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新書2のための連載・09



立岩 真也 202008 『eS』

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 この文章は岩波新書の一冊として出したいと思っている本・2のために書いているものです。
 ここにおいた註と文献表は、新書ではなくします。紙の新書をご購入いただいた方に有料で提供する電子書籍版には収録しようと思います。

◆立岩 真也 2020 『(本・2)』,岩波新書

※以下は、ほぼ
◆2019/03/29 熊谷晋一郎さんとの対談,於:東京堂書店
の録音記録を文字化したものから、抜粋。この時の対談は
◆2019/07/01 「「痛いのは困る」から問う障害と社会」(立岩真也・熊谷晋一郎),『現代思想』47-09(2019-07):221-229
に収録されていますが、以下はほぼ使われていません(と思います)。『(本・2)』の終わりあたり、話を整理する部分で使おうかと思います。
 ▽△で囲っている部分が対談の記録の部分です。

立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙   立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙

表紙写真クリックで紹介頁へ&本サイト経由で注文すると寄付されます

※『不如意の身体』『病者障害者の戦後』出版記念?セールまだやっています。

*関連した短文
◇2019/08/15 「熊谷晋一郎対談→『現代思想』・1――「身体の現代」計画補足・620」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2378230772443896
◇2019/08/18 「熊谷晋一郎対談→『現代思想』・2――「身体の現代」計画補足・622」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2381417935458513
◇2019/08/20 「『現代思想』←熊谷晋一郎対談・3――「身体の現代」計画補足・624」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2389546487978991
◇2019/08/26 「熊谷晋一郎対談紹介再度――「身体の現代」計画補足・631」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2412151869051786
◇2019/09/01 「熊谷晋一郎対談紹介再度2――「身体の現代」計画補足・633」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2412747855658854


■不如意である
 ▽本のタイトルっていつもけっこう揉めるんです、本屋さん(出版社)とね。これじゃ売れないとかいっぱい言われて。ですけど、今回はこっちの青い表紙のほうの本のタイトルは二転三転したすえに、『病者障害者の戦後』になったんですが、赤い表紙のは『不如意の身体』っていうので、最初からこれでいきますみたいになことで、これにさせていただきました。前に書いた『ALS』って本(医学書院、2004)の副題が『不動の身体と息する機械』っていう題でして。「不動」に「不如意」、「の身体」、またかよ、みたいな感もありますけど、でも、実際そうだと思っていてね。
 どうにもなんないものっていうことについて僕らはどれだけ考えてきただろうかっていう話なんですよ。ていうか、そんなに難しいことじゃなくて、体があってしまっていて、そうだな、
 この本の頭のほうにすこし書きましたけど、ちょっと昔の話をすると1980年代ぐらいですか、70年代のなんとなく「カウンターカルチャー」な気分を受けた80年代っていうのにちょっと身体論っていうのが流行った時期があって、僕の社会学の先生で見田宗介さん、別名で真木悠介て方いらっしゃいますけれども、彼なんか僕が駒場にいた時に見田ゼミってやってて、野口体操☆とかさ、なんかそういうのを取り上げていました。
 誤解なきように言うと、あれはあれでもっともだと僕は思ってるんです、ほんとは。よいと思ってるんです、じつは。けど、ただ、身体の可能性とかさ、近代が身体を抑圧してるとかさ、そういう話はそれはそれでごもっともだと思いつつ、いやそういうことだけでもないよなって、皆さん思ったりしません? だって痛いものは痛いし、痛みはなかなか取れないし、そして結局死んじゃうし、できないものはできないし、みたいな。そういうのってどういうふうに社会に組み込まれてるんだろうとか、あるいは、社会とか言ったって無駄じゃん、みたいな、痛いもんは痛いんだから社会がどうあるって痛いのは痛いみたいな、そういうことってなんかここ何十年、死だとかさ、病だとかさ、そういうのが死ぬほど語られたようであるにもかかわらず、そんなに言えてないよなっていう感じもしてたんですね。で、その可能性っていうんじゃなくて、じゃなくてっていうか、も一方でありつつ、どうにもなんないよっていうところを見ないとだめじゃないかってことは思ってたわけです。そういう出発点が僕にはあります。△


 これは当たり前すぎてどうにもならないような話ではあります。むしろそれを逆さにするような話になかなか深いものがあるのだろうと、普通には思えます。痛いのが気持ちいいとか、そういうようなことですよ。サディズムとかマゾヒズムとか。そういうものはおもしろい。それはわかる。ただ、まずその手前ぐらいのところで、いちおう確認しておくとよいこともあるだろうと思いまして。
 私のまわりの人文社会科学者にも、もともとは天文学をやるつもりだったとか、……がいます。わかるところとよくわからないところがあります。
 わからないでもない。ただ死ぬよな、とそれだけだ。所与であるとしか言いようがないのかそれはわからない。
 ただ、結局死ぬよなということであって。以上でも以下でもない。
 ▽例えば僕SFとかだめなのは、光速とかワープとかなんか言っても体壊れるんじゃないって思っちゃうんだよね。なんかブラックホールとか言ってもさ、体壊れたら終わりだよね、みたいな、思いません? そういうこと。僕はそういう感じなの。SFだとか、おもしろい話かもしんないけど、「体壊れたら死ぬよ、だめじゃん」とかね。あと僕映画はわりと好きなんだけれども、でもスプラッタ系だめなんだよね、痛えじゃん、みたいな。それでも見てしまうという欲望もある、それはわかりますよ。でも、むしろそっちの方が……。そういうところからまずちょっとやっとく。
 それで、でもなんかこんなに痛いんだったら痛いの止めればいいのに、痛いのを止めるよりも死ぬことを優先してしまうってことは人にはあるよねっていう。この間のも、福生の病院で透析の再開すれば痛いのちょっとは収まったかもしんないけど、あの人は痛いまま死んだんだね、たぶんね。それってなんか変じゃないっていうようなこと含めて考えていきたい、そういう手前のところの簡単な話をいっぺんしとく。それから枝葉伸ばしてって、なんかこうなんだろ、排便ていうか、糞を排出してしまう快感についてさらに詰めるみたいな、というふうに考えたり書いたりしてったら、ものは面白くなるっていうようなことを思っているのです。△

■5つはある

▽『私的所有論』(1997、勁草書房、第2版2013、生活書院)で書いた話のほうがここで書いた話より大きいってことはなくて、むしろ逆のように思います。どういうことかって言うと、赤い本で五つあるって書いてるじゃないですか。他方で、『私的所有論』ていう本で考えた話っていうのは、人間の能力、できる・できない、能力・非能力に関わる社会の仕組みであったりルールであったり、あるいはそれを正当化するロジックであったりするわけですよ。
 そういう意味で言えば、『私的所有論』以来で書いていることと、ここに書いたことはもちろん繋がってはいるんだけれども、『私的所有論』の中で既に同じことを思ってたと思うんですよ。
 僕はこの本では、人間っていうのはできる・できないっていうオーダーだけじゃなくて、見栄えが違ったりであるとか、あるいは苦しんでしまう人間であるとか、そういうことはこの本で私は書けませんって確かどこかに書いたんですよね(□頁)★。

 「死がもたらされ苦痛がもたらされることがある。そしてその死や苦痛は、大抵の人にとってマイナスであることがある。(「近代」が死に対▽669 して否定的な価値を与えたというような主張もあることはある。当たっている部分があることを認める。しかしそれを全面的に受け入れることはできない。)病であるとは何か。簡単にしよう。病とは苦痛であり、死をもたらすものである。そしてその苦痛は、他者の価値を介することのない苦痛である。それは、まずはその人にだけ現れるものである。様式の違い、及び(自身に委ねられる場合の)不都合さとして現象する「障害」と、苦痛を与え死を到来させるものとしての「病」とは異なる。もちろん、両者が同時にその人に入りこんでいる場合はあるだろう。しかし、両者の違いは曖昧で、境界は定められず、両者を区別する意味はないとまで言うのだったらそれは違う。私達は区別することができるし、区別している。◇21」(立岩[2012:])

 「◇21〔『私的所有論』の註21〕 「原発や放射能の恐さについて、『女たちの反原発』では「生態系のバランスがくずれること」と抽象的なことを書いたが、最近の私は「自分の健康がそこなわれること」と考えている。/そういうとすぐに「ほら、やっぱり障害者でない方が、いいんじゃないの」という声が聞こえてきそうだ。/しかし、「障害」と「健康」は、はたして対立する概念なのだろうか。」(堤愛子[1989:34-35]、なお本に収録されているのは堤[1988]、生命倫理研究会のシンポジウムでの発言(生命倫理研究会生殖技術研究チーム[1992])も参照のこと)  古川清治[1988]が近いことを述べている。原発に反対するのは、それが障害児を産み出すからではなく、命を奪うことがあるからだと言う。【立岩[2002a]でいくつか文献を加え、同じ主題についての議論にふれている。また[2010f]・[2011a]が、英語の文章としては[2011c]がその続きということにもなる。痛み、死をもたらすもの、できないこと、異なり、加害性の付与を分けて考えるべきだと述べている。そのうち書籍の一部にする。東日本大震災以後、原発と障害(者)という主題について書かれたものとして米津知子[2011]、野崎泰伸[2012]。hp[原子力発電(所)と障害(者)]がある。】(立岩[2012:724]、【】内は2012年の第2版での加筆部分)

 そういう意味で言えば、僕がやってきた理論的な仕事は、人間の、いろいろとあるもののなかの、ある一部分について、「できる/できない」っていうことについて書いてきたっていう、そういう大きさの関係みたいなのは一つ言えると思うんです。
 では、それはなんでか、僕がなんでその5つってとりあえず言ったうちの1つのことだけ書いたかっていうと、それは社会科学的にというか、論理的にというか、わりとものが言いやすい、あるいは解決も論理的な解決法っていうのが見出しうる、そういうものだからと思ってます。つまり人間、自分ができなくても他人ができれば何とかなるみたいなオーダーの話だと思うんです、できる・できないって。△
▽現実は難しいにしてもね。だけど例えば、自分の姿形を人と入れ替えるっていうのは、それらは少なくとも難しいし、それを巡る好悪、好きだの嫌いだのっていうのは、そもそも書きようがあるんだろうかっていうようなところがあります。
○あるいは、人間苦しい、苦しい、ってことはまず言えるし実際言います。叫んだりつぶやいたりします。しかし、それ以上書くことはなく、書きようもないし、書いたから苦しみが減るわけでもない。っていうようなところは書きようがないし、今でも書きようがわからないし、だから置いてきたっていうのがある。
 唯一、我々の同僚である小泉義之という人が、痛みについて、病について何か書こうとしてる★。けれども、じゃあ彼がなんか書いたのかって言うと、どうなんでしょう。それでも果敢に唯一描こうとしてるっていうのは、僕は非常に評価しますけれどもっていう、そんな感じなんだよね。ただ、書けないけど、例えば痛みとか苦痛であるとか死っていうそのものは書けないんだけれども、でも人間がそれを纏ってしまっていることは事実で、一個一個ちゃんと書くことはできないにしても、それはあるよっていうことは最低言わなきゃいけないっていうようなスタイルになったのかな、一つは。そういうスタンスなんだろうなと。
 実はその姿形であるとか、それを巡る好き嫌いって話はいっぺん書こうと思って書きかけて、ウェブで連載を始めて、河出書房新社のウェブ連載でやろうとしたんだけれど途中で止まって、10年ぐらい前です。続きは書けてないですけどそのうちなんか。
 でも一方で思うのは、だから僕はやりやすい仕事選んでやってきたっていうか、社会的に実現可能な、変更可能なものについて書いてきたし語ってきたと思うんですよね。難しそうなものは置いてきたったっていうところがあるわけね。でも「みんな難しいっていうことがわかって書いてんのか?」っていうのはちょっとクエスチョン、言ってるんだろうかと。けっこうみんなある意味夥しく病について人々が語ってきたんだけれども、そんなこと言われたってたいして面白くないよねっていう話ばっかり多かったなって気がします。△

■モードが違う
 違うだけだ、と言えるかどうかは微妙だ。多くの場合には「ある」ものが「ない」、そして「ある」人たちが全体としては多いということは言える。
 それでも言えることはある。つまり、有限であるわけで、……代わりにということはあるということです。

■どうしてややこしいことになっているのか?
 一つには人と人とが隔てられているからです。そして一つは、一人の人に、天秤にかけざるをえない。
 ▽みたいなものが、それが社会的に変化はするってことを言って。例えば熊谷さんの本に書いてることもそうだけれども、「痛いのを我慢して、できるようになりなさい」っていう、簡単に言うとそういう話なんですよ、リハビリってのはね。そこには痛いという契機とできるようになるって契機があって、そこでは例えばできるようになることのほうが痛いってことより大切だっていう、そういう前提でっていうか、そういう営みそのものとしてある種のリハビリっていうのはあったというふうには言えると思うんですよ。
 だからその一個一個について語るよりも、ウェイト付けとかね、優先順位とかね、そういうことは一つあるんだろうな、それは社会の固有値みたいな部分があるんだろうな。そこんとこを書かないと、例えばリハビリっていうのを全面的に肯定も全面的に否定もできないわけだけれども、そこのところの「じゃあどっちとも言えないよね、マル」とかいう話もつまんなくて、「マル」って話もつまんないし、「バツ」って話もつまんない、「両方だよね」ってのもつまんない。じゃなくて、やっぱりこういうものは受け入れ難いとか、ここまでは認めてもいいとか、そういうちゃんとした精度のある話を私たちはしたいわけで、そのためにはそういう要素をこう、治すとかリハビリをするとかってことの中にある要素を数え上げて、そこの中のウェイト付けみたいなものが現にどうなってるのかってことを記述してっていう、そういう順番でやらないと。そういう道具立て、非常にシンプルな道具立てが例えば障害学なら障害学にも、医療社会学なら医療社会学にも、基本的に障害学っていうのはできる・できない話をずっとしてて僕はそれはいいことだとは思いますけれども。そうすると、でもそれだけじゃない。そこのところをちゃんと言おうよっていう、そういう気持ちはありますよ。そんな感じです。△

■■私のこと/他人
 他人は痛くない。すくなくとも痛みがそのまま別の人に伝わることはありません。その限りで関係ない、他人たちの関心の対象になりません。
 他方、ある人が自分のことさらに他人のためのことができると、自分はしなくてすむとか、他人ができることから受け取れるものがあります。これは関心事になります。
 そうするとどうなるか。簡単です。

 私のことについて悩んでいるのだろうか。なおらない。仕事 だから 関心をもたない〜
 だから 決めるというだけではない。
◆五つはあるということ、そして こんがらがっている。そしてこんがらがっていることに気がつかないということがあります。

 天秤にかけること。たいがいの場合、のよいことと同時に……ことがある。その理由の一部はそれが身体にかかわることであること。同じ身体のことで起こるので、……というわけです。

 その五つの各々は、そもそも質が違います。「できる」ってことと「痛い」ってのは、別の種類の出来事ですから、そもそもどっちが大切って言われても困るわけです、誰もがね。だけども、同じ一つの身体の中にそれは埋まっているので、場合によってはしょうがなくどっちか優先せざるを得ないことになったりする。それはいくらかは仕方のないことではあります。けれども、選ばなくてもすむようにもできる。両方を求めることもできることはあります。
 しかもそれ、プラスその赤い本で書いてるのは、それは本人にとってと他人にとっては違うわけですよ。痛いのは本人だけなので、熊谷さんがリハビリさせられて「痛え」って思うけど、周りの人は「痛いだろうね」とは思うけど実際に痛いわけじゃない。やっぱり違うわけですよ。そういうものすごい単純なことを踏まえとかないと、やっぱりなんでリハビリが嫌だと言った人がいたかとか、でもやっちゃった人がいたとかそういうこともちゃんと書けない。△

 ▽その上でっていうところが実際面白くって、それを今熊谷さん言ったわけだ。熊谷さんのこの『リハビリの夜』っていう本に書いてあります。タイトルの話、全然どうでもいいこと言うと、『カビリアの夜』※っていう映画知りません? 僕はなんかこれ、なんかそういう駄洒落かなと思って熊谷さんに聞いたことある。なんの関係もなかったんですけど。昔のイタリアの映画ですけどね、全然なんの関係もない話ですけど。で、その痛みとかできなさっていうのがそんな一筋縄じゃないっていう本なんだ、これはね。うんこが出るのを我慢してると、だけど出ちゃったっていうのは情けないんだけど、なんかちょっと快感みたいな、書いてることはそういうことですよ。そういう本なんですけど、わかるわけ、わかるっていうか「だな」と思うんですね。その「だな」っていうことも考えたい。
https://eiga.com/movie/43415/ 1957 フェデリコ・フェリーニ監督
 だからだんだん話が複雑になってったり、実は快が不快だったり、不快が快であったりってなことはもちろんあるわけさ。あるんだけれども、その一番手前のところで、もう僕は時々小学生みたいにすぐ言っちゃうんだけれども、で小学生に非難されるんですが、小学生のように単純なところからとりあえずは始めてみるっていうことをやろうって言ったのが赤い本なんです。△

 ▽例えば障害学っていうのは、基本的にはですが、できないっていう話をしてるわけね。それはそれでいいわけよ。だけど他にもあるでしょって、その込み込みで考えた時に何が起こるかっていうふうに考えると大概のことはうまくいかない、ね。例えばリハビリっていうのが、できるようになるかもしんないけど痛くもあるといった時に、できるようになることと痛いこととどうやって天秤にかけたらいいのかって時に、例えば我々の社会っていうのは、「痛くてもいいからできるようになりなさい」という簡単に言うとそういう社会ですよ。となるとじゃあそこのとこはどう考えたらいいのかっていう問いが次に出てくるでしょう。
 それから例えば、精神障害ってものを考えてみると、精神障害っていうのも確かになんかできない、精神障害ってできないことがたくさん、いっぱい顔が浮かびますが、それはだけど、であるともにね、僕もちょっと10年ぐらい前だな、5年ぐらいほんとにおかしくて、思ったんです。あれやっぱり苦しいんだよね。
 だけど精神障害の社会学とかってそういうことあんまり言わないのね。でも端的に精神疾患って言ったら、精神病って言ったらいいのか、精神障害って言うのか、たぶん痛いとか苦しいってすごいあると思うのね。
 それから他の障害と比べて、あの人たちはしょっちゅう内輪揉めをしてるんですが、あの人たちの社会運動はね。それはどうしてかっていうと、その加害性ってことが、間に繰り入れられてしまうわけですよ。
 身体障害の運動っていうのは、はいできません、できないのをどうやって社会的なアシストっていうの持ってきてできるようになっていくのかって非常にシンプルでしょ、組み立てもシンプルだし結論もシンプルで。だけど手段はいろいろあるからなんぼでも論文とか書けちゃうんだけども、そういう意味では簡単だ。だけど精神障害というのはそういう面もあるけどそれだけじゃなくて、苦しい、苦しさをどうするっていうとこもあるけどね。それから、その加害性の「レッテルを貼られてる」って100パーセント言い切れるかどうかっていうの微妙ですよ。じゃあたんなる偽のラベルなのかって言ったら、それもそうも言いきれないようなところをどう考えるのかっていうのは、さっき言ったできなさを補ったら、はい、じゃあ終わりって話とは全然違うわけだ。そこに彼らが持っている難しさもあれば、ある種の面白さ、輝きみたいなのもあるわけだよね。そういうことを考えていったり、じゃあどうしてくのかと考えるためには、障害学なら障害学が持ってる、できないことをどう捉えるかっていうスキームっていうか、発想だけじゃだめなんだよね。もっといっぱい持ってきて、それを組み合わせて考える。△



 さてこのように素朴に5つつに分けてみたうえで、優生思想というものはどんなものであるということになるのか。
 そういことなのなかで、「できること」っていうのはかろうじてなんとかなります。自分がなんとかなるということもあります。他人はできるということもあります。
 いちばんどうでもよいことですよ。しかし


 とすると問題は、なぜたいしことではないのに熱心になったのかです。
 一つには「国力」があると思います。国際競争。これだって。全体をそのように扱わないとならないと考えるかそうでないかは、国によって異なると思います。

■文献→『本・2』文献表

◇立岩 真也 20181130 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社,481p.
◇―――― 20181220 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p.


UP:2020 REV:20200812,13
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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