は続く。それでその人たちの活動は長いものになる。一つ確実に言えるのは、そこに既につながりや方法があったということだ。てきぱきとやることをやるという場所ではない場所があって、そこが地縁とはすこし異なる、人々のつながりの拠点になる。生活を立ち上げて続けていくことを支える活動が既にあり、それがあって、よい仕事ができてきたのだと思う。」(立岩[2006]
 ここは、「ゆめ・風基金」、そしてその東日本大震災との関わりことなどを書いた「もらったものについて・7」(立岩[20110725])でも引いた。その連載が掲載されていた雑誌『そよ風のように街に出よう』を始め、ゆめ・風基金にも深くかかわった河野秀忠さん(1942生)は2017年に亡くなった。
 私自身が書いた文章でも、検索しないと、どこに書いたか自分でもわからない。田中耕一郎さんの本を紹介した回で、田中さんが全障連に言及しているのだが、といえば、という具合にしりとりのように(だけ)繋がっているのだから、またその文章を書いた頃に大賀さんが出てくる本を紹介したようとしたといういきさつだから、どこに書いたかわからないのも当然ではある。
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙 ★05 福島の障害者運動の歴史について『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木他[2019])。そこに青木千帆子の「東日本大震災以後の福島の障害者運動」(青木[2019])。私は、2012年に書いた「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」(立岩[2012])を再録しすこし付記して「遠くから」という章(立岩[2019])にした。
★06 シンポジウムを開催し、その記録に図解入りマニュアルを加え、『医療機器と一緒に街で暮らすために――シンポジウム報告書 震災と停電をどう生き延びたか――福島の在宅難病患者・人工呼吸器ユーザーらを招いて』(権藤・野崎編[2012])を刊行するなどした。この時の大学院生他の報告等は青木他[2019]の文献表に記した。その時のことについて私が書いたものとして、「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」(立岩[20110630])、「まともな逃亡生活を支援することを支持する」(立岩[20110710])、「後方から」(立岩[20110725])、 「災厄に向う――本人たち・後方から」(立岩[20130127])。立岩[20110725]を再録しいくらかを足した文章に青木他[2019]所収の「遠くから」(立岩[20190910c])。
★07 講談社のサイト『現代ビジネス』で連載「だいじょうぶ・あまっている」(立岩[20200414-])を始めた。第3回が「新型コロナの医療現場に、差別なく、敬意をもって人に来てもらう」(立岩[20200502])。まとまったら講談社現代新書の一冊としてもらう(未定)。
★08 『不如意の身体』の第6章「加害のこと少し」の第6節「範疇・確率」(立岩[2018:154-157])。
★09 2004年に刊行した『自由の平等』(立岩[2004])の第2版を準備する。そこで検討する。
★10 「医療的ケア」についての頁もある(→http://www.arsvi.com/d/a02m.htm)。
★11 「重度訪問介護(重訪)」→http://www.arsvi.com/d/a02j.htm。「新型コロナ特別対応で、無資格ヘルパーも従事可能に」といった情報も掲載している。


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第1章・註
★01 「介助・介護」→http://www.arsvi.com/d/a02j.htm。「重度訪問介護(重訪)」→http://www.arsvi.com/d/a02j.htm。「新型コロナ特別対応で、無資格ヘルパーも従事可能に」といった情報も掲載している。
 序で今般の状況のもとで介助(介護)現場で働く人のことについて少し述べた。『介護労働を生きる』(白崎[2009])、『Passion ケアという「しごと」』(白崎[2020])の著者でもある白崎朝子さんから現在の、すべきでできるのに、すべきでできることがなされていない現場についての報告が届いている(白崎[20200513][20200521])。
★02 立岩の本の一覧は「立岩真也・著書/共著書/編書」→http://www.arsvi.com/ts/b.htm。安 くすることができた本は文庫判で第3版を出してもらった『生の技法』(安積他[20130520]、1200円+税、第2版は2900円+税)、文庫判で第2版を出してもらった『私的所有論』(立岩[20130520]、1800円+税、初版は6000円+税)。2020年から何冊か続けて新書を出してもらうことを考えた。だが本書の出版が思い通りには進まなかったため、出版は2021年以降に持ち越された。
★03 足りなくはないことについては『希望について』のW「不足について」(立岩[2006:127-150])、『良い死』の第3章「犠牲と不足について」立岩[2008:235-337])、等。第2章の註(☆01☆02に続きを記す。
★04 『現代思想』2009年2月号に掲載されたの上野千鶴子との対談より。この対談は後に『セクシュアリティをことばにする 上野千鶴子対談集』(上野[2015])に収録された。
 「上野 […]サービスの値段から入った方がいいと思います。私の福祉系のコスト試算によると、営利を目指さない事業であれば、二〇〇パーセントの経営コストで一時間あたりのサービスが提供できる。公定価格で身体介護が四〇二〇円、生活援助が二〇八〇円です。労働分配率はその半分ですから、二〇八〇円の半額だと約一〇〇〇円で、これではやっていけない。しかし四〇二〇円の半分の二〇〇〇円で、これはだいだい二五〇〇〜二〇〇〇円の専門職パートに近い。だからケアワークの時間単価が専門職パート並になれば、たぶん人は来ると思うのです。
立岩 今おっしゃった二〇〇〇円という値段ですが、それならいけそうな感じがします。パート、バイトの賃金は多く一〇〇〇円を切ってます。その間でとりあえず一五〇〇円とか。介護に限らず他の仕事も、このぐらいの水準になれば、そしてこれは大切なことですけれど労働時間が確保できればですが、ほぼ行けるだろうと。
上野 私も一五〇〇円は悪くないと思う。介護保険ができてから一貫して現場の人たちが要求していることと、特にそれに一番耳を傾けてきた「高齢社会をよくする女性の会」の厚労省に対する提言のなかには、生活援助・当初の家事援助・家事援助と身体介護を一本化して統一価格にせよということが入っています。中間的な統一価格にすると、大体三〇〇〇円台になります。三〇〇〇円台で労働分配率が二分の一ならば、一五〇〇円です。それなら人は集まります。それが出せないのはなぜなのかということです。
立岩 そうですね。付け加えるならば、現実には直接の働き手に半分まで渡っていないにしても、介護保険はまだ単価が四〇〇〇円になっています。しかし障害者自立支援法の方はもっと単価が安くて、とくに事業所の方は大変みたいです。
上野 大体でよいので具体的数字を教えて下さい。
立岩 現実に人にわたっている値段は一〇〇〇円ぐらい、それを切るところもそれよりすこし多いところもあるようです。事業所に入ってくる額からすれば、わりあい多くが現場の働き手に支払われているとも言えます。ただその分、自立支援法からの予算だけでやっている事業所というのはきつくて大変で、かろうじて経営的にやれているところは介護保険のサービスと自立支援法のサービスを両方請け負ってやっている。そうすると介護保険の方がまだお金が入ってくるので、そちらのお金でなんとか回しているというのが今の状況のようです。
上野 そうですね。事業者さんの話を聞くと、「年寄りで儲けて、障害者につぎ込む」と言うところもあります。しかも儲からないから営利企業では断るでしょうね。ケアワークの値段をずっと見てきて分かるのは、地域最低賃金に毛が生えたというのがスタンダードであることです。いわゆる非熟練パート労働のミニマム賃金水準、地域におけるボトムラインに近いのです。」(上野・立岩[2009]→上野[2015]
★05 税の集め方がどのようにいつのまにか変わってきたのかについて、そしてこれからどうしたらよいのかについて、『税を直す』(立岩・村上・橋口[2009])に収録されている「軸を速く直す――分配のために税を使う」(立岩[20090910])で述べた。
 税の集め方と連動して集めたものの分け方については『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(立岩・齊藤[20100410])、この本に収録されている「BIは行けているか?」(立岩[20100410])。
★06 この本を書く前、私は甲府で講演――その時の講演で話したことの半分もこの介助の制度の話で、そのことはその頃から変わっていない――をしたことがあるぐらいで――「手助けを得て、決めたり、決めずに、生きる――第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演」立岩[19980530]、この講演は後に『良い死』に収録された(立岩[200809:20-32])――、その本人たちとのつきあいはなかった。そして2002年に京都に来てから数年経ってから、『ALS』(立岩[20041115])出版の後、すこしずつ甲谷匡賛第2章註08)、杉江眞人第1章註08第3章註27)、増田英明第3章註27)といった人たちを知ったりすこし関わったりすることになった。それから15年ほどが経った。『ALS』の第2版をとも考えたが、きちんと書いたらとても長くなってしまうし、ただ傍らにいただけの私は知らないことも多く、適してもいない。その動きに長く関わってきた人たち、そして新しくかかわるようになった人たちにその記録をまとめてほしいと思っている。(→第2章註05)たちがその仕事をしてくれるだろう。
★07 西田美紀は看護師で私の勤め先の大学院(立命館大学大学院先端総合学術研究科)の院生でもあり、杉江眞人(〜2013)に関わった。その論文に西田[2009]][2010][2010][2010][2010][2010]。かつて杉江が住んだ借家は、杉江に関わった大阪の事業所「ココペリ121」がその活動のために借り続けている。その借家での、ココペリ121の代表である長見有人(1952〜)へのインタビュー(長見[i2019])の中で、私が同席者に説明している箇所。
 「立岩:〔杉江さんは〕指示が多くて、そこの中には介助してる側にとってみれば理不尽というか、としか思われないというか、そういうようなこともあって。僕の大学院生であったり、関係者であったりしたのが何人もここに来てましたけれども、そのうちの何人かは、まあ、喧嘩して別れるというか、離れるというか。そういうようなことも立て続けてあって、じゃみんなでどうするみたいな、くらーい中会議とか、飲み屋とかでやったり。西田さんは今でもまだ治ってないんだけど円形脱毛症ができちゃって、この辺に2つ。けっこう大きいのができたりして、今でもあるんだよ、この前も見せてもらいましたけど(笑)。ほんと、西田さんすっごい暗くって、いや、ほんとに、普通に大変でした。普通にっていうか、大変に大変でしたね。」
 これは少し間違えている。西田の脱毛症は、本人によると、杉江の時のことでないという。杉江がその借家に移ったのが2008年10月。その少し手前の2008年3月から7月の5か月の間のことを、杉江に関わった4人に書いてもらうことを思いついて、書いてもらって『生存学』の創刊号に掲載した(西田[2009]、長谷川[2009]、山本[2009]、堀田[2009])。杉江はそれから5年をそこで暮らした。
★08 (大)学生の時に、介助やら、障害者(運動)に関わりができて、依頼、と,う人たちを、以下列挙する。私が知っている人が多いから偏っている。むろんもっとたくさんいる。
 序・註04で紹介した大賀重太郎(1951〜2012)は1969年神戸大学入学、中退。角岡伸彦の『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』(角岡[2010])には次のようにある。
 「七四年三月、映画の完成試写会が書写養護学校の同窓会館で開かれた。その日、「友達の友達の案内で、たまたま行っちゃっか」のが、現在に至るまで障害者とのかかわりを続けることになる大賀重太郎である。
 「会場に行ったら、びっくりしたねえ。唖然とした。寝たきりで足がピンと跳ね上がってる人とか、文字盤を使っている人やら、言語障害がきつくて何言うとるわからん人やら。そんなんが五〇人もおってみいな、何じゃこれは! やで」
 試写会後の親睦会にも参加した。そこで大賀は、映画制作を担当した河野に罵倒される。ただし、なぜ叱責を受けたのか、その内容はまったくおぼえていない。「行くんじゃなかった」と悔やんだことだけは今でも強く印象に残っている。しかし、その後、もっと強烈な儀式が待っていた。
 「試写会で書いた連絡先を見て、障害者から『お話があります』って電話がかかってきた。姫路の駅前の喫茶店に呼び出されて、バックラウンドミュージックがかかってる中で、言語障害が一番きつい人がしゃべんねん。三〇分聞いてもこっちは冷や汗した出えへんがな。それも二回も三回も呼ばれて……」
 呼び出したのは、グループ・リボンの鎌谷、福岡、澤田らである。執拗な勧誘によって大賀は△68グループ・ゴリラのメンバーとなる。まだ二十歳前後だったが、大賀は深刻な人間不信に陥っていた。
 「障害者に出会うまでは、人生まっ黒けやったね。いつ死ぬかしか考えてなかった。障害者と付き合うて初めて、なんか俺にもできることがあるんかなあと思たぐらいのもんで」
 大賀は一九五一年に兵庫県相生市に生まれ、間もなく姫路に移り住んだ。東大安田講堂に学生が立て籠った六九年、神戸大学に入学する。キャンパス内は学生運動が盛んだった。大賀も三里塚闘争などには参加したが、次第に運動内にある権力構造に嫌気がさし、ユースホステルに理想郷を求めた。学生ながら香川県の小豆島でユース経営に挑戦したり、岡山県にコミューンを作ったりなどしたが、いずれも失敗。一年余りで大学を中退し、家業の鉄工所を手伝っていた。そして友人に誘われるまま『カニは横に歩く』を観る。
 その頃、大賀は、姫路城からさほど遠くない城下町のたたずまいを残した梅ケ枝町の一軒家に住んでいた。かつては置屋だった建物で、娼妓が鎮座したであろう見せ窓まであった。当時は独身で、来る者拒まずだった大賀の家には、『カニは横に歩く』にかかわりのある地元の障害者、介護者をはじめ、赤軍派やべ平連の活動家が出入りし、さながら若衆宿の様相を呈していた。仲間にさほど普及していなかった電話を持っていたことから、元置屋の大賀宅は、地元・姫路のグループ・リボンとゴリラの事務所兼たまり場になった。」(角岡[2010:68-69])
 私は大賀と話したことはあるが、インタビューし記録をとったりすることはなかった。そうしたことを後悔することがある。ここ数年、いくつかのインタビューを行なった。また行なわれたインタビュー記録を掲載させてもらった。その一覧が「【記録】生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築」にある。
 小林敏昭(1951〜、1970大阪大学入学、8年在籍して退学)は関西・大阪の青い芝の会の人たち他に関わり、1979年以降、『そよ風のように街に出よう』の刊行に携わる。インタビューに小林[i2018]
 長見有人(1952〜、1971東京教育大学入学)はのちに「ココペリ121」(61頁)を運営する。インタビューに長見[i2019])。
 田中啓一(1954〜、1975金沢工業大学入学)。大学在学時から介助・運動に関わり始め、平井誠一(1953〜)らとともに富山・石川での一人宇を続けてきた。インタビューに田中[i2018]
 斉藤龍一郎(1955〜)は東京大学在学時に金井闘争(→金井康治、1969〜1999/09/11)他に参加。インタビューに斉藤[i2017]斉藤[i2019]。2020年12年19日に急逝した。
 瀬野喜代(1956〜)は京都大学中退、東京に移って猪野千代子(1936〜1999)の介助等に関わる。インタビューに瀬野[i2019])。
 小林律子(1959〜)は横浜市立大学(1978〜1982)の学生の時に横田弘(第5章「始まり1・「母よ!殺すな」」第4章・註19)の介助をした。1985年8月現代書館に入社。『(季刊)福祉労働』等の編集に携わる(https://twitter.com/tigrashakoba)。「本書の再刊がなされた現代書館の編集者である小林律子さんは学生の頃横田の介助者をしていたことあって、それで「この道」に入ったと誰かから聞いたことがある」(立岩[2015])。現在は舩後靖彦(→第6章・註16)の議員秘書をしている。
 立岩真也(1960〜)のことについては第6章「ボランティアではしんどい」に少し記した。
 井上武史(1963〜、→第3章・註34)は同志社大学を卒業後、1998年にメインストリーム協会で働き始める。インタビューとして井上[i2018]
 角岡信彦(1963〜)。「澤田〔隆司、1946/06/01〜2013/10/27〕が自立して七年後の八三年四月。私は澤田が自立生活を始めたアパートがある阪急六甲駅からさほど遠くない関西学院大学(西宮市)に入学した。入学早々、大学の先輩から「障害者の介護に行かへんか?」と誘われ、ついて行ったのだが澤田宅だった。ちなみに同時に誘われたた郵便は「そういうのはちょっと……」と断っていた。」(角岡[2010:112])。「彼らと知り合ってちょうど一〇年目の九三年に、私は五年ほど勤めた地方紙を退職した。次に何をするかを決めないままの突然の決断であった。書くことにさほどの未練はなかったが、退職を機に学生時代に続けていた障害者の介護を本格的に再開すると、青い芝の活動やその周辺でうごめく人々を活字に残しておきたくなった。それが本書の始まりである。」(角岡[2010:500])こうして『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』(角岡[2010])が書かれた。
 加藤秀一(1963〜)は私の同業者だが、一橋大学の学生だった時、下記する宮本へのインタビュー(宮本[2020i])にも出てくる太田武二の介助をしていたことがあると聞いた。
 市野川容孝(1964〜)は、やはり私の同業者だが、長く斉藤龍一郎と同じく犬塚勝二の介助をしてきて、それで斉藤とも知り合いになった。犬塚はもとは富山の人で、富山で活動している平井誠一へのインタビュー(平井[i2018])、田中啓一へのインタビュー(田中[i2018])にも出てくる。
 十時由紀子(196?〜)は一橋大学在学時、小平に住んでいた菅原百合子の、国立では秋山家で介助。大学卒業後岩波書店に就職、長く務めた後、出版舎ジグを立ち上げる(https://www.facebook.com/yukiko.totoki/)。  宮本泰輔(1970〜)は早稲田大学中に三澤了(1942/04/01〜2013/09/30)らの介助に関わり、その後、タイ、南アフリカ等で国際協力の仕事をしていく。宮本へのインタビューとして宮本[2020i]
 堀田義太郎(1974〜)は1993年立命館大学産業社会学部入学、1999年同大学大学院文学研究科入学。高橋慎一(↓)と同じきっかけでボランティアで介助を始める。高橋啓司の介助は高橋の死とともに終わる。その後も京都市内のALSの人たち等の支援・介助に関わる。現在は東京都立大学で働いている。
 渡邉琢(1975〜)。京都大学大学院文学研究科博士前期課程修了。2000年、日本自立生活センターに介助者登録。2004年度に同センターに就職。
 前田拓也(1978〜)は関西学院大学の学生・院生の時にメインストリーム協会で介助の仕事をしていた。著書に『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』(前田[2009])。
 荒井祐樹(1980〜)は花田春兆(1925〜2017)を手伝い、横田弘の話を聞く。
 高橋慎一(1980〜)は、立命館大学学生→院生(〜2008年)。2002年に立命館の上映会後の飲み会で、「啓司さんの介護者募集作戦にはまり」、堀田義太郎らとともに当時京都市高野に住んでいた高橋啓司(ぺんぎんの会、その前は京都青い芝の会)のボランティア介助。2006年ごろから仕事とする。現在日本自立生活センターの職員。
 深田耕一郎(1981〜)は立教大学大学院生の時に新田勲の介助を始める。そして博士論文を書いて、それが『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』(深田[2013])になる。
 岩下紘己(1996〜)は慶應義塾大学在学中、上田要さんの介助者(登録は「HANDS世田谷」)として週に1回の泊まり介助を担当。 2020年に、『ひらけ!モトム――ある障害者の生活史』を十時が始めた出版舎ジグから出版。現在、立命館大学大学院人間科学研究科博士前期課程在籍。
 介助する健常者・支援者・介助者たちと障害者たちとの間に起こったことについて、山下幸子の『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(山下[2008])がある。そして私は、2020年11月に永村実子にお話をうかがったのだが、その話からもその一端を知ることができるように思った(永村[i2020])。
 上記のなかの何人かの座談会の記録として『ケアと/の倫理』(安部・堀田編[2010])所収の「介助(者)の現在」。HPで全文を読むことができる。
★09 2019年12月に『道草』の上映会+αという催が勤め先を会場としてあって、私は宍戸監督に話を聞いたり話をしたりした(宍戸・立岩[2019])。
★10 このような社会において自閉症スペクトラムといった「発達障害」が目立ち名づけられるものとなり、いくらかの配慮は得られつつも困難を抱えることになることを『自閉症連続体の時代』(立岩[20140826])で述べた。そこに述べたことを短くしたのが立岩[20161210]で、『不如意の身体』(立岩[2018])に再録されている。
立岩真也『自閉症連続体の時代』表紙   立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙


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第2章・註
★01 「少子高齢化で「人や金が足りない」という不安は本物か? 社会的弱者に不寛容な言葉が広がる日本」(立岩[20190202])より
 「人間はなにやかやで寿命を延ばしてきました。しかしそれはまず、ことのよしあしはべつとして、働けてしまう時間が長くなったということ、人生の全体に占める働ける時間の割合を延ばしてきたということでもあります。
 70年生きるとして、20歳から60歳まで40年働くと、70分の40で57%です。今の日本の平均寿命はだいたい85歳ほどだそうで、介護の必要な期間がざっと10年とも言われ、そこで75歳まで働くとすると、85分の55で65%です。
 そんなにがんばらなくても、69歳まで働けば、85分の49と、さきの57%を越えます。寿命が長くなって、世話される時間がさらに長くなるという要因はここではおきますが、すくなくとも経済的に扶養される時間が「一人」の人生の全体に占める割合が高くなるとは言えないわけです。」
 「少子高齢化で「人や金が足りない」という不安は本物か? 社会的弱者に不寛容な言葉が広がる日本」。『Buzz Feed』での連載の初回。この連載は第3回で止まってしまった。2020年にもう一度書き始めようとして、講談社のサイトで連載を始めた。ただこれも第3回で止まっている。
 足りないのは(広い意味での)「もの」そして/あるいは「人」であるしかない。いま記したのは「人」のことだった。講談社の連載の第1回ではコロナのもとで「もの」が足りないという話について検討した。それが「だいじょうぶ、あまっている・1」(立岩[20200414])
★02 「労働の分配が正解な理由」より。  「芹沢俊介さんとの対談(本誌第一一八号、二〇〇一年一二月)でも話したことだが、まず私は、労働の産物でもあるところの生産は足りているか足りていないかのどちらかであるはずだと言う。足りていると考える。そして、その社会に失業がある。今は余っていて失業があるがそのうち少子高齢化が進んで人手が足りなくなるという見方もあり、私はその将来予測を信じていないのだが、ここではそのことは置こう。ともかく今そしてここしばらくは余っている。ここのところ続いている経済の状態は政策の失敗によるとしても、そしてそれが解消されたとしても、足りる、余ると考えてよい。このことは、とりたてて大きな失策があったのではなく、景気がわるいとも言えないヨーロッパのいくつかの国の様子を見てみてもわかる。
 次に、ものはあり失業もあるという状態は、すべての人が暮らすだけのをものを、働けるすべての人が働かなくても作ることができているということであって、基本的に、まったく好ましく望ましい状態であると考えるしかない。このあまりにも当たり前のことを、当たり前のこととして確認しておく必要がある。
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙  ただたしかに失業はあり、それはその人にとっては困ったことだ。それに対して[…]
 この文章は新たに註を付して『弱くある自由へ』に収録された。「本誌」とは『グラフィケーション』(富士ゼロックス)。対談は芹沢俊介・立岩真也「私的所有を問う――無理せずボチボチやっていける社会に向けて」(『グラフィケーション』118:3-11(富士ゼロックス))
★03 その年(2016年)にいくつかの文章を書き、それらと杉田俊介の文章と杉田との対談を加えて、翌年の1月に『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(立岩・杉田[2017])とした。2020年に地裁の判決があってその前後にもいくつか取材を受けた。新聞などに掲載されたものはごく短いもの。『朝日新聞』に「やまゆり園事件から3年 「生きる価値」の大切さ問う」(立岩[20190720])、『毎日新聞』に「ともに生きることと優生思想 社会学者・立岩さんの視点――相模原事件を考える〜公判を前に」(立岩[20191226])。以下は共同通信が配信したその一つの一部。取材は宮城良平記者。
 「事件では、優生思想が話題になりました。誰にでもある、逃れがたい「内なる優生思想」とも。その通りですが、気持ちの問題で話が終わりがちです。私は、施設にいる障害者が地域で暮らすための支援に関わっていますが、現実にできることはたくさんあります。
 また被告への反論として「障害者は明るく元気に生きている」といったことが言われます。多くは事実だし意味もありますが、被告は「違う人もいる」というだけでしょう。それに、明るくも元気でもない障害者は、かえってしんどくもなる。
 命の価値を線引きし、否定された時、何か別の良いものを持っていないとだめなのか。障害者運動の一部の人たちは「とにかく殺すな」「自分たちのことを勝手に決めるな」と言いました。存在することに理由などいらない、と。この原理主義は、正しいと思う。
 障害者運動には、原理原則を大切にしながら、現実にお金や制度を獲得してきた歴史がある。二つの間で悩みながら進んだ彼らの歩みを精錬すれば、道筋は見えると信じています。」(立岩[20200323]
 第一段落・第二段落に書かれていること(話したこと)はごくごく短いし当たり前のことでもある。ただ、こうした取材に応えるなかで、その当たり前のことを話し、聞いてもらってようやく当たり前のこととして通じるといったことが幾度もあった。それで、他の(つまりは厚くて値段の高い)本で幾度も書いてきたことではあるが、やはり、新書のような体裁の本に書くのがよいと思った。それを本書で、とも考えたが、分量としても無理がある。もう一冊の本にしてもらおうと思った。
 本書にいくらか手を入れて第7章に収録した「無駄に引かず無益に悩まないことができる」(立岩[20200401]→本書179p.第7章3節「それを実現することはできる」)で同じようなことを言っているのが以下。
 「「内なる優生思想」という考え方にはもちろんもっとなところがあります。ただ、心優しい人たちが自分のことを思って、私にも優生思想的な部分があるとか思って、それを根絶するのは難しいよねとか、反省してしまって立ち止まってしまうのは、損なことだと思うのです。根絶なんかできないって居直ったってよい、しかしその濃さを薄めることはできるということです。そのためには、自分だけで世話を背負いこんでその負担で暗くなり殺しそうになったりするその度合いを減らすことです。
 そういう仕組みを私の知る皆さんの運動は作ってきた。それが意外にも知られていないから知ってもらおうと思って本やらいろいと書いてもきました。ただまだ知られてない。皆が知るべきだとは言いません。けれども一番知ってなきゃいけない専門職の人たちがあきれるほど知らない。介護保険のことは知っているけれども「重訪(重度訪問介護)」のことをほとんどまったく知らない。それではたいへん困るわけです。知ってるはずだと人々が思う人が知らないとなると、人々は存在しないと思ってしまう。ほんとにないなら仕方がないかもしれない。あるいは作るしかない。けれども実はあるわけです。あるものを知らないことによって人は人を殺してしまう、あるいは自分を殺してしまう。それはとてもよくないですよ。もっと知ってもらうように私たちもできることはしますが、知ってるはずの知らない人たちももっと積極的に情報を得ようとしてもらいたいと思います。」(立岩[20200401]
★05 ユ・ジンギョン。京都で介助を得て暮らす人たち、その人たちを支援する人たちについての論文を鋭意執筆中。「障害学国際セミナー」での報告としてYoo[2018][2019]。
★06 例えば2020年2月28日に「ハングル、韓日現代アート、70年代と現在」を京都・アバンギルドで開催。代表の長見有人、そして増田英明ユ・ジンギョンそして私の「エンディングトーク」の記録を掲載している。
★07 2020年4月に「新型コロナに関する介護/医療/保育現場へのメッセージ」(岡部[2020])を送った岡部宏生(ALS)がそうして暮らしている。2019年の秋にインタビューを行なった、仙台で暮らす岩崎航(筋ジストロフィー)も、岡部からも助言され、近くの大学の学生たちに声をかけつつあると語った。そのインタビューの記録が岩崎[i2019]
★08 甲谷匡賛は2004年にALSと診断された。舞踏家であり甲谷の介助者・支援者であってきた由良部正美へのインタビューに由良部[i2019]。甲谷の生活・介助に「ココペリ121」も関わった。その代表者長見有人へのインタビューに長見[i2019]
★09 『大震災の生存学』(天田・渡辺編[2015])に収録されている「田舎はなくなるまで田舎は生き延びる」(立岩[20151101])から少し長く引用しておく。
 「□基本的な見立て
 田舎の人たちは(都会もそうだが、比べればより早く)減っていく。私はそれをどうしても止めねばならないとは思わない。いくらかの産業がそこで営まれること、また新たに営まれる可能性はある。そしてそれはけっこうなことだと思う。しかしそれはどこででも起こることではない。
 各地で産業を振興したりする必要そして/あるいは可能性がどれほどあるのだろうか。とくに何もなくてもかまわない、そして人が住むその地域がそのうちそっくりなくなればなくなってもよい、だが誰か生きている間は生きさせてもらう。そのように考えればよいと思う。そしてそれはもちろん考えただけでどうなるものでもない。そのように実際がなされればならない。すると荒唐無稽なことだと思われる。しかし原発の誘致にしても、地域間の格差が問題だとはさんざん言われたのだったし、それは当たっていた。とすれば、原発をやめるやめないの問題とともに、なしでもやっていけるとようにするというのが論理的に残されている方向になるはずである。
 しかし、あるいはだからこそ、田舎は様々に工夫していて、がんばっている。そのあるものはうまくいくだろうし、実際いっているのだろう。しかし競争もあるし、この社会に格別に足りないものがあるわけではない。企業の立地の場所はどこでもよく田舎でもよいという業種もあるが、そう多くはない。するとなにか特別のものをということになる。「付加価値」を地域ごとにつけた「特産品」の種類を増やすことはできようが、それでそうそううまくいかないところの方が多い。それでもやってよいだろうが、無理はしてほしくないと思う。また、そういうことを請け負おうなどと言ってくる人にだまされることはしてほしくないと思う。その方面に金をかけるなら別にかけた方がよいと私は考える。
 以上が前提になる認識である。仮にでもそういうところから進める。そして、すくなくともこのように低温な話をすると、この震災後に(もその前からも)言われていることがそれとはかなり違うことが多いことには気づくはずである。
 私はそう間違っていないと思うが、間違っていると言うなら、また議論せねばならない。ただここはその場ではないから簡単にする。私は日本一国をみても、人が余っていると言ってきた。世界(地球)全体を見たときそれはいっそう明らかである。働けるが(労働市場で)働く機会のない人が膨大に存在する。その一部が、様々な困難なもとで様々な問題を生じさせながらも、世界市場における働き手になっていく。生産物が作られ流通する。グローバリゼーションとはまずは、少なくとも一つ、そういう過程である。そこに生ずる様々な問題には対応すべきだが、その流れそのものを止めることに正当性はない。
 そのうえで、各地で各自が身につけてしまった「なりわい」はそう簡単に外的な事情でなくされてはならないとは思うから、「自由化」にはながながと反対したらよいだろうとは思う。しかしずっとそのままというわけにはいかない。農業も工業もそうだ。すると残るのは、おおむね工業の「先端的」な部分と第三次産業のある部分だ。前者の立地もまたとくに大都会である必要はないだろうが、全国通津浦々ということにももちろんならない。そして人相手の仕事も今のところ人が集中しているところに集中している。ネットの関係でいくらかの変化はあるがそうは変わらない。なにより接客業――だからこそその相当部分は国内にとどまる――は客が一定数いないと成立しない。冷静にみたときこんなことになっている。
 するとこの国全体について暗い感じがする。私はそう考えないのだが、このことをきちんと言ってみるのもまたにしよう。ただ次のように考えておく。現在においても全体としてそこに住む人が暮らせる財は、その種類を分けていっても、大部分についてはある。足りないところは増やせる。貿易にしても、それが成立するのは相手方に与えるものがある限りであり、外国から得るものは内部で調達するより容易に得られるからである。その上で、(労働以外の)生産財・労働・市場で各自に渡る分の分割・分配は正当であり可能である。すると当然手取りが少なくなる人たちがいる。かつて税の累進性を下げる時にはするとその人たちはやる気がなくなって働かなくなると言われた(『税を直す』)。だが反対にその人たちはもっと働こうとするかもしれない。すくなくとも本当に困るのであれば確実に生産によりいそしむことになるだろう。ならば問題はない。」
 「□人を世話する仕事のこと
 そして次に右記したこととまったく別のことと考える必要もないのだが、人の世話をする人が必要であり、その人たちが日々の暮らしを手伝うことをすればよいということになる。
 するとまず一つ、人手不足であるというお話があるが、それはまちがっている。ここではこのことは言わないが、この分野での不足はまずたんにわりにあわない仕事であることによっている。ならばわりにあうようにすればよい。
 これが「産業」と言えば言えるものになる。そしてその金はすぐに個人、働き手に渡ることになる。人がまったくいなければ人に対するなにごとかをする必要もなくなる。他方人がいる限り、そしてその人が世話を必要とする人であればその仕事は、世話の必要な人がすっかりいなくなるまではなくならない。
 そしてここではいくらか贅沢に人を配置した方がよい。自力で動けない人動きにくい人が逃げ遅れて死ぬことが多いのは、実際調べてもそうなのだが、いくらか致し方ないようにも思える。そしてそれを減らすための壁や建物のことについては専門の人たちいるから略して、人について。本章冒頭で紹介した文章で、常に機能的に機能しているわけでないつながりがあった人たちについては消息の確認と対応はわりあい手早くできたらしいことを紹介した。日頃はどういう場かわからないような場、そこで不定形な仕事をしている人たちが、こういう「いざ」という時に活躍したし、している。阪神淡路の時に動き、今動いている人たちにもそういうところがある。「自立生活センター」だとか「作業所」だとか、いちおう名前はあって、一方ではたしかにきちんとした仕事・活動もやっているのだが、それだけでもなく、どういう用でと言われるとすこし困るような、用があるようなないような場に集まったりたまたま寄ったりという関係・場があってきた。それがその時も今も困っている人たちの助けになっている。
 そしてそんな場だけがそうした機能を果たすわけではない。私自身もそうかもしれないのだが、そんな場が肌に合わない人もいる。基本的に一対一(以上)の関係があり、その関係が組織・事業所において把握されていて連絡がつくようになっているというあり方は、もちろんそれでもだめな時はだめなのではあるが、非常時に人を多く救えるかたちでもある。とくに田舎では人は散在して住んでいるから、人も手間もかかるものはかかって当然である。ここで留意していおいてよいのは人を一か所にたくさん集めたほうがうまくいくという「規模の経済」の利得がここには「あまり」ないということだ。施設で多人数をまとめて世話するという形態は、多くの人にとって平常時にも非常時にも望まれないし、そして非常時には人手不足になるのだがら、人が思うほど有効ではないはずであり、実際、このたびの地震の後も少なくとも幾つかの実例において有効ではなかった。
 逃げるのがたいへんだった人がいる。だからとって山奥に集められて、安全に、ではないずだ。しかし「避難」がそのまま見知らぬ場所の施設への「収容」になってしまうことがある。そのようでない暮らしを、その場に留まるにせよ、例えば原発から逃れ、別の場で暮らすにせよ、どのように可能にしていくかが問題であってきた。それはなかなか困難ではある。ただ、一つごく単純な契機が生き延びる方向に作用した、しているということだ。自分が居る(行く)ところに他人が付かざるをえないということ、そんな事情でつながりがあってしまうということは、ときにうっとうしいことでもあるのだが、事実それが存在するなら、いつもでも、いかなる場面ででもないが、かえって、このような大きな災厄においても、助かることにつながることがある。実際そんなことが起こったのでもある。
 私は「働きに応じた分配」を基本的には否定する立場の者だが、(3)「労苦に応じた加算」は肯定する。ここで見ている仕事に対する対価は(準)公定価格にすることができるから適正な対価を設定することができる。現状の水準が低いことははっきりしている。人手が足りないことはない。その現所を失業率が低いとかまして人手が足りないなどというのは単純な誤りである。たんに条件がわるいだけのことであり、条件を変更すればよい。
 とくに田舎に手助けを要する人が多くいる、その割合が高いというのはその通りだが、他の職が少ないこともあって、手助けできる人もまたたくさんいる。震災のせいで、震災がなくても、すくなくとも今さしあたり仕事がない人の仕事になる。そして人がすっかりいなくなるまで人はいる。であるかぎり仕事はある。そして人に付く仕事についてはその仕事をする人は近くにいなければならない。その仕事はその土地にあるしかない仕事なのである☆01。(他方、被曝した地域では、出る/残るについて、介助の要る人/介助する側の人たちの双方の事情・気持ちが錯綜して、複雑な問題が起こっている。)」
 「□産業であること
 (2)身体とその身体がある限り具体的なものであるしかない土地に関わって必要になるものについて、それがそのまま(3)仕事になるようにすればよいと述べた。それは「公費」を使ってなされる。
 それは他にも比して有効な公共事業であると、言いたい人は言える。簡単にすると公共事業の与える効果はより多く生産することを促すことである。するとその増分について生産した人はその対価を受けとるというかたちで他の人の生産物を受け取る。つまりその増分が新たに生産される。これが常によいことであるという保証はない。ただ、その促しに応ずる人がいるなら、その人はそうして(働くことの労苦を考えてなお)生産することを自らにとって益になることとして選んだのだから、その限りでは問題はないことにはなる。
 では何を生産させるか。なんでもよい――穴を掘ってまた埋め戻すといった仕事であったもよい――といった極論もあるが、有用なものであった方がよいにはよいだろう。では何をするべきなのか。復旧についておおまかには異論はない。防災について。しばらくは同じところに大きなものは来ないというのが仮にたんなる私の思いこみでないのであれば、それはいくらか慎重であってよいことになるだろう。そちらはだんだんとやりなから、まずは日々の生活を楽にすることだ。仕事の量は同じで、その担い手が(家族から)変わり、不払いのものに払いがなされるようになっただけなら、それは名目的な成長ということになるが、その(有用な)仕事自体が増えるなら、それは実質的な成長ということになる。
 次に他に比較してそうわるくないことを言うことになる。結局うまくいかない可能性の高い産業に比して、ここでの生産・消費は確実である。そして金が人に直接にわたる。貯蓄と消費のどちらが歓迎されるかは理論や時世や状況によるが、今はすぐに使う方がよいとしよう。多くの人はそれを消費にまわすだろう。つまり別の人の生産を促す。人件費に使われる金の部分はより大きい。そしてその人はその場に住んでいるから、すくなくともその多くはその地で使われることになる。
 もちろん税から出されるからより多く拠出する側にいる人の手元に残る分は減る。しかしその(多く都市にいる)人たちはすくに消費しないか、消費するものも多くの人にはあまり関わらないものだろう。それより多くの人にいくらかずつ渡るものの方が各地での細々とした消費につながる。」(立岩[20151101]
★03 講談社のサイトでの連載の第2回(立岩[20200421])で、このたびのことについての「トリアージ」の議論の一部を簡単にだが検討した。そして仕方なく「基準」「順位」を考えるとして、例えば「平等」をもってきたらどうなるか、すこし述べた。『自由の平等』(立岩[20040114])の第2版を出してもらうことを考えていて、そこに増補される章でさらに考えてみようと思う。
★04 講談社のサイトでの連載(これまでに立岩[20200414]立岩[2020421]立岩[20200502])でこのことを書いて、新書にしてもらおうと思っている。
 「アンペイドワーク」についての検討は『家族性分業論前哨』(立岩・村上[2011])でなされている。これまで言われてきたことは別のことを言っているが、私は私の論のほうが当っていると考えている。この本は、上野千鶴子を2012年度から5年間、特別招聘教授として迎えるにあたり、双方の間の差異を確認しておきたいという思いもあった。
★05 「グループホーム」――ときによいものでありうることを少しも否定しない――を作ろうとがんばったが、がんばっただけのことはあった、とはなかなか言えないことがあったことを『病者障害者の戦後』(立岩[20181220])で記した。東京の八王子に苦労して一つ作った後、作るのに尽力した人から、次は八丈島に五〇人規模のを、と聞いて、付いていけなくなった白石清春のことを「分かれた道を引き返し進む」(立岩[20190910])に書いた。
★06 私たちのサイトの表紙から「こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす」という頁に行ける。そこにいろいろと関連情報などを載せている。2019年のDPI日本会議の政策研究集会でこの企画についての分科会があり、話をした。それにいくらかを足して、『社会福祉研究』から依頼された原稿とした。それが「無駄に引かず無益に悩まないことができる」(立岩[20200401])。本書第7章にいくらか手をいれて再録した。


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第3章・註
★01 介護保険の予算規模、総合支援法のサービスの予算規模:◆。
★02 これだけではない。生活保護制度の中「介護加算」がありその中に(「家族介護加算」以外に)1他人介護加算」がある。制度が拡大される前はこれが重要な役割を果たした(1999年に300字で書いた『福祉社会事典』の項目に「他人介護加算」(立岩[19990515])。第6章註07で紹介・引用する。現在では以前よりそれによる部分は小さくなっている。
 こうして国の制度としての@「ホームヘルプ事業」、自治体が独自に作ったA「(重度障害者)介護人派遣事業」、そしてB「生活保護他人介護加算」、この3つがあった。その1990年・1995年までのことについては「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」(立岩[19901025→2012:280])、『生の技法 第2版(増補改訂版)』(安積他[1995])に収録した「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」(立岩[19950515→2012:379-390])。@が量的にまったく足りなかったために、多くは必要とする人たちは、まず生活保護をとれる人はBを使い、そしてさらに自治体に要求運動を続け、一部で実現した、という流れになる。
 Bは現在も残りつつ、@が介護保険とともに国の障害者福祉の制度として存続し、その一部にBの流れをくむ長時間の介助が「重度訪問」として@の一部に位置づくという構図になっている。
★03 基礎課程。講義:重度の肢体不自由者の地域生活及び従業者の職業倫理(2時間)/基礎的な介護技術(1時間)。実技:基礎的な介護と重度の肢体不自由者とのコミュニケーション技術(5時間)/外出時の介護技術(2時間)
 追加課程。講義:医療的ケアを必要とする重度訪問介護利用者の障害及び支援(4時間)/コミュニケーションの技術(2時間/緊急時の対応及び危険防止(1時間)
 実習:重度の肢体不自由者の介護サービス提供現場での実習(3時間)
 基礎課程+追加課程(2つをいっしょにしたものは統合過程)は2日間+利用者宅での実習ということになる。私が担当してきたのは(本書のもとになっているのは)最初の2時間。
 基礎課程で障害程度区分4・5の人の介助が、基礎課程を終えたうえで追加課程を受講すると加えて障害程度区分6の人の介助ができるよになる。そして追加課程を終え、看護師等の指導の下で実地研修を行った後に、特定の利用者に限り、痰吸引や経管栄養などの所謂医療的ケアができるようなる。介護保険の制度についてほどではないが、やはり紹介はたくさんある。例:
 https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11130500-Shokuhinanzenbu/0000150449.pdf
 https://escollege.org/?page_id=222
 https://www.acpa-main.org/judohoumonkaigo.html
★04 「介護職員初任者研修」。最短で1月。「介護福祉士実務者研修」はもっとかかる。こうした研修を行っているたくさんの組織のサイトに説明がある。例:https://www.acpa-main.org/kaigoshikaku.html
★05 資格がときに必要であることを否定しない。それは利用者(消費者)による適切な選択が見込めない時に、質の担保〜消費者保護のために役に立つ。しかしそれは、本人が適切に判断できるなら基本的には不要であるということでもある。そしてしばしば資格はある人たちの職・職域を護り広げるためにも主張され、そして実現したり護られたり拡大されたりすることがある。『医療社会学を学ぶ人のために』(進藤・黒田編[1999])所収の「資格職と専門性」(立岩[19991030])でこのことを述べた。
 そして所謂「医療的ケア」を巡る資格・研修が議論された時に私が書いたものとして「間違った資格・研修の使い方は今あるものさえ壊してしまう」(立岩[20100826]、障がい者政策推進議員連盟・難病対策推進議員連盟合同勉強会で)、「資格/医療的ケア――唯の生の辺りに・7」(立岩[20101101]、『月刊福祉』での連載の1回)でこのことを話したり書いたりしてきた。
★06 「医療的ケア」を巡る2003年までのALS(協会)と厚労省とのやりとり他については『ALS』(立岩[20041115])、当時HPの頁を作り、いくらか増補はした→「医療的ケア/医療行為」:http://www.arsvi.com/d/a02m.htm。2010年頃については註05にあげたものに少し出てくる。ただ、この20年ほどの間について、本格的な研究は現れなかった。牧野恵子が研究を研究を始めている(牧野[2021])。その際、仲口路子が作った、議事録の抜粋なども含む長大な「医療行為/医療的ケア・年表」(仲口[2009])は、2009年までのものではあるが、役に立つと思う。
★07 長いほうの研修についての解説:◆
★08 おおまかには、「支援費制度」の開始(2002)→ヘルパーの派遣時間に上限を設定するという案の浮上→反対運動(2003)→上限設定はいったん撤回→議論が続く→障害者自立支援法(2006)という流れがあり、その中で、介護保険への吸収、介護保険的なものへの変更という動きと、それに対する抵抗の運動が続いた。
 この2003年の時、立命館で働くに際して松本から京都に移った翌年ということになる私は、霞が関でのデモに加わったりということは一度もなかったが、種々の報告・声明の類、そして報道を集めて、毎日、多い時には1日に3回とか4回、サイトを更新することをした。その時々に起こったこと、起こってしまったことに関わる情報を集めて、掲載することは、本格的にはこの時に始まったということかもしれない。そして、そのサイトに載せた各種の文書や報道を集め整理した資料集として『<障害者自立支援法案>関連資料』(立岩・小林編[2005])がある。
 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2002」立岩[20030300]、書いたのは2002年)より。
 「「障害者福祉」の部分の制度の変更は、2003年度からの「支援費制度」への移行として実現されようとしている。それは上記の直接支払いのあり方を一部とりいれる余地を含ませながら(実際には事業者に支払われる「代理受領方式」を基本とし)、供給量については大きく変更しようとするものにはならなかった。繰り返すが、利用者の側にとって譲れないのはなにより介助の時間、量であり、約30年をかけてようやく獲得してきたもの――いくつかの制度を組み合わせたとき最大24時間の公的な介護サービスを利用することがいくつかの地域では可能になっていた――を放棄することはまったく許容できないことだった。もしこの部分を切り捨て縮減して介護保険に吸収、あるいは介護保険的な制度に変えようとしたなら、強硬で強大な反対運動が確実に起こっただろう。もしそうなれば、それは介護保険(的なもの)に対する強い批判が存在することを社会に知らせることになったのだろうが、かつてと異なり厚生(労働)省と運動側との継続的な折衝・交渉の場は存在し、官庁の側も学習の機会はあったから、実際には大きな騒ぎが起こり社会の注目を集めるということにはならなかった。
 今回の支援費制度で「身体介護」「家事援助」「移動介護」「日常生活支援」の4種類が立てられたのは、これらの諸力の折衷あるいは妥協として捉えられるかもしれない。つまり、「身体中心」「家事援助」は、1時間あたりの単価にしても介護保険のサービスに近いものである。けれども、供給量の設定、そのための査定の機構は規定されなかった。次に、「移動介護」は「ガイドヘルプ」に対応するもので、障害者の運動が移動の権利を求めて視覚障害者の外出の同行に限られた制度からその範囲と量を拡大させてきたものである。これは介護保険にはない――介護保険では高齢者は移動しない人間であるかのように扱われている。そして「日常生活支援」という4つめのものが、各地の運動によって獲得されてきた「全身性障害者介護人派遣事業」に対応する。その細部についてはまだ定まっていないところがあるし、今後変更もあろうが、そのようにしてこれまでの獲得物は残された、あるいは折衷されたのである。厚生労働省の9月の資料では、「日常生活支援」は「身体介護」に比べ単価が低く設定され(1時間半で2630円)、「身体介護」「家事援助」と「日常生活支援」とは併用できないとされている。これらをどう評価しどう対応していくか等の課題は残されている。
 介護保険のサービスを受けている人でも支援費制度のサービスを受けられる。[…]」(立岩[2003]
 その後に書いた「障害者運動・対・介護保険――2000〜2003」は刊行されるはずの本が刊行されずそのままになり、2010年に『社会政策研究』にほぼそのまま再録されることになった(立岩[20100630])。そしてこれらを継いで、『生の技法 第3版』(安積他[2012])に新たに収録した第11章「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」(立岩[2012225])を書いた。そしてその前に基本的な論点について確認した「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」(立岩[2012225])を置いた。「資格はとくに必要な時以外いらない」といった節(立岩[2012225:535-539])もある。
 他に2003年から2004年にかけていくつかの文章を書いたり話をしたりした。
 『月刊総合ケア』に「介護保険的なもの・対・障害者の運動 」(立岩[20030515])、DPI日本会議の機関誌『われら自身の声』に「抗する側に道理はある」(立岩[20040405])、全国自立生活センター協議会公開シンポジウム「地域生活を守るために 〜どうなる!?介護保険と支援費制度〜」](於:那覇市)で「障害者運動・対・介護保険 2004」(立岩[20040516])、定藤記念福祉研究会「地域自立生活支援の確立を目指して――支援費制度の今後を考える」(於:西宮市)で「障害者運動・対・介護保険 2004」(立岩[20040710])。
★09 介護保険の単価については「令和元年度介護報酬改定について」(厚生労働省[20190300]、[HTML])にある「指定居宅サービスに要する費用の額の算定に関する基準等の一部を改正する告示」(厚生労働省[20190328]、[PDF])によると「訪問介護費」で「身体介護が中心である場合」で「所要時間30分以上1時間未満の場合」は395単位。「所要時間1時間以上の場合 577単位に所要時間1時間から計算して所要時間30分を増すごとに83単位を加算した単位」とある。なお「生活援助が中心である場合」は「所要時間20分以上45分未満の場合」182単位、「所要時間45分以上の場合」224単位となっている。
 1時間から約6000円、ただ2時間から時間あたり4000円には達しないということになる。
★10 ◆※これは介護保険(変更〜修正します)
「指定居宅サービスに要する費用の額の算定に関する基準等の一部を改正する告示」(厚生労働省[20190328]、[PDF])では、
 1時間の場合、2019年10月の395単位。その前は394単位。1単位約10円あがっている(だけ)ということだ。
 2019年10月の単価の詳細は[PDF]等。
https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc_keyword?keyword=%E6%8C%87%E5%AE%9A%E5%B1%85%E5%AE%85%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9%E3%81%AB%E8%A6%81%E3%81%99%E3%82%8B%E8%B2%BB%E7%94%A8%E3%81%AE%E9%A1%8D%E3%81%AE%E7%AE%97%E5%AE%9A%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%9F%BA%E6%BA%96&dataId=82aa0253&dataType=0&pageNo=1&mode=0

https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12201000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu-Kikakuka/0000179941.pdf
183単位(1時間)〜1,408単位(8時間) ※8時間を超える場合は、8時間までの単価の95%を算定
★11 数としては圧倒的に多い高齢者福祉関係の専門家たちが介護保険のことしか教えられないということはまずあるだろう。また、施設での生活でなければ家族介護のほんの補助ぐらいのものとしてだけ施策を捉えているから、それ以外のものがあると考えないということもあるだろう。さらに、行政からの支出が多くなりそうなものについては、施策の実行だけでなくその認識・認知も含めて回避しがちであるという身も蓋もない事情もあるだろう。却下されたものは広がらない。そして、この制度がその前身となった制度(介護人派遣事業)も含め、行政・専門家との間にときに対立・摩擦が生じた障害者の運動が、直接交渉で獲得・前身させてきたものであるいう事情があるだろう。そして加えれば、「説明責任」だとか「透明性」といった標語のもと、種々の制度が定型化され「区切り」をつけられるものになってきたこともいくらかは関わるだろう。本書では主題的に取り上げない「相談支援」(と今般は呼ばれるもの)にそんなことが起こってしまっていることについて『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(立岩[20151113])、そして萩原浩史『詳論 相談支援』(萩原[2019])に付した「くわしく書くことがどんなにか大切であること」(立岩[20191210])等に記した。
★12 「全国障害者介護制度情報」というサイトがある→http://www.kaigoseido.net/。そこには問い合わせ先として「全国障害者介護保障協議会/障害者自立生活・介護制度相談センター」と記されている。
 『生の技法 第3版』に新たに加えた「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」で以下のように記した。
 「役所も知らないし、本人たちの多くも知らない。まず介助の必要な人が知り、△552 役所が知らないものが制度的に可能であることをうまく知らせ、説得する手だてがいる。それを各地の人たちが獲得することで全国に制度が広がる。
 2 情報が制度を拡大させた
 そこで大きな役割を果たしてきたのが、情報を提供し、具体的な交渉の仕方等を伝える組織である。「全国公的介護保障要求者組合」が一九八八年に設立され厚生省との交渉などにあたっていたのだが、九七年にこの組織は二つに分かれる☆02。「組合」の方も活動を続けるが、分かれた方は、一つに運動・交渉団体としての「全国障害者介護保障協議会」、一つに相談を受け情報を提供する組織としての「障害者自立生活・介護制度相談センター」の二つに活動を分け互いに協力し合うかたちで活動を続ける。相談センターは膨大な情報を蓄積し、会員を募り、『全国障害者介護制度情報』を月刊で発行し続け、ホームページで情報を提供し、フリーダイヤルでの電話相談等を行ってきた。こうして、切実に介助を必要とする人の多くがこの組織を利用し、利用者が制度のことを一番よく知っている(が、行政の人はあまり知らない)という状態がもたらされた。」(立岩[20121225b:552-553])
 「☆02 「組合」のほうのことは新田[2012下:316-325]に記述がある。ただ「分裂」についてはふれられていない。」(立岩[20121225b:598])
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙  研究者としては深田耕一郎がこの分裂にふれている(深田[2013:505ff.])。私は、深田は「基本的には「ゲゼルシャフト」と「共同体」という、社会学の古典的な対比において捉えている。まずはそのように捉えることはできるだろう。[…]ただ私は、すこし異なった筋で捉えることができると思う」(立岩[20200110:429])と記し、2020年に刊行された『弱くある自由へ 第2版』(立岩[20200110])に新たに収録された「高橋修 一九四八〜一九九九」で、この分裂についてかなりの紙数を使って書いた(立岩[20200110:425-435])。
 「97年の「分裂」があった。そのことの含意を見る。〔高橋修は〕そう道幅が広くはない、しかしこれでよいしこれだけだろうという道を通って行ったことを確認する。」(立岩[20200110:42△]◇)。
★13 厚生労働省のサイトにある「障害福祉サービスについて」(厚労省・[HTML])他に列挙されている。「訪問系」では「居宅介護」、「重度訪問介護」、「同行援護」、「行動援護」、「重度障害者等包括支援」の5つがあげられている。
★14 同じサイトに「障害支援区分」がある(厚労省・[HTML])→「障害者総合支援法における「障害者区分」の概要」(厚労省・[PDF]。「区分1」から「区分6」までになっていて(他に「非該当」)6が最も要支援度が高い。
 右記した「概要」に手続きが示されている。利用を希望する側の申請を受けて、調査員の訪問調査→コンピュータ判定+主治医の意見書:一次判定時、それに調査員による(あれば)特記事項+主治医の(あれば)意見書を受けて、市町村審査員による二次判定→市町村による認定・通知という流れ。
『差異と平等――障害とケア/有償と無償』表紙 ★15 「青天井」について。問題がない、少なくとも思うより少ないことは1998年の中西正司との文章(中西・立岩[1998])で述べ――その箇所を『差異と平等――障害とケア/有償と無償』(立岩・堀田[2012])第1部第1章「差異とのつきあい方」で引いている(立岩[20120610:87])。
 それ以外には「楽観してよいはずだ」(立岩[20081001])の6「「過大申告」と基準について」。「「最低限度」「人並み」は自明ではない」「上限はおのずと決まってくる」「それでも基準が必要ならば…」。
 次にどのような(どこまでの)営みに対する介助(費用)の社会的支給が正当化されるかという問いがある。『弱くある自由へ』所収の「遠離・遭遇――介助について」の「判定から逃れようとすること」([2000→2000→2012:296-301])
 「本人の申告に応じて支給する、あるいは実際の利用に対して支給すること(出来高払い)はほんとうに不可能か、考えるだけ考えてみてもよい。ここでは、介助についてはその可能性のあることを述べる。」(立岩[20000301→2000→20200110:297])
 ここで現金で得られるものとしての所得と追加費用とを分けて考えるのがよいと述べた。そのことを『差異と平等』所収の「差異とのつきあい方」(立岩[20120610])で述べ、『生の技法 第3版』所収の「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」で短く繰り返した(立岩[20121225a:527-239])。これまで注目されていない部分だが、けっこう重要なことを述べていると思う。
 「妥当な所得水準が決まったとして、その所得をどう使うかは各自の好みに委ねるとし、この(すなわち追加出費が必要なようにできてしまっている)社会で必要な追加費用が必要であれば、かかっただけ税金から出すということでよい。これはすこしも難しいことではない。(加算のことはいったん差し置いて)所得の総額を一定としたとき、人はそれを使いたいように使うだろう。他の消費を削ってでも外出したい人、旅行したい人はすればよい(引きこもって別のことをしたければすればよい)。そしてその旅行について介助が必要なら、旅行に一度行く人は一度分、二度行く人は二度分、税から支出されるということである。それが私の案だ。というより、障害者の運動が言ってきたことを言い換えれば、言い直せばそうなると思う。そしてそれは正しいと考える。」(立岩[20121225a:527])
★16 「介護給付費等の支給決定等について」(通知)(厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部長[2007]◇→[WORD][HTML])、5「支給決定基準等の作成」の(1)「障害福祉サービス」には次のようにある。
 「市町村は、勘案事項を踏まえつつ、介護給付費等の支給決定を公平かつ適正に行うため、あらかじめ支給の要否や支給量の決定についての支給決定基準を定めておくことが適当である。
 […]
 受託居宅介護サービスの支給決定基準については、障害支援区分ごとにイに掲げる市町村が支給決定を行うに当たって参酌すべき受託居宅介護サービスの支給標準時間(分/月)(以下「支給標準時間」という。)に基づき設定するものとし、当該支給標準時間の範囲内で定めることを基本とする。
イ 支給標準時間
[区分2]150分/月・[区分3]600分/月・[区分4]900分/月・[区分5]1,300分/月・[区分6]1,900分/月
 […]
★17 前の註の省略した[…]の部分が以下。
 「その際、国庫負担基準は、あくまで国が市町村の給付費の支弁額に対して国庫負担する際の一人当たりの基準額であり、当該基準額が個々の利用者に対する支給量の上限となるものではないことに留意すること。
 一方、個々の障害者の事情に応じ、支給決定基準と異なる支給決定(いわゆる「非定型」の支給決定)を行う必要がある場合が想定されることから、市町村はあらかじめ「非定型」の判断基準等を定めておくことが望ましい。
 なお、「非定型」の支給決定を行うに当たっては、支給決定案について市町村審査会の意見を聴いた上で個別に適切な支給量を定めること。」
 「ウ 「非定「型」の判断基準
 以下の(ア)又は(イ)に掲げる場合であって、アにより定めた支給決定基準の支給量の範囲内では必要な受託居宅介護サービスの支給量が確保されないと認められる場合には、当該支給決定基準を超える支給決定を行うこととして差し支えないこと。
 この場合、支給決定に当たって、市町村審査会の意見を聴いた上で個別に適切な支給量を定めることが望ましいこと。なお、(イ)に掲げる場合であって、指定特定相談支援事業者以外の者がサービス等利用計画案を作成した場合については、支給決定に当たって、市町村審査会の意見を聴くものとする。
 (ア) 当該支給申請を行う者が利用する外部サービス利用型指定共同生活援助事業所(指定障害福祉サービス基準第213条の4第1項に規定する外部サービス利用型指定共同生活援助事業所をいう。)に当該支給申請を行う者以外に受託居宅介護サービスの提供を受けている、若しくは、希望する利用者がいない場合又は受託居宅介護サービスを受けている、若しくは、希望する利用者のすべてが障害支援区分2以下である場合
 (イ) 障害支援区分4以上であって、指定特定相談支援事業者等が作成したサービス等利用計画案を勘案した上で、支給決定基準を超えた支給決定が必要であると市町村が認めた場合」
 行政の文書というのはこういうもので仕方がないのだろうとと思いつつも、わかりにくい。
★18 ☆13で参照した「障害福祉サービスについて」(厚労省・[HTML])より。
 「2 重度訪問介護
 重度の肢体不自由者又は重度の知的障害若しくは精神障害により行動上著しい困難を有する障害者であって常時介護を要するものにつき、居宅において入浴、排せつ及び食事等の介護、調理、洗濯及び掃除等の家事並びに生活等に関する相談及び助言その他の生活全般にわたる援助並びに外出時における移動中の介護を総合的に行うとともに、病院等に入院又は入所している障害者に対して意思疎通の支援その他の支援を行います。
 [対象者]
 障害支援区分が区分4以上(病院等に入院又は入所中に利用する場合は区分6であって、入院又は入所前から重度訪問介護を利用していた者)であって、次のいずれかに該当する者
 1 次のいずれにも該当する者
  (1) 二肢以上に麻痺等があること
  (2) 障害支援区分の認定調査項目のうち「歩行」「移乗」「排尿」「排便」のいずれも「支援が不要」以外と認定されていること
 2 障害支援区分の認定調査項目のうち行動関連項目等(12項目)の合計点数が10点以上である者
  ※平成18年9月末日現在において日常生活支援の支給決定を受けている者に係る緩和要件あり。」
★19 「非定型」について、「障害者自立支援法に基づく支給決定事務に係る留意事項について」(事務連絡)(厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課・障害福祉課[2007]、[HTML][PDF])より。
 「障害者自立支援法(平成17年法律第123号)に基づく支給決定事務については、平成18年6月26日障害保健福祉関係主管課長会議等において、@適切かつ公平な支給決定を行うため、市町村においては、あらかじめ支給決定基準(個々の利用者の心身の状況や介護者の状況等に応じた支給量を定める基準)を定めておくことが望ましいこと、A支給決定基準の設定に当たっては、国庫負担基準が個々の利用者に対する支給量の上限となるものではないことに留意すること、B支給決定に当たっては、申請のあった障害者等について、障害程度区分のみならず、すべての勘案事項に関する一人ひとりの事情を踏まえて適切に行うこと等その取扱いに係る留意事項をお示ししているところです。
 各市町村におかれましては、これまでお示ししていることに十分留意していただきたいと考えておりますが、特に、日常生活に支障が生じる恐れがある場合には、個別給付のみならず、地域生活支援事業におけるサービスを含め、利用者一人ひとりの事情を踏まえ、例えば、個別給付であれば、いわゆる「非定型ケース」(支給決定基準で定められた支給量によらずに支給決定を行う場合)として、個別に市町村審査会の意見を聴取する等により、適切な支給量の設定にご留意いただきますよう、よろしくお願いいたします。」
★20 厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課長・障害福祉課長が各都道府県障害保健福祉主管部(局)長に出した通知「障害者自立支援法に基づく自立支援給付と介護保険制度との適用関係等について」(厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課長・障害福祉課長[20070328]、[20110928])には、基本的に介護保険を優先するとしつつ、以下のように記される。
 「サービス内容や機能から、障害福祉サービスに相当する介護保険サービスがある場合は、基本的には、この介護保険サービスに係る保険給付を優先して受けることとなる。しかしながら、障害者が同様のサービスを希望する場合でも、その心身の状況やサービス利用を必要とする理由は多様であり、介護保険サービスを一律に優先させ、これにより必要な支援を受けることができるか否かを一概に判断することは困難であることから、障害福祉サービスの種類や利用者の状況に応じて当該サービスに相当する介護保険サービスを特定し、一律に当該介護保険サービスを優先的に利用するものとはしないこととする。
 したがって、市町村において、申請に係る障害福祉サービスの利用に関する具体的な内容(利用意向)を聴き取りにより把握した上で、申請者が必要としている支援内容を介護保険サービスにより受けることが可能か否かを適切に判断すること。
 なお、その際には、従前のサービスに加え、小規模多機能型居宅介護などの地域密着型サービスについても、その実施の有無、当該障害者の利用の可否等について確認するよう留意する必要がある。」
★21 厚生労働省のサイトに「障害者の利用者負担」(https://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/service/hutan1.html[HTML])。総合支援他での自己負担の上限は37200円。
★22 介護保険の自己負担については種々のサイトで説明されている。例:https://www.minnanokaigo.com/guide/care-insurance/price/(みんなの介護入居相談センター)。
★23 ちなみに介護保険については保険(者)――業界用語では保険料を集めて渡す側のことを保険者と言う――から半分、残りの半分を、国1/2、都道府県1/4、市町村1/4でということになっている。
★24 岡本晃明は2006年度の日本新聞協会賞受賞作でもある『折れない葦――医療と福祉のはざまで生きる』(京都新聞社編[2007])の取材に関わる。この時の取材のことは『新聞研究』に掲載された「医療と報道倫理」(岡本[2007])に記されている。甲谷らについて書いた文章に「ALS‐D――勝手に甲開日記」(岡本[2008])、「医療的ケアに踊る ALS‐D」(岡本[2010])。いずれも『現代思想』に掲載。
★25 川口有美子 第3回註11。☆11 2013年に「ALSの人工呼吸療法を巡る葛藤――ALS/MND国際同盟・日本ALS協会の動向を中心に」(川口[2013])で博士号を取得した川口有美子は東京都中野区で「ケアサポートもも」(有限会社)を運営している。著書に『逝かない身体――ALS的日常を生きる』(川口[2009])、対談集に『末期を超えて――ALSとすべての難病にかかわる人たちへ』(川口[2014])がある。その川口が甲谷の病室を訪れ、「さくらモデル」を紹介したのは2007年の1月だという(河本[2013:1259])
★26 この交渉の後、連載のようなかたちで『京都新聞』に書いていたコラムの一回「学者は後衛に付く」(立岩[20080131])より。
 「こないだ、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の甲谷さんの介護保障についての京都市役所との協議に同席させてもらった時にも、そのことを感じた。例えば、介護に関わる加算など、もっと使える制度である生活保護がきちんと使われていないのだ。
 となると、制度を使う側が知識をもっていなければならないことになってしまう。めんどうなことだし、個人には難しいことでもあるが、民間の組織がその部分に対応してきた。結果、多くのことについて、いま最もよくものごとを知っているのは役人でも学者でもなく、民間でたいがいは儲からない活動をしている人たちということになる。その人たちが持っている知識やノウハウの方が、なにか気のきいたことを言おうとして実際にはたいしたことを言えていない研究者の論文に書いてあることより、よほど価値のあることが多い。」
★27 杉江、杉江とのことについては第1章註07
★28 増田英明(1943〜)。ユジンギョンが増田智子に2度インタビューしている(増田智子[i2018][i2019])。生存学研究所の客員研究員でもあり、2017年、ソウルで開催された「障害学国際セミナー2017」に参加した。飛行機の往復はなかなかにたいへんだった。その報告として「人工呼吸器を装着した私の挑戦――障害学国際セミナー2017に参加して」(増田[2018]、[HTML])。
★29 市販されている本としては、このネットの代表者である藤岡毅と和歌山訴訟の弁護を担当した長岡健太郎の『障害者の介護保障訴訟とは何か!――支援を得て当たり前に生きるために』(藤岡・長岡[2013])、『支援を得てわたしらしく生きる!――24時間ヘルパー介護を実現させる障害者・難病者・弁護士たち』(介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット編[2016])。
★30 こちらのサイト内に「和歌山ALS介護訴訟(2010〜2012)」を作り始めた。2010年9月に2人が提訴。2012年4月に21時間を支給するよう命ずる判決。和歌山市は控訴しなかった。法学者が書いたものとして「24時間介護を受ける権利」(長尾[2013]、[PDF])。
★31 古込和宏(1972/04/26〜2019/04/23)。以下、「解説:追悼・筋ジス病棟を出て暮らす――古込和宏さんのこと」(立岩[20190625])全文。
 「古込和宏さんは、一九七二年、石川県輪島の生まれ。この四月二四日に亡くなった。享年四七歳。五歳の時にデュシェンヌ型の筋ジストロフィーと診断、一九八〇年国立療養所(現在は国立病院機構)医王病院に入院。三七年を経て、二〇一七年十月、退院、市内での生活を始めた。その病院で「死亡退院」でなく退院した筋ジストロフィーの人は古込さんが最初だと聞いたことがある。その退院とその後の生活に、京都(日本自立生活センター)、兵庫(メインストリーム協会)、そして「全国ホームヘルパー広域自薦登録協会」の人たちが関わった。それとが一つのきっかけとなって、いま全国で、「国療」(と略す)を出たい人は出て暮らすこと、すくなくとも当座そこに暮らす人たちについては、もっとよい環境で暮らせるようになることを支援する活動が始まっている。
 彼が病院を出たいと思ったのはだいぶ前のことになるが、そのために使える情報・手段をなかなか得ることができなかった。ネットはだいぶ前から使えていたし、例えば、日本筋ジストロフィー協会の機関誌もとってはいたという。しかし、そこで書かれていることはおおむね家族が世話して在宅で暮らす生活だ。川口有美子がフェイスブックで友達になったあたりから状況が変わった。そこから「広域協会」につながる。金沢にも、金沢や富山の支援者たちの集まりができる。そうして退院した。
 私は、二〇一六年の三月に彼の書いたものをメールで送ってもらってHPに掲載した。最初は病院を刺激しないようにということもあって匿名だった。退院してから実名を記した。今回本誌に再録されるのは、その一部だ。他の文章もこちらのHPで読むことができる。「古込和宏」で検索してください。こちらの大学院生の坂野(ばんの)久美が書いた論文も読むことができる。
 私が古込さんに会ったのはたった二度。一度は退院に関する打合せで病院内で。車椅子への移乗のための人員がいないからという理由で、古込さんは病室のままで、私たちは会議室でスカイプで会議ということになって、唖然とした。一度は、二〇一八年一月。坂野さんと一緒にインタビューをした。これも読んでいただけるようにするつもりだ。
 古込さんは文章が上手な人だった。みながそうであるわけではない。文章を書ける人は書く。話す人は話す。笑う人は笑う。怒る人は怒る。私は、当初結核の人たちを収容していた国療がどのように筋ジストロフィーの人たちと重症心身障害児と呼ばれる人たちを収容するようになり、その状態がずっと続いてしまったのか、昨年『病者障害者の戦後――生政治史点描』(青土社)という本に書いた。ちょっとやそっとでは、長く固定しまったこの体制はなかなか変わらない。みなができることをして、それを合せてやっていくしかないのだろうと思う。」
 最後の段落にも関わり、その後に書いた文章に「煽情主義も使う」(立岩[20200710])
★31 小泉 浩子第34回「国際障害者年」連続シンポジウム:「自立生活運動・オープンダイアローグ・当事者研究」(2020年2月)の演者紹介より。「幼少時の黄疸による脳性まひ当事者。現在、日本自立生活センター自立支援事業所管理者。重度知的障害者や難病者など障害種別をこえた多くの自立生活の現場に関わり、そこでの複雑な人間模様を誰よりも身にしみて味わっている障害当事者の一人。共著に『障害者運動のバトンをつなぐ』(生活書院、2016年)。」
★32 小泉浩子第34回「国際障害者年」連続シンポジウム:「自立生活運動・オープンダイアローグ・当事者研究」(2020年2月)の演者紹介より。「幼少時の黄疸による脳性まひ当事者。現在、日本自立生活センター自立支援事業所管理者。重度知的障害者や難病者など障害種別をこえた多くの自立生活の現場に関わり、そこでの複雑な人間模様を誰よりも身にしみて味わっている障害当事者の一人。共著に『障害者運動のバトンをつなぐ』(生活書院、2016年)。
★33 段原克彦も日本自立生活センターのスタッフ、介助者。サイト内検索をして出てくるのは、2018年12月24日の「筋ジス病棟と地域生活の今とこれから」斉藤実がオンラインで話した時にその介助を担当していた人として、またその前年からる、野瀬時貞(野P時貞)ら宇多野病院にいた/いる人たちを小泉浩子岡山祐美大藪光俊高橋慎一らとともに訪問した人として。そして本書に幾度も出てくる増田英明の介助者として。以下はインタビューにおける増田智子の述懐。
 「増田智子 まあ、最初の頃はね、あの段原さんでも、増田がダメやったのよ。あの…、
 ユ 今、増田〔英明〕さん笑ってます。(笑)
 増田智子 うん。段原さんはJCILのヘルパーさんなので、今だったら分かんのね。JCILのヘルパーさんって、ちゃんと指示されたらやるのね。指示されないことはやらないのよ。で、それが、ほかの障害者たちにとっては一番いいのね。やっぱり、日常の中で、バタバタ存在感をこう発揮して、あの、うるさいと、こう、安心した生活できない。で、良さも知ってるけど、段原さんは本当に空気みたいな人なの。あんなに体大きいのに、空気みたいな存在の人なので、あれはとってもね、最初は増田が、「一々言わなければ何もしないのか。」っていうふうに受け取ったの。「何にも仕事しない。」っていうふうに言ったの、最初は。
 ユ 最初は言いました? 増田さん。(笑) うん。
 増田智子 で、「もっと気を利かせてやってよ。」って言うのね。「いや、やってほしいことは言わなきゃ。」っていうことに気が付くまで、年月かかりましたね。[…]
 段原さんに関してはね、最初は「ダメ」って言ってたのが、ずーっとこう、長ーく続いってってるうちに、信頼に変わってったんですよ。一番信頼に変わったのが、入院する時だったね。あの、胆石で。あの時に病院に行ったら検査されるのよ。で、検査するのに、呼吸器つけてる患者が普通に検査されるから、向こうだって簡単に言ったら、そういないのよ、そんな患者がね。だから平気で、こんな側臥位にされたり、こうひっくり返されたりするわけよ。そのたんびに、すごい顔して苦しい顔してるけど、私はもうビックリしちゃって、何にもできなくて。そこで、ちょうどついてったのが段原さんで、段原さんがもう盾になって守って。先生だろうが看護師さんだろうが、「ちょっと待ってください、これだとしんどいから。」って言って。あの、この人はもう眼ぇ向いてるのね、苦しさで。もちろん、中の苦しさもあるけど、その体勢の。今までされたことのない体勢も、全部そうやってね、守ってくれたのよ。そっから、ガラッと変わった。(笑) 「ああ、一番信頼できるんやなあ。」って思ってね。」(増田[i2019]
 私たちは2017年12月、第28回ALS/MND国際シンポジウム(他)で増田とともにボストンに出かけたのだが(そこでの報告が長谷川他[2017])、その時の増田の介助者の一人も段原だった。
★34 井上武史(1963〜)。同志社大学を卒業後、ラテンアメリカを放浪。1998年にメインストリーム協会で働き始める。インタビューとして井上[i2018]。国際協力について井上・安原[20200812]。インタビューの聞き手として宮本泰輔[i2020]第1章註08の、介助をしてきた〜少ししたことがある人一覧にも出てくる。


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第4章・註
★01 『生存学の企て』(立命館大学生存学研究センター編[2016])に関係者の研究を紹介する「補章」(立岩[20160331])を書いた。以下、その中の「福祉労働についても」の全文。
立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙  「あってよい研究がないと言ってきたが、高齢者福祉、その関係の労働についてならいくらでもあるように思える。しかしここでも、現在を歴史的・政治的に見ることが必要で、それが意外なほどなされていない。
 本書では渋谷光美の著書(渋谷[2014])の一部が引かれた(第1章3)。ホームヘルパーの常勤化闘争があった。その苦難の歴史が描かれた。そうした業績があるからこそ、それに加えて、全体を、それもそれほど大仰なことではなく、例えば、まずは1970年代・1980年代あたりからでもかまわない、何が起こってきたのか。いくつかの業績がようやく出ているが、まだすべきことはある。
 教科書の類には自治体の家庭奉仕員派遣事業は長野県で始まったと書いてあるのだが、佐草智久はそれより早い京都他での始まり、その時の様子を明らかにした(佐草[2015a][2015b])。それ自体価値のある研究だが、そこで言われているのは、介護される対象が貧窮者に限られていたこととともに、この事業そのものが戦争未亡人といった貧窮者対策の性格をもっていたということである。そしてこれは公的な施策だが、それと別に家政婦がおり、やがて廃止される病院の付添婦がおり、そうした人たちを供給する会社もあった。そして80年代になると、「有償ボランティア」と呼ばれた人たちやそのその人たちの組織がいっときずいぶんもてはやされた。その人たちの多くは専業主婦で、金と時間がある程度あり、仕事をし、いくらかを受け取った。
 こうした複数の流れがどのように連続し、そして途絶え、現在に至ったのか。まず常勤化を目指したがそれが果たせなかった人たちが、非常勤の仕事としてする人になったという部分もあるが、それは数的には多くない。有償ボランティアができた層が担っているのでもない――とすると、しばらく有償ボンティアが期待されたがあきらめられたということか、それともそうではないのかという問いも立つ。他方、民間の派遣所で働いていた人が移ってきた部分はかなりあるようだ。そして、シングルマザーをしながらシングルマザー研究をしている谷村ひとみは、資格が比較的簡単にとれる仕事として(ちなみにさきに記した介護保険外の制度の場合は、資格なしでもできなくはない)、そして長く続けられる仕事として多くの人がこの業種に就くこと、その職にたどり着くにあたっての経緯を記している(谷村[2013])。シングルでない人もたくさんいる。そうわりがよくはないが、多く働けばそれで食べていけないことはない仕事、空いている時間を使いいくらかを稼ぐ仕事としている人がいる。一筋縄で行かないことは明らかだが、そこにどんな筋を見出すことができるか。それが佐草(たち)の仕事になるかもしれない。
 私は、この高齢者介護〜介護保険という「本流」の方についての知識はない。「障害者関係」――といっても高齢者も障害者だから介助が必要なのだが――同性による介助を原則とするから男性も多く、学生も含め比較的に若い人たちが多い介助者の世界、その利用者の世界のことをすこし知っている。それと比較対照したときに何かが見えるのか、それもまだわからない。ただ事実として、まず一つ、端的に言えば公務員として派遣されるヘルパーを嫌った人たちを知っている。そして、専門性を言って自らを正当化する、そのものの言い方はそう主張する人自身にとってもよくないと考えてきた。むろんそれは、その仕事に熟練を要する部分があることを否定するものではない。さらに、公務員であること、常勤公務員であることを否定することにもならない――実際、一九七〇年代から八〇年代、公務員ヘルパーを批判した人たちにも公務員化を支持した人たちはいる、そのぐらいには事態は複雑だ。介助(介護)者の労働条件をよくすることについて異議がない。それは言うだけならいくらでも言えることだが、だから言うことにして、言ってきた。介助者・ヘルパーの労働運動の再建あるいは開始の動きもあって、それも必要だと思う。その上で、どのようにその職とその条件を肯定するかである。
 それをこの業界・学界にまかせると多く「専門性」の話に収斂させられる。それに対して別のことを言うことができるし、別のことを言うべきだと思う。そのように口をはさむことができる。」
★02 『ウィキペディア』に情報がある→https://ja.wikipedia.org/wiki/コムスン。問題は2006年から指摘され始め、2007年6月、 厚生労働省から介護サービス事業所の新規及び更新指定不許可処分を受ける。2007年12月訪問介護事業の譲渡完了、2009年12月会社解散。
★03 1994年の日本社会学会報告として「「自立生活センター」は非営利民間組織(NPO)の一つのあり方を提示する」(立岩[19941105])。
★04 その活動が始まってまだそう経ってない頃、『季刊福祉労働』の連載で紹介したのが「全国自立生活センター協議会(JIL)――自立生活運動の現在・4」(立岩[19930325])。
★05 「自立生活センター・イルカ」(宜野湾市)、「北部自立生活センター希輝々」(名護市)、「自立生活センターまんた」(宮古島市)、「自立生活センター南十字星」(石垣市)。私は2020年11月8日自立生活センター南十字星主催のシンポジウムで話をさせてもらった。
★06 自立生活センター・アークスペクトラム主催シンポジウム「自立活センターの歩み――これまでの記録と記憶。これからの希望。」(於:ハートピア京都)で安積遊歩さん岡田健司さんと鼎談をした。その前に送った文章「『生の技法』までとそれからの20年とこれから」(立岩[20091024])より。
 「京都市に2つめの自立生活センター自立生活センターが「アークスペクトラム」なのだそうだ(3つめが今年度中にはできるという話も聞いている)。1つめは「日本自立センター」(JCIL)。東京都八王子市の「ヒューマンケア協会」(1986年発足)が日本の最初の自立生活センターと自称している(そして安積はその最初期のスタッフだった)。有償のサービス提供事業をする組織としては、まあまちがってはいないのだろうとは思う。ただ、「日本…」と始まる、いくらかおおぎょうな名称のCILの設立(1985年)の方が、早いのもたしかなのだ。その意味では、この京都は自立生活センター発祥の地と言って言えなくはない。1980年代後半、その経緯を覚えていないのだが、私は、安積の車椅子を押すのと+一緒の聞き取り調査ということで、京都(とたぶん大阪)に出かけた。その時、京都では今福義明さんとそしてJCILの設立メンバーである長橋栄一さんにお話をうかがったはずだ。そんなふうに、いろいろと話を聞いて回って、調べて書いて、1990年に出版されたのが、安積純子(遊歩)・尾中文哉・岡原正幸、そして私の共著書『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店、1995年に増補改訂版)だった。
 ただその後、私たちは京都のことを聞くことがあまり多くなかった。その事情は私にはよくわからない。わからないから書けない。ただ、ここ数年、また京都の話が全国でされるようになっていると思う。一つにJCILが元気に活動している。またそのことに関わって、「かりん燈」という介助を仕事にする人たちの集まり、その活動が注目されるようになっている。そして「アークスペクトラム」ができて活動を始めた。不肖わたくしはしばらくはそのことを知らなかった。ただ2007年の3月に「尊厳死」を主題とする集会に呼んでくれたのだが「NPO自立生活センターくれぱす」(さいたま市)のみなさんで、その人たちと「自立生活センターリングリング」(神戸市)の人たちのつながりがあるといったことも知るようになった。そして、その人たちやこの「アークスペクトラム」の人たちが「しんきんネット」というものを立ち上げて、「受精卵診断」についての集会などしていることを、この9月に今日と同じ会場で集会を行なうからそれに来てくれと呼ばれて、知った。最初はホームページはなかったようだ。信用金庫のネットワークばかりでて来て困ったが、今は「神筋ネット」「神経筋疾患ネットワーク」で検索すると出てくる。そしてその集会で――今回の依頼は受けた後でメールでのやり取りはしていたのだが――「アークスペクトラム」の人たちにお会いすることになったのだ。
 以上、「これまでのこと」をただ書いていったら、決まった字数を超えたので、ここまで。あとは当日ということで。けれどもう一つ。「くれぱす」や「リングリング」や「アークスペクトラム」の人たちの多くに神経筋疾患系という共通性があるとともに、なんだか仲がよいこと、そして女性の比率が高いのがどうしてなのかしらと思っていたのだが、こないだの受精卵診断についての催で話を聞いていて、そのことに、関係者にピアカウンセリングの場を共有してきた仲間がいることが関係しているらしいことがわかって、すこしわかったような気がした。私自身は、正直言うと、こういうものは苦手なのだが、その私も、ずいぶん前に、『自立生活への鍵――ピア・カウンセリングの研究』(ヒューマンケア協会、1992年)という冊子(今でもぼつぼつ売れている)の編集を担当したことがある。安積も書いている。そう、安積は、もちろん知っている人とは知っているように、さきに記したヒューマンケア協会で、最初に自立生活プログラムだとかピアカウンセリングやらを始めた人である。だから、このセンターとそして今回の催は、安積の妹たち弟たちのものでもあるのだと思う。」
★07 『病者障害者の戦後』には次のように記した。
 「八一年に結成され、困難に面し、亡くなる直前まで建て直しが図られていた宮崎障害者生活センターは、高野が亡くなり、活動を停止する。それは後の自立生活センターとはだいぶ異なる性格のものではあり、名称にもその語は使われていない。彼らは「近くの農家で野菜を仕入れ、野菜を売って、家賃の足しにした。リヤカーに野菜を乗せ、電動車椅子で引っ張り、後ろからヴォランティアが押しながら、何キロも売り歩いた」(白江[2002:226])という。ただ高野〔岳志〕(たち)は米国流の自立生活センターの活動に注目し学び、高野[198404]の題は「進行性筋ジストロフィー(PMD)者らによる自立生活センターの運営」となってもいる。後に日本で最初の自立生活センターを自称する東京都八王子のヒューマンケア協会が設立されるのは(千葉市の)宮崎のセンターが設立されたその五年後、一九八六年のこと△316 になる☆14。」
 「☆14 一九八六年発足のヒューマンケア協会の立ち上げに関わりその活動の中心にいてきた人の著書に中西正司[2014]。その前年の八五年、日本自立生活センター(JCIL)が設立される。その運営に関わってきた人が(それ以前を)振り返る本に矢吹文敏[2014]、矢吹、小泉浩子、渡邉琢が参加している本に尾上浩二他[2016]。」(立岩[20181220:402])
★08 JILが『年鑑』を作っていたことがあったが、長くそのようなものは作られていない。組織によって活動の内容や規模がずいぶん異なり、なかにはあまり活発でないところもあるので、集計したりそれを公表したりすることに積極的でなくなったのかもしれないと思う。他にもその具体的な部分を調べている人はいないから、具体的なところはわからない。誰かが研究するなり、まとめてくれるとよいと思う。
 こうしてとくに数的な部分はよくわからないのだが、JILが編者になり公刊された書籍として『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』(全国自立生活センター協議会編[20010501])がある。この本は、この組織の系列よりずっと広い範囲の障害者運動の組織や人について、その当人たちが書いたあるいは関係者・研究者が取材して書いた貴重なものではある。この企画の立案に私が関わったと、最近聞いた。忘れていた。最初間違いではないかと思ったのだが、この本の製作に協力した(当時)若手研究者がいる会議のところようなところで、こうした企画の意義があるというようなことは言ったようにも思えてきた。
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙  そしてもうすこし具体的な提案もしたかもしれない。高橋修のところは私が書くと言ってそれが「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」(立岩[20010501])になったということかもしれない。その高橋についてはそのさらに20年後、書き足し『弱くある自由へ』の第2版(増補新版)に「高橋修 一九四八〜一九九九」(立岩[20200110])を収録した。
★09 佐藤謙に大学の頃のことをインタビューして書かれた論文に、「筋ジストロフィー患者が大学に行くということ――立命館大学の事例をめぐって」(坂野久美[2018])がある。以下は2017年の研修での講義a href="../ts/20170805.htm">「重訪、なにそれ?」より。
 「「ゆに」っていうのは、佐藤謙、謙さんていうね、立命館の産業社会学部っていうところの卒業した人で、もういくつになってんだろう、最初に会ったのだいぶ前だからたぶんけっこう年もくってるんじゃないかと思うんですけども、まだ30代前半、そんな感じで。彼は筋ジストロフィーの本人です。筋ジストロフィーっていろんな型があるんですけど、重いっちゃあ重い。やっぱり電動車いす。この「ゆに」は、彼がもともとはその産業社会学部の学生だったときに、自分が学生生活をやっていく際に、その大学でいろいろサポートしてほしいというので始めた、半ばそのボランティア団体みたいな感じで始まったんだろうと思います。障害がある学生の支援は大学もやってますけれども、かつては大したことなくて、わたし怒って、まあいいや、その話やめます。
 で、彼卒業して、筋ジストロフィーで長時間の介助が必要なので、自分で、いってみればその自分のための事業所を立ち上げた。だけじゃなくてけっこう手広くっていうか、特にその大学で学生、たとえばノートテイクってありますよね、耳が聞こえない、だけど講義に出てる、先生しゃべってる、わかんない、どうしよう?ていうとき、一つの手段は、隣に座ってノートを取る、それを見る、みたいなやり方があります。その講習をやったりとか。
 佐藤さんも学生だったし、白杉さんも大学院生だし、っていうんで、もともとはそういう業界にいたわけじゃない、素人ってば素人。だけど利用者だから一番玄人とも言えるわけなんだけど、そういう人が自分でその事業所立ち上げて、自分のため、あるいは自分の仲間のために、そういう仕事をする。利用者でもありその事業主もあるっていうパターンもありますし、それからいろんな事情で、特に別に自分が利用者っていうんじゃなくても、そういう仕事を始めて運営してるっていう人がいっぱいいます。」(立岩[20170805])
 この記録は、NPO法人ゆに『「当事者とつくる重度訪問介護研修」事業報告書』に再録された→「重訪、なにそれ?――重度の肢体不自由者に関する講義」(立岩[20180331])。このような活動が本書を書くきっかにもなった。
★10 特定非営利活動法人(NPO法人)ゆにのHPはhttp://www.unikyoto.com/。ゆにに字幕放映をお願いした障害学会第17回大会障害学会大会シンポジウム(2020/09/19、オンライン開催、立命館大学生存学研究所共催)の全記録は「動かなかったものを動かす――「筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト」」(全記録)。視覚障害・聴覚障害のある人の情報保障全般、なかで学会大会運営、さらにオンラインでの開催時に何を考える必要があり、何を行なうのが(行なわないのが)よいかという問題がある。とくにこの大会、そして東アジア4地域をづないでのオンラインセミナー等において情報保障の仕事に携わった大学院生の中井良平の論文「聴者の働きかけと技術の再配置による、聴覚障害者―聴者コミュニケーション変容の可能性――音声認識技術の利用検討から」(中井[2021])がある。
★11 特定非営利活動法人(NPO法人)スリーピースのHPはhttp://threepeace-k.com/">
★12 特定非営利活動法人(NPO法人)あるのページはある。合同会社あるのページは準備中。ちょっと様子を知りないなどの方はとりあえず立岩(→tae01303@nifty.ne.jp)まで連絡をください。2021年2月活動開始。
★13 『弱くある自由へ』所収の「遠離・遭遇――介助について」より。
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙  「その〔「利用者主体」のあり方の〕もっとも単純なものは、政府から支給されたお金を使って自分でサービスを買うという方法である。介助サービスではデンマーク、英国、カナダ、米国等の一部で採用され始めている「直接支払い(direct payment)」等と呼ばれるシステムがこれに当たる。日本でも実質的にはそのようにして使われている制度がある(生活保護の「他人介護加算」等)。ただあらかじめ使途が限定されている場合には、方法は必ずしも現金支給に限られず、要するに自分が選んだ人、サービスに費用=対価が支給されればよい。日本では、自身が推薦する人をホームヘルパーとして自治体あるいは自治体が事業を依託している民間団体に登録する「自薦登録ヘルパー制度」と呼ばれるものが導入されつつある。直接に現金を支給するのとそうでないのと、双方に長所と短所があり、それを見比べながら具体的にどういう機構に乗せていくのか、さらに考えに入れるべきいくつかについて検討してから、後で述べるとしよう。
 ただ個人が単独で何もかも決定し采配するのは難しいことがある。あるいは面倒なことがある。これもあたり前のことで、介助の場面に限らない。商品を並べてくれている商店に行ったり、旅行の手配をしてくれたり計画を立てるのを手伝ってくれる旅行会社を利用したり、私たちは様々なサービス業のサービスを利用している。介助の場合にも、介助、介助する人と利用者とを媒介する活動、組織があった方がよいことがある。営利組織・非営利組織ともこの仕事を担いうる。一九八〇年代、「住民参加型在宅福祉団体」などと呼ばれた組織の活動が広がったのだが、これは費用の社会的供給がない中で、利用者自身あるいは家族が利用料を負担するものであり、その料金・対価は低いところに置かれ、それでその活動に従事することができるのは時間的・経済的余裕のある主婦層がおもだった。それに「有償ボランティア」といった言葉も使われた。一九八〇年代の後半以降に現われる「自立生活センター」と呼ばれる組織は、費用を公的な財源に求めることを主張しながら、こうした組織の運営方法も摂取して、サービスの供給、媒介活動を行なう組織であり、同時に、組織の運営の主導権を利用者=障害者が掌握する組織である。介助に関わる費用獲得の運動と連動することによって、仕事への対価を先の「在宅福祉団体」に比べれば高いところに置くことが可能になり、それによってより広範な層から介助者を得ることができ、それまでなかった一日二四時間、年三六五日の介助派遣を行なうところが現われた。この運動は、必要なものを要求するだけでなく、余計なことを拒絶し、必要なものが供給される経路を変更させようとする。もちろん以前から自己決定が大切だといったことは言われてきたが、それは単なる理念、お題目であるか、予め仕切られた枠内のものでしかなかった。それが、実際に実現されるべきものとして、そして介入を避け、使い勝手をよくするための現実的な方法として追求されるのである。」(立岩[2000→2020:263-265])
★14 そのサイトでの説明は以下。
 「全身性障害者介護人派遣事業利用者で他人介助者の登録先がなく困っている方等を対象にスタートしました。居宅介護及び重度訪問介護の指定事業所として、また、全国の居宅介護及び重度訪問介護の指定事業所を運営する障害者団体と提携し、自分で確保した介助者を自分専用にヘルパー(自薦の登録ヘルパー)として登録できます。」
 「自薦ヘルパーは2002年度までは全国の約200自治体(全体の約1割)で公的な制度として実施されていましたが、2003年度以降は市町村がヘルパー事業の実施から離れ、支給決定だけを行う仕組みに変わりました。民間のNPO等が都道府県の指定を得てヘルパー事業所を運営できるようになったため、障害者の推薦したヘルパーをヘルパー事業所に登録することが全国どこの市町村でも可能になりました。」
 『生の技法 第3版』に収録した「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」(立岩[20121225b])では以下。事実関係を確認しておこうと思う。
 「地域間の大きな格差を縮小し、全国的なものにすることは以前からの課題だったのだが、介護保険の導入はそれを現実的なものにする機会とも捉えられ、また2003年からの制度変更を見込んだ活動を展開しようともしたのである。そこで、全国障害者介護保障協議会、全国自立生活センター協議会、DPI日本会議等が関わり、「2003年までに要介助当事者によるヘルパー指定事業者を全国300箇所に」という標語のもと、事業者の立ち上げと運営を支援する全国組織「自薦ヘルパー(支援費支給方式)推進協会」が2000年に設立された。この組織は、介護保険の介護をただ供給するだけでなく、自立生活運動の理念を共有し、障害をもつ本人が組織の運営を担うという自立生活センターの組織形態を有した事業者の設立を手助けする組織である。東京などの当事者団体のヘルパー委託事業や介護保険事業での収益などを集めて初年度予算3000万円で発足、その事業者になることを希望する人たちに運営方法についての通学と通信の両方を併用する研修のシステムを作り研修を実施し、各地での立ち上げ資金の助成も開始した。
 次に、これと並行して、利用者個人に対し、自分が選んだ人を介護者として簡単に登録できる仕組みを作り出した。すべての地域で介護保険の利用者だけを見込んだ事業所を立ち上げるのは難しい。しかし利用者は点々と存在する。そこでやはり2000年、「介護保険ヘルパー広域自薦登録保障協会」を立ち上げ、登録ヘルパーと呼ばれる仕組みを介護保険のもとでも実現しようとする活動を始めた。すなわち、全国の介護保険指定事業者を運営する障害者団体、上記した活動により設立される組織と提携し、介護保険を利用できる個々人に自分で確保した介護者を介護保険のヘルパーとして組織に登録してもらうという機構を作ったのである。介助者、介助時間帯や給与を自分で決め、介助者・利用者の登録をすれば、その日から介護保険の自薦介助サービスが利用可能になる。介助者は1〜3級ヘルパー、介護福祉士、看護婦のいずれかである必要があるとされたため、ヘルパー研修未受講者は3級研修などを受講する必要がでてくるが、受講料を広域協会が助成、また協会自らも研修を行いこの費用も助成した。2000年4月に東京事務所が開設され関東圏での利用が可能になった。同年7月には大阪事務所の活動が始まり近畿圏での利用が利用可能に、2001年には、九州・四国・中国・中部の一部の県で事業開始、2002年度には全国ほとんどの県で利用が可能になった。またこのシステムへの参加を自立生活センター(CIL)等介助サービス実施組織にも呼びかけた。対象地域のCIL等で介護保険対象者に介護サービスを行おうとする場合、研修を受けた介護者を介護保険の事業者に登録するとともに、コーディネイトの実質はその(事業者でない)CIL等の組織が行い、その組織はその費用を事業者から受け取るかたちをとった。」(立岩[20121225b:570-572])
★15 一人は川口有美子(→第3章註25)。もう一人が天畠大輔(→第4章註20
★16 伊藤佳世子は現在千葉県で「りべるたす」(社会福祉法人)を運営している。『病者障害者の戦後』での記述は以下。
 「そうした施設〔旧国立療養所〕で非正規職員として働いたことのある人の論文に伊藤佳世子[2008][2010]がある☆07。また、実際に病院から出て暮らすことになった大山良子との共著連載(伊藤・大山[2013])がある。それにはこれから紹介していく単行本等ではわからないことも様々書かれている。勤め先の大学院生でもある伊藤がまとまったものを書いてくれると思ってこれまで五年ほどは待ったのだが、その人は仕事が忙しく、まだ期待はしているのだが、当面長いものを書くのは無理そうだ。
 そこで伊藤たちに現場に近いところは書いてもらいつつ、私の方でもいくらかのことはしようと思った。医学研究の類でない研究、歴史を扱った研究[…]がわずかにあるにはあるが、もっとずっと密度の高いものがたくさん書かれる必要がある。なぜかくも書かれていない部分が大きいかと思う。私としてひとまず簡単にできることをしておく。書かれ売られたものだけを使って書いて、両方を並べてみようと思う。」(立岩[2018:66])
 そこに付した註。
 「☆07 その内容がHP上に残っている学会報告として、伊藤・田中[2007]、伊藤[2008b]、大山・伊藤他[2009]。」(立岩[2018:179])
 もう一か所。本人が施設から出ることに家族が反対し、支援者の「そそのかし」が言われることを記しているところ。
 「例えば二八年後の千葉で。伊藤佳世子(66頁)は千葉の旧国立療養所の筋ジス病棟でアルバイトで働いて憤ったのがきっかけで大学院での研究と事業所他の活動を始めることになり、後者が忙しくなり前者をやめざるをえなかった――ので私が仕方なくこんなものを書いているところのある――人だが、実際に病棟から出るのを支援しつつ記述・分析する「アクションリサーチ」をしたことがあった。△303
 ▽R氏は長く療養生活を営んできていたために医療職、施設職員、家族以外との接点がない。病院以外の社会経験もない。[…]「医療者側には筋ジス患者は年齢相応の社会経験がないために、生活の諸問題への判断能力がないといわれていた。そのためか、彼女が病院を出ることを決めたときから、「あなたは騙されている」と病院のスタッフに毎日のように言われてきたという。
 かれこれ二〇数年前は同じ病院を出た人たちが何人かいた。兄もその一人であったし、[…]先駆者である高野岳志氏[…]は病院や両親と戦っての退院だった。その彼も同じように父親に判断能力がないといわれていた。/私たちがアクションリサーチを行ったときも、本人の思いの側に立っての支援であるにも関わらず、ご家族や医療側からこの点が非常に問題視されてきていた。病院から出ることは支援者の「そそのかし」であり、さらにその責任は当事者ではなく、支援者たちにあるという重たい空気の中、アクションリサーチが始まる。(伊藤[2009])」(立岩[2018:303-304])△
★17 葛城貞三は「滋賀県難病連絡協議会」の事務局長を長く務め、その組織の歴史について博士論文を書いて、それをもとにした著書『難病患者運動――「ひとりぼっちの難病者をつくらない」滋賀難病連の歴史』(葛城[2019])を刊行した――そこに私はその本を私がどう読むかについて書いた(立岩[20190125])。その組織は直接に介助を提供するといった性格の組織ではない。むろんその組織には独自の意義があり、だから葛城も関わり論文・本を書いたのだが、その過程で介助を提供する組織の必要性を感じ、事業所「もも」を始めることになった。
★18 白杉眞は、脳性まひの人で、大学院に入って京都に越してきて、自立生活センター(CIL)「スリーピース」(NPO法人)を始めた。スリーピースは私が講師を務めてきた研修の主催団体の一つでもある。白杉の論文として白杉[2012][2013][2018]。「相談支援」に予算がつかないために介助派遣の「あがり」でその活動を行わざるをえない実態(→181頁、第7章「相談支援」をまともにする」)が示されている。
立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙  なお、『生存学の企て』(立命館大学生存学研究センター編[2016])の「補章」第3節「穴があいているので埋める・塊を作る」に「ケア場」という項があり、そこに私の勤め先の研究科でケア・介助に関わる研究(や仕事)をしてきた人たちとその仕事を列挙している。人名だけを、そこであげた順にあげておく。なお同じ章・節には「福祉労働」という項もある。別途紹介する。
 長谷川唯山本晋輔西田美紀酒井美和安孝淑川口有美子白杉眞辻義宏伊藤佳世子、中西京子、小谷千明金野大仲口路子、杉島優子。
★19 横田弘(第5章「始まり1・「母よ!殺すな」」)と3度対談をして、その記録が本に収録されている。その3度目の対談――『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』(横田・立岩・臼井[2016])に収録――は、2007年12月のNHK教育テレビ「TVワイド ともに生きる」での私の発言もきっかけなったようで、その話題が出た。スタジオにたくさんの人がいて話すその生番組で、私はいらいらしていた。
 「いまどきテクノロジーとか進歩してるから、極端なことを言うとね、頭と口がちゃんと動けば、この世の中でだいたいやっていけるわけです。わりとね。いろいろありますけども。だけどそうじゃない障害者、頭と口、まあ口に代わるもんでいいんだけど、そういう人ってねやはり就職しようってなったときに雇ってくれるかっていったらやっぱり雇ってもらえませんよ、端的にね。
 それは、当然のあたりまえのあるいは仕方のないことなのかって考えた時に、怒っちゃいけないのかって考えた時に、僕は怒っていいことだと思う。」(横田・立岩[2008→2015]に引用)
 「頭と口がちゃんと動けば」のところに入部香代子(〜2013)が怒ったといったこともあったのが、それは誤解によるということで略。この私の発言は横に春山満(1956〜2014)という人がいたことにもよる。
 「その番組で、僕の隣に頭のよさそうな人がいて、たくさんしゃべってましたけど、そういう人なら、現代社会には、それこそいろいろな仕事があるから、頭が動いて口が達者だったら、自分の身体を使わなくてもいいようなポスト、たとえば、会社の社長とかなら、頭と口だけ動けば、あとは、部下にいろいろさせて、それはそれで、うまく行くわけです。
 […]そういう人もいますし、それは別にいいですよ、それはそれでけっこうだと思います。でも、やはり頭が動かなくて、口が達者でないという障害者も、沢山いるわけでしょう。ではそういう人が、現代社会において、差別されていないかということになったら、そんなことは全然ない。」(横田・立岩[2008→2015])
 この人は筋ジストロフィーの人で会社経営者。『いいわけするな!』(春山[1998]といった著書がある。著書一覧は立岩[20181220:文献表7]。この人のとうとうとした話に誰もつっこまなかったことにもいらいらしていたのだが、その人に通用することが誰にでも通用するわけではないことさえわかっていれば、いていけないわけではない。天畠(→次の註)もそうした経営者の一人だ。近年もこうした成功談、それを本にしたものはたくさんある。すこしも不思議なことではない。
★20 天畠大輔の博士論文は天畠[2019]、著書に天畠『声に出せない あ・か・さ・た・な』(天畠[2012])。日本学術振興会特別研究員(PD)。東京都武蔵野市で「Dai-job high」(株式会社、2019〜)を運営している。


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第5章・註
★01 こちらのサイトに、初版の文献表第2版に加えた文献の文献表第3版に加えた文献の文献表が掲載されており、そこから人や本のページにリンクされ、そこからさらにさまざまにリンクされている。
★02 著書・編書に『車椅子からの宣戦布告』(安積[1990])、『ピア・カウンセリングという名の戦略』(安積・野上編[2009])、『いのちに贈る超自立論』(安積[2010])、『自分がきらいなあなたへ』(安積[2019])。
★03 JCIL(→第4章「自立生活センター=CIL」)代表の矢吹文敏(1944〜)も骨形成不全。2021年2月2日に亡くなられた。矢吹の頁には訃報等も掲載した。著書に『ねじれた輪ゴム――山形編』(矢吹[2014])。共著書に『障害者運動のバトンをつなぐ――いま、あらためて地域で生きていくために』(尾上他[2016])。高橋慎一(立命館大学大学院を経てJCIL職員)による矢吹へのインタビュー「障害者運動とまちづくり運動の展開(1)――矢吹文敏氏(日本自立生活センター)に聞く」(矢吹[i2009])。
★04 宇宙との共著の本が『多様性のレッスン』(安積・安積[2019])。
★05 『生の技法 第3版』に新たに加えた第10章「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」で第2版以後に出版された本をいくらか紹介した。リンク・文献表への記載はこれから。
 「1 その後書かれたもの知ったこと
 初版から二二年、増補改訂版(第二版としよう)が出てからでも十七年が経った。その間のことについて書くなら本来は本一冊ではすまない。中途半端なのはわかっているが、それでも何もしないよりはよいと考え、すこし補足する。また私たちが調べたり書けたりしなかったところについて書かれた本、第二版後に出版された本人たちの本もある。それらを紹介するだけでも意味があると思う。いくつか紹介しながら、いくらかでもその後のこと、今確認したり考えたりしておくとよいと思うことを記す。なお本章は、本書全体の中でも筆者(立岩)個人の考えが強く出ている章であることをおことわりしておく。(以下第10・11章については、立岩の文章は著者名略。つまり立岩[12A]などと記さず、たんに[12A]とする――文献表では「立岩 真也 12A …」)。△499
 本書とくに第7章で記した一九七〇年代以降の、日本の「過激な」とされる日本の障害者運動を中心になって担ってきたのは脳性まひ等の重度の障害者だった☆02。これは脊髄損傷で車椅子という人(例えば英国の障害者運動の――障害学☆03の、でもある――リーダーたちの多くはそんな人たちだった)、韓国の運動――については鄭[12]――の初期を担ってきたポリオの人たちと比べても重い。言語障害の強い弱い、上肢を使える使えないでだいぶ変わってくるが、最も重いほうの人であれば、そうそう就労の場にも乗らない。そして長い時間誰かいなければならない。うっとうしくても「健常者」(関西の一部?では「健全者」)とつきあうことになる。
 するとその主張は、しかじかの社会的条件があれば働ける、納税者になれるといった――それが「ない」ことがすなわち人を障害者たらしめているのだとする(「(英国)障害学」における「社会モデル」の主張とはおおまかにはそうしたものだ)――肯定的な感じの主張とはいささか異なるものになる。この国で運動に参加した人たちも、環境があればできるようになることがあることは否定しないし、同じく、環境・条件が整えられるべきことを強く主張し行動するが、そう楽観的なこと(ばかり)は言わない。ひねくれている、と評してもよいが、しかし外れてはいない。人の意識のことに思いを致しても、この社会の基本的な仕組みのことを考えても、「解放」はそう簡単なことではない([07]――後出の横塚の本に書かせてもらった解説、他に[98B])。△500
 つまり、同じ時期に同じ言葉が使われるのではあり、同じく脱施設・脱家族の主張がなされるのではあるが、横須賀俊司が注意を喚起するように、まったく同じというわけではない。この社会・人間たちのより深いところから差別は発し、それに支配されていると捉え、相手を攻撃し、けんかをする。その頃「青い芝の会」(267頁)という組織があったのだが(今もある)☆04、その(ごく一部では有名な)「行動綱領」(338頁)には「我々は愛と正義を否定する」とあるのだが、それを聞いた米国の運動家は「???」だったという話がある。
 そしてその「糾弾」をするにしても、具体的にぶつかれるのは敵側の偉い人ではなく(そんな人はわざわざ出てこないから目の前にいない)、自分を「支援」するボランティアであったりした。そうして妙に仲がよかったり、ときに険悪だったりすることかあったりしながら、やってきた。そういう、暑苦しいといえば暑苦しく、しかしのんびりした部分もあって、ことは進んできた。この間のことを知れる本が出版されてきている。
 まず、運動に関わってきた人中心にではあるが、多様性を示す各人・各組織の様子は『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』(全国自立生活センター協議会編[2001])にある。そして、府中療育センターでの抗議運動(272頁)から始まり、東京都国立市に住むことになった三井絹子(一九四五〜)の『抵抗の証 私は人形じゃない』(三△501 井[06])、その兄でもありやはり同じセンターから北区に移り、介助保障要求の運動他を率いた一人である新田勲(一九四〇〜)の『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』(新田編[09])、そして『愛雪――ある全身性重度障害者のいのちの物語』(新田[2012])が刊行された――新田たちと「全国公的介護保障要求者組合」(379頁)については深田[09][13]。また、神奈川の青い芝の会の横田弘(一九三三〜)の対談集『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて』(横田他[2004]〔、そこに収録されている私との対談が横田[2002b]〕)、小山正義(一九三九〜)の『マイトレァ・カルナ――ある脳性マヒ者の軌跡』(小山[2005])が刊行された。なにより長く入手することのできなかった 横塚晃一(一九三五〜一九七八)の名著『母よ!殺すな』(一九七五年初版)が大幅に増補され、新版として再刊された(横塚[2007])。
 そして長野県大島村(現・松川町)で長く暮らしてきた(活動を停止してから長い、長野青い芝の会のメンバーでもあった)本多節子(一九三六〜)――ちなみに本多勝一はその兄で、青い芝の会のことについて文章を書いた(621頁)のもそれと関係があるはずだ――の『脳性マヒ、ただいま一人暮らし三〇年――女性障害者の生きる闘い』(本多[2005])が出ている。独立する暮らしを始めた先駆者として紹介した(489頁)沖縄の木村浩子(一九三七〜)は『おきなわ土の宿物語』(木村[1995])を出版した。「田舎」での活動・暮△502 らしが描かれる。そして埼玉県で長く活動してきた、まじめだがおもしろい『月刊わらじ』を出してきた「わらじの会」から『地域と障害――しがらみを編みなおす』(わらじの会[2010])。札幌で、一時期「札幌いちご会」(441頁)やそこが推進したケア付住宅(398頁)の設立にも関わった後、一人で暮らした鹿野靖明(一九五九〜二〇〇二)と彼のところにやってくるボランティアたちのことを書いた『こんな夜更けにバナナかよ――筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(渡辺一史[2003])。ちなみにここまで鹿野が筋ジストロフィーで他の人たち(以下では境屋が)は脳性まひ。
 本多・木村もだが、この「業界」はとくに一九八〇年代以降だろうか、女性たちが活躍する(cf.瀬山[2002])。第1章で約三〇年分を語っている安積(一九五六〜)はその後多くの著作を出している(安積[1999][2010])。ピアカウンセリングについての共著もある(安積・野上編[1999])。そして「町田ヒューマンネットワーク」で活動してきた樋口恵子(一九五一〜)の『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』(樋口[1998])。国立市でこれらの人たちと活動を共にしてきた境屋純子(一九五二〜)の本(境屋[1992])は第二版で紹介した(641頁)――他に篠原睦治が和光大学卒の「元障害学生」と語るという本で天野誠一郎とともに語っている(篠原編[2000:23-44])。
 そして、私たちが本書できちんと書けなかった――初版刊行の前には京都・大阪・神△503 戸に一回ずつ話をうかがいに行けたにすぎない――関西での動きについて。「態変」という劇団を結成し活動していく金満里(一九五三〜)の著作(金[1996])が出された。(加えると『私は女』(645頁)の新版も出ている(岸田・金編[1995])。)また研究者やジャーナリストによる本が出された。関西については「大阪青い芝の会」について定藤邦子の『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(定藤[2011])、その地で介助や運動に関わった「健全者」たちのグループについて『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(山下[2008])、とくに「兵庫青い芝の会」やそれに関わった人たちについて角岡伸彦『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』(角岡[2010])、兵庫で介助者として働きつつそれを研究してきた人の著書に前田拓也『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』(前田[2009])。京都で暮らしてきた李清美(一九五九〜)の『私はマイノリティあなたは?――難病をもつ「在日」自立「障害」者』(李[2009])、京都の「日本自立生活センター(JCIL)」(一九八五〜)で介助者として働きながら、介助者たちのネットワーク「かりん燈」でも活動している渡邉琢の『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』(渡邉[2011])。田中耕一郎の『障害者運動と価値形成――日英の比較から』(田中[2005])でとりあげられる全国障害者解放運動連絡会議(全障連)(280頁-)はもちろん△504 全国組織だが、関西での活動が盛んだった。これらの中身はその各々を読んでもらうほかないのだが(電子書籍版では関連ページにつながるようにする)、これらに書かれているのは、多様性であったり、すっきりいかないところ、混沌であったり、停滞であったりもする。それらの全部が起こってきたことであり、起こってきた全部の一部である。
 第7章でもそうしたことを書きたいとは思った。しかし表面をなぜるだけでもあの程度の分量は必要で、そしてなにより知らないことも多かったから、あれ以上は書けなかった。こうして、その不十分な部分を補ってくれる、その頃からの流れと現在を記述する著作が新たに出版されてきた。(ただ、当時私たちが参照したそう数は多くない著作のほとんどは――当時既にほぼそうだったのだが――絶版になっている。)
2 むろん身体障害に限ったことでないこと
 […]
 横塚・横田・青い芝の会に関する資料集として作成したものに『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』(立岩編[20160429])。その手前にあった出来事について『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』(立岩編[20150531])。おもに関西でのことについて『闘争と遡行・1――於:関西+』(立岩・定藤編[200509])。こうした資料集がもっとあるとよいと思っている。
★06 1970年について「一九七〇年」(立岩[19980201])。『弱くある自由へ』(現在は第2版、立岩[20200110])に収録されている)。
★07 「もらったものについて・1」(立岩[20071110])より。
 「一九七〇年の前後にいろいろなことが起こり始める。そして私はそうした動きの始まりから約十年分については直接にはまったく知らない。私は一九六〇年生まれで、田舎の小学生をし中学生をし、高校生をしていた。佐渡島に生まれて住んでいたのだ。ただ、社会全般の動きというか気分というかはそれなりに伝わり感じられてもいたと思う。そして私の場合、それはなにか「社会科学」的な知識としてやってきたのではなかった。社会学などという学問があることも知らなかったし、社会科学の本を読んだこともなかった。自由がなにより、管理はきらいといった気持ちは、むしろ音楽が支えていたと思う。大学闘争というものがあったことは聞いたことがある、その程度だった。東大・安田講堂に立て篭もった学生に機動隊が、云々はリアルタイムで見た記憶がない。ただ、その流れが高校に及び、制服がなくなった高校が県内にもある(新潟高校)とどこか新聞で読んで、それはよいことだと思った、といった記憶はある。学校のようにうっとおしいものではないものがよいと言った動きがあったというだけで、それはよいことだった。学校は、とんでもないと思われる教師もいて困ったものでもあり、また退屈でもあった。解放的なことはよいと思った。それは音楽がよいと思うのとつながっていた。
 読む本はたいがい小説だった。ただ、大熊一夫の『ルポ・精神病棟』は中学生の時に読んだ。調べると、この本は一九七三年に出ている。出てからそう何年も経っていなかったようだ。ただ、田舎の公民館の図書室の棚にあったのを読んだだけだから、そのことにも気がつかなかった。この本のもとは『朝日新聞』の連載記事だが、私の実家は、販売店の主人が知り合いだというただそれだけの理由で『毎日新聞』を私の生まれる前からずっととっていて、だから私はその連載のことは知らなかった。本を読んで、これはひどい、とんでもない、と思った。気持ちわるい感じが残った。それだけといえばそれだけだ。そして今調べたら、映画『カッコーの巣の上で』が一九七五年。見てはいないが、どんな話かは読んで知っていたと思う。そして水俣からむしろ旗を立ててやってきた人たちの映像は見て、残っているような気がする。そして、ソルジェニーツィンの『収容所群島』といった小説も読んだりした。日本の戦時下での抑圧等々も含め、私は、わりあい単純に肉体に加えられる苦痛に弱いところがある。人間がしてしまったり、なってしまったりすることの重さは感じたと思う。「反体制」の運動に共感する側に大きな衝撃を与えたとされる「浅間山荘事件」は、山荘への警察突入の実況中継他をテレビで見たが、衝撃が加わるような思想的な内実というものが私にはないのだから、格別にどうというものではなかった。人はやるときにはやってしまうものだということを、そのことによって特別に感じたのではないと思う。
 こうして私は、わりあい単純な、どんな時代にもいつでも一定の数いる、あるいは、すべての人がいくらかはそうである、管理や抑圧はきらいで、「近代文明」にいくらか懐疑的といった人間であったのだと思う。」
★08 この時期(まで)の人たちの多くは学校に行っていない。楠敏雄などを別にすれば、学生運動に直接に関わった人は少ない。ただ関係はあると述べている。「対談・1」(横田・立岩 真也[2002a]、横田・立岩・臼井[2016所収)で。
 「立岩: だけど、その時に横田さんたちは、そのことに対して抗議するわけですよね。それはどういう背景とか、文脈とかがあったんだろうと。で、予め私の考えを申し上げれば、一つは先程もでていた、小山さんの所に来ていた大仏さんの所のマハ・ラバ村のことが一つありますよね。それはやっぱり、特に神奈川の青い芝運動の一つの土壌みたいなものにはなったんだと思う。
 と同時に、七〇年あたりは社会全体が騒然とした時期ですよね。その当時の社会運動みたいなものと、青い芝の運動なり、七〇年以降の障害者運動っていうのは関係しているような気がしているんです。もちろん具体的に新左翼の党派が障害者運動に入ってくる、介入してくるっていうか、あるいはひきまわしにやってくるという部分もあるんだけれども、そういう党派の介人ってことだけじゃない、もっと大きな社会の変動というか、中にあったんじゃないかと。私はそう思うんだけども、まだ小学生でしたから、具体的にその時期を生きてきた、横田さんにとってそれはなんだったのかということ。
 横田: それは認めます。七〇年のあの当時、あの時でなかったならば青い芝の連動は、こんなに社会の皆から受け入れられなかったと思います。七〇年の学生さんの社会を変えていこうよと。社会を変えなければ僕たちは生きていけないと考えた、あの大きな流れがあったから、僕たちの言うことも社会の人たちが、ある程度受け入れようという気持ちがあったわけです。僕は七〇年から今まで同じことを言っているんだけど、近頃の社会はあまり僕の言うこと受け止めないの。」
 「そしてこの時期(以降)のことついて加えれば、やはりその本で山田さんが、上にいる人たちにでも誰にでも文句を言ってもよいのだという気持ちがあったことが大きかったと述べている。このことは、横田弘さんの対談集『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集』(現代書館、二〇〇四年)のために横田さんと対談した時、横田さんが私に話してくれたことでもある。横田さんが属していた(今も属している)当時の「青い芝の会神奈川県連合会」の活動と、学生運動との直接の関係はない。また横田さんは学校に行っていない(行けなかった)。ただ、その対談の中で、当時の「学生さん」たちの反抗が自分たちを勇気づけることはあったといったことを話している。もちろん反体制運動というものはもっと前からあったのだが、そこで想定されている敵は、国家とか、資本家とか、強大ではあるが比較的に狭い範囲のものだった。医者であるとか学者であるとか、そうした人たちが責められることはなかった。だが、この時、否定してはならないとされているもの、良いとされているものも疑ってよく、偉いとされているものにも反抗してよいのだということになった。」(「もらったものについて・4」◇、立岩[2009])
★09 いくつかの文章で「体制」の問題について、左翼運動と障害者運動の関係の仕方について述べてきた。以下の引用は大変長くなる。ご容赦ください。関心のある人がいるならまとめることも考える。
◇2010/02/20 「もらったものについて・4」『そよ風のように街に出よう』78:38-44,
□「「体制」
 こうして憤りや義侠心や反抗心があったのだが、同時にそこには、悲惨の理由を説明し、違うものを示し、その実現への道筋を示す、大きな理論・理屈もいろいろとあった。革命を起こし、体制を転覆させ、別のものに取り替えるという案があった。それはずいぶん前からあって、そしてその中にも様々なヴァージョンがあった。それが行き詰まっていた。というか、最初からそんな感じだった。おおまかには次のように言われている。その時の(その時も)「体制転覆」はうまくいかなかった。それどころか、「内ゲバ」と呼ばれる抗争が起き、陰惨なできごとも起こり、直接に参加していた人々のほとんども退き、多少の共感をもっていた人もそこから離れていった。それらのできごとについては、一部の「過激」な人たちによる愚かな行ないとして切って捨て、よりまともな「革新勢力」は依然だいじょうぶなのだと言われることもあった。ただ、もっと全般的な、世界的なできごととして、「ベルリンの壁の崩壊」であるとかしかじかがあって、それでいよいよ、そんな話は終わった。おしまい。こんな感じだ。
 それで、人々は、終わった話を、もう終わったのだから、しなくなる。すると、その後の人たちはそれを知らない。知らないことが前提になった上で、話がなされることになる。もちろん社会科の教科書にはなにがしかのことは書いてあるのだが、そこには、今述べたようなことが、もうすこし詳しく書いてあるだけだ。そして、たしかに位置づけにくいものである当時の「騒動」についてはほんのわずかふれられるという程度のことになる。
 そして当時の人たちで、不正なこと不当なことがあると思うからことを始めた人たちで、その後もそれをやめてしまうことのなかった人たちにしても、それを、「体制」「革命」といった言葉とともには語らなくなる。一つに、「地域」だとか「現場」の方に行くことになる。介護(介助)とか障害者運動に入っていった人にもそんな人たちがそこそこいる。そんなあたりと関係のある本として、かつて大阪に住んでいて今は千葉県の淑徳大学の教員をやっている山下幸子さんの『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(生活書院、二〇〇八年)がある。とくに本誌『そよ風のように街に出よう』の成り立ちにも関係する大阪の運動がとりあげられ、介護(介助)者・健全者の集団としてあった「グループ・ゴリラ」やそこに関わった人たちが出てくる。その人たちと障害者本人たちとの関わり、起こったこと、思ったことが書かれている。それはそれで意義あるもので、読んでもらいたい本なのだが、私の場合は東京でなのだが、そういう場にあった気分のようなものを末端の方ですこし感じていた私には、やはり、「体制」という枠組と、そこからの離脱という要素があったよなと思うところがある。幾人か、そんな人たちの顔を思い出すこともできる。
 まず、いくらか「体制」関係の運動に実際に関わった人もいる。それに肯定的なまま、しかし組織の方が衰退したりして、続けるにも続けようがなかったという人もいる。またそこで言われていることが空虚であると思ったり、自分でも演説などしたことはあるのだがわれながら空虚であると思って、気持ちも離れていく人たちがいる。多くの人たちはその後、普通に就職などする。「日常」に回帰していく。ただ中には、信条として、心情として、あるいは偶然のようなことで、あるいはそのすべてが絡み合って、そうはならなかった人たちがいる。また、派手にやっている人たちを横目に見ながら、あんなことをしてもだめだろうと思いつつ、気分としてはいくらかを共有し、「日常」に行くことにならなかった人たちがいる。しかしこれらの人たちも、飯は食わねばならず、金を得なければならない。
 いくらかの人たちは、いくらかはその思想・信条・心情に関わる部分を混ぜこんで給料・収入の得られる仕事をしていった。小学校や中学校、高等学校や大学の教員だった人、それを続けた人たちがいる。そして、医療や福祉関係の仕事、出版関係の仕事をする人、公務員、労働組合の専従職員等々。ただ、そこに乗らなかった人たちもいる。その中のある部分が、やがていくらかの金が出るようになった介護の仕事をして、とりあえず食いつなぐ。専従で仕事をするようになる。なんとか食べられるようになる、そして今は自立生活センターなどでそれなりの役を担っている、そんなことがある。
 そうした人たちにとって、「体制」はなかなかに微妙なものである。「武勇伝」を語る人もいる。あまりくどい話でなければ、私もそんな話をうかがうのは好きなので、うかがう。どこぞの空港――などと書いているとわからない人がいるので、「成田空港」――関係の仕事で――などと書いているとわからない人がいるので、農地を取り上げ空港にするのに反対する運動が長くなされてきた――どこぞに何か月か寝泊まりして云々、といった話であるとか。もう亡くなった方なのでよいと思うのだが、ビールを飲みながらの歓談の場で、日本赤軍がどうであったとか、銃がどこぞに隠してあるといった話をうかがったこともある。
 他方に、むしろ同時に、空論に対する空しさ、理屈に対する反感あるいは拒絶感もある。もともとの性格としてという人もかなりいると思うなのだが、寡黙で、黙々とたんたんと自分の仕事、例えば介護の仕事をする人がいる。何も考えてない人もいるし、何も考えないことにする人もいるし、考えているがそのことを言わない人もいる。すると、「当事者」がもっぱら語る、主張する、それに基本的には口をはさまない、支援に徹するという構図は、そうわるくないということでもある。
 そして、語る人書く人もいる。いるのだが、その人たちの中には、かつての「硬直した思想」を反省的に語り、「理屈やない、現場や」みたいなことを言う人がいる。例えば、精神医療業界・学界の改革に関わった人に小澤勲さんがいる。二〇〇八年に逝去された。当時の著書として『反精神医学への道標』(めるくまーる社、一九七四年)、編書として『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』(田畑書店、一九七五年)がある。また『自閉症とは何か』(悠久書房、一九八四年)という大著がある。これは二〇〇七年に洋泉社から復刊された。その小澤さんは、後に『認知症とは何か』(岩波新書、二〇〇五年)がよく売れて、その方面の人としてよく知られることになった。翌年の編書『ケアってなんだろう』(医学書院、二〇〇六年)で、「新進気鋭」の社会学者(私の同僚でもある)天田条介さんと対談をしているのだが、こんな感じだ。
 天田「ただ先生、いくつかの価値が同居しつづけるためにはそれなりの足場があるのかなと思うんです。」
 小澤「足場ねえ。わからないけど、やはり生涯、ずっと現場に居つづけたということでしょうかね。」(二〇三頁)
 そして他の箇所でも、かつての自分の「政治主義」が自省される。そして、山田真さんも基本おしゃべりなので、たくさん書いたりしゃべったりするのだが、『流儀』のインタビューでも、やはり「わりきれないこと」について、「寄り添う」ことについて語っている。
 しかし、では、「体制」の話はここで終わりになっているかというと、それもそうではないのだ。そうでないのに、流行らなくなってしまったのはよくないことだと思って、それで考えているようなところが私にはある。
 変わればよいと思った人たちがいた。そう思ったことの基本は間違っていないと私は思っている。ただ実際にうまくいかなかったのも事実ではある。そこをただ考えてどうなるものでもないということはわかっている。しかし、そんな当たり前のことはわかった上で、もうすこし考えて続けてみようと、もとの方から考えようと思ってきた。それでいくらか「前の世代」に対する不平不満のようなことも、幾度か、言ってきたのだ。始めたことを中途半端に放り出してしまった、それはよくない、だから仕方なくこちらが考えたりしなければならないというわけだ。
 それは、まったく新たに考えるということではなく、いまの引用で小澤さんが「足場ねえ」と言った、その「足場」を、なにかして言ってみることだったりすると思う。さきの『流儀』という本でも、私は、山田さんに、やはり山田さんたちが「体制」が問題だと言ったのは、基本、正しいはずだと言っている。そしてその足場を確認しながら、社会を構成する様々な部品について、部品の組み合わせについて考えることだと思っている。
 そしてこの時、障害者に関わる動きは、「大きな話」にうんざりしたところから始まっている部分もありながら、しかし、「国家」に関わり、「体制」を問題にせざるをえないところがある。まず、障害者が損をしているのはこの社会のもとでのことであることは直観され、間違いのないことだと思われる。そして社会運動に関わっていた人のある部分が障害者運動の方に流れてきたのも、このことが関わっていると思う。その人たち(のある部分)は革命を巡る理屈、空理空論を信じることはできなかったのだが、社会に対する憤り、不満は持っていたし、そこから行動も発しているのでもあった。この時、障害者に関わる運動、支援の活動等は、社会の不正と運動の正当性がはっきりしているように思われる。
 そこで始め、続ける。それは面倒なことでもある。他の社会運動であれば、それをやめても自分は本当は困らないというところがある。で実際にやめてしまうことにもなる。しかし、暮らしていくために、国家に要求したり拒否したりすることを、やめたくてもやめられないという部分がある。障害者絡みの運動は、その人たちが生きる限りはなくならないので、放棄ということにはなからなかった。そしてその国家との関係は、たんに拒否し、独立すればよいということでもない。正義感に発するものの多くで、反抗心からなされる運動の多くで、国家は敵として、拒絶の対象として現われる。勝ち負けは別として、構図は単純である。そして負けたらやめればよい。実際にやめられる。しかし、個々の人はともかくとして、障害者運動は、その総体としては、「体制」を、すくなくとも国家から逃れることができない。これが、前回、「嫌いだが別れられないということ」という見出しの箇所で述べたことである。生きるために受けとるものがあるとしよう。そして、いやいやながらであれ、積極的にであれ、「公的介護保障」を言うなら、それは国家の税を使って保障せよということである。すくなくともこの立場に立つのであれば、国家を否定できない。しかしそれは敵でもある。どうするか。ともかくつきあわねばならない。
 それは、いったん社会運動、国家に抗する運動をやった後に、そこから退いて、「普通の生活」に入っていったあるいは戻っていった人たちと違うところだ。その人たちは、普通に就職して仕事をすればそれで生きていけた。けれどもここではそうはいかない。国家との関係、社会との関係を考えていく、というか、作ったり、作ろうとしたりしていかなけばならない。ここが他の運動と違うところだ。やめたり、逃げたりできている分には、体制の問題は終わったなどとのんきなことも言っていられるかもしれない。しかしそんなことを言っている場合ではない人がいる。その運動は、自らがやっていることを、その都度言葉にしていくことはないかもしれないが、それを行ないで示しているから、それを私なら私なりに言葉にしていくことができる。まずそんなことがある。
 そして同時に、どこまで「国家」だとか大きなものとの関係でものが言えるのか、そして、どの程度のつきあいをするか。基本のところも問題にされる。これは、「障害学」でいうところの「社会モデル」がどのぐらい使えるのかという問題にも関わっている。そしてまたそれは「体制」の問題としてどこまでが捉えられるかという問題でもある。
 例えば「障害者差別」はどこから来るのか。「資本主義」とか「近代社会」とか言いたくなるところはある。そしてそれは、すくなくともかなりの程度、当たっているはずだ。職場で雇用しないのは企業であり、その企業が活動している市場である。しかし、そのもとを辿っていけば、結局は個々の人間がいるのではないか。たとえば横塚晃一の『母よ!殺すな』(すずさわ書店、一九七五年、増補版、一九八一年、すずさわ書店、新版、二〇〇七年、生活書院)を読んでみよう。すると差別は、この近代・現代社会、資本主義社会のゆえであると言われるとともに、ずっと差別はあって続いてきたのだと、それは人間の「性(さが)」のようなものだとも書いてある。となると、横塚はここできちんとものを言えていないのか。そうは思わない。ではどのように言うか。そんなことを考えることになる。(この本の終わりに「解説」を書かせてもらっているのだが、そこでこのことにすこしふれている。)
 そしてそれは、ここで念頭においている時期の社会運動にもう一つあった、「敵」でなく「自分(たち)」を責める、反省するという契機を考えることにもつながっていく。そのことについて、書けるなら、書くことにする。」
◇20100910 「もらったものについて・5」『そよ風のように街に出よう』79:38-44
□何をしようとするか+宣伝
 書かせていただくのもう五回目で、そしてまったく順不同というぐあいになってしまっている。ただ、こういうものでも読みたいという人がいくらかはいるようなので、そのうち整理しなおそうとは思っている。そこで以下繰り返しも多くなる。
 障害者運動(の歴史)のことについてはまだまだ少なくはあるが、それでもいくつか本が出されてきた。今度、私の勤め先の大学院で博士論文を出された定藤邦子さんのその論文は、関西の障害者運動、とくに「大阪青い芝の会」の運動・活動を記録したもので、知らないことがいろいろと書かれており、そしてなによりその運動とその歴史がおもしろいから、本にしてもらおうと思っている〔→本になった:『関西障害者運動の現代s史――大阪青い芝の会を中心に』(定藤[2011])〕。ただそういう障害者の運動を捉えるためにも、それが置かれた時代や社会について、いくらかのことを知っておいてもらう必要があるように思うところがある。そこで今までいくらか、遠慮がちに、「体制」とか「反体制」とかのことを書いてきた。それをさらにすこし広い範囲で書いてみようと思った。
 その前に、またそのために、一つ宣伝をさせてもらいます。今度、この八月に、理論社の「よりみちパン!セ」シリーズの一冊として『人間の条件――そんなものない』という本を出版させてもらった。このシリーズ、湯浅誠の『どんとこい、貧困!』とか、このごろ売れているらしい本では西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』 とか、もう五〇冊以上出ています。私のは一五〇〇円。これでも私がこれまで書いた本の中では一番安い本です。そして、中学生からすべての人にというシリーズだということで、小学校四年生以上の漢字にはみなふりがなが付いている。一〇〇%ORANGEの及川賢治さんのイラストがたくさん付いている。手にとって読んでいただけたらありがたいです。〔2018年に『人間の条件――そんなものない 増補新版』
 そこでは、だいたいは私が考えてきたこと、中でも「能力」について、「できる/できない」ことを巡って考えてきたことを、できるだけわかりやすく、そしてこれまで書いてないこともすこし加えて、書いた。そしてその中で、(障害者運動が関係した部分については)「詳しくはこの連載を見てね」みたいな言い方もしながら、なんで、そんなことを私が考えることになったのか、右往左往したりしながら結局どんなことを言うことになったのか、個人史というわけでもないのだが、一九七〇年代の終わりから八〇年代・九〇年代と大学生・大学院生などしながら、いくらか経験してきたこと、そしてそんなところから考えてきたことを書いた。ここのところはこれまでそのままのかたちでは書いたことのないところでもあり、そこそこにややこしいところでもあり、大人でも、人によってはすぐに腑に落ちるということにはならないかもしれない。しかし、そういうことも書いた方がよいように思った。
□さらに遡ったところから始める
 この『そよ風』がその一翼を担っている障害者運動が出てきたのは一九七〇年のころからということになっている。そしてその時期は、「大学闘争」とか「大学紛争」とか言われるものが起こっていた時期とほぼ重なる。そしてそんなことが起こったのはこの国に限ったことではない。その時期にベトナム戦争があって、それに対する反戦運動が、泥沼の戦争を続けていた米国他で起こった。日本にもあった。また日本では、水俣病をはじめとする公害・公害病の問題が――やはり日本だけではないが――ようやく知られるようになったということもあった。障害者の運動もそうしたものと無縁ではない。どのように無縁ではないのか。
 私は、その盛り上がったことになっている時よりは約一〇年遅れて大学に入った。その時代の直接の体験者ではない。私が二十世紀の偉人であると思う横塚晃一――「青い芝の会」の活動を担った人たちの一人――が亡くなったのは一九七七年だったが、その頃、まったく私はその人のこと、その人たちのことを知らなかった。ただ一九七九年に大学に入った時、大学の自治会で「養護学校義務化」反対の人たちと賛成の人たちが争っていた。その反対の側の人たちにいくらか関わることになって、そうして横塚や青い芝の会や「全障連(全国障害者解放運動連絡会議)」のことをすこし知るようになった。そうしてやがて、いつの頃か、横塚の著書『母よ!殺すな』を読んだ。初版は一九七五年に出ている。増補版が一九八一年に出ている(ともにすずさわ書店刊)。絶版・品切れになって長かったその本を、生活書院がこれまで収録されていなかった様々な文章・資料とともに二〇〇七年に再刊することになった時、私はその「解説」を書かせていただいたのだが(この部分はHPで読めます)、もちろん、当時、そんなことになるなどといったことはまったく思いもしなかった。
 その一〇遅れのその時期に私(たち)がどうだったかは、この連載の第2回(七六号・二〇〇八年)「就学闘争のこと」「学校について思っていたこと」「変革、は無理そうだったこと」「もう少し考えていようと思ったこと」にすこし書いた。そこでは、世の中ひっくり返そうみたいな話があったのだが、どうもそれは無理みたいということになり、それで、「撤退」ということになったこと、私は「それで終わりかよ」と思い、途中で投げ出した人を恨みながら、というか、「途中で放り出してしょうがねえ人だちな」と思いながら、じゃあ自分ならどうするのか、どうしたもんやら、すぐにわからないで、右往左往というような話を一つした。『人間の条件』にもそのことを少し書いた。
 で、障害者運動の側には、そういう「革命」とかいった場から降りたみたいな、いや降りてないみたいな人たちが一定流れてきたということがあったことを、前回・第4回(七八号・二〇〇九年)の「気持ち」「「体制」」にもやはりすこし書いた。そして障害者の運動について言えば、世の中を根本から変えるのは無理だから、もとの「日常」に戻ろう、元通りの社会で生きていこうというのではすまないというところがあったことを書いた。ほんとのところは変わらなくもたいして困らない人は、威勢のよいことを言っても、やめることができる。勤め人になればよいのだ。だが、このままの社会で生きていくのが難しい人は、そんなことは言っていられない。だから、さぼらないで、撤退してないで、考えたり、ものを言ったり、行動したりしなければならない(第3回の「嫌いだが別れられないということ」)。すると時には妥協するということもあるし、そのことを責められることもあるだろう。そのように責める人ももっともだが、それでも、そうすることもある。では、べったりと現実に追つていくのかといえばそうではない、そうはできない。そんな感じでやってきた。それは大切なことだと私は思って、そういう動きを知ったり考えたりすることから、とにかく投げ出さずに「地道に」考えていくことなんだよなっと思って、それから考えてきたことを書いた。
 まずおおざっぱにはそういうことがある。そしてこの件については、もう一つ、「反体制」の側の内部に対立があったという事情が関わっている(このことについても少し書いたのだが、いかにも中途半端だった)。それは日本共産党とそうでない部分との対立だった。後者は、以前あった社会党のある部分でもあった。また、そうでない「新左翼」とか「過激派」とか言われていた人たちもいた。とてもたくさんの数の「党派」があって、だいたいその人たちがかぶっているヘルメットの色とかマークとかで区別されていた。あるいは「全共闘」と名乗っていた人もいた。それは「党派」と関係があったりなかったり――ないことの方を強調する傾向があったが――した。関係がない人たちは「ノンセクト」などと言ったり自分たちで言われたりした。「ノンセクト・ラディカル」といった言葉もあった。
 そういうものがいったいなんであったか。そういうことを一切合財知らない人と、「過激派」の指名手配のポスターとかでなんかそういう人たちがいるらしいと思う人と、そういえばそういうこともあった、そんな時代があったなと思う人と、そういうことに関わったが忘れることにした人と、そんな人とじつはあまり変わらないこともあるのだが、なにか俺(たち)にも元気な時代があったと思う人といる。そしてそのおもに最後のグループの人たちのために、「懐古録」「武勇伝」みたいな本がけっこうたくさん出ている。ただそうしたもののほとんどには、障害者運動との関わりは出てこない。
 それは一つに、そういう本では、何色のヘルメットの人と何色のヘルメットの人が喧嘩してみたいなことが多く書かれ、そういう争いには、障害者のことはほとんど関係がないということもある。実際には、その「党派」のある部分は、その運動に関わってはいた。そして障害者の側も、他に人手がいない時には、たしかに頼りにせざるえない部分もあった。ただ、それはたいがいその「党派」の戦略・策略の中に位置づけられ、そしてそれらの中にはときに暴力的な対立関係にあった諸党派もあったから、それはけっこうはた迷惑なものだった。そこで、むしろ、障害者運動の方にしても、また一人ひとりの生活者にしても、そういう諸党派の影響力の排除に気を使うことになった。そしてそれにはけっこうな時間がかかったのだが、まあだいたいなんとかそれに成功してきた。この時期――その前からだし、その後もそうだったが――共産党や共産党系の組織は、それと主張を異にする部分、というか共産党に反対する人たち・集団を「極左冒険主義」「暴力集団」などと言って攻撃していた。そして障害者に関係する部分についても、そういう言い方、攻撃の仕方をしたのだが、それにはいくらか曲解という部分があった。むしろ運動側は諸党派の影響を排除しよう軽減しようと努めていたところがあったからだ。
 ただそのことは、共産党(系)の組織・人たちとそうでない人たちの間の主張の違い、対立が重要でなかったということではない。むしろ私は重要だったと思う。さきにけっこうこくさんあるというその当時を回顧した本たちには、たいがい「新左翼諸党派」の間の主導権争いだとか、衝突だとか、また警察の機動隊とやりあった話であるとか、そういう勇ましいというか血なまぐさい話が書いてあることが多いので、障害者運動の関係のことは出てこないのだが、それと別に、障害者運動、医療や福祉に関わる様々な批判的な運動、できごとについて、さきにも書いたように、私はかなり「遅れてきた」人なので、現場的にそう知っているわけではないのだが、けっこう共産党系とそうでない「左翼」の側との争いは大きな意味をもっている。そこのことにほんのすこしは触れてきたのだが、もうすこしちゃんと言っとかなければならないと考えた次第だ。
 ただ、そのことを含めて、いったい日本の障害者運動(の一部)がどんなものであったのか、あるものなのかを言うためには、さらに、遡ったところから言っておかなければならないようにも思った。そういうわけで、ますます順序が無茶苦茶になってしまう。すみません。
□「左翼」
 「左翼」という言葉が、なにか最初から人をばかにする言葉、こいつはばかである――というのは差別語なんでしょうか――ことを言おうとする言葉として使われたりもすることがあるようだ。そのようなことを言う人たちにまったく関心がないのでよくは知らないのだが、よいことであるとは思わない。私自身は、もちろん――これから書くように、言葉の使い方によるのだが――穏健な左翼といったところだと――穏健でない人たちはそう言ってくれないかもしれないのだが――思っている。だからというわけではないが、あまり馬鹿にしてはならないと思っている。
 で、「左翼」って何か。各種辞典でも、HPならウィキペディアでもなんでも見てください。その語源はフランス革命革命後の国民議会で議長席から見て左側の席を、革命の急進主義を支持する勢力が占めたことにあるそうだ。
 で、中身としては、それは何か。それにはいろいろな意味の込め方があると思う。ただその一つの大きな部分は、貧困とか、不平等とか、いまどきの言い方では大きな格差のある現実に対して、そうではない社会がよい、そうでない社会にしようというところにある。(では「右翼」はその反対の人たちなのか。必ずしもそんなことはないところがすこし複雑なのだが、それはここではよしとしよう。)
 それをどのように言うのか。一つにそれは、資本家と労働者との間の対立を重要な対立だと考えるものだった。そこでは「搾取」という言葉が使われた。(今ではこの言葉もあまり使われなくなっている。この言葉を全面的に捨ててよいかというとそうでもないと私は考えてもいるのだが、そのことは、やはりここでは、おいておくことにする。『人間の条件』他に少し出てくる。)それは、労働者たちが十分に働けているのに、実際に働き、たくさんを生産しているのに、そうして生産されたもののからたくさん資本家が取ってしまっている、ピンハネしている、だから労働者は貧乏なのだと、それはいけないのだと、だからこの資本主義をやめてしまえばよい、別のものに取り替えればよいというのである。もちろんそのことだけを言ってきたわけではない。取り分(賃金)のことだけでなく、働き方・働かせられ方も問題にされたりした。そのことにも関係して、では資本主義とは別のものとしてどんなものがよいのかについてはいろいろと考え方があった。
 その一つのしばらくわりあい主流だったのが、労働者(プロレタリアート)を代表・代理する国家が企業を所有し、生産を管理すればよいというものだった。で実際にそういうことにしてみた国々があった。その最初が今はもうなくなってしまったソビエト連邦(ソ連)だった。その後いくつかがそんなことをしてみた。さすがにそんなことぐらいなら、中学校の教科書にも書いてある(のではないか)と思う。そしてそれがうまくいかなかったことについては、たいがいの人が同意する。生産・流通・消費がうまくこといかなかった。また、権力を集中させたことで、資本家ではないがしかし特権的な人たちが出てきた。そこでの勢力争いもあったた。体制を変えてもまだ敵が残っているとか、そんな理由で迫害も行なわれた。そしてそれはたんに被害妄想だとか、権力闘争だとかというだけのことでもなかった。そういう体制を支持しない国々の方が多数派で、そうした国々に包囲されて、革命がなされた後の体制を弱め覆そうというという力は実際に働いていた。それは経済を苦しくさせることにもなった。
 それでそういう体制がおおむね崩壊したのだということになっている。だいたいのところは認めてよいと思う。私にしても、中学や高校の時に、ソルジェニーツィンという人の『収容所群島』などといった小説を読んだりして、まずこの世で一番気持ち悪いというか、ぐったりした気分になったのはそういうできごとだった。ただ、そういう「弱点」「犯罪」自体は、相当に以前から、日本であれば第二次大戦で負けてたらそう経ってない頃には知られていたことではあって、その上で、「左翼」であるままで、そんなことにならないようにどうしたらよいのかということもずいぶんたくさん考えられ、試みられてきた。例えば国が全部管理するというのではなくて、一つひとつの組織を労働者たちが自分たちで管理するようにしたらよいといった案(「自主管理型社会主義」)もあり、実際にやってみたところもあった。また、結局、かなりの部分については自営・私営を認めるといった「妥協」もなされるようになった。市場経済を導入しようということになった。それでも結局うまくいかなった、だからそれは、例外的な幾つかを除いて、それなら普通に市場経済・資本主義でやっていった方がよいのではと思えるようなところなど幾つかを除いて、終わったのだという話になる。それも認めてよいところはあると思う。
 けれどまず、そういう失敗・不具合は、結局もとの経済体制に戻すのがよい、それが一番、ということにはならないこと、それが一つ。(私がものを書いているのも、もちろん、そんなことがあってのことだ。最近のものでは、さきに紹介した中学生以上向けのと、『税を直す』『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』、二〇〇九年と二〇一〇年、ともに青土社)。そして、抑圧的な政治・経済体制を熱心に批判してきた左翼もずいぶん前からたくさんいたのであって、ばかな人たちがとことん壊れるまでばかな体制に疑問を持たなかったということもない。そして、代わりにどうしたらよいものかという問いは、まだなくなったとも言えない。まずここまでのことを言っておう。この四十年ほどの間に様々になされてきた「協働」の試み、例えば「共同運(差別とたたかう共同体全国連合)」(→NPO法人共同連)がやってきたこと、やろうとしてこともそうした試みのある部分だとも言える。(当方のHPに機関誌の目次とかあります。青木千帆子さんが作ってくれました。「生存学」で検索→「arsvi.com 内を検索→「共同連」とかで出てきます。ちなみに「共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告」という短文を、二〇〇五年に『共同連』一〇〇号記念号に載せてもらったことがあり、それは二〇〇六年・青土社刊の『希望について』に入っています。)
 ただここでは、すこし違うところから、もっと「根」のところから見ていきたいと思う。つまり、「働いているのに取り分が少ない」という言い方で、そこから話を始めてよかったのかということだ。それは、本当は仕事はできるし、実際にできているのだが、それに応じただけ報われていないという話だ。
 私は、わりあい最初から、この話には乗れないなと思っていて、むしろ今の方が、こういう言い方にもいくらか理があると思いなおしているぐらいだ。では、なぜ乗れないと思うのか。それは障害者のある部分にとっては当たり前のことだと思う。「働けない」人にとっては、働きの一部が取られている、その全部を取り戻そうといった話をされても、よいことはないということだ。もちろんしかじかの条件があれば働ける、十分に働けるという人がたくさんいるのもその通りのことで、だからそのための条件を整えるように要求することがなされてきたし、それは正しいことだと思うし、その成果があがってきた部分もある。それもよいことだと思う。しかしそれでもやはり、できないものはできない、こともある。いろいろとできるようにすることによって、できて受け取れるようになることになることもあるとして、しかしそれだけでは「浮かばれない」ものがあるということだ。
 もちろんいつの時代にも、不平不満はあったし、生活の困窮はあった。だから、とにかくなんとかしてくれという要求はあった。そして、その主張のもとのところに平等という理念はあったから、そういう要求は「左翼」「革新」からなされる。またそうした集まりには入らない人たちからも、なされる。憲法にだって「生存権」のことは書いてあるのだ。だから、もちろん、何も言われないわけではない。実際の政治を動かしているのは政権党だから、政権を動かしている政党にすり寄ろうということも当然出てくる。ただ、左翼も、そしてやはりもちろん左翼でない側の人たちにもしても働いて受け取るという図式が基本にある。私がここで言いたいのは、左翼の側にあった思想「にしても」、働いて受けとるという枠組み(から受け取りが少ないことを言う)を受け入れていた、だから基本的には「体制」の側に乗っているということなのである。そうすると、この枠組みに乗らない人たちは、仕方がないのだ、こんなに困っているのだと、大変なのだと、悲惨なのだと、自らからや、あるいは「親(自分)亡き後」の子のことを訴える。救済を求める。そうするとその一部の要求は受けいれられる、施設でも作ってあげましょうということにもなる。そしてその前に、とにかくできるようになれば今よりはよくなるのだから、その方向での実践がなされる。
 そういう枠組みを変える、少なくとも疑うことがなされるようになることをこれから見ていくのだが、ただ基本は、今でもそうは変わっていないということもできる。逆の順番でもう一度言えば、すこし、いくらか、変わってくる。そんなことに関係することが、これから述べる時期にもあった。例えば一九七四年三月、今までよりは広い範囲で労働運動をやった方がよいということになって、「国民春闘」ということなり、そこで障害者団体との共闘が始まる。障害者行動実行委員会(障害者団体、春闘共闘委等)が福祉要求で統一行動を行なう。このあたりの、乗るには乗るが、しかし信頼しきることはできないといった気持ちは、さきにあげた横塚の『母よ!殺すな』の中にも出てくる。そして結局、春闘共闘は賃上げ三万円、障害者一時金二千円で妥結し、批判される。やはり、問題はこの社会の基本的なところにあるということになる。
 私の場合、そんなことを思ったのは、べつに障害者運動のことを知ったからというわけではなかった。むしろ、どんな人でも、いろいろなことが、様々な度合いで、できたり/できなかったりする。とすると、この社会では、そのことに関わって損得が違ってくる。その意味では、ある人たちとは言葉の使い方が違うかもしれないが、すべての人が様々な場面でいくらかずつ、障害者であると言ってよい。そしてそのことは、その損得の度合いが、人によって人が置かれている社会のあり方によって著しく異なることを軽視してよいとかいうことではまったくない。もちろんその損得の度合いは、その人の能力によって、そしてどんな能力を社会がどの程度必要とするかによって大きくは変わってくる。だが、小さいにしても大きいにしても、その損得の差があることがよいとは思えなかった。そういうあたりが私の出発点になっている。そういう場から考える人にとって、そういう考えを自分のものにしていると思うのが、日本の――ととりあえず言うことにするが――さきに記した時期以降の障害者運動であり、そしてその当時に現れてきた社会運動だったと私は思った。直接に影響されてということではないと思う。ただ私と同じことを思っている人たちがいると私は思い、そしてそういう人たちのことを知ったり、やってきたことを調べてみようと思ったりしたのだ。
□やがて、という話もあるにはあったが
 するとなぜ、労働と労働者を基本に置いて前面に出して闘い、その立場から別のものを作ろうとしてきた運動と別のものが、同じ「左翼」から出てきたのかということになる。
 ただ、その前に、「労働者の王国」という方向の発想とは別に、というか同時に、それとはいくらか違う、というよりずいぶん違う社会像が、同じ運動の中にあったこと、同じ人にあったことは言っておかないと公平ではない。
 カール・マルクス(一八一八年〜一八八三年)という人がドイツに、イギリスにも住んでいたが、いた。私は今までにたぶん一回だけその人の書いたものにふれたことがある。『自由の平等』(二〇〇四、岩波書店)という本でだった。それは「ゴータ綱領批判」(一九八五年)という文書だった。と書いて、その自分の本を見たら、そうではなかった。たしかに註でその文書のことは出てくるのだが、そこではその内容を直接に紹介していない。
 ただそれと別のところの本文に、私の文章として「人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行う。人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行う。」というところがある。「ゴータ綱領批判」にある文章はそれとはすこし違うのだが、だいたいそんなことが書いてもある。
 それは、労働者が働いたものをほんとは全部受けとってよいのだという主張とは別の方向のものであることはわかってもらえるだろう。ではなぜ、そんな違う趣向の話が、同じ人の中にあったのか。私はその人の専門家でもないでもないので、よくは知らない。ただ、その人自身の話の中で、あるいはその後のその人の話の解釈として、最初は、まず「労働者の王国」を打ち立てるのだと、そのために企業だとかそんなものをみな、労働者を代表し代理する国家・政府が接収し、運営する。そうやってやっていくと、だんだんと生産も増えていくし、人々の意識も変わっていく。すると、やがて、「働く人は働く、受けとりたい人は受けとる」という社会ができる。そんな筋になっていた。そして前者の、第一段階が「社会主義」の社会であり、後者の、その次の段階の社会が「共産主義」の社会である、だいたいそんな粗筋になっていたと思う。
 するとまず、その先の社会を夢見ながらも、まずは第一段階を、ということになる。マルクス主義という思想・主張は、いろいろな面をもっているが、だいたいはそんな感じだった。だから、理想・夢想と、その前にやっておくべき戦いの主張・戦術とが両方ある、そんな感じになっていた。
 となると――おおかれすくなかれみながそうだとは言ったが、しかしそのおおかれすくなかれの度合いはずいぶん大きくもある――障害者たちにとっては、それまで待っていなさいということになる。それで納得した人というのがいたのかどうか。いたのかもしれない。しかし、なんでやがてそうなるのだろう。やはりそこはわからない。わからないので、私には現実味のないことだと思えた。
 そしてそんなことを私が思っていたその手前の時代に、「左翼」ではあるのだが、労働・労働者を、生産・生産者を前面に出すことをためらう、別のことを言おうとする人たちが現れた。それがさっき述べた、一九七〇年の前後のことだった。続く。」
◇2011/01/25 「もらったものについて・6」『そよ風のように街に出よう』80:-
□「左翼」の間の対立のこと
 昔話をしているのだが、わりと個人的なことを書き始めて、そうしたら、それだけではやはりいけない、というかわからないだろうなと思って、「時代」とか「状況」とかに中途半端に触れることになり、完全に筋立てがごちゃごちゃにというか、なくなってしまっていて、すみません。そのうちまとめなおして、本の一部にするなりしますので、かんべんしてください。
 日本共産党やその系列の組織・人――それに冷たい人たちは「日共」という言葉を使ったり、その政党の本部がある場所をとって「代々木(系)」等と呼ばれてもきたが、以下「α」とする――と、その主張と別のことを言った人たち、反対した人たち――「反代々木(系)」ということにもなるが、以下「β」とする――がいたことに、何回かふれてきた。その話をすこししておこうと思う。
 α・対・β全般については長々とした歴史があるのだが、私はそう知っているわけでもない。そしてその方面についてはマニアな人たちがけっこういて、たくさん出版されたものもあるから、障害者の運動に関係するところで、まず名前だけ挙げておく。
 一方のαの方では、まず「全国障害者問題研究会(全障研)」(一九六八〜、そのHPによれば会員数は五千名)がある。こちらが研究会を称しているのに対し、運動団体であることを明示し実際そうした活動をしている団体として「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)」(一九六七〜)がある。そして各地にありその数を増やしてきた作業所のかなりを会員組織とする「共同作業所全国連絡会(共作連)」(一九七七〜、現在の名称は「きょうされん」)がある。「共作連」などについては、とくに加盟している個々の作業所やそこにいる人たちはその「党派性」を意識していない、というか知らないということもあるだろう。それを切り盛りしている人たちも否定するのかもしれない。それはそれでもかまわないが、人的にその他、つながりがあってきたのは事実ではある。例えば『障害者の人権二〇の課題』(障全協・共作連・全障研編、一九九二)といった本が全国障害者問題研究会出版部(全障研出版部)から出版されるなどしている。
 他方、β、そうした組織の方針と別の流れの主張をすることになった組織として、脳性まひ者の組織である「青い芝の会」(一九五七年結成だが、前段に記した団体と対立する主張を展開するのは一九七〇年以降)が知られている。この組織は、その構成員の多くの出自もあって――大学など出ている人はきわめてわずかだった――学生運動との直接のつながりはなかったし、また一九七〇年代以降においても、基本的に新左翼系も含め政治組織の介入に対しては警戒的だったが、運動を展開する過程で、共産党やそれに近い組織との差異・対立が明らかになっていった。他方、当初から共産党系の――とみなした――人たちとの対立をはっきりさせていたのは、いくつかの(一時期の)学会(の運営を左右していた部分――後述する)であり、また「全障研」との対決姿勢を明示して登場したのはe「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」(一九七六〜)だった。この団体はとくに「障害児教育」の方向を巡り、「養護学校義務化」(一九七九年実施)を巡って、それを基本的に支持した「全障研」を批判することに精を出した。また「障害児を普通学校へ全国連絡会」(一九八一〜)も義務化反対の運動を継承した。そして、「共作連」と比べればはるかに小さな組織ではあるが、それと違う労働の場のあり方を求めて「差別とたたかう共同体全国連合(共同連)」(現在は「(NPO)共同連」)が一九八四年に結成される。そして本誌『そよ風のように街に出よう』(一九七九年発刊)も、そして『季刊福祉労働』(現代書館、一九七八年発刊)も、そういう流れの中にある。
□なぜそんなことを今さら言うか
 本誌にしても、当初からの作り方として、そんな争いを前面に出すことは――そのことの意義はそれとして認めてきたと思うけれど――なかったと思う。そこで、対立のことは知った上でこの雑誌の「乗り」を支持する人もいるのだが(私もその一人だ)、そんな人は少なくなっているのかもしれず、知らない、あるいはちょっと聞いたことがあるという人の方が多いのかもしれない。そしてここで紹介した組織が多数派の組織であるというわけではまったくない。会員等の規模からいえば、前政権の時にはその政権を支持する組織でもあった「日本身体障害者団体連合会(日身連)」がある。また知的障害者の家族(親)の組織として「全日本手をつなぐ育成会」(一九五二年に「精神薄弱児育成会(手をつなぐ親の会)」として発足、以後名称を幾度か)があり、精神障害者の家族の組織として一九六五年に結成され、二〇〇七年に破産・解散した「全国精神障害者家族会連合会(全家連)」があった。そんなものも含め、過去から現在、いろいろなことがあったわけで、その全部を追っかけて書いていたら、時間がどれだけあっても足りないし、紙もたくさんいる。そして現在、運動体の陣容もいくらか変わってきている。なぜわざわざ、と思うかもしれないし、私自身もそう感じるところはある。そして、ともかくαの人たちが真面目な人たちであることは、不真面目な私がよく感じることであって、様々に尊敬できる部分があるとも思っている。「民医連」というその系列の病院の「倫理委員」というものを務めてさせていただいたこともあり、その時にもそのことは感じた。両方の意見が一致するところも多々あると思うし、いっしょにやれる部分はやって行ったらよいと思う。そういう意味でも、ことさらに差異や対立を強調したいとは思わない。
 けれども、それでも、いちおう押さえておいた方がよいと思う。それなりに注目すべきところがあると考えるからだ。
 αとβとが対立したのだが、その両方が「左派」であった。ここがまずここでのポイントである。政治的な対立は、普通には、というか伝統的には、「右」と「左」の対立ということになるはずなのだが、ここではそういう構図になっていない。もちろん、アメリカ合衆国のように左翼(政党)自体がつぶされてしまったような国は別として、「左翼」における対立は日本に限って起こってきたことではない。「既存」の左翼(政党)に対して、「新左翼」とか「極左」と呼ばれるような動きはいろいろな国に存在してきた。それらにはそれぞれの国の事情があり特色があったと思うのだが、ただ、障害者に関わる運動にこの対立の構図が関わったのは――各国の事情をよく知らないままで言うのだが――日本に特徴的なことではないかと思う。
 仮にそうだとして、それでもたんに珍しいということであれば、それはそれだけのことだ。私はそうでもないのではないかと考えている。というのは、厳しい対立が起こると、片方は片方と違うことを言うことになる。そして片方が、改革的であるなら、もう片方は「もっと」ということになる。よってそれは「あぶない」「あやうい」話をしてしまうかもしれない。しかしだからおもしろいかもしれない。実際そのように捉えることができるように思えるところがある。
 一九七〇年代(以降)にあった実際の大きな「争点」は、幾度か触れてきたように、養護学校の義務化を巡る賛否だった――αの人たちは賛成し、βの人たちは反対した――から、βの人たちが相手にしたのは、「障害者問題」の全般に関わりながらも、「療育」「教育」に関わる研究者や教員や施設の職員や親たちが多くいて――加えて「本人」たちもたくさん参加していることも強調された――「発達保障」を掲げる「全国障害者問題研究会(全障研)」であり、その運動・主張を担う人たち、代表的な人物としては田中昌人(一九三二〜二〇〇五、京都大学名誉教授)や清水寛(一九三六〜、埼玉大学名誉教授)といった人たちだった。そしてこの人たちの著書等を、βの側の人たち、後述の「学会改革」の一翼を担った日本臨床心理学会にも所属してその改革に関わった(そして後にそこから別れて社会臨床学会を立ち上げた人たちの一人でもある)篠原睦治(一九三八〜)や、小児科医(東大病院→靜岡大学)の石川憲彦(一九四六〜)が取り上げ検討し批判するといったことがなされた。
 それでまず私(たち)が勉強させてもらったのはその人たちが書いたものだった。本では、例えば篠原の『「障害児の教育権」思想批判――関係の創造か、発達の保障か』(一九八六、現代書館)や石川憲彦の『治療という幻想――障害の治療からみえること』(一九八八、現代書館)がある。後者の本は一九八二年から八七年まで『季刊福祉労働』に連載された「「障害」と治療」がもとになっている。それより前には山下恒男の『反発達論』(一九七七、現代書館)といった本が出されている。他に日本臨床心理学会編の本が何冊か、等。それらに書かれてあったことは、当時それらを読んだ私たちのかなり「根」の部分に影響していると思う。それらを、そしてその時には私は読まなかったαの側の議論――不勉強で、というか、あまり勉強する気になれず、βの側の人たちによるαの側の主張の紹介を読んだだけだった――を振り返るとよいのかもしれない。ただ、今私がすこし過去のものを読んでみたりしているのは、その隣にはあったが、すこし違う部分もある流れだ。それは障害者運動における対立の少し前に始まっている。以下そちらの方について。
□リハビリテーション・精神医療
 青土社という出版社から出ている『現代思想』という月刊誌に、ずっと連載をさせてもらっていて、しばらくここに書くことに関係することを書いている。その十一月号と、今朝(十一月十五日)原稿を送った十二月号の掲載分(第六〇回・第六一回)が、「社会派の行き先」の1・2ということになっていて、まだ終わっていない。さらに、その前の3月分は「社会モデル」という題で、序・1・2となっている。何が気になってながながと書いているのか。
 「身体をなおす」のではなく「社会を変える」という主張がある。障害者運動のある部分はそういうことを言ってきたように思う。またその流れを汲む「障害学」で言われる(「個人モデル」や「医療モデル」に対比される)「社会モデル」もそんなことを言っているように思う。ただ、それらにしても実際にはそうはっきりそう言っている(言えている)わけではなく、それを言い通せるだろうかという気がする。それに対して、個人も社会も、医療も社会も、どちらも大切だと言う人がいる。そして常識的に考えるとそちらの方に分がある感じがする。
 そして、「どちらも」と言った人たちの中に、その連載でわりあい長々と取り上げている人としては上田敏(一九三二〜、東京大学附属病院リハビリテーション部の立ち上げに関わる、一九五九年に東京大学医学部教授)という人がいる。日本のリハビリテーション(医学)の世界では最も知られている人だと思う。またすこしだけその文章を引用した人として精神科医の臺弘(台弘・うてなひろし、一九一三〜)という人がいる。またその前に臺の前任者ということになる秋元波留夫(一九〇六〜二〇〇七)という人がいる。これらの人々は共著書を幾つも出すなど、互いに付き合いがあった。そしてその人たちは党派色をあまり前面に押し出してきた人たちではないのだが、これから記すα系――と言うと乱暴だと言う人もいるのだろうが――の組織、「共作連」等の活動に協力したりもしている。
 そして――障害者運動におけるということではないのだが――αとβの争いが一つの軸としてあった、一九六〇年代の末以降の「大学闘争」(あるいは「大学紛争」)の発端(の一つ)は東京大学の医学部での出来事で、これらの人々は直接・間接に、そのこと、それらの後のことに関係している(させられている)。この時秋元は既に大学を辞めている(一九五八〜一九六六・東京大学医学部教授)のだが、その後任の臺(一九六六〜東京大学医学部教授)は、闘争・紛争を始めて続けたβ側からの批判にされされることになった。一九六八年には主任教授不信任を告げられる。一九七一年三月には、二〇年前のロボトミー手術が人体実験だったと告発される。そしてそうしたことはその大学の中のことでもあったが、それだけでもなかった。日本精神神経学会の「学会改革」で、それまで中心にいた人達が、例えば――多くの人にその名が知られたのは岩波新書の『痴呆を生きるということ』(二〇〇三)といった著作によってだが、この頃には『反精神医学への道標』(一九七四、めるくまーる社)といった本を書いていて、その後には『自閉症とは何か』(一九八四、悠久書房、二〇〇七年に洋泉社から再刊)といった大著がある――小澤勲(一九三八〜二〇〇八)といった人たち、組織としては「青年医師連合(青医連)」によって――糾弾され、学会の要職を追われることにもなる。
 ちなみに、この時に東大医学部にいて、その騒動に(βの側で)加わった人としては、小児科医で、後に「障害児を普通学校へ全国連絡会」(一九八一〜)の活動などに関わる山田真(一九四一〜)がいる。その時期(以降)のことは『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』(二〇〇五、ジャパンマシニスト社)に書かれている。加えて、私が山田(とアフリカ日本協議会の稲場雅紀)に聞いたインタビューにたいへん長い註をつけた『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(二〇〇八、生活書院)があって、おもしろい(わりに売れてないので、買っていただければと)。またその同級生(だといったことはずいぶん後で知ったが)、脳死・臓器移植の問題などで発言を続けている本田勝紀(一九四〇〜)等がいる。山田は町医者になり、本田(彼の専門は腎臓病〜人工透析)は大学病院に残る。精神科の方の「東大青医連」(一九六八〜)の人たちは、「赤レンガ病棟」と呼ばれていたところを「占拠」し「自主管理」を、おおいなる非難を受けつつ――サンケイ新聞が批判キャンペーンを張ったり、国会で取り上げられたりした――続けていくことになる。そしてもちろん、βから糾弾された人たちも健在であり続け、しばらくそこは二派に分かれるといった状況が続いていくことになる。
 私が大学生をやっていた頃(一九八〇年代の初め)にも、まだその臺は悪いことをした人として、β側の人たち――全学的には少数派だったが、私がいたそのころの文学部の自治会(学友会と言った)はそっち系だった――の話に出てきたり、立て看板に名前が登場していて、それで名前を知ってはいた。ただ書いたものを読んだ記憶はない。その批判に対する臺自身の反論が書かれている自伝『誰が風を見たか――ある精神科医の生涯』(一九九三、星和書店)を手にとったのは昨年になってからのことだ。
 その「赤レンガ」には印刷機もあったので、ビラの印刷などで使わせてもらった記憶もある。古くて暗いかんじの建物だった。精神医療批判とか言っているわりに普通の病院じゃないかという指摘もあって、少なくともいくらかはそのとおりと認めざるをえないところもあったと思う。占拠した側の人が書いたものとしては富田三樹生『東大病院精神科病棟の三〇年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』(二〇〇〇、青弓社)がある。先に記したもの以外に秋山や臺が、他方を批判している本もあるのだが、紹介していったらきりがない。当方のHP(「生存学」→例えば「精神医学医療批判/反精神医学」あるいは人名)を見ていたただくと幾つか出てくる。そしてなんだかかわいいというか、不思議にも思われるのは、『東京大学精神医学教室一二〇年』(「東京大学精神医学教室一二〇年」編集委員会編、二〇〇七、新興医学出版社)といった本には、双方の人たちが、仲良く、ということでもないのだろうが、文章を寄せていたりすることである。
□折衷の方がもっともではないか、と思われるのだが
 さて、こうして話は、始めると流れ流れてしまうのではある。ただ、ここに先に述べた問題、つまり「なおすことってどう?」という問いがあることは見ておこう。実際には、医師の労働条件のことであるとか、そうしたことが大きく取り上げられていた。むしろαの側の人たちが、βの側の人たちは医療そのものを否定していてとんでもないといったことを言うのだが、実際には、そんな勇ましいことあるいは野蛮なことをβの側の人たちは言っていないし言えていない。ただ、精神神経学会が「保安処分」に明確に反対する姿勢を示したのは一九七一年になってからであることは記しておいてよいことのように思う。つまり、それを「治療」と言うか「処分」と言うかは別として、人に対する「介入」が誰のために、何のためになされるのかということがここで問題にされているということではあった。
 そしてこの時期の大学闘争(紛争)、学会改革といった動きにも呼応して、精神障害者自身の組織として――以前からあった(そして破産・解散ということで、なくなってしまった)家族会の連合体としての「全国精神障害者家族会連合会(全家連)」といった組織よりはるかに小さな組織ではあるが――「全国「精神病」者集団」(一九七四〜)等が活動を始めていく。それは本人たちの組織なのだから、医師の身分保障といったことは第一義的な問題にはなりえない。保安処分反対闘争、赤堀闘争――幼女殺害の犯人として赤堀政夫が一九五四年に逮捕され一九六〇年に死刑が確定した島田事件について、無実を訴え続けた赤堀を支援した運動(一九八九年に無罪確定)――等を展開するともに、自分たちの「病気」のことをどう考えたらよいのかを考え、ときに精神神経学会や、あるいは同様に「改革」をこの時期に始めた日本臨床心理学会の大会等に参加し――ものを言っていくことになる。その「「病」者集団」の会員であった吉田おさみ(一九三一〜一九八四)が言ったこと書いたことはとても大切なことだと私は思って、以前幾度かそのことに触れたことがある。
 こうした流れの中で、先に列挙した秋元・臺・上田といった人たちの流れが批判されたりした。そしてここで繰り返すが、見ておかねばならないのは、その人たち自身が「改革派」であり「社会派」であったということだ。
 具体的にどのようなことを言っているのかについては、その『現代思想』での連載と、やはり当方のホームページにある人や本についてのページを見ていただくのがよいのだが、その人たちは、かなり早くから、「地域」とか「QOL(生活の質)」とか「自己決定」とかそういうものが大切であると言っている。そして秋元や上田は、日本ではかなり早くから「自立生活運動」のことを――ただしアメリカで起こったとし、日本で起こったことはその流れを受けたものであるとし、それ以前に日本にあったことについてはまったく触れないか、あるいは「過激な」「暴力的な」運動として除外してしまうのではあり、それは違うだろうと思って私たちは『生の技法』(安積純子他、一九九〇、増補改訂版一九九五、藤原書店)を書いたのではあるが――肯定的に、紹介している。また上田はDPI(障害者インターナショナル)がRI(リハビリテーション・インターナショナル)のリハビリテーションの定義に対抗して示したリハビリテーションの定義を、やはり肯定的に、紹介してもいる。
 そしてその上で、(狭義の)リハビリテーション・医療と社会的な対応のいずれもが必要であると、双方が協力し協調しあっていくことが必要であると言う。現状の様々に対して批判的であり、「社会」が大切であることを認め、強調し、その上で、自らの営みもまた大切であると、「折衷」を言う。以下は――『現代思想』連載でも同じ場所を引用したのだが――「人体実験」を糾弾された臺の著書『精神医学の思想――医療の方法を求めて』(一九七二、筑摩書房)の「あとがき」の冒頭。
 「この本は東大紛争の経過を通じて、特にまた長期間にわたって続けられている精神科医内部の意見の対立の背景のもとに書かれた。精神医療における個人と社会、精神の健康と病気、治療や研究における精神主義と生物主義などの諸問題が、どれも造反は結びついて激しく揺れ動いた。私はこの本を読者のために書きながら、同時にたえず自分自身のために書いている思いがした。
 本書の内容からおわかりのように、私は揺れ動く対立的意見の中ではっきりと折衷主義的な立場をとる。私のいう折衷とは、どちらも結構ですというようなあいまいな態度ではない。対立的意見を越えて、精神医学はまず科学でなければならないことを主張しながら、それが患者のために生かされることを求めるのである。精神医学と医療は一筋縄では取り組めぬ相手である。いや、一筋縄であってはならないのだ。私は、精神主義をふりかざす相手には生物主義を、個人至上主義を主張する相手には社会を説き、生物主義をふりかざす相手には精神主義を、社会優先を説く相手には個人の尊重を主張せずにいられない。また、精神医学と精神医療のかかえている問題は、精神科医がひとりで引受けることなど出来るものではない。医療・保健・福祉の当事者はもちろん、社会全体で取組まなければ到底解決出来ないことである。」(二六三頁)
 すこし考えながら読むと、「精神主義」対「生物主義」といった幾つかの対の各項目の対置・対置のされ方が妙なのではある。けれども、言いたいその感じは伝わってはくる。二つがあるとして、どちらも大切だと言うのである。そして、そこで念頭に置かれているのは、その一つを否定し切り捨てようとする――そうして自分たちを攻撃してくる――「極端な」思想・主張である。
 それらを読むと、この人たちが言っていることはもっともであるようにも思われる。すると、αとβの対立は、常識的で穏当だが、であるがゆえにもっともなことを言った側がいて(α)、それでもそれを否定しようとしたがゆえに二つあるうちの片方の方に突っ走って行ってしまった側(β)との対立のようにも見えてくる。
 さてそういう理解でよいのかである。言えると思っている結論から言うと、私は、そうは思っていない。βの側はもっとまともなことを言ったと思っている。それをどのように言ったらよいか。それを考えて言うことが、私がその人たちからもらったものを引き継いでいくことなのだと考えている。α(の少なくともある部分)が言ったことはもっともだといったん言った上で、しかし、と今度は言い返す。それを『現代思想』では二〇一〇年十二月号の「社会派の行き先・2」の途中から始めたつもりだ。またそのことを言うための基本的な道具立てを同誌同年九月号・十月号の「「社会モデル」・1〜2」で示したつもりだ。興味があったら見ていただけばと思う。またこのすっかりぐちゃぐちゃになっているこの「連載」で、短くまとめたり、言葉を補ったりできるのであれば、したいと思う。
◇20120125 「もらったものについて・8」『そよ風のように街に出よう』82:36-40
□一九六〇年から七〇年代についてのものすごく乱暴な要約
 前回は震災の関係について少しこちらの活動を紹介した。そう活発にというわけにもいかないのだが、ぼつぼつとやれることを続けてはいる。HPで「生存学」→「東日本大震災」に載せているので、ご覧ください。
 そんなこんなで、行ったり来たりで、書いている本人が自分が書いていることを(どこまでのことを書いたかを)なかば忘れしまっていて、さっきざっとこれまでの見出しなど辿ってみた。そしたら、一つ書いてあることは、「左翼」の運動が、もっと言えばその「左翼」のなかでの対立が、この国の障害運動にけっこう大きな影響を与えているということだった――私が知る限り、そんなことは他の国々には起こらなかったことではないかと思う。そして、その対立は、時には泥仕合のようなところもなくはなかったのだが、それだけのことではなく、すくなくともいくらかの意味があったと私は考えているし、それを引き継いで考えることが私(たち)の仕事であるとも思っている。そういうことを言いたくて、昔話のようなこともしたりしてみたのだ。ということで今回は、既に書いたことも多いのだが、半年とか一年も立てば、人はたいがいのことを忘れるからということで、重複を気にしないことにして、すこし「復習」することにしよう。
 まず、日本では、ちゃんとした左翼は共産党に、という時代があった。ただ、(もうとっくになくなってしまった)ソ連、とくにスターリン(の体制)がとんでもであるといった話はかなり前から伝わっていたし、そこらから発せられる、ころころ変わり、またそれではうまくいくはずないと思われる「指令」には従えないという人たちが出てきて、その人は「党」から除名されたりして、いろんな方向に行くのだが、一部は「新左翼」とか(「党」からは「トロツキスト」などと)呼ばれる集団の形成に向かう。
 一九六〇年の安保(日米安全保障条約)反対の時、反対した人たちはとても多様だったが、その中には、こうして共産党から離れた左翼の人たちがおり、そこには「共産主義者同盟(ブント)」たちの一群もいた(「安保ブント」などとも呼ばれる)。結局安保条約は自然承認ということになり、一時期盛り上がった運動は急速に退潮に向かう。ただ、あきらめの悪い人たちはいたわけで、そんな人たちは「次」を狙っていたということがある。そして、その間、様々な「党派」が現われ、並存することになった。そしてそういう人たち(一九六〇年に学生として参加した人たちはだいたい一九三〇年代、そして四〇年代の頭あたりに生まれた人たちだった)とはすこし離れて、いわゆる「団塊の世代」の人たち(戦後、一九四〇年代後半あたりの生まれの人たち)が出てくる。その人たちが、一九六〇年代末から一九七〇年代初頭にかけて、大学他で一騒動起こすことになった(それに肯定的な人たちは「大学闘争」と言い、そうでない人たちは「大学紛争」と言った)。その人たちは、そういう既存の党派に参加したり、あるいはとくにそういうものに所属しない人たちは「全共闘(全学共闘会議)」などと名乗った。それで、その世代は――そういうものに参加した人の数はたかが知れているのだが――「全共闘世代」とも言われる。
 ベトナム戦争が続いていて、日本や(当時はまだ「返還」前だった)沖縄を経由して軍隊や兵器が送り込まれるという状況だった。同じ時期にアメリカでもフランスでも他の国でも「叛乱」が起こった一つは「反戦」だった。さらに、日本の大学闘争は学生の不当処分をきっかけにして始まったところがあり、それは「学問」だとか「研究」だとかを問題にすることになった。また、水俣病などの公害や薬害の問題が――以前からあったのだが――広く認識された時期でもあった。
 派手にやっていたのは「突入」だかとか「占拠」だとかそんなことで、まあそれは、相手の方が力が強いわけだから、結局は潰されることになる。また、「新左翼」の中の様々な党派が「内ゲバ」を始め、激化し、人殺しの類いまで起こることになる。また一部は、武装闘争の方に行く。といっても国内ではそうたいしたこともできないわけで、例えば「日本赤軍」の人たちの中には、パレスチナだとか、外国の方に行く人たちもいて、いくつか事件を起こす。それもいくらか人々を驚かせる。
 私自身は一九六〇年の生まれで、一九六〇年のことはまったく知らなかった。一九七〇年前後のこともなんだかよくわからなかった。東京大学の安田講堂というところを占拠した人たちがいて、そこに警察・機動隊が放水やらいろいろやって、その連中を引きずり出したのだが、そのニュース映像にしても、実際にその時に見たのか、後の「再放送」を見たのか定かでない。ただ、「連合赤軍」が警察に追いつめられる中で、人質をとって「浅間山荘」に立て籠もったのを警察が攻囲した「あさま山荘事件」(一九七二年のことであったこと、警察突入時の同時中継の視聴率の各局の合計が八九・七%だったことは、いまウィキペディアで知った)は学校から帰ってテレビをつけたらやっていて、見たのは記憶している。そして、その内部でリンチ、人殺しがなされたことがわかる。
 そういう生臭いことごとが、その運動の退潮にとって決定的だと語る人たちもいる。そうなのかもしれない。そして、共産党系の人たち(その中の若い人たちの組織は「民主青年同盟(民青)」と言った、というか、言う)の人たちは、「改革」を言いながらも――ときに「防衛」のためということで、けっこう自分たちも暴力的であったこともあったのだが――、暴力反対、民主主義を守れ、等々を言って事態の「収拾」の側に立った。
□まず気分が与えられた
 以前にも書いたが、その辺りの様々については異様に詳しい人たちがいて、たくさんの本が出ているから、もし知りたければそういうものを読むのがよいのだろう(私はほとんど読んだことがない)。ただ、勇ましいというか虚しいというか、そういう本には、それらと障害・医療…との関わりについてはほとんど書かれていないはずだ。
 けれど、まずことのよしあしは別として、実際にはかなりの関係がある。それは全世界的なことでもある。例えはイギリスの「障害学」、またそれにつながる(当初は少数者の中でも少数者の動きであったはずの)運動も一九七〇年代の前半に始まるのだが、それにはやはり当時の「造反有理」の気分――この言葉自体は毛沢東が言った言葉で、今ではとんでもなかったできごとであったということになっている「文化大革命」の時によく使われ、他国も波及した、ただ、皆が皆その言葉を由来を知っていたとかそんなことはなく、つまり、そういう気分があったということだ――が関係しているだろう。アメリカの「自立生活運動」も、ヒッピームーブメントやフラワームーブメントなどと呼ばれるものの発祥地ということになるカリフォルニアから始まったわけで、そこにもなにかしらの関係はあったのだろうと思う。
 それはまず、「今までだまらせられた人たちも何か言ってよいのだ」、「偉いとか立派だと思われているものを信用しなくてもよいのだ」という気分を与えた。当時、日本の障害者の多くは学校に行けてないわけで、「学生さん」たちと直接の関係はない。けれども、そういう気持ちを得たと青い芝の会で活動してきた横田弘さん(一九三五年生)が語ったことがあることを以前に紹介した。そして私は、そういうことがとても大切だと思う。当時「理論」として示され主張されことがどれほどのことであったかと言われると、しょうしょう心許ないものがある。ただ、そういうこと以前のこととして、「造反有理」的気分は大きなものをもたらした。そしてそれは、二〇一〇年に出て、その出版社がつぶれて――というのは正確ではないのだが――今年、イースト・プレスから再度刊行された『人間の条件――そんなものない』でも書いたことだが、別に言葉でなくてもよく、例えば音楽であってもよい。政治だとか思想だとかに疎かった私もそうだった。
 そしてそんな気分というものは――その時が最初なわけでもないと思うのだが――一度生じてしまうと、起こってしまうと、基本的には、なくなるものではないと私は思う。文句を言う人が少なくなって困ると古い人はよく言うが、もし世の中が実際にうまくいっているなら、それはそれでよいことだろう。そして、結局実際にそううまくは行っていないのだから、一度、言うべきは言ってよい、言いたいことは言ってよいということが体感的にわかり、それが完全に忘れられてしまうのでなければ、言われるべきことは必ず言われる。行動は起こる。それはそういうものだと思う。
□対立がもたらしたものもあるはずだと思っていること
 ここまでは、ある程度、世界に共通したものだと思う。「その上で」、この連載?で、私が言いたいと思ってきたのは、いくらかこの国に独自に思える部分があるということだ。といって、諸外国の例をそう知っているわけでもないから、確かなことは言えないのだが、すくなくともこの国の一時期、障害に関わる主題は、「(新)左翼」(的な部分)で比較的大きな位置を占めてきたと思う。そして、そのことにも関わり、その動き・主張は、先に述べた、対立の中に生じてきたものがあるということである。
 それは冷たく、突き放しして捉えることもできる。つまり、革命という大目標あるいはそれを実現させる見込み・手段を失った時、あるいは予めないことがわかった時、それでも全面撤退ということにしないのであれば、(一つひとつは)小さいかもしれないが明らな不正がある時、そこで何かしようとする。実際、例えば大学の自治会の総会か何かで、「日本帝国主義」がなんとかであるとか言ったとして、それで何がどうなるかといえば、どうなるものでもない。それに比べれば、より具体的な例えは冤罪を告発する闘争に参画するといったことの方が、まだ何かしている気はする。
 そんな事情もあっただろう。というか、そんな「実感」は私にもある。ただ、それだけのことでもない。先にも記したように、まず、その「大学闘争」は、偶然ではあれ、医学部で始まったということもある。そして、公害や薬害、精神病院のあり方等が、その頃、ようやくと言うべきか、表立って問題にされたのだが、それらを批判せずむしろそれに加担する学者や研究・教育機関のあり方を問題にした。
 そしてその時、やり玉に上がったのは、必ずしも保守派というわけではなく、かなりの割合で「革新」の側に立つ人達だった。だいたい、口ではなんとでも言えるということはあるから、「世間」より大学といった場所の方が、そういう人たちがいる割合がもともと高いということはある。そして教育・福祉そして医療といった場は、「革新」の側にとっては「狙い目」でもあった。教育によって人々を変え世の中を変えようという思惑もあっただろうし、福祉や医療には「(社会的)弱者」がたくさんいる。その人たちの味方になって、味方につけて、そして…、ということがある。自然科学の領域でそういうことはあまり起こらないが――だから「社会」に無頓着であること、また無頓着でありながらよろしくない方向に加担していることが批判されたのだが――、例えば精神医学といった医学の中でも「周縁的」とされていた部分、狭い意味での医療だけでは対応できず「地域」や「社会復帰」とかを視野に入れざるをえない部分では、「社会派」が一定の地歩を得ることになっていた。
 そしてそういう人たちは一方ではかなり素朴なことを言う。病気から人を救うこと、できないことはができるようになることはよいことだと言う。ただ、一つ、その人たちは、今の社会をそのままでよしとするわけではないので――そのまま今の「能力観」を肯定したら、たんなる現状肯定派と変わらなくなる――今の社会で評価される「できること」がそのままよいことであるとはせず、なにかもっと大切なもの、例えば「全人的」な発達がよいとする。もう一つ、その人たちも、今自分たちの技術でできることに限界があることは認める、あるいは認めるようになる。まずなおしてみましょう、でもそこには限界があるから、そしたら「受容」しましょうみたいなことを言う。専門家も大切だけど、その人たちにできることにはやはり限界があるから、そこは「当事者」の活動が大切です、とも言う。病院だけが医療の場ではない、「地域」が大切なんだとも言う。これらはすべて、すこし後になると誰もが言う台詞になって、珍しくもなんともなくなるのだが、少なくとも、自分たちでなんでもできるとは言わない。例えば、台(うてな)弘という人は東京大学医学部の精神医学の教授だった人で、以前行われたロボトミー手術に便乗して脳の組織を(承諾なしに)使って実験したとして、一九七一年、その「造反」組(のまず一人)から告発されるのだが――そして、七〇年代末から八〇年代にかけて学生だった私(たち)も基本その告発・批判をそのまま伝承していたのだが――、他方で、その人は、その前、群馬大学にいた時、「生活臨床」といって、地域の保健師(当時は保健婦)とともに精神病院を退院した人たちの支援活動を行い、再度入院したりすることを少なくする活動に関わった人でもあった。そこで、その台という人は、「私は両方が大切だと言っている、それで間違ってないだろう」と居なおるというか、自分を正当化する。それはその人の前任者であった秋元波留夫という人もそうだったし、同じ医学部で(やはり医学部の主流とはすこし離れたところにいた)リハビリテーションの部門にいた上田敏という人もそうだった。そして、それらの人たちは――とくに養護学校義務化を巡って本誌の関係者を含む人たち、組織としては「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」や「青い芝の会」と対立した――「全国障害者問題研究会(全障研)」を率いた学者たちのようにはっきりとではなかったとしても、あまり公言することはなかったとしても、共産党系と見なされていて、そして大学・医学部の秩序を守る立場、混乱を収拾したい側にいた。
 では、「叛乱」の側はどういうことを言うことになるのか。そんなところが気になって、このところ、『現代思想』という雑誌(青土社・本屋さんで注文できます)で――昨日(十月十四日)原稿を送ったのだが、その時点でもう十三回になる――「社会派のゆくえ」という題で、とくに精神医療に関することを、まったくのど素人なのに、書かせてもらっている(昨日送った原稿は「ロボトミー」に関するものだった)。何が言えると思っているのか。実際には「叛乱」側であっても医療者・専門職の側はわりあい「普通」のことを言っていたこと、しかし、相手との対抗上というということもあり、また私が感じるところでは、とくにそれを職業とする人たちにとっては仕事の対象である「本人」たちの側は、「実感」として、ずるい感じ、騙されている感じがしたということがあったと思う。
 一つには、口ではもっともなことを言っているけれども、結局のところ「上から目線」で、「現場」に降りてくる時には、それは「必ず」違うものになってしまう、抑圧的なものになってしまうという感覚があったと思う。そして、なんだかそういう「ぬるい」言い方が気持ち悪い人たちは、「なおす」ことなんかないのだと、「発達」なんかしなくてよいのだと、言うことになる。さてそうなると、今度はそれはいかにも極端な主張に思われ、やはり「過激派」だ、とんでもないということにされる。旗色がわるいように思われる。ただ、私は、そうして喧嘩をしながら、だんだん主張を極端と思われる所まで「せりあげて行った」というか、開き直っていったというか、そういうことは他の国ではあまりなかったと思っていて、そこがおもしろい、もっと言えば誇れるところだと思っている。そして、そうやって言い放ってしまったところを、そのままだと容易に揚げ足をとられてしまうから、いくらか理屈をこねて――昔だと「理論武装」と言われたのだろうが――言い換えたり補足してみようというのが私の仕事だと思っている。
 さてここまで、結局、復習に終始した。次があるとして、何を書くか。その喧嘩の様子を「後世に伝える」ためにすこし書いてみることも必要なのだろうと思う。私に――精神医療の方は別の雑誌で少し書いてみているわけでが――どれだけ書けるだろうかとも思うところはあるのだが、すこし足してみるかもしれない。そして、そんな対立にはまっていない周囲から見ると何をやってるんだかよくわからない「論争」からすこし離れたところから、「私が決める」というあっさりした、しかしはっきりした主張が現われ、その線でかなりのところまでやって来れてきたことを言い、しかしそれでも残されるものはあること、その時、むしろより古い層にある、不毛とも見える争いにおいて言われたことから受けとるものがある、そんなことを言うことになるのだろうと思う。
★10 『病者障害者の戦後』(立岩[20181220])より。
 「いずれでもない動きは小さなものとして始まった。それを象徴する一つとされる、一部では有名な一九七〇年の脳性マヒの子を殺した親に対する減刑嘆願運動に対する批判は、まず、「神奈川県身心障害者父母の会連合」が横浜市長に出した抗議文に対するものだった。新聞記事やその抗議文は「重症児対策」を問題にしており、殺された子が入れなかった施設は「重症児施設」としての「こども医療センター」であることが報じられている。そのセンターは今もあり、「肢体不自由児施設」と「重症心身障害児施設」を含んでいる☆08。
 この「父母の会連合」会は県内の各種障害をもつ親の会の連合組織で、今そこのHPをみると、「セクトに拘らず、障害種別を超えた障害児者の親の会の横断的結合体」と記されている。さらに、この事件に関して青い芝の会神奈川県連合会が話し合いをもったのは「重症身心障害児(者)を守る会」であり、それは「争わない」(116頁)を方針とする「全国重症身心障害児(者)を守る会」(社会福祉法人)の神奈川県の組織だろう。こんなことがきっかけになった運動については、既に冒頭に示した本『生の技法』におおまかには書いているから繰り返すことはない。そして、同じ年に「府中療育センター闘争」が始まるのだが」(立岩[20181220:48])
 「☆08 この部分を第4章1節(206頁)とそこに付した註01(267頁)で繰り返し、それに関わる幾つかのことを記している。そこからわかるのは、たしかに分かれていることと、同時に、近接していることである。神奈川県の青い芝の会の人たちが抗議した相手は、重症児の親の会であり、すくなくともここで二つが対峙していることを看過するべきでないし、その意味を考えておいた方がよい。このことを、本章でも第4章でも述べている。ただ、親の会の側の文章(の案)を書いたのは小児療育センターで働いていた谷口政隆であり、その人と青い芝の会の人たちはその後関わりをもつことになる。そのことを記している臼井正樹も、神奈川県の公務員としてその人たちにいろいろと突き上げを食うのでもあるが、やはり関わりをもち親しくなっていく。さらに谷口が働いていた小児療育センターの設立に関わったの△055 は、サリドマイド事件で原告の中心にいた飯田進だった(著書に飯田[2003])。なんのかの言っても、大きくは、「福祉」を進めていく側にいることにおいて一致はしているという部分はある。手勢はいつも少ないのであり、違いはあっても、一緒することがある。しかしそのことは、二つ以上のものの間にある違いを無視してよいということではない。ところが、こうしたことは、そのできごとの当時においても、ほぼわかられていない。さらに、なかば意図的に忘却されようとする、ふれないようにするといったこともあった。そしてそうした営為(の不在)の後にある現在では、差異も、差異とともにあったつながりも、消し去られている。」([55-56])
 「前史」の部分については。立岩真也 編 2015/05/31 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books(立岩編[2015]◇)。
★11 初版は8章構成で、第8章は「接続の技法――介助する人をどこに置くか」(立岩[19901025])。それに代えて、第2版で代わりに第8章としたのが「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」(立岩[19950515])。
★12 「もらったものについて・15」立岩[20170425])に以下。
 「戦後のでも二〇世紀のでもよいのだが、その時期の三人をと問われたら、私は、横田晃一(一九三五〜一九七八)、高橋修(一九四八〜一九九九)、吉田おさみ(一九三一〜一九八四)になる。横塚晃一より前に生まれ、共に「青い芝の会」で活動し、彼よりはずっと長く八〇歳まで生きた横田弘(一九三三〜二〇一三)の再刊された本『障害者殺しの思想』(横田[2015]、初版は横田[1978])の「解説」にそう記した。その本の帯に森岡正博は横田晃一、横田弘、田中美津の三人を記している。私の三人は若くして亡くなったことにおいて共通している。横塚は四二歳、高橋は五〇歳、吉田は五二歳で亡くなった。レーニンやガンジーやマンデラは知られているだろう。ここであげた人は、田中美津は知っている人は知っていようが、他はそうでもないだろう。」(立岩[20170425])
 その「解説」(立岩[20070910]◇)の註18に以下。
 「☆18「ひとびとの精神史」というシリーズが岩波書店から刊行され、その一冊(吉見編[2015])に私は横塚について文書を書くことになっている(立岩[2015b])――そこに書くことと本稿に記すことの一部は重なるはずである。私がその時代の人としてあげることにしているのは、横塚晃一(一九三五〜一九七八、享年四二歳)、高橋修(一九四八〜一九九九、享年五〇歳)と吉田おさみ(一九三一〜一九八四、享年五二歳)だ。横塚について立岩[20070910]、高橋について立岩[200120010501]〔その後、立岩[20200110]〕、吉田について立岩[20131210:298-306]。高橋についての文章には――いつも真面目に手間をかけて文章を書いてはいるのだが――気持ちが入っている。めったにないことだが時に読み返すことがある。横塚についての文章は、書くのにずいぶんな時間がかかった。
 ついでに、本書の帯に文章を寄せている森岡正博がツィッターで横塚晃一・横田弘・田中美津の三人をあげているのを見かけたことがあるように思う。田中に『かけがいのない、大したことのない私』(田中[2005])という本があり、拙著の第二版でその本をあげるだけはあげている(立岩[20130520:738])。そしてこの「解説」の後半に書いたことは、要するに、そういうことだ。」
★13 この言葉について、1998年5月の第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演「手助けを得て、決めたり、決めずに、生きる」(立岩[19980530])で話してる。この記録は今は『良い死』(立岩[200809])に収録されている。本書で紹介している制度の前身ともいえる「全身性障害者介護人派遣事業」のことで当時山梨支部長だった山口衛さん(〜2005/09/19)さんから問合せをもらったのが最初の関わりだった。
 「自分の体をどうして欲しい、ああして欲しいということを他人に伝えて、その通りにやってもらうような自己決定は今後とも、当然のこととして追求されていかなければいけないのと同時に、本来ならば自分でコントロールできるはずのものができなくなったら人間としての敗北であるというような意味での自己決定主義といいますか自立信仰みたいなものが、逆に障害がある人たちの生き方を狭めてしまう現実があるように思われます。
 そういう意味で、世界というものはどこかで自分の思い通りにならないけれども生きていくことはけっこうおもしろい、同時に、そうやって生きていることの一部として日々食べたり寝たりする時には自分の気持ちのよいようにやってほしいという自己決定を保障しよう。そんなことになるんだろうと思います。介護・介助の制度の充実を求めてきた運動もまた、実は、そうした運動であったのだと思います。
 私がたいへん尊敬する人の一人に横塚晃一という脳性麻痺の方がいて、一九七八年に、ガンで若くして四二歳で亡くなってから、二〇年になります。「青い芝の会」という一部ではかなり有名で、今では伝説的な、見ようによっては過激な集団の全国的なリーダーだった人です。その人が亡くなる時に遺言を残しています。それは「はやく、あわてず、ゆっくりやっていくように」という言葉でした(「はやく・ゆっくり」という[1990]の題名はこの遺言からもらった)。
 なんのかの言っても暮らすためにはいろいろそろえなければならない。そのために時間があまり残されているわけではない。急がなければいけない。けれど、ゆっくりとあわてずにやっていけという、それだけの単純なことです。ただ考えてみますと、生きていること自体が本当はゆっくりとした営みであるとも、彼は死ぬ間際に言ったのではないかと私には思えるのです。生きていくということは、ゆっくりと緩慢に流れていくようなものである。たしかに、ゆっくり生きていくためには早く何かしなくてはいけないということもあって、それがこうした社会運動にとってはなかなか厄介なことです。しかし私は、彼の言葉から聞こえてくるのは必ずしもそういう矛盾とか悲壮感ではなくて、早くしなければいけないけれどもゆっくりでもよい、本来ならば矛盾する二つのことが並んでいてよいのだ、自分が死んでからもそうやっていってほしい、ある意味では自分がやってきたこともそうであったのかもしれない、そういう言葉だと思います。これには一種の快活さと言いますか、ある種のユーモアがあるような気がします。
 私は、障害のある人たちの動きを一五年くらい追ってきましたが、それは私に勇気を与えてくれます。それは今述べたような意味においてです。なにかけなげに、努力して、なにかを克服して生きる姿に感銘、というのではないのです。自己決定という言葉は矛盾するような二つの意味を持っています。自分のことを何でもかんでも決めて自分の思う通りにやっていくことだけが生きていることではない。自己決定が、自己決定主義みたいなものになるとかえって苦しくなってしまう。けれども、それと同時に、普通に生きていくときのさまざまの細々としたことは自分が生きていきやすいようにアレンジされて手元にあってほしい。そういう、早く実現されるべきことはやむを得ずのかたちでも早くしなければいけない。しかしこの中でもゆっくり悠々と生きていけるのですし、また、ゆっくりと過ごしていくためにこそあった方のよい様々なものがあって、その中のある部分をみなさんは獲得された。
 これから、みなさんはどのように生活を過ごしていかれるのか。また、この会はどのようなかたちで活動を継続し発展させていくのでしょうか。そうしたことを考える時に、「はやく、ゆっくり」という言葉を思います。
 あまりまとまった話になりませんでしたけれど、今日はお招きいただきどうもありがとうございました。」(立岩[200809:31-33])
★14 横塚[1975]、その増補版が横塚[1981]。それも長く入手できなかったが、それから二六年たって生活書院が大幅な増補のうえ再刊したのが横塚[2007]。さらに新たに9つの未収録文章を加えたのが横塚[2010]。私は再刊された本に「解説」(立岩[20070910])を書き、『万博と沖縄返還――一九七〇前後』(吉見編[2015])に収録された「横塚晃一――障害者は主張する」(与えられた題、立岩[20151125])を書いた。
★15 横田が所属した会からの出版物として『炎群――障害者殺しの思想』(横田[1974])、『ころび草――脳性麻痺者のある共同生活の生成と崩壊』(横田[1975])、『あし舟の声――胎児チェックに反対する「青い芝」神奈川県連合会の斗い』(横田[1976])。これらの文章から『障害者殺しの思想』(横田[1979])が出版された。それが2015年に『増補新装版 障害者殺しの思想』(横田[2015])として再刊された。私はその解説(立岩[20150603])を書いた。対談集として『否定されるいのちからの問い』(横田[2004])。
 日本文学専攻の研究者ということになる荒井裕樹が、横田も同人であった文芸雑誌『しののめ』を発行してきた花田春兆、そして横田と長く関わりがあって、著書を幾つも書いている。『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(荒井[2011])、『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の行動綱領』(荒井[2017])、『障害者差別を問いなおす』(荒井[2020])。
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙 ★16 運動を知らせ拡げるために原一男監督の『さようならCP』が上映会が各地で行われた。安積もその上映会のことにふれているし――「全国青い芝の仕事で東京に行くことが多かった。地域と東京とどちらが大事なんだって皆によく言われてたよ。あと街頭カンパをやったり。映画の上映もしたしね。「何色の世界とか。「さようならCP」がやっぱり一番多かったけど。あのころは本当におもしろかった。」(安積[1990→2012:31])――『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木他[2019])では土屋葉の「「福島県青い芝の会」の生成と展開――それは『さようならCP』から始まった」(土屋[2019])に描かれている。
 「一九七二年、菊池〔義昭〕がどこからか映画『さようならCP』にかんする情報を得、地域福祉研究会(地福研)郡山と福島の合同主催で、映画上映会を開催することになった。上映会は福島市、郡山市において二回ずつ行われた☆10。白石 〔清春〕は当時を振り返り次のように言う。

 はじめて『さようならCP』を見たときはすごい衝撃だったなぁ。勉強してないから言葉もわかんないですよね。だから何回も見て。横田弘さんがはだかで道路にいたり、電車に這って乗ったり。また、横塚晃一さんがカメラ構えて、人物が正面から撮れない、それが「健全者幻想」だっていう……。ああそうかと思ってね。あの映画見て人生観が一八〇度変わったから。それはすごく大きかったね。(白石[2001:162])
 『さようならCP』を見てね、ショックを受けてね、そんなこと全然、考えてなかったわけだから、どーんって来たよね。これはおもしろいなと思って、こんなおもしろいならやってみよう(と)。(白石[i2001])

 のちに白石の「女房役」(安積[1990:30→2012:48])といわれる橋本広芳も、「言葉はあんまりわかんなかったけど」、「価値観も変わったよね」と言う。また橋本は会の行動綱領について、「「(われらはCPであることを強烈に)自覚する」っていうのはすごいなぁと思ったね。自己主張だから」と述べている(白石・橋本[i2000])。
 当日は東京青い芝の会の若林も参加した。サークルに入っている脳性まひ者に対し「福島県にも青い芝をつくるように」と働きかけたという。その日は白石宅に泊まり酒を飲んで話した。上映会後、若林が福島県に来るときには、若い女性を秘書として連れてきた。白石は、夜になると酒をあおって豪快に話をしていた若林を記憶している。「若い女性を引き連れて脳性まひを楽しんでいる」彼の姿をみて、「こんなふうに生きたいな」と思ったという(白石[1994:87]、白石[2019])。」(土屋[2019:29-31])
 さらにこの映画について。
 「こうしたなかで、その後の青い芝の会の運動が広がっていくきっかけとなった重要な映画『さようならCP』の製作が進められていく。これは、障害者運動に関心を抱いていた映画監督原一男が、当時リーダー的存在だった横田弘に話をもちかけたことで実現したようだ。東京青い芝の会で活動していた若林克彦☆04は次のように書く。

 障害児殺し事件における母親の行為と、それに対する世間の同情の中に脳性マヒ者をはじめとする障害者の存在をまっ殺しようとするどす黒い力を確認した横塚・横田達は、いたたまれない気持をおさえることはできなかった。自らの全存在をかけてこのいたたまれない気持を具体的に表現する手段はないものかと考えていた折に映画製作の話がもちあがった。(若林[1986:97])

 のちに監督の原は、「主人公の横田弘さんに映画をやろうよ、と口説くのには半年かかったんですよ」と述べている(原[2002])。また映画のなかでも、あわや撮影中止か?といった場面もあり、製作は決して容易ではなかったことがうかがえる。青い芝の会神奈川県連合会の主要メンバーが出演したドキュメンタリー映画が完成したのは、一九七二年のことであった。この年の四月に「青い芝の会神奈川県連合会創一〇周年記念」として、川崎市労働会館にて上映されたのを皮切りに、全国各地で上映会が開かれていく(若林[1986:97])。
 この映画が障害者たちに与えた衝撃は大きかったようだ。[…]」(土屋[2019:27-28])
 なにも知らないまま上映会に引き入れられ、介助者〜支援者になってしまったという人たちもいる。私がいくらか驚いたのは2016年になってもそんなことが起こることがあったということだ。
 「なぜなのか、今でもよくわからない。ふと興味を持ち、『さようならCP』(原一男監督、一九七二年)という映画の上映会に行ったのだった。会場に着いてみると、運営の人も観客の人も互いに知り合いが多かったようで、和気あいあいとした雰囲気だった。ある地区の公民館の一部屋を借りてプロジェクターでスクリーンに映すという、こじんまりとした親しみやすい会だった。私はひとりで後方の席に座り、映画が始まるのを待っていた。
 私は「CP」とは何なのか。全く知らなかった。それどころか映画の趣旨さえ、ほとんど知らなかった。わかっていたのはただ、「障害者」を描いたドキュメンタリーということだけだった。振り返ってみれば、「障害者」についての知識もイメージも貧相なのものであった。ハンディキャップを抱えた人々、くらいの理解であっただろうか。
 当然映画のメッセージなど理解できるはずもなかった。膝をついて正座のままいざり歩きで横断歩道や電車を歩く人々、部屋で飛び交う聞き取りづらい怒号のような言葉の数々……。正直わけがわからなかった。けれども目の前のスクリーンに映し出されたそれらの映像は、私の心を捉えて離さなかった。彼らは全身全霊で、自らの存在を訴えかけてきていた。
 加えて衝撃的だったのが次の一節である。「我らは愛と正義を否定する」、そして「われらは問題解決の路を選ばない」。それは上映会の参加者に配られた「青い芝の会」の行動綱領に書いてあった一文である。どういう意味なのか、なぜ彼らはここまで言うのか、何も知らない当時の私にはわからなかった。
 とにかく当時の私にとって、わからないものは聞くしかない。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、である。そめうして映画終了後、脳性麻痺を抱えた当事者として登壇された方に、直接尋ねに行ったのだ。その方が、上田〔要〕さんだった。」
 そんなことがきっかけになって、慶応義塾の大学生だった岩下紘己は重度訪問の研修を受け、世田谷区に住む上田要の介助者となる。その上田とのことを書いた卒業論文をもとにした『ひらけ!モトム――大学生のぼくが世田谷の一角で介助をしながらきいた、団塊世代の重度身体障害者・上田さんの人生』(岩下[2020])が出版された。この本を出版したのは、長く岩波書店に勤めた後、自らの出版社出版舎ジグを立ち上げた十時由紀子。私が十時に最初に会ったのは、彼女が一橋大学の学生であった時、国立市の安積遊歩のアパートでだったと思う。安積・十時ら何人かが話をしたその時の記録が残っている。
★17 「再刊にあたって 解説」(立岩[20150603])。その冒頭の部分。
 「$ 横田弘は二〇一三年六月三日に亡くなった。一九三三年五月一五日生、享年八〇歳。横田のことについて最も詳しいのは荒井裕樹の『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(荒井[2011])だから、まずそれを読んでもらいたい。不親切かもしれないが、以下それと重複する部分はあまり記さないようにする。とはいえ最低限のことを。
 本書『障害者殺しの思想』は一九七九年にJCA出版から出版された。一月二〇日の発行日になっている。他の著書として、多くは書店で売られたというものではないが、六九年『花芯』(しののめ叢書九)、七四年『炎群――障害者殺しの思想』(しののめ叢書一三)、七五年『ころび草――脳性麻痺者のある共同生活の生成と崩壊』(自立社)、七六年『あし舟の声――胎児チェックに反対する「青い芝」神奈川県連合会の斗い』(「青い芝」神奈川県連合会叢書二)、八五年『海の鳴る日』(しののめ叢書一九)、そして二〇〇四年『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集』(現代書館)がある(→文献表、他の文章の一部については「横田弘」で検索→arsvi.com内のページ)。
 『炎群』が大幅に加筆されて『障害者殺しの思想』となった。その横田――本書の再刊がなされた現代書館の編集者である小林律子さんは学生の頃横田の介助者をしていたことあって、それで「この道」に入ったと誰かから聞いたことがある――の人生がどんなであったかについては、さきの荒井の本と、私の横田へのインタビュー/との対談で本人がいくらかを語っており、それを一部に含む本が出る(横田・臼井・立岩[2016])☆01。本書でもいくらか語られている。それ以上のことを知らない。略させてもらう。
 さらに、その本書の中身については解説するまでもないと思う。言われていることはまったくもってはっきりしている。そして、詩人横田弘という像がまずある人にとってはいくらか意外にも思われるかもしれない☆02。本書のかなり大きな部分では、蒼い芝の会の行動し主張したそのときどきの要求書・要望書等をそのまま引用し、障害者殺しに関わる報道が列挙される。この本に限っていえば、運動の指導者でありすぐれた実践家であった横塚の短文――そのいくつかは私的な書簡の形をとったものだ――を集めた本より、その時期の出来事をそのまま詳細に伝える本である。」(立岩[])
★18 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』(横田弘・立岩真也・臼井正樹 [20160325])の「まえがき」の全文が以下。
 「どんな経緯でこの本が出ることになったのかについては、そして横田さんと臼井さんとの関わりについては、臼井さんが書いてくださっているので(→一三頁・三〇頁)そこを読んでください。また臼井さん・横田さんと私が会ったいきさつのことも臼井さんが書いてくださっている(→六七頁・七二頁)。以下、結局私(立岩)と横田さんのことに限っての話になることをおことわりしておきます。
 まず、私にとっては、それまで会ったことのなかった横田さんから声をかけてもらって三度も話ができたことは、なにか不思議なことで、そしてうれしいことだった。そんなことはそうあることではない。
 変わらないところもある――大切なことなら変えてはならないはずだ――が、変わるところもある。定点をもたずに仕事をしている私のような者にとって、時間の流れの中にある人を知るのは、書かれたものを追える時に限られている。例えば、横田さんといっしょに活動した横塚晃一は一九七八年に亡くなっていて、七九年に「上京」してきた私がそのことを知ったのはずいぶん△003 後になってからだった。十年足らずの間、その人が書いたものを読むことだけができることだった。
 ただときに、時間を隔てて、会った人に再会できたり、また話をうかがえたりすることがある。私たちは一九八〇年代の後半、もう三〇年ほど前になるが、多くの人に話を聞くことができて、それは今となってはずいぶん貴重なことだった――文字化されていないものも実はかなりあって、音源が残っているか、探してみなければならないと思っている。だから、まったく初めてというわけでないが、ずっと前のことだから、話をうかがった方が私(たち)のことなど覚えているはずなどないと思っていたが――私ならそうだ――、二十数年といった時間が経って再会する機会があった時、覚えていると言ってくれてうれしかったことがある。そんなこととして覚えているのは、三井絹子さん(→二〇六頁・註7)が、著書『抵抗の証 私は人形じゃない』を出版され、その本を販売しに長野大学で開催された障害学会の大会に一族郎党でやってきた時(二〇〇六年)、私なら覚えているなんてありえないと思ったのだが、そのずっと前のことを覚えていると言ってくれて、単純にうれしかった。(この年に高橋さんから今度出版社を立ち上げるという話も聞いたのだった。「生活書院」という名前は「なんかださくない?」と私は言ったのだが、生活書院は始まって、すぐにその会社名にも馴染んでしまった。)
 そして三井さんの兄でもある新田勲さん(→二〇六頁・註7)。彼も横田さんが亡くなった二〇一三年に亡くなったのだが、新田さんも初めてインタビューをしてから二〇年以上経って対談をもちかけてくれて、実現した(そこには三井さんもいらした)。それは二〇〇八年『足文字は叫ぶ!』(全国公的介護保障要求者組合)、そして二〇〇九年に『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』(現代書館)に収録された。これも私にとっては貴重な機会だった。△004
 これらはみないただいた機会だった――例外は高橋修さん(→一二八頁・註50)に(これも八〇年代だが)三度のインタビューをしたことだった。そんなことがとにかく大切なことだと思う。私は基本的には自分でごちょごちょと考えてそれを文章にするタイプの人間だと思うが、そのごちょごちょ考えるもとにはこれらの人からもらったものがある。そんな恩義もある。そしてとにかく人はいなくなってしまう。二〇一三年は多くの人が亡くなった年だった。二〇一四年にも亡くなった。二〇一五年にも亡くなった。うかがえるときに聞いておこう。今私は大学院というところに勤めていて、毎日そのことを言っている。
* * *
 そうして横田さんと話したその話の中身は、この本のとおりだ。私はそこでしばしば「しどもど」しているのだが、実際そうだったのだから、仕方がない。そういった部分も含めて読んでもらうことになる。どんな人たちに、どのように読んでもらえるのだろう、と思う。でも何かは引き出すことができるはずだ。
 私が話している時に感じたのは、一つ、横田さんが「若い障害者」に怒っていること。私は、そこはそうでもないという受け答えをしている。というか、横田さんの気持ちはそれとしてわかるのだが、第一に、そんなことを年寄りたちに自分たちも言われてきたと思う私としては、すこしは言い返さねばということもあり、第二に、(もちろん横田さんもそれはわかっていて言っているのだが)怒らなくてもすむならそれでいいじゃないかということもあり、第三に、これから仕方なく若い者も怒るようになるだろうということもあって、その話には斜めから応じるということになっている。三つめについては、障害者運動という括りで、というより、反貧困とか差別言動へ△005 の抗議といった形で――そんなことをせざるをえないこと自体、悲しいことではあるのだが――ここのところ起こってきていることでもある。
 一つは「綱領」問答がけっこう長く続いたことだった。やはり横田さんの思い入れが強いのだと思った。私は格別にあの綱領に「もっていかれた」という人間ではないので、ただ、同時に「いけてる」とも思ってはいたいから、そのへんもしどもどしながら話している。私はどちらかいうと、この「覚悟」の表出の後、そういう気分をもちながらもどうやって「ものをとるか」というところが大切だと思ってきたし、そこでがんばってきた人たちを見てきたところがあった。そこから見ると神奈川は施設の整備も含め、青い芝によるものも含め運動は古くからあるけど、「とれてないじゃないか」と思ってきたところがあるから、多少冷たいところがあるのだ。そして綱領のなかの「CP者であることを自覚し」というくだりについては、これはいわゆる「アイデンティティ・ポリテックス」というようなものにも関係して、すこし複雑な主題だということもあり、私はCP者ではないのでということもあり、やはりしどもどしている。読者のみなさんならどう考え、どう答えるのだろうと思う。
 もう一つ、三度めの対談(第6章)の最初のところで私は、横田さんに聞かれて大学生だった頃のことを恥ずかしながら話している。そこで、かつて国立市にあった富士学園について私は肯定的に話していて、それに横田さんが、大意としては「でも施設じゃないか」と返している。それはそうなのだ。そして、選んでそこにいたわけでないそこに暮らしていた本人たちにとってどうだったのかはわからない。ただその上で、私は暮らし方には様々あってよいと思ったし思っていることはやはり言いたかったのだと思う。そしてそれは私がグループホーム(以前は「ケア付住宅」と呼ばれた)の幾つかについてあまり肯定的でないことと矛盾はしないと思っている。△006
 こうして、生きている者だけが言いわけし言い足すことができる。註をつけることも、生きている者だけができる。ずるいはずるい。しかしそれでもないよりよいと思ってかなり分量の多い註を、調べきれなかったところも多いのだが、つけた。
* * *
 最後にこの本が出来たいきさつの続き。じつは横田対談(というよりインタビュー)第一回の記録は、印刷したものを横田さんに送ってあって、「これを後学のためにも公表したいのですが」という伺いを立てて、了承をもらっていた。ところがそのファイルが、私の手元からはしばらく行方不明になり、PC上では結局見つからずじまいということになってしまっていて、いろいろと探したら、印刷されたものが発見された。それをスキャンしてまたPCのファイルにしてという面倒なことをするはめになった。
 そして自分自身が何を話してきたのかについてもほとんど当人には記憶がないのだ。じつは神奈川青い芝の会そして横田さんとは、二〇〇二年の対談(→本書第3章、ちなみにその後の同年の第二回めは、同年一一月一二日、本書第6章に収録したのは第三回め)が最初というわけではない。『そよ風のように街に出よう』での連載(立岩[2007-])の第一四回(二〇一五年)に書いたが、米本昌平氏らが中心になって一時期あった「生命倫理研究会」が、たぶん一九九〇年、神奈川青い芝の会の人たちに話を聞くという機会があって、私もそれに出席している。そして二〇〇一年四月二六日、「日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会四〇周年記念集会」で私は講演させてもらっている。横田さんも小山正義さんにもそこでお会いした。後者の講演は、きっとそ△007こらに書いているようなことを話したのだと思うが、そう思うだけだ。前者の方はさらにわからない。横田さんたちと米本さんが、意外と気さくに、というのか話をしていたという記憶ぐらいしかない。
 とにかく記録をきちんと保存・整理することは大切です。私も何が残っているか、探してみようと思う。そして録音物や(私自身は撮ったことがないのだが)動画など見つかったら、以前と違ってDVDなどで簡単に提供することができるのだから、それも、と思う。横田さんの言葉の一部はここに残ったが、横田さんのかなりきつい言語障害のある語り口は、もう直接に話をしたり聞いたりした人しか知らない。それももったいないことだと思う。写真や映像や録音記録も含め、集め、整理し、提供するといったことを、片手間に、にならざるをえないのだが、続けていこうと思う。御協力いただければ有り難い。代わりにやってくださるという方がいるならさらに歓迎です。よろしくお願いいたします。」(立岩[20160325:3-8])
★19 青い芝の会についての頁に掲載。
「一、われらは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。
  われらは、現代社会にあって『本来あってはならない存在』とされつつ自ら位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ且つ行動する。
 一、われらは、強烈な自己主張を行なう。
  われらが、脳性マヒ者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうする意志である。われらは、強烈な自己主張こそがそれを成しうる唯一の路である信じ、且つ、行動する。
 一、われらは、愛と正義を否定する。
  われらは、愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ、行動する。
 一、われらは、健全者文明を否定する。
  われらは、健全者のつくり出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、われら独自の文化をつくり出すことが現代文明の告発に通じることを信じ、且つ、行動する。
 一、われらは、問題解決の路を選ばない。
  われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ、行動する。」
★20 著書に『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(荒井[2011])、『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の行動綱領』(荒井[2017])、そして『障害者差別を問いなおす』(荒井[2020])。 ★21 「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につつこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
 白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。
 全国青い芝の仕事で東京に行くことが多かった。地域と東京とどちらが大事なんだって皆によく言われてたよ。あと街頭カンパをやったり。映画の上映もしたしね。「何色の世界(7)」とか。「さようならCP」がやっぱり一番多かったけど。あのころは本当におもしろかった。自分達で社会を変えようっていう情熱があった。毎日徹夜の討論会でお互いの差別性を本気で問題にしあってね。近くにいる健常者が一番批判されるわけ、手のとどく範囲にいるから。それで運動からドロップアウトしてしまう人もいれば、最後まで残る人もいれば、じつにおもしろかったわ、あのころは。入ってくる人は学生が主ね。働いている人もいるけど。でも、ほとんどやめていく。残るのは二、三人。今でもつきあっているのは。私の場合には自分が探してきた介助者は大事にしてたね。今思うと使い分けてた。親元では誰かれかまわずつていう感じでやっていたけど、出るとそうはいかない。自分の介助者に対してはやさしくつきあうようにしたね。計算というよりは直感的にそうしていた。
 障害者運動の方がおもしろくなって、二年通って七七年に高校はやめたの。七九年に養護学校が義務化されて、私はそれがすごく頭にきてね。」(安積[1990→2012:47-49])
★22 私が本のはじまりと終わりに書いた「はじめに・いきさつ」(立岩[20190910])と「もう一度、記すことについて」(立岩[20190910])は全文をサイトに掲載している。
 「こういう仕事はいくらでも手間をかけられる。そして手間をかければたしかによくはなっていく。しかし、そう思ってまとめる仕事を先延ばしすると、仕事は終わらず、結局何も残らないこともある。このごろ私は、「どんな手を使ったってかまわない」(290頁)、とともに、「ないよりよいものはよい」と言うことにしている。もちろん,うかがった話は、ないよりもよい、なんていうものではなかった。貴重なものだった。そして楽しかった。問題は、ひとえに私たちの腕の問題である。ときに、事前の準備が足りず、既にわかっているべきことをわざわざ(再度)話していただくことになったところもある。研究者として、人間として、だめである。おわびいたします。そして話をしてくださったみなさま、資料を提供してくださった方々、その人たちをこれまでそして今支え手伝っておられる方々、活動をともにされている方々にお礼申し上げます。」(立岩[20190910:9-10])
 関西、でも大阪と兵庫ではまた違ったりするのだが、主に大阪について『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(定藤[2011])。その著者の定藤邦子とともに、関西にいくつかある/あった青い芝の会についての資料を『闘争と遡行・1――於:関西+』(立岩・定藤編[2005])に収めた。山下幸子の『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(山下[2008])は、関西での多く介助者でもあった健常者・健全者との確執(cf.第8章註09)を描いている。角岡伸彦の『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』(角岡[2010])は主に兵庫の人たちを書いている。
★23 私たちのサイトに「府中療育センター闘争」という頁がある。『病者障害者の戦後――生政治史点描』(立岩[20181220])にもすこし記述を加えたのだがその部分も引用している。さらにその一部を以下。
 「白木〔博次〕は六〇年代から七〇年代にかけて、東京都の医療福祉行政に大きく関与した。そして、むろん他に様々があってのことではあるが、京都府中市の同じ敷地内に三つの施設ができる(木下[1978]等)。白木は未来を構想し現実を作ることに関わるのだが、その構想ゆえにという部分も含め、そこに生じる現実を通り抜けてしまう。本節では、二つのうちのもう一つ、このことを示す。
 三つの施設の一つは六八年開設の(1)「東京都府中療育センター」、一つは七二年開設の(2)「東京都神経科学総合研究所」、一つは八〇年開設の(3)「東京都立神経病院」――ただそれ以前、七一年、府中病院に神経内科設置が設置されている。おおまかには、(1)脳・神経に関係する生まれながらの(重い)障害の人たち対象の施設、(3)後天的原因による神経疾患(心身障害)患者を対象とする病院。(2)それらを総合的に研究する研究所といった具合になっている。そして各々がこれまで述べてきた動きに関わる。
 (1)府中療育センター「を構想したのが東京大学の医学部の教授だった白木博次先生。白木先生が美濃部知事の時代の東京都顧問だったんですね。圧倒的な力をお持ちでして。保険医療面については全面的に白木先生の指揮下にあったみたいなぐらいに強い力をお持ちだったですね。美濃部さんと[…]非常に信頼関係が厚くて。」(中嶋[2015])
 ただこれは、それ以前、「重心」(身体と知的の重い障害が重複した人)の親の会の人たちが六四年十一月に陳情して計画が進められた(東京都立府中療育センター編[1988:28]、森山〔治〕[2004:102,110])☆28。これと△252 別に「重度」の身体障害および知的障害の人たちの施設を建設しようとしたが、住民の反対があって、無理に一つの施設に収容定員を多くして「重症」と「重度」の両方を入れることになったようだ(長畑[1993]、森山[2004:105-106])。白木は美濃部亮吉東京都知事の要請により、東大教授は続けつつ、このセンターの初代院長に就任。
 (2)も研究の場を作ろうという案は白木以前からあったようだ。そして七〇年、スモン、東京都の筋ジストロフィー関係者の組織(東筋協、既出)の人たち等が「神経病総合センター設置促進講演会」を実施、陳情、そこに出席した知事があっさりと受け入れたという。スモンの原因がわかる直前の開催であったため、伝染説も強かったスモンについて、社会不安の軽減、社会防衛のための研究という主張が通りやすかったとも言われる。研究所の目的として「脳・神経系についての基礎医学的研究、脳神経系の疾患ないし障害の臨床医学的研究、ならびに脳神経疾患患者および心身障害児(者)の社会福祉に関する基礎科学的研究を行い、広く神経科学の発展を通じて都民の健康と福祉の増進に寄与すること」が謳われている。 (3)の都立神経病院は、八〇年、椿がその初代の院長になった病院だが、その前、七一年五月には府中病院に神経内科が置かれた。
 そして、七〇年代以降、こうした場所を拠点にあるいは出発点に実際に動いたのは看護師だった。医師たちは研究(体制作り)に邁進するが、筋ジストロフィー、ALSといった障害・疾患については残念ながら結果は出ない。そのままの状態が続く。施設の中でも実質的には医師たちがなにほどのこともできなかったこの人たちのもとで当初働いた木下安子(一九二七〜二〇一六)、川村佐和子(一九三八〜)といった看護師たちがいて、その貢献には大きなものがあった。この二人も東京大学に関係するが、その後そこの医学者も関係した府中の組織に関わった。
 木下は、東京大学助手を経て、(2)神経科学総合研究所内に七三年四月に設置された社会学研究室の看△253 護部門に着任(他に山岸春江・関野栄子)。川村は、六五年から東大医学部保健学科疫学研究室勤務。井形の研究室でスモン調査・研究に関わった(川村[1994:45-49]、川村・川口[2008]等)。六七年頃に神経難病の人たちの訪問看護を始める。六九年に全国スモンの会副会長。そして、(3)都立府中病院神経内科医療相談室に務める(他に鈴木正子・中島初恵)。こうした人たちは実践的な自主研究グループ「在宅看護研究会」を作り、在宅看護の実践を行ない、記録し、研究した(木下[1978:86-89]等)。その人たちは志のある人たちで、その志をずっと持続させてきた。そして、これら施設は一定の役割を果たしてきた。その実践・研究の中身はこれらの人たちの多くの書き物である程度知ることができるが、それを外から見た研究はなく、これからなされるべきだと思う。ここでは、挿話的なこと、そこに不在であったこと、しかしそれが何ごとかを意味しまた効果したと思うことを二つ記す。
 一つ、白木においても他の人々においても、府中療育センターであったできごとのことは書かれない。白木や椿は学生から突き上げられた苦渋は語る。他方看護師の人たちは、「難病」の方にいて、騒ぎを起こした学生に直接に対したわけでなく、その経験はないから書かない。それは当然だ。だが「府中療育センター闘争」と呼ばれるものは実在した。そこにいてこの騒ぎを起こした人たちことについて言及した文献がなく、それはよくないと思ったから、一九九〇年に短く記した([199010→201212:272-275,339-340])。その時にあげた文献は略す(それ以後の文献は440頁・註09に紹介)。ただ、NHKが二〇一五年に関係者の幾人かにインタビューをしている☆29。そして(『現代思想』連載でこの辺りを書いていた)二〇一八年七月一日に三井絹子とその夫の俊明が多摩市で講演をした(三井[2018])。
 それは施設をつぶせといった勇ましい運動ではない。まずは(少なくとも私はよくわかっていなかったことだが)「重心」の部分を残して「重度」の部分を移転させようという計画に反対する運動であり、△254 そこから始まった運動だった。七〇年十二月十四日の『朝日新聞』に「重度障害者も人間です」。三井(当時は新田)絹子の手記(新田[1972])が『朝日ジャーナル』に掲載されるのが七二年十一月十一日。白木の任期は六八年四月から七〇年六月まで(副院長は大島)、「重心」を規定する基準としての「大島分類」でその名が業界に残っている大島一良(一九二一〜九八)が七二年四月まで(森山[2004:108])。『朝日新聞』の記事が載った時には白木は院長を辞めていて、新田の手記が出た時には大島も辞めている。ただ、七三年十二月五日の『朝日新聞』に「白木教授との公開討論会を 府中センターの療養者」、十二月二八日の同じ新聞に「身障者ら越年座り込み 都庁前 白木元院長の退任要求」と、この時点で白木はこの問題から逃れられてはいない。
 その白木が社会の危機を語り、未来を展望し、東京都における具体的な体制を構想するという大きな話をしている文章――さきに長く引用した――は『都政』という名の雑誌に掲載された「美濃部都政下における医療の現状と将来像」(白木[1971])という第の文章だ。ここには何も書いてない。その二年後『ジュリスト臨時増刊』に掲載された 「自治体(東京都を中心に)の医療行政の基本的背景」にも事件についての言及はない。ただその終わりは、「客観的にみて、できるかぎりの正確な認識に立つ今後の見通しのなかで、また毀誉褒貶のあらしのなかで、身を見失うことなく、忍耐強い実践行動への発条となりうるものがなにかをのべたつもりである。したがって、それは、筆者自身のものであり、読者諸賢に押しつけるつもりはない。」(白木[1973c:247-248])となっている。闘争・騒動に具体的にはまったくふれられていないが、事態は少なくとも知られているということだ。
 そして府中の同じ敷地にあったという病院や研究所にいた木下や川村の著書や編書のたいがいにあたったつもりだが☆30、そこにもやはりでてこない。木下や川村は施設としては(3)が関わる「難病」の方が専門で、(1)の「重心」にも「重度」にもあまり関わりがなかったという説明も可能ではあろう。ただ、△255 同じ敷地にあった施設で起こり、報道もされたできごとである。だが、出てこない。ただ一箇所、『難病患者とともに』(川村・木下・山手編[1975])のなかに、六八年の暮れ、「美濃部都知事は療育センターを視察し、センターを終生の収容施設とみなすのは不適当であり再検討を要すること、少なくとも重度関係は早急に分けるべきこと、を指摘した。このような指摘に基づいて、療育センターのありかたについての検討が活発に始められた」(中島[1975:68])という文章だけはあった。先に記したように、発足の経緯として、当初予定になかった「重度」の部分が加わったことが、この時点で既に問題になり、切り離す(移転する)計画があったこと(だけ)が記されているということである。切り離し(人里離れた施設への移転)に反対する運動にはふれないが、切り離しが――書かれている限りで理由は判然とはしないが――必要でありそれが開設の当初から、つまり反対運動の前から正当なこととされていたことは書かれているという文章になっている。
 問題は「重度」の部分に起こった。そこにいた人に文句を言える人がいて、処遇――私も記したことがある、普段の生活の、入浴や用便や外出等に関わる処遇――に対する批判がなされた。(当時は丸の内にあった)都庁の前でのテントを張った闘争があって、都の役職者はやがて出てくるが――院長他は出てこない。今年の七月一日の講演会より。三井絹子が講演者だが、夫の俊明も話している。
 絹子:院長は次々と。実験が済むと次の新しい人になり、また来てまた実験をして新しい人になるって感じで、次々と替わっていました。私たちはモルモットでしかない存在でした。院長が替わったところで私は何の変化も感じなかったです。
 俊明:[…]たとえば白木博次っていう東大の教授で、その人が院長になったことがありますけれども、その人のレポートを見るとですね、「なんでこんなに役に立たない人間にたくさん金をかける△256 んだ」みたいなことを書いています。だけどそんな人間がですね、水俣病の研究みたいなところでは良い医者というふうに見られたりっていうことがあったりしました。(三井[2018])☆31
 きっと院長たちに自ら実験する時間的他の余裕はなかったと思う。また、さきに見たように、役に立たない人間に金を「かけるべき」だと(かけるための根拠他を追究するべきだと)白木は言っているのでもあった。ただ、そこに住んでいて抗議した人(絹子たち)、それを支援した人(俊明たち)はいま引用したように思った、そしてそれから五〇年を経た今も思っているのが事実だ。白木には忌まわしい学園闘争の記憶があり、このセンター闘争に幾つかの党派が関わったことも一方の事実ではあり、面したくない気持ちはわからないでもない。ただ、構想され建設された施設の中でのことは、ないかのごとくにされ、別の立派な実践や構想が語られたのである。
 もう一つ、私がもっと大切だと考えるのは、その医師・医学者や看護師たちが関係して作って護ってきたものと、ここで遮断され、いないことになっている人たちが作ってきたものの間に断絶と対立があることだ。まず断絶について。三井や三井の兄で同じセンターを出所した新田勲(一九四〇〜二〇一三)☆32は、その後の約四〇年を介助(介護)の制度を作りそれを地域に実現することに専心した。そして、そんなことがあったから、新田が住んで役所と交渉を続け相対的に制度が進んでいた東京都練馬区で、日本ALS協会の会長なども務めた橋本操が単身独居(に近い)生活をすることができたことは『ALS』にも記した。しかし、そうした制度のことは、その人たちが編集・監修して出版された「在宅ケア」について出されるたくさんの本に出てこない。あるのは、新宿区保険障害福祉部資料(一九八五)を引き写した「重度脳性麻痺者介護人派遣 給付内容:本人の指定する介護人の介護を受けるための介護券を月十一枚公布します。対象:二〇歳以上の脳性麻痺者で身体障害者手帳一級の方」(伊藤△257 [1988:226])といった記載だけだ☆33。
 そして対立について。在宅看護・難病看護を進めた人たちは、やがて、「医療的ケア」を誰が担ってよいかという議論――『ALS』に基本的に考えるべきことは述べてはあるが、このできごとについても研究がなく、これもまた嘆かわしいことだと思う――において、それは看護師の仕事であるという主張を強く長く維持することになった。技術は必要であり安全は大切だが、その条件を満たせるなら誰でもその仕事ができるのが当然だという立場に反対した。」(立岩[252-258])
★24 一人が岩楯恵美子(1951〜)。著書に『私も学校へ行きたい――教育を奪われた障害者の叫び』(岩楯[1978])。一人が猪野千代子(1936〜1999)。介助者をしていた瀬野喜代へのインタビューの記録(瀬野[i2019])がある。
★25 著書に『抵抗の証 私は人形じゃない』(三井[2006])。NHK戦後史証言プロジェクト「日本人は何をめざしてきたのか」・2015年度「未来への選択」によるインタビューの記録(画像・音声・テキスト)が残されている(三井[i2015])。私たちは「生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築」という企画を進めている。私たちが行なったインタビュー記録をリスト化しその全体を公開している→「インタビュー記録等」。現在130ほどがある。そこにはNHKによる三井へのインタビューなども含めている。みなさんからの提供、みなさんの参加を歓迎する。
★26 「生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築」の頁には「故人の一覧」もある。それを見ると2013年の物故者で私たちのサイトにいくらかの情報がある13人があげられている。その中にはさきにあげた横田弘(第5章「始まり1・「母よ!殺すな」)、第1章(38頁、註07)で紹介した杉江眞人がいる。
★27 自伝に『愛雪――ある全身性重度障害者のいのちの物語』(新田[2012])。対談(新田・立岩[2009])は『足文字は叫ぶ!』(新田編[2009])に収録されている。じつは私たちは1980年代後半にも三井や新田にインタビューしているのだが、その記録が残っていない。それがいかにも残念で、今ごろになってアーカイブなどど言っているのでもある。
 立教大学の大学院生をしながら長く新田の介助者をして、その新田たちの世界を描いた博士論文を書いて、それが本になったのが深田耕一郎の『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』(深田[2013])。
★28 『そよ風のように街に出よう』にその雑誌について書いた文章の一つが、80号記念特集ということで書いた(81号に載った)「そろいでもってます」(立岩[20110725])。
 「私が自慢できることは数少ないのですが、その一つが、本誌を創刊号からそろいでもっていることです。(もう一つ自慢できるのは、『(季刊)福祉労働』もそろいでもっていることです。あとは[…]そのぐらいです。)一九八〇年代のなかばに、みな送ってくださいとお願いして、「0号」はコピーで、どさっとそれまでのを購入したはずです。本誌があることはもっと前から知っていたから注文したのですが、最初にどこで見たかとか、だいたいなんでも覚えてないです――『福祉労働』を神田三崎町の現代書館に直接うかがって、まとめて買ったのはなぜか記憶にありますけれど。
 この雑誌がどうして「お金的に」成り立ってきたのか、みなさんと同じく私も不思議なのですが、聞いてわかったらどうなるというものでもないでしょうから、それはよし、ともかくごくろうさまです、ありがとうございますと言うしかなく、いま私は、「もらったものについて」という文章を書かせてもらい、一回書くと一〇冊いただいているわけです。
 その文章は、二〇〇七年十一月に出た七五号に原稿依頼をいただいて、その時には、誰にもそんなつもりはなかったのですが、一回で終わらず、だらだらと続き、本号に掲載されたのがもう六回目になってしまいました。題名は、本誌に関わる人たちを含む人たちから何をもらってきたのか、というようなつもりの題名です。
 なんでも覚えているなんてことはできないし、忘れた方がよいこともたくさんありますが、なかには覚えておいて知っておいてもらった方がよいこともあるように思います。本誌が始まる前から始まって、本誌が始まり、そして続いてきたその間のできごと、人々が考えたり言ったり書いたりしたことには、忘れない方がよいことがあると私は思っていて、私のその行ったり来たりの文章では、その中味というよりは、「予備知識」みたいなことをちょっと書いてみたりしています。見ていただけたらありがたいです。話の順序とかでたらめなのですが、そのうち、整理しなおして、来年あたりには出るだろう本の一部にしてもらおうかと思っています。横塚晃一(一九三五年〜一九七八年)の不朽の名作『母よ!殺すな』(初版一九七五年)を増補・復刊させた(二〇〇七年)生活書院から出してもらうことになろうかと思います。もしそんなことになりましたら、そちらもよろしく。
 本誌のバックナンバー他は、現在、みな「(立命館大学)生存学研究センター」(別の名前もあります)という――ほんとうに――怪しい「研究拠点」の書庫に置いてあって、見てもらえるようになっています。あと昨年は、こちらで働いてもらっている青木千帆子さんが「共同連」(旧「差別とたたかう共同体全国連合」)の資料を収集・整理してくれまして…、といった話はきりがなく、マニアというかおたくというかの世界に入っていきますので、やめますが、最後に、資料等々、捨てるのであれば「ください」(あるいは購入させてください)。今年、いま記した生活書院から関西の障害者運動の歴史についての本を出すことになる定藤邦子さんやら、昨年から楠敏雄さんへの聞き取り調査を始めた岸田典子さんらもこちらの関係者(大学院生他)です。たんに大切に保管させていただくだけでなく、有効に利用させていただきます。よろしくお願いいたします。」
 もう一つが、「『そよ風』終刊に寄せて」(立岩[20161205])
 「一九八〇年代後半、だから約三十年前ということになるのだが、「自立生活運動」を調べるんだということになった。最初はインタビューをもっぱらやっていたのだが、「文献」もいるよねあるよねということになって、探して集めた。あるものはなんでもという感じだったが、そのなかでまず『そよ風』(一九七九年〜)と『季刊福祉労働』(一九七八年〜、現代書館)はいるでしょ、ということになって、『福祉労働』は(当時)神田三崎町の現代書館に直接出向いてあるものを、当時の担当でそれからもずっと今も担当なさっている小林律子さんから購入した。へんな人が来たと思われたと思う。そして『そよ風』のほうは電話かなにかで注文してまとめて送っていただいた。「0号」はコピーを送ってもらったと思う。
 その後も定期購読者になったりして購入していった。こうして私は、この二つ他を揃いでもっていることが、けっこう唯一の私の自慢であってきたのだ。それらの雑誌・資料はいま全部「生存学研究センター」の書庫においてあるのだが、そこから借り出して返すのが遅れている人がいるらしくて「歯抜け」になっている部分があるらしい。小心者の私はそれを確認するのが怖くてあまり見ないようにしている。というようなことを本誌に連載?させてもらっている「もらったものについて」の第一三回(本誌八七号、二〇一四年一二月)にじつはもう書いているのだった(こういうことも原稿をHPにあげてあるのでようやく確認できたりする)。
 ではそこから何をもらったのか、その一端をその「連載」で書いてきたからそれは略させてもらう。ただ、「スタイル」として、こういう媒体が長くあって来れてきたというのは、私はとても大きなことだと思う。いろんな障害者ものの雑誌はあってきたし今もあるが、その多くについてなんだかなあという気がする。「学術的なもの」はそれはそれであっていいと思うけれども、もちろん皆がそういうものを読むわけでもないし、読まねばならないものでもない。これも他に書いたけれども、『そよ風』だとか、それからジャパン・マシニスト社――なんだこれは?という会社名だが、その解説は略――から出ている『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(一九九三年〜)、『おそい・はやい・ひくい・たかい』(一九九八年〜)などもとても大切な雑誌だと思う。それは私が「もらったもの」をくれた人たちの流れから来たものでもある。その人たちのなかにはわりあい「硬派」な人たちもいたのだが、だからこそ、「堅い」媒体(だけ)じゃだめだということをひしひしと思って、こういう媒体を作ってきたのだと思う。思いさえすればおもしろいものができるかというとそんなことはない。しかし、やるではないか、おもしろいな、えらいなと思えるものもある。そしてそれは雑誌に限らず単行本とか映画だとかいろいろになって出ている。『ち・お』とか『お・は』と略されることのあるその雑誌に関わってきた山田真さんと話した話が『流儀』(生活書院)という本に収録されているのだが、そこでも私はそのことを言っている。山田さんとか、もっとたくさんの人たちがその「育児書」を買って読んできた毛利子来さんの本があってきたことの意味があることを述べている。(そしてそのうえで、それを「そのまま」貰うわけにもいかなかったことについては本誌連載の本号掲載分に書いた。だからすこし私はねじれてはいるのだが、まあそういうところに「学者」というものが存在する意味もあるのだろうと思うことにしている。)
 その『そよ風』が終わるということだ。私は二〇〇二年からは京都にいるけれども、それまでは関西に来るということはそうなかった。ただ京都の前に住んでいた長野県松本市での講演会に編集長の河野秀忠さんに来ていただいたことがある――それも自分で作ったHPのページがあったので一九九八年のことだとわかった。それから小林敏昭さんは楠敏雄さん(一九四四〜二〇一四)を囲む「くすのき研」――小林さんが様々だんどりをしてくれていた――に二〇〇六年に呼んでもらった時にお会いしたのだと思う。あとは原稿の遅れのお詫びとかそんなやりとりしかしていない。この『そよ風』の三七年について、お話をうかがう機会を作れたならな、とそんなことを今思っている。」
 そして「もらったものについて」の最終回(第17回)はこんな具合。
 「これで十七回、長々と書かせていただいた。本誌終刊にともない、これで終わりということになる。最初、本誌編集部・小林敏昭さん(以下文中の敬称すべて略)から「障害者運動の抵抗の根拠のようなものを原理的かつ分かりやすく」ということだったが、そんなことにはけっしてならず、まったくとりとめのないことを書かせてもらった。連載の依頼でもなんでもなかったのだが、第七五号(二〇〇七年十一月)に書いた原稿が結果としては第一回ということになり、以来十年ほど書かせていただいたことになる。
 とくに連載?後半は広告に終始した――それでも、広告は大切だと思っている。前半は個人的な昔話のようなことをいくらか書かせてもらった。整理できたら本にするかもしれないが、そんなものを読んでもよいという人がどれだけいるかということもある。まずは、これまでの分をすべてこちらのHPに載せてある――「立岩真也 もらったもの」で検索してください。さて今回は、そんなに古くない昔のことを調べたり集めたり書いたりすることについて。」
 この後のこの回の目次・見出しは「『相模原障害者殺傷事件』」「島田療育園での脱走事件」「高野岳志」「福嶋あき江」「記述すること/「べき」を言うこと」「病者障害者運動史研究」/。そして最後の見出しが「私たちは辛気臭い仕事をしていく、から」で、以下。
 「私(たち)は私(たち)ができることをやっていく。それは基本的に辛気臭い仕事だ。それだけでは元気がでない。そして元気がでる/出させるところに『そよ風』はいてきた。それが終わるのは残念だ。けれども様々な伝え方は様々なかたちで今もあるし、これからもあり続けると思う。思うから、私(たち)は辛気臭い仕事を続けていける。△067」(立岩[20170905]
★29 増加改訂版(第2版)ではまったく加筆はないが、第3版には尾中の「文庫判追記」がある。
★30 岡原は『生の技法』でもう一つ、「コンフリクトへの自由――介助関係の模索」(岡原[1990→2012])を書いている。両方に「文庫判追記」がある。感情の社会学・感情社会学の方面では『感情の社会学』(岡原他[1997])、『ホモ・アフェクトス――感情社会学的に自己表現する』(岡原[1998])。
★31 いくつかのインタビューを行なっている。楠敏雄(1944〜2014、竜谷大学)について資料集を作った(立岩編[20141231])。
 山下幸子の『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(山下[2008])。


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第6章・註
★01 見田宗介真木悠介の名前でも文章を書いた。次の註の[…]の部分
 「真木悠介名の著書『現代社会の存立構造』、『気流の鳴る音――交響するコミューン』はいずれも一九七七年の発行となっている。その二年ほど後の見田さん(と呼ばれていた)のゼミに私たちは出ていたことになる。それは、学校の制度外のゼミであったように思う。新入の一年生を含め参加することができた。見田さんのことは大学に入るまでまったく知らなかった。同級生からおもしろいらしいと聞いた。学校の掲示板に、なにか短い文章を出すようあったので、書いて出して入れてもらった。当時はたしか柳田国男の『明治大正史世相篇』などを扱っていたと思う。ものごとを分析するその手際、切れ味のよさに驚いた。見田さんは、だいぶ後のことになるが、『朝日新聞』で論壇時評の欄を担当していた時、本誌『そよ風のように街に出よう』『季刊福祉労働』とをあげて、そのいずれかだったかの発刊何号だか何年だかを讃えたことがあった。そのゼミの先輩には大澤真幸もいて、しかし二年上ですぐに会うことはなく、といった話をしていると先に行けない。」(立岩[20071110])
 「例えば真木悠介[1977]はきわめて用意周到な作品である。手段的に相手に関わること、結果として関係が相克的なものになること、それを排することはどうも無理のようだ、という感想に対しては、「手段性が優越した関係」が問題なのだとする。ではどうするのか、より本源的な関係に「戻る」のか、戻れるのか、という問いに対しては、関係の進行によって、かえってその問題が意識されることになるとする。また、戻るのではなく、新たな関係が模索されるのだという。分業の否定が可能かという問いに対しては、分業自体を否定するのではないと言う。「所有」という言葉一つにしても、もっと豊かな意味が与えられ、それからの縮減として近代的な所有が捉えられている。このように、体系として、完成され、完結したものになっている。真木[1971]に示された思考の方向は、右の「存立構造論」にまず結実し、また「比較社会学」へと展開していく。そして真木[1993]は生物学の知見を援用しつつ(その使い方は見事なものである)「自我の起源」を問う。」(『私的所有論』第7章注☆24、 立岩[1997→20130520:535)
 これを読む限りではよくわからないだろうと思うが、大学院生だった時の私の仕事は、その「存立構造論」がどうもうまくないと思ったうえで、ではどのように論をくみ上げていくかと考えるというものだった。
★02 検索したら「もらったものについて・1」(立岩[20071110])に書いてあった。
 「勝又裕司という私より四つ年上の脳性まひの男性が、和光大学を卒業した後、見田宗介(真木悠介)先生のゼミにもぐりで来ていて、彼はその当時世田谷に住んでいたのだが、その家への送りを手伝うというようなことがあった。[…]勝又は後に一人暮らしをするんだということになって、その住居探しを手伝ったことがある。私が不動産屋まわりについていった日にようやく決まった。その流れで、しばらく、その人の介助をときどきすることがあった。その時はもう私は本郷の文学部の学生になっていて、彼も本郷の近くの西片に住んでいた。ここでも彼はもぐりの学生をしたりしていた。院生になってもすこし介助はしていたかもしれない。私は有償介助を強く支持する立場の人間だが、その仕事では金はもらわなかった。ただ、帰りにそこでシャワーを浴びてくる(銭湯だと金がかかるので)といったいささかの利得はあった。夕飯を作っていっしょに食べたが、材料費を折半ということもしなかったと思う。仕事自体はべつにきつくなかった。ただ、介助者のローテーションを決め、予定表を埋めるために電話をかける仕事をさせられた。これはなかなかつらいものがあった。」(立岩[20071110]
 この時期の、比較的に若い身体障害の人たちが親もと離れて暮らすという型の「自立生活(者)」の概要については『生の技法』第2章の「「出て暮らす」生活」(立岩[19901025])。
『差異と平等――障害とケア/有償と無償』表紙 ★03 『差異と平等』(立岩・堀田[2012])に堀田が書いたのは第T部第3章「ケアと市場」(堀田[2012])、第4章「ケアの有償化論と格差・排除――分配バラダイム・制度主義の意義と限界」(堀田[2012])。私の担当部分は、「無償/有償」([20120610])、「差異とのつきあい方」([20120610])。
★04 村上潔との共著書『家族性分業論前哨』(立岩・村上[2011])に収録されている「近代家族の境界」(立岩[19921000])。近代家族は合意によって形成されるものとされるが、家族に課される義務は合意から生じることはなく、それと別に政治的・法的に規定されている。家族社会学その他がそのことに自覚的でないことが不思議であると「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」(立岩[19921000])で述べた。
★05 長大な引用を続けた第5章註09でもそのことを述べている。
 「□嫌いだが別れられないということ
 […]どんなところがおもしろいのか。いくつか言い方があると思う。一つの答は、「社会に反対しながら、社会から得るしかないものがあるから」、というものだ。
 世の中が嫌いだが、そこから離れることもできない。本人にとってはひどく煩わしい迷惑なことだが、はたから見ている分には、とてもおもしろい。そんな人のことを追っかけていくと、この世がどんな世なのか、また、どうしようがあるのかわかるように思う。
 一人である場合。条件がそろえば逃げることはできる。あるいは今のままでやっていける。そしてそれは、本人にとって面倒でないから、よいことだ。まず、蓄えを使って慎ましくやっていくなら、あるいは自給自足でやっていくつもりなら、俗世を離れてやっていけるかもしれない。他方で、自分で稼げるなら、今の社会のままででもやっていける。しかし、障害が(十分に)あると、逃げるにせよ、混じるにせよ、簡単なことではない。
 次に徒党を組むことに関して。この社会が気にいらないとして、そこから離れてそれでやっていけるのであれば、分離主義という道もある。実際、いくつかの社会運動についてはそんな流れもなくはなかった。例えば、男が敵だということに決まれば、女だけで暮らしていくという道はある。文明が敵だということになれば、自然の中で生きていくという手もある。集団内での生産・消費が可能であり、差異が理由とされる抑圧があり、また自らのものを大切にしていきたいと思う場合に、その集団だけで独立し、独自の「国」を作っていくという道筋はありうる。実際にはそこまで行かないにしても「デフ(聾)」の主張にはその方向への傾きがある。
 しかし、「できない」という意味での障害が一定以上である場合、障害者だけで暮らしていくことはできない。支援する人たちが少数であっても、きちんといれば、その範囲でやっていける場合もある。しかし、その中にいる人たちは、その外側にいる人より明らかに疲れる。実際、そんな集団は自壊することがおうおうにしてある。そして広がっていくことが難しい。皆が救われるべきだという「大乗」の立場をとるのであれば、この道は行けないということになる。
 この社会で自分たちは最もわりを食っている、その限りでは、この社会は敵であるのだが、しかし、同時にそこにいる人に手伝わせたりしなければならない。強い批判を向けながら、しかし、そことやっていかなけれはならない。どうやってやっていくのか。すくなくとも「社会科学」をやっている人にとっては、これはおもしろい。そこから受け取れるものがあるはずだと思う。
 そして私の修士論文で詰まってしまったのも、そしてそしてその後続けたかったのも、いろいろと文句を言った後で、話をどこに「落とす」のかということだった。「文句はわかった、で、どうするの?」と言われる。そのことを考えることでもあった。
 幾度も書いてきたことだが、私の、団塊世代などと呼ばれる私の前の世代に対する気持ちは、「よいことを言ったけど、その続きがないじゃないか」というものだ。それは、問題がたしかに難しかったからでもあるのだが、続きを考えなくてもすんだからでもある。つまり、「世の中が変わればよい」とか言っても、言うだけで実際には変わらなくても生きていけたのだ。つまり、就職すればよかったのである。しかしそうはできない人たちは、続きを続けざるをえない。言うだけでなく、実際になにかせざるをえない。ならばそれは、続きを考えようと思う私にも何かをくれるはずだ。
 と、そんなことを思って調査を始めたわけではない。そしてそれからの数年間、調べてまとめるのに手間がかかり、アルバイトも忙しく、私は一九八八年と一九八九年には論文を一つも書けないということにもなった。ただその過程で、その後にもつながるいろいろなものをもらったと思う。」
★06 社会がいくつかに分かれていること、その境界を問うとよいと幾度か述べてきた。余裕があれば、一冊にまとめたいと思っているが、今のところ具体的な目途はたっていない。これまで書いたものとしては「こうもあれることのりくつをいう――境界の規範」(立岩[20050825]、盛山他編[2005]所収)。その第3節が「4つについて」。「1 自発性…」、「2 家族」、「3 市場」、「4 国家」。
 「次に、第二のものとしたことは、誰もが知っているように、のっぺらと一つ社会があるのではなく、経済/政治/家族/その他の自発的な行為の領域――という名付けが妥当かどうかはおく――という具合に社会が編成されていることであり――例えばパーソンズが様々に持ち出す4つにしても、メディアについてのルーマンの議論にしても、これらを把握しようという志向があるだろう――、これらの各々が何をなすのか、これらの間の関係について考えるということである☆03。これらが相互に関係しあっているのはもちろん誰もが知っている。ただ単に相互に影響を与え合っているのではない。境界自体が社会内的に規定されている。例えばある形の家族を規定しそれに義務・権利が付与される、あるいはある義務・権利が付与される単位としての家族が他の関係から取り出される。これは政治が法による規定において行なっているものでもある。
 それを相手にする仕事をもっとしよう。例えば家族と(家族外の)自発的な関係・自発的な活動の領域との境界、そしてその境界設定に関わる領域について、という具合に、4つのものの他の3つとの相互関係、合せて6つ、そして、その各々に関わる他の2つずつとの関係、計12といった具合に組み合わせてその各々について述べてもよいだろう。しかしここではそのような論の運び方をしない。「天下国家」について論ずることが、少なくとも社会学において、そして社会学に限らず、しばらくあまりなされなかったのだが、それはつまらなく天下国家を語ってしまってきたからだと私は考えている。そのことから述べていくことにする。」
 『社会が現れるとき』(若林・立岩・佐藤編[2018])に収録された「でも、社会学をしている」(立岩[20180420])より。
 「2 そう思う2――社会の分かれ目について
 二つめ。社会がいくつかの領域に分かれている、その諸領域の編成・境界設定がどうなっているのか(またどうあるべきか)という捉え方をし描き方をすること。これは私にとっては、一つめの主題の後にやってきた。一九九〇年に最初の共著の本『生の技法』を出してもらったのだが、その本になった調査をしているときにそのことを思った。学部の授業のその話の始まりなどでは、学生にわかってもらいやすいと思うから、その本に書いた話から始めることがあった。つまり、介助も必要でそれ以外にも暮らしていくためのものが必要な人たちがいる。その人たちは市場で自分の労働を売って必要なものをまかなうことができない。そうした人たちは、家族によって扶養・扶助されることになっていたし今でもおおむねそうなのだが、その家族を頼れない人頼りたくない人がいる。とくに頼れない人について、政府・政治が面倒を見るということになるのだが、そのために用意される施設がいやだという人がいる。そうして家や施設から脱走した人たちのことを私たちは調査したのだが、その人たちは当初、(介助については)ボランティアを頼った、しかし…という具合に話が続く。つまり市場、政治、家族、自発性の領域と社会は仕切られている。その仕切られ具合を見て、そのあり方を考えようというのだ。」(立岩[[20180420])
 「私はそのように見ていくのもまた社会学の伝統に連なる道だと思う。政治学や法学は政治を対象にし、経済学は(主に市場)経済を対象にする。それはそれでけっこうなのだが、おもしろいのはそれらの間の境界、関係であり、社会学はそれを相手にすることができる。ただ四つという数が似ているというだけでないパーソンズの体系にもそんなところがあるだろう。ここでも一つ挿話。入学(一九七九年)したての一時、私はどんな性格のものであったのか記憶の定かでないゼミのようなものに出ていて、西部遭のグループ?にいてその話を聞いたことがある。彼は経済学の授業ももっていて板書している途中で数式がわからなくなったり学生の私語に怒って教室を出て行ったりという可愛いやんちゃな人でもあったが、パーソンズのことを口にしていた。『ソシオ・エコノミックス』(西部 1975)は一九七五年の出版。左翼をいくらかやり、近代経済学に移ったがそれにも馴染めなかった人が行く先としてそれはあっただろう。その後のことはよく知らぬこともあるゆえ略。その時にはそうおもしろいとは思わなかったパーソンズについても略。またやはり四の数になっているルーマンのメディア論と呼ばれるものも[…]」(立岩[20180420])
 西部は2018年の1月に自殺したそうだ。
★07 『福祉社会事典』「他人介護加算」(立岩[19990515])に以下(全文)。
 「生活保護の生活扶助の加算の一つに介護加算があるが、その中に家族介護加算と別に他人介護加算がある。家族外の介助により生活する場合、介助者に支払われる費用として支給される。自立生活を始めた人達の要求運動によって、厚生大臣が承認した場合、1975年度から例外的に特別基準での支給が行なわれるようになり、これが介助を得て暮らしていく上での有力な手段となった。さらに1991年度から、原爆者特別措置法の介護手当を引き上げたのに合わせ、支給額が改善されるともに知事の承認による特別基準が新設された。1998年度の月額は7万1400円、特別基準では知事承認10万7100円、厚生大臣承認の上限(地域により異なる)が月額18万4100円である。」([立岩[19990515]])
 1992年から1996年にかけて『季刊福祉労働』で全15回「自立生活運動の現在」の連載をした。その第6回が「生活保護他人介護加算」(立岩[19930925])。連載の一覧は以下。全文を読むことができる。
・19920625 「発足二年目の自立生活センター・立川――自立生活運動の現在・1」,『季刊福祉労働』55:150-155
・19920925 「自立生活プログラム――自立生活運動の現在・2」,『季刊福祉労働』56:154-159
・19921225 「東京都地域福祉振興基金による助成事業――自立生活運動の現在・3」,『季刊福祉労働』57:130-135
・19930325 「全国自立生活センター協議会(JIL)――自立生活運動の現在・4」,『季刊福祉労働』58
・19930625 「東京都重度脳性麻痺者等介護人派遣事業――自立生活運動の現在・5」,『季刊福祉労働』59:130-135
・19930925 「生活保護他人介護加算――自立生活運動の現在・6」,『季刊福祉労働』60
・199312 「障害者総合情報ネットワーク・他――自立生活運動の現在・7」,『季刊福祉労働』61:153-158
・19940325 「当事者組織にお金は渡るか→地域福祉振興基金・他――自立生活運動の現在・8」,『季刊福祉労働』62:153-158
・19940625 「社会的支援システムの変更――自立生活運動の現在・9」,『季刊福祉労働』63:100-105
・19940925 「ホームヘルプ事業はもっと使える――自立生活運動の現在・10」,『季刊福祉労働』64:144-151
・19941225 「第六回自立生活問題研究全国集会・他――自立生活運動の現在・11」,『季刊福祉労働』65:146-151
・19950325 「大阪市立自立生活センター?「ピア大阪」――自立生活運動の現在・12」,『季刊福祉労働』66:145-150
・19950925 「NPOがやっていること、やれること――自立生活運動の現在・13」,『季刊福祉労働』68:146-151
・19951225 「「公的介護保険」をどうするか――自立生活運動の現在・14」,『季刊福祉労働』69:155-162
・19960325 「NPO法+人を雇う→おもしろいことをやる――自立生活運動の現在・最終回」,『季刊福祉労働』70:155-162
★08 上記の連載の第5回が「東京都重度脳性麻痺者等介護人派遣事業――自立生活運動の現在・5」(立岩[19930625])
★09 高橋修たちが始めた「自立生活センター・立川」についての記事が連載の初回になった。「発足二年目の自立生活センター・立川――自立生活運動の現在・1」([19920625])。
★10 1995年、『生の技法』の増補改訂版に新たに加えた章「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」(立岩[19950515])に以下を記した。
 「いくつかの制度があり、それらは多くの場合併用されている。併用によって、立川市・田無市・東久留米市(九三年度から)、日野市・練馬区(九四年度から)の五つの区市で毎日二四時間まで有償の介助を得られる。二十年来の目標が一部で一応果たされたことになる☆25。地域間格差は確かに大きい。だがそれでも[…]」(立岩[1995051:391])
★11 推移について、『生の技法』初版の「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」(立岩[19901025])、第2版(増補改訂版)に新たに加えた章「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」(立岩[19950515])、第3版に加えた「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」(立岩[20121225])をつなげて読んでいくとだいたいのところがわかる。
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙 ★12 この「協議会」は運動をけん引した新田勲(第5章「はじまり2・府中療育センター」)たちの「全国公的介護要求者組合」から分かれて設立された。その経緯について、またこのことをどう見るかについて、「組合」の中心で活動し、そこから別れて設立された「協議会」の側に着いた高橋修について書いた文章「高橋修 一九四八〜一九九九」([20200110])に記した。この文章は『弱くある自由へ 増補新版』(立岩[20200110])に収録されている。
 「九一年八月から副委員長を務めていた公的介護保障要求者組合の方は、九五年九月に委員長に就任する。しかし、九七年九月に辞任する。この時、「組合」から別れ「協議会」(全国障害者介護保障協議会)が発足する。高橋たちは以後この「協議会」で活動を続けていく。私は以前の稿([200105])ではこのことにふれているが、検討していない。しかし気にはなっていた。そのことについて考えて述べる。まずその前に、私はずっと基本的に「協議会」の側についてきたことは公平のために言っておく――ちなみにこんど国会議員になった木村英子は、新田たちの後、「組合」の委員長を務めた。
 私はその頃にも高橋との関わりがあり、その年のちょうどその頃八月末から九月の初めには一行が英国に行くのに付いていったりもした(後述)。ただ分裂について高橋から聞いたことはないように思う。決定的な分裂は英国行きの後だったのかもしれない。聞けばよかったのかもしれないが、聞かなかった。それから二〇年が経った。どのように考えるか。」(立岩[20200110:426])
★13 このことを書いた文章を第3章註15で紹介した。
★14 私たちのサイトに「重度訪問介護の入院中の利用」の頁がある。障害学会での報告として「入院時の重度訪問介護利用をめぐる問題――国立病院機構における政策上の課題」(長谷川他[2019]、[DOCX])。
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙 ★15 木村英子について『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木他[2019])の「はじめに・いきさつ」(立岩[20190910])でふれた。
 「(「ぎりぎり」の後の)ほんとうの作業最終日の今日(〔2019年〕七月二一日)は参議院議員の選挙の日で、れいわ新選組から木村英子が立候補しているのだが、私と石川准はその人に、一九八六年三月、東京都国立市の喫茶店スワンでインタビューしているのだ(赤窄[i1986]=木村[i1986])――今回は文献表に同じものを二つ載せてみた)。当時は赤窄(あかさこ)英子だった。B5の紙三四頁の記録がある。それ以来、彼女にはたぶん一度もお会いしていない[…]ただ、何度か彼女のことを聞くことはあった。近いところでは二〇一八年九月、宮崎市で山之内俊夫にインタビューした時(山之内[i2018])だ。山之内は東京でずいぶん木村に鍛えられて宮崎に戻ったのだと話した。さらに加えれば、私は昨日(=投票日の前日)、二〇一六年七月二六日に相模原の施設で起きた殺傷事件に関わる本の紹介を『朝日新聞』に書いたのだが(立岩[20190720])、そこで紹介した本の一冊は「生きている!殺すな」編集委員会編[2017]で、そこには木村の「私が地域へ帰るとき」(木村[2017])も収録されている。さらに[…]
 こんなふうに、途切れながら、いろいろがつながっていく。ここまで書いて、寝て、七月二二日夜明けのだいぶ前、最後の仕事をと起き出したら、木村英子当選確実〜当選、との報あり。」(立岩[20190910:11-12])
★16 舩後靖彦についての『ALS』における言及。【239】はその本における引用の通し番号――『ALS』の半分ぐらいはALSの人本人の文章からの引用で、それに私は遠し番号をつけて、次にその人やその文章が出てくる時などわかるようにしたのたった。
 「【239】「ALSは発病後、徐々に筋肉が萎え、全身が麻痺して、平均三年ぐらい後に呼吸が出来なくなる病気です。/この時点で患者は、/@呼吸器を装着する。/A人生をまっとうする。/のどちらかを選択しています。これがALSの超ミニ概略です。/さて皆さん@とAどちらの選択数が多いと思われますか? 実はAです。/▽理由は様々ですが、一つ挙げるとするならば、諸多の事情により在宅にての介護を受けられない場合、呼吸器を着けた患者の長期受け入れ施設の絶対数が不足している為、呼吸器を装着して力強く生きてゆく事を選択しにくい為です。/これは一例ですが、この問題をもクリアして、逞しく人生を謳歌なさってるかたもいらっしゃるでしょう。△」(舩後[2002a])」
 この他舩後[2002b][2003][2004]を紹介。その後に刊行された本に『しあわせの王様――全身麻痺のALSを生きる舩後靖彦の挑戦』(舩後・寮[2008])。
 2019年10月10日に2人の主催で「介助をつけての社会参加を実現するための院内集会――障害者の完全参加と平等にむけて」を開催→その案内(PDF)
★17 情報をこれから集めていく。国会質問としては、「重度訪問介護等を就労・通勤・就学・通学にも使えるようにすべきことに関する質問主意書」(早稲田夕季[20200226])。
★18 『日本労働研究雑誌』の特集の巻頭言に「この問いはかなりきっちり考えて複数の答しか出ない」(立岩[20140425])。以下そのが全文。
 「「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」という文章を書いたことがあり、拙著『希望について』(青土社、2006)に収録されている(もとは2001年の『季刊社会保障研究』に掲載)。基本的なことはそこに書いたつもりでいる。また私が関わって立命館大学生存学研究センターのHP(「生存学」で検索→../)にも――このごろこのテーマを専ら研究している大学院生がいないといったことがあり増補更新が滞っているのだが、少なくともしばらく前までの――そこそこの情報がある。そちらもご覧いただければ(さきのHP「内」を「障害者と労働」等で検索)。
 ここではごく基本的なことを。一番単純には、「障害」に対応する英語は disability であり、労働は ability を要する行ないであり、ability がなければ仕事にはつけない、収入も得られない、終わり、となりそうだ。そして私自身は、そこからものを考えてきたところがある。働けないものは働けない、は事実として、ゆえに得られないのはおかしい。では、というようなことである(『私的所有論』、現在は第2版・文庫版、2013)。
 しかしもちろん、第一に、あることができなくても他のことができることがある。第二に、できる/できないは1か0かといったものではなく、所謂「障害者」と名指されなくても、多くの人はある程度はできある程度はできない。これらをどう考えるかが、前段に述べたことと別の、あるいは述べたことを考えた上での主題になる。そしてそこには、働くことの(本人にとっての)意義、社会的に必要とされている労働の量といったものをどう見積もるかという論点が加わる。すくなくともこれらを考慮しないなら、この主題を十分に論ずることはできない。このことは明らかだと思う。そして私の見立てを乱暴に言えば、まず、労働〜生産はおおむね足りているので、無理して労働(できるように)してもらうには及ばない。しかし次に、本人が働きたいという気持ちは(その方が、まともな制度下においては、所得保障だけを使うよりいくらか収入が増えるからという動機を含めて)尊重されてよい。私の場合、このぐらいを前提にして、考えていくことになる。
 そうして考え、現実を見ていったとき、いくつかのことが言えるようになるのだが、間を飛ばして一つ、幾度か述べてきことを。ここのところ(というかだいぶ長いこと)よしとされるのはADA(米国障害者法)的な方向である。つまりある「職務に伴う本質的な機能」についてできる/できない選別することは許容するが、それ以外についてできる/できないによって選別してはならず、「それ以外のできないこと」については「合理的配慮」が求められるとするという仕組みである。
 これはわるくはない。すくなくともいくらかの場合にはこんな方向しか思いつかない。ただ、知られている人には知られているように、例えば米国でこの法律は(その予め限定された可能性の範囲内においても)うまく機能していない。雇用主の側は「配慮」するのは面倒で、そして雇用しないはその「それ以外」ではなく「本質的な機能」によると言い逃れられた場合にそれに反証するのが難しいからである。ではどうするか。すぐに思いつくように「配慮」に関わる負担を雇用主以外にも求めるなら、雇用主も姑息なことをせずにすむようになるだろうというのが一つ。だとして、どの程度までの負担が当然とされるか。そしてこれと、この方法以外の方法は、比べてどこがよくどこがよくないのか。ここで私たちは必ずしも「割り当て」をより古びたものと決めつける必要もない。思い返せば「機会の平等」の限界という認識から「アファーマティ分・アクション」も出てきたところがある。しかし「割り当て」で採用された人は引け目を感じるかもしれない。それをどう考えるか。こうして考えるべきことは続いていく。」
 こうしてまだ考えるべきことがたくさんある。「障害者・と・労働 メモ」(立岩[20200424-])でいくらか考え始めた。上記した「できない・と・はたらけない」と障害者と労働について書いた2つの短文を『希望について』に収録している。この本の第2版の出版ができればと思っている。そこに主題についてのたぶんかなり長くなる論考を収録したい。


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第7章・註
★01 科学技術振興機構・社会技術研究開発センター戦略的創造研究推進事業(社会技術研究開発)の「科学技術の倫理的・法制度的・社会的課題(ELSI)への包括的実践研究開発プログラム」に応募した書類の草稿として「COVID-19から世界を構想する」(立岩[20200623])。
★02 『病者障害者の戦後――生政治史点描』(立岩[20181220])。本書の前にもう1冊、『不如意の身体――病障害とある社会』(立岩[20181130])を出版した。この2冊についていくつかの書評をいただいている。また、天田城介との対談「病・障害から社会を描く――『不如意の身体』『病者障害者の戦後』青土社)刊行を機に」(立岩・天田[20190412])が『週刊読書人』とそのサイトに掲載された。熊谷晋一郎との対談 20190701 「「痛いのは困る」から問う障害と社会」(立岩・熊谷[2019])が『現代思想』に掲載された。
立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙   立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙
★03 2019年11月24日に第8回DPI障害者政策討論集会があり、その分科会の一つが「筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト始動」だった。そこで、あとで「どこに立ち何を言い何をなすか」(立岩[20191124])と題した報告を行なった。同年、『社会福祉研究』から原稿を依頼された。11月の報告にいくらかを加えて掲載してもらうことにした。それが「無駄に引かず無益に悩まないことができる」(立岩[20200401])。以下はその冒頭。
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙  「「障害者福祉における『当事者』性と『自立』観」という仮題をいただいた。そういうことについておびただしい数の文章を書いてきたから、言うべきことについて、それらに加えることはない。「要点」をということであれば、今年中には書いて刊行してもらう岩波新書に書く。「生存学」で検索して出てくる2つのサイト(両方とも立命館大学生存学研究所が運営)の1つ(../)の表紙にある「内を検索」で「自立」で探してみてください。辞典の項目として400字程度で書いたものから、長いものまで、各種ある。『自己決定/パターナリズム』(立岩編[20161031-])という電子書籍?もある。また本年1月に第2版(増補新版)が刊行された『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』(立岩[20200110])に基本的な考察と、初版へのかなりの分量の加筆がある。
 2017年頃から少し関わっている、(旧)国立療養所に長く暮らしてきた筋ジストロフィーの人たちがそこを出て暮らせるようにという、またその施設でもっとよい生活ができるようにしようという企画に関わっていくらかを書く。「社会福祉専門職に求められること」を書いてほしいというリクエストにも応えるものになるとも思うからだ。2019年11月にDPI(障害者インターナショナル)日本会議の政策討論集会で、その活動について報告し、全国の人たち・組織にその拡大を呼びかける分科会があり、短い話をした。以下、その記録に大幅に手を入れ――とくに「専門職」向けの部分を――加筆したもの。あえて「ですます調」を残した。」(それが立岩[20200401]
★04 DPI日本会議全国集会特別分科会「相模原事件が問いかける優生思想」(於:京都)での基調講演(立岩[20170604])という頁はあるが話した内容はわからない。その時の集会のプログラムはそこに掲載してある。この分科会のパネルディスカッションで話をしたのは利光 恵子(優生手術に対する謝罪を求める会)、加古雄一(神経筋疾患ネットワーク、自立生活センターアークスペクトラム)、小泉浩子(日本自立生活センター)。各人が用意した資料も掲載し、上記の頁からリンクしている。
★05 このことを巡る古込さん(2019年の春に死去された)との2017年のメールでのやりとりを『病者障害者の戦後――生政治史点描』に引用している(立岩[20181220:308-309])。
★06 この主題について4冊の単著・共著がある(第8章註03第9章3節)。理論的に検討したものとしては『良い死』(立岩[20080905])。
★07 cf.第2章註3


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第8章・註
★01 周辺的なことを一つ記しておく。「当事者」という言葉について。すっかり業界ではこの言葉が定着した。「障害者」と言わず、「障害当事者」などと言う。
 私自身は当事者という言葉をほとんど使わない。理由は単純で、この言葉には幅があって、「こと(事)にあ(当)たる人」ということであれば、例えば家族も含まれることになる。実際にそのように使われることも多くある。本人だけと家族を含む場合と、ときに違いは大きい。それが混同されないように、私は「本人」でよいと思うので、そのように記してきた。
 しかしそれは、誤解・混同がないのであれば当事者という言葉を使うのはかまわないということでもある。「障害当事者」という言葉を使う人たちはけっして「関係者」を含めてはいない。このことをわかってさえいれば、使うおに反対しない。そしてなんとはなしにネガティブな感じがする「障害者」という言葉よりも(よりは)よい――「障害に面している人」という感じもでる――という受け止め方があるのだろうと思う。
 ただ私自身は長く使ってこなかった。しかし上野千鶴子によると「当事者主権」という言葉を(社会学者が?)使ったのは私が最初だという。まちがいだろうと思って調べてみたら見つかった。
 『生の技法』は1990年に初版が、第2版(増補改訂版)が1995年、そして第3版が2012年に出ている(安積他[1990][1995][2012])。私の書きもので「当事者」という言葉がかなりたくさん出てくるのは、初版の第8章「接続の技法――介助する人をどこに置くか」(立岩[19901025])。この章は1995年の第2版(増補改訂版)では「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」という章(立岩[19950515])に置き換えられており――そこで1990年の章の方は全文をHPに掲載した――、そこには以下のようなくだりがある。
 「介助者の選定や介助内容に関わる決定を誰が行うか[…]。その者が誰であるべきかは明らかだ。介助を受ける当人である。これまで、特に医療、福祉の領域では、行政の担当者、施設の職員、専門家達が主導権を握ってきた。だが、自らの暮らし方は自分で決めてよいはずだ。彼らは生活の自律性を獲得しようとする。自らのこと、自らの生活のことは自らが一番よく知っている。こうして、提供(資源供給)側の支配に抗し、当事者主権を主張する。」(立岩[19950515:229→2012:356])
 また第2版で新たに加えられた第9章「自立生活センターの挑戦」には次のようにある。
 「むろんこれまで見たように、地域での生活と当事者主権という理念は既に獲得されていた。それはCILだけの特徴ではない。そして過去・現在のあらゆる当事者組織が当事者の必要に応えようと活動している。だがこれまで、介助等のいわゆる福祉サービスについては、与える側の組織があって、受け手はそこから切り離されてきた。これは行政だけでなく、ボランティア団体にしても同じである。この当事者の側に渡されず受け手としてしか現れてこなかった部分に当事者が入りこみ、その活動を担おうとする。このことをはっきりと打ち出したのはCILである。」(立岩[19950515:270→2012:417])
 そして、この時期=おおむね1990年代の書きものをながめなおすと「当事者」という言葉がずいぶん出てくる。当時すでに私が知っていたかなり限られた業界ではこの言葉は一般的な語となっており、私もそれを一時期使っていたということのようだ。
 その上野と中西正二が書いて岩波新書として出た『当事者主権』という本(中西・上野[2003])があって、それはだいぶ売れたはずだ。その本の企画の最初に少し関わったこともある私は、本の紹介で著者の一人である中西について「強烈に肯定的なトーンにくらくらする人がいるかもしれない」が、しかしそれだけのことをやってきたと私は思う」と書いたりした。ただそのすっきりはっきりした本は、なんでも自分で決めるのが(他人に指図するのが)よい、それが自立だ、的に読まれうる。そこで、実際にはそのようにはやっていけない、とか、それがよいと言い切れるか、的な話が延々と続いてきた。だいぶこの本に書いてあることと文脈の異なる「介護者手足論」といった言葉もそこに混ぜられた。私はこの種の議論については言うべきことははっきりしていると考えてきたし、そんなことより別のことを調べたり考えたりしたらよいのに思ってきた。それでも、整理はしておく必要はあろうと思い、『不如意の身体』の一部(立岩[2018a:88-91,96])、そして福島の障害者運動についての本『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木他[2019])に収録された章の一部(立岩[2019a:284-302])に記した。ただ、それをさらに整理して示す必要もあろう。岩波新書〔→ちくま新書〕の方に書こうと思う。そこでは、その自己決定主義者中西であっても安楽死尊厳死に反対していて、そこに矛盾はないという、これまで幾度も述べてきたことも再唱する。」
★02 全文は以下。
 「まず二つこの本の意義がある。一つに知らせること。障害者の運動、その中の自立生活センターを作り活動してきた活動は、その主張と実績を見たとき、知られてよいより、ずっと知られてこなかった。もっと知られるべきだ。そのためには、私たちの『生の技法』(藤原書店)のような読みづらい本ではなく、明解で手頃な長さの読みやすく人目を引く本が必要だ。この本が新書で出たことや、筆者の一人が上野千鶴子であることはそのためにもよかった。もう一人の著者の中西はヒューマンケア協会の設立・運営に関わり、またDPI日本会議全国自立生活センター協議会(JIL)等々で中心的な役割を果たしてきた。彼には政策を評価し運動の方向を示す多くの書き物がある。またほとんど寸分違わぬ内容の講演等を全国各地で繰り返してきた(運動とはそういうものだ)。ただその多くはその時々に主張すべきことの骨子、緊急提言の類で、分量も限られていた。今回、新書という制約はあるが、その主張の全容が示された。強烈に肯定的なトーンにくらくらする人がいるかもしれないが、しかしそれだけのことをやってきたと私は思う。長い付き合いで彼の代わりに同じことをしゃべれる人以外は得るものがある。いや、耳にタコという人も、新しい情報があったりするから読む価値はある。二人の著者の間の微妙な(とときに言い切れない)差異や、全体的にうまく運んでいる議論のあらを探したい人は御自由にどうぞ。
 一つにこれからのこと。知らない人はまったく知らないと述べたが、この運動には知られないようにやってきた部分がある。例えば介助制度なら、大きな制度を作るのでなく――作りたくても作れなかった――行政に直接に働きかけできるところから実現してきた。また議論の場としても専門的な委員会等で発言力を強めてきた。しかし、そうして獲得したものが一定の大きさになった時、とくに財政側から問題にされる。より「普通」の制度、例えば介護保険制度との差異が問題にされ、そちらの側に吸収しようという動きが現れる。この時点で議論は表立ったものにならざるをえない。運動側も主張を組み立て、その正当性を広く社会に訴えて支持を得る必要が出てくる。この本では介護保険のことがかなり大きく扱われている。基本的な論点を知るためにも読んでもらいたい。(こうして肝心の「当事者主権」について等、何も書けない。この分量では無理です。乞御容赦。)」(立岩[20040201]
★03 安楽死尊厳死について述べてきたのはこのことだった。本だけで4冊もあると第9章3節で述べて、『良い死』(立岩[20080905])、『唯の生』(立岩[20090325])、『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』(立岩・有馬[2012])、電子書籍?で『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』(立岩編[20170800])を並べた。
立岩真也『良い死』表紙   立岩真也『唯の生』表紙   立岩真也・有馬斉『生死の語り行い・1』表紙   立岩真也『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』表紙
★04 一つには高度な技能によって、一つには(その人=本人のあり方に対する、他人である自分たちの)「自律性」によって、「専門性」を主張し、そのことによって、自らの地位を高めようとする。看護職の人たちは両方を主張した。福祉職の人たちも両方を、とくに後者を言うことになった。そのことについて、『弱くある自由へ』に収録した「遠離・遭遇――介助について」より。
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙  「その人の行ないを手伝うというだけでなく、何を行なうかの決定を手伝う、あるいは本人に代わって采配△302 するといった場合には、仕事は次第にその人に近付いていく。暮らしていくその内実に関わってくる。とくに単に自分で決め管理するのが面倒で手間を省くために仕事の一部を委譲するというのでなく、本人ができない時、あるいはできないとされる時に本人に代わってなされる場合には、本人の抵抗、抗弁の余地が少ないだけに、その人のあり方が決められ左右される可能性が大きい。
 そしてこの部分は、「専門職」の人たちがその「本領」を発揮しようとする部分でもある。言われたことを言われた通りにやるというだけでない仕事がここにあり、そこにその仕事の「専門性」「創造性」を発揮する余地がある。これはたしかに困難な仕事でもあろうけれども自らの存在意義を感じられるおもしろい仕事でもあって、自然なこととして、そうした仕事を手放そうとしない、拡大しようとする傾向もまた生ずる。さらに、こうした援助については、一人一人の必要度はまったく多様であって、その費用を社会的に支払うとすると、それを個別の利用者について算定するのでなく、この仕事の提供者、提供組織に予算を配分することになるだろう。とすると、そのあり方によっては、その活動はそれらの人、組織の力学に委ねられ、その力によってこの部分が膨張していく可能性がある。」(立岩[2000→2000→2012:302-303])
★05 『不如意の身体』第2章「社会モデル」の註13。
 「☆13 身体に触れられること、見られることがある。排泄のことがある。介助の場面における性的な契機、また性的な行為の介助のことがある。[※]
 『人間の条件』([201008→201805:51-58]、T「できなくてなんだ」の6「他人がいてしまうこと」)では、自分が暮らしていた施設の看護婦長(今なら看護師長と言うのだろう)に男性によるトイレ介助について「男女の区別を乗り越えるのが本当だ」と言われ、「だったらなぜ、現在男のトイレと女のトイレを別にしてあるんですか」と抗議した三井絹子の手紙のこと(三井[2006]に収録)、「動かない手足が現実なのだから、自分のお尻を堂々と他人に預けるというのが、私たちの自立となるのだ。[…]プライベートとか個人のテリトリーとかいう考え方は、障害をもった人の現実にはまるで役に立たない考え方であり、ときには害をもたらしさえする」(安積[2010])という安積遊歩の文章を引いた。二人が言ういずれもがもっともなことであるはずだ。そのことをどう言うかということになる。いくらかのことはその本のその箇所で述べている。さらに本書381頁でもう一度引いている。△061」(立岩[20181130:61])
 この註は次の本文に付されている。
 「ただ、機能の中にも、他によって代替できない機能はある。またここには他人が身体に近づく、接触するという契機が存在することがあり、そこには例えば羞恥といった感情が生起することがある。それ △048 には慣れていって気にならない部分もあるが、慣れればすべてなくなるといったものでもない☆13。」立岩[48-49]
 「本書381頁でもう一度引いている」と記した三井の府中療育センターの「婦長への抗議」より。『抵抗の証 私は人形じゃない』(三井[2006])に収録されている。「Nさんは「親しくしている人なら、男の人でもトイレをやってもらっても、いいじゃないか。」と言いましたね。[…]Nさんは男女の区別を乗り越えるのが本当だと言いましたね。だったらなぜ、現在男のトイレと女のトイレを別々にしてあるんですか。」(三井[2006:101]
★06 註05の[※]は「『セクシュアリティの障害学』(倉本編[2005])に収録されている、草山[2005]、前田[2005]。また前田[2009]に関連する記述・分析がある。」となっている。
 『セクシュアリティの障害学』の紹介として「紹介:倉本智明編『セクシュアリティの障害学』」(立岩[20050700])。その全文が以下。
 「全部で八章からなる。おもしろそうな題を拾っていくと「性的弱者論」「戦略、あるいは呪縛としてのロマンチックラブ・イデオロギー」「自分のセクシュアリティについて語ってみる」「パンツ一枚の攻防――介助現場における身体距離とセクシュアリティー」「介助と秘めごと――マスターベーション介助をめぐる介助者の語り」、等。
 「障害者と性」というのはじつは近頃少しはやりのテーマで、きっとそれはよいことなのだろうと思いつつ、すこしうんざりな感じはないではなかった。まず「タブー」ではもはやないと言われて、それはけっこうと思いながらも、かまわないでほっといてくれ、勝手にさせてくれと思うところがある。また「啓蒙」も必要なことだろうとは思いながら、なんだか悲しく、ようやくそのような段階に至ったと人々に思われるのも、なんだかいやな感じがする。そして「弱者」に対する(無償の)サービスとしての性というものも、そんなことがあってよいのではあろうが、人々の少しきわどく怪しい興味とある種の哀れみの感じが喚起され、そのために、けっしてそんなつもりで書かれたのではないだろう本が売れるというのはいやだ、と思う。
 比べてこの本はよい。書き手は「障害学」というものをやっている人たちなのだが、それ以前に障害のある御当人だったり、その人たちを介護してきた人たちであったりする。実際自分の人生をやっていく上で、あるいはその脇にいて暮らしを手伝ったりする上で、様々に起こること、起こってしまうこと、また起こらないでしまうことがどんな具合になっているのか。それをどう料理したら論文や本になるのか、どう書いたらよいものかと思いながらも、書いてみた。そんな本だ。
 また、黙っていたら現状維持、けれどただ「暴露」しても得なことはなく、おもしろくない。そのことをもう知っているから、どうにかしてその先へ行ってみたいという思いがここにはある。
 うまく先に行けたか。読んでみてください。」(立岩[20050700]
 前田拓也は兵庫・西宮の「メインストリーム協会」(170頁・第7章1)の介助者として働いて、その場でのできごとを研究してきた。その著書に『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』(前田[2009])。
立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙 ★07 『弱くある自由へ』に収録された「遠離・遭遇――介助について」(立岩[20000301])より。
 「介助において、愛情とか、コミュニケーションとか、ふれあいとか、そういうものばかりが求められているのではないと述べた。介助と友達つきあいは別々のことだから、少なくとも別々にあってよいことだから、別々に探せばよい。むしろ、介助という場にとくに結びつけられるのはおかしなことである。関わるのが具体的な人であることによってかえって困難な問題が現われてしまうこともある☆68。もちろんその人は無礼であってならないにしても、それ以上のことがその仕事のために近いところにいる人にだけ求められ、その重さがその人にだけ蓄積し疲労させ、摩耗や忘却を招くこともある。まずはそのように言うことはできる。しかしそれでも、介助にそうした関係が伴っていてもよい、その方がよい時があり、そのような援助としての介助が求められることがある☆69。」(立岩[20000301→20200110:319])
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙 ★08 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木他[2019])で私が担当した2つの章のうちの1つ「分かれた道を引き返し進む」(立岩[20190910b])のとくに後半では、かなり大きな全般的なことを書いている。本書・本章に記すこと、そして次の新書に書くことを書いている。
 「介助者との関係のことは、他のことがあまり考えられたり書かれたりしてこなかったのに比べると、かなりの数書かれてきた。たしかに、介助の仕事など自分でやってみればいろいろと感じたり考えたりすることはあり、介助を要する側も毎日気になることではある。しかし、介助者は手足だとか手足でないとか、いろいろと言ってみたりすることはあってもよいのだろうが、もっと他のことを調べたり書いたすればよいのにと思うところが私にはある。
 まず一つ、介助は自分が生きていくに際しての手段である。手段として必要であることは、よいもわるいもない、事実である。次に一つ、介助をする/得る人たちの間に、それだけ以上の関係があることは、仕事と利用に支障がでない限りは、よい。介助者との間だけにそうした友人的な関係があるのは悲しく寂しいから、それは別に求めるべきだという主張がある。限られたところにしか関係がないより別のところにもあった方がよいだろうとはたしかに言えようが、しかし、友人でもあってよいとは依然として言える。人に人として気をつかうのが面倒だという人もいるが、そのことは気にならないという人もいる。むしろ気をつかいたいという人もいる。これもどちらの方がよいということにもならない。気にしたい人を止めはしない。それはわるいことではない。
 ただ一つ大切なことは、その生活のための手段を得たいというときに、そのことが妨げられないことであ△285 る。
 自分の側に人間関係に関わる資源、人を引きつける魅力等ががなければ必要なものを得られないというのではよくないということである。だからとくに介助者と仲良くなりたいわけではなく、感情や魅力を提供できないあるいは提供するつもりのない人でも、必要なものは得られるのがよい。気にしないことが可能であるような仕組みになっていればよいということになる。
 それは有償ということをそのままには帰結しない。介助を得る側が気を遣ったりしなくてすむように、また、行なう側が自発的に行なうことができるなら、そしてそれで質・量ともに十分に得られ、そしてその行ないの人々の間での分布が、ある人たちは行なうが、ある人はそのおかげですっかりさぼってしまえるというような不正な状態でないのであれば、よいとは言える。」(立岩[20190910:285-286])
★09 『不如意の身体』第3章「なおすこと/できないこと」に付した註15。
 「「(介助者)手足論」がしばしば取り上げられてきた。まず、この言葉がどんな文脈にあったかについて小林敏昭[2011]。そして、後藤吉彦[2009]、熊谷晋一郎[2014]、石島健太郎[2018]、等。日常の生活において自律をどれほど求めるかと、社会運動において誰が主体となるべきかはまずは分けられる。後者について、あくまで本人たちが主体であるべきだという主張と行動がなされる由縁は理解できるしあってよいだろうし、同時に、それと異なる方針の組織・運動もあってよいとまず言えるだろう。前者については、専ら手段として位置づける場合とそうでない場合と、これも両方があってよいとまずは言える。そして一つ、いちいち細かに指図すること自体がとりわけ大切だというわけではない。また天畠のように、そんなことをしていたら手間がかかってよくないという場合もある。その上で、一つ、介助者自身が人であり、手段に徹することが困難であること、またそのように振る舞うことを求めてはならないこともある。」(立岩[20181130:96])
 小林は当時その修羅場にいて、(いっとき)この言葉があった文脈を体感的に知っている。多くの障害者が学校にも行けず行かず、「社会性」に欠け、そして運動の進展によって特段の努力をせず知識なく自立する人たちが出てくる。他方、学生運動あがり/くずれの健常者が介助者であるとともに運動の支援者であるといった「学のある」人たちがいて、それに苛立ち、いくらか先走ったりさらに仕切ったりすることもある。それを止めようとしたのが「手足論」であって、それはその「緊急事態」への対応であって、基本は「共闘」「共生」だったというのが小林の論だ。それはその通りだったと思う。
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙 ★10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木[2020])所収の「分かれた道を引き返し進む」より。
 「「非本人」はどう関わるか。私は書いたように(二九三頁)、大切なことは、つまりところは、誰がではなく、何をよしとするか何を実現するかということだと思っている。だから、誰が担うかは絶対的なことではないと思っている。ただ、そのように思った上で、目的がよいのであれば形はなんでもよいのだとなるとずぶずぶになる、ということはこれまでもいくらも起こってきたから――とりあえず分けられる日常生活における主導権のこととは別に、運動・運営において――誰が「あたま」になるか等、どういう組織形態にするかについて「当事者主権」はありだと述べたのだ(二九一頁)。
 私はそのほうが楽でもあるから、外野、というか観客席にいてきた。それでよいと思っている。ただ、何を大切したらよいか、私はどうみるか、どうしたよいと私は思うか。これは真剣に考えるし、言う。「本人」だからその人の言うことが正しい、なんていうことはまったく思わない。第一、本人たちの間でも、たいてい話なんかすこしもまとまっていないのだから、言われたとおりにするなんていうこと自体ができない。本△301 人(たち)Aと本人たち(B)の言うことのどちちらがもっともか。これは聞いて、考えて、言う。じっさいにはさらにごちゃごちゃになっていて、きれいに二手に分かれるということにもならず、なんだかわからないから、いくらか整理してみたりする。それが、私たちの場合には仕事でもあると思っている。ならよい仕事をしようと思う。」(立岩[20190910:301-302])
★11 『Journalism』に依頼されて書いた「煽情主義も使う」より。
 「個別→一般→個別、という筋の話はつまらない
 一つ。あらゆる取材が具体的な例や絵を求めながら、その中の多くに話を「差別意識」といったもので落とそうする傾向があるように思う。「識者」に求められているのは、「実名を出すのをためらうのも、根強い差別意識のせいなんでしょうか?」といった(記者からの、そんな記事を書いて終わらせようという気持ちのもとでの)問いに「まあそうですね(それはあるでしょうけどね)」と答えることであったりする。
 たしかに「差別意識」はあるだろう。しかしそれがあると言って、いったいなにになるのか? 「優生思想」についても同じだ。そういう漠然とした話にもっていって、そこで終わらせる。差別意識や優生思想は私にとっても無縁なものではないな、というように思ってしまう真面目な人(だけ)が、すこし反省モードになるだけのことではないか。そんなことを言ったってなんにもなりはしない、もうすこし違う流れの話をしようよ。と、私は何人か取材に来た人に幾度か話したと思う。
 そして、そういう漠然とした意識の話にもっていったそのうえで、次にはその「意識」に訴える、なにか「具体的なよいもの」をもってこようということになる。そのために顔を出してくれる人が探し出され、実名・写真・動画がもってこられる。明るく暮らしている障害者がここにいる、といった類いのものだ。実名――ここでは悪人でない人の実名――が示される。それが「具体的に」意識を変えることになるというストーリーである。
 これも否定しない。まず一つ、実際私たちは具体的なものから入る、そこに反応することはある。写真を見て、記事を読み始めることもある。そういうことがきっかけになって、認識を変えたりすることもある。一つ、実際、幸福に、すくなくともつつがなく暮らしている人たちはたくさんいる。人の幸福な姿を見たり知ったりするのは、他人の不幸を知って喜ぶのと同様、読者の健康にもよい。
 しかし一つ、例えば、大量に殺傷したあの人物には効かないだろう。その人は、別の、不幸な具体像を出すことができる。少数の、すくなくとも一部の幸福な人たちをもってきたとしても、それは自分が言っている不幸を反証することはない、と、そんな具合に反駁すること、揚げ足をとることができる。そしてその揚げ足取りは全面的に間違っているわけではない。
 もう一つ、これは長年、本人たちが、文句を言ってきたことだが、そういうなにやら幸福げな部分だけが、あるいは苦労話だけが報じられてしまう。せっかく実名を出すことを許可して、取材に応じて長々と話したのに、結局載ったのは、「いろいろ大変でしたが、いろいろとがんばって、皆さんから力をもらって、今私は幸福です」、みたいな間抜けな話だった、恥ずかしいったらありゃしない、と言うのだ。今どき、そんな話だけをまにうける人も少ないから、実害はそうはないとしても、まにうけてしまうと、みなそんな人である(べきだ)ということになったり、そうでないとがっかりされるといったことになってしまう。
 ではこの恥ずかしい話をまったくやめることができるのか。今どきあまりに露骨に恥ずかしいものだと読者に引かれてしまうというぐらいの了解は、まあまあ行き渡っているので、減らすことはできる。しかし、結局、しんみりしたり怒ったりしたい、という欲望には応えざるをえない。実際、そうした感情が力を与えることはある。わかりながら、ある程度押さえながら、しかし、仕方なく、また必要であるとも思って、煽情的になる。かえってたちが悪い、とも言える。
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙  さてどうしたものか。どうつながるのかと思うだろうが、まったく別のところに書いた文章の一部を、あえて長く、引くことにする。福島の障害者運動の歴史についての共著本『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木千帆子他、2020、生活書院)の私が担当した章「分かれた道を引き返し進む」の終わりの方。

 「「怒る」という手もあるし、「泣き落とし」という手もある。このごろ私は、たいがい話をしに行くと、ほぼ必ず、「ではどうしたらよいでしょう?」と問われる。それで、歌える人は歌う、踊れる人は踊る、泣ける人は泣く、書くことしか能のない私のような人は書く、各自の芸を出しましょう、それらを足して合せて、それでようやく勝てるか、負けない、というところだと思うので…、といったことを言う。実際そのように思っている。
 ただ、どういう手段をとるかが、どれだけを得られるのか、何を払わねばならないかに響く場合がある。憐れみを乞うという手はときにはかなり有効だが、それで発揮される人々の慈善心というものは、たくさん得ようとすると、それは贅沢だとしてしまうような心性であったりもする。すると得られるものの上限が低いところに押さえられることにもなる。そして、乞う方は下手(したて)に出ねばならないことにもなる。だから、なんでもよいのだとは言うものの、できれば(あまり)使いたくない手もある。とすると、基本的には使いたくないが、受けるので使う、ばれないのであれば「うそ泣き」でよいのではないか。となる。」(pp.294-295)
 「さきに述べたのは、いろいろなやり方があってもよいこと、あった方がよいこと、そのぐらいいろいろとやって、ようやく取るべきものがいくらか取れるということもあるということだった。つまり、複数の声があったほうがよいということだ。声色を変えて、いろいろやってみるのがよい。ただ、ときにはやり方・言い方を間違えると損することもあるから、そのことはわかっておいた方がよい、注意した方がよいことを加えた。間違えると自分を安くしてしまい、結果、かえって損することもある。そのことがわかったうえでなら、二枚舌がうまく使えることはよいことだ。
 しかしそれを、どんなふうに、どんな人が言うかというはある。それをすべて一人でまかなおうとすると、不自然な、嘘っぽい感じになりそうだ。時と場合によって言い方を変える人、何を考えているのか本当のところがわからない怪しい人、ずるい人ということにされてしまうことがある。だから、一人でなく、複数の人がいた方が、最少なら二人いた方がよいということは言える。」(p.308)

 報道についての文章に、社会運動についての話をもってきたのだが、間違ってはいないと私は思う。嘘をつかない、ことは前提にはなるが、報道も、何かを伝えたいから、何かをどうにかしたいからなされる。短い、視覚的な、煽情的なものは(ものも)有効で、必要だ。そのうえで、それとともに私がここで言っているのは、複数あってよいこと、各々がもたらす不都合は計算しておくこと、そして、手分けしてやったってよい、その方がよいかもしれないということだ。
 それを報道に置き換えるとどうなるか。自分たち自らが複数性を有する、そのための手だてを考えるというのが一つ、もう一つ、別のところといっしょに仕事をする。すくなくとも別の仕事を妨げないこと、となる。」
 これは「ケア倫理」といったものをどう考えるかという理論的な主題にも関わる。
★12 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木他[2019])所収の「分かれた道を引き返し進む」に以下。
 「そして、そのように現実を平凡で退屈な方向にもっていくとしても、もっていこうとしても、結局のところ私たちは不如意の生を生きるのだから、波瀾は起こってしまう。「どうもこのごろ普通の事業所になってしまって……、という嘆きはわからないではないが、しかしそこには実は、毎日、様々が起こってしまう。そのことはそこで働いたり、働いてもらっている人たちが一番よくわかっていることのはずだ。だから、まずはおおむね波瀾が起こりにくいものとして仕組みが確保されることはよいことだと、そのうえでも、いくらでも波風は立ち、その中には私たちが楽しめるものもある。こういうことになる。」(立岩[201920190910b:291])
★13 横塚晃一「優生保護法と私」(横塚[1972])。1972年9月、『青い芝』16に掲載されたものが後に『母よ!殺すな』に収録された。


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第9章・註
★01 その後、『京都新聞』からかなり長い時間の取材を受け、新聞としてはかなり長いインタビュー記事として掲載された。「ALS嘱託殺人事件から・上」(立岩[20200820])、「ALS嘱託殺人事件から・下」(立岩[20200821]),『京都新聞』2020-8-21。
★02 NHKと放送倫理・番組向上機構に対して「NHK「彼女は安楽死を選んだ」に対する指摘への応答を求める」(障害学会理事会[20191215])。ここから、この前後の経緯、いくつかの文章を読むことができるようにしてある。
★03 前記した『京都新聞』に掲載されたインタビューはヤフーニュースにも掲載された(掲載は終了したのでもうそのサイトでは読めない)こともあって、たいへん多くの反応?があった。意味のよくわからないものが多かった。いちいちそれらを読むのはまったく健康にもよくないと思われたから、読もうとはしなかった。ただ私は私でかなりの数のツイートをした。(私からのツイートは研究所のサイトに収録してある。2020年のものは../ts/t2020.htm。)そしてそれをいくつかまとめて生存学研究所のフェイスブック(https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi)の記事にしていった。「ALS女性嘱託殺人事件関連ツイート再掲・01――「身体の現代」計画補足・703」(2020/08/20)〜「ALS女性嘱託殺人事件〜優生・16――「身体の現代」計画補足・721」(2020/11/03)。関連して「とくだんかわったことはなにも」(立岩[20211228])。
★04 このうち『唯の生』(立岩[20090325])が現在出版社品切れになっている。これらについて、必要な増補を行ったうえで順次例えば文庫にしていければと思っている。
★05 『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』(立岩[20170800])にそれまでに出た本をたくさん並べた。これは本書と同様「電子書籍」として作ったものであり、各々の本の頁(本を紹介する頁)にリンクしている。
★06 『良い死』第1章「私の死」の3「他を害してはいないなという説について」。全体は、かなり周到な、あるいはややこしい論述になっているのだが、2020年に書いた短い文章と、つまりは同じことを言っている。
 「ある属性を有しているのであるならば私は死ぬだろう。私は、あなたのようになったら、死んでしまうというのである。これはとても強い否定ではないか。」(立岩[2008:121])。
 MXテレビの取材に応えた「安楽死尊厳死について」(立岩[20170812])より。
 「立岩:さっきの話の続きですね、結局、自分は安楽死したいとか尊厳死したいと言ってる人って、特に若い人ね、やっぱりかっこつけてるんだと思うんですよね。ああなったら俺も終りだなみたいな。俺は今、ああなってないじゃないですか。ああなっているのは誰かといったら、自分が実際に知っていたり、あるいは想像していたりする、認知症になったりとか、身体が動かなくなったりとか、そういう人ですよ。自分のことだと言いながら自分じゃないことを想像したり見たりして、それに対してすごいネガティブなイメージをもっているから、ああなったら死にたいと言うわけですよ。それは自分のことかもしれないけど、でもそういった周りの人をそういう目で見てそう思っているから、ああなったら死にたくないと言っているわけで、それは自分のことというよりは、そういう人たちというのをすごいネガティブに見るから自分はと言ってると思うんです。それっていいのかな? 少なくとも公言していいことなのかといったら、わたしは、はしたないと思いますね、そういうかっこつけというのは。それはやめた方がいい。でもたぶん気がついてないと思うんですよ。そういうこと、そういう効果があるというか、それとやっぱり蔑視という部分って確実にあると思うんですよね。でもそれに気がついてないかもしれないけど、よくよく考えてみれば、そうじゃないとたいがい大切にしている自分の命というものを、そうなったら差し出していいと言ってるわけだから、かなり強力な否定ですよね。ああなったら俺は死んだっていいんだぜと言ってるわけだから。それは人に言っていいことなのかということを考えてほしいというのが、それが今日、一番言いたかったことかな。
 今、キャスターをやっていらっしゃる方はおいくつぐらい?
インタビュアー:44、43、そのぐらい。
立岩:一番なんかそういうことを言う時期ですよ。親のこととか気になったりだとか、でも若いころだったら考えもしなかったことでしょうけど、ちょっと気になりだした。でもまだ自分はバリバリやれてて、ああなったらみたいな。そういう季節というか時期というか、そんな気がしますよ。ぼくはでもちょっと立ち止まって、自分はなにを言ってるんだろう、思っているんだろうということをやっぱり考えてみるというか、それは必要なんじゃないかと思いますね。インタビュアー:ぼく自身もすごく考える。たしかにそういう方たちを蔑視しているという、そういうことですよね。
立岩:ああなったら死んでもいいと言っているんですよね。一番強いですよ。たいがい一番大切なものは自分の命だから、その命を捨ててもああなりたくないと言ったときに、これはかなり強力な蔑視、蔑視というか否定ですよね。」
立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 ★07 『不如意の身体――病障害とある社会』(立岩[20181130])。第1章「五つある」:1「不如意な身体に五つある」、2「五つについての必然的でない事情、関係・併存」、3「各々について、誰にとっての正負」、4「できないこと」、5「各々について」。第2章「社会モデル」、第3章「なおすこと/できないことの位置」、第4章「障害(学)は近代を保つ部品である、しかし」。第5章「三つについて・ほんの幾つか」:1「異なることについて」、2「苦と死」、3「表わすこと」、4「慰めること」。第6章「加害のこと少し」:1「厄介であること」、2「社会防衛が護るもの」、3「やがて社会防衛が一部で否定される」、4「基本的には加えることがないこと」、5「それでもどちらがよいかと考えることはできる」、6「免責と免責されても残るもの」、7「範疇・確率」。
『差異と平等――障害とケア/有償と無償』表紙 ★08 「どれだけ」という基準の問題について、『差異と平等』(立岩・堀田[2012])に収録されている「差異とのつきあい方」(立岩[20120610])を幾度か挙げてきた。


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文献



※厚生労働省のサイト内(上記のような発表主体・時期・文書名が記載されているものは別掲)
◇「障害福祉サービス等」 [HTML]
 ◇「障害福祉サービスについて」 [HTML]
◇「障害者の利用者負担」 https://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/service/hutan1.html[HTML]
◇「障害支援区分」 [HTML]
 ◇「障害者総合支援法における「障害者区分」の概要」 [PDF]

あ〜お か〜こ さ〜そ た〜と な〜の は〜ほわ

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○あ〜お
青木 千帆子 「東日本大震災以後の福島の障害者運動――JDF被災地障がい者支援センターふくしまの活動を中心に」,青木他[2019:323-358]
◇青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院,424p.
◇赤窄 英子(→木村 英子) i1986 インタビュー 1986/03 +:安積遊歩・外山博美(介助者)  聞き手:石川准・立岩真也 於:東京都国立市・喫茶店スワン
◇天田 城介・渡辺 克典 編 2015 『大震災の生存学』,青弓社,224p.
◇天羽 敬祐 編 1991 『機械的人工呼吸』,真興交易医書出版部
◇安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 19901025 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店,320p.
◇―――― 19950515 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』,藤原書店,366p.
◇―――― 20121225 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p.
◇安積 遊歩(純子) 19901025 「<私>へ――三〇年について」,
安積・岡原・尾中・立岩[1990:19-56]
◇―――― 1999 『車椅子からの宣戦布告――私がしあわせであるために私は政治的になる』,太郎次郎社,198p.
◇―――― 2010 『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』,太郎次郎社エディタス,190p.
◇―――――2019 『自分がきらいなあなたへ』,ミツイパブリッシング,176p.
◇安積 遊歩・安積 宇宙 2019 『多様性のレッスン――車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』,ミツイパブリッシング,240p.
◇安積 遊歩・野上 温子 編 1999 『ピア・カウンセリングという名の戦略』,青英舎,231+14p. ISBN:4-88233-045-8 1600 [amazon][kinokuniya]
荒井 裕樹 2011 『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』,現代書館,253p.
◇―――― 2017 『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の行動綱領』,現代書館,300p.
◇―――― 2020 『障害者差別を問いなおす』,ちくま新書,254p.
◇「生きている!殺すな」編集委員会 編 2017 『生きている!殺すな――やまゆり園事件の起きる時代に生きる障害者たち』,山吹書店
◇安藤 泰至 2019 『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』,岩波ブックレット
前田 拓也渡邉 琢・高橋 慎一・堀田 義太郎安部 彰 20100226 「介助(者)の現在」,安部・堀田編[2010:78-124]
◇石川 准・倉本 智明 編 20021031 『障害学の主張』,明石書店,294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0 [amazon][kinokuniya]
◇石川 憲彦 19880225 『治療という幻想――障害の治療からみえること』,現代書館,269p. ISBN-10: 4768433618 ISBN-13: 978-4768433614 2060 [amazon]
◇石島 健太郎 2018 「介助者を手足とみなすとはいかなることか――70年代青い芝の会における「手足」の意味の変転」,『障害学研究』13:169-194
伊藤 佳世子 2008 「筋ジストロフィー患者の医療的世界」,『現代思想』36-3:156-170(特集:患者学――生存の技法)
◇―――― 2010 「長期療養病棟の課題――筋ジストロフィー病棟について」,『Core Ethics』6:25-36 
◇伊藤 佳世子・大山 良子 2013 「おうちにかえろう――30年暮らした病院から地域に帰ったふたりの歩き方 1〜13」,『かんかん!――看護師のためのwebマガシン』 
◇伊藤 佳世子・田中 正洋 2007 「筋ジストロフィーの「脱ターミナル化」に向けて――筋ジストロフィー患者の国立病院機構筋ジス病棟の生活と自立生活の比較から」,障害学会第4回大会報告 於:立命館大学 
◇伊東 光晴・篠原 一・松下 圭一・宮本 憲一 編(編集委員) 19730925 『岩波講座現代都市政策]――都市社会と人間』,岩波書店,357p.
稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya]
◇井上 武史 i2018 インタビュー 2018/05/18 聞き手:立岩真也 於:京都
◇井上 武史・安原 美佐子 2020/08/12 「対話――国際協力について」,於:西宮市・メインストリーム協会
◇岩下 紘己 2020 『ひらけ!モトム――ある障害者の生活史』出版舎ジグ
◇岩楯 恵美子 著・「岩楯恵美子学校へ入る会」 編 19780620 『私も学校へ行きたい――教育を奪われた障害者の叫び』,柘植書房,271p.
◇上野 千鶴子 20150515 『セクシュアリティをことばにする 上野千鶴子対談集』,青土社
◇上野 千鶴子・立岩 真也 20090201 「労働としてのケア――介護保険の未来」(対談),『現代思想』37-2(2009-2):38-77→2015 「ケアの値段はなぜ安いか」(対談),上野[2015]
◇上野 千鶴子・中西 正司 編 2008 『ニーズ中心の福祉社会へ――当事者主権の次世代福祉戦略』,医学書院,296p.
臺 弘 19720415 『精神医学の思想――医療の方法を求めて』,筑摩書房,筑摩総合大学,274p. ASIN: B000JA0T3E 900 [amazon]
大賀 重太郎 19960226 「震災から1年たっても なんでこんなに涙もろく なんでこんなに腹立たしい」,『障害者救援本部通信』第16号(1996.2.26) [HTML]
大野 直之 202001 「24時間365日のつきっきりも実現する――あなたの知らない重度訪問介護の世界・1」,『訪問看護と介護』2020-1
◇―――― 202002 「専門職の口コミが大切です――あなたの知らない重度訪問介護の世界・2」,『訪問看護と介護』2020-2
◇―――― 202003 「――あなたの知らない重度訪問介護の世界・3」,『訪問看護と介護』2020-3
◇―――― 202004 「――あなたの知らない重度訪問介護の世界・4」,『訪問看護と介護』2020-4
◇―――― 202005 「――あなたの知らない重度訪問介護の世界・5」,『訪問看護と介護』2020-5
◇―――― 202006 「在宅療養を叶える方法として――あなたの知らない重度訪問介護の世界・6(最終回)」,『訪問看護と介護』2020-6
◇大山 良子・伊藤 佳世子・河原 仁志・高阪 静子・林 典子・田中 環 2009/09/26 「長期療養の重度障害者の地域移行における支援方法の検討――筋ジストロフィー患者の地域移行事例から」 障害学会第6回大会報告、於:立命館大学朱雀キャンパス
◇大野 道邦・小川 信彦 編 2009 『文化の社会学――記憶・メディア・身体』,文理閣
岡原 正幸 1990 「制度としての愛情――脱家族とは」,安積・岡原・尾中・立岩[1990:75-100→1995:75-100→2012:119-157]
◇―――― 1990 「コンフリクトへの自由――介助関係の模索」,安積他[1990:121-146→1995:121-146→2012:191-231]
◇―――― 1998 『ホモ・アフェクトス――感情社会学的に自己表現する』,世界思想社,285p.
◇岡原 正幸・山田 昌弘・安川 一・石川 准 1997 『感情の社会学――エモーション・コンシャスな時代』,世界思想社,236p.
◇岡部 宏生 20200406 「新型コロナに関する介護/医療/保育現場へのメッセージ」
岡本 晃明 2007/02 「医療と報道倫理」,『新聞研究』2007年2月号
◇―――― 2008/03/01 「ALS‐D――勝手に甲開日記」,『現代思想』36-3(2008-3)(特集:患者学〜生存の技法)
◇―――― 2010/02/01「医療的ケアに踊る ALS‐D」,『現代思想』2010年3月号(特集=医療現場への問い)
◇長見 有人 i2019 インタビュー 2019/10/09 聞き手:立岩 真也 於:コモンズ紫野(旧杉江邸)
尾中 文哉 1990 「施設の外で生きる――福祉の空間からの脱出」,安積他[1990:101-120→1995:101-120→2012:158-190]
尾上 浩二熊谷 晋一郎大野 更紗小泉 浩子・矢吹 文敏・渡邉 琢日本自立生活センター(JCIL) 編 20160925 『障害者運動のバトンをつなぐ――いま、あらためて地域で生きていくために』,生活書院,256p.

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○か〜こ
介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット 編 2016 『支援を得てわたしらしく生きる!――24時間ヘルパー介護を実現させる障害者・難病者・弁護士たち』,山吹書店,発売:JRC
◇葛城 貞三 2019 『難病患者運動――「ひとりぼっちの難病者をつくらない」滋賀難病連の歴史』,生活書院,312p.
◇角岡 伸彦 2010 『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』,講談社,509p.
◇金生 由紀子・渡辺 慶一郎・土橋 圭子 編 2016 
『新版 自閉スペクトラム症の医療・療育・教育』,金芳堂,320p.
◇川口 有美子 2009 『逝かない身体――ALS的日常を生きる』,医学書院,270p.
◇―――― 2013 「ALSの人工呼吸療法を巡る葛藤――ALS/MND国際同盟・日本ALS協会の動向を中心に」,立命館大学大学院先端総合学術研究科2013年度博士論文
◇―――― 2014 『末期を超えて――ALSとすべての難病にかかわる人たちへ』,青土社,249p.
◇河出書房新社編集部 編 20110630 『思想としての3・11』,河出書房新社,ISBN-10: 4309245544 ISBN-13: 978-4309245546 1680 [amazon]/[kinokuniya]
◇河本 のぞみ 20131015 「路地裏で試みられていること――甲谷匡賛さんの周辺」(当事者に聞く 自立生活という暮らしのかたち・4),『作業療法ジャーナル』47-11(2013-10):1254-1262
川村 佐和子 19940725 『現場発想の看護研究――その視点と方法』,日本看護協会出版会,136p. ISBN-10:4818004499 ISBN-13:978-4818004498 1600+ [amazon][kinokuniya]
◇川村 佐和子・川口 有美子 20080301 「難病ケアの系譜――スモンから在宅人工呼吸療法まで」,『現代思想』36-3(2008-3):171-191→川口[2014:183-227]
◇川村 佐和子・木下 安子・別府 宏圀・宇尾野 公義 1978 『難病患者の在宅ケア』,医学書院
◇河本 のぞみ 20131015 「路地裏で試みられていること――甲谷匡賛さんの周辺」(当事者に聞く 自立生活という暮らしのかたち・4),『作業療法ジャーナル』47-11(2013-10):1254-1262
◇岸田 美智子・金 満里 編 19950405 『新版 私は女』,長征社,356p. ISBN-10: 4924929131 ISBN-13: 978-4924929135 2520 [amazon] ※
木村 英子(←赤窄 英子) i1986 インタビュー 1986/03 +:安積遊歩・外山博美(介助者)  聞き手:石川准・立岩真也 於:東京都国立市・喫茶店スワン
◇―――― 2017 「私が地域へ帰るとき」,「生きている!殺すな」編集委員会編[2017]
◇京都新聞社 編 20070321 『折れない葦――医療と福祉のはざまで生きる』,京都新聞出版センター,245p. ISBN-10: 4763805843 ISBN-13: 978-4763805843 1890 [amazon][kinokuniya]
◇木村 浩子 19950710 『おきなわ土の宿物語』,小学館,222p. ISBN-10: 4093871361 ISBN-13: 978-4093871365 \1680 [amazon][kinokuniya]
金 満里 19960825 『生きることのはじまり』,筑摩書房,ちくまプリマーブックス103,224p. ISBN:4-480-04203-2 1155 [amazon][kinokuniya]
草山 太郎 2005 「介助と秘めごと――マスターベーション介助をめぐる介助者の語り」,倉本編[2005]
熊谷 晋一郎 2014 「自己決定論、手足論、自立概念の行為論的検討」,田島編[2014:15-35]
◇―――― △
倉本 智明 編 2005 『セクシュアリティの障害学』,明石書店,301p.
◇倉本 智明・長瀬 修 編 2000 『障害学を語る』,発行:エンパワメント研究所,発売:筒井書房 189p.
◇厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部長→各都道府県知事・各指定都市市長・各中核市市長 20070323 「介護給付費等の支給決定等について」(通知),障発第0323002号 [WORD]
◇厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課長・障害福祉課長→各都道府県障害保健福祉主管部(局)長 20070328 「障害者自立支援法に基づく自立支援給付と介護保険制度との適用関係等について」,障企発第0328002号・障障発第0328002号
◇厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課・障害福祉課→各都道府県障害保健福祉主管部(局) 20070413 「障害者自立支援法に基づく支給決定事務に係る留意事項について」(事務連絡) [HTML][PDF]
◇厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課長・障害福祉課長→各都道府県障害保健福祉主管部(局)長 20110928 「障害者自立支援法に基づく自立支援給付と介護保険制度との適用関係等について」,障企発0928第2号・障障発0928第2号 [PDF]
◇厚生労働省 20130716 「重度訪問介護の現状等について」,障害者の地域生活の推進に関する検討会第1回(H25.07.26)に提出 [PDF]
◇厚生労働省 20190328 「指定居宅サービスに要する費用の額の算定に関する基準等の一部を改正する告示」 [PDF]
◇厚生労働省 20190300 「令和元年度介護報酬改定について」 [HTML]
後藤 吉彦 2009 「『介助者は、障害者の手足』という思想――身体の社会学からの一試論」,大野・小川編[2009:221-238]
小林 敏昭 2011 「可能性としての青い芝運動――「青い芝=健全者手足論」批判をてがかりに」,『人権教育研究』19:21-33(花園大学人権教育研究センター)
◇―――― i2018 インタビュー 2018/02/27 聞き手:立岩真也・北村健太郎 於:東大阪,りぼん社
◇小山 正義 200512 『マイトレァ・カルナ――ある脳性マヒ者の軌跡』,千書房,127p. ISBN-10: 478730044X ISBN-13: 978-4787300447 1200 [amazon][kinokuniya]
権藤 眞由美野崎 泰伸 編 2012 『医療機器と一緒に街で暮らすために――シンポジウム報告書 震災と停電をどう生き延びたか――福島の在宅難病患者・人工呼吸器ユーザーらを招いて』,生存学研究センター報告18

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○さ〜そ
斉藤 龍一郎 i2017 インタビュー 2017/10/13 聞き手:末岡尚文他 於:東京
◇―――― i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所
◇境屋 純子 19920525 『空飛ぶトラブルメーカー――「障害」者で私生子の私がいて』,教育史料出版会,235p. ISBN:4-87652-229-4 1500 [amazon][kinokuniya]
佐草 智久 2015a 「老人福祉法制定前後の在宅高齢者福祉政策に関する再検討――1950 〜 1960 年代前半の京都市を事例に」,『Core Ethics』11:95-105
◇―――― 2015b 「日本の訪問介護の歴史――京都市を中心に」,立命館大学大学院先端総合学術研究科2014年度博士予備論文
◇定藤 邦子 2011 『関西障害者運動の現代s史――大阪青い芝の会を中心に』,生活書院,344p.
◇宍戸 大裕・立岩 真也 2019/12/21 「宍戸監督に聞く」(対談),於:立命館大学朱雀キャンパス
篠原睦治 19860120 『「障害児の教育権」思想批判――関係の創造か、発達の保障か』,現代書館, 222p. ISBN-10: 476843343X ISBN-13: 978-4768433430 2500→3000 [amazon]
◇篠原 睦治 編 20100515 『関係の原像を描く――「障害」元学生との対話を重ねて』,現代書館,245p. ISBN-10: 4768435041 ISBN-13: 9784768435045 2100 [amazon][kinokuniya]
◇渋谷 光美 2014 『家庭奉仕員・ホームヘルパーの現代史――社会福祉サービスとしての在宅介護労働の変遷』,生活書院
◇障害学会理事会 20191215 「NHK「彼女は安楽死を選んだ」に対する指摘への応答を求める」,NHKに対して/放送倫理・番組向上機構に対して
◇障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)・共同作業所全国連絡会(共作連)・全国障害者問題研究会(全障研) 編 19920825 『障害者の人権20の課題』,全国障害者問題研究会出版部(全障研出版部),351p. ISBN-10: 4881349635 ISBN-13: 978-4881349632 欠品 [amazon][kinokuniya]
白石 清春 1994 「私のオフィスILにかける思い」,『はなまる』4(オフィスIL・WORK・ILオープン記念号):85-114
◇―――― 2001 「闘争の青春を謳歌しました」,全国自立生活センター協議会編[2001:161-168]
◇―――― i2001 インタビュー 2001/08/07 他に:吉田強・佐藤孝男 聞き手:瀬山紀子・土屋葉 於:郡山
◇―――― 2019 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』草稿へのコメント
◇白石 清春・橋本 広芳 i2000 インタビュー 2000/06/13 +:角野正人・介助者 聞き手:瀬山紀子・土屋葉
白木 博次 197105 「美濃部都政下における医療の現状と将来像――わが国における医学と医療の荒廃への危機との関連で」,『都政』1971-5:31-72
◇―――― 1973b(197309 「市民の健康――環境汚染による健康崩壊への危機」,伊東他編[1973:269-304]
白崎 朝子 20090331 『介護労働を生きる』,現代書館,206p.
◇―――― 202004 『Passion ケアという「しごと」』,現代書館,190p.
◇―――― 20200513 「新型コロナウィルスと介護現場」
◇―――― 20200521 「東京都江東区の高齢者施設・北砂ホームのクラスター発生とユニオンの江東区交渉の報告」
白杉 眞 2012 「訪問介護事業所の運営の実情と課題」,『Core Ethics』8:233-244 
◇―――― 2013 「自立生活センターの自立支援と相談支援事業」,『Core Ethics』9:93-103
◇―――― 2018 「自立生活運動が相談支援に及ぼした影響――ピアカウンセリングをめぐる動きに注目する」,『Core Ethics』14
◇白江 浩 20020212 「筋ジストロフィー患者として生きる」,山田・白江[2002:129-319]
◇進藤 雄三・黒田 浩一郎 編 1999 『医療社会学を学ぶ人のために』,世界思想社,308p.
◇盛山 和夫・土場 学・野宮 大志郎・織田 輝哉 編 20050825 『〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法(上)――理論知の現在』,勁草書房,201p.
瀬野 喜代 i2019 インタビュー 2019/12/19 聞き手:立岩真也 於:於:京都市北山・ブリアン
瀬山 紀子 2002/10/31 「声を生み出すこと――女性障害者運動の軌跡」,石川・倉本編[2002:145-173]
芹沢俊介・立岩 真也 2001/12/00 「私的所有を問う――無理せずボチボチやっていける社会に向けて」,芹沢俊介との対談)『グラフィケーション』118:3-11(富士ゼロックス) http://www.fujixerox.co.jp/company/fxbooks/graphication/backnumber/118/
◇全国自立生活センター協議会 編 2001 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.

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○た〜と
高野 岳志 19840415 「進行性筋ジストロフィー(PMD)者らによる自立生活センターの運営」,『理学療法と作業療法』18-4:266 
◇田島 明子 編 2014 『「存在を肯定する」作業療法へのまなざし――なぜ「作業は人を元気にする!」のか』,三輪書店
◇多田 富雄 2017 『人間の復権――リハビリと医療』,藤原書店,多田富雄コレクション3
立岩 真也 19901025 「「出て暮らす」生活」,安積他[1990:57-74→1995:57-74→2012:91-118]
◇―――― 19901025 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:165-226→1995:165-226→2012:258-353]
◇―――― 19901025 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」,安積他[1990:227-284]
◇―――― 19920625 「発足二年目の自立生活センター・立川――自立生活運動の現在・1」,『季刊福祉労働』55:150-155
◇―――― 19921000 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44→立岩・村上[2011:185-214]
◇―――― 19920925 「自立生活プログラム――自立生活運動の現在・2」,『季刊福祉労働』56:154-159
◇―――― 19921225 「東京都地域福祉振興基金による助成事業――自立生活運動の現在・3」,『季刊福祉労働』57:130-135
◇―――― 19930325 「全国自立生活センター協議会(JIL)――自立生活運動の現在・4」,『季刊福祉労働』58
◇―――― 19930625 「東京都重度脳性麻痺者等介護人派遣事業――自立生活運動の現在・5」,『季刊福祉労働』59:130-135
◇―――― 19930925 「生活保護他人介護加算――自立生活運動の現在・6」,『季刊福祉労働』60
◇―――― 19931225 「障害者総合情報ネットワーク・他――自立生活運動の現在・7」,『季刊福祉労働』61:153-158
◇―――― 19940325 「当事者組織にお金は渡るか→地域福祉振興基金・他――自立生活運動の現在・8」,『季刊福祉労働』62:153-158
◇―――― 19940625 「社会的支援システムの変更――自立生活運動の現在・9」,『季刊福祉労働』63:100-105
◇―――― 19940925 「ホームヘルプ事業はもっと使える――自立生活運動の現在・10」,『季刊福祉労働』64:144-151
◇―――― 19941105 「「自立生活センター」は非営利民間組織(NPO)の一つのあり方を提示する」,第67回日本社会学会大会 於:同志社大学
◇―――― 19941225 「第六回自立生活問題研究全国集会・他――自立生活運動の現在・11」,『季刊福祉労働』65:146-151
◇―――― 19950325 「大阪市立自立生活センター?「ピア大阪」――自立生活運動の現在・12」,『季刊福祉労働』66:145-150
◇―――― 19950515 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」,安積他[1995:227-265→2012:354-413]
◇―――― 19950515b 「自立生活センターの挑戦」,安積他[1995:267-321→2012:-]
◇―――― 19950925 「NPOがやっていること、やれること――自立生活運動の現在・13」,『季刊福祉労働』68:146-151
◇―――― 19951225 「「公的介護保険」をどうするか――自立生活運動の現在・14」,『季刊福祉労働』69:155-162
◇―――― 19960325 「NPO法+人を雇う→おもしろいことをやる――自立生活運動の現在・最終回」,『季刊福祉労働』70:155-162
◇―――― 19970905 『私的所有論』,勁草書房
◇―――― 19980201 「一九七〇年」,『現代思想』26-2(1998-2):216-233→立岩[2000:87-118→20191224:]
◇―――― 19980530 「手助けを得て、決めたり、決めずに、生きる――第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演」→倉本・長瀬編[2000]→立岩[200809:20-032]
◇―――― 19990515 「他人介護加算」『福祉社会事典』,弘文堂
◇―――― 19991030 「資格職と専門性」,進藤・黒田編[1999:139-156]
◇―――― 20000301 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→立岩[20001023:221-354→20200110:225-380]
◇―――― 20001023 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p.
◇―――― 20010501 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」,全国自立生活センター協議会編[2001:249-262]
◇―――― 20011225 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」,『季刊社会保障研究』37-3:208-217→立岩[20060710:171-191]
◇―――― 20021000 「労働の分配が正解な理由」,『グラフィケーション』123(富士ゼロックス)特集:働くことの意味→立岩[20060710:153-161]
◇―――― 20030300 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2002」,平岡公一(研究代表者)『高齢者福祉における自治体行政と公私関係の変容に関する社会学的研究』,文部科学省科学研究費補助金研究成果報告書(研究課題番号12410050):79-88
◇―――― 20030515 「介護保険的なもの・対・障害者の運動 」,『月刊総合ケア』13-5:46-51, 13-7:46-51(医歯薬出版)
◇―――― 20040114 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,390p.
◇―――― 20040201 「紹介:中西正司・上野千鶴子『当事者主権』」『ノーマライゼーション 障害者の福祉』24-2(2004-2):64
◇―――― 20040405「抗する側に道理はある」,『われら自身の声』20-1:6-7(DPI日本会議)→立岩[2006:71-77]
◇―――― 20040516 「障害者運動・対・介護保険 2004」,全国自立生活センター協議会公開シンポジウム「地域生活を守るために 〜どうなる!?介護保険と支援費制度〜」 於:沖縄県自治会館(那覇市)
◇―――― 20040710 「障害者運動・対・介護保険 2004」定藤記念福祉研究会「地域自立生活支援の確立を目指して――支援費制度の今後を考える」 於:西宮
◇―――― 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院
◇―――― 20050700 「紹介:倉本智明編『セクシュアリティの障害学』」,共同通信配信記事
◇―――― 20050825 「こうもあれることのりくつをいう――境界の規範」,盛山他編[2005]
☆―――― 20050800 「共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告」,『共同連』100→立岩[20060710:104-107]
◇―――― 20060710 『希望について』,青土社,320p.
◇―――― 20061125 「社会人(院生)」の本・2――医療と社会ブックガイド・65」,『看護教育』47-10(2006-)
◇―――― 20070910 
「解説」横塚[2007:391-428]
◇―――― 20071110 「もらったものについて・1」,『そよ風のように街に出よう』75:32-36
◇―――― 20080131 「学者は後衛に付く」,『京都新聞』2008-1-30夕刊:2(現代のことば)
◇―――― 20080905 『良い死』,筑摩書房,374p.
◇―――― 20080914 「在宅ケアを支える、つもりがあるならば」(講演),NPO在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク”全国の集い”in 京都 於:同志社大学
◇―――― 20081001 「楽観してよいはずだ」上野・中西編[2008:220-242]
◇―――― 2007-2017 「もらったものについて・1〜17」,『そよ風のように街に出よう』75:32-36〜91:60-67
◇―――― 20090325 『唯の生』,筑摩書房,424p.
◇―――― 20090425 「もらったものについて・3」『そよ風のように街に出よう』77:,
◇―――― 20090910 「軸を速く直す――分配のために税を使う」,立岩・橋口・村上[2009:11-218]
◇―――― 20091024 「『生の技法』までとそれからの20年」/送付した文章,自立生活センター・アークスペクトラム主催シンポジウム自立活センターの歩み――これまでの記録と記憶。これからの希望。 於:ハートピア京都
◇―――― 20100410 「BIは行けているか?」,立岩・齊藤[2010:11-188]
◇―――― 20100220 「もらったものについて・4」『そよ風のように街に出よう』78:38-44
◇―――― 20100630 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2003」,『社会政策研究』10:166-186
◇―――― 20100826 「間違った資格・研修の使い方は今あるものさえ壊してしまう」,障がい者政策推進議員連盟・難病対策推進議員連盟合同勉強会 於:東京・参議院議員会館
◇―――― 20100910 「もらったものについて・5」『そよ風のように街に出よう』79:38-44
◇―――― 20101101 「資格/医療的ケア――唯の生の辺りに・7」,『月刊福祉』93-13(2010-11):60-61
◇―――― 20110125 「もらったものについて・6」『そよ風のように街に出よう』80:-
◇―――― 20110630 「考えなくてもいくらでもすることはあるしたまには考えた方がよいこともある」,河出書房新社編集部編[2011:106-120]
◇―――― 20110710 「まともな逃亡生活を支援することを支持する」『別冊Niche』3:61-70
◇―――― 20110725 「そろいでもってます」『そよ風のように街に出よう』81:-
◇―――― 20110725 「もらったものについて・7」『そよ風のように街に出よう』81:38-44
◇―――― 20110725 「後方から」『おそい・はやい・ひくい・たかい』62
◇―――― 20120125 「もらったものについて・8」『そよ風のように街に出よう』82:36-40
◇―――― 20120530 「後ろに付いて拾っていくこと+すこし――震災と障害者病者関連・中間報告」,『福祉社会学研究』9:81-97(福祉社会学会)→立岩[20190910]
◇―――― 20120610 「無償/有償」,立岩・堀田[2012:15-93]
◇―――― 20120610 「差異とのつきあい方」,立岩・堀田[2012:95-173]
◇―――― 20121225 「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」,安積他[2012:499-548]
◇―――― 20121225 「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」,安積他[2012:549-603]
◇―――― 20130127 「災厄に向う――本人たち・後方から」シンポジウム「東日本大震災とマイノリティ――高齢者・障害者・外国人などに関して問わなければならないこと」,主催:日本学術会議社会学委員会・社会学系コンソーシアム分科会/日本学術会議社会学委員会・震災再建分科会 共催:日本学術会議社会学委員会 於:日本学術会議大会議室
◇―――― 20130520 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p.
◇―――― 20131210 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,434p.
◇―――― 20140425 「この問いはかなりきっちり考えて複数の答しか出ない」(巻頭言),『日本労働研究雑誌』646(2014-5):3
◇―――― 20140826 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p.
◇―――― 20150603 「再刊にあたって 解説」横田[2015:223-249]
◇―――― 20151113 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社,433p.
◇―――― 20151125 「横塚晃一――障害者は主張する」,吉見編[2015:257-283]
◇―――― 20160325 「まえがき」横田・立岩・臼井[2016:]
◇―――― 20160331 「補章」立命館大学生存学研究センター編[2016]
◇―――― 20160425 「もらったものについて・15」『そよ風のように街に出よう』89:48-55
◇―――― 20161205 「『そよ風』終刊に寄せて」『そよ風のように街に出よう』90:49-50
◇―――― 20161210 「障害者支援・指導・教育の倫理」金生他編[2016]立岩[20181130:385-403]
◇―――― 20170604 基調講演,DPI日本会議全国集会特別分科会「相模原事件が問いかける優生思想」 於:京都
◇―――― 20170806 「重訪、なにそれ?」,重度訪問介護従業者養成研修,於:立命館大学衣笠キャンパス
◇―――― 20170812 安楽死尊厳死について,MXテレビ
◇―――― 20170800 『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』Kyoto Books
◇―――― 20170905 「もらったものについて・17」『そよ風のように街に出よう』91:60-67
◇―――― 20170910 「解説 リハビリテーション専門家批判を継ぐ」[2017:269-287]
◇―――― 20180331 「重訪、なにそれ?――重度の肢体不自由者に関する講義」,NPO法人ゆに『「当事者とつくる重度訪問介護研修」事業報告書』
◇―――― 20180505 『人間の条件――そんなものない 増補新版』,新曜社
◇―――― 20180420 「でも、社会学をしている」若林・立岩・佐藤編[2018
◇―――― 20181130 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社,481p.
◇―――― 20181220 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p.
◇―――― 20190125 「ここから始めることができる」葛城[2019:△]
◇―――― 20190202 「少子高齢化で「人や金が足りない」という不安は本物か? 社会的弱者に不寛容な言葉が広がる日本」,『Buzz Feed』 https://www.buzzfeed.com/jp/shinyatateiwa/tarinaifuan-1
◇―――― 20190325 「ここから、ときに別のものを、受けとる」,西沢[2019:△]
◇―――― 20190625 「解説:追悼・筋ジス病棟を出て暮らす――古込和宏さんのこと」,『季刊福祉労働』163:128-129
◇―――― 20190720 「やまゆり園事件から3年 「生きる価値」の大切さ問う」,『朝日新聞』2019-07-20朝刊
◇―――― 20190721 「この時代を生きてきた一人ひとりのことを書いて残す」,栗川編[2019:382-385]
◇―――― 20190910 「はじめに・いきさつ」青木他編[2019:3-10]
◇―――― 20190910 「分かれた道を引き返し進む」青木他編[2019:255-322]
◇―――― 20190910 「遠くから」,青木他[2019:363-390]
◇―――― 20190910 「もう一度、記すことについて」青木他[2019:391-396]
◇―――― 20191124 「どこに立ち何を言い何をなすか」筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト始動,第8回DPI障害者政策討論集会分科会 於:戸山サンライズ
◇―――― 20191210 「くわしく書くことがどんなにか大切であること」萩原[2019:297-307]
◇―――― 20191226 「ともに生きることと優生思想 社会学者・立岩さんの視点――相模原事件を考える〜公判を前に」,『毎日新聞』2019-12-26
◇―――― 20200110 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 第2版』,青土社,536p.
◇―――― 20200110 「高橋修 一九四八〜一九九九」,立岩[20191224:381-471]
◇―――― 20200323 「「内なる優生」で済ますな――相模原殺傷事件判決を機に」(取材:宮城 良平),共同通信配信,『秋田さきがけ』2020-03-23,他
◇―――― 20200401 「無駄に引かず無益に悩まないことができる」,『社会福祉研究』137:31-37
◇―――― 20200414 「だいじょうぶ、あまっている・1」 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71768
◇―――― 20200421 「「自己犠牲」や「指針」で、命をめぐる医療現場の困難は減らない――だいじょうぶ、あまっている・2」 『現代ビジネス』 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71974
◇―――― 20200424 「障害者・と・労働 メモ」,「公共論史」講義のための資料
◇―――― 20200502 「新型コロナの医療現場に、差別なく、敬意をもって人に来てもらう――だいじょうぶ、あまっている・3」 『現代ビジネス』 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72304
◇―――― 20200623 「COVID-19から世界を構想する」,科学技術振興機構・社会技術研究開発センター戦略的創造研究推進事業(社会技術研究開発),科学技術の倫理的・法制度的・社会的課題(ELSI)への包括的実践研究開発プログラム
◇―――― 20200710 「煽情主義も使う」,『Journalism』2020-7 no.362
◇―――― 20200820 「ALS嘱託殺人事件から・上」,『京都新聞』2020-8-20
◇―――― 20200821 「ALS嘱託殺人事件から・下」,『京都新聞』2020-8-21
◇―――― 20210228 「とくだんかわったことはなにも」,椹木野衣・京都市京セラ美術館編『平成美術:うたかたと瓦礫 1989−2019』,世界思想社,229p. 3182+,pp.171-176
◇立岩 真也・天田 城介 20190412 「病・障害から社会を描く――『不如意の身体』『病者障害者の戦後』青土社)刊行を機に」,『週刊読書人』3285:1-2
◇立岩 真也・有馬 斉 20121031 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院,241p.
◇立岩 真也・熊谷 晋一郎 20190701 「「痛いのは困る」から問う障害と社会」,『現代思想』47-9(2019-7):221-229
◇立岩 真也・杉田 俊介 20170105 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,青土社,260p.
◇立岩 真也・村上 潔 2011 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p.
◇立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 20090910 『税を直す』,青土社,350p.
◇立岩 真也・堀田 義太郎 2012 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社
◇立岩 真也・村上 潔 2011 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p.
◇立岩 真也 編 20141231 『身体の現代・記録(準)――試作版:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』,Kyoto Books,\700 →Gumroad
◇―――― 20150531 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books
◇―――― 20160429 『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』Kyoto Books 327.4kb
◇―――― 20161031 『自己決定/パターナリズム』Kyoto BooksGumroad HTML版
◇立岩 真也・小林 勇人 編 200509 『<障害者自立支援法案>関連資料』,Kyoto Books,134p.
◇立岩 真也・定藤 邦子 編 200509 『闘争と遡行・1――於:関西+』,Kyoto Books,120p.
◇田中 啓一 i2018 インタビュー 2018/01/31 聞き手:立岩真也 於:金沢市・田中さん自宅
田中 耕一郎 20051120 『障害者運動と価値形成――日英の比較から』,現代書館,331p. ISBN: 4768434509 3360 [amazon][kinokuniya]
◇田中 美津 2005 『かけがえのない、大したことのない私』,インパクト出版会,358p.
谷村ひとみ 2013 「『僅かな資源しか持たない』離別シングルマザーの家族戦略と老後設計――成人子との決別で獲得したひとりの老後」,『Core Ethics』9:151-161 <213>
土屋 葉 2019 「「福島県青い芝の会」の生成と展開――それは『さようならCP』から始まった」,青木他編[2019:23-64]
◇天畠 大輔 2012 『声に出せない あ・か・さ・た・な――世界にたった一つのコミュニケーション』,生活書院
◇―――― 2019 「発話困難な重度身体障がい者」が「生産する主体」になるためには――天畠大輔のコミュニケーションの拡張とジレンマを通して」,立命館大学大学院先端総合学術研究科博士論文
◇東京都立府中療育センター 編 198805 『療育20年のあゆみ』,東京都立府中療育センター
富田 三樹生 20000130 『東大病院精神科病棟の30年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』,青弓社,295p. ISBN-10: 4787231685 ISBN-13: 978-4787231680 3000 [amazon][kinokuniya]

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○な〜の
中井良平 2021 「聴者の働きかけと技術の再配置による、聴覚障害者―聴者コミュニケーション変容の可能性――音声認識技術の利用検討から」,『Core Ethics』17
◇長尾 英彦 2013 「24時間介護を受ける権利」,『中京法学』47-3・4:25-47(145-167) [PDF]
仲口 路子 2009 「医療行為/医療的ケア・年表」../d/a02mh.htm/a>
◇中島 初恵 19750425 「東京都の難病問題と難病対策」,
川村・木下・山手編[1975:62-75]
◇中西 正司 2014 『自立生活運動史――社会変革の戦略と戦術』,現代書館,258p. ISBN-10: 4768435270 ISBN-13: 978-4768435274 [amazon][kinokuniya]
◇中西 正司・上野 千鶴子 2003 『当事者主権』,岩波新書
◇中西 正司・立岩 真也 1998 「ケアコンサルタント・モデルの提案――ケアマネジメントへの対案として」,ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会[1998:63-113]
◇長畑 正道 19930612 「重症児問題の30年を振り返って」,第30回全国肢体不自由字児療育研究大会基調講演
永村 実子 2020/11/27 「インタビューに際して」
◇―――― i2020a インタビュー・1 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
◇―――― i2020b インタビュー・2 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
◇―――― i2020c インタビュー・3 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
◇―――― i2020d インタビュー・4 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
西田 美紀 2009 「臨界からの生存――独居ALS患者の在宅移行支援(一)」,『生存学』1:165-183
◇―――― 2010 「重度進行疾患の独居者が直面するケアの行き違い/食い違いの考察――ALS療養者の一事例を通して」,『Core Ethics』6:311-321
◇―――― 2011 「医療的ケアが必要な難病単身者の在宅生活構築−介護職への医療的ケア容認施策に向けた視点−」,『Core Ethics』7:223-234
◇―――― 2012 ,「医療機器を必要とする重度障害者の実態調査――地域のローカルなつながりに向けて−」, 『立命館大学生存学研究』, 生活書院, p113-139
◇―――― 2013 「在宅ALS患者の身体介護の困難性――ホームヘルパーの介護経験から」,『Core Ethics』9:199-210 [PDF]
◇新田 勲 2012 『愛雪――ある全身性重度障害者のいのちの物語』,第三書館,上:448p. 下:352p.
◇新田 勲・立岩 真也 2009 「立岩真也氏との対話」,新田勲編[2009:124-148]
◇新田 勲 編 2009 『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』,現代書館,270p.
◇新田 絹子(三井 絹子) 19721117 「わたしたちは人形じゃない――新田絹子さんの手記」,『朝日ジャーナル』1972.11.17

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○は〜ほ
◇萩原 浩史 2019 『詳論 相談支援――その基本構造と形成過程・精神障害を中心』,生活書院
長谷川 唯 2009/02/25 「独居ALS患者の在宅移行支援(2二〇〇八年六月」,『生存学』1:184-200
長谷川 唯桐原 尚之西田 美紀・戸田 真理・坂野 久美・Yoo, Jin kyung ほか 20190917 「入院時の重度訪問介護利用をめぐる問題――国立病院機構における政策上の課題」,障害学会第16回大会 2019年09月17日 於:立命館大学朱雀キャンパス(京都市) [DOCX]
長谷川 唯増田 英明西田 美紀桐原 尚之川口 有美子立岩 真也 2017/12/09 「人工呼吸器を装着したALS患者の自立生活――ALS患者が家族以外の人のケアを受け入れていく過程を通して」,ポスター報告,第28回ALS/MND国際シンポジウム,於:ウェスティン・ボストン・ウォーターフロント,ボストン
◇春山 満 1998 『いいわけするな!』,講談社,221p.
坂野 久美 2018 「 筋ジストロフィー患者が大学に行くということ――立命館大学の事例をめぐって』,『Core Ethics』14 [PDF]
◇樋口 恵子 19980205 『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』,現代書館,198p. 4-88233-045-8 1575 [amazon][kinokuniya]
◇ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会 1998 『障害当事者が提案する地域ケアシステム――英国コミュニティケアへの当事者の挑戦』,ヒューマンケア協会・日本財団
◇平井 誠一 i2018 インタビュー 2018/01/29 聞き手:立岩真也 於:富山市・自立生活支援センター富山
深田 耕一郎 20090710 「贈与を要求する――公的介護保障要求運動とはなにか」,『障害学研究』5
◇―――― 2013 『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』,生活書院,674p.
◇藤岡 毅・長岡 健太郎 2013  『障害者の介護保障訴訟とは何か!――支援を得て当たり前に生きるために』,現代書館
舩後 靖彦 2002a 「ご挨拶」、舩後[2002-]http://www1.odn.ne.jp/~aae03880/index.html [7]
◇――――― 2002b 「主治医のアシスタントとして、一緒に講演」,『難病と在宅ケア』08-08(2002-11):66-68
◇――――― 2003 「2003年ミラノALS/MND国際会議参加、報告」http://www5e.biglobe.ne.jp/~funago/Milano_2003/1st_report.html
◇――――― 2004 「2003年ミラノALS/MND国際会議(同盟会議)参加報告」,『JALSA』061:12-13
◇舩後 靖彦・寮 美千子 20080805 『しあわせの王様――全身麻痺のALSを生きる舩後靖彦の挑戦』,小学館,196p.
◇星野 一正 199112 『医療の倫理』,岩波書店,岩波新書新赤版201,240p. ISBN:4-00-430201-3 819 [amazon][kinokuniya]
堀田 義太郎 20090225 「独居ALS患者の在宅移行支援(4)――課題・要因・解決方策」,『生存学』1:218-235
◇―――― 2012 「ケアと市場」,立岩・堀田[2012:175-205]
◇―――― 2012 「ケアの有償化論と格差・排除――分配バラダイム・制度主義の意義と限界」,立岩・堀田[2012:207-252]

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○ま〜も
前田 拓也 2005 「パンツ一枚の攻防――介助現場における身体距離とセクシュアリティ」,倉本編[2005]
◇―――― 2009 『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』,生活書院,369p.
◇牧野 恵子 2020 「(未発表)」
◇増田 智子 i2018 インタビュー 2018/12/25 聞き手:ユジンギョン 於:京都市・増田氏宅
◇―――― i2019 インタビュー 2019/01/09 聞き手:ユジンギョン 於:京都市・増田氏宅
増田 英明 2018 「人工呼吸器を装着した私の挑戦――障害学国際セミナー2017に参加して」,『研究の現場』,立命館大学生存学研究所 http://www.ritsumei-arsvi.org/news/read/id/782http://www.ritsumei-arsvi.org/en/news/read/id/330[English]
◇松田 純 20181225 『安楽死・尊厳死の現在――最終段階の医療と自己決定』,中公新書,272p.ISBN-10: 4121025199 ISBN-13: 978-4121025197 860+ [amazon][kinokuniya]
三井 絹子 2006 『抵抗の証 私は人形じゃない』,「三井絹子60年のあゆみ」編集委員会ライフステーションワンステップかたつむり,発売:千書房,299p.
◇―――― 20151012 「私は人形じゃない」,NHK戦後史証言プロジェクト「日本人は何をめざしてきたのか」・2015年度「未来への選択」
◇―――― 20180701 「みんながわかる しょうがいしゃのれきし――しせつのじったい、ふちゅうりょういくせんたーとうそう、そしてちいきに」,多摩市市民企画講座「しょうがいしゃが差別されない街をめざして」http://www.city.tama.lg.jp/0000007073.html [148]
宮本 泰輔 i2020a インタビュー・1 2020/12/17 聞き手:立岩真也井上武史 タイ・バンコク間Skype for Business使用
◇―――― 宮本 泰輔 i2020b インタビュー・2 2020/12/17 聞き手:立岩真也井上武史 タイ・バンコク間Skype for Business使用聞き手:立岩真也、井上武史 於:タイ・バンコク間Skype for Business使用
◇みんなの介護入居相談センター -2020- 「介護保険の自己負担額」 https://www.minnanokaigo.com/guide/care-insurance/price/,『みんなの介護』 https://www.minnanokaigo.com/
森山 治 2004 「東京都における保健・医療・福祉政策――重症心身障害児施策の成立過程についての考察(その1)」,『人文論究』73:97-112(北海道教育大学函館人文学会) 

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○や〜よ
矢吹 文敏 i2009 「障害者運動とまちづくり運動の展開(1)――矢吹文敏氏(日本自立生活センター)に聞く」,聞き手:高橋 慎一 於:京都
◇―――― 2014 『ねじれた輪ゴム――山形編』,生活福祉社,307p.
◇山下 幸子 2008 『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』,生活書院,243p.
山下 恒男 19770630 『反発達論――抑圧の人間学からの解放』,現代書館,278p. ISBN-10: 4768433316 ISBN-13: 978-4768433317 1600 [amazon]→20020710 『反発達論――抑圧の人間学からの解放 新装版』,現代書館,286p. ISBN-10: 4768434290 ISBN-13: 978-4768434291 [amazon][kinokuniya]
山田 富也・白江 浩 20020212 『難病生活と仲間たち――生命の輝きと尊さを』,燦葉出版社,323p.
山田 真 20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社,216p. ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon][kinokuniya][Karaimo Books]
◇山之内 俊夫 i2018 インタビュー 2018/09/26 聞き手:立岩真也 於:宮崎市・障害者自立応援センターYAH!DOみやざき事務所
◇山村 秀夫 1991 「人工呼吸器の歴史」,天羽編[1991:3-10]
山本 晋輔 2009/02/25 「独居ALS患者の在宅移行支援(3)――二〇〇八年七月」 ,『生存学』1:201-217
◇NPO法人ゆに 20180331 『「当事者とつくる重度訪問介護研修」事業報告書』,NPO法人ゆに http://www.unikyoto.com/
◇Yoo Jin kyung 2018 " Case studies of the lives of spouses of people with ALS in South Korea・Focusing on the experience of spouses," 障害学国際セミナー 2018年10月04-07日 於:台湾国立大学(台湾・台北市) ◇―――― Yoo, Jin kyung 2019 "A step toward community activities for people with ALS living at home using personal assistants," 障害学国際セミナー 2019年10月12-13日 於:武漢中南花園飯店(中国・武漢市)
◇由良部 正美 i2019 インタビュー 2019/10/25 聞き手:桐原 尚之西田 美紀長谷川 唯ユ ジンギョン 於:京都
◇横田 弘 1974 『炎群――障害者殺しの思想』,しののめ発行所,しののめ叢書13
◇―――― 1975 『ころび草――脳性麻痺者のある共同生活の生成と崩壊』,自立社,発売:化面社,255p.
◇―――― 1976 『あし舟の声――胎児チェックに反対する「青い芝」神奈川県連合会の斗い』,「青い芝」神奈川県連合会叢書No.2,154p.
◇―――― 1979 『障害者殺しの思想』,JCA出版
◇―――― 2004 『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集』,現代書館
◇―――― 2015 『増補新装版 障害者殺しの思想』,現代書館
◇横田 弘・立岩 真也 2002a 「対談1」→横田・立岩・臼井[2016:72-126]
◇―――― 2002b 「対談2」→ 2004 「差別に対する障害者の自己主張をめぐって」,横田[2004:5-33]
◇―――― 2008 「対談3」→横田・立岩・臼井[2016:176-211]
◇横田 弘・立岩 真也・臼井 正樹 2016 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』,生活書院
横塚 晃一 1972 「優生保護法と私」,『青い芝』16
◇―――― 1975 『母よ!殺すな』,すずさわ書店
◇―――― 1981 『母よ!殺すな 増補版』,すずさわ書店
◇―――― 2007 『母よ!殺すな 新版』,生活書院
◇―――― 2010 『母よ!殺すな 新版第2版』,生活書院
◇吉見 俊哉 編 2015 『万博と沖縄返還――一九七〇前後』(ひとびとの精神史・5),岩波書店
◇吉村 夕里 2009 『臨床場面のポリティクス――精神障害をめぐるマクロとマクロのツール』,生活書院

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○ら〜ろ
◇李 清美 20091210 『私はマイノリティあなたは?――難病をもつ「在日」自立「障害」者』,現代書館,225p. ISBN-10: 4768456235 ISBN-13: 978-4768456231 1500+ [amazon][kinokuniya]
◇立命館大学生存学研究センター 編 2016 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』,生活書院,272p.

>TOP ○わ
◇若林 克彦 1986 『軌跡――青い芝の会・ある脳性マヒ者運動のあゆみ』(脳性マヒ者の生活と労働)
◇若林 幹夫・立岩 真也・佐藤 俊樹 編 20180420 『社会が現れるとき』,東京大学出版会,384p.
◇早稲田 夕季 20200226 「重度訪問介護等を就労・通勤・就学・通学にも使えるようにすべきことに関する質問主意書」
◇渡辺 一史 20030331 『こんな夜更けにバナナかよ――筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』,北海道新聞社,463p. ISBN:4-89453-247-6 1890 [amazon][kinokuniya]
◇渡邉 琢 2011 『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』,生活書院
わらじの会 20100325 『地域と障害――しがらみを編みなおす』,現代書館,403p. ISBN-10:4768435017 ISBN-13:978-4768435014 3000+ [amazon] [kinokuniya]


□2021/02/02

※ この本(電子書籍…B)はちくま新書『介助の仕事――街で暮らす/を支える』(A)を購入する人に限り購入することができます。
 新書Aはまだ刊行されていません(3月初め予定)。立岩が出版社から直接に入手し次第(書店での販売より早いはずです)、お送りします。
 HTMLファイルB(ただ開けばすぐ読めます)は、メール(→立岩:tae01303@nifty.ne.jp)で注文をいただいた人に直接(メールへの返信に添付して)、Aの送付前にお送りします。
 2月2日発送開始、2月中に、修正し増補改訂したものを再度、送付いたします。
 本文はちくま新書のものと異なります(同じ本文のものを出すことはできないようです)。
※A+Bで1500円です。バラ売り?はなしです。
※送金方法1)Aに同封の郵便振替用紙を使う。方法2)Kyoto Booksから(これから頁を作ります)。
※新書Aの発売後、Aを購入した人でBの入手を希望する方への対応は、出版社と相談しながら、これから考えます。一案として、本の画像をメール添付で送っていただき、それへの返信(あるいはKyoto Books経由)でBを送付、Bの代金として1000円を送っていただくという方法を考えています。
 本文のある版をお送りすることは上記と同じ理由で(=(同じ本文のものを出すことはできないようです)不可能になるかもしれません。2月中の注文をお願いいたします。
※2月中は、連番印字(ゴムスタンプ)付き+…というのをやってみようかと思います。006〜になります。
※この本には主にhttp://www.arsvi.com/内のページへの大量のリンクがあります(2021/02/02朝に1131個)。オンラインの状態で読んでいただくとそれらのページに行き情報を得ることができます。

□2020年に予約くださった方についてはその時にお知らせしたようにさせていただきます。

※連番印字(ゴムスタンプ)付き+署名入りの本、発行され私が入手し次第お送りいたします。送料込みで定価(820+税82円)となります。1冊よりご注文お受けします。郵便振替、後払いになります。…
※+Aを購入していただいたうえで、紙本(A)にない、紙本の文字量の2倍ほどの分量のある註と文献表を付した電子書籍版をディスクに入れたものを購入していただける場合には+500円、申し受けます。Aに同封します。… 売り上げの使途についてはKyoto Booksの本と同様に考えています。計1402円になります。
『生の技法 第3版』(文庫版、1200円+税)も同封可能です。やはり送料込みで定価販売になります。… 他の書籍についても相談に応じます。
※ご送付先と、Aいくつ+Bいくつ(+Cいくつか)を、立岩→tae01303@nifty.ne.jpまでご連絡ください。刊行=発送は、2020年の夏には、と考えております〔→2021年3月になってしまいました〕。連番は注文順になります*。
 *現在005になっております。


20210203 ver0.1(624.9kb)/0205 ver0.2(626.6kb)再校反映・註加筆/0206 ver0.3(626.9kb)再校についての編集者のやりとり後・註加筆/0206 ver0.3(628.3kb)/0207 ver0.4(637.4kb)/0209 ver0.5(637.7kb)/0212 ver0.6(637.7kb) ...20210402 07(584.1kb) 16(587.5kb)
著者:立岩真也 2021
発行所:Kyoto Bookstae01303@nifty.ne.jpTOP