制度を使う・3
新書のための連載・7
立岩 真也 2020 『eS』
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◆介助・介護 > ◆重度訪問介護派遣(重訪)
※以下の草稿に大幅な加筆・変更を加え、ちくま新書の一冊として刊行されます。
◆立岩 真也 2020 『介助為す介助得る』,ちくま新書,筑摩書房
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◆大野 直之 2020/01/15 「重度訪問介護の制度ってなんだ――24時間365日のつきっきりも実現する あなたの知らない重度訪問介護の世界・1」, 『訪問看護と介護』2020-1(医学書院)
◆大野 直之 2020/02/15 「専門職の口コミが大切です――24時間365日のつきっきりも実現する あなたの知らない重度訪問介護の世界・2」, 『訪問看護と介護』2020-2(医学書院)
■交渉がいる、こともある
私が京都に越してきたのは2002年です。京都はその頃はしょぼかったんです。重度訪問の制度そのものがあまり使われてなかったし、それから時間が少なかった。1日要らない人は要らないんで、長いほうがいいって私は言ってないです。ただ長い時間必要な人は必要なんです。必要な人も長い時間使えてなかったんです。それが、西陣のあたりに今住んでる、ちょっと変わった名前の、難しい字ですけど、甲谷匡賛さんていう人★28が、ALS、筋萎縮性側索硬化症っていう、病気っていうか障害というか2004年に発症して、で、やっぱ体どっこも動かなくなりました。
そして彼は独り身で暮らしてきた人です。甲谷さんは、からだ系っていうか、舞踏、体を動かして、踊って、パフォーマンスっていうかアートっていうかする人たちいるじゃないですか、そういう人たちの体をみてあげるっていう仕事をしていたんです。それで、そういう知り合いがいっぱいいて、比較的時間が自由になる人もいて、そういう人たちが最初ボランティアみたいな形で入ったんだけども、でもやっぱ24時間365日いるから。これはたいへんだと。これはどうかしないとだめだってことになって。それで、彼をサポートするいろんな人たち、取材したことある京都新聞の岡本晃明という記者とかね★29、そういう人たちがたまたま私の周りにいて、そんなんで私もそのことに関わることになって。制度が使えないはずないといったおおざっぱことは言いましたけど、私は具体的なことはわかりません。まえに紹介した東京で制度使っている人、事業やってる人とかに教えてもらうことになりました★30。
2008年の1月、京都市の市役所に、彼が先頭で、それから彼の支援者。僕も後ろについてって、京都市役所の障害福福祉課長さんに直談判しました。やっぱり現物がいるっていうのは強いもんで、見たらこれどっこも動かねえよってのわかります。わかるっていうか、それか現実そのものなわけです。で、一気に、あのときの交渉で24時間つけるようになったんです。ということがありました★31。その甲谷さん、今でもよく京都の街中のお寺巡りとかしてます。
そして、役所っていうのは基本的に先例主義なんで、つまりいっぺんそういうケースあると、同じような条件の人についていえば、同じだけ出すっていうことになるんです。それはよいことでもあります。最初の人はたいへんですが、二人目からはそうでもない。今日あとでレクチャーをする人たちも関係した人、杉江さん★32というおじさんもALSの人だったんだけど、なおかつ彼の場合は家族と別れて単身だったし、甲谷さんの時みたいにボランティアベースでしばらくはもつということもなかった。やっぱりいるものはいるっていうんで。2人目はわりと簡単に通った。杉江さんは、甲谷さんのだいぶ後のような気がしていたんですが、そうでもないですね。発症は甲谷さんと同じ2004年、私たちが知っている借家に越してきたのが2008年の10月ですから。その家は大学のすぐ近くにありました。大家の酒屋さんがいい人で、安く貸してくださったんです。2013年に亡くなりました。ALSで人は死にません、ガンで亡くなられました。
そして私たちが今つきあいのある、そして講習でも講師をしてくれている増田英明さん★33。やはり発症は2004年。支給が24時間になったのは2012年だそうです。私、こういう間隔だとか、前後関係とかけっこう勘違いしてますね。記録残しておかないとだめですね。
京都はそういうふうにして、かつてはそうではなかったんだけれども、そういう人たちが出てきた。交渉したのきっかけに、時間が出るようになりました。
不思議っていえば不思議なんだよ。交渉しないと出ないのかよって。それはよくはない。交渉力が強いかとか、役所にどれだけの理解力があるかとか、そういうことによって、左右されるというのは困ったことなんです。そうなんですけれども、前回にも言いましたように、制度の「相場」からいったら例外的なものをなんとか認めさせて、そして定着させるという道のりできた制度なんで、こういうことになっています。
■弁護士たちも支援している
自分で交渉しないといかんというのは、そりゃしんどいと。昨今、まだ10年経ってないでしょうか、起こっていることとしては、法律家、弁護士ですね、が、わりと協力的になりつつあります。本人と役所が交渉するっても、気が弱い人、気が小さい人もいる。面倒だし。いろいろな事情があるわけだ。そういったときに、ここんところ、弁護士たちがネットワークを作って、時間を増やすとか、そういう活動をしてくれています。「介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット」っていうのがあります。われわれのサイトにもそのページはあって、で、そこからネットの事務局のホームページにもリンクさせていますから、見てもらうことができます★34。
和歌山で、やはりALSの人が裁判やって勝ったことがあります。2010年提訴、なぜか24時間ではなかったんですが、裁判所が出せっていうことを和歌山市に命令するっていう、そういう判決が下ったことがあります★35。これはかなり報道もされて、弁護士たちがこの件に関わるきっかけになったところもあるかと思います。
ただもちろん、裁判は普通はしんどいです。役所の窓口に行くよりしんどいでしょう。ならば勘弁、と思うかもしれませんけど、この裁判で勝ったということもあって、裁判までもっていかずにすんでいますね。今は多くの場合、弁護士が介在するっていっても、裁判まで持ってかれること少なくて、弁護士が役所に交渉するっていうか、この人はこれだけいるんだから出してくださいよってことを言う。そうすると、東京とか大阪とか、そういうのに慣れてる役所は弁護士バッジぐらいじゃあんまりびびらないんだけれども、地方に行くと、弁護士ってのはまだちょっとは偉いっていうか、そういう職業のようで、わりと話を聞くっていうようなことがあるらしくて、ここ数年は弁護士が入って交渉するっていうようなことになっています。
私が知っているところでは、2017年に古込和宏さん★36という筋ジストロフィーの人が昔は「国立療養所」って呼ばれた病院=施設の一つ、金沢の「医王病院」を退院する時に、それまで金沢市ではまったく使われていなかった重訪の制度を使えるようにしなければならなかったんですが、その時には、宮崎さんという弁護士さんが活躍してくれて、むろんそれだけでというわけではないですが、使えるようになりました。
そしてこの弁護士たちのネットと、前回紹介した介護保障協議会、相談センターとは、つながって活動しています。普通には、弁護士に相談だって十分に敷居高いですけど、協議会・センターに相談して、場合によっては、というかたちでつないでもらうということであれば、そうたいへんというわけではないです。
■
以上、必要な側、使おうという側から、制度のことを説明しました。働こうという側の皆さんは、これで働くってときに、言われた通りに働くっていうこともひとつあるんだけれども、ただ、この制度そのものがそうやって交渉したりなんやかんやして、作られてきて、いわば勝ち取られてきたものであって、あるいはそういうことがないとできなかったっていうことは押さえといてもいいことだと思います。
あるいはその、この人だっからこれだけいるよね、だけどなんか少ないよねっていったときに、やっぱ京都でも、京都市とたとえば舞鶴とかね、京都市じゃないところはいろいろ違うわけですよ。ったときに、制度がよくなるよう支援する。でないと自分も働けないし、あるいはその利用者はそれを使えない。こういう制度でもあるっていうことは押さえておいてください。そして介助者はそういう交渉の場に本人が行くその介助者でもあるわけです。2008年の京都市との交渉の時にもいましたよ。交渉ごとは基本本人たちに任せておけばいいんですが、でも、ちょっとにらみつけるぐらいのことはしてもいいよね。
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■註 ※これからつけていきます。
★28 甲谷 第4回で紹介した。
▽京都ではそういう生活が実現できたその初代みたいな人は、甲谷匡賛さん☆22という人なんです。その甲谷さんは、舞踏、昔だと暗黒舞踏とか言ってたものの流れのものとかね、身体使って表現する人たちの身体のメンテの仕事をしてた人なんです。そういう人が、突然ALSになって体だんだん動かなくなったときに、最初にそれを支援していた人たちがその身体系の人たちで、はじめはボランティアっていうかそういうかたちでやったんだけれども、どっちもそれじゃ大変じゃないですか。だから京都市に交渉して、2008年のその交渉には私も付いていったんですけど、制度を使えるようになりました。そして、支援してきた人たちも、そういう仕事をしてもお金が得られるよってなって、昼間は踊って、か、夜は踊るかどっちかわかんないですけど、どっちか半分踊って、それだけじゃ飯食えないし、甲谷さんの介助をする。」
☆22 甲谷は2004年にALSと診断された。舞踏家であり甲谷の介助者・支援者であってきた由良部正美へのインタビューに由良部[i2019]。△
★29 岡本 2006年度の日本新聞協会賞受賞作でもある『折れない葦――医療と福祉のはざまで生きる』(京都新聞社編[2007])の取材に関わる。この時の取材のことは『新聞研究』に掲載された「医療と報道倫理」(岡本[2007)に記されている。甲谷らについて書いた文章に「ALS‐D――勝手に甲開日記」(岡本[2008])、「医療的ケアに踊る ALS‐D」(岡本[2010])。いずれも『現代思想』に掲載。
★30 川口 ▽第3回註11。☆11 2013年に「ALSの人工呼吸療法を巡る葛藤――ALS/MND国際同盟・日本ALS協会の動向を中心に」で博士号を取得した川口有美子は東京都中野区で「ケアサポートもも」(有限会社)を運営している。著書に川口[2008]、対談集に川口[2014]がある。△
川口が甲谷の病室を訪れ、「さくらモデル」を紹介したのは2007年の1月だという(河本[2013:1259])
★31 この交渉の後、連載のようなかたちで『京都新聞』に書いていたコラムの一回「学者は後衛に付く」(立岩[20080131]◇)より。
「こないだ、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の甲谷さんの介護保障についての京都市役所との協議に同席させてもらった時にも、そのことを感じた。例えば、介護に関わる加算など、もっと使える制度である生活保護がきちんと使われていないのだ。
となると、制度を使う側が知識をもっていなければならないことになってしまう。めんどうなことだし、個人には難しいことでもあるが、民間の組織がその部分に対応してきた。結果、多くのことについて、いま最もよくものごとを知っているのは役人でも学者でもなく、民間でたいがいは儲からない活動をしている人たちということになる。その人たちが持っている知識やノウハウの方が、なにか気のきいたことを言おうとして実際にはたいしたことを言えていない研究者の論文に書いてあることより、よほど価値のあることが多い。」
★32 杉江 第2回の註07▽☆07 西田美紀は看護師で勤め先の大学院の院生でもあり、杉江眞人(〜2013)に関わった。その論文に西田[2009]][2010][2010][2010][2010][2010]。かつて杉江が住んだ借家は、杉江に関わった大阪の事業所「ココペリ121」がその活動のために借り続けている。その借家での、ココペリ121の代表である長見へのインタビュー長見[i2019]の中で、私が同席者に説明している箇所。
「立岩:〔杉江さんは〕指示が多くて、そこの中には介助してる側にとってみれば理不尽というか、としか思われないというか、そういうようなこともあって。僕の大学院生であったり、関係者であったりしたのが何人もここに来てましたけれども、そのうちの何人かは、まあ、喧嘩して別れるというか、離れるというか。そういうようなことも立て続けてあって、じゃみんなでどうするみたいな、くらーい中会議とか、飲み屋とかでやったり。西田さんは今でもまだ治ってないんだけど円形脱毛症ができちゃって、この辺に2つ。けっこう大きいのができたりして、今でもあるんだよ、この前も見せてもらいましたけど(笑)。ほんと、西田さんすっごい暗くって、いや、ほんとに、普通に大変でした。普通にっていうか、大変に大変でしたね。」△
杉江がその借家に移ったのが2008年10月。その少し手前の2008年3月から7月の5か月の間のことを、杉江に関わった4人に書いてもらうことを思いついて、書いてもらって『生存学』の創刊号に掲載した(西田[2009]、長谷川[2009]、山本[2009]、堀田[2009])。杉江はそれから5年をそこで暮らした。
★33 増田英明(1943〜) ユジンギョンが増田智子に2度インタビューしている(増田智子[i2018]・[i2019])。生存学研究所の客員研究員でもあり、2017年、ソウルで開催された「障害学国際セミナー2017」に参加した。飛行機の往復はなかなかにたいへんだった。その報告として「人工呼吸器を装着した私の挑戦――障害学国際セミナー2017に参加して」(増田[2018]、[HTML])。
★34 市販されている本としては、このネットの代表者である藤岡毅と和歌山訴訟の弁護を担当した長岡健太郎の『障害者の介護保障訴訟とは何か!――支援を得て当たり前に生きるために』(藤岡・長岡[2013])、
『支援を得てわたしらしく生きる!――24時間ヘルパー介護を実現させる障害者・難病者・弁護士たち』(介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット編[2016])。
★35 「和歌山ALS介護訴訟(2010〜2012)」を今日作り始めた。2010年9月に2人が提訴。2012年4月に21時間を支給するよう命ずる判決。和歌山市は控訴しなかった。法学者が書いたものとして「24時間介護を受ける権利」(長尾[2013]、[PDF])。
★36 古込和宏(1972/04/26〜2019/04/23)。以下、「解説:追悼・筋ジス病棟を出て暮らす――古込和宏さんのこと」(立岩[20190625])全文。
「古込和宏さんは、一九七二年、石川県輪島の生まれ。この四月二四日に亡くなった。享年四七歳。五歳の時にデュシェンヌ型の筋ジストロフィーと診断、一九八〇年国立療養所(現在は国立病院機構)医王病院に入院。三七年を経て、二〇一七年十月、退院、市内での生活を始めた。その病院で「死亡退院」でなく退院した筋ジストロフィーの人は古込さんが最初だと聞いたことがある。その退院とその後の生活に、京都(日本自立生活センター)、兵庫(メインストリーム協会)、そして「全国ホームヘルパー広域自薦登録協会」の人たちが関わった。それとが一つのきっかけとなって、いま全国で、「国療」(と略す)を出たい人は出て暮らすこと、すくなくとも当座そこに暮らす人たちについては、もっとよい環境で暮らせるようになることを支援する活動が始まっている。
彼が病院を出たいと思ったのはだいぶ前のことになるが、そのために使える情報・手段をなかなか得ることができなかった。ネットはだいぶ前から使えていたし、例えば、日本筋ジストロフィー協会の機関誌もとってはいたという。しかし、そこで書かれていることはおおむね家族が世話して在宅で暮らす生活だ。川口有美子がフェイスブックで友達になったあたりから状況が変わった。そこから「広域協会」につながる。金沢にも、金沢や富山の支援者たちの集まりができる。そうして退院した。
私は、二〇一六年の三月に彼の書いたものをメールで送ってもらってHPに掲載した。最初は病院を刺激しないようにということもあって匿名だった。退院してから実名を記した。今回本誌に再録されるのは、その一部だ。他の文章もこちらのHPで読むことができる。「古込和宏」で検索してください。こちらの大学院生の坂野(ばんの)久美が書いた論文も読むことができる。
私が古込さんに会ったのはたった二度。一度は退院に関する打合せで病院内で。車椅子への移乗のための人員がいないからという理由で、古込さんは病室のままで、私たちは会議室でスカイプで会議ということになって、唖然とした。一度は、二〇一八年一月。坂野さんと一緒にインタビューをした。これも読んでいただけるようにするつもりだ。
古込さんは文章が上手な人だった。みながそうであるわけではない。文章を書ける人は書く。話す人は話す。笑う人は笑う。怒る人は怒る。私は、当初結核の人たちを収容していた国療がどのように筋ジストロフィーの人たちと重症心身障害児と呼ばれる人たちを収容するようになり、その状態がずっと続いてしまったのか、昨年『病者障害者の戦後――生政治史点描』(青土社)という本に書いた。ちょっとやそっとでは、長く固定しまったこの体制はなかなか変わらない。みなができることをして、それを合せてやっていくしかないのだろうと思う。」
最後の段落にも関わり、その後に書いた文章に「煽情主義も使う」(立岩[20200710])
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■文献表(連載07 転記済)
◆介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット 編 2016 『支援を得てわたしらしく生きる!――24時間ヘルパー介護を実現させる障害者・難病者・弁護士たち』,山吹書店,発売:JRC
◆河本 のぞみ 20131015 「路地裏で試みられていること――甲谷匡賛さんの周辺」(当事者に聞く 自立生活という暮らしのかたち・4),『作業療法ジャーナル』47-11(2013-10):1254-1262
◆立岩 真也 20080131 「学者は後衛に付く」,『京都新聞』2008-1-30夕刊:2(現代のことば)
◆―――― 20190625 「解説:追悼・筋ジス病棟を出て暮らす――古込和宏さんのこと」,『季刊福祉労働』163:128-129
◆―――― 20200710 「煽情主義も使う」,『Journalism』2020-7 no.362
◆長尾 英彦 2013 「24時間介護を受ける権利」,『中京法学』47-3・4:25-47(145-167) [PDF]
◆西田 美紀 2009/02/25 「独居ALS患者の在宅移行支援(1)――二〇〇八年三月〜六月」,『生存学』1:165-183
◆藤岡 毅・長岡 健太郎 2013/12/1 『障害者の介護保障訴訟とは何か!――支援を得て当たり前に生きるために』,現代書館
◆堀田 義太郎 2009/02/25 「独居ALS患者の在宅移行支援(4)――課題・要因・解決方策」,『生存学』1:218-235
◆山本 晋輔 2009/02/25 「独居ALS患者の在宅移行支援(3)――二〇〇八年七月」 ,『生存学』1:201-217
◆増田 智子 i2018 インタビュー 2018/12/25 聞き手:ユジンギョン 於:京都市・増田氏宅
◆―――― i2019 インタビュー 2019/01/09 聞き手:ユジンギョン 於:京都市・増田氏宅
◆増田 英明 2018 「人工呼吸器を装着した私の挑戦――障害学国際セミナー2017に参加して」,『研究の現場』,立命館大学生存学研究所 http://www.ritsumei-arsvi.org/news/read/id/782/http://www.ritsumei-arsvi.org/en/news/read/id/330[English]