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少し遡って路を確かめる・2

新書のための連載・10

立岩 真也 2020 『eS』
< > 11

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 この文章は今年夏にはちくま新書の一冊として出したいと思っているの一部の部分として準備中のものです。
 ここにおいた註と文献表は、新書では大幅に減らされます。紙の新書をご購入いただいた方に有料で提供する電子書籍版には収録しようと思います。

◆立岩 真也 2020 『(本・1)』,ちくま新書,筑摩書房

◆立岩 真也 2020/05/11 「新型コロナウィルスの時に『介助する仕事』(仮題)を出す――新書のための連載・1」,『eS』009
◆立岩 真也 2020/05/18 「新書のための連載・2」,『eS』010
◆立岩 真也 2020/05/25 「新書のための連載・3」,『eS』011
◆立岩 真也 2020/06/01 「新書のための連載・4」,『eS』012
◆立岩 真也 2020/06/08 「新書のための連載・5」,『eS』013
◆立岩 真也 2020/06/15 「新書のための連載・6」,『eS』014
◆立岩 真也 2020/06/21 「新書のための連載・7」,『eS』015
◆立岩 真也 2020/06/28 「新書のための連載・8」,『eS』016
◆立岩 真也 2020/07/06 「新書のための連載・9」,『eS』017
◇立岩 真也 2020/07/13 「新書のための連載・10」,『eS』018
◆立岩 真也 2020/07/20 「新書のための連載・11」,『eS』019
◆立岩 真也 2020/07/27 「新書のための連載・12」,『eS』020


 ※以下書きかけ

ボランティアではしんどい
 一方で、暮らすために、食って、寝てのためのお金がいるんだけれども、重度の障害者の場合、それだけじゃ足りない。それが介助です。だから家族が面倒見る、施設に収容するってことも起こっていたわけだ。じゃあ、その介助をどうするかということになりました。70年代の初めです。その頃は、ほんと、なんもなかったに近い、在宅の福祉制度はね。70年代の中盤でいうと、家庭奉仕員っていう制度はあったんですよ。これが今でいうホームヘルパーです。ただ、あるところでも週に2回、1回2時間、だから1週間に4時間とかっていう感じでした。それですむ人はまったくそれでいいんだけれども、そんなことはない人たちが出てきたわけですから、さあどうしようということになった。
 最初は、理念としてという部分と、もうやむを得ずという部分と両方あったんだけれども、ボランティアというか、に頼るというか、使うというか、そういうことになります。その当時の学生たちは暇だったので、大学生ですね、多くの場合は。大学生をだましたり、ってことはないが、いろいろして、ボランティアにして、働いてもらう、手伝ってもらうってことがありました。大学生だけではてくて、勤労者も、主婦の人も、いろんな人いましたけれども、数的にはけっこう学生多かったと思います。
 ちなみに、僕も1960年生まれで、79年に大学に入るんだけれども、そのあたり、80年代の前半ぐらいに、いろんなきっかけというかありました。
 その一つは、僕より四つ上の脳性まひの男が、僕がいた大学の見田宗介先生のゼミにもぐりで来ていてね。その男が世田谷の家から出るって言って。ぼっちゃんだったんだよね、世田谷っていうのは東京じゃいいとこなんですよ。そこ出てアパート暮らしをするっていうのに付き合わされる羽目になり。ほんで、アパート探すの手伝って、それで見つかって。本郷あたりの、僕が住んでた高円寺の下宿よりよっぽどいいマンションでしたけれども、そこ行って住み始めて。数年は介助者みたいなことはやってましたね。飯作ってくれって言うんで、わかったって言って、しばらくやったりしてました。だから、僕もいささかの経験がないわけではないんで、そのときの感じはちょっと覚えています★01
 大変かっていうとね、そんなに大変でもない。もちろん人にもよる。彼は脳性まひで、まあまあ重い、言語障害も重い脳性まひの男性でしたけど、そんなに介助自体は面倒じゃなかった。飯作って…、あと、風呂。何したかな、よく覚えてません。何かしました。働くのは別にしんどいわけではあまりなくて、たいしたことなかった。僕はその頃高円寺の風呂もないアパートに住んでいたんですが、彼のところは風呂ある。介助するついでにというか、むしろメインの目的はそっちだったかもしれません。行って、ただでシャワーを浴びて帰ってくると200円得した、とかね。介助が大変だったっていう記憶は、僕あんまりないです。
 何が大変かというと、そのローテーションを埋めるのがです。彼は1日24時間ではなかったけれども、やっぱり毎日介助がいるんですよ。夜はいらないけど、昼間はいる。そうすると、何十人という人たちのリストから、365日、なんとかスケジュールを埋めなきゃいけないわけです。誰が次来てくれるか、明日来てくれるか、来週来てくれるかっていうローテーションを決めていかなきゃいけない。そうすると、彼は、電話できなくはないんだけれども、言語障害かなり重いんで、電話すると、慣れてる人だったら分かりますけども、特に親元にいる学生とかだと、親が出るから、なんかいかがわしいというか、あやしい電話に間違われてしまったりするわけです。切られちゃったりする。そんなんで、帰ろうって頃になると、「電話かけてくれ」って言われる。お前、電話しろ、て言うんで、代わりに電話させられたんですけど、僕は、昔も今も電話するのきらいで。
 そもそもそういう酔狂な奴そんなにたくさんいない。それから、学生だしね、試験があったりとか、そういうこともあったりする。で、卒業する、就職する。ドタキャンも含めて、予定を埋めるのが大変なんです。結局、人手が足りないっていうことがあり、足りないなかでそういうことをしなきゃいけないっていうしんどさみたいなものは多少経験があります。
 だから個人的な体験でもあるんだけれども、そうやって街に出た人たちが直面したのが、ボランティアでこの生活を回していくってことがいかに大変かっていうことだったんです、まず一つは。「これはやってらんない」と。中で、確かに今日最初に話した安積っていう女性(◇頁)には何かしらそういう魅力があった、ですよ。だからいろんな人が、学生たちが出入(はい)りしてましたけれども。人間ってそんなにアトラクティブな人たちなばかりじゃないわけじゃないですか。あるいは、それを演じるのも疲れるわけですよ。ね。そういうこともあるし、「とにかく街に出て地域で暮らすんだ」って、人も数が増えていく中で、「とってもこれじゃやってけない」っていうのが1個ありました。そういう中で「じゃあどうするんだ?」っつったらやっぱり、「そこはちゃんとお金ってものを使ってやっていくしかないんだよね」っていう、「止むに止まれぬ」っていうか「背に腹はかえられない」っていう部分があります。
 で、ボランティアじゃしんどいよねって。そうやって暮らす人か東京で何人とか、数が数えられるぐらい少ない間はなんなるかもしれないけど、そういう人が100人なり、1000人なりってことになると、これはやってけないなっていう話が1つ出る。で、やってけないから有償でっていう理屈、理屈っていうか、やむを得ぬ事情っていうのもありました。

筋論として、ボランティアでよいか
 だけど、それだけじゃない。ボランティアって、なんか言葉としてもいいけど、ボランティアでやるっていうのはいいのかなっていう話もあったのね。これは、理論的にはまだ決着がついてないテーマかもしれなくて。『差異と平等』っていう本(立岩・堀田[2012]◇)を書いてます。堀田義太郎さんっていう倫理学・哲学をやってる人と一緒に書いた本なんだけど、この本は、堀田さんが、介助っていうのは本来は無償であるべきだっていう主義主張を展開し、いや、僕は、お金払ってもいいんだよ、お金もらってもいいんだよっていう話をしてる。両方が理屈を述べあっている。そういう本です。興味があれば見てください★02
 ごちゃごちゃした議論はそれに譲りますけれども、僕のほうの1つのポイントは、結局ボランティアに働いてもらうってことは、ボランティアだけに働いてもらうってことだよねっていうことなんです。
 ボランティアってみんないいことだと思ってる。いいことなんですよ、それ自体はね。だけど、これあんまり気が付かないと思うんだけど、「ボランティアの人がやって」ってことは、即ち「他の人はさぼっていられる」ってこともあるわけじゃないですか。そうですよね、考えてみたら。つまり、ボランティアでやってるって限りは、ボランティアじゃない人は何もしないですんでるってことだよね、これっていいことなんだろうか、ってときに、違うんじゃないか、つまり、人の生活、生命を、生存っていうものを支える義務っていうものは、すべての人にあって、そういう意味でいうと、ボランティアだけがやるっていうのはボランティアだけが義務果たしてるっていうことになるわけで、ほかの人たちは義務逃れてるってことじゃないのか、それって違うんじゃないかっていう話をしてます。僕はそういう立場なんです。
 そうすると、じゃあどうするか。1つは、全員がこの仕事することです。させるって時点で義務って話になるから、ボランティアじゃなく強制ってことになりますよね。それでよいのか。僕はいいっていう立場なんですけれども、それは異論があるかもしれませんが。とにかく、じゃあ全員がやるってことにしようかって話になります。そうすると、いやいややるやつもやっぱり出てくる。嫌いなやつとか不得意なやつとか、そういうやつも出てくる。それからほかの仕事したいってやつもいる。そうなると、全員がやるっていうのは、理念としてはあるかもしれないけど、現実的には無理だし、あるいは、やってもらう側からしても、こんなやつにやってもらいたくない、みたいなのもあるだろう。
 じゃあどうしようかっていうときの1つの解決法が、こういうことだと思うんです。つまり、家族やめて、施設やめて、暮らそうってときに、家族じゃない、施設じゃない人から介助を得よう。最初、ボランティアやってみたんだけど、やってみたけどしんどかったって話が1つと、それから、そういうしんどい、しんどくない話をいったん置いといて、社会のあり方っていうかな、として、みんなが支えるっていうか、そういうやり方っていうのが正しかろう。ただこれ、全員がやるっていうのもあるけれども、こいつは下手かもしれない。こいつは嫌いかもしれない。嫌いなやつにやらせると、だいたいよくない。じゃあどうするかっていうときに、1つの方法としては、お前はやらなくていい。お前下手だからやんなくていい。お前なんかやりたくないの見え見えだからやらなくていい。でも、金を出せ。金は出せって言って、金は出させる。つまり、税金を出させる。あるいは保険料を出させる。そうやって全員から、全員からっつうか、お金があるやつからはお金いっぱい、お金がちょっとしかないやつからはちょっと、全然ないやつからは取れないからしょうがない。しょうがないっていうか、それでいいということにして、お金を集めて、政府が集めて、それを、じゃあ実際に働く人に払う。これでいいじゃないかっていうのが僕の考えです。異論はあるかもしれません。堀田さんは異論があるんですけれども、私はこれでいいだろうと。
 障害があろうとなかろうと、「あって」でいいや、障害がある人が生きていくっていうことは、当然のことだとしましょう。そうするとそれは「権利だ」ということになります、硬い言葉で言うとね。この前も権利の話をどっか行ってしたら、僕より上の年の人になんか言われましたけど。わりと「権利」って言葉好きじゃない人いますよね。わからんでもない。でも言います、「権利だ」と。あるいは、「義務」って言葉の方が好きな人なら、「義務だ」と言います。同じことです。その権利を実現するのは、人々の義務だってことです。ここまで全然間違ってないですよね。「その義務は誰にあるか?」って言ったら、誰にでもあるわけです。ここも間違ってないですよね。この人に義務あるけれども…、「家族に義務はあるが、他の人に義務はない」って言えるかって言ったら、それは言えないです★03。すると「誰にでもある」っていうのが正解になってきます。
 そういった時に、そこから言えば一番直線的な答は、「みんなが、誰もが、生活を支えることをする」っていうこと。だけど、誰もがそんなことするかっつったらしないわけです。したほうがいいのかもしんないけど、嫌だという人はいる。嫌そうな顔をして介助に来る奴に介助されるとか、へったくそな奴に介助されるとか、そんなのは僕は嫌です。ていうか、「来なくてもいい」と。とすると、どういうやり方があるのかというとですね、ほとんど唯一、やりたい人、「それで生活してもいいよ」って人が介助って仕事をする。それをやりたくない、あるいはやるのが上手じゃない人、下手である人は、介助をする人の生活を支えるって形で義務を果たすっていうのはいい。そのぐらいしか思い付かないですよ。っていうふうに考えると、有償で税金払って、場合によっては保険料払って、そのお金で働く人の生活を支える。その支えることが、間接的っていうか、人々の義務である。そういう仕組みしかないと私は思うんです
 ということで、そういう人たちが増えれば増えるだけ、それにただで応じるっていう酔狂な人間の数ってそんなに増えていくわけじゃないから、だんだんしんどくなってくる。介助者の取り合いっていうか、あったりとか。いろいろあって辛いから逃げてくっていうかやめる人もいる。残った人はほんとは辞めたいんだが、俺がいなくなるとちょっとまずいなと。で、辛いけどやる、けど辛い、けどやる、みたいなことでだんだん辛さが増してく、爆発して逃げてくみたいな、そういうようなことが起こってくわけですよ。さあどうしましょうかっていうことのなかで、こりゃもうやっぱりボランティアだのなんだの言ってる場合じゃないと。やっぱ制度、お金使ってちゃんと仕事でやってもらうっていうふうにせざるをえないよなっていうのが一個と、もう一個はね、この話もなかなか深いんですが、ほんとはボランティアいいんだけど、仕方がないから金を使うっていう、そういう発想が正しいかってことなんですよ。
 でね、ボランティアってなんかもう言葉の定義上いいものだってことになってるでしょう。いいことだとは思うんですよ。だけどちょっと冷静に考えてみると、ボランティアがやっててその人は暮らせるっていうことは、そのボランティアの外側にいる90パーセントか98パーセントか99パーセントの人は、ただでさぼっていられるってことじゃないですか。そうですよね。その人は勝手に自分でやってるんだから、その周りの人たちはなんにもしなくて、いいことしてるからほめてあげよう、時々ほめてあげるぐらいの感じで、それでやってる。それは正しいかって考えてごらんなさいってことですよ。90数パーセントの人はさぼってて、さぼってるぶん、その気持ちがあってやってる人に押し付けてるっていう。それが正しいかって考えると、僕は正しくないと思うんですよね。つまり、ある人が生きていく、生きていくっていうことは権利として認められなきゃいけないといったときに、生きていくことができるっていうことを、社会が、具体的には人が、それが可能になるように義務を負わなきゃいけないってことじゃないですか。だけどそのボランティアだけ勝手にやってればっていうのは、ある人たち、あるいはもっといえば普通だったらこれボランティアじゃなくて家族ですよね、家族がやってて他の人は何もしないっていう。とすれば、ほんとであればそれを支える義務を負うのは全ての人であるべきなのに、この人たちだけにやらせてこっちは楽してるっていうだけの話なんだ。だからそれはやっぱ基本違うと。
 じゃあどうするかったら、みんなやればいいじゃないかっていう話もあると。だけどみんなやるかつったら事実はやらないだろうと。それからなかには人間嫌いで、あるいは人の世話するとか全然そういうのにフィットしない人間っていうのはいるわけですよ。いちゃいけないって道理もないですよ。そういう人はいる。これも良し悪し別としている。そういうやつらに介助なんかさせたら、この人が迷惑ってことになりますよね。そうすると全員がやるっていう話ではなくて、そういうことをやれる人、やりたい人がやる。だけどこの人たちは、どんな義務を、なんの義務も負わなくていいってわけじゃなくて、何するかつったら、この人の暮らしが成り立つように、こういう仕事をして、それでお金が得られるようにするために税金を払うとか、保険料払うとか、そういう義務があるっていうふうに考えれば、基本的には、具体的には、その政府に集まったお金を使って有償のそれを職業とする、アルバイトにせよ専業でもいいんだけれど、そういう仕事をするっていう、そういう形態の方がいいよねっていう、もう一つもあるんです。だから仕方なくボランティアやって、でもボランティアしんどい、大変だ、だからもうお金払わざるを得ないという話と、もっと筋論で考えていったら、むしろ社会のあり方として、それを仕事にして働く人を社会がその人の生活を支えるっていうふうにして支える。そういうことの方が本筋だと私は思うんです。
 っていうふうにして、70年代、「家から出る、施設から出る。だけど人はいない。人がいない中で学生のボランティアで何とかする。何とかするけど、何ともなんない」っていうのが一つ。「何ともなんないからそしてもう一つ、」っていうことと同時に、「何ともなろうがなるまいが、やっぱりボランティアだけに生活を支えさせるっていうのは間違ってる。その義務は誰にでもある。その義務の果たし方として税金払って、その払われた税金で働いて暮らすのを支える。そういう形がよかろう」っていうのが、だんだん定まってきたわけです。


 私は社会学者なんですが、すこしそれふうに考えると、こういうふうにもまとめられます。たいへん大雑把でいい加減ですが、社会がこんな感じで4つの領域に分かれているとしましょう。さてどこで、介助を得て、生きていくか。まずTですが、ここは基本、自分で稼いでその金で自分で買うっていう場所です。だから、お金がないので、ここは使えない。Uの政府がくれるものは施設で、そこはいたくないとしましょう。Vの家族ですが、すくなくとも扶養・介助は家族に頼らないということでした。すると、Wしか残らない。ボランティアというわけです。だから、その人たちが辿ってきた道は必然的んですよね。しかし、そのWもだめ、だとどうなるか。死んでしまうわけです。理屈だけでよいという人は、それで終わり、になってもよいわけですが、生きている人はそれでは困るわけです。さてどうするか、と考える。考えざるをえない。そこは研究している人よりむしろ、仕方なく、まじめに考えることになります。むしろ、比べてちゃんと社会(科)学をしているとも言えます。また、言うだけ言って、やるだけやって、負けたってほんとうは困らない社会運動家とも違う。生きてかなきゃならない★04

           T市場・経済× →  U政治・政府:施設に ×
           V家族 × →    W自発性 →×

 で、考えなおしてみる。そうすると、U政治・政府は使おう、と。すべての人に義務を課すことができるのは政治・法だから、というのがさきに話したことです。そして、義務を果たすための手段として、お金=税金を集めて配分するのもよいとしましょう。ただそうやって強制的に集めている税金の使い方が間違っていると考えることにします。政府のお金を使いつつ、人がそれぞれの場所で暮らすのに使う、そして民間の組織が、そして自分たちが、働いてくれる人に払うということにする。そのようにTの市場〜お金も使う。そしてそれは、自発性・ボランティアを否定することではまったくないです。やった方がよいこと、歓迎されることは、いくらでもあるわけです。またそれは家族を否定することでもないし、放任することでもない。特別に重い義務を課さない、特別扱いしないということです★05

           T市場・経済 ←/+ U政治・政府:街で暮らすに
           V家族 −(○)   W自発性 −(○)

制度を獲得していった
 いろんなものをもらった人たちがいると、さっき言いました。出る、出て暮らす、どうしようかっていう人たちがなにしたか。本人金ないし、実際、金がないから払えない、から政府がってこともあるんだけど、今の話が正しいとすると、正しいんですが、本人払う必要なくて、払える人が払う。で、それを働く人が受け取る。そういう仕組みでよかろうって話になってるわけです。というふうに、僕はその歴史を読むわけですね。
 そういう理屈があったからってわけじゃないんだけれども、こういうこと始まった1970年代から始まって、もう50年の歴史があるわけですけど、そういう歴史のなかで、今日の前半でお話しした今の重度訪問っていう制度につながるような制度がぼつぼつできてきます。で、そのぼつぼつできてきた制度はどういうもんだったかっていうのは、本に書いてあるので今日はもう説明しません。が、いくつかありました。
 生活保護の他人介護加算、その特別基準というのがあります★06。以前京都市役所に甲谷さんに付いて行ったことがあると言いましたけど(□頁)、その時僕は、「そんなことも知らないの」って市の課長さんにちょっと大きな声で言ったんだそうです。忘れていました。この制度は今でも生活保護とっている人にとっては大切なものです。しかしもちろん、生活保護とれない人は使えません。
 そしてに、僕がちょうどそのとき学生として住んでたのが東京だったってのもあるんですけれども、80年代、自治体と交渉したりして、「脳性麻痺者等介護人派遣事業」といった制度が自治体独自のものとして、東京にあったんだけれども★07、そういうものの時間を増やすとか、そういうことをずっとやってきた人たちがいたんです。僕はただの学生・大学院生だったので、そういうのを傍観していたんですが、はたから見ててもようやるわって思ってました。そんなことがありました。
 で、僕が特に親しかったのは、東京の西の方に立川って町があるんですけど、そこに高橋修さん★08って人がいて、彼も早くに、1999年に亡くなって、もう亡くなってから20年経ってしまいましたけど、そういう人たちが立川市の行政とやり合って、それで、ちょっとずつちょっとずつ増やしてきたっていうことがありました。80年代から90年代です。こういう動きが始まってから、10何年、20年近くがたって、全国の一部で24時間、マックス24時間っていう制度ができます(『生の技法第3版』、□頁)★09。そういう現実が一部にもたらされるんです。始まりはそういった運動が盛んに、強力に行われた東京の西部でした。
 それがどのように変遷していったか。略します。ただ簡単に言うと、高齢者のホームヘルプは2002年から始まった介護保険の方に行った。そして、(高齢者でない)障害者のホームヘルプの制度は別建ての制度のまま残った。そして、2002年のあたりなんですが、自治体独自の、長い時間もありというサービスが、国の障害者のホームヘルプの制度のなかに規定され、上限も定められないものとして加わった。その後に、いやその前から、いろいろとすったもんだが起こるんですが、とても大雑把に言うと、そうなりました。となると、自治体に新たに制度を作らせるよりはよいという状況になります★10
 そうした中で、一部の地域しかなかったものを全国に広げようっていう動きが展開していきます。第□章で紹介した「介護保障協議会」がその活動をずっとしてきました★11
 しかし、そういう動きがずっとあったってことを、社会福祉とかに携わってる人たちも、ほとんど知りませんでした。学校で教わってきませんでした。それが悔しくて、僕らは90年に『生の技法』を書いたんです。僕は社会福祉を専攻する人間ではありませんが、この本を書くに当たって、その当時出ていた社会福祉の本の全部に目を通しましたけど、この本に書いてあることって全然出てこないんですよ。それはなんでかっていうのは理由があって、要するにその当時の、家族がまずあって、家族がだめだったら施設へっていう、そういう社会福祉のメインストリームに反旗を翻した人たちだったので、業界的にはどうも扱いにくかったんでしょうね。そういうことがあって知られてない。そういうのが、あとあとが長引いて、今でもあんまり知られてないわけです。
 だけれども、実際には70年代、80年代、90年代、50年のあいだにそういうことが、ひそかにというか、地味地味と、たまに派手に、広がってきたその延長上に、今日前半でお話しした重度訪問っていう制度があるんだと、大ざっぱに捉えてください。


 そのあいだにいろんなことがありました。政府のほうが、そんな、交渉次第で取れるみたいな制度は、そういうゆるゆるの制度は困るということで、介護保険的なものに包み込んでしまおうという動きがずっと続きました。介護保険は、1990年代に高齢化が大変だみたいな話になって、作りましょって話になって、2000年から始まった制度です。で、政府のサイドは、実際にはこっちのほうがお金を節約できるかっていうと、そうでもないと僕は思うんですけれども、でも、なんか行政的にコントロールできる、お金も人もコントロールできる、こういう仕組みのほうがいいんだってずっと思ってるらしくて、それでこうやってできてきた、なんかわけがわかるようなわかんないような、そういう制度をこっちの側に取り込もう、そういう動きが、介護保険の始まった2000年頃からもう始まります。
 でも一方のこっち側、こうやって70年代から制度を作ってきた人たちは、こんなもんに乗っかっちゃったら1日2時間しか使えねえじゃねえか、死ねっていうのか、みたいなことで、こういう、こっち側に引きつけられるのを跳ね返すっていうね。そういう綱引きを、もうかれこれ20年ぐらい、その人たちはやっているわけです。で、今のところ、なんだかんだいって、その2つの制度が併存するっていう状態は続いています。
 ですから、そのうちの1つの方を、今日と明日、講習受けて、いろいろ話聞いて、自分もできるようにしましょう。そういう話になります。ちなみに、一つに合流してよっていう人たちが言ってる話は、ある意味正しいんですよね。つまり、高齢者、基本的にこれは高齢者用の制度ですけれども、高齢者、障害者、別に制度2つあるっていうのが正しい理屈はないっていうわけです。それはそうだよね。高齢者も、たんに年取ってるからサービスが必要なわけじゃなくて、加齢に伴って、いろいろ体動かなくなったりなんかして、それで障害者になるからサービスが必要なわけで。障害があってサービスが必要だっていう意味じゃ同じなんですよ。
 だから一緒でいいじゃないかっていうのは、基本正しいと僕は思う。だけれども、そこからが違って、1本でいいから介護保険でいいって話にはならないですよね、論理的に。でしょ。1本でいい、むしろ、今はマイナーなほうのほうがでいいって言うべきなんです。こっちでっていうのは、自治体と一所懸命交渉して取れたり取れなかったりするっていうのがいいっていうわけじゃなくて、でも、曲がりなりにも、必要な場合については必要なだけ出る場合もある。場合もあるじゃ困るわけで、必ず出るっていうのは正しいわけですけども、そういう今の、こっち側の制度が、より正しくなった制度の側に、こっち側も来るべきなんですよね。ていう話が、ほんとは正しいんだと思ってます。
 すると、そういうのでやっていけるんだろうかという心配が言われます。そのことについては第□章でも言いました。すこし加えます。「一人で」というのがいつもよいとは言えないとは思います。そして人がそばにいるのがよいということではない。だから、「一人に対して一人がいつもいる」というのかなにか素晴らしいことであるなどどはまったく言っていないのです。すると、そういう暮らし方でなくてもよいという場合にはそれでよいということになります。ただ一つ、その時に、集まってすむことが、無益、というより有害な効率化のためになされることはないように、ということです。私がこのところ書いてきたのは、仲間と思える、すくなくともひとつややに住んでもよいという人が、数少なく集まって住むのはわるくという、それ自体はもっともな話が、だんだんと大規模な施設のほうに寄っていってしまったりする、その経緯です。
 ですから、結局、望む人から実現していく。必要なんだと言う人の言うことをもっともと聞く、従うことを基本にするということだと思います。ただその際、その人が大きな声で主張できるとか、有力な人を知っているとか、その人がもっているつてとか力とか、そういうものによって左右されないようにする。そういう意味で、私は、誰でも相談に応じるという人たち・組織のやってきたことを支持します。「俺たちは苦労してきたんだ、なのに楽して取ろうなんて」という気持ちはわからないではありません。しかし、やはり、苦労した先人を称えながらもは楽して使えるのが基本、ということです(□頁)。
 客観的でないというようなことを言う人がいるかもしれません。しかし、そういう議論はもうとっくに終わっています。その人の言うことをそのままうのみにするというのではないけれども(□頁)、その人によっての「よい」を大切にする、それは四肢がどれだけ動かないかという判定とは異なるやり方で受けとるしかないのです。
 そして、なくてすむならなくてもよい、だからいくらでもほしいということにはならない。これは中西正司さん(□頁)が言ってきたことで、私もそう思うので、何度も書いてきました★12。そしてその手前で、上限を決めないでほしいと言ってきたわけですが、実際には上限はあります。つまり、1日は24時間しかないという絶対的な条件は、あります。精神科の薬のように、たくさん処方されて、本人も困る、金もかかるというのとは違うのです。
 そういう方針でやっていく。それでほんとに困るようなことが起こったら、私は起こるとは思わないのですが、その時に考えよう。それでよいと思います。
 一つ前から思っているのは、「ながら」の仕事をどうみるかです。そばにいないとならない、でも同時に、別の仕事もできる、その別の仕事が稼ぎにもなるとした場合に、介助の仕事のほうはどうしよう、たいなことがあると思います。まあ、なあなあでいいじゃないかと思いますけども、家族による介助ってそういう「ながら」の部分があってなされてきたと思うので、いちおう考えておいてもよいかなとも思っています。
 もう一つは、とくにお金で受け取る場合には、たくさんほしいということはあります。ここではさすがにあまり「性善説」を通すわけにもいきません。これまで本人たちが福祉の「食い物にされる」ことを警戒してきたし、それはもっともです。事業所、法人が、不当に儲けるために水増ししたりするのは防ぐ必要がありま。そして、自分たちが事業主にするということは、こんどはその立場に自分こたちが置かれるということにもなります。


 そしてこの数年さらにいくつか動きがあります。
 一つ、今まで入院している人に対して介助者を派遣するというのは難しかったというかできなかったんです。医療と福祉の二重のサービスっていうのはけしからん、みたいな。そういう理屈で、理屈になっていないと私は思いますけれども、そういうので難しかったんですが、ただ、これが関西、兵庫とか京都とかから始まったんですけど、たとえば文字盤を使ってコミュニケーションをする人がいる。そうすると看護師はそれに慣れてなくて、そういうテクニックを持っていないので、皆さんそこの初歩的なところを今日教わるんだと思いますけれども、そうすると入院しても言いたいことが言えないってことになるんですね。それは困ります。ということで、そこらへんから、入院時にそういうことができる人を派遣するっていうのがオッケーになったんです。そういうところが扉になって、コミュニケーション支援だけではなくて入院時に介助者が必要だっていうときに、今日皆さんがこれから勉強して、それで重度訪問のヘルパーになったとすると、そういう仕事もできるようになります★13
 これは小さいことのようですが私はわりあい大きなことだと思っています。昔、「付添婦」という人たちがあって、その人たちにお願いするというのはよくないということで「完全看護」ということになった。しかし「完全」になんかなってないというのが一つですね。そして看護のほうにもっとがんばってもらうというのもありだけれども、別の、自分がいいとうい人についていてもらうというのもよい、その方がよいという場合もあるということです。
 もう一つ。「重度訪問」という言葉が、すこし知られるようになったのが、二〇一九年の参議院議員選挙の時でした。「れいわ新撰組」という不思議な名前の政党から二人の人が当選しましたが、その人たちがこの制度の利用者だった。そしてさらに、国会議員としての仕事・活動に際してこの制度を使おうということになりました。これまで、学校そして職場で(そしてそこにいくための通学・通勤のために)この介助の制度は使えないということになっていました。
 まず学校。まったくおかしなことです。これは、文部科学省・厚生労働省、どっちの管轄でどっちから金を出すかということも絡んでいる。使う側・働く側からみたらどうでもよいともいえます。ただ、文科省は障害学生支援のための予算を大学に、障害学生何人あたりいくらという計算で出すようになった。それで足りれば文句はないとして、しかし、足りないなら、あるいは大学側が用意する仕組みと組み合せて、本人が介助者を使ったらよいのです。大学側の対応がまだ、の場合といった限定付きで、重度訪問がいくらか使えるようになっています★14
 労働の場ではどうか。基本、使えるようにしたよいではないかと思います。さっきの国会議員のことでいえば、議員として選ばれ、仕事をすることになった以上、その仕事に必要なものを提供するのは当たり前、終わり、です。ただ、例えば、ある人が1を生産する、その仕事を介助する仕事として10の仕事がいるといった場はどうでしょう。これは理屈としては、なかなかめんどうなところがあるかもしれません。それだけで本1冊書かないとならないような気がします。こういうことに限らず、労働、そしてそれに対する払い・支援というものをどう考えるのかというのはなかなかやっかいです。別途、書こうと思います★15

国際的にもけっこう行けているかもしれない
 だいたい、福祉の制度って、日本はだめで北欧とかヨーロッパがいいっていう話になってます。かなりの部分、それはその通りなんだろうと思います。ただ、在宅で24時間っていうことがなんとかできてるって意味では、日本も、あるいは日本は、そこそこいけてるかもしれないって、ここ10年ぐらい思ってるんです。ていうのは、私は外国あんまり、あんまりっていうかほとんど行ったことないし、実際のところはよく知らないんだけれども、特にスウェーデンとかデンマークとか、たしかにましなのかな。だけれども、たとえば福祉国家の先駆ということになっているイギリスなんかだと、全然こんな感じじゃないですよ。特に医療とかに関していうと、NIHっていうのがあそこの基本的な制度ですけれども、たとえば、年とって一定以上の年齢になると、サービス使えない、医療使えない。金があれば医療使えるけど、それは自分に金があればってことだから、そのお金がない人はここで終わり、みたいなことに、かなりの地域がなってるっていうことがあります。
 ALS、あるいは筋ジストロフィーも、進行していくと呼吸器つけないと死んじゃう。使えたば生きてられます。70とか、80とかまで、このごろはね。だけど、つけなきゃ2〜3年ぐらいで死んじゃいます、だいたい。それから、筋ジストロフィーの人たち、特にデュシェンヌ型っていう人たちは、昔はだいたい10代とか20歳頃に亡くなってました。それが今40代ぐらいまでなんとかなる、呼吸器で。ただ、ALSは心臓はずっと動いてるんだけども、筋ジストロフィーの特にデュシェンヌ型の人たちは、呼吸は人工呼吸器でなんとかなるんだけれども、心臓を動かす筋肉がだんだん動かなくなっていく。それでも、今は40代の人もけっこういらっしゃいます。それで何が言いたいかっていうと、そうやって生きてる人が、福祉が進んでいると言われている国よりも、多く生きられているということなんです。それはよいことです。そしてそれを可能にしてきたのが、皆さんがこれから研修受けてできるようになる重度訪問、重訪なんです。でも、それでもまだ生きるのを断念する人もいます。もっとこの制度が使いやすくなったらその人たちも生きることができる。その仕事をしてもいいという人も増えてほしいと思います。


※この註はさらに整理・拡張されて以下の本の「電子書籍版」に収録されます。オンラインの状態では、HPの数多くの頁にリンクされます。予約歓迎します。
◇立岩 真也 2020 『(本・1)』,岩波新書
★01 検索したら「もらったものについて・1」(立岩[20071110]◇)に書いてあった。
 「勝又裕司という私より四つ年上の脳性まひの男性が、和光大学を卒業した後、見田宗介(真木悠介)先生のゼミにもぐりで来ていて、彼はその当時世田谷に住んでいたのだが、その家への送りを手伝うというようなことがあった。ちなみに、真木悠介名の著書『現代社会の存立構造』、『気流の鳴る音――交響するコミューン』はいずれも一九七七年の発行となっている。その二年ほど後の見田さん(と呼ばれていた)のゼミに私たちは出ていたことになる。それは、学校の制度外のゼミであったように思う。新入の一年生を含め参加することができた。見田さんのことは大学に入るまでまったく知らなかった。同級生からおもしろいらしいと聞いた。学校の掲示板に、なにか短い文章を出すようあったので、書いて出して入れてもらった。当時はたしか柳田国男の『明治大正史世相篇』などを扱っていたと思う。ものごとを分析するその手際、切れ味のよさに驚いた。見田さんは、だいぶ後のことになるが、『朝日新聞』で論壇時評の欄を担当していた時、本誌『そよ風のように街に出よう』『季刊福祉労働』とをあげて、そのいずれかだったかの発刊何号だか何年だかを讃えたことがあった。そのゼミの先輩には大澤真幸もいて、しかし二年上ですぐに会うことはなく、といった話をしていると先に行けない。勝又は後に一人暮らしをするんだということになって、その住居探しを手伝ったことがある。私が不動産屋まわりについていった日にようやく決まった。その流れで、しばらく、その人の介助をときどきすることがあった。その時はもう私は本郷の文学部の学生になっていて、彼も本郷の近くの西片に住んでいた。ここでも彼はもぐりの学生をしたりしていた。院生になってもすこし介助はしていたかもしれない。私は有償介助を強く支持する立場の人間だが、その仕事では金はもらわなかった。ただ、帰りにそこでシャワーを浴びてくる(銭湯だと金がかかるので)といったいささかの利得はあった。夕飯を作っていっしょに食べたが、材料費を折半ということもしなかったと思う。仕事自体はべつにきつくなかった。ただ、介助者のローテーションを決め、予定表を埋めるために電話をかける仕事をさせられた。これはなかなかつらいものがあった。」(立岩[20071110]) 
★02 『差異と平等』(立岩・堀田[2012]◇)に堀田が書いたのは第T部第3章「ケアと市場」(堀田[2012]◇)、第4章「ケアの有償化論と格差・排除――分配バラダイム・制度主義の意義と限界」(堀田[2012]◇)。「無償/有償」([20120610]◇)、「差異とのつきあい方」([20120610]◇)。
★03 村上潔との共著書『家族性分業論前哨』(立岩・村上[2011]◇)に収録されている「近代家族の境界(立岩[19921000]◇)。近代家族は合意によって形成されるものとされるが、家族に課される義務は合意から生じることはなく、それと別に政治的・法的に規定されている。家族社会学その他がそのことに自覚的でないことが不思議であると「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」(立岩[19921000]◇)で述べた。
★04 前回の原稿に付した長大な註でもそのことを述べている。
 「□嫌いだが別れられないということ
 […]どんなところがおもしろいのか。いくつか言い方があると思う。一つの答は、「社会に反対しながら、社会から得るしかないものがあるから」、というものだ。
 世の中が嫌いだが、そこから離れることもできない。本人にとってはひどく煩わしい迷惑なことだが、はたから見ている分には、とてもおもしろい。そんな人のことを追っかけていくと、この世がどんな世なのか、また、どうしようがあるのかわかるように思う。
 一人である場合。条件がそろえば逃げることはできる。あるいは今のままでやっていける。そしてそれは、本人にとって面倒でないから、よいことだ。まず、蓄えを使って慎ましくやっていくなら、あるいは自給自足でやっていくつもりなら、俗世を離れてやっていけるかもしれない。他方で、自分で稼げるなら、今の社会のままででもやっていける。しかし、障害が(十分に)あると、逃げるにせよ、混じるにせよ、簡単なことではない。
 次に徒党を組むことに関して。この社会が気にいらないとして、そこから離れてそれでやっていけるのであれば、分離主義という道もある。実際、いくつかの社会運動についてはそんな流れもなくはなかった。例えば、男が敵だということに決まれば、女だけで暮らしていくという道はある。文明が敵だということになれば、自然の中で生きていくという手もある。集団内での生産・消費が可能であり、差異が理由とされる抑圧があり、また自らのものを大切にしていきたいと思う場合に、その集団だけで独立し、独自の「国」を作っていくという道筋はありうる。実際にはそこまで行かないにしても「デフ(聾)」の主張にはその方向への傾きがある。
 しかし、「できない」という意味での障害が一定以上である場合、障害者だけで暮らしていくことはできない。支援する人たちが少数であっても、きちんといれば、その範囲でやっていける場合もある。しかし、その中にいる人たちは、その外側にいる人より明らかに疲れる。実際、そんな集団は自壊することがおうおうにしてある。そして広がっていくことが難しい。皆が救われるべきだという「大乗」の立場をとるのであれば、この道は行けないということになる。
 この社会で自分たちは最もわりを食っている、その限りでは、この社会は敵であるのだが、しかし、同時にそこにいる人に手伝わせたりしなければならない。強い批判を向けながら、しかし、そことやっていかなけれはならない。どうやってやっていくのか。すくなくとも「社会科学」をやっている人にとっては、これはおもしろい。そこから受け取れるものがあるはずだと思う。
 そして私の修士論文で詰まってしまったのも、そしてそしてその後続けたかったのも、いろいろと文句を言った後で、話をどこに「落とす」のかということだった。「文句はわかった、で、どうするの?」と言われる。そのことを考えることでもあった。
 幾度も書いてきたことだが、私の、団塊世代などと呼ばれる私の前の世代に対する気持ちは、「よいことを言ったけど、その続きがないじゃないか」というものだ。それは、問題がたしかに難しかったからでもあるのだが、続きを考えなくてもすんだからでもある。つまり、「世の中が変わればよい」とか言っても、言うだけで実際には変わらなくても生きていけたのだ。つまり、就職すればよかったのである。しかしそうはできない人たちは、続きを続けざるをえない。言うだけでなく、実際になにかせざるをえない。ならばそれは、続きを考えようと思う私にも何かをくれるはずだ。
 と、そんなことを思って調査を始めたわけではない。そしてそれからの数年間、調べてまとめるのに手間がかかり、アルバイトも忙しく、私は一九八八年と一九八九年には論文を一つも書けないということにもなった。ただその過程で、その後にもつながるいろいろなものをもらったと思う。」
★05 社会がいくつかに分かれていること、その境界を問うとよいと幾度か述べてきた。余裕があれば、一冊にまとめたいと思っているが、今のところ具体的な目途はたっていない。これまで書いたものとしては「こうもあれることのりくつをいう――境界の規範」(立岩[2005/08/25]◇)等。その第3節が「4つについて」。「1 自発性…」、「2 家族」、「3 市場」、「4 国家」。
★06 『福祉社会事典』「他人介護加算」(立岩[19990515]◇)に以下(全文)。
 「生活保護の生活扶助の加算の一つに介護加算があるが、その中に家族介護加算と別に他人介護加算がある。家族外の介助により生活する場合、介助者に支払われる費用として支給される。自立生活を始めた人達の要求運動によって、厚生大臣が承認した場合、1975年度から例外的に特別基準での支給が行なわれるようになり、これが介助を得て暮らしていく上での有力な手段となった。さらに1991年度から、原爆者特別措置法の介護手当を引き上げたのに合わせ、支給額が改善されるともに知事の承認による特別基準が新設された。1998年度の月額は7万1400円、特別基準では知事承認10万7100円、厚生大臣承認の上限(地域により異なる)が月額18万4100円である。」([立岩[19990515]])
 1992年から1996年にかけて『季刊福祉労働』で全15回「自立生活運動の現在」の連載をした。その第6回が「生活保護他人介護加算」(立岩[19930925]◇)。連載の一覧は以下。全文を読むことができる。
◇―――― 19920625 「発足二年目の自立生活センター・立川――自立生活運動の現在・1」,『季刊福祉労働』55:150-155
◇―――― 19920925 「自立生活プログラム――自立生活運動の現在・2」,『季刊福祉労働』56:154-159
◇―――― 19921225 「東京都地域福祉振興基金による助成事業――自立生活運動の現在・3」,『季刊福祉労働』57:130-135
◇―――― 19930325 「全国自立生活センター協議会(JIL)――自立生活運動の現在・4」,『季刊福祉労働』58
◇―――― 19930625 「東京都重度脳性麻痺者等介護人派遣事業――自立生活運動の現在・5」,『季刊福祉労働』59:130-135
◇―――― 19930925 「生活保護他人介護加算――自立生活運動の現在・6」,『季刊福祉労働』60
◇―――― 199312 「障害者総合情報ネットワーク・他――自立生活運動の現在・7」,『季刊福祉労働』61:153-158
◇―――― 19940325 「当事者組織にお金は渡るか→地域福祉振興基金・他――自立生活運動の現在・8」,『季刊福祉労働』62:153-158
◇―――― 19940625 「社会的支援システムの変更――自立生活運動の現在・9」,『季刊福祉労働』63:100-105
◇―――― 19940925 「ホームヘルプ事業はもっと使える――自立生活運動の現在・10」,『季刊福祉労働』64:144-151
◇―――― 19941225 「第六回自立生活問題研究全国集会・他――自立生活運動の現在・11」,『季刊福祉労働』65:146-151
◇―――― 19950325 「大阪市立自立生活センター?「ピア大阪」――自立生活運動の現在・12」,『季刊福祉労働』66:145-150
◇―――― 19950925 「NPOがやっていること、やれること――自立生活運動の現在・13」,『季刊福祉労働』68:146-151
◇―――― 19951225 「「公的介護保険」をどうするか――自立生活運動の現在・14」,『季刊福祉労働』69:155-162
◇―――― 19960325 「NPO法+人を雇う→おもしろいことをやる――自立生活運動の現在・最終回」,『季刊福祉労働』70:155-162
★07 上記の連載の第5回が「東京都重度脳性麻痺者等介護人派遣事業――自立生活運動の現在・5」(立岩[19930625]◇)
★08 高橋修たちが始めた「自立生活センター・立川」についての記事が連載の初回になった。「発足二年目の自立生活センター・立川――自立生活運動の現在・1」([19920625]◇)。
★09 1995年、『生の技法』の増補改訂版に新たに加えた章「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」(立岩[19950515]◇)に以下を記した。
 「いくつかの制度があり、それらは多くの場合併用されている。併用によって、立川市・田無市・東久留米市(九三年度から)、日野市・練馬区(九四年度から)の五つの区市で毎日二四時間まで有償の介助を得られる。二十年来の目標が一部で一応果たされたことになる★25。地域間格差は確かに大きい。だがそれでも[…]」(立岩[1995051:391])
★10 推移について、『生の技法』初版の「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」(立岩[19901025])、第2版(増補改訂版)に新たに加えた章「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」(立岩[19950515]◇)、第3版に加えた「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」(立岩[20121225]◇)をつなげて読んでいくとだいたいのところがわかる。
★11 この「協議会」は運動をけん引した新田勲(□頁)たちの「全国公的介護要求者組合」から分かれて設立された。その経緯について、またこのことをどう見るかについて、「組合」の中心で活動し、そこから別れて設立された「協議会」の側に着いた高橋修について書いた文章「高橋修 一九四八〜一九九九」([20200110]◇)に記した。
 「九一年八月から副委員長を務めていた公的介護保障要求者組合の方は、九五年九月に委員長に就任する。しかし、九七年九月に辞任する。この時、「組合」から別れ「協議会」(全国障害者介護保障協議会)が発足する。高橋たちは以後この「協議会」で活動を続けていく。私は以前の稿([200105])ではこのことにふれているが、検討していない。しかし気にはなっていた。そのことについて考えて述べる。まずその前に、私はずっと基本的に「協議会」の側についてきたことは公平のために言っておく――ちなみにこんど国会議員になった木村英子は、新田たちの後、「組合」の委員長を務めた。
 私はその頃にも高橋との関わりがあり、その年のちょうどその頃八月末から九月の初めには一行が英国に行くのに付いていったりもした(後述)。ただ分裂について高橋から聞いたことはないように思う。決定的な分裂は英国行きの後だったのかもしれない。聞けばよかったのかもしれないが、聞かなかった。それから二〇年が経った。どのように考えるか。」(立岩[426])
★12 このことを書いた文章は第6回の註19で紹介した。それ以外には「楽観してよいはずだ」(立岩[20081001]◇)の6「「過大申告」と基準について」。「「最低限度」「人並み」は自明ではない」「上限はおのずと決まってくる」「それでも基準が必要ならば…」。
★13 私たちのサイトに「重度訪問介護の入院中の利用」の頁がある。
★14 木村英子については第5回註12、舩後靖彦については第5回註13。2019年10月10日に2人の主催で「介助をつけての社会参加を実現するための院内集会――障害者の完全参加と平等にむけて」を開催→その案内(PDF)
★15 障害者と/の労働について『希望について』(立岩[20060710]◇)に収録されている「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」でいくらかのことを述べた。『日本労働研究雑誌』の特集の巻頭言に「この問いはかなりきっちり考えて複数の答しか出ない」(立岩[20140425]◇)。以下が全文
 「「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」という文章を書いたことがあり、拙著『希望について』(青土社、2006)に収録されている(もとは2001年の『季刊社会保障研究』に掲載)。基本的なことはそこに書いたつもりでいる。また私が関わって立命館大学生存学研究センターのHP(「生存学」で検索→http://www.arsvi.com/)にも――このごろこのテーマを専ら研究している大学院生がいないといったことがあり増補更新が滞っているのだが、少なくともしばらく前までの――そこそこの情報がある。そちらもご覧いただければ(さきのHP「内」を「障害者と労働」等で検索)。
 ここではごく基本的なことを。一番単純には、「障害」に対応する英語は disability であり、労働は ability を要する行ないであり、ability がなければ仕事にはつけない、収入も得られない、終わり、となりそうだ。そして私自身は、そこからものを考えてきたところがある。働けないものは働けない、は事実として、ゆえに得られないのはおかしい。では、というようなことである(『私的所有論』、現在は第2版・文庫版、2013)。
 しかしもちろん、第一に、あることができなくても他のことができることがある。第二に、できる/できないは1か0かといったものではなく、所謂「障害者」と名指されなくても、多くの人はある程度はできある程度はできない。これらをどう考えるかが、前段に述べたことと別の、あるいは述べたことを考えた上での主題になる。そしてそこには、働くことの(本人にとっての)意義、社会的に必要とされている労働の量といったものをどう見積もるかという論点が加わる。すくなくともこれらを考慮しないなら、この主題を十分に論ずることはできない。このことは明らかだと思う。そして私の見立てを乱暴に言えば、まず、労働〜生産はおおむね足りているので、無理して労働(できるように)してもらうには及ばない。しかし次に、本人が働きたいという気持ちは(その方が、まともな制度下においては、所得保障だけを使うよりいくらか収入が増えるからという動機を含めて)尊重されてよい。私の場合、このぐらいを前提にして、考えていくことになる。
 そうして考え、現実を見ていったとき、いくつかのことが言えるようになるのだが、間を飛ばして一つ、幾度か述べてきことを。ここのところ(というかだいぶ長いこと)よしとされるのはADA(米国障害者法)的な方向である。つまりある「職務に伴う本質的な機能」についてできる/できない選別することは許容するが、それ以外についてできる/できないによって選別してはならず、「それ以外のできないこと」については「合理的配慮」が求められるとするという仕組みである。
 これはわるくはない。すくなくともいくらかの場合にはこんな方向しか思いつかない。ただ、知られている人には知られているように、例えば米国でこの法律は(その予め限定された可能性の範囲内においても)うまく機能していない。雇用主の側は「配慮」するのは面倒で、そして雇用しないはその「それ以外」ではなく「本質的な機能」によると言い逃れられた場合にそれに反証するのが難しいからである。ではどうするか。すぐに思いつくように「配慮」に関わる負担を雇用主以外にも求めるなら、雇用主も姑息なことをせずにすむようになるだろうというのが一つ。だとして、どの程度までの負担が当然とされるか。そしてこれと、この方法以外の方法は、比べてどこがよくどこがよくないのか。ここで私たちは必ずしも「割り当て」をより古びたものと決めつける必要もない。思い返せば「機会の平等」の限界という認識から「アファーマティ分・アクション」も出てきたところがある。しかし「割り当て」で採用された人は引け目を感じるかもしれない。それをどう考えるか。こうして考えるべきことは続いていく。」
 こうしてまだ考えるべきことがたくさんある。「障害者・と・労働 メモ」(立岩[20200424]◇)でいくらか考え始めた。

文献(38)
※この文献表はさらに整理・拡張されて以下の本の「電子書籍版」に収録されます。オンラインの状態では、HPの数多くの頁にリンクされます。予約歓迎します。
◇立岩 真也 2020 『(本・1)』,岩波新書

◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 19901025 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店,320p.
◆―――― 19950515 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』,藤原書店,366p.
◆上野 千鶴子・中西 正司 編 2008 『ニーズ中心の福祉社会へ――当事者主権の次世代福祉戦略』,医学書院,296p.
川口 有美子・小長谷 百絵 編 2009 『在宅人工呼吸器ポケットマニュアル――暮らしと支援の実際』, 医歯薬出版
◇―――― 2016 『在宅人工呼吸器ケア実践ガイド――ALS生活支援のための技術・制度・倫理』,医歯薬出版,168p.
◆盛山 和夫・土場 学・野宮 大志郎・織田 輝哉 編 20050825 『〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法(上)――理論知の現在』,勁草書房,201p.
◆立岩 真也 19921000 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44→立岩・村上[2011:185-214]
◆―――― 19920625 「発足二年目の自立生活センター・立川――自立生活運動の現在・1」,『季刊福祉労働』55:150-155
◆―――― 19920925 「自立生活プログラム――自立生活運動の現在・2」,『季刊福祉労働』56:154-159
◆―――― 19921225 「東京都地域福祉振興基金による助成事業――自立生活運動の現在・3」,『季刊福祉労働』57:130-135
◆―――― 19930325 「全国自立生活センター協議会(JIL)――自立生活運動の現在・4」,『季刊福祉労働』58
◆―――― 19930625 「東京都重度脳性麻痺者等介護人派遣事業――自立生活運動の現在・5」,『季刊福祉労働』59:130-135
◆―――― 19930925 「生活保護他人介護加算――自立生活運動の現在・6」,『季刊福祉労働』60
◆―――― 199312 「障害者総合情報ネットワーク・他――自立生活運動の現在・7」,『季刊福祉労働』61:153-158
◆―――― 19940325 「当事者組織にお金は渡るか→地域福祉振興基金・他――自立生活運動の現在・8」,『季刊福祉労働』62:153-158
◆―――― 19940625 「社会的支援システムの変更――自立生活運動の現在・9」,『季刊福祉労働』63:100-105
◆―――― 19940925 「ホームヘルプ事業はもっと使える――自立生活運動の現在・10」,『季刊福祉労働』64:144-151
◆―――― 19941225 「第六回自立生活問題研究全国集会・他――自立生活運動の現在・11」,『季刊福祉労働』65:146-151
◆―――― 19950325 「大阪市立自立生活センター?「ピア大阪」――自立生活運動の現在・12」,『季刊福祉労働』66:145-150
◆―――― 19950515 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」,安積他[1995:227-265→2012:354-413]
◆―――― 19950925 「NPOがやっていること、やれること――自立生活運動の現在・13」,『季刊福祉労働』68:146-151
◆―――― 19951225 「「公的介護保険」をどうするか――自立生活運動の現在・14」,『季刊福祉労働』69:155-162
◆―――― 19960325 「NPO法+人を雇う→おもしろいことをやる――自立生活運動の現在・最終回」,『季刊福祉労働』70:155-162
◆―――― 19990515 「他人介護加算」『福祉社会事典』,弘文堂
◆―――― 20011225 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」,『季刊社会保障研究』37-3:208-217→立岩[2006:171-191]
◆―――― 20050825 「こうもあれることのりくつをいう――境界の規範」,盛山他編[2005]
◆―――― 20060710 『希望について』,青土社,320p.
◆―――― 20071110 「もらったものについて・1」,『そよ風のように街に出よう』75:32-36
◆―――― 20081001 「楽観してよいはずだ」上野・中西編[2008:220-242]
◇―――― 20090810 「人工呼吸器の決定?」,川口・小長谷編[2009:153-166]
◇―――― 20121225 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p.
◆―――― 20120610 「無償/有償」,
立岩・堀田[2012:15-93]
◆―――― 20120610 「差異とのつきあい方」,立岩・堀田[2012:95-173]
◇―――― 20121225 「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」,安積他[2012:499-548]
◆―――― 20121225 「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」,安積他[2012:549-603]
◆―――― 20140425 「この問いはかなりきっちり考えて複数の答しか出ない」(巻頭言),『日本労働研究雑誌』646(2014-5):3
◇―――― 20160625 「人工呼吸器の決定?」,川口・小長谷編[2016:151-161]
◆―――― 20200110 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 第2版』,青土社,536p.
◆―――― 20200110 「高橋修 一九四八〜一九九九」,立岩[20191224:381-471]
◆―――― 20200424 「障害者・と・労働 メモ」,「公共論史」講義のための資料
◆立岩 真也・堀田 義太郎 2012 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社
◆立岩 真也・村上 潔 2011 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p.
◆堀田 義太郎 2012 「ケアと市場」,立岩・堀田[2012:175-205]
◆―――― 2012 「ケアの有償化論と格差・排除――分配バラダイム・制度主義の意義と限界」,立岩・堀田[2012:207-252]


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