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分けて、順番に考え、行なう


立岩 真也 2021/02/15 『こころの科学』臨時増刊号「コロナ禍の臨床を問う」:182-192,日本評論社
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T 構えについて
 緊急の事態について即効性のあることはいろいろと語られているだろう。私は別のことを言うことにする。そしてそれは、この毎日騒がしくあわただしい日であるからこそ、よく考えて言葉を尽くしたほうがよいことだと思うから、そして遠回りのようでそうでもない論点がいくつもあるから、長くなってしまう。そのように思っている私は、このかん、長いもの、そして無理やり短くしたもの、硬いもの、しゃべったように書いたもの、いろいろと書いてきた。言うべきことはほぼそれらに書いた。それをただあげていくだけでは意味がないが、その多くの全文をこの文章の題で検索すると出てくるHP上の頁(ファイル)からリンクさせておくから、お読みになれる。できるなら、一度にまとめてでなくてよいから、ゆっくりと読んでいただきたいと思う。そこでこの文章は、不遜なことであろうとも思うが、この1年に関連して書いたものを紹介する文章とさせていただく。
 それらはその時々に書いたものではあるが、これから長く効力をもつものだと思っている。だからそれを紹介しておくことに意義があると思う。そう考えて並△182 べていくが、短くしたり繰り返したりすることにだいぶ疲れていることがわかった。この原稿も、所得のことについて今年はツイッター以外には書かなかったことを少し記す以外は、繰り返しなのだが、ひどく時間ばかりがかかってしまった。しかし、伝えねばとも思うから、書いた。
 一つ、ものを書いたりしゃべったりする人たちは、何かが変わっていると語ることが商売だということを、私たちはわかり、その分を差し引いて読んだらよいと思う。「あえて」というところもあるが、私は「とくだんかわったことはなにも」と考えている(2021/01/**)――文献表記の方法が特殊だがおわかりいただけるだろう。椹木野衣が企画・監修した「うたかたと瓦礫(デブリ):平成の美術 1989−2019」という展覧会のカタログにその題の文章を寄せた。もちろん、天災、感染があるのとないのと、違う。しかし、起こるものは起こる。それは偶然のことではあり、災厄から逃れきることはできない。しかし災難を大きくしたり小さくしたりする仕掛けは変わっていない。また、災難を小さくしようとするなら、またそのためにというだけではなく、社会についてとるべき方向も変わっていないと私は考える。流行を契機としてしかじか世の中変わったとか、変わった方がよいと言いたい気持ちはわからなくはないが、私は別様に言おうと思う。

U 人・もの・金
 予防のために必要な品々がある。そして、予防しても、かかるものはかかるから、その時に必要なものがある。当初、必要で足りないとされたのは、マスクといったわかりやすいものだった。その不足が一時的なものであり、改善のしようがあることは、さすがにわかりやすい。ただもっと大きなややこしいものも必要とされる。人工呼吸器はマスクよりは凝った作りのものだ。そして人が足りないということになると、もっと深刻だということになる。
 私は、一つ、この世に足りないものは人そして/あるいはものだが、両方とも足りなくはない、あるいは、かなりそのようにすることができることを言ってきた。そもそもはこの流行の前、ずっと前から、足りない足りないという話があまりにはびこっていてよろしくな△183 いと思っていた。それで長い本にはいろいろと書いてみてきたのだが、読んでもらってないから、短い本にしようと思って、2018年に一度始めかけて途中で止まり、2019年また始めようとした。講談社のサイト上にある『現代ビジネス』の連載「だいじょうぶ、あまっている」で3回まで書いた(2020/04/142020/04/212020/05/02)。
 危機感が広がったのは第1回の原稿を書いて出した後だった。「足りない(足りなくなる)」という、前からある話がさらににわかに広まり、そんな時世に、足りているという話をしていくのはどうなのだろう、どうしようかとすこし思いもした。しかし、かえって、だからこそこのことについて言った方がよいと思いなおした。それで、第2回、第3回を書くことになった。
 緊急の時、たしかに必要なものが足りなくなることはある。そのようなことがなくなりきることはないだろう。そして、足りない状況にあっても選択しない選別しないという選択もありうる。ただ、その前に実際のところはどうなのか、どのくらいの可能性の範囲があるかを見ておいた方がよいだろう。
 医療、ケアに関わる人のことについては連載の第3回で述べた。さらに、よりたくさんいる、自ら足りずに困っている人たちは、客が入らず、仕事がない、金がないといった人たちだ。働いてものを作って提供して、代わりに自分の暮しのために要りようなものを得る。それが、このたびのことで、お客が来てくれなくなり、売れなくなる、すると金が入らない、それで暮らしに困る、ということだ。それで、お客は飲食や宿泊を提供されないと困るかというと、多くの場合には、そうでもない。なんとかはなる。まず、このこと自体がこの社会が余裕のある社会であることを示している。
 得られないことによって買い手は多くの場合にそれほどには困っていない。しかし、売り手だった側は困る。コロナがなければ、人々は旅行したり外食したりして、その分の金を払っただろう。とすると、その分を払うことは可能なことであり、そして格別の不都合も生じさせることはない。他方の提供する(はずだった)側は、支払いを受け取ることができれば、それで暮らせる。ただ、実際には、提供されないが払うといったことを自発的にする人はいない。すくなくとも少ない。すると、政府がその役割を果たせばよい。
 そこで、売上げに相当する部分を支給するというよりは、その仕事をしていた人たちに対して所得保障を行なう。ただそれだけのことだ。私はその支給を政府の借金でまかなうことに反対ではないが、借金せずとも、あるいはあまりしなくとも可能であることを今述べたのだった。借金して開業した人、テナント料を払っている人・企業をどうするかといったことは残るが、まず、たくさん困っているのは、雇用契約の途中で、あるいはその期間が終わり、次の仕事を得られないといった人たちなのだから、そちらの対応のほうが大切だ。
 そしてそれは、「本来なら」、失業保険を含む、また生活保護を大きな部分とする所得保障の制度によって対応することができる。しかし、この国の制度の現状と、その制度にも関わる人々の意識も加わって、利用を困難にしている。それだけのことだが、大きなことだ。その単純なこと、単純に可能なことができているかというとできていない。それは、このできごとが起こって以来というよりは、ずっとそうなのだ。実際その制度は使いにくい制度であり、そして、めったなことでないと使うものではないと多くの人々が思ってしまっており、実際には既にめったなことになっていても使わなかったりする。だからなすべきことも変わらない。これが、なにか新しい社会だとか、そんな具合に考える必要はないと本稿の冒頭に述べたことでもある。

V 選択・選別
 講談社の連載の第2回他では、生かす/死なせる順序について書いた。倫理学者だという人たちの「提言」のようなものが報道されたり、NHKの関連サイトに掲載されたり、各国でも選別が語られたり行なわれたから、何も言わないわけにもいかなかった。
 もちろん、それは不足という話におおいに関係している。つまり、足りない(足りなくなる)と思うから、生きることのできる/できないに際しての「順番」をつけざるをえないという話になる。それを、なにかしらの使命感からなのか、今だから言おうという人たちがいる。
 そんな状況がこの世からまったくなくなることはないだろう。しかし、まず一つ、現在どの程度あるのかということがあるし、また、かなりの程度減らすことはできる。順番をつける必要があるなら仕方がないが、考える必要がないのが望ましいということだ。そのことをUで述べた。そしてもう一つ、考えるというならきちんと考えたほうがよい。でなければむしろ黙った方がよいと私は思う。
 しかし、そのことが簡単に語られる。言われることは大きくは二つある。一つは、例えば人工呼吸器はいらない(つまり、死んでもよい)という意志 表示のあった人について、その意志を尊重するというものだ。意志の尊重は大切なことが、しかしここでそれでよいか、よくはないだろうと思う。しかし、すこし考えれば思いつくことを飛ばしてしまって、ごく単純なことが言われる。
 それに対して、短いものでは『朝日新聞』に掲載された私のコメントがある。以下は実際に掲載されたものとは少し異なる。

 呼吸器がいらないとは自殺の意志表示でもある。それをそのまま<ありがとう、ではどうぞ死んでください、その呼吸器はいただきます>と受け入れてよいのか。そしてその意志は、障害に対するネガティブな価値観を受け入れてのものでもある。働けない人、人に世話される人を除外する傾向は危機的状況ではさらに強くなる。こういう問題であることがわからないまま議論をするのなら、その議論自体、人を死に誘う面がある」と警鐘を鳴らす。(2020/06/24

 これは記者から送られてきた文案をなおして出したものだ。その後、たしか「自殺」という言葉は「強すきる」ということで、別の言葉になった。それも受け入れた。まずは伝わるようになっているとは思う。ただ、本当は「価値観」とか「意識」とかあまり言いたくはないとは思う。例えば、私に反論する人は、自分は「そんな価値観」はもっていないと言うだろう。それに対して、「自殺一般」についてはそれを(本人の意志の如何とは別に)防ぐべきだという人が、この場合には本人意志を尊重するとはどういうわけか、区別しているではないか、と私は返すことになる。返さねば、その人は気づかないかもしれないのだ。すると、次になされるのは、これは「自然死」だとか「尊厳死」であって、自殺でないという反論がなされる。それに対してさらに反論することになる。すると、いささか乱暴な言葉ではあるのは承知のうえで「自殺」という言葉を使うことになり、するとそれは新聞的には「強すぎる」となる。やっかいだ。
 もう一つの選択の仕方は、本人の意志・意思とは別に、基準・原則を設定することだ。例えば年齢であるとか。これも「女子ども」は救うべきだという了解が(実際にそんなこをしてきたかどうかとは別に)ある社会にあっては、もっともにも思われる。しかし、これにしても少し考えていくなら、そう単純に言えることではない。第2回ではこのことを簡単に述べた。その続きを考えて文章にすると言って、それはまだ果たされていない。だが書こうと思っている。
 私(たち)が言いたいことの基本は短いし、やさしい話だ。しかし、思い間違いをただし、反駁に応じなければならないから、長くなってしまう。それを短くするのがつらいということがある。そして、論の筋道とかいう水準と別のところで、他方には、話の筋を追うなんていうことをまったくしないで、SNSで罵詈雑言を言う人たちがいる。それでもわかってもらおうとすると、今度は湿った人情話のようになってしまう。やはりやっかいだ。

W 何を落としているかを見る
 私は研究が仕事だということになっており、勤め先の大学の「生存学研究所」という謎の名称の研究所にも関わっている。大学の研究機関は「外部資金」をとってくることを求められていることもあり、さらに「科学技術振興機構・社会技術研究開発センター戦略的創造研究推進事業(社会技術研究開発)、科学技術の倫理的・法制度的・社会的課題(ELSI)への包括的実践研究開発プログラム」というたいへんに長い名称のものが、2020年に今回の出来事に絞った募集を行うということで、それが私たちが考えていることによく合っていようにも思ったので、応募書類を書いた。それをなおしてもらって提出した。じつは当たるんではないかと思っていたのだが、外れた。その文章の冒頭、「プロジェクトの概要」を引用する。

 T既に始めている作業を拡大し、示された政策、科学者組織の対応、報道等を収集し整理する。報道機関の全国組織と協議し、公開可能な部分を公開できるようにする。とくに災害災厄に関わる情報公開の基本的指針を得る。U:この事態に当たる「人」、建物・機器・薬品等の「もの」、これらを巡る「技術」の需要・生産・供給について何が言われ、何がなされ、なされなかったかを調べる。そこからより合理的な人・もの・技術の配置のあり方を示す。V:対策の対象とする/しない人の選別等、人命と社会の状態を巡る優先順位の設定について、議論と実際を調査し検証する。そして今言われていることと別のことを言う。Wこの世界的なできごとの受け止められ方は明らかに偏っている。問題が深刻になっている地域での事態を把握し、そこへの技術・知識・物資・人材の提供・移転を検討し提言する。同時に、結核、ハンセン病、ポリオ、HIV/エイズ等についての情報収集・研究を増強し、今般の事態との異同を確認し、ただ流言飛語に惑わせられてはならないといった教訓以上を得る。T〜Wにより、COVID-19を巡って作り出された危機感の覆う現況に向かい、そこから脱する社会・世界を構想する。(2020/06/23)

 T毎日毎日、報道や情報は十分に溢れかえっているのだが、偏ってもいるし、部分的にはまったく少ない。集めること自体がなかなかの手間だが、集める必要があり整理する必要があると考えた。私たちはいま「アーカイブ」の仕事が大切だと言い、行なっている。過去のことになってわからなくなるよりその時その時に集めたらよいと思う。
 Uは本稿のUに、VはVに述べたことと同じだ。Wについて少し。「スペイン風邪」の話が引き合いに出されたりはする。またハンセン病のことを口に出すと、差別はだめで、隔離も望ましくないと、もっともな言葉を返される。
 しかし、例えばエイズの流行の時に人はたくさん死んだ。しかし、それはほぼまったく知られなかった。あるいは、まだ二十年経っていないのに忘れられている。理由はまったく簡単だ。自分たちは死なないと思っていたからだ。自分のこと、身の回りのことに関心をもつのは、当然の、健全なことでもある。緊急の、自分たちの周囲のことについて研究したり対策を講じたりする必要はもちろんある。私は、皆が過去にあったこと、遠くにあったことを知って毎日思い起こすべきだとは思わない。しかし、エイズで年に300万人の人が死んでいった時期があった。それと今は、比べてどうか、考えてもよいことだし、その時のその志望者の数は薬が存在しなかったからではなかったことも思い起こしてよいことだと思う。
 私たちは、すぐに人々に受けて売れなくても給料がもらえる仕事をさせてもらっている。その「特権」を得ている者としては、こういうことを押さえておくこと、伝えることが必要なのだろうと思う。

X 距離に関わる利害を測る
 感染の可能性が高くなるから人と人の間の距離を離すことが必要ではあることは認めよう。しかしそのうえで、やりようはあるのに無理だとされることごとがあり、また、距離の近いところで仕事をすることを求められている人たちがのけ者にされたりすることがある。
 私が2020年に行なったまとまった仕事は、介助(介護)の仕事をしよう&その仕事をしてもらって暮らそう、という本を書くことだった。とっくに出版されているはずだったのだが、延びに延びて2021年3月、ちくま新書から刊行されることになった(2021/03/**)。そのはじめの部分と終わりの部分に関係することを書いている。
 私はなんについても「ふれあい」とか言いたい人ではない。いやそんな個人的な性癖とは別に、機械でできることはさせてよいと思う。しかし例えば、その機械と人を、誰に即してどのように比べるかが大切だ。そのことをその本の最初の部分で述べた。これだってまったく単純な、誰でも認めることだ。しかし、実際には、気付かぬまま、いや気づいているはずなのだが、身体への影響を理由に、様々が遮られている。私は精神科の病院のことは知らないが、たぶん、『精神医療』での座談会(2021/04/**)では話題になるだろう。私が2020年に立ち会ったのは、生きるか死ぬか、かなり際どいところにある人への面会を断わられた場だった。
 これはたいへんに細かなことでもあるが、ときに生き死にに関わる。会えなかった人は、死んでいくことを一方で明言しているとともに、同時に、退院後の生活を語り相談しようという人でもあった。後者に関わろうとする人の面談が断わられた。オンラインでの面談の申し入れも、その人は個室にいたのだが、他の入院者のプライバシー云々で断られた。そのまま亡くなっていくという道筋しか知らなかった家族は面会が認められた。そして実際、鎮静剤が処方され、亡くなった。例えばこんなことがある。
 私たちはさきに紹介した国の研究費は外れたのだが、大学が募集したコロナ関連の研究に関する助成には当たった。そのお金で、そして説明は略すが――右にあげた新書などで紹介している――いま全国の筋ジストロフィーの人たち他が進めている企画(「こくりょうを&から」で検索→http://www.arsvi.com/o/kokuryo.htm)で、まず全国の旧国立療養所の面会、外部との交信、交通がどうなっているのか調べて公開しようとしている。こんなやり方が(やり方でも)可能だということを知れば、他の施設・病院でもできるだろうことを示せるということにもなる。
 細かいことが、あるいは細かいことも、大切だ。例えば、私の対人的な仕事の多くは大学院員相手のもので、その人たちの多くは勤め人であり、全国各地にいる。かえってオンラインの方がよいと思っている。それは別の理由で移動が困難な人にも有利になりうる。それに手話を加えたり、はできそうだ。では(画面上の)文字を読む人にとってはどうか。そんな仕組みもあるにはある。ではそれを伝えばよいか。じつはそうでもない。ではどうするか。そんなことを試しながら使えるものにしていくという仕事もある。韓国・中国・台湾と毎年開催してきた「障害学」の国際セミナーを、今回は京都の番、と思ってきたのだが、みなさんをじかに迎えることができなくなり、2020年の夏、オンラインで、英語と各国語と手話と文字通訳を加えて開催してみた。その時の閉会の辞――そこで言っている「公募研究」が落ちたもの――を引用してこの短文を終える。英訳版などやはりHPでご覧になれる。

 本日はたいへんありがとうございました。いろいろと言いたいことがありますが、ごく短くいたします。
 私たちはいま、日本の政府が資金を提供する公募研究に応募しています。私が書いたその書類の草稿を英訳してもらいました。後でご覧ください。そこに調べたり考えたりするべきことの全体を記してあります。
 一方で、とくに、世界規模でこの事態をみた時に、ことは深刻です。今回報告のあった東アジア地域はむしろ例外的であると言ってよいほどです。そしてその深刻さは、感染症対策の上手下手によるだけのことではありません。貧困・格差が関わってこれからも深刻化していくだろう事態は、可能性として、また既に現実として、生命の選別をもたらします。障害者はその標的になります。それに学問的に実践的に介入していく必要があります。
 他方で、様々に新しいかたちでの交信・交流の可能性が示されてもいます。なにもかもが、オンラインで可能になるといったことは空想的です。例えば介助が必要な身体がなくなることはないからです。それでも、そして私たちが介入しない限り必要な配慮(acomodation)は忘れられがちになるのですが、手話を含む複数の言語での交流が容易になる可能性があります。今日のこの機会がまさにのその実験の場でありました。様々な知恵を集め、今回のような交流の場を発展させていきましょう。(2020/07/18

文献
◇2020/04/14 「だいじょうぶ、あまっている・1」,『現代ビジネス』 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71768
◇2020/04/21 「「自己犠牲」や「指針」で、命をめぐる医療現場の困難は減らない――だいじょうぶ、あまっている・2」,『現代ビジネス』 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71974
◇2020/05/02 「新型コロナの医療現場に、差別なく、敬意をもって人に来てもらう――だいじょうぶ、あまっている・3」,『現代ビジネス』 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72304
◇2020/05/16 「COVID-19に関連して」,京都看護大学大学院での講義
◇2020/06/23 「COVID-19から世界を構想する」(草稿),科学技術振興機構・社会技術研究開発センター戦略的創造研究推進事業(社会技術研究開発),科学技術の倫理的・法制度的・社会的課題(ELSI)への包括的実践研究開発プログラム
◇2020/06/24(取材2020/05/29:取材・記事執筆:田中陽子) 「新型コロナ 障害者は問う、「命の選別」起きはしないか…」 『朝日新聞 DIGITAL』2020年6月24日 5時00分 https://www.asahi.com/articles/DA3S14523747.html
◇2020/07/18 「閉会挨拶」,1620〜1630 East Asia Disability Studies Forum 2020, Webinar on COVID-19 and Persons with Disabilities in East Asia(障害学国際セミナー2020,オンラインセミナー:東アジアにおける新型コロナウイルス感染症と障害者
◇2020/07/21(取材2020/06/11、取材・記事執筆:石川有紀) 「人工呼吸器は譲るべきか コロナ禍でも深まらぬ議論」,『産経新聞』 https://special.sankei.com/a/society/article/20200716/0001.html 
◇2021/01/** 「とくだんかわったことはなにも」,「うたかたと瓦礫(デブリ):平成の美術 1989−2019」展覧会カタログ

◇2021/03/** 『(題名未定)』,ちくま新書
◇2021/04/**(座談会収録2020/12/23) 齋藤 正彦・増田 一世・立岩 真也 「コロナという名の試練――精神保健医療福祉はどう挑むか」,『精神医療』(第5次)1

文献
◇2020/04/14 「だいじょうぶ、あまっている・1」,『現代ビジネス』
◇2020/04/21 「「自己犠牲」や「指針」で、命をめぐる医療現場の困難は減らない――だいじょうぶ、あまっている・2」,『現代ビジネス』
◇2020/05/02 「新型コロナの医療現場に、差別なく、敬意をもって人に来てもらう――だいじょうぶ、あまっている・3」,『現代ビジネス』
◇2020/05/16 「COVID-19に関連して」,京都看護大学大学院での講義
◇2020/06/23 「COVID-19から世界を構想する」(草稿),科学技術振興機構・社会技術研究開発センター戦略的創造研究推進事業(社会技術研究開発),科学技術の倫理的・法制度的・社会的課題(ELSI)への包括的実践研究開発プログラム
◇2020/06/24(取材2020/05/29:取材・記事執筆:田中陽子) 「新型コロナ 障害者は問う、「命の選別」起きはしないか…」 『朝日新聞 DIGITAL』2020-6-24
◇2020/07/18 「閉会挨拶」,1620〜1630 East Asia Disability Studies Forum 2020, Webinar on COVID-19 and Persons with Disabilities in East Asia(障害学国際セミナー2020,オンラインセミナー:東アジアにおける新型コロナウイルス感染症と障害者
◇2020/07/21(取材2020/06/11、取材・記事執筆:石川有紀) 「人工呼吸器は譲るべきか コロナ禍でも深まらぬ議論」,『産経新聞』2020-7-21
◇2021/01/** 「とくだんかわったことはなにも」,「うたかたと瓦礫(デブリ):平成の美術 1989−2019」展覧会カタログ
◇2021/03/** 『(題名未定)』,ちくま新書
◇2021/04/**(座談会収録2020/12/23) 齋藤 正彦・増田 一世・立岩 真也 「コロナという名の試練――精神保健医療福祉はどう挑むか」,『精神医療』(第5次)1


UP:20201223 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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