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新型コロナの医療現場に、差別なく、敬意をもって人に来てもらう

だいじょうぶ、あまっている・3

立岩 真也 2020/05/02 『現代ビジネス』(講談社)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72304
第1回第2回


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 ※第1回:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71768
 ※第2回:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71974
 ※この草稿は、書けたら講談社のサイトに掲載され、ここからはなくなります(2020/04/27)。
 ※手をいれました。講談社のサイトの方、用意できたらそこに掲載され、ここからはなくなります(2020/04/29)。
 ※掲載されました。今日中にここからなくします(2020/05/02)。
  第3回:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72304
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■お知らせ

◆2020/05/02
 「https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72304 「だいじょうぶ、あまっている・3」「このかん私が関係している障害学会が声明を出したこともあって、いくつか取材を受けて記事にしてもらったりもしたのですが、「こういう状況で後回しになりやすい〈社会的弱者〉に気を配りましょう」、みたいな話にまとめられたりします。それはそれで間違いではないのですが、もちょっと大きな話…」→http://www.arsvi.com/ts/20200023.htm

◆2020/05/04
 「https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72304「たしかに差別には、まったく「ゆえない」というしかない場合もたくさんあります。しかし、そんな場合ばかりではない。可能性がいくらか高いことが、いくらかはあります。今回起こっていることはこちらです。そうした時にどう対するかです。考えていくと面倒なことはいろいろありますが、基本は、…」(立岩真也「新型コロナの医療現場に、差別なく、敬意をもって人に来てもらう――だいじょうぶ、あまっている・3」)http://www.arsvi.com/ts/20200023.htm
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 「https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72304「たしかに差別には、まったく「ゆえない」というしかない場合もたくさんあります。しかし、そんな場合ばかりではない。可能性がいくらか高いことが、いくらかはあります。今回起こっていることはこちらです。そうした時にどう対するかです。」http://www.arsvi.com/ts/20200023.htm


大きく見た方がやはりよい
 まだ新型コロナウィルスのことからです。これまで紹介してきた斉藤龍一郎さんが情報収集を続けてくれています→アフリカとSARS-CoV-2。アフリカは、音楽に好きなものがありますが、行ったことはないし、とくに関心があるわけではありません。しかし、中央アメリカも南アメリカもそうですが、ここのところ一日中ずっとやっているコロナ報道には出てこないなあと思います。斉藤さんの作ってくれたページを見ると、まるで報道がないわけではないことはわかりますが、やはりテレビにはまず出てきません。
 当たり前だといえば、それはそうなんでしょう。人がみな、世界中のことに関心を抱くなんていうことは、そんなに健全なことでもないようにも思います。しかし、米国の大統領の顔を毎日見るよりは、他の場所のことを知ったり考えたりする方が健康なことではなかろうかと。医療を得られないという点で、米国は、他のこれから厳しくなるのではないかという地域の方に近いのですが、しかしその国(米国)については、容易にできることをこれまでやってこなかったのがあなたの国の選挙の結果なのだから、まずは自分たちでなんとかしてよ、と言うことにします。
 多くの人にとってはグローバリゼーションはいやいやながらのものです。もちろん、世界に羽ばたきたい人はそうすればよろしい。しかし多くの人はそうでもない。居たいところに居続けたいのにそれがかなわず、移民したり難民になったりします。また地元にいて安い賃金で仕事をせざるをえない、あるいは仕事に就けない人たちがいます。それらの人々にとって、そしてその影響・余波もあって、暮らしが苦しくなり、ときに敵意を向けてしまう「先進国」の人たちにとっても、結局、むりやりの流出を減らす、そのためにも、貧困と格差を減らす、これしか基本的な方向・方法はありません。大仰な、と言われるかもですが、ただ、アフリカの債務削減の話をこんどはコロナに便乗してするのかよと思ってしまう時には、基本的なところを考えた方がよいし、そのうえでこれまでの施策が、国家を通過すると人々に益をもたらなかったことを振り返り、よりましな方途がどこにあるだろう、と次に進む方がよいです。すぐに実現しそうにない大きな話を無益なものと捨ておくのは、実は現実的な処世のためにもよくないです。小さいなことでも、右に行くか左に行くかを考える、そのために大きな大仰な構図が役に立つのです。
 このかん私が関係している障害学会が声明を出したこともあって、いくつか取材を受けて記事にしてもらったりもしたのですが、「こういう状況で後回しになりやすい〈社会的弱者〉に気を配りましょう」、みたいな話にまとめられたりします。それはそれで間違いではないのですが、もちょっと大きな話ではあるのだよなと思うわけです。なんでも「身近」な話にもっていかなきゃならないことはない。むろん他方で「世界経済の危機」が語られるわけですが、こんどはまたえらくばくっとした話であったりします。なんとかならんのか。『現代思想』の5月号が「緊急特集=感染/パンデミック――新型コロナウイルスから考える」です。まだ入手してないのですが、どんなことが書いてあるのでしょう。

少しゆえがあっても差別しない
 「人」の話に移ります。まず、全体として、もう長く、そしてこれからも長く、働ける人は余っており、それは基本的にはたいへんよいことなのだが、それがやっかいな事態を引き起こしていることを言おうと考えています。そして次に、基本的にはよいことなので、やっかいなことはやっかいでなくすることができることを言おうと思っています。
 しかし、今、局所的に人が足りていないのは事実です。感染者・発症者に対応する人、感染の可能性のもとで働く人のことです。そしてその周囲に、仕事をしたくてできない人がもっとたくさんいるます。営業できず、あるいは営業できても人が来なくなって仕事が減ったりなくなったりして、お金が入らなくなった人です。こちらは余っているということにもなります。
 今回は前者の人たちのことです。一時的に働く人が足りないことは、天災などによって時々起こります。1995年の阪神淡路、そして2011年の東日本大震災の時もそうでした。その時にはたくさんのボランティアの人たちが働きました。ボランティアというかたちがうまく機能するのはこういう時です。つまり、いつもの仕事をいっとき休んででも、できることをする。私は「無償」ということがそんなに素晴らしいことだとは思っていません。けれども、いちいち雇用して、お金払ってというより、行ける人がとにかく行くというという方がかえってうまくいくことはあります。そして、とにかく言われたことをする、とか、自分の技能を活かすといったかたちで復興に貢献しました。
 この度のことは、2011年の原発事故以降の部分には近いところがありますが、そうではない。一つには、感染する可能性があるからです。一つには、その感染症に対応するのには専門職が必要だとされるということです。地震や台風なら一番ひどいことが起こり、その苦難は続くけれども、それでもだんだんよくなる、今度はそうじゃないから辛いよね、とはよく聞くことです。それとともに、自分ができることが少ない、それで暗い気分になっている人もいます。他方に、仕事がら関わらざるをえず、関わっている人がいて、疲れていて、そして足りないという話がなされます。

少しゆえがあっても差別しない
 まず、しごく当たり前のこととして、人と遠ざかる、距離を保つことが基本的に正しいとして、どうしたって人に接する仕事は残リ、人はいります。マスクをするぐらいではすまないその人たちの装備は無粋なものですが、仕方がないのでしょう。しばらくはできるだけの身支度をして、対応するしかない。そして、一つ、その人たちとその家族他を差別・排除しないこと。
 これはじつはすこし深い話です。「ゆえなき差別」とよく言われますが、ほんとに「ゆえない」と言えるかということです。たしかに差別には、まったく「ゆえない」というしかない場合もたくさんあります。しかし、そんな場合ばかりではない。可能性がいくらか高いことが、いくらかはあります。今回起こっていることはこちらです。そうした時にどう対するかです。考えていくと面倒なことはいろいろありますが、基本は、生きていくために必要なことをしている人が、この場合には感染を防ぐためのできるだけのことをしている場合には、その人たちやその関係者を差別し排除してはならないということになります。
 そんな当たり前のことを今さら、とみなが思っているのであれば、言う必要はないのです。しかし、この世には、問題を起こす可能性が高い、ということでアパートの入居を断われる高齢者がたくさんいます。障害者の作業所を作ることに反対運動が起こって、しかもその主張がまかり通ったりします。そんな対応・主張はしてならないのだと言うと、危険の可能性が十分に高かったらどうなのだと返される。そして「十分」という数字の値は、「べき」の水準でも、「事実」の水準でもはっきりせず、数字は連続してもいる。となると、「だめ」と言い切れるかとなります。しかし、ここで引き下がってだめなのであって、そして必要であり仕方ないこと、そしてこの場合にはリスク軽減のためのことはしている場合には「基本だめ」、それもたんに道徳的にということではなく、社会の決まりとして「だめ」とする。そうすることによって、その人たちが働けるようにするということです。前回の最後に紹介した岡部宏生さんの「新型コロナに関する介護/医療/保育現場へのメッセージ」はそのことを言っています。

少し「にわか仕立て」でもよいから来てもらう
 もう一つ。この仕事はざっくり括ると「ケア」の仕事です。これまでも全般的に「ケア」の仕事は人手不足でした。とくにこのごろは医療というより福祉、介助(介護)のほうで人が足りません。そしてそれは少子高齢化と結びつけられたりするのですが、そんなにたいそうな話ではなく、人手不足は対価が低いからであって、報酬をいくらか高くすればよいだけのことです。このことは後で書きますし、別の本にも書きます。ただ今回についてはこれまで、この介護の方面のことはそれほど言われず、多くは医療・のことが心配されているし、実際問題が起こっています。だから、「順番」を決めようというのが、前回取り上げた話です。
 医療には場所と機械と薬、その他消毒用アルコールとか細々ともろもろがいりますが、それ自体が希少ということはないと前回に述べました。これにはちゃんと理由があります。私たちは生物体であり、その機能に関わるものは多くこの地球上に普通にある物質、増殖する物質であろうということです。やがてできてくるワクチンともそういうものです。さて次に人ですが、その人は、仕事ができる人です。するとその仕事が安全にでる人なら、本来は誰でもよいとなります。この連載の初回にまだ人工呼吸器がなかったときに、かつてのポリオの流行の時医学生が手押しのふいごのようなものを押して多くの命を救ったことを紹介しました。その人たちは総出で働いたというのですが、それは医学生だけである必要もなかった。もちろん今必要なのは、きっと高度な技術なのでしょう。しかし、まずは見よう見まねでもできるようになればよい。特殊な人しかできない指図が必要なら、その指図はその特殊な人にゆだねてもよいでしょう。いったん離職した看護師を呼び戻すとか――ご存じのように看護師の離職率はたいへん高い――はなされていて、私の勤め先の社会人大学院生にも非常勤で働いている病院が大忙しで毎日行かないとならないという人がいます。さらに、その人たちは狭義の医療者である必要はないということです。技術、安全性、その他の条件は満たすべきですが、それは今ある資格がないとできないと決まってはいない。安全のために資格があるのはわかっていますが、仕事ができるようになったら、仕事をしてもらうのは、人が足りなくて人が死ぬよりはよいということだろうというのです。
 在宅で人工呼吸器を使って暮らす人などの喀痰(かくたん)の吸引などの仕事を言い、「医療的ケア」などとも業界で呼ばれます。非医療職者がその仕事をすることを認めさせようという動きと、それを止めようという動きとがかつてありました。完全に落着したわけではないですが、ヘルパーの人ができるようになり、私の周囲にもそんな仕事をしている人たちがたくさんいます。
 この時の反対は医療、というより看護業界からのもので、例によって安全性が根拠にされました。長い時間の系統的な教育があってうまくできる判断や処置があること、それが求められる人・時にはそれができる人があたるべきことをまったく否定しませんが、そうでもない部分もたくさんあり、現に既にヘルパーたちがしてきました。そのことを認めようとしなかった人たちがいたということです。人が足りなくさせられる時には、ときに、こんな自分たちの職域を護り拡張しようという力学が働くことを、そのうちまた別のところでも見ることになると思います。既に仕事としている人たちは、その自分たちの仕事を新たに仕事にしようとする人たちの参入を警戒するのです。このすったもんだがあった時もその以前も、今も、家族が行なう場合は認められていたのです――家族に関わる御都合主義はこのたびの出来事についてもあります。
 もちろん、このたびの緊急対応と毎日たんたんと痰をとったりなどする仕事とはおおいに違うでしょう。そしてこの仕事を、仕事だから、使命感によって、仕方なく続けている人たちには、代わってもらえるならどうぞと思う人たちもいるでしょう。まったくもっともなことです。
 ただたんにここで言いたいのは、今いる人と別の人もできるようになるだろうということです。それも理由はある。人間とその病状は多いに個体差がありつつ共通性もあること、そしてその人に関わる人間の多くにも共通性があって誰かができることはたいがい他の誰かもできるということです。
 ただ、できるようになるまでの時間の問題はあります。安全に確実にできるようになるためにはもちろん必要で十分な時間がかけられるべきです。しかし、ときにはいくらかは緊急対応でにわか仕立てでも仕方のないこともある、ただただ人が亡くなっていくよりはよい、ということです。


◇4月27日送付/4月29日改稿
◇最初の題:「今はすぐ人を尊敬をもって遇する」


UP:20200421,25 REV:20200427,0502,04
感染症〜新型コロナウィルス  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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