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障害者と/の労働について:覚書

立岩 真也 2021/01/13

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研究会のお知らせ(本頁内)
※当日、参加者とやりとりするなかで、さらに考えるべきこと書くことの方向を確認できました。今後は別の文章(ページ)で改稿・増補を続けていくつもりです。(2020/04/28)

※以下の企画の参考資料としても使います。それに際していくらか加筆しました。
 ◇シンポジウム「障害者権利条約と労働・雇用をめぐる日本、アジア、世界の状況」



 この主題が考えられてよいことについては幾度も述べてきた。

 「安積純子(いまは安積遊歩で通している)他と書いた『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』という本が1990年に出た(藤原書店、1995年に増補改訂版)。そこで、いくつかの主題は私らには難しすぎてまだわからないのでここでは書けない、と書いた。一つは「優生思想」のことで、これは1997年に出た『私的所有論』(勁草書房)で少し考えることになった。もう一つは、関連するが「障害を肯定する」というものの言い方をどう考えるかだった。このことについては石川准・倉本智明編『障害学の主張』(2002年、明石書店)に入っている「ないにこしたことはない、か・1」で考えてみた(話は終わっていないのだが、「2」が出る気配はない)。
 そしてもう一つが労働のことだった。障害者の就労という主題に限らず労働について考えることはこれからしばらくの大きな主題だと、私はかなりにまじめに思っている。最近出た拙著『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(2004年、岩波書店)でも、「労働の分配・労働の分割もおもしろい主題としてある。しばらく私たちは消費社会を語ってきたのだが、とくにこれから何十年かは労働がもっとも大きな主題の一つとなるだろう。」と書いた(p.24)。この主題を考える本格的な仕事はこれからになる。まずおおまかに思っていることを書いた短い本を1つ出すかもしれない。それから、他の人たちともいっしょに仕事をして、数年か後には何か言えればと思う。そんな悠長なと叱られるのはたいへんもっともなことなことではある。しかし、そのぐらいの大きな問題ではあると思う。」(立岩[20050800→2006:])

 本は(今まで)出なかった。その10年後の短文より。「この問いはかなりきっちり考えて複数の答しか出ない」

 「ここではごく基本的なことを。一番単純には、「障害」に対応する英語は disability であり、労働は ability を要する行ないであり、ability がなければ仕事にはつけない、収入も得られない、終わり、となりそうだ。そして私自身は、そこからものを考えてきたところがある。働けないものは働けない、は事実として、ゆえに得られないのはおかしい。では、というようなことである(『私的所有論』、現在は第2版・文庫版、2013)。
 しかしもちろん、第一に、あることができなくても他のことができることがある。第二に、できる/できないは1か0かといったものではなく、所謂「障害者」と名指されなくても、多くの人はある程度はできある程度はできない。これらをどう考えるかが、前段に述べたことと別の、あるいは述べたことを考えた上での主題になる。」([2014]


 労働人口をがんばって増えすことは必要ではない★02。働かなくてもよいのだというかまえは、依然として、いつまでも有効※。
 しかし、そのことは基本に置きながら、同時に、働きたい人が働けるようにするべきであると言える。
 なぜか。1)受け取りが所得保障だけの時に比べれば増える。2)働くことには、自分にとって、そして他人にとってを介して自分にとって、よいところももある。そしてこれまで働いていた人にとっても、その一部を肩代わりしてもらえるのは、そうわるくはない。(『希望について』[156-157])
 とすると、一つに、労働の分割という線がある。→
※ 他方で私は、「労働の義務」を肯定するのでもある(立岩・斉藤[])★03。辻褄はあっていると考えている。

★02 「だいじょうぶ、あまっている・1〜」([20200414-])
★03 2006年の文章から。
 「まず、生存・生活のために消費は必要であり、そのために生産は必要であり、労働は必要である。このことは動かせない。生存が権利であるなら、その手段としての労働は義務だと言えるのではないかということだ。
 AとBの二人がいたとして、生活・生存(自由と言いたい人にとっては自由…)が権利であるとしよう。そしてBだけが働けるとしよう。するとA(の生存・生活、自由…)のために働くことは義務だとなる。このような意味においては、労働が義務であることは否定されない。権利と義務は一般的・基本的に相即する。だから、権<0166<利が先か義務が先かといった議論は、むろん文脈によって有意味であり有意義である場合もあるのだが、しばしば、まちがっている。人の権利を認めることは、その権利を認める義務が人々に課されるということである。人が生きる権利があることは、人々にその人を殺さない義務、生きることを可能にする義務があるということである。
 ただ労働の場合には少し異なると思われるかもしれない。つまり、しばしば人は自分の分かそれ以上を自分で働き出すことができる。先の例ではBは働けないのだったが、それは一般的な事態ではない。自分で働いた分を消費して生きている限りにおいては、他人を働かせる必要は必ずしもない。とすれば、その人の権利を実現するために、他の人に義務を課す必要はないことになるのではないか。
 たしかに実際にそうして生きていくことは可能であろう。しかし第一に、だから他の人たちに義務がないとするのは、その人自身の生について、その人だけが義務を負うということでもある。私たちは、最も基本的な水準においては、自らの生産物(とそれを交換して得たもの)によって自らの生を成り立たせていくべきだという規範を採用しないのだった。第二に、その人自身が自らの生産物でやっていけるという事態は、その人の生産物をその人が独占的に取得する権利を認めることによって成り立つ。しかしこのことも、やはり基本的には、肯定されないのだった。
 自らの生産物を独占的に取得する権利ではなく、一人ひとりが生きる権利が認められるのだとしよう。するとそのことに関わる義務は誰にあることになるのか。それを誰か特定の人とする根拠はない。自分が生きるために自分だけが働く義務があるとも言えない。とくに限定されない人々全般に義務はある、となる。
 もうすこし言えば、働くことは、少なくとも一面で、労苦ではある。同じぐらいの暮らしができて、その限りではおおむね同じくらいの便益を受け取れるのであれば、おおむね同じぐらい働いてもよいではないか。(これに対しては、得るものが少なくていいから少なくだけしか働かなくてもよいようにしてくれという要求を受け入れることになると指摘されるかもしれない。しかしこれは受け入れてかまわないと私は考える。)
 ただし以上は、義務を課す規則を置くべきことを意味しない。義務はあると言うことと、「働かない権利を」<0167<という主張――例えば「病」者の本出版委員会編[1995]の表紙写真には「働かない権利を!」という垂れ幕が写っている――の肩を持つこととは両立すると考えている。その理由はいくつかある。
 1)まずそのように言われる人にとっての負担、その人に対する負荷。
 第一に、「働かない」と「働けない」との区別が難しい。「働かない」のでなく「働けない」のだということを本人の側が立証することは困難である。そのような無理なことを押し付けて困られるよりも、それをいちいち見ない方がよいと言いうる。このことは本文でも述べている。
 第二に、なにか働くことはできるとして、働くため、働けるようになるために本人が要するコスト、あるいは働いた結果がどれほどのものになるか、そしてこの両方を見た場合に、働くことを強いられることは、やはり本人に対して害が大きいこと、そのわりにそうよいこともないことがある。
 2)次に、働いてもらう必要はあるとして、労働にし向けるための強制(しない場合の制裁)を課さなくてもかまわないと言える条件がいくつかある。
 第一に、働く理由・誘引が他にあればよい。強制――これはそもそも人をよく働かせる手段としてはあまり有効な手段ではない――でない方法として、三つあげられる。まず一つ、人は、仕事をすること自体が楽しい、自ら働きたくてけっこう働くものだということになれば、話は変わってくる。一つ、人から誉められたり、ねぎらわれたりすると、また人のために役に立っていると思うと、その気になってしまうところがある。そして一つ、いくらかの報酬(の差)があることによって(より)働こうとするなら、それで足りる可能性がある。多くの人が就きたがらない厳しい仕事についてはそれだけよけいによいこともあるようにすればよいかもしれない。(ただそれでも、辛い仕事がある特定の人たちに委ねられることにはなる。これはよくないという捉え方もある。cf.Walzer[1983=1999]。)(ちなみに、通常なされる議論はこの段落にあげた二つ三つの間でなされる。つまり、人に働いてもらうためには、やはり報酬を、それも差異化された報酬を提供せねばならないのか、それともその以外の労働への誘因を重くみてよいのかといった議論である。)
 第二に、第一点と相関するのだが、この社会で総量としていったいどれだけの人がどれだけ働かねばならない<0168<かということ。それがだいたい総量としては足りているのであれば、人を労働に仕向ける必要は少なくなる。
 3)さらに、以上に関連して、義務を課して実際に就労させることが不可能あるいは困難である場合に、実際に就労の義務を課すことは不当・不正な行ないになる。就職の数が限られており、すでにそこには人がいる場合、義務を課されても、働きようがない。自分は入れても、こんどは別の人が働けない。(ワークフェアと呼ばれる政策の一つの問題は、現実の事態はこのようであるのに就労義務を課し、さらにその無理な仕組みに適応しない人には福祉の受給権を奪ってしまうところにある。)
 こうして、労働の義務を基本的には肯定しつつ、労働を(実際に)押しつけることの加害性をふまえるなら、人を労働の方にもっていかなくてはならないことはあまりない。」([[20060710][労働の義務/働かない権利]
★  「生きていることが労働だ」的な話について。

■具体的にどうするか?
 1)差別禁止法〜うまくいかないことがある。 その理由:↓
 1)’禁止、に加えて費用を社会的に(政府を介して)負担するなら、うまくいく可能性は高まる
 2)割り当て制のほうがよくないというということには必ずしもならない
◇立岩 真也 20011225 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」,『季刊社会保障研究』37-3:208-217(国立社会保障・人口問題研究所)→立岩[200607:171-181]
 そこに述べたことの要約的な記述。
 「一つ、幾度か述べてきことを。ここのところ(というかだいぶ長いこと)よしとされるのはADA(米国障害者法)的な方向である。つまりある「職務に伴う本質的な機能」についてできる/できない選別することは許容するが、それ以外についてできる/できないによって選別してはならず、「それ以外のできないこと」については「合理的配慮」が求められるとするという仕組みである。
 これはわるくはない。すくなくともいくらかの場合にはこんな方向しか思いつかない。ただ、知られている人には知られているように、例えば米国でこの法律は(その予め限定された可能性の範囲内においても)うまく機能していない。雇用主の側は「配慮」するのは面倒で、そして雇用しないはその「それ以外」ではなく「本質的な機能」によると言い逃れられた場合にそれに反証するのが難しいからである。ではどうするか。すぐに思いつくように「配慮」に関わる負担を雇用主以外にも求めるなら、雇用主も姑息なことをせずにすむようになるだろうというのが一つ。だとして、どの程度までの負担が当然とされるか。そしてこれと、この方法以外の方法は、比べてどこがよくどこがよくないのか。ここで私たちは必ずしも「割り当て」をより古びたものと決めつける必要もない。思い返せば「機会の平等」の限界という認識から「アファーマティ分・アクション」も出てきたところがある。しかし「割り当て」で採用された人は引け目を感じるかもしれない。それをどう考えるか。こうして考えるべきことは続いていく。」([20140425]

■補う方法
 一人に一人で多くの場合よい、のだが、いつでもそうなのではない。〜中村雅也の研究がその当りを明らかにしている。
 「そのうち書かれるだろう博士論文はその人たちの教員人生をたんたんと綴るといったものになるだろうか。基本それでよいと(私は)思うが、中村のものを読んでいて、そこにはおもしろい論点が幾つかもあると思った。例えば「介助」とか「支援」といったものをどのようにするのか。「典型的な」身体障害の人の場合には、一人の人に一人がついていて、用のある時に介助するということになる。ただ中村の論文を読むと、そういうやり方より別のやり方がよいことがあることがわかる。つまり、教員たちの仕事にすこし余裕をもたせておくと、例えば採点であるとか、やってほしいことをやってもらう、中学や高校のように教科別になっている場合はその集団の中で、やりくりした方がかえってうまくいくことがあるようだ。そのように書かれるとそうかもしれない、それも不思議なことでないと私たちも思うのだが、書かれないと、実際にその場にいない人にはわからない。そんなことをわからせることは大切なことだと思う。」([20160331]「身体の現代」計画補足・297に引用)

■名乗る(名乗らねばならないこと)・認定
 このことについての「筋論」からの反論。基本的に否定的な契機ではないのだから、否定的にとらえれていることを問題にするべきだという。それに対して、そんなことを言われても現にあるものはあるのだからという反応。…
 差別禁止法的な枠組みでは名乗ることは必須ではない〜むしろそうした属性を記載することが否定されたりする。ただ「配慮」が必要であるという場合には、そうした「配慮が必要な私であること」を示すことにはなる。となると、この場合にも――「障害名」ではなく「何ができないか〜必要か」ということではあるとして――なにかしらは知らせることになる。…とすると、まったく知らせない(知られない)ということにはならない――&そもそも知らせる必要がないのであれば問題自体存在しない。しかじかができない(できなくても仕方がない)、なんらか補助がいる…といったことは知ってもらった方がよい。とすると…
 〜澤岡の研究
 cf.『自閉症連続体の時代』([20140826])

■「半分労働同一賃金」はありか?(cf.栗川[])
 まず、半分しか働かないく人でも雇う、という方向はよい。そのことによって働ける人はたくさんいる。これまでは「合理的配慮」を得て、一人前働くというかたちが想定されてきた。それでうまくいく人もいるが、そうでない人がたくさんいる。疲れやすい人、調子がよい時もあるしよくない時もあるという人。
 として、「半分労働同一賃金」は? 普通には難しい ように思われる。半分(以下)働く人でもよいではないかという主張を通す際にもかえってその実現を難しくしそうに思われる。
 職に就いた後のできごと(事故)という枠ので正当化は可能なように思われる。そういう主張がなされたのか?〜そのようにもとれる部分はあるとは思う。実際にはどういうことだったのか?
 あるいは「共同連」的なかまえ。健常者と障害者と同一賃金。〜ということは…。


 「起業」「ベンチャー」的な話。それでうまくいくこともたしかにあるにはある。しかし、それは、なにかしらの誰かの才覚であったり偶然であったり。「村おこし」と同じものを感じる。知恵者がいてうまくいくこともあるが、… というスタンスでいかないと、苦しい感じがする。

■払い〜(「公的支援」の仕方)をどうするか?
 1)税金→給料 というやり方/2)税金+所得保障というやり方※
 ※ちなみに日本の仕組みはそういうものではない。生活保護は基本的に択一であり、足し合わせるという具合にはなっていない――障害基礎年金はすこし違う★。足し合わせることができるようにするのがよいと述べた([])。
★ その成立過程について高阪[]。この時に運動に関わった白石清春……として[]。
 1)のほうが働く人がやる気になってよい、という話はわかるようには思う。しかしそれは「見かけ」でしかないという指摘はなされる。それに対して…
 駒澤の研究
 「共同連」的なかまえ。健常者と障害者と同一賃金。それはよい。ただ、そうすると起こりがちなことは…。
 「作業所で作業する人の給料は作業所の指導員という名で呼ばれる人の10分の1に満たないといったことがよくあって、共同連は、基本的に、そういうのはおかしいのじゃないかと言ってきたと思う。そしてそう言ったのは基本的に正しいはずだ。だがやっかいなのは、世の中のほとんどにそのような格差が存在する場合、ある場・組織だけが平等原則を維持することが難しいということだ。それは、簡単に言えば、そうすると、より仕事ができる人が流出していき、仕事ができない人が流入してくることによる。(じつはこれは、障害者の仕事場とその外の世界との関係にだけでなく、ある国とその外の世界との関係にも言える。例えば金持ちに高い税をかけるとその金持ちは逃げていくかもしれず、福祉サービスの水準を上げるとそのサービスが欲しい人たちが入ってくるかもしれない。だから作業所の問題とグローバリゼーションの問題とは、基本的には同じなのだ。このことは、ごく短くだが『自由の平等』序章第3節7「国境が制約する」に書いた。)さてどうするか。決定的なただ一つの答というのでなく、そう効かないがある程度は効くいくつかの手段を考え、組み合わせてみるということになるだろう。あまり勇ましいことは言えなさそうだ。しかしそれでも一度はやってみて整理してみる価値はあるだろうと思う。そんなことも、これから「もっとも大きな主題の一つ」になる(ことに私が勝手に決めた)労働という主題を考えることの一部になる。」([20050800]「共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告」→立岩[2006:105-106]
 この文章を『希望について』に収録したときに付した註
 「◇01 NPO法人「共同連」――改称の前は「差別とたたかう共同体全国連合」(略称:共同連)――の機関紙『共同連』の一〇〇号記念号特集に掲載された。原稿を送ったのは二〇〇四年一月。この組織の活動に関わってきた人の文章として森本[2001]。
 実際にそうたいしたことができるわけでもない。ただ、指導する立場の職員は、十分に安い給料なのだが、別にいて、そして、そこにやってくる人は作業をし月に何千円かを得るという作業所、ではない場を作ろうとしてきたその動きはやはり重要だとは思う。そして、基本的には苦戦を続けてきたのではあるが、それでも人が思うよりなんとかうまくやってきたところもある。そこから得るものもある。他方、なかなかうまくいかないとして、それはそうした志を持つ人たちがわるいのではない、自らは自らでやっていきながら、外側に向かい、求めるものは求めたらよいのだ、と言いたい。『at』に掲載された次の文章も基本的には同じ思いで書かれている。」
 「次の文章」とは「限界まで楽しむ」
 「普通の職場は雇ってくれない。そこで、自分たちで場所を作って、そこで働く。そんな場所はいま無数に、とはおおげさだが、数多くある。しかし、それでは多く稼ぐことはできない。多くはそれで仕方がないとする。しかしそれは悔しい。そこで多く働ける人も、少なく働ける人も、あるいはさらにそこに働かない人も入って、働いてそして人数分で割ろうとする。職場の中での平等な分配を貫こうとするそんな試みは、あるいは少なくともそれを志向する試みは、多くはないが、なくはなかった。
 こうした試みは、多くある程度うまくいく。少なくとも、今どきの「業績主義」の導入を積極的に語る人たちが語るよりは、また積極的にではないが仕方がないのかもと思う人が思うよりは、うまくいく。しかし、できない度合いがはなはだしい人がたくさん入ってくると厳しくはなる。まず最初からその売上げを人数で割った平均の値は低い。そしてできなくとも他よりより多くをくれるのであれば、そこにできない人たちが入ってくる。その結果、全体の平均値は下がっていく。それでもあえてそういうところで働こうという人はいる。その連帯感でけっこう盛り上がることもあるかもしれない。しかし、やめたいわけではないが、やがて所帯をもったりして、生活費に足りないとなると、他ではもっとよい条件で雇われるだろう人たちは少なくなっていく。こうしてまた平均値は下がっていく。あとはその繰り返しになる。こうして、だんだん辛くなっていく。
 これは、皆をあてにしてもこの社会ではそれは実現しないから、どうにもならないから、自分たちでやっていこうと思うと、起こることである。そしてそれは小さな場だけに起こることではない。ある国が、困った人、例えば難民を、他は門戸を閉ざす中で、あるいは厳しく制限する中で、受け入れようとする。するとそういう人たちが集まる。すると国内に仕事がなくなる人がいるかもしれない。また、入ってくる人たちがすぐには働けないとなれば、そしてその人たちが暮らす費用を社会が負担するなら、社会はそれだけを払うことになる。他方、やはり移動が自由であれば、その中にいることで持ち出しの多い人は、より持ち出し・負担の少ないところ、より税金の安いところに逃げていく。むろんこれらは多くの場合、わずかな損失しか与えず、人の移入を制限することや税の累進性が低いことのたんなる言い訳であることが多く、そのことには注意深くなければならない。しかし、きちんと人を受け入れ、税を取ろうとすれば、起こりうることではある。こうして街の小さな作業所で起こることと国境を介して国家と国家の間に起こることとは共通している。これは、近くで起こっていることでもあり、国境の間に起こっていることでもある。
 むろん、働けない人も加え、平等に配分する企業とは、いささか極端ではある。多くはそれほど極端な平等主義はとらない。そして、そこで働く人はそこそこ、それほど他の人たちと変わらず働く人たちである。あるいは同じ働きができる人たちがいるのだが、そこにある生産資材は他の半分の生産性のものであったとする。そこで、半分のものを作ることができる。そして、他の半分でも暮らしていけてそれでよい、としよう。しかし、その企業、またその企業に働く人は、半分しか受け取れないがそれでも半分を受けとることができる、とは必ずしもならない。他と競合するから、その製品はまったく売れないということもある。常に、ではない。価格を安くすることができる場合もある。そしてやはり楽観的なエコノミストたちが言うように、そんなところでは別のものを作ればよいのだという忠告もときには有効なことがある。条件による。しかし、その条件によりはするのだが、まったくやっていけないことが起こる。
 雇い主が労働者を働かせて、少なくしか支払わず、多くをもっていってしまうという貧困もある。しかしそれだけではない。つまり仕事がない。人はいる。たくさんいる。それでだめなこともある。すると人以外のものが足りないということである。生産財がない。あっても、述べたように、その性能と受け取りとは比例するとは限らない。売れるものを作ることができないことがある。より生産性の高い生産財によって生産された製品に完全に駆逐されてしまうことがある。それでも、売れないとしても、自分たちが作って消費するだけならなんとかなりはしないか。しかし例えば土地がなければ自分の食べるものだけでも作ることはできない。また何もかも自前では無理なら、買うことになるが、価格差によって、買うことができない。
 おおむねこんなことが起こっている。つまり、内部でなんとかやっていこうとするが、やっていけないことがある。とくに外部との関係において、やっていけなくなることがある。
□>2 うまくない解:閉鎖 […]」(「限界まで楽しむ」

■駒澤の研究にも関係して

 cf.https://works.litalico.jp/syuro_shien/ikou_keizoku/ ・「普通に」仕事をする(仕事をえようとする)のはしんどい。仕事はなかなか得にくく、また、ついたとしてしんどい。(「就労移行支援」を得たとしてそうそううまく運ぶわけではない。) ・「A型」「B型」…。「B型」は安い。「A型」はそれよりは高い。しかし低い。生活保護を下回る。日本の生活保護の仕組みでは、生活保護の支給額までの収入は「収入認定」されるので、生活保護(とれるなら)とっているだけ、という状態と変わらない。しかしそれでもそこで働く人たちはいる。それは… ・この「型」を使うことは、組織・企業にとっては、益がある。そこで、結局それを使う(その型にはまる)ことが多くなる。 ・働いている人にとっては、……。まずは暮らせるということが第一。そんなに理念とか気にしているわけではない。ただいちいち(自分たちより(ずっと)給料高い)管理者に…というのはいやだとは思っている。  ……等々 等々  ではどう考えたらよいか〜どうするか。  1)金〜生活 生活が成り立つこと、仕事・労苦に応じた払いがあること  2)働く価値  稼げて一人という価値観/身体動かしたり仕事することの楽しみ〜仕事のことを考えたり組み立てたりする喜び/人のために役に立つ… 「稼げて一人前」という価値観をまにうけることはないとは言えようが、しかしこのことは2)の全部を否定することにはならない。  とすると、1)も2)(のいちぶ)も両立するのがよい。また、2)(の一部)をあまり気にせずにすむこともよい。  とすると、(働く度合いに(あまり)かかわらない〜しかしそれにも一定対応した)1)はよい。→所得保証+労働(労苦)に応じた払い。  まず日本の生活保護の仕組みはそうはなっていない(↑)。私が言ってきたのは ☆A:所得保証+B:労働(労苦)に応じた払い(立岩[])。  これは基本的には2つの仕組みを併存させるということ。〜それでたりるか?  本人にとって:(現実に払われている)労賃が低い→それは仕方がないという考えはある(そのほうが一般的だろう)。しかし、私たちの立場からはより高い方のほうがよいとは言える※。とすると、そういう方向の払い方を志向する企業は社会的・政治的に優遇されることは正当化され、それを企業は、給料として払うことにも問題はない〜むしろ望ましい。 ※「上乗せ分」は市場で得られるはずの額の「上乗せ分」だから本来は給料の一部にはならない「みかけ」のものであるという見方に対して私(たち)はそうではないという立場をとる。  すると、まず政策的にするべきことは…。  しかし現状そうはなっていない。とすると:まず雇用する側としては、仕方なく「A型」を採用するのは合理的〜仕方ない…。  働いている側の人としては:他よりは(自治体からの給付が例外にあるところで)給料がよく、そしてなんやかや言われることが少ない、○○のようなところが比べて働きよいということにはなる。そこで働いている人がその○○の理念を知っていたり支持しているわけではない。しかしそういう方針で運営がなされていること+(例外的に、この場合は自治体からの)給付があることによる。

■文献(◇:40→49)

青木 千帆子 2011 「障害者の就労場面から見える労働観」,『解放社会学研究』25:9-25
◇青木 千帆子・渥美 公秀 2009 「『障害者』の無力化に規範が及ぼす影響――就労場面を通した分析」,『障害学研究』5:164-186
◇青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院,424p.
◇安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
◇――――― 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』,藤原書店
◇――――― 20121225 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p.
◇「病」者の本出版委員会 編 19950430 
『天上天下「病」者反撃――地を這う「精神病」者運動』,社会評論社,231p.
◇羽田野 真帆・照山 絢子・松波 めぐみ 編 2018 『障害のある先生たち――「障害」と「教員」が交錯する場所で』,生活書院
橋口 昌治 20110325 『若者の労働運動――「働かせろ」と「働かないぞ」の社会学』,生活書院,328p.
小林 勇人
駒澤 真由美 2019 「精神障害当事者は「一般就労」をどのように体験しているか――障害と就労のライフストーリー」[R-Cube] ([PDF] 外部リンク『立命館生存学研究』,第2号,pp.281-291.
◇―――― 2019 「精神障害当事者にとっての「リカバリー」とはなにか――福祉的就労施設に20年通所する利用者の語りから」[R-Cube] ([PDF] 外部リンク) 『Core Ethics』,Vol.15,pp.59-71.
◇―――― 2020 「パーソナル・リカバリーと就労支援に関する一考察――「精神障害者として生きる」当事者のライフストーリーから」 ([PDF] 外部リンク)『Core Ethics』,Vol.16,pp.83-95.
◇―――― 2020 「精神障害者が働き続ける『社会的事業所』とはどのような場なのか――一般就労でもなく、福祉的就労でもなく」 ([PDF] 外部リンク)『Core Ethics』,Vol.16,pp.71-82.
◇―――― 2021 
栗川 治 2012 『視覚障碍をもって生きる――できることはやる,できないことはたすけあう』明石書店
◇―――― 2021 (投稿中)
中村 雅也
◇―――― 「」,『Core Ethics』
◇―――― 2018 「なぜ障害のある先生は少ないのか?――視覚障害のある先生へのインタビュー調査から」,羽田他編[2018:169-192]
◇―――― 2018 「障害のある先生と障害者雇用政策」,羽田他編[2018:193-196]
◇―――― 2018 「全盲教師のライフストーリー――過去を解釈し、未来を展望する」,羽田他編[2018:197-222]
◇―――― 2020 『障害教師論――インクルーシブ教育と教師支援の新たな射程』,学文社
◇―――― 2021 
◇立命館大学生存学研究センター 編 20160331 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』,生活書院,272p.
杉原 努 20100301 「障害者の『労働および雇用』のための配慮や調整の現状――『職場ルポ』のリサーチから合理的配慮を考える」『佛教大学福祉教育開発センター紀要』第7号 pp. **-**
◇―――― 20100301 「障害者権利条約における合理的配慮の経緯――『労働および雇用』の視点」『佛教大学社会福祉学部論集』第6号 pp. 69-86
◇―――― 20100331 「障害者雇用における合理的配慮の導入視点――障害のあるアメリカ人法(ADA)の現状からの考察」『Core Ethics』vol.6 pp. 253-264 [PDF]
阪 悌雄 2015 「ある行政官僚の当事者運動への向き合い方――障害基礎年金の成立に板山賢治が果たした役割」(2015)『Core Ethics』(立命館大学大学院先端総合学術研究科)11,135-45. [外部リンク:PDF
◇―――― 2016 「生活保護に代わる所得保障制度を実現しようとした試みとその意義についての一考察――障害基礎年金の成立過程で障害者団体と研究者は何を主張したのか」(2016)『Core Ethics』(立命館大学大学院先端総合学術研究科)12,171-82.(査読有)[外部リンク:PDF]
◇―――― 2017 「障害基礎年金制度成立の背景についての一考察――障害者団体や官僚は新制度誕生にどう関わったのか―」,『社会福祉学』57(4),28-42
◇―――― 2020 『……』,明石書店
田中 慶子 20140915 『どんなムチャぶりにも、いつも笑顔で?!――日雇い派遣のケータイ販売イベントコンパニオンという労働』,松籟社,264p.
◇立岩 真也 19970905 『私的所有論』,勁草書房,445+66p.
◇―――― 20011225 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」,『季刊社会保障研究』37-3:208-217(国立社会保障・人口問題研究所)→立岩[200607:171-181]
◇―――― 20021000 「労働の分配が正解な理由」,『グラフィケーション』123(富士ゼロックス)特集:働くことの意味→立岩[2006:153-161]
◇―――― 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店
◇―――― 20050800 「共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告」,『共同連』100→立岩[2006:104-107]
◇―――― 20050415 「ニートを生み出す社会構造は――社会学者立岩真也さんに聞く」(インタビュー),『Fonte』168:7(旧『不登校新聞』、発行:不登校新聞社)
◇―――― 2005/12/26 「限界まで楽しむ」『クォータリー あっと』02:050-059『希望について』:108-125
◇―――― 20060710 『希望について』,青土社,320p.
◇―――― 20130520 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p.
◇―――― 20140319 「障害者差別禁止の限界と可能性」,立命館大学生存学研究センター 編 20140319 『日韓研究交流活動2013報告書』,立命館大学生存学研究センター pp.17-25,コリア語訳pp.26-33
◇―――― 20140826 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p.
◇―――― 20140425 「この問いはかなりきっちり考えて複数の答しか出ない」(巻頭言),『日本労働研究雑誌』646(2014-5):3
◇―――― 20160331 「補章」,立命館大学生存学研究センター編[2016:180-230]
◇―――― 20190910 「分かれた道を引き返し進む」青木他編[2019:255-322]
◇―――― 20200414- 「だいじょうぶ、あまっている・1〜」
◇―――― ★
◇立岩 真也・堀田 義太郎 20120610 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社,342+17p.
◇立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p.
◇立岩 真也・齊藤 拓 20100410 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』,青土社,329+19p.



 
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■お知らせ

◆[mlst-ars-vive: 20500] 障害者と労働
 2020/04/21 20:24, 立岩真也 wrote:

本日の懇話会?で話題になった(にした)頁。
http://www.arsvi.com/d/w0105.htm
中村(雅)さん岸田さん駒澤さん澤岡さん栗川さん
そしてドイツからシェーファーさんなど、新しく研究する人も現れてきて
研究も進み頁も増補されるだろうと。

こういう増補が止まっている頁山ほどあります。
自身の関心あるところでやっていただけますとありがたいです。

立岩
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
コロナ
http://www.arsvi.com/d/id.htm

◆[mlst-ars-vive: 20511] 障害者と労働
 2020/04/23 10:44, 立岩真也 wrote:

http://www.arsvi.com/d/w01.htm
もあります。橋口さんたちが作ってくれていたものです。

拙稿として
http://www.arsvi.com/ts/2001043.htm
http://www.arsvi.com/ts/2002041.htm


明日、このテーマ関係でSkype for Businessで話しようと&議論しようと思っています。
学校のシステムでやろうとやっているのですがまだ、なので別便します。

立岩
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
コロナ
http://www.arsvi.com/d/id.htm

 ※ [mlst-ars-vive: 20500] 障害者と労働 を引用


◆ [mlst-ars-vive: 20515] メモ
 2020/04/23 21:00, 立岩真也 wrote:

明日13時から(Skype for Businessでなく)Skype使ってということに。
公共МLに入っていない人で参加希望の人は立岩
tae01303@nifty.ne.jp
まで。そのためちょっとメモを作ってみました。明日書き足せれば足します。
http://www.arsvi.com/ts/20200424.htm

立岩
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
コロナ
http://www.arsvi.com/d/id.htm

◆[Jsds:2067] スカイプで障害者と労働について
 2020/04/24 11:14, 立岩真也 wrote:

4月は授業なくその代わりというかんじでこちらの院生とスカイプやってます。
今日は件名のことについて13時からしばらく話しようと。
以下はこちらの大学院の「公共」という不思議な名前の領域(私はそこにいます)МL→
生存学研究所МLに出したそのお知らせ。

めんどうなのでURLも記しておきます。
https://join.skype.com/UVFSghKPxu5p
院生の参加は10〜名ほどなのでだいじょうぶですが
いちおう希望の人は立岩
tae01303@nifty.ne.jp
まで知らせてください。


■メモ

 障害/無能力
 市場価格+所得保障でよいか?
 そうは考えない。『』で述べた。→
 それを基準に考えるのがよいとした。とした場合に。
 ここで出てくるのは計算の面倒さだ。


UP:2021 REV:2014
障害者と労働  ◇労働  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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