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高橋修・中

『弱くある自由へ』第二版に・2

立岩 真也 2019/09/01 『現代思想』47-12(2019-09):206-221 文献表

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『現代思想』2019年9月号 特集:倫理学の論点23・表紙

文献表

◆立岩 真也 2019/**/** 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 第2版』,青土社
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築

■集め収め示す・続
 先月号で『弱くある自由へ』([200010]、以下立岩の文献については著者名略、発行月記載)の第二版を出してもらうこと、そこにその本の「あとがき」に出てくる高橋修についての章を加えることを述べ、その前半を書いた。それとともに、人から話を聞いたら、それを残すこと、可能であれば公開することの意義を述べた。
 こうして、もう長く、お金を得るためもあり、「アーカイヴィング」の必要性を言ってまわっているのだが、だからかえってということもあるのか、集めること、収めること、そして公開するといったことは、まったくきりのないことであるように思われ、まだたいして仕事もしていないのに、なにか疲れを感じることがある。
 しかし、それはやはり違うと思って、近頃、二度そのことを書いた。一度めは、私の勤め先の大学院生でもある人の妻であった人を追悼する本に求められて書いた短文([201907])でだった。手許にあるものを残し、集められるものを集めたいと思ったら、ただ、そう思うところから、その範囲で、集めればよいのだと、その本に集められた文章を読みその本を持って思った。そして、福島での運動史についての本(青木他[2019])の終わりに付した短文([201909d])で、その箇所を引いて繰り返した。
 きりがないといって吐息をつく。それは実務的には毎日のまったく当然の感慨であって、毎日吐息をつけばよい。しかし、きりがないと思って、それは無理だと思って、あきらめてやめてしまうのは、やはり間違っている。有限でよく、むしろ、いくらかは有限であるべきなのだと思ってしまえばよい。とくに社会運動といったものは、一方では運動自体の愉しみといったものもないではないのだが、目的を果たせば終わる。終わってしまえばよく、終わったことも記憶しておく必要がないのであれば、すっかり記録も記憶も終わって消えてしまったってかまわない。さしあたり必要だと思うものを、その期間、とっておけばよいというだけのことだと思えばよい。
 それは優先順位をつけるということなのだが、そんな順序が予め決まっているはずはない。行き当たりばったりに、あれもいると思い直しもしたりして、変わっていく。しかし思いなおして過去を辿ろうとすると、もう調べようがないということもあるから、いくらか広めにとっておくものを定める。そうしてやっていくしかない。
 そして前回述べ、「福島本」でも述べたのは([201909a][201909d])、話してもらったその記録そのものを、話してくれた各人のものとして、便利な場としてはウェブサイトに掲載・公開し、文献表記としては[i2019]といった具合にしようということだった。
 例えば、旧国立療養所から出たい筋ジストロフィーの人たちは出られるようにという、またその中での生活をましにしようという企画に少し関わっている。かつて自分もそこにいて今は別のところで暮らしているといった人たちにインタビューして、その記録を、本人に直してもらい承諾を得たうえで、さしあたり五つ掲載している(書誌情報略)。そしてそれは、半ばは偶然なのだが、昨年出してもらった本の続きでもある。本は文献だけを使った。しかし、もちろん、それだけではわからないことがある。
 そうして、その時に必要だと思ったことをして、その記録をとっておく。その様々な人たちの作業の産物が足し合わされる。そしてそれは、とくに人の名が記されているなら、時間を隔てて、つなぎ合わさることもある。やはり福島の本のはじまり([201909a])にも書いたのだが、私たちは、こんど国会議員になった、当時は赤窄英子という名だった木村英子に、一九八六年に、インタビューしている(木村[i1986])。そして私自身はそれ以来その人に会っていないのだが、宮崎で山之内俊夫にインタビューしたおり、九五年頃、山之内が東京で木村たちに鍛えられたことを聞いた(山之内[i2018])。そしてその木村は、後出の「全国公的介護保障要求者組合」の委員長にもなる。このように、人において、ものごとのつながりが、また断絶が見える。それが何かを考えることができる。
 高橋もそんなつながりや断絶の場所にいた。またそれを作った人だった。その人の辿った道から、私たちはその間に何が起こったかを知り、それが何だったのかを考えることができる。高橋は、悩みながら、現実を作っていこうとしたし、実際作っていった一人だった。悩んで沈んでしまうことはできるし、吠えるだけ吠えることもできるし、ただの実務家に徹することもできるが、高橋のようにやっていくのは疲れる。だがそれが大切なことがある。そこから受けとり、考えることができる★01。」

 […]

★01 「福島本」にもう一つ加えたのは、東日本大震災に関わる福島での動きを記した青木[2019]を受けて、私がかつて書いた文章に註を加え、解説・補足のような部分を加えた章([201909c])。そこでもずいぶんな時間を隔てたつながりを確認した。また、近しいことと距離をとること、両者の関係をどう考えるのかもまた、じつはその章の主題になっている。


立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社 文献表
立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社 文献表
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UP:20190817 REV:
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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