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ALS嘱託殺人事件から

立岩 真也 2020/08/21・22 『京都新聞』
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※『京都新聞』に上・下の2回に分けて掲載された。
※新聞の記事よりは長く書けた文章に以下がある。読んでいただきたい。
◆立岩 真也 2020/08/10 「こんな時だから言う、また言う 収録版――新書のための連載・15」,『eS』023
◆立岩 真也 2020 『介助為す介助得る』,ちくま新書
※ほぼ同時期に取材を受けて話した→書いたもの
◆立岩 真也 2020/08/23 「何が辛かったのだろう――「ALS嘱託殺人事件」に」,配信されず

cf.
京都府におけるALS女性嘱託殺人事件  ◆ALS女性嘱託殺人事件報道について、日本自立生活センター記者会見全文(↓)
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/341742
◆立岩 真也 2020/08/22 「介助為す」,NPO法人ゆに 2020年度夏季重度訪問介護従業者養成研修(基礎課程・追加課程)

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 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房 2200+220=2420
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■■京都新聞・文化面 ALS嘱託殺人事件から

■■上:◆「私だったら死ぬ」投稿はヘイトスピーチ 立岩教授に聞く ALS「安楽死」事件
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/341720

◆参考 Yahoo!ニュースでの同記事(ITトピのトップ、コメント欄注意…記者より)
 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6369082

■掲載された版
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/341720

 「筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性に対する嘱託殺人事件をきっかけに、安楽死(尊厳死)をどう考えたらよいのかに関心が集まっている。ALS患者への支援のあり方も問われている。障害学会会長で立命館大教授の立岩真也さんに聞いた。

□“死にたい状況”の改善が先だ

 ― 事件について、警察は「安楽死」とはみていない。どう考えるか。

 立岩 まず確認しておきたいのは、今回の事件は野蛮な殺人だけれど一方には穏やかで「ちゃんとした」安楽死、尊厳死、治療中止がある、という考えを私は採らない。連続している、と考えるべきだ。死にたいと思っている人がいて、それを助ける人がいる。その構造は共通している。
 安楽死の法制化を言う人は、「助ける」度合いや条件をルール化して「ちゃんとした」制度を作ろうと試みるが、そもそもの構造が間違っている、とまず指摘しておきたい。死にたい人を助けること、それ自体がダメだ、と。

□「罪」覚悟すべき

 ― 自殺する自由、死ぬ権利という言い方もある。では、その自由がない人、権利を行使できない人はどうするのか。例外的に「死を助ける」ことはあり得るのでは?

 立岩 自殺の問題から考えると良いかもしれない。「死にたい」という人はたくさんいるが、「死ねる」制度やルールを作るべきだろうか。社会としては「死にたくてもやめなさい」という立場を取るべきだろう。穏当な建前論に聞こえるかもしれないが、こうした建前は意外に大切。
 ただ、自殺の場合は、制度化されていなくても実行できてしまう。実際に年間2万人近い人が自殺で命を失っている。そうすると、他人の助けがないと「死ねない」というのは不平等、不公平だという言い方は確かにできる。だから、あえてこう言ってもいい。自殺ほう助はあり得る。死を助けることはできますよ、と。私は「死の権利」を100%認めないわけではない。ただ、助けたいのならば、罪に問われるぐらいのことは覚悟すべきだ。
 自殺ほう助に対して一定の刑罰を科すことに合理性があるのは間違いない。歯止めがなくなると、手伝いたい人、商売にしたい人が出てくる恐れがある。

 ― 究極的には個人の決断であり、社会制度として作るべきではない、と。

 立岩 そもそも法制化を掲げる人は、究極の状況を「改善」するために議論しているわけではない。そうしたケースは一種の方便として語られるだけで、本音は「命の選別」を進めたい。だから、極めて例外的な状況に対しては、あえて「罪を覚悟したら可能だ」と反論しておく。 付け加えておくと、自殺ほう助に医師が関わるべきではない。命を助ける仕事、人を生かすために働く人が、殺すことを引き受けるのはリスクが大きい。

 ― では「死にたい」気持ちにはどう向き合えばよいのか。

 立岩 「死にたい」と思い、言ってしまう状況の改善を優先すべき、というのが私の考え。「死ねる」条件を探すのではなく、死にたくなる状況が何に由来しているのかを考える。社会の対応が不十分なまま、いろんな手が打てるのにサボったまま、「死にたい気持ち」に応える制度を実現してあげましょう、というのは順序が違う。
 「死にたい」と思う多くの人は同時に生きたい人でもある。死なずに済んだはずの人がたくさんいる。「死ねる制度」ができると、命はより多く失われていくだろう。

□なぜ投稿は「ヘイトスピーチ」に該当するのか

 ― 今回の事件で、ネット上には「自分だったら生きたいと思わない」「もし私なら死にたい」といった匿名投稿が目立つ。安楽死の制度化を求める動きと無縁ではないように思う。

 立岩 こうした言葉を発する人は、「自分のことを言っているだけで、他人を非難しているわけではない」と思っているかもしれないが、それは違う。もはやヘイトクライムと言っていい。困難な状況で生きている人に対して、「わたしはあなたの状態が死ぬほどイヤです」というのは、相当強い否定だ。
 例えば、なんでもいいですよ、「私がもし黒人として生まれたら、生きていられない、死んじゃう」とかね。相手の属性・状態を、命という非常に重いものと比較して、それに劣ると指摘するのは犯罪的だ。
 しかも、発言者は、目の前にそうした状況が迫っていて、明日にでも死を選ぶのか、と言ったら全然そうではなく、自分は安全圏にいて言っている。

 ― 死をどう迎えたいのか、自らの最期はどういう形が望ましいのか、素朴に言葉にすることはあり得るのではないか。

 立岩 それはまったく否定しない。あってしかるべきだ。自らの「死に方」、というより最期の「生き方」について考え、語り、要望することは何らおかしなことではない。
 でも、ある状況を指して「自分ならこうしたい」と公言することは、常に他人を傷つける恐れがあることを意識するべきだ。自らの死について将来の望みを家族や病院の人に打ち明けることと、SNSなどで「自分はそうならない」ことを知った上で「そうなったら死ぬ」と書き込み、公言することはまったく違う。

 ◇たていわ・しんや 東京大大学院博士課程修了。著書に「精神病院体制の終わり」「弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術」など。


■いただいた案→立岩が手をいれた版:変更は▼▲で囲った部分

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性に対する嘱託殺人事件をきっかけに、安楽死をどう考えたらよいのかに関心が集まっている。ALS患者への支援のあり方も問われている。障害学会会長で立命館大教授の立岩真也さんへのインタビューを2回にわたって掲載する。初回は、安楽死をめぐる基本的な考え方について。(聞き手・阿部秀俊)

 まず確認しておきたいのは、今回の事件は野蛮な殺人だけれど、一方には、穏やかで「ちゃんとした」安楽死がある、という考えを私は採らない。連続している、と考えるべき。死にたいと思っている人がいて、それを助ける人がいる。その構造は共通している。
 安楽死の法制化を言う人は、「助ける」度合いや条件をルール化して「ちゃんとした」制度を作ろうと試みるが、そもそもの構造が間違っている、とまず指摘しておきたい。死にたい人を助けること、それ自体がダメだ、と。

―自殺する自由、死ぬ権利という言い方もある。では、その自由がない人、権利を行使できない人はどうするのか。例外的に「死を助ける」ことはあり得るのでは。

 自殺の問題から考えると良いかもしれない。「死にたい」という人はたくさんいるが、「死ねる」制度やルールを作るべきだろうか。社会としては「死にたくてもやめなさい」という立場を取るべきだろう。穏当な建前論に聞こえるかもしれないが、こうした建前は意外に大切。
ただ、自殺の場合は、制度化されていなくても実行できてしまう。実際に年間2万人近い人が自殺で命を失っている。そうすると、他人の助けがないと「死ねない」というのは不平等、不公平だという言い方は、確かにできる。だから、あえてこう言ってもいい。自殺ほう助はあり得る。死を助けることはできますよ、と。私は「死の権利」を100%認めないわけではない。ただ、助けたいのならば、罪に問われるぐらいのことは覚悟するべきだ。
 自殺ほう助に対して一定の刑罰を科すことに合理性があるのは間違いない。歯止めがなくなると、手伝いたい人、商売にしたい人が出てくる恐れがある。

―究極的には個人の決断であり、社会制度として作るべきではない、と。

 そもそも法制化を掲げる人は、究極の状況を「改善」するために議論しているわけではない。そうしたケースは一種の方便として語られるだけで、本音は「命の選別」を進めたい。だから、極めて例外的な状況に対しては、あえて「罪を覚悟したら可能だ」と反論しておく。
 付け加えておくと、自殺ほう助に医師が関わるべきではない。命を助ける仕事、人を生かすために働く人が、殺すことを引き受けるのはリスクが大きい。

―では「死にたい」気持ちにはどう向き合えばよいのか。

 「死にたい」と▼言わざるを得ない→思い言ってしまう▲状況の改善を優先すべき、というのが私の考え。「死ねる」条件を探すのではなく、死にたくなる状況が何に由来しているのかを考える。社会の対応が不十分なまま、いろんな手が打てるのにサボったまま、「死にたい気持ち」に応える制度を実現してあげましょう、というのは順序が違う。
 ▼「死にたい」と言っても本心では死にたくないこともあるし、→「死にたい」と思う多くの人は同時に生きたい人でもある。▲▼死ななくてもいい人がたくさんいる。→死なずにすんだはずの人がたくさんいる。▲▼もし「死ねる制度」ができると、そうした命はより多く失われていくだろう。→「死ねる制度」ができると、命はより多く失われていくだろう。▲
―今回のALS患者嘱託殺人事件で、ネット上には「自分だったら生きたいと思わない」「もし私なら死にたい」といった匿名投稿が目立つ。安楽死の制度化を求める動きと無縁ではないように思う。

 こうした言葉を発する人は、「自分のことを言っているだけで、他人を非難しているわけではない」と思っているかもしれないが、それは違う。もはやヘイトクライムと言っていい。困難な状況で生きている人に対して、「わたしはあなたの状態が死ぬほどイヤです」というのは、相当強い否定だ。例えば、なんでもいいですよ、「私がもし黒人として生まれたら、生きていられない、死んじゃう」とかね。相手の属性・状態を、命という非常に重いものと比較して、それに劣ると指摘しているだから。しかも、発言者は、目の前にそうした状況が迫っていて、明日にでも死を選ぶのか、と言ったら全然そうではなく、自分は安全圏にいて言っている。

 ―死をどう迎えたいのか、自らの最期はどういう形が望ましいのか、素朴に言葉にすることはあり得るのではないか。

 それはまったく否定しない。あってしかるべき。 自らの「死に方」、というより最期の「生き方」について考え、語り、要望することは何らおかしなことではない。
 でも、ある状況を指して「自分ならこうしたい」と公言することは、常に他人を傷つける恐れがあることを意識するべき。自らの死について将来の望みを家族や病院の人に打ち明けることと、SNSなどで「自分はそうならない」ことを知った上で「そうなったら死ぬ」と書き込み、公言することはまったく違う。

〜以上、(上)終わり〜


>TOP
■■インタビュー(下)
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/341720
※以下の文章をお読みください。
◆立岩 真也 2020/08/10 「こんな時だから言う、また言う 収録版――新書のための連載・15」,『eS』023

■立岩が手をいれたもの

 なぜALS患者の嘱託殺人事件は防げなかったのか。筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の独居移行支援に2006年から関わってきた一人として、無力感に襲われている。これからの支援のあり方を、当事者運動にも詳しい立命大教授の立岩真也さん(社会学)と考えた。(聞き手・岡本晃明)

―亡くなった女性は17もの事業所からヘルパーを派遣されてケアを受けていた。

 悪循環があったのだろう。本人と介護者がぶつかることがときにある。それで辞める人がいて、穴があき、代わりの人がくるが、当然もっと慣れない人で、介護ローテはつぎはぎだらけになり、たくさんの事業所が入れ代わり立ち代わりになる状況に陥った。そうするとちょっとした外出もできなくなる。苦しいし、いら立つし、悲観的になる。だれが悪いのでもない。こんな場面に限らない。ややこしい、難しいところにつきあう人や組織が要る。
 岡本さんも携わったALS患者杉江眞人さん(2013年没)の独居生活も、同じような困難があった。あの時は、衝突する本人と介護者の間に入り、損な役回りを引き受けることになった人がいた。大学院生でもあったその人の職業は看護師だが、まったくのボランティアだった。私たちも彼女のつらい話を聞くぐらいのことはした。行政用語的に言えば「相談支援」だが、現在でも、こういう部分にろくに金が使われていない。

―1日24時間介護保障を受けて在宅生活しているALS患者は、まだとても少ない。「病院や施設暮らしは無理」「家族に介護負担を掛けたくない」と絶望し、生きたくても人工呼吸器装着を選択せず亡くなる人がいる。その中で、第3の道として、甲谷匡賛さん(京都で初の独居ALS患者)とともに、制度が足りない荒野の中に「ALS独居」という道を作ってきたという自負があった。そうした運動の成果があったから、今回事件で亡くなった女性の在宅独居も可能だったはず。だから悔しい思いはある。調整役の支援者が独居の必要条件のように言われてしまうと、それはそれでつらい。

 いなくて済むならその方がいいけれど、要る場面があるのだから仕方がない。施設や病院から出る時だってそうだ。出る前と後の世界に大きな差があり、面倒なことが多いこと自体が問題だが、その現実を前提に動かざるをえない。そして動く人は一人ではつらい。いっしょに、かわるがわる、その仕事ができるようにしたらよい。今は、介護派遣で大きな売上げのある、そして心意気のあるわずかな数の事業所だけが、介護派遣の「あがり」を使ってそういう支援の仕事をかろうじてしている。施設や病院の「中」にかけられている金に比べて、こういう仕事にほとんど社会は支出していない。バランスを変えて、せめてかかっただけの時間の分、社会が、直接には政府が払うべきだ。

―障害者が被害者になる事件があるたびに、制度の質や量の充実、ケアの「社会化」を社会運動は訴えてきた。だが今回の事件で亡くなった女性は独居当初から重度訪問介護を毎日24時間切れ目なく行政から支給されており、医療職や福祉職のネットワークもあった。行政に制度面で「もっと」と求めるだけでは済まない面を感じる。簡単に社会化できない領域というか…。

 行政にやれって言っても、やらないし、下手だし、自分たちがやる、だから金は出せ、とこれまでその人たちは言ってきた。それでいいのではないか。どんなに頑張っても、人は死ぬことはあるし、100%できなかったらダメとは全く思わない。できることをやる。でも死ぬ時はある。でもやる。そんな地道な営みではないか。

―杉江さんは「死にたい」「出て行け」と何度もヘルパーに怒り、残ったヘルパーに長時間の重労働がのしかかり、杉江さんが精神的にも肉体的にもさらに追い込まれる悪循環に陥った。そこから抜け出せたが、何がきっかけだったか「成功体験」として一般化できない。「生きたい」と思う人がいて、それを「支えた」人がいた、みたいなきれいな話にまとめられない。ただ一つ思うのは、社会に開いていくことは大事だった。甲谷さんも杉江さんも、ALSになって経験したことを実名で社会に語る覚悟があった。今回、事件で亡くなったALS女性のケアスタッフに取材すると、「守秘義務があり話せない」と言われることが多い。専門職だから当然だが、プライバシー保護が壁になって、SOSが届きにくくなった面はあるのではないか。

 身体の状況もあって、部屋にこもっていると、空間がさらに狭まり、閉じられていく。ネットは便利だが、それだけで閉じこもり感はなくせない。わざとでも、外に出る、人を呼ぶ。出てきてもらう。互いに知る、話す。それが力になってきた。これまでのことを成功体験として簡単にまとめられないこと、行政に改善を求めるだけではすまないこと、それはその通りだ。でも、逆に言えば、ボランティアベースで、偶然の関わり合いでかなりのことができたのだから、整いつつある制度をうまく使って、それに上乗せして、少しずつ状況を良くする道を探ることは可能ではないか。夢物語ではないと思う。

■【原案】インタビュー(下)

なぜALS患者の嘱託殺人事件は防げなかったのか。筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の独居移行支援に2006年から関わってきた一人として、無力感に襲われている。これからの支援のあり方を、当事者運動にも詳しい立命大教授の立岩真也さん(社会学)と考えた。(聞き手・岡本晃明)

―亡くなった女性は17もの事業所からヘルパーを派遣されてケアを受けていた。

悪循環があったのだろう。本人と介護者がぶつかることよくはある。それで辞める人がいて、介護ローテに穴があき、代わりの人がくるけれど、つぎはぎだらけになり、たくさんの事業所が入れ代わり立ち代わりになる状況に陥った。だれが悪いということではない。でも、その状況を収拾する役の人がいなかった。
岡本さんも携わったALS患者杉江眞人さん(2013年没)の独居生活も、同じような困難があったと思う。でも、あの時は、損な役回りを引き受けた調整役の西田美紀という人(看護師。立命館大大学院博士課程)がいた。衝突する本人と介護者の間に入って、狭い意味での介護だけではなく、(★杉江さんに地域の講演会で当事者として講演することを勧めるなど?★)、みんなのストレスを減らす方向に動いた。行政用語的に言えば「相談支援」。現在でも、そうしたソフトの部分にカネを使っていない面は否めない。

―1日24時間介護保障を受けて在宅生活しているALS患者は、まだとても少ない。「病院や施設暮らしは無理」「家族に介護負担を掛けたくない」と絶望し、生きたくても人工呼吸器装着を選択せず亡くなる人がいる。その中で、第3の道として、甲谷匡賛さん(京都で初の独居ALS患者)とともに、制度が足りない荒野の中に「ALS独居」という道を作ってきたという自負があった。そうした運動の成果があったから、今回事件で亡くなった女性の在宅独居も可能だったはず。だから悔しい思いはある。調整役の支援者が独居の必要条件のように言われてしまうと、それはそれでつらい。

ただ、必要な場合があるというのは事実で…。(患者とヘルパーの)どっちからも恨まれるし、非常に消耗する。いなくて済むなら絶対にその方がいいけれど、要る場面があるのだから仕方がない。損な役回りを引き受けた人がいたら、それを周りが支えていくしかない。そうした部分は単純に制度を整えれば済む話ではない。それでも、事業所がきちんと利益を出せる仕組みを整えるなど、改善の余地はあって、一人の「ボランティア」にしわ寄せがいかない仕組みは、制度面から考えられる。
制度と現場の取り組み、その両輪ではないか。甲谷さんのケースでも、24時間介護保障を獲得できただけで実現したのではなく、いろんな人のたまたまの関わり、人間関係で動いた部分も大きいのでは。

―障害者が被害者になる事件があるたびに、制度の質や量の充実、ケアの「社会化」を社会運動は訴えてきた。だが今回の事件で亡くなった女性は独居当初から重度訪問介護を毎日24時間切れ目なく行政から支給されており、医療職や福祉職のネットワークもあった。行政に制度面で「もっと」と求めるだけでは済まない面を感じる。簡単に社会化できない領域というか…。

行政にやれっていっても無理。自分たちがやる、だからカネを出せ、とこれまで言ってきた。それでいいのではないか。どんなに頑張っても、人は死ぬことはあるし、100%できなかったらダメとは全く思わない。できることをやる。でも死ぬ時はある。でもやる。そんな地道な営みではないか。

―杉江さんは「死にたい」「出て行け」と何度もヘルパーに怒り、残ったヘルパーに長時間の重労働がのしかかり、杉江さんが精神的にも肉体的にもさらに追い込まれる悪循環に陥った。そこから抜け出せたが、何がきっかけだったか「成功体験」として一般化できない。「生きたい」と思う人がいて、それを「支えた」人がいた、みたいなきれいな話にまとめられない。ただ一つ思うのは、社会に開いていくことは大事だった。甲谷さんも杉江さんも、ALSになって経験したことを実名で社会に語る覚悟があった。今回、事件で亡くなったALS女性のケアスタッフに取材すると、「守秘義務があり話せない」と言われることが多い。専門職だから当然だが、プライバシー保護が壁になって、SOSが届きにくくなった面はあるのではないか。

身体の状況もあるから、何もしないと、どんどん狭まり、閉じられていく。社会と離れていく。ある意味、わざと「開く」、外に出て自分のことを宣伝する、それは力になる。行政に改善を求めるだけではすまない。成功体験として簡単にまとめられない。その通りだと思う。でも、逆に言えば、ボランティアベースで、偶然の関わり合いでかなりのことができたのだから、整いつつある制度をうまく使って、それに上乗せして、少しずつ状況を良くする道を探ることは可能ではないか。夢物語ではないと思う。


>TOP
■■cf.

◆ALS女性嘱託殺人事件報道について、日本自立生活センター記者会見全文
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/341742
 2020年8月5日 19:08

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性に対する嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕された事件を受け、京都の障害者でつくる「日本自立生活センター」(京都市南区)が8月5日、京都市上京区の京都府庁で記者会見を開いた。障害や難病のある人たちの安楽死を容認するような意見がインターネット上などで散見されることに「苦しいなら安楽死しても仕方がない、という風潮になることを危惧している」などと懸念を示した。会見の主な内容は次の通り。

会見するALS患者の増田英明さん

◇JCIL会見趣旨
 昨年6月に放映されたNHKドキュメント「彼女は安楽死を選んだ」に対し、JCILはNHK宛てにその報道の問題点を指摘をし、それに対するNHKからの回答も不十分だったため、BPOにも放送倫理上の問題点に関して調査・審査を要望いたしました。
 文書の中では、あの番組が「今実際に「死にたい」と「生きたい」という気持ちの間で悩んでいる当事者や家族に対して、生きる方向ではなく死ぬ方向へと背中を押してしまうという強烈なメッセージ性をもっている」「社会的支援を活用して生きる道があることを知らせることなく、障害や難病のある生を否定して死を選ぶ道があることを私たちや家族にわかりやすく知らせることは、わたしたちを「死」へと着実に誘導することにつながります」などと指摘しました。
 残念ながら、BPOからの反応はありませんでした。そしてNHKも同番組を何度も再放送しました。
 今回のALS患者嘱託殺人事件では、すでに報道にもあった通り、この「『NHK番組観て』死への思い傾斜」したと指摘されています。報道の社会的影響によって今回の嘱託殺人が準備されたことは、報道関係者には大きく注意を促したいと思います。
自殺報道と同様に、安易な「安楽死」の報道は、「死にたい」と思っている人の希死念慮を増幅させます。また、苦しんでいる人に対して「ラクに死なせたい」と思っている人の気持ちを増幅させます。
 JCILにも、今回の事件後、「死にたいけどどうしたらいいのか」「自殺はしたくないけど安楽死したいから今回の事件に批判的なことは言わないでほしい」などという声が届いています。
 「報道関係者のみなさん」にお願いです。確かに安楽死に関する報道は視聴者や読者の注目を集めます。しかし安易な「安楽死」報道は、「死にたい人」や「死なせたい人」のその気持ちを強める可能性が高くあります。そのことを考慮した上で慎重に行ってください。
 「安楽死」を求める声(楽に死にたい、楽に死なせたい)の背後には、必ずこの社会の問題や課題が潜んでいます。それは、行政や医療や介護から見捨てられたこと、それらの人的資源が不足していること、社会的なつながりを喪失していること、などです。そうした社会の問題点を明らかにし、それらを改善していく動きを報道し、社会を変えていくのが報道の使命だと思います。
 楽に死ぬことを報道するのではなく、少しでも生きる可能性を見出せるよう報道してください。どうぞ、よろしくお願いします。

◇体幹や手足の筋力低下が進む脊髄性筋萎縮症の大藪光俊さん(26)

大藪光俊さん
 こんにちは。JCILで障害当事者スタッフとして活動しています、大藪光俊と申します。 ALS 嘱託殺人事件から派生している昨今の安楽死報道について、私の立場からの思いを述べたいと思います。
 正直に言って、私は今までの人生で一度も「死にたい」と思ったことがありません。私には生まれつき脊髄性筋萎縮症(SMA)という進行性の病気があり、一度も歩いたことも立ったこともありません。健常者の方にとっては自分のことは自分でできて当たり前かもしれませんが、私にとっては自分のことが自分でできなくて当たり前、として生きてきました。だから、自分のことが自分でできないということに抵抗を覚えるどころか、むしろできないから誰かに介助してもらうというのが、私の人生でのスタンダードです。
 そして私自身がこんな身体でも「死にたい」と思わなかった最大の理由は、常に誰かが私のそばで私の生活を支え続けてきてくれたからです。子供の頃は両親や弟、学校の先生、大学に進学すると学生ボランティアの先輩や後輩、友達、そして今は24時間体制で介助者(ヘルパーさん)が支えてくれています。そしてもう一つ大きな理由として、障害を持つ仲間との出会いがあります。私の病気は進行性で、身体が成長していくと共に、ただでさえ動かない身体がますます動かなくなってきました。その中で、ものすごく落ち込んだり怖くなったりした時期もありました。そんな時に、私に「大丈夫だよ」と教えてくれたのが障害を持つ仲間の存在だったのです。どれだけ体が動かなくても大丈夫、気管切開をして人工呼吸器をつけても大丈夫、そういった仲間の姿が身近にあったおかげで、私は「死にたい」ではなく「生きたい」と思い続けてこられたのだと思います。
 「大藪は周りの環境に恵まれていたからそう思えるんだよ」と、そう言われたら確かにそうなのかもしれません。だとすれば、この社会に住むすべての人がもれなく「生きたい」と思える環境を作っていかなければいけない。苦しみから逃れるために「いかに楽に死ぬか」という議論をするのではなく、苦しみから逃れるために、いかに人と繋がり、苦しみや悩みを共有し、そして支えあって「いかに楽に楽しく生きるか」という議論をもっとこの社会のみんなでしたいし、しなければならない、と私は心の底から強く思います。そしてそういった環境を整えていくために最も大切なことは、障害のある人もない人もいかなる人も、分けられるのではなく同じ地域で共に暮らす共生社会の実現であるという風に強く思うのです。
 是非ともメディア各社の皆様にも、「生きる」をみんなで考えられるような報道、みんなが共に暮らせる社会の実現を後押ししていくような報道をしてくださることを切に願います。

◇神経疾患の難病、遠位型ミオパチー患者で、重度訪問介護など24時間ヘルパー派遣を受け一人暮らしをする岡山祐美さん(40)=会議アプリで中継

 私自身も、難病、障害がどんどん進行する中で、あまりにもつらくて死にたいと思う時期が過去に何年もありました。つら過ぎる状況から早く楽になりたいので、そういう時にあの安楽死のような番組を見たら、あんな風に死ねるのならいいなと、死にたい気持ちがさらに高まったと思います。「死にたい」と「生きたい・生きる」との間で揺れている人に対して希死念慮を高める危うさが、あのような報道にあることを認識していただきたいです。
 また、つら過ぎて死にたい、安楽死したいという人に対して、「難病や障害がある場合なら、つら過ぎるのだし死なせてあげたらよい」というメッセージを含んだ報道は、その死にたいほどのつら過ぎる状況に対してサポートを放棄するというメッセージでもあると思います。社会的影響の大きな報道が、そのようなサポートの放棄の姿勢でよいのでしょうか?
 報道関係のみなさんは、希死念慮を高めるような報道をするのではなく、死にたいほどつらい状況を改善する、生きることをサポートするメッセージをたくさん発信していただきたいです。それは障害や難病の有無で分け隔てることなく行われるべきことだと思います。

◇ALS患者で人工呼吸器を装着している増田英明さん(76)=京都市左京区=は透明文字盤を介して、次のように話した。

 [動画]文字盤で言葉を伝えるALS患者の増田英明さん

 私たちは生きることに一生懸命です。安楽死や尊厳死を議論する前に、生きることを議論してください。そしてヘルパーさんや経営者のみなさんにエールを送ってください。おねがいします。安易に彼女の言葉や生活が切り取られて伝えられることや、そうやって安楽死や尊厳死の議論に傾いていくことに、警鐘を鳴らしてきました。いま私たちの間には静かな絶望が広がっています。
 私の仲間はこの報道を聞いて、自分がどうしていいのかわからなくなったといいました。支援者もこの事件や報道に傷つきながら、わたしたちを支えてくれています。彼女のひとつだけの言葉をとって、安楽死や尊厳死の議論に結びつける報道は、生きることや、それを支えることにためらいを生じさせます。いまこの事件をしって傷ついているひとたちに、だいじょうぶ、生きようよ、支えようよ、あきらめないでと伝えて、応援してほしいです。生きていく方法は何通りも、百通りだってあります。ひとの可能性を伝えるマスメディアの視点を強くもとめます。
 彼女は安楽死でも尊厳死でもなく、自殺でもありません。殺人です。彼女のヘルパーや家族、みんなとの日常を断ち切った2人の医師を許せません。


UP:20200824 REV:20201023
京都府におけるALS女性嘱託殺人事件  ◇優生学優生思想  ◇優生学優生思想関連文献  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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