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西沢いづみ堀川病院本・3

「身体の現代」計画補足・587

立岩 真也 2019


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『住民とともに歩んだ医療――京都・堀川病院の実践から』表紙   『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 西沢いづみ『住民とともに歩んだ医療――京都・堀川病院の実践から』
http://www.arsvi.com/b2010/1903ni.htm
の「解題」、「ここから、ときに別のものを、受けとる」の再録、第3回。
 その目次は以下。今回は◆の部分。

■繰り返すが、まず書かれてよかった
■その上で
◆より広く見る
□違うが隣合わせの部分もある
□地域や全人的はいつもよいか?
□堂々と社会に言ったのはよいと思う
□むしろ黙っている場から、わがまま勝手を通す
□二〇一四年の夏


「■より広く見る

 前の世紀、(所謂)病気を(おおむね短期間の入院も含めた)病院でなおそうとするということは確かにあったが、それだけではなかった。人には、その本人にとってのそして/あるいは周囲の人たちにとっての、身体に関わる不具合・不都合が種々ある。それを扱う場・人は様々あってきた。人々が求めたこと、社会が行なってきたことは様々だった。だからこそ、おおまかに全体を捉える枠組みも必要だと私は思って、『不如意の身体――病障害とある社会』(青土社、二〇一八)も書いた。そしてこの国の戦後のごく一部の歴史について『病者障害者の戦後――生政治史点描』(青土社、二〇一八)を書いた。後者では、そのかなりの部分で(旧)国立療養所のことを書いた。その施設に、結核、ハンセン病、精神病、重症身心障害、筋ジストロフィーといった病・障害のある(あった)人たちが収容された。そして他方、同じ世紀、同じ日本の戦後、民間の精神病院がおおいに栄えた。その一端を『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社、二〇一五)に書いた。それらの人たちの多くは、狭義の医療を得るために、すなわち痛み・辛さを緩らげ、死からしばし自らを遠ざけるためにそこに行ったわけではない。長引く病や障害がある。自分にとってさほどでないが他人たちはそうは受けとらないものもある。そうしたものは前の世紀だろうが、今世紀だろうがたくさんある。自らの苦痛のためにというよりはむしろ、種々に面倒であったり厄介だとされた人たちがそこで長く暮らした。これらは病院ではあったが、(狭義の)医療のために人を収容したわけではなかった。そしてそれは、今日までに至っている。
 こうしたことにはとくに日本に起こったという部分とそうでもない部分とがある。医療という名目が与えられば、収容・強制が正当化されやすいということもあったかもしれない。そんなこともあってか世界的に病院がたくさんの人を収容したことはあった。加えて日本では、民間の病院が大きな部分を占めてきたから、その同業者の組織が大きな力をもってきた。金が流れるような構造ができた。精神病院が、その組織は経営を確保・拡大するために、多くの人たちを収容してきた。これらは、どちらかいえば、今となっては評判のわるい処遇の仕方であっただろう。ただ、それらにも、正しい/正しくはないは別として、もっともな事情があった。

■違うが隣合わせの部分もある
 そうしていったん広げて見た上で、本書で記されているのはどんなできごとか。[…]」

 ここまで。結局自分の本の宣伝のようになっているのだが、私は、そういうことで(も)よいのだと思うことにしている。

◇立岩 真也 20151113 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社,433p.
 http://www.arsvi.com/ts/2015b2.htm
◇立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p.
 http://www.arsvi.com/ts/2018b3.htm


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182587.htm
にもある。


UP:2019 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇病者障害者運動史研究 
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