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人について書くこと

「身体の現代」計画補足・627

立岩 真也 2019
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2390937677839872

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青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

◆09/06社会運動史・アーカイヴィングについての催
 http://arsvi.com/2010/20190906.htm
 おいでください。参加しようかなという人&情報保障いりような人(早めに)→立岩(tae01303@nifty.ne.jp)まで
◆青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉201909『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院
 http://arsvi.com/b2010/1909ac.htm


 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』の「もう一度、記すことについて」
http://www.arsvi.com/ts/20190034.htm
に以下。


「■今しばらく留めること
 […]
 ■人について書くこと+そのまま残すこと
 社会学(者)は、個人を持ち出してなにかを説明することを避けてきたところがある。ただ、よく言うのだが、まず、それはやってわるいことはない。文学であるとか美術史であるとかは年中そいうことをやっている。夏目漱石がどこでなにをしたとかなにを食べたとか、誰それがどんな学校で誰に学んだかといったことを調べて、書いている。そんな探索・詮索の対象を、文化人や政治家たちに限らねばならないとは決まっていない。書きたいのであれば書けばよい。
 何を書くか。「論文」となると、すこし違ってはくるかもしれない。論文というのは、就職の際など仕事を評価するための対象というようなものでもある。審査に通った論文がしかじかあるというのは力の証拠ということになる。なにか解釈を示せるなら、それがもっとも(らしい)なら、研究者・教育者として雇ってもよいということにされたりする。論文というものが、なにかもっともらしいことを言うことができることを示すものであるとすれば、聞いた話を並べるだけでは評価されないということにもなる。しかしそれはそれだけのこと。別の書き方もある。
 さらに言えば、いやもう言ったことだが、どう読むか、何を読みとるかの手前で、話したり、書いたり、そのままの方がよいということもある。それは別の機会にして、あるいは別の人にゆだねて、ただ集めて、とっておいたり、読んでもらえるようにしたらよいということだってあると思う。」(続く)

◆09/06社会運動史・アーカイヴィングについての催
 http://arsvi.com/2010/20190906.htm
 おいでください。参加しようかなという人&情報保障いりような人(早めに)→立岩(tae01303@nifty.ne.jp)まで
◆青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉201909『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院
 http://arsvi.com/b2010/1909ac.htm


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182627.htm
にもある。


UP:2019 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇病者障害者運動史研究 
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