「重心」といえば必ず小林の島田療護園、そして糸賀一雄のびわこ学園が引き合いに出されるが、その偉人たちやその活動についても、見ておくことはできるかもしれない。その人たちの思想や実践について、これまで書かれてきたものにすべてをまかせ肯定すればよいとは限らないようだ。[…]意義があるのかわからないが、その確認のためにも、調べておいてよいと考える。また、島田とびわこは枕詞のように二つ並列させられて語られるのだが、その二つの間にもずいぶん違いはあったはずだ。そんなことは当然だと言われるかもしれない。しかしそれは具体的に明らかにされた方がよく、さらにそうしたことは、「公式」の「○○年史」の類や先駆者を賛美するために作られた書物等によってはたぶんよくはわからないはずのことだろうと思う。(259-260)
そしてこの二つと、その後多くの人を収容していった国立療養所(国療)は違い、国療の各々もまた違うだろう。本書で筆者が述べようと思ったことが書かれるに際しては、それを記すことは必須ではなかった。しかし一つひとつを書いていくことの意義はある。
[…]先駆的であったものがやがて普通のことになっていく[…]。政策化された後、子どもたちを数多く引き取っていったのは国立療養所だ。そうしたことを看過することになるのであれば、それはよくない。
[…]業界、業界の学界の人々は、先駆的で代表的な施設やそれに関わる人を語って、その全体の歴史を語ってしまうことがある。ただそこには何種類かの間違いがある。一つは、そこに起こった問題、衝突が十分に記述され検討されることがないからだが、もう一つはもっと単純なことで、目立ったところを書くことはその全体を書くこととまったく別のことだということだ。先駆的な施設は、なにかしらの志から始まり、それが続くこともある。注目され模倣されようとするなら、その分がんばろうという気になる。国立療養所であっても仙台の西多賀病院のように、最初に筋ジストロフィー者を自ら受け入れることに決めた施設は、その時からしばらくの間は、いろいろと工夫したり入所者に協力したりすることがある。そこには見学者などもやってくることがある。[…]
多くの病院・施設は、結核療養者の減少といったことがあり、制度の改変があり、成り行きがあって、受け入れることに決まった人たちを受け入れる、普通の施設・病院だ。経営者は官庁からの天下りであったり、大学の医学部から移ってくる人たちであったりする。[…]
思想を点検し考察すること、それと現場との距離を測ること。[…]ほとんど言葉のない空間を見ていくこと、しかしそれでも言葉があって言葉が伴った動きがありその消去・忘却の動きがあるなら、それを再度言葉にすること。そのいずれについても私たちはたいしたことができていない。
全国各地に、近所の人たちもなにか建物はあるがどんなものかはよく知らない施設、近所に家もなく人もあまりいない施設があって、そこに長く静かな日常があってきた。むしろ、それが現実のほとんど全部なのだ。本書で書いてきたのも、大きな静かな空間、長い時間を囲っている縁(ふち)、その始まりのいっとき、熱くなったり苦労したりしたその挿話だった。より大きく静かな時間と空間は書かれない。(261−263)