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西沢いづみ堀川病院本・4

「身体の現代」計画補足・593

立岩 真也 2019
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2303965436537097

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『住民とともに歩んだ医療――京都・堀川病院の実践から』表紙   『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』表紙   立岩真也『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 西沢いづみ『住民とともに歩んだ医療――京都・堀川病院の実践から』
http://www.arsvi.com/b2010/1903ni.htm
の「解題」、「ここから、ときに別のものを、受けとる」の再録、第4回。
 その目次は以下。今回は◆の部分。

■繰り返すが、まず書かれてよかった
■その上で
■より広く見る
◆違うが隣合わせの部分もある
□地域や全人的はいつもよいか?
□堂々と社会に言ったのはよいと思う
□むしろ黙っている場から、わがまま勝手を通す
□二〇一四年の夏

 言及している拙著『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』は
http://www.arsvi.com/ts/2015b2.htm


 「■違うが隣合わせの部分もある
 そうしていったん広げて見た上で、本書で記されているのはどんなできごとか。それはたしかに今並べたのとは異なる成り立ちから始まっている。起こったのは、普通の医療から始まって、しかし人の身体を纏った生活に付き合ってしまって、狭義の医療からはみ出してしまったという出来事であるように思う。
 本書に記述された人たちはまず医療者であり、普通の医療を志向した。自分たちが関わることになった人たちの命がもっと長らえればよいと思い、そのために必要と思うことをしようとした。そして仕事をしていくと、狭い意味での医療では足りないと思われた。身体について困ったことのある人たちは、前の世紀にまったく限らずいつも、たくさんいるから、行なわれる(べき)ことは当然に広くなる。だが、たいがいは職業者の自分の持ち分は決まり、限定される。その決まり方はしばしば簡単だ。自らがもつ技術で対応できる分だけをするというのが一つの限定の仕方だが、実際には人が行なえることはもっと広い。資格があろうがなかろうが、世話する仕事のかなりの部分はできる。結局、それを自分が行なって(どれだけ)収入が得られるかで人の仕事は限定される。自分の仕事場は病院であり、自分は医師であったり看護師であったり、それだけで多くは定まる。そうやって当然にすることは限られてくる。しかしここではそこで終わらないことが起こったということだ。まずは普通にまっとうな営みが、しかしその時期(もそして今も)普通のこととしてはなされたなかったことがなされた、起こったということだと思う。
 本書に出てくる人たちは、医療より広いところで、病院よりも広いところで仕事をすることになった。それは繰り返すが、身体や生活に即する限り、当然のことなのだが、実際には制約されている。それをはみ出した。そこには「人民へ(ブ・ナロード)」といった気持ち、志がやはりあっただろう。ほどよく近いところに、同じような身体的な状態を抱えている人たちが、密集して、多数いたということもあるだろう。本書ではまずその様が描かれ、そこでの実践が書かれている。
 それには、経営のために業務を維持しようとしたり拡大しようとした部分とは異なるところがもちろんある。むしろその人たちは、儲けにならない部分をあえて行なおうとした。さらに、後には、医療について相対的に本人・家族の負担が少ないことで病院への入院者の滞留が多くなるとそれに苦慮したのでもあった。ただ両者は、客として重なる部分を対象にすることにもなった。例えば、本書にも認知症の高齢者への対応が先駆的に自覚され始められるその経緯が記されるのだが(二二二頁)、その時期に多くの人たちをより多く収容し、経営を拡大したのは所謂老人病院だったし、京都では精神病院として始まっていた――当時の、今はもっとよい病院になっていると聞くし、そうに違いないと思う――十全会病院だった。そして現在、その構図は再び日本精神科病院協会(日精協)が進めてようとし、相当規模で実現している(前掲『精神病院体制の終わり』)。
 十全会病院は当時日本で最大の病院で、二千床といった規模のものであったという。堀川病院はそれよりずっと小さい規模で、まじめに仕事をしようとした。その病床数でなんとか回していくために「間歇入院」といった仕組みも使うことになった(一九八頁)。ただ、真面目な堀川病院他でずっと病院にいることが難しい、しかし家に帰ってもどうにもならないという人たちもきっといて、するとそれはどうなるか。そんな人が(どれだけ)いたか知らないが、例えば十全会病院に、ということはありえたと思う。
 そしてその十全会病院は国会でもまたマスメディアからもおおいに批判されたが、結局その営業をやめることはなかった。収容した「数」だけでいえばその数の方が多い。そうした施設は、実際にその経営者は「人生の終着駅」と言ったのだが、最終的な場所として機能した。本書でもあげられている京都の革新的な医師会はこの問題に対してはっきりした動きをとることはなかった、「革新府政」にしてもそんなところがあったのではないか、と私は思っている。その病院が機能を果たしていることを、「地元」は否定することができなかったということではないか。
 すくなくともその時期の医療に関わる制度の仕組みのもとで、数をこなし、その意味で「貢献」したのは、まったく「徳」に欠ける部分だった。こうして本書で記されたのは、苦いといえば苦い、その歴史の一部分であると考えることもできる。手術なり治療して戻す/戻すというだけのことですまないことがある。「在宅」を目指すが、ときにそのようにことが運ばないこともある。それを、病院・医療にだけ金がつく(自己・家族負担が減る)制度のもとで、施設・病院が受け入れる。それは良心に発することもあり、経営に発することもある。ただ、数だけを言えば、後者の方がこなせるということがあり、そしてその後者によって、前者がそのベッド数でなんとかやっていける状態を維持することもあるということだ。

■地域や全人的はいつもよいか?
 こうして一つ、「営利」から実際最も遠いところにいた医療・病院の実践がまったく別のものと隣接した部分があり、そしてその質をまったく無視して量だけを取り上げれば、そのよろしくない部分が大きな部分を占めたとも言えることを述べた。
 もう一つ、[…]」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182593.htm
にもある。


UP:2019 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇病者障害者運動史研究 
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