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優生思想?・6

新書2のための連載・06

立岩 真也 2020/09/21 『eS』

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 この文章は、2020年中には出したいと思っていた本・2の草稿として準備を始めたものです。
 『介助の仕事』のための連載と異なり、順不同で書いていきます。今のところ、以下に記す取材時の記録を切り貼りしているだけのものです。だんだんと整理し、かたちを作っていきます。
 ここにおく註と文献表は、新書では大幅に減らされます、というよりなくすと思います。紙の新書をご購入いただいた方に有料で提供する電子書籍版には収録しようと思います。
 2021年の刊行になりました。7月には刊行していただきます。『eS』に連載?した文章(というか、方々で話したものの記録の抜粋)はそのままでは使えないので、大幅に書き直し書き足すます。〈Webちくま〉での連載をお願いしようと思っています。

◆立岩 真也 2021 『(本・2)』,ちくま新書,筑摩書房

優生学優生思想
優生学優生思想関連文献


■■根拠?


 ちょっと学問チックになるとね、SOLっていう生命の神聖さっていうのがあって、生命のそれ自体が神聖、sanctityであると、だから奪っちゃいけないって、カトリックぽい話だね。で、それに対してああだこうだ言うっていうのは、ここ70年、戦後の倫理学とかの習いなんです。私はじゃあそういうカトリックかっていったら、信心のない人間なんで、生命それ自体に神聖さがって言われると、ちょっとよくわからない、っていう感じはする。
 だけどさっき言ったみたいに、ぬくいほうがいいとかさ、寒いのいやだとかさ、ていうその一人一人の生きていくときのよさっていうか、それはある。そうであるかぎりは、あるいはそういうことが例えばね、脳死の人にはないからさ、そういう話もあるじゃん。ないかもしれないけど、ないかあるかわかんない、ほぼ。ほぼわかんないですよね。そしたら、そういうあるかないかよくわかんないやつを含めてあるってことにして、社会をやってったほうがいいだろうと、いうことで。だから生命それ自体とかね、精子とか卵子とかなんとかね、そういうふうに私は思わないです。やっぱり世界に生きてることの一人一人のよさっていうか、一人一人にとってのよさっていうか、そういうものを人は奪っちゃいけないと、他人は奪っちゃいけないと、そういうことはだめですけれども。そのあとずっと、僕はそんなに突拍子でもないことではないというかね、言ってきてるっていう感じかな。

 そうした場合にその「ワールド」というものは、人間外にもあるだろうとは思う。とすると……という話が「種差別」。じつはこの話は、『唯の生』という本に書いたのです。


 絶対原理は絶対原理なんですよ。「どうでもいいです」っていったらそれはちょっとまずいですよ。「殺すな」っていうのは絶対原理だとなる。だけどその絶対原理っていうものを我々は現実に常に貫けるかっていったら、なかなかそれは難しい状況っていうのは現にあって。そうした時にはこれが正しいとかこうしちゃいけない、いうだけじゃなくて、そういうことをしにくくするっていうこと、根絶は困難あるいは不可能だけれども、減らすことはできる。
 こういう話ってよくね、「そういう差別意識を根絶できるんでしょうか」みたいな聞かれ方よくするんですけど、僕はそんなことどうでもいいと思う。
 なくならいっちゃなくならないですよ、それはね。だけど、なくなんなくても、根絶…、0にならなくても、社会としては十分打つ手があるんだし、それをやればいいのに、けっこう間違った思考回路というのがあってね、根絶できない、これは無理だと、無理だからもう考えるのやめとこうとか、ほっとこうみたいになっちゃう。だから、そういう諦めのために「いやー、そういう差別意識をなくすべきなんでしょうけど、なくせませんよね」みたいな、そういう話になっちゃうのって、話の順番ていうか、話の考え方の持っていき方っていうのが間違ってるって思いますよ。「差別意識や優生思想をなくせるんでしょうか?」みたいなことをよく問われます。それに対して「なくせない」って答えてもいいんですかね。だけど、「じゃあしょうがないですよね。やっぱり人は殺されますよね」じゃ困るわけで。その間のぐらいのところにいっぱい考えたり、できたり、そういうことがあるんだと思うんですよね。▲

 なんでもあってもよいということにした方が楽だということ。『自由の平等』って本でそのことを言っています。

■生きていく価値
 ▼かなり同じっていうか、安楽死って基本的に、安楽死もいろんな意味で捉えられるから。例えば競馬の馬の安楽死ったら、あれ、馬は全然自分で死にたくないですよね。そういう時に注射打ったりするのは安楽死。でも普通人間の場合の安楽死っていう、例えばナチスの安楽死っていうのは、あれも全然死にたくない人を人が勝手に殺したわけですからただの殺人ですけれども、普通の安楽死は、今やってる、今やってるっていうか、安楽死は自分で自分のことを殺すわけですよね、あるいは殺すの手伝ってもらうわけですよね。そういう意味でいえば、「生きててもしょうがない、生きている価値がない」っていうふうに自分のことを自分が思う、っていう意味でいえば、それは他人である場合もあるし、自分である場合もあるけど、共通する部分もある、当然それはあるんだと。
 例えば「あんな人たちみたいな人に自分がなるんだったら私は死んだほうがいい」と思うとするじゃないですか。そしたら「あんな人たち」っていうのは自分だったらもう死んでもいいぐらいの人ってことですよね。でも実際そういうメカニズムというのは働いてるわけで、あんな人って例えば認知症の人だったりするでしょ。「認知症であんなになるんだったら私は死んでもいい」つったら、「私が死んでもいいほどあの人たちはよくない」ということなわけだから、非常に強い【ネガ】(00:32:48)っていうか価値がない感あると思います。価値がないのもさ、けっこう微妙じゃない。「生きていく価値がない」っていうのと、何か指標みたいなのがあって、で「価値がない」っていうのと違うじゃないですか。

 それはさっき言いましたけど。例えば、勉強ができるとかね、体操ができるとかね、そういうことは価値があるかつったら、僕はあると思いますよ。ですけど、だからそういう意味でいえば体操ができない人、勉強ができない人は、そういう意味では価値がないって言えるかもしれない。
 でも、結局体操見て、体操できるのがなんでいいかっていうと、自分が気持ちがいいとか、みんなが見て美しいとかかっこいいとか、自分がこれは生きてるってこと前提でそのためにものが作れたり、楽しいこと【やったりとか】(00:33:49)、そこは***(00:33:51)と思ってる。だからそういうことですよね。そういうときに価値があるって言わないと。
 それからもう一つは「価値がないと人間は生きていけないのか」って言ったときの価値って、「生きていく価値」と違うわけですよね。ただ生きていくっていうこと以外になんか立派なこと、いいこと、美しいことができるっていう、できてることっていうのが***(00:34:25)いいってことになるわけだけれども、なんでそう言わなきゃいけないのかっていったときに、別になんかポジティブな属性とか業績とかそういうものがあるとかないとかっていうレベルで議論始めちゃうと危ないねっていう、そういうやつはいるっちゃいるだろうと。

○だから、人に価値があるとかないとか別に言わなくたっていいわけで、それは「生きてる間は生きててもらいましょう、終わり」っていう言葉に尽きるというか。そういうときに、生きていくために必要なものを生産できる人、生きていくときに楽しいものを提供できる人は偉い、褒めてあげましょ、それだけでいい。それ以上、以外は何もいらないんだと、普通に考えたらいいと思います。だから今回のも、生きる価値がないとか言われると、誰だってむっとくると思いますけど、我が子に「生きる価値がない」みたいなこと、やつが言うわけじゃないですか。その時に、「いや、うちの子は私をこんなに楽しませてくれて」とかさ、そういう話いっぱい親の会の人とかして、それは大変よくわかるんですよ。実際そうだと思うんです。知的障害の人ってほんとにもっと他の人より楽しませてくれるっていうか、そういうとこは確かにあるからね、人によりますけど。ありますけど、でも、それはほんとは必要ないですね、一番ベースの部分ではね。「こんなにうちの子は楽しませてくれる」とか「かわいい」とか「いいことができる」とか、別にいいことがあろうとなかろうと、っていうのは一番ベースの部分ではそれ言わないと、なんかいいこと言わないといけませんと、いいことできない、結局いいことできないとだめだみたいになっちゃうから、その話に乗るとあんまり楽しいことにはならないのでっていうのはけっこう思ってます。

■■

 ここまでで言ったことは、……を止めるのは何か?、……を進めるのは何か? という2つのうちの「止めるのは何か」と考えるときに思いつく2つなんですが、ちょっと力不足というか……、ではどう考えるか。そういうことについてはたくさん書いてきたのでよいのかなと思っているんですが、

■進めるのは

 1)
 2)

■転倒させないこと。〜 ための手段であること。
 ▼間違いは二通りあります。
 何かができる、働ける、生産できるっていうことはいいことですよ。だから、いいことですよって、あえてというか言いますけど、でもそれは人が生きていくために、例えば「飯が食えるためには米は作らなければならない」とかそういうことでしょ。だから生きていくために生産しなきゃいけなくて、生きていくために生産することはいいことだっていうそれだけの話ですよ。
 だけど、「生産しなければ人は生きていけないのか、それが正しいっていう理屈があったら言ってごらん」ていうことなんですよ。「それはない」っていう話をもう30年ぐらいしてるんですけどね、僕は。それが一つですよ。だからできるってことはいいことだろうけれども、できないからっていって、そいつが生きてる価値がないとか、殺してしまえとかいう理屈はない。それが一点。
 もう一つは、そういう理屈は別として、そういうのがいっぱいいると世の中大変になるので、とか言って、殺したほうがいいねっていうか。殺したほうがいいっていうのはあまりないと思いますけど、少ないほうがいいよねとかね、そういう社会の行く末というか資源というかそういうことを心配して大変っていう、そういう認識、これ事実認識ですよね。もちろん予想もあるので、未来の予想の部分もあるけれども、未来についての実質、可能性についての実質ですけど、それは、ここは分かれると思うんですよ。大変だっていう人は言うけれども、僕は全然大変だと思っていませんっていうことを言い張っていて、あまり本気にしてもらえないので、ちゃんとそれを言おうと思ってて。

 別になくたっていい。もちろんいろいろ言えますよ。そういう、人に対して何か貢献するっていうそういうよさ以外に、言葉が喋れようが、喋れまいが、それぞれの人にとってのよさっていうのはどんな、ほとんどどんな場合でもあるわけで、そうした一人一人にとってのよさっていうか、ていうものを他人が勝手に減らすのはいけないし、ましてやなくすっていうのはだめだよっていう。
 だから「一人一人の人を殺すな」っていうことの理由というのを、言わなくたっていいようなもんだけども、でも一人一人、それぞれに何かその世界で生きていくっていうことのなかから抜けてる、取ってるっていうよさみたいなものは必ずあって、それを減らしたりなくしたりしちゃそれはだめでしょっていう、あえてというか、言えばそういうことになるだろうと思うんですよね。
 それを価値というなら、それでいいわけで、そういう価値を、その人が生きていくことのよさっていう価値をお前は勝手になくしてるんだと、お前だめじゃん、全然だめじゃん。と言うことになります。

 わかりやすい問いですよ。だから他人にとって必要ないろいろができるってことはもちろん価値ですよ。価値ですけど、それのほとんどは手段的な価値であって、人口の何十パーセントの人ができなければ誰か残りの人たちでたいがいのことはできるし、実際できてきたし、これからもできるんだと思うんです。ただそれはできたほうがいいけど、できなくても別にそんなには困らない。あとは生きていくために何ができる・できないっていうんではなくて、そういう人ができたことによる生きていくための手段をいろいろ使いながら、テレビ見たり、音楽聞いたり、飯食ったり、寝そべったり、そういうことも価値っていえば価値でしょ。それはあるかもしれない。それはやっぱり一人殺した、その人にとってのよさはその人にしかないじゃないですか、どう考えても。だからその人を殺しちゃったらその人のものっていうのは、きれいさっぱり何もなくなっちゃいますよね。それはだめでしょ、てことだと思いますよね。

 非常にそういう、ある種「そうよね」っていうことを言うために、すごい遠回りしてるんですね。
 そうだと思いますよ。そんなにややこしい話じゃないですよね。
 そこでなぜか入ってきちゃうんですね、今回の事件。そこで、例えば「幸せにするからいなきゃいけない」とか、「これだけで生きてるからいなきゃいけない」とか、「みんないつなんかわかんないんだからいなきゃいけない」っていうのを、けっこうじゃない、普通に遠回りをしてる、

 「人のために何かをするっていうことはいいことだ」っていう、これは否定する必要ないと思います。だけど、その命題というか、その文と、「それができない人は死ねばいい」っていう話って、ロジカルにまったくつながってないんですよ。全然、間違いなくおかしい。間違いなくつながってないんです。だけどそういう間違ったつながりみたいなものがこの世にないかっていうと、あるっちゃある。だからそこは間違ってるんだってことは言うべきだということですかね。▲

 努力はしたほうがいいと思います。これもいくつかの答え方があって、例えばね、人間の社会をやっていくために、どれくらいの努力が必要なのかっていうような問い方が必要なんだよね。それは一人一人がやらなくていいって話じゃなくて、やったほうがいいし、やんなきゃいけないんだろうけど、でもどこらへんまでがんばんなきゃいけないのかっていう視点をどこかでいつも持つことが必要なわけさ。…た時に一方ではそんなにやんなくても大丈夫だよ、かもしれないとか、そういう可能性をきちんと考えてくっていうことは絶対必要なんだよね。そうすると余計に頑張りすぎずに済むわけじゃない。
 ていうようなことを考えるとか、あと頑張るってことが何のために頑張るのかっていうところの問いをいつもちゃんと置いとくっていうことだよね。これは別の本でも書いていることだけれども、大概の場合何かをできるようになるとか、努力してできるようなるってことはなんか目的があって、目的のための手段としてそれができるようになることが必要だっていうことなわけじゃない? そうすればその目的っていうのは、達成するための手段っていうのは複数あったり、自分だけじゃなくて誰か別の人ができればいいのかもしれないし、自分ができなくても誰かのちょうどいい数の人たちができればいいのかもしれないっていうふうに考えればいいいんですよ。
 だけれども、他方でそういう何かの手段としてできる、努力するっていうことじゃなくて、努力するっていうこと自体が人間の価値であるとか、そういうふうになることがあるわけでしょ。リハビリテーションにしてもしばしばそういう話になっていくわけさ。そういう時に「あれ? 俺なんのためにこれ今頑張ってんだろう?」みたいなことを考えないと、やっぱり無駄な努力するとか、無駄だったらまだいいわけだよ、プラマイゼロなんだからさ。そうじゃなくて痛いんだもん。やっぱり痛いのは困るんですよ。っていうのが熊谷さんの本に書いてあることなわけで、やっぱりそういうふうに、そういう意味で言えば赤い本に書いてあることはすごい単純なことでプラマイちゃんと見とこうよっていうそういう話なんだよね。っていうようなことを思ってます。▲


 ▼考えるっていうか、考えたってしょうがないじゃないですか。「いないほうがいいや」って思いますよ、そりゃあ。たいがい夜、夜中に起こされたりさ、訳のわかんないこと言われたりさ、そりゃあ殺意ぐらい芽生えますよ。それをなくさなきゃいけないっていうと、なおしんどいじゃないですか、なんかね。それを自分がいい人になって、気持ちがちゃんとした人になろうっていうよりは、その度合い、その憎しみを減らすとか、転化できるとか、自分がやんなくていいつったら楽になるでしょう。そういう簡単なことですよ。家族であれば家族外ってことになるだろうし、施設のなかでもほんとであればね、何百、何百はいかない施設は、たくさんいてね、そういう人だけに毎日接してて、それで生きがいを感じる人もいるでしょうけど、なかにはもううんざりっていうか、このやろうっていうか、そういうふうに思う人がいたってそれはそんなに不思議じゃないですよね。実際別にこれは日本に限ったことではなくて、看護師であるとかそういう人が人知れずというか、虐待したり殺したりっていうことは世界中にあってきたことなんです。

 「いないほうがいい」っていうところと「殺す」っていうのの距離って実はそんなに離れてないんじゃないかって、ちょっと。
 そんなには離れてないですよね。むちゃくちゃ離れてるとも言えるよね。「殺したほうがいい」っていうのと、実際に殺すのと間の距離ってやっぱりあるから、それはすごい距離だと言えるけれども、でも「いなくていい」っていうのは「生きてなくていい」ってことですから、そういう意味でいえば、その距離はそんなにめちゃくちゃ離れてるわけでもない。どっちかっていえば、僕は「そんなに離れてないよね」みたいなこと言ってきたんだと思いますけどね。▲

■■進めるもの2) は否定できる

 奪われるっていうのがね、世の中こんなみんながひもじくて、思いして生きていくのに、こんなにいっぱい使って食わなきゃ生きていけない人がいると、他のやつらがすごい困ってるっていうようなレベルのね、困った感と、それはそれで、例えば究極的に救命ボートの話って昔から倫理学であるんですけど、誰かボートから降りてもらわなきゃいけない、乗せられないみたいなときの優先順位ってありうると思うんです。ほんとに、人を殺さないと他の人は生きていけないぐらい大変だったら、ほんとにそうだったら、例えば世界の空気をみんな一人で使っちゃうようなやつがいて、そいつ生かしておくと多くの人の命空気不足で死んじゃうと、そしたら殺すかもしれない。良し悪し別としてしょうがない、ごめんなさいつって。
 そういう話に関していえば、それは事実問題として応答していくしかないんですよ。そんなに大変ですかと、ていう人は。そういう全体が足りない、足りないなかで「お前いっぱい取ってる、大変だ」っていうその大変ばなしと、とにかく人から取ってくる、あるいは人に世話させるとか、そういうこと自体がだめなんだっていう話は別ですよ。こっちはこっちで、一個目の話は一個目の話で答え、二個目の話は二個目の話で答え、ていうしかないですよね。ただ、別に世話されて生きていくとか、人の労働の成果を取って生きていくとか、そうやって生きていく人間はいるわけで、それは別にいいことではない。むしろ人が生きていくために人に与えられる人は立派だし頑張ってちょうだいよ、だけどって話じゃないですか。だけど世話されて生きていくっていうことはだめなのかつったらだめじゃないと、てしか言いようがないですよね。その時に、そういう話は実は、こういう事件が起こったからっていうそういう本も書いてるけれども、もっとまあ。税金取られるってことは、人から悪いことだっていうか、あるいは使うことは悪っていうか、あるいは取られるってことが正義にもとることだって考えるのがおかしいっていうのは、私はそういう主義主張というか立場ですけれどもね。

 例えば税金って、僕らみたいな勤め人は最初から引かれて来るからピンとこないけど、いったん手元に来たものから払うっていう意味でいえば、いったん自分のものになったもののなかからっていう意味でいえば、なおかつ自分は好き好んでやるっていうとそうではないと、いう意味でいえば取られてるって言っても間違いじゃない。それが自分的にいいか悪いかつったら、それはいっぱいあったほうがいいよねっていうのも素朴な、素朴なっていうかリアルとしてあると。それはそれでわかる話ではありますね。そういうレベルで、みんなそうやって税金取られるとか節税とかみんなやってるわけじゃないですか。そういうぶんでいえばみんなその程度には思ってる。今度の被告がそれとまったく同じレベルなのか、もっと強くなんか信じてしまってるのかそれはわかんないですけど、たぶんもっとなんか強く信じてしまってるんでしょうけれども。そういう話は昔からやってるんですよ。稼いで得た金は自分のもので、本来は人は取っちゃいけないんだって考えるのが我々の社会ですけど、だからそういう意味でいえば、非常にこう我々の社会は正しいっていったものをそのまま正しいってことにしちゃうと、彼が言ってることに一理あるよねっていう話になるんですよね。私はそこからおかしいと思っているので、彼も共有してるこの世にもあるものがだめだって言っとかないと、それでその代わりにね、そういうレベルであいつが言ったことはだめだって言わずに、みんなそのうちなるとか、障害者になるとか、いやこんな私のこの子にもいいとこがあるとか、いうんじゃやっぱり弱いと思う。あんなあほなやつに、なんか「あんな人たちにと、それはだめだよ」という感じですね。私のスタンスはそういう、わりかた単純で、他に言いようがない。▲

■悲観
 最首さんわりと悲観的なんですよね。でも頑張らざるをえない的なちょっと悲壮な感じですよね。さっきの二択でいうと、「大変だっていうことは認めたうえで、でも殺すのだめだからせいぜい頑張ろう」みたいな、そんな感じです。
 僕は最首さんとの付き合いがなくはなくて、いろんな点で彼の言ってること共感しますけれども、「そんなに最首さん悲観することはないよ」と最首さんには言おうと、そんな感じです。あの人は団塊よりもっと上ぐらいの人ですけれども、とくに団塊の世代とか、これも20年前ぐらいから言ってますけども、そういう人たちがそろそろ50とかなった時に、「俺たちなんかたくさんいすぎるんだよな」みたいなね、けっこうそういうこと言ってた人がいて、それもう20年以上前だと思うんですよ。あの人たちは今70とか、48年生まれだったらそんなもんでしょ。そういうこの団塊の世代の人たちの自らに対するある種の悲観ていうか、俺たちが人数多すぎて足引っ張ってるみたいなね、そのうち足引っ張るようになるんだみたいなね、そういうあたりが50年前後の人たちのムードですよね。それで60年代って何があったんだろう、僕は60年生まれなんですけど。
 それが例えばバブル以降生まれた人だともうデフォルト的になんか大変らしいぜみたいな、将来暗いぜみたいなそういう土壌というか。ちゃんと考えたわけでも、どっかでリアルを見てきたわけでもないんだが、どうもそういうことらしいと。実際それを裏付けはしないけれども、関係する数字とかそういうのがいろいろあって、国に何百兆円も借金があるだとかさ、そういう数字はあるし、それは嘘ではない、実際それは嘘ではないので、まったく無根拠というか何もないわけじゃない。けれども、そういうものを根拠というんじゃないでしょうけどね、背景にしてどうのというのが私の前の世代、私の世代もそうなんでしょうけれども、その後のもっと、もっとなんかちょっとシビアな感じになってきた世代。
 だからわりとこう共有、長い。これはもしかすると世界中かもしんないけど、日本的な部分もあるかもしれなくて、そんなになんか悲観してる国民ていうかな、日本人てわりとちょっとそういうとこありますけどね。世界の幸福度調査とかあるじゃないですか。あれだいたい日本たいしたことないですからね。あれはね、だけど、それでじゃあ日本人は不幸なのかつったらそりゃどうなのかなと思ってて、「幸福であるって言ったらばかみたいな感じ」ってちょっと日本人って思いません?
 自分のことを「私はハッピーです」みたいなこと毎日言うってなんか恥ずかしい、みたいな。そういうのちょっとあって、わりと悲観的なこと、ほんとは悲観的じゃなくても言うのが習わしみたいなところがあると思いますけれども、でもそういうのがデフォルトだと、それだけでも済まなくなって被告のようにというか、被告がどういう人生のなかでそういうことしゃあしゃあ言うようになったのか僕は知らないし、興味もないですけれども、なかには本気になっちゃうやつもいるって感じですかね。世界中ではないかもしれない。ただ、もちろんいろんな意味での危機っていうのは世界的にあって、それをどういうふうに処理するかっていうか講ずるかっていうのは世界的な課題だと思います、日本だけではないと思いますけれども。ただこの悲観的な感じの蔓延度というか、わりと日本的というかね、気もします。

■トリアージ〜社会防衛 確率
cf.◇立岩 真也 20200421 「「自己犠牲」や「指針」で、命をめぐる医療現場の困難は減らない――だいじょうぶ、あまっている・2」,『現代ビジネス』
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71974
 5つあるのは、人間をやっている限りは、……ということです。ただ、。……を避けるための営みです。このことには問題はない。
 としたときに、格差が拡大するということです。平等が積極的にのぞまれでいるわけではないでしょう。しかし、ゆえなく、……ことは避けたい。
 ある人たち

 こつ大きくあげたこと。優先したということですね。これは不思議なことです。〜だってそんなことをあまり気にしなくてよい社会になってきているはずだからです。
 しかし、
 死と
 〜正直その熱情はわかりにくいと思います。なにが言ってもわからない。ただ、私は退屈なことがつもり積もって……。
 「社会防衛」は必要ですよ。人々であり、私たちであるから。しかしにもかかわらず、何が問題なのかということです。「きわ」の部分では難しいことがあることは認めましょう。しかし、
 大きくは二つあります。順番をつけざるをえないとして、それをどのようにつけるかです。議論自体は長々となされていていろいろなとこが言われています。それはここでは追いかけません。
 「トリアージ」の議論。救急救命の現場で。わかりやくもあり難しくもある。
 「女こども」を救おうという話がある。こんな(まれな)時に男たちが犠牲になろう、そのことによって自らの優位を保とうという行ないであるようにも思えます。たまにほんとにそいううことがある。ということであるとも解することもできます。
 長く生きた人とそうでない人がいるなら、……において、これから生きるだろう人を優先するということはあると思っています。
 ……そういうことをするのと、……のと、どちらが早いかです。
 重さから逃れたいのです。これはまったくもっとなことだと私も思います。
 時間がたたないとわからない。
 いくつかの原則というか条件というか、そういうものがあるのだろうと思います。
 なにをやっているのだろうと思います。
 死なせないようにする。そのためのことは必要です。
 何が問題なのか。
 精度が足りない。奇妙な話です。
 ……に、これまで……を足したような話になっています。そういうものに雷同してしまう報道機関というのもはどんなものであるのか。

■■根拠? PULL



 ▼じゃあ「誰々は私を幸せにしてくれました」、「誰々は周りを笑顔にしてました」と言う必要がないんだよっていったときに、じゃあ代わりに出てくるものって何ですか、ということになります。  でも、代わりを出す必要ないのかもしれないんですけど。代わりを出さなくてもいいっていうことをわかるっていうことのほうが大切なんですよ。
 探して、ないですねってそこでストップしたりとか悲観的になるより、そんなものは、そんなポジティブなもの出てこなくって別にかまいやしないんだっていう、っていうふうに思ったほうが実際には人間楽ですし、得ですし、悪いことないですよ。そっちのほうがいいと思いますけどね、僕はね。僕はねっていうか、僕一人が思ってるわけじゃなくて、みんなそうだと思いますけど。
 「なんであなたは自分のこと生きててもいいって思えるの?」って聞かれても、けっこう困りますよ、自分自身。


 ただあえていえば、

 ……

▼障害者施設やろうとすると住民運動で止められるって話よくあるじゃないですか。そういう類の話をしてて、そうだよね、暗いよねっていう。実際暗いんですけど。でも、そういうときやっぱりおんなじ話になるじゃないですか、「あいつら危険だ」っていうふうに住民は言うと。それに対して、作業所のほうは、いや大丈夫なんです、安全なんですって言わざるをえないとか、ボディガードつけます的なね、私らでちゃんと警備します、責任持ちますので、的な。
 そういう話になってくるんですよね。それはわかる、その対立構造はわかるんだけど、基本的にはですよ、机上の空論みたいな話になるかもしれないけど、やっぱり人が住む場所を、例えばその人は認知症であったりなんかしたりして、認知症だったら火事起こす率は確かに高くなるかもしれない。だけど火事を起こす確率が高くなる程度の理由で、例えば精神障害者を、認知症の人をアパートに住まわせることを拒否する、そんなことはできないよ、と言いたいわけですよ。そこはね若干苦しいですけど、でもそういうベースのところをキープしないと、これは建前でもいいからキープしないと、なんかおまけを言わなきゃいけなくなるんですよ。「無害でございます」とか「安全でございます」とかさ、そこはよしたほうがいいよという。苦しくなるだろうと思います。
 迷惑かけられること、被害者になること、そういうことあるわけです。起こるんです。ないとはいえない。
 それ言ったらさ、例えば黒人は白人より犯罪率が高いですよ、顕著に。まずそういうことがあるわけで、そういうようなところ、じゃあそこで差別していいのか。それをそれでいいって言ったらほぼ終わりですよ。
 だから、そういうことを確認することのほうがたぶん大切で、とくに良心的な人たちはそういうとこじゃなくて、私の心にも問題があります的な話とか、そういうふうに言っちゃってぐるぐるなっちゃって、つまんないっていうか、かえって逆効果、逆効果っていうかな、違うこと言っちゃうから、そこの大まかな道を過たないというか。運動のサイドにも、それを報道するっていうか描く研究者もそうですし、メディアもそうだと思いますけど、それは大切なんじゃないかなと思ってますね。



 なんだかんだいって確かに税金使って生きることになるから、そういうときにやっぱ手練手管っていうかいるわけですよ。そこにも書きましたけど、「関係ねえよ」って言い切れる人っていうのは幸福です。「お前らいなくたって俺たちは生きてくぜ」っていう孤立主義っていうかな、そういうことができる人っていうのは、自分たちが働けて自分たちの稼ぎで食えて、だからお前たちなんかいらないよ、独立するよみたいな。例えばケアがいる人ってそうじゃないわけじゃないですか。その時にやっぱり関係ねえよ、知らねえよ、さよならっていうわけにはいかない。死んでしまう。
 じゃあその時にどこまでどういうふうに理解というか、を求めていくか、あるいはやりすぎないかっていうけっこう微妙な匙加減が必要で。基本路線がわかってるんだったら、ベースがわかってるんだったら、あとはもう騙そうが泣こうが笑わそうが何したっていいって思う、と同時に、でもこの作戦とったらどこがどういうふうに損でどういうふうに得なのか。
 お涙ちょうだいっていうのは一番効くんだよ、たぶん。多くの場合一番効果的なんですよ。だけど、結局自分を下げなきゃいけないわけでしょう、かわいそうな人にしなきゃいけないわけでしょ。あるいは愛されるやつにしなきゃいけないでしょ。それはやっぱりよくないですよ。だからやるんだったら、もうこっからやらせだと、今日は泣くことにしてんだというふうにして、自分が無駄に自己卑下をしないだけの根性というか、構えができてから泣けばいいというか。そういうところで、社会とどういうふうに渡り合っていくのかっていうのは多少の悪知恵も含めてね、ずる賢いっていうか。

 だけど、あの本のなかで僕は白石さんって人について書いたのは、そこまでは妥協しないぞと。っていう、そりゃ大切だよねって話だと思うんですよね。どこまで擦り寄るかって、擦り寄っちゃいけないとは言わない。さっきも言ったように、そうしないとやっていけないっていうことは事実あるので、あるけれども、ここまで行っちゃだめよみたいな、その矜持というか、そういうものをどういうふうに保ちながら、でも武士は食わねどばかりも言ってられない。青い芝ってちょっとそういうとこあったわけですよね。実際なんにも取れなかったっていうか、そういう組織でもあったんだけれども。でも実際には取らなきゃ生きていけないわけだから、そのベースを持ちながらやってく。そういうところにいた人っていうのが僕にとっては高橋修っていう人で、その人のことを書いた。
 僕はだからさっきも言いましたけど、原理原則とこまごまと数字をいじる、制度をいじるっていう話は、時々そういうふうな対立がやっぱ運動でも起こるわけですよね。青い芝の人たちって、あいつら改良主義っていうか、制度のことばっかりうじうじ言ってめんどくせえみたいな、俺たちのほうがかっこいいんだぜみたいなこと言いたくなるわけですよ。気持ちはわかりますよ。気持ちはわかるけど、私は別にそういうんじゃなくて、ちゃんと考えていけばそういう原理原則を大切にするっていうことと、金を取る、制度を取るっていうことは矛盾しないんだっていうその道筋を私は私なりに示していくっていうのが仕事だろうと思ってますね。
 だから、先人にもらったもの、あるいはその先人に対する報い方っていうか。今僕ら「あるものは捨てないでとっときましょう」的なことばっかり言ってるんですけど、実際そう思ってるんですが、それだけじゃなくてやっぱりそこから精錬っていうかな、していけばちゃんとしたストーリーの道筋っていうか、そういうものが見えるっていうある種の信念っていうかがあるんですよね。
 だからこそそういう人たちの、やっぱりNHKオンデマンドじゃけっして出てこない人たちですよ。ほんとにNHKって戦争のばっかりやってるなと思いましたけど、第二次大戦はなんで起こったのかみたいなさ、陸軍と海軍がどうで、東條がどうとかで。国連脱退の真相とかさ、わかりますよ。あとは関ヶ原、戦国時代ですよね。いいんですけど、テレビでゴールデンタイムってああなるんでしょうけど、でもそれはそれでね、Nスペには出ないだろうけれども、せめて活字のそんなに読まれないかもしれないメディアにはちゃんと残しとくっていう、それはちょっとマニアックな話ですけど。でもそれはそれ、その話とちょっと別のレベルで足りないとかもったいないっていうか、そういう話に反論して、それはそんなに奥ゆかしくっていうか、こまごま書いてっていう話じゃなくてもっとスパーンって言える話だと思うんでって、両方いるのかなと思いますね。

 たぶんそれは一人の人じゃなくてもいいんですよね。中には「わーっ」て言うのが芸っていう人、僕はちょっと考えてもよくわからないしみたいな。そういう人しかいないと困りますけど、でもわかったと、続きは俺がやるからみたいな。組織だし運動なので、ときどき仲違いみたいなのがあって、そういう理屈ばっかり言ってるとかね、金のことばっかり言ってるとかさ、それに対しておまえら精神論ばっかり言ってみたいな、そういう対立起こりますし、それはわかりますけど、それをどうこう言って対立があってってそういうことを言うんじゃあんまり面白くないというか。ちゃんと両方成り立つというか、どういうふうに組み合わさるのかっていうほうが面白いと思っていて。そういうある意味こっちの道にもこっちの道にも落ちないぐらいのところの、狭いかもしれない道を歩いて来た人たちっていうのを、それはそれで記録に残しとこうっていうのが、今回の『弱くある自由へ』の最後に付けた高橋さんって人についての章だし、それから福島本に書いた白石清春さんという人についての章もそんなつもりです。


 基本は基本として確認すること。そして、せめて簡単にできることをすること。「その場しのぎ」を大切にすることです。
 それだけでやってきたら、かっこがわるいということになります。自省するという態度をトルが、思想の姿勢のようなところもあります。
 しかしそれにしてはと私には思えます。結局のところそこから降りていないと思うのです。このことを私は、『不如意の身体』では、ヌスバウムといった人たちが言っていることをひきあいに出して述べています。その人はとても同情的です。しかし……。
 は時勢するしかし結局のところ、「達成」を信じてしまっているわけです。
 それに対して、無為の思想といったものかあるように思います。しかし、こういう思想にはずるいところがあるともいえるわけです。


★  『私的所有論』より
 「何が問題とされたのかを確認しておく。第一に、事実としたものが事実でなかったこと、誤りであったこと、悪意に満ちた誤りであったことである。人種・民族というそれ自体疑わしいものを実体化し、優劣を設定し、抹殺した。もちろんアーリア人の血を主張し、ユダヤ人を劣等な人種とする根拠はどこにもない。第二に、強制として、国家によってなされたこと、時には秘密裏に行なわれたことである。さらに殺人という究極的な暴力によってなされたことである。秘密主義、暴力、恣意性、等々が批判される。また戦争遂行という特殊状況の中でなされたことが問題にされ、反戦・非戦思想のもとで批判されることにもなる――日本でも、優生政策は「産めよ育てよ」といった軍国主義政策との結びつきにおいて批判された。
 これらの批判は全て、当然の批判であったし、当然なされるべき批判だった。ただ、優生学を誤りと暴力とをもって批判することによって、あるいは優生学のそういう部分を批判することによって、誤りでも暴力でもない部分をどう考えるかは曖昧にされた。結びつきうることが全て否定されたのだと考えることもできるが、同時に問われずに保存されたのだとも言える。一方で、何かしてしまえば、最初は限定された範囲に限ったとしても、次第にその範囲が拡大し、やがて最悪の事態を招くだろう、だからそうなら▼405 ないように手を打っておかなければならないという「くさび論」がある。この種の議論は「滑りやすい坂」(slippery slope)論とも言われる。どのような根拠でどこまでを許容し、どこからを許容しないかを言わない場合には、確かに滑っていく可能性はある。だが同時に、どこまでも滑っていくかもしれないからすべてを認めないと主張することも、どこまでが(もしそれ以上に滑っていかなければ)問題はないのか、問題の本体はどこにあるのかを問わないですませてしまうことになる可能性があるということでもある◆45。他方で、技術を肯定し推進しようとするあらゆる言説が、今行っていること、行おうとしていることがナチズムではない、否定されるべきものとしての優生学ではないと主張するだろう◆46。双方に同じ限界がある。境界をはっきりさせないまま全体を否定するか、私達はナチスのように――やはりどこまでひどいことなのか、それはなぜなのかを言わないまま――ひどいことはやっていないと言う。
 そして批判の形として、強制に自由が対置され、国家に個人が対置される。優生学に対置されるものとして、技術に対する時の原理として、使われる道具が「自己決定」なのだ。しかし、自己決定は優生学に本当に対置される語なのだろうか。確かに他者による強制に対置されるものとして自己による決定はある。だが、遺伝と出生が問題になる場にはそもそもその自己はいない(まだ生まれていない)。この時、国家による決定と親▼406 の「自己決定」を明確に違うものだと言うことができるだろうか。そしてここには必ず負担、コストという契機が入ってくる。この時――本質的に――どれほど異なるだろうか。同じく悪であるというのではない。むしろ、科学化され脱暴力化された優生学についてどう考えるか、同じように悪であるのかそうでないのかを考えるべきなのである。ナチズムでない、つまり、間違い・偏見でなく(特に人種主義でなく)、殺人をしない優生学がありうる。このように考えるなら、優生学をどう規定するか、何を知るべきかも明らかである。あらかじめ(例えば本節1で行ったように)広い範囲でこの語を捉えておくことであり、もっと日常的な部分でなされることを見ることである。しかし戦後はこのような問いに向かわなかった。国家(だけ)を主体として想定し、その暴力を問題にした。そして遺伝説の否定◆47という対応をとったのである(このことは第7章1節で述べる)。「内なる優生思想」という主張が現われるのは一九七〇年代に入ってからになる。第9章で考察する。」
★  2016/11/25 「長谷川豊アナ「殺せ」ブログと相模原事件、社会は暴論にどう対処すべきか?」(インタビュー,聞き手:泉谷由梨子),『The Huffington Post』2016-11-25,,


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