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「痛いのは困る」から問う障害と社会

立岩 真也・熊谷 晋一郎 2019/03/29

立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』『病者障害者の戦後――生政治史点描』(ともに青土社)刊行記念立岩真也×熊谷晋一郎トークイベント
於:東京堂書店 http://www.tokyodo-web.co.jp/

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◆立岩真也・熊谷晋一郎 2019/07/01 「「痛いのは困る」から問う障害と社会」(対談)
 『現代思想』47-09(2019-07):221-229
 *以下の対談を編集部が編集して掲載

[voice]

◆イベントの題?は「障害者と社会のかかわり」というものだったが、雑誌掲載時のタイトルとした。
◇立岩真也・熊谷晋一郎 2019/03/29 於:東京堂書店 ※
◇文字起こし:ココペリ121 ※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、 聞き取りが怪しいところは、【  】(hh:mm:ss) としています。
 【1中01】20190329立岩熊谷於東京堂書店_103分

熊谷:この度はご出版おめでとうございます。すごい面白かったです。これまで振り返ると面倒くさいことばかりの人生だったんですけれども、その面倒くささがどういう歴史的な背景から来ていたのかが、今回特に青い本を読んですごく、全部とは言わないですけれど、「あ、そういうことだったのか」というふうなことをすごく理解できるようになったなというのが最初の感想といいますか、コメントです。少し振り返ると、ほんとにここにこの青い本の中に描かれていることと、ニアミスあるいはドンピシャで関わってしまったことばかりで。少し自己紹介がてら、どんな人生を歩んできたかみたいなことをざっくり話すと、1977年に私生まれたんですけど、その時代っていうのはほんとにその、療育の時代っていうんですかね、脳性麻痺の、私脳性麻痺という障害持ってるんですが、脳性麻痺は治るというふうに言われて、生まれて割と間もない頃からしっかりリハビリをして、健常な子どもに近づけるようにというふうなことをやっていた時代でした。子ども心に「なんでこんなことするんだろう」、で効果がほとんどないこともやっぱりわかってるんですね、どこか。私もわかってますし、全然手応えがないので。家族もなんとなくわかっているんだけども止められないというか、そういう方向性は既定路線になっていて、いったいこの世界はどっかから来たんだろうっていうようなことがよくわからないまま過ごしてきたんですけれど、この青い本はそれに先立つことを40年、30年ぐらいから解きおこして、戦中から始まって、私がそういう経験をしたのは70年台後半ですけど、そこに至るまでのプロセス、いろんな関係者が、親の会であったり、あるいは当事者運動であったり医者たちだったり、あるいは行政に関係する人たちだったり、そういう人たちの関わりの中で、あの原体験といいましょうかね、幼少期に経験したあの世界がどういうところから発生していたのかと改めてよく理解することができた気がします。
 そのあと私一人暮らし始めた時に、今度はまた二つ目の、その幼少期の経験はまず最初の面倒くささですよね。なんで毎日こんな効果もないリハビリばかりやってるんだろう、面倒くさいなあっていうふうなことがあったんですけど。そのあとの二番目の面倒くささというかこれは半分恩人みたいな人たちとの話なんですけど、障害者運動っていうものに18歳で本格的に出会って、18歳の時に私山口から上京して東京で一人暮らしをはじめるんですけど、その時に先輩の障害者が何人かいて、その人たちのアドバイスを受けて、地域の資源を使って一人暮らしをするっていう経験をしたんですけど、それはすごくありがたくて、ようやくこれで生きていけると思ったんだけど、まあ面倒くさい人たちだなとも思ったわけです、先輩たち。何にこだわってるんだろう、何に文句があるんだろうっていうのがわかりきらないまま、資源だけ教えてくれりゃいいんだよって最初思ったんですけど、何をこんなにこだわってるのかよくわからないで、喧嘩ばかりふっかけられますし。「なんだこれは、この面倒くささは」っていうふうに、生きようとしてるだけでなんでこんな面倒くさい目に遭うんだろうっていう感覚を持った。その後その人たちとの関係が深まるにつれて、だんだんそれはわかるようになっていったんですけど、何に生死をかけて、何にこだわってるのかというのが徐々にわかってきたんですが、改めてこの青い本で、もうずっと耳学問だったので、先輩たちの語りを聞いて、ぼんやりと彼らの考えとか思想とか歴史っていうものを耳学問で聞いてただけだったので、改めてそれを展望することができたのは良かったなというふうに思いました。[00:05:22] 
 そのあといろんな理由があって東大医学部に行くわけですが、東大医学部がその歴史の中で果たした役割ですね、ここも青い本の中に書かれてるすごく重要な諸力のうちの一つですよね。なんの意識もなく通っていたあの医学部が、実はそういう歴史を自分の幼少期に間接的に、これまでの人生に間接的にあの建物が与えてきた影響の一端を今知ることがけっこう多かったですね。ここは一番私にとってはニュース性が高かった。知らないことばかりだった。東大医学部がしてきたことの記述ですね。それはもろ、こんなにも、これを読んでいたら私は医学部に行っただろうかというふうに思うほどに大きかった、ということを知りました。でほんとにその医学部の関連病院、例えばここにも登場する島田療育園であるとか、そういう所にも何も知らずにアルバイトで行ったり、友人がいたりとかですね、そういうふうなことで全く何も知らなかったんだな、いうふうなことを思いました。ですからそういう医学と私は出会ったんですが、無意識に出会ったんですが、それが実は幼少期のそういう経験、なんとなく私の中で幼少期の経験あのままじゃいけないと思って、医学の、敵の思惑を知りたいっていうのが、医学部に進んだ半分ぐらいのモチベーションなんですけど、その見立ては間違ってなかったのかもしれませんが、ここまで具体的に何年に何が起きたというようなことを書いていただいて、もう一度振り返ることができて、じゃあ残りの人生で何をするかっていうことにももう少し具体的に思い描けるようになったなあと、これが歴史の力かというふうに改めて思いました。
 そのあともなんか面倒くさいことが続いていて、さっきも事前打ち合わせで話をしてたんですけれど、諸先輩方との関わりはずっと続いておりまして、ここにはあまりどちらかというとこれまで立岩さんが書かれてきた自立生活運動であるとか、そういった本のほうが詳しく書かれているところだとは思いますけれども、そういう諸先輩と今もずっと比較的、ここのとこですかね、ここ5年ぐらい私面倒くさいなあって思ってちょっと一時期先輩と距離をあけてたんですけど、ここんところ、だんだんものが遅ればせながらいろんなことがわかることが増えてきて、果たすべき役割もあるかもしれないっていうふうに。これまではなんて言うんでしょうかね、特に私が、先輩方が頑張っていたり、あるいは切り開いてくれていて、関わる余地がない、自分に役回りは来ないっていうふうになんとなく思ってたんですけど、今世代交代がやっぱり障害者運動にも起きていて、私ぐらいの世代が今本格的に引き継がなきゃいけないっていう段階が来てるかなあというふうに思ってるんですね。いよいよ逃げられなくなった。先輩方もバトンを渡す準備ができてきたというふうに思っていて、その時に耳学問だけじゃ足りなくて、やっぱりこういう歴史を裏を取りながらまとめてくださったお仕事でけっこう知るところが多かったです。なので、直近だとこの本でも立岩さんが呼びかけてらっしゃる、こんな研究も足りない、あんな研究もまだ足りないという形で、あれも誰もやってない、このテーマも誰もやってないということ呼びかけてくださっているのは非常に心強くて、直近ですと私が是非やらなきゃいけないと思っていたことのうちの一つが、脳性麻痺の人がどんな治療をこれまで受けてきたかっていう歴史がほとんどないんですね。[00:10:22] 
 ちょうどその DPIという団体で事務局長されていた尾上さんっていう方がいらっしゃるんですけど、尾上さんから、今日本は国連にチェックを受けているわけですよね、ちゃんと障害者権利条約に基づいた国になってるかどうかっていうチェックを国連から受けてるんですけど、政府はまあやってますよっていうふうな割とポジティブな回答、レポートを出すだろうけど、実はそうじゃないんだっていうパラレルレポートって言ってですね、その市民の中からまあ言ってみればチクるというんでしょうか、市民の中から現実を国連に直接伝えるパラレルレポートっていうのを尾上さんたちが作ってらっしゃる時に、やっぱりあの明らかな人権侵害であった脳性麻痺の治療、あるいは脳の基底核という場所ですとか脳の視床という場所を破壊する手術をされた人もいたかもしれないし、さまざまな侵襲的な効果のない治療をされてきた過去がなんとなくなかったことになっている、いうようなことですね。その科学はまあ失敗はあるし、それを冷静に反省して、それを認めて次の段階にいけばもちろんそれは科学というものだと思うんですけど、なかったことになって、シャランと次の治療法が試されたりしているっていう状況自体が人権侵害なんじゃないかっていうふうな形で、パラレルレポートにやっぱりそれを書き込みたい。だからちょっと調べてくれないかっていうふうに頼まれた時にですね、探せど探せどないんですね、情報が、どこにもない。医学者が書いた文献はたくさんあるけど、今日では信じられないような効果が、正しくない効果が記載されていたりするんですけど、それぐらいのもので、具体的にどんな経験をしたのかとか、そのあと後遺症はどうだったのかっていう記載がほとんどなされていない。調べるとこんなにないっていうのは改めて思いまして、そんな時にこの本の中で立岩さんが、もっとそういう研究をしなきゃいけないというふうに呼びかけられているわけですけど、いやほんとにそうだと思いますね。ほんとにこれやんないとまずいっていうふうに思いました。でないと繰り返されるというか、別の障害においてはいまだにそういったですね、ことは繰り返されかねないので、しっかりとそういうものは歴史を記載していかなきゃいけないっていうふうな記述で、ほんとにそうだなあというふうに思いました。なので、まずは素晴らしい本を書いてくださったことに感謝を申し上げたいというふうに思います。ありがとうございました。というような、とりあえずは最初私喋ってみました。よろしくお願いします。

立岩:はい、ありがとうございました。熊谷さんが歴史の話から始めてくれたんで、その話の続きをしましょう。今度、青い本と赤い本ってさっきから言ってますけど2冊本出してもらって、青い本のほうは歴史、歴史といってもそんなに昔の話じゃなくて戦後の話なんですけど。なんでこれ書いたのか実を言うと本当はよく覚えてなくて。一つはですね、国立療養所史っていう本屋さんで売ってない、国立療養所っていう所の所長さんたちの集まりが作った、4冊合わせてこのぐらいの幅の本を入手して読んでいて、その人たちは要するに自分たちがやってきたことを自画自賛してるわけですよ。こういう自画自賛っていうかな、肯定感っていうのかな、こういうものっていうのがなんかある種の閉塞とか閉鎖とかそういうものを作ってきたんだなあっていうそういう感じはあって、そこは一つ書こうかなあみたいなことにだんだんなってきたってことはあります。[00:15:09]だけどほんとにそれだけなんですよ。僕はものを一生懸命調べてる人であるかのように誤解されることはたまにあるんだが、そんなことはなくて適当なんですね。4冊の本を適当に引用していくとこのぐらいの本なんかすぐ書けてしまうわけです。で、だけど書いてないんだよね、みんなね。誰もこれまで書いてくれなかったから、しょうがないからこんないい加減な仕事でもやっとこうっていうのでやってるっていうのが一つあります。で、その時にただ僕が書いたから書けたっていう部分はなくはなくて、それは今熊谷さんが言ってくれた、例えば東京大学の医学部っていう所にいた人たちの、一人一人のポジションみたいなこと、些細っちゃ些細だし、大概もう死んじゃったし、もういいかな、みんな忘れようってほんと思ってるんですよ。思ってるんですけど少なくともこの国の一部の人たちは、ちょっと覚えておいたほうがいいっていうような人たちもいるわけ。
 例えば精神医療だと秋元波留夫っていう人がいる。それからこの本に出てくる白木博次って人がいます。皆さん当然知らないと思うし、知らなくていいと思うんですけれども。例えばこの人はね、東京大学の医学部長を辞めてというか辞めさせられて、東大闘争の時ですよ、という人でもありますけど、その後もずっと水俣病の裁判のことであるとか、公害のことで良心派というか社会派というかそういうふうに振る舞い尊敬されて亡くなったっていう人でもあるんです。で、じゃあ例えば藤原書店からその人の功績を称えた本なんかも2、3冊出ていたりもする。だけれどもそれだけなのかっていうふうに見ていくっていうことが非常に大切で、さっきの肯定感みたいなものがこのリアルを作ってるんだよなって言いましたけども、悪人じゃないわけですよ、いい人たちなんですよ、たぶん。例えばリハビリテーションであれば上田敏っていう人がいて、あの方はまだご存命でお元気だそうですけれども、そういう人たち、【おおかたの方】(00:17:20)が亡くなってる。例えば椿忠雄っていうのは難病の業界では神様のように崇められてる人でもあるわけです。だけれども例えば彼の場合はですね、新潟水俣病の発見者でもあるっていうふうにしてそこも称えられるんだけれども、70年代の後半になると水俣病の認定基準をきつくしたっていうことを一部の水俣病に関わった人たちは知っているわけです。
 歴史っていうのはですね、少なくともそのぐらいごちゃごちゃしてるんです。たんにごちゃごちゃしてるんじゃなくて、いくつかの線が交錯すると必ずこうなるみたいな形で出来事は起こってると思うんですよね。そういうことっていうのは、ほぼ、前の人たちはある程度知ってるけれども亡くなりつつあり、例えば東大闘争って70年、68、69、70じゃないですか、熊谷さん生まれてないんだもんね、77年生まれだからさ。っていうところで、その時、僕だって今回ちょっと調べてみて白木ってこんな奴だったんだって初めて思いましたよ。だけれども僕らの先輩が、僕は同じ大学でそういう闘争っていうか紛争っていうかそれの末尾みたいなところにいた人間ですけれども、その人たちが例えば白木なら白木のことをよくは言わないわけだ。なんでこの人はそういうことそういうふうによく言わないんだろうっていうそういう記憶のカスみたいなものはあるわけね。それをもう一回調べてみると、こいつはほんとにこういう奴で、こういうふうな役割を果たしたっていうところがわかってくる。そういうことがわかんないとやっぱり言えないことっていうか、こういうことがわかって初めて言えることっていうのがあるんだなと、そういうふうに思ってるんですよね。
 で、そんなつもりで、そういう意味で言えば資料なんかけっこう適当に寄せ集めてきて書いただけなんだけれども、自分がある時代のあるポジションにいたっていうことによって喚起されるある種の引っかかりみたいなものを、続きを書こうみたいなこともあるよってこと***(00:19:22)。さっきその熊谷さんが後半のほうで言った、例えば脳性麻痺のリハビリとか治療とかって話も、これはね今回けっこう恨みがましい本でさ、両方ともね。要するに20年ぐらい前に脳性麻痺を治すっていうことについて調べようよって言ったわけ。で、本に書いたんだけれども、それから20年、熊谷さんはちょっと短いの書いたんだけども、それ以外誰も何も書いてないっていう状態が続いてなんか怒っちゃって、もっとやれみたいなことをこの本の中で書いてるんですよね。それは、僕はやれてないんだけれども、ただちょっとさっき熊谷さんと喋ったけど、去年九州で少し聞き取りインタビューなんかをして「へえー」って。脳性麻痺の人に電極なんか差し込んでビビビみたいなやった時期があったとかって話を聞いてね、びっくりしてるんですけれども、そういうのが一方にある。[00:20:12] 
 で、もう一つこれは青い本のほうの話をすると、それをどう見るかっていう時のものの見方っていうか、線を引いて、線というか土台みたいなものをやっとく必要があると思ってて。例えば脳性麻痺のリハビリならリハビリってものをどう考えるかっていうそういう問いにどう答えるかっていう時に、これ熊谷さんの本なんだけれども、『リハビリの夜』っていう本ですよ。今日また読んできましたけど、面白いですけど、これ「痛いのは困る」って書いてあるのね。これ書いたの熊谷さんだってさっき聞いたんだけど、どういうことなんだろう、つまり何が良くて何が悪いのかってなことを考えるわけ、っていうふうに単純に考えたほうがいい。でもそこんとこがけっこうほんとにだめなんだと、だめであってきたと思ってるのね。で脳性麻痺のリハって何が良くなかったのかって言ったら治んないってこともあるんだけれども、痛い、その痛いところがこの本にいっぱい書いてある。だから人間の体がどうにもなんないことの中には少なくとも何種類かあって、例えば治るかもしれないけど治る代わりに痛くなんなきゃいけないってことがあったとするじゃない。その時にどっちを取るのかってことになる。痛いのと、その機能が回復するってことは別の種類のことだから、そもそも比較できるかって話あるんだけれども、でもその比較できるかできないかわかんない二つが本人の中にあるわけだね。そういうふうに、どういうことが誰にとって良くて誰にとって良くないのかっていうふうにものを考えていかないと、いいんだか悪いんだか訳わかんなくなるわけ。でそういう意味で一方でどういうふうに人間たちが、日本の社会が、人々を治そうとしてきたかっていうことを実証的に見るってことと同時に、その治すってことはそもそも何を目的にして誰にどういうプラスマイナスを与えるのかっていう、そういう線みたいなものを、線というかポジションみたいなものを決めてって、その両方組み合わせて仕事ができるんだろうっていうふうに、僕はなんか10年とかもっと前かな、30年とかかもしれないですけども、仕事してきて思って。
 ほんで、だからこの二つの本が赤い本と青い本って、これ別にビートルズに赤盤と青盤っていうものはありますけども、古い人たちね、今笑えた人たちは古い人たちですけれども、別にそれは関係なくて、デザイナーの人がこういう格好いいふうに作ってくれたんですけれども、でも偶然っちゃ偶然なんですよ。なんだけれども、でも両方合わせて一つが一つを照射するっていうか、でも両方合わせて意味があるっていう意味で言えば、ひと月の間におんなじような感じで二つの本として出してもらったっていうのはありがたいかな、嬉しかったかなっていうふうに思ってます。あまり長く喋るのもなんなんでいっぺんここで切りますけど、熊谷さんなんか続けてくれますか。

熊谷:わかりました、任せてください。青い本が歴史で、赤い本が理論って言っていいんですかね、そういう論法になっていて。今、お話として理論、赤い本のほうには歴史を描く時の座標軸が要るっていうんでしょうか、マトリックスが要るというんでしょうか、一応フレームワークみたいなものが必要なわけですけれども。その時に立岩さんが赤い本の中で打ち出しているフレームワークっていうのが、人の身体のって言っていいんでしょうかね、身体の異なりの軸は五つあるっていうふうなまとめ方をされているんですよね。一つ目が痛いとか苦痛であるとかそういう軸ですね。二つ目が死が近いかどうかってことになるでしょうか。で、三つ目ができるかできないか。四つ目が見た目や容姿の問題。さしあたりできるできないに直接は関係しないものの、容姿の問題っていうのもある。そして五つ目が加害の問題ですね。誰かあるいは社会に対して加害を行う身体と解釈されている身体。身体の個人差にはこの五つがあって、最初の二つが病のカテゴリーに概ね対応し、残り三つがといって整理していいんですかね、残り三つが障害というカテゴリーにおおよそ対応すると。[00:25:03]
 で、この五つの軸でまず身体の異なりというものを整理した上で、それぞれの軸がいったい誰にとって問題なのかっていう整理をされる。本人にとって問題なものっていうのは全部ではないわけですよね。例えば痛さとか死が近いっていうのは本人にとって問題だけれども、できないっていうことはさしあたりそれだけだったら本人にとって問題ではない。むしろ周りの人にとって余計な負担をかける、何か社会を運営していく上で負荷がかかるという意味で問題なのであって、本人一人の問題としてはそれ自体が問題なのではないという話。異なりも…それに見た目の容姿の問題もそうでしょうね。もし世界に無人島に一人だけだったらそういう問題は起きないかもしれない。加害の問題なんかわかりやすくそうですよね。ですからまあ比較的障害という【部位】(00:26:04)三つに、範疇に分けられたほうというのは、本人にとってそれ自体が問題というよりは、どちらかというと周りに対して影響を与える。
 で、第一義的に問題だと感じるのは周りのほうだったり社会のほうだったりするのが、この障害というほうに分類された三つの軸だっていう話だと思います。もちろん当事者もですね、本人も周りの気持ちを忖度して自分の問題だと感じることも二次的には起きます。「できないから周りに迷惑をかけるこんな自分はだめだ」みたいな感じで、ぐるりと回って周りをいったん経たあとに自分に跳ね返ってきて、自分自身にもできないことが辛いと感じることは当然あるんですけど、回り回ってであるということを見逃すなということですね。一周ぐるりと回ってそう思ってるものと、回らずにそう思うものとがあるというのがこの分類だと。そこを整理しないで歴史を紐解くとぐちゃぐちゃになっちゃう。ですからこの青い本は常にこの五つの軸、そして誰にとって問題かというふうな観点、そこから歴史を解きおこしてるっていうふうな構造を持っていて、だから赤と青、私は読んでる最中赤鬼と青鬼って呼んでたんですけど、「赤鬼取って」っていうふうにヘルパーさんに頼んだりしてました。赤と青は相互に基盤を与え合っているっていうふうなことだと思うんですけど。
 一つは具体例なんですけど、私の身近だとやっぱりその今二次障害の問題っていうのがすごく大きくなってきていて、赤のほうの話に移りますと、一瞬移りますと、脳性麻痺でバリバリ運動してきた人たち、彼らはできないことは問題ではないと強く主張した人たちだったわけですね。できないことはまさに立岩さんここに書いている通り、補えばいい、誰かにやってもらえばいいだけだ、できないこと自体は別に私たちにとっては問題なんじゃないっていうふうな、そういうことを主張してきた人たちが、高齢化によって節々が痛くなっているっていう現象がある。そんな時にですね、もう一回彼らの多くは医療を忌避してきた人たち、自分たちを、治すべきものではない自分たちの体を治そうとする医療を批判してきた人たちで、簡単に言えば医療嫌い、医療不信がある人たちなわけですが、しかし痛いのはもうどうしようもないと。いうことでこの『リハビリの夜』に「痛いのは困る」と書きましたけど、二次障害も痛いのは困るんですね。
 二次障害もできなさの側面と痛さの側面の二つがあって、二次障害の、あと命に関わる部分もたまにあります。そういう意味ではできなくなることが増える、その二次障害によって、私であれば20代の頃なら自分でかつがつ洋服が着れていたけど、30代過ぎて全く着れなくなりました。でもそんなに私の人生にとって痛くはない、それは。痛くはないっていうのはそんなにインパクトがない。できないことは補えばいいだけだっていう先輩のメッセージがあったからですね。だから介助者を増やせばそれで事足りるという話で済むわけです。ところが同時に首が痛くなっちゃったんですね。この首の痛みはこれはどうしようもないと。あるいは首が痛いのがエスカレートして、頚椎がちょっと悪くなって、たまにですけれど、その命が危ぶまれる状態になる先輩もいるんですよね。それちょっと敵わない。[00:30:10]二次障害の中にも別にできないことが増えただけだから構わないと思える部分と、痛さやその死が近づくというそういうリアリティも両方混ざっているのが二次障害というテーマで。それはやっぱり、今ちょうど当事者同士で二次障害ネットワークというネットワークがあるんですけど、そこで整理をしながらもう一回医療と最接近しなきゃいけないっていう段階に今、高齢障害者たち、私も、30代ぐらいから脳性麻痺者は高齢化が起きるんですけれども、もう一回最接近してるんですね。そんな中でも切実にできなさと痛みの関係が主題になってきていて、これもたぶん立岩さんも重々ご承知の上で分けてらっしゃると思うんですが、少しこうコメント、批判というよりは「なかなか難しい現象がありますよね」という話題提供なんですけど、このできなさと痛みの関係ってすごく深いものがあるなと私は思ってるんですね。
 この立岩さんの赤い本の中でも、「痛いからできないことは当然ありうる」というふうには書いてありますが、それだけじゃなくてですね、できなさがほんとに痛みと感じられることがあるっていうですね、これは、「いや、それは忖度してるあなたが悪い」というふうに言われたらそれでおしまいなんですけど、できなさ即痛みとしか言いようがないような現象もまた仲間内で今語られているところでもあるんですね。これはいったいどういうことなのかっていうことなんです。むしろですね、この中でも社会モデルの話出てきますけど、痛みに関しては、なんて言うんでしょうね、取り替えることができないというか自分の身に起きたことなので、他の人に背負ってもらうことはできない、自分で経験するもの。で、できなさにに関しては人に補ってもらえるっていうふうな分類がなされていますけれども、二次障害の痛みの中で経験することっていうのは、どう言えばいいんでしょうね。これは、そうですね、なんて言えばいいんでしょう。その…、少なくとも、なんて言うんでしょうね。この痛みは私のものだ、私の体の中に起きている異変のサインなんだと思う度合いが強いほど、痛みが強くなるということが起きる。で一方でその皮膚の外側に起きている現象を反映しているのがこの痛みなんだというふうに思うと楽になることがある、という発見が。もう少しちょっと、言葉が今あんまりうまくなかったんでもう一回言い直しますと、この痛みさえ取れればできるようになると思い込んでる状態を破局化と言います、痛み臨床の中では。ところができないから痛い、できないことをお知らせしてくれてるのがこの痛みだ、というふうに認識が変わると痛みが取れるという不思議な現象がある。因果関係を逆転させると、痛みを御しやすくなるという現象が特に慢性の痛みの領域でよく知られ、私自身の実感があり、周りの人たちもよく理解し始めている。なので、このできなさと痛みをさしあたり分けて、誰にとって問題なのかっていうふうなことを整理するっていうのは賛成なんですけど、きれいに別れないっていうのにことさら私は関心があるというのが今の現状です。このフレームワーク自体は必要であるということは100%合意なんですけれど、それで記述する事象の中に極めて複雑な、痛いからできないではなく、できないから痛いと考えたほうが痛みが取れるという複雑な現象があるということをちょっとだけ追加いたしました。[00:34:53]

立岩:ありがとうございます。じゃあまた僕がなんか繋ぎます。
 ▼本のタイトルっていつもけっこう揉めるんです、本屋さんとね。これじゃ売れないとかいっぱい言われて。ですけど、今回はこっちの青いほうの本のタイトルは二転三転したんですけど、赤いのは『不如意の身体』っていうので、最初からこれでいきますみたいになってきました。前に『ALS』って本の副題が『不動の体と息する機械』って、またかよみたいな話もありましたけど、でもそうだと思っていてね。どうにもなんないものっていうことについて僕らはどれだけ考えてきただろうかっていう話なんですよ。ていうかそんなに難しいことじゃなくて、体があってしまっていて、まあそうだな、この本の頭のほうにちょっと書きましたけど、またちょっと昔の話をすると1980年代ぐらいですか、70年代のなんとなく気分を受けた80年代っていうのにちょっと身体論っていうのが流行った時期があって、で僕の社会学の先生の見田宗介さん…真木悠介て方いらっしゃいますけれども、彼なんか僕が駒場にいた時にゼミみたいのやってて、野口体操とかさ、なんかそういうのをやってて。あれはあれでもっともだと僕は思ってるんです、ほんとは。よいと思ってるんです。けど、ただその身体の可能性とかさ、なんか近代が身体を抑圧してるとかさ、そういう話はそれはそれでごもっともだと思いつつ、いやそういうことだけでもねえよなっていうふうに皆さん思ったりしません? だって痛いものは痛いし、そりゃ痛みはなかなか取れないし、結局死んじゃうし、なんかできないものはできないし、みたいな。そういうのってどういうふうに社会に組み込まれてるんだろうとか、社会とか言ったって無駄じゃんみたいな、痛いもんは痛いんだから社会がどうあるって痛いのは痛いみたいな、そういうことってなんかここ何十年、死だとかさ、病だとかさ、そういうのがなんか死ぬほど語られたようであるにもかかわらず、そんな中言えてないよなっていう感じもしてたんですね。で、その可能性っていうんじゃなくて、じゃなくてっていうか、も一方でありつつ、どうにもなんないよっていうところを見ないとだめじゃないかってことは思ってたわけです。そういう出発点が僕にはあります。▲
 ▼その上でっていうところが実際面白くって、それを今熊谷さん言ったわけだ。熊谷さんのこの『リハビリの夜』っていう、タイトルの話全然どうでもいいこと言うと、みなさん『カビリアの夜』っていう映画知りません? 僕はなんかこれ、そういう駄洒落かなと思って熊谷さんに聞いたことある。なんの関係もなかったんですけど、昔のイタリアの映画ですけどね、全然なんの関係もない話です。で、その痛みとかできなさっていうのがそんな一筋縄じゃないっていう本なんだ、これはね。うんこが出るのを我慢してると、だけど出ちゃったっていうのはものすごい情けないんだけど、なんかちょっと快感みたいな、書いてることはそういうことですよ。そういう本なんですけど、わかるわけ、わかるっていうか「だな」と思うんですね。その「だな」っていうことも考えたい。だからだんだん話が複雑になってったり、実は快が不快だったり、不快が快であったりってなことはもちろんあるわけさ。あるんだけれどもその一番手前のところで、もう僕は時々小学生みたいにすぐ言っちゃうんだけれども、で小学生に非難されるんですが、小学生のように単純なところからとりあえずは始めてみるっていうことをやろうって言ったのが赤い本なんですよね。
 例えば障害学っていうのは、僕が今障害学会って学会の会長させていただいてるかどうかはわかりません、してますけれども、途中でできないっていう話をしてるわけね。それはそれでいいわけよ。だけど他にもあるでしょって、それの込み込みで考えた時に何が起こるかっていうふうに考えると大概のことはうまくいかない、ね。例えばリハビリっていうのが、できるようになるかもしんないけど痛くもあるといった時に、できるようになることと痛いこととどうやって天秤にかけたらいいのかって時に、例えば我々の社会っていうのは、「痛くてもいいからできるようになりなさい」という簡単に言うとそういう社会ですよ。となるとじゃあそこのとこはどう考えたらいいのかっていう問いが次に出てくるでしょう。[00:40:00]
 それから例えばね、精神障害ってものを考えてみると、精神障害っていうのも確かになんかできない、精神障害ってできないことがたくさん、なんかいっぱいこの辺に顔が浮かびますが、それはだけど、であるともにね、僕もちょっと10年ぐらい前だな、5年ぐらいほんとにおかしくて思ったんです。あれやっぱり苦しいんだよね。だけど精神障害と社会学とかさ、障害学ってそういうことあんまり言わないのね。でも端的に精神疾患って言ったら、精神病って言ったらいいのか、精神障害って言うのか、たぶん痛いとか苦しいってすごいあると思うのね。それから他の障害と比べて、あの人たちはしょっちゅう内輪揉めをしてるんですが、あの人たちの社会運動はね。それはどうしてかっていうと、その加害性ってことを間に繰り入れられてしまうわけですよ。それをどう処理するかっていうのは、身体障害の運動っていうのは、はいできません、できないのをどうやって社会的なアシストっていうの持ってきてできるようになっていくのかって非常にシンプルでしょ、組み立てもシンプルだし結論もシンプルで。だけど手段はいろいろあるからなんぼでも論文とか書けちゃうんだけども、そういう意味では簡単だ。だけど精神障害というのはそういう面もあるけどそれだけじゃなくて、苦しい、苦しさをどうするっていうとこもあるけどね。それから、その加害性のレッテルを貼られてるって100パーセント言い切れるかどうかっていうの微妙ですよ。じゃあ単なる偽のラベルなのかって言ったら、それもそうも言いきれないようなところをどう考えるのかっていうのは、さっき言ったできなさを補ったら、「はい、じゃあ終わり」って話とは全然違うわけだ。そこに彼らが持っている難しさもあれば、ある種の面白さ、輝きみたいなのもあるわけだよね。そういうことを考えていったり、じゃあどうしてくのかと考えるためには、障害学なら障害学が持ってる、できないことっていうのをどう捉えるかっていうスキームっていうか、発想だけじゃだめなんだよね。もっといっぱい持ってきて、それを組み合わせて考える。▲
 例えば安楽死、この間もちょっと書かせて…、この間もじゃなくてしょっちゅうそんなの書いてるけど、嫌になりながら書いてるんですけれども、なんで死にたいかって話だよね。さっき病気というのは死んじゃうかもしんない、死のほうに引き寄せられてることと痛いということだけれども、じゃあみんななんでっていうふうに考えると、これはもういろいろあるんだけれども、例えば体が動かなくなってって何もできなくなってって、それで人手が要ったり金が要ったりなんやかんやで死ぬって。なんかほんとはもうそれだけ、それだけとは言えない、それだけとは言えないけれど非常にそれが大きい。そうするとできないっていうことによって人は死ぬほどできないのが嫌、そういう社会かそういうふうにさせてる社会ってことになるんだよね。そうするとじゃあ死ぬってことと痛いっていうこととできないっていうことと、あるいは場合によっては形が変わっていくってことと、社会はどういうふうにそれを評価してるのかっていうことの中に安楽死なら安楽死って現象が存在しているわけで、そこのところを見誤るとなんか違うこと言ってしまうことになる。だからそういうことやんなきゃいけない。その上で、でも熊谷さんの半生ってたぶんそういうこと一回バーッと言っちゃったあとぐらいからだんだんじわじわ面白くなってきてね。あの、さっき、なんで熊谷さんてバタイユなんか読んだんですか?

熊谷:ああ、うーん、やっぱりこれ元々『リハビリの夜』の最初のタイトルは、案として出てたのは「便と性」っていうタイトルだったんですよね。そのことを書きたかったんですよ。便の話をしっかりしたいっていう話と、あと性の話も不満が、今までの障害者と性もの、みたいなものがちょっと違うんじゃないかっていうふうに思ったので、便と性のことを書きたかったっていうのが最初だったんですよね。で、便でいろいろ調べてて、その中でバタイユのお父さんが失禁するのかな、半身不随のお父さんが失禁するようなエピソードを読んで、肛門、太陽肛門でしたっけ、肛門を太陽になぞらえるような、ああいうことを言ってる、太陽肛門って言ってますね。それで「あ」って思ったんです。「あ、わかる」っていうふうに思ったので、注でバタイユ書いてるんですよね。なのでそれはいろいろ読んだうちの一つですね、失禁のこと。[00:45:02]

立岩:じゃあこれを書こうみたいな話の中でバタイユ?

熊谷:じゃあその性のことも調べようと思ったし、失禁のことも調べようと思って失禁のほうの一つですね、文献の一つですね。

立岩:あの、医学部とか行く人って何読んでるんだろうって、僕が知ってる医学部行く人たち大抵なんも読んでないっていうか、まあいいや。そんなにがっかりしていないですよ。でもバタイユとか言って、そうそうバタイユの親父さんがなんかなんだっけ、半身不随で全盲だった。それ僕知らなかったんですけど。で恍惚の表情で失禁をする姿を目の当たりにして、バタイユがね、それでバタイユのその贈与というかそういう話が出てきたっていう、そういう注があるんですよ。本は注を読むっていう、そういうことなんですが、それでもたぶんけっこうロジカルに言えるんだよね。

熊谷:そうなんですよ

立岩:絶対。失禁の快って。

熊谷:失禁と贈与は関係してるんじゃないですかね。

立岩:けっこうロジカルに言えると思ってて、そういうこともちゃんと言わなきゃいけないんだよね。そういうのも含めて、だから、その先こういうネチネチしたなんて言うかな、マイクロな話っていうのは熊谷さん自分の体でやりながら書いてくれればそれでいいかなって思ってて。僕この本書く時熊谷さんの本を読み返したりしなかったんだけど、でもその不如意の身体っていう中には熊谷さんみたいな、なんていうかノリっていうか、書き方っていうか、確実にあったと思うんですよね。そういうふうに見ていくって言ったらいいかな。

熊谷:そうなんですよね。贈与だったり再分配、この赤い本のほうは、ひとまずこの赤い本の中では五つのうちの、できるできないに主に焦点を当てるっていうふうな本ですよね、基本的には。で、そのできるできないっていうふうな軸をどんなふうに捉えるのか。で、それは社会がどんなふうにこうデザインされていくのか、そのできるできないのバリエーションは人によって様々で、全くできるものが少ない人もいるし、できるものが現状の社会の中でっていうことで限定は入りますけれど、できるものがいっぱいある人もいるというときに、社会がどんなに変わったとしてもできるできないの差は捨象されないだろうという認識の中で、じゃあどんなふうにその社会を設計するのか、特に分配の部分で、みんなで生み出したものをどう配るかという、社会の根本的な構造のデザインのところでどう考えるのかっていうのが、これはこの本に限らず立岩さんの書かれたものの基本的な通底するメッセージですよね。100パーセントの意見というかこれに関して何かを付け加えるとか特になくて、その通りだっていう感じなんですけど。

立岩:そこはほんとに単純な話で、単純でもいいんですよ。

熊谷:単純だけど繰り返さないといけないということですね。

立岩:▼単純で、それでわれながら飽きたような話もしなきゃいけないっていうのは、純粋に学問的ってよくわかんないんですよね。同じ話を今日も明日もしてるわけだから、ちょっとずつでも違う話をしなきゃいけないというのが学問だとすると、もういいやってことになるかもしんないけど。でも別にそういうことじゃなくて、社会的にというか生きてくってことを考えたら、同じこと毎日しなきゃいけないってことも一方ではあるわけですよね。だから書くっていうのも、違うこと書くっていう側面と、もう腐るほど書いてて、もう嫌になっても同じこと書くっていうのと、両方あるんだよね、書くってことの中にはね。▲
 そこの中でどういうふうに進んでいくかみたいなところがあってさ、熊谷さんはたぶん自分の体のフィッティングみたいなのをざっと書いていくんだと思うんですよ。その面白さ、僕もあるなと思ってて。さっきバタイユの話したけど、僕大学入った年かな、大学の図書館で『眼球譚』っていう皆さん読んだことあります? あれ変な小説ですよね。でも面白いっていうか気持ちいいってのがあって、それはそれでいいんだけど、ただなんだろう、いいんだけどっていうか、それはそれでこう進んで、でもそれもなんかさっき言いましたけど、たぶんなんかロジックと感覚とかそういうアホな話じゃなくて、便をしてしまう、論理的な良さみたいのがたぶんあるんですよ、確実にね。[00:50:12]だからそれも論理的に書けると思うんだけど。今回の本に関して言えば、その手前の手前のアホみたいに簡単なとこから、まずはやっていこうよってことを言ってるわけです。どっちかっていうとさっきの身体論の話じゃないけど、可能性とか人は語ってみたくなるわけですよ、いろんなね。
 ▼で、だけれども、例えば僕SFとかだめなのは、光速とかなんか言っても体壊れるよなって思っちゃうんだよね。なんかブラックホールとか言ってもさ、体壊れたら終わりじゃんみたいな、思いません? そういうこと。僕はそういう感じなの。***(00:50:47)SFだとか、まあそうかもしんないけど、「体壊れたら死ぬよ、だめじゃん」とかね。あと僕映画は割と好きなんだけれども、でもスプラッタ系だめなんだよね、いてえじゃんみたいな。そういうところからまずちょっと【やっとく】(00:51:07)。それで、でもなんかこんなに痛いんだったら痛いの止めればいいのに、痛いの止めるよりも死ぬこと優先してしまうってことは人にはあるよねっていう。この間のさ、なんだっけ、福生の病院で透析の再開すれば痛いのちょっとは収まったかもしんないけど、あの人は痛いまま死んだんだね、たぶんね。***(00:51:34)かもしんないけど、それってなんか変じゃないっていうようなこと含めて考えていきたい、そういう手前のところの簡単な話をいっぺんしとく。それから枝葉伸ばしてって、なんかこうなんだろ、排便ていうか、クソを垂れ流してしまう快感についてさらに詰めるみたいな、というふうに考えたり書いたりしてったらものは面白くなるっていうようなことを思っているのです。▲

熊谷:なんかこう、ロマンティックなというか、ロマンティックな身体論とか、ロマンティックなケア論がなんて胡散臭くて、なんて有害なのかというのは100パーセント言えますよね。そことどう、だからほんとに立岩さんの書かれたものってとっても素面な文章だなと思うんですよね、酔ってないっていうかな。ある種のロマンティックな語り方でものすごく誤魔化されてしまう、この青い本で言えば医者同士のコミュニティがとっても崇め奉ってロマンティックに事実を解釈するものに対してメスを振るうわけですし。赤いほうの本でも、ケアやあるいは分配あるいはその能力、できるできないに関してこれまでの哲学者が肝心要なところでロマンティックなものを持ち出して、それはヌスバウムがですね、書いていたりする箇所なんかは象徴的な部分ですけれども、そこでどれだけそんなロマンティックなものを持ち出して怪しげな理論を正当化するんではなくて、淡々と分配の問題や理詰めの問題で考えていくっていうのをやったらこういう本になるんだなっていうふうな感じがするんですよね。

立岩:なんか半分ぐらい気性の問題かもしれないと思ってて。ロマンティックなやつ恥ずかしいみたいな。

熊谷:なんか、それをすごい感じますよね。

立岩:▼「恥ずかしいこと言うなお前ら」みたいな、皆さん思いません? 思わないか。僕は思うんだよね。でもなんだろう、ロマンティックじゃない本を売るっていうのは難しくて、難しいっていうかな、難しいんだよね。やっぱ人間、なんか感動したくて本買うんだよね、読むんだよね。だからこういう感動しない本を書き続けるって、それもなんか考えてみたら倒錯的なのかなってちょっと思いますけど、でもやっぱり気持ち悪いものは気持ち悪いっていうか、部分があって。で、やっぱり僕が生きてきた何十年っていうのはかなり気持ち悪かったですよ。なんだろう、いろんな形で熊谷さん言ったけど、ケアとかさ、穏やかな死だとかさ、美しい死だとかさ、なんかねそういうなんとかと向き合うとかさ、なんだろう、そういうのいっぱい、山ほどあって、それはそれはいいんですよ、感動して酔っていればね、僕もそうしたい時もないではない。だけどそれでやっぱりいろいろ困る人もいるし、困ることもあるんだったら、そんな酔っ払ってばっかりはいられない。たまには素面になってクールになって引いたり冷めたり、それをしないとだめだって。結果として本は売れないのだが、でもまあいいや、やっとけみたいな、やっとかなきゃねみたいな感じで書いているのです。でそれはものを書く時のスタイルってこともあるんだけれども、例えばその病気であったり障害であるというかな、それも見るときのものでもあって、見方ってことでもあって、この本の中にも出てきますけど、やっぱり否定されるわけでしょ、悔しいでしょ。否定されて悔しいから肯定するわけですよ。

熊谷:うーん。

立岩:ね。だけれども、それも、それが結局苦しさを呼び込むわけだよね。つまり自分は否定されて「嫌だ、悔しい」、で例えば「いや、この子はこんなに」、「自分たちは」とか「この子は」とか、いいとか可愛いとか美しいとか立派だとかいろいろなこと言うわけですよ。そうなると、今度はその人たちは立派であったり美しかったり可愛かったりなんかしなきゃいけないみたいな話になっちゃうじゃない。でも人間ってそんな大して美しくはないわけですよ。っていうふうな罠に追い込まれていったりするわけ。だからそういうことも一つのこの本たちの底にあるメッセージっていうか、気持ちみたいなものかもしれないですよね。でも実際にはそうしたものを最大動員して、例えば筋ジストロフィーの人っていうのは親たちがこんなに可哀想な子たち、どうしたらいいのかってなことをですね、こう涙ながらの話をいっぱいし、政治家に訴え、政治家が涙し、そしてその国立療養所に筋ジストロフィーの人たちが収容されてると現実はできてるわけですよね。そこを引いて、こういうふうに物事ができてきたんだってことをいっぺんは書くっていう、そういうことが要るんだろうなって思いました。
 だから社会福祉学っていうのが、例えば糸賀一雄って、今日はたぶん誰の名前を出してもだめだろうなと思いながら言ってるんだけれども、糸賀一雄って人がいるわけですよ、「この子たちは世の光に」(→「この子らを世の光に」)って言ってたのかな。要するに片隅に追いやられているこの子たちっていうのが世の中に輝く光になるんだみたいな話です。なんかそれっていいっちゃいいんだけど、でもそういうふうに言うことにして現実をかつかつぎりぎり作っていくということの苦しさみたいなものをね、どっかでちゃんとわかっておかないと、この子たちが苦しくなるっていうことがあったりすると思うのよ。そういうことが一方にあり、それから今回これまだ出るかどうかわかんないんけど、糸賀さんたちが作った近江学園であるとか琵琶湖学園の中に、例えば優生手術というものが実は行われたってことが今年ぐらいの共同新聞(→共同通信社?)ですけれども、なんかの取材によってようやくわかりつつある。そうするとね、なんかそれこそ社会福祉の生みの聖人みたいな人たちっていうのがそうしたところに関わってきてる。じゃあこいつは実は善人じゃなく悪人だったのか、そういう話ではない。そこが大切なんだよね。そういうことをちゃんとわかって書いていくっていうことなんだろうと思いますね。▲

熊谷:どっからそんな執念が湧いてくるんですか。

立岩:執念ですか。

熊谷:なんかやっぱり、

立岩:***みたいな(00:59:08)。そういうベースですよね。

熊谷:なんで、そのなんでっていうか、ほんとそうだなっていうそのグレーですよね、全ては。いい人もいなければ悪い人もいないし、原因と結果なんて目眩がするほど複雑で、いろんなものが組み合わさって後付けるしかないような現実っていうものがあって、それを淡々と書いていくっていう仕事がどれほど大事かっていう、100パーセント同意できるんですけど、自分にはできないって思います。どこから来るんだろうっていう。

立岩:僕ね、どこから来るのはよくわからないんですけど、なんだろう、良し悪しいろいろあって人間は多面的だよとかね、そういうのがほんとは一番嫌いなのかもしんない。むしろね[01:00:01]

熊谷:なるほど。

立岩:つまり、僕は確かに善人でも悪人でもないって言いましたよ。だけどそれは人間にはいろんな側面があってっていう、それは自明に正しいですよ。自明に正しいけど、そんなアホなこと言って何になるってわけさ。その良くもあり悪くもあるっていうふうに言えるってことはたぶんどっかで論理的に繋がってるわけですよ、ちゃんとね。そこをちゃんと言うってことですよ。だから複雑だとかなんか、グレーだとか、グラデーションがついてるとか、そんなの当たり前なので、その上で、このどういう線が、その線というのは100本も200本も絶対ないんだよ。何本とか、さっきで言えば五つとか言いましたけど、そういうものが絡んでできているわけですよ。そこのとこぐらいは言おうよ。そういう意味でなんだろ、僕は割といろんな話を難しくして「白黒はっきりしないよね」みたいなことはいいふらかしてる人間だっていうふうに言われてる部分はあるんですけれども、わからんではないですけどそうじゃないんですよね。どっちかって言ったら白黒はっきり言おうよっていう。白黒いろいろあるってことわかった上ではっきり言うっていうそういう気持ちで生きているし、ものを書いているのです。それはなんでかって言われるとよくわかりませんけど、でもいくつか言えて、やっぱりそいういう曖昧な、あるいは場合によったら美しい、そうしたことの中に明らかに困ってる人、困ること、生きてくのにね、困ることってのがあるからってのが一つだし、なんか訳わかんない、なんだろうな、いい気になってる奴って嫌いなわけね。そういう社会の中でなんかいいこと言ってるつもりでろくでもないこと言ってる人たちとか、そういうのやっぱり嫌いなわけ、単純にね。だからそういうことに気がついてないんだったら、でもね、そういう奴は何言ってもだめなんだよね、ほんとにね。だけどまあ、でも一応言ってみるっていう、みたいな感じで生きてますっていうか書いてますかね。

熊谷:すごいわかりやすいですね。ほんとになんか困ってる人がいるっていうことと、調子に乗ってる人がいるってことですね。

立岩:そうですね。

熊谷:困っている人の場所から調子に乗ってる人を淡々と記述していくという感じですかね。

立岩:そんな感じですかね。

熊谷:最後になんか一個だけ障害…、一個だけって一番でかい話かもしれない、障害とはなんであるかを問いとして立てたら済むというふうな記述がありますよね、赤い本の中で。これはけっこう大きなというか、実際にしがさんとさかきばらさんでしたっけ、両方とも障害を持ってる当事者で研究者、その二人がしっかりした本を、障害についての本を書かれて、彼らの大きな問いは、障害とはなんであるかという問いなわけですね。他の社会問題がいろいろある中で、特に障害に関する問題っていうのは特異性はなんなのか、というふうに問いを立ててそれをいろいろ緻密に解こうとするわけだけれども、立岩さんはその障害とはなんであるかっていうのを立てたらうまくいかない、ようなことをおっしゃってるんですけれども、そこをもう少し、私もなんとなくわかった気にはなってるんですけど。

立岩:はいはい。

熊谷:その論旨を最後に。

立岩:はい、かなりややこしい話もしているので、読んでいただいたら嬉しいですけれども。例えば一つ確実に言えるのはこういうことだと思うんです。人間って千差万別いろんなことはできないわけでしょ。そのできないってことのグラデーションで言った…、なんかある人はどの程度かどういうことかができないわけだけれども、そこの中で障害っていうのをくくり出すっていうのは、ある種いろんなことのできない中のある一部分だけ取り出してきて、それに対して一定の社会的な補償を与えたりとかなんかをする。そのことによって、「その部分に関しては一応やることやってますよ、終わり」みたいな、そういう装置として障害っていうものを取り出す、あらゆるできないことの中から障害っていうものをくくり出して、それを何か特別なものにしてそれに対しては一定何かをする。ってことは逆に言えばそれ以外に関しては無視するってことですよね、自己責任なりなんなりのところに置いとく。「そういうことをやってるってこと自体がこの近代って社会なんですよ」っていう視点を持たないとそれはだめなんだろうな。「とは何か」っていう問いは時々、少なくとも時々そういう問いというか、構造の所在っていうものを見えなくしてるっていうか、っていうことがある。そこは気をつけましょうよ。[01:04:58]
 例えば社会学で言えば社会構成主義とか構築主義とかさ、そういうのがもう何十年も流行ってるっていうかやってるわけですよ。その割には具体的な一つ一つを分析する段になると、社会的に構築されてるっていうことの、ここは難しいんだけどね、さっき僕が言ったことと背反するでしょ。つまり人間どうしたって死ぬじゃないかとかね、苦しいものは苦しいじゃないかっていうそのリアルっていうかさ、そういう話と、社会的に構築されてるっていうもう一つのリアルだよね、そこのところをどう絡み合わせて言うのかっていうのは難しいっちゃ難しいんだけれども、でもやれることもあるわけさ。例えばその、いろんなできないことの中からある部分をディスアビリティ、障害って形で制度の中に落とし込んでいくっていうことは社会的にやっぱり構築されてるとしか言いようがわけですよ。そのことによっていろんな効果が生じてるわけですよ。ここはここで言えるんだよね。その時にある種「とは何か」という、ある種本質的、主義的と言うとまた語弊はあるんだけど、「とは何か」っていう類の問いっていうのは、そういう社会的に作られてるっていうところをうまい具合に言えないっていうか、あるいは構築されてるその動きの中に吸い込まれちゃうところがあるわけだね。そういうことは注意しなきゃいけない。と同時に、みんな社会的にとか言やあ済むのか、社会学者みたいにね、そんなもんじゃないよと、そこのところちゃんと考えるっていうことをやろうよっていう。そう言って、それが不如意っていうことなんだろうなっていうそういう感じですね。

熊谷:なんかここは当事者が入った書物で、なぜ彼らが障害とは何かっていうのを言おうとしたかはすごく個人的にはよくわかるので、まさにその立岩さんもこの本の中で現実的というかですね、彼が書いたものは理論書なんだけど、どっかで現実と妥協してると言うとあれかもしれないけど、その塩梅っていうのはすごいよくわかるところはあるんですよね。ていうのは今話されたことっていうのは、人間みんな異なった身体を持っているんだけど、その異なりを表現する方法として構築主義みたいにカテゴリーで表現するのか、それともディメンジョンというか、できるできないは誰だってあってグラデーションがある、というふうなディメンジョン的に人の異なりを考えるかであると思いますけど、理論的な正確さでいうとディメンジョンに決まってるんですよね。

立岩:うん。

熊谷:ディメンジョンで考えないと正確であるはずがない。事実そうなので。だから社会設計でも理想的な社会を構想する時には、ディメンジョンで考えるのが正しいに決まっている。

立岩:うん。

熊谷:で、今例えば精神障害の分野で大きなパラダイムが出てきて、アメリカを中心に出てきてるのは、カテゴリー、診断名をなくそう、全てディメンジョンでいこうっていうふうなそういう動きが今できてきて、サイエンスとしては絶対正しい。そっちのほうが正確だし、科学的に検証できる。カテゴリーっていうのは人為的に作ったものにすぎないからどんなにそれを研究したって答えが出るはずがない、少なくとも自然科学のアプローチでは。自然がディメンジョンであるなら人の異なりもディメンジョン方式で、カテゴリー化せずにやったほうがいいに決まっているってのはわかるんですけど、でもその一方で、ディメンジョン的な理解に基づく社会の仕組みの作り方があまりにも遠いところにあるんで、そこに至る次善の策としてカテゴリー方式を使って今その分配を増やそうと、自分たちのところに分け前を増やそうというふうなことをやってるわけですね。

立岩:うん、うん。

熊谷:その葛藤の中で彼らはどうしても理論に整合性を失うっていうか、いうことなのかなと思って。

立岩:おっしゃる通りで、必要に迫られてっていうか、必要に迫られてっていうことさえわかってりゃいいわけ、いいと思うわけ。で、そういう問い方じゃないんだよね、「とは何か」って問いはね。

熊谷:メタ***(01:09:37)。

立岩:そこは踏まえておかなきゃいけないってことと、我々はでも、そうなんですよ、ただダラダラとさっきの話じゃないけど、繋がってるって話だけしてりゃ済むかって言ったらそんな馬鹿な話はないわけで、時にある部分を取り出してそれに何か特別なことをせざるを得ないっていうか、すべきであったりもする。で、その動きっていうのをどう捉えるかですよ。[01:10:00] それは確実に必要な場合があるわけですよ。中でも一番大変な人たちを取り出して、なんか特別なことをするっていうことが必要な場合って確実にありますよ、ね。そういうことはわかりつつ、でも例えばその教育の問題にしても何の問題にしても、取り出して分けて、特別に対応するっていうやり方がうまくない場合もいっぱいあるわけですよね。そこのところの取り出すっていうことと、取り出さない、取り出さなくても済むっていうような社会のあり方であったり、供出のあり方であったりっていうことを考えていくってことは矛盾しない。そこのとこをちゃんと考えようよって、これは定義論の話じゃないんだよね。ある種の社会設計とか社会運営の方法を考えるってことなんだよね。そこすら分かってれば、カテゴリーっていうのは時に必要だけど、でも時に危ういとか危ない、そこのところをちゃんと考えましょうよっていうことになるだろうと思います。

熊谷:すみません、とりあえずそんなところです。

司会:ありがとうございました。せっかくなので皆さんに質疑応答していただいて 先生お二人にお答えいただこうと思うんですけれども、よろしければご質問等ある方挙手をお願いいたします。なければ私が指しますので。

観客:貴重なお話ありがとうございました。最後に熊谷さんに先に聞かれてしまった感じもするんですけど、半分気性の問題かなと半分はお答えいただいたんですけど。今の社会って子どもに対して大人になれっていうことを強いる社会じゃないですか。だけど子どもでいるっていう能力を、子どもで生きるのはなぜかみたいなことを立岩先生にちょっと聞いてみたいんですけど。気性とは別の部分で、なんかこう、もしかしたら自分では気がつかないかもしれないけど、俺こんなことやってるみたいな、努力の部分ですよね、気性じゃない部分。だから自分で気がついたらこういうこともやってるのはもしかしたら役に立ってるかな、みたいなこととかあったら、漠然とした質問で申し訳ないんですけど教えていただけますか。

立岩:あんまり自分自身はそんな特別なことやってるつもりはなくて、けっこう愚痴っぽい本なんですけど、ほんとにね。普通にやったらわかることってけっこうあるのに、みんなもっとやればいいのに、普通にですよ、普通に調べて普通に話聞きに行ったりなんかしてそれ足していけばいろんなことがわかるのに、やってないなっていう感じはします。で、ほんとの研究っていうのはね、こんなものじゃないはずなんですよ。ちゃんと調べて、ちゃんとわかったことを書くってもんだと思うんですよ。青いほうの本、さっき本4冊読んだだけで書いたってのもそれは極端ですけども、そんなに間違ってもいなくて、ほんとにもっとちゃんと調べられるんです。でもこのぐらいの仕事もされてないっていうようなことは、それに憤慨しつつってほどじゃないですけど、そういうようなことを思いながら手近なことをやった、手近なことやったってこのくらいのことはできる、そんなふうなことを思いながら仕事をしています。お答えじゃないような気がしますけどちょっと言ってみました。

司会:他ございますか? せっかくなんでこの機会に。

観客:貴重なお話ありがとうございました。京都から来ました***(01:13:52)と申します。お話の中で、ロマンティックな考え方、今回の本は素面で書かれてるってそこにこう大事な点を教えてくださったわけですけれども、ロマンティックなものの見方という時に、感動したくて本を読むっていうようなこともありましたけども、医学モデル的に、ロマンティックな考え、文章ということではなくて、社会モデルってことを大事にしてるんだけれども、それがロマンティックなものになってるっていうようなことも、そういうことも含まれて言われてるのかなっていうことも思いまして、だとしたらどういうことかなと、そんな想像の中で。変な質問なんですけども、お二人にお聞きできればと思ってますけれども、いかがでしょうか。[01:14:44]

熊谷:私もこう話をして、ロマンティックなものと距離を置く、もっと事実を淡々と書いていくっていうふうな側面と、あと最後にやっぱりもう一つ気がついたのは、とはいえ情念はおありなんだろうなと思って。それは困ってる人がいるっていうことと、調子に乗ってる人がいるっていう、これは情念としか言いようがなくて。やっばりそれは情念も伝わってくるんですよね、この本の端々から。「調子乗ってんじゃない」みたいないうことと、「困ってる人いるじゃないか、ここに」ていうこと。これはある種の論理や、単なる記述を超えたスタンスのようなものを秘めているっていうのはあって、もちろん共感的に今言っています。で社会モデル的なほうにグルーピングされる人で、そういう調子に乗ってる人っていうのはいくらでも想定できる感じしますね。 例えばですけど、ここにも赤い本にも書いてありますね。やっぱり、例えば潜在能力主義っていうんでしょうか、社会がなんらかの配慮をすれば全ての人は潜在能力を発揮できて、自らの力で仕事ができたり、あるいは学校行けたり、自立できるみたいなことを言う人がいますよね。それって社会モデル的ですよね。つまり社会が問題なんだ、配慮がないことが問題なんだ、配慮さえあれば能力を発揮できるんだ、っていうのは途中まではそうだそうだ、最後にん? ってなりますよね。つまり能力を発揮できるんだってところでちょっとクエスチョンが付く。前半はその通りだと思うんだけれども、社会に問題があるっていうふうな、もっと責任を***(01:16:59)っていうのはわかるんだけど、最後の最後でそこに落とされるのかと。で、その枠組みをロマンティックに正当化してるのがヌスバウムだというふうにここに書いてあって、その通りだというふうに思いますね。だからさしあたり赤い本の中で、ロマンティックな社会モデル論者の一人はヌスバウムだし、彼女のような社会モデルの語り方をしてしまう人たちは少なからずいるんじゃないかというふうに思います。

司会:他いらっしゃいますか?

観客:今日は貴重なお話聞かせていただきましてありがとうございます。私がお二人のご本を読んでいたりとかお話を聞いてすごく思っているのが、私は研究者でもなく、普通の一般市民といいますか、特に何にもしていないただの一般市民であり、一障害者なんですけれども、学問の領域で割とその現在当たり前になっているような理論であったりとか考え方というものが、一般社会に浸透していくまでにかなりそのタイムラグがあるなと思っていて。そこの乖離を埋めていくために、一般市民である私はどうしていったらその学問的にいいなと思える考え方を、もうちょっと一般化していけるのかなっていうのをすごく最近考えてるんですが、どうしたらいいと思いますか。

立岩:そちらは私から先に。あらゆる手段でっていうのが答えになりますよね。なんだろう、こう行くのがいいって決めたら、僕は手段を選ばないっていう主義です。さっきと言ってることは違うんですけど、いいんです、それは。ちゃんと分かってさえすれば。情に訴えようが、脅そうが、泣かせようが、泣こうが、笑わせようが、感動させようが、何してもいい。要するに勝てばいいっていうことだけだと思うのね。で、僕は僕のようなスタイルでものを書いてったら勝てると思ってるわけじゃないですよ。そういう人はあまりこういう書き方する人そんないないので、一人いりゃいいっていうか、私は私で書くけどもそれ以外の人は自分の得意技をですね、十分に使ってですね、人を泣かせるのが得意な人は泣かせればいいし、強い人は怖がらせればいいし、そんなようなこといろいろして取るもの取りゃいいっていうのが私の姿勢です。姿勢ですっていうか答えです。

熊谷:この青い本に書いてる人もやれることは全部やって歴史を作ってきた偉人たちがいっぱい書かれているけれど、その中にはちょっと調子に乗っちゃった人もいるわけですよね、きっとね。そして本人の思惑を超えて何か歴史の効果を引き起こした人もいるけど、その場その場でやれることをみんなやっていることが書いてあって。だとしたらたぶん障害者運動に引きつければ同じくやれることはそんなに多くはないし、全部やるしかないっていうのが同じ意見になるかなという気がします。

司会:じゃあすいません時間も差し迫っておりますのであと一人、はい。

観客:こんにちは。努力ってしなくてもいいんですか? 僕は障害があるけど、自分がボランティアとかやったり努力をするんですけど、努力って辛くて、人に頼ってばっかりでいいんですか?

▼立岩:努力はしたほうがいいと思います(笑)。これもいくつかの答え方があって、例えばね、人間の社会をやっていくために、どれくらいの努力が必要なのかっていうような問い方が必要なんだよね。それは一人一人がやらなくていいって話じゃなくて、やったほうがいいし、やんなきゃいけないんだろうけど、でもどこらへんまで頑張んなきゃいけないのかっていう視点をどこかでいつも持つことが必要なわけさ。…た時に一方ではそんなにやんなくても大丈夫だよ、かもしれないとか、そういう可能性をきちんと考えてくっていうことは絶対必要なんだよね。そうすると余計に頑張りすぎずに済むわけじゃない。ていうようなことを考えるとか、あと頑張るってことが何のために頑張るのかっていうところの問いをいつもちゃんと置いとくっていうことだよね。これは別の本でも書いていることだけれども、大概の場合何かをできるようになるとか、努力してできるようなるってことはなんか目的があって、目的のための手段としてそれができるようになることが必要だっていうことなわけじゃない? そうすればその目的っていうのは、達成するための手段っていうのは複数あったり、自分だけじゃなくて誰か別の人ができればいいのかもしれないし、自分ができなくても誰かのちょうどいい数の人たちができればいいのかもしれないっていうふうに考えればいいわけだけれども、他方でそういう何かの手段としてできる、努力するっていうことじゃなくて、努力するっていうこと自体が人間の価値であるとか、そういうふうになることがあるわけでしょ。リハビリテーションにしてもしばしばそういう話になっていくわけさ。そういう時に「あれ? 俺なんのためにこれ今頑張ってんだろう?」みたいなことを考えないと、やっぱり無駄な努力するとか、無駄だったらまだいいわけだよ、プラマイゼロなんだからさ。そうじゃなくて痛いんだもん。やっぱり痛いのは困るんですよ。っていうのが熊谷さんの本に書いてあることなわけで、やっぱりそういうふうに、そういう意味で言えば赤い本に書いてあることはすごい単純なことでプラマイちゃんと見とこうよっていうそういう話なんだよね。っていうようなことを思ってます。だいたい私からは以上です。▲

熊谷:全く同じで付け加えることはないんですけど、私、今日も来ておられるBuzzFeedの記事で、立岩さんの読者になったのは1997年でしたかね、『私的所有論』以降なんですけど、もう完全に考え方が乗っ取られてまして、***(01:25:11)に関しては。で納得腹落ちしてるので。BuzzFeedに書いた記事も基本的には立岩さんに説得された部分を書かせていただいたんですが、その時に同じことの繰り返しかもしれませんが、どのように書いたかっていうと、全ての人間は二つの側面があって、一つは必要性を持っている人間、ご飯食べなきゃいけないとか、空気を吸わなきゃいけないとか、消化しなきゃいけないとか、いろんな生きるための必要性を持ってる側面と、残り半分は生産性というか、人々の必要性を満たすためにものを生み出したりサービスを生み出したりするっていう生産者としての側面、二つのお面を全ての人は被っていると。半分は必要性、半分は生産性で、頑張るっていうのはおそらく生産性のほうに関わってくるのかなと思うんですけれど。立岩さんの書かれたものの中には二つのことがまずあって、価値の優先順位としてはどう考えたって必要性のほうが高い。なぜなら生産性は必要性なしには価値が発生しないから。誰かの必要性のために役立つ生産性だけが価値があるので、生産性は二次的な価値しかない、必要性の方が価値がある。ご飯を食べたいという気持ちに価値が宿っていて、ご飯を作ることにはそれよりは低いレベルの価値しか宿ってないっていうのが一つ目ですよね。だから生産性で人の価値を測るってのは本末転倒だというのが一つ目ですね。で二つ目としては現代社会においてもう生産性は余っているという認識ですね。だけど一方で必要性は足りていない。まあデフレの言い換えみたいなもんですけども、必要性は足りていなくて生産性は余っている。だとしたら簡単に言えば社会を回すためには頑張らなくていい、もっと我慢しないように人々が動いたほうが経済が回る、というのが、これはでも時事刻々プラスマイナスは計算されるところだと思いますが、少なくとも現状の社会は労働者は余っている、頑張る人はもう不要だとさっぱり言ってくれているのが立岩さんの本ですよね。だからもっとみんな我慢せずに必要性をオープンに出したほうが回るんだっていうことが書いてあると。まあこの二点からして、さっきの立岩さんの話に?がってくるのかなというふうに思います。

司会:ありがとうございました。時間になってしまいましたので、最後に先生お一言ずつ、告知でも感想でもなんでもおっしゃっていただければと思うんですけれどもよろしいでしょうか。

立岩:ここは本屋さんなので本買ってください、ていうことだけですね。あと今回の熊谷さん、今日喋った話はどうなのかな、現代思想に載るという可能性もあるそうですので、よろしくというのが一つと、それからついそこに『週刊読書人』っていう書評誌がありますけれども、それに明日収録するんですけれども、天田城介さんという僕の同僚というか、同輩、同輩じゃないですけど社会学者と対談というのをして、それは『週刊読書人』にそのうち掲載されると思います。
 もう一つ今日は東京なんですけど、『こんな夜更けにバナナかよ』っていう本知ってますか? いい本ですけど。その本書いてその本を原作にした映画、僕はまだ見てないですけど、昨年できたんですけど、その著者である渡辺一史さんと6月1日に関西、兵庫県西宮で対談をすることになりました。それはですね、ちょっと青い本のほうの終わりのほうに書いたんですけど、そういうふうなつもりで書き始めたんじゃないですが、書き終わる頃にはシンクロしてたんですけど、筋ジストロフィーで40年とか50年とか、旧国立療養所にいた人たちっていうのを、出たい人は出す、出たい人は出る、それから旧国療の居住環境というか生活環境自体よくしていくっていう、両方一緒にやろうというプロジェクトというか、が今、僕の周りも含めてけっこう今起こってるんです。[01:30:20]そういうプロジェクトっていうか企ての一環として渡辺さんと僕も6月1日に西宮で話させてもらうっていうことになっているのです。っていうんで、なんかもう喋ったり書いたりしたことのあらかたはよくご存知の方もいらっしゃると思いますけども、私のサイトのほうに予告も含めてありますので、よろしかったらどうぞっていうこれはもうほんとに宣伝ですね。宣伝をしろと言われたので宣伝をしました。本屋さんですので本をたくさん買って帰ってください。以上です。

熊谷:私ももしよければ本を買ってください。『リハビリの夜』はあるかどうかわかりませんけれども、多少何冊か本を書かせていただいていますので。どんな部分で今日の話と関わるのか、熊谷自体がロマンティックに書きすぎてないかっていうのが読みどころかと思いますので、そのへんを楽しんでいただければと思います。ありがとうございました。(会場拍手)

司会:それではですね、今実は東京堂書店さんの2階で立岩真也先生の著作を集めたブックフェアをやっております。立岩先生の本がほぼ、ほぼ集まっているものに加えて、関連書も並べております。お店の閉店が9時なんですけれども、9時まで自由にご覧になっていただいて、もちろんご購入いただいて、『不如意の身体』と『病者障害者の戦後』、『リハビリの夜』はですね、外でも販売しておりますので、まだの方は是非お買い求めいただいてですね、お帰りいただくようお願い申し上げます。じゃあ本当に先生お二人、ありがとうございました。(会場拍手)
[音声終了]


 
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 ※以下転載
 ※申込み→http://www.tokyodo-web.co.jp/contact/#hall114

3/29(金) 19:00〜
立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』『病者障害者の戦後――生政治史点描』
(ともに青土社)刊行記念
立岩真也さん×熊谷晋一郎さんトークイベント
「障害者と社会のかかわり」

『不如意の身体――病障害とある社会』『病者障害者の戦後――生政治史点描』の刊行を記念して、著者で社会学者の立岩真也氏と、障害者の立場から当事者研究を行っている東京大学先端科学技術研究センター准教授の熊谷晋一郎氏に、障害者と社会のかかわりについて縦横無尽にお話いただきます。

≪プロフィール≫
立岩真也(たていわ・しんや)
1960年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。社会学専攻。単著に『弱くある自由――自己決定・介護・生死の技術』、『造反有理――精神医療現代史へ』、『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(以上、青土社)、『良い死』『唯の生』(以上、筑摩書房)、『自由の平等』(岩波書店)、『自閉症連続体の時代』(みすず書房)、『人間の条件――そんなものない』(理論社:増補新版、新曜社)など。共著に『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』、『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(以上、青土社)、『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(生活書院)他多数。

熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)
1977年生まれ。新生児仮死の後遺症で、脳性まひに。以後車いす生活となる。東京大学医学部卒業後、千葉西病院小児科、埼玉医科大学小児心臓科での勤務、東京大学大学院医学系研究科博士課程での研究生活を経て、現在、東京大学先端科学技術研究センター准教授、小児科医。著書に『リハビリの夜』(医学書院、第9回新潮ドキュメント賞受賞)、共著に『発達障害当事者研究』『当事者研究の研究』(以上、医学書院)、『つながりの作法』(NHK出版)、『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』(青土社)『障害者運動のバトンをつなぐ』(生活書院)、『みんなの当事者研究』(金子書房)、『当事者研究と専門知』(金子書房)など。

開催日時:2019年3月29日(金) 19時00分〜(開場18時30分)
開催場所:東京堂書店 神田神保町店6階 東京堂ホール
参加費: 1,000円(要予約)
参加ご希望の方は店頭または電話にて、『立岩さん×熊谷さんトークイベント参加希望』とお申し出いただき、名前・電話番号・参加人数をお知らせいただくか、上記「お申し込みはこちら」のリンク先専用応募フォームからお申し込みください。
イベント当日と前日は、電話にてお問い合わせください。
ご予約受付電話番号:03-3291-5181
※当日17:00より1階レジカウンターにて受付を行います。 受付時にお渡しするイベントチケットは6階入口にて係員にご提示いただきますのでそのままお持ちください。
※6階には待機場所を設けておりませんので、開場時間前に6階へお上がりいただくのはご遠慮ください。
※会場での書籍のご購入は現金のみの対応となっており、クレジットカード・図書カード・電子マネー等でのお支払いはできません。また、東京堂のポイントカードへのポイント付与もできませんので予めご了承ください。
※やむを得ずキャンセルされる場合は、お手数ではございますが電話かメールにてご予約のお名前・イベント名をご連絡ください。



立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社 文献表
立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社 文献表

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声と姿の記録  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇『不如意の身体――病障害とある社会』  ◇『病者障害者の戦後――生政治史点描』  ◇熊谷 晋一郎  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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