■『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』124:127-162 2019年7月25日刊行 特集:「痛み」の医学 こども編 本体価格1,600円
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帯:それは精神の疾患? 心の叫び? 小児科+心理+脳科学からアプローチする痛い!の癒し方・やわらげ方
■『Chio通信』/『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』/『おそい・はやい・ひくい・たかい』
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※以下は草稿
「まず広告。本誌前回は熊谷晋一郎さんの回(本)だった。昨年青土社から出た私の二冊の本をお知らせするということもあって、その熊谷さんと三月に東京堂書店書店で対談した。それが『現代思想』(青土社)の七月号に掲載された。よろしかったらご覧ください。
さて、人は亡くなってしまう。あらゆる人が亡くなるのだから、その数はすごい数になる。いちいち何かを残すといったことは無理で無駄のように思える。そして私の場合、個人を偲ぶとか、そういうことがよくわからない。それでも、人のこと、というか人がなしたこと、考え迷ったことも書かねばと思う。
半ば忘れていたのだが、二〇〇〇年に刊行された私の二冊めの単著『弱くある自由へ』(青土社)に「あとがき」にこんなことを書いている。
私は、思うとすれば、長く生きたい、痛いのはいやだといったぐらいのことしか思いつかない人で[…]「死を受容する」等々といったことがわからない。そんなことは少しもほめられたことでないことは承知しているが、それでもしかし、わかった気になるまではわからないと言うしかない。そして、なにかを死者に捧げるということも――そうしたことを行いたいその私達の側の気持ちはわかるけれども――わからない。なによりその人はもう死んでしまったのであって、その人になにも伝えることはできない、と私は思うから。
けれども捧げるとするなら、この本は高橋修さんに捧げる。彼は一九九九年に突然亡くなった。
前半は昨年の二冊の本のうちの一冊『不如意の身体――病障害とある社会』に書いたことだ。痛いのは嫌で(すぐに)死ぬのは嫌だから――痛くて死を早めるものとしての――病気は避けたい、しかし障害はそれとは別のできごとだ、とその本で言っている。恐ろしいほど単純なことだが、しかしそれを今さら言うことが大切だと思って言っている。
そして後半。今しようと思っているのは――それも『現代思想』八月号以降連載されるはずなのだが――その高橋修という人について書くことだ。高橋さんは一九四八年生。私の一回り上の人で、ずっと先輩であり続けた人だが、一九九九年に、五〇歳で亡くなって、私は結局、その人よりも十年も長く生きている。その人について書いたことはあるが、もっと長いものを書かねばと彼をよく知る人と話したのだが、そうして二十年が経った。彼は、ほぼ、ものを書かない人だった。だからこちらも書けなかったわけではない。例外的なことだが、彼へのインタビューが、八六年から九七年の間に、五つ残っている。うち最初の二回は私たちが聞いた。ちゃんとしたものを思うといつまでも書けず、結局何も書けず残らないから、それよりはよいだろうと思い、とりあえず書けることを雑誌に書いて、今年中には出るはずの、『弱くある自由へ』の第二版に収録することにした。ちなみに、さきに紹介した熊谷さんとの対談も収録される。
何を書くかはここには書かない。ただ、彼が活躍した一九八〇年代から九〇年代をどのように書いたらよいものかという思いはある。七〇年代の社会運動は、うまくいったかどうかはともかく、激しいところ勇ましいところがあって、それはそれで書ける。それに比べると、その後のことは書きにくい。高橋さんは「武闘派」で知られていた。彼は言語障害のない脳性まひといった人だったのだが、東京都庁で籠城したり、鉄道会社の対応が悪いいと駅員室に乗り込んだりして、車椅子乗ったまま蹴りをいれたりしたのだった。ただ、それは文字で書いても仕方のないところがある。だから動画って大事だと思う。ちなみに、韓国の運動は、抗議のために女性が髪剃ったり、車椅子を鎖でつないだり、ヴィジュアル的に派手で、そしてそれをけっこうまめにビデオ録画していて、ネットに載せたり、出向くと事務所でたくさん見せてくれたりする。よいことだと思う。
と、脱線でした。そういう、血が騒ぎ勇気が出たりするのはそれはとして大切だが、私の役割はまた別にあると思っていて、インタビューを見返したりして、地道なものを書こうとしている。
その高橋さんの約十年後、一九五九年鹿野靖明さんが生まれる。デュシエンヌ型の筋ジストロフィーの人だった。彼は二〇〇二年、四二歳で亡くなった。その翌年、彼と彼の周りに集まったボランティアたちを長期取材して書かれた渡辺一史の『こんな夜更けにバナナかよ』(略して『夜バナ』)が出版される。これを原作とした映画が昨年公開された。そして今私は、昨年あたりから本格化した、旧国立療養所に暮らしてきた筋ジストロフィーの人たちで、そこを出たい人は出る、同時に、そこをもっと暮らしよくするという活動にすこし関わっている。その関係で、この六月には西宮と京都で渡辺さんを呼んだイベントを行なった。
そしてさらにもう一つ、この四月二四日、やはり同じ型の筋ジストロフィーの古込和宏さんが亡くなった。鹿野さんの十三年後、一九七二年生まれ。享年四七歳。その前の前の年の二〇一七年十月、古込さんは三七年を経て金沢市の(旧国立療養所)医王病院を退院、市内での生活を始めた。その病院で「死亡退院」でなく退院した筋ジストロフィーの人は古込さんが最初だと聞いたことがある。その退院に、東京や京都、兵庫の人たちが関わったことが一つのきっかけとなって、それで今回の筋ジストロフィー・プロジェクトが始まったところがある。
もう一つ。私は二〇一八年に彼にインタビューをした。その時だったと思うが、古込さんは『夜バナ』は読んだと言った。そして、自分にはこれは無理だと思ったと言った。こんなたくさんのボランティアとやりあったりしながらようやく成り立つ、そういう生活はできないと思ったという。本を読んだり映画を観たりする人の多くは、実際に、退院するとしてどうやって毎日をまわしていくか、そんなことは考えない。しかし考えるなら、そのように読まれることはおおいにあるということも、誰かは押さえておいた方がよい。そして古込さんは、金沢内外の人たちの協力を得て「重度訪問」という介助者派遣の制度を(金沢では初めて)使えるようになって、それで病院を出ることができた。そしてその制度は、一九七〇年代から始まった運動が、八〇年代、九〇年代、高橋さんたちの運動があって獲得され、拡大されてきた制度だ。その運動には、そうして各地で始まった生活には、とりたてて人を驚かせるようなものはない。しかし、それを追って記録していく。そんな仕事もしておく必要はある。前回書いたように、私(たち)は給料は別にもらっているから、調べる時間があり(あるはずで)、そうは売れなくても、書くことはできる。そう思って書いている。
生前、私は古込さんからいくつかの文章を送ってもらって、HPに掲載してある。こんど『(季刊)福祉労働』(現代書館)から掲載(転載)依頼があって、掲載されることになった。ご覧ください。」
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◆2019/06/01 「病者障害者の戦後」
筋ジスの自立生活とは?――筋ジス病棟から自立生活へ,1100-12:00,主催:メインストリーム協会,於:西宮市
◆2019/06/02 「渡辺一史さん岡本晃明さんと、書くことについて話す」(&「授業・09」)
於:立命館大学衣笠キャンパス創思館1階カンファレンスホール
◆2019/06/25 「解説:追悼・筋ジス病棟を出て暮らす――古込和宏さんのこと」
『季刊福祉労働』163:128-129
◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社
◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社