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少し遡って路を確かめる・1

新書のための連載・9

立岩 真也 2020 『eS』
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 この文章は今年夏にはちくま新書の一冊として出したいと思っているの一部の部分として準備中のものです。
 ここにおいた註と文献表は、新書では大幅に減らされます。紙の新書をご購入いただいた方に有料で提供する電子書籍版には収録しようと思います。

◆立岩 真也 2020 『(本・1)』,ちくま新書,筑摩書房

◆立岩 真也 2020/05/11 「新型コロナウィルスの時に『介助する仕事』(仮題)を出す――新書のための連載・1」,『eS』009
◆立岩 真也 2020/05/18 「新書のための連載・2」,『eS』010
◆立岩 真也 2020/05/25 「新書のための連載・3」,『eS』011
◆立岩 真也 2020/06/01 「新書のための連載・4」,『eS』012
◆立岩 真也 2020/06/08 「新書のための連載・5」,『eS』013
◆立岩 真也 2020/06/15 「新書のための連載・6」,『eS』014
◆立岩 真也 2020/06/21 「新書のための連載・7」,『eS』015
◆立岩 真也 2020/06/28 「新書のための連載・8」,『eS』016
◇立岩 真也 2020/07/06 「新書のための連載・9」,『eS』017
◆立岩 真也 2020/07/13 「新書のための連載・10」,『eS』018
◆立岩 真也 2020/07/20 「新書のための連載・11」,『eS』019
◆立岩 真也 2020/07/27 「新書のための連載・12」,『eS』020


 ※以下書きかけ

『生の技法』もう一度、安積遊歩
 後半は、制度や仕組みが、必要とされ、獲得されてきた、その歴史の話をすこしします。
 それで、この『生の技法』を皆さんに持っといてもらいたいのです。今日は使いません。けれども、今日使わないからわざわざ買ってもらったっていうところもあるのね。長い本で、けっこう厚い本ですし、難しくなっているところもありますので、端から端まで全部読めとは言いません。けれどもこの値段だったら買ってもいい本かなと僕は思っています。で、その本の後半のほうは僕が書いてるんですが、今日、大雑把に話すことの細かい話は第7章、「早く、ゆっくり」っていう章以降にあるんで、詳しくはそれを見てください。それから、そこに関係する人とか、項目とか本とかの情報に、「生の技法」で検索すると出てくるホームページからリンクされてますから、それを見てください★01
 で、もう1つ、読みやすくてわかりやすくて、いいなと私はいつも思ってるんですが、この本の第1章を、家帰って読んでください。せっかく今日手渡されたものなんで。安積遊歩っていう、この本では戸籍名の純子になってますけれども、ていう人がしゃべってる。彼女は自分の本も幾つも書いていて、文章書ける人なんですけれども★02、しゃべるともっとおもしろいんで、話してもらってます。福島弁で英語話したりします。福島の、郡山の人なんです。福島から出てきて、東京に暮らしてて、震災起こったときに原発嫌だからつってしばらくオーストラリアにいて、また東京に帰ってきたらしいんですけど、僕より4つ上の人で、安積(あさか)さんっていうんです。彼女はエコロジストで、僕はそうでもないので、そこらへんはちょっと趣味は違って、食い物が違ったりするんですが、ま、それはちょっと置いといて。彼女は4つ上だって言いました。僕はちなみに1960年生まれで、彼女1956年生まれです。
 ていう感じの人なんですが、骨形成不全っていう障害があります★03。骨形成不全っていうのは、簡単に言うとカルシウムが骨にならないって言ったらいいかな、そういうことらしいです。そういうわけで骨が弱い、脆い、育たない。だから身長も低くって、107センチとか109センチとかそんな感じの、だから可愛いっちゃ可愛いんだけれども、そういう感じの障害です。ちなみにこの障害は遺伝する障害で、彼女の娘さん、名前、宇宙って書いて「うみ」って読むんです。滅茶苦茶ですよね。ただ、こんなことしゃべってると1時間経ってしまいますけど、日本人の名前ってどう読んでもかまわないんだそうですね。だから、宇宙を「うみ」と読んでいいらしいんですけど、法律的には。で、彼女の娘さんも骨形成不全で、二人は共著の本も書いています★04
 その遊歩さんのほうがわが半生、これは1990年に出た本で、それまでの34年分を語っています。それからまだ30年とか生きてるわけですけど、ちょうどそのあたりのときに自分のそれまでの人生を語ってて、私は聞いたんです。それを整理してわかりやすいように並べて書いてます。めちゃ読みやすいです。で、これから私がお話したいことの気分ていうものが、けっこうストレートに伝わる章になってると思うんで、そこんとこだけでも読んでください。ていうんで、この本をお渡ししました。
 これから皆さんが障害を持っている人たちの生活に貢献してくれるとして、そういう人たちに助けてもらってというか、介助・介護してもらって、てことはつまり、親兄弟、家族に介助をさせるんじゃなくて、負担をかけるんじゃなくて、あるいは少なくともほかの人たちよりも大きな負担をかけるんじゃなくて、そして好きなところで、その好きなとこってのは新しく暮らしたいとこかもしんないし、今まで暮らしたとこかもしれないんだけれども、そういうところで暮らしたい、つきましては皆さんよろしくっていう、そういう動きっていうのが、どういう形で出てきたのかって、それに伴ってさっき1時間説明した制度っていうのをどういう形で出てきたか。詳しくはこの本、それから、そういう社会運動というんかな、そういうものに関わった人たちとが対談したり、インタビューしたり、その人たちのことについて書いた本がいくつもありますんで、おたくになりたければ、詳しくなりたければ、そういうものを読んでいただきたいと思います★05。今日は、その最初のところだけ、ごく短く話します。

1970年
 話はだいたい1970年ぐらいに始まります。こういうおおざっば話は半分嘘なんですね。ほんとかよっていったら、ほんとじゃないかもしれないんだけれど、でも話っていうのは、どっかを省略して、どっかを際立たせてしゃべるしかないというところもあるんで、今日は1970年から始まったんだということにします。だから、今から50年前ぐらいのことですけれども、この年、1968年、69年、世界中でいろいろあった年です。この部屋ばっと見ると、そのとき生まれていた人、そんなたくさんいないかなという感じですけれども、僕はちゃんと生まれてましたよ。10歳でした。よく覚えてないですね。だけどいろんなことがあった年です。世界的には、ベトナム戦争まだやってて、その数年後に戦争終わるわけですが、ベトナム戦争やめろって反戦運動が世界中で起こってた時期でもあります★06
 その反戦運動はじめ、日本でもアメリカでもイギリスでもフランスでもドイツでも、学生たち、主に若い人たちがいろんなことに文句言って騒いでいた時期でした。それから、日本では公害の問題。水俣病とか、前からあったんですよ。昔からあったものが表に出てきてという時代でもあります。世の中に文句を言おうぜみたいなね。文句あるんだったら言おうぜみたいな、そういう時代の到来っていうのと、これからお話しする話は、関係あると思っています。当事は学校行ってない人多かったですし、当事の社会運動・学生運動と障害者運動は直結しないんですが、気持ち的なところで励まされってことをすぐ後に出てくる横田弘さんなんかも言ってます★07。そしてその運動が勢いを失っていく時期には、関わったりその後離れたりした人たちが障害者の運動の、そして介助者として、支援者として入っていきます★08
 1970年に僕は10歳でした。田舎に住まうぼーっとした少年だったので、ほぼ何も覚えてないですけど。ベトナムでは戦争がたけなわで、ベトナム戦争アメリカがじゃんじゃんやってて、沖縄など、米軍がベトナム行って爆弾落としてくるみたいなのの前線基地になったりってそういう時期でもある。ちょっと覚えてるのは、日本で、水俣病とか、そういうことが大きな社会問題になり、こんなに頑張って日本やってきて、確かに復興したんだろうけれども、でもなんか自然は汚くなっちゃったし、その害に苦しむ人がいるし、みたいなことで、こんなんでよかったのかなみたいな、そういう気分が一定あった時期でもあります。
 今まで頑張って働いて、もっと働いてっていう路線でやってきたのが、なんかそういうことだけじゃだめなんじゃないかなとかね。できないっていうことだってあるわけだし。それはそれでいいとか悪いとかじゃなくて、もう事実そういうことあるんだから、それをどうやってうまい具合に、そのうえで生きていくかっていうことだよねっていうことを、わりとリアルに考えだした時期でもあると思うんですよね★09
 これからお話しするのは、一つには、障害児の親が障害児を殺したという話です。一つは、施設に収容された人たちが施設から出たいといった話です。障害児、障害者は、70年に初めて殺されたわけじゃないです。それから施設も、日本の場合はわりと施設の整備自体が遅れたので、70年ぐらいから花盛りになってくるんだけれども、それ以前からなくはありません。ですから、この70年という年は、文句を言うっていうことが始まった年という感じですね。

始まり1・「母よ!殺すな」
 その1970年、『生の技法』の第7章に書いてあるんですが、横浜で2歳になる脳性麻痺の女の子が母親に殺された。そういうことはときどきあります。そして、その女の子を殺した母親にも事情があって殺したくて殺したわけじゃないわけだから、刑を軽くしてくれという運動があったんです。これも今でもあります。だけどそれおかしいんじゃないか、って言っちゃった人たちがいるんです。実はそれまでそういうことってあまり言われなかった。
 「青い芝の会」っていう脳性まひの人たちの小さい組織があって、そこの神奈川の人たちがそのことを言いました。最初はたった数人の人たちが、ほかの人が殺されたときより俺たちが殺されたときに刑は軽くなるってのはどういうことだと、言い始めた。言われてみると、ああそうか、障害者じゃない子ども殺したら、鬼母みたいなことが言われる、だけれども障害者殺すとなんかかわいそうみたいな、俺たちはそういう存在か、みたいな、変だろうそれは、って。おんなじ子殺しだろう、一方は同情し、一方は非難するって変だろって言われてみればほんとに変なんですよ。だけれども、それまで変だって思われてなかったことに対して、やっぱそれはおかしいと。そんな減刑嘆願運動みたいなことするのはおかしい。ていうようなことを言った人たちが1970年。つまり世の中でいい、正しい、こんなもんだって思われてたことが、そうでもないかもしれないみたいな、世の中の流れみたいなものも受けて、「俺たちも言うぞ」、そういうことが始まる★10
 これは、その含意というか意味を考えていくと、障害児、障害者は親とセットで当たり前みたいなね。親は基本的には、共感し、同情し、世話し、その責任を全部引き受けるみたいな。それで、それが当たり前で、だから親に押しつけてるんで、そのぶん社会は楽してるとか、さぼってる。そこで、親が殺すと親に多少同情する。そういうもとで自分は障害者を生きていく、時々殺される。そういうのっておかしいと。
 そういう家族にもたれかからざるをえないっていうか、そういう家族と障害者との関係っておかしいと思いだした。その事件のきっかけが70年の事件だったんですよね。
 それはやがて、親っていうものと子どもとの関係、あるいはその家族と障害者との関係っていうのをどういうふうに組み立てて、組み立て直していくのかという話につながっていきます。
 俺は、殺されたくはないけど、殺されないあるいは乱暴されない限り、別に親は嫌いじゃない。親と仲良くもしたいと。だけど、その、家族関係が保たれるということと一生親の家族の面倒をみて暮らすというのは、話が別だろうと。家族があるということと、家族に世話されるということは違うだろうと。家族と離れて、あるいは、家族と一緒に暮して、どっちでもいいんだけれども、どっちでもの生活を維持する、やっていくためには、家族に負担をかけないで俺たちは暮していくんだと。そうして、家族から出て、自分の生活を新たに始めるという場合もあるわね。
 それは、普通そうなわけじゃないですか。学校に入る、就職をする、結婚をする。そういう節目、節目で、たまたま親と別れて暮していくということもあるだろうし、あるいは、そういったことの後で、また親と暮し始めることもあるだろうし。いずれにしても、介護・介助という意味では、親と距離をとって暮していく。それって、普通に当たり前のことなんだし、その当たり前のことを実現していこうと。そのことによってかえって、家族なら家族という関係を別様に組み立てることもできる。そういう話になってくるんですね。
 家族は家族で大切かもしれないけど、あなたほんとにその家族が大切だと思うんだったら、親を、子どもを、それから配偶者を大切にしたいんであれば、家族だけが世話するっていうことの方がおかしいでしょう。そういうことですよ。むしろその子どもの家族の責任っていうものを軽くしてあげる、そっちの方が正しいでしょう。「脱家族」というふうに、この本では僕らは言ってますけれども、それは別に家族と仲悪くなれとか、あらゆる人が家族と離れて暮すべきだとか、家族をなくせとか、別にそんなことを言いたいわけじゃなくて、いや、別れて暮しても全然いいんだけれども、別れて暮すにせよ、暮さないにせよ、生活を維持していく。それは介助だけではなくて、所得保障の部分も含めて家族とは別に暮していくというのが、これは当たり前じゃないかと。そういうふうにやっていこうよという、そういうことが1つ始まります。

はやく・ゆっくり
 これは最初の最初の話、なれそめの紹介でしかなく、制度や仕組みが、輝かしいしかし困難に満ちた、その歴史の中でいかに勝ち取られてきたのかっていう話が本当は本筋なんです。その話は僕はけっこう得意で、しかしここではさぼります。
 もっとちゃんと知りたい、ってことであれば、『生の技法』の第7章、30年前に書いた章、その後書き足していった章、その他たくさん、を読んでもらうのがよいです★11。それで本の第7章〜第11章、自分で読んでみたら、やっぱり確かにややこしいなって思いました。難しいって言われるのも無理はないかなって、すこし、思いました。けど、と同時に、でもいいじゃん、ちゃんと書いてるじゃん、とも思いました。現実はややこしいので、それをがんばって整理してもある程度はややこしいです。それはしょうがない。ので、ちゃんと知りたい人はそっちを読んでください。
 ちなみに第7章の副題は「自立生活運動の生成と展開」です。「はやく・ゆっくり」っていうのが本題なんです。その「はやく・ゆっくり」っていうのは、ある人の遺言です。たまに、たまにサインを求められることがあり、下手な自分の名前だけ書くんですが、「何かもう一言書いてください」っていう時に、しょうがないから書くのが「はやく・ゆっくり」ていう言葉です。これはですね、この話だけしてお茶を濁しましょう。
 これに関わったのは、神奈川を中心とする「青い芝の会」の人たちでした。僕はそこにいた横塚晃一というおじさんが、生前1回も会ったことないですが、ちょっとフェイバリットです。NHKオンデマンドで「映像の世紀」とか見てたら、チェ・ゲバラが出てきて、やっぱりゲバラかっこいいなとか思ったんですけど、ゲバラがかっこいいなというのは普通じゃないですか。非暴力系だとガンジーとかね。それも普通です。僕は、そういう普通の人は、それはお任せして、私は横塚晃一だということにしてるんです★12
 この人は、1935年生まれですけど、1978年にもう死んじゃった。ここにいる多くの人は生まれてない。僕は大学入学ということで東京に来たの79年だったから、その1年前です。78年、43歳です。若いです。CP、脳性まひで人は死にません。胃がんで死んじゃったんだよ。胃がんではこのごろ人死なないんだけれども、生活保護の医療がよくなかったんだていう話はたぶん本当だと思います。
 で、その人が死んだ時に仲間に残した言葉っていうのが、「はやく・ゆっくり」っていう言葉だったと言われていて。あまりにできすぎているので嘘かと思うほどですけれども、たぶん本当だと思います。
 なんだろな、けっこう深い言葉だと僕は思ってるわけで。うーん。まあ人生短いしね。それからいろいろ必要なものはいっぱいあって、それを要求したり、役所に行ったり、何やかんやして、仲間を集めて何やかんやするっていうのは、そうゆっくりやってたら死んじゃうってこと。「だから、はやくやんなきゃいけない。はやくやろう」っていう、そういうことと。でも本当は、その「はやくしなきゃいけない」ってことは、ゆっくりとまったりと生きてくために、しょうがなくはやくっていうことなんだよね、っていう意味もあるだろうし、いろんな意味が込められてる、込められてるように読める、そういう言葉だと僕は思ってます★13
 そういうこと言って死んじゃった横塚っていう人がいて。その人が書いたのが『母よ!殺すな』っていう本です。ずばりの題です。この本、長く品切れで入手できなかったんですが、復刊されてまして、その解説を僕が書いてます。よろしかったら見てください。いい本です★14
 それから、1933年と横塚さんよりも早くに生まれたけれども、比べてだいぶ長生きした、2013年に80で亡くなった横田弘さんっておじいさんがいました。僕は、彼とは3回話すことができて、その人との対談集とかも出たりしています★15。さっき紹介した安積さんという人もいっときは福島の方の青い芝の会の人たちと関わりがあった、というか、その人たちとの接触によって人生が変わっていくわけです。安積さんの章にも福島の青い芝の人たちが出てくるし、ほんの少しですけど横塚・横田といった人たちも出てきます★16。その福島の話がおもしろくって、福島の人たちのことを調べ足して、本にしようとずっと思っていて、思ってから20年ぐらい経った2019年に、青木千帆子・瀬山紀子・立岩 真也・田中恵美子・土屋葉と私の5人でようやく『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木他[2019]◇)を出してもらいました★17
 最初はたった数人の、そしてすこしも前向きな感じのしない、重くて暗い提起が広がっていった。それはどうしてか。私自身はそんなに強調することはないと思っているのですが、『さようならCP』という映画の上映会が各地であったりしました★18。どんなことがあったか。マニアになりたい人はどうぞ。マニアになりたくなくてもけっこうおもしろいと思います。

はじまり2・府中療育センター
 施設が問題にされだすのもそれと同じ年です。その1970年っていうのは「どんどん物建てるのがいいことだ」っていう時期ですよ。まだね。「立派な施設、大きい施設を建てて、そこに収容して、そしたらいいじゃないか」っていう、そういうのが60年代から70年代に出てくるわけです。「いいことしてる」と他人たちも思うし、本人たちもそういう善意というか、そういう「お金もかけてもらって、そうやって施設の中で暮らせるようになったんだから、いいことだと思わなきゃ」っていうようなことに、60年代から70年代はなっている。
 しかしその時に、「いや。そう言われて施設で暮らし始めたけど、いいことないよ」っていう人たちが出てくる。東京に府中療育センターというのがありました、今でもあります。知的にも身体にも重い障害がある人もいる。そういう人たちのためのつもりだったんですが実際には身体障害だけの人もいるっていう施設でした★19
 新しくできたきれいな施設だっていうんで、よかったねという話だったんだけれども、そこにいる人たちが、よくないと思った。なんとかしてくれっていうことを主張し始めました。「もっとよくしてください」って言うのだが、言うこと聞いてくんない。「良くしてください」って言い続けると同時に、「障害者みんな集まって施設に暮らさなきゃいけないってわけでもない」っていうことにもなっていきます。
 最初は施設の待遇とか、そういうのをよくしてくれと。どういうふうに待遇がよろしくなかったのかは、この本に書いてあります。いちいち説明するのは面倒なんで、やめときますけれども、やっぱり、言われると、やっぱりこれはひどいなと思います。そういう待遇をもっとなんとかしてくれという話だったんだけれども、そういうふうにやっていくなかで、そもそもそういうとこにいなきゃいけないんだろうかっていう話にもなってきます。ていうんで、施設の改良、改善ということと同時に、施設から出て暮らせそうっていう、そういう生活を求めるという動きがやっぱり同じ年に始まります。
 ちなみにこの施設にいた人っていうのも何人かいるんですが★20、その1人が三井絹子さんという女性です★21。それからもう1人、その兄貴で新田勲さんという、にやけた顔にみえる脳性麻痺のおじさんがいて、この人も2013年に、2013年って年はいろんな人が亡くなった年なんだけれども★22、亡くなりました。彼も本を出しています。僕は、大学院生のときにインタビューをしたり、こういう稼業を始めるようになってから、お呼びがかかって対談したりってことがあったりして、それは『足文字は叫ぶ』って本に入っています★23。「足文字は叫ぶ」ってわけわかんないじゃないですか。足指叫ばないだろうと僕は思うんですが。彼はしゃべれない。どういうふうにしゃべるか、叫ぶかというと、叫んでるようには思えないんですが、座って、足を動かして床に字を書くっていうのに近いかな。僕はわかんないんだけれども、慣れている介助者は読めるんです。五十音、ひらがなに近いものを書いてるんしょうけど、それをちゃちゃちゃと書く。だから彼は足指でしゃべっていたんですけど、叫んではなかったような気はするんですけどね。その新田さんとの対談がこの『足文字は叫ぶ』っていう本に載ってます。よろしかったらどうぞ。
 こういう人たちが、施設を出て暮らすことを始めます。その、脱家族、家族から出て、施設から出てどうやって暮らすんだいっていう話になります。街に出ようということになるわけです。


 この2つのことが起こったのは、神奈川と東京で、関東ですけれども、似たようなことは、ほぼ同時期、いろんなところで起こります。関西のほうでもいろんなおもしろいことがあったんですが、全部省略しますが、『そよ風のように街に出よう』って名前の雑誌があります。つまり、そういうことですよ。つまり、家族に世話されるのをやめて、施設にいるのをやめて、どうしようかっていったときに、そよ風のように街に出るって。わかりやすいお話ですけれども、そういう話になった。大阪の人たちが作った雑誌なんですけれども、非常にいい雑誌です。78年、70年代の後半出た本なので、約40年続いて、終刊になりました。ちなみに僕はそこにも原稿書いているのですが、そういうものを読みたい人はHPで読めます。僕はお金、印税もらえる雑誌は、その先に配慮してというか、普通原稿の全文はホームページに載せないんだけれども、原稿料もらってないし、みたいなのもあって、この『その風のように街に出よう』という雑誌での「もらったものについて」という連載は、その全文読めるので、そこで私がしている昔話を読みたかったらそれを見てください★24
 もらったものっていうのは何かというと、家出を言って、施設から出るを言って、こういうことをやった人から、僕が何をもらったのかということを書いてるつもりなんです。ですから、そうやって家族やめて、施設やめて、街に出ようとなったときに、街に出たって、雨が降ったり風が吹いたりするわけで、やっぱり困るわけです。街に出るというと、なんかすがすがしくていいけれども、暮らす場所がいる。家がいる。ものも食べなきゃいけないから、お金もいる。雨をしのぐためにもアパート借りなきゃいけないから、お金がいる。どうすんだというんで、多くの人たちは生活保護をとって暮らします。ちなみにさっき言った、第1章をしゃべっている安積遊歩も長いこと生活保護で暮らしていました。今は違うかな。僕が今、名前出した人、全部、全員、生活保護で食ってました。生活保護っていうのはとっても大切な制度なんだけれども、今日はその話はちょっとパスします。非常に大切ですけど。
 こうして、脱家族という運動と、脱施設っていう運動が同じ年に始まったというと、なんとなく話のかっこがつくので、そういうストーリーにしているところもあるんですけれども、間違いということではありません。
 こうして、施設でもない、家族でもない、家でもないとこで暮らそう、っていうのが1970年に始まります。それで『生の技法』っていう本の副題も、「家と施設を出て暮らす障害者の社会学」ってことになるんだけど。じゃあ「何で家を出てくんのか? 施設を出たいって思うのか? 施設ってどんな感じのとこなのか?」っていうのは、この本で言うと、タイの教育のことを研究している、だから専門は違うんだけど、尾中文哉が施設のことを書いてます(尾中[1990])★25。日本女子大学で働いている社会学者です。
 そして、岡原正幸は家族のこと、「脱家族」のことを書いています。彼は今でもちょっと似たようなことやってるな。似たっていうか関係することしてます。感情の社会学、感情社会学っていうジャンルがあるんですけれども、そういうのやってる慶應で教えてる社会学者の岡原が、家族の話を書いています。そこも読んでいただければありがたいです★26

学生を誘う
 さあ、それで「家でもない、施設でもない。出て暮らそう」ってなったんだと。「それはどこだ?」「街だ」ってことになるんです。街っつったってね。街で暮らす、街に出るっていうことですが、街に出たって、そりゃ飯は食えないわけです。屋根もついてないし、雨露もしのげないわけですよね。実際にはアパート借りたり、何やかんやで、そうですね、借りて、そういう所で暮らすようになると。手足が動いて、目も見えるし耳も聞こえるってことであれば、とりあえず生活保護でアパート借りて暮らすっていうの可能かもしんない。しかし、そういう人たちではない。
 とくに施設が嫌だって出てきた人たちは、脳性まひの中でも障害が重い人たちでもあったんです。「出てきたはいいけれども、とりあえず雨露はしのぐ場所はあったけれども、どうやって暮らすんだ?」って話になるわけですよね。70年代から80年代90年代、場所によっては今でも、それに関わったっていうか関わらせられたのは、当時は大学生が多かったです。七〇年代には学生運動・社会運動の流れが関わってました。その運動の一部としてというところもありましたし、それに挫折してという人たちもいました。やがてそういう色彩は薄まっていきます。ただ、昔の大学生ってのは今の大学生より暇でした。学校行かないし勉強もしないし。それで許されていた時代でもあったんです。僕もそうでした。
 そうすると学生暇だから。街に出た障害者も時間はあるから、車いすで、街に出る。しかし街に出たって、まあ人がいるだけなので、使える奴がいないか? それは大学だ、ってことになる。それで大学のキャンパスに車いすで、例えば、僕はその頃、東京にいた頃住んでたのは、三鷹っていう所に10年ぐらい住んでました。それよりもっと西のほうに行くと、国分寺、国立、立川っていう辺りなんです。例えば国立って駅の近く、国立っていうのは今日最初に紹介した安積遊歩っていう人が長く暮らしてた場所ですけれども、「何でそこらに障害者集まったか?」っていうと簡単で、一つは大学があるからなんですよね。国立であれば一橋大学がある、もうちょっと行った所に津田塾がある。また八王子のほうに行くと法政があったり中央があったりする。大学がいっぱいあるわけです。暇な学生がいる。そういう奴らを集めて、そんで介助をさせる。金がないからボランティアだってことで。っていうのが70年代80年代。
 それがどうなっていくか、が次の回になります。


★01 初版の文献表、第2版に加えた文献の文献表、第3版に加えた文献の文献表が掲載されており、そこから人や本のページにリンクされ、そこからさらにさまざまにリンクされている。
★02 著書・編書に『車椅子からの宣戦布告』(安積[1990]◇)、『ピア・カウンセリングという名の戦略』(安積・野上編[2009]◇)、『いのちに贈る超自立論』(安積[2010]◇)、『自分がきらいなあなたへ』(安積[2019]◇)。
★03 JCIL(→□頁)代表の矢吹文敏(1944〜)も骨形成不全。著書に『ねじれた輪ゴム――山形編』(矢吹[2014]◇)。共著書に『障害者運動のバトンをつなぐ――いま、あらためて地域で生きていくために』(尾上他[2016]◇)。高橋慎一(立命館大学大学院を経てJCIL職員)による矢吹へのインタビュー「障害者運動とまちづくり運動の展開(1)――矢吹文敏氏(日本自立生活センター)に聞く」(矢吹[]◇)。
★04 宇宙との共著の本が『多様性のレッスン』(安積・安積[2019]◇)。
★05 『生の技法 第3版』に新たに加えた第10章「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」で第2版以後に出版された本をいくらか紹介した。リンク・文献表への記載はこれから。
 「1 その後書かれたもの知ったこと
 初版から二二年、増補改訂版(第二版としよう)が出てからでも十七年が経った。その間のことについて書くなら本来は本一冊ではすまない。中途半端なのはわかっているが、それでも何もしないよりはよいと考え、すこし補足する。また私たちが調べたり書けたりしなかったところについて書かれた本、第二版後に出版された本人たちの本もある。それらを紹介するだけでも意味があると思う。いくつか紹介しながら、いくらかでもその後のこと、今確認したり考えたりしておくとよいと思うことを記す。なお本章は、本書全体の中でも筆者(立岩)個人の考えが強く出ている章であることをおことわりしておく。(以下第10・11章については、立岩の文章は著者名略。つまり立岩[12A]などと記さず、たんに[12A]とする――文献表では「立岩 真也 12A …」)。△499
 本書とくに第7章で記した一九七〇年代以降の、日本の「過激な」とされる日本の障害者運動を中心になって担ってきたのは脳性まひ等の重度の障害者だった☆02。これは脊髄損傷で車椅子という人(例えば英国の障害者運動の――障害学☆03の、でもある――リーダーたちの多くはそんな人たちだった)、韓国の運動――については鄭[12]――の初期を担ってきたポリオの人たちと比べても重い。言語障害の強い弱い、上肢を使える使えないでだいぶ変わってくるが、最も重いほうの人であれば、そうそう就労の場にも乗らない。そして長い時間誰かいなければならない。うっとうしくても「健常者」(関西の一部?では「健全者」)とつきあうことになる。
 するとその主張は、しかじかの社会的条件があれば働ける、納税者になれるといった――それが「ない」ことがすなわち人を障害者たらしめているのだとする(「(英国)障害学」における「社会モデル」の主張とはおおまかにはそうしたものだ)――肯定的な感じの主張とはいささか異なるものになる。この国で運動に参加した人たちも、環境があればできるようになることがあることは否定しないし、同じく、環境・条件が整えられるべきことを強く主張し行動するが、そう楽観的なこと(ばかり)は言わない。ひねくれている、と評してもよいが、しかし外れてはいない。人の意識のことに思いを致しても、この社会の基本的な仕組みのことを考えても、「解放」はそう簡単なことではない([07]――後出の横塚の本に書かせてもらった解説、他に[98B])。△500
 つまり、同じ時期に同じ言葉が使われるのではあり、同じく脱施設・脱家族の主張がなされるのではあるが、横須賀俊司が注意を喚起するように、まったく同じというわけではない。この社会・人間たちのより深いところから差別は発し、それに支配されていると捉え、相手を攻撃し、けんかをする。その頃「青い芝の会」(267頁)という組織があったのだが(今もある)☆04、その(ごく一部では有名な)「行動綱領」(338頁)には「我々は愛と正義を否定する」とあるのだが、それを聞いた米国の運動家は「???」だったという話がある。
 そしてその「糾弾」をするにしても、具体的にぶつかれるのは敵側の偉い人ではなく(そんな人はわざわざ出てこないから目の前にいない)、自分を「支援」するボランティアであったりした。そうして妙に仲がよかったり、ときに険悪だったりすることかあったりしながら、やってきた。そういう、暑苦しいといえば暑苦しく、しかしのんびりした部分もあって、ことは進んできた。この間のことを知れる本が出版されてきている。
 まず、運動に関わってきた人中心にではあるが、多様性を示す各人・各組織の様子は『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』(全国自立生活センター協議会編[01])にある。そして、府中療育センターでの抗議運動(272頁)から始まり、東京都国立市に住むことになった三井絹子(一九四五〜)の『抵抗の証 私は人形じゃない』(三△501 井[06])、その兄でもありやはり同じセンターから北区に移り、介助保障要求の運動他を率いた一人である新田勲(一九四〇〜)の『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』(新田編[09])、そして『愛雪――ある全身性重度障害者のいのちの物語』(新田[12])が刊行された――新田たちと「全国公的介護保障要求者組合」(379頁)については深田[09][12]。また、神奈川の青い芝の会の横田弘(一九三三〜)の対談集『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて』(横田他[04])、小山正義(一九三九〜)の『マイトレァ・カルナ――ある脳性マヒ者の軌跡』(小山[05])が刊行された。なにより長く入手することのできなかった 横塚晃一(一九三五〜一九七八)の名著『母よ!殺すな』(一九七五年初版)が大幅に増補され、新版として再刊された(横塚[07])。
 そして長野県大島村(現・松川町)で長く暮らしてきた(活動を停止してから長い、長野青い芝の会のメンバーでもあった)本多節子(一九三六〜)――ちなみに本多勝一はその兄で、青い芝の会のことについて文章を書いた(621頁)のもそれと関係があるはずだ――の『脳性マヒ、ただいま一人暮らし三〇年――女性障害者の生きる闘い』(本多[05])が出ている。独立する暮らしを始めた先駆者として紹介した(489頁)沖縄の木村浩子(一九三七〜)は『おきなわ土の宿物語』(木村[95])を出版した。「田舎」での活動・暮△502 らしが描かれる。そして埼玉県で長く活動してきた、まじめだがおもしろい『月刊わらじ』を出してきた「わらじの会」から『地域と障害――しがらみを編みなおす』(わらじの会[10])。札幌で、一時期「札幌いちご会」(441頁)やそこが推進したケア付住宅(398頁)の設立にも関わった後、一人で暮らした鹿野靖明(一九五九〜二〇〇二)と彼のところにやってくるボランティアたちのことを書いた『こんな夜更けにバナナかよ――筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(渡辺一史[03])。ちなみにここまで鹿野が筋ジストロフィーで他の人たち(以下では境屋が)は脳性まひ。
 本多・木村もだが、この「業界」はとくに一九八〇年代以降だろうか、女性たちが活躍する(cf.瀬山[02])。第1章で約三〇年分を語っている安積(一九五六〜)はその後多くの著作を出している(安積[99][10])。ピアカウンセリングについての共著もある(安積・野上編[99])。そして 町田ヒューマンネットワーク」で活動してきた樋口恵子(一九五一〜)の『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』(樋口[98])。国立市でこれらの人たちと活動を共にしてきた境屋純子[92](一九五二〜)の本(境屋[92])は第二版で紹介した(641頁)――他に篠原睦治が和光大学卒の「元障害学生」と語るという本で天野誠一郎とともに語っている(篠原編[00:23-44])。
 そして、私たちが本書できちんと書けなかった――初版刊行の前には京都・大阪・神△503 戸に一回ずつ話をうかがいに行けたにすぎない――関西での動きについて。「態変」という劇団を結成し活動していく金満里(一九五三〜)の著作(金[96])が出された。(加えると『私は女』(645頁)の新版も出ている(岸田・金編[95])。)また研究者やジャーナリストによる本が出された。関西については「大阪青い芝の会」について定藤邦子の『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(定藤[11])、その地で介助や運動に関わった「健全者」たちのグループについて『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(山下[08])、とくに「兵庫青い芝の会」やそれに関わった人たちについて角岡伸彦『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』(角岡[10])、兵庫で介助者として働きつつそれを研究してきた人の著書に前田拓也『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』(前田[09])。京都で暮らしてきた李清美(一九五九〜)の『私はマイノリティあなたは?――難病をもつ「在日」自立「障害」者』(李[09])、京都の「日本自立生活センター(JCIL)」(一九八五〜)で介助者として働きながら、介助者たちのネットワーク「かりん燈」でも活動している渡邉琢の『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』(渡邉[11])。田中耕一郎の『障害者運動と価値形成――日英の比較から』(田中[2005])でとりあげられる全国障害者解放運動連絡会議(全障連)(280頁-)はもちろん△504 全国組織だが、関西での活動が盛んだった。これらの中身はその各々を読んでもらうほかないのだが(電子書籍版では関連ページにつながるようにする)、これらに書かれているのは、多様性であったり、すっきりいかないところ、混沌であったり、停滞であったりもする。それらの全部が起こってきたことであり、起こってきた全部の一部である。
 第7章でもそうしたことを書きたいとは思った。しかし表面をなぜるだけでもあの程度の分量は必要で、そしてなにより知らないことも多かったから、あれ以上は書けなかった。こうして、その不十分な部分を補ってくれる、その頃からの流れと現在を記述する著作が新たに出版されてきた。(ただ、当時私たちが参照したそう数は多くない著作のほとんどは――当時既にほぼそうだったのだが――絶版になっている。)
2 むろん身体障害に限ったことでないこと
 […]」
★06 講習の記録で使わなかった部分:「こんなことしゃべっていると時間がなくなるんですが、『映像の世紀』というのをNHKオンデマンドで見れるんですよね。気持ち悪い画像が山ほど出てきます。殺される、あるいは殺された人たちが出てくる。なんかえぐい映像がいっぱい出てきて気持ち悪いっちゃ気持ち悪いんです。そういうのをバックグラウンドで流しながら仕事している俺はなんなんだろうと思いながら、そういうのを流しています。」
★07 多くは学校に行っていない。だから、竜谷大学に入学した楠敏雄などを別にすれば、学生運動に直接に関わった人は少ない。ただ関係はあると横田弘は述べている。「対談・1」(◇)で。
 「立岩: だけど、その時に横田さんたちは、そのことに対して抗議するわけですよね。それはどういう背景とか、文脈とかがあったんだろうと。で、予め私の考えを申し上げれば、一つは先程もでていた、小山さんの所に来ていた大仏さんの所のマハ・ラバ村のことが一つありますよね。それはやっぱり、特に神奈川の青い芝運動の一つの土壌みたいなものにはなったんだと思う。
 と同時に、七〇年あたりは社会全体が騒然とした時期ですよね。その当時の社会運動みたいなものと、青い芝の運動なり、七〇年以降の障害者運動っていうのは関係しているような気がしているんです。もちろん具体的に新左翼の党派が障害者運動に入ってくる、介入してくるっていうか、あるいはひきまわしにやってくるという部分もあるんだけれども、そういう党派の介人ってことだけじゃない、もっと大きな社会の変動というか、中にあったんじゃないかと。私はそう思うんだけども、まだ小学生でしたから、具体的にその時期を生きてきた、横田さんにとってそれはなんだったのかということ。
 横田: それは認めます。七〇年のあの当時、あの時でなかったならば青い芝の連動は、こんなに社会の皆から受け入れられなかったと思います。七〇年の学生さんの社会を変えていこうよと。社会を変えなければ僕たちは生きていけないと考えた、あの大きな流れがあったから、僕たちの言うことも社会の人たちが、ある程度受け入れようという気持ちがあったわけです。僕は七〇年から今まで同じことを言っているんだけど、近頃の社会はあまり僕の言うこと受け止めないの。」
 「そしてこの時期(以降)のことついて加えれば、やはりその本で山田さんが、上にいる人たちにでも誰にでも文句を言ってもよいのだという気持ちがあったことが大きかったと述べている。このことは、横田弘さんの対談集『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集』(現代書館、二〇〇四年)のために横田さんと対談した時、横田さんが私に話してくれたことでもある。横田さんが属していた(今も属している)当時の「青い芝の会神奈川県連合会」の活動と、学生運動との直接の関係はない。また横田さんは学校に行っていない(行けなかった)。ただ、その対談の中で、当時の「学生さん」たちの反抗が自分たちを勇気づけることはあったといったことを話している。もちろん反体制運動というものはもっと前からあったのだが、そこで想定されている敵は、国家とか、資本家とか、強大ではあるが比較的に狭い範囲のものだった。医者であるとか学者であるとか、そうした人たちが責められることはなかった。だが、この時、否定してはならないとされているもの、良いとされているものも疑ってよく、偉いとされているものにも反抗してよいのだということになった。」(「もらったものについて・4」◇、立岩[2009])
★08 いくつかのインタビューを行なっている。楠敏雄(1944〜2014、竜谷大学)について資料集を作った(立岩編[20141231]◇)。小林敏昭(1950〜、1970大阪大学)へのインタビュー([i2018]◇)、大賀重太郎(1951〜2012、神戸大学)、長見有人(1952〜、1971東京教育大学)へのインタビュー(長見[i2019]◇)。田中啓一(1954〜、1975金沢工業大学)へのインタビューに田中[i2018]◇)。
★09 いくつかの文章で「体制」の問題について、左翼運動と障害者運動の関係の仕方について述べてきた。「もらったものについて」からその部分を取り出そうとしたらそれはずいぶん長いものになってしまった。余計なところもふくめて長々とそのまま引用する。しかし要点が幾つかしかなので、それをまず列挙する→※これから書きます※。
「もらったものについて・3」(立岩[20090425])
□調べ始めたこと
 一九八五年、「自立生活」についての調査を始めることになった。修士課程の二年が終わり、できのわるい修士論文が通るには通って、博士課程に上がって、たしかその時の大学院生主催の新入・進学者歓迎のコンパのようなものの時、石川准からその誘いのようなものがあった。それで聞き取り調査を始めた。書く機会があったら、その辺りのことは別に書こう。そうして聞き取りを始めて、たくさん聞き取りをした。そうして聞いてまわってわかることがたくさんあって、それで、一九九〇年に出た(そして一九九五年に増補版が出た)『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店)が書かれた。ただその本では、その聞き取りの結果は直接にはあまり出てこない。ずいぶんもったいない作り方をしたのでもある。
 そして、とくに私が担当した部分では、文字資料を使っている。話を聞いていくと、やがて、もっと前からの様々があったことがわかってきて、それで文献を調べることになった。大切な本はいくつもあったが、私たちが調べようとしていた部分を主題的に書いたものはなかった。とくに「社会福祉」の関係の本には何も書いてなかった。ほんとうにそうか、大学の図書館やなにかで、かたはしから本を見ていった。たいへんなことだと思う人もいるかもしれないが、そんなことはない。熟読するわけではない。ざっと見ていくだけだ。そして多くの本には同じようなことが書いてある。そうして見ていくと、まったく出てこない。「批判しても否定してもいいが、無視するのはよくなかろう、だから自分たちで書こう。」そう思ったのでもある。
 おもには機関誌や雑誌をあたることになった。本は場所さえわかれば借りてすませることもできなくないが、雑誌は難しい。買えるものは買い、買えないがコピーできるものはコピーした。本誌『そよ風のように街に出よう』は一九七九年の創刊で、また『(季刊)福祉労働』(現代書館)は一九七八年の創刊だから、以前から存在は知っていて、読むことはあった。ただ手元にそうなかったから、まとめてバックナンバーを買いこんだ。『福祉労働』は神田三崎町の現代書館に直接に出かけて行って、担当の小林律子さんからまとめて買った記憶がある。『そよ風のように街に出よう』はまとめて送ってもらったと思う。
 そんなことの何がおもしろかったのか。よく覚えていない。かくも人は(というより私は、だが)なんでも忘れるものか、というぐらいだ。しかしかなり熱心ではあった記憶はある。例えば横浜市にある神奈川県社会福祉協議会の資料室に何日か通って、大量にコピーをとって、といったことをした。熱心にきちんと資料を整理されている方がそこに勤めておられたので、資料がそろっていた。そんなことがないと、ほんとうに消えてしまうものは消えてしまう。私はもともと資料を集めて書くというような種類の研究をきちんとする人間ではないのだが、それでも、「資料の収集・整理は大切だ、集められるものは集めておきましょう」、と言い、それをいくらかでも進めようとしているのにはそんなこともある。(一昨年は、尾上浩二さんがDPI日本会議の事務局長に就任することになり、大阪から東京に引っ越さざるをえないといったことがあって、何箱かの資料を送ってくださった。いま私たちがやっている「生存学創成拠点」なるプロジェクトの書庫に並べさせていただいている。資料・情報提供つねに歓迎です。どうぞよろしく。)他に、東京の山の手線の田町駅から歩いて行くとある、港区三田の東京都障害者福祉会館の資料室に、あまり整理はされてなかったが、いくらかのものがあった。そして、飯田橋の駅すぐのビルに東京都社会福祉協議会の資料室があって、そこにもいくらかの、おもに行政関係の資料があった。他に立川社会教育会館でも地域の機関誌等を見た。手当たり次第に近く、コピーしてファイルした。
 やってみればわかることだが、かなりの割合の人は、テーマがなんであろうが、なにか調べ始めるとかなりの「おたく」になる。コピーしたりファイルしたりするのにはまってしまう人がけっこういるのだ。集めている機関誌のバックナンバーに欠けたのがあると悔しい、とかそんなことである。本誌の創刊ゼロ号もコピーで手に入れた、コピーだがまあいいか、という感じだ。そして、「ゼロ号はコピーですけど、『そよ風』のバックナンバーそろってますよ。けっこうすごいでしょ。」と同好の人に自慢したりするのである。それはたぶん人間しかしない行ないである。すくなくとも猫ならしない。妙な性癖ではある。
□嫌いだが別れられないということ
 それにしても、それだけというわけではない。どんなところがおもしろいのか。いくつか言い方があると思う。一つの答は、「社会に反対しながら、社会から得るしかないものがあるから」、というものだ。
 世の中が嫌いだが、そこから離れることもできない。本人にとってはひどく煩わしい迷惑なことだが、はたから見ている分には、とてもおもしろい。そんな人のことを追っかけていくと、この世がどんな世なのか、また、どうしようがあるのかわかるように思う。
 一人である場合。条件がそろえば逃げることはできる。あるいは今のままでやっていける。そしてそれは、本人にとって面倒でないから、よいことだ。まず、蓄えを使って慎ましくやっていくなら、あるいは自給自足でやっていくつもりなら、俗世を離れてやっていけるかもしれない。他方で、自分で稼げるなら、今の社会のままででもやっていける。しかし、障害が(十分に)あると、逃げるにせよ、混じるにせよ、簡単なことではない。
 次に徒党を組むことに関して。この社会が気にいらないとして、そこから離れてそれでやっていけるのであれば、分離主義という道もある。実際、いくつかの社会運動についてはそんな流れもなくはなかった。例えば、男が敵だということに決まれば、女だけで暮らしていくという道はある。文明が敵だということになれば、自然の中で生きていくという手もある。集団内での生産・消費が可能であり、差異が理由とされる抑圧があり、また自らのものを大切にしていきたいと思う場合に、その集団だけで独立し、独自の「国」を作っていくという道筋はありうる。実際にはそこまで行かないにしても「デフ(聾)」の主張にはその方向への傾きがある。
 しかし、「できない」という意味での障害が一定以上である場合、障害者だけで暮らしていくことはできない。支援する人たちが少数であっても、きちんといれば、その範囲でやっていける場合もある。しかし、その中にいる人たちは、その外側にいる人より明らかに疲れる。実際、そんな集団は自壊することがおうおうにしてある。そして広がっていくことが難しい。皆が救われるべきだという「大乗」の立場をとるのであれば、この道は行けないということになる。
 この社会で自分たちは最もわりを食っている、その限りでは、この社会は敵であるのだが、しかし、同時にそこにいる人に手伝わせたりしなければならない。強い批判を向けながら、しかし、そことやっていかなけれはならない。どうやってやっていくのか。すくなくとも「社会科学」をやっている人にとっては、これはおもしろい。そこから受け取れるものがあるはずだと思う。
 そして私の修士論文で詰まってしまったのも、そしてそしてその後続けたかったのも、いろいろと文句を言った後で、話をどこに「落とす」のかということだった。「文句はわかった、で、どうするの?」と言われる。そのことを考えることでもあった。
 幾度も書いてきたことだが、私の、団塊世代などと呼ばれる私の前の世代に対する気持ちは、「よいことを言ったけど、その続きがないじゃないか」というものだ。それは、問題がたしかに難しかったからでもあるのだが、続きを考えなくてもすんだからでもある。つまり、「世の中が変わればよい」とか言っても、言うだけで実際には変わらなくても生きていけたのだ。つまり、就職すればよかったのである。しかしそうはできない人たちは、続きを続けざるをえない。言うだけでなく、実際になにかせざるをえない。ならばそれは、続きを考えようと思う私にも何かをくれるはずだ。
 と、そんなことを思って調査を始めたわけではない。そしてそれからの数年間、調べてまとめるのに手間がかかり、アルバイトも忙しく、私は一九八八年と一九八九年には論文を一つも書けないということにもなった。ただその過程で、その後にもつながるいろいろなものをもらったと思う。
 「自立生活」などという場合、そこにあるのはまずは暮らしなのであって、そこに思想やら政治やらがくっつく必要もなく、むしろそれはうざったくもある。しかし、そういうものが絡まらざるをえないところもあってしまう。そしてそんなごちゃごちゃした場所から、言葉が発せられる。それは、辻褄を合わせることが目的とされているわけでもないから、ときになんだかよくはわからない。しかし、ぐるぐる回ってしまっている、みなが消耗しているような議論のなかにも、大切なことも含まれているような気がする。なんだか深くなってしまう。と同時に、そう粋がってもいられない。そして今は語るのも虚しいようにも思われる「政治状況」もそこに絡んでいる。それが、当時既にあった「自立生活」という言葉の入った本――そのうち紹介しよう――も含め、「障害者福祉」という括り方の本には出てこない。好き嫌い、よしあしは別として、それはよくないと思った。
□政治
 そこで「政治」について。これについては、かつてそれにはまってしまっていた人たちが、あまり語らなくなっているということがある。その「てらい」のようなものはわかる気もしながら、ここでもあったことがなかったかのように思われてしまうのもよくないと思い、たいした関わりのなかった自分の方が言いやすいこともあると思って、すこし書いてみる。私自身には懐古するような過去はないし、長くしようと思えばいくらでも長くなってしまうし、ここでは短くしたい。
 しかし本当は長い詳しいものも大切だとは思っているので、追加情報を。書いてあることを集めることも必要だし、知っている人に話してもらったりすることも必要だと思っている。そんなこともあって、昨年秋、稲場雅紀・山田真・立岩真也『流儀――アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(生活書院、二三一〇円)という本を作った。二つの対談、というかインタビューを収録したものだ。アフリカ日本協議会の稲場さんの話も、これからの社会、社会運動を考える上で重要なものだが、東大医学部でのいざこざ、大学闘争を振り出しに、様々、「障害児を普通学校へ全国連絡会」等々にも関係してきた小児科医の山田さんの話のところも読んでほしい。そしてそこに大量の注をつけた。ここを(ここも)読んでほしい。
 さて、むろん、福祉に関わっては、「慈善」を大切にする宗教的あるいは非宗教的な人の集まりもあり、そのある部分は「保守」の側に色分けされるものだろう。また、実際に政権に近いところに金に関わるものごとを決める力はあるのだから、そちらに近いところにいた方がよいという計算も働くから、どこを支持するか、それは一様ではない。今でも、専門職の大きな職能団体が、自分たちの要求をかなえやすいと思って、政権を担当する政党を支持すること、議員を送り込むといったことはある。
 ただ、その上で、社会福祉の仕事・学問、たとえば「ソーシャルワーク」と呼ばれる領域には、もともと、現にある社会をよしとしないという傾きはある。そのうえで、福祉は「飴と鞭」の飴のようなものであって、かえって革命を遅らせるものだという理解もあったから、全面的に肯定ということにはならないこともあるのだが、そのような道筋で考えなければ、基本的にはすなおに肯定される。例えば、いっぺんに変えようとしたって無理なのだから、だんだんとよい社会にしていけばよいのだと考えれば、やはり福祉は大切だということになる。そしてそれは常に不足しているように思われる。だからそこからの変化が求められる。また、社会が変わらないと社会問題も減らないのだからと、やはり変化が支持される。そして福祉の仕事の場合、実際に仕事をするその相手は、また政治活動においてその支持基盤となるのは、実際に生活に困っている人たちである。そんな事情がある。そんなこんなで、一つに「革新」の部分とのつながりは強い。
 そして本人たちにしても、いくらか考えれば、問題は社会の方にあると思えるから、それが変わってくれないとやっていけないと思うから、今あるものがそのままでは困ると思う。そう思う人たちは変化を支持することになる。
 次に組織。組織は必ずしも必要なものではない。しかし時には必要とされる。あるいは既にある組織が、例えば自らの勢力・影響力の拡大を意図して、組織化に関わることがあり、既にある組織に関わることがある。「支援」する側と、「本人」たちと、どちらが組織されやすいか。これは時と場合による。ただ、前者はそれを仕事とする。職場があり、給料がもらえる。組合もできる。また教育がある。教師がいて、学校がある。そんなことで、組織化しやすいところはある。そしてこういう人たちにまず親たちが関わることがある。子を連れていく病院・施設や学校をきっかけの場として出きていくものがある。比べて、本人たちの方が難しいことがある。障害を仕事にしているわけではない。金がない。暮らしている場所もばらばらだ。(だから、ハンセン病とか結核とかで施設に集められたしまった人たちから本人の運動が始まったことにもわけはある。)とはいえ、共通の利害はあって、それを伝えたり実現しようとしたりする。
 組織のなかに政党がある。その革新政党の一つである日本共産党があった。その政党の福祉や教育の業界とのつながりは、すくなくともかつて、かなり強いものがあった。この政党の人たちの熱心さにはまったく頭が下がるところがある。職業にする人たち、そして親たち、そして本人たちの組織にも関係した。社会保障・社会福祉関係の学問・教育にも相当の影響力をもった。そしてそれは、この国の歴史について書かれることにも関わっている。たとえばたしかに重要な訴訟・裁判であった「朝日訴訟」のことは必ず取り上げられる(取り上げてよいと思う)のに対して、別のことはそうでなかったりする。誰が書いても偏りはできるから、それをとがめようというのではない。ただ、書かれたものに存在する「傾向」とその理由をまるで知らない人が多すぎるのはあまりよくないと思う。
 この政党と、そうでなくやはり「革新」を標榜する人たち、組織とは、長い長い確執・対立があってきた。差異、対立点とされたものは様々だが、それを私が解説したりできない。一九七〇年前後の大学闘争とか大学紛争とか呼ばれたものでも、その対立は引き継がれた。その後もそこそこ長いこと続いた。第一回でもそのことにすこしふれた。
 基本的に統制のとれた――そこがまた嫌われもしたのだが――共産党と違って、そうでない人たちは、ごちゃごちゃだった。「党派」を形成しない、あるいはそれらから距離をとる「ノンセクト」と呼ばれる、あるいは呼ばれたい人たちがいた。また、ヘルメットの色と印で区別されるような党派(セクト)が様々あって、その間にときに複雑怪奇な対立があった。諸党派の分岐は一九六〇年代からあったのだが、とくに七〇年代以降、外に向かう運動があまりうまくいかなくなったこともあり、党派間の争いが激しくなり、それが「内ゲバ」と呼ばれて有名になり、その陰惨さがその後の運動の退潮にも影響したとも言われる。まあそれはそうだろう。
 これらについて尋常でなく詳しい人たちはけっこういて、本もたくさん出ているようだから、略す。さて、私たちがいくらかは以前から知っていて、そして一九八五年に調べ始めた障害者の動きは、この時期のことに明らかに関わっていた。そして、そこにあったつながりは、基本的には非・反共産党という人たちとのつながりであった。そして、この「左翼」内での対立のあり方が、運動や思想の形成にも影響していると私は考える。むなしいだけのことではなかったと思う。このことはそれなりに大切だと思うから、古い喧嘩のことを蒸し返そうとしている。
 そんなふうに言ってしまうと、すこし誤解を与えてしまう。障害者の運動は、とくに学生の運動と、まずは、切れていた。まず大学生はただの大学生だった。そして障害者に大学生はとても少なかった。(それは米国西海岸での「自立生活運動」が大学生によって始まったとされているのとたしかに違う。)ただ、その上で、これは対談させてもらった時に横田弘さん(青い芝の会・神奈川県在住)も語っていたことだが、その時期の「学生さん」たちの騒動は、また「造反有理」といった気分は、誰でも、文句を言っていけないことになっていた人たちも、偉い人や社会相手に文句を言ってよいのだという気持ちを強めるものではあった。また訴える方法にもいろいろあって、時には「直接行動」もありだと思い、実際、「バス占拠」といったことをいくつかやってみたこととも無関係でないはずだ。
 一九七〇年に横浜で脳性マヒの子が殺され、それに関わる減刑嘆願運動への反対運動を神奈川県の青い芝の会の人たちが始める。また府中療育センターを巡る問題が表面化するのもこの年である。これらの事件、抗議の運動は、この時期だから起こったわけではない。ただいくらか関係はしているし、その後も関係は続くことになる。
 まず組織、党派、人の関わりについて。神奈川の青い芝の会の組織はこじんまりしたものではあったが、その運動は、その会が主体となり主導した。ただ、施設で暮らす人たちの中のごく少数の人による施設への抗議といったものはより困難だ。党派が協力し介入してくることのやっかいさを当初は知らないし、とにかく人手はいないから、誰でもどうぞということにもなる。結果、利用されたり、党派間の対立にまきこまれて、迷惑を被った人たちもいた。そういう「引き回し」を嫌って、運動の自律性を確保しようということにもなる。なかなか複雑な動きがあった。党派としても、「当局」を糾弾するのに加担して騒いでというだけでもなく、また例えば成田闘争とか別の運動に動員しようというだけでもなく、たしかに障害者の生活の現場に「資本主義の矛盾」は見えるのだから、外向きの運動の退潮の時期、それなりに真面目に律儀に支援を続ける部分もなくはなかった。こうして、まったく無縁であったかというとそうでもないのだが、総体として障害者の動きは、こういう人たちを敵とする人たちが宣伝するほど「過激派」の運動ではなかった。
 むしろ、そんな所属先が嫌いな人たち、そこから離れてきた人たちがこの運動・生活の場に居着くことになった。聞かされた大きな話には実現の展望もないし、かといって普通に就職する気にもならないし、といった人たちがいて、「支援」に入ることになった。その人たちの中には、法螺を吹くのが嫌になった人、聞くのにあきた人、あるいははじめからそういうものになじめない人もいて、「裏方」にまわることをよしとした人たちもいた。ここにはいくらかの屈折がある。理屈を信じられない、言葉を信じないといったところがありもする。同時に、以前からの争いも引きずっているから、きらいなものはきらいでもあって、ときに批判の言葉を駆使することもある。障害者運動の世界がそんな人たちの「受け皿」になったところがある。同じような気質をもっている人たちは今なら「引き籠り」ということになっているのだろうとか、言う人もいる。
 そして、もう一つ関わりがあったのは、学問批判、医療・福祉批判、専門職批判…の流れである。その批判・反省の「成分」にもいろいろがあって、複雑で、かつ整理されていないのだが、具体的には例えば東京大学での騒ぎは医学部から始まったということもあった。その業界・学会で病者・障害者に対してよいことをしてこなかったという批判もなされる。それは一時期の学会改革運動、とくに精神医学や心理カウンセリングといった領域での運動に連動し、精神障害者たちの運動の展開と関わることがあった。そしてこの運動に関わり、主導権を争い、一時期この動きを進めたのも、非・反共産党系の人たちだった。そのことにいちおうの理屈は付けられていて、(人民のための)科学を肯定し、そしてその科学を担う人を基本的に肯定する旧来の左翼と違って、自分たちは科学技術の問題性をもっと根本から問題にするというのだった。その話がどうなったのか、その運動がどうなったのか、あまりその行く末は芳しいものではなかったとも思うのだが、ともかく、そんな流れはあった。そしてその中にも、別のものを打ち立てるのだといった言い方をする人と、理論(的なもの)に見切りをつけて、現場へ、実践へという人がいた。その一生の中でも変化のある人がいた。いちおう学問にとどまる人と、まったくそこから離れていく人がいた。
□メディア
 そして、伝える側、受け取る側のこともあった。その動きを伝える文章が少ないとさきに書いたし、それはその通りなのだが、それでもさきの二つの事件のことは新聞には載ったし、府中療育センターと東京都を批判した新田絹子の手記「わたしたちは人形じゃない」は『朝日ジャーナル』に載っている(一九七二年一一月、当方のHPに全文掲載している)。また、青い芝の会のこともNHKの番組『現代の映像』でとりあげられている(「あるCP者集団」、一九七一年二月)。またさきに紹介した『流儀』に注をつける際、医療、薬害…に関わる古本をいくらか仕入れたのだが、その過程で、朝日新聞社編『立ちあがった群像』(一九七三年、朝日新聞社)という本が見つかった。この本は「朝日市民教室・日本の医療」全六巻の第六巻である。ここに横塚晃一「CP――障害者として生きる」が入っている。「本原稿は、横塚晃一氏の口述、妻りえさんの筆記によって機関紙『青い芝』に掲載されたものを転載させていただいた。」と注記があって、「母親の殺意にこそ――重症児殺害事件の判決を終って」、「施設のあり方について――施設問題への提言」が収録されている。そして、一九七四年刊行の『ジュリスト』五七二(臨時増刊 特集「福祉問題の焦点」)には横塚「ある障害者運動の目指すもの」が収録されている『母よ!殺すな』に再録)。このことは、調査を始めた当初に気づいたことで、専門的・業界的な本にはほとんど出てこないことからすると、こんな「堅い」雑誌にと、不思議な感じがして、記憶に残っている。ただ、同じ調査の過程で見かけたところでは、例えば全国社会福祉協議会が出している『月刊福祉』にしても、ある時期はけっこう硬派な記事が並んでもいたように思う。こんな雑誌も含め、なにか知らせねばと思ったメディアの人はそれなりにいたのではある。
 そしてやはり追加情報。昨年、それまで面識のなかった中央大学他非常勤講師の種村剛さん(以下三名について敬称あり)から連絡をいただき、民放(TBSと東京12チャンネル)で放映されていた『東京レポート』という東京都の広報番組で二度、青い芝の会関係の人が出てくる番組が作られたことを教えてもらった。一九七二年五月のは、「はばたきたい」という題。江東区四肢不自由児訓練施設「青い鳥ホーム」で親や職員が熱心に脳性マヒ児を訓練する様子が映し出される。それだけならそれだけなのだが、続いて寺田良一へのインタビューがあって、そこで「世の中に積極的に迷惑をかけてでも生きるんだという人間になっていくことが必要だという気がする」といったことが語られる。一九七三年五月の番組は「子にとって親とは…」という題のもので、横塚晃一の家の夫・妻・子の日常が映され、晃一が「親はエゴイストだ。やっぱり抑圧者ですね。」といったことを語る。そんな番組があったのだ。
 種村さんがたまたま入って行きつけになった東京都府中駅近くの「玲玲」という薬膳料理屋・飲み屋の主人が赤羽敬夫さんで、その店で飲み食いしている時にこの番組の演出・構成を赤羽さんが行なったことを種村さんが聞いて、そのお店で小さな上映会をするということになって、私も呼んでいただいたのだった。とてもおいしい料理と酒を出すその店で、私たちは赤羽さんのお話もいくらかうかがうことができた。青い芝の会の人たちのことをそう詳しく知っていたわけではないが、またとくに「政治的主張」をしたいとか、またある主張を支持したいとかいうのではなかったが、報道でその人たちのことを知り関心を抱いて、それで取材・撮影に入ったのだという。十五分の短い番組ではあるが、かなり長い時間、聞きやすいと言えない寺田・横塚の言葉が流れ、顔が映し出される。東京都の広報番組であるが、かなり現場の裁量でできた部分もあって、赤羽さんは、「子どもの日」に合わせて、横塚親子の番組をと思って作ったのだという。
 その上映会は二〇〇八年七月二〇日に行われた。その日はまったく偶然、一九七八年七月二〇日に亡くなった横塚の三〇周忌の日だった。その前年の二〇〇七年に『母よ!殺すな』の再刊を果たした生活書院の高橋敦さんがそのことに気がついて、私と高橋さんと皆はそんなことにも感じいってしまったのだった。といった話をし出すと、これはたしかに特異なマニアの話になっていくのではあるけれども、しかし恥ずかしくとも、書いておく。
 まずこんな感じの「陣容」だったとしよう。では、何が争われたのか。また、その争いにも影響されて形成されていったものは、どんな性格を有していたのか。その中身を書かなかった。機会があったら、書くことにしよう。
「もらったものについて・4」(立岩[20100220])より。
□「「体制」
 こうして憤りや義侠心や反抗心があったのだが、同時にそこには、悲惨の理由を説明し、違うものを示し、その実現への道筋を示す、大きな理論・理屈もいろいろとあった。革命を起こし、体制を転覆させ、別のものに取り替えるという案があった。それはずいぶん前からあって、そしてその中にも様々なヴァージョンがあった。それが行き詰まっていた。というか、最初からそんな感じだった。おおまかには次のように言われている。その時の(その時も)「体制転覆」はうまくいかなかった。それどころか、「内ゲバ」と呼ばれる抗争が起き、陰惨なできごとも起こり、直接に参加していた人々のほとんども退き、多少の共感をもっていた人もそこから離れていった。それらのできごとについては、一部の「過激」な人たちによる愚かな行ないとして切って捨て、よりまともな「革新勢力」は依然だいじょうぶなのだと言われることもあった。ただ、もっと全般的な、世界的なできごととして、「ベルリンの壁の崩壊」であるとかしかじかがあって、それでいよいよ、そんな話は終わった。おしまい。こんな感じだ。
 それで、人々は、終わった話を、もう終わったのだから、しなくなる。すると、その後の人たちはそれを知らない。知らないことが前提になった上で、話がなされることになる。もちろん社会科の教科書にはなにがしかのことは書いてあるのだが、そこには、今述べたようなことが、もうすこし詳しく書いてあるだけだ。そして、たしかに位置づけにくいものである当時の「騒動」についてはほんのわずかふれられるという程度のことになる。
 そして当時の人たちで、不正なこと不当なことがあると思うからことを始めた人たちで、その後もそれをやめてしまうことのなかった人たちにしても、それを、「体制」「革命」といった言葉とともには語らなくなる。一つに、「地域」だとか「現場」の方に行くことになる。介護(介助)とか障害者運動に入っていった人にもそんな人たちがそこそこいる。そんなあたりと関係のある本として、かつて大阪に住んでいて今は千葉県の淑徳大学の教員をやっている山下幸子さんの『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(生活書院、二〇〇八年)がある。とくに本誌『そよ風のように街に出よう』の成り立ちにも関係する大阪の運動がとりあげられ、介護(介助)者・健全者の集団としてあった「グループ・ゴリラ」やそこに関わった人たちが出てくる。その人たちと障害者本人たちとの関わり、起こったこと、思ったことが書かれている。それはそれで意義あるもので、読んでもらいたい本なのだが、私の場合は東京でなのだが、そういう場にあった気分のようなものを末端の方ですこし感じていた私には、やはり、「体制」という枠組と、そこからの離脱という要素があったよなと思うところがある。幾人か、そんな人たちの顔を思い出すこともできる。
 まず、いくらか「体制」関係の運動に実際に関わった人もいる。それに肯定的なまま、しかし組織の方が衰退したりして、続けるにも続けようがなかったという人もいる。またそこで言われていることが空虚であると思ったり、自分でも演説などしたことはあるのだがわれながら空虚であると思って、気持ちも離れていく人たちがいる。多くの人たちはその後、普通に就職などする。「日常」に回帰していく。ただ中には、信条として、心情として、あるいは偶然のようなことで、あるいはそのすべてが絡み合って、そうはならなかった人たちがいる。また、派手にやっている人たちを横目に見ながら、あんなことをしてもだめだろうと思いつつ、気分としてはいくらかを共有し、「日常」に行くことにならなかった人たちがいる。しかしこれらの人たちも、飯は食わねばならず、金を得なければならない。
 いくらかの人たちは、いくらかはその思想・信条・心情に関わる部分を混ぜこんで給料・収入の得られる仕事をしていった。小学校や中学校、高等学校や大学の教員だった人、それを続けた人たちがいる。そして、医療や福祉関係の仕事、出版関係の仕事をする人、公務員、労働組合の専従職員等々。ただ、そこに乗らなかった人たちもいる。その中のある部分が、やがていくらかの金が出るようになった介護の仕事をして、とりあえず食いつなぐ。専従で仕事をするようになる。なんとか食べられるようになる、そして今は自立生活センターなどでそれなりの役を担っている、そんなことがある。
 そうした人たちにとって、「体制」はなかなかに微妙なものである。「武勇伝」を語る人もいる。あまりくどい話でなければ、私もそんな話をうかがうのは好きなので、うかがう。どこぞの空港――などと書いているとわからない人がいるので、「成田空港」――関係の仕事で――などと書いているとわからない人がいるので、農地を取り上げ空港にするのに反対する運動が長くなされてきた――どこぞに何か月か寝泊まりして云々、といった話であるとか。もう亡くなった方なのでよいと思うのだが、ビールを飲みながらの歓談の場で、日本赤軍がどうであったとか、銃がどこぞに隠してあるといった話をうかがったこともある。
 他方に、むしろ同時に、空論に対する空しさ、理屈に対する反感あるいは拒絶感もある。もともとの性格としてという人もかなりいると思うなのだが、寡黙で、黙々とたんたんと自分の仕事、例えば介護の仕事をする人がいる。何も考えてない人もいるし、何も考えないことにする人もいるし、考えているがそのことを言わない人もいる。すると、「当事者」がもっぱら語る、主張する、それに基本的には口をはさまない、支援に徹するという構図は、そうわるくないということでもある。
 そして、語る人書く人もいる。いるのだが、その人たちの中には、かつての「硬直した思想」を反省的に語り、「理屈やない、現場や」みたいなことを言う人がいる。例えば、精神医療業界・学界の改革に関わった人に小澤勲さんがいる。二〇〇八年に逝去された。当時の著書として『反精神医学への道標』(めるくまーる社、一九七四年)、編書として『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』(田畑書店、一九七五年)がある。また『自閉症とは何か』(悠久書房、一九八四年)という大著がある。これは二〇〇七年に洋泉社から復刊された。その小澤さんは、後に『認知症とは何か』(岩波新書、二〇〇五年)がよく売れて、その方面の人としてよく知られることになった。翌年の編書『ケアってなんだろう』(医学書院、二〇〇六年)で、「新進気鋭」の社会学者(私の同僚でもある)天田条介さんと対談をしているのだが、こんな感じだ。
 天田「ただ先生、いくつかの価値が同居しつづけるためにはそれなりの足場があるのかなと思うんです。」
 小澤「足場ねえ。わからないけど、やはり生涯、ずっと現場に居つづけたということでしょうかね。」(二〇三頁)
 そして他の箇所でも、かつての自分の「政治主義」が自省される。そして、山田真さんも基本おしゃべりなので、たくさん書いたりしゃべったりするのだが、『流儀』のインタビューでも、やはり「わりきれないこと」について、「寄り添う」ことについて語っている。
 しかし、では、「体制」の話はここで終わりになっているかというと、それもそうではないのだ。そうでないのに、流行らなくなってしまったのはよくないことだと思って、それで考えているようなところが私にはある。
 変わればよいと思った人たちがいた。そう思ったことの基本は間違っていないと私は思っている。ただ実際にうまくいかなかったのも事実ではある。そこをただ考えてどうなるものでもないということはわかっている。しかし、そんな当たり前のことはわかった上で、もうすこし考えて続けてみようと、もとの方から考えようと思ってきた。それでいくらか「前の世代」に対する不平不満のようなことも、幾度か、言ってきたのだ。始めたことを中途半端に放り出してしまった、それはよくない、だから仕方なくこちらが考えたりしなければならないというわけだ。
 それは、まったく新たに考えるということではなく、いまの引用で小澤さんが「足場ねえ」と言った、その「足場」を、なにかして言ってみることだったりすると思う。さきの『流儀』という本でも、私は、山田さんに、やはり山田さんたちが「体制」が問題だと言ったのは、基本、正しいはずだと言っている。そしてその足場を確認しながら、社会を構成する様々な部品について、部品の組み合わせについて考えることだと思っている。
 そしてこの時、障害者に関わる動きは、「大きな話」にうんざりしたところから始まっている部分もありながら、しかし、「国家」に関わり、「体制」を問題にせざるをえないところがある。まず、障害者が損をしているのはこの社会のもとでのことであることは直観され、間違いのないことだと思われる。そして社会運動に関わっていた人のある部分が障害者運動の方に流れてきたのも、このことが関わっていると思う。その人たち(のある部分)は革命を巡る理屈、空理空論を信じることはできなかったのだが、社会に対する憤り、不満は持っていたし、そこから行動も発しているのでもあった。この時、障害者に関わる運動、支援の活動等は、社会の不正と運動の正当性がはっきりしているように思われる。
 そこで始め、続ける。それは面倒なことでもある。他の社会運動であれば、それをやめても自分は本当は困らないというところがある。で実際にやめてしまうことにもなる。しかし、暮らしていくために、国家に要求したり拒否したりすることを、やめたくてもやめられないという部分がある。障害者絡みの運動は、その人たちが生きる限りはなくならないので、放棄ということにはなからなかった。そしてその国家との関係は、たんに拒否し、独立すればよいということでもない。正義感に発するものの多くで、反抗心からなされる運動の多くで、国家は敵として、拒絶の対象として現われる。勝ち負けは別として、構図は単純である。そして負けたらやめればよい。実際にやめられる。しかし、個々の人はともかくとして、障害者運動は、その総体としては、「体制」を、すくなくとも国家から逃れることができない。これが、前回、「嫌いだが別れられないということ」という見出しの箇所で述べたことである。生きるために受けとるものがあるとしよう。そして、いやいやながらであれ、積極的にであれ、「公的介護保障」を言うなら、それは国家の税を使って保障せよということである。すくなくともこの立場に立つのであれば、国家を否定できない。しかしそれは敵でもある。どうするか。ともかくつきあわねばならない。
 それは、いったん社会運動、国家に抗する運動をやった後に、そこから退いて、「普通の生活」に入っていったあるいは戻っていった人たちと違うところだ。その人たちは、普通に就職して仕事をすればそれで生きていけた。けれどもここではそうはいかない。国家との関係、社会との関係を考えていく、というか、作ったり、作ろうとしたりしていかなけばならない。ここが他の運動と違うところだ。やめたり、逃げたりできている分には、体制の問題は終わったなどとのんきなことも言っていられるかもしれない。しかしそんなことを言っている場合ではない人がいる。その運動は、自らがやっていることを、その都度言葉にしていくことはないかもしれないが、それを行ないで示しているから、それを私なら私なりに言葉にしていくことができる。まずそんなことがある。
 そして同時に、どこまで「国家」だとか大きなものとの関係でものが言えるのか、そして、どの程度のつきあいをするか。基本のところも問題にされる。これは、「障害学」でいうところの「社会モデル」がどのぐらい使えるのかという問題にも関わっている。そしてまたそれは「体制」の問題としてどこまでが捉えられるかという問題でもある。
 例えば「障害者差別」はどこから来るのか。「資本主義」とか「近代社会」とか言いたくなるところはある。そしてそれは、すくなくともかなりの程度、当たっているはずだ。職場で雇用しないのは企業であり、その企業が活動している市場である。しかし、そのもとを辿っていけば、結局は個々の人間がいるのではないか。たとえば横塚晃一の『母よ!殺すな』(すずさわ書店、一九七五年、増補版、一九八一年、すずさわ書店、新版、二〇〇七年、生活書院)を読んでみよう。すると差別は、この近代・現代社会、資本主義社会のゆえであると言われるとともに、ずっと差別はあって続いてきたのだと、それは人間の「性(さが)」のようなものだとも書いてある。となると、横塚はここできちんとものを言えていないのか。そうは思わない。ではどのように言うか。そんなことを考えることになる。(この本の終わりに「解説」を書かせてもらっているのだが、そこでこのことにすこしふれている。)
 そしてそれは、ここで念頭においている時期の社会運動にもう一つあった、「敵」でなく「自分(たち)」を責める、反省するという契機を考えることにもつながっていく。そのことについて、書けるなら、書くことにする。」
「もらったものについて・5」(立岩[20100910])
□何をしようとするか+宣伝
 書かせていただくのもう五回目で、そしてまったく順不同というぐあいになってしまっている。ただ、こういうものでも読みたいという人がいくらかはいるようなので、そのうち整理しなおそうとは思っている。そこで以下繰り返しも多くなる。
 障害者運動(の歴史)のことについてはまだまだ少なくはあるが、それでもいくつか本が出されてきた。今度、私の勤め先の大学院で博士論文を出された定藤邦子さんのその論文は、関西の障害者運動、とくに「大阪青い芝の会」の運動・活動を記録したもので、知らないことがいろいろと書かれており、そしてなによりその運動とその歴史がおもしろいから、本にしてもらおうと思っている。ただそういう障害者の運動を捉えるためにも、それが置かれた時代や社会について、いくらかのことを知っておいてもらう必要があるように思うところがある。そこで今までいくらか、遠慮がちに、「体制」とか「反体制」とかのことを書いてきた。それをさらにすこし広い範囲で書いてみようと思った。
 その前に、またそのために、一つ宣伝をさせてもらいます。今度、この八月に、理論社の「よりみちパン!セ」シリーズの一冊として『人間の条件――そんなものない』という本を出版させてもらった。このシリーズ、湯浅誠の『どんとこい、貧困!』とか、このごろ売れているらしい本では西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』 とか、もう五〇冊以上出ています。私のは一五〇〇円。これでも私がこれまで書いた本の中では一番安い本です。そして、中学生からすべての人にというシリーズだということで、小学校四年生以上の漢字にはみなふりがなが付いている。一〇〇%ORANGEの及川賢治さんのイラストがたくさん付いている。手にとって読んでいただけたらありがたいです。
 そこでは、だいたいは私が考えてきたこと、中でも「能力」について、「できる/できない」ことを巡って考えてきたことを、できるだけわかりやすく、そしてこれまで書いてないこともすこし加えて、書いた。そしてその中で、(障害者運動が関係した部分については)「詳しくはこの連載を見てね」みたいな言い方もしながら、なんで、そんなことを私が考えることになったのか、右往左往したりしながら結局どんなことを言うことになったのか、個人史というわけでもないのだが、一九七〇年代の終わりから八〇年代・九〇年代と大学生・大学院生などしながら、いくらか経験してきたこと、そしてそんなところから考えてきたことを書いた。ここのところはこれまでそのままのかたちでは書いたことのないところでもあり、そこそこにややこしいところでもあり、大人でも、人によってはすぐに腑に落ちるということにはならないかもしれない。しかし、そういうことも書いた方がよいように思った。
□さらに遡ったところから始める
 この『そよ風』がその一翼を担っている障害者運動が出てきたのは一九七〇年のころからということになっている。そしてその時期は、「大学闘争」とか「大学紛争」とか言われるものが起こっていた時期とほぼ重なる。そしてそんなことが起こったのはこの国に限ったことではない。その時期にベトナム戦争があって、それに対する反戦運動が、泥沼の戦争を続けていた米国他で起こった。日本にもあった。また日本では、水俣病をはじめとする公害・公害病の問題が――やはり日本だけではないが――ようやく知られるようになったということもあった。障害者の運動もそうしたものと無縁ではない。どのように無縁ではないのか。
 私は、その盛り上がったことになっている時よりは約一〇年遅れて大学に入った。その時代の直接の体験者ではない。私が二十世紀の偉人であると思う横塚晃一――「青い芝の会」の活動を担った人たちの一人――が亡くなったのは一九七八年だったが、その頃、まったく私はその人のこと、その人たちのことを知らなかった。ただ一九七九年に大学に入った時、大学の自治会で「養護学校義務化」反対の人たちと賛成の人たちが争っていた。その反対の側の人たちにいくらか関わることになって、そうして横塚や青い芝の会や「全障連(全国障害者解放運動連絡会議)」のことをすこし知るようになった。そうしてやがて、いつの頃か、横塚の著書『母よ!殺すな』を読んだ。初版は一九七五年に出ている。増補版が一九八一年に出ている(ともにすずさわ書店刊)。絶版・品切れになって長かったその本を、生活書院がこれまで収録されていなかった様々な文章・資料とともに二〇〇七年に再刊することになった時、私はその「解説」を書かせていただいたのだが(この部分はHPで読めます)、もちろん、当時、そんなことになるなどといったことはまったく思いもしなかった。
 その一〇年遅れのその時期に私(たち)がどうだったかは、この連載の第2回(七六号・二〇〇八年)「就学闘争のこと」「学校について思っていたこと」「変革、は無理そうだったこと」「もう少し考えていようと思ったこと」にすこし書いた。そこでは、世の中ひっくり返そうみたいな話があったのだが、どうもそれは無理みたいということになり、それで、「撤退」ということになったこと、私は「それで終わりかよ」と思い、途中で投げ出した人を恨みながら、というか、「途中で放り出してしょうがねえ人だちな」と思いながら、じゃあ自分ならどうするのか、どうしたもんやら、すぐにわからないで、右往左往というような話を一つした。『人間の条件』にもそのことを少し書いた。
 で、障害者運動の側には、そういう「革命」とかいった場から降りたみたいな、いや降りてないみたいな人たちが一定流れてきたということがあったことを、前回・第4回(七八号・二〇〇九年)の「気持ち」「「体制」」にもやはりすこし書いた。そして障害者の運動について言えば、世の中を根本から変えるのは無理だから、もとの「日常」に戻ろう、元通りの社会で生きていこうというのではすまないというところがあったことを書いた。ほんとのところは変わらなくもたいして困らない人は、威勢のよいことを言っても、やめることができる。勤め人になればよいのだ。だが、このままの社会で生きていくのが難しい人は、そんなことは言っていられない。だから、さぼらないで、撤退してないで、考えたり、ものを言ったり、行動したりしなければならない(第3回の「嫌いだが別れられないということ」)。すると時には妥協するということもあるし、そのことを責められることもあるだろう。そのように責める人ももっともだが、それでも、そうすることもある。では、べったりと現実に追つていくのかといえばそうではない、そうはできない。そんな感じでやってきた。それは大切なことだと私は思って、そういう動きを知ったり考えたりすることから、とにかく投げ出さずに「地道に」考えていくことなんだよなっと思って、それから考えてきたことを書いた。
 まずおおざっぱにはそういうことがある。そしてこの件については、もう一つ、「反体制」の側の内部に対立があったという事情が関わっている(このことについても少し書いたのだが、いかにも中途半端だった)。それは日本共産党とそうでない部分との対立だった。後者は、以前あった社会党のある部分でもあった。また、そうでない「新左翼」とか「過激派」とか言われていた人たちもいた。とてもたくさんの数の「党派」があって、だいたいその人たちがかぶっているヘルメットの色とかマークとかで区別されていた。あるいは「全共闘」と名乗っていた人もいた。それは「党派」と関係があったりなかったり――ないことの方を強調する傾向があったが――した。関係がない人たちは「ノンセクト」などと言ったり自分たちで言われたりした。「ノンセクト・ラディカル」といった言葉もあった。
 そういうものがいったいなんであったか。そういうことを一切合財知らない人と、「過激派」の指名手配のポスターとかでなんかそういう人たちがいるらしいと思う人と、そういえばそういうこともあった、そんな時代があったなと思う人と、そういうことに関わったが忘れることにした人と、そんな人とじつはあまり変わらないこともあるのだが、なにか俺(たち)にも元気な時代があったと思う人といる。そしてそのおもに最後のグループの人たちのために、「懐古録」「武勇伝」みたいな本がけっこうたくさん出ている。ただそうしたもののほとんどには、障害者運動との関わりは出てこない。
 それは一つに、そういう本では、何色のヘルメットの人と何色のヘルメットの人が喧嘩してみたいなことが多く書かれ、そういう争いには、障害者のことはほとんど関係がないということもある。実際には、その「党派」のある部分は、その運動に関わってはいた。そして障害者の側も、他に人手がいない時には、たしかに頼りにせざるえない部分もあった。ただ、それはたいがいその「党派」の戦略・策略の中に位置づけられ、そしてそれらの中にはときに暴力的な対立関係にあった諸党派もあったから、それはけっこうはた迷惑なものだった。そこで、むしろ、障害者運動の方にしても、また一人ひとりの生活者にしても、そういう諸党派の影響力の排除に気を使うことになった。そしてそれにはけっこうな時間がかかったのだが、まあだいたいなんとかそれに成功してきた。この時期――その前からだし、その後もそうだったが――共産党や共産党系の組織は、それと主張を異にする部分、というか共産党に反対する人たち・集団を「極左冒険主義」「暴力集団」などと言って攻撃していた。そして障害者に関係する部分についても、そういう言い方、攻撃の仕方をしたのだが、それにはいくらか曲解という部分があった。むしろ運動側は諸党派の影響を排除しよう軽減しようと努めていたところがあったからだ。
 ただそのことは、共産党(系)の組織・人たちとそうでない人たちの間の主張の違い、対立が重要でなかったということではない。むしろ私は重要だったと思う。さきにけっこうこくさんあるというその当時を回顧した本たちには、たいがい「新左翼諸党派」の間の主導権争いだとか、衝突だとか、また警察の機動隊とやりあった話であるとか、そういう勇ましいというか血なまぐさい話が書いてあることが多いので、障害者運動の関係のことは出てこないのだが、それと別に、障害者運動、医療や福祉に関わる様々な批判的な運動、できごとについて、さきにも書いたように、私はかなり「遅れてきた」人なので、現場的にそう知っているわけではないのだが、けっこう共産党系とそうでない「左翼」の側との争いは大きな意味をもっている。そこのことにほんのすこしは触れてきたのだが、もうすこしちゃんと言っとかなければならないと考えた次第だ。
 ただ、そのことを含めて、いったい日本の障害者運動(の一部)がどんなものであったのか、あるものなのかを言うためには、さらに、遡ったところから言っておかなければならないようにも思った。そういうわけで、ますます順序が無茶苦茶になってしまう。すみません。
□「左翼」
 「左翼」という言葉が、なにか最初から人をばかにする言葉、こいつはばかである――というのは差別語なんでしょうか――ことを言おうとする言葉として使われたりもすることがあるようだ。そのようなことを言う人たちにまったく関心がないのでよくは知らないのだが、よいことであるとは思わない。私自身は、もちろん――これから書くように、言葉の使い方によるのだが――穏健な左翼といったところだと――穏健でない人たちはそう言ってくれないかもしれないのだが――思っている。だからというわけではないが、あまり馬鹿にしてはならないと思っている。
 で、「左翼」って何か。各種辞典でも、HPならウィキペディアでもなんでも見てください。その語源はフランス革命革命後の国民議会で議長席から見て左側の席を、革命の急進主義を支持する勢力が占めたことにあるそうだ。
 で、中身としては、それは何か。それにはいろいろな意味の込め方があると思う。ただその一つの大きな部分は、貧困とか、不平等とか、いまどきの言い方では大きな格差のある現実に対して、そうではない社会がよい、そうでない社会にしようというところにある。(では「右翼」はその反対の人たちなのか。必ずしもそんなことはないところがすこし複雑なのだが、それはここではよしとしよう。)
 それをどのように言うのか。一つにそれは、資本家と労働者との間の対立を重要な対立だと考えるものだった。そこでは「搾取」という言葉が使われた。(今ではこの言葉もあまり使われなくなっている。この言葉を全面的に捨ててよいかというとそうでもないと私は考えてもいるのだが、そのことは、やはりここでは、おいておくことにする。『人間の条件』他に少し出てくる。)それは、労働者たちが十分に働けているのに、実際に働き、たくさんを生産しているのに、そうして生産されたもののからたくさん資本家が取ってしまっている、ピンハネしている、だから労働者は貧乏なのだと、それはいけないのだと、だからこの資本主義をやめてしまえばよい、別のものに取り替えればよいというのである。もちろんそのことだけを言ってきたわけではない。取り分(賃金)のことだけでなく、働き方・働かせられ方も問題にされたりした。そのことにも関係して、では資本主義とは別のものとしてどんなものがよいのかについてはいろいろと考え方があった。
 その一つのしばらくわりあい主流だったのが、労働者(プロレタリアート)を代表・代理する国家が企業を所有し、生産を管理すればよいというものだった。で実際にそういうことにしてみた国々があった。その最初が今はもうなくなってしまったソビエト連邦(ソ連)だった。その後いくつかがそんなことをしてみた。さすがにそんなことぐらいなら、中学校の教科書にも書いてある(のではないか)と思う。そしてそれがうまくいかなかったことについては、たいがいの人が同意する。生産・流通・消費がうまくこといかなかった。また、権力を集中させたことで、資本家ではないがしかし特権的な人たちが出てきた。そこでの勢力争いもあったた。体制を変えてもまだ敵が残っているとか、そんな理由で迫害も行なわれた。そしてそれはたんに被害妄想だとか、権力闘争だとかというだけのことでもなかった。そういう体制を支持しない国々の方が多数派で、そうした国々に包囲されて、革命がなされた後の体制を弱め覆そうというという力は実際に働いていた。それは経済を苦しくさせることにもなった。
 それでそういう体制がおおむね崩壊したのだということになっている。だいたいのところは認めてよいと思う。私にしても、中学や高校の時に、ソルジェニーツィンという人の『収容所群島』などといった小説を読んだりして、まずこの世で一番気持ち悪いというか、ぐったりした気分になったのはそういうできごとだった。ただ、そういう「弱点」「犯罪」自体は、相当に以前から、日本であれば第二次大戦で負けてたらそう経ってない頃には知られていたことではあって、その上で、「左翼」であるままで、そんなことにならないようにどうしたらよいのかということもずいぶんたくさん考えられ、試みられてきた。例えば国が全部管理するというのではなくて、一つひとつの組織を労働者たちが自分たちで管理するようにしたらよいといった案(「自主管理型社会主義」)もあり、実際にやってみたところもあった。また、結局、かなりの部分については自営・私営を認めるといった「妥協」もなされるようになった。市場経済を導入しようということになった。それでも結局うまくいかなった、だからそれは、例外的な幾つかを除いて、それなら普通に市場経済・資本主義でやっていった方がよいのではと思えるようなところなど幾つかを除いて、終わったのだという話になる。それも認めてよいところはあると思う。
 けれどまず、そういう失敗・不具合は、結局もとの経済体制に戻すのがよい、それが一番、ということにはならないこと、それが一つ。(私がものを書いているのも、もちろん、そんなことがあってのことだ。最近のものでは、さきに紹介した中学生以上向けのと、『税を直す』、『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』、二〇〇九年と二〇一〇年、ともに青土社)。そして、抑圧的な政治・経済体制を熱心に批判してきた左翼もずいぶん前からたくさんいたのであって、ばかな人たちがとことん壊れるまでばかな体制に疑問を持たなかったということもない。そして、代わりにどうしたらよいものかという問いは、まだなくなったとも言えない。まずここまでのことを言っておう。この四十年ほどの間に様々になされてきた「協働」の試み、例えば「共同運(差別とたたかう共同体全国連合)」(→NPO法人共同連)がやってきたこと、やろうとしてこともそうした試みのある部分だとも言える。(当方のHPに機関誌の目次とかあります。青木千帆子さんが作ってくれました。「生存学」で検索→「arsvi.com 内を検索→「共同連」とかで出てきます。ちなみに「共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告」という短文を、二〇〇五年に『共同連』一〇〇号記念号に載せてもらったことがあり、それは二〇〇六年・青土社刊の『希望について』に入っています。)
 ただここでは、すこし違うところから、もっと「根」のところから見ていきたいと思う。つまり、「働いているのに取り分が少ない」という言い方で、そこから話を始めてよかったのかということだ。それは、本当は仕事はできるし、実際にできているのだが、それに応じただけ報われていないという話だ。
 私は、わりあい最初から、この話には乗れないなと思っていて、むしろ今の方が、こういう言い方にもいくらか理があると思いなおしているぐらいだ。では、なぜ乗れないと思うのか。それは障害者のある部分にとっては当たり前のことだと思う。「働けない」人にとっては、働きの一部が取られている、その全部を取り戻そうといった話をされても、よいことはないということだ。もちろんしかじかの条件があれば働ける、十分に働けるという人がたくさんいるのもその通りのことで、だからそのための条件を整えるように要求することがなされてきたし、それは正しいことだと思うし、その成果があがってきた部分もある。それもよいことだと思う。しかしそれでもやはり、できないものはできない、こともある。いろいろとできるようにすることによって、できて受け取れるようになることになることもあるとして、しかしそれだけでは「浮かばれない」ものがあるということだ。
 もちろんいつの時代にも、不平不満はあったし、生活の困窮はあった。だから、とにかくなんとかしてくれという要求はあった。そして、その主張のもとのところに平等という理念はあったから、そういう要求は「左翼」「革新」からなされる。またそうした集まりには入らない人たちからも、なされる。憲法にだって「生存権」のことは書いてあるのだ。だから、もちろん、何も言われないわけではない。実際の政治を動かしているのは政権党だから、政権を動かしている政党にすり寄ろうということも当然出てくる。ただ、左翼も、そしてやはりもちろん左翼でない側の人たちにもしても働いて受け取るという図式が基本にある。私がここで言いたいのは、左翼の側にあった思想「にしても」、働いて受けとるという枠組み(から受け取りが少ないことを言う)を受け入れていた、だから基本的には「体制」の側に乗っているということなのである。そうすると、この枠組みに乗らない人たちは、仕方がないのだ、こんなに困っているのだと、大変なのだと、悲惨なのだと、自らからや、あるいは「親(自分)亡き後」の子のことを訴える。救済を求める。そうするとその一部の要求は受けいれられる、施設でも作ってあげましょうということにもなる。そしてその前に、とにかくできるようになれば今よりはよくなるのだから、その方向での実践がなされる。
 そういう枠組みを変える、少なくとも疑うことがなされるようになることをこれから見ていくのだが、ただ基本は、今でもそうは変わっていないということもできる。逆の順番でもう一度言えば、すこし、いくらか、変わってくる。そんなことに関係することが、これから述べる時期にもあった。例えば一九七四年三月、今までよりは広い範囲で労働運動をやった方がよいということになって、「国民春闘」ということなり、そこで障害者団体との共闘が始まる。障害者行動実行委員会(障害者団体、春闘共闘委等)が福祉要求で統一行動を行なう。このあたりの、乗るには乗るが、しかし信頼しきることはできないといった気持ちは、さきにあげた横塚の『母よ!殺すな』の中にも出てくる。そして結局、春闘共闘は賃上げ三万円、障害者一時金二千円で妥結し、批判される。やはり、問題はこの社会の基本的なところにあるということになる。
 私の場合、そんなことを思ったのは、べつに障害者運動のことを知ったからというわけではなかった。むしろ、どんな人でも、いろいろなことが、様々な度合いで、できたり/できなかったりする。とすると、この社会では、そのことに関わって損得が違ってくる。その意味では、ある人たちとは言葉の使い方が違うかもしれないが、すべての人が様々な場面でいくらかずつ、障害者であると言ってよい。そしてそのことは、その損得の度合いが、人によって人が置かれている社会のあり方によって著しく異なることを軽視してよいとかいうことではまったくない。もちろんその損得の度合いは、その人の能力によって、そしてどんな能力を社会がどの程度必要とするかによって大きくは変わってくる。だが、小さいにしても大きいにしても、その損得の差があることがよいとは思えなかった。そういうあたりが私の出発点になっている。そういう場から考える人にとって、そういう考えを自分のものにしていると思うのが、日本の――ととりあえず言うことにするが――さきに記した時期以降の障害者運動であり、そしてその当時に現れてきた社会運動だったと私は思った。直接に影響されてということではないと思う。ただ私と同じことを思っている人たちがいると私は思い、そしてそういう人たちのことを知ったり、やってきたことを調べてみようと思ったりしたのだ。
□やがて、という話もあるにはあったが
 するとなぜ、労働と労働者を基本に置いて前面に出して闘い、その立場から別のものを作ろうとしてきた運動と別のものが、同じ「左翼」から出てきたのかということになる。
 ただ、その前に、「労働者の王国」という方向の発想とは別に、というか同時に、それとはいくらか違う、というよりずいぶん違う社会像が、同じ運動の中にあったこと、同じ人にあったことは言っておかないと公平ではない。
 カール・マルクス(一八一八年〜一八八三年)という人がドイツに、イギリスにも住んでいたが、いた。私は今までにたぶん一回だけその人の書いたものにふれたことがある。『自由の平等』(二〇〇四、岩波書店)という本でだった。それは「ゴータ綱領批判」(一九八五年)という文書だった。と書いて、その自分の本を見たら、そうではなかった。たしかに註でその文書のことは出てくるのだが、そこではその内容を直接に紹介していない。
 ただそれと別のところの本文に、私の文章として「人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行う。人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行う。」というところがある。「ゴータ綱領批判」にある文章はそれとはすこし違うのだが、だいたいそんなことが書いてもある。
 それは、労働者が働いたものをほんとは全部受けとってよいのだという主張とは別の方向のものであることはわかってもらえるだろう。ではなぜ、そんな違う趣向の話が、同じ人の中にあったのか。私はその人の専門家でもないでもないので、よくは知らない。ただ、その人自身の話の中で、あるいはその後のその人の話の解釈として、最初は、まず「労働者の王国」を打ち立てるのだと、そのために企業だとかそんなものをみな、労働者を代表し代理する国家・政府が接収し、運営する。そうやってやっていくと、だんだんと生産も増えていくし、人々の意識も変わっていく。すると、やがて、「働く人は働く、受けとりたい人は受けとる」という社会ができる。そんな筋になっていた。そして前者の、第一段階が「社会主義」の社会であり、後者の、その次の段階の社会が「共産主義」の社会である、だいたいそんな粗筋になっていたと思う。
 するとまず、その先の社会を夢見ながらも、まずは第一段階を、ということになる。マルクス主義という思想・主張は、いろいろな面をもっているが、だいたいはそんな感じだった。だから、理想・夢想と、その前にやっておくべき戦いの主張・戦術とが両方ある、そんな感じになっていた。
 となると――おおかれすくなかれみながそうだとは言ったが、しかしそのおおかれすくなかれの度合いはずいぶん大きくもある――障害者たちにとっては、それまで待っていなさいということになる。それで納得した人というのがいたのかどうか。いたのかもしれない。しかし、なんでやがてそうなるのだろう。やはりそこはわからない。わからないので、私には現実味のないことだと思えた。
 そしてそんなことを私が思っていたその手前の時代に、「左翼」ではあるのだが、労働・労働者を、生産・生産者を前面に出すことをためらう、別のことを言おうとする人たちが現れた。それがさっき述べた、一九七〇年の前後のことだった。続く。」
「もらったものについて・6」(立岩[20110125])
□「左翼」の間の対立のこと
 昔話をしているのだが、わりと個人的なことを書き始めて、そうしたら、それだけではやはりいけない、というかわからないだろうなと思って、「時代」とか「状況」とかに中途半端に触れることになり、完全に筋立てがごちゃごちゃにというか、なくなってしまっていて、すみません。そのうちまとめなおして、本の一部にするなりしますので、かんべんしてください。
 日本共産党やその系列の組織・人――それに冷たい人たちは「日共」という言葉を使ったり、その政党の本部がある場所をとって「代々木(系)」等と呼ばれてもきたが、以下「α」とする――と、その主張と別のことを言った人たち、反対した人たち――「反代々木(系)」ということにもなるが、以下「β」とする――がいたことに、何回かふれてきた。その話をすこししておこうと思う。
 α・対・β全般については長々とした歴史があるのだが、私はそう知っているわけでもない。そしてその方面についてはマニアな人たちがけっこういて、たくさん出版されたものもあるから、障害者の運動に関係するところで、まず名前だけ挙げておく。
 一方のαの方では、まず「全国障害者問題研究会(全障研)」(一九六八〜、そのHPによれば会員数は五千名)がある。こちらが研究会を称しているのに対し、運動団体であることを明示し実際そうした活動をしている団体として「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)」(一九六七〜)がある。そして各地にありその数を増やしてきた作業所のかなりを会員組織とする「共同作業所全国連絡会(共作連)」(一九七七〜、現在の名称は「きょうされん」)がある。「共作連」などについては、とくに加盟している個々の作業所やそこにいる人たちはその「党派性」を意識していない、というか知らないということもあるだろう。それを切り盛りしている人たちも否定するのかもしれない。それはそれでもかまわないが、人的にその他、つながりがあってきたのは事実ではある。例えば『障害者の人権二〇の課題』(障全協・共作連・全障研編、一九九二)といった本が全国障害者問題研究会出版部(全障研出版部)から出版されるなどしている。
 他方、β、そうした組織の方針と別の流れの主張をすることになった組織として、脳性まひ者の組織である「青い芝の会」(一九五七年結成だが、前段に記した団体と対立する主張を展開するのは一九七〇年以降)が知られている。この組織は、その構成員の多くの出自もあって――大学など出ている人はきわめてわずかだった――学生運動との直接のつながりはなかったし、また一九七〇年代以降においても、基本的に新左翼系も含め政治組織の介入に対しては警戒的だったが、運動を展開する過程で、共産党やそれに近い組織との差異・対立が明らかになっていった。他方、当初から共産党系の――とみなした――人たちとの対立をはっきりさせていたのは、いくつかの(一時期の)学会(の運営を左右していた部分――後述する)であり、また「全障研」との対決姿勢を明示して登場したのはe「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」(一九七六〜)だった。この団体はとくに「障害児教育」の方向を巡り、「養護学校義務化」(一九七九年実施)を巡って、それを基本的に支持した「全障研」を批判することに精を出した。また「障害児を普通学校へ全国連絡会」(一九八一〜)も義務化反対の運動を継承した。そして、「共作連」と比べればはるかに小さな組織ではあるが、それと違う労働の場のあり方を求めて「差別とたたかう共同体全国連合(共同連)」(現在は「(NPO)共同連」)が一九八四年に結成される。そして本誌『そよ風のように街に出よう』(一九七九年発刊)も、そして『季刊福祉労働』(現代書館、一九七八年発刊)も、そういう流れの中にある。
□なぜそんなことを今さら言うか
 本誌にしても、当初からの作り方として、そんな争いを前面に出すことは――そのことの意義はそれとして認めてきたと思うけれど――なかったと思う。そこで、対立のことは知った上でこの雑誌の「乗り」を支持する人もいるのだが(私もその一人だ)、そんな人は少なくなっているのかもしれず、知らない、あるいはちょっと聞いたことがあるという人の方が多いのかもしれない。そしてここで紹介した組織が多数派の組織であるというわけではまったくない。会員等の規模からいえば、前政権の時にはその政権を支持する組織でもあった「日本身体障害者団体連合会(日身連)」がある。また知的障害者の家族(親)の組織として「全日本手をつなぐ育成会」(一九五二年に「精神薄弱児育成会(手をつなぐ親の会)」として発足、以後名称を幾度か)があり、精神障害者の家族の組織として一九六五年に結成され、二〇〇七年に破産・解散した「全国精神障害者家族会連合会(全家連)」があった。そんなものも含め、過去から現在、いろいろなことがあったわけで、その全部を追っかけて書いていたら、時間がどれだけあっても足りないし、紙もたくさんいる。そして現在、運動体の陣容もいくらか変わってきている。なぜわざわざ、と思うかもしれないし、私自身もそう感じるところはある。そして、ともかくαの人たちが真面目な人たちであることは、不真面目な私がよく感じることであって、様々に尊敬できる部分があるとも思っている。「民医連」というその系列の病院の「倫理委員」というものを務めてさせていただいたこともあり、その時にもそのことは感じた。両方の意見が一致するところも多々あると思うし、いっしょにやれる部分はやって行ったらよいと思う。そういう意味でも、ことさらに差異や対立を強調したいとは思わない。
 けれども、それでも、いちおう押さえておいた方がよいと思う。それなりに注目すべきところがあると考えるからだ。
 αとβとが対立したのだが、その両方が「左派」であった。ここがまずここでのポイントである。政治的な対立は、普通には、というか伝統的には、「右」と「左」の対立ということになるはずなのだが、ここではそういう構図になっていない。もちろん、アメリカ合衆国のように左翼(政党)自体がつぶされてしまったような国は別として、「左翼」における対立は日本に限って起こってきたことではない。「既存」の左翼(政党)に対して、「新左翼」とか「極左」と呼ばれるような動きはいろいろな国に存在してきた。それらにはそれぞれの国の事情があり特色があったと思うのだが、ただ、障害者に関わる運動にこの対立の構図が関わったのは――各国の事情をよく知らないままで言うのだが――日本に特徴的なことではないかと思う。
 仮にそうだとして、それでもたんに珍しいということであれば、それはそれだけのことだ。私はそうでもないのではないかと考えている。というのは、厳しい対立が起こると、片方は片方と違うことを言うことになる。そして片方が、改革的であるなら、もう片方は「もっと」ということになる。よってそれは「あぶない」「あやうい」話をしてしまうかもしれない。しかしだからおもしろいかもしれない。実際そのように捉えることができるように思えるところがある。
 一九七〇年代(以降)にあった実際の大きな「争点」は、幾度か触れてきたように、養護学校の義務化を巡る賛否だった――αの人たちは賛成し、βの人たちは反対した――から、βの人たちが相手にしたのは、「障害者問題」の全般に関わりながらも、「療育」「教育」に関わる研究者や教員や施設の職員や親たちが多くいて――加えて「本人」たちもたくさん参加していることも強調された――「発達保障」を掲げる「全国障害者問題研究会(全障研)」であり、その運動・主張を担う人たち、代表的な人物としては田中昌人(一九三二〜二〇〇五、京都大学名誉教授)や清水寛(一九三六〜、埼玉大学名誉教授)といった人たちだった。そしてこの人たちの著書等を、βの側の人たち、後述の「学会改革」の一翼を担った日本臨床心理学会にも所属してその改革に関わった(そして後にそこから別れて社会臨床学会を立ち上げた人たちの一人でもある)篠原睦治(一九三八〜)や、小児科医(東大病院→靜岡大学)の石川憲彦(一九四六〜)が取り上げ検討し批判するといったことがなされた。
 それでまず私(たち)が勉強させてもらったのはその人たちが書いたものだった。本では、例えば篠原の『「障害児の教育権」思想批判――関係の創造か、発達の保障か』(一九八六、現代書館)や石川憲彦の『治療という幻想――障害の治療からみえること』(一九八八、現代書館)がある。後者の本は一九八二年から八七年まで『季刊福祉労働』に連載された「「障害」と治療」がもとになっている。それより前には山下恒男の『反発達論』(一九七七、現代書館)といった本が出されている。他に日本臨床心理学会編の本が何冊か、等。それらに書かれてあったことは、当時それらを読んだ私たちのかなり「根」の部分に影響していると思う。それらを、そしてその時には私は読まなかったαの側の議論――不勉強で、というか、あまり勉強する気になれず、βの側の人たちによるαの側の主張の紹介を読んだだけだった――を振り返るとよいのかもしれない。ただ、今私がすこし過去のものを読んでみたりしているのは、その隣にはあったが、すこし違う部分もある流れだ。それは障害者運動における対立の少し前に始まっている。以下そちらの方について。
□リハビリテーション・精神医療
 青土社という出版社から出ている『現代思想』という月刊誌に、ずっと連載をさせてもらっていて、しばらくここに書くことに関係することを書いている。その十一月号と、今朝(十一月十五日)原稿を送った十二月号の掲載分(第六〇回・第六一回)が、「社会派の行き先」の1・2ということになっていて、まだ終わっていない。さらに、その前の3月分は「社会モデル」という題で、序・1・2となっている。何が気になってながながと書いているのか。
 「身体をなおす」のではなく「社会を変える」という主張がある。障害者運動のある部分はそういうことを言ってきたように思う。またその流れを汲む「障害学」で言われる(「個人モデル」や「医療モデル」に対比される)「社会モデル」もそんなことを言っているように思う。ただ、それらにしても実際にはそうはっきりそう言っている(言えている)わけではなく、それを言い通せるだろうかという気がする。それに対して、個人も社会も、医療も社会も、どちらも大切だと言う人がいる。そして常識的に考えるとそちらの方に分がある感じがする。
 そして、「どちらも」と言った人たちの中に、その連載でわりあい長々と取り上げている人としては上田敏(一九三二〜、東京大学附属病院リハビリテーション部の立ち上げに関わる、一九五九年に東京大学医学部教授)という人がいる。日本のリハビリテーション(医学)の世界では最も知られている人だと思う。またすこしだけその文章を引用した人として精神科医の臺弘(台弘・うてなひろし、一九一三〜)という人がいる。またその前に臺の前任者ということになる秋元波留夫(一九〇六〜二〇〇七)という人がいる。これらの人々は共著書を幾つも出すなど、互いに付き合いがあった。そしてその人たちは党派色をあまり前面に押し出してきた人たちではないのだが、これから記すα系――と言うと乱暴だと言う人もいるのだろうが――の組織、「共作連」等の活動に協力したりもしている。
 そして――障害者運動におけるということではないのだが――αとβの争いが一つの軸としてあった、一九六〇年代の末以降の「大学闘争」(あるいは「大学紛争」)の発端(の一つ)は東京大学の医学部での出来事で、これらの人々は直接・間接に、そのこと、それらの後のことに関係している(させられている)。この時秋元は既に大学を辞めている(一九五八〜一九六六・東京大学医学部教授)のだが、その後任の臺(一九六六〜東京大学医学部教授)は、闘争・紛争を始めて続けたβ側からの批判にされされることになった。一九六八年には主任教授不信任を告げられる。一九七一年三月には、二〇年前のロボトミー手術が人体実験だったと告発される。そしてそうしたことはその大学の中のことでもあったが、それだけでもなかった。日本精神神経学会の「学会改革」で、それまで中心にいた人達が、例えば――多くの人にその名が知られたのは岩波新書の『痴呆を生きるということ』(二〇〇三)といった著作によってだが、この頃には『反精神医学への道標』(一九七四、めるくまーる社)といった本を書いていて、その後には『自閉症とは何か』(一九八四、悠久書房、二〇〇七年に洋泉社から再刊)といった大著がある――小澤勲(一九三八〜二〇〇八)といった人たち、組織としては「青年医師連合(青医連)」によって――糾弾され、学会の要職を追われることにもなる。
 ちなみに、この時に東大医学部にいて、その騒動に(βの側で)加わった人としては、小児科医で、後に「障害児を普通学校へ全国連絡会」(一九八一〜)の活動などに関わる山田真(一九四一〜)がいる。その時期(以降)のことは『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』(二〇〇五、ジャパンマシニスト社)に書かれている。加えて、私が山田(とアフリカ日本協議会の稲場雅紀)に聞いたインタビューにたいへん長い註をつけた『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(二〇〇八、生活書院)があって、おもしろい(わりに売れてないので、買っていただければと)。またその同級生(だといったことはずいぶん後で知ったが)、脳死・臓器移植の問題などで発言を続けている本田勝紀(一九四〇〜)等がいる。山田は町医者になり、本田(彼の専門は腎臓病〜人工透析)は大学病院に残る。精神科の方の「東大青医連」(一九六八〜)の人たちは、「赤レンガ病棟」と呼ばれていたところを「占拠」し「自主管理」を、おおいなる非難を受けつつ――サンケイ新聞が批判キャンペーンを張ったり、国会で取り上げられたりした――続けていくことになる。そしてもちろん、βから糾弾された人たちも健在であり続け、しばらくそこは二派に分かれるといった状況が続いていくことになる。
 私が大学生をやっていた頃(一九八〇年代の初め)にも、まだその臺は悪いことをした人として、β側の人たち――全学的には少数派だったが、私がいたそのころの文学部の自治会(学友会と言った)はそっち系だった――の話に出てきたり、立て看板に名前が登場していて、それで名前を知ってはいた。ただ書いたものを読んだ記憶はない。その批判に対する臺自身の反論が書かれている自伝『誰が風を見たか――ある精神科医の生涯』(一九九三、星和書店)を手にとったのは昨年になってからのことだ。
 その「赤レンガ」には印刷機もあったので、ビラの印刷などで使わせてもらった記憶もある。古くて暗いかんじの建物だった。精神医療批判とか言っているわりに普通の病院じゃないかという指摘もあって、少なくともいくらかはそのとおりと認めざるをえないところもあったと思う。占拠した側の人が書いたものとしては富田三樹生『東大病院精神科病棟の三〇年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』(二〇〇〇、青弓社)がある。先に記したもの以外に秋山や臺が、他方を批判している本もあるのだが、紹介していったらきりがない。当方のHP(「生存学」→例えば「精神医学医療批判/反精神医学」あるいは人名)を見ていたただくと幾つか出てくる。そしてなんだかかわいいというか、不思議にも思われるのは、『東京大学精神医学教室一二〇年』(「東京大学精神医学教室一二〇年」編集委員会編、二〇〇七、新興医学出版社)といった本には、双方の人たちが、仲良く、ということでもないのだろうが、文章を寄せていたりすることである。
□折衷の方がもっともではないか、と思われるのだが
 さて、こうして話は、始めると流れ流れてしまうのではある。ただ、ここに先に述べた問題、つまり「なおすことってどう?」という問いがあることは見ておこう。実際には、医師の労働条件のことであるとか、そうしたことが大きく取り上げられていた。むしろαの側の人たちが、βの側の人たちは医療そのものを否定していてとんでもないといったことを言うのだが、実際には、そんな勇ましいことあるいは野蛮なことをβの側の人たちは言っていないし言えていない。ただ、精神神経学会が「保安処分」に明確に反対する姿勢を示したのは一九七一年になってからであることは記しておいてよいことのように思う。つまり、それを「治療」と言うか「処分」と言うかは別として、人に対する「介入」が誰のために、何のためになされるのかということがここで問題にされているということではあった。
 そしてこの時期の大学闘争(紛争)、学会改革といった動きにも呼応して、精神障害者自身の組織として――以前からあった(そして破産・解散ということで、なくなってしまった)家族会の連合体としての「全国精神障害者家族会連合会(全家連)」といった組織よりはるかに小さな組織ではあるが――「全国「精神病」者集団」(一九七四〜)等が活動を始めていく。それは本人たちの組織なのだから、医師の身分保障といったことは第一義的な問題にはなりえない。保安処分反対闘争、赤堀闘争――幼女殺害の犯人として赤堀政夫が一九五四年に逮捕され一九六〇年に死刑が確定した島田事件について、無実を訴え続けた赤堀を支援した運動(一九八九年に無罪確定)――等を展開するともに、自分たちの「病気」のことをどう考えたらよいのかを考え、ときに精神神経学会や、あるいは同様に「改革」をこの時期に始めた日本臨床心理学会の大会等に参加し――ものを言っていくことになる。その「「病」者集団」の会員であった吉田おさみ(一九三一〜一九八四)が言ったこと書いたことはとても大切なことだと私は思って、以前幾度かそのことに触れたことがある。
 こうした流れの中で、先に列挙した秋元・臺・上田といった人たちの流れが批判されたりした。そしてここで繰り返すが、見ておかねばならないのは、その人たち自身が「改革派」であり「社会派」であったということだ。
 具体的にどのようなことを言っているのかについては、その『現代思想』での連載と、やはり当方のホームページにある人や本についてのページを見ていただくのがよいのだが、その人たちは、かなり早くから、「地域」とか「QOL(生活の質)」とか「自己決定」とかそういうものが大切であると言っている。そして秋元や上田は、日本ではかなり早くから「自立生活運動」のことを――ただしアメリカで起こったとし、日本で起こったことはその流れを受けたものであるとし、それ以前に日本にあったことについてはまったく触れないか、あるいは「過激な」「暴力的な」運動として除外してしまうのではあり、それは違うだろうと思って私たちは『生の技法』(安積純子他、一九九〇、増補改訂版一九九五、藤原書店)を書いたのではあるが――肯定的に、紹介している。また上田はDPI(障害者インターナショナル)がRI(リハビリテーション・インターナショナル)のリハビリテーションの定義に対抗して示したリハビリテーションの定義を、やはり肯定的に、紹介してもいる。
 そしてその上で、(狭義の)リハビリテーション・医療と社会的な対応のいずれもが必要であると、双方が協力し協調しあっていくことが必要であると言う。現状の様々に対して批判的であり、「社会」が大切であることを認め、強調し、その上で、自らの営みもまた大切であると、「折衷」を言う。以下は――『現代思想』連載でも同じ場所を引用したのだが――「人体実験」を糾弾された臺の著書『精神医学の思想――医療の方法を求めて』(一九七二、筑摩書房)の「あとがき」の冒頭。
 「この本は東大紛争の経過を通じて、特にまた長期間にわたって続けられている精神科医内部の意見の対立の背景のもとに書かれた。精神医療における個人と社会、精神の健康と病気、治療や研究における精神主義と生物主義などの諸問題が、どれも造反は結びついて激しく揺れ動いた。私はこの本を読者のために書きながら、同時にたえず自分自身のために書いている思いがした。
 本書の内容からおわかりのように、私は揺れ動く対立的意見の中ではっきりと折衷主義的な立場をとる。私のいう折衷とは、どちらも結構ですというようなあいまいな態度ではない。対立的意見を越えて、精神医学はまず科学でなければならないことを主張しながら、それが患者のために生かされることを求めるのである。精神医学と医療は一筋縄では取り組めぬ相手である。いや、一筋縄であってはならないのだ。私は、精神主義をふりかざす相手には生物主義を、個人至上主義を主張する相手には社会を説き、生物主義をふりかざす相手には精神主義を、社会優先を説く相手には個人の尊重を主張せずにいられない。また、精神医学と精神医療のかかえている問題は、精神科医がひとりで引受けることなど出来るものではない。医療・保健・福祉の当事者はもちろん、社会全体で取組まなければ到底解決出来ないことである。」(二六三頁)
 すこし考えながら読むと、「精神主義」対「生物主義」といった幾つかの対の各項目の対置・対置のされ方が妙なのではある。けれども、言いたいその感じは伝わってはくる。二つがあるとして、どちらも大切だと言うのである。そして、そこで念頭に置かれているのは、その一つを否定し切り捨てようとする――そうして自分たちを攻撃してくる――「極端な」思想・主張である。
 それらを読むと、この人たちが言っていることはもっともであるようにも思われる。すると、αとβの対立は、常識的で穏当だが、であるがゆえにもっともなことを言った側がいて(α)、それでもそれを否定しようとしたがゆえに二つあるうちの片方の方に突っ走って行ってしまった側(β)との対立のようにも見えてくる。
 さてそういう理解でよいのかである。言えると思っている結論から言うと、私は、そうは思っていない。βの側はもっとまともなことを言ったと思っている。それをどのように言ったらよいか。それを考えて言うことが、私がその人たちからもらったものを引き継いでいくことなのだと考えている。α(の少なくともある部分)が言ったことはもっともだといったん言った上で、しかし、と今度は言い返す。それを『現代思想』では二〇一〇年十二月号の「社会派の行き先・2」の途中から始めたつもりだ。またそのことを言うための基本的な道具立てを同誌同年九月号・十月号の「「社会モデル」・1〜2」で示したつもりだ。興味があったら見ていただけばと思う。またこのすっかりぐちゃぐちゃになっているこの「連載」で、短くまとめたり、言葉を補ったりできるのであれば、したいと思う。
「もらったものについて・8」(立岩[20120125])
□一九六〇年から七〇年代についてのものすごく乱暴な要約
 前回は震災の関係について少しこちらの活動を紹介した。そう活発にというわけにもいかないのだが、ぼつぼつとやれることを続けてはいる。HPで「生存学」→「東日本大震災」に載せているので、ご覧ください。
 そんなこんなで、行ったり来たりで、書いている本人が自分が書いていることを(どこまでのことを書いたかを)なかば忘れしまっていて、さっきざっとこれまでの見出しなど辿ってみた。そしたら、一つ書いてあることは、「左翼」の運動が、もっと言えばその「左翼」のなかでの対立が、この国の障害運動にけっこう大きな影響を与えているということだった――私が知る限り、そんなことは他の国々には起こらなかったことではないかと思う。そして、その対立は、時には泥仕合のようなところもなくはなかったのだが、それだけのことではなく、すくなくともいくらかの意味があったと私は考えているし、それを引き継いで考えることが私(たち)の仕事であるとも思っている。そういうことを言いたくて、昔話のようなこともしたりしてみたのだ。ということで今回は、既に書いたことも多いのだが、半年とか一年も立てば、人はたいがいのことを忘れるからということで、重複を気にしないことにして、すこし「復習」することにしよう。
 まず、日本では、ちゃんとした左翼は共産党に、という時代があった。ただ、(もうとっくになくなってしまった)ソ連、とくにスターリン(の体制)がとんでもであるといった話はかなり前から伝わっていたし、そこらから発せられる、ころころ変わり、またそれではうまくいくはずないと思われる「指令」には従えないという人たちが出てきて、その人は「党」から除名されたりして、いろんな方向に行くのだが、一部は「新左翼」とか(「党」からは「トロツキスト」などと)呼ばれる集団の形成に向かう。
 一九六〇年の安保(日米安全保障条約)反対の時、反対した人たちはとても多様だったが、その中には、こうして共産党から離れた左翼の人たちがおり、そこには「共産主義者同盟(ブント)」たちの一群もいた(「安保ブント」などとも呼ばれる)。結局安保条約は自然承認ということになり、一時期盛り上がった運動は急速に退潮に向かう。ただ、あきらめの悪い人たちはいたわけで、そんな人たちは「次」を狙っていたということがある。そして、その間、様々な「党派」が現われ、並存することになった。そしてそういう人たち(一九六〇年に学生として参加した人たちはだいたい一九三〇年代、そして四〇年代の頭あたりに生まれた人たちだった)とはすこし離れて、いわゆる「団塊の世代」の人たち(戦後、一九四〇年代後半あたりの生まれの人たち)が出てくる。その人たちが、一九六〇年代末から一九七〇年代初頭にかけて、大学他で一騒動起こすことになった(それに肯定的な人たちは「大学闘争」と言い、そうでない人たちは「大学紛争」と言った)。その人たちは、そういう既存の党派に参加したり、あるいはとくにそういうものに所属しない人たちは「全共闘(全学共闘会議)」などと名乗った。それで、その世代は――そういうものに参加した人の数はたかが知れているのだが――「全共闘世代」とも言われる。
 ベトナム戦争が続いていて、日本や(当時はまだ「返還」前だった)沖縄を経由して軍隊や兵器が送り込まれるという状況だった。同じ時期にアメリカでもフランスでも他の国でも「叛乱」が起こった一つは「反戦」だった。さらに、日本の大学闘争は学生の不当処分をきっかけにして始まったところがあり、それは「学問」だとか「研究」だとかを問題にすることになった。また、水俣病などの公害や薬害の問題が――以前からあったのだが――広く認識された時期でもあった。
 派手にやっていたのは「突入」だかとか「占拠」だとかそんなことで、まあそれは、相手の方が力が強いわけだから、結局は潰されることになる。また、「新左翼」の中の様々な党派が「内ゲバ」を始め、激化し、人殺しの類いまで起こることになる。また一部は、武装闘争の方に行く。といっても国内ではそうたいしたこともできないわけで、例えば「日本赤軍」の人たちの中には、パレスチナだとか、外国の方に行く人たちもいて、いくつか事件を起こす。それもいくらか人々を驚かせる。
 私自身は一九六〇年の生まれで、一九六〇年のことはまったく知らなかった。一九七〇年前後のこともなんだかよくわからなかった。東京大学の安田講堂というところを占拠した人たちがいて、そこに警察・機動隊が放水やらいろいろやって、その連中を引きずり出したのだが、そのニュース映像にしても、実際にその時に見たのか、後の「再放送」を見たのか定かでない。ただ、「連合赤軍」が警察に追いつめられる中で、人質をとって「浅間山荘」に立て籠もったのを警察が攻囲した「あさま山荘事件」(一九七二年のことであったこと、警察突入時の同時中継の視聴率の各局の合計が八九・七%だったことは、いまウィキペディアで知った)は学校から帰ってテレビをつけたらやっていて、見たのは記憶している。そして、その内部でリンチ、人殺しがなされたことがわかる。
 そういう生臭いことごとが、その運動の退潮にとって決定的だと語る人たちもいる。そうなのかもしれない。そして、共産党系の人たち(その中の若い人たちの組織は「民主青年同盟(民青)」と言った、というか、言う)の人たちは、「改革」を言いながらも――ときに「防衛」のためということで、けっこう自分たちも暴力的であったこともあったのだが――、暴力反対、民主主義を守れ、等々を言って事態の「収拾」の側に立った。
□まず気分が与えられた
 以前にも書いたが、その辺りの様々については異様に詳しい人たちがいて、たくさんの本が出ているから、もし知りたければそういうものを読むのがよいのだろう(私はほとんど読んだことがない)。ただ、勇ましいというか虚しいというか、そういう本には、それらと障害・医療…との関わりについてはほとんど書かれていないはずだ。
 けれど、まずことのよしあしは別として、実際にはかなりの関係がある。それは全世界的なことでもある。例えはイギリスの「障害学」、またそれにつながる(当初は少数者の中でも少数者の動きであったはずの)運動も一九七〇年代の前半に始まるのだが、それにはやはり当時の「造反有理」の気分――この言葉自体は毛沢東が言った言葉で、今ではとんでもなかったできごとであったということになっている「文化大革命」の時によく使われ、他国も波及した、ただ、皆が皆その言葉を由来を知っていたとかそんなことはなく、つまり、そういう気分があったということだ――が関係しているだろう。アメリカの「自立生活運動」も、ヒッピームーブメントやフラワームーブメントなどと呼ばれるものの発祥地ということになるカリフォルニアから始まったわけで、そこにもなにかしらの関係はあったのだろうと思う。
 それはまず、「今までだまらせられた人たちも何か言ってよいのだ」、「偉いとか立派だと思われているものを信用しなくてもよいのだ」という気分を与えた。当時、日本の障害者の多くは学校に行けてないわけで、「学生さん」たちと直接の関係はない。けれども、そういう気持ちを得たと青い芝の会で活動してきた横田弘さん(一九三五年生)が語ったことがあることを以前に紹介した。そして私は、そういうことがとても大切だと思う。当時「理論」として示され主張されことがどれほどのことであったかと言われると、しょうしょう心許ないものがある。ただ、そういうこと以前のこととして、「造反有理」的気分は大きなものをもたらした。そしてそれは、二〇一〇年に出て、その出版社がつぶれて――というのは正確ではないのだが――今年、イースト・プレスから再度刊行された『人間の条件――そんなものない』でも書いたことだが、別に言葉でなくてもよく、例えば音楽であってもよい。政治だとか思想だとかに疎かった私もそうだった。
 そしてそんな気分というものは――その時が最初なわけでもないと思うのだが――一度生じてしまうと、起こってしまうと、基本的には、なくなるものではないと私は思う。文句を言う人が少なくなって困ると古い人はよく言うが、もし世の中が実際にうまくいっているなら、それはそれでよいことだろう。そして、結局実際にそううまくは行っていないのだから、一度、言うべきは言ってよい、言いたいことは言ってよいということが体感的にわかり、それが完全に忘れられてしまうのでなければ、言われるべきことは必ず言われる。行動は起こる。それはそういうものだと思う。
□対立がもたらしたものもあるはずだと思っていること
 ここまでは、ある程度、世界に共通したものだと思う。「その上で」、この連載?で、私が言いたいと思ってきたのは、いくらかこの国に独自に思える部分があるということだ。といって、諸外国の例をそう知っているわけでもないから、確かなことは言えないのだが、すくなくともこの国の一時期、障害に関わる主題は、「(新)左翼」(的な部分)で比較的大きな位置を占めてきたと思う。そして、そのことにも関わり、その動き・主張は、先に述べた、対立の中に生じてきたものがあるということである。
 それは冷たく、突き放しして捉えることもできる。つまり、革命という大目標あるいはそれを実現させる見込み・手段を失った時、あるいは予めないことがわかった時、それでも全面撤退ということにしないのであれば、(一つひとつは)小さいかもしれないが明らな不正がある時、そこで何かしようとする。実際、例えば大学の自治会の総会か何かで、「日本帝国主義」がなんとかであるとか言ったとして、それで何がどうなるかといえば、どうなるものでもない。それに比べれば、より具体的な例えは冤罪を告発する闘争に参画するといったことの方が、まだ何かしている気はする。
 そんな事情もあっただろう。というか、そんな「実感」は私にもある。ただ、それだけのことでもない。先にも記したように、まず、その「大学闘争」は、偶然ではあれ、医学部で始まったということもある。そして、公害や薬害、精神病院のあり方等が、その頃、ようやくと言うべきか、表立って問題にされたのだが、それらを批判せずむしろそれに加担する学者や研究・教育機関のあり方を問題にした。
 そしてその時、やり玉に上がったのは、必ずしも保守派というわけではなく、かなりの割合で「革新」の側に立つ人達だった。だいたい、口ではなんとでも言えるということはあるから、「世間」より大学といった場所の方が、そういう人たちがいる割合がもともと高いということはある。そして教育・福祉そして医療といった場は、「革新」の側にとっては「狙い目」でもあった。教育によって人々を変え世の中を変えようという思惑もあっただろうし、福祉や医療には「(社会的)弱者」がたくさんいる。その人たちの味方になって、味方につけて、そして…、ということがある。自然科学の領域でそういうことはあまり起こらないが――だから「社会」に無頓着であること、また無頓着でありながらよろしくない方向に加担していることが批判されたのだが――、例えば精神医学といった医学の中でも「周縁的」とされていた部分、狭い意味での医療だけでは対応できず「地域」や「社会復帰」とかを視野に入れざるをえない部分では、「社会派」が一定の地歩を得ることになっていた。
 そしてそういう人たちは一方ではかなり素朴なことを言う。病気から人を救うこと、できないことはができるようになることはよいことだと言う。ただ、一つ、その人たちは、今の社会をそのままでよしとするわけではないので――そのまま今の「能力観」を肯定したら、たんなる現状肯定派と変わらなくなる――今の社会で評価される「できること」がそのままよいことであるとはせず、なにかもっと大切なもの、例えば「全人的」な発達がよいとする。もう一つ、その人たちも、今自分たちの技術でできることに限界があることは認める、あるいは認めるようになる。まずなおしてみましょう、でもそこには限界があるから、そしたら「受容」しましょうみたいなことを言う。専門家も大切だけど、その人たちにできることにはやはり限界があるから、そこは「当事者」の活動が大切です、とも言う。病院だけが医療の場ではない、「地域」が大切なんだとも言う。これらはすべて、すこし後になると誰もが言う台詞になって、珍しくもなんともなくなるのだが、少なくとも、自分たちでなんでもできるとは言わない。例えば、台(うてな)弘という人は東京大学医学部の精神医学の教授だった人で、以前行われたロボトミー手術に便乗して脳の組織を(承諾なしに)使って実験したとして、一九七一年、その「造反」組(のまず一人)から告発されるのだが――そして、七〇年代末から八〇年代にかけて学生だった私(たち)も基本その告発・批判をそのまま伝承していたのだが――、他方で、その人は、その前、群馬大学にいた時、「生活臨床」といって、地域の保健師(当時は保健婦)とともに精神病院を退院した人たちの支援活動を行い、再度入院したりすることを少なくする活動に関わった人でもあった。そこで、その台という人は、「私は両方が大切だと言っている、それで間違ってないだろう」と居なおるというか、自分を正当化する。それはその人の前任者であった秋元波留夫という人もそうだったし、同じ医学部で(やはり医学部の主流とはすこし離れたところにいた)リハビリテーションの部門にいた上田敏という人もそうだった。そして、それらの人たちは――とくに養護学校義務化を巡って本誌の関係者を含む人たち、組織としては「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」や「青い芝の会」と対立した――「全国障害者問題研究会(全障研)」を率いた学者たちのようにはっきりとではなかったとしても、あまり公言することはなかったとしても、共産党系と見なされていて、そして大学・医学部の秩序を守る立場、混乱を収拾したい側にいた。
 では、「叛乱」の側はどういうことを言うことになるのか。そんなところが気になって、このところ、『現代思想』という雑誌(青土社・本屋さんで注文できます)で――昨日(十月十四日)原稿を送ったのだが、その時点でもう十三回になる――「社会派のゆくえ」という題で、とくに精神医療に関することを、まったくのど素人なのに、書かせてもらっている(昨日送った原稿は「ロボトミー」に関するものだった)。何が言えると思っているのか。実際には「叛乱」側であっても医療者・専門職の側はわりあい「普通」のことを言っていたこと、しかし、相手との対抗上というということもあり、また私が感じるところでは、とくにそれを職業とする人たちにとっては仕事の対象である「本人」たちの側は、「実感」として、ずるい感じ、騙されている感じがしたということがあったと思う。
 一つには、口ではもっともなことを言っているけれども、結局のところ「上から目線」で、「現場」に降りてくる時には、それは「必ず」違うものになってしまう、抑圧的なものになってしまうという感覚があったと思う。そして、なんだかそういう「ぬるい」言い方が気持ち悪い人たちは、「なおす」ことなんかないのだと、「発達」なんかしなくてよいのだと、言うことになる。さてそうなると、今度はそれはいかにも極端な主張に思われ、やはり「過激派」だ、とんでもないということにされる。旗色がわるいように思われる。ただ、私は、そうして喧嘩をしながら、だんだん主張を極端と思われる所まで「せりあげて行った」というか、開き直っていったというか、そういうことは他の国ではあまりなかったと思っていて、そこがおもしろい、もっと言えば誇れるところだと思っている。そして、そうやって言い放ってしまったところを、そのままだと容易に揚げ足をとられてしまうから、いくらか理屈をこねて――昔だと「理論武装」と言われたのだろうが――言い換えたり補足してみようというのが私の仕事だと思っている。
 さてここまで、結局、復習に終始した。次があるとして、何を書くか。その喧嘩の様子を「後世に伝える」ためにすこし書いてみることも必要なのだろうと思う。私に――精神医療の方は別の雑誌で少し書いてみているわけでが――どれだけ書けるだろうかとも思うところはあるのだが、すこし足してみるかもしれない。そして、そんな対立にはまっていない周囲から見ると何をやってるんだかよくわからない「論争」からすこし離れたところから、「私が決める」というあっさりした、しかしはっきりした主張が現われ、その線でかなりのところまでやって来れてきたことを言い、しかしそれでも残されるものはあること、その時、むしろより古い層にある、不毛とも見える争いにおいて言われたことから受けとるものがある、そんなことを言うことになるのだろうと思う。
★10 『病者障害者の戦後』(立岩[20181220])より。
 「いずれでもない動きは小さなものとして始まった。それを象徴する一つとされる、一部では有名な一九七〇年の脳性マヒの子を殺した親に対する減刑嘆願運動に対する批判は、まず、「神奈川県身心障害者父母の会連合」が横浜市長に出した抗議文に対するものだった。新聞記事やその抗議文は「重症児対策」を問題にしており、殺された子が入れなかった施設は「重症児施設」としての「こども医療センター」であることが報じられている。そのセンターは今もあり、「肢体不自由児施設」と「重症心身障害児施設」を含んでいる☆08。
 この「父母の会連合」会は県内の各種障害をもつ親の会の連合組織で、今そこのHPをみると、「セクトに拘らず、障害種別を超えた障害児者の親の会の横断的結合体」と記されている。さらに、この事件に関して青い芝の会神奈川県連合会が話し合いをもったのは「重症身心障害児(者)を守る会」であり、それは「争わない」(116頁)を方針とする「全国重症身心障害児(者)を守る会」(社会福祉法人)の神奈川県の組織だろう。こんなことがきっかけになった運動については、既に冒頭に示した本『生の技法』におおまかには書いているから繰り返すことはない。そして、同じ年に「府中療育センター闘争」が始まるのだが」(立岩[20181220:48])
 「☆08 この部分を第4章1節(206頁)とそこに付した註01(267頁)で繰り返し、それに関わる幾つかのことを記している。そこからわかるのは、たしかに分かれていることと、同時に、近接していることである。神奈川県の青い芝の会の人たちが抗議した相手は、重症児の親の会であり、すくなくともここで二つが対峙していることを看過するべきでないし、その意味を考えておいた方がよい。このことを、本章でも第4章でも述べている。ただ、親の会の側の文章(の案)を書いたのは小児療育センターで働いていた谷口政隆であり、その人と青い芝の会の人たちはその後関わりをもつことになる。そのことを記している臼井正樹も、神奈川県の公務員としてその人たちにいろいろと突き上げを食うのでもあるが、やはり関わりをもち親しくなっていく。さらに谷口が働いていた小児療育センターの設立に関わったの△055 は、サリドマイド事件で原告の中心にいた飯田進だった(著書に飯田[2003])。なんのかの言っても、大きくは、「福祉」を進めていく側にいることにおいて一致はしているという部分はある。手勢はいつも少ないのであり、違いはあっても、一緒することがある。しかしそのことは、二つ以上のものの間にある違いを無視してよいということではない。ところが、こうしたことは、そのできごとの当時においても、ほぼわかられていない。さらに、なかば意図的に忘却されようとする、ふれないようにするといったこともあった。そしてそうした営為(の不在)の後にある現在では、差異も、差異とともにあったつながりも、消し去られている。」([55-56])
 「前史」の部分については。立岩真也 編 2015/05/31 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books(立岩編[2015]◇)。
★11 初版は8章構成で、第8章は「―――― 19901025 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」(立岩[19901025])。それに代えて、第2版で代わりに第8章としたのが「」……。
★12 「もらったものについて・15」立岩[20170425]◇)に以下。
 「戦後のでも二〇世紀のでもよいのだが、その時期の三人をと問われたら、私は、横田晃一(一九三五〜一九七八)、高橋修(一九四八〜一九九九)、吉田おさみ(一九三一〜一九八四)になる。横塚晃一より前に生まれ、共に「青い芝の会」で活動し、彼よりはずっと長く八〇歳まで生きた横田弘(一九三三〜二〇一三)の再刊された本『障害者殺しの思想』(横田[2015]、初版は横田[1978]◇)の「解説」にそう記した。その本の帯に森岡正博は横田晃一、横田弘、田中美津の三人を記している。私の三人は若くして亡くなったことにおいて共通している。横塚は四二歳、高橋は五〇歳、吉田は五二歳で亡くなった。レーニンやガンジーやマンデラは知られているだろう。ここであげた人は、田中美津は知っている人は知っていようが、他はそうでもないだろう。」(立岩[20170425])
 その「解説」(◇)の註18に以下。
 「☆18「ひとびとの精神史」というシリーズが岩波書店から刊行され、そこに私は横塚について文書を書くことになっている(立岩[2015b]◆)――そこに書くことと本稿に記すことの一部は重なるはずである。私がその時代の人としてあげることにしているのは、横塚晃一(一九三五〜一九七八、享年四二歳)、高橋修(一九四八〜一九九九、享年五〇歳)と吉田おさみ(一九三一〜一九八四、享年五二歳)だ。横塚について立岩[20070910]◇、高橋について立岩[2001]、吉田について立岩[20131210:298-306]◇。高橋についての文章には――いつも真面目に手間をかけて文章を書いてはいるのだが――気持ちが入っている。めったにないことだが時に読み返すことがある。横塚についての文章は、書くのにずいぶんな時間がかかった。
 ついでに、本書の帯に文章を寄せている森岡正博がツィッターで横塚晃一・横田弘・田中美津の三人をあげているのを見かけたことがあるように思う。田中に『かけがいのない、大したことのない私』(田中[2005]◇)という本があり、拙著の第二版でその本をあげるだけはあげている(立岩[20130520:738]◇)。そしてこの「解説」の後半に書いたことは、要するに、そういうことだ。」
★13 この言葉について、1998年5月の第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演「手助けを得て、決めたり、決めずに、生きる」(立岩[19980530]◇)で話してる。この記録は今は『良い死』(立岩[200809]◇)に収録されている。本書で紹介している制度の前身ともいえる「全身性障害者介護人派遣事業」のことで当時山梨支部長だった山口衛さんから問合せをもらったのが最初の関わりだった。
 「自分の体をどうして欲しい、ああして欲しいということを他人に伝えて、その通りにやってもらうような自己決定は今後とも、当然のこととして追求されていかなければいけないのと同時に、本来ならば自分でコントロールできるはずのものができなくなったら人間としての敗北であるというような意味での自己決定主義といいますか自立信仰みたいなものが、逆に障害がある人たちの生き方を狭めてしまう現実があるように思われます。
 そういう意味で、世界というものはどこかで自分の思い通りにならないけれども生きていくことはけっこうおもしろい、同時に、そうやって生きていることの一部として日々食べたり寝たりする時には自分の気持ちのよいようにやってほしいという自己決定を保障しよう。そんなことになるんだろうと思います。介護・介助の制度の充実を求めてきた運動もまた、実は、そうした運動であったのだと思います。
 私がたいへん尊敬する人の一人に横塚晃一という脳性麻痺の方がいて、一九七八年に、ガンで若くして四二歳で亡くなってから、二〇年になります。「青い芝の会」という一部ではかなり有名で、今では伝説的な、見ようによっては過激な集団の全国的なリーダーだった人です。その人が亡くなる時に遺言を残しています。それは「はやく、あわてず、ゆっくりやっていくように」という言葉でした(「はやく・ゆっくり」という[1990]の題名はこの遺言からもらった)。
 なんのかの言っても暮らすためにはいろいろそろえなければならない。そのために時間があまり残されているわけではない。急がなければいけない。けれど、ゆっくりとあわてずにやっていけという、それだけの単純なことです。ただ考えてみますと、生きていること自体が本当はゆっくりとした営みであるとも、彼は死ぬ間際に言ったのではないかと私には思えるのです。生きていくということは、ゆっくりと緩慢に流れていくようなものである。たしかに、ゆっくり生きていくためには早く何かしなくてはいけないということもあって、それがこうした社会運動にとってはなかなか厄介なことです。しかし私は、彼の言葉から聞こえてくるのは必ずしもそういう矛盾とか悲壮感ではなくて、早くしなければいけないけれどもゆっくりでもよい、本来ならば矛盾する二つのことが並んでいてよいのだ、自分が死んでからもそうやっていってほしい、ある意味では自分がやってきたこともそうであったのかもしれない、そういう言葉だと思います。これには一種の快活さと言いますか、ある種のユーモアがあるような気がします。
 私は、障害のある人たちの動きを一五年くらい追ってきましたが、それは私に勇気を与えてくれます。それは今述べたような意味においてです。なにかけなげに、努力して、なにかを克服して生きる姿に感銘、というのではないのです。自己決定という言葉は矛盾するような二つの意味を持っています。自分のことを何でもかんでも決めて自分の思う通りにやっていくことだけが生きていることではない。自己決定が、自己決定主義みたいなものになるとかえって苦しくなってしまう。けれども、それと同時に、普通に生きていくときのさまざまの細々としたことは自分が生きていきやすいようにアレンジされて手元にあってほしい。そういう、早く実現されるべきことはやむを得ずのかたちでも早くしなければいけない。しかしこの中でもゆっくり悠々と生きていけるのですし、また、ゆっくりと過ごしていくためにこそあった方のよい様々なものがあって、その中のある部分をみなさんは獲得された。
 これから、みなさんはどのように生活を過ごしていかれるのか。また、この会はどのようなかたちで活動を継続し発展させていくのでしょうか。そうしたことを考える時に、「はやく、ゆっくり」という言葉を思います。
 あまりまとまった話になりませんでしたけれど、今日はお招きいただきどうもありがとうございました。」(立岩[200809:31-33]◇)
★14 横塚[1975]◇、その増補版が横塚[1981]◇。それも長く入手できなかったが、それから二六年たって生活書院が大幅な増補のうえ再刊したのが横塚[2007]◇。さらに新たに9つの未収録文章を加えたのが横塚[2010]◇。私は再刊された本に「解説」(立岩[20070910]◇)を書き、『万博と沖縄返還――一九七〇前後』(吉見編[2015]◇)に収録された立岩[20151125]◇を書いた。
★15 横田が所属した会からの出版物として『炎群――障害者殺しの思想』(横田[1974])、『ころび草――脳性麻痺者のある共同生活の生成と崩壊』(横田[1975])、『あし舟の声――胎児チェックに反対する「青い芝」神奈川県連合会の斗い』(横田[1976])。これらの文章から『障害者殺しの思想』(横田[1979])が出版された。それが2015年に『増補新装版 障害者殺しの思想』(横田[2015]◇)として再刊された。私はその解説(立岩[20150603]◇)を書いた。対談集として『否定されるいのちからの問い』(横田[2004])。
 日本文学専攻の研究者ということになる荒井裕樹が、横田も同人であった文芸雑誌『しののめ』を発行してきた花田春兆、そして横田と長く関わりがあって、著書を幾つも書いている。『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(荒井[2011]◇)、『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の行動綱領』(荒井[2017]◇)、『障害者差別を問いなおす』(荒井[2020]◇)。
★16 「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につつこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
 白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。
 全国青い芝の仕事で東京に行くことが多かった。地域と東京とどちらが大事なんだって皆によく言われてたよ。あと街頭カンパをやったり。映画の上映もしたしね。「何色の世界(7)」とか。「さようならCP」がやっぱり一番多かったけど。あのころは本当におもしろかった。自分達で社会を変えようっていう情熱があった。毎日徹夜の討論会でお互いの差別性を本気で問題にしあってね。近くにいる健常者が一番批判されるわけ、手のとどく範囲にいるから。それで運動からドロップアウトしてしまう人もいれば、最後まで残る人もいれば、じつにおもしろかったわ、あのころは。入ってくる人は学生が主ね。働いている人もいるけど。でも、ほとんどやめていく。残るのは二、三人。今でもつきあっているのは。私の場合には自分が探してきた介助者は大事にしてたね。今思うと使い分けてた。親元では誰かれかまわずつていう感じでやっていたけど、出るとそうはいかない。自分の介助者に対してはやさしくつきあうようにしたね。計算というよりは直感的にそうしていた。
 障害者運動の方がおもしろくなって、二年通って七七年に高校はやめたの。七九年に養護学校が義務化されて、私はそれがすごく頭にきてね。」(安積[1990→2012:47-49])
★17 私が本のはじまりと終わりに書いた「はじめに・いきさつ」(立岩[20190910])と「もう一度、記すことについて」(立岩[20190910])は全文をサイトに掲載している。
 「こういう仕事はいくらでも手間をかけられる。そして手間をかければたしかによくはなっていく。しかし、そう思ってまとめる仕事を先延ばしすると、仕事は終わらず、結局何も残らないこともある。このごろ私は、「どんな手を使ったってかまわない」(290頁)、とともに、「ないよりよいものはよい」と言うことにしている。もちろん,うかがった話は、ないよりもよい、なんていうものではなかった。貴重なものだった。そして楽しかった。問題は、ひとえに私たちの腕の問題である。ときに、事前の準備が足りず、既にわかっているべきことをわざわざ(再度)話していただくことになったところもある。研究者として、人間として、だめである。おわびいたします。そして話をしてくださったみなさま、資料を提供してくださった方々、その人たちをこれまでそして今支え手伝っておられる方々、活動をともにされている方々にお礼申し上げます。」(立岩[20190910:9-10])
 関西、でも大阪と兵庫ではまた違ったりするのだが、主に大阪について『関西障害者運動の現代s史――大阪青い芝の会を中心に』定藤[2011]◇。その著者の定藤邦子とともに、関西にいくつかある/あった青い芝の会についての資料を『闘争と遡行・1――於:関西+』(立岩・定藤編[2005]◇)に収めた。山下幸子の『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(山下[2008]◇)は関西での多く介助者でもあった健常者・健全者との確執(□頁)を描いている。角岡伸彦の『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』(角岡[2010]◇)は主に兵庫の人たちを書いている。
★18 運動を知らせ拡げるために原一男監督の『さようならCP』が上映会が各地で行われた。安積もその上映会のことにふれているし(★□)、『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(青木他[2019]◇)では土屋葉の
 「一九七二年、菊池〔義昭〕がどこからか映画『さようならCP』にかんする情報を得、地域福祉研究会(地福研)郡山と福島の合同主催で、映画上映会を開催することになった。上映会は福島市、郡山市において二回ずつ行われた☆10。白石は当時を振り返り次のように言う。
▽はじめて『さようならCP』を見たときはすごい衝撃だったなぁ。勉強してないから言葉もわかんないですよね。だから何回も見て。横田弘さんがはだかで道路にいたり、電車に這って乗ったり。また、横塚晃一さんがカメラ構えて、人物が正面から撮れない、それが「健全者幻想」だっていう……。ああそうかと思ってね。あの映画見て人生観が一八〇度変わったから。それはすごく大きかったね。(白石[2001:162])△
▽『さようならCP』を見てね、ショックを受けてね、そんなこと全然、考えてなかったわけだから、どーんって来たよね。これはおもしろいなと思って、こんなおもしろいならやってみよう(と)。(白石[i2001])△
 のちに白石の「女房役」(安積[1990:30→2012:48])といわれる橋本広芳も、「言葉はあんまりわかんなかったけど」、「価値観も変わったよね」と言う。また橋本は会の行動綱領について、「「(われらはCPであることを強烈に)自覚する」っていうのはすごいなぁと思ったね。自己主張だから」と述べている(白石・橋本[i2000])。
 当日は東京青い芝の会の若林も参加した。サークルに入っている脳性まひ者に対し「福島県にも青い芝をつくるように」と働きかけたという。その日は白石宅に泊まり酒を飲んで話した。上映会後、若林が福島県に来るときには、若い女性を秘書として連れてきた。白石は、夜になると酒をあおって豪快に話をしていた若林を記憶している。「若い女性を引き連れて脳性まひを楽しんでいる」彼の姿をみて、「こんなふうに生きたいな」と思ったという(白石[1994:87]、白石[2019])。」(土屋[2019:29-31])
 さらにの映画について。
 「こうしたなかで、その後の青い芝の会の運動が広がっていくきっかけとなった重要な映画『さようならCP』の製作が進められていく。これは、障害者運動に関心を抱いていた映画監督原一男が、当時リーダー的存在だった横田弘に話をもちかけたことで実現したようだ。東京青い芝の会で活動していた若林克彦☆04は次のように書く。
▽障害児殺し事件における母親の行為と、それに対する世間の同情の中に脳性マヒ者をはじめとする障害者の存在をまっ殺しようとするどす黒い力を確認した横塚・横田達は、いたたまれない気持をおさえることはできなかった。自らの全存在をかけてこのいたたまれない気持を具体的に表現する手段はないものかと考えていた折に映画製作の話がもちあがった。(若林[1986:97])△
 のちに監督の原は、「主人公の横田弘さんに映画をやろうよ、と口説くのには半年かかったんですよ」と述べている(原[2002])。また映画のなかでも、あわや撮影中止か?といった場面もあり、製作は決して容易ではなかったことがうかがえる。青い芝の会神奈川県連合会の主要メンバーが出演したドキュメンタリー映画が完成したのは、一九七二年のことであった。この年の四月に「青い芝の会神奈川県連合会創一〇周年記念」として、川崎市労働会館にて上映されたのを皮切りに、全国各地で上映会が開かれていく(若林[1986:97])。
 この映画が障害者たちに与えた衝撃は大きかったようだ。[…]」(土屋[2019:27-28])
 なにも知らないまま上映会に引き入れられ、介助者〜支援者になってしまったという人たちもいる。私がいくらか驚いたのは2016年になってもそんなことが起こることがあったということだ。
 「なぜなのか、今でもよくわからない。ふと興味を持ち、『さようならCP』(原一男監督、一九七二年)という映画の上映会に行ったのだった。会場に着いてみると、運営の人も観客の人も互いに知り合いが多かったようで、和気あいあいとした雰囲気だった。ある地区の公民館の一部屋を借りてプロジェクターでスクリーンに映すという、こじんまりとした親しみやすい会だった。私はひとりで後方の席に座り、映画が始まるのを待っていた。
 私は「CP」とは何なのか。全く知らなかった。それどころか映画の趣旨さえ、ほとんど知らなかった。わかっていたのはただ、「障害者」を描いたドキュメンタリーということだけだった。振り返ってみれば、「障害者」についての知識もイメージも貧相なのものであった。ハンディキャップを抱えた人々、くらいの理解であっただろうか。
 当然映画のメッセージなど理解できるはずもなかった。膝をついて正座のままいざり歩きで横断歩道や電車を歩く人々、部屋で飛び交う聞き取りづらい怒号のような言葉の数々……。正直わけがわからなかった。けれども目の前のスクリーンに映し出されたそれらの映像は、私の心を捉えて離さなかった。彼らは全身全霊で、自らの存在を訴えかけてきていた。
 加えて衝撃的だったのが次の一節である。「我らは愛と正義を否定する」、そねして「われらは問題解決の路を選ばない」。それは上映会の参加者に配られた「青い芝の会」の行動綱領に書いてあった一文である。どういう意味なのか、なぜ彼らはここまで言うのか、何も知らない当時の私にはわからなかった。
 とにかく当時の私にとって、わからないものは聞くしかない。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、である。そめうして映画終了後、脳性麻痺を抱えた当事者として登壇された方に、直接尋ねに行ったのだ。その方が、上田〔要〕さんだった。」
 そんなことがきっかけになって、慶応義塾の大学生だった岩下紘己は重度訪問の研修を受け、世田谷区に住む上田要の介助者となる。その上田とのことを書いた卒業論文をもとにした『ひらけ!モトム――ある障害者の生活史』(岩下[2020]◇)が出版される。
★19 私たちのサイトに「府中療育センター闘争」という頁がある。『病者障害者の戦後――生政治史点描』(立岩[20181220]◇)にもすこし記述を加えたのだがその部分も引用している。さらにその一部を以下。
 「白木〔博次〕は六〇年代から七〇年代にかけて、東京都の医療福祉行政に大きく関与した。そして、むろん他に様々があってのことではあるが、京都府中市の同じ敷地内に三つの施設ができる(木下[1978]等)。白木は未来を構想し現実を作ることに関わるのだが、その構想ゆえにという部分も含め、そこに生じる現実を通り抜けてしまう。本節では、二つのうちのもう一つ、このことを示す。
 三つの施設の一つは六八年開設の(1)「東京都府中療育センター」、一つは七二年開設の(2)「東京都神経科学総合研究所」、一つは八〇年開設の(3)「東京都立神経病院」――ただそれ以前、七一年、府中病院に神経内科設置が設置されている。おおまかには、(1)脳・神経に関係する生まれながらの(重い)障害の人たち対象の施設、(3)後天的原因による神経疾患(心身障害)患者を対象とする病院。(2)それらを総合的に研究する研究所といった具合になっている。そして各々がこれまで述べてきた動きに関わる。
 (1)府中療育センター「を構想したのが東京大学の医学部の教授だった白木博次先生。白木先生が美濃部知事の時代の東京都顧問だったんですね。圧倒的な力をお持ちでして。保険医療面については全面的に白木先生の指揮下にあったみたいなぐらいに強い力をお持ちだったですね。美濃部さんと[…]非常に信頼関係が厚くて。」(中嶋[2015])
 ただこれは、それ以前、「重心」(身体と知的の重い障害が重複した人)の親の会の人たちが六四年十一月に陳情して計画が進められた(東京都立府中療育センター編[1988:28]、森山[2004:102,110])☆28。これと△252 別に「重度」の身体障害および知的障害の人たちの施設を建設しようとしたが、住民の反対があって、無理に一つの施設に収容定員を多くして「重症」と「重度」の両方を入れることになったようだ(長畑[1993]、森山[2004:105-106])。白木は美濃部亮吉東京都知事の要請により、東大教授は続けつつ、このセンターの初代院長に就任。
 (2)も研究の場を作ろうという案は白木以前からあったようだ。そして七〇年、スモン、東京都の筋ジストロフィー関係者の組織(東筋協、既出)の人たち等が「神経病総合センター設置促進講演会」を実施、陳情、そこに出席した知事があっさりと受け入れたという。スモンの原因がわかる直前の開催であったため、伝染説も強かったスモンについて、社会不安の軽減、社会防衛のための研究という主張が通りやすかったとも言われる。研究所の目的として「脳・神経系についての基礎医学的研究、脳神経系の疾患ないし障害の臨床医学的研究、ならびに脳神経疾患患者および心身障害児(者)の社会福祉に関する基礎科学的研究を行い、広く神経科学の発展を通じて都民の健康と福祉の増進に寄与すること」が謳われている。 (3)の都立神経病院は、八〇年、椿がその初代の院長になった病院だが、その前、七一年五月には府中病院に神経内科が置かれた。
 そして、七〇年代以降、こうした場所を拠点にあるいは出発点に実際に動いたのは看護師だった。医師たちは研究(体制作り)に邁進するが、筋ジストロフィー、ALSといった障害・疾患については残念ながら結果は出ない。そのままの状態が続く。施設の中でも実質的には医師たちがなにほどのこともできなかったこの人たちのもとで当初働いた木下安子(一九二七〜二〇一六)、川村佐和子(一九三八〜)といった看護師たちがいて、その貢献には大きなものがあった。この二人も東京大学に関係するが、その後そこの医学者も関係した府中の組織に関わった。
 木下は、東京大学助手を経て、(2)神経科学総合研究所内に七三年四月に設置された社会学研究室の看△253 護部門に着任(他に山岸春江・関野栄子)。川村は、六五年から東大医学部保健学科疫学研究室勤務。井形の研究室でスモン調査・研究に関わった(川村[1994:45-49]、川村・川口[2008]等)。六七年頃に神経難病の人たちの訪問看護を始める。六九年に全国スモンの会副会長。そして、(3)都立府中病院神経内科医療相談室に務める(他に鈴木正子・中島初恵)。こうした人たちは実践的な自主研究グループ「在宅看護研究会」を作り、在宅看護の実践を行ない、記録し、研究した(木下[1978:86-89]等)。その人たちは志のある人たちで、その志をずっと持続させてきた。そして、これら施設は一定の役割を果たしてきた。その実践・研究の中身はこれらの人たちの多くの書き物である程度知ることができるが、それを外から見た研究はなく、これからなされるべきだと思う。ここでは、挿話的なこと、そこに不在であったこと、しかしそれが何ごとかを意味しまた効果したと思うことを二つ記す。
 一つ、白木においても他の人々においても、府中療育センターであったできごとのことは書かれない。白木や椿は学生から突き上げられた苦渋は語る。他方看護師の人たちは、「難病」の方にいて、騒ぎを起こした学生に直接に対したわけでなく、その経験はないから書かない。それは当然だ。だが「府中療育センター闘争」と呼ばれるものは実在した。そこにいてこの騒ぎを起こした人たちことについて言及した文献がなく、それはよくないと思ったから、一九九〇年に短く記した([199010→201212:272-275,339-340])。その時にあげた文献は略す(それ以後の文献は440頁・註09に紹介)。ただ、NHKが二〇一五年に関係者の幾人かにインタビューをしている☆29。そして(『現代思想』連載でこの辺りを書いていた)二〇一八年七月一日に三井絹子とその夫の俊明が多摩市で講演をした(三井[2018])。
 それは施設をつぶせといった勇ましい運動ではない。まずは(少なくとも私はよくわかっていなかったことだが)「重心」の部分を残して「重度」の部分を移転させようという計画に反対する運動であり、△254 そこから始まった運動だった。七〇年十二月十四日の『朝日新聞』に「重度障害者も人間です」。三井(当時は新田)絹子の手記(新田[1972])が『朝日ジャーナル』に掲載されるのが七二年十一月十一日。白木の任期は六八年四月から七〇年六月まで(副院長は大島)、「重心」を規定する基準としての「大島分類」でその名が業界に残っている大島一良(一九二一〜九八)が七二年四月まで(森山[2004:108])。『朝日新聞』の記事が載った時には白木は院長を辞めていて、新田の手記が出た時には大島も辞めている。ただ、七三年十二月五日の『朝日新聞』に「白木教授との公開討論会を 府中センターの療養者」、十二月二八日の同じ新聞に「身障者ら越年座り込み 都庁前 白木元院長の退任要求」と、この時点で白木はこの問題から逃れられてはいない。
 その白木が社会の危機を語り、未来を展望し、東京都における具体的な体制を構想するという大きな話をしている文章――さきに長く引用した――は『都政』という名の雑誌に掲載された「美濃部都政下における医療の現状と将来像」(白木[1971])という第の文章だ。ここには何も書いてない。その二年後『ジュリスト臨時増刊』に掲載された 「自治体(東京都を中心に)の医療行政の基本的背景」にも事件についての言及はない。ただその終わりは、「客観的にみて、できるかぎりの正確な認識に立つ今後の見通しのなかで、また毀誉褒貶のあらしのなかで、身を見失うことなく、忍耐強い実践行動への発条となりうるものがなにかをのべたつもりである。したがって、それは、筆者自身のものであり、読者諸賢に押しつけるつもりはない。」(白木[1973c:247-248])となっている。闘争・騒動に具体的にはまったくふれられていないが、事態は少なくとも知られているということだ。
 そして府中の同じ敷地にあったという病院や研究所にいた木下や川村の著書や編書のたいがいにあたったつもりだが☆30、そこにもやはりでてこない。木下や川村は施設としては(3)が関わる「難病」の方が専門で、(1)の「重心」にも「重度」にもあまり関わりがなかったという説明も可能ではあろう。ただ、△255 同じ敷地にあった施設で起こり、報道もされたできごとである。だが、出てこない。ただ一箇所、『難病患者とともに』(川村・木下・山手編[1975])のなかに、六八年の暮れ、「美濃部都知事は療育センターを視察し、センターを終生の収容施設とみなすのは不適当であり再検討を要すること、少なくとも重度関係は早急に分けるべきこと、を指摘した。このような指摘に基づいて、療育センターのありかたについての検討が活発に始められた」(中島[1975:68])という文章だけはあった。先に記したように、発足の経緯として、当初予定になかった「重度」の部分が加わったことが、この時点で既に問題になり、切り離す(移転する)計画があったこと(だけ)が記されているということである。切り離し(人里離れた施設への移転)に反対する運動にはふれないが、切り離しが――書かれている限りで理由は判然とはしないが――必要でありそれが開設の当初から、つまり反対運動の前から正当なこととされていたことは書かれているという文章になっている。
 問題は「重度」の部分に起こった。そこにいた人に文句を言える人がいて、処遇――私も記したことがある、普段の生活の、入浴や用便や外出等に関わる処遇――に対する批判がなされた。(当時は丸の内にあった)都庁の前でのテントを張った闘争があって、都の役職者はやがて出てくるが――院長他は出てこない。今年の七月一日の講演会より。三井絹子が講演者だが、夫の俊明も話している。
 絹子:院長は次々と。実験が済むと次の新しい人になり、また来てまた実験をして新しい人になるって感じで、次々と替わっていました。私たちはモルモットでしかない存在でした。院長が替わったところで私は何の変化も感じなかったです。
 俊明:[…]たとえば白木博次っていう東大の教授で、その人が院長になったことがありますけれども、その人のレポートを見るとですね、「なんでこんなに役に立たない人間にたくさん金をかける△256 んだ」みたいなことを書いています。だけどそんな人間がですね、水俣病の研究みたいなところでは良い医者というふうに見られたりっていうことがあったりしました。(三井[2018])☆31
 きっと院長たちに自ら実験する時間的他の余裕はなかったと思う。また、さきに見たように、役に立たない人間に金を「かけるべき」だと(かけるための根拠他を追究するべきだと)白木は言っているのでもあった。ただ、そこに住んでいて抗議した人(絹子たち)、それを支援した人(俊明たち)はいま引用したように思った、そしてそれから五〇年を経た今も思っているのが事実だ。白木には忌まわしい学園闘争の記憶があり、このセンター闘争に幾つかの党派が関わったことも一方の事実ではあり、面したくない気持ちはわからないでもない。ただ、構想され建設された施設の中でのことは、ないかのごとくにされ、別の立派な実践や構想が語られたのである。
 もう一つ、私がもっと大切だと考えるのは、その医師・医学者や看護師たちが関係して作って護ってきたものと、ここで遮断され、いないことになっている人たちが作ってきたものの間に断絶と対立があることだ。まず断絶について。三井や三井の兄で同じセンターを出所した新田勲(一九四〇〜二〇一三)☆32は、その後の約四〇年を介助(介護)の制度を作りそれを地域に実現することに専心した。そして、そんなことがあったから、新田が住んで役所と交渉を続け相対的に制度が進んでいた東京都練馬区で、日本ALS協会の会長なども務めた橋本操が単身独居(に近い)生活をすることができたことは『ALS』にも記した。しかし、そうした制度のことは、その人たちが編集・監修して出版された「在宅ケア」について出されるたくさんの本に出てこない。あるのは、新宿区保険障害福祉部資料(一九八五)を引き写した「重度脳性麻痺者介護人派遣 給付内容:本人の指定する介護人の介護を受けるための介護券を月十一枚公布します。対象:二〇歳以上の脳性麻痺者で身体障害者手帳一級の方」(伊藤△257 [1988:226])といった記載だけだ☆33。
 そして対立について。在宅看護・難病看護を進めた人たちは、やがて、「医療的ケア」を誰が担ってよいかという議論――『ALS』に基本的に考えるべきことは述べてはあるが、このできごとについても研究がなく、これもまた嘆かわしいことだと思う――において、それは看護師の仕事であるという主張を強く長く維持することになった。技術は必要であり安全は大切だが、その条件を満たせるなら誰でもその仕事ができるのが当然だという立場に反対した。」(立岩[252-258])
★20 一人が岩楯恵美子(1951〜)。著書に『私も学校へ行きたい――教育を奪われた障害者の叫び』(岩楯[1978]◇)。一人が猪野千代子(1936〜1999)。介助者をしていた瀬野喜代へのインタビューの記録(瀬野[i2019]◇)がある。
★21 著書に『抵抗の証 私は人形じゃない』(三井[2006]◇)。NHK戦後史証言プロジェクト「日本人は何をめざしてきたのか」・2015年度「未来への選択」によるインタビューの記録(画像・音声・テキスト)が残されている(三井[i2015])。私たちは「生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築」という企画を進めている。私たちが行なったインタビュー記録をリスト化しその全体を公開している→「インタビュー記録等」。現在130ほどがある。そこにはNHKによる三井へのインタビューなども含めている。みなさんからの提供、みなさんの参加を歓迎する。
★22 「生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築」の頁には「故人の一覧」もある。それを見ると2013年の物故者で私たちのサイトにいくらかの情報がある13人あげられている。その中にはさきにあげた横田弘(★□)、第□章で紹介した杉江眞人がいる。
★23 自伝に『愛雪――ある全身性重度障害者のいのちの物語』(新田[2012]◇)。対談(新田・立岩[2009]◇)は『足文字は叫ぶ!』(新田編[2009]◇)に収録されている。じつは私たちは1980年代後半にも三井や新田にインタビューしているのだが、その記録が残っていない。それがいかにも残念で、今ごろになってアーカイブなどど言っているのでもある。
 立教大学の大学院生をしながら長く新田の介助者をして、その新田たちの世界を描いた博士論文を書いて、それが本になったのが深田耕一郎の『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』(深田[2013]◇)。
★24 『そよ風のように街に出よう』にその雑誌について書いた文章の一つが、80号記念特集ということで書いた(81号に載った)「そろいでもってます」(立岩[20110725]◇)。
 「私が自慢できることは数少ないのですが、その一つが、本誌を創刊号からそろいでもっていることです。(もう一つ自慢できるのは、『(季刊)福祉労働』もそろいでもっていることです。あとは[…]そのぐらいです。)一九八〇年代のなかばに、みな送ってくださいとお願いして、「0号」はコピーで、どさっとそれまでのを購入したはずです。本誌があることはもっと前から知っていたから注文したのですが、最初にどこで見たかとか、だいたいなんでも覚えてないです――『福祉労働』を神田三崎町の現代書館に直接うかがって、まとめて買ったのはなぜか記憶にありますけれど。
 この雑誌がどうして「お金的に」成り立ってきたのか、みなさんと同じく私も不思議なのですが、聞いてわかったらどうなるというものでもないでしょうから、それはよし、ともかくごくろうさまです、ありがとうございますと言うしかなく、いま私は、「もらったものについて」という文章を書かせてもらい、一回書くと一〇冊いただいているわけです。
 その文章は、二〇〇七年十一月に出た七五号に原稿依頼をいただいて、その時には、誰にもそんなつもりはなかったのですが、一回で終わらず、だらだらと続き、本号に掲載されたのがもう六回目になってしまいました。題名は、本誌に関わる人たちを含む人たちから何をもらってきたのか、というようなつもりの題名です。
 なんでも覚えているなんてことはできないし、忘れた方がよいこともたくさんありますが、なかには覚えておいて知っておいてもらった方がよいこともあるように思います。本誌が始まる前から始まって、本誌が始まり、そして続いてきたその間のできごと、人々が考えたり言ったり書いたりしたことには、忘れない方がよいことがあると私は思っていて、私のその行ったり来たりの文章では、その中味というよりは、「予備知識」みたいなことをちょっと書いてみたりしています。見ていただけたらありがたいです。話の順序とかでたらめなのですが、そのうち、整理しなおして、来年あたりには出るだろう本の一部にしてもらおうかと思っています。横塚晃一(一九三五年〜一九七八年)の不朽の名作『母よ!殺すな』(初版一九七五年)を増補・復刊させた(二〇〇七年)生活書院から出してもらうことになろうかと思います。もしそんなことになりましたら、そちらもよろしく。
 本誌のバックナンバー他は、現在、みな「(立命館大学)生存学研究センター」(別の名前もあります)という――ほんとうに――怪しい「研究拠点」の書庫に置いてあって、見てもらえるようになっています。あと昨年は、こちらで働いてもらっている青木千帆子さんが「共同連」(旧「差別とたたかう共同体全国連合」)の資料を収集・整理してくれまして…、といった話はきりがなく、マニアというかおたくというかの世界に入っていきますので、やめますが、最後に、資料等々、捨てるのであれば「ください」(あるいは購入させてください)。今年、いま記した生活書院から関西の障害者運動の歴史についての本を出すことになる定藤邦子さんやら、昨年から楠敏雄さんへの聞き取り調査を始めた岸田典子さんらもこちらの関係者(大学院生他)です。たんに大切に保管させていただくだけでなく、有効に利用させていただきます。よろしくお願いいたします。
 もう一つが、「『そよ風』終刊に寄せて」『そよ風のように街に出よう』(立岩[20161205]◇)
 「一九八〇年代後半、だから約三十年前ということになるのだが、「自立生活運動」を調べるんだということになった。最初はインタビューをもっぱらやっていたのだが、「文献」もいるよねあるよねということになって、探して集めた。あるものはなんでもという感じだったが、そのなかでまず『そよ風』(一九七九年〜)と『季刊福祉労働』(一九七八年〜、現代書館)はいるでしょ、ということになって、『福祉労働』は(当時)神田三崎町の現代書館に直接出向いてあるものを、当時の担当でそれからもずっと今も担当なさっている小林律子さんから購入した。へんな人が来たと思われたと思う。そして『そよ風』のほうは電話かなにかで注文してまとめて送っていただいた。「0号」はコピーを送ってもらったと思う。
 その後も定期購読者になったりして購入していった。こうして私は、この二つ他を揃いでもっていることが、けっこう唯一の私の自慢であってきたのだ。それらの雑誌・資料はいま全部「生存学研究センター」の書庫においてあるのだが、そこから借り出して返すのが遅れている人がいるらしくて「歯抜け」になっている部分があるらしい。小心者の私はそれを確認するのが怖くてあまり見ないようにしている。というようなことを本誌に連載?させてもらっている「もらったものについて」の第一三回(本誌八七号、二〇一四年一二月)にじつはもう書いているのだった(こういうことも原稿をHPにあげてあるのでようやく確認できたりする)。
 ではそこから何をもらったのか、その一端をその「連載」で書いてきたからそれは略させてもらう。ただ、「スタイル」として、こういう媒体が長くあって来れてきたというのは、私はとても大きなことだと思う。いろんな障害者ものの雑誌はあってきたし今もあるが、その多くについてなんだかなあという気がする。「学術的なもの」はそれはそれであっていいと思うけれども、もちろん皆がそういうものを読むわけでもないし、読まねばならないものでもない。これも他に書いたけれども、『そよ風』だとか、それからジャパン・マシニスト社――なんだこれは?という会社名だが、その解説は略――から出ている『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(一九九三年〜)、『おそい・はやい・ひくい・たかい』(一九九八年〜)などもとても大切な雑誌だと思う。それは私が「もらったもの」をくれた人たちの流れから来たものでもある。その人たちのなかにはわりあい「硬派」な人たちもいたのだが、だからこそ、「堅い」媒体(だけ)じゃだめだということをひしひしと思って、こういう媒体を作ってきたのだと思う。思いさえすればおもしろいものができるかというとそんなことはない。しかし、やるではないか、おもしろいな、えらいなと思えるものもある。そしてそれは雑誌に限らず単行本とか映画だとかいろいろになって出ている。『ち・お』とか『お・は』と略されることのあるその雑誌に関わってきた山田真さんと話した話が『流儀』(生活書院)という本に収録されているのだが、そこでも私はそのことを言っている。山田さんとか、もっとたくさんの人たちがその「育児書」を買って読んできた毛利子来さんの本があってきたことの意味があることを述べている。(そしてそのうえで、それを「そのまま」貰うわけにもいかなかったことについては本誌連載の本号掲載分に書いた。だからすこし私はねじれてはいるのだが、まあそういうところに「学者」というものが存在する意味もあるのだろうと思うことにしている。)
 その『そよ風』が終わるということだ。私は二〇〇二年からは京都にいるけれども、それまでは関西に来るということはそうなかった。ただ京都の前に住んでいた長野県松本市での講演会に編集長の河野秀忠さんに来ていただいたことがある――それも自分で作ったHPのページがあったので一九九八年のことだとわかった。それから小林敏昭さんは楠敏雄さん(一九四四〜二〇一四)を囲む「くすのき研」――小林さんが様々だんどりをしてくれていた――に二〇〇六年に呼んでもらった時にお会いしたのだと思う。あとは原稿の遅れのお詫びとかそんなやりとりしかしていない。この『そよ風』の三七年について、お話をうかがう機会を作れたならな、とそんなことを今思っている。」
 そして「もらったものについて」の最終回(第17回)はこんな具合。
 「これで十七回、長々と書かせていただいた。本誌終刊にともない、これで終わりということになる。最初、本誌編集部・小林敏昭さん(以下文中の敬称すべて略)から「障害者運動の抵抗の根拠のようなものを原理的かつ分かりやすく」ということだったが、そんなことにはけっしてならず、まったくとりとめのないことを書かせてもらった。連載の依頼でもなんでもなかったのだが、第七五号(二〇〇七年十一月)に書いた原稿が結果としては第一回ということになり、以来十年ほど書かせていただいたことになる。
 とくに連載?後半は広告に終始した――それでも、広告は大切だと思っている。前半は個人的な昔話のようなことをいくらか書かせてもらった。整理できたら本にするかもしれないが、そんなものを読んでもよいという人がどれだけいるかということもある。まずは、これまでの分をすべてこちらのHPに載せてある――「立岩真也 もらったもの」で検索してください。さて今回は、そんなに古くない昔のことを調べたり集めたり書いたりすることについて。」
 この後のこの回の目次・見出しは「『相模原障害者殺傷事件』」「島田療育園での脱走事件」「高野岳志」「福嶋あき江」「記述すること/「べき」を言うこと」「病者障害者運動史研究」/。そして最後の見出しが「私たちは辛気臭い仕事をしていく、から」で、以下。
 「私(たち)は私(たち)ができることをやっていく。それは基本的に辛気臭い仕事だ。それだけでは元気がでない。そして元気がでる/出させるところに『そよ風』はいてきた。それが終わるのは残念だ。けれども様々な伝え方は様々なかたちで今もあるし、これからもあり続けると思う。思うから、私(たち)は辛気臭い仕事を続けていける。△067」(立岩[20170905]
★25 増加改訂版(第2版)ではまったく加筆はないが、第3版には尾中の「文庫判追記」がある。
★26 岡原は『生の技法』でもう一つ、「コンフリクトへの自由――介助関係の模索」(岡原[1990→2012])を書いている。両方に「文庫判追記」がある。感情の社会学・感情社会学の方面では『感情の社会学』(岡原他[1997]◇)、『ホモ・アフェクトス――感情社会学的に自己表現する』(岡原[1998]◇)。

■文献表(36→55→75→83 転記済)
◆青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院,424p.
◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 19901025 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店,320p.
◆―――― 19950515 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』,藤原書店,366p.
◆―――― 20121225 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p.
◆安積 遊歩 1999 
『車椅子からの宣戦布告――私がしあわせであるために私は政治的になる』,太郎次郎社,198p.
◆―――― 2010 『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』,太郎次郎社エディタス,190p.
◆―――――2019 『自分がきらいなあなたへ』,ミツイパブリッシング,176p.
◆安積 遊歩・安積 宇宙 2019 『多様性のレッスン――車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』,ミツイパブリッシング,240p.
◆安積 遊歩・野上 温子 編 19990520 『ピア・カウンセリングという名の戦略』,青英舎,231+14p.
◆荒井 裕樹 2011 『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』,現代書館,253p.
◆―――― 2017 『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の行動綱領』,現代書館,300p.
◆―――― 2020 『障害者差別を問いなおす』,ちくま新書,254p.
◆岩下 紘己 2020 『ひらけ!モトム――ある障害者の生活史』,出版舎ジグ
◆岩楯 恵美子 著・「岩楯恵美子学校へ入る会」 編 19780620 『私も学校へ行きたい――教育を奪われた障害者の叫び』,柘植書房,271p.
◆岡原 正幸 1990 「制度としての愛情――脱家族とは」,安積・岡原・尾中・立岩[1990:75-100→1995:75-100→2012:119-157]
◆―――― 1990 「コンフリクトへの自由――介助関係の模索」,安積他[1990:121-146→1995:121-146→2012:191-231]
◆―――― 1998 『ホモ・アフェクトス――感情社会学的に自己表現する』,世界思想社,285p.
◆岡原 正幸・山田 昌弘・安川 一・石川 准 1997 『感情の社会学――エモーション・コンシャスな時代』,世界思想社,236p.
◆長見 有人 i2019 インタビュー 2019/10/09 聞き手:立岩 真也 於:コモンズ紫野(旧杉江邸)
尾中 文哉 1990 「施設の外で生きる――福祉の空間からの脱出」,安積他[1990:101-120→1995:101-120→2012:158-190]
尾上 浩二熊谷 晋一郎大野 更紗小泉 浩子・矢吹 文敏・渡邉 琢日本自立生活センター(JCIL) 編 20160925 『障害者運動のバトンをつなぐ――いま、あらためて地域で生きていくために』,生活書院,256p.
◆角岡 伸彦 2010 『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』,講談社,509p.
◆倉本 智明・長瀬 修 編 2000 
『障害学を語る』,発行:エンパワメント研究所,発売:筒井書房 189p.
◆小林 敏昭 i2018 インタビュー 2018/02/27 聞き手:立岩真也・北村健太郎 於:東大阪,りぼん社
権藤 眞由美野崎 泰伸 編 2012 『医療機器と一緒に街で暮らすために――シンポジウム報告書 震災と停電をどう生き延びたか――福島の在宅難病患者・人工呼吸器ユーザーらを招いて』,生存学研究センター報告18
斉藤 龍一郎 i2017 インタビュー 2017/10/13 聞き手:末岡尚文他 於:東京
◆―――― i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所 ※
佐草 智久 2015a 「老人福祉法制定前後の在宅高齢者福祉政策に関する再検討――1950 〜 1960 年代前半の京都市を事例に」,『Core Ethics』11:95-105
◆―――― 2015b 「日本の訪問介護の歴史――京都市を中心に」,立命館大学大学院先端総合学術研究科2014年度博士予備論文
◆定藤 邦子 2011 『関西障害者運動の現代s史――大阪青い芝の会を中心に』,生活書院,344p.
◆瀬野 喜代 i2019 インタビュー 2019/12/19 聞き手:立岩真也 於:於:京都市北山・ブリアン
◆立岩 真也 19901025 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:165-226→1995:165-226→2012:258-353]
◆―――― 19901025 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」,安積他[1990:227-284]
◆――――19930325 「全国自立生活センター協議会(JIL)――自立生活運動の現在・4」,『季刊福祉労働』58
◆―――― 19980530 「手助けを得て、決めたり、決めずに、生きる――第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演」→倉本・長瀬編[2000]→立岩[200809:20-032]
◆―――― 20070910 「解説」横塚[2007:391-428]
◆―――― 20080905 『良い死』,筑摩書房,374p.
◆―――― 20090425 「もらったものについて・3」『そよ風のように街に出よう』77:,
◆―――― 20100220 「もらったものについて・4」『そよ風のように街に出よう』78:38-44
◆―――― 20100910 「もらったものについて・5」『そよ風のように街に出よう』79:38-44
◆―――― 20110125 「もらったものについて・6」『そよ風のように街に出よう』80:-
◆―――― 20110725 「そろいでもってます」『そよ風のように街に出よう』81:-
◆―――― 20120125 「もらったものについて・8」『そよ風のように街に出よう』82:36-40
◆―――― 20130520 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p.
◆―――― 20131210 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,434p.
◆―――― 20150603 「再刊にあたって 解説」,横田[2015:223-249]
◆―――― 20151125 「横塚晃一――障害者は主張する」,吉見編[2015:257-283]
◆―――― 20160425 「もらったものについて・15」『そよ風のように街に出よう』89:48-55
◆―――― 20161205 「『そよ風』終刊に寄せて」『そよ風のように街に出よう』90:49-50
◆―――― 20170905 「もらったものについて・17」『そよ風のように街に出よう』91:60-67
◆―――― 20181220 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p.
◆―――― 20190910 「はじめに・いきさつ」青木他編[2019:3-10]
◆―――― 20190910 「もう一度、記すことについて」青木他[2019:391-396]
◆立岩 真也 編 20141231 『身体の現代・記録(準)――試作版:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』,Kyoto Books,\700 →Gumroad
◆―――― 20150531 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books
◆―――― 20160429 『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』Kyoto Books 327.4kb
◆立岩 真也・定藤 邦子 編 200509 『闘争と遡行・1――於:関西+』,Kyoto Books,120p.
◆田中 啓一 i2018 インタビュー 2018/01/31 聞き手:立岩真也 於:金沢市・田中さん自宅
◆田中 美津 2005 『かけがえのない、大したことのない私』,インパクト出版会,358p.
◆新田 勲 2012 『愛雪――ある全身性重度障害者のいのちの物語』,第三書館,上:448p. 下:352p.
◆新田 勲・立岩 真也 2009 「立岩真也氏との対話」,新田勲編[2009:124-148]
◆新田 勲 編 2009 『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』,現代書館,270p.
◆深田 耕一郎 2013 『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』,生活書院,674p.
◆三井 絹子 2006 『抵抗の証 私は人形じゃない』,「三井絹子60年のあゆみ」編集委員会ライフステーションワンステップかたつむり,発売:千書房,299p.
◆―――― 20151012 「私は人形じゃない」,NHK戦後史証言プロジェクト「日本人は何をめざしてきたのか」・2015年度「未来への選択」
◆矢吹 文敏 i2009 「障害者運動とまちづくり運動の展開(1)――矢吹文敏氏(日本自立生活センター)に聞く」,聞き手:高橋 慎一 於:京都
◆―――― 2014 『ねじれた輪ゴム――山形編』,生活福祉社,307p.
◆山下 幸子 2008 『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』,生活書院,243p.
◆横田 弘 1974 『炎群――障害者殺しの思想』,しののめ発行所,しののめ叢書13
◆―――― 1975 『ころび草――脳性麻痺者のある共同生活の生成と崩壊』,自立社,発売:化面社,255p.
◆―――― 1976 『あし舟の声――胎児チェックに反対する「青い芝」神奈川県連合会の斗い』,「青い芝」神奈川県連合会叢書No.2,154p.
◆―――― 1979 『障害者殺しの思想』,JCA出版
◆―――― 2004 『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集』,現代書館
◆―――― 2015 『増補新装版 障害者殺しの思想』,現代書館
◆横田 弘・立岩 真也 2002a 「対談1」→横田・立岩・臼井[2016:72-126]
◆―――― 2002b 「対談2」→ 2004 「差別に対する障害者の自己主張をめぐって」,横田[2004:5-33]
◆―――― 2008 「対談3」→横田・立岩・臼井[2016:176-211]
◆横田 弘・立岩 真也・臼井 正樹 2016 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』,生活書院
横塚 晃一 1975 『母よ!殺すな』,すずさわ書店
◆―――― 1981 『母よ!殺すな 増補版』,すずさわ書店
◆―――― 2007 『母よ!殺すな 新版』,生活書院
◆―――― 2010 『母よ!殺すな 新版第2版』,生活書院
◆吉見 俊哉 編 2015 『万博と沖縄返還――一九七〇前後』(ひとびとの精神史・5),岩波書店


UP:2020 REV:... 20200707
介助・介護  ◇重度訪問介護派遣事業(重訪)  ◇横田 弘  ◇青い芝の会  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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