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何が辛かったのだろう

「ALS嘱託殺人事件」に 立岩 真也 2020/08/22
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 ※11字×90行
 ※これはある通信社が配信するということで、私が記者の取材を受け、それを受けて書かれたという原稿をもらい、それに手をいれて送ったものです。それをそのまま採用してほしいとしたのですが、いれられず、記事が配信されることはありませんでした。えらい手間のかかったものでもあり、以下に掲載します。

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の嘱託殺人事件では、安楽死の議論が起きた。人の死を法で認めてよいのか、生と死で揺れる患者にどう寄り添うか。著書『ALS』のある立岩真也立命館大教授(社会学)に聞いた。
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 事件を受け、これは安楽死か殺人か、尊厳死なら認めてよいのかといったことが話題にされた。
 ある人たちは「今回の事件は特異」と区別することで、自分たちが推進するのはより穏当なものだと主張する。だが、致死薬を注射すること、その薬を渡され自分で飲むこと、処置しないと確実に死ぬ処置をしないこと、これらに明白な差があると見る方が難しい。
 「きちんとした手続きを踏めばよい」とか「お金をとったのが問題だ」と言う人もいる。しかし例えば昨年NHKが報道したスイスで死んだ人にしてもずいぶんなお金がかかったはずだ。
 事件の特異性を見るだけでなく、基本的なことを考える必要がある。つまり、どんな言葉を使うかは別として、「人が自ら死のうとすることを他人が助ける」ことを法的に許容するべきかだ。
 「嘱託殺人」「自殺ほう助」は法による処罰の対象となる。それには合理的な理由がある。その「例外」を認めることができるかだが、その例外の線引きは理論的にも実際的にも難しい。そういう基本的なことをふまえる必要がある。
 患者が「生きたい」と「死にたい」の両方を言うのは珍しくない。あるALSの男性は、一方で「呼吸器を着けず死ぬ」と語り、他方で退院した先の住居についての相談を支援者と進めていた。
 障害を得て悲観的になり、死にたくなる時はある。だが、そのままそれに乗っかるべきでない。生きられるようにするのが基本の基本のはずだ。
 だがその反対の力がかかっている。例えば「ああなったら私は死ぬ」とSNSで言われる。それは病い・障害の状態を死より耐えがたいと強く否定する言葉だ。「自分が黄色人種だっら私は死ぬ」と言ったら、その人たちへの最大の侮蔑だろう。それとどれほど違うのかと考えてみたらよい。
 事件を「生死の選択」と抽象的に捉えるのでなく、その人は何が辛かったかをみることだ。一つに、介護者との行き違いを含む心身のきつさがあった。それは、ときに難しいが、減らせる。一つに障害をもって生きることへの悲観だ。「私なら」という無自覚な発言がそれを後押していることに気付け、と言いたい。


※新聞の記事よりは長く書けた文章に以下がある。読んでいただきたい。
◆立岩 真也 2020/08/10 「こんな時だから言う、また言う 収録版――新書のための連載・15」,『eS』023
◆立岩 真也 2020 『介助為す介助得る』,岩波新書

◆立岩 真也 2020/08/20 「ALS嘱託殺人事件から・上」,『京都新聞』
◆立岩 真也 2020/08/21 「ALS嘱託殺人事件から・下」,『京都新聞』
◆立岩 真也 2020/08/22 「介助為す」,NPO法人ゆに 2020年度夏季重度訪問介護従業者養成研修(基礎課程・追加課程)
◇立岩 真也 2020/08/23 「何が辛かったのだろう――「ALS嘱託殺人事件」に」(本頁)
京都府におけるALS女性嘱託殺人事件
◆ALS女性嘱託殺人事件報道について、日本自立生活センター記者会見全文(↓)
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/341742


UP:20200825 REV:20200826, 29
京都府におけるALS女性嘱託殺人事件  ◇安楽死尊厳死 2020  ◇優生学優生思想  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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