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(「福生病院透析中止死亡事件」について)

立岩 真也 2019/03/18
2019/03/25の『BuzzFeed』に掲載された↓の草稿
「人工透析を中止し患者が死亡 提案する医師とその選択を支持する声に反論する」 https://www.buzzfeed.com/jp/shinyatateiwa/

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透析中止事件関連 2019

 ※かなり圧縮せざるをえなかったということもあり、よりわかりやすくという要請もあり、編集者にだいぶ手をいれてもらいました。そんなこともあり、私の方で当初用意した版(送ったのは3月18日)も掲載することにしました。また註をいれることにしました。

起こったらしいこと・条件付きながら肯定的なことを言う人もいること

 最初に報じたのは毎日新聞の記事でした。

 「「公立福生病院」[…]で昨年8月、外科医(50)が都内の腎臓病患者の女性(当時44歳)に対して人工透析治療をやめる選択肢を示し、透析治療中止を選んだ女性が1週間後に死亡した。[…]病院側によると、女性は受診前に約5年間、近くの診療所で透析治療を受けていた。血液浄化用の針を入れる血管の分路が詰まったため、昨年8月9日、病院の腎臓病総合医療センターを訪れた。外科医は首周辺に管を挿入する治療法と併せ、「死に直結する」という説明とともに透析をやめる選択肢を提示。女性は「透析は、もういや」と中止を選んだ。外科医は夫(51)を呼んで看護師同席で念押しし、女性が意思確認書に署名。治療は中止された。/センターの腎臓内科医(55)によると、さらに女性は「透析をしない。最後は福生病院でお願いしたい」と内科医に伝え、「息が苦しい」と14日に入院。ところが夫によると、15日になって女性が「透析中止を撤回する」と話したため、夫は治療再開を外科医に求めた。外科医によると、「こんなに苦しいのであれば、また透析をしようかな」という発言を女性から数回聞いたが、苦痛を和らげる治療を実施した。女性は16日午後5時過ぎに死亡した。」(毎日新聞 2019年3月7日 05時00分)。

 これと同時のまたその後の報道で、その病院で他にも人工透析をしなかったこと、やめたことがかなりの数あったこと(毎日新聞2019年3月8日 05時00分)、16日、死の当日(16日)の午前7時50分の発信で夫に「とう(父)たすかかか」と書かれたメールがあったこと(毎日新聞2019年3月7日 05時01分)などが知らされました。私の方でこのかんの報道他をまとめたがありますので、ご覧ください。
 まず、この人を担当した医師だけでなく、病院の管理側の人たちもこれで問題はないと言っています。そして「識者」の反応も、またそれを登場させるメディアの一部にも、最初にこれを報道した『毎日新聞』の報道がはっきりと批判的なものであるのに対して違うスタンスをとろうとしているように見えます。つまり、透析の停止(や不開始)は認めたうえで、もっと本人(患者)とのやりとりをていねいに行なうべきであるというもの、そしていつでもいったん行なった決定を変えることは認められるべきであるといったことが言われます。つまり、条件をつけ、その条件について問題はあるかもしれないが、医療側が「情報提供」をし治療を停止あるいは始めないことは妥当であると言っているわけです。
 強い信念をもつ人が単独で行なうといったことはこれまでもありました。またこれまで表に出た「事件」の幾つかは、病院の中でのもめごとが関係した「内部告発」に発している話を聞いたことがあります。そうした組織の中での亀裂のようなものがなかったらば、そんなできごとも外に出なかったということでもあるのですが。ただ、今回は病院として、行ない、そしてそのことに問題はないとしています。

★ 日本で事件になったものの一部
川崎協同病院筋弛緩剤事件(2004-2005地裁判決)
相模原事件2004- (2005地裁判決)
広島県福山市・寺岡整形外科病院での事件(2005)
北海道立羽幌病院事件・書類送検(2004- 2005書類送検)
射水市民病院での人工呼吸器取り外し(2006年3月)

あきらめきってないあきらめも、焦りあきらめられなくなるのも不思議なことではない

 はじめは、この事件の具体的なことについて、とくに最初に報じられた女性のことについてなにか言うのは、言った言わないの水掛け論に巻き込まれることにもなるからやめておこうかとも思いました。ただ私はこのテーマについてだけで四冊も本を書いていて、理論的・理屈的なことは『良い死』という本(筑摩書房刊)に書いてあり、繰り返すまでもないということが一つです。そしてもう一つ、取り上げる積極的な理由があるとも思いなおしました。この出来事について、本人側と医療の側の理解や誤解の幅、揺れそのものが、そしてそのなかでことが進み、そして生が終わるという現実が、何をどう考えたらよいかを示しているだろうと思ったのです。
 その人が透析をやめるという意志表示をしたことがあることは確かなようです。ただ、実際にやめたら苦しく、たぶんここは判断が分かれると思いますが、本人は再開したいと言ったのだが、やめたまま、亡くなってしまった。
 私自身はたいへんあきらめの悪い人間なのでまた違ったことを言ったとは思いますが、そういう人はけっこういる、こんなことはままあるだろうな、と思いました。人により状態によって違うとは思いますが、身体に苦痛や不快が起こることがあります。それが腎臓に起因するといった場合に人工透析なりをすることになります。しかし、それを続けることで状態がとくによくなるわけではありません。週に何度も通い、長い時間の透析を行なうのは面倒だし、だんだんと効果も少なくなるといったことがあります。注射をたくさんして、注射する場所がなくなるといったこともあります。それだけでも、また他の生活上の困難やらが加わればなおさら、悲観的になってきます。あきらめに近い気持ちになることがあるでしょう。
 そして他方では、自発呼吸がなくなって呼吸器をつけている人が呼吸をはずしたらすぐに死んでしまうようには、透析を止めても確実にすぐ死ぬというわけでもない。けっこうもつ、かもしれない。そんなことを本人は思っている。あるいは思うことにするということがあると思います。医師は、止めたら状態が悪化することをきちんと伝えたと言うでしょうし、たぶん実際に伝えたと思っているのでしょう。最初の報道でもそう伝えられました。ただ、本人は、初孫を見せにいった長男によれば、「「(透析治療が)できないって言われたから、とりあえずやめる」[…]「もしかしたら死ぬかもしれない」」と言ったといいます(毎日新聞 3/12(火) 6:01」)。
 医師の側がうそを言っているといったことを言いたいのではありません。多くの場合、こんなものだろうということです。そしてそれは、人々がとくに非合理的であるということでもないと思います。未来のこと、まだ起こっていないことは、誰にもどうしたってわかりません。例えば「5年後生存率」といった確率・統計を示されたところで、やはりわかりません。割合が小さくとも、よい側の方に残る可能性はあるのだろうと思うことにするといったことがあります。この人の場合、「死に直結する」とはっきり言われたとしても、決まったものではないと人は考える、あるいはそうして考えることをやめます。だから日々をやっていけるということがあります。
 そして、この人の場合のような変化だけでないでしょうが、人の状態は変化します。いざという時になってようやくリアルに怖くなったり、さらに大きな苦しみを実際に体験することがあるでしょう。ようやく困ったことになったとか思う、思う以前に苦痛を感じてしまったりします。

変更を認めればよいか、というとそうでもない

 それで、どうするか。どなたかのコメントにもあったように、また各種学会等から出されている近年のガイドライン等に規定されているように、決定・指示の変更は随時認められるべきである、それがこの問題への処方箋だということにされます。しかし、それでうまいこといくかということです。
 その人が、実際その処置を止められます。すると、すくなくとも今回はそうだったようですが、症状はひどくなり、苦しくなる。それで、止めるのをやめてくれと伝えたとします。今回の人の場合は、まにあわなかったのですが、伝えたようです。しかし、その場所に人がいないこともあるでしょう。また、言葉を発せられない状態になることもあります。この場合には変更は、したいと思ったとしても、なされません。
 もう一つ、その思いは聞き取れても、「正常な発言」として認められないということがあります。その人は、なんとか思いを発したようですが、医師は、意識が「清明」である時の意思の方を採用し続けたということのようです。透析をやめるという判断の方が「冷静」な時の判断であったとは言えるでしょうし、実際「せん妄」と呼ばれるような状態は起こりますし、その時に言うことを全部そのまま受けとるべきだということにはならないと私も思います。だからといってそのままにしておくのがよかったか。今回の場合、それでよかったとは私には思えません。しかし、混乱した大変なときの言葉をそのまま受けとってはならないという、一理はある理由も出されて、今回のようなことになることもあるわけです。
 さらに、そういう「混乱」した状態になってしまったらやっかいなので、そうした状態を経ないように、そうなりかけたら、あるいはもっと手前で、強い鎮静剤を打つということにもなります。今回のできごとで、その措置が死につながったかどうかはわかりません。ただ、他の病気、というよりは障害で、強い鎮静剤、麻薬を打って数日で亡くなるといったことが多いというのはよく聞くことです。私は、鎮痛・鎮静・緩和を否定するものではまったくありません。まったく大切なことであると思います。けれども、いったん決めたら、それに反する気持ちが起こらないうちに、気持ちが起こらないような処置をしてしまうというのがよいことであるとは考えられません。いったん(やめるという」)「正常な判断」がなされたならば、あとはそれを乱すようなことが起こらないように「緩和医療」を用いることがよいことであるとは思われません。
 まず浮かぶ素朴な疑問として、あらかじめ言っておくということがどれだけの意味をもつかと思う人がいるでしょう。変更できるのであれば、事前に決めておくということがどれだけの意味をもつかということです。それに対して、いざということになったら、言えなくなったら困るから、あらかじめ決めておいてもらうのだというのが理由にされます。
 それはそれでもっともなのですが、しかし、です。これは、結局、「まとも」な時に決めてもらって、そのまま最期まで行ってもらおうということを繰り返しているのです。将来の自分は、たんに時間的に離れているというだけではなく、わからないということがあります。想像したり、おおいに苦労させられた他人、例えば自分の親のことを見て、判断することになります。
 将来のことを決めるというのはたいがいそういうことではあります。しかし、決めてしまって、そして変えられると言われながら、変えられる場合にはあらかじめ決めておく必要がなく、他方、あらかじめ決めてしまうのが有意味な場合は、変更ができないとされてしまう状態になった場合についてであり、それが生き死につながるということです。このことのやっかいさが一番はっきり現われるのが、認知症の場合です。認知症でない時に、認知症になりたくないと思うのは、まただんだんと進行していくときにもとに戻りたいと思うのはまったくもっともなことだと思います。しかし、状態がすっかり進んで、過去の自分とその時の自分に関係のある様々なこと・人からほぽすっかり離れてしまった時、その人(自分)のことを過去の自分、つまり将来を見越した現在の自分は決めてよいのでしょうか。決めてよいのだという理由をきちんと言えた人を私は知りません。そんな人はいないと思います。なにかややこしいことを言っていると思われるかもしれません。しかし、これが「事前指示」と呼ばれることに必然的につきまとうリアルです。

ていねいに、みなで、がいつもよいか

 もう一つ言われるのが、よりていねいにみなでことに当たればよいということです。今回のことも、基本的にわるくはないが、もっとていねいに説明したり話し合ったりしたらよかった、また、みなで話し合ったらよかったというわけです。
 ていねいという言葉はあらかじめよいことを言う場合に使う言葉です。ですから多くの場合にていねいであることはよいことです。しかし、そうしていったん決めてしまえば、速い。このたびのような「トラブル」を回避するためにも、決めてはっきりさせておくことが求められるわけです。
 そしてもう一つ、自己決定が大切だと言われるとともに、みんなで、とも言われます。このたびは倫理委員会を通さなかったことが問題にされています。その指摘はもっともなものです。ただ、私は、実際病院の倫理委員というものをしばらく務めたこともあり、それはたいへん辛くもありまた有意義なものでもあったことを記憶していますけれども、しかし、倫理委員会さえ通せばよいとも思いません。現場での複数の職種による会議・合議があればそれでよいとも思いません。複数の人が関わることには、一人の独走に歯止めをかける一定の効果はあるでしょう。しかしそこに本人はいないか、あるいは、むしろ人々が多くて、本人は一人で、多勢に無勢ということにもなりえます。そしてそこには、職業がら、人か死んでいくことに慣れている、そのために死なせることにあまりうろたえたりしない人はたくさんいるでしょうが、重度の病人はいませんし、たいがい障害をもっている人もいません。
 私の父が、昨年の秋、長らく強力な認知症であった後に、死にました。最期はだいぶ身体も悪くなって、認知症の人も受け入れるという有料老人ホームから、「延命治療」をやめます、という数行の文章がある文書が送られてきて、(代理)同意を求められたのですが、この場合の「延命治療」をしないとはいったい何をしないことなのかわからないから、ちょっと待ってくれと伝えてくれと、やりとりをしてくれていた弟に伝えました。その後、さらに状態がわるくなって搬送された病院を訪れると、その書類に同意しなかったので、その有料老人ホームをすでに退所したという扱いになっていたということで、驚きました。その後やりとりをして、誤解が両方にあったということで撤回ということにはなり、そしてその1週間後、結局はその施設に戻ることなく、たぶん施設にいた時よりはよい口腔ケアや褥瘡の手当てはしてもらって、病院で亡くなりましたが。
 それはていねいでなかったケースということになるのでしょう。だからもっとちゃんと、というわけです。繰り返しますがていねいはていねいでないよりよいでしょう。しかし、それはそもそもはことをはっきりすっきりさせるためのものであり、そして手続きがルーティンになっていけば、あっさりしたものになっていきます。近年、おびただしく求められ署名する同意書を、端から端まで読んで理解する人は、まあほぼいません。ほとんどの場合、それでよいのです。しかし、そうも言っていられない場合がときにあります。それが今回のような場合です。

基本、救命・延命の方向で行きます、でよい

 ならばどうするかです。基本的に、治療か与える負の影響も勘案し、工夫し手を打ちながら、救命・延命のための手立てを示し、それを行なえばよいという単純なことです。
 それは本人に選んでもらうということと対立はしません。それはそれとして大切にしながら、基本的な方向・方針として、ということです。ただこのように基本方向を定めると、「選択肢を示す」ということがどういうことであるべきかについて注意深くはなります。もちろん、なにかをするということには同時に、それをしない、なにもしないということはあります。ただ病院・医療という場で、それを、どのような状況で、言うかです。まず一つ、なにもしないという可能性があることは、誰に言われなくてもわかることであって、それをわざわざ言うとしたらなぜなのかということです。私はそうは思わないと思いますが、それが「おすすめ」であると言っていると理解されることはあると思います。これもそう不合理な判断ではありません。可能性はたくさんあって、それを全部網羅するといったことを、医療の場に限らずどんな場であったも、人はまずしません。人はその中の現実的なまた効果的な選択肢を選んで示します。わざわざ言うということは、それがよい方法であると受けとられることはあると思います。
 そして、基本延命・救命の方向に振る舞うことでどれほどの不都合が起こるでしょうか。「行なわない権利」を奪うのかとすぐに言われます。しかし、どうしても死にたい人にそれを禁じるとったことは、面倒でもありますし、私は薄情な人間なので、私はしないことにします。そして、すくなくとも入院していてそして動きたくても動けないといったことでない場合には、自分で行なわないこと、行なわれることを拒否することはできるということです。自殺できないほど身体が動かないということはあまりありません。そのあまりない場合に、他人の手を借りて、というのが安楽死ということになります。そしてたいがいの人は自殺するほど意志堅固ではありませんが、病院に行かない、医者にかからないことはできます。望めばたいがい願いはかなうのです。実際には、健康、生命の延長に積極的でない人には、その自由は、よしあしは別として、かなり認められています。
 もうしばらく生きていたいという人、辛くもあるが生きてもいたいという人について、医療を提供するということです。結果、生きたい人、浮き沈みはあるが生きたいと思うこともある人のなかに生きられる人が出てきます。他方、それが面倒だという人にもさほど不都合なことは実質的に起こりません。ならばこの案でよかろう。こうなるわけです。
 以上は基本的に、ということで、よしあしを迷いながら生きている人についてのことです。他方、意識がない状態が続いているという場合にはどうなのかと いったことは言われるでしょう。そうです。そうやって一つずつ分けて考えていくことが必要なのです。すると本当に意識がないのであれば、すくなくともそう して生きていることは本人にとってマイナスではありえないことは確かです。な らば、本人にマイナスであるから停止するのがよいとはなりえません。そして、 これと別に、本人が何も感じていないとどのようにしてわかるのか、またわかり うるのかという問題も当然にあります。そんな具合に考えていくと、どれだけが 停止がよいのかということになるのです。★

★ 全般にBuzz Feed版は大幅に分量が削られているが、この段落(「以上は基本的に」〜)については、編集者からの依頼があって、加えた。そこでここでも(掲載された文章ではなく)依頼に応じて送った文章を追加した。

やはり全般には経済(を巡る思い違い)は効いている

 これまで「足りない」について、こちらに2度記事を載せてもらいました。「少子高齢化で「人や金が足りない」という不安は本物か? 社会的弱者に不寛容な言葉が広がる日本」「少子高齢化のせいで「もの」は足りなくなるのか? 一人あたりで考えてみる」です。まだまだ考えることがあり、言うべきことがあって、続きがあります。
 一般に、個々の医師はともかく、病院として収入になるのであれば、効果はあまり気にせず、たくさん医療を行なう傾向はあります。実際、すくなくとも一時期、透析が医療機関にかなりの収入をもたらしたことがあります。医療の「過剰」のある部分はそうしたことが背景になりました。他方で、税や保険からの支出が減らされると、差し控えがなされることがあります。また行政としては、供給を拡大したいときには高めに価格を設定し、その後引き下げていくという手を使うこともあります。では透析をめぐる経済がいまどうなっているか、私は知りません。調べて報告してくれたらよいと思います。
 ただ、この一件については、すくなくとも医師個人がそうお金のことを気にしているようには思えません。そして本人についても、わかりませんが、医療費自体がやめようといったん思ったに際してそう大きな要因にはなっていないのかなと思います。ただ、人工透析に限らず、より広げてみるならば、実際に多くの人たちが死んでいるのは、それを「選んで」いるのは、負担を気にしてのことです。直接の医療費というよりは、人手がいないこと、家族が負担するとなるとひどくたいへんなことが、明らかに死への動因になっています。これはまったく明白な現実です。
 腎臓病の人の多くについてはそうたくさんの介護が必要ということはあまりないでしょう。他方透析には金がかかります。人工透析が使われるようになるのは日本では1960年代ですが、当初はとても高く、その金を払って財産もすっかりなくなって死ぬ人もいれば、なくなることを予期してその手前で中止する人、そもそも使わない(使えない)人たち、そして死んでいく人がたくさん出ました。それで公費負担を求める運動が始まり、マスメディアが、その時に熱心で強力なキャンペーンを張ったのは読売新聞でしたが、応援しました。それで公費負担が始まり、続いています。その歴史については有吉玲子さんの『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』(生活書院)に詳しいので、読んでいただけるとよいです。
『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』表紙
 私は、公費負担は当然であるけれども立派なことであったし、他の先進諸外国に比しても立派なことであると思っています。透析について、本人・家族のお金の問題が大きくは浮上しなかったとするなら、そういう経緯があってのことです。なくなれば、早くに亡くなってしまうという現実はなにも変わりはしません。実際にばたばたと人が亡くなっていくといったことがないと、このことがわからず、社会的負担が支持されないのは困ったことではあります。平穏に、淡々と、なされるべきことがなされるのがよいに決まっています。その日常のなかに何も知らずに生まれ育った、ので「あえて」と本人は思ったかもしれませんが、そしてだからといって、許容されるものとも思いませんが、2016年、長谷川豊というアナウンサーだった人が、「自己責任」の腎臓病患者は人工透析を受けず死ぬべきだといった発言を何度もしました。それは批判されましたが、「自業自得」は仕方ないと間違って思ってしまう人もいるかもと思い、その点も含めて、『The Huffington Post』に掲載された「長谷川豊アナ「殺せ」ブログと相模原事件、社会は暴論にどう対処すべきか?」という題をつけてもらったインタビューで話しました。それは現在も読むことができますから読んでください。だいたい言うべきことは言いました。その人本人はどうでもよいのですが、驚いたのは、翌年の国会議員の選挙に、政党推薦で、落選はしましたが、立候補したことでした。
 その話は、粗雑な自己責任論を言うとともに、自己責任の部分を排除することによって、「無駄な」金を減らそうという話でもあります。今回のできごとに関わっているかどうかは別に、自分(たち)に無駄な金がかけられている、無駄な自分たちに金がかけられているという話は、十分に、うつならうつを重くさせていくということはありうるし、ありうるというだけでなく、実際いくらも起こっていることです。ですから、一方では「無駄な命はない」というような「正論」を言うとともに、他方では、そんなに節約しないとだめなのかと考えていくことが必要だと思って、これまでの話もしましたし、続けていこうと思っているのです。そして、自己決定は大切だと強く主張しながら、死の決定については慎重であるべきだとし、せめて心配なく生きられるような社会にしてから、「どちらも選べる」ようにするべきだと言ってきた人たちの言い分は、依然としてまったく正しいのです。
 公費負担が始まった1970年代、透析の単価はたいへん高いものでしたが、使う人は当初そう多くはありませんでした。その時にはどのぐらいに増えていくか予想がつかなかったかもしれません。それはかえってわるいことではなかったと思いますが、その後、利用者は増えていきました。2016年の『週刊現代』の記事によれば、透析には月40万円ほどがかかり、それが32万人に使われているので、約1兆6000億円、合併症への対応を含めると約2兆円、日本の医療費約40兆円の5%になるのだそうです。
 国民一人平均2万円の負担で32万の人がさしあたり死なずにすんでいるのであればなんでもないと私は思いますが、「金がかかる」ということをもう少し進めてみようとは思います。そしてこないだここで述べたのは、まずは「現物」で考えようということでした。まずものは不足していません。透析に使う液は、ナトリウムやカリウム、カルシウム、マグネシウム、重炭酸、ブドウ糖などだそうです。普通に存在するものです。人間の身体も自然の一部ですから、まあそれもそうでしょう。他方で透析の機械は、どういう仕組みのものか知りませんが、きっとなかなかに複雑なものなのでしょう。しかし作れていますし、足りなければ増やすこともできます。次に人について。人工透析に従事している人がどれだけいるか、やはり知りませんが、その人たちがいることが労働力不足を招いている、ということはないはずです。★

★「思いますが、」の後の部分は当初削除されたが、説明不足ということで、ほぼ復活することになった。

「尊厳死」より広い範囲がいつのまにか許容されようとしている

 最後に一つ加えておきます。多くの人が気付かないまま、難しい問題であるとされる「安楽死」の範囲から離れて、問題ないという範囲がいつのまにか広げられているということです。普通、安楽死・尊厳死は、「末期」の「苦痛に満ちた状態で、それを除去・軽減するすべがない」場合に死なせることを認めようというものです。そうした場合に限定するから、本人の意志が明確である場合に、死なせることを認めようというものです。
 この件では、苦痛はたしかにあったのでしょうが、透析をやめたことによる苦痛の方がずっと大きかったようです。そしてこの人は、報道をみる限りでは、普通の意味では末期ではありません。もっとも、なおらない状態にある人に対する治療は(たんなる)延命治療だとも言う人もいます。しかし極端に言えば、人間というかあらゆる生命は生まれた時から死ぬようにできていますから、そのときに既に末期であるということにもなります。そんな極端なおおげさなことを言わなくても、身体の状態そのものは変わらない(なおらない)人は山ほどいます。日本の行政用語的には障害者とは障害が固定された人のことですから、その意味での障害者はみなそうだということになります。それと別の言葉の使い方をして、人手とか機器とか機械とかがないと死んでしまう人としても、やはり山ほどいます。捉えようによってはやはりすべての人がそうです。そしてむろん、大切なことは言葉の問題はなくて、なおらなくとも生きているその状態を続ける行ないをやめるべきだとはならず、それが許容されるとことにはならないはずだけれども、そんな主張がなされ、実践がなされることがあるということです。
 この国には安楽死には反対だが尊厳死ならよいといったことを言う人たちがいます。例えば日本尊厳死協会は、すくなくとも今は、もうかなり長くなりますが、そういうふうに言っています。末期と苦痛の二つを条件として言った上で、薬を盛ったり注射を売ったりする「安楽死」ではなく、なにかをやめるあるいはしない「尊厳死」ならよいことにしようというのがその主張です。それに対して、「やめたら」確実に死ぬ行ないと、「したら」確実に死ぬ行ないを区別する意味がどれほどあるのかと例えば私などは言ってきたわけです。ここでは、この積極的/消極的という区別のことはおきましょう。ここで確認されるべきは、今回なさされことは、「消極的」という点では尊厳死協会のいう尊厳死とは一致するものの、普通に私たちが使う意味での末期でもなく、苦痛が軽減できなくもない人たちに死の方角を指示することが、認められているということです。
 昨年に出してもらった拙著『病者障害者の戦後――生政治史点描』(青土社刊)にも出てくる人、しかしまだその箇所まで(p.240)読んだ人は誰もいないのではないかと思う人に、日本尊厳協会の副会長を務めておられる長尾和宏という方がいらっしゃいます。さきほど発見したのでこれから拝読させていただきますが、その方は、このたびのことに基本的に問題はないとブログに書いておられるようです。これまでその協会は、ときに認知症の人の尊厳死を言い出したりして、それが協会が主張しているはずの尊厳死の範囲に合致しないことを指摘され、取り下げたりしたこともあって、初めてというわけではないのですがく、一方ではきちんと限定した範囲について法律で定めるのだから範囲拡大の問題はないと言い、他方では、その範囲からは普通に逸脱する人についての停止/不開始にも問題はないと言ったりもしてきました。このたびについては協会は協会、個人は個人と使い分けるということでしょうか。ブログには役職名も書いてありますが。この人物やその組織については、幾度かその論理の不首尾、というか論理性のなさを問題にしたことがありますが、聞く耳もたなくても言い続けねばならないのかと、うんざりもしつつ、言い続けていかざるをえないのかと思っています。でないと、何を言っても無駄な人はあきらめるとして、ふだんなら間違えない人たちも、ふと間違ってしまうこともありますから。


■本/本サイトに収録されている文章他

◆立岩 真也 2017/08/16 『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』Kyoto Books
◆立岩 真也・有馬 斉 2012/10/31 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009 [amazon][kinokuniya] ※ et. et-2012.
◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] ※ et.
◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.

『良い死』表紙   『唯の生』表紙   『生死の語り行い・1』表紙   立岩真也『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』表紙

 ……
◇2019/02/02 「安楽死尊厳死2019・03――「身体の現代」計画補足・566」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2240186106248364
◇2019/02/01 「安楽死尊厳死2019・02――「身体の現代」計画補足・565」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2240183976248577
◇2019/01/29 「安楽死尊厳死2019・01――「身体の現代」計画補足・563」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/2236327166634258
 ……
◆立岩 真也 2014/11/07 安楽死尊厳死についてのコメント
 『東京新聞』2014/11/07朝刊
◆立岩 真也 2014/11/04 安楽死尊厳死についてのコメント
 関西テレビ,ニュースアンカー
◆立岩 真也 2014/10/30 「安楽死尊厳死に対して来た人たちと」
 「骨格提言」の完全実現を求める10.30大フォーラム 於:日比谷野外音楽堂
◆立岩 真也 2014/10/26 安楽死尊厳死についてのコメント
 『Mr.サンデー』,フジテレビ
◆立岩 真也 2014/10/15 安楽死尊厳死についてのコメント
 『情報ライブ ミヤネ屋』,読売テレビ・日本テレビ…
◆立岩 真也 2014/03/10 「やはり政治的争点であること――連載:予告&補遺・36」
 生活書院のHP:http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa36.html
◆立岩 真也 2014/03/03 「その時まで待て、と尊厳死法に言う+――連載:予告&補遺・35」
 生活書院のHP:http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa35.html
◆立岩 真也 2014/02/24 「『生死の語り行い・1』がまた入り用になってしまっている・1――連載:予告&補遺・34」
 生活書院のHP:http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa34.html
◆立岩 真也 2014/02/21 尊厳死法制化についてのコメント
 『東京新聞』2014/02/21朝刊
◆立岩 真也 2013/06/16 「安楽死尊厳死を巡って」
 DPI日本会議総会 於:大阪
……
◆立岩 真也 2011/11/20 「人工的な延命/自然な死?」
 『THE LUNG Perspectives』19-4(2011-11)79-81(523-525)(メディカルレビュー社)
安部 彰,2011/03/** 「ケアにおける承認の問題――パターナリズムと「安楽死」をめぐって」,『現代社会学理論研究』5: 30-42. [pdf]
◆立岩 真也 2011/02/13 「生きて当然な環境整備を」(談話)
 林義則「命のともしび――患者を生きる1506」,『朝日新聞』2011-2-13
◆立岩 真也 2010/08/21 質問とコメント
 第4回安楽死・尊厳死研究会,於:立命館大学
◆立岩 真也 2010/03/00 「良い死?/唯の生!」
 (財)日本宗教連盟シンポジウム実行委員会編『「尊厳死法制化」の問題点を考える』,日本宗教連盟第4回宗教と生命倫理シンポジウム報告書, pp.21-43
◆立岩 真也 2010/02/13 質問への応答
 第2回尊厳死・安楽死研究会公開研究会,於:立命館大学
◆立岩 真也 2009/12/22 射水市民病院事件不起訴についてのコメント
 『読売新聞』2009-12-22富山県版,
◆立岩 真也 2009/12/18 「良い死?/唯の生!」
 日本宗教連盟第4回宗教と生命倫理シンポジウム・「尊厳死法制化」の問題点を考える 於:東京・ホテルグランドヒル市ヶ谷,
◆立岩 真也 2009/12/15 「あらゆる生を否定しない立場とは」
 石谷編[2009:18-28]* *石谷 邦彦 編/日本臨床心理学会 監修 20091215 『安楽死問題と臨床倫理――日本の医療文化よりみる安らかな生と死の選択』,青海社,152p. ISBN-10: 4902249456 ISBN-13: 978-4902249453 2520 [amazon][kinokuniya] ※ et. et-t. d01.
◆立岩 真也 2009/12/01  「尊厳死、家族の判断――いのちとはなにか 立岩真也さんに聞く・2」
 『Fonte』279:2
◆立岩 真也 2009/11/15 「尊厳死・安楽死――いのちとはなにか 立岩真也さんに聞く・1」
 『Fonte』278:2,
◆立岩 真也 2009/03/29 「近い過去と現在」
 安楽死・尊厳死法制化を阻止する会3.29シンポジウム 於:東京,
◆立岩 真也 2008/06/22 「まずうかがったら」
 2008年度全国自立生活センター協議会(JIL)総会全体会「あなたは「尊厳死」を選びますか?――「生」と「死」の自己決定を問う」
 於:大阪・千里ライフサイエンスセンター,
◆立岩 真也 2007/03/03 「論点整理」
 尊厳死と医療を考えるシンポジウム「尊厳死、ってなに?」 於:埼玉,
◆立岩 真也 2006/10/15 「死の決定について」
 第3回東海地区医系学生フォーラム「医療における自己決定を考えよう――あなたは「尊厳死」を望みますか」 於:名古屋市
◆立岩 真也 2006/08/20 「私はこう考える」
 『通販生活』25-3(242・2006秋号):119(通販生活の国民投票第34回 尊厳死の法制化に賛成ですか?反対ですか?)
◆立岩 真也 2006/08/13 「書評:米沢慧『病院化社会をいきる――医療の位相学』」
 『東京新聞』『中日新聞』2006/08/13
◆立岩 真也 2006/08/11 「わからないから教えてくれと聞いてまわるのがよいと思う。」
 『DPI われら自身の声』22-2:21-23(DPI日本会議) 特集:障害者の「生」と「尊厳死」――尊厳死って?
◆立岩 真也 2006/07/00 「希望についてとまたまた死ぬ話――知ってることは力になる・42」
 『こちら”ちくま”』49(2006-3):02-04[了:20060708]
◆立岩 真也 2006/06/11「良い死??」
 DPI日本会議総会 於:大阪
◆立岩 真也 2006/06/19 「(羽幌病院事件についてのコメント)」
 毎日新聞社の取材に[取材:20060619]


UP:20190314 REV:20190325
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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2019/02/02