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この単純な場所に立って、むだにぐるぐるしない、ために

立岩 真也 2021/06/01 『福音と世界』2021-6 ※5月10日発売
http://www.shinkyo-pb.com/magazine
新教出版社 http://www.shinkyo-pb.com/

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◇新教出版社 http://www.shinkyo-pb.com/

立岩真也『良い死』表紙   立岩真也『唯の生』表紙   立岩真也『介助の仕事――街で暮らす/を支える』表紙   立岩真也・有馬斉『生死の語り行い・1』表紙   立岩真也『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』表紙
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cf.
◇立岩 真也 2019/02/01 「「喩としてのマルコ伝」以後」(聖書とわたし),『福音と世界』2019-2:4
 http://www.shinkyo-pb.com/magazine/20192.php

※校正済・ただし仮名遣い等は原稿のまま。リンクなどはこれから。
※全文の掲載は発売開始から1か月、以降になります。
※注は掲載されるものにはなし。これから。

介助の本で安楽死のことを書いた
 私が考えて書いてきたのは「安楽死」についてだ。紙の本以外のものを含めると4冊もある。1冊めが『良い死』(筑摩書房、2008)、翌年、『唯の生』を同じ出版社から、など。だいたい書くべきことは書いた。それでも、繰り返しは必要なのだろうと思っている。短いものしか読まない人もいる。ある新聞を読む人は別の新聞は読まないかもしれない。数限りなくとまでは言わないが、短いものも書いて、そのいくつかがさらに何冊かの本に収録されている。それを、さらに一番簡単に短くすると、次のようになる。
 痛く苦しくて死のうとする人はじつはそうはいない。すくなくとももっと少なくすることはできる。多くの人は自分でしていたことができなくなって死のうとする。しかし自分でできないことを他人(たち)がして、それが一人ひとりにおいて、そう負担でなく、本人がそのことに引け目や負い目をそう感じずにすむのであれば、たいへん多くの場合、死ぬことはせずにすむ。他人の力を借りて死ぬことを認めるといったきまりを作るより、そちらののほうをさきにしよう。
 以上だ。とてもわかりやすい話で、私にはそれが間違っていると思われない。にもかかわらず、これだけ言って終わらせてもらえず、派生して現れる言葉や気持ちに向けて、幾度も幾度も、書いてきた。
 一つ、その主張・理屈はわかるが実現は難しいでしょうという話がなされる。この一つも二つに分けられる。一つが、「大きな話」として、そんな甘いことを言っていたら社会は回っていかないのだ、やっていけないのだという話だ。「少子高齢化」というお話を、子どもたちも、小学校にあがる前から知っている。少子高齢化自体は事実だが、しかし、心配することはないというのが私の返しになる。そのことを主張・説明しようとする文章もやはり幾つも書いてきた。それでも信じてもらえない、その前に、読まれている気配がないので、新書に書こうと思ったのだが、それは二度途中で止まってしまった。数字など持ち出すまでもないことだと思っているのだが、やはりそういうふうな書き方がよいのだろうか、とか、ためらいもあって止まっている。だが、そのうちと思う。
 一つは、大きな話は別として、実際、できないことを補うその手段を使えない、またお金がかかる、から使えないという話だ。そのことについて書くのが先かなと思い、今度でた本はこちらの方について書いた。『介助の仕事――街で暮らす/を支える』という本だ。税込み902円、ちくま新書で出してもらった。安くて薄い。本文より長い注と文献表はサイトに載せてある。「介助の仕事 補注」で検索すると出てくる。たしかに実際には人手は足りていない。しかしどうにもならないことはまったくない。知らないから使われていない制度もある。バイトでいいから介助の仕事をしてみよう。こんなことを書いた。私は、そのあまり知られていない「重度訪問」という制度のもとで仕事をしようとする人たちの研修の講義の一部を長く担当してきた。その録音記録を使った。少なくともこの本について、わかりづらいというクレームを私は受け付けない。読んでいただきたい。
 その本に死のこと安楽死のことが書いてあるとは思われないかもしれない。しかし、介助のあるなしは、できないことを巡る本人や家族の負荷の大きい少ないにおおいに関わるのだがら、もちろん関係はある。そして、この本の最後、第9章に「こんな時だから言う、また言う」を加えた。ここは研修での講義と別に、話したように書いた。節の見出しは、「それでも亡くなった」、「つまらぬ言い訳せず逃げを打たず起こることを知る」、「このことについても短い本が要るだろうか」、「本書に書いたことから言えること」、「確認1・「ああなったら私なら死ぬ」は普通は誹謗だ」、「確認2・なんであなたは威張っていられるのか不思議だ」、「確認3・「特別扱いするな」はさらに意味不明だ」。
 「それでも亡くなった」は、京都で2019年にALS(筋萎縮性側索硬化症)の人が属託殺人で死んだことが2020年に報じられて、書いた。その人は、介助の制度を24時間使うことができていて、それでも亡くなった。とすると、制度がなく金がなく人手がないから人は死ぬのだという、さきの単純な主張は崩れるのか。そのことについて加えたほうでよいと思い、短くだが、加えた。
 そして、その報道の翌月、京都新聞社の記者からかなり長いインタビューを受けて、それが2回に分けて『京都新聞』に掲載された★。さらにそれがヤフー・ニュースに転載された。「「私なら死ぬ」はヘイトスピーチ」といった見出しに反応した人たちが、それは記事を作った記者たちがいくらか予想し意図したことだったのだが、いて、炎上した。それで本の第9章に「確認1・「ああなったら私なら死ぬ」は普通は誹謗だ」を書いた。読むまでもなく自明だ、とすぐには思えなかった人がいたら、読んでほしい。
 こうして新聞記者たちは「若い人たち」を相手にしたかったようなのだが、気持ちとしては、私は面倒だ。その炎上の中身もいちいち読んでいない。ほぼ何も考えず、強い言葉を、誰でも読める媒体で言う、言ってよいと思っている、あるいはよいとかよくないとか思ってもおらず、ただ言う、その言葉に、いちいちつきあっていられない。ただ私は、ものを考えて言うことが仕事なのであり、傷つかざるをえない境遇にいるわけでもないのだから(それにしては、傷つくこともある)、一人ひとり一つひとつに個別に幾度も、は願い下げだが、言うし、書く。それで「確認2」「確認3」と書いて、本を終わらせた。

★以下。
◇2020/08/20 「ALS嘱託殺人事件から・上」,『京都新聞』
◇2020/08/21 「ALS嘱託殺人事件から・下」,『京都新聞』

そのうえで、良い人たちのこと
 ただ他方、この世には、無思慮で、あらかじめ攻撃的、という人たちばかりがいるのではない。むしろ、やさしい人たちがたくさんいる。例えば、さきの京都新聞社の記者たちはわりあいやんちゃな人たちだったのだが、多くの新聞社や通信社や放送局の人たちはそうではなく、普通にまじめな人たちだ。それで、「優生思想の蔓延」を憂いて、「どうやったらなくせるでしょうか」と聞いて、それで記事を作ろうとする。メディアの人に限らない。親や支援職の人たちが、聞かれて、あるいは聞かれなくても、語る。今から5年前、2016年の7月26日、神奈川県の「やまゆり園」で多くの人たちが殺傷された。その後にもいろいろが言われた。
 気持ちは、痛いほど、には私はわからないのだが、ある程度わかる。しかしそうして言われることには、いくつかまずいことがあるのではないか。そのことを思ってきた。
 さきに、人もものも「足りない(ことはない)話」を先延ばしにすると述べたが、その代わりに今書いていて今年中に出してもらう本がある。題名は未定。「優生思想」についての本になる。やはりちくま新書で出してもらう。
 「(優)生」と「(安楽)死」は関係があるか。もちろん関係があるが、その説明はここでは略す。その本では、なぜ優生思想が繁盛したのか、今もしているのかをまず書くのだが、それとともに、それ(の蔓延)を批判し否定しようとする動きについても書く。
 「どうやったらなくせるのか」とか聞かれて、いったいこの人はまじめに聞いているのだろうかと、思う。「みんなの意識を変えていかねばならないということでしょうか?」とか言われて、「そう思うんだったら自分でそう書けばいいのに」、と思ってしまう。そんなことが何度かあって、ここも書いておかねばと思った。
 例えば一つ、「悪いとされているものがじつは良い」と言う人がいる。「実は良い」ということはたくさんあるから、それは言えばいのではある。しかし、「良い」と言わねばならないのか。「そんなことはいやだ、わざわざ自分のことを良いと言わねばならないのは嫌だ」と言った人たちを知っていて、そう言うのももっともだと思うから、それで対抗しようといのはよしにしようと思って、そのことを確認しておこうと思う。
 例えば一つ、「みんなの問題」だと言う人がいる。みんなが死ぬ。これはまったく確実にそうだ。みんながやがてできなくなる。ほぼ確実にそうだ。なので、「他人ごと」と考えずに、「みなのこと」として考えようという話がされる。これも間違いではない。しかしすくなくとも皆が一様に、ではないだろう。私は(ほぼ確実に)「ああまでは(ひどく)ならない」ということがある。とすると、やはりこれを根拠にもってくるのも危うい感じがする。
 とすると、もっと強い根拠を、と思う。しかし、そういう、強い根拠を探そうという道を辿って行くのがよいのか。このようなことを考えていくのが、本来なくてすむならなくてもよい「学」というものがするべきことなのだと私は思っている。さて、そのように構えてみる時、例えば「死生学」というものはどういうものであったか、そして今あるのか。そんなふうにこのかんの言論の流れを見ていくこともできると思う。さっき4冊あると言った4冊めの本は、『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』というもので、勝手に、電子書籍と称して自主製作・販売?している。「(近代社会において)死が隠されているのはよくないのでこれから死について語ります」と始まる、夥しい数の本があり――その限りではすこしも死は隠されていない――それらを並べ、紹介し、こちら(生存学研究所)のサイトにあるそうした本たちについてのページにリンクさせているという本だ。2017年に作って今までに売れたのは23冊。なかなか難しいものだ、と思いつつ、それでもこういうこともしておいた方がよいと思って作っている。
 そうして蓄積され堆積されたものを短くしても仕方がない、というか、そんなことは無理だ。だから、それはそれとして27冊しか売れなくとも作りながら、「ようするに」を言う、それを新書で、と思っている。

もっと良い人たちのこと
 そして、もっとまじめな人がいる。その人たちは、「やはり意識の改革ですね」、とか、「教育が大切なんでしょうね」、と言って終わったりはしない。
 「内なる優生思想」という言葉がある。短い説明は今度の新書でするが、優生保護法だとか、安楽死計画だとか、国家が堂々とあるいは隠れて作ったり実行したりして、それを私(たち)は批判するのだが、しかしそれだけのことではない、私(たち)にもそれを支持してしまうところはあると、正しくも思った人たちの言葉だ。それは、基本、正しい。
 ただ、そう思った人はどこに行くか。どうもその自分から簡単に逃れることはできないように、正しくも、思われる。そこで一つには、神様を信じられる人においてはその神様を頼り、許してもらうことだ。そこまで書いて、たしか、と検索したら、私は本誌の2019年2月号の「聖書とわたし」というコーナーに「「喩としてのマルコ伝」以後」という短文を書かせていただいているのだった。
 […]
 さて他方、この国の人たちは、神様を信じていないか、あるいはまじめには信じていない。とすると、その国ではどうなるのか。
 止まってしまうのだ。否定しなければならないと思う。しかしそれは容易なことではない、むしろ不可能なことだと、正しくも、思える。「内なる優生思想って誰にでもあるよね、誰にでもあるから、それを根絶しようというのは難しいよね」となる。言葉が続かない。「難しいでよねえ。考え続けねばなりませんよね」と言って、そこでぐるぐる回ってしまう。それは、ほぼそとこで終わる、止まる、止まっているのと、外からは変わらない。そしてその中では、ほんとうに真面目に迷い考えているなら、力が費消され、弱っていく。
 さて…、という話を、私は、やまゆり園での事件の後、京都での事件(の報道)があったりしたその前後、新聞社や放送局の人とした。ただ結果として記事になるのは、「立命館端大学生存学研究所所長の立岩真也教授は人の命は大切にしましょうと言いました」といった文で、肩書の紹介の方が長くなったりする。それは悲しいから(その悲しみは記者のかたも共有している)、このごろ私はそのたいがいは2時間くらいにはなるそのやりとりを録音しておき、こちらで文字にしてもらうことがある。その一部の途中から。

 「続くっていうのと終わりっていうのほぼ同義で。続く、兼、終わりみたいな、で、ストップ、思考ストップみたいな、そういう良心的な人たちがいるわけです。僕、それはあまりよくない、健康によくないと思っているんです。止まってしまってぐるぐるになってしまうと思うんです。
 「内なる××」ってものがなくなるってことはないと言ったって、全然かまわないと思うんですよ。かまわないっていうかそれはそれであるだろうと。あるだろうと諦めるというか割り切るというか、根絶できなきゃいけないわけじゃなくて、そういうふうに私たちが思ってしまうっていうことを否定しようとすると、だんだん人間苦しくなるわけじゃないですか。罪から逃れられない、的な話になっちゃうわけじゃないですか。原罪になっちゃうんですよ。
 だから、そういう追い詰め方をするんじゃなくて、そういう思いっていうのは、もしかしたら「業」みたいなものでね、否定しきれないというか、否定しようと思ってもいくらかは残るっていうのはあるかもしれない。それを否定しようって頑張るよりは、「そういうことは良し悪しは別としてあるよね、だけど」って言ったほうがたぶんいいんです。場合によっては言うことだって許してあげてもいい、でもそのぐらいにしとけと。それ以上、公の言論の場に持ち出すとか、あるいは今度のことのように実際に暴力沙汰に及ぶとか、それはさせない。そういう覚悟というか、だと思うんで。こういう事件のことずっと問題にしなきゃいけない人って、僕の感じじゃちょっと優しすぎるんですよ。「反省しなきゃね」みたいな、「僕たちだって罪を負ってるのよね」みたいな。
 自分も差別者だ、と。そうなんです、実際差別者なんですけど。そういうことでかえってぐるぐるしちゃうというか。わかりますが、僕はあんまりいやだな。そういうんじゃない方角で考えたり思ったほうがいいように思います。そういうふうに「内なる優生思想」っていうのが使われる、話を続けさせるとともに終わらせるっていうか、「解決できませんよね、この問題は、終わり」みたいな、そういうふうになっちゃうっていうのはいやですよ。いろいろやりようはあるわけですよ。この社会のなかで、今日明日、できることはたくさんある。あなたがどんなに性悪であろうと善人であろうと、やるべきことはいっぱいあるし、それは明らかに人を傷つけたくなったり殺したくなったりする、その度合いを減らします、明らかに。」

 そんなことを思って『介助の仕事』を書いた。こんなやりとりをいくらか整理して、あと数ヶ月で、次の新書を作ろう。そして次に「足りなくない話」。そう思っている。


UP:20210426 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇立岩 真也:本 
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