HOME > Tateiwa >

高橋修・上&話を残すこと

『弱くある自由へ』第二版に・1

立岩 真也 2019/08/01 『『現代思想』47-10(2019-08):222-237

Tweet


高橋 修
◆立岩 真也 2019/09/01 「高橋修・中――『弱くある自由へ』第二版に・2」,『現代思想』47-(2019-09):-

■『弱くある自由へ』第二版
 昨年の終わりに『不如意の身体――病障害とある社会』([201811]――以下立岩のものは著者名略、発行月記載)と『病者障害者の戦後――生政治史点描』([201812])の二冊を刊行してもらった。それらは二〇〇五年に始まって一五三回続いた本誌連載の数年分を用いて作られたのだが、その連載は、本誌一月号掲載の「最終回」という、その連載と青土社からの本で何を書いてきたかを記した回([201901])をもって終わった。その後、その二冊はいくつか紹介・書評していただくことがあった。共同通信配信記事(竹端寛)、『朝日新聞』(椹木野衣)、『京都新聞』の記事(岡本晃明)があり、『週刊読書人』に掲載された天田城介との対談(立岩・天田[2019])もその全文を週刊読書人のサイト上で読める。その一つということでもあるが、三月末、天田との対談の前日に東京堂書店であった熊谷晋一郎との対談(立岩・熊谷[2019a])が本誌の七月号に掲載された(立岩・熊谷[2019b])。
 単著として二冊目の『弱くある自由へ』([200010])の第二版を青土社から出してもらう。改版にあたり三つを加える。本誌でこれから(1)高橋修という人のことを書き、(2)二〇〇〇年の本に書いたことの後にあったこと、考えたこと・書いたことを書く。それに(3)熊谷との対談を加える。最初の共著書の第三版(安積他[2012])、最初の単著の第二版([201305])が生活書院から文庫判で出ている。今度のものもたぶん文庫判で出る。
 それで『弱く』を読み返してみたら、「あとがき」の冒頭が以下。

 私は、思うとすれば、長く生きたい、痛いのはいやだといったぐらいのことしか思いつかない人で、つまり「いのち」や「ケア」といったものに対する感受性に乏しい人で、ただ、そういう不似合いな人もいてよいだろうとも思い、また、そういう不粋な人であるがゆえに不思議なこと、違和感を抱けてしまうことも多くて、それでものを書いているようなところがある。
 そういうわけだから、「死を受容する」等々といったことがわからない。そんなことは少しもほめられたことでないことは承知しているが、それでもしかし、わかった気になるまではわからないと言うしかない。そして、なにかを死者に捧げるということも――そうしたことを行いたいその私達の側の気持ちはわかるけれども――わからない。なによりその人はもう死んでしまったのであって、その人になにも伝えることはできない、と私は思うから。([200010:305])

 もう長く、同じことを言い、書いている。死ぬのと痛いのはいやだ。それを「病気」と括る。痛みを減らし死を遠ざけのはよい。だから、それをもたらす病を治すのは(そのために支払うものとの差し引きは考えるべきではあるが)よい。しかし、できないこと・異なること(としての「障害」)となれば話は別だ。そのことを『不如意の身体』で述べ、熊谷との対談でも繰り返している。熊谷は、痛いのをがまんしてできるようにといろいろされたが、痛いばかりでよいことはなかった。そのことは熊谷の最初の本(熊谷[2009])に書かれている。
 そして病や死を美しく語ることに慎重であること。それは倫理に関わることでもあるが、すくなくともまずは単純な事実・認識から発する。それは、方法的にというよりは、私がどうしてかそんな具合にできているからということなのだが、それがそんなに普通のことでもないということさえわかっていれば、出発点としてはそれでよい。そのうえで何を引いたり、何を足したりした時にことは変わってくるのか。それを見ていこうというのだ。安楽死について『弱く』に短文が一つ、インタビューが一つ収録されている。その後もずっと、そして近頃も関係するできごとが様々起こるので、やはり書き続けることになっている★01。
 そして「あとがき」は次のように続いていた。

 けれども捧げるとするなら、この本は高橋修さんに捧げる。彼は一九九九年に突然亡くなった。([200010:305])

 高橋は一九四八年七月二五日に新潟県長岡市に生まれ、二〇〇〇年一〇月に『弱く』が出る前の年、九九年二月二七日に亡くなった。そして私は、本の出た翌年、その人について「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」([200105])を書いた。それは『自立生活運動と障害文化』(全国自立生活センター協議会編[2001])に収録された。その本は貴重な本で今でも購入できるのだが、ほとんどが運動に関係した本人が書いた文章(いくつかは対談や座談)により構成されている。ただ高橋はその時にもう亡くなっていたから、彼については私が書くことになった。
 彼の死後、とくに私がということではなく、まとまったものを作ろうという話はあった。ただそれはずっと実現することなく、約二〇年が経ち、今日に至った。十分なものを書こうとするとなかなか書けない。私はこのところ、ないよりよいものはよい、と思うことにしている。そこで[200105]にいくらかを加え、本の一部とする。

立岩真也『弱くある自由へ』表紙

■高橋修(一九四八〜一九九九)
 誰か一人について書くことに特段の理由はいらない。ただ一つ、八〇年代以降の歴史と社会をどう見るかということはある。
 『弱く』には、本誌が「身体障害者」を特集した号に掲載された「一九七〇年」([199802])が収録されている。その時期の運動は、実際には多くほんとうに小さな規模のものであったのだし、そう知られたわけでもなく、知られても無視されるか非難されたのだが、後で振り返られた時に、華々しい、華々しくはないとして勇ましいものにみえる。すっきりする部分がある。それに対して、八〇年代以降の運動はなにか普通な感じのものに思われる。
 しかしそのように捉えるのも、つまらないと思う★02。まず一つ、おもしろいとかおもしろくないとかいうことではない、まして他人たちをおもしろがらせるために運動があるのではないし、やっているのではないというまっとうな反論があるだろう。もう一つは、いやおもしろいのだと言える、言おうというものだ。私は二つとも当たっていると思う。
 高橋は一九八〇年代、九〇年代の運動家だった。本人が言うには八一年に始めた。九九年に亡くなった。そしてその人は、まずはいつ何をした人だからというのとは別に、忘れ難い人だった。[…]

■話を集めて残すこと
 どのように、というより何を使って書いていくか。高橋自身は文章を書かない人だった。まとまった講演・演説の類も行なっていないし、記録も残っていない。集会では、たいがい会場の後ろの方、あるいは入り口のあたりにたむろしており、電動車椅子でぐるぐると廻り、雑談などしていた。他方、交渉の類では、役人や駅員を大声で恫喝したり、机を蹴り上げたりした――足は不自由だったがそれはできた。それはたいへん迫力のあるものだったというが、こういうものを再現するについては文章にはやはり限界がある。撮影・録音されたものが残っているなら、保存したいものだと思う★04。
 本人の書いたものは僅かだが、話はしてくれた。まず私たちは二回インタビューをすることができた。やがて『生の技法』になる調査を始めた翌年の一九八六年、七月と九月にインタビューをしている(高橋[i1986a][i1986b])。それはずいぶん長いもので、文字化した記録があり、PC(でなくワープロ)のファイルは結局見当たらないが、紙のものは出てきた。次に、さきに座談会の一部を紹介した調査で、九三年八月、千葉大学の学生が聞いたもの(高橋[i1993])。四つめは、九五年六月(高橋[i1995])。聞き手は自立生活センター・立川の活動に関わった研究者の圓山里子。これは『追悼文集』(自立生活センター・立川[1999])に収録された。そして九七年十一月に石丸偉丈らが聞いたもの(高橋[i1997])。いっとき私の手許にあった印刷された記録はなくなってしまったが、石丸がカセットテープをもっていて、それを提供してくれた。そこから再度文字化の作業を依頼することになった。
 こうして約三〇年前の記録を見直すことになり、なくなっているものがあること、記録を怠ったものがあること、そしてそのことを忘れていることに気づくことになった。そして、二〇一七年から、約三〇年ぶりに、人に話を聞くことを再開した。そんなこともあって、そして「アーカイブ」の必要性は以前から思い言ってきたし、当方の仕事場(生存学研究所)の「事業」としてもそれを行なっていこうと考えているので、その一部ということでもあるが、話を集めること、むしろ公開することについて、以下少し述べておく。
 まずごく細かいこと、表記について、しばらくあれこれ考えた。以下、今後しばらく、聞き取り・インタビューについては高橋[i1986a]のように記載する。そして文献表に「高橋修 i1986a インタビュー 1986/07/07 他に:大沢豊・友松久枝(介助者) 聞き手:安積遊歩・石川准・尾中文哉・立岩真也・鄭淑宮 於:立川市」というように記述する。昨年の二冊でも似たような記載をしたが「i」はつけなかった。どちらがよいか決めかねているが、これからしばらく、青木他[2019]などでも、このような方法を使ってみる。誰が文字化――「テープ起こし」と言ってきたし今でも言っているが、この言葉をいつまで使い続けるか――の作業をしたのかの情報を加えてもよいかもしれない。「他に:」に出てくる人が話をすることはあるし、それが記録に載ることもあるが、「話し手」と「他に」の人の分け方は、聞き手の側が決めてよいと考える。また「於:」の後の記載の仕方も文献表を作る人が決めてよいと思う。
 書いたものと聞かれて話すこととはときにかなり違う。けれどもまず、どちらの方がよいと決まったものではないことは認められよう。そして私たちのような用途の場合、本人がその時に話したままにする必要、加筆や削除を認めない、というものである必要はない。とくに公開する場合には、面倒なことではあるが――それがたぶん、記録の公開がなかなか進まない理由だと思っているのだが――話し手の方に手をいれてもらうのはよいことだ。その必要を判断してもらい、直しの求めがあれば当然応ずるべきである。
 そして今、私(たち)は、そうした記録を、できるだけ収録し、さらに多くの場合はHPに公開していこうと考えている。
 それにはいくつかの理由がある。一つ、伝えたいことはあるが、そのために字を書くひまがない人、そうしたことは不得手であると思っている人たちがいる。しかし話すことはしたい、あるいはその求めには応じてよいという人がいる。たくさんいると感じる。ならば聞いて記録したらよい。本人がよいのなら公開は可能であり、さらに積極的に進めてよい。
 そうした記録は従来、論文等の「もと」として使われてきたし、これからも使われるだろう。ただまず、本人が許可するならまた求めるなら、その論文等と別に公開してならない理由はない。次に、残念なことだが、その論文よりも「もと」の方がおもしろい、価値がある(と思われる)ということがしばしばある。比べてどちらがよいということでないとしても、各々に別の価値があるのだから両方があってよいということになる。
 そして、話を聞いた人(そしてそれをもとに論文等を書いた人)と別の人が使うことができる。つまりそれは、話し手の著作物ということになり、全部を許可なく転載したりしてはならないとしても、引用は認められる。「もと」は別様に解釈され、新たなものを生み出すかもしれない。
 そして、その論文なりで引用されたり解釈されたりする話のとりあげ方や解釈がそれでよいのか、判断できることもある。実際にその調査がなされたか(判断したいのであれば)その証拠にはなるし、虚偽の引用がないかを確認することもできる。解釈の妥当性となるとそれは一通りには決まらないだろうが、それでもそのことを巡る議論ができる。
 実際、そんな事情があって所謂「質的調査」の場合にも、調査結果自体を公表していこうという動きがあるようだ。昨年美馬達哉が企画したシンポジウム「マイノリティ・アーカイブズの構築・研究・発信」でもそうした報告があった。私はその動きについて知らないからその報告の記録が公開されたらお知らせする。その企画全体の記録がこちらの研究所の雑誌『生存学研究』に掲載される。私の二〇分間の挨拶・話も再録される([201910])。
 そして私は、まずは語ったもの(を文字にしたもの)も、書かれたものも並列に扱ってよく、混ぜて使って差し支えないと考えている。ただそれぞれにある制約や性格には普通に気を使うのがよい。
 高橋本人が書いたものは少ない。書かれたものはいくつかある。九九年五月一日の追悼集会に作られた冊子(自立生活センター・立川[1999])、追悼文集『高橋修さん追悼文集 高橋修と共に過ごした日々』(同[2000a])。CIL・立川の十周年記念誌(同[2000b])。他の人についても追悼文集といったものが作られることはあり、多くそのストに近かった人に手渡されるといったものだから、国会図書館にもないことが多い。だからやはり集めておこうということになる。あとがきが「東北のある寒村で、一人の重度身体障害児が生まれました」と始まる小さな本、『羽ばたけオサム』(松浦[1995])もある。高橋の生地は新潟県の長岡市だから、だいぶ設定を変えている。そして、オサムが高橋修であることはその冊子のどこにも書かれていない。事情がわからないとそれがなんであるかわからないが、わかる人なら使うことができる。
 本人の書いたものとして、機関紙の冒頭の「新年の挨拶」といったごく短いものならある。おおむね型通りのものではある。また、追悼の文章にわるいことを書く人はいない。しかし、それらもそれらで読みようがある。外に向けて書かれるから、隠されることもある。書かれないが、(後年)話されることはある。隠しながら、しかしわかる人にはわかるように書かれることもある。書かれていないという事実によっててわかることがある。
 他の資料と合せて読んでいくことによって、証言を得ることによって、わかっていくことがある。少ないとしても、あるものを組み合わせて調べていくことだ。私について言えば、八〇年代の後半、しばらくインタビュー・聞き取り調査をして、そこで聞き取った言葉は私が担当した章にはほとんどまったく出てこないのではあるが、本を書いた。その後、さらに忙しくなったということもあって、先述した学生たちの調査の手伝いをしたことはあったが、私自身は人に話を聞くことはなかった。ALSの人たちに対する調査を呼びかけたが、私自身はそれに参加することはできなかった。『ALS』([200411])は、インタビューで聞いた話が出てくるのは一箇所だけで他はすべて書かれたものを使った。それでも書ける、そんな安直なものさえ書かれていないと思い、その後の仕事をしてきた。アマゾンで簡単に入手できる文献ばかり使ってきた。ただ、『病者障害者の戦後』を書いていくなかで、書かれたもののなかには現われない「その後」のことを知ろうと思い、人に話を聞くことをすこしまた始めた。他方で、稀少でマイナーな文献の収集・整理の仕組みを整備することもせねばならないと思っている。ただ、このたび書くことについては、追加調査もなにも行なっていない。ずっと以前、もう十数年前にはなるだろう頃、いくらかの引用など並べて作ったHP上の頁――高橋修という人はたくさんいるので、「高橋修+障害者運動」等で検索すると出てくる――等、既にあるものだけを使って書く。それでも、ないよりあった方がよいものはよいと思うからだと、先に述べた。

■四八年〜
 「ひととなり…。うーん。一九四八年生まれ。二五年間、新潟の三区、長岡市、田中角栄」(高橋[i1986a])。

■八一年〜

■立川で

■空白?

■註
★01 公立福生病院であった人工透析中止が三月に報じられた。このことについて[201903]で述べた。六月、NHKスペシャルで「彼女は安楽死を選んだ」が放映された。一二月の日本生命倫理学会の公募セッションに安楽死のテーマで応募し採択された。
★02 同じ思いで白石清春(一九五〇〜)たちのことを書いた([201909])。九月に福島の障害者運動の歴史についての本(青木他[2019])が刊行される。そこに収録される。なお私は、調べることと、解釈すること考えること、二つの仕事の両方をしようと思っている。しかし常に二つがそろわねばならないとは思わない。このことについては別に述べる。
★03 翌九四年度は「NPO」について調査した。担当は天野正子と私。報告書をまとめるのに手間どり、九五年度から務めた信州大学でも編集作業を続けることになり、九六年に刊行した(千葉大学文学部社会学研究室[1996])。阪神淡路大震災が九五年。NPO法(特定非営利活動促進法)が九八年。この報告書(一〇〇〇部印刷したように思う)もぜんぶ売り切れて、やはりHPに全部を掲載した。こうしてHPの利用の経緯について、立岩・天田[2011]で思い出して話している。
★04 テレビ番組を私的に録画したといった類のものはたくさん残されている。ただそれらの多くには著作権の問題がある。
★05 二日市安は一九二九年生、二〇〇八年二月十六日、七八歳で亡くなった。二日市が本名、筆名は後藤安彦。十七日の『読売新聞』の訃報では「後藤安彦氏=翻訳家 一六日、急性肺炎で死去。七八歳。脳性小児マヒで小学校卒。独学で英仏独など七か国以上の外国語を習得し、歴史サスペンス『ロマノフ家の金塊』など一〇〇冊以上を翻訳した」となっている。著書に二日市[1979][1982][1985]、さきの『自立生活運動と…』には二日市[2001]。「障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)」、「障害児を普通学校へ全国連絡会」の代表等を務めた。二日市[1979]には、国立身体障害者センターで脳性まひをなおすための手術を本人たちが求めた運動があったことが記されていることを[199010→201205:266-267]で、そして[201211]に記した。
★06 「七〇年のあの当時、あの時でなかったならば青い芝の連動は、こんなに社会の皆から受け入れられなかったと思います。七〇年の学生さんの社会を変えていこうよと、社会を変えなければ僕たちは生きていけないと考えた、あの大きな流れがあったから、僕たちの言うことも社会の人たちが、ある程度受け入れようという気持ちがあったわけです。」(横田、横田・立岩[2002a→2016:92])
 この時の対談は、私のほうからは話さず横田の話ばかり根掘り葉掘り聞くものだったから、後日横田が気にいらなくなって、横田の対談集(横田[2004])には収録されなかった。同じ年に再度対談し、それ(横田・立岩[2002b])が収録された。一つめのものの掲載許可は得てあって、横田の没後、横田・立岩・臼井[2016]に収録した。
★07 郡山市と福島市の「地域福祉研究会(地福研)」が合同主催で七二年に『さようならCP』の上映会を行なった。そこには東京の青い芝の会の人もやってきて会の結成を勧められ、白石清春、橋本広芳ら(→註02)が七四年に福島県青い芝の会を結成する(土屋[2019])。また仙台では山田富也が七一年に「地域福祉研究会仙台」を結成。白石と橋本は山田に会いに行ったことがあるという。名称だけで同じでまったく関係がないのか、今のところわからない。全障連(全国障害者解放運動連絡会議)副代表幹事等を務めた平井誠一に聞いたところでは(平井[i2017])、富山にも福祉関係の仕事をしている人などの小さな集まりがあり、そこで楠敏雄(横塚晃一の後全障連の代表幹を務める事)を呼んだりなどしたことがあったという([201912:362-363,384])。また各地の大学の「○○問題研究会」といった名称のサークルでの活動があった(金沢について田中[i20181])。
★08 伏見にも(私はそこにいなかったようだが)インタビューをしている(伏見[i1986])。長く安楽死尊厳死に関わる報道・著作に関わっている――近いところでは福生病院での透析中止についての取材・報道を続けている(→註01)――斎藤義彦(六五〜)が立川の人たちと関わりがあったことはCIL立川で聞いたことがあった。取材のついでに寄ってくれた折、すこし話を聞いた。一橋大学に在学していた時に、立川の人たちと関わりがあり、伏見のところにはしばらく居候していたこともあると言う。斉藤の著作については立岩・有馬[2012]で紹介している。
★09 本間に四時間に及ぶ長いインタビューをした(本間[i2017]、公開予定)。この新聞が島田療育園で起きた「脱走事件」を取り上げたことを『病者障害者の戦後』で紹介した([201812:268-269])。宇都宮については牧口他[2001]。
★10 金井闘争についてのようやく現われた「学術論文」として末岡[2018]がある。この時期の社会運動に関わった(少ないなかでは)多くの人がこの闘争に関わったのだが、その一人である斎藤龍一郎へのインタビューなどもなされている。金井闘争に関係しながらも、各地ではまた別のかたちでの運動もあった。大阪・豊中での運動についての研究として二見[2017]。
★11 優生保護法については改定反対運動が二度あって、高橋が関わったのはその二度めのもの。「生長の家政治連合(成政連)」が「経済的理由」による中絶を認めることは生命尊重の精神に反するとし、法案提出を目指した。「優生保護法「改正」阻止連絡協議会」等が結成され活動した。日本母性保護医協会、日本医師会も反対した。八三年、国会上程が見送られる。その時のパンフレットに優生保護法改悪=憲法改悪と闘う女の会編[1982]。七二〜七三年の時には所謂胎児条項の新設が問題になった。『私的所有論』の第9章「正しい優生学とつきあう」にあげているのはおもに一度めの時の女性の運動側の言論と障害者の側の言論。
★12 それで、障害を肯定するとか否定するとかについてはよくわからないから後にすると『生の技法』では述べ、そして「ないにこしたことはない、か・1」([200210])で考えることになった。これに新たな註を付して、『不如意の身体』に再録した。

■文献 →リンク付文献表 ※はhttp://www.arsvi.com/から全文を読める

青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019 『(題名未定)』,生活書院
安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
―――― 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』,藤原書店
―――― 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版
千葉大学文学部社会学研究室 1994 『障害者という場所――自立生活から社会を見る(1993年度社会調査実習報告書)』,千葉大学部文学部社会学研究室 ※
―――― 1996 『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書),千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会 ※
伏見 知久 i1986 インタビュー 1986/06/19 他に:藤島(伏見の当時の介助者) 聞き手:安積遊歩・石川准・尾中文哉 於:立川市
―――― 1999 「高橋さんとの想い出 」,自立生活センター・立川[1999b]
二見 妙子 2017 『インクルーシブ教育の源流――一九七〇年代の豊中市における原学級保障運動』,現代書館
二日市 安 1979 『私的障害者運動史』,たつまつ社,たいまつ新書61
―――― 1982 『逆光の中の障害者たち――古代史から現代文学まで』,千書房
―――― 1995 『障害者』,現代書館,FOR BIGINNERS,絵:貝原浩
―――― 2001 「やれるときに、やれるだけのことを」,全国自立生活センター協議会編[2001:177-187]
平井 誠一 i2017 インタビュー 2017/12/30 聞き手:立岩真也,於:富山県富山市
本間 康二 i2017 インタビュー 2017/09/15 聞き手:立岩真也 於:蔵前 ※
自立生活センター・立川 1999a 『高橋修さん追悼集会 ありがとうそしてさよなら』
―――― 1999b 『高橋修と共に過ごした日々――高橋修さん追悼文集』
―――― 2000 『ともに生きる地域社会をめざして――CIL・立川10周年記念誌』,自立生活センター・立川
石川 准・倉本 智明 編 2002 『障害学の主張』,明石書店
上條 達雄・石井 雅章・金山 信一・井上 智紀・大石 由美子・曲淵 優子・加藤 展子・小山 雄一郎・寺本 晃久・梁井 健史・國分 夏子(発言順)・奥村 隆・立岩 真也 1994 「座談会――調査を終えて」,千葉大学社会学研究室[1994] ※
小山雄一郎・石井雅章 1994 「3つのCIL」,千葉大学社会学研究室[1994] ※
熊谷 晋一郎 2009 『リハビリの夜』,医学書院
牧口 一二・新谷 知子・多比良 建夫 2001 『風の旅人』,解放出版社
松浦 郁子 1990 『羽ばたけオサム』,はまゆう企画,発売:けやき出版
岡原 正幸・立岩 真也 1990「自立の技法」,安積他[1990:147-164→1995:147-164→2012:232-257]
大沢 豊 2000 「立川市における障害者運動の経過」,未公刊
末岡 尚文 2018 「普通学校就学運動から見る障害児の意志――金井闘争に焦点を当てて」,『東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室研究室紀要』44:83-94  ※
高橋修 i1986a インタビュー 1986/07/07 他に:大沢豊・友松久枝(介助者) 聞き手:安積遊歩・石川准・尾中文哉・立岩真也・鄭淑宮 於:立川市
―――― i1986b インタビュー 1986/09/28 他に:古賀則子(介助者) 聞き手:立岩真也・好井裕明 於:立川市
―――― i1993 インタビュー 1993/07/15 高橋修 聞き取り:雨宮・石井・石政・大塚・呉・原田・奥村・立岩  於:立川市
―――― i1995 インタビュー 1995/06 聞き手・圓山里子 於:立川市→自立生活センター立川[1999b]
―――― i1997 インタビュー 1997/11 高橋修 聞き手:石丸偉丈  於:立川市 ※
田中 啓一 i2018 インタビュー 2018/01/31 聞き手:立岩真也,於:金沢市
立岩 真也 199010 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:165-226→1995:165-226→2012:258-353]
―――― 199709 『私的所有論』,勁草書房
―――― 199802 「一九七〇年――闘争×遡行の始点」,『現代思想』26-2(1998-2):216-233→立岩[2000:87-118]
―――― 200010 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社
―――― 200105 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」,全国自立生活センター協議会編[2001:249-262]
―――― 200210 「ないにこしたことはない、か・1」、石川・倉本編[2002:47-87]→立岩[201811]
―――― 200411 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院
―――― 200711-201709 「もらったものについて 1〜17」,『そよ風のように街に出よう』75〜91
―――― 200809 『良い死』,筑摩書房
―――― 201811 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社
―――― 201812 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社
―――― 201901 「最終回 連載・153」,『現代思想』47-1(2019-1):279-309
―――― 201903 「人工透析を中止し患者が死亡 提案する医師とその選択を支持する声に反論する」,『buzzfeed』2019-3-25
―――― 201909 「(題名未定)」,青木他[2019]
―――― 201910 「生存学研究センターによるアーカイヴィング」,『生存学研究』3
立岩 真也・天田 城介 2011 「生存の技法/生存学の技法――障害と社会、その彼我の現代史 1・2」,『生存学』3:6-90, 4:6-37
―――― 2019 「病・障害から社会を描く――『不如意の身体』『病者障害者の戦後』青土社)刊行を機に」,『週刊読書人』3285:1-2 ※
立岩 真也・有馬 斉 2012 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院
立岩 真也・熊谷 晋一郎 2019 「障害者と社会のかかわり」(対談・題は主催者による) 2019/03/29 於:東京堂書店→立岩・熊谷[2019b]
―――― 2019b 「「痛いのは困る」から問う障害と社会」,『現代思想』47-9(2019-7):221-229(立岩・熊谷[2019a]の記録、編集部が編集)
土屋葉 2019a 「福島県青い芝の会の生成と展開」(仮),青木他[2019]
横田 弘 2004 『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集』,現代書館
横田 弘・立岩 真也 2002a 「対談1」→横田・立岩・臼井[2016:72-126]
―――― 2002b 「対談2」→ 2004 「差別に対する障害者の自己主張をめぐって」,横田[2004:5-33]
横田 弘・立岩 真也・臼井 正樹 2016 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』,生活書院
優生保護法改悪=憲法改悪と闘う女の会 編 1982 『優生保護法改悪とたたかうために』
全国自立生活センター協議会 編 2001 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,全国自立生活センター協議会,発売:現代書館


立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社 文献表
立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社 文献表
 →刊行記念セール続行中

立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙 立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]


UP:20190730 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)